縮刷版2011年10月上旬号


【10月10日】 目の日らしい。だったっけ。忘れたけれどもそれはともかく眠い目をこすりながらも起き出して、東京ビッグサイトへと向かう途中の有明にある防災公園でもってあのロックな出版社のロッキングオンが、なぜか食のイベントをやっているってんで立ち寄ってみたらこれが実にほのぼのとしてゆったりとして暖かそうな風景。ロックってなあもっと殺伐としたもんじゃねえのか、って反逆の魂がうなり声を挙げそうだったけれども一方で、ロックフェスが持つフラワーな雰囲気って奴を体現していたとも言えそうなだけにどっちがどっち感の中、おいしけりゃあ良いって結論に達する。人間、腹が満たされれば反骨も怒りもぶっ飛ぶってもんだ。

 でもって中に入って何を食べようかとチラシを見て、「おせん」って漫画でしばらく取り上げられていた横手焼きそばのブースへとまずはゴー。漫画だとじゃっと炒めた麺に薄めたソースをどばっとかけたりするらしいけどそこのはまあ普通に焼きそばって感じ。目玉焼きを乗せるってのは正しかったのかな。それでも食べるとしっかり染みた味になってて結構おいしかったんで○。縁日の屋台よりはまだ横手っぽかったかもしれない。そしてふっと見上げると等身大ガンダムのイベントに必ず出ていた五浦ハムに大行列が。角切りのハムをジュッと焼いて串刺しにしたあれ、美味いんだ。空いてれば買ったけど今回はパス。いずれまたガンダムが立ったらそこで喰おう。次はどこに立つんだろ。

 もう1品と眺めるとやたら行列が伸びてたブースに目が。メロン丸ごとのスイーツか何か。別にメロンカレーってのも売っていた。なんだそりゃ。流石に喰わないでいろいろ見て歩いてとりあえず空いてた愛媛のB級グルメらしい焼き豚玉子飯ってのをかき込む。ご飯の上に叉焼が乗ってその上に目玉焼きが乗るという分かりやすい食べ物。味もそのまんまだけれどおいしいご飯に焼き豚に目玉焼きが重なって不味いはずがない。悩ましいのはどーしてこれが愛媛ってことか。愛媛って焼き豚の名産地? それとも目玉焼きの名産地? そうでなくても出てくるってのがB級グルメだからきっといろいろあるんだろう、人気食堂の賄い飯だったとかいった。

 金沢カレーが来てたり名古屋から味噌カツが来てたりして時間があればもっと居て食べていたかったけれどもタイムオーバー&腹オーバー。長崎だかのWボーク丼ってどんなのかも見たかったけれども諦め会場を出て、東京ビックサイトで開かれた東京アニメアワードの表彰式を見物する。何だ今回は上のホールじゃないんだ。本当は3月に開かれるはずだったものが震災の影響で東京国際アニメフェアごと中止になって半年後に延期に。それでもやっぱり継続されたってことはありがたい。受賞ってのは一期一会のものだけに、その年だからこそ受賞されるってことがある。実際に受賞は決まっていたとしても、それを授与され世間に喧伝されるチャンスがかけるのはやっぱり勿体ない。その意味でちゃんと開かれたおとには拍手を送りたい。でもメディアの数少なかったなあ。どーしてだ。

 アワードの方では「借りぐらしのアリエッティ」強し、って感じか、美術に音楽に監督賞にそしてアニメーションオブザイヤー。なるほどその年において最高の興行収入を上げた作品だったけれども、内容において果たして他のどれよりも突出していたのか、って考えた時に例えば「カラフル」の存在だったり、「REDLINE」のような音楽的に優れた映画の存在だったりがあって判断に迷う。選ぶ側が知ってる範囲での最高作品、ってことなのかそれとも。やっぱりブランドとして強いってことなのか。うーん。あとはやっぱりテレビシリーズはなかなか入って来ないってことか。文化庁メディア芸術祭を取った「四畳半神話大系」は優秀賞。そこで踏み込んだメディア芸術祭と、留まった東京アニメアワード、ってことになるのか。届いた範囲でやっぱり「アリエッティ」なのか。

 これが来年になるとぐっと分からなくなりそう。だってテレビアニメが超豊作。「魔法少女まどか☆マギカ」に「あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない」に「TIGER&BUNNY」に「花咲くいろは」とオリジナルの傑作がめじろおし。さらに「輪るピングドラム」とか「ギルティクラウン」とかもあったりしてこの先も目が離せない。「エヴァンゲリオン」以来のムーブメントを起こした「マギカ」はTBS経で届いた範囲も広く美術的にも内容的にも優れた作品と審査員も選びやすそう。「あの花」も丁寧さがあってその上に地域と連動したムーブメントがあった。「いろは」も同様。「タイバニ」は一部に熱狂が限られるけれどもそれは2004年にテレビとして最後にオブザイヤーに輝いた「機動戦士ガンダムSEED」だって似たようなものだった。

 それを考えるならどれが受賞したって不思議はないけどやっぱり「コクリコ坂から」になるんだろうなあ。それに異論はないけど他に選ぶものはないってんなら違う。比べて遜色のない中でどんな議論が戦わされるのか。ちょっと知りたい。まあ新聞に関しては大手で文化の本流に携わる者にしかノミネーションの権利はないんで、いくらここでぬかしても遠吠えに過ぎないんで仕方がない。自分は自分の感性を信じて「REDLINE」にオブザイヤーを与えたいものである。あるいは「カラフル」か。つか「アリエッティ」と「カラフル」と「四畳半神話大系」と「けいおん!!」と「機動戦士ガンダムUC」と「ハートキャッチプリキュア」しか挙がってこないってどこがアニメ大国だっていうか。うーん。

 個人による公募からは前にコンテンツマーケットに出品されているのを見た「フルーティ侍」が優秀賞を受賞していて感激。映像を見てコンセプトを聞いてこりゃ良いと記事にしたのが1年くらい前だったけれどもそれから間をおかずに受賞して今回の授賞式となった上にいくつかの展示会への出展もまたある模様。いずれグッズとかできて果物屋とのコラボも実現してゲームができてテレビシリーズになって福岡の先達レベルファイブとサイバーコネクトツーに追いつく企業となるかどうか。頑張っていただければそれだけ去年のうちに紹介した自分の目も誇れるってものだけれど、そーゆー仕事って中に全然伝わってないからなあ。まあいいや、中に伝わらなくても外に喜んでもらえる人がいれば。うん。

 そして功労賞ではあの荒木伸吾さんの言葉が聞けたのが感激。「45年アニメーターをやってきた」という荒木さん。「アニメを見た子どもたちが、私の絵を通し、物語の中からすばらしい夢を描いてくれたことが良かった。アニメの原画を真剣に描いてきたことを誇りに思う」って話してくれたけれどもなるほど、本当に僕たちは荒木さんの絵から、それで表現される物語からいろいろ得てきたんだった。「アニメーターは地味な存在だが、肝心なところを受け持っている。絵描きたちがアニメの難しさの中で進んでいくには目標が必要。はじめは苦しいが、目標に向かって自分を励ましながら向かっていって欲しい」。やって来た人の言葉だからこそ強い。

 最近はあんまりアニメの仕事をしてくれているのかどーなのか、って感じだけれども「これからもアニメーションや漫画を描いていく。その中から自分としてここまでやったと満足できるところまで自分を励ましながらやっていく」と言ってくれた荒木伸吾さん。まだまだやってくれる気構えは十分そう。とってもとってもありがたい。その気構えに答えられる目で伝えられるか、ってところが僕にとっての課題か。とりあえず「聖闘士星矢」の劇場版ブルーレイボックスの記事をしっかりと書いて荒木さんの仕事の素晴らしさを世に伝える礎となろー。功労賞ではあとやっぱり「サザエさん」の4人の受賞あすごかった。フネの人の声が凛としていたことと、サザエの加藤みどりさんの声が艶々だったこと。現役でもそれを維持する普段の努力。永井一郎さんも含め昔の人は凄いなあ。

 想像したのは、取材源の秘匿の原則により明かせない信頼に足る筋からの情報を、取材源の秘匿につながるため明かせない会社関係者が入手し、それを検討した結果掲載に足る情報と認め踏み切ったものの、結果として間違っていたのは検討において甘さがあったためであったので、今後の検討課題いしたいと言って責任をぼかすという方法。ところが出てきたものはみんなで検討したけれど結果として間違えちゃいましたという、責任の所在がどこにあるのかさっぱりわからないというもの。それで検証ならすべて九電のやらせメールだって誰って訳じゃないけど会社で考えたら出てきたんだよすいませんで通ったよーな気もしないでもない。というかいろいろ巷間伝わっている話との齟齬もあったりするだけに、より激しいツッコミを食らった時にいったいどうするか。そしてどうなるか。見守りたい、見守れるものなら。


【10月9日】 小太りだが卑屈ではなく、むしろ諦観の気風で社会を眺めてはライバルを相手に真っ向から挑み引かずむこうも好敵手と認めてちょっかいを出してくる関係がどこか、昨今のありがちなフォーマットをうち破っていたりすると思えた南井大介さんお「楠統十郎の死アナンな日々」(電撃文庫、590円)はそんな感じの小太りな統十郎が目覚めるとそこにはネコミミをつけた少女がいてついでに統十郎とは幼なじみの和希と優希という2人がいて3人は何かにまきこまれて存在を損なわれたとか告げられて、取り戻すためには世界を脅かす存在と闘わなくっちゃいけないと教えられる。

 ふつうだったらそこではい分かりましたとなるところをさすがは前例に挑む作品だけあって統十郎はどーしてそれを自分たちがやるんだ未来を取り戻せるくらいならあんたたちが闘った方が手っ取り早いだろうとネコミミに告げるとそこは流石に予防線がはってあって、強大すぎるんで自分たちが手を出すと燃えかすの存在もふくめてすべてが吹き飛ぶとかぬかしおる。本当かどうか。さらに突っ込むんだけれどそこにネコミミも必殺の言葉をもてき。「こまけぇことはいんだよ」。それを言われてさらにつっこめる奴はいないと統十郎は和希と優希の2人を従え、世界を脅かす存在を相手にまずはネギで挑もうとしそれが次ぎにトンカチになり何かに変形していく様を見つつ前進。そして遂に敵を討ち果たす。

 そこのあたりはまあ普通だけれども途中で敵に操られた幼なじみの優希が統十郎にかろうじて保たれた自我から告白するシーンがあったけれどもそれをまるでフラグと思わず、そんあことはありえない、優希が統十郎を気にするのは彼が和希から関心を向けられていることが気に入らないからでむしろ和希のために消えて欲しいとすら感じていたりする心理から、自分に告白しようなんて言葉を履くのは操られているどころかニセモノだといった結論を導き出す。そこにもああいった展開をことごとくロジカルな枠内に押し込めてみようとする企みが見て取れる。けれどもそうした展開の意外性より何よりこういう物語が「ピクシーワークス」とかいったシリアスさを持った空戦物が得意な南井大介さんによって書かれたことの方が不思議で意外で驚嘆。何かあったのか。圧力かそれとも人質か。やはり売れ行きか。「こまけぇことはいいんだよ。面白ければいいんだよ」。そうでした。ってことでこれは面白いので読むように。

 もっこりと起きあがってまつはお台場へと出むいて「痛Gふぇすた」へ。春の開催でいったん休止かもって思ったけれども場所が続いてたようで恒例の秋も引き続いての開催。前回以上に車が増えててもう1日ですら見て回れないような規模になってきた。これ以上増えるんだったら他に会場も用意しなくちゃいけなくなりそうだけれどそれでもまだ少しは余裕があるのかな、次ぎったって幕張の駐車場くらいしかないからなあ、そっちの方が個人的には近そうだけれど。そしてざっと見て目立ったのは「あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない」や「魔法少女まどか☆マギカ」といった今年のアニメが幾つかあったってところか。でも流石に「TIGER &BUNNY」は見なかったのは版権もとの問題か、痛車にするには題材が題材だからか。前者かなあ。

 そこから台東区は浅草の都立産業貿易会館にいってGEISAI15を見物。いつもは 東京ビッグサイトなんかで開かれているオシャレでモダンな美術の展示会なんだけれども春の開催が中止となったその代わりめいた開催ってことで場所を抑えたのか、いつもは玩具の展示会なんかでよくおじゃましている場所でそこの1つのフロアを使って200組くらいのそれも20代までのわかてがいろいろな作品を出していた。銅で叩きあえげてつくった不動明王だとかは福島原発爆発へのオマージュ的作品らしくなるほど現代性とか思ったり、広島から来たスタイリッシュに動物とか人間をコラージュしてスプレーでふきつけ描く人の格好良さに惚れ惚れしたり、美少女を描きつつアートとして存在させる美大生の絵になるほどと感心したり。見て楽しかった。

 千代田アーツ1313だったっけ、そこのアンデパンダンに出ていた少女がスカートの中に別の誰かの顔をつっこませている木彫の作者の人が違う妊娠を体験しているような少女のちょっぴりグロテスク、それでいて生命観を感じさせる木彫を出していて話を聞くとまだ美大生っぽくってこれからちょっと期待したい。だって格好いいんだよその作品。千代田アーツではどーして誰も点数を入れなかったんだろう。僕は気に入った。あと広島出身で山口大学教育学部を出た23歳の女性の絵もモチーフが可愛くってどこか仏教思想も取り入れられてて目についた。売れて欲しいなあ。さらにブリキの人形に刺青のペイントしてオリジナルの首を乗せた人の作品も。手書きってところが凄まじい。それがブリキの人形が持つのっぺりと鎮座ましましている空気感と相まって不思議な雰囲気を醸し出す。かしこまった荒くれというか。これから世に出ていくだろう。1つ所望したいけど高いんだ、アートピースだけあって。デザインフェスタにも出るそうなんでまた行こう。

 新橋へと戻りうどんをかきこんでから「第5回全日本アニソングランプリ」の決勝大会を見物。行くと入り口に記者が群れてて何かと思ったら司会をやってる東貴博さんこと東MAXさんの結婚話でコメントを欲しがる人たちのものだった。っても正午から午後7時まで及ぶ仕事のどこかで囲みなんて無理らしく、その場は治めて最後に集まっていろいろと終わってからつかまえ訪ねた模様。大変だなあ、記者って、って言ってていいのか自分。でも今日はメインは東MAXでもなければきゃんちでもなくアニソングランプリ。全国から集まった精鋭たちの歌声を聴くイベントで登場してくる10代の少女たちの完璧さって奴に打ちのめされる。今からこんんあで将来どうなるの? って期待とそしてこれ以上いってもなあ、という気分が綯い交ぜだけれど今はまだ歌に歌われていても将来は歌を歌うことになるだろうと期待も可能。だから結果的に14歳の中学生が完璧な創聖のアクエリオンを歌い優勝したのもそれでいいのだって思うことにする。

 27歳だった佐咲沙花さんのような、あるいはカナダから来たHIMEKAさんのようなインパクトも声での特質もまだないけれどもそれもいずれ付いてくるんじゃなかろーか、ってもゲストライブで出てきた佐咲さんはグランプリに出てきた時以上に個性が出てきて誰もがファンになりそうな感じ。そしてHIMEKAさんは歌えばとてつもない凄まじさがさらに倍になったかんじ。そのパワーその才能がもっとメディアに露出していれば、今頃紅白歌合戦にだって出ていたって不思議はないんだけれどもご存じのように緊張の激しい人で本番でどーなるか想像できないってところにやっぱり、前へ前へと攻められない何かがあるんだろう。でもやっぱり凄い歌声。今のアニソン歌手の誰よりも巧いと断じて僕は憚らない。これからに期待。そしてグランプリの人も。落ちた板前修行の青年も。東京地区の優勝はスタイル抜群顔もくっきり歌も巧いんだったらアイドルユニットに行けば即デビューできるんじゃないのかなあ。軽くセンターだって取れちゃいそうだぞ。


【10月8日】 見てないけれども無様な戦いぶりだったみたいで、それはベトナムというチームを相手にした新善試合というユルさもどこか漂う場で、1点しか奪えなかったというスコアが現していたりしそう。ちょっとだけ見たスポーツニュースでは逆にベントナムに何度も迫られ得点すら奪われそうだったところを、ゴールキーパーの好セーブで凌いでた。あれの1つでもキマ手居たらあるいはこのシリーズ中にザッケローニ監督の首も、って思いすら漂ったけれどもそれをするには誰かが責任をとらされるという日本サッカー界の妙な掟もあるからきっと、そのままいってやきもきさせられる日々が続くんだろうなあ。いつか見た光景。それは2002年から2006年の間であり2008年から2010年の間であり。つまり。

 勝つにしろ負けるにしろそこになにがしかの意図が見えるんだったら多分僕たちは納得する。東南アジアでしんどい戦い方をして優勝を勝ち取れなかった2007年のアジアカップですら、そこに何かをやろうとする意図が見えてそれが後につながるだろうという確信もあって結果に一喜一憂することはなかった。その成果は実際に2007年後半のスイスやオーストリアとの試合であったり、エジプトとの試合で見られた訳だけれどもその後に起こった悲劇がすべてをぶち壊してしまった。いや、少なくとも走って動いて守って攻めることへの意識、それを成立させる連動性というものだけはしっかり刻まれ選手たちの間に残ってそして2010年のワールドカップでの好成績に繋がっている、と思いたい。そして2011年初頭にも。

 けれどもそうした“遺産”もこの半年ですべてが雲散霧消してしまった模様。ちらりと見たニュースでの選手たちは止まって受けて出して動いてそして止まって受けるというまるでポートボールでもあっているかのようなゆったりぶり。動いてもらって出して動いてもらって動いて動いて動いてという、走りが連動してボールと人とが進んでいくトータルフットボールの気配なんか微塵もないその戦いっぷりで、どーしてベトナムからだって得点を奪えよう。システムが3−4−3だろーと4−2−3−1だろーと底と中と前とそして左右が根でも張ったようにそこにいて、もらい出してるだけではもはや勝てるほどアジアは甘くない。

 ましてや3−4−3といったら全員がポジションとか無関係に動いてもらって出して動いて奪うトータルフットボールの基本布陣。そのスピリッツとはまるで正反対の動きを見せられないのならもはや何を言っても無駄だろう。試合が始まったらサッカーは監督でするものじゃないし布陣でするものじゃない。試合になったらそこにいるのは相手でありそこにあるのはボールな訳でそれを誰もが自覚して、最善の動き方をしていけばいいだけの話なのにそれができないのはやっぱり選手の問題ってことになるんだろうなあ。それともいい歳をして教わってないからできませんとでもいうんだろうか。ううん。

 ともあれすぐに今度は本番の3次予選が来るわけで、そこでも同じ体たらくだった日にはそれこそ選手を全員とっかえて、3バックが得意なサンフレッチェ広島の外国人だけ日本人にした布陣で挑んだ方が勝てるって来もして来た。リベロには我らが中島浩司選手がサムライブルーをまとって迎え撃つ。あるいはボランチとして絶妙なパスを出し、そして気が付くと最前線でゴールを決めている。そんな姿が見てみたい。見てみたいからザッケローニ監督にはもっと広島の試合を見て、3バックに最適のリベロの存在を確認して頂ければこれ幸い。トップではもちろん佐藤寿人と李忠成が走りまくって決めまくるんだ。いや別に僕はサンフレッチェ広島のサポーターじゃないけれど、魅力あるサッカーやってるところって今、他にそんなにないからね。見ておきたいなあ、今の広島とそしてユングベリのいる清水エスパルス。

 サッカー成分が不足して来たので父親の出身地ってこともある鹿児島からはるばるやって来るFC KAGOSHIMAの試合を見に行こうと天皇杯2回戦対FC東京戦を味の素スタジアムまで出むく。久しぶり。ジェフユナイテッド市原・千葉がまだJ1だったはるか昔に何度も足を運んでいたけどそれ以降、ちょっと記憶にないくらい脚が遠のいてしまっていた。こんなにでっかいスタジアムだったんだ。でもって相手はFC東京。来るJ1昇格へのライバルではあるんだけれども勝ち点ですでにはるか彼方を怒れてしまってあっちはほぼ確実、こっちはあるいはという瀬戸際にあって気持ちもちょっと落ち着かない。春先の緒戦では圧倒的田のにどうしてこうも差が付いた、ってところはやっぱり選手層なんだろうなあ、徳永悠平選手に梶山陽平選手に羽生直剛選手に谷澤達也選手に田辺草民選手にルーカス選手に諸々。ニュースに名を連ねる選手がいるんだからかなわない。ジェフ千葉でそんな選手が誰か居る? でっかいのがいたけど今は沈んじゃってるし。

 おまけにそんな面子がズラリとスタメン張って出てきたFC KAGOSHIMA戦。こりゃあ虐殺されるかとも心配しあけどこちらには桜島の加護がついていた。箱の中からあらわれた平べったい衣装が目を離したすきにまるで桜島としか見えないマスコットへとトランスフォーメーション。その姿は遠くFC東京のスタンドからでも目に付いたようで可愛いこっちむけなんだあれ赤いといった反響からやがて自由席ってことも利用して打つって来た人もいた様子。試合中もずっとその体をゆすって応援に励んでいた、その愛らしさに見物に来ていた子供がいっぱい群がって、押したり手を潰したりして遊んでた、って最近の子供は怖いなあ。でも今回の試合でナンバーワン注目度だったことは確か。試合中よく頑張った。中に人などいないけど。

 試合はやっぱりパスがつながりシュートに精度があるFC東京に一日の長が。前半に2点を奪い後半にも2点を取って4点で勝利し次ぎに駒を進めた。でも鹿児島も前戦によくボールを送って後一歩のところまでいったりしていて、これなら地域リーグはもとよりJFLでだって良い試合ができそうな気がしてきた。監督と選手をいっしょにやっている今時珍しい選手もいれば17歳の高校生なのにゴールキーパーに抜擢されてあのルーカス選手のPKを止めた選手もいる。GKなんてほかにも俊敏な動きをいっぱい見せてて、このまま成長すれば結構な選手になっていきそうな来もしてきた。船川航司朗選手。その名をしっかと刻み込め。


【10月7日】 やはりとりあえずとテレビ東京でワールドビジネスサテライトを見たら冒頭からちゃんとスティーブ・ジョブズの訃報について報じてた。他の番組はといえばそれがどうにかなったところで、世の中がどうにかなる訳でもない政局とやらに絡む小沢一郎代議士の公判について延々。勝とうが負けようが今の政治家がきちんと政治をしてそれとメディアがきちんと評価し報じていれば、世の中にはまるで影響力なんてない裁判ともいえるのに、それをフレームアップしてさも大事のように語ることによって、1人の政治家の“剛腕”ぶりを作り上げ、それを拠り所にして政治の仕組みって奴を描いてみせる。そうすべきではないと片方で言いながら、そういう方向でしか語れない無策。かつそうした方向で語られることに安住している受けての無関心。その仕組み自体を革新しなきゃいけないのに、世界の仕組みを革新した人間の死を後回しにするところにやっぱり今の日本の政官財報、4つのブロックの旧態依然っぷりが見てとれる。辛いなあ。

 とはいえそのWBSだってジョブズについてどうだったって訪ねた相手が元ソニーの出井伸之さんだったりソフトバンクの孫正義だったり元アップルで今は日本マクドナルドの原田泳幸さんだったりグリーの田中良和さんだったり。なるほど経営者として世に語られる人たちだけれどその誰がライフスタイルを激変させる何かを生みだしたって言えるのか。ソフトバンクの孫さんについてはADSLの価格を強引な戦略によって大きく引き下げネット利用の隆盛を作ったって言えるかもしれないけれどもその決死さの上に独自に作り上げたものが何かあったかというとちょっと。グリーは携帯ゲームの集約化で一気に世に出たけれども過去にサイバードだとかインデックスといった企業が待ち受けや着メロといったもので世に出てそして今は……といった歴史を見るとやっぱりちょっと判断に迷う。目は良くてもそこまで、っていった感じか。

 マクドナルドの原田さんは日本のアップルで頑張ってコンピュータを売ったしマルチメディアタイトルのメーカーを回って面白いソフトをいっぱい作ってもらったけれどもそれもマッキントッシュという土台があったから。プロダクツにおけるイノベーターとはちょっと違う。もちろん今のマクドナルドでの仕事っぷりは素晴らしい。安いんだけれどやさぐれたイメージもあって入りづらかったマクドナルドの店をクリーンにしてメニューもおいしそうにして、入って楽しくすごせる場所に替えてくれた。それは感謝。でもそれって飲食産業としちゃ普通じゃん? 革新とはちょっと違う。そいsて出井さん。ソニーの今こうなっているそのきっかけをつくった人だって思うとまるで正反対じゃないかって気がしないでもない。それとも反面教師としての出演か。

 なるほど出井さんの下で面白そうなプロダクツはいっぱい出てきた。パソコンのVAIOは無骨だったパソコンの世界にデザイン性を持ち込んでノートブックの印象をガラリとかえた。これがなかったらあるいはアップルのデザイン性回帰もなくiMacも生まれなかったか? というと分からないけどすくなくとも潮流は作った。それからエンターテインメントロボットのAIBOがあって夢をくれた。インターネットにも注目してソネットを作ってコミュニケーションとエンターテインメントを組み合わせたポストペットを導入した。これが携帯とシンクロしてたらSNSからソーシャルゲームへと発展してた? って可能性なんかもついつい考えてしまう。コクーン。チャンネルサーバー。今なら普通になったテレビまる撮りって奴を先駆けて実現してた。

 プレイステーション事業については久多良木健さんという人の貢献が大きいからちょっとわけて考えたいけれども、それが全世界で大成功できた背景には、いろいろやってたソニーが体力をしっかりつけて生産とかでバックアップをしたからってこともある。いずれにしても1990年代半ばから2000年代初頭にかけてソニーはとてつもなく素晴らしく光って見えた会社だったけれどもそうした画期的なプロダクツの数々で、今なお主流になっているってものがいったいどれだけあるのか、って考えた時にやっぱりそこに何かが足りなかったと言えそう。それぞれをつなげるネットワークについては検討されてたし、上で転がすコンテンツだって音楽映画と先取りしてとってきた。なのになぜ結びつけられなかったのか。あるいはプラットフォームから情報コングロマリットと向かってしまってそこで孤高に立ってしまったってことがあるのかな。

 ソニー・ミュージックエンタテインメントを持ってリアルにCDを販売し、リアルに音楽プレーヤーを展開している分には良かったけれど、それがネットというオープンなプラットフォームに移行したとき、垂直統合型のメディアコングロマリットの中ですべて完結させようとしてしまって余所の音楽とか余所のハードウエアとかをそこに参画させる算段ができなかった。対してアップルはiTunesというプラットフォームを用意してiPodという出口を用意して単一の中でそこにあくまでも提供してくれrばiPod向けに売れますよって誘いかけた。

 誰だって参画可能。他にだって行こうと思えばいけないこともないけれどとりあえずiPodが1番売れているならそこだけでいいやって判断させるだけの土台をしっかり作っていたことが、今にいたる成功へとつながった。もしもソニーがそうなれるとしたらレーベルゲートみたいな音楽DBとPCや各種のソリッドオーディオを全部参画可能なプラットフォームにしてしまうべきだったんだろうけれどどこかで足並みが揃わなかったって感じ。

 今まさに進んでいる書籍とかの電子化でその轍を踏まないようにしなくちゃいけないんだけれど、見るとあちらこちらにデータの規格が乱立し、デバイスの規格も乱立してはしっちゃかめっちゃかになっている。結局携帯で見た方が早いとかPCで画像データ読むのが早いなんてことになっててそうこうしているうちに海の向こうから書籍コンテンツをたんまりと揃えたアマゾンがキンドルとともにやってきて、全部持っていってしまうって寸法。どうしたものかと思うけれどもどうしようもないんだろうなあ、この世の中。かくして日本にはアップルのジョブズの死について語りそれが説得力を持つIT企業の経営者ってのはいなかったってこと。未来は? そんなものは来ない。

 なるほど確かに単独のタイトルとしてはゲーム史上で初めてかもしれない美術館での展覧会だろうけれどもゲームって表現についての展覧会なら既に2000年とかに水戸芸術館でもって「BIT GENERATION2000」という展覧会が開かれては、ゲームが強大化されて遊べたりアミューズメント機が並んでいたりする上にゲームが持つ表現上の方法論なんかも紹介されてて、新しい芸術表現としてのゲームにスポットがあたっていた。あと外神田にある小学校を改装したスポットをギャラリーと呼ぶならそこで「パックマン」の30周年を記念する展覧会が一昨年だかに開かれていて歴史を存分に学んで遊べた。それを含めるんなら単一タイトルって面でもすでに先を越されている。

 だからその世界一とかいった部分を強調するのはギャラリーの人間としてちょっぴり自慢が過ぎるんじゃないかって気もしなかったでもないし、ゲームが生まれて30年とかそれ以上、美術界としてずっと知らんぷりをして来たんだってことを逆に喧伝してしまってあんまりよろしくないんじゃないか、って印象も浮かんだけれども、日本人があれだけ愛するタイトルについて目一杯、紹介されててその上にいろいろと体験までできるって意味ではなるほど立派に偉大な展覧会って言えるかも。あと飲食関係が充実していてドラゴンクエストに関連したメニューがいっぱい揃っていてあれもこれもと楽しめそう。歴史云々ってところはスルーして普通に楽しい展覧会として行って遊んで食べて買おう。グッズとかあったなあ、あの兜とか買って身につけたら格好いいかなあ。


【10月6日】 気が付くとアニメーション版の「ちはやふる」が始まっていてあの絢爛な絵柄と熱血な展開をどうアニメでもって表現するのかと気になっていたら非日常へと浮かばせないで割に現実世界に近い空気感を盛ったアニメになっていたあたりに浅香守生監督のそうした空気感を出す力のお陰なんかと考える。冬場のアパートの部屋が盛ってる少し暗めで少し寒げなんだけれどもそんな中で子供たちはかるたに賢明に取り組み時間が経つのを忘れてしまうという、そんな子供のころによくあった光景って奴がそこに箱庭のように再現されてて懐かしくもしんみりしてしまった。今も子供たちってあんな感じなのかなあ。

 スタートは高校時代からでえらい美人が入ってきたけどスカートの下にジャージ姿で椅子にのってビラをはる姿からすでに無駄美人の称号を得ているところからスタート、そこから過去に戻って綿谷新が転向してきて千早といっしょにかるたをするシーンが混じってそういう関係があったと示すところはいきなり小学生編ではやっぱり違うという判断か。まあ当然か。そこに絡むまつげくんは小学生の頃は乱暴者だけれど高校になって超イケメン。そしてすでにかるたへの情熱は失い彼女とかつくって適当にやっていたりする、そんな彼をどう引き込んでかるた部を作るんだったっけ。もう随分と前の本なんで覚えてないけどそんなあたりを復習しながら展開を見ていこう。声に異論なし。可愛いけれども芯がある感じ。出てました。あとはクイーンの声かなあ。どんないけず声なんやろ。

 こちらも始まっていた「真剣で私に恋しなさい」は何かいきなりバトルで誰が誰やら、ってところは既に始まっていた「境界線上のホライゾン」とも共通か。絵のクオリティはどうだろうかだけれども戦う美少女たちの姿がブルマだったり体操着だったりするところに目がくぎ付け。SクラスとFクラスって喋り方があんまりだとどっちがどっちか分からなかったりするのが悩ましいところではあるけれど、見ている内になんとなくどちらがどちらか分かってきたんでもう1度くらい見直せば体勢も判明。その上でどういう戦い方がなされていたかを分かった上で次回へといけるだろうから見直そう。現れた額に×印の猛女ってそうか「君が主で執事が俺で」に出てきてたのか。すっかり忘れていたけどそっちも見直したいけど焼いてたってDVD−RAMに。

 目覚めるとジョブズが死んでいた。誰だってそれはスティーブ・ジョブズ。アップルコンピュータを立ち上げマッキントッシュというパソコンを作り追い出されながらも戻ってiMacというカジュアルでハイスペックなインターネットマシンを出して世に大勢をネットに誘ったその上に、iTunesというシステムを導入してそこから何でも帰るようにしてソフトウェアの流通を握った上にそれらに対応したデバイスでも超画期的なデザインのものを出し、もはや離れられないくらいに大勢のユーザーを作りだし、人間のライフスタイルを変え世界を変えようとしていた男、といっても言い過ぎどころか言い足りないかも。

 なぜってしばらく離れていた間に買って経営していたピクサーで、フル3DCGのアニメーションという奴を作る支えになってはジョン・ラセターという名人を世に送り出し「トイストーリー」という傑作を送りだし、そして今へといたる3DCGのアニメーション全盛な世の中を生みだしたってこともあるから。あのディズニーにだって決断をさせたその技術とその作品。その全部にジョブズが関わっていた訳ではないけれどもジョブズがいないピクサーがそこまでのものを作りだしていたか、そもそもピクサーがピクサーとして存在し得たかというとおろでその存在の意味ってものも見えてくる。スティーブ・ウォズニアックがいたってアップルは世界に広まらなかったし、ジョン・ラセターがいたって「トイストーリー」は生まれなかった、って感じか。

 今の世の中に何をもたらしたかを語ればどこまでだって語れそうなその人生。だから個人としてのアップルの意味に限定して語るとしたらジョブズが作りだしたアップルコンピュータのマッキントッシュがあったから今こうしてこうやってこれを書いているという感じか。1994年にLC520からアップグレードされたLC575が出たのを見て最初はDOS/Vマシンを買おうとしていたけれどもそっちに替えて秋葉原の九十九電器から担いで替えってとりあえずセッティング。その時にモデムも買って帰ってネット接続もしたのかな、まだソフトがなくって出来なかったんだっけ、覚えてないけどとりあえずワープロではなくパソコンとして買ったマッキントッシュがネットを見たり、文章を書くきっかけになった。

 1995年になってインターネットが出始めて来たんでインターネットマガジンを買って個人接続用のソフトをCD−ROMから移してあれやこれやといじってどうにか接続官僚。増え始めていた個人ホームページをのぞいて情報を集めているうちに、自分でも情報発信がしたくなってそして1996年初冬に頑張ってHTMLを手打ちしてホームページを立ち上げた。それからデザインもソースもいじらないまま15年。いろいろと書き続けるうちにいろいろなこともあってどうにか今の自分があるという。だからやっぱりきかっけはマッキントッシュ。その源流はスティーブ・ジョブズ。脚を向けては寝られない。

 えっ。と驚くことが幾つか。そしてそれは身に恐ろしも大きな震撼をもたらす。「六三四の剣」に「JIN−仁−」と傑作マンガを次々にものいしている村上もとかの最新刊「蠢太郎 JUNTARO」(小学館、552円)は、まず山野を彷徨う娘と母、に見えて実は息子と父親という女形の歌舞伎役者の旅程から始まって、芸の良さで金を得るものの住む場所に困り雪の中を寺に入って父は衆道に身を染めつつ、息子のためにと寝床と食事を得て一夜の宿を得る。

 そこに飛び込んできた官憲たちから親子はかろうじて逃げ京都の町へと入ったが、世は明治維新直後で天皇が京都御所から江戸城の御所へと移り、京都の街はどこか沈んだ空気の中にいた。本当なら追い返されないところを、芸の実力もあって父親は芝居小屋の片隅に仕事を得、そのうちに江戸東京でならした芸を認められて舞台に立つようになって、息子共々とりあえずの落ち着き先を得る。謎の追っ手も京都の町ではヤクザの大立て者の庇護があって近寄れはしなかったが、そこに加えてもうひとり、親子を守る驚くべき存在があった。

 その存在が果たして歴史の上に実在したのか、それとも空想なのか。なおかつその存在がそこにいる以前に行われたらしい陰惨な出来事も記されていて、これが空想だとしてもあまりにも凄まじく、そして蔑ろにはできない興味を歴史へとかりたてる。これを他の誰かがさらりと描いたのだったらひとつの空想と割り切れたかもしれないけれど、何しろ筆者は手塚治虫マンガ文化賞なども受賞し、今や日本を代表する漫画家の一人となった村上もとかだ。その人がこれを描き世に問い出版までしてしまった以上はやはり、そこに史実か否かといったことを越えるメッセージを読みとる必要もありそうだ。

 ただし歴史の裏に隠されていそうな事柄であっても、そこに登場するものたちに卑怯者は誰もいないのが、さすがは国家百年を考え維新という大事業にあるいは挑み、あるいは妨げようとしただけのことはありそう。京都で蠢太郎という名を得た息子が見た存在も、そして連れられて江戸で出合った敵方の筆頭も、その上に君臨する存在もすべてがこの国のために心を砕き、時には鬼ともなってことに挑んだ。そうした狭間に翻弄される形となった蠢太郎には誰もが優しくそして丁寧に接する。美しさと芸の見事さがそこに加わって蠢太郎は完全に日向とは言えないまでも暗い日々を脱して自分自身を持っていく。

 ひとりの女形の凄絶な生き方と読んで存分に楽しめる漫画であることは確か。身は女性の格好をしながらも中身は男として出会う女性に懸想し体も奪い求めることもある。それでいてやはり残る女形であり芸人である心が厳しい場所でも舞台へと身を赴かせ、誰が相手でも演技を見せてそしてその心情を引きずったまま仇ともいえる男のために身を投げ出して腕を奪われる。ただただ凄まじいとしか言いようがない。一方で明治という世ができて進んでいった裏側を、想像する楽しみもある。あの存在は本当に実在していたのか。その過程で起こったことはどうだったのか。伊藤博文に貞奴といった歴史上の人物たちの言動も、歴史に照らしてどこまであり得るのかを探る楽しみがありそう。とにかく驚きの歴史漫画。そして感動の芸事漫画。こうしか生きられなくてもそこでどれだけ生きるのかを見せてくれる物語に、可能性の拓かれた世を縮こまって生きる身を省みよ。

 大日本印刷が五反田に持ってるパリのルーブル美術館との共同事業に新しくエジプトの展示が来るってんで見物に。供物を捧げることがテーマになった展示は供物を置いた台とか捧げる碑文みたいなのが来ていてエジプトっぽさ炸裂。そこに生きた心臓を捧げるとメキシコあたりだけれどもあちらでは死んだ人のお腹がすかないようにと模型のアヒルだとか野菜なんかを置いておいたらしい。日本だと毎日ちゃんとお椀にご飯をいれて水を置く。それはだからやっぱり豊穣な地だからこそなのかも。まあ昔は埴輪とか入れていたからそれに近いのか。死語の世界がリアルと地続きで同じような体調で存在していくって発想。それはやっぱり人間にとって避けられない死への恐怖の裏返しが、替わらずあって今も続いているってことなんだろうなあ。人間って微力でそして永劫な存在だ。


【10月5日】 「妖怪人間ベム」の実写化でもすでに巷間、もろもろの意見が飛び交いやっぱりベムは声だけ小林清志さんにしないと締まらないとか、ベラは五輪まゆみさんに頼むべきといった話もあったりなかったりするけれど、それでも一種のコスチュームプレイな作品だけに誰が演じてもそこそこの見ばえにはなってくれそう。それは「怪物くん」が証明していてあれだけの突飛なキャラを突飛さゆえに造作でもって構築し、それなりに見せる物に仕立て上げている。でもこれはちょっと。「ひみつのアッコちゃん」を実写でやるという話が出たけれどもその主演が綾瀬はるかさんだと聞いて驚いた。

 だってぼよんぼよんだよ。ゆっさゆっさだよ。たぷんたぷんだよ。そんな人がアッコちゃんだなんて小学生を果たして演じて倫理審査基準にひっかからないのか、体操だからってあの年頃ならまだきっと男子といっしょに着替えてたりする、そんあ中に綾瀬さんが入ってすぽぽんと脱ぎだしたらもうそこいn一気にPG12はついてきそう。そして体操着でスクール水着で受業なんか受けた日には一気にR15まで上がったりする可能性も。いやもう大人の僕にはそんなことは関係ないんだけれどでもやっぱり、より多くの人に観て貰いたいって思うとそこに綾瀬さんをぶつけ、それを僕たちしか見られない心苦しさってやつがつきまとう。いや本当に心苦しいなあ。わくわく。

 なんて勝手に心苦しく思っていたら何だって、綾瀬はるかさんは魔法のコンパクトを使って22歳になって岡田将生さんと恋をする役だって? それなら別に「ひみつのアッコちゃん」である必要はないじゃんか、あれは子供が子供ではいかんとしがたい場合に大人になって何とかするっていうのが醍醐味な訳で、そこから子供であるってことをのぞいたらただの大人の恋愛ストーリー。せいぜいが心が子供ってことだろうけどそれだって成長しない大人って考えれば割に普通にいる。だいたいが子供の無邪気さでもって綾瀬はるかさんがぼよよんぼよよん……じゃない日々を送るからそれなりに見て愉快さもあるってものだ。それをどうして。考えるほどに分からない。いっそそれならメルモちゃんを実写でやって子供の服のまま大人になった綾瀬さんがぴっちぴちのぼよよんぼよよんと……ごほん、ともあれ意味不明ながらもまあビジュアルさえ真っ当なら見てみるか。見るのかやっぱり。

 家から近いんでCEATECを見物に行ったけれども見るものはタブレットばかりなり、といった感じか、あとは高輝度高解像度のテレビ。テレビなんて去年あたりにLEDがくっきりで小電力だって誘っていたと思ったらことしはレーザーバックライトが鮮やかって展示があってそれなら来年はまたいったいどんな凄いのが出てくるんだって、そんな気分になって買い控えを起こしちゃうんじゃないのかなあ。昔だったらトリニトロン管があればだいだい10年はオッケーだったのに今は毎年毎年倍々で良くなるから買い換えるタイミングが分からない。地デジ化のタイミングを逃した今はもうあとは延々と。そうなるとタイミングとしてはやっぱり4Kの登場ってことになるのか。いつなんだ幾らなんだ。

 タブレットはもうどこが何を出したところで買う気も起きないというか買って何をすれば良いんだというか。映像を見るとかメールを見るとか音楽を聴くとかいったそんなところ。だったらiPhoneとかで間に合うじゃん、あれは電話までかけられるんだぜっていった時にタブレットを何に津勝て貰えばいいのか、それを提案しないと浸透しない。かといって読書につかえますって喧伝したもののシャープのガラパゴスはその読書にどれだけむいているのって話でアマゾンのキンドルの足下にも及べ無かった。だったらどうか映像か。レグザだったらレコーダーとの連携でもって環境を屋外にも広げるって意味がありそうだけれどそのためにだけ買うのもなあ。そんな辺りの提案をほっぽりだして側だけで勝負するところが日本の家電メーカー。ブランドと既得権益だけで売ろうとして売れないどっかの紙媒体にもちょっと似てるね。さてどうなる。

 薄さ軽さを競われたってもうさっぱり。羽より悪い訳でもないし。いっそだったら各社が10枚づつのタブレットPCを積み上げて、それをマス・オーヤマによってゴッドハンドしてもって何枚まで割れるかで強さを競い合ったらプレゼンテーションにもなるしエンターテインメントにもなる。まさか全部が全部10枚とも割られるなんてことはないだろうけれど、でもちょっと見てみたいその強さ。かつて液晶テレビを那須与一が矢で射抜いてその強さを競い合ったイベントの再現を、ってそんなイベントやってねえよ。まあそうだ。あるいは円盤投げの選手に飛ばして貰うとか。軽ければ飛ぶ。そして強ければ落ちても壊れない。そんな宣伝があったら楽しいのに。ねえ。

 「鳩とクラウジウスの原理」を書いた松尾祐一さんが知らない間に「昼寝の神様」という本を出してよんだら今がまさに神様の書き入れ時な出雲の話でばっちり。でも出ていたのは夏なんだよなあ、なんで気づかなかったんだろう、宣伝少なかったか、んでもって話は文字通りに昼寝の神様の話だけれどもチェブラーシカのワニみたくワニとして動物園に立って夜は帰っているように、神様も神様としての仕事をして夜は家に帰っている。でも信心が薄れれば消えてしまうとkろは神様で、出雲に行って一目惚れした和式トイレの神様という女性が和式トイレの衰退とともに消えかかっているのを嘆いている。そこにセラミックの神様なんかが恋慕していろいろ大変そうなところでページを閉じて以下は明日。どんな突飛でそして愉快な結末になっているか。期待して読む。


【10月4日】 そのことごとくがポンコツになるレーベルがあるという都市伝説をかたわらに、電撃文庫の作品のアニメーション化はのきなみ良好な様子で、「境界線上のホライゾン」の完璧なまでのアクションに感動したその直前に、放送されてた「C3 シーキューブ」を見たらこちらはこちらでもういっぱい見せまくりというか見せられまくりというか。座っているその正面から縞なのが見えたとおもったら、彼女に向き合う少女が前屈みになっていた菅阿を後ろから眺めてそこにもしっかり見えている。ああ見えている。

 今時チラですら光を輝かせるとかアップリケをはりつけるとかしてまるで見えないようにしているのに、この開けっぴろげさは何か法則が変わったのか。それとも新たな法則が生まれたのか。いずれにしても見て楽しげなシチュエーションと、そして面白そうなストーリーがアニメをアニメとして見続けさせてくれそう。まつはやって来たタクシーの凶女が何をしでかすか。来週に注目。

 玉川敏秀さんという名前で知っていたかちうと知らなかったけれども玉川重機というその名前とその本1冊でたぶん永遠に記憶に残るだろう。12年ぶりの新作という「草子ブックガイド1」(講談社、695円)は名前のとおりにブックガイドの漫画。だけれども別に漫画で本の中身をそのままストレートに紹介しているのではなく、物語の中に本を混ぜ込みその本を読むことを通して得られる感動や、思いといったものを感じさせるようになっているから自然とその本への興味がかきたてられる。と同時にそうした本の感想をつづる草子という少女への関心も。

 その古書店にやってくる少女は店主に黙って本をカバンにいれて持って帰ってしまう。いってしまえば万引だけれどその後で少女は読み終わった本を返しに来る。おまけにその本に読書案内記というものをしたためて挟んであって、店主はそんな彼女の文章のファンになってしまって次ぎにどんな本を読んでそしてどんな読書案内記を書いて、それを戻してくれるのかを楽しみにしてた。そして今少女が読んでいるのがロビンソン漂流記。どんな言葉がつづられるのかを待っていた。

 どうしてそんなに草子は本が好きになったのか。画家を目指していたらしい草子の父親はいまだに売れずその日暮らしの毎日。金にも事欠き酒浸りになっていて、そんな夫に愛想を尽かして草子の母親はずいぶんと前に家を出ていってしまった。学校にもあまり友達のいない草子にとって、本が1番のともだち。どんな世界にもどんな時代にも連れて行ってくれる本だけを楽しみにして暮らしていたその延長として、古本屋から本を持ち帰って読むようになっていた。幾つかはまだ返さないまま部屋の本棚にいれてあった、それをお金に困った父親が見つけて売り払ってしまった。悲しむ草子。そして売り先が自分のよく行く古本屋だと知って、無理を承知で売られた本から母親が残したものだけは取り戻したいと訪ねていく。

 憤る古本屋の助手を横に店主は草子が書いてくる読書案内記が気にいって、そこで草子を咎めるおとはせず、むしろいっしょに本を楽しんでくれる仲間として受け入れる。そこから始まる草子の本のナビゲート。司書教諭が困っていた図書館の活用で草子はトルーマン・カポーティの「ダイヤのギター」という短編を紹介して、そこに書かれた自由について考えさせられる物語を、最後まで読ませずその途中までの経過で中身に興味を持たせ、母親との再会という場面で中島敦の「山月記」を紹介して、内なる獣の存在を示して母親を諌め父親を諭してみせる。

 何という早熟。そして深淵なる読み。そこに書かれたことを自分の体験と重ね多くの体験になぞらえて、その身に染みさせる。こういう読み方を多分昔は誰もがしていたのに、ついつい今は横とか後ろとか斜めから見て位置取りを考えてしまうのはポジショントーク隆盛の影響? 改めて本との向き合い方を考えさせられる。細かくかき込まれた漫画はそれでも優しげで前衛性によって目を遠ざけるようなことにはならず、むしろ柔らかいタッチでもって物語の世界へと引っ張っていってくれる。だんだんと自分の居場所を見つけていく草子の表情が、どんどんと明るく鳴っていく姿を見ると本を読むことの大切さと、それ以上に多くの人たちの中に入っていく大切さというものを蚊にさせられる。

 すっかり明るくなって助手の助手として田舎にある民家へ本を受け取りに行く話では、彼女が媒介となって売り主の女性が夫に対していだいていたわだかまりを解きほぐす。すっかり明るくなっても、そして大勢の仲間を得ても本は読み続けるのか、って心配おあるけどいったん、本にのめり込んだ人はそこから離れられないもの。きっとこれからもいっぱいの本を読んで、そしてためになる読書案内記を書いてくれるだろう。それを読んで本を読み、それを書いて本を読ませることが出来たら、何て幸せなんだろうか。

 アダルトとかも始めるってんで久々にJコミをのぞいたら何と大野安之さんの「精霊伝説ヒューディー」もリストに上がってた。美少年だかの精霊が確かバトルする奴で「That!s! イズミコ」の後くらいでまだその余韻が残る絵柄とテンションでもって描かれた壮大なスケールのファンタジーだったって記憶がある。本当のことかどうかは知らない。ともあれそうした作品が上がってくるってことは世間にまだまだ大野さんの作品を読みたい人がいるってこと。そしてそうした過去の作品を見せて大野さんがいいと叶えているてこと。ならばあの書き直しがあって絵柄がまったく替わってしまった「ゆめのかよいじ」を、僕が好きだった昔のバージョンでそのままアップしてくれれば嬉しいんだけれど。女学生だかの絡み合いとか昔の絵の方がエロティックだったんだよなあ。これも本当の記憶かどうだか知らないけど。期待して待とう。


【10月3日】 誰が誰やらさっぱり分からないけれどもとにかく大勢がいっぱいわんさかたんまり出ていて一斉に駆けっこを始めたアニメーション版「境界線上のホライゾン」は先に逃げる先生の挙動がとにかくすばらしくって飛ぶ動きから後ろを向いて屋根の上に着地するシーンでカメラが迫る先生を迎えてはそこで先生が反転して着地するもカメラはそのまま進行方向へと動くため着資して止まった先生の背中がすーっと遠ざかる、その動きでもってすっげえ高速で進んでたんだって分かったりしてなんか絵的に面白かったり。あとは無駄に大きな女子がいっぱいいたことか。あんなに動いて刎ねていったい千切れやしないかと心配にもなったけれど過去そうやって千切れた人などいないことからきっと大丈夫なんだろう。多分。

 原作を読んだのはもう随分と前で「終わりのクロニクル」がど派手な終わり方をして始まった新シリーズの相変わらずの分厚さに目を白黒させつつ繰り出された世界の有り様にいったいどういう状況なのかと理解するのがまず大変。そして登場して来るキャラクターの多さでもって誰がどうつながってどこへ向かうかを理解しないまま、積み重なっていく巻数に押し流されてちょっと理解不能な状況に陥っていたりする。葵・トーリとかいう唐変木がいてホライゾンという美少女がいてあと本多・正純って美少年な美少女いたりしたなあって記憶もあったけれど、そんなあたりをテレビアニメを見ることによって保管できたらそれこそ「とある魔術の禁書目録」じゃないけれど、本へと向かってそうかそうだったのか的な読み方を、していけそうな気もしないでもない。でもやっぱりあの分厚さには根性も萎えるか。頑張ろう。どうせ暇だし。

 そういえば「とある魔術のインデックス」も劇場アニメーション化だそうだけれどもテレビがとりあえず後方のヴェント戦を終わったところで止まって射るんで、その続きを連続劇場アニメシリーズで展開していく、ってことになるのかそれとも単発のオリジナルをぶつけてくるのか。シリーズ的には右方のテッラに後方のアックアとそして左方のフィアンマが神の右席では存命中。そしてキャリーサによるくーでーターってエピソードもあってそれらが割と長いだけにまず1本、左方のテッラを相手にしたアビニョンでの戦いを2時間の映画にしてそして後方のアックア戦をこれも2時間の映画にして、おまけに10分の堕天使エロメイド乱入編をつけると。これがあれば観客も2倍に増えるしね。

 それからキャリーサのクーデター編でここではレッサーが無駄に飛び跳ねいろいろ見せつつ前編後編で3時間、そしていいよ始まる第三次世界大戦編を3時間くらいやればテレビシリーズやらなくっても新約に入る前のシリーズを全部終えられるか。だってどれもテレビでやるには短すぎたり長すぎたり。1クール12話だと足りなさそうだけれども2クール24話では途中がダレそう。だからやぱり劇場で展開ってのが最近のトレンドにもあっているんじゃないのかなー。テレビはだから「ヘヴィーオブジェクトのシリーズを。おれなら1エピソード2話くらいで12話なら3巻きくらいまで消化できそうだし。おまけにロボット格闘戦でそーしたファンも掴めそうだし、ってロボット相手に人間が徒手空拳で挑む話だった。やっぱり地味か。毎回10分はおほほタイムってことで。おほほ。

 なぜだどーして誰も「Fate/zero」の第1話が1時間もあるだなんて教えてくれないんだ。途中で録画が終わってしまって「終わりのクロニクル」の録画を見ようとしたらまだ続いているんで慌てて録画を再スタートさせたけれど途中がぶち切れてしまったよ。まあでもDVDだかBD買うから良いか。良いのかな買って。それだけの内容を持っているのかどうなのか。前のシリーズはなぜか全巻DVDをそろえたけれどもそれはあれだ、オープニングの遠坂凛が格好良かったから。そうした1つのポイントでも買うのがファンって奴で、それだけの何かを果たして「Zero」は持っているのか。あれやこれやのバトルロイヤルだけで持たせたらそこは誰もついていけないから。やっぱりセイバーに期待か。どんなドジっ娘ぶりを見せてくれるのか。そーゆー世界観はありなのか。うむ。

 えっと「ヤングキングアワーズ」のいったい何を読むんだったっけ「天にひびき」はまあ読めるけれども別にククリとか出てきてバトルしないしなあ。黒いヴァイオリニストの巨大さは日々乃さん並だけど。「アリョーシャ」は何かシリアス入ってきて背筋がピリピリ。いったいどーなったアメリカオタク。「エクセルサーガ」がしつこく載っているけどこれはベスト。とくに女子風呂編。さきっちょまでしっかえり描かれていて柔らかそうとんがってそう。触りたいけど触っても紙だし。「ドリフターズ」はおなごと言われたジャンヌいったいどーするの。そして安倍晴明の登場。どこまでいったら達成なんだこの漫画。そのポイントが見えないとちょっと先を追いづらい。「アオバ自転車店」。NASAと病母子供とどっちが大事だ。知らずとはいえどこかにいってた父親を娘はああも容易に受け入れるのか。母親の情愛が漂ってたんだなあ。それだけ思われて羨ましいぞ。そして来月もちゃんと「ドリフターズ」は載るのか。注目だ。


【10月2日】 とりあえず下北沢にあるヴィレッジヴァンガードが伊藤ヒロさんの新刊「魔王が家賃を払ってくれない」(ガガガ文庫)を店頭にて平積みで販売したらその反骨的サブカル魂って奴を褒め称える。もちろん表紙に上だけジャージで下は何もはかずニーソックスだけ脚にまいた姿から当然のぞく白地に青のストライプのアレに、都の条例とか、親御さんのご意見とかがたんまりと寄せられる可能性と、戦って欲しいという面もあるけれど、それ以上に中身でもって下北沢をいろいろいってたりするその辛辣さを、提言と受け止めギャグと受け止め呵々大笑して認める度量って奴を、見せて欲しいってことでもある。ポップにはだから赤いフレームの眼鏡を描いてサブカル女子におすすめとか書いておいて頂ければ重畳。そして向かう矛先を受け止めよ小学館&作者。

 しかし58ページまでで「パンツ」という言葉が99回も出てくるとはその方面でも挑戦的。30分弱のアニメ本編に「おっぱい」という言葉が数え切れないくらい出てきたアニメーションもあったりするから、インパクトとしてそれほど飛び抜けているとは言えないけれどもやっぱり凄い。そしてその使われかたが決して無駄に連呼している訳ではなくって、状況を語る上で必然として用いられているということにも一目置いて襟を正して読まなくてはいけない気分にさせられる。なんつって。嘘なのか。いやホントだよ。ともあれそうやって数えられた途中までの分と合わせて最終的にいったいどれだけの「パンツ」が出てきているのか。それによっては来年のギネスワールドレコーズに申請されても不思議じゃないかも。ジャニーさんと同じく作者も顔写真付きで掲載されて世界にその偉業を示すのだ。

 とか言いつつお話自体も魔王が来たけどどこかやる気薄のまんま技を出し惜しみして勇者にこてんぱんにされてしまい、魔界に帰るに帰れずそのまま居座って勇者の親戚が経営する古いアパートの一室に転がり込んでは仕事もせず、学校にもいかず日がなゴロゴロとしているというニート文学。当座の生活資金の方は魔王時代の部下の参謀長やら将軍やら博士やらが働いて仕送りしてはくれているけど、そんなお金を家賃に回さずネットを遊び漫画を読みふけりゲームに溺れアニメのDVDをひたすら取り寄せるけれども見ないという、心に突き刺さるような生活スタイルへと注ぎ込んでしまって家賃を払えなくなっていて、そこで勇者の弟の主人公が回収に向かって丁々発止を繰り広げる。嗚呼。そしてふと横を見ると届いたDVDボックスが配送用の箱に入ったまま山積みに。アイタタタ。

 せめて3巻くらいまでは見ようって反省しつつ物語ではそんな魔王をどうにかしようと部下たちが作戦会議。魔王に妙なボディビルダーを送りつけられ困惑した挙げ句にそれを下北沢の雑貨屋に卸したらなぜかサブカル系の赤フレーム眼鏡の女子が買っていったという博士をはじめ豊満さで鳴る将軍や、見た目は10才くらいの幼女というIQ1300の参謀長が考え出した魔王に悔い改める作戦とは。聞くも涙の展開とそしてテレビ業界の悪辣さがそこでも描かれ作者の作品のアニメーション化への道を閉ざす。チャレンジブルだなあ。かくして悔い改めた博士のその先は。やっぱり人間、そうは易々とは変われないってことで、今日も今日とてクーゲルシュライバーの攻撃をくらい続けるのであった。何だクーゲルシュライバーって? すっげえ強そうだなあ。

 初日あたりは原作への強い思い入れがある人や、アニメーション映画にははやりプロフェッショナルのアニメーション声優を使って欲しいといった声のわんさかと出てちょいゲショゲショな空気も漂っていた長編アニメーション映画「とある飛空士への追憶」だったけれども、一夜明けてそうした原作から引きずる思いが晴らされていないという声よりむしろ、映画にストレートに王道的に描かれてている身分違いの恋の行方に期待しやきもきした挙げ句に落涙する普通の人や、空戦シーンのスタイリッシュさに燃える人、そして声優を務めた俳優女優の醸し出す初々しさと頑張りを、感じいっしょになって成長してく雰囲気をストレートに味わい楽しむ人たちがいっぱい出てきたようで良い感じに盛り上がってきた。

 それが狙いでこの展開このキャスティングにしたんだとしたら正解。映画なんだからより大勢の人に観て貰わないことには始まらない。細かい心理描写は原作を読めば良いし声が苦手なら原作を読んで自分なりの声を浮かべれば良い。すべてが叶った状態ではそもそも映画にならないと思った時、それは別のメディアでの出来事なんだとスルーするなりそういうものとして良いものななだと受け入れる度量って奴をもっと世界はもたないと、どんなエンターテインメントだって成立しなくなるってことを考える時期にあるのかも。とりあえずまた見に行ってガチャポンのコンプリートを目指しつつ、初々しさの漂う中ですこし溶けてきた心で「ひくうしさん」と呼ぶファナの声を聞いて来よう。あと「よろしくおねがいしまーす」とファナに頼んで機銃を打ってもらうシーンとか、ってそれ違うアニメ。

 せっかくだからと日本橋に出て喫茶店で「このライトノベルがすごい!」のセレクトなんかを行い相変わらずなスキマ狙いのセレクトを行ってから、清澄白河へと出て無人島プロダクションでChim↑Pomの展覧会を見る。脚立に昇って天井裏に仕掛けられたモニターでネズミをとらえる映像なんかを見つつ下を見て黄色く塗られたスーパーラット君たちの姿に頑張って生きてきた将来がこれかと呟く。でもこうして永遠になれるんだからそれはそれで良いのか。つかこれを買う現代美術コレクターっっているのか。いるんだろうなあ。それがコレクター。奥の映像コーナーでバックトゥザフューチャー風に火を弄んでいるエリィの格好良さに感涙。いやあ良い立ちっぷりだ。そしてメインの部屋であらゆるガンマニア映画の銃殺されるシーンを選んで並べそこにエリィが銃をぶっこむ映像に格好良さを覚えつつ、見ているとどんどん銃がただの道具に思えてしまう感情の麻痺っぷりを味わう。人間って飼い慣らされるものなんだ。

 そこから錦糸町に出てすみだ祭とやらを見物。現地のことを歌ったエレキギターを持った美少女演歌歌手(なのか)な美聖さんの歌声を聴いた後でさあ登場の我らが柳瀬式さん。戦国時代をロックやバラードに載せて歌うその歌声の甘さとルックスの良さからもっともっと世間に知られていいはずの人がこうして時代を感じさせるすみだ区の祭に登場してくる。ありがたやああありがたや。そして歌うは名曲「戦国フィーバー」に「Salty Dragon 上杉謙信のテーマ」に「信長DANDY」。聞けばもう心にキュンとくるしかない歌を、集まったおじいさんおばあさんおじさんおばさんはどう聴いたか。それでもちょっぴりは追っかけの若い人もいたみたいなんでこれからジグジグとファンを広げていくんだろう。日本テレビ出演とかって本当か。あったら凄い是非見たい。応援してます。デザインフェスタで会えるかな。


【10月1日】 そういやいつから「輪るピングドラム」見てなかったっけ。撮り溜めはしてあるんだけれど同じような展開が続いてて見る気力がちょっと失せてた。でもきっと1クールの終了に向かって一気に進むみたいなことを関係者が話してたんで、今頃きっと誰かの首が飛んだり食べられたりしているに違いないんで見てみよう。ペンギンが4匹に増えているとかはなしな。アニメだとあと「ダンタリアンの書架」も確か終わってたっけ。圧倒的に高いクオリティで紡がれていたアニメだったけれども原作のどこか諧謔味をこめた教訓話が下がってアクション&ミステリーな感じになていたんで数回見てあとはずっと録画にしてあった。通してみるといろいろ見えるところがあるのかな。時間があればいずれ。時間たっぷり欲しいなあ。いっそ辞めちゃおうかなあ。それだとお金がなくなるか。むーう。

 せっかくだからと江戸東京博物館にヴェネチアを見に行く、って書くと江戸にヴェネチアがあったみたいな印象。まあ確かに海辺に面して運河もあった江戸だけれどそれほど縦横無尽って訳でもないからちょっと違うか、でも栄えた時代的には似ているところがあって方や地中海の覇権を握って君臨し、こなた鎖国された日本って国にあってアジアでも随一の繁栄を謳歌していた2つの街を並べて感じられるという展示は面白い。企画にもそういう意図があったのか、ティツィアーノとかいった著名な画家の著名な作品を並べる美術展というよりは、ヴェネチアという街がどういう発展の仕方をし、そこで人々がどういう暮らし方をしていたのか、ってあたりがメーンになっている。そこが美術と博物の違いってことで。

 サン・マルコ広場にあったというライオンの木像を正面に見て入った中には地球儀とかあったりサン・マルコ広場の絵があったりしてヴェネチアって街の様子がうかがえる。水路を走った映像なんかもあってその水との接しっぷりがなかなか。行けばもっと体感できるんだろうけれども、行けなくってもそうした水路から街を見ていくようなハイビジョンの映像だけで、相当のことを感じられる。だから数分と短いものではなくって、1時間とかじっくりヴェネチアを徘徊しカーニバルとかをとらえた映像が見たい気も。それなら数シリーズにわたるアニメがあってゴンドラもカーニバルもいっぱいでてくるから大丈夫だって。それネオの方。まあ良いけど。むしろ楽しいけど。

 総督だかが被る帽子があって後ろの方がといふくらんだ形なんだけれどそれを被った総督の肖像画があって当たり前だけれど同じ形で人間が被るとあんな風に見えるんだって分かって面白かった。ヴェネチアンガラスの展示もあってムラーノだっけ、そんな工房でつけられた紋様の細かさに唖然呆然。江戸切り子だって細工がなかなかに細かいけれども皿とかの隅々にわたって細くて細かい紋様が正確に刻まれている様には、あの時代の職人芸の凄まじさをひたすらに強く感じさせられる。今でも同じことって出来るのかなあ。陶器にもかつての染め付けの紋様とか、細かすぎて巧みすぎて現代の誰も再現できなさそうなものがあるし。大勢が入って徒弟制度の中で腕前を鍛えその最優秀な存在が残って最高の仕事をしてみせた過去と今とでは、やっぱり違いもあるんだろうなあ。難しい。

 無料だったんで上の常設展を見物してたらマッカーサーが日本に来た1945年の8月から12月にかけて、従軍していたカメラマンが撮影した東京のカラーの映像ってのを放送してたんで見てたらこれが文字通りにカラフル。戦後ってイメージは灰燼と化した中をすすけた人たちが疲れ切って歩いているものだったけれどもとんでもないというか、東京駅なんかが撮られた映像には丸の内側の出口をなるほどもんぺ姿ながらもそこにはしっかり色がちて模様が描かれたもんぺだったり上着だったりを着た女性や少女が、周囲に占領軍がいたりするのも構わず平気ですたすあと歩いている。鬼畜米英と教えられた文字通りの鬼がそこにいるのに怯えた風もなければ媚びる風もない、ごくごく日常的な光景。そして色。ちょっと驚いた。

 銀座にも新橋にも外国人がいっぱいいるけど、恐れも媚びもなく普通にとけ込んでいたりするような印象。なるほど空襲の後で瓦礫が散乱してはいるけれど、それらを片づけその後に生活を取り戻そうとしている人たちのエネルギッシュな雰囲気が、リアルさを持ったカラーの映像から伝わってくる。そこには悲哀とか衰退といったイメージはあまりない。たぶんそうした戦後のイメージって、戦後から時間が経つなかで、あのころの苦労と戦争への忌避感が情勢され濃縮された果て生まれてきたもので、だからネガティブな印象ばかりが伝わってくるんだろうけれども現実は、もっと多彩でそして普通だったのかもしれない。その時に居合わせその時を感じてみることが大事。できなければ映像として残し未来に伝える。この混乱と退廃と活力が入り混じった今を見て60年後に人は何を思うんだろう。

 都営大江戸線に乗って新宿へと向かい、いつものやんばるでラフテー丼をかき込んでからテアトル新宿で行われた「とある飛空士への追憶」の舞台挨拶付き上映を見物。満席らしく立ち見も出ていたようだけれども始まると前から2列目あたりをどこかの美女軍団が締めていたのは、出演している誰かと同じ事務所の若いタレントさんとかが研鑽か応援かで見に来ていたのかそれとも違うのか。舞台挨拶のカメラ写りのための仕込みとも考えたけれど、舞台上から客席を見下ろすようなフォトセッションはなかったからそうではない模様。いったい何者だったんだろう。新宿歌舞伎町の蝶たちか。出演しているサンドウィッチマンの富澤たけしさんのファンか。

 いやあファンにもなるよ富澤さんの演技には。千々石武史って帝政天ツ上のエースパイロットを演じているんだけれどもその端正で渋い声はまるで本職の声優さんみたい。短い時間ではあるんだけれど要所要所で出てきて場をひきしめる。大人の男の声、ってこの時期でも確か千々石って22才くらいなんだけど。そして21歳くらいのシャルルを演じるのは18歳の神木隆之介さん。これもまた良い。若いんだけれど達観していて、けれども心の奥には熱いものを残した青年ってものをしっかりたっぷり演じきっている。なるほど年相応の若さが声音には混じるけれども精いっぱいに大人を作っている感じが、同じような立場にいるシャルルと重なる。卑屈になるしかないんだけれどそれだけでは自分を許せない複雑さ。しっかり演じている神木さんに拍手。

 そしてファナ。世間をよく知らず箱入りとして育てられそして家族の命運を背負わされて皇子の妃となることを運命づけられている上に、家族を失いせっぱ詰まった状況の中で初めての飛行をとてつもない緊張の中でしなくてはならない状況におかれ、かしこまり固くなってしまう少女というものが竹富聖花さんのこれが初めてという声優としての声に、しっかりと重なっていてキャラととってもシンクロしていたと僕は思った。はじめはだ人形のように。それが世界を知ってすこし溶け、やがて命のやりとりを乗り越え弾け飛ぶ。遠い存在だった飛空士を結果として導き治療したことで、関係にも対等さが出たのか子供のころのような快活さも取り戻し、そして情愛すら育むその変化。演じる中でだんだんと役にのめりこみ、ファナ自身になっていった竹富さんの“成長”って奴がその声にしっかりと映っている。

 今という時期に「とある飛空士への追憶」という映画に出てファナという役を担当したことが、今の竹富聖花さんにとって実にマッチングしていたという現れ。1年後の成長が進んだ竹富さんではなく、また仕事に巧みなプロフェッショナルの声優さんでもない、今の竹富さんだからこそ出せて、そして辿っていけるその声の質なり変遷を、映画の展開とともにまとめて感じ味わえる至福を僕は尊ぶ。唯一にして絶対の体験ができる幸せ。それを映画館で味わわない手はない。だから言って見るしかないんだけれど、最初っからそれを埒外と決めつけている人の少なからずいることが気になる。声ってのはその瞬間ではないんだよ。100分の映画という作品全体にとけ込んでいるかなんだよ。その意味で全部が優れてがっちりとハマった映画だったと思う。そのどこにもサンドウィッチマンの伊達みきおさんが入り込むスキマはない。カルロ皇子なら出来たかな。あのバカっぷり。でも伊達さんが演じると大人の直情が出てしまうからなあ。やっぱり出演は次の機会に。

 グッズではとりあえずストラップを購入、軍だか傭兵部隊だかの徽章が割に格好言い。いっそワッペンとか作ってくれないかな、もってるミリタリージャケットに貼って楽しむのに。どこかのブランドとのコラボTシャツも格好いいんだけれど僕はどちらかといえば震電が描かれた奴の方が欲しいかも。あとロビーにガチャポンがあったんで回したら1回目ふぇファナが出て次ぎにシークレットらしいビーグル犬のマークが出てそしてファナとシャルルが乗った偵察機がでてシャルルが出た千々石は出てないんでいずれまた行った時に出そう。何度か見てもそれだけ楽しめる映画。前屈みになったファナの谷間を見るだけでもそりゃあ価値はたっぷりだ。案外に大きいんだな、ファナ。


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