縮刷版2011年11月上号


【11月10日】 起きると大きく広がっていた「宇宙戦艦ヤマト」の最初のエピソードの再アニメ化。キャラクターが松本零士さん的なのかそれともやっぱりちょっと前の「ヤマト」アニメみたいな不思議な顔なのか、気になるところではあるけれどももはや今となってはノスタルジーより新しさを求め、CLAMPさんなり高河ゆんさんなりがデザインした可愛らしいキャラでも構わないような気がしないでもない。案外に子供向けを狙って「イナズマイレブン」とか「機動戦士ガンダムAGE」みたいなキャラになってたりして。それもまあ、時代だし。

 気になるのはやっぱり声で山寺宏一さんがすべての男子キャラを一手に引き受け女子と子供は沢城みゆきさんが全部演じるくらいの話題性を、見せてくれればそれはそれで愉快だけれどもさすがにそれはないかやっぱり。あるいは古代進を実写版で古代を演じた木村拓哉が担当するとか。だったら森雪は黒木メイサさんかというとさにあらず。蒼井優があてて相棒の島大介は浅野忠信さんで真田さんは青野武、ってそれは「REDLINE」じゃないか。

 だから物語も宇宙をまたにかけたコスモクリーナー争奪レースに参加したヤマトが、14万8000光年を突っ走って進もうとするところにガミラス帝国の妨害が入ってしっちゃかめちゃかになるって展開。そんな最後は寿美菜子さんが関西弁で演じるスターシアが現れひょいひょいっと魔法で何とかするんだ。ちょっと見たいなあ。っていうか普通の「REDLINE」をまた劇場で見たいんだけれど。メインどころで存命なのは麻上洋子さんにささきさおさんに永井一郎さんに納谷吾郎さんとかか。麻上さんの声なら聞きたいなあ。いきなり講談調になってたりして。「時は西暦2199年(ベンベン)、ガミラス帝国に攻められている人類は(バンバン)、宇宙戦艦ヤマトを仕立てて彼方の星へと旅だったのでありました(ジャーン)」とかどうとか。

 クウェンサーいない。ヘイヴィアも出てこない。もちろん爆乳のフローレティアさんも出てこないのに果たして「ヘヴィーオブジェクト」って言っていいのか悩ましいけど代わって幼い姿態ながらも凄腕のパイロットであり兵士でもある美少女が、オリンピックみたいに見えてその実激しいバトルが繰り広げられるテクノピックに出場しては大活躍する「ヘヴィーオブジェクト 死の祭典」(電撃文庫)が登場。広告会社に所属してスポンサーの利益を第1に考える鉄面皮な女性も出てきては、クライアントにしなだれかかって笑顔で接待するビジネスパーソンぶりって奴を見せてくれて、なるほどエリートの道は厳しいと実感する。あんまり褒めあげられたクライアントが美少女の罵倒を望む気持ちも分かるってものだ。でもそれがあまりのもあれ過ぎて萎え萎えになってしまうとは。言葉って怖い。

 アイキャンフライと言って飛び降りれば合格できる試験なら、喜んで飛び降りるけれどもいきなり高所に連れて行かれて飛び降りるのが試験だと言われてあなたは飛び降りることができますか、ってところでまず第1関門を迎える二丸修一さんの「ギフテッド」(電撃文庫)。国すら上回る規模と影響力を持ってしまった企業が幹部社員を募る試験に応募した少年は、そんな試験に対して天下の企業が飛び降りろというならそれにはきっと理由があると、あっさり飛び降りて見事に合格。どうやって助かったのかは分からないけど、それを乗り越え候補生になった少年や少女やさまざまな人間が、なぜか知多半島の先っぽにある企業の本拠地で合宿めいたことをしながら採用を目指すというのが主なストーリー。

 何をしろって言われずどうしたら採用されるかも分からず、かといって支給されるお金は月に1万円では食べるものにすら困る状況。そんな集団を誰かが束ねようとして、誰かは一匹狼として何かを探るなかで、少年は自分ならではの意思をもって事態に挑む。誰かに何かを言われなければ何もできない人間の性分を、えぐるような展開を持ったストーリーだけれどもその一方で、群れて暴れて自滅する悲しさって奴も描かれどうしたものかと考えさせられる。明らかになった結果がつけた人間の価値も、それが自分の限界なのかって思わされるけれども、そこから始まるリベンジなり成長って奴が、描かれることによって未来への希望をくれるんだろうと信じたい。自分だったらそもそも飛び降りてないから加われないなあ、あの競争に。

 ロマン大賞を受賞した藍川竜樹さんの「ひみつの陰陽師」(コバルト文庫)が完璧だった。事情があって陰陽師を継げなくなった兄の代わりに妹だけれど双子の兄がいたと偽り男装して陰陽師になって出仕した賀茂真澄。だけけど凄腕ながら人嫌いな先輩陰陽師の玲雅の助手にされ、いっしょにあやかし退治に行くことになるという設定は、よくあるようだけれどなかなか配置が巧みだし、そして何より文章が巧く、構成も素晴らしくって新人とはとても思えなかった。ストーリーはといえば、男装しながらも宮中での仕事があって女装しろといわれ女子が、男子といつわっていながら女子の格好をする姿に先輩は妙な感じを抱きつつ朴念仁だからそれとは気づかないという微妙な感情が行き来する展開。バレそうでバレないけれどもドキドキなシチュエーションはやっぱり良いものだ。

 宮中にある女性の妄執と情愛が交錯する事件もあって、愛するってことの凄さと大変さってものについて強く考えさせられる。さらに絡む主人公の真澄を女性と知る家来の蘇芳が、その許されざる恋心と新たに現れた玲雅への嫉妬の年からか、闇にとらわれ主人に刃を向けさせられつつやっぱり守ろうとあがく姿が痛ましくもいじらしい。素直に成仏させてあげるのが筋なのに、それを助けたいと願う真澄の心根に、優柔不断ながらも優しさが見えて氷のような玲雅の心を揺さぶるあたりもやっぱり配置が巧いなあ。そんな真澄の健気な姿に不思議さを抱き、蘇芳の感情が何によるものなのかを知ってさらに感情をめぐらせる玲雅。関係も複雑化してさあ次は? ちょと楽しみ。しわくちゃな老女の正体もグッド。シリーズ化されると嬉しいな。


【11月9日】 ナポリタンなら目玉焼きからベーコンからハンバーグからトッピングをだいたい試してみたスパゲティのパンチョだけれど同じメニューにあるミートソースがまだだったんで、入って試してみたらこれもなかなかおつなもの。ケチャップを麺にからめてこってりとしたナポリタンに比べ麺にソースが後からからみついてくる感じは、さっぱり目なところもややあって腹に入れやすい。麺も太いしソースも肉がいっぱい。家で食らうよりもおしゃればパスタ屋で食らうよりも楽しい時間を頂けた。次もこれにしてみるか。白ナポってのはどーなんだ。

 かなちゃんデカいかなちゃんデカいかなちゃんデカい。大切なことなので3度繰り返してみました。しかしほんとうにデカかったなあ、「ちはやふる」のアニメーション版にもようやく登場して来た大江奏ちゃん。夜に寝る時の寝間着姿を真横から捉えたシーンとかでも和装の寝間着のにあたる部分がこんもりとしてまるで小山のよう。おそらくは下着を外して直立してのサイズがそれならちゃんと補正してしっかと胸を張った時なんていったい、どれくらいの飛び出しになるんだろうか。

 そんなサイズでランニングなんかしたらそりゃあいけません。目立って近づく男子の100%が前屈みになってしまう。袴だから走りたくないってことではない別の配慮がだからあったんだろう。でもあの百人一首や古典にかける熱情は本物。その時間をただ和装に近いからって弓道の道着姿を選んだのがやっぱりそもそもの間違いだったってことで、張れて競技かるた部入りを果たしてこれから本格的に前屈みになってかるたに向かうシーンとか描かれそう。とにかく丁寧でそしてリアルな演出を心がけている作品なんで、そうしたシーンでも手を抜かずにきっと見せてくれるに違いない。しかし比べると本当に千早は鉄板だなあ。鉄板。

 そしてやっぱり果てしなく無駄美人な千早。いやもうあの美人っぷりだけで存在に価値が存分にあるんだけれども、近くで見ている人には畳をえっちらおっちら形相変えて運んでいる様とか、かけずりまわってポスターを貼っていたりする様とかがやっぱり幻滅な感じに見えてしまうんだろうなあ。美人でも鼻毛ならまだしも耳毛が出ていたらやっぱり萎えるっていうか。ちょっと違うか。

 そんなかるた馬鹿な千早がかなちゃんの丁寧かつ奥深いかるたの背景解説によって、言葉の意味を掴み世界を認識した果て生まれる、瞬間で全体を把握する能力の開化がやがてただ音に反応して下の句を取るようなだけの競技かるたオンリーな面々を、うち破っていく展開へと発展していってくれると面白いかも。クイーンはどっちのタイプなんだろう。彼女の強さは描かれても強さの秘密はあんまり描かれないんだよなあ。名人は耳の良さが描かれるけど。謎。

 しかしこの丁寧さはいったい何だろう、浅香守生監督の本領って奴なのか、それほど場所を移動しなくってもその空間の中でとてつもないドラマを作りだしてみせるという、そんな技は前に太宰治の小説をアニメにした「人間失格」で体験させてもらっていたけど、今回も呉服屋を訪ねてきた千早を迎えたかなちゃんが、店番をしていた昼間っからはじめで夜までどっぷりとかるたについての解説をするシーンなんかで発揮されてて、アクションもなければパンチラとかいっさい内のに、シーンに目がくぎ付けにされた。

 それは各話演出に入っている人の力なのかもしれないけれど、丁寧さを胸、じゃなかった旨とする基本線を打ち出し統率してく監督の思想が通ってないってことはないから、やっぱりしっかり描くことによって、千早がかるたへの造詣を深めるだけでなく、かなちゃんが競技かるたを嗜むことへの興味を深め、そして部に参加する動機をもたせるという自然な流れを、作って答えようしたんだろう。これまで1話たりとも外れ回がないのも凄いすごい。原作と見比べ漫画ならではのすっとばしと、映像ならではのじっくりとの差異とそれぞれの良さを、調べてみたくなって来た。最初の方、どっかいっちゃったんでそろえ直すか。

 責任が皆無という訳では決してないけれども、すべての責任を負うほどの悪徳経営者だったとは決して思えないところがこの問題の根深さって奴を示しているようなオリンパスの粉飾決算。菊川社長もあるいは申し送られた1人であって、それをどうにかできる段階まで持っていった手腕というのは、ともすればワンマンだったかもしれないけれど、そして結果的に会社を窮地に陥れたかもしれないけれど、すんなりと通っていれば身綺麗な会社となって、さらなる成長を遂げたかもしれない。そんな道筋をつくってから、グローバルスタンダードに長けた外国人社長を招き入れ、世界に向けて討ってでようと考えていたのだとしたら、あるいはそれなりな経営者だったって意見も、出来ない訳ではないのかもしれない。出来ないかやっぱ。

 少なくとも1人に帰結できる問題でないことは、多くの新聞の報道なんかを見ても明らかなんだけれどもどこか1紙だけが個人の力量に焦点を絞り、その暴走が今の危機を招いた的な論旨のみで記事を構成していたりする様をみて、独自性ではあってもしかしやっぱり真っ当さとはかけはなれた、アクロバティックな所業かもしれないって思ってみたり。いやそんな達観も出来ないんだけれど。それともこうやって企業の問題をワンマンな個人に集約した論旨を前面に打ち出すことで、内にあるワンマンの弊害を問わず語りに告発し、引導を渡そうとしたんだろうか。それならそれで凄いこと、だけれどそこまで考えているはずもないからやっぱり踏み間違えているんだろうなあ。周りを見てそして沈思せよ。それで気づかないならお手上げだ。いやそれもやっぱり拙いんだけれど。


【11月8日】 暫く前から噂にはなっていたけれどもオリンパスにおける巨額の資金のどこぞへ行った問題で、ようやく1990年代の財テクでもって生じた損失を、埋めないまま処理を先延ばしにしてきたツケを、それなりに経営がよくなってきたあたりでさらりと払おうとしたって事由が、会社側から公表された。企業買収なんかを噛ませたスキームを考案し、そこにつけ回して処理してさあ巧くやったと思っていたら、その手口のちょっぴり強引だったところが外国人の社長によって不思議がられ、どこかの闇に消えたんじゃないかって思われFBIだ英国法廷だって話になって、こりゃあもう言い訳はできないと思った模様。

 それが真実だとしたら案外に普通の展開。1990年代の終わりには割とあった財テク失敗による損失の問題が、時を超えて現れただけって言えそうで、闇とのつながりなんかを想起して騒いでいた口には、あまりにあっさりとした回答に、上げた拳の行き場を失い上った足場を外されたって格好かも。それともやっぱり真実は別なのか。そもそもの損失って奴が何をやっての損失か。そこのあたりを説明してくれないとまだまだ信じられず、突っ込まれる自体が続くんでオリンパスも、さっさとすべてを明らかにした方が良いんじゃなかろーか。それが簡単にできればここまで引きずらなかったって言えるかもしれないけれど。

 本当に1990年代の初頭には、企業はいろいろと損を被ってそれをどうにかしようと右往左往してたんだ。ちょうどその頃に詰めていた東京証券取引所の記者クラブで、長く株式の報道に携わっていた長老の先輩記者から、証券会社に行ってレスキューボンドなるものについて話を聞いてきてくれないかって言われた。先物だとかデリバティブだとかいった金融商品がわんさか出ていて、昔ながらの現物の売り買いでもって相場や企業の経営を判断していた古い記者には、すぐには理解が難しい状況が生まれてた。だから若い人間に状況を聞いてきてもらい、要約して説明して欲しいってことになったんだと思うけれども、経済を囓っていない人間が、出かけて行って果たしてどこまで理解できたやら。だから今どういうスキームだったのかって言われてすぐには答えられない。

 それでも企業が日経225とかにリンクした金融商品を使った財テクでもって失敗した、っていうか当時はいけいけドンドンの状況で、買った株が下がり続けて今へと至るどん底へと向かうなんて誰も予想できなかった時代で、雁首揃えて討ち死にとなっていた状況にあって、それでもやっぱり快復していくんじゃないかという期待のもと、それを見越した金融商品なんかを作ってもらい、買ってまず利益を確定するなりして穴を見えなくし、あとは株価が上がったらチャラにするといったような動きが、割に普通にあったという。それがレスキューボンドって言ったっけ。それとも全然違ったっけ。ともあれ財テクの失敗が相次ぐ中で、ひとまず穴を埋めて損失を先延ばしにする動きがいっぱいあったという事実。けれども続く苦境にむしろ穴が膨らんだ問題が、1990年代後半に一気に噴出して多くの企業を痛めつけた。

 そのときにいっしょに雁首揃えて謝って、身綺麗にしておけば今回のような問題は、あるいは起きなかったかもしれないオリンパスなんだろうけれど、自分の代でもってネガティブな評価につながることなんてなかなか出来ないのが経営者ってものらしい。部数が下がり続けて損ばかり出している媒体を、あっさりとは切れない新聞社や雑誌社のように。そんな状況が続いて居たけどまあこの辺でって手打ちをしたらそれが露見して勘ぐられてしまって大騒ぎになって打ち取られたっていうんだとしたら、本当に悪いのは過去に財テクを失敗して、それを先延ばしにした10数年前の経営者たちで、今の経営者はそのツケを苦労して払っただけってことにもなったりしそう。まあ同じ穴の狢ではあっても、今までのように明確な敵、って言い募る難しさも浮かんで同情なんかもわいてくる。なのでミラーレスを買う候補にはオリンパスのPENもまだ、入れておいてあげようっと。

 なるほど電子書籍というコンテンツのみならず、その周辺にさまざまなコメントがついて連なってぶらさがってこそ電子時代の書籍コンテンツだっていうドワンゴの川上量生会長の見解にはとってもうなずけるところがある昨今、アマゾンで書籍を見た時に連なるさまざなレビューが購入への気持ちを後押ししたり、逆にコメントにおけるレコメンドから本へとたどりついたりするような状況が、ネット時代には頻繁にあってそれがオールデジタルの上で行われることによって、より大きくて新しいコンテンツとして、電子書籍を打ち出していけるんじゃないかって可能性が感じられたりした角川とドワンゴの提携記者会見。ネットで漫画が見られますとか、ライトノベルが読めますってだけじゃあやっぱり、目新しくもないしニコニコっぽくもないからね。

 そうしたコメントなりレコメンドが電子書籍の豊穣さをもたらしてくれるなら結構なこと。とはいえ個人としてはやっぱり核となる漫画なり小説なりといったコンテンツそのものが面白くなくては、電子書籍だろうと紙の書籍だろうと関係なしに食指が伸びない。そうした本論部分をさしおいて議論され電子書籍はユーザーに福音をもたらすだの、出版社に壊滅的な打撃を与えるだのって言われたってあんまりピンとは来ないのだ。良い本を書いてくれる人がいてそれを作ってくれる人がいる。編集者って役割の割とそれなりに高いものがあるって認識からするなら、やっぱり出版社はなくならないし、紙の本だって早々は衰退しないような気がする。あるいは受け手が刹那的な物語を評判だけで求めて面白がっていくスパイラルが起こったりしたら別だけど。真のプロフェッショナルではなくネットの人気者が学校のスターになる時代。プロフェッショナルの技を届けることを怠ると、未来はますます狭くなるんじゃなかろーか。それを分かっているのかなあ。コンテンツを作る会社は、出版社もテレビ局もレコード会社も新聞社も。

 あとやっぱり電子書籍の利便性が今ひとつ、伝わってこないってことも電子書籍礼賛な風潮への懐疑につながっている感じ。例えば超分厚いことで天下に知られる川上稔さんの「『境界線上のホライゾン」とか、普通だったら是非に電子書籍にしてほしい、そうすれば重量も感じずに済むようになるからって言われてそうだけれど、あの分厚さとあの巻数のどこかにランダムにダイレクトにアクセスして読んだり確かめたりしたいとき、そこから一部を取り出して楽しみたいときは、僕には実は本の方が僕には便利だったりする。それは決して検索機能が電子書籍の方が充実しているからってメリットには引っ張られない。平面としてのページではなく空間としての書籍。その全体をイメージし細部を記憶して選びたどりつき他へと飛んで頭のなかで統合させることが、実物の書籍ならできるのだ。電子書籍ってどうにもまだまだ2次元。検索性とかあってもモニタが平べったいとどうしてもそこに限界が出る気がするんだよなあ。これもただのノスタルジーか。意識して見ていこう。

 攻める攻める亜矢さん攻める「もやしもん」ではミス農大の戦いで迎え撃つ武藤葵の応援についた亜矢さんが、候補にあがった中からまずは高校生らいし西野円を相手に高校生で大丈夫なのかと突っ込んだところを美里が頑張りどうにかそれで良いんじゃないかという空気を作り出すも、すかさずそこに男子がいると結城蛍の正体を露呈。そこでも美里はアクロバティックな論法を持ち出し、分裂している割には結束が固い樹ゼミのバックアップも受けてしのぎきる。変わりに蛍には卒業するまでの女装が言い渡されることになったけど。ってずっと女装だから関係ないんだけれど。それでも諦めない武藤陣営は御大が叫んでこれで2人が脱落の様子。「水着審査」。なるほど蛍には荷が思いか。でも円は? そいういうお年頃ってことで。でもまだ投票は続いているから展開によっては復活もあるのか。どんな結果になったやら。乞うご期待。「ブッシメン」は眼鏡娘の胸がこぼれそうですばらしい。


【11月7日】 インドアの大会で格的にいったいどれくらいのところにあるのか分からないけれども世界1位のジョコビッチ選手が出ていて世界4位で長く1位の座にもあったフェデラー選手が出ている大会がただの花試合であるはずもなく、そんな大会に出て準決勝でジョコビッチ選手をギリギリのところからタイブレークでうち破って最終セットも連取し勝ち抜け、決勝でも第1セットこそ6−1と突き放されたものの第2セット6−3で少し迫れた錦織圭選手はやっぱり本格的に本物のテニスプレーヤーになって来たって言えそう。冗談でも適当でも世界1位に勝てる世界じゃないのはそれが成績でありひいては金に直結する世界だから。負ければ地にはいつくばることになるプロのフィールドでそれでも勝ってしまうことの意味を、ここはじっくりと噛みしめるべきなんだろー。いや素晴らしい。

 ワールドカップでの女子サッカーの優勝といい、本物のプレーヤーが本当の世界で大活躍をしていたりする実状を一方で見ながら、その見た目の人気度合いでもって持ち上げ持てはやしてみたりする世界の未だにテレビを中心に蔓延っていたりする、そのギャップがやがてテレビ業界の首を絞めていくことにどうして気が付かないのかな、って思ったりもする昨今。あるいは気づいているんだけれど変えてすぐに結果が出せる世界でもないまま、畏れ引きずられつつ自滅へのみちを歩んでいるのかもしれない。つまりはワールドカップバレーというなぜか頻繁に日本で開催されるイベントでもって決して世界トップクラスにある訳でもない女子バレーをクローズアップして持ち上げ、その試合しか流さないまま本当に世界でトップを張ってるチームどうしの試合を見せない編成具合。せっかく日本でそれが開催されているにも関わらず、テレビでは見られないという不幸を世間の人はもっとアピールした方が良いんじゃなかろーか。

 ちょっと前の体操の世界選手権でも男子は内村航平選手が世界トップだからまだ良いとして、女子でいったい世界トップに輝く選手の演技をどれだけ放送したのか。なるほど日本人だから日本の選手の活躍に感心を向けたいと考えているだろうと、認識していることに異論はないけれど、そればっかりって訳でもないだろう。むしろ世界最高峰の演技をそこで見せることによって世界がどこまで行っているのかを理解し、そこに向かって突き進もうっていう気持ちを奮い立たせることができる。なのにそうした演技は見せない。バレーボールでもやっぱり似たような状況になっている。なんという無駄。時間がない訳ではなくってどーでもいいタレントが出てきて応援したりしている映像とかはいっぱい流すんだけれど肝心の世界最高峰のプレーは流そうとしない、その妙さを早く是正しないと内弁慶が外に出てこてんぱんにやられて萎える状況が、よりいっそうのテレビ離れを生みその競技からも人を引かせてしまうぞ。ラグビーなんてそうなりかかってたりして。どーするんだろう8年後のワールドカップ。

 鹿角の奮戦の果てに来た立花・宗茂と本多・忠勝との迫力のバトルが、忠勝の渾身の一撃でもって決着してそして消滅する三河とともに消えた忠勝の雄壮さを見て、感涙のうちに終わった前回から一転して病院でもって夫婦漫才に勤しむ立花・宗茂とぎんさんのアットホーム……に見えるかもしれない熾烈な愛情合戦風景にくすりと笑ってそして始まったアリアダスト教導院における3年梅組のクラス会。珍しくよく喋るハイディの先導あるいは扇動でもってホライゾン奪還に向けてだんだんと機運を高めつつあるところに持ってこられたオリオトライ・真喜子先生による「わたしがしてほしいこと」の作文の執筆と披露。そこで向井・鈴さんが泣かせの作文を書いてそれを浅間・智が読み上げクラスは団結。立ち上がった葵・トーリによって導かれ戦いへ、っていく感動のシーンでもやっぱりしっかりエロゲ関連の本を絡めて笑いを取る。

 このバランス感覚が暑苦しいリーダーとは違い守ってあげたいという慈愛の心、そして着いていけば正しい地平へと導いてもらえる安心感へとつながっているんだろう。その意味でやっぱり凄い存在なのかも葵・トーリ。その実体は? あるのかなあ。でもどちらかといったらオリオトライ・真喜子の正体がずっと謎だよなあ。誰なんだろう重なっている時代人は。それにしてもしばらく前には俺が俺がで強引に大勢を引っ張っていくルルーシュなんて役を演じて叫んで怒鳴って高ぶっていたのに今は引っ込んで騒いでひっくり返すトーリを演じる福山潤さん。すごいです。そういやハイディはナナリーで浅間・智は紅月カレンか。みんなそれぞれに違うなあ。だからこそのプロって奴か。そして話はいよいよ生徒総会へ。迫る直政にミトツダイラを退けた後に来る本多・正純とトーリとの戦いでさて、どこまで見せるかくっきりと。それ次第ではBD絶対に買うからね。

 しばらく前から看板をつける工事とかが始まっていていて気になっていた「あきばカレー工場」がようやくやっと秋葉原に店を出していたんでのぞいてみたら秋葉原らしくカレーの上にカレーでハートマークとか描いているって訳ではなくって普通の金沢カレーだった、というかゴーゴーカレーか。どろりと濃い目のルウが舟形の皿に盛られてキャベツが添えられるという。そのキャベツがゴーゴーだと最初っから盛られているのがここん家では別椀でもって出されておかわり自由になっていた。まあどうせどばっとルウの上にまぶして混ぜて薬味っていうか涼味にするから一緒だったりするんだけれど、全体的に乗せられるってのは別椀だからこそ。その意味ではそうやって出す意味はあったかも。

 味はまあゴーゴー。カレーの市民アルパとはちょっと違うかな。調べると品川とか新宿東口とかはゴーゴーの店舗があきばカレー工場に変わっている模様。それが分派なのかそれも分裂なのか知らないけれど、決して嫌いじゃないタイプのカレー店がいっぱいできるのは悪くない。でもマンモスカレーには敵かなあ。あそこはCoCo壱系な味だったし。「POT&POT」が好きだったんだけど無くなっちゃったんだよなあ。チェーン店にあってトッピングとかも割とおいしいカレーを出してくれたんだけれど吉野屋の右へ左な思施策の中で消えちゃった。かといってC&Cはいまひとつだし。紀伊國屋の下のニューナガイが改装で本格的なカレー屋に変わるみたいだしそっちにひとまず期待か。スープカレーはいまだに食べ方が分からないんだ。


【11月6日】 名前はそりゃもう大昔から聞いてはいたけれどもぐっと身近になったのは宮崎駿監督のアニメーション映画「紅の豚」にジーナの役で出てそれから何曲か歌ったあたりからか。アニメの声優っていった存在への親近感にはたして乗っけていいのかどうなのか悩むくらいの大物ではあるけれど、そういう人が喜んで参加してくれていることへの嬉しさが、親しみにつながっていったことは間違いない。その意味であちらとことらをクロスオーバーさせる宮崎アニメのような試みは、面白かったけれども最近はずっとあちら側だけで完結してしまっているからなあ。もうちょっとアニメなファンも近付ける要素って奴を残して欲しかったかも。とはいえ超アイドル声優を使うとは思えないし。うーん。

 ともあれそんな加藤登紀子さんについて話を聞いたり言葉を書いたりしてみた昨今、いわゆる反原発への動きについてはいろいろと直接的に文字にはしづらいような気もしたけれど、そこを福島県の飯舘村で「命結−ぬちゆい」という歌が出来たことに絡めて「ここからずっと続いていく」という永劫に近く背負わされた重荷への想像を喚起させ、また離ればなれになってしまう人たちをどうにか勇気づけなくてはいけないという思いを「命結」という曲のタイトルに絡めてほのめかしていたりするから、感じ取って頂ければこれ幸い。雰囲気こそ近いものがあっても一方では原発はあって当然、なくしてはいけないと訴えるご婦人を丸抱えして本を書かせDVDも出してもらっているメディアなだけに、そこで反意を持った人を紹介するテクニック、って奴を学んでもらえただろーか。ってそういう隠れキリシタンみたいなことをしなくちゃならないってこと事態が、愚の骨頂ではあるんだけれど。

 書けなかったこともいっぱいあって例えばとても悲しい事態に向き合い、それを歌にして歌うことの辛さ、ってものをどう感じているのかって訪ねた時に帰ってきた、信条にしている言葉が「悲しみに言葉を与えよ。言葉には歌を。歌っていくことで悲しみが喜びに変わることを、信じよう」というもので、悲惨な光景や経験を受け止め内に悲嘆にくれたくなるという気持ちの、それを尊いとは思いながらもそれを口に出し、歌にすることによって大勢の人に悲しみを知ってもらえるようになる、そして歌うことによって自分が誰かとつながり、誰かがより大勢とつながって心を前向きにしてくれて、いつか喜びとなって帰ってくるんだといったポジティブな思考でもって、加藤さんが歌を作っているんだと教えられた。だから聞けば心安らぐ。落ちつく。楽しくなる。そんなアルバム「命結−ぬちゆい」がただいま好評発売中。レゲエっぽいビートが踊りを促す「タユタウタ」とか、河島英五さんの「生きてりゃいいさ」とかも聞いて素晴らしい1曲。「紅の豚」でその存在を知った人も、まだ知らない人も是非に、1枚。

 医療虫の暴走によって男は死ぬとゾンビになり、女は異能の力の持ち主となる奇病が蔓延した世界で、感染した男たちを隔離する施設の監視員となった乾月をはじめとした3人の女たちの、バラエティに富んだ異能の使い手たちとのバトルが読みどころでもあった牧野修の「死んだ女は歩かない」(幻狼ファンタジアノベルズ)が第3巻にて完結。日本を裏で操るマダム・スカムへの復習を心の奥底に持っていた乾月がついに立ち上がっては、他の何人かの異能を使う女たちと共闘して挑むストーリーは、誰かの怪我をいったん自分に転移してそして誰かに写して治療と攻撃を同時にやれてしまう無苦や、音を操作する力を持っていて、愛娘を半ば人質にとられていた輝十字ら乾月の部下たちも戦線に加わってはマダム・スカムのもとへと迫る。明らかになる日本の惨状、それは医療虫の暴走に伴う情勢を半ば世界から許容され強要された実験室的なもので、それへの憤りも加わった乾月たちの決意に、ひとつの結果がもたらされる。それで果たして世界は平和になったのか。やっぱり別の勢力が台頭して来るだけなのか。気にはなるけれどもとりあえず一件落着ってことで。無苦の能力はやっぱり凄いけどC.K.の最強っぷりにはやっぱり脱帽。灰にしたって甦って来るんじゃね?

 悠然として勝つ、っていった感じだったなあ、中日ドラゴンズのクライマックスシリーズ、っていうかその前の優勝を争っていた時ですら、初先発のルーキーをぶつけて得点を奪われても引っ込めないで投げさせ度胸をつけたりするよーな采配を見せつつ、それでも続く試合でちゃんと結果を出してリーグ優勝を当然のよーに決めてしまうところがメークドラマだの野生の勘だのを頼りつつすがりつつする監督との、差異ってやつとして見えてとっても楽しかった。CSに入ってからも負ける要素なんてこれっぽっちもないって感じに構えてそして2つばかり負けてもそこで先に行かれるって心配をさせずにきっちり勝ちきってしまうその大人っぷり。騒ごうともやるだけのことをやってさえいれば結果は自ずとついてくるんだってところを監督自ら示していたりするんだから、周囲だって浮つかずに地に足をつけて戦えるってことなんだろー。そーやって上に来た日本シリーズはさて、秋山監督率いるソフトバンクとの戦い。配下に西武ライオンズ出身のコーチも多い中で因縁めいたものもあるけれど、そーした情話に頼らずとも試合の運び、そのものでもってドラマを感じさせる戦いを、見せてくれるんだろー。野球のことは野球に聞き、野球から見て感じ取れ。それが出来る監督が今シーズンで去るなんて勿体ないからすぐにでも、復帰を。


【11月5日】 ぬるりと起きてから「楽器フェア」でものぞこうと横浜へ。例の「けいおん!」人気からこっち、バンドブームもまた広がっていっぱいの人が群がっているかと去年も行ったらそんな感じでもなかったのでちょい、肩すかしを食らったけれども今年はポスターからしてアニメっぽい絵で気合いも満々。ブームがだんだんと起こり始めているのかとのぞいたら、前が平日だったのとは違って週末だったってこともあってまあそれなりに人がいっぱい来ては楽器に群がっていた。エレクトリックドラムのコーナーなんて割に普通の女の子っぽい人が座ってちゃかちゃかどんどん叩いてる。子供まで叩いていたりしてギターのコーナーに長髪な細身の兄ちゃんが群がっているお茶の水楽器街あたりとはまた違った若返りの光景って奴を、見てムーブメントの広がり具合をちょっとは感じることができたって印象。

 むしろそんなあたりをもっと前面にぶち出していけばテレビ局とか来て取材とかしたかもしれないけれどもあんまりそういうところで喧伝をするタイプでもないのかポスターに漫画アニメな感じを使うのが関の山。それでもじわじわと浸透していく若返りの波がもっと広がれば、来年あたりは若い娘さんがいっぱい集まりさぞや賑やかな楽器フェアになってくれるかもしれないし、くれないかもしれない。どっちなんだ。ざっと見て目についたのは格好いいヤマハのアンプかなあ、クラシカルなラジオみたいなデザインだけれどちゃんと音とか成るみたい。あのチャーさんが宣伝しているんだからきっとそれなりな品なんだろう。フェンダーでは60周年のテレキャスターが格好良かったけれども買う金はなし、買っても引く場所もなし。拾い部屋で楽器集めていろいろ試したいなあ。夢は彼方へ。

 そこから横浜美術館へと歩いて横浜トリエンナーレ2011の見物をスタート。最初に来たのはいつだったっけ、海辺に草間弥生さんの球が浮かんでいた時だったっけ、ホテルに巨大なバッタが張り付いていたのもそんな辺りだったっけ。昔はそれこそパシフィコ横浜から煉瓦倉庫あたりまでを囲ってそれなりな規模で開かれそしてそれなりなアーティストも来ていたような印象があるけれど、今回はぱっとのぞいてピッと来る人があんまりいないっていうか、作品自体も妙にものものしい割にすっげえって感じがしないっていうか。うーん。1番印象に残ったのが横尾忠則さんのY字路を描いたシリーズってのもなあ。昔っからずっと描かれ続けているシリーズだけれど今回出ていたのは黒を基調に暗い感じで描いたもの。沈み込むようなカンバスからぼっと浮かび上がってくる三叉路の光景がどちらに行けばより幸福か、なんて選択を迫っているようで興味深かった。構成もよりシンプルでそれでいて強くなっているような感じ。アーティスト宣言からもう何年が経つか忘れたけれども完全に、画家となっているなあ横尾さん。

 そういや横尾さんが櫻井よしこさんの率いる団体か何かにマークをデザインして提供したんだけれどもその櫻井さんが原発について推進の立場の意見広告をその団体名で出した時にしっかりそのマークも使われていて、自身は反原発の横尾さんがおかんむりだとか。預けたんだったらその団体がするすべてのことに賛意を持ってのぞみそれがたとえ原発推進であってもいろいろ言わないでおくべき、って見解も出そうだけれども企業のためにデザインしたロゴマークとは違って、当時その団体が打ち出していた日本建て直しのための活動への賛意として名を連ねる意味合いで提供したものであってだからマークにはデザインした横尾さんの名前がクレジット風に入っていたりして、それを意図していなかった方面に使われてはやっぱり困るっていった見方もできそう。少なくとも新たな活動をする際には、会の会員なり賛同者への説明とその了承なりを求め、意見が異なるんだったら外すなり別の個人名の連なりでもって意見広告を出すべきだったかもしれない。っていうか櫻井さんが何かする団体がどーなるか、って想像力も働かせておくべきだったかな。当時からすでにそーゆー感じだったし。夜のニュースでの怜悧かつ公正なイメージよいま何処。

 とりあえず横浜美術館では全身を激しくふるわせる男女の映像をしばらく見る。あれだけ激しくふるわせているのにちっとも胸とか揺れないのはなぜだ? っていった薄さへの関心が高まる。あとお白砂を蜂起ではいてる女性たちの映像なんかも見物。あれだったら神社の境内を緋袴の巫女さんたちが並んで履いてる映像の方が感動できるかなあ、なんて目的がまるで違うけれども感じてみたり。そりゃあ意味は分からないでもない。自分の足跡を誰かが消した上からまた足跡ができてってな連続性から浮かぶ生命の連なりとか、白い砂の上を白い服を着た女性たちが動き回るビジュアル面でのシンプルさとか。でもそういうのって過去にもあっただろうし未来にだってできそうなもの。敢えてやる、って意味に何か強烈なメッセージを載せないと、見ていてはいそうですね、って処にしかおちつかない。とはいえ履いてる女性が一様にノーブラで透けて見えたりするところはマルか。大きさもなかなか。この人たちに踊って欲しかった。贅沢?

 休日だってのに増発しないから乗せそびれる人も大量に出るシャトルバスにすぐさま郵船倉庫へと向かうのは諦め日の出町と黄金町で開かれているギャラリーを中心としたイベントへとまず向かいそこを見てから美術館を経由して郵船倉庫へと行くルートを選択。ギャラリーの方は旅館を改装したギャラリーでの空間と展示が面白かったかな。そして郵船倉庫ではまた見るものがないというか印象に残らないというか大作りなオブジェとか長蛇の列の映像作品にさっと流す程度ですます。しかし本当に見入るような作品がないというか。鍵盤の上に猫が寝ているのがかわいかったけれどもあれが本当の猫ならまだしも木彫りの人形では。座って監視している人で細面の眼鏡っ娘がいたのが1番に見どころか。これならその後に回った新港ピアの若いクリエーターによる展示の方がアグレッシブで面白かった。1人でも乗るとギシギシという空間に作られた狭い家のモデルとか。恐怖も加わり愉快。あと木彫りの馬なんてのもいたっけか。そんなもん。

 インパクトがあればいいって訳じゃないけど印象にも残らなければそれは大量に入選作品を並べる日展と変わりない。個々のエネルギッシュさなら「GEISAI」の方がまだあっってどれもこれも見入ってあげないとって気にさせられる。それに比べると横浜トリエンナーレには何か熱量が足りないっていうか。それとも終了間際に行って人が多すぎてじっくり見ている余裕がなかったのが失敗か。早く行こうって気にさせる材料もなかったしなあ。光州ビエンナーレはどうなんだろう。たぶんもっと切実さがある? アジアだとそういうのが美術では台頭しているし、映画も上海釜山の方がきっと作品も良いのが出ていそう。モーターショーは東京に海外からの車は来ず大半が上海へ。ゲームショーはとっくにE3が東京ゲームショーを抜いている。トヨタカップも日本開催が絶対じゃないなかで日本で世界に誇れる展示会なり見本市イベントってあったかねえ。そういうところから沈む感じって出てくるんだなあ。感心している場合じゃないけど。むう。


【11月4日】 いつか見たいと思ってDVDまで買ったのに実はまだ見ていなかったりするスタンリー・キューブリック監督の映画「時計じかけのオレンジ」だから、アントニイ・バージェスによる原作小説なんで読んだこともなかったりする訳で、だから映画の内容を又聞きして認識している内容からしていったいこの感想文のどこがヘンなんだろうと三上延さん「ビブリア古書堂の事件手帳2 栞子さんと謎めく日常」(メディアワークス文庫)を読んだりしたけど、なるほどそういう事情があったんだと分かってそれなら読んでみようかと思った場合にいったいどちらを読むべきか、ちょっと迷ってみたり。やっぱり物語りは幸せに終わるのがいいけれどもそうでない印象の強烈な物語りはその印象どおにし進んでもらいたい気もしないでもない。印象、ってやっぱり刷り込まれるとなかなか拭えないものなのだ。

 いつの間にやら大人気となってメディアワークス文庫では、有川浩さんて有名どころの第1弾刊行にたぶん続くヒット作となってしまった「ビブリア古書堂」シリーズの待望の続編はほかに福田定一さんって知っている人には知られている名前というか、僕は知ってなきゃいけない大先輩の本が紹介されていたり、藤子不二雄さんが昔つかてた足塚茂道、は違った「まんが道」での名前だった、足塚不二夫による「UTOPIA 最後の世界大戦」が取り上げられていたりと幅も広がり内容にもさらに濃さが。「UTOPIA」は最近再刊もされていたりするから読める機会も増えていて、それで取り上げたのか偶然なのか知りたいところではあるけれどもいずれにしても良いコラボ。そしてこのエピソードがまた深くって、今後の展開にとっても興味を引っ張られる。

 謎めいた客が残したヒントからその家を探し当てて訪ねていって見つけた「UTOPIA 最後の世界大戦」の初版本。その価値たるや昔も今も変わらないとは思うんだけれどかつていろいろあってそこに妙な事態が起こっていて、それが栞子さんと今はどこかに行ってしまった母親との因縁になっている模様。清楚で理知的でどちらかといえば奥手な栞子さんとはまるで違っていたっぽい、その母親の性格からするに今もどこかでいろいろと、暗躍していたりしそうでいずれ古書界を裏で操る暗黒書店員として栞子さんの前に立ちふさがってはさあこの母を越えて行きなさい、できなければ叩きつぶすわよおほほほほと高らかに笑ってのけそう。それを見て挑むんだかけれど超能力を奪われてしまっている栞子さんには戦う力がなくそれを見て母親は歯がゆい思いをしつつ裏で手を延ばす……ってんじゃあ違う作品だ。ともあれそんな因縁がぶつかり合うドラマを今度は長編で、是非に。

 朝から秋葉原へと向かってUDXで「ガンプラEXPO」を見物。メーンに「機動戦士がナムAGE」と持ってきているのはやっぱり最新の動いている作品を推したいってことなんだろうけれども、まだ作品世界がそれほど明らかにされていないところでメカがどんと来てもこれなんだろう? って思いが先にたってこれだよこれだって感情移入が量られないところがちょっと曖昧。あいつが乗ってたこのメカが、って感じに盛り上がったのが最初のガンプラだっただけに、そういう入り方ができないところに古い人間として戸惑いを感じてもいたりするけれど、これが出るぜって見せておいてどんなにすげえんだと期待してテレビを見て出たー、って叫ぶのも子供の番組にはあったりすること。仮面ライダーとかスーパー戦隊ヒーローとか。そんなプログラムのひとつとして、今回はとらえられているってことなのかも。

 しかし主役のメカよりUAことアンノウン・エネミーすなわち正体不明の敵のメカの方が格好いいってのはどういう訳だ。ガンダムはどこまでガンダムだしメインのモビルスーツはそんなあたりの系譜を引いているのに対して、UAは龍とかそういったデザインから生まれたスタイリッシュな悪役メカ。例えるとしたら「機動警察パトレイバー」のグリフォンか、あれも格好良かったなあ、悪魔的で美しくって。すべからく悪役メカは格好良くあるべし、って掟でもあるんだろうか。それを言うなら「機動戦士ガンダム」だってスタイリッシュなガンダムよりも思想は違っていたけど敵ジオン軍のモビルスーツの方が格好良かったっけ、っていうか連邦軍、真っ当なのがガンダムしかないんだった、キャノンにタンクにジムでは……。という訳でいつかMGでUAが出たら買おう。出るかなあ。

 でもMGにならないとガンプリにならないんだ。ガンプリ。ガンダムのプリント、というかガンプラのMGことマスターグレードの箱絵をTシャツとかにプリントしてくれるサービスには、今のところ「機動戦士ガンダムAGE」のシリーズはなし。出てないんだから仕方がないけど出てもガンダムじゃあ、ね。っていうかどうもメーンストリームより外れたところを狙いたくなってしまう我が性分が、前に「ターンAガンダム」と「キュベレイ」を買わせたんだっけ。折角だからと「ガンダムEXPO」に着ていったけれど他に周囲に誰も来ている人がいなかったのが残念。ガンプラのお祭りなんだからこれは制服だろ? って思っているのは僕だけか。うーん。そういうノリって今はあんまり流行らないのかなあ。

 まあ良い会場にいて売ってる娘さんと話すきっかけにはなったから。んでもって展示してあったサンプルを見たら「ガンダムUC」が以外と格好良かったのに驚いた。サイトのサンプルで見ると画像が小さいせいもあってちょっとゴチャついてしまっていて、他のシンプルで面が拾いガンダムとかジオンのモビルスーツに比べてインパクトが弱い気がしたんだけれど、Tシャツサイズにプリントされたそれは細部までくっきりと見えて関節部分とか開いて赤く光っているのもよく分かって、むしろスタイリッシュさが増していた。これは良い、ってことで帰ってさっそく購入手続き。あと「機動戦士ガンダムWING エンドレスワルツ」からガンダムデスサイズも。振り下ろされる大鎌が実にもうスタイリッシュ。これで4枚だけれど相変わらずRX78−2はいない。そういうものだ。これが隙間人生って奴だ。

 津田雅美さんの「ちょっと江戸まで」が第6巻で完結。いやあ面白かった。第3巻で嫡子の不幸にしんみりとしたところがあって、そして始まった本格的な跡目争いの中でシリアスな事態もおきるんじゃないかって心配したけど、そこはほのぼのギャグテイストな漫画だけあってしんみりした部分はしっかり残しつつ、最良の展開へと持っていってくれた。ミッシェルを狙うよう言われた武士の子がそれでもできないから自害すると告げた時の母はもとより妹の覚悟っぷりに涙。それが漫画だから救われたけれどそうでないケースもあったんだろうなあ。凄い時代だったんだなあ江戸時代。いや漫画ではまだ江戸時代だけれど。

 そしてミッシェルの台頭とともにソウビくんはどんどんと脇役に。可哀想だけれど仕方がない、ミッシェルがあれだけ神々しければ。でもずっと変わらず最後まで男前だったソウビくん。大奥に入ってすらあのまんまで、むしろ凛々しくなってやはり凛々しくなったミッシェルと重なる姿の後ろに薔薇が飛んでないか探してしまった。つかソウビくんが薔薇なんだけれど。巻末には「彼氏彼女の事情」の「ちょっと江戸まで」バージョンも。雪と有馬の2人とも張り合ってます。


【11月3日】 テレビ局とかパッケージメーカーから降りてくる仕事を請け負うんじゃなくって、アニメーション制作会社が独自に企画を立てて作品を作ってそれをプログラムとして窓口となるテレビ局なり映画会社なりネット企業なりに提供していく、ってのがある種の理想ではあるんだけれどそれだけの体制も資金力もない現状が今のこのどこかありがちな企画のわんさかを生んでいるんだとして、それに抗して未来を開こうとする企業も出始めているのがたぶん映画館をメーンの公開場所にして、独自に作った小さい作品を流して見て貰って認知を高め、パッケージを買って貰うって仕組みの増加につながっているんだろうけれど、それすらもひとつのパターンとして定着して来ていると、今度は劇場の取り合いなんてことにもなってやっぱり優れた企画がどこかに埋もれ、集客につながる企画しか現れて来なくなる懸念って奴も、将来は考えられることになるんだろうか。

 そうならないためにもアニメ制作会社が独自色を出した企画でもって世間にどれだけアピールできるか、ってところが大きな意味を持ってきそうで、そのためにもテアトル新宿でユーフォーテーブルが始めたアニメ文庫って独自に作ってきた作品の上映を、成功させる必要があるんだけれどしかしいったいこれでどこまで大勢を、引きつけられるんだろうかって不安も浮かんでしまった「ギョ」って作品。もちろん素晴らしい映像で伊藤潤二さんのホラーな原作をしっかりとアニメにしてはいるんだけれど伊藤潤二さんなだけにやっぱりどこかカルト色が濃くなってしまって、どこまで広くアピールできるのかが悩ましいところ。だって異臭と醜悪さでいっぱいなんだもん、全編が。

 どこかの漁師が引き上げた魚に漁師たちが吃驚しているところから始まって、沖縄に卒業旅行に来た3人の女子が腐臭を発する謎めいた歩く魚を見つけて驚くという展開。そしてとりあえず魚を潰したもののやがて今度はより巨大な歩く鮫が現れ襲ってきて、その上に島にさらに多くの歩く魚が上陸してはみんなをパニックに陥れる、かっていうとそういうものが現れましたと驚きながらも続く日常生活。もっと大変なことが起こっていると慌てふためくのが人間としては普通の反応なのに、どこかそうした行動原理にそぐわない動きをみんなする。主人公にしてからが東京にいる彼氏が電話口で突然押し黙ったことに驚き、向こうの状況を調べもしないで飛行機に飛び乗って東京に戻ろうとするんだから何というかあわてんぼというか。けどそん彼女を乗せた飛行機が、羽田との連絡を当然とているはずなのに、現地が歩く魚で埋め尽くされていることを知らずに飛んできては、燃料がないから強行着陸するってんだから分からない。それでいいのか。

 現地も現地で、もはや緊急事態の警報が発動されて当然なのに歩く魚がそこらへんを動き回っても平気で出歩き、やがて鮫みたいなのが襲うようになっても街頭で演説とかして襲われてしまうんだから見ていて謎めく。漫画だったらそういう淡々とした不思議さがギャグというかおかしさとなって伝わってくるんだろうけれど、どちらかといえばリアルさが浮かぶ映像表現となった時にどうしてもそこに齟齬が浮かんで見ていて冷や汗が浮かんでくる。もうどこまでもそんな感じ。作品に気持ちがのめりこんでいかない。あとはやっぱり動く死体の醜悪さ、そこから発せられるガスの腐臭の目から伝わってくるおぞましさって奴が好感を殺いでしまう。漫画ならそれも個性だけれどやっぱり映像では、ね。そうしたことをのぞけば絵として動き展開として面白い1つの作品で、だからアニメーションとして見せる意味があったかどうか、ってところが判断の分かれ目になりそう。脇役はセックスもすれば大股開きもして見せまくるのに、主人公の美女はいくら振り回されても素カートの奥がチラとものぞかないあたりの差異がどういう理由によるものなのかも気になる。狙いは。そして目的は。その成果は。聞いてみたいなあ、作った人に。

 そんな楽しくもおぞましい視聴体験をした後で上映された「桜の温度」が同じスタッフが絡んでいるにも関わらずとてつもなく素晴らしい作品でこれだよこれをもっと前面に押し出し展開していけばスタジオのカラーとして、あるいは作家性として世の中にアピールできるんじゃないかとすら思った。多分四国で他に産業もあまりない町で主人公の兄貴はそこにある和菓子工場か何かに就職することがほぼ決まって高校生なのに修行にあけくれる日々。その彼女も実家の旅館で働くことが決まっているんだけれどそういう道しか選べないような狭苦しさに、主人公自身は苛立ちを覚えている。だったらすぐにでも飛び出せば良いんだけれどもそうする当ても勇気もなく、兄の従順にもやもやとし兄の恋人の屈託のなさに暗い感情を覚えて余計に苛立ちを募らせる。

 ここには何がある。家族がいて恋人がいて彼女がいて。なるほどそうかもしれないけれどもそれは本当の思いなのか。妥協はないのか。そんな感情が漂うなかで起こったある事態が兄貴の恋人の将来を変え、そして兄貴自身の未来も変える。それは踏ん切りがついた上でのステップかもしれないけれど、そこで諦めず安住せず流されないだけの気持ちを2人は持っていた。一方で、姿に自分だけは流れに安住しないで逆らっていくんだという気持ちを抱いていたはずの弟は、自分では結局何も出来ず、何もしようとしないまま、あっさりと今を変えて飛び出していった2人に複雑な思いを抱く。地方に漂う閉塞感、未来に抱く不安感が端的な描写の中によく出た作品。揺れ動く心理とそれを最初は感づかせず、やがて分からせていく展開の巧みさに感動し、翻って自分は選んでいるのか、飛んでいるのかといった懐疑に身を苛まれる。新海誠さんが地方を舞台に描く作品なんかに通じる、ここよりほかの場所への憧憬と重なる主題を持った優しくて、残酷な作品。絵にも独自性が滲んでたけどこれが今のところは上映だけだなんて。BD化希望。「ギョ」はそのおまけで良いんじゃね。

 もう10年になるのか「文学フリマ」。青山ブックセンターの会議室めいたところをフルにつかって胎内めぐりみたいな感じであっちこっちを回って面白そうな本がないかと探していたあの日から、10年も経ってるんじゃあなるほど自分も禿げるわけだ、って実はあんまり変わってなかったりするなけれど。体重は増えたかな。コミックマーケットへの対抗意識ってよりは、むしろ文芸誌がその文学性ってよりはむしろ伝統から来る権威のもとに売れる売れないを二の次とした状況に陥ってしまっていたことに、それは違うんじゃないか、そうした権威によらなくたって本当に意味のある文学は送り出せるんじゃないか、ってな位置づけから大塚英志さんが試しにやってみた的イベントだったって記憶があるけれど、それから10年が経った今はむしろ野に広がった評論とか、表現を形にして示せる場として大きく発展。コミケにだってある評論なり創作が、漫画に埋もれがちになるなかで一所にまとまって見てもらえる場として、機能し意味も持ってきた、ってところか。

 かつてはネームバリューでもって有名人が店を出してるって驚きもあったけれど、桜庭一樹さんと桜坂洋さんの本でもってひとつのピークを極めたあとは、有名人のインタビューが載っているとか有名な作品について書かれているといったあたりが人気の基準になっていた。でもそれもひとつの山を過ぎて今はめいめいが自由にいろいろなことがらについて考察し、発表しているって印象。それもあってか今回、会場を東京流通センターへと移して会場も広くなったにも関わらず、その恩恵を存分に感じられるようなひとつのサークルへの長蛇の列って奴が見られず、今までて1番くらいにほのぼのとしたイベントになったみたい。いつも大行列が出来てたサブカルっぽいサークルは今回、出なかったのかなあ。まあ買ってなかったからどっちでも良いけれど。

 とりあえず大学読書人大賞で知り合った慶應の学生が作っているらしい「HK」って雑誌を購入、昨今いろいろと話題になっている「渋家」ってシェアハウスについてルポしたものらしいけれども表紙がそこに暮らす若い人を、男も女も素っ裸にして並べた写真にしたところがインパクト大。もう目について買わずにはいられなかった。タイミングもばっちりだなあ。でもそんなに話題になってた風もなかった。午後はどーだったんだろう。それから限界小説研究会だったっけ、そこがやってた星海社の大田克史さんへの4万字インタビューとか、杉井ギサブローさんと山村浩二さんの対談が載っている同人誌とか、新保昭之監督の特集とか学習院の人が作ってて表紙がアートなまどマギになってて中に評論が載っている本とかを購入、ってやっぱり名前につられるなあ、でも大手ではやらないこともやっていたりするのがやっぱり嬉しい同人誌。それを探しにこれからも通うんだ文学フリマに僕はきっと。


【11月2日】 大学4年生になった今頃にとある業界新聞の試験を受けたら合格してしまったんでそこに行くって決めた自分の四半世紀前の就職活動がまるで参考にはならないことは億も承知。なおかつ僕の場合は夏前にすでに愛知県警の試験にも合格して採用枠にも入っていたんでセーフティネットを持ったまんまの気楽な活動でもあったりしたんだけれど、それにしても今時の学生は今がやっぱり就職活動のピークで、それも大学3年生の人が今ピークなんだと聞くと何だかやっぱり胸苦しい思いが漂って仕方がない。

 1年以上も先の世の中のことを考えながら、一生に関わることを決める訳でもあってそれを、まだあんまり世の中のことを知らないうちにやらなきゃいけない大変さ。同情する。むしろ大学を出たってあっちを試しこっちを試しながら30までにしっかりとした基盤を得て、後の40年間を過ごせるようにする方が誰のためにも良いような気がするんだけれども前倒し前倒しとなるなかで良い人材を早めに確保したい大企業とそんな波に乗って未来を確定したい学生との気持ちがぶつかりあって、こんな状況を招いてしまっているって感じ。

 企業が後にズラせばそれで解決か、っていうとそれではやっぱり今の学生には不安なんだろうなあ、採用されないとそれこそ一生が変わってしまうって、就職氷河期の世代を上に見てしまっている訳だから。しかしもはや高校の頃から就職活動は始まっているんだなんて大手経済誌の記事とか読むとやっぱりどこかひんまがって見えてしまう悩ましさ。そこで勉強して良い大学に行くとか、本当にやりたいことをみつけて学校を選んでそこで一所懸命に道を究めるとかいった常識的な話だったら良いんだけれど、それだって今のこの状況に対応できるのか。

 ともに最適な人材を選び選ばれたいという意識そのものが情勢されないかぎり、成績と学校名とで囲い選んであとはポイ、だなんてミスマッチも大概な状況が進んでいく。それこそ冗談じゃないけれどコネになる親のところに生まれてくるのがベストな就職活動だ、なんて話すら出てきかねない。さすがにそれは無理か。「就活は受胎から。セレブなママのお腹に入り込もう!」なんて言われたって精子にゃ選ぶ頭も力もないんだから。

 あるいは幼児が読む雑誌とかに「就活は幼児から。パパに笑顔で頑張って社長になってね、代議士になってねと言おう!」って記事が載ったりしたりして。それで発憤したパパが社長になったり代議士になったりヤクザの親分になった暁に、グループ企業なり一流企業なり出入りしている企業なりを紹介してもらうんだ。究極のコネ入社。そのために疲れて忙しいパパを奮起させ、諦めかけた気持ちを盛り上げるための笑顔と仕草の例が幼児向け雑誌に載るという。世も末か。それともそれが本当のトレンドになるのか。見守りたい。

 もう勢いだからとKCG文庫から出たヒーロー小説大賞の佳作とそれから藤岡弘、賞なんてものも取っている茜さらささんの「放課後のゴミヒーロー」を読んだら普通に青春してた。部活動になじめずドロップアウトした3人の男子が組んでゴミ拾いでもしようぜってことになったらなぜか話題になって世間から認められ取材も来て女子校との連携までもが果たされようとしていた。もっとも本人たちはそこまでの大げさな事態は予定しておらず、校長の売名につき合わされている気がして果たしてこのままで良いのかって悩んで抜け出してしまうんだけれどそれでもやっぱりヒーローになりたいと気を取りなす。

 挫折から英雄、けれども秩序からは逸脱といった段階を踏んでのドラマがあって起伏になってて楽しめるしひっぱられる。ライトノベルとしてはたぶん普通でむしろ小中学生あたりをターゲットとしたジュブナイル小説的な位置づけにした方が読んでいて啓発にもなるんだけれどそれならつばさ文庫とかの方がベスト。ライトノベルというレーベルから出したことが果たして吉と出るかどうかってところが気にかかる。まあ高校でもいろいろと未来に迷っている人も少なくない昨今、こういうのがあって良いのかも。

 そういや集英社スーパーダッシュ文庫から出たSD小説大賞受賞作の石原宙さん「くずばこに帚星」もゴミ拾いに勤しむ人々が主人公の話だった。序列ががっちりと決まった学校で序列再会に位置づけながらもゴミ拾いが仕事で使命と勤しむ少女や仲間たちの物語り。ライトノベルらしさとひとつのことに取り組む真面目さが出た作品だった。トレンドなのかなあ、ゴミ拾い。

 ここは本当の居場所じゃない、僕にはもっと別の居場所があるんだと信じたい年頃ってあるけれど、そうなんだよ君の本当の居場所はここではなくてこっちなんだと誘われた異世界で、開かされた自分の正体が英雄でもなければ御曹司でもない、世界をせっせと作る虫だったとしたらそれでも自分の居場所をそっちだと思いこめるだろうか。やっぱり良い方を選びたいというのが心理って奴で、さっきまでの悩みなんて軽く吹き飛ばしてやっぱり自分の居場所はここなんだって意を決する、というのが普通の反応なのかもしれない。

 そんな自己都合の権化でなくても、本心の底にはやっぱり自分が生まれ育った場所、接してきた家族への情感って奴が強くあって、別の世界への逃避に二の足を踏ませるもの。紺野キタさんの「カナシカナシカ」(新書館)って作品でも、夢のような世界での出合いやそこの雰囲気に、惹かれそうになっても主人公の少年はやっぱり現世へと踏みとどまる。それは誰かが悲しむかもしれないという思い。10数年を接し続けて生まれた感情は、相手がどう思っていようともやっぱりなかなか消えないものらしい。

 路地にある石をひょいと持ち上げると通じる扉をくぐって異世界へと入った少年が出合ったのは、本当は母親から生まれるはずだったのに死産となっってしまったものの、そこに割り込んできた少年によって異世界にけり出され、命脈を保っていたひとりの少女。彼女こそが母親にとって本当の娘なんだと思うと、自分の場所が薄な割れたような気もしたし、少女への気後れも生まれてしまう。おまけに自分は腹から卵のようなものをはいて、それが世界を作っていく材料になる虫のような存在。決してヒーロー然とはしていないその姿にますます肩身を狭くする。

 だからといって虫の女王あ少年を後継者として決め、飲み続ければ女王になれる蜜を与えてもそれをとろうとはしない。男の自分が女王になるということへの忌避感もあっただろうけれど、一方ではその世界の支配者に近付けるという役得もあって魅力もないわけではない誘い。けれどもやっぱり自分の居場所は現世でそこでいっしょに暮らしてきた母親や、妹たちとの暮らしを選ぶ。祖母だけはかつて同じ世界に行ったことがあって、自分が取り換えっ子だと気づいていたものの、それでも共に暮らした日々はやっぱり重かった。もう異世界へと行けなくなった少年を、孫とは思えなくても家族として受け入れる。

 それぞれがそれぞれの居場所を探して悩み、そして得るまでを描いた物語。死んでしまった悲しみは抱きながらも、それを運命と受け入れ今の居場所に留まる少女の健気さに涙し、本当の居場所を尻ながらも、長く育った場所への情を高く見てそこに留まろうと決意する少年に安心する。都合の良い異世界なんでなんだと知り、その場所で最善を選んで頑張ることの大切さを、感じさせてくれる物語りかもしれない。本当の母親とみえる女王の死に、あまり感じないというのは残酷だけれど、それも一つの真理。誰もが居場所で得た感情をこそ尊ぶのだ。だからこそ大切にしたい今この時。とはいえやっぱり女王の地位って魅力的だよなあ、グラマラスなボディで崇められ異世界の大立て者と対当に出来て、なおかつ権力だって振るえるんだから。むう。


【11月1日】 青山スパイラルでギャラリーを集めてお抱えアーティストの作品を見せるエマージング・ディレクターズ・アートフェアってのが始まったんで何が出ているのか見物に行ったら、新宿眼科画廊のブースに今敏監督のペン画があった。値段が650万円ってなってたように見えたけれどもあれば見間違いだろうか。ミーマニアな内田が霧越未麻を手に乗せた例の絵で展覧会にも飾ってあったけれど、あれがそんな値段になるっていうのはなるほどと思う一方で、やっぱりちょっと驚き。でもダーレン・アロノフスキーならキャッシュで買えるだろう。誰か教えて差し上げて。でも「PERFECT BLUE」ならやっぱりセル画が良いよなあ。アニメ作品なんだから。うん。

 あとeitoeikoって矢来町にあるギャラリーの作品が、孫正義や大江健三郎や小出裕章や斎藤和義や上杉隆や南相馬市長や山本太郎や原発作業員っていった、福島第1原発の事故に関連していろいろと発言している人たちを2枚づつくらい、それぞれ違うアーティストが描いている作品を並べたブースが面白かった。個々に作品なんだけれどもそれらが総体となって醸し出すコンセプチュアルな雰囲気。まとめて買って飾っておくのが通だろうけれど、そういう訳にもいかないんだろうなあ。聞くとこれが面白いんで他のアーティストの作品なんかも集めてまとめてみたいとか。AERAとか週刊朝日とか取り上げたら良いのに、あれだけ原発嫌いな雑誌なんだから。

 愛知県から来ていたギャラリー「万画廊」ってところにあった吉島信広さんって人の陶器の作品がなかなかに楽しげ。龍とか虎とか亀とかいった動物の具象な陶像なんだけれども紋様が入って陶器のプレートを張り付けたりして唐様な雰囲気も持っていたりして、飾るとなんか幸運が招き寄せられそう。値段も高くて5万円と陶器の像にしては安価。だって信楽のタヌキだってそれくらいする奴あるから。同じギャラリーでは宮田真有って人の女性画が良かった。具象な写真のような女性の絵にストッキングとか張り付けてあるミクストメディアな作品。綺麗さに淫靡さが漂う。あれが使用済みならなおのこと、ってそれは違う作品になってしまう。まったく関係ないけど岐阜県から参加のギャラリー水無月の前に発っていた眼鏡の美人な女性2人。女教師風の冷たく表情の薄い風貌と眼差しで近寄る奴らを誰何する、その視線を浴びて背筋を凍らせる快感がたまりませんでした。

 うーん、と頭を捻って揺らして前後に振って、それでもやっぱり少し戸惑ってしまったKCG文庫の新作幾つか。角川コンテンツゲートとネット発の小説発表サイト、エブリスタが組んで出してきたライトノベルの新レーベル、ってことらしいんだけれど、とりあえず読んでみて、何というかギュッとトレンドを詰め込んでみました的な作品って印象で、心にゆとりを求めたい気持ち、新味や革新性を求めたい気持ちと、どこかズレが出てしまう。

 例えば、多分目玉なんだろうKCGヒーロー小説大賞の大賞受賞作品で、HALOって人の「ソロモンの詩篇 魔法学院と悪魔の寝室」(エンターブレイン、600円)。貧乏貴族の息子が、記念受験的に受けたという、エリートばかりが集う王室御用達の学校(って表現があるかどうかは悩ましところ)になぜか合格。その場合、学力なり魔法の力に特徴があるのか、あるいは家柄に秘められた秘密があるのか、なんて考えてしまうものが普通だろう。

 けれども、後で明らかになった入試の成績は最下位で、魔法の力もそれに応じて開く扉をかろうじてスキマ程度に開ける程度しか持ってない。それでどうして合格できたのか。家柄の調査とかあったら真っ先にはねられそうなのに。そこにちょっと引っかかってしまう。それとも先祖にとてつもない人がいたとか。精霊との契約の場面で、他の誰もが制御に戸惑うサラマンダーをあっさり契約できてしまったあたりに秘密が? とはいえ、それは家柄ではなく、両親をバカにする相手の言葉に、真面目に反論したからだったり。正直に弱いサラマンダー? 劇的じゃないけどまあ、まあない話でもないか、うん。

 それはそれとして、周辺に美少女やらが集まりすぎて、ちょっと目移りしてしまう。学校に通うために必要なローブを買いに行った先で、そのときは不明ながらも実は王女さまと知り合い、高いローブを買ってもらう。学校に行ったら貴族の子弟で性格のよい子とまず知り合い、まだその時はいつかの少女とは知らなかった王女様には馬車に乗せられ運ばれ、入った寮では先輩の女性から目をかけられ、その取り巻きの2人の結構やり手の男子からもまあ慕われる。

 さらに、ツンツンしていても悪意はないツインテールの美少女も近くに寄ってくるというハーレム状態。加えて優しいメイドまで。そんな状況にあって主人公の少年は魔法の力は相変わらず発揮できず補講続き。サラマンダーと契約できても、日常では発揮されないからやっぱり血筋は関係ないのか。ただの無能力者なのか。それでもルイズにはとてつもない力があったしなあ。うーん。ともあれそんなキャラクターまみれな展開で、物語がどこまで進んだかというと、今のところは大きな物語は特にない。

 主人公の隣に住んでる貴族の子女で、主人公に悪意を持ってる少女が仕掛けてきては、それを退けるって当たりがクライマックス。そんな物語の最後にある言葉が、「次巻につづく」っていうのが個人的には吃驚した。新人で新人賞発で第1作目が、主人公の存在の謎とか、世界に迫る危機とかそんなに見せないまま、続いていくという展開に、この先いったいどんな決着が付くんだという興味で、今はいっぱいになっている。でもやっぱり、できるならもうちょっとキャラを絞り、コメディならそれ、秘められた力の爆発ならそれといった形を付けて、それでもって起承転結をつけて欲しかった気もしないでもない。難しいなあ、小説って。

 別の1作で、ケルビムさんって人の「バイト先は『悪の組織』!?」(エンターブレイン)も、ぎっしりと詰まっている割に淡々としている印象。養護施設が潰れて追い出された少年が、行く先もなく貧乏なんで悪の組織に入って稼ごうとする。けど養護施設にいた孤児の子供たちを弟妹のように感じている少年は、彼ら彼女たちを引き取っている。矛盾してないか? いやいやどうやら少年は、孤児たちを家賃2万の貸家に住まわせているという。何で一緒に暮らさない? 不思議だけれどもそうはしなかった少年は、ネットカフェからアクセスして応募して、合格した悪の組織から支給されたアパートに、ひとり暮らすようになる。

 その部屋にはなぜか幽霊が出て、主人公の少年を散々脅かすんだけれど、その正体が誰だとか、やがて間に何か感情が芽ばえるといった展開は特になし。主人公は悪の組織で戦闘員として活動し、そんな彼の上司にあたる女性幹部が、実は学校の同級生として現れては、同じアパートに管理人として引っ越してくる。幽霊どこ行った? さらに現場で戦っていると現れたヒーロー少女が、別に貸家に住まわせている弟妹のような孤児の1人だったんだけれど、それを問いつめる場面にはまだ行かず。あと学校には別のヒーローヒロインが通っているけれど、正体がばれるばれないといったすれ違いのシチュはない。

 登場人物が目一杯な割には、絡み合わない展開はなるほど、袖すりあおうと知ったことかな世の中を現しているようにも見えるし、それはそれで面白くもあるんだけれど、でもやっぱり、誰かと誰かの関係性に重きを置いて読んでいきたいのが古い読書人。主人公と女幹部か、主人公と妹か、主人公と幽霊か、それらの入り組んだ関係か。描かれるならそんな話が読みたいんで続きがあるなら、いよいよもってそうした辺りを描いて欲しいもの。戦闘員の悲惨さは「ザリガニマン」で楽しんだし、家族が別れて戦う話は「BADDADDY」で楽しんだ。だからそれらをこえるなり、ずれるなしした新しさを、是非に、いっぱいに。


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