縮刷版2011年12月中旬号


【12月20日】 帰ってきて録画したった「境界線上のホライゾン」のアニメーションを観たら本多・二代が頑張ってた。あそこで倒されたはずなのにしっかり起きあがった背景には、受けたダメージを最小限に抑えて次につなげる技を本多・忠勝との訓練の中で身につけていたからだけれどそれをアニメで説明するのはちょっと無理か。でもあのまんまだと立花・宗茂が手加減したように見えるからなあ。とどめを刺さなかったのはてっきり斬ったとそう信じていたからか。でもって二代がそう信じ込ませていたからか。ならやっぱり二代の方が上だったってことで。立花嫁とのリベンジマッチは果たしていったいいつ描かれる?

 トーリとホライゾンとの対話は平行線をたどりつつその中で互いに歩み寄りを探ろうとしつつ言葉を裏返し立場を逆転させて詰めていってそしてたどり着いた地平の真っ直ぐさに感動。ただ繰り返し同じような言葉を使わせるんじゃなくってテンションが高まってきたところでくるりと身近面してテンポを上げて引きつけさせるその塩梅が、ちゃんと効果を発揮していた。あれをタイミング計りながら演技した声優さんも、それに合わせたか先にちゃんとタイミングを計って映像を作ったスタッフ凄いかも。前半の前半にしかなかったアクションが、そうした対話劇へと移ってまるでなくなっても全然、ダレなかったし。

 しかし目の前で最愛の少女が自分の不用意なひとことが原因で死んでしまったことに対して、トーリが抱えた後悔の念はいかばかりか。なるほど物を食べたくなる気も分かるけれどもそこからどうにか立ち直り、悲しみを圧し殺して周囲に明るさを振りまき生きてきたんだからやっぱり強い。そして見かけた定食屋の店員の姿に後悔を抜けて未来を拓く決断をしたのがこの一件の始まりか。問題はそうした出会いを誰が画策し、そして何を求めているかだよなあ。ホライゾンが自動人形にされてトーリの母ちゃんがやってる定食屋の前に倒れている、なんてことが偶然にある訳ないもんなあ。やっぱり松平元信公の企みか。それは末世の回避を狙ったものかそれ以上の狙いがあるのか。何より織田信長の正体は。未だ明らかにされない原作の展開も気になるけれどもまずはアニメのクライマックス、後に宗茂砲と呼ばれる悲嘆の怠惰が本来の威力を発揮する数少ない機会をその目でしかと見よ。

 せっかくだからと上野まで言ってゴヤを見る。食べるんだったらやっぱり豚肉と豆腐といっしょに役のが1番だけど、ってそれはゴーヤだというお約束。こちらはゴヤだ。マグマ大使の怨敵だ、ってそれはゴア。お前は今日から人間モドキだ。でもってゴヤといえばマハなんだけれど飾ってあったのは一見すれば服を着ているように見えるバージョン。でもちょっと角度をずらすとほらごらん、そこにはちゃんと服を着ていない「裸のマハ」が見えるといった寸法。そいつはどこのレンチキュラーだ。っていうかそういうのを作れば売れるのに。

 さて実物はといえば大昔にエポカかなにか、百科事典の巻末が美術特集になっていて現代絵画から古典的な絵画や工芸までをも網羅していたページがあってそこに乗っていたのが裸だったか着衣だったか。いずれにしても見て官能と感動を受けたその絵が今、あるいは片割れが目の前にあるというのがなかなかの感動。これであと生きているうちに本物の「モナ・リザ」とか見られたら言うことないけど。パリに行けばすぐにだって見られる? 行けないんだよ今のこの生活じゃあ。来ないかなあ「ミロのビーナス」。どっちやねん。「裸のマハ」でも良いけれど。

 そんな大作の1枚だけでほかはスカスカっていうんならちょっと見かけ倒しだけれどもそこはゴヤ、まずは肖像画家としての作品が並んでいてそれらが実にリアリズムっていうか表情がちゃんとあって当時の人の顔立ちとか仕草なんかが伝わってくる、その思考までもが。よく肖像画って良いとこどりして格好良く書こうとして、人形っぽくなってしまうもので例えば半島の北にある国の英雄な人なんて肖像画でしか伝わってないその表情に他国の苦闘を経てその地位を掴んだ凄みって奴があんまり滲んでない。けれどもゴヤの描く想像画はどれもがちゃんと当時の生きた人達の感情めいたものまでをも、その表情に入れ込んで描いてある。口をちょい歪めたりした偉い人なんていったい何を考えて生きていたんだろう。疲れていたのか自信が表情にゆとりを与えたのか。分からないけれども面白い。あとは6歳の王子様。これがかわいい。もうかわいい。いったいその後どんな青年になっていったのか。興味あるけれどもゴヤは描いているのかな。

 悪魔とか魔女とかが出てくる素描もなかなか愉快だった会場を出てせっかくだからと上野動物園に入ってパンダを見物、おおいたぞ、でも動かない、最初は1頭は台の上に座って尻を向け、もう1頭は遠くでやっぱり後ろを向いていてその愛らしい顔が見えなかったけれどもやがて動き出した1頭がこっちを見た顔は……怖かった。だってクマだよ。それが目に隈つくってこっち睨んで舌を出す。怖くないはずないじゃない。でも一般にパンダはかわいいって思われている。何でだろう。何が原因でパンダの可愛らしさって奴が担保されているんだろう。社会学的動物学的心理学的にちょっと気になる。パンダはどうしてかわいくなったのか。研究したら何かもらえるかな。

 ついっと出てからクマも見物。ヒグマが巨大だった。あんなのに道で出合ったらきっと人生のすべてを諦めるだろうなあ。ツキノワグマは寝ていた。寝てるとパンダよりかわいいかも。でもやっぱりクマなだけに噛まれるといたい。その昔に平湯峠にいたクマの子供に近寄ってももを囓られた。歯とかささりはしなかったけれども結構響いた。小熊であれなら大人では。近寄らないのがやっぱり吉。あとは象がいて鶴もいてと動物園は動物だらけ。岩に打ち上げられたアシカは岩に打ち上げられたアシカのように動かなかった。そういうものだ。子供とかやっぱり動物を見るのが大好きらしくて平日でも結構な人手。そしてパンダの前には歓声が。何かを間近に見られる機会、ってのはやっぱりあった方が良い。それはバーチャルで高精細なゴヤの映像を居ながらにして見られる時代でも。リアルの持つ重み、って奴もまた心理学的に研究してみたいなあ。その信仰は補強されるか崩されるかの如何を問わず。


【12月19日】 長久手にあって愛知県民からは愛知教育大学の美術を出て教員になるような人とはちょっと違った芸術をやりたいんだけれど、東京の藝大とか日芸とか多摩美武蔵美に行くには遠すぎるし冒険過ぎると思っている人たちが集まる、地方芸大のひとつだと思われがちな愛知県立芸術大学が実はとてつもなく世界的に凄い人たちを、輩出していたことにきっとあと10年もしたら世界中の人が気づくんだろう。その代表格は今や村上隆さんと並んで世界にファンを持って作品を発表しまくっている奈良美智さんだろうけれどもほかにもデカい木を削ってくりぬいて焼いて不思議なオブジェをつくる戸谷成雄さんとも県芸。戸谷さんなんてすでにヴェネチアビエンナーレにも出ている大御所なだけに奈良さん以前からやっぱりそれなりな位置づけではあったんだろー。

 そんなファインアートとは別にデザインの方からいっぱいわらわらと現れているアニメーション界の人たちが、これからのトレンドを作っていったら東京藝大が講師の数と質でぐぐぐっとのしてきている短編アニメーションの世界に割って入って愉快と痛快を巻き起こしてくれるんじゃなかろーか。あとは商業アニメーションでも。商業ではすでにいしづかあつこさんが「星のワルツ」とはまるで違った「スーパーナチュラル」を監督したり「ちはやふる」で絵コンテを切っていたりと活躍中。それからこちらは東京藝大の院には進んだけれどもアニメーションではなくデザインの方で不思議な作品を作ってこないだ卒業した高橋昂也さんがちょっと注目株。いしづかさんは次にどんな作品を作るんだろうなあ。

 そして新海岳人さん。星の声を聞くんじゃないし秒速5センチで動く訳でもない止まったままのアニメーションだけれどもテンポと会話で見せて聞かせる技をすでにマスター。FLOGMANさんとはまた違った煩悩も辞さず下品さにもひるまない鷹揚さでもって作る作品は大人の眉を潜めさせつつ中学生高校生のニコ中な人たちをぐわっと抱えて未来のスターへとなっていく、ような気がしないでもない。結局広く受けるのは萌えとかじゃなくってそうした下品さ。それがやれてなおかつ面白くって楽しめるセンスは何者にも代え難いんで遠からずメジャーなシーンでその名を見る日が来るだろう。新海といったら誠も良いけ岳人もね。ってな感じに。ヒャダインが歌ってる「かよえ!チュー学」の主題歌だっけDT連発のあれ、サイコーだぜ。

 武豊アニメーションフェスティバルではあとやっぱり「河童の腕」と「ホリデイ」の2本が流れたひらのりょうさんがこれからの世界を席巻していきそうな雰囲気。古い方から「河童の腕」は横に繋がっていて片方を引っ張ると片方が短くなる河童の腕についての話を引き合いにして、引っ張ったら抜けてしまって溺れてしまった河童を追って別の河童が川に飛び込み追いかけていって海へと流れ着いたそこには自分と引っこ抜いた腕だけ。涙を流しつつご飯を食べていたら腕が抜けて死んだ仲間の河童が見つかったりして逃げ出して戻った場所で自分も抜けてしまった腕に仲間の腕が戻ってそこで一段落。シチュエーション的におかしいはずなんだけれど切なくって泣けてくるのは漫画でいうところのしりあがり寿さんのテイストになんか近い。

 それは「ホリデイ」の方でより顕著になっていて、水道管につまったイモリだかおサンショウウオだかがそのままコップに入って美女に飲まれてしまって吐き出され、そして美女ともう1人と3人でバンドをやるんだけれど客のまったくいない状況のなかで女性はせき込み耳だけになってしまってその耳へとサンショウウオだかイモリが入っていっては女性を捜すも見つからず。やがてひからびたところに耳へと水が垂れて復活するという、そんなシュールで不思議な展開にどこかシチュエーション的なおかしさが重なる展開はやっぱりしりあがり寿あんの漫画がアニメーションになった感じ。そのまんまってことではなくって雰囲気が重なっているというか。そして動く意味もあるっていうか。温泉宿あるいは宮城の松島みたいな風光明媚で鄙びた場所で起こる奇妙なできごとっていうシュールさも含めて世界観を持ったクリエーター。文化庁メディア芸術祭の審査委員会推薦作品に入っているから今度の展覧会で「やさしいマーチ」ともども見られるかな。見せて欲しいなまた。

 帰ってくる新幹線の中で見ていたネットから入ってきた金正日総書記の訃報にさてこれで何がどうなつかってことがまったく予想ができないところがあの国というか。絶対君主に見えながらもその実、周辺を将軍なり軍部が囲ってその威光として政治を行っているんだろう体制の要が消えたところで、次の要を担ぎ出してはこれまでどおりの政治を行い体制を維持していくことになるんだろうけれど、前の時とは違うのは後を継いだ三男とは別に奔放な長男が世界各地に出没してはあれやこれやと喋る点。囲われた1人を絶対の象徴にできない状況が混乱を招き分裂を招いて戦いへと進む可能性なんかもちょっと考えられそうな気もしないでもない。祭りあげられる方だってまだ若いからいろいろと考えちゃうだろうし。そんな綻びがやがて大きな裂け目となってあの国を揺らした時に周囲はどう動きそして何が起こるか。歴史の動く瞬間と思えば面白いけど近隣の話だしなあ。祝砲とかドンドンと出来たらちょっとやだ。

 そして到着した東京ドームで去年に続いてアメリカンフットボールの社会人の最高峰を決めるジャパンボウルを見物。去年に続いてのオービック・シーガルズとそして富士通フロンティアーズが出場していてどっちを応援するのがチアリーダー的に見応えがあるだろうかと考えスタイル系なフロンティアーズにちょい気を引かれたけれどもそこはやっぱり千葉県民、それもお隣の習志野に本拠地を置くシーガルズをやっぱり応援するのが筋と1塁側の前列に陣取ってチアリーダーたちを見物する、ってアメフット応援してないじゃん。いやいやそんなことはないけれどもやっぱり最前列から見るのが迫力があって良いんじゃないかと。でもそれだとプレー見えないんじゃないか。そうとも言う。どっちやねん。

 とはいえ千葉からチーバくんまでお出まししていたからにはやっぱり勝たなきゃいけないと、頑張ろうとしたシーガルズだけけれど前半は相手の守備に阻まれ進めず逆に押されてタッチダウンを奪われる展開に。フロンティアーズは短いパスがよく繋がりランもそれなりに稼いでジリジリと迫っていく感じで手強そう。ポイントアフタータッチダウンのキックもちゃんと決めて7点を奪う一方で、シーガルズはなかなか点が取れなかったけれども相手が守備を固めていないパントをリターンしてタッチダウンを決めるビッグプレーが飛び出し6点。けどキックを決められず1点差がついてそして広げられたりもしてこれは今回は無理かなあ、なんて思ったけれども第3クオーターあたりから長いパスが決まるようになってこれで一気にドライブドライブ。

 何しろフロンティアーズのディフェンスラインの後ろにまで走って受け取るんだからもうこれは奪えない。タッチダウンが決まりツーポイントコンバージョンまで決まって渡来アフターポイントのキックの失敗をカバーしてみせて更にタッチダウンを重ねて終わってみれば24対17と、差を付けての勝利となってこれで2年連続のライスボウル進出か。相手はすでに甲子園ボウルを終えた関西学院大学で、伝統校の出場にいったいどんなチアリーディングが飛び出すのかと今から試合の日が楽しみ、ってやっぱり見るのはチアリーダーか。そりゃ千葉を応援したいけれども学生が出てくる時はやっぱり学生のカレッジなチアリーディングを楽しみたいのです。あのフェニックスな日大を下した関学なだけに強そうだけれど体格に勝る社会人。巨大な選手でラッシュをかけて大差で勝利となるかなどーかな。いずれにしても行くぞ再び東京ドーム。


【12月18日】 漫才の1等賞を決めるテレビ番組が放送されていたんだけれども、去年までやってた「M−1グランプリ」に比べてどこか緊張感がなかったりするのは何だろう、やっぱり積み上げてきた年月から醸し出される、それを獲得すれば漫才師にとって大変だというドラマがまだ番組に生まれていなくって、1等賞に誰かがなることへの見る側の集中が、どこかに欠けていたりするからなんだろうか。あと漫才をやっている途中になぜかキャバい姉ちゃんばかりの観客席とか、笑い転げるだけのゲストなんかの顔が抜かれて、寄席とかで真正面に漫才師を見てその一挙手一投足から笑いを感じ取るという気分を、減殺してくれているからなのかもしれない。

 それは過去の漫才の放送でもなかった訳じゃあないけれど、あまりに度重なるのはやっぱり興ざめ。ましてや途中のリプレイで画面を4分割して、そこにゲストの反応と、それから観客の反応をいっしょくたに出して、そういうものも含めて漫才なんだという雰囲気を出そうとしていたのも気になった。漫才って本来は漫才師のものであってそれを見る個人個人の観客のものでもあって、周辺の誰かの反応というのは二の次三の次、後日に聞いてなんだ自分と同じだったんだと思えばそれで済むものだったはずなのに、今はそういう反応も含めてコンテンツだという意識が高まり中継があって実況も乗ってといった感じの仕組みが増えている。それがなくちゃあダメだといった雰囲気もある。書籍にコメントを付けるとか。何だかなあ。

 リアルタイムで情報が飛び交う時代に、そういう見方が出てくるのももちろん当然で不思議じゃない、悪いことでもないんだけれども、でもそうなる以前に漫才なり、コンテンツそのものの品質があったからこそ、周囲で歓談し反応を示して盛り上がるってことの意味もあったし、価値もあった。でもやがてそうした反応も含めてコンテンツだとなった時、中心になるべきコンテンツそのものにどこか減殺される部分というのが出てきはしないかというのが目下の不安。反応を取り入れ共に盛り上がるっておいうより、どこか力を殺いで流して落ちついてしまうといった。それでも反応があれば面白いから受けて、けれども受けていられる期間の短さもあってすぐに忘れ去られてという。それはやっぱりもったいない。全力で演じ見せ全力で受け評する。その対峙だけはなくしちゃいけないんだけれど、便利な仕組みは易きに人を流すからなあ。注意して見守りたい。

 一昨日はそーれでシンプルなそーれスパを食べ、昨日はあんかけ亭で卵焼きがベースのミックスを食べてどっちもどっちといった感じがった今日は、名古屋駅のチャオでもってウインナーとベーコンが主体のミラネーズを食べて味がちょっとあんかけスパに近づく。元祖だか発祥だかのそーれが劣っているって訳じゃないけれど、味のスパイシーさでは何だかチャオの方が上で、あと麺がちゃんと熱くってふうふういいながら食べた感じにボリューム感が増された感じ。B級飯をかっくらってる感じがした。折角だから明日は本家だか家元だかのヨコイに行って名物のミラカンで名古屋あんかけスパ巡りを締めるとするかどうしようか。サヴァランはまた行けそうもないなあ。

 そしてはるばる来たぜ知多武豊。駅を降りたらそこには金色の馬にまたがった金色の武豊騎手が、ってことはないしそもそもが読みが「たけゆたか」ではなく「たけとよ」。古さでいうならこっちの方が断然古いんだけれど全国的にはやっぱり「たけゆたか」なんだろうなあ。愛知県出身でなくて良かったんじゃないかなあ武豊騎手は。でもって駅を降りたらそこには何もないというか、スーパーとコンビニはあるけれども飲食店の類はないという郊外からさらに遠方へと出た感じの雰囲気。東京近郊でも総武線を成田方面まで行けばこういった感じの風景も出てくるけれども愛知県では特急で駅を3つも過ぎればこんな感じ。余計なこととか考えなくて夜になれば家にこもってすごせるいい場所、なのかもしれないなあ。

 駅から歩いてだいたい15分? 相対性理論の「ミス・パラレルワールド」を3回くらい回して聞いていると到着できる距離は案外に近いといったところ。地図って見慣れてないと遠く感じるけれども歩けばそうでもないのだと、思えるのはまだいろいろ歩いているからかなあ。すぐタクシーな人には200メートルだって長距離だから。そんなこんなで到着した武豊は「ゆめたろうプラザ」での「武豊アニメーションフェスティバル12」は何か訳あって今回が最後ということで、今ほどまだインディペンデントのアニメーションが注目されていない時期、あってせいぜいがかまたゆたかさんのDoGAがやってた「CGアニメーションコンテスト」くらいな時に若いアニメーション作家の作品を集めてそれも首都圏ではなく地域で上映してみせるという試みは、確実に地域にアニメーションのファンを増やしクリエーターを生みだしたんではなかろーか。

 なるほど今ならネットを通して作品を自由に公開できて、それも世界に向けて発信できてしまったりするから地方へと作品を持っていって見て貰うとか、逆に地方まで足を運んで見ようとする人も少なくなっているかもしれないけれど、すべての作品がネットに上がる訳でもないし、ネットで見るから楽しいという訳でもない。今回帰省の時期を開催に会わせまで見に行ったように植草航さんの「やさしいマーチ」なんかは東京芸大院の卒業制作品を集めたDVDに収録されていてもそれは上映されるものとはちょっと違う。作者がそれを意図して作った相対性理論の「ミス・パラレルワールド」が楽曲としてかかっていないから、見ていて「ミス・パラレルワールド」の歌詞や音楽とシンクロして動く映像の面白さを存分には味わえない。

 たぶんネットでも配信はされないそのバージョンを見られる上映会はやっぱり貴重だし、自分の好みや情報の範囲だけで集められる作品と違ってキュレーションを担当する人のセンスとそれから視野を頼りに新しい作品と出合える機会にもなる。ネットだって可能なことではあるけれど、やっぱり行ってその場で見せられることによって意識が前へと向かう。ネットではどこか流されてしまう。あとはやっぱり人と人とのコミュニケーションが生まれることか。クリエーター同士の興隆が切磋琢磨を生むこともあるかもしれないし、ファンとの出合いが新しい意欲を与えるかもしれない。そんなリアルな場が、それも地方という貴重過ぎる場がひとつ、減ってしまうことは大いに損失だけれど仕方がない。せめて新しく若い人が名古屋市内で始めるらしいシアターカフェへと受け継がれ、そこでの出会いが新しい作品と、クリエーターと、ファンを生みだしてくれれば重畳。そうした活動が底辺を作り厚みを増して世界へと広がるのだから。

 さて作品はといえばやっぱり見入ってしまった植草航さん「やさしいマーチ」。音楽が正しいバージョンなら破壊力は1億倍なんだけれど単純に絵だけみても少女の表情とか仕草にひそみめいたもの、驚きめいたものがちゃんとしっかり描かれているのがわかって表現力の確かさってものを見せつけられた印象。平べったい絵がただよく動くんじゃないんだ。だからこそあの歌詞とシンクロする意味もあるってことで文化庁メディア芸術祭は新人賞の作品上映で絶対に「ミス・パラレルワールド」が流れるバージョンを使うこと。審査員はそれでちゃんと審査したのかが今はちょっと不思議なんだけれど。見れば絶賛以外の言葉は出ないのになあ。うん。そんな植草さんの繊細さに似ていたのがオープニングを手がけた井上幸次郎さんって人。名古屋芸術大学を今年春に卒業したらしいけれども今、何をやっているんだろう。相当にデキそうな人っぽいのでその名に注目。22日から名古屋シネマテークで開幕の「名古屋アニメーションルネサンス」に作品が出るみたいなんで名古屋の人は行け。

 卒業した人が何をやって喰うかは大切なところで、新海誠さんだってゲーム会社でオープニングとか作りながらいろいろと自分のアニメを作っていたりしたわけで、そうやってあの繊細にして詩的な世界を作り上げた新海誠さんのビジュアルを、流して自分こそがとアピールしておいてそうじゃなんだと自分で落とした自虐っぷりにまずは笑ったのが新海岳人さんという地元は半田市出身のアニメーション作家。半田小学校半田中学校と半田どっぷりがなぜか半田大学には行かず(そんなのはない)に愛知県立芸術大学に行って上にいしづかあつこさんを仰ぎ見ながら鍛えられたかどうなのか、作りだした作品はいしづかさんのような繊細さとは正反対の、デザインされている一方であまり動かない絵をバックに楽しい会話劇で見せるといったもの。それで評判になりながらも普通に就職してあのパナソニックでCMを作っていたというからお前はどこの島耕作だ。いや彼はクリエーターではないか。

 ともあれ凄い経歴を持ちながらもやっぱり自分の作品を作りたいと考え仕事のかたわらNHKで仕事をし、テレビ瀬戸内で仕事をし、名古屋テレビで仕事をしていたらそりゃあ忙しさもバカにならない。もはや手も足も回らなくなったんだろうか、天下のパナソニックを退社してフリーになっては作品作りにいまはいそしんでいるというからやっぱり凄い。才能があればそれで食べていけるのだ。そして前と代わらない年収を得られるのだ。羨ましいなあ。でもだめだ、僕たちには新海岳人さんのような才能はない。プードルに「プッ」とおならをさせるアイデアをベースにアニメを作るなんて無理だ。中日ドラゴンズにいそうな名前の5人の中学生を主人公に50秒のアニメを200日間、作り続けるなんてとうてい無理だ。その「かよえ! チュー学」は見れば笑いがあってばかばかしさがあって楽しい楽しい。東京でだって放送されて存分に通用しそうだけれどもそれをやるとは思えないからなあ、プライドの高いキー局が。いっそ関東ローカルの独立局相手にセールスとかやってくれないかなあ。東京国際アニメフェアのクリエイターズワールドに出るみたいなんでそこで目をかけられ、番組を買われて全国ネットへ。期待したいなあ。


【12月17日】 ああだめだやっぱり限定品には目が向かう目が移る目が目が乗る目が刺さる。トイズフィールドって大塚勝俊さんという人形造形師の人がずっと作り続けているクマのフルアクションぬいぐるみがあるんだけれどそれが何と世界的な日本のジーンズブランド「EDWIN」とのコラボレーションクマを発売。イメージキャラクターとしては今年の始めっから原宿あたりに看板も出たり紙袋が作られたりして人々の目にはさらされていたんだけれど、その精緻さその特殊さからいったいいつ頃出るんだ、それはどれくらいの値段になるんだと、怯えつつ期待もしていた人が多かった。例えば3万円とか5万円とか。そして全世界で50体とか。

 でもっていよいよ予約がスタートとなった「EDWIN×ToysField」は全身をジーンズで包まれている上に被っている帽子もしっかりジーンズで持ってるバッグはレザーのパッチというジーンズ仕様。それでいて表情はしっかりトイズフィールドらしさが溢れていてかわいくってそれが全身をぐりぐり動かしポーズをつけて飾れるっていうからファンにはもうたまらない1品。それは従来からのファンにもだし、クマのぬいぐるみ系を集めている人ももちろん、エドウインというジーンズブランドのファンにとってもエポックメイキングな品となりそう。だってこんな人形、ほかにないから。

 本当だったら3万円とかして不思議のないクオリティを持ちながら、1万8900円と2万円すら切る価格で出してみたりと超大盤振る舞いに、これはやっぱり抑えておくべきなんじゃないかと手がパソコンのキーボードに伸び、指がクリックへと向かったりしてもう大変。まあ仕方がない、かわいいから。世界で503体が多いのかどうかは分からないけれど、エドウインの看板ともいえる503にちなんだ本数なだけに世界に散らばる503の愛好家がこぞって買ったりするのかな。リーバイス党で501とか502とかには心靡いてもエドウインにはちょい、遠慮していた身ではあるけれどこれを機会に1本くらいはいてみて、そしてクマといっしょに記念撮影としゃれ込むか。

見よこの派手で奥深く乱雑でまとまった不思議なテイストを。まとえば身もしまり解放感も生まれる不思議さを味わいたまえ  名古屋にいるなら岐阜も近いと久々に、それこそ20年ぶりくらいに岐阜県美術館へと行ってルドンでも見ようかとJRの岐阜駅まで行ってそこから1時間に1本しかないバスに乗って到着した岐阜県美術館は改装中で所蔵作品が見られないというオチ。まあ仕方がない。時折東京でも開かれるルドンとか見ていたから良いけれどもやっぱりあの静謐な空間で人気のないなかをじっくりと見たかったかも。その代わりにやってた岐阜県にちなんだ作家の作品とかを見物。聞いたことある人ない人の作品がわんさか。まあ面白いかな。展覧会の審査員をやっていたのか奥村土牛の黒い牛の絵とかがあってこれが超立派。流石。あとは熊谷森一とか。単純化された構図に染みる人間ドラマ、っていった絵だった。山本芳翠はやっぱりエロかった。結構いるなあ岐阜。

 街の外れにあって平べったい建物で前庭が芝生でこぢんまりとしながらゆったりとしている感じが好きな岐阜県美術館。今はどうやらリニューアル中で外もなかもいろいろといじってた。20数年前に幾たびに見て感嘆していたポモドーロの巨大な円盤状の彫刻と、バンジの原始人みたな顔をした人物の彫刻が見あたらなかったけれどもどーしたんだろう、仕舞われてしまったのかな。いつか名古屋でゆったりとする時間があったらまた行こう。そう遠くない時期に実現するかもなあ、もう不景気でやることもなくって未来も暗澹としている状況なだけに、すっぱりと足を洗って晴耕雨読って決め込みたい気分が満載なだけに。嘘じゃなく。冗談でもなく。

 かといて手に職があるわけでもあにのが辛いところ。そんな自分に反してちゃんと作品を作って売ってるクラフト系の人たちが、軒を並べているJR岐阜駅の3階にあるスペースを訪ねて前にキャラホビの出展とか、ドールショウの出展で知り合った「MORE THAN HOMAN」ってアートブランドのショップをのぞく。服なり靴なり玩具なりを素材にしながらそれに徹底したペイントをほどこすオリジナルのアートは描かれる紋様の細かさ色彩の時に豊かで時にシンプルな使いっぷりが格好良くって、ファンになったけれどもイベントではフィギュアくらいしか並べてなくって価格も応相談。普通にショップで売ってるTシャツとか靴とか上着とかグッズといったものにはお目にかかっていなかっただけに、帰省とそして岐阜県美術館見物のついでに、というよりむしろこちらを本命にしてショップを訪ねてみた次第。

ピカー! いつもより余計に輝いていますピカー!  いやあやっぱりスタイリッシュで格好いいは。ちょうど前の日に愛知県美術館でもってジャクソン・ポロックの展覧会を見たばかりで、内なる狂気を紋様に載せて描きつつもそこに美意識というガードをつくって押しとどめ、作品としてしっかりとしたものにまとめあげる大変さを感じたんだけれどそれと同じような熱意ってものが、MORE THAN HOMANの品々からも漂ってきていた。Tシャツとかカラフルでポロックっぽくってホント格好いい。未来のポロックだとしたら手描きの1点もののそれらが1万とか2万といった値段で帰るんだからもう大盤振る舞い。そうでなくても純粋に服として格好いいのが多かったけれども今のユルんだ体ではどうしようもない。着るために痩せる。そう誓った冬。

 せっかくだからとニットキャップを買ってそれから外に出たら青空の下に金色の織田信長が輝いていた。これはつまりゲームの「ポケモン」と「信長の野望」とがコラボレーションを発表したのを記念して、信長がピカチュウさながらに輝いてみましたって現れなのか違うのか。なるほど岐阜は織田信長が居城にした街ではあるけれどもやっぱり信長の印象が強いのは清洲であり名古屋で、岐阜なら斎藤道三くらいを飾ってほしかったけれどもマムシの道三ではやっぱりちょっと印象が。かといって信長でも金色にする必要はあったかな。目立つか。うんそれ大事。やっぱり信長は目立ちたがりだものなあ。

 電車に乗って名古屋にとって返してヤマダ電器とかのぞいたらまだ「PS Vita」が普通に売ってた。新しいハードは発売初日に品切れになるのが普通って経験をずとしていただけにこのユルさは何だろうと近寄って構成とかみて納得、ゲームをするのにゲームのソフトとはまた別に、メモリーカードがいるんだけれどそれが専用な上に値段が高い高い。4ギガですら2000円近くするし32ギガにいたっては1万円近い値段。街でSDカードがいくらで売っているかを考えると、たとえ専用にしなければスピードとか記録とかで齟齬が生じるとはいっても、やっぱりちょっとユーザー気分として乗れはしない。

 仮に乗ったとしていったいどれだけの楽しみがそこにあるのか。iPad2の軽快な便利さを超える楽しみがあるのか、なんて考えた時にちょっとこれはと二の足を踏んでしまう人がいるのも分からないでもない。あとデカいんだ。どーしてこんなデカいのを持って歩かないといけないんだろう、って気にさせられそう。それを言うならiPad2だってデカいんだろうけどあれは薄いし軽いから。いったい誰のために出したハードかPS Vita。そしてそうした狙いはちゃんと成功をして思うところに突き刺さって行っているのか。様子見をしつつタイトル次第で買いに向かうかやっぱり否か。こんな迷うハードもちょっと久々かも、いやあったあったPSP Goってのがあった。あれも謎だったなあ。今どうなっているんだろうなあ。


【12月16日】 オレンジ色のニクい奴に挑発的な記事が載っててすわ“MATAKUBOKA”と思ったらそうでもないのは中身が至極まっとうだったから。クラブワールドカップで海外から来ているプレスに対するホスピタリティの最低っぷりを加部究さんが嘆いていて日本人として恥ずかしいとまで行っているのは去年まで行われていた中東での開催でのホスピタリティが抜群だったからなんだろー。

 そりゃオイルマネーで潤っている国とはいってもそのGDPの規模ならやっぱり日本の方がはるか上。けど遠い遠い島国まで来て取材して報じてくれるプレスに対してスポンサーのトヨタとかがどーしておもてなしをして大会のイメージ、ひいてはスポンサーのイメージをもり立てよーとしないのかが分からない。それとも断っているのか協会とかが。

 それでも良い試合が良い環境で見られるんだったらプレスだって満足するだろうけれど、会場が日本で最低のサッカー観戦環境とも呼ばれている横浜国際競技場こと日産スタジアムだから加部さんも怒り心頭。「陸上競技場で、スタンドとピッチの距離が極端に遠いことに加えて、観客席の傾斜も緩いので、遠方から平面に近い試合を眺めることになる」という指摘はたしかにその通りで、観客席の最前列がフクダ電子アリーナの最後列だとゆーのはつとに知られた話でもある。

 収容規模がフクアリの3倍だからといってもそれは無関係、埼玉スタジアム2002はピッチが近くで収容は6万近く。やればそういう場所だってやれるのにわざわざ日産を選ぶんだからセンスがない。まああの埼玉の奥地に来てもらうってのも選手には大変かもしれないけれど。ショッピングセンターしかないからなあ。でも「世界でも類を見ないほど観戦環境が悪い」スタジアムでやるよりはマシか。なんかすごい言い様。

 でもこれは加部さんに限った意見ではない。カメラマンの六川則夫さんも「エルゴラッソ」の連載コラム「見たまま、撮ったまま」で日産スタジアムについて「横浜国際競技場は決勝の場にふさわしくない」と断じていたりする。スタンドからではなくピッチのすぐそばから試合を見ているカメラマンの人にスタジアムの座席の傾斜とか、ピッチからの遠さはあんまり関係がないように思うんだけれど、豊田スタジアムには屋根があってこの寒波も激しい12月に試合をしなくちゃならない選手たちにとってもカメラマンにとっても、見に来る観客にとっても実に嬉しい。

 これが日産スタジアムだとだたっぴろい上に屋根もぱっくり空いているからもう寒いんだ。とてつもなく寒いんだよ。そんな中をよく自分もトヨタカップ時代から何度か行ったもんだと我ながら感心。あとはやっぱり空間が醸し出す雰囲気ってことなのか。ピッチの広さは同じとはいえそこにいる選手達が見上げたスタンドから迫るように声援を飛ばすサポーターたちに答えようと、プレーも激しくなってないようも酷なる。そんな空気感も含めて写真に撮るのがカメラマン。吹きさらしのなかで遠くからの寂しい声なんてまるで耳に入らないまま漫然とプレーする姿はやっぱり絵にはならないのかもしれない。

 だいたいがトヨタがスポンサーをしているに、どーしてそのときばかりは冠が外れるとはいえ日産スタジアムで試合をしなくちゃならないんだ、ってのはトヨタカップの会場が日産スタジアムに移ってからずっとずっと言われていること。本当だったらオリンピックに向けて東京湾岸に巨大なスタジアムができてそこで、なんて計画もあるんだろうけれど、それが実現する可能性は今のところ極薄だしなあ。かといって埼玉でも寒さ問題は解決しない。ならば本社のお膝元にあって、巨大でそして立派な専用球技場の豊田スタジアムでこそ決勝を繰り広げ、集まった観客の声を天井に響かせてやって欲しいもの。それがなくっちゃいつまでも、サッカーを見る文化の成熟は望めないぞ。

 せっかくだからと名古屋まで来たんで久々にそーれってあんかけスパゲッティの店に行ったら前にあったCBCの裏手から栄寄りに移ってきていてメニューも昔のよーなパンチがちょっぴり薄れていたような印象。ヨコイの喧騒ほどじゃなかったけれど、それでも食堂っぽさがあったのがどうも場所が移って上品さが出低待った感じでメニューもどっちゃりって感じからやや遠ざかってた。前からこうだったっけ。でも1半にしなくっても食いでがあったよなあ、昔は。せっかくだから滞在中にはヨコイものぞいてみて食べ比べよう。

 そこから歩いて愛知県立美術館でジャクソン・ポロックの展覧会。印象として足で筆でも持ってちゃらちゃらちゃらっと描いたような絵の人って思われがちだけれどもとんでもなくって昔はしっかり具象の絵を描きピカソかミロといった抽象表現を経た果てに、あの絵の具を走らせ上から滴らせて描く技法を編み出して、その絵でもって世に大きく名を問うた。なるほど混沌ただひたすらに混沌といった赴きだけれど見ていればそんな混沌を、描き手がギリギリの精神で統御して画面にひとつのリズム、あるいは調和、それとも構造をもたらしているんじゃないか、ってことが伺える。

 ただ塗りたくりただ線を走らせたところでそこに出来上がるのかただの色の反乱であり線の混乱。決して見る人を嬉しがらせはしない。あるいはむき出しにされた描き手の心のカオスがそのまま現れて見る人を辟易とさせる。ポロックの場合はそうした描き手としての心のカオスをそこに見せようとしながらも、ぎりぎりのところで踏みとどまって絵を描く、構成を描く、作品を描くことに腐心をしたように感じられる。あの1本の線がどんな効果をもたらすか。ここのこの色の塗りたくりが全体にどんなコントラストをもたらすか。分かってなければきっとああは描けない。

 野生に取り込まれ無意識に筆を走らせ色を落とすのではないギリギリの理性。けれども爆発的な野生を統御しなくてはならない神経はすり減りいつか破れて体を蝕みそしてポロックも闇に落ち、半ば自死ともいえる最後を迎える。狂気を飼い慣らさなくてはいけないアーティストにとってそれは避けられないことなのかもしれないけれど、どこかで妥協をすればまだまだあるいは作品が生まれたかもしれないと思うと残念な話。否、それではポロックではなくなるとうのならむしろ逆に破綻を統御するのではなく、統制を破砕することによって生まれる開放感をこそ、作品にすべきだったのかもしれない。

 たとえば東洋の書なんて、文字という決まった形、統制の枠組みを個々のイマジネーションによって破砕して不思議な、けれどもどこかに芯をもった作品へと仕立て上げる。闇を飼い慣らすのではなく光を弾けさせるというアプローチ。それなら精神は蝕まれないで済みそうだけれどそれであの、ポロックらしさが生まれるかとうとそれはちょっと不明。とはいえ最後の黒だけで描かれた作品なんか、書とか水墨画にだって見えたりもした。それならばどこかに結節点はあり、融合なり逆転も可能だったかもしれない。そう導く人がいたら、あるいはアメリカ現代絵画の歴史はさらに豊穣なものとなっていたか。興味あるところ。東京にも来るみたいなんでそしたらまた行こう。


【12月15日】 織田信長が最後の晩餐に何を望むのか、なんて想像するとやっぱり隙だった南蛮から鴨南蛮か鳥南蛮を所望する、ってことはたぶんなくって故郷は名古屋の八丁味噌がどっぷり載ったご飯をかき込んでごちそうさまでしたといって腹をかっさばいたかなあ。そして広がる味噌の香り。いずれにしても現実にはかなわなかったそんな夢を、かなえてくれるレストランってのがあるらしいって教えてくれたのが藤栄道彦さんの「最後のレストラン」(新潮社)って本。本能寺で敵に囲まれもうこれまでとなった信長が、ふと気が付くとそこは現代のレストラン。というかレストラン側からすればいきなり入ってきた甲冑姿の男達女達。何者だって聞くと信長だって言う。

 それは映画のロケか何かかと信じることはしないオーナーシェフだったけれども相手は血刀持った本物の武士。その迫力に何かを作ろうとしてそして一考を案じて信長の希望を大いに満たす。もちろん根がおおらかな信長のこと、精いっぱいに努力したものなら何だって巧いといったらしいんだけれど、頑張ったシェフの底は浅いけれども相手を思った対応にはいたく感心した様子。愛刀の備前長船を置いて燃えさかる本能寺へと戻っていく。死に際は果たして満足だったか否か。いずれにしてもちょっとの猶予で自分が何をしてきたかを振り返り、光秀を思いそしてみんなを思って逝ける信長の度量がちゃんと描かれているのが面白い。対してシェフはいつもあせあせ。その差異から偉人の偉人っぷりを楽しむ漫画でもありそう。

 この後にはあのマリー・アントワネットが出てきて断頭台へと登る直前の料理を食べ、ユリウス・カエサルが出てきてブルータスに裏切られて切られる寸前の料理を食べ、そして坂本龍馬が襲われ切られる手前の料理を食らう。いずれも戻れば待つのは死なんだけれどもそこを曲げずちゃんと元の世界に戻っていくのも諦観を得た偉人ならではか。いや龍馬はちょっぴり慌てていたけど現代にちゃんとデモクラシーが行き渡っているのを見て感動して戻っていった。未来を思い描くものにとって夢がかなっていることが1番の満足だったってことなのか。問題はだからジャンヌ・ダルクか。若いお嬢ちゃんでも戻れば火あぶり。それでも果たして帰すのか。帰ってしまうのか。そんなあたりも気にして読もう。いや連載ですでに分かっちゃいるんだろうけれど。

 初期の頃は初台でしょんぼりと開かれていたんだけれどもいつの間にか会場を東京都写真美術館を経て国立新美術館へと移して大々的に開かれるようになっていた「文化庁メディア芸術祭」。それはつまりその間にメディア芸術っていうか漫画にアニメーションにゲームといった新しい表現と、それからメディアアートと呼ばれる分野への世間の感心が高まり、文化的のみならず経済的社会的政治的な価値も高まっていったってことの現れて、いずれそうなれば良いなあと思っていた身にはただただ嬉しい限り。ネットが発達した今は受賞作への注目も篦棒なだけに、もっとはやくそうなってくれたらあの作品もあの作品も、世間にもっともっと広まったんじゃないかといった気すら浮かぶ。

 一方でそうしたお役人たちが反権力っぽさの漂うサブカルチャーを表彰することに取り込みっぽい意図を感じて眉を潜めていた時期もあったけれど、いつかの回で堀井雄二さんが受賞を喜ぶコメントを出したのを聞いて、何であっても認めてもらえることはクリエーターにとっては嬉しいことなんだと理解し、受け手に過ぎないファンとしてはだからクリエーターの満足を促す文化庁メディア芸術祭を割と良い物ではないかって気分で受け止めていたりする。とりわけ今年はアニメーション部門の大賞が、あの「魔法少女まどか☆マギカ」に決定。映画の受賞がやっぱり多くなってテレビシリーズは去年の「四畳半神話大系」が最初だっただけに2年連続ってことはないかもって気もしたけれど、そこは作品単位で判断する審査委員の人たち。山村浩二さんの「マイブリッジの糸」と接戦があったみたいだけれど、今年という時代に生まれたこの作品を選んで堂々の賞に序した。素晴らしいなあ。

 毎日映画コンクールにその中の大藤信郎賞、あるいは報知映画賞とか日刊スポーツ映画賞とか日本アカデミー賞といった賞があってそこでアニメーションが表彰されることもあったりなかったりするけれど、いずれにしたって対象となるのは映画でテレビシリーズが選ばれることはなかった。あるとしたら東京国際アニメーションにおいける東京アニメアワードくらいだけれどもこちらもやっぱり映画が強くてテレビシリーズは過去に「機動戦士ガンダムSEED」があってあと、テレビ部門があった時代に「花田少年史」が取っていたってことがあるくらい。並み居る映画を抑えてテレビシリーズが輝くアニメの賞の少なさを思うと、全部がイーブンな中で議論される文化庁メディア芸術祭で2年続けてテレビシリーズが選ばれたことに、この賞の確かさめいたものを感じそしてテレビシリーズの強さってものを感じたりする。

 もちろん映画が劣っていたってことじゃあないんだろうけれど、ノミネートがなければ与えられないように大作人気作が応募がなかったのか入らなかった状況下で、力作であった「鬼神伝」ではあってもやっぱり物語上でどこか曖昧さもあって優秀賞に収まったのもしかたがない。ならば「マイブリッジの糸」かというとこれは文化庁メディア芸術祭に限らずあらゆるアニメーションフェスティバルにおいて上位を争い確実に世間に知られる作品。そこのあたりを勘案し、メディア芸術という冠を付けた賞において相応しさを考えた時に深夜アニメという枠組みとオリジナル企画という特殊さ、そして何より爆発的な人気ぶりと何よりその完成度から「魔法少女まどか☆マギカ」に賞が贈られてこれは当然といったことになりそー。まったくもって良い選考だった。

 優秀賞に沖浦啓之の「ももへの手紙」が入っていることに違和感を覚えている人もいたりするみたいだけれどもかつて今敏監督の「千年女優」が公開を半年も前にしてこの文化庁メディア芸術祭で、あの「千と千尋の神隠し」と並んで大賞を受賞したこともあって、レギュレーションとして完成していれば応募が可能で、優れていれば賞が与えられると知っていればそこに何の作意も感じない。むしろ公開に向けて何としてでも大勢に見て貰いたい、そのためには何かの賞が必要だという作り手側の思いが直に現れた行為だともいえそうで、それにちゃんと答えが与えられたんだとここはやっぱり喜ぶべきなんだろう。見ればなるほど動きも凄いし内容もすごそうだけれど、そこまで行くのが今は大変。あの「コクリコ坂から」だって50億円に届かなかった時代に沖浦監督の第2作、ってだけで客はやっぱり来ないのだ。露出をこれからしっかりやって、一気に知名度を上げて欲しいもの。祈ってます。

 アニメーション部門ではあと新人賞があって、というか今年から奨励賞ではなく新人賞を作って3人を紹介できるようにしたとかで、そこに外国の1人とあと植草航さんの「やさしいマーチ」とそれから石田祐康さんお「rain town」が入っていたのが良かった良かった素晴らしかった。審査委員に入っている杉井ギサブローさんは教えている学校の卒業生でもある石田さんの「フミコの告白」は評価しても「rain town」はどうかなって感じだったけれども前とは違ってしっとりと、そしてしっかりと世界を語っている作品だっただけにあるいは杉井さんと通じるところもあったりして、そこを感じて身を引きつつ、身を乗り出してみせたのか。京都精華大学の卒業制作DVDをデザインフェスタで貰ったんでそれに収録してある「rain town」を帰って見直して祝そう。

 一方の「やさしいマーチ」はICAFで見て相対性理論の「ミス・パワレルワールド」とのシンクロ具合が凄まじく、いっぺんでファンになったんだけれど発表会で上映されたのはDVDバージョン。まるで違ったイメージになるのが不思議だけれども意図したのはPVだった訳なんでここはやっぱり「ミス・パラレルワールド」版を見たいし芸術祭の上映でも見せて欲しい。そこに1つの才能があって、業界から引っ張りだこになる可能性があるわけだから。どーなるかなー。とりあえず日曜日に愛知県武豊でもって武豊アニメーションフィルムフェスティバルが開かれて、そこで「マイブリッジの糸」とならんで植草さんの「やさしいマーチ」も上映される予定。それが「ミス・パラレルワールド」版だったら心で小躍りして眺めるよ。違ったらうーん、録音していったiPadで再生しながら見るかどーしよーか。


【12月14日】 ずっと試合。延々と試合。向かい合ってかるたをとり続けるシーンがただひたすら流されるだけなのにそれが緊張感もあれば奥行き感もあって見ていてぐいぐいっと引き込まれるアニメーション版「ちはやふる」。まだこの時は羽織袴の格好で試合に出ていて目立ちはしても苦労はしていないみたいだけれどもここから近江八幡宮へと行って、臨んだ試合で暑さにやられて千早がぶっ倒れることで、大江奏さん念願だった羽織袴で通し続けることが出来なくなるとは大江奏さんはまだこの時は知らなかったというか。

 これで全国に行って千早はクイーンと対戦するんだったっけ。どうだったっけ。漫画の方では団体戦で全国優勝してさあ個人戦だけれど突き指の問題とかあるしどうなったのかが分からないけど連載は読まずに単行本でしっかりフォロー。まあバレても気にしないけど。アニメの方は残る話数で全国へと行って詩暢ちゃんの登場となって千早がこてんぱんにやられてさあリベンジといったところで引き。そして続く第2期をお楽しみにってことになるんだろうけれどもそーゆーのってもう、決まっているんだろうか。スタジオのマッドハウスにいろいろあってスタッフだって三々五々に四分五裂な状況で今のクオリティーを保ったまま第2期を作れるのか。作って欲しいけどこればっかりはなあ。さてどーなる。

 欲しかったポポビッチ監督はFC東京入りが噂されているんだっけどーだったっけ。そしてペトロビッチ監督の良かった方は今いちだった方のペトロビッチ監督が抜けた浦和レッドダイヤモンズ入りが決まったらしくってあの攻撃的にして躍動感あるサッカーは関東でもそーしたチームへと受け継がれ、かつてそれをお家芸としていた我らがジェフユナイテッド市原・千葉には戻ってきそうもないのが今のところの悩み苦しくって悶えるところ。どーしてさっさと後任監督を決めて来年への期待感を持たせないんだろー。それとも今はギリギリまで交渉をして素晴らしい監督を呼んできてくれる予定を立てているんだろーか。いやそれで過去に期待をしながら外されまくった経験が、期待するだけ損だと告げている。虚心坦懐臥薪嘗胆。今は期待せず嘆きもしないでフラットに打つ手を見守ろう。ボスニアリーグでリーグ首位を走るチームを作り上げた長身の監督なんてどーよ。マジどーよ。

 いやあさすがに鶏冠頭のネイマールやらガンソといったセレソンの現役がいたりするサントス相手では去年のJ2首位のチームでは荷が重かったか、ってそりゃ今年のJ1で1位の柏レイソルのことだ。リーグでは強さを発揮しまくったチームでも相手が大きく格上になるとやっぱり蹂躙されるっていうか、ひどく押されまくったってことではなくってゴール前での一瞬の動きで置き去りにされ隙をつかれて点を決められたって感じでそれ以外では互角、とまではいかなくっても大きく差をつけられるってことはなかった。中2日での疲れが招いた終盤の集中力の途切れがこーした結果を呼んだのか。ベストの状態で戦わせてあげたかったなあ。それでも1矢報いてネルシーニョ監督の存在感も見せられたか。本国へと戻っていずれはセレソン、なんて頭はあるのかな。無理かなあ。それを思うとレオンってやっぱり凄かったんだなあ。あれでちゃんとセレソン率いてたんだから。ドゥンガはさらに凄いか。

 いやあすごい。やっぱりプロってすごいなあと、とある声優さんの収録というか、まだ声優にすらなっていない素人さんがオーディションで合格してその声を入れるイベントの現場に立ち会ってそこで、音響監督さんがどんな指示を出すのか聞いてて強く思った。相手は素人な訳だけれどもそこに一切の容赦はない。なぜって1つの作品を作っている分けでそこに合うか合わないか、使えるかどうかだけが判断基準で使えないならガヤに紛れさせてそれでも一応は出ましたといった結果を付けるだけのことなんだけれど、そうならないのだったらどういう声を求めているのかを的確に指示して、それを得られるようにする。例えば学校でリーダーを決めようとしたシーンで1人の名前を叫ぶセリフを担当させて、その声がちょっぴり野次っぽくなってしまった時、そう監督から聞いたら即座に「希望を入れよう」とブースの中に声をかけ、言葉に未来への期待を入れるように指示を出す。

 聞いた方もそれなら何となく分かると声に気持ちを込められる。ニュアンスを言葉にするのってとっても難しいはずなのに、それを的確に決めてくるところに音響監督って人の思考力の高さ、判断力の速さが見て取れた。と同時にそうした意見に対してすぐさま反応してみせた今はまだ素人な声優志望者の人もやぱり凄かった。もう1秒あるかないかのタイミングで、指示を受けそれを言葉に載せて発していく。大きくずれればはいそれまでよ。そんな切迫した気持ちと戦いながら、使える範囲内での試行錯誤から数度で使える声を作りだしてみせた凄さを目の当たりにすると、声の仕事っていいなあ、楽しそうだなあ、なんて安易にはもはや考えられなくなる。鳴き声とか難しいのを数度でオッケーにして、幾つか有るセリフのどれが1番重要かを聞かれて即座に正解を答えてみせた人もして、やっぱり目指す人はちゃんと持っていると理解した次第。いずれ老後の嗜みに声のお仕事をなんて安閑とした考えは捨て、今からレッスンを重ねトレーニングを積んで目指そう50歳での声優デビュー。マジで。

 その新聞って確か沖縄の酒席で基地の問題を話した役人の言葉を、オフレコなのに破って書いた記者と新聞社を卑怯だと1面コラムで堂々と非難してたよななあ。どーしてその場で話し合って諌めるなり喧嘩しろとも書いてたっけ。けど大阪で大昔にあった事件では、犯人の父親が書くなと言ったことを持って帰って周囲の声を聞いて分かった書くとしつつも当の父親には通告とかせず、記事にしてそれを見て怒り心頭、約束を破ったと憤った父親が、1年後に記者と再会して怒りから叱ろうとした時、反論もせ反省もせずただ怖かったとだけ書いて当時を振り返る。まるで正反対のことを堂々と開陳してしまえるこの新聞の背骨っていったいどこにあるんだろー。まるで意味が分からないよ。

 あまつさえ何がいったい犯人の父親の怒りに触れたのかを、そのままって分けではないけれどもディテールが分かるくらいにはもう1度書いてみせたりする。もう阿呆かと。そのときに書いてしまったものは取り消しようがないけれどもすくなくとも、ネットもなかった時代に記事として残っても今見ることは難しく、その情報すらも忘れかけられていたところに、あらためて書いては記してそれをネットの上に定着させてしまう。恥ずかしかった過去、誰かに迷惑をかけるかもしれないと公表を嫌がった過去を、そういう理由も添えつつ堂々と記してしまえる神経が、太いのかそれとも存在しないのかが分からない。そうした戸惑いも躊躇いも見せないでひたすらに、怖かったけど頑張ったと自画自賛してみせるスタンスが、主流となった新聞に正義はあるのか。正確性はあるのか。そこが多分大きな別れ面になるんだろう。地獄へと続く。天国へ行く? ないない有り得ない。


【12月13日】 っていうかあれだよなあ、週刊誌が長く使っていたライターをページがなくなったから切って次に仕事とかまるで全然回さないでいたらお金がなくなり生きていくのに辛くなったと自分で死を選んだら、そうした経緯を一切言わずに長く働いてくれてとっても良い人でしたって追悼記事を書くようなもので、残された家族がいたとしたらやっぱり腹立たしいことこの植えないだろうなあ。たとえそれが実力の問題だったとしても、そうしたことを言わずに過去を讃えてみせる。何様だって気分になるだろう。芸能リポーターが選んだ道のことを残念がり同情たっぷりに報道するワイドショーのスタンスに見える薄気味悪さ。信頼も下がるはずだよなあ。

 刊行ペースが速いのはそれが月刊ではなくって月2回刊での連載だからだっけどうだったっけ。その割には同じペースででている「イブニング」からの「もやしもん」とかあんまり単行本がでないけれどもこの場合は連載が時々載ってなかったり、それからページ数が少なかったりするケースがままあったりするからまとまるまでに時間がかかるってことなのか。描き直しもやっているだろうし。それはともあれ15巻がもうでた末次由紀さんの「ちはやふる」は高校かるた選手権での決勝で、巨乳顧問の下にズラリと並んだ強豪達を相手に瑞沢高校が挑んでも届かない苦渋の中、千早が指を怪我したらしいという描写があった14巻。

 そこから1度はごまかしたけれどもやっぱり怪我をしていたらしい状況に、自分も居たいけれども相手も同様し始めたところを生来の耳の良さでもって美しい声を出す読手の声をしっかり聞いて千早が連取連取でどうにかこうにか。長髪睫毛に机くんは敗れて1年生の筑波も相手をセカンドギアにまで入れながらやっぱり敗れて0勝2敗と後のない状況で、さあとやっぱり立ち上がって千早が耳の良い感じが良い山城を相手に戦い残る2人も戦ってそしてという展開に。2年も経たないでそこまで行ってしまえるのかという不思議さはあるけれども千早と太一と肉まんは、もとから東京でも強豪だった訳だからそこが頑張れば結果だって付いてくるってことだろー。

 そんな対戦を観ていたクイーンこと若宮詩暢ちゃんの心は果たして動いたか。誰といっしょにやるなんてことは大嫌い、自分1人が強いことが大事というあの歓声が騒ぎ喜ぶ団体戦の面々にいったい何を思ったか。むしろ怒って憤って個人戦でそうした団体戦から回ってきた面々を、圧倒して圧殺してみせるんだろうなあ。そんな果てに千早は来るのかどーなのか、ほら手とか怪我してたっぽいし。遠からずでるだろう16巻が待ち遠しい。あと3位決定戦はどーなったんだ。ヒョロくんたちの学校が抜けたのかそれとも恵夢たんのチームがまとまって抜けたのか。そんなあたりも気になるなあ、続きが。

 そして単行本がなかなかでないけれども少しづつでもあゆみのある石川雅之さんの「もやしもん」は水着審査の申請に速攻却下した蛍と西野さんだったけれどもそこは良からぬ企みを企てる樹教授が酒作りの室へと蛍と沢木と西野さんを引っ張り込んだ上に蛍に酒には大敵の枯草菌をたらしてそれを沢木に指摘させ、場から離れさせた上で西野さんを説得にかかる。何がいったいポイントなのか。西野さんもやっぱり同じように菌が見えたりするのか。そんな謎を抱えつつ一方で水着審査をどう乗り越えるかといった算段をめぐらせる沢木たち。そして帰ってきたあの後ろ姿は。次号でいよいよ決戦か。それにしてもお風呂に入っていても蛍はやっぱりかわいいなあ。沢木とか絶対ドキドキだぜ。

 犬vs猫、ってことで来年のアニメーション映画で細田守監督が「おおかみこどもの雨と雪」と公開すると発表。狼の霊が美少女の形になって青年を導くと入った話ではまるでないらしいけれども今までのSFとはやや違った幻想がかった話になりそうでこれならいっぱい女性や子供や大人も集められるってことになるのかな。真正面からジブリと戦える作品って印象。一方では杉井ギサブロー監督がますむらひろしさんの猫キャラクターによる宮沢賢治作品の「グスコーブドリの伝記」を映画化中でこれはもう「銀河鉄道の夜」の再来として大勢のファン層をぐっと引きつけっている。果たしてどちらがお客さんを集めるか。両方に集まって欲しいけれども今時の人って1本かぶりにしがちだからちょっと悩ましい。あと賞レースか。大藤信郎賞は「グスコーブドリの伝記」で日本アカデミー賞は「おおかみこどもの雨と雪」って感じ?


【12月12日】 何かの日。何の日だ。「Fate/Zero」はセイバーが説教食らってげしょげしょ。相手が何しろ大塚明夫さんでそれが間断なく雰囲気を壊さずタイミングを逃さないしゃべりでもって場をひたすらに繋いでいった果てに大盛り上げして、王とは何かを満天下に見せつけてしまっては、川澄綾子さん演じるセイバーでもて中身がアーサー王であってもただひたすらに聞き入るしかない。あれは1発撮りしたのかなあ。だとしたら凄い演技力だ大塚さん。酒を飲んでる場面での剽軽なところを持った雰囲気は「BLEACH」の京学春水さんに近かったんだけれどもいざ、王の姿となって屹立するともはやそれは無欠の王。他にない凛とした声を聞かせてくれるアニメとして何だか見逃せなくなってきた。

 その直前の「境界線上のホライゾン」は冒頭からミトツダイラさんが大暴れ。飛んできては鎖を売り回して地摺朱雀のパーツを巻きこみ叩きつけ、砲塔を呼び寄せては振り回して兵隊達の間に円状の空間を創り出すパワーとはやっぱり、特務にいる女性たちでは最高にして最強かもしれないなあ。直政は武神あってのパワーだしマルガにマルゴットはともに魔女で魔法少女だし。本多・二代もいるにはいるけどちょっぴりおばかな感じがあって、立花・宗茂に体面しては僕は友達が少ないと威張り(違う!)宗茂をあたふたさせている。とはいえそんな二代と口で自分が凄いと言い合う宗茂もなかなかのおばかさん。冷静さに振れまくった嫁とのコンビでちょうど間がとれるってことで。

 そんな二代にもましておばかっぷりが最近際だってきた感じの本多・正純だけれどその萌芽が見え始めた教皇総長インノケンティウスとの相対戦。こっちにこいと言わせてそれな行くといっては足をあげ、真下におろして3センチくらい進む牛歩っぷりに苛立ち怒る教皇総長。でもそこで逡巡せずそれなら待ってろこっちから行くと飛び出す教皇総長の判断の素早さはなかなかに感嘆物。それだからこそ上に立っていられるってことなんだろう。はあはあぜえぜえとした演技をちゃんと演じた中田譲治さん素晴らしい。同じ声で荒耶宗蓮とかやったらきっと剽軽なアニメになっただろうなあ「空の境界」シリーズも。

 若いとほんと、どこにだっていけそうな気がしてなにだって出来そうな気がして実際に行ったりやったりするんだけれど、それがふっと途切れてしまった時にじゃあ、次にどこかに行けるのか、何がが出来るのかって思ってどうだろうという疑問がちょっぴりでも浮かんでしまうと、人はもうそころから動けなくなってしまうものらしい。若い頃には外国を飛び回っていた芹沢晃という男。日本へと戻ってきて少し働いてからまた外国にでも行こうかと思っていたはずなのに、気が付くと勤め始めた遊園地でのアルバイト生活が長くなってそこから次に続く行動へと、なかなか踏み切れずにいた。

 お金はあるし荷物だってまとめてある。仕事自体にとりたてて未練もないならどうしてすぐにでも飛び立たないのか。それは想像するしかないけれど、そうやって飛び回って戻ってきたその次が、なかなか見えなかったんじゃなかろーか。離れて戻れるほど甘くはない世間の風に身をさらされて、震えてすくんでしまった心が身を縛り、それでもいつだっていけるさという言い訳をしてその日その日をすごしていく。そんな心境。芹沢晃の場合はそれに加えて、口では子供なんて大嫌いだと良いながらも、遊園地でやっている着ぐるみの仕事になにがしかの愛着を持っていた。それは外国の遊園地で裏方の仕事をしながらみた、子供を喜ばせている道化たちの姿に感化されたもの。それを自分でやれると最初は喜び始めたものの、追いかけてきては乱暴狼藉を働く子供に心も擦れて、毎日を怠惰に送るようになってそれでも辞めるに迷う心境を、ずっと抱えて生きている。

 そんな晃に転機。自分を父ちゃんと呼ぶ子供がどこかから現れた。まったく身に覚えがないかとうとそうでもなかったりするからややこしいけれど、とりあえず知らないと言い張り、けれども帰ろうとしない子供を引き取る羽目になってしばらく険悪な空気をすごす。それでも向こうの真っ直ぐな心にほだされるところもあったのか。他人に迷惑をかけた子供を着ぐるみ姿で殴ってしまいさまざまな反響を呼んだ事件をきっかけに、居場所を失うような可能性すら示唆されて、晃はその仕事への関心、そして子供への意識を強めていく。

 上司としてでてくる仏頂面の女性が実は子供が好きで、けれども何かがあって笑顔ができないようになっている過去とか、そもそも晃を父ちゃんと呼ぶ子供の母親は誰なのかたおいった部分が明かされず、続きでの描写が気になるとこころではあるけれど、とりあえず着ぐるみという仕事を通して、素直になれない素顔からでてしまいがちな体面ではない、外面を持ったきぐるみだからこそ出せる内面を、表現していくことの大切さを教えてくれる物語。それが峰月皓さんの「カエルの子は」(メディアワークス文庫)か。他人に迷惑をかける子供の姿を見せられるとやっぱり子供ってって思えてくるけど、その親にとってはやっぱりかわいいこどもな訳で、そんな意識と外からどう見られているかの意識をすりあわせて生きる人が増えてくれたら、子供が苦手という人もそんなに増えはしないのか否か。ちょっと気になるところではある。

 世の中にはまだまだ知らないアニメーションがあるのだなあ。トリウッドで11月の終わり頃からやってる「世界のアニメーションシアター」に関連してワーナーでネットから短編アニメーションを配信する「THE EDGE」の担当者が来て喋るってんで見物に行ったついでにAプログラムとして上映されていた、フォリマージュってところのパペットアニメーション「冬のレオン」と「春のメリー」を見たらこれが普通の番組として楽しくって面白くって夜の上映にも関係成しにじっくりしっかり見入ってしまった。どこかの王国で語り部が怪物が来ると話すその傍らでクマの顔をした少年がハチミツを売っている。少年の親は普通の人間。どうやら夫婦が子を授かりたいと祈りにいった先で渡された赤ちゃんらしいんだけれど夫婦は「クマにそっくり」というだけで受けれてしまう。

 そんな展開の唐突さもひとつの面白がりどころではあるけれども全体として王国をつけねらる語り部ことボニファシオって悪役の企みに、クマのレオンが張り切って王国のお姫さまのメリーと組んだり助けたり助けられたりしながらいっしょに立ち向かっていく。逆転また逆転の展開があって先が読めない面白さがあり、キャラクターの可愛らしさがあって嬉しい上に吹き替えだから耳にしっかりと馴染む。みんな巧いんだけれどとりわけボニファシオを演じている松山鷹志さんがお調子者な低音をしっかり出しては恐さと狡猾さを笑える雰囲気を感じさせてくれる。これがプロの演技って奴か。そんな声を聞くだけでも存分に楽しめる。とりわけラストのスタッフロールで語られる言葉。悪役のくせにえらそーに、って感じ。

 スタジオHの伊藤裕美さんに伺うと、「春のメリー」に続いて夏を秋も作られているそーで、それらがまとまって2時間とかになれば上映してもパッケージにしても良い感じに収まるんだけれどそーなるためにはもっともっと認知度が必要。だからこそ下北沢トリウッドへと足を運んで作品を見てその面白さに触れて、これは凄い続きが観たいと喧伝すればフランスで作られたものをNHKが同じ声優陣で翻訳して放送してくれてそしてパッケージにもしてくれる、って信じたいけど最近は届かない作品はとことん届かないからなあ。もっともっと世間に知られて欲しいなあ。それにはテレビ放送が。って堂々巡り。やっぱり地道に訴えていこう。「冬のレオン」と「春のメアリー」。このアニメーションは絶対に面白い。


【12月11日】 夜中にふと見上げると満月だったはずなのに三日月となっていてそうだ月蝕だったと思い返す、というか月蝕でもなきゃ夜の空なんて見上げないか。あまりの寒さにいったん引っ込んでそれから完全に消える時間に外へと出たら普通に薄暗い満月が出ていた。なんだ皆既月食っては赤い満月のことなんだ、って思う子供も出てくるか。じっと見てるとそんな暗めの満月がまた細い月になってだんだんと太くなっていく様も見られただろうけれども流石に寒いので遠慮してお布団へ。なんで暖かい日中に月蝕をやらないんだ、ってそりゃあ無理だよな。

 えっと何というかすごいところへとホップステップウルトラジャンプしていた鎌池和馬さんの「新約・とある魔術の禁書目録3」はアメリカらしい国のとてつもなく陽気なイタリアンな大統領が周囲に妙な動きを感じてひとり逃亡してはアメリカを狙う動きに対抗しようとしているところに、ハワイまでやって来た上条当麻と一方通行と浜面仕上の主役系3人に御坂美琴が加わった日本からの一行を、魔術結社「明け色の日射し」を率いるレイヴィニア=バードウェイが引率しては謎の組織を相手にど派手な戦いを繰り広げる。いやもうほとんど国際謀略小説だ。

 狭い学園都市での陰謀とか、あるいはローマから派遣される異能の力の持ち主を相手に戦っているうちはまだ上条当麻にもやりようがあったみたいだけれど、相手が国家級の組織ともなるとそのめぐらせる謀略と、そして使う武器には右手1本が何の役に立つわけでもなくって、流石の上条当麻もすべての幻想をぶっ壊す前に、自分がぶっこわれそうになってしまう。そんな立場に主役を追い込んででも、描きたい世界があったってことだとここは理解し、レベル5の本領を発揮し始めた美琴の活躍なんかも楽しみつつ、世界がどちらへと向かいそして、上条当麻や一行通行がどうなっていうのかを見極めたい。浜面はたぶん生き残るんじゃないかな。はまづらだし。

 せっかくだからとサンシャインシティで開かれている「東京ミネラルショー」へと出かけていって、化石とか貴石とか鉱物とかを見物。集める趣味はないけど見ていて嫌いではないのだああいうの。なぜってもうそれらはとてつもなく古くからそれをやっていたりする訳で、おとなしそうな顔をしてそこに刻まれた歴史の重さは集まっている人間の全年齢を足したものよりすごかったりする。そうした時間を感じることができる品。だから美しさ以上に人はミネラルに引かれるのかも、ってまるで思ってもみなかったことを咄嗟にでっち上げた。本当にところはどーなのか。なぜか何年か前から出ていてそして人気の「透明標本」も見物。化石ですらないナマモノだけれどそれが受け入れられるあの場ってのも面白い。エイが30万円かあ。デカいと難しいからそれも仕方がないか。2000円とかの小さいやつも色が綺麗になっていた気が。腕前も上がっているのかな。

 出て60階まであがって「けいおん!」の展示なんかを見る、といっても原画はちょろりであとはもっぱら番組と映画のパネルとそして出演声優の色紙。それだけを見にいくのも何だって気もしないでもないけれど、スタンプラリーの場所になっているっぽいのとあと、サンシャインをバックにいれたイラストが載ったクリアファイルも売っているからファン的にはやっぱり行かないときけないってことなのか。窓ガラスに3人2人の分けてそれぞれキャラが張り付けられていて、すかした向こうに富士山なんかも見えて「けいおん!」は日本一を乗り越えた、って意味があるかは知らない。でもあの場所に貼ったってことはスカイツリーでも秩父山渓でもない富士山を、「けいおん!」と比べたかったんだろーなやっぱり。

 牛焼きの店で鉄板に牛ともやしとなぜかスパゲッティが乗って焼かれたプレートを食べてから西武池袋で開かれている「樹なつみ原画展」へ。2回目。サイン会は当然ながら整理券の配布が終わってのぞけなかったけれどもやっぱり生で見る本物の原画は良いもので、線をどう引き色をどう塗りホワイトをどうかけるとそう見えるのか、ってのが間近に分かって勉強になる、って僕は別に絵は描かないけど。でも画集で見ても分からないそうした効果を本物で見ておくことによって、再び印刷を見たときにいろいろと想像する楽しみも膨らむってものだ。ちばてつやさんの原画展も生きたいなあ。そろそろ樹なつみさんの漫画も読んでみるかなあ。

 そしてしばらく時間を潰してからジュンク堂で開かれた日本SF評論賞と日本SF大賞の発表会を見物。世に始めてその姿を現す日本SF作家クラブをいったいどんなものかと見に来る人多数、かと思われたもののまあいつものジュンク堂のカフェに入るかどうかといった人数が来て粛々と発表会。まず評論賞ではとりあえず該当作はなしとなったけれども優秀賞に渡邉利道さんの「独身者たちの宴 上田早夕里『華竜の宮』論」が入ってそして、選考委員特別賞に創元SF短編賞で掘晃賞を受賞した忍澤勉さんの「『惑星ソラリス』理解のために−『ソラリス』はどう伝わったのか」が入った。上田早夕里さんの「華竜の宮」は直後に発表になった日本SF大賞で見事に受賞していてある意味でW受賞。それだけの重要な作品がもし、映像化ってことになったとしてもこればっかりは日本で作るのは難しいよなあ、それこそ「アバター」級の金とスタッフが必要かも。

 そのためにはまずは翻訳され出版され目を付けられ脚本が書かれ映画会社に買われないと動かないけど一般小説でそーなるのってなかなかなさそう。むしろライトノベルの方が足早に翻訳されて読まれては脚本家の目にとまり映画化まで決まって主演がトム・クルーズだどうだって言われている「ALL YOU NEED IS KILL」みたいな例がある。それに追いつけるかどうかってところで早く知れ渡って欲しいもの。向こうでそれこそヒューゴー賞くらい取って欲しいけど果たして。

 というわけで決定した日本SF大賞。選考委員の中でも重鎮の豊田有恒さんがまずは口火を切って、自信アニメ作品に多く関わってきた経験なんかを引き合いに「魔法少女まどか☆マギカ」について「魔女ものはほののぼとした話が多いが、まどマギは捻ってあって大人の観賞にも耐える。恋人を救うために魔法少女になるのは、苦界に身を沈めるようなものだといった選評もあった」と話して評価が決して低くはなかったことを訴えた。あとで宮部みゆきさんも「この歳の私が魔法少女に付いてていけるか心配だったが最後の方、11話12話でダダ泣きした」という誉めっぷり。それでもやっぱり取れなかったのは「華竜の宮」が圧倒的だったらで豊田さんは「SFの特徴はセンスオブワンダー。そのインパクト、作り上げた世界のインパクトが強く、ストーリーテリングが巧みに絡む。イマジネーションの限界を巧く表現している。それが決定的だった」と表して絶賛した。

 堀晃さんは「大賞の上田さん、特別賞の横田さんの作品はデビュー作から含め読んでいる。上田さんはパスカル短編文学賞に応募されたの最初で、選考委員の1人として『緑の家路』が最終候補に入り、筒井康隆さんが高い評価をしたが、私はSFに限定して弱いと辛い評価をした」と大昔の出会いを振り返りつつ、「結果、受賞には至らなかったが、文章は際だっていた。広いパースペクティブで書かれた作品を、SFに限定して判断するのは酷だったかもしれない。当時も生物の変化・進化を描いていた。小松左京賞を受賞し、『魚舟・獣舟』を描いて、文章力といいアイディアといい凄い成長を遂げられた」と、今の上田さんを絶賛してみせる。これだけ重なれば逃すなんてことは皆無。順当に受賞となった次第。

 答えて上田早夕里さん。「大変に名誉ある賞を頂き有り難う御座いました。すべてに感謝の言葉を。デビューしてから8年くらいになる。ずっと支えていただいた読者にお礼。筒井康隆さんに最初の作品認めていただき、小松左京賞で小松さんに認めていただいた」。そう小松さんについて語るところでやや声が詰まったかのようだった記憶。「小松さんに、年末まで待っていただいたらよかったが、宇宙に行かれた、宇宙から地球はよく見える、この会見も見ていただいていると思う。それだけで満足です」。小松左京さんの名を冠した賞からでて、小松左京さんへの返礼のような作品で、小松左京さんが亡くなられた年に受賞したことはきっと、意味があるんだろう。しっかりやれ。ってことか。それは作家に対しても、そして世界に対しても。噛みしめよう。


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