縮刷版2011年2月上旬号


【2月10日】 店頭で栗本薫さんの「グイン・サーガ」の新刊が出ていてあの幻の「氷惑星の戦士」までもが収録されていると知って感無量、遅ればせながら「グイン・サーガ」を1981年頃から読み始めて、振り返ってヒロイックファンタジーを日本で広めたのは誰だ論争が気になって、調べていくうちに高千穂遥さんの「ハリィデール」がまずあって、そして栗本さんのおっかけがあったと分かってその作品が、確か「氷惑星の戦士」だと知ってバックナンバーを探して古本屋を回ったっけ。あるいは図書館で読んだのかもしれないけれど、それでも確かに目にした記憶はある。あれから30年。時代は巡り人は逝き、そして自分の人生はまだ続く。

 それはそれとして最新刊の「グイン・サーガ」の表紙絵にネコミミをした萌えっ娘が描かれているのにはちょっと吃驚。これはいったい誰なんだ。詳しくは知らないけれども少なくとも、ずっと読んでた本編に豹頭のおっさんは出ていてもネコミミ娘は出ていなかった。おまけに格好もお尻がぷっくりと出たコスプレ系。ちょうど見たばかりの「攻殻機動隊 S.A.C SSS」に出てきた殿田大佐が、病院で自分を看病させている介護ロボットの女性たちにそんなのが1人いて、妙な相関関係を覚えたけれども別に関係はないんだろう。しかし気になるキャラクター。確かめるためにも読むしかないのか「グイン・サーガ外伝22 ヒプノスの回廊」を。

 「Number」とか読んでいたら浦和レッドダイヤモンズのフォルカー・フィンケ前監督へのインタビューがあって、チームスタッフもメディアもその任にある期間があまりに短くて、それではチームの長期的な視野に立った運営はできないし、サッカーに関する真っ当な報道もできないだろうと指摘していてなるほどごもっとも。在任中に広報が2人も変われば監督の意志なんて理解の上で伝えられないし、社長が新しく来たら方針もガラリと変わってしまう。それではすべての約束も反故にされ、何のために来たのかが分からなくなる。

 ジャーナリストに関してはさらに問題も大きそう。世間に言葉として伝える機能を持ったジャーナリストが、正確で奥深い分析を伝えなかったら誰が監督のやろうとしていることを理解できるのか? あるいは批判するにしても納得のできる言葉がそこになければ監督だってやる気をなくしてしまうし、それが選手に伝わってチームは崩壊へと向かう。すぐにでも改めなくてはいけない指摘。とはいえそうした状況がすぐに変わるかっていうと、職業としてのジャーナリストなんておらず、カイシャのために情報を運ぶ伝書鳩しか求められていない状況と、あと読者がサッカーそのものよりも人的ゴシップを望んでいたりする状況が、続いている以上はカイシャの異動なんてこれからも続きそう。

 企業の傘下にあるチームの人事はいわずもがな。そこだけはJリーグが立ち上がって15年以上が経っても変わらなかったし、これからも変えられそうもない。じゃあどうすればそうした状況を享受しながらチームが強くなっていけるのか、サッカーが底上げされていくのかって考えると、うーん、妙案がなかなか思いつかないなあ。ジェフユナイテッド市原・千葉もそんなカイシャの都合によってもみくちゃにされてしまっているし。いやいや名古屋グランパスは比較的、チームスタッフの腰が据わっていたりするからそういうこともやればできる。とはいえそれですぐに強くなったかというと……。だからやっぱり我慢することが寛容か。世界中からぶったたかれてもトヨタ自動車、頑張り続けて遂に敵の娘に認めさせたもんなあ。

 何か食い物の取材をしないといけなくなって、せっかくだからと三鷹駅のそばにあるアニメーション会社の1階に、なぜかあるというピザ専門店「武蔵野カンプス」を見に行く。どうせ副業だからとちょっぴり高をくくっていたら、ほとんどそっちがメインってくらいの広い店舗に活気有る店内。午前11時半の開店前にもうお客さんが並び初めている状況に、前のアニメ会社の本社あたりの雰囲気を知る身としては、何だか隔世の感って奴を味わう。ほんと雑居ビルって感じだったもんなあ。おまけに店の向かいにはキャラクター商品とかおしゃれな雑貨を売ってるお店も。見ると後藤隆幸さんがサインをいれた「攻殻機動隊 S.A.C」の原画集が並んでたんで、せっかくだからと素子&笑い男とそれから素子単独が描かれた1作目及び2作目の原画集を買う。劇場版エヴァの記録全集もあったんで、買い逃している人は見たかにゴー。そしてついでにピザも食べよう。

 いや、ついでに食べるにはもったいないくらいのおいしいピザ。サヴォイってピザの名店で修行をしていた近藤輝太郎さんってシェフが、個人で店をまかされ作っているだけあって、ナラ材を燃やす窯でこんがりと焼かれたピザは新鮮な上にとってもヘルシー。たった2種類しかないんだけれどもチーズベースで野菜が少しのピザも、それからガーリック系のピザもとってもヘルシーそうな感じでなるほどそれを目当てにご近所から、主婦やら女性が集まってくるってのもよく分かる。サラダバーもドリンクもあってご自由に。これは昼食を毎日でも食べたくなるよなあ。頼んでから数分で出てくるってのも嬉しい限り。注文から数十分もかかるとずっと思っていたけど、ピザって早ければ2分くらいで焼けるんだ。ファストフードだったんだ。ちょっと教えられた気分。30分で配達じゃあ、遅すぎるくらいなんだな。

 これで店内がアニメグッズで埋め尽くされていたら、女性層も敬遠したくなるところだろうけれど、あるのは大きな美術背景くらいで、あとは監督やらクリエーターやら声優さんのサインくらい。西尾鉄也さんのNARUTOとあとは押井守監督の犬絵くらいでそんんなに主張はしていない。そんなこぎれいな店だと徹夜明けで体が疲れ果てたアニメーターの人たちが、昼飯でもと降りてきて入るにはちょっぴり遠慮しちゃいそうで、一番近くにありながら遠い店になってしまいそうだけれどもそこはしっかり配慮して、午後の4時までランチタイムを設定して、徹夜明けからようやく目覚めたアニメーターでもお昼時のお姉さまたちとガチ合わないよう、配慮されているんだとか。そんな時間にのぞくとあるいはミリタリールックに身を固めていたり、バンダナをまいていたりする人たちとかがいたりするのかな。ちょっと興味。

 帰りがけに東中野のブシロードによって「ヴァンガード」とかの新展開の発表を見たら何か無茶苦茶人気になっているみたいで善哉。直前の「ミルキィホームズ」といい当たらなかったらもはやそこまで的悲壮感もなくはなかったけれども、そのどちらも着実に当ててファンを呼び込み売り上げを確保。「ヴァイスシュヴァルツ」だけでもなるほど堅実にファンを獲得しているけれど、どこか借り物的キャラクターのカードがメインになりつつあった状況で、しっかりと自社オリジナルのコンテンツを創出しては、それをヒットに乗せるのは経営的にも大きな意味を持ちそう。「デ・ジ・キャラット」や「ギャラクシーエンジェル」をキャラクターとして機動に乗せ、「アクエリアンエイジ」や「ディメンションゼロ」を地道なティーティングとそしてカードの刷新でブランドにした底力は、会社を別にしてもちゃんと発揮されていた、ってことで。「アクエリ」にもでも頑張って欲しいなあ。

 という訳で15年が経って16年目に突入する訳だけれどもそれだけの期間を綴ってきながらとりたてて、おいしい話もまずい話もないってところが我が人生の平凡さ。退社がすぐさまニュースになって全世界をかけめぐるくらいの人物にもなれていなければ、発言が株価を動かすような人物にもなれておらず、ましてやファンレターとか遺産の分配といった話もまるで届かず。まあそれでもこれはこれで記憶を外部に記録する装置として、十分以上の役割を果たしているんで、まだ時間の続く限りは続けていこう。忘れっぽさもさらに増してるだけにこうやって、日々の雑記でも記録しておかないと、読んだ本のタイトルすら思い出せなくなるんだよ。それはそれで問題? まあいいや。というわけで今後ともご愛顧を。


【2月9日】 名実ともに圧倒的なのはダグラス・カイエンだけれど、その悪逆さの裏に秘められた強さが何とも気になって、デコース・ワイズメルも落とせないんで誰がナンバーワンキャラかちょっと判断できない「ファイブスター物語」。とはいえリブートされた第1巻にでているデコース・ワイズメルは、まだどこかお調子者で強そうではあっても圧倒的という感じは皆無。むしろ「重戦機エルガイム」のギャブレット・ギャブレイのように運の強さでのし上がっていくタイプに見えたのが、黒騎士との立ち会いで瞬間の凄みを見せたあとは、ボスヤスフォートの傘下に入って魔導大戦ではそれこそ誰よりも強い戦いぶりって奴を見せてくれる。

 なぜかすぐに発掘できた12巻を見てみると、バッシュを操りエストを従え戦場をかけまわるデコース・ワイズメルは、1巻の頃とは体格も変わってすっかり騎士の貫禄。果たして1巻を描いている時に、永野護さんがそこまで考えていたかどうかは分からないけれど、リブートされた1巻のあとがきで、アニメの仕事に挫折したかパージされたかして悶々としながら作った年表は、一切変えていないと断じているから、あるいは最初っからそういうキャラとして作り上げられたのかもしれない。そしてその巻でダグラス・カイエンも死去。リブートを読み始めたこれが初見という若い人が、だんだんとハマっていった挙げ句にそこにたどり着いて抱く、凄絶で壮大な物語への感動を思うとこうした何回転目かの商売も、またくもってアリだって言えそう。いやまあ個人的にはそれより続きをって思うけど。

 ちなみにモーターヘッドだと、ナイト・オブ・ゴールドよりもシュペルターが好みで、それはカイエンの乗っている奴だってこともあるけれど、頭部がぺったんとつぶれた形でありながらも鈍重そうな感じがしない、あの優美さが目にとまるから。あとはやっぱり破烈の人形か。見た目はあんまり強そうじゃないのに、いざって時に大活躍するその隠密っぷりが、デコース・ワイズメルの二面性じゃないけど、やっぱり気になってしまうのだ。載ってる奴はとことんまで堅物の朴念仁なんだけど。でもこいつもその時ばかりのキャラだったよなあ。そんなんばっか。せめてアイシャには幸せを。

 あれはまだディズニーのアニメのビデオカセットが、世界で2400万本で日本でも220万本とかいった驚異的な売り上げを記録していた遠い昔に、販売元のブエナ・ビスタ・ホームエンタテインメントにおじゃまして、ディビジョンの代表に何でこんなに売れるのかと聞き、しばらくしてからDVDとか出始めた時に、どーしてビデオで出し続けるのかと聞いたりして、それはやっぱりマスな装置がまだまだビデオだからといった返事をもらって、市場をよく見て商売していくディズニーらしさを感じたという、そんな時代から10余年経って、久々に見た星野康二さんは、当時とそれほど外見も変わらず、エネルギッシュさいっぱいに今度三越とかでやるメアリー・ブレアの展覧会について、いろいろと話をしてくれた。

 立場は大きく変わって何とスタジオジブリの社長という、端から見れば意外性たっぷりな変化がそこにあったけれど、商材を探していたブエナ・ビスタがスタジオジブリのアニメをDVDだったら、まだビデオだったかは忘れたけれども出したいといった話をもっていったことが、まだ存命だった徳間康快さんを動かし、徳間書店とスタジオジブリと米ウォルト・ディズニー社の連携へとつながっていったことを考えれば、ジブリとディズニーをクリエーターどうしのリスペクトではなく、ビジネスパートナーとしての関係へと大きく発展させた立て役者。その経歴から見れば、ジブリの社長になって経営を見ていたって、まるで不思議はない。人生、どこで何がどう転ぶか分からないと思うと、今からでも遅くないからいろいろ首を突っ込んでおくのが良いのかなあ。とはいえそんな立場にもなく気力も乏しい今現在。このまま朽ち果て貴腐老人にもなれずひからび滅びていくだけなのか。うーん。今一度暮らしを見つめ直そう。見つめ直しすぎて限界が見えて呆然という可能性もあるけれど。割といっぱいあるけれど。

 いやもうねえ、五反田に用事があって行ったんだけれど、昔はイマジカがあってあとは町工場っぽいものが密集していた地域に、巨大なタワーマンションが何棟も経ってお洒落なレストランとか出来ちゃってて、そこにしっかりと明かりがともって大勢の人たちが暮らしてた。それは決してアメリカから来た外交官の一家とか、外資系の金融機関に務める為替ディーラーといったものではなくって、普通に働いて給料をもらってい家族を得ている人たち。まあちょっぴり富裕に近いかもしれないけれど、決して特別な存在ではない。にも関わらず、そんな存在へととうてい近づけそうもない自分がいたりする。

 この差は何だ。何なんだ。政治が悪いとか景気が悪いとかって声もあるだろうけれど、似た仕事をして食べている人たちをぐるりと見れば、たぶんそうした声とは関係なしに、タワーマンションの住人となっていそう。一方でこちらは……ってなった時に、もういったい、どうしたらいいのか分からなくなって呆然と佇む。どうしてこうなったんだろう。15年前に始まった日記のはじめの方に出てくる逝去が、そんな発端になっていそうな気もするなあ。あれからずっと坂道だ。下りっぱなしの。そしてその角度がどんどんと急になっている。もうほとんど垂直落下。その先は?

 そんでもって五反田では「攻殻機動隊 S.A.C Solid State Society」の3D版って奴を観賞、なるほど電脳化された目にうつるビジョンってやつはこんな感じかもってところを、視線のなかにポップアップするさまざまなデータビジョンの映り具合が教えてくれている。人物が立体に見えるとか、アクションに奥行きが出るとかってよりもむしろ、舞台そのものに奥行きが出て、平面に過ぎないアニメの世界の奥行きってやつを感じさせてくれる。こ

 れが実写だと、とことんまで精細に撮られいて、それだけで奥行きや広がりをダイレクトに感じさせてくれる映像を、無理矢理3Dにして、薄ぺっらいものにしてしまう。アニメのそれも「攻殻」の3D化って、目的にかない効果も高いチャレンジって言えそう。と、老人介護の問題や児童虐待の問題など、現代性も豊富なテーマでそのまま公開したって良さそうなところを、3Dって付加価値を与えて話題性をより増して、劇場で見せて観客に現代の問題を強くつきつけるところも巧。それを意図していたとしたら、まるで傀儡回しのような迂遠な企み。意図していなかったとしたら、やらせた誰かがきっといる。プロダクションIGの人の電脳は、きっとハッキングされてるぞ。


【2月8日】 本当に絶妙だよなあ、シリアスとかダークと、コミカルとかライトの出し入れが。楽しそうと思わせたら暗いシーンを描いて、そこでコミカルなことをやらせてスプラッタへと向かわせ、そこで「おれゾンビっすから」と笑わせひっくり返して激しいアクションへと向かう。演出する側の腕の冴えもそうだし、そうした展開へと持っていかせる脚本陣の計算もそう。そこでの共通理解があってはじめて、あの飽きさせないテンポでの展開が続くのだろうアニメーション版「これはゾンビですか」。次回で大先生がいよいよ現れ、すべてをひっくり返してくれそうだけれどそれでようやく第1巻が終了。まだまだ続く展開をいったいアニメはどこまでいくのか。そしてどれだけ残すのか。その残され具合によっては第2期もありそう。ってかやるよね普通。期待しよう。

 航空自衛隊のファントム乗りたちが主役の「ファントム無頼」があって、中東の王国に傭兵として引きずり込まれた風間シンほか傭兵達の苛烈な戦いが描かれた「エリア88」があって、飛行機が出てくる、それもちゃんとリアルに描かれた飛行機が登場して大活躍してくれる漫画の面白さって奴に浸ったのは、もう20年以上も前のこと。そこから今まで、飛行気乗りたちの漫画はたぶんあるにはあったけれども、これだって決め手に欠けたまま、四半世紀が過ぎ去ろうとしていた時代に2冊も立て続けに素晴らしい飛行機乗りたちの漫画が出た。1冊は松田未来の「天空少女騎士団」(イカロス出版)であり、そしてもう1冊も松田未来の「V&W CO.,LTD. 〜航空機再生株式会社〜」(エモーション)だ。

 まず「天空少女騎士団」の方は、第二異世界大戦直前のヨーロッパにある架空の王国を舞台にして、そこん家の王女様やらおつきの人やらシスターやら、パン屋の見習い娘やら女教師やらが飛行機を駆って空へと上がり、攻め込んでくる敵国つまりはナチス・ドイツあたりを向こうに回して戦うっていったストーリー。とはいえ大きな戦闘はまだなく侵入してきたり小麦を枯らすウイルスを蒔こうとしたりとなかなかな姑息な手を打ってくるんだけれど、そこに王女様が立ちふさがり、あるいは謎の仮面の飛行気乗りが現れ王女を助けて去っていく。その正体は? ってあたりも興味の置き所だけれど、メーンはやっぱり飛ぶ飛行機の正確な描かれようと、そんな飛行機を巧に操り空を飛ぶ人たちの楽しげな姿。空を飛んでみたくなるけれど、でも今からじゃあ無理だしなあ。せめて漫画を読んで飛行機の楽しさ、味わおう。

 一方の「V&W CO.,LTD. 〜航空機再生株式会社〜」は時代をぐっと下げて現代、飛行機ショーとか回って部品を買ったり売ったりしている爺さんの下にいる少女が主人公で、幼い頃から飛行機を飛ばしてきた腕前を発揮して、起こる様々なアクシデントを解消する。脚がおりなくなって困っている居丈高なパイロットを支えて助けたり、発射され暴走しているミサイルの撃破にジェット機を飛ばしてソニックムーブではじき飛ばしたりと活躍の幅も様々なら、乗る飛行機の種類も様々。「天空少女騎士団」では基本的にプロペラのレシプロ機ばかりが登場するけれど、こちらにはレシプロ機も登場すればジェット機も登場し、それらを主人公はいとも鮮やかにあやつってみせる。まだ若いのに相当な腕前。その楽しげな姿を見ていると、本当に空を飛んでみたくなるけどやっぱり無理だな、さすがにジェット機は。

 ラストでは何処からともなく現れた眼鏡っ娘を相手にエアレースでもって大バトル。でも途中でいろいろあったときに友情めいたものが芽ばえてこれからのバトルとそれから交流なんてものを想像させてくれたけれど、残念にも本編は1巻にて終わり。エモーションの大元ともいえるバンダイビジュアルがネットでやってた「YOMBAN」ってサイトで連載されていたものらしいんだけれども、そこで終わってしまってから再開される様子はなさそうで、いったい2人はどうなるのか、それよりも少女の親方が心から願って止まない怪物機ワイバーンの復活はあり得るのか、なんて興味が浮かんで迫って身を焦がす。
BR>  続きが読めるんだったら読みたいけれど、でもあれだけビジュアル的にもキャッチーで内容的にも面白く、まんまアニメ化されたって不思議じゃないくらいの仕上がりを持った「天空少女騎士団」ですら、連載されていた雑誌の版元ではなく、イカロス出版なんてところから刊行されているってことは、つまりこうしたジャンルに期待する漫画のファンがいないって版元が判断していることのあらわれ。そうじゃないんだと覆させ、改めて「V&W CO.,LTD. 〜航空機再生株式会社〜」の連載が始められるように、とにかく今はこの本を応援して、機会があれば露出を計っていこう。まずは全身に張り付け都内1集だな。ところでその「YOMBAN」じゃああの円城塔さんの自称ライトノベルが連載されていたはずなんだけれどもその後どうなった、そして単行本化はどんな案配だ。

 そりゃあ無理だよ、怪力無双のお相撲さんだよ、携帯電話を出せっていったってボタンを押す時に指をぐいっと立てればそれだけで携帯電話に穴がはいてもう使えなくなる。そのたびに機種変更を余儀なくされているお相撲さんから携帯電話を集めようったって、できるはずがないじゃないか。全部壊れて機種変更。それも壊れてゴミ箱行きってなもんだ。そうでなくても着物のたもとから胸元へと携帯電話をれたら、ふくれあがった右の乳と左の乳とがぶつかりあう間で、携帯電話も揉まれ破壊されてしまう。全身これ凶器のお相撲さんが携帯電話なんて繊細なものを壊さないで扱えるはずがないのに、メールが見たいからと提出を要求する協会の方がもはやお相撲さんの凄さを理解していない。そんなんだから日常のサービスが衰えて、お客さんの大相撲からの離脱を招くんだ。反省。そしてお相撲さんには使いやすいブラックベリーの支給を。ってよけいボタン、押しにくくなるんじゃないか?

 ふと気が付いたらマッドハウスが日本テレビの子会社になってて9割くらい株を持ってもらっていて、この状況であの何でもありのマッドハウスがどこまで機能できるのか、ってあたりが不安になって来た。そりゃあ丸山正雄さんがいれば人は集まり企画は生まれて作品へとなっていくけど、それをマネタイズする部分でなかなかの悩ましさがあったことも事実。その部分で欠けていた宣伝って奴を日本テレビが負ってくれるんだったらまだいいけれども、自局の利益に直結しないそうした作品の宣伝をどこまでやってくれるのか、って辺りが分水嶺。むしろ連結決算上の傷口を広げるだけだと、企画の段階から横やりを入れ、潰してしまわないとも限らない。そしてそんなところから傑作というものは得てして生まれてくる。「マイマイ新子と千年の魔法」とか「千年女優」とか「REDLINE」とか。

 これらはいずれもテレビ局がまるで主導していない、企画ありきの作品たちでそれらが現代のアニメにさまざまな進化をもたらし世界に影響を与えた。一方で日本テレビが絡んだアニメが、果たして世界を変えたのか。あるいは変える方へと働くのか。そんなことを考えた時にではいったい、日本テレビがマッドハウスをどのように位置づけどう動かしていくのかって辺りへの興味が募るし、注目も欠かせなくなる。過去の傾向から売れそうな「サマーウォーズ」みたいなのばかりが尊ばれ、細田守監督が第2の宮崎駿監督ばりに日本テレビにフィーチャーされる一方で、浅香守生監督とか小池健監督とかいしづかあつこ監督といった、過去現在未来において相当な可能性を発揮してくれそうな人たちはスポイルされていくことになるのかどうなのか。現実にテレビ朝日の完全子会社となったシンエイ動画は、テレビ朝日に関わりのある作品しか作ってない。それでアニメを志す人たちが入っていくのか。多彩な人材を集め送り出して来た孵卵器のようなマッドハウスの一面にも、何か起こりそうな今回の事態。さてもどうなるか。とりあえずOVAでの「BLACK LAGOON」完結を願い「夢みる機械」の完成を願う。切に願う。


【2月7日】 それにしても「ワンダーフェスティバル2011冬」で何か久々にワンダーショウケースに大行列が出来ていて、誰かとてつもなく巧いスターでも出たのかと作品を見たらなるほど初音ミクとはちゅねのセットがあって、つまりは造形ってよりはキャラクター人気での行列かととりあえず理解。それが実質的に2作目にしてマスターピースに近い出来となってしまっていることを、プレゼンターとしてはアピールしたい気持ちもあっての抜擢だったと思うけれども、そいうした才能への賞賛が超絶的な人気キャラクターといったものの影になってしまって、世にそれほど広まっているように見えないところが気にかかる。

 つまりはこれが他のキャラクターだったら、作ったSeaさんって人の作品に、どれだけの行列ができたのか、ってことだけれども読むと目をかけらられたものに引き続いて得意なモチーフを作ったってことで、そうした対象への情愛が込められた作品をプレゼンテーションに出すのは避けられないとするならば、たとえそれがキャラ人気であってもそれを出さざるを得なかったというのもひとつの判断。その上で買って作った人たちが、マスプロダクツにはない魅力って奴をSeaさんが手がける「初音ミクとはちゅね」にあると感じて、ガレージキットへともっと関心を抱くようになったら、ワンダーショウケースとしての意義もあったってことになるんだろう。そんなに転売へと流れている風もないし、ガレージキットと初音ミクのファンの手元にしっかりと渡っていたらそれは僥倖。そして次にSeaさんが作るものに注目。鏡音リンとかか?

 会場ではIDAってところでウサギが銃器で撃ち殺し合う「CAT SHIT ONE」のブルーレイディスクが出ていたんで購入。卯年にこれほど相応しい映像があるのかないのかはともかくそれなりな購入の列ができていたのは喜ばしい限り。見て可愛い顔したウサギがいかにも兵士って動きで銃器を扱い、平気でバンバンと殺し合う様にウサギへの憎々しさを燃やすのだ。岡部さん見かけなかったなあ。会場を転戦していたか。んでもってバンプレストのブースは人がいっぱいで入らず、同じバンダイ系のメガハウスでもって「ONE PIECE」のポートレートオブパイレーツにベローナちゃんが揃っているのを発見。出るのはいつだろうなあ。本当は3年後バージョンのニコ・ロビンが欲しいんだけれど、ゆったりとしたあのスタイルは是非に見たい触りたい。

 イベントとか見ていた関係であんまり周囲を回れず、かろうじて鎌田光司さんとTakorasuさんが並んでいたりするブースで挨拶、そして歩き回って巨大なパワードスーツがダンボール箱に入れられ「もらってください」と書かれてある様に哀れさを……ってそんな可愛い光景ではなかった。身長よりデカいパワードスーツがどっかんと立って誰かどこか飾ってくれるところを見つけて頂戴ってあって、あれを置ける場所なんてそうそうはないんじゃないかと心配したけど、実家だったら庭に置いておけないこともないかと思い直す。かといって運ぶ金とか考えるとなあ。ここはパワードスーツってことで早川書房の入り口に是非にでも置いておいて欲しいもの。夜中にダンボールに入れて「拾ってください。名前はパワードスーツです」って書いて置いておけば誰か拾って部屋へと運ぶと、重みで床が抜けました。あり得る話だ。

 一晩眠って起きてもくっきりと頭に残って離れないニチ・ケイトのフリフリヒラヒラなアイドル歌謡。本心からアイドルになりたいって思っていたけど、ひが日死の巫女では島から出られず東京でアイドルになるなんて叶わないと、ワコと同様に諦めてしまった気持ちがワコの明るさとは正反対に、暗さ真面目さへと向かって日常のあんな性格を形作ってしまったんだろー。でも家に帰ればたままった鬱憤を晴らすかのようにひとりカラオケでフリヒラダンス。その歌声たるやプロの歌手より巧いじゃん。いっそそのままバーチャル歌手としてデビューさせたって良いんじゃないのって思えたけれども、あの振りではちょっと。その辺りはしっかりアイドルの踊りをつけさせた「パーフェクトブルー」なり「かんなぎ」なりを見習って欲しかった。ただしイントロで腰を2回、肩を2回、パパンと叩くしぐさは良かった。誰かマネしないかな。ライブで小清水亜美さんがやってくれても嬉しいな。

 一方の「フリージング」は何だただの奥手で潔癖性で純情可憐なだけじゃんサテライザ先輩って思わせるシーンが満載。そのきょとんとした表情と四角い眼鏡はまるで読子・リードマンそっくりだったけれども、怒ればそこは接触禁止の女王様。新しくやって来た中華な娘を相手にきっと爆発してみせてくれるだろう。でも相手も強そうだしなあ。下着は光で隠しても褌はオッケーなのかと複雑怪奇な放送コードにも思いを馳せる。いっそだったらすべて水着にしてしまえば露出も平気なんじゃないのかなあ。水着と下着の区別ってものを絵的にどう着けるのかが不明だけれど。下着のレーヨンなりコットンなりシルクとそれから水着のナイロンなりポリエステルなりとの素材感の違いを描けるアニメーターが引っ張りだこになったりして。

 っていうか少年マガジンと少年サンデーが創刊されて50年が経ちジャンプからでも40年が経って、子供の頃から漫画を読んでいる世代がおそらくは人口の7割とかを楽勝に占めていそうな国で、水を飲むように空気を吸うように漫画を読んだり、直接は読まなくても漫画の何たるかを感じている日本人ならいざしらず、漫画を日本の文化だの新しいカルチャーだのと意識して読もうとしている人たちがまだまだ中心で、ほとんどは漫画なんて読んだこともない人たちばかりの国で、5年10年のスパンで漫画が盛りあがっただの落ち込んだのといったところで、あんまり意味はないんじゃないかなあ。某朝日新聞。

 むしろこうやって蒔かれた種を50年、は長すぎるけれども10年くらいのスパンで育てていくことで、子供として漫画を読んでローティーンになっても漫画を読んで、大人になっても大人が読んでおかしくない漫画を探して読める世代が増えていく。それがさらに1世代、続いてようやく日本でヒットしている大人の世代に向けた漫画を、そんなに違和感なく海外でも受け入れるようになるってことで。1970年代から見続けてきたアニメと漫画は違うんだってことをやっぱり、ここは認めて手を打ち直すべきなんだろーなー。もっともそんな地道な投資と育成をしていられるほどに日本の出版社に力はないんだけれど。そして気が付くと資本力を持ち作品力も高めてきた中国あたりが漫画のイニシアティブを奪って世間を席巻していると。さてはて。


【2月6日】 ポジションとはゾーンでしかないのが世界基準普通だけれども、それがキャラクターにあってしまっている日本では、キャラクターから逸脱できないしさせてもらえないがゆえにプレーの幅を狭められ、挙げ句にチーム全体のパフォーマンスも落として上へと迎えないというこの状況を、一介のアニメーション監督が小説のなかで鮮やかに語っている一方でサッカー評論を生業としているはずのライターが、サッカーについての話をまるで書かない上に韓国の人たちが、とある同胞の日本に向けられたらしい侮蔑的パフォーマンスを、かつてだったら批判しなかったに違いない的言説をさらして、その尊厳を酷く貶めていたりする状況をいったい、どう考えればいいのかと悩んだところで、これが日本という国のメディアの現状なんだと理解するより他にないのが、さらなる絶望を呼ぶのであった。エジプトより大相撲。長友より齊藤。それがジャパニーズスタンダード。戦場カメラマンも呆れてるだろうなあ、そろそろ。

 そんな押井守監督による「番狂わせ 警視庁警備部特殊車輛二課」(角川春樹事務所)はまずサッカーの戦術がありそしてサッカーのトレーニングがありサッカーのプレーがあってサッカーの歴史があるというサッカー尽くしのストーリー、って特車二課が舞台でそれはないじゃんって人たちがわんさかわんさのいぇいいぇいと湧いて出ていたりするらしいと聞くけれど、あのアニメーション専門誌の「アニメージュ」ですらひたすらにサッカーの話題をコラムに書いていた押井監督が、サッカーの話を小説として書くことにまるで不思議はないってことがまず1つ。そして劇場版の第2弾ですでにして特車二課って存在とそこが稼働させている二足歩行ロボットの出番を大きく削って情報戦、そして思想へと内容をシフトさせていたことを考え会わせれば、「番狂わせ 警視庁警備部特殊車輛二課」があんな話になっていたって一切の不思議もなければ一切の不明もない。これが押井守監督の本であり、押井守監督ならではの本だと断じるより他にない。

 そう30年来のオシイストとしては思うんだけれど世の中の人はどうやらそうでもなさそうなんだよなあ。ちょっと驚いた。そんなにあんな鉄の棺桶どうしのガチバトルが好きなのだろうか。きっと漫画では読んでいたけどテレビシリーズとしてグリフォン戦を見てこなかった名古屋暮らしの僕だから、そしてパトレイバーファンになるより先に押井守監督ファンになった僕らだからそう思えるんだろうなあ。だからこその無問題。「番狂わせ 警視庁警備部特殊車輛二課」にはそんあオシイストが好む要素がたっぷり詰まって冒頭から一切飽きさせない。

 維持に金も時間もかかる上に乗り心地だってあんまり宜しくない有人の二足歩行ロボットという存在のどうしようもない存在意義について。そしてサッカーにおける戦術が布陣にまさるということについて。それぞれのポジションで最大限のことすれば結果としてチームが勝利に近づけるという心理について。オシム監督への敬愛について。ザッケローニ監督の戦術への感心について。それはジーコ監督や岡田サンといった面々への懐疑を覚えトルシェ監督やオシム監督へのシンパシーを覚えている人たちにとっても、読んで納得の文言ばかりで個人的には嬉しくなったけれどもそんな辺りは参考に挙げている杉山茂樹さんの「4−2−3−1 サッカーを戦術から理解する」の影響もあるんだろうと考えるとやっぱりあれで杉山さんは、しっかりサッカーってものを見ていて決して過大評価せず、過小評価もしないで冷静に今の日本の状況と、世界の実状とのズレを指摘しているんだろう。それを乱暴だとか上から目線と言ってるといつか遠くズレてしまうことになる。心配だなあ。

 さて物語は世界でも有数の歴史と人気を誇るマンチェスター・ユナイテッド、ではなくそれと同じ町にあるけど別にシティではないマンチェスター・FCって架空のクラブが日本で試合をしなくちゃならなくなったけれども、そこに選手の11人を皆殺しにするという予告がはいって警察としちゃあ一大事。ミュンヘン五輪みたいなことをすれば二度と日本でスポーツイベントが開けなくなるから何としてでも警備をと、警察では厳重な警備体制をしくんだけれどもそんな守るだけの方法では、相手に勝てないというサッカーの心理なんかもそこに混ぜ込み前戦からのプレスを旨とする戦術を、後藤隊長によくにた雰囲気の後藤田隊長が打ち出し結果、襲われるサッカー選手の目線で警備に望めるよう、メンバーの1人で泉野明こといずにの・あきらが高校でサッカーをやってた経験を買われ、マンチェスター・FCの対戦相手になる湾岸FCの練習へと送り込まれる。

 そこではとにかく激しいフィジカルトレーニングで泉野は痛めつけられるけれども、そうした練習の積みかさねがどん欲さを生みいつしかチームでもそれなりな存在感を漂わせるようになってくる。湾岸FCのエースストライカーが故障で調整に降りてきていて、そんな彼にもサイドプレーヤーとしての存在を羨ましがられる僥倖。そこにはフォワードというポジションが持つ一瞬のプレーの貴重性を尊びつつも、プレーヤーとしてならサイドを頻繁に上下することによってチャンスを作り出す気持ちよさへの傾注があって、昨今のサイドプレーヤーが尊ばれる風潮なんかを取り入れていて押井監督の含蓄って奴を感じさせられる。司令塔なんざあ愚の骨頂、そんなプレーが許されるほど世界は甘くなってことだ。けど日本の新聞は……ってことでスポーツ新聞は押井監督に解説コラムを書かせたまえ。

 そして迎えた試合の当日、起こる事件にメンバーがそれぞれのポジションで精一杯を発揮する様にちょっと感動。そして羨望。香貫子って別にクランシーではない美女の行動やら何やら、映画のそれも実写にして黒木メイサさんあたりの配役で見てみたい気が満々だけれど本人的に出来るかどうか。女優としての力量を押井監督が試す意味でも企画化を願いたい。泉野はサッカーができる俳優ってことでやっぱり水嶋ヒロさんが適任か? なおかつクライマックスではちゃんとレイバーも登場。それはレイバーがいたからこその展開であって押井監督が決してレイバーという存在を、真っ向否定していないってことが分かる。最適なポジションに最適な才能。あるいはそうした才能を勘案しながらベストポジションを作り上げる必要性は、サッカーに限らずすべての組織の運営に活かせそう。その意味でもとっても貴重で深い本。タイトルが「もしも警視庁特車二課の隊長が千田善の『オシムの戦術』を読んだら」だったら勘違いして買って読んで内容どおりと喜び100万部だって行ったかもしれないなあ。

 とうまとうまふこうだーそうだにゃーストマックブロー連発ヘッドバッドそうじゃんよミサカはミサカはそうしてみたりミサカ1万2022号は検討を開始します等々、語尾なり口調でもってそれが誰なのかが目をつぶっていてもだいたい分かるアニメーションって奴を夜中に見ていて、なるほど多すぎるキャラクターをそれぞれに埋没させずに際だたせる意味って奴を深く思い知る。まあ実写の喋りでミサカはミサカはミサカはミサカはとやられると一方通行でなくってもうざったくなるものだけれど、そのあたりは原作をつまんで重なりが激しくならないようにしているのがアニメに関わる人たちの考え方の確かさってことで。オープニングが変わったけれども連続して出てくる止め絵のキャラたちの表情とか巧いなあ。「これはゾンビですか」といい「IS」といい、今冬はオープニングに恵まれた作品が多いなあ。

 微睡み起きてから「ワンダーフェスティバル2011冬」に行って片山右京さんがグッドスマイルカンパニーにアニサマへと連れていかれて見たエネルギーからグッドスマイルレーシングで初音ミクの痛車に関わる決意をした話とか聞き、一方で四国の四万十川の奧にある廃校を利用して海洋堂の過去から今にいたるガレージキットや模型を並べるミュージアムを作ることで、きっと大勢が四万十川をさかのぼってきてくれると四万十町の町長や高知県の知事までもが来て喋っていたりする光景を見て、ホビーやらキャラクターといったものが持つ集客力の高さ、発するエネルギーの熱量って奴を今更ながらに思い知る。それがかつてはキワモノだったものが、今ではほぼ普通になりつつある。やがてボーダーは消えて日常にそうしたものがとけ込んで、広がっていけば良いんだけれども空気を左右するメディアの頭の固さは絶望的だからなあ。そこが完全に変わるまではなかなか浸透へと向かわないのかそれともそうしたメディアをすっ飛ばして世界は動くのか。今年に注目。


【2月5日】 気が付いたら大相撲の春場所が休止になりそうな勢いで、何というかメディアのことほどさように悪辣な集団に鉄槌を的雰囲気に、世間が煽られそうしなきゃいけないような空気が作られていってしまっている状況が、どうにも鬱陶しいというか放っておけばそうした取り組みがスポーツマンシップとやらにのっとっていないから、もう絶対に見たくないって人がいなくなる代わりに、長幼の序だとか武士の情けとかいったものが大好きな人たちが集まっては、7勝7敗の土壇場に追い込まれた力士の命運をかけた取り組みが、大団円の結末に向けて進んでいく楽しさを、存分に味わおうとして賑わうだけじゃないのかなあ。それで怒る人なんて誰もいないんだし、そもそも怒る資格もないのにいったい誰が何に怒っているのか。その見えなさがどうにもこうにも気持ち悪い。

 そりゃあなるほど文部科学省所管の財団法人ではあるけれども、資金面については自前でやりくりしている民間団体が、別に法に触れることをした訳でもないのに総出でぶったたくその状況が、何を意味するのかってことをその身を振り返って考えてみることをしない世間は、やがて降りかかってくる火の粉に、それを悪と認めれば自分たちも同じだと考え、頑として認めないまま見過ごした挙げ句に、とっても危ない方向へと、突き進んでいくことになるんだろう。曖昧さを許す方がよほど悪いというけれど、曖昧さの中に濃淡としての善悪を見て自省し、より善へと傾こうとする方が、厳密な善悪を決めた上でそれを悪と認めず善だと突っぱねて聞きいれず、曲げない方がよっぽど危険な気がするんだけど。まあ曖昧さの中に濃淡を見る心が鍛えられない現代では、白黒明白へと空気が流れるのも仕方がないのかもしれないなあ。余裕がないんだなあ。困ったなあ。

 民間団体が慣習についてあれこれ言われるんだったら、総務省が所管して免許を与えている電波発信会社とかにはもっと、厳密な態度で一切の不正を許さない空気が世間にあっても悪くはないんだけれど、そうした空気を作るのが免許を受けている電波発信会社だったりするから、世間がそうした糾弾の空気に染まるはずもないってことで。知力体力学力といった一般的な基準とは別の基準でもって選ばれ、入ってそこに置いておかれる人がそれなりにいるらしいといった状況とか、ほぼ独占している電波をたてに、それらを望む人たちから結構なお代を、それはいわゆる波料ってものじゃなく、誰々ちゃんよろしくオッケーその代わりに越後屋そなたもお代官さまこそうししし的シチュエーションから生まれる金色の餅を、頬張っているらしいといった状況とか、いろいろ悩ましい慣習がそこにはあるように伝え聞くんだけれども真相は、おそらく永遠に表に出ることはないのだろう。別に稼がせてもらってない相撲界には突っ込んでいっても、跳ね返ってくるブーメランの向かう先に突っ込む人なんざあ、いねえやな。

 ともあれ中止となればぽっかりと空く放送時間をさて、何で埋めようかと考えて思い浮かんだのが、過去の取り組みを一挙放送って奴だけれどもそこは何月何日の取り組みをまるっと放送ってんじゃなく、NHKが誇るアーカイブから、例えば高見山の取り組みだけを抜き出して放送すれば幕内在位の記録を持った力士だけに15日間をびっちりそれだけで埋めても余りそう。あるいは最高の強さを誇った北の湖の取り組みだけを、毎日のように放送すれば横綱の強さって奴がいったい何なのか、見ているうちにだんだんと分かって来るんじゃなかろうか。力があるとか技がきれるとかいったものじゃない風格としての横綱。若い力士も海外から来た力士もそうしたものから相撲ってものの全体像をつかんで欲しいけれど。でもここはNHKらしさを発揮して、7勝7敗の取り組みだけを抜き出し放送しまくるってのもひとつの手かも。どうだろうどうかしらと見入ってああやっぱりとかこれは違うとかって想像をめぐらせるうちに、美しい阿吽の呼吸ってものも見えてくるだろうから。ぜひに。NHK様。お願い。

 ショートな髪型で笑顔をうかべてスタイルは抜群で快活な美少女が悪人なはずはない、って思いたいいっぽうでそうした美少女が悪人だったらって快感も一方にあったりするという、そんな複雑な感情から醸し出される魅力を存分に味わったりできたアニメーション版「GOSHICK」は、ヴィクトリカの妙な表情なんかもそれなりに出て見ていて楽しいところも満載。一方であの怪盗は盗んだものを学園に隠したりはしても、それをどうにかしたりしなかったのか、どうにもしなきゃあ金にはならず稼げないんじゃないのかって疑問も浮かんでは消えなかったり。あるいは訪れる時に回収していたのかもしれないけれど、いくら上手に隠したって発見されるリスクだってある場所に、1年も放っておくゆとりってのがあったのか。単に愉快犯で盗めればそれで良かったのか。うーん。ことほど作用に怪盗の心理はつかみづらい。でもって発見された本人は、髪型こそショートで同じも純朴そうな笑顔がまぶし過ぎ。やっぱり笑顔の下からのぞく悪意に男はゾクゾクっとさせられるのだ。そして騙され身ぐるみはがされ捨てられる、と。


【2月4日】 駆け足で突入していったテロリストの随分をあとから走り始めたクレインが、テロリストよりも早くフリュネのところにどうしてたどり着けたのかといった悩みとか、無防備で撃ち合っている割には相手にいっぱい死人が出ているのに、こちらはデブが1人だけといったバランスの不可思議さといったものはいろいろあるけれども、クレインにくっついて回るネッサの動きや表情の可愛らしさは抜群だし、まだ見えないストーリーへの興味も未だに尽きてないんで、アニメーション版「フラクタル」はきっと最後まで見続けることになるんだろうなあ。

 1000年という期間をぬるま湯に使って過ごしてきた人が、どうしたらそこがぬるま湯なんだと気づくのかといった世界に対する認識への疑問、それが絶対的な信仰になっていて不思議はないのに、どこか打算を漂わせていたりする僧院の偉いさんの態度への疑問、死をあまり見ないで済んでいる世界であるにもかかわらず、死が持つ意味について悲しみも含めて誰もが理解していたりする状況への疑問等々、詰めきれていない部分もやっぱりあるような気がするけれども、これは演出の人がどうこうできる問題でもないからなあ。だから淡々と明かされていく世界の姿の描写なり、個々の性格が反映されたしぐさといった演出の側の巧みさって奴はやっぱり気にしないではいられない。あんまり気にせず突っ走って、そして爆発って奴を見せてやって下さいな。

 ドフラミンゴだけで4つは出たしゲッコー・モリヤも4つくらい出てジンベイも3つは出たりして、重さから判断しようと思っても不可能だとあきらめかけていたらやっとバーソロミューくまが出て、1番重いものではなく、上下にちょっぴりと余裕のある重さのがそれだと判明したけれどもとりあえず重い系は完了したんで、次に軽い系で最後に残っていた鷹の目ミホークを、どうやったら探せるかと頑張って1番軽いのを選択。あるいはボア・ハンコックと重なる可能性もあったけれども、ハンコックだったら何個あっても悪い気はしないと挑戦し、見事にミホークを引き当てこれでバンダイのトレーディングフィギュア「王下七武海」はコンプリート。シークレットで元メンバーのクロコダイルが入っている訳でもなく、これで打ち止めとして次なるターゲットを考えよう。

 そんな「ONE PIECE」はマリンフォード編が終わり過去編も終わって修行編から再開編へと突入。ボリュームが一気に増したナミとニコ・ロビンにサンジじゃないけど鼻血が出そうになったものの、ここから物語は海底へと下がりまるで読めない状況へと陥って今があるだけに、早く単行本化して展開を詳細に精査できる日が来ることを願いつつ、その先へと進んでかつてのルーキーたちが今はどうなっていて、そして黒ひげが何をやっていて、七武海には誰が入っているのかってあたりを描いてくれることを強く願おう。今の連載は今までにない緻密さと複雑さがあって店頭での閲覧ではついていけないんだよ。

 一方で総集編としていよいよスリラーバーク編のリリースがスタート。まずはマリンフォード編へとつながる黒ひげとエースとのバトルがあって、そしてスリラーバークに迷い込む途中でブルックと出合い、さらにスリラーバークへと入ってさまざまな面々との戦いああってと進んでいく中で、ここからテレビアニメを見始めたニコ・ロビンの美しすぎるボディラインがたっぷりと描かれていて、舐めるようにページを眺め下から見上げれば見えるんじゃないかと本を目から上に掲げ、描かれていないものは見えるはずがないという真理に打ちのめさる。

 しかしスリラーバークはスリラーバークで徹底してゾンビな世界を描ききるんだなあと尾田栄一郎さんの熱心さを堪能。今の魚人島シリーズの濃密さも、あるいはこれに通じるものであってあとからまとめて読めば相当に、面白くって深くって、広がりを持ったシリーズなのかもしれないと思い直した次第。それにしてもやっぱりスリラーバーク編のニコ・ロビン、可愛いなあ、このとき何歳くらいかなあ。それにしてもここで出てきたベローナちゃんが、後々まで絡んでゾロと深い仲になるとはまるで思いもしなかったよ、って深い仲になったかは知らないけれど。ミホークがそばにいながらモリアがおそらくはアブサロムに救出されたことは聞かされなかったのかなあ、ベローナ。今後の活躍に期待。しても良いのかな。

 まさかクルムヘトロジャンの「へろ」が実在したとはなあ、ってそれが作られた時からだって30年は経っている訳で、当時からすでにカリスマと化していた吾妻ひでおさんが、今もなおカリスマでありつつ現役としても輝き続けていることに、漫画好きとして喜びを禁じ得ない。米澤嘉博記念図書館で始まった吾妻ひでおさんの展覧会「吾妻ひでおマニアックス」の会場をのぞいたら、並んでいたのは歴代の単行本いん「メチルメタフィジーク」や「不条理日記」といった傑作漫画の生原稿。「なはは」が幾つも並んで見ていると頭がおかしくなるページの生原稿を間近に眺め、そしてのた魚の目に誰もが戸惑った漫画のシーンの生原稿を間近に眺めて頭クラクラ目もチカチカといった気分を味わい感涙にむせぶ。生きてて良かった、こっちもそっちも。

 決して広い会場ではないし、物量だってそんなにわるわけではないけれど、セレクトの良さもあってどのページも目が釘付けとなって見ていたら5分10分だって経ってしまいそう。それが10枚とか20枚とかある訳だから、相当な時間をそこで過ごせそうだけれども決して広い会場ではなく、あんまり長居をすると混んで来た時には迷惑そうなんで、ある程度の様子をみながら頻繁に通って目に刻もう。単行本はどれだけを持っていたかなあ。そういやしばらく前にコミケで生だかのイラストを8000円出して買ったんだっけ。あれはどこにいったかなあ。今なら100倍とかで売れないかなあ。売らないけど。売れないって。売れれないかなあ。


【2月3日】 恵方巻きの日。名古屋にいた時はきしめんに味噌をぬってご飯とノリで巻いたものを食べていたっけ。でもって隣の三河では藤田屋の大あんまきを無言で食べる人がいっぱいいたっけ。懐かしいなあ。そんな風習はないけれど。というか名古屋じゃまるで恵方巻きなんて聞かなかったんだけれど、知らないうちに全国行事へと広まってしまったのは、やっぱりコンビニエンスストアが全国規模になっていくなかで、そこが始めればすべてが染め上げられてしまう状況が、生まれてしまったからなんだろうなあ。そのうちコンビニエンスストアが名古屋にひっそりと伝わっていた、結婚式で新郎新婦に向かってういろうを投げる風習を広めて、全国的にしてしまう日も来るのかなあ。そんな風習あったっけ。

 新聞もテレビもお相撲さんの八百長問題であれやこれやの大騒動。でもあれをスポーツと思うから星のやりとりが悩ましく思えるんであって、伝統芸能とやらといっしょの類だと思えば主役が最後に必ず買ったり、真打ちが最後に登場するのが当然の流れ。その過程であれやこれやと波瀾万丈があった方が見ている方も絶対に面白い訳で、そこに作意を介在させて全体を演出してどうして問題があるの? ってことになる。だから相撲協会も文部科学省のスポーツ局やらの所管を辞めて文化庁の所管になってしまえば、相撲は外連たっぷりの伝統芸能で、だから見せ場があってワクワクドキドキできるんだって皆が納得するんじゃない?

 しかし携帯のメールでやりとりしていたとはあれでなかなか近代的。いっそだったらフェイスブック上に場を開いて、めいめいがブラックベリーなんかを持って情報をやりとりしていたら妙にマンハッタンしてカッコ良かったんじゃなかろーか。これは知り合いからの示唆だけれども実名絶対のフェイスブックの相撲取りが実名で登録したら、かえって普通の人はわかりにくくなるとのこと。なるほど誰も白鵬やら高見盛の本名なんて知りはしない。あれだけ有名なお相撲さんの本名すらそれなんだから十両幕下三段目の力士が実名でフェイスブックをやってて分かるはずもない。

 そこで例えば株価になぞらえ前場はこゆるくもみ合い状況、後場になって乱高下を繰り返しひけにかけて急落とかって符丁でやりとりすれば、誰もそれが相撲の八百長だって気づかなかったんじゃなかろーか。うん。でも所属の部屋の名前でばれるかな。英語に直すと分からないかな。デワ・シー・カンパニー。出羽海部屋じゃん。マウント・サド・インスティテューション。佐渡が嶽部屋じゃん。やっぱり無理か。つかだいたいがあの小さなブラックベリーのキーをどーやってお相撲さんが操作するかってことの方が重要か。不思議なんだよなあ。日本人だって難しいあの小さすぎるキーを、巨大なアメリカ人とかヨーロッパ人が操作しているだもんなあ。指先にキーを押すためのハリがついたキャップでもはめていたりするのか? うーん。

 とか考えながら両国を乗り過ごして秋葉原へと出てデジタルハリウッド大学で開かれたアニメビジネスセミナーを聴講。これで3年目となり企画を3回とも皆勤賞やってる自分はもはやアニメビジネスのエキスパート、って訳にはいかないのは門前の小僧よりもお経を聞かない遠島の小猿ゆえ。耳で一瞬囓っても実践の伴わない状況ではなにも語れず実行もできないのだ。それでも聞くのは伝え広める役割を担っているからで、今日も今日とてまずはAT−Xの岩田圭介社長が示したテレビの朝と夕方のアニメがどういった座組になっているかって話から、少年ジャンプ原作で電通が仕切東映アニメーションが作品を作ってそれをテレビ東京が放送し、バンダイが玩具を作るという方程式が最強だという結論に達する、ってそんなアニメあったっけ。

 ジャンプがサンデーだったりコロコロで、東映アニメがぴえろだったりしてもバンダイでテレビ東京かテレビ朝日あたりの座組でもって電通が仕切るのが、夕方やら土日の午前に多くなっているということは代わらない。もとよりアサツー ディ・ケイがアニメの旭通と呼ばれて幅を利かせ、そこに読売広告社が対抗して入っていた時代がアニメの場合は長かったんだけれど、いつの間にやら電通が随分な枠を操るようになっていたのに、今更ながら気づいて驚かされた。枠をおさえる力の強さか、スポンサーを集める腕の確かさか。どっちもなんだろうなあ。いざとなったら空いた枠で「豆しば」を流せばそれもライセンスに繋がる訳だし。

 スクウェア・エニックスのクロスメディアの人かはら出版社は赤を出さないような座組を練り上げるって話。出版社だけがハッピーになろうって気はないけれど、それでも出版社がハッピーにならなければ、全体がハッピーに成らないだろ? って割り切りがなかなかに興味深く、それで9割打率だって言って果たして大丈夫なのかってあたりにぼんやりとした気分が漂う。なるほど赤字になるかもしれないリスクは追ってない訳ではないけれど、それでも被るマイナスは事業規模からいったらどれだけか。一方でパッケージメーカーあたりが被るメリットデメリットの塩梅はなかなかに厳しくて、それこそ会社が傾きかねないことだてある。

 そうした彼我の体力差、立場差をどう埋めてプロジェクトをハッピーに転がしていくか、ってあたりに登壇者の手腕もあるんだろうけど、それでも埋めきれない部分をさて、出版社としてどうしていくのか、そんな辺りをちょっと注視していきたいかも。グッドスマイルカンパニーの安藝貴範さんはアニメ化で本が莫迦売れしたらその分を製作委員会に戻して欲しいねえ、って前に話してたっけ。そういやあそういう話はあんまり聞かないもなあ。それが果たして正しいのかどうなのかってことも含めて、この疲弊しかかっているように見えるアニメの将来を伺う意味から、ちょっと考えてみよう。考えたって業界人じゃないから役には立てないけど。弱いなあ。

 「機動戦士ガンダムUC」については映画を見ないでシナリオ付きのブルーレイディスクだけを買い占める輩を何とかしてちょ、って言いたかったけど言わず。宮内さんと手をつないだから良いか。つながせたのはプロダクションIGの石川光久社長。莫迦になりましょ、って話から初めて海外に出てパッケージ販売とかやっていたけど他が来た頃を頃合いと見て撤退し、エッジの聞いた作品を企画して売り込んでいたけど、それも頃合いだからとむしろ原作物を多くやるように今はしているって話から、身の丈を考え背伸びせず、また無理に出しゃばらずに来る仕事を精一杯にやっていくのが今は正しいってスタンスを見て取る。それで実際、失敗していないんだからやっぱり慧眼。とはいえエッジが聞いた作品をつくれるアニメスタジオってのもそうはない。そこんところでちょっぴり欲目をそろそろ出して欲しいもの。期待してます。ピザ食べに行きたいです。


【2月2日】 ニンニンの日。ってことは忍者の日? やっとこさアニメーション版「これはゾンビですか」を見たら、久しぶりに魔装少女が登場していたけれども、その戦闘シーンでときおりのぞく縞ってのはつまり中身が……なんだよなあ。そう思うと気持ちもいろいろなところも萎えるけれども、その場面だけ見ればそうかもしれないと思えないこともなかったりするから、あとは瞬間に思考を切り替えそれはそれ、あれはあれと思い刹那の感動に浸り、頂点まで達する努力を極めよう。そうでなくても見せてくれる作品が減っていたりするし。「フリージング」はあれでまだまだ見えてるけど。

 スポーツ新聞は大学卒の新人野球選手がほとんどトップ。まあでも読者がもっとも多そうな層に向かって、最もヒットしそうなネタを送るのがスポーツ新聞の役割ってことで、それで問題があるのだとしたら、そうしたネタを最もクリティカルだと思いこんでしまっている読者の側にある訳で、変えるとしたらそうした意識の方を、まずは変えて行かなくちゃいけないんだけれど、そうした意識を変えるには、スポーツ新聞のスタイルがまず変わらなくちゃいけないという堂々巡り。困ったもんだ。

 国内読者向けのバリューとは別に、純然たる格付け的に見るならやっぱり長友佑都選手のインテル入りはやっぱり凄い。とてつもなく凄い。だって世界ナンバーワンのチームだよ。チャンピオンズリーグで勝利し、クラブワールドカップでも買って世界1の称号を手に入れたチームに乞われて入る。それはもうニューヨーク・ヤンキースに松井秀喜選手が入ることより世界的には大きなニュースであるべきなんだけれども、ヤンキースは知っててもインテルは知らないのが日本人。サッカーだったらマンチェスター・ユナイテッドかレアル・マドリードかバルセロナで、ぎりぎりACミランといったところしか知らない日本人にとって、たとえ世界1でもインテルでは感覚としてどこそれ? ってものが大半を占めてしまったんじゃなかろーか。

 これがレアルかバルセロナだったら、チームが世界1になってなくても1面に持ってきた新聞があったかもしれないし、選手が長友選手ではなく香川慎司選手か本田圭佑選手だったらあるいはといったあたり。純然たる価値ではなくってメディア的な価値観でもって報道の上げ下げをしてしまうところに、やっぱり純然たる価値観は養われないのかもしれないとしばし沈思。ともあれ長友選手には頑張って欲しいけれども、今期のインテルは今ひとつ、勝ち点の伸びが足りないからスクデッドはちょっと危なさそう。イタリアカップだったらまだ残っているし、チャンピオンズリーグも残っているんでそっちに全力を傾けとにかく何かのタイトルを。でないと例えインテルでも、ヴォルフスブルグで優勝した長谷部誠選手、ローマで優勝した中田英寿選手には並べないから。是非に。

 気合いを入れて起きて「ギフトショー」を見物して、北海道から来たコアックマってのとハイタッチ。ゆるキャラの北海道代表として活躍してるとかいった話だけれども、当方的には北海道でクマといったらメロン熊の方がまず先に来るからこっちはまるで知らなかった。有名なのか。見た目はまあ可愛らしいし、夕張復興とかいった重たい使命も背負ってなさそうなんで、ビジュアル面でもって人気となっていく可能性はありそう。とはいえクマには「リラックマ」という強敵がいて森チャックのグルーミーも人気を確立しているからなあ。割ってはいるにはやっぱり小悪魔パワーを。人間化してエロスを萌えを。それだと違うキャラになってしまうなあ。

 広すぎるだけにどこに何があるか見つけづらかったギフトショーだけれど、エコっぽくってフェアトレードっぽい品を集めた一角がしつらえていたんで、そこで出展社を一網打尽。前にガーデニングショーでみかけた鍛冶屋の兄さんもいて、鷲の金物を展示していて格好良かったけれどもやっぱり値段が相当っぽいんで、まだ売れてはなさそう。同じブースではメキシコからもってきたハンモックってのも展示していて、色を日本でデザインして発注したものらしくどれもカラフル。眠るととっても心地よさそうだけれど問題はハンモックを吊る壁もスペースも我が家にはないことか。いつか森が我がすみかとなる日に備えて1つ仕入れておくか。

 歩いていたらコーナーを作った人がいてどんなところが出ているかと案内を受けて、伊勢谷友介さんが関わっているという「REBIRTH PROJECT」 ってブースに行ったら、何か格好いい品々がずらり。例えばLeeのジーンズにプリントがしてあったりとか、パラシュートっぽい素材のバッグとかあって、流石オシャレなお店だけれどこれらのどこがエコなのか、って尋ねるとそこはなるほど「リバース=再生」がテーマのプロジェクトだけあって、バッグは車のエアバッグとシートベルトを使って作られていて、なるほど見るとエアバッグならではのステッチが見えたり、シリアルっぽいナンバーが浮かんでいたり。とはいえフライターグほどの派手さはなく、オシャレアイテム化していくフライターグに比べると、使って実用、そして光るセンス、その実態はリユースといった具合にさまざまな、フェーズで使い手を納得させてくれる品に仕上がっていた。

 LeeもいわゆるB品って奴で、本当だったら売られず流されるものだけれども、それにレーザーでもってプリントを行いタグなんかも変えて出そうとしたところ、Leeがそれならといった感じに受け入れ、Leeのショップで本当は弾かれるB品だったものを、リバースされたものとして扱っていた。月のプリントに雷のプリントに骨格のプリントのどれもがオシャレ。レーザーだから消えないで残っていくんだろう。伊勢谷さんなら履けば格好良いけど、中年体型で似合うかなあ。でもベースがB品だからそんなに高くなるってことはなそうなんで、和デニムに何万も出すならこっちにしておくのが個人的には納得。売ってるお店をさがさなきゃ。

 そんなREBIRTHの向かいでは、坂本龍一さんらが発起人となって間伐材を使って何かを作ろうとしているプロジェクトの「more Trees」が出展。こちらは木の素材を使って例えば時計だったりまな板だったり剣玉だったりを作って並べてた。素材の良さが光る上に、デザイン性でも深澤直人さんをはじめプロダクトデザイナーを起用し作っているだけあってなかなかのもの。それだけお値段も……ってところだけれど、海外製の家具に比べたら何ということもない。使って得られる満足度、そして眺めていて感じる癒しっていったものを勘案すればお釣りが来たって当然かもしれない。とはいえ問題は我が家にはこんなものを置く場所がないってことなんだよなあ。巨大な「空の境界」のブルーレイボックスとか増えたし、あるいは真希波・マリ・イラストリアスの制服とかも届くかもしれないし、ってなんだそりゃ。うーん。妙なものだとすぐ手が伸びる。悪い癖。


【2月1日】 いやあ面白い。こいつはまったく面白い。主人公の女の子のひとり語りなんて男子向けのライトノベルじゃあんまりなさげな形式だけれど、その妄想炸裂な一人称での語りっぷりに巻きこまれ、引っ張られていると自然と物語についていけてしまうから、さすがというかそれだけ筆力があるというか。やのゆいさんって作者名でえんため大賞の優秀賞を受賞した「わたしと男子と思春期妄想の彼女たち」(エンターブレイン)は、のっけから怪しげな虚無僧に悪霊がついているから命が危険だと告げられた少女の主人公。厄よけにもらったコンタクトレンズに100円ちょっぴりを対価として渡して、逃げ出すようにその場を離れる不徳っぷり。でもってレンズをはめると災厄が降りかかるかというとさにあらず、不思議な女の子たちが教室いっぱいに現れたから驚いた倒れた気絶した。

 そして保健室で付き添ってくれた少女にお礼を言うや言わずやで、彼女たちが男子には見えていないことに気が付いた。それは妄想少女。男子が抱く理想が形となって現れた姿。だからある学校でも1番の美少女が好きな男子の妄想少女は、その子にそっくりな姿としていて主人公をちょっと惑わせた。ほかの男子の妄想はたとえばブルマー姿だったりスクール水着姿だったりメイド服姿でパンツを見せていたりと、もうたっぷりの妄想まみれ。女子が見れば気恥ずかしさも浮かびそうだけれども、そんなことより大事なことが主人公にはあった。思いを寄せる男子が理想として妄想する彼女はどんな姿? 真似れば彼氏の理想に近づけるからと探しても見付からない。どうして? それは彼に彼女がいるから。満たされているから。妄想なんて抱く必要がないから。なんだって?

 慌てて嘆く主人公は、妄想少女たちの助けも借りて、彼の彼女を探そうとするけど見付からない。どうしてなの? といった答えはまあよくあるパターンだけれども、そこへと至る過程で主人公が飛ばす妄想、進める思考のとびっぷりが楽しくて、傍若無人さよりもわがままさよりも愉快さを感じて引き込まれてしまう。理想が変われば消えてしまう運命にある妄想少女たちのはかなさとも相まって、ちょっぴり酸っぱさも感じさせてくれるストーリー。男子たるもの、思いこんだらあんまり身勝手に気移りしてはいけないのだ。でも見えないんだから仕方がないから、謎の虚無僧は男子の前にも現れ理想の彼女が見えるコンタクトを僕らにも寄越してよ。でもって着けると女子の理想の彼氏ばかりが見えて自分とのあまりの違いに絶望するんだ深く激しく。世の中まったくままらならない。んで悪霊ってのはどーなった?

 超人野球の面白さを語ってしまった後でなんだけれども、やっぱり地道に地味にプレーする高校野球物も悪くない、ってことでえんため大賞受賞の月本一さん「○×△ベース1 ねっとりぐちゃぐちゃセルロイド」(エンターブレイン)を読んだけれどもどこがセルロイドかは脇において、高校に入学してさあ普通にデビューだと思っていたら、通学途中からつきまとっていた得体の知れない熱血男に誘われて、野球部に入ってそこで部員集めに邁進し、集まったと思ったらこんどは勝利しなくちゃお取りつぶしといわれ、頑張ったら公式戦じゃないとダメだと言われ、頑張りたくても今度は相手が強すぎる上に、因縁の投手が現れさらに困った状態に。

 さあどうする? ってところで発動する熱血が、心をスカッとさせてくれる。これは良いものだ。秀才の努力を吸収して最強になった天才の存在には、いったいどうやって立ち向かえば良いんだろうって思えるけれども、そんな最強の天才を相手に、勝る力を発揮できた主人公は更なる天才なのか、それとも天才は秀才の過剰な努力に勝てないものなのか。うーん。そんな天才の天真爛漫で傍若無人な様とか、野球部の先輩でバットを握ると狂乱する女の子とか、愉快なキャラクターたちも楽しめる1冊。野球が緻密か、って言われれば「ぐいぐいジョーはもういない」ほどではないけれど、努力と天才の対決ってあたりは重なるかも。でも1人、どんな球でも取る先輩はやっぱり超人かなあ。どこかにボールの形をした痣とか付いていたりするのかなあ。

 わっしょいと起き出してヨドバシカメラへと向かったけれども、入荷していなかったのかそれとも店頭に出していなかったのか、「空の境界」のブルーレイボックスは見つからず、それならととらのあなへと向かってのぞくとダミーパッケージが平積みに。手に取りレジへと持っていってひとつお願いすると、出てきたのがむかし懐かしいLDボックスもかくやと思わせる巨大な箱でひっくり返る。いやほんとうに手に持つと腕が抜けそうなくらいの重量で、何もここまでせんでもと思ったけれども5万円超とかいったゴージャスさに釣り合う見栄えは、両儀式の球体関節人形でも入れるか、これだけのデカさにするしかきっとなかったんじゃなかろーか。「スカイ・クロラ」の飛行機フィギュア入りブルーレイもデカかったもんなあ。あれって幾らだったっけ。

 とはいえこれが初のパッケージ化じゃない訳で、ブルーレイ化っておまけはついても、DVDの販売でだいたい元はとっているはずなんだから、1作3000円で7作2万円、それに最終章を加えて2万5000円くらいでどーだって言ってやりたい気持ちもない訳じゃないんだけれど、そこはそれ、「空の境界」て作品に対するお布施って意味もあるから仕方がない。あるいは相当な技術と努力でもって圧倒的な画質になっていて、第五章の「矛盾螺旋」の冒頭で式がハイキックを放った後に開いた着物の裾を閉じるシーンで、肌の産毛まで見えてしまったりするかもしれないとか妄想したりするけれど、描かれていないものは見えないって原則がそこにあるから期待はしない。あとは心眼を鍛えてそこに何かを見るしかない。うん。

 最初に行ったのは初台かどこかの劇場で、そんなに人もいないなかでのんびりと漫画だアニメだってものを表彰してくれてありがとう的気持ちで見ていた文化庁メディア芸術祭だけれども、他の経済産業省がやってるマルチメディアグランプリだとか、総務省のAMDアワードとかが妙に制度化されてしまって、業界の為の賞化して存在感を薄めつつある中で、おとなしめだった文化庁メディア芸術祭が、世のメディア芸術さんへの感心の高まりを受けて、一般の間にぐいぐいと存在感を増していたりする模様。会場も草月会館から東京都写真美術館を経て国立新美術館へと移ったあたりで一気に規模も拡大し、今やメディアアートの総本山的イベントとして確立してしまった感さえある。

 一番新しい第14回のメディア芸術祭は、展示スケールも東京ミッドタウンに一部が出張ったりする一方で、国立新美術館内もゆったりとしたスペースに1パーティション1作品といった感じに並べられていて、見て触って楽しめそう。とはいえそういったものはメディアアート作品が中心で、漫画は壁にデカいパネルがあって原稿が一部並べられている程度。アニメもパネルと映像と原画や設定画といった感じ。そういう見せ方しかできないとは分かっていても、触って楽しめるメディアアートの賑やかさとの対比が出てしまって、せっかくの受賞なのにどこか日陰っぽさが漂っていたのが気になった。なるほど漫画が置いてあって読めるようになっているし、映像の上映もあるしシンポジウムもあるけれど、そうしたものとは別に、漫画やアニメを“体感”できる展示ってのはできないのか。無理だろうけどちょっと考えてみたい。でないとこれ、メディアアートの展覧会って勘違いされその勘違いで突っ走っていってしまうかもしれないよ。

 でも面白いから仕方ないなあメディアアートやデジタルエンターテインメント。巨大なブロック崩しを自分の体を動かしてやったり同じようにエアホッケーをやったりする遊びは巨大さ故の楽しさがあるし、学生CGコンテストに出ていた岐阜県の大学から来ていた人の非接触ドミノなんて、ドミノを振ると星が光って数字を表して、1のドミノを倒すと離れた場所に建てられたそのドミノの数が小さい奴から順に倒れていくのなんて、そのまま玩具になりそう。同じ数字のは同時に倒れる、その倒れっぷりが妙に可愛い。ちょっと注目の逸品かも。

 そうした身体性を感じさせるメディアアートを前にすると、ゲーム機を介在しなくちゃならないゲーム類がどこか狭く小さく見えてしまう。遊べば楽しいはずなんだけれど、そして支持もされているんだけれど印象としてそう見えてしまう。エンターテインメントとアートを同時に見せなきゃいけない展示の難しさ。これが海外ならコンパニオンやら音楽やらも含めてガンガン、漫画にアニメにゲームをアピールできるんだろうけれど。そうした課題をどうクリアにしていくか。メディア芸術祭がメディアアートの祭典ではなく、漫画もアニメもゲームも等しく評され讃えられる祭典になっていけるための方策とやらを考えたい。僕が考える話でもないんだけれど。


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