縮刷版2010年9月上旬号


【9月10日】 20枚とか4枚とかの原稿から逃避するべくときわ書房船橋本店2階の漫画売り場でいろいろ買いあさる。ダメじゃん逃げてちゃ。でも仕方がない。とりあえず定金伸司さんの「四方世界の王」の漫画版の第2巻を買って裏表紙のエロっぽさにぞくぞくっとしつつ、秋田書店でこんなのやっていたんだと梶研吾さん原作で米井さとしさんが漫画を描いた「仁侠姫レイラ」(秋田書店)の第1巻を読む。お題はプロレスだあ。

 何でも昔ながらのプロレスがほとんど廃れ、人気のあった大帝都プロレスもトップが1人だけ残ってあとは雲散という末期的状況。もうダメだとリングに潰れたトップレスラーグレイトフル帝都に突然、襲いかかってきた女の子がいた。制服姿ながら顔に覆面をした彼女は仁侠姫レイラを名乗ってグレイトフル帝都を奮い立たせて試合を試合っぽく見せて観客を呼び集める。そしてその足でトップ団体の西部プロレスへと乗り込み、エースの羽丘勇人に他流試合を申し込んで無理矢理ながらも成立させてしまう。

 横紙破りに怒る西部プロレスの経営者たちだったけど、マスコミを使って引くに弾けない状況へと追い込まれたこともあって挑戦を受けてリングにたったレイラと羽丘勇人。当然ながら掟破りの試合にとりあえずはレイラが勝ってしまうというブックを作り上げていたものが、途中から本気を出した羽丘勇人によってレイラが叩きのめされ、腕すら折られて絶体絶命に追い込まれる。果たしてレイラの運命は?

 ってところからさらに少し進んでいく第1巻。なるほどたしかにプロレスは筋書きがあるドラマであって、ブックといったものに従い選手達は互いに見せ場を作りながら、次へとつながる勝利を演出して観客を感動させる。けれどもそうしたブックは最初にストーリーありき、ドラマありきでは決してない。プロレスラーという超人的な肉体を持った男達、あるいは女達の存在があって、彼ら彼女たちの真剣な戦いぶりをまず見せつつ、その上にさらなる感動、そして継続をもたらすブックを載せて観客の興奮を誘い、動員を読んでいた。昔はそうだった。だから楽しめた。

 今はどうだ。まずシナリオありき。そこに適切なキャラクターをキャスティングしドラマに仕立て上げる。肉体がどうとかお構いなし。だからなるほどストーリーとして楽しめても、格闘技としてはあまり心に響いてこない。だからあんまり見ようという気が起こらない。だいたいがテレビでやってない。海外プロレス? 見る気もない。かつて楽しかったプロレス。かつて面白かったプロレス。それが何なのかを思い出させてくれる漫画として、この「仁侠姫レイラ」があるくらい。悲しいけれどもこれを読み、いつか元に戻る日を夢見よう。でももう馬場も三沢もいないんだ……。せめてレイラが実在すれば。リングでいっぱりあれとかそれとか見せてくれれば。結局そっちかよ。

 凄い。嬉しい。素晴らしい。だからこそ悲しさも深まる「月刊ニュータイプ」2010年10月号に掲載の今敏監督追悼記事。目次の手前の特集ページをまるまる2ページ、とって見開きで掲載された記事はニューヨークのタイムズスクエアにあるホテルで開かれたコンベンションの会場に乗り込み、観客をバックに両手を広げて他って微笑む今敏監督の姿が映し出されている。

 横にはたぶん京子夫人。そしてマッドハウスの丸山正雄プロデューサー。みんな笑ってる。後ろの観客も微笑んでいる。きっとそれだけ素晴らしい作品だと、みんな「東京ゴッドファーザーズ」を見て思ったんだろう。拙い作品に笑うなんてそんなことをする人たちではない。エンターテインメントにシビアなお国柄。そしてショービジネスの本場ニューヨークに集まった観客を喜ばせてあまりある作品を作ったからこそ、今なお今敏監督を偲び死を悼む声が、世界中でつぶやかれてはツイッターの上に連なって行くんだろう。

 だからこその2ページもの特集。そこでコメントを寄せているのが渡邊隆史さんというところが興味深い。最近は同じマッドハウス作品でも、細田守監督の方に付きっきりで作品を押し上げ広めて二人三脚で突っ走っているプロデューサーだけれど、元々は徳間書店の「月刊アニメージュ」で編集者をしていて、今敏監督に因縁の漫画連載「セラフィム 2億6661万3336の翼」を依頼した人。押井守監督のたっての推薦だったけれども漫画はいろいろあって完結せず、今さんは空いた時間で映画「パーフェクトブルー」を作ってアニメーション映画の監督として世にその名を知らしめてしまった。

 以来、重なることはなかったらしい今敏監督と渡邊さんだけれど、めぐりめぐった年月を経て、2003年の秋にニューヨークへと一緒に赴いた際にいろいろと話をしたそうな。けれども肝心の「目論見」ははなせずいっしょの仕事は成立しないまま、渡邊さんは細田さんをお仕立て今敏監督は「パプリカ」を作り「夢みる機械」を作っている最中に逝去。その「目論見」が実現する機会は永久に訪れなくなってしまった。いったいどんな「目論見」だったのかが気になるし、それが実現していたら渡邊さんの展開力と今敏監督の作品力が合わさって、どれだけの評判を呼んだかが気にかかる。

 かかるけれどももう遅い。だから悲しい。「僕らは今敏監督のことを、決して忘れてはならない。それだけがこの突然の別離に対してできる唯一の抵抗なのだ」と記事は結ぶ。けだし名言。そして至言。加えて「夢みる機械」の実現にも大いに期待したいところだけれど、果たしてどうなんだろうか。アニマックスの滝山社長は是非にもって話してたし、本社とだって話していたりするみたいだけれども、肝心のクリエイティブの方がどれだけ対応できるのか、今敏監督の不在を超えて作品を完成させられるのか、いろいろ悩みはありそう。

 けれどもきっとやってくれると信じたいし、信じるしか道はない。来年の今頃、ベネチア映画祭の舞台に京子夫人が立ち、丸山社長が立って金色に輝く獅子のトロフィーを受ける場面を夢見ながら、残された数々の作品を見てようやく涼しくなった秋の夜を過ごそう。借りに行かなくっても全部見られる環境が整っていることはちょっと自慢。問題は掘らないといけないことだけど。「パプリカ」のブルーレイディスク、どこに行ったんだろう。DVDはすぐ出てくるけど。あと「妄想代理人」もそろそろ見るか。DVD全部持っているんだけれど(間違えて2枚買った巻もある)、まだ詳しく見てないんだよ、実は。

 でもって「月刊ニュータイプ」2010年10月号から秋の新番組として個人的に期待大な銀河美少年、ではなく「STAR DRIVER 輝きのタクト」の記事を読んだら微笑編は出ていても、美少女たちが全員妙な仮面をつけていた。美少女かどーか分からねーじゃんか。んでもって同日発売の「月刊アニメージュ」2010年10月号を読んだらこっちは全員が表情も露わに美少女っぷりを見せてくれていた。こっちは仮面でいきますからそっちは顔出して行きましょうとか、担当どうして版権イラストの描き分けを依頼するんだろうかどうなんだろうか。アニメ誌の謎は深い。

 そんな「月刊アニメージュ」だったっけ、「ニュータイプ」の方だったっけ、うろ覚えだけれども「『このライトノベルがすごい!!』大賞」の表紙絵とかイラストなんかが掲載されててなかなかの迫力。誰がどうとか言えるだけの絵師さんに関する知識はないけれども、見てなるほどと思える選択選抜に作った人たちの目利きぶりって奴を見る。作品を選んだ人が目利きかどうかは相手が身近すぎるんで何とも。何せ双子の弟の兄貴だから。評判についてはいろいろなところからそれなりに、って感じか。どう転がって言うかは分からないけどとにかく書き続けていって欲しいなあ。書いていればいつかきっと誰かに届く。それが物語ってものだから。僕も何か書こうかなあ。そのためには時間が欲しいなあ。


【9月9日】 えっとそろそろ発売されるんだっけ「『このライトノベルがすごい!!』大賞」の受賞作。5冊も一気に刊行でそれも値段が500円以下とは昨今の諸物価高騰な折りに大盤振る舞い過ぎるけれどもメディアワークス文庫だって10冊の同時刊行で一気に棚を取る作戦に出たほどだし、これも仕方がないってことか。でも来月以降にどうなるかは知らない。5冊は無理だろうなあ。んでもって受賞作は大賞が大泉貴さんの「ランジーン×コード」って作品でいわゆる異能バトルだけれどコトモノって脳の感覚が一般の人とズレてしまった少年少女に発声する能力がメインになっている辺りが目新しいというか工夫されている点というか。なかなかに重厚。金賞は表紙絵のかわいさで1番くらいに売れてしまいそうな里田和登さん「僕たちは監視されている」。これはどれくらいに刊行までに手が入っているかが気になるところ。

 でもやっぱり注目はあの栗山千明様がご推薦遊ばされている大間九郎さんの「ファンダ・メンダ・マウス」か。ライトノベルにあるまじき世界観にストーリーにキャラ設定。ハードでエロティックでグロテスクな描写がいっぱいだけれどなぜか憎めない。そして退けられない。栗山さんが推したってのも分かるなあ。そして驚くべき事にこの人はこれが初めて書いた小説とか。初めて応募した訳でもなければ初めて賞を取ったわけでももちろんない。それでこの完成度。いったいどんな人なんだろう。そしてこれから何を書くんだろう。「伝説兄妹」はキャラのエグさがイラストで緩和されているような印象。あと手直しがどれくらい入っているか、か。「暴走少女と妄想少年」はたぶん1番安心して読める定番ハルヒ系。それだけに上には行かなかったけれども下にも落ちなかったという安全パイ。さてどれが1番人気を獲得するかなあ。でもって来年はどんな作品が現れるかなあ。ちゃんと来年もあるのかなあ。

 8月40日に戻ってしまったような気温の中を起き出して、電車とバスを乗り継いで幕張メッセで始まった「アミューズメントマシンショー」を見物したら「クドわふたー」だか何だかいったキャラクターの商品が登場してた。リトバスあたりから引っ張ってくるとはなかなかアミューズメント施設も奥が深い。とかいってたら見慣れないメロンの頭をした熊の着ぐるみが場内を闊歩。可愛らしさなんてまるで無縁の本格的な凶暴さを持った熊の頭に巨大なメロンがおっかぶさっているギャップが妙に目に響いたそれこそが、最近夕張で人気の「メロン熊」だそうな。メロンに熊とは何と実に北海道。でも本当に本当に流行っているのかメロン熊。要研究。

 そんなメロン熊がいたタイトーのプライズ関連ブースで流れていた「宇宙戦艦ヤマト」の実写版のちょい眺めの予告編を見たらこれがなかなかにかっこうよさそう。古き良き日本特撮の学芸会的オールスターキャスト的空気感を遺しつつも特撮部分はきわめてハードでリアル。そんなギャップが広大無辺な宇宙を舞台にしたバトルの激しさを感じさせつつ、日本人になじみのベタなドラマを味わわせてくれる。欧米の特撮とか気にせずニッポンの特撮なんだと理解し噛みしめ楽しむのがよさそう。とりあえず木村拓哉さんは歩きながら口に手袋をくわえて胸のジッパーを引き上げる仕草がいかにも感たっぷりで格好良い。西田敏之さんは西田敏之さんにしか見えない。問題は未だこの期に及んでデスラー総統の姿が見えないことなんだけど、誰がやるのかどんなビジュアルかもう発表になってたっけ? 期待どおりだと嬉しいんだけどなあ。緑に塗られた伊武雅刀さん、とか。まったく違って及川ミッチーとか出てきたら嗤うけど。色ややっぱり緑なんだけど。セイン・カミュかよ。

 ゲームでは「三国志大戦」が「戦国大戦」になって登場していたりして、アイデアのコンテンツを変えての横滑り感になるほどと思いつつ、次へ次へと人気を食いつぶしていった先にあるものが何なのかの見え無さに呻吟。戦国ブームが終わったらいったいどうするんだろうゲーム業界。あと「頭文字D」が未だに人気なのにもちょっと驚き。AE86とか登場しているブースにでかでか。ネット対戦とかいったアイデアは加わっているんだろうけれど、それにしてももう結構な年月を同じプロパティで売っているのも珍しい。というか原作の人気がまるで衰えていないことの方が驚きか。「バリバリ伝説」で秀吉が死んでからこっち、ずっと読んでなかったんだよなあ、しげの秀一さん。その人気の秘密に迫りたい。バンダイナムコゲームスではアンパンマンを発見。こっちの方がキャラクターの強さでは上か。バンプレストではなくバンダイナムコゲームスがこういうキャラでキッズ向けを作っている現状がまた、アミューズメントマシンの世界の種探し状況を表していたりするのかも。

 草薙素子が「ネットは広大だわ」と言って消えた「GHOST IN THE SHELL/攻殻機動隊」が公開された1995年においてすでに、コンピュータネットワークが持つ無限の可能性とやらへの期待とそして不安といったものは、サイバーパンクSFを飛び出してアニメーションとしても描かれ初めていたけれど、「lain」に描かれたコンピュータネットワーク、すなわちワイヤードは、デバイスを経て壁の向こう側に広大に広がる、すべての情報が任意的に集められた空間といった定義すら超えて、人間の情念すらもそこに引き寄せひとつの世界を形作って、そこから人間の世界に向かって緩衝を始めるような生命体に見えた。

 「GHOST IN THE SHELL」から3年という時間を経て、インターネットを一般ユーザーが自在に使えるようになって、コミュニケーションが頻繁に行われるようになった中で、ネットの向こう側にいる万人を半歩、こちらへと近づけネットの中に漂うう無数の存在として認識し、その集合体として生命性を感じるよになった現れなのかもしれないけれども、そうした認識が成されている作品が、この時期に一斉に登場したということもないだけに、98年といえどもまだネットは広大無辺な情報の海であり、誰かと簡単につながれるツールであるといった即物的な観念でもって認識する人の方が、多かったのだろう。そんな中でネットに振れ始めて数年といったユーザーが、ネットから感じた“何か”、それは可能性であり不安でもあるさまざまな“何か”が描かれている作品として、敏感に反応したといったことになるのかどうなのか。個人として振り返るならそういうところもあるけれど、大勢が同様とは言い切れないだけに悩ましい。

 1998年当時のネットの認識といえば、年の初頭に公開された今敏監督による最初の劇場映画「パーフェクトブルー」が、アイドルがストーカー被害に遭うという竹内義和の原作をふまえつつ、そこに流行し始めたインターネットを持ち込んだという点でとても新鮮であり、斬新だった。3人組のアイドルを抜け出しソロになった霧越未麻は、ほどなくして自分が書いているというインターネット上のホームページがあることを知る。そこには確かに自分がしたことが書かれてあって、誰かによって見られているのではないかといった恐怖が未麻を襲う。さらにはアイドルから脱皮しようとする未麻の行動に反するように、アイドルとしての未麻がいかにもとりそうな行動が書かれるようになって、現実の未麻と、ネット上の未麻との乖離が始まって、当人にもいったいどちらが本当の自分か分からないようになっていく。

 ネット上でのなりすましという、今もよくある問題が指摘されていることはもちろん、ネットの向こう側にいる不特定多数が想像して創造した像こそがリアルで、たとえ現実であってもそうした多数が求めるリアルの前には、存在を消されかねない状況が、ネット世論めいたものの対当した現在から見るととっても示唆的で、あの時代のあのインフラから、そんな今日のネットの姿を想像してみせたクリエーターの眼力に、敬意を送りたくなったけれども残年ながらもういない。うーん。もっとも「パーフェクトブルー」でのネット描写は、まだ現実の範囲内で起こり得ることであって、そこにSF的な空想も、ファンタジックな幻想もオカルティックな妄想もなかった。これが「lain」では、一気に電子的な情報の集合体から、人間の集合的無意識による仮想空間へと発想が飛躍し、そこから生まれた存在が、人類をも導くような展開へと向かってしまった。ネットの可能性を探求した結果と言えば言えるけれどもそこまでの飛び抜けた思考を誰もが抱けたかは疑問。こうして12年の時間を経て、改めて見直しつつ今のあらゆる情報がクラウド的にネット上に集められ、人間が端末となってネットにぶら下がっているような状況を見知ってようやく、何が言いたかったが分かってくるところに、「lain」の先進性先見性があったのかもしれないとも思うのだ。なんつって。


【9月8日】 何か試合があったみたいだけれども岡田サンときよりもさらに気分がノらないのは、やっぱり監督が決まってはいたけれど、その監督が見ているだけで指揮をとらず責任も実績も推察しづらい状況だった上に試合の目的がどこにあって、それに向けて誰をどうするといった筋書きがまるで描かれていないため、どこに論点を置いたらいいのかまるで分からないから、だったりするんだろうなあ。勝ったところで嬉しくはないし、負けたところで寂しくもない。そんな試合。

 なるほど試合で活躍はしたけれども香川真司選手は決して司令塔ってタイプではなく、もらいつっかけ出して受け取り得点を取るアグレッシブさが持ち味の選手。そもそもが司令塔だなんて前時代的なポジションが未だにこの高速プレスとスピードターンオーバーな時代に存在する訳がないのに、未だに背番号10は司令塔のポジションが付けるもの、といった発想の延長で司令塔的な立場が素晴らしいと錯覚されてしまっているところに、この国のサッカーがいつまで経っても強くなれない理由のいくつかがあるって言えそう。オシム監督だったらさっさと窘めているんだろうけれど、ザッケローニ新監督はそうした苦言を明らかに呈するタイプなのかなあ。それも見てからいよいよ判断、する時はすでにアジアカップ目前なんだよなあ。やっぱりこりゃあ大変だ。

 部屋の隅っこからばるぼらさんの「教科書には載らないニッポンのインターネットの歴史教科書」を引っ張り出して1998年あたりを眺めてみたけれども、ウェブ日記がテキストサイトへと変化を遂げていたくらいで大きな技術的革新もサービス的革命も見あたらず。大勢が大量に情報をアップしてみんなで見合って楽しむ2ちゃんねるのようなサービスとしては、すでにあめぞうがあったようだけれどもムーブメントとはなっておらず、ましてやメディアを動かすようなパワーは持っていない。ブログが生まれて情報発信の敷居がさがって、誰も彼もがネットに何かを書き出す時代でもなく、それなりにHTMLを書いてFTPでアップするだけの体力気力を持ったものたちだけがネットを通じてコミュニケーションを行っていた。

 携帯電話だってそれほど普及しておらず、その上で飛び交うメールもおそらくは浸透はしていなかった。PHSがPメールを搭載してはいたものの、送受信できる文字数も限られ今のメールのような会話に近い言葉のやりとり、情報のやりとりなんて出来なかった。SNSなんてまだ遠い先。Twitterなど影も形も見えない時代にあって友人同士が携帯デバイスを介してメッセージを日常的にやりとりするビジョンを見せてくれたアニメが「lain」だった。そのデバイスの形状もふるっていて、ハンディタイプで入力はタッチペンでスライドして飛び出してくるパッドに筆記する方式。それがデジタル化されてモニターに踊り送信したり受け取ったりとできる。まるでiPhone。あるいはより小型化されたiPadへとつながるビジョンが1998年という、実際の登場まで10年の余裕をもった時代に提案されていたことに、現在の視点から驚く人もいて当然か。

 まあ世の中にはアップルはニュートンなるものを出して携帯情報端末の未来を伺わせパームという会社もあって専用の端末を作って売っていていずれメモ帳の代わり、パソコンの代わりにすらなるかもしれないという想像を浮かべさせたけれども、通信という部分が決定的に足りず普及へとは至らなかった。「lain」に描かれた個人間のコミュニケーションが実現するのは、携帯電話が安くなって画面が大きくなってメールもファイルも自在にやりとりできるプラットフォームとなった2000年代になってからのこと。そして起こる個人情報が漏れだし誹謗中傷が行き交って、個人の尊厳を奪い絶望へと追いやる状況が生まれるのも。それすらも予想していたところが「lain」のビジョンの確かさであり、そうした悪しきビジョンを乗り越えられないまま来るに任せた人間のマインドの愚かさでもあるのだ。

 普通は対象者の本の1冊2冊は読んでおくなり時間がなくてもプロフィルくらいは調べてそれを糸口にあれやこれや聞くのが記者ってもんだろう、っていうかそれをしておかないと怖くて人になんて会えないだろう、ってな神経は実は繊細も繊細なナノミクロンで、本当の記者ってものは相手が誰だろうとまずはご着席、そして当たるも八卦当たらぬ藻八卦と顔の相を眺め回し、分かった皆まで言うな通し止めて持論を吹聴した上に、それであなたは誰てこれ(本、CD、映画)は何だポイントはどこだと説明させた上で、そのとおりに書くかと思ったらまったく関係のない茶々を入れ、上から目線で記事へと仕立て上げるものだってことなのかもと、いしかわじゅんさんが沖縄で受けたさまざまな対応なんかを見ながら深く思う。僕にはまだまだ度胸が足りない。プライドが足りない。

 相手がとあるアニメの監督だといえばその監督が10年以上も前に作ったOVAのレーザーディスクを6枚、箱に入れたセットにした上にやっぱり10年近く前に作ったテレビシリーズのDVDを、セットにして箱に入れたものを持ち、さらには出たばかりのブルーレイディスクのボックスなんかもいっしょに持ち込んでこんな作品を作ってこられた経緯はとか、訪ねるのはやっぱり一流紙の記者として失格なんだろうか。トップクラスの人気を誇るアニソンシンガーに話を聞く上で、やっぱり系統だてて聞いておかなきゃと自腹でCDをアルバム3枚シングル1枚ほど買い込んで、聞いた上に主題歌をうたっていたアニメの内容を思い出し、現場へと向かうのは一流紙の記者にあるまじき行為なんだろうか。だから3流より下の泡沫ですらない誤差の範囲のメディアで何を書いても関心をもたれない、海に砂粒を巻くが如くの仕事をしていたりするんだろうなあ。偉くなりたい。偉そうになりたい。なれればとっくになってるさ。


【9月7日】 ほんとうは8月38日。それくらいに暑くって歩いていたら意識を失いそうになったのは単なる寝不足か。でもまだ「世紀末オカルト学院」は見ていない。代わりに5話と6話を見たらまずは姉貴が追いつめられて、だんだんと壊れていく様が案外にくっきりと描かれていたんだと思い出した。彼氏の家から出て、渋谷の雑踏でもらったティッシュに妙な文字が書かれていて、おびえ逃げて入ったトイレにも真っ赤にいっぱいに文字が書かれてあって、逃げ出してたどり着いた家では自分がすでにいたのに遭遇。そして亡霊のように消え去ったところを妹だけが見たんだけれど、あれは存在がワイヤードに吸収されてしまったってことなのか、でもって残ったのは詮索もしないただの欠片ってことなのか。だから主体を見せないで爛れてガーガーピーピーという様になった、と。あのガーピーもダイヤルアップ接続の時代の名残だよなあ、今じゃああんな音なんかさせなくってもLANですんなり、Wai−Fiですっきり。12年の時間はやっぱり重たい。

 続いて子供達が両手を上げてお祈り。そして現れる女神像。集合的無意識の発動によって何かが生まれる予兆をあそこで見せておいたって寸法か。そのころはまだ見方っぽかったナイツも、だんだんと本性を現しつつあった模様。いずこからともなく派遣された黒服は、追いかけるってよりはむしろ守るって方向で動いていて、爆破させられた部屋から妹を誘いだして結果として無傷で事態をしのがせる。親切だったナイツは実は、ってところが終幕での虐殺へと向かうってことか。7話8話も見ないと。本当は一気に見る気だったんだけれど、神経が爛れてとてもじゃないけど夜更かしできなかったのだ。だから「世紀末オカルト学院」もすぐさま録画で見られなかったのだ。歳なのかなあ。ちなみに「ストライクウィッチーズ」は録画はしているけど見てませんん。ストパンは最初の小説版が好きなんだけどなあ、あれってケリまだ付いてないよなあ。

 泥と汗にまみれながら眠って起きてすぐさま家を出て、「東京ビッグサイト」へと向かって「インターナショナルギフトショー」。巨大なビッグサイトの全館を使っているから、どこに何があるかさっぱり分からないというショーだけれども、4日間かけて歩き回ればきっといろいろ見つけれると思いつつ、なかなか実行できないのはやっぱり老体ゆえ? まあいろいろ仕事が詰まって時間に余裕を見られないってことで。なのでいつもそこだけは行くキャラクターライセンスのコーナーへと出かけて、まずはエステー化学のムシューダで使われている茫洋とした熊の着ぐるみが、偉い人たちに囲まれていた姿をチェック。胸に解(ほつ)れがあったんで壊れているの? って聞いたらエステーでムシューダなんで、それが使われていない間にたぶん虫に食われて解(ほつ)れたんです、っていう説明を受けて了解。熊が時々足とかぼりぼりやっているのも虫に食われている身の再現か、ただの痒みか。

 そんなタカラトミーアーツの社長な人が、なんでも竜の子プロダクションの社長も兼務することになったらしいんで、是非にと「ジェネレイターガウル」の再DVD化をお願いする。だってだよ、今が旬の「機動戦士ガンダム00」の監督が最初に監督した作品である上に、とてつもなくスタイリッシュで格好良くっ面白くって茶筒だったりするアニメが、当世に簡単に見られないってのは世界に対する損失だよ、だからここはDVDといわずすぐにでもブルーレイ化を推したいところだったけれども、流石に無理なんでとりあえずDVDにでもってお願いした次第。でもこればっかりはタツノコが動いたってビクターが動いてくれないと前に進まないんだよなあ。新社長登場のご祝儀にいかがっすか。ついでに「小麦ちゃん」もボックスとかで、って既になっていたっけ? むぎむぎ。

 会場では日本テレビサービスって日本テレビ放送網の関連会社が店を出していて、箱根駅伝とか高校サッカーとかのプロパティを使ったグッズとかTシャツもあって、それはそれで健康っぽかったんだけれどもやっぱり注目は「笑点」の座布団。テレビなんかで出ているものの完全レプリカという逸品。過去には座布団カバーなんかは出したことがあったそうだけれど、やっぱり本物の質感ってやつを味わいたい人のために、そういったものも作ってみたそうな。見ると座布団というより枕みたいにふっくらとしているんだけれど、それが使っているうちにしんなりとなって、あんな感じの薄っぺらくはなく、けれどもふくらみすぎてもいない座布団になっていくらしい。10枚集めて重ねて上に座りたくなるけれど、値段も結構な額になりそうなんでそこは大学なんかが落語研究会として、部費で購入した上に部員に1枚づつ買わせて集めるのが良いかも。お金持ちならまとめて50枚買って家で「笑点」ごっこ。司会席から「全部とっちまえ」ってダメを出す快感を味わおう。

 何かまとめて2冊出ていたんで、CHOCOさんの「イグナクロス零号駅」を買って読む。そういやずいぶんと前に1冊出ていたっけなあ、って思い浮かんだけれど、それが部屋のどこにあるのか、今となっては探しようもないから仕方がない。雑誌の方でも連載が再開されているから、それに合わせての刊行ってことなのか。これまで断片的にしか見えていなかったあの世界がどうなっていて、見かけはともかく実年齢は神林ミランダ駅長の正体なんかにも迫っているとありがたい。「イグナクロス零号駅」といったらこれもずいぶんと前、まだ漫画の単行本なんかも出ていなかった時期にガレージキットでいろいろ買った記憶が。H.B.カンパニーってところの原型師さんが作品を好きなのかよく作っていて、その中から3体くらい買った覚えがあるんだけれど、当然ながらまだ作ってない。同じディーラーからは「星界の紋章」のラフィールとスポールも出ていてこれも持っているけど、やっぱり作らず白ムクのまんま。今となっては貴重すぎる品かもなあ、原作いったいどうなった? 「イグナクロス零号駅」と同様に、こちらも復活を希望。してくれないと絶望。


【9月6日】 「生徒会役員共」は第10話まで来てえっとどんな生徒会心得だっけ、まあ下ネタだってことは確かかな。今回はとりわけ下ネタ度も高かった見たいで小林ゆう画伯が演じる顧問も突っ走ってたしお嬢さまもやっぱり飛びまくってたけどそれに負けず劣らなかったメイドさん。お嬢さまが来て脱いだメイド服をかかえてくんかくんかと匂いを嗅いでみせるあたりのフェティッシュな言動は淡々とした演技とも相まってなかなかの腰の据わりよう。続けざまに出てきて欲しいけれども柔道部の子の異種格闘技戦だってフリだけあって中身は見せてくれなかったもんなあ、まあそれはおそらく原作もそうだたからなんだろうけれど。耳で聞いて突っ込みとか楽しいこのアニメの原作ってどれくらいの面白さなのか。今から読んでも大丈夫かな。やっぱりやめておいた方が良いのかな。

 明け方にかけて9話から13話までを見て、なるほど9話がちょっとした踊り場となってそこから物語は一気にリアルワールドとワイヤードとがとろけあい、混じり合っていったんだってことが見えてきた。ロズウェル事件からマジェスティック12へと至る空飛ぶ円盤的事件を上げつつ、絡んだヴァネヴァー・ブッシュやらジョン・C・リリーといった実績はあってもオカルトめいた方面にも足を突っ込んだ学者を紹介、その流れでテッド・ネルソンを上げて、彼が画策したザナドゥ計画をワイアード上における知の集合体の走りと位置づけ、そこにシューマン共鳴といった地球の固有振動の話を絡めて地球上の人類が、つながって生まれた集合的無意識から生まれるワイヤードの存在を確定させてはい、そこに神様が生まれていろいろ起こったことを描いたのが物語りなんですと分からせる。

 そして始まる展開は、存在を消され置き去りにされて寂しがる少女が恨みを晴らし、渇望をいやした果てに来る、平静に戻ったように見えて唯一のピースが書けてしまった悲しみを浮かび上がらせ涙ぐませる。どうしてそこまで自分を犠牲に? でもそれが彼女の優しさだったんだろうなあ。そんな優しさをいやすように現れる存在は、たとえ少女の夢の中に現れただけの妄想に過ぎなくっても、もはやリアルもワイヤードもない少女にとっては唯一のよすが。そこに収まりすがりつきながら永遠を過ごしていくことになるんだろう。やっぱり悲しい話だったんだ。でもそれが嬉しい話でもあった。そこから12年。繋がりは増えてもその密度は別に深まらず、狭い集合がいっぱいできているだけの状況が、ワイヤードではおこり、一方でリアルワールドでは、そんなワイヤードの思いを知ってか知らずか、世情と乖離したまま権力だけを振りかざして突き進む。てんでばらばらの世界。つながってない世界がさらに12年後に見せる未来は? 考えるとどうにも暗くなる。

 これを奇蹟と言わずして何を奇蹟と言うのだろう。ひきこもり世代のトップランナーとして21世紀の訪れとともに颯爽と現れながらも「ネガティブハッピー・チェーンソーエッジ」に「NHKにようこそ」に「超人計画」の3冊を上梓したのみで立ち止まり、迷いながらも少しづつ書いてはいたもののやっぱりぶつかり途絶えてしまってその後、存在だけは見せつつも新しさを見せられないでいた滝本竜彦さんが2010年代への突入を受けていよいよ復活。連載していた物語をまとめ書き直した上で単行本として刊行した。それが「僕のエア」(文藝春秋)。タイトルを聞くだけで懐かしさも募るけれども開いて読んでもやっぱり浮かぶ懐かしさ。滝本さんだけが描き得る、時代に迷い未来におびえる青少年たちのぐるぐるとしてもやもやとした気持ちが、リアルにしたためられていて慟哭を誘い、共感を呼ぶ。

 都会で就職したもののすぐに止めてマスコミ系とはいいつつ実は新聞配達と交通量調査でしのぐ主人公のところに、田舎で慕っていた女性が結婚するという連絡が舞い込む。子供心に将来を誓った相手の結婚と憤りつつもそれでどうにか成る関係でもなかった諦観を引きずりながら、訪れた同窓会でもやっぱり知り合いだった女の子が同級生の野郎と結婚するとか言って激しい衝撃を主人公に与え、そして彼にとんでもないものを見せるようになる。たとえるならエア彼女。幻覚として現れ漂い喋りかけて来る彼女との会話を重ねつつ、主人公はアルバイトによるその日暮らしをやっぱり続けていく。そこに現れた同級生。結婚を発表した女の子がいろいろあれだからと逃げてきたといった彼と、愉快で危ない生活を始めるもののそれもやがて行き詰まる。徒労感が主人公をさいなむ。

 どうしようもない寂寥感。未来の見えない不安感にぐるぐると迷い、せっかく作り出した妄想いすら見捨てられてはいつくばる主人公の姿に、どうしようもない今をそれでも生きなきゃならない若い人たちの苦しみが込められているようで胸に痛みをもたらす。やがて新たな出会いをしても、それが発展することもない主人公のふがいなさを、非難することは簡単だけれどそれならいったい自分はどれだけの前向きさを持って生きているのかと切り替えされ、違いはないと気づいて省みて呆然とする。田舎へと帰り再会を経てもなお変わらない状況。そこで前向きさを取り戻すでもなく、かとって逃げもせず漫然とした生を生きる覚悟を持つというより状況を受け入れる主人公に、最大公約数の今時の若い層の思いを見る思い。まさにひきこもり世代のトップランナーならではの作品。読んでも震えずかといって絶望もしないで、日常を生きていく了承をもたらしてくれる物語。なんてことになるのかな。

 面白いのは脳内彼女が出てくる滝本さんの「僕のエア」と、あらすじによれば脳内片思いとやらが描かれているらしい綿矢りささんお「勝手にふるえてろ」が、ほとんど同時期に出る文藝春秋という出版社の面白さ。もちろん文壇的文化部的な扱いでは圧倒的に綿矢さんが上を行くんだろうけれども、そんな大御所めいたところからの接待めいた評判ではなく、リアルな世代によるシリアスな評価って点では、滝本さんの方がはるかに数を暑めそう。あるいは熱さを吸収しそう。ここで一気に直木賞、とかなって同じ脳内なんとかを扱う2人が対談となって、しどろもどろな滝本さんに関心を持った綿矢さんがいろいろ仕掛けたりなんかしたら、状況としても興味深いものになりそうだけれどそもそも対談が成り立つような立場に世間的にはないから、脳内妄想のひとつってことで。文芸誌とかががっちりどっちがどれだけ凄いかを比較検討したら面白いけど、きっとあり得ない話だよなあ。


【9月5日】 実は8月36日かと思ったら本当はただの8月5日で8月が繰り返されているだけなのだ。それくらいに暑いんで朦朧として妄想。不祥事が相次いでどん底の大相撲が人気回復の秘策に出たとしよう。それは48のきまり手を、あのAKB48とコラボレーションするというもの。例えば上手投げなら大島優子といった具合に、きまり手とメンバーを対応させておいて、その日に出たきまり手について、対応するメンバーが描かれたカードを来場者に配布する。テレビで相撲の結果が出る際には、きまり手とともに対応するメンバーの名前も呼ばれるから双方にとって良い宣伝になるという寸法。「白鳳と事欧州は上手投げ、大島優子で白鳳の勝ち」。なんか楽しそう。

 同じカードばっかりもらっても嬉しくない人もいるけれど、トレーディングカードっていうのはそういうものだから我慢。滅多に出ないきまり手はレアカードになるけれど、それでも決して出ないって訳じゃなく、もしものことを考えて、ファンは毎日場所通いしなくちゃいけなくなる。閑散としかかった両国国技館もこれで連日満員。実際には相撲のきまり手は82とあと5つくらいだっけ、ある訳だけれどAKB48だって別に48人って訳じゃなく、研究生めいた人たちをいれると結構な人数になるし、名古屋のSKE48を入れれば数は十分に足りてくるから安心。1年に1度は選挙をやって人気のメンバーを人気のきまり手の順番に当てはめ直せば、年が変わってもやっぱりファンは国技館へと駆けつける。どうこれ。いっそだったらきまり手の名前もAKB48に変えちゃおう。「阿蘭と白馬富士は篠田真理子で白馬富士」。何がなんだか。

 夜になると流石に涼しさは出てもやっぱり秋って感じじゃあ。東北のどこかで行われた芋煮会に人が来ず1万食も余ったってのもよく分かる。冷やし芋煮だったら良かったのに、ってそれって美味いのか? でもって涼しくなったフクダ電子アリーナで天皇杯の2回戦の「ジェフユナイテッド市原・千葉対FC琉球」の試合を見物。相手が沖縄から来ているっていうのにソーキそばもポーク玉子も売ってないのは残念。おもてなしの精神が足りないぞ。ジェフ千葉が行くときは是非にピーナッツを並べておいてくれ、ってそれは嬉しくないか、ってことは別に地元の食事を出してもうれしがられないってことか、接待って難しい。

 それはそれとしてFC琉球ってフィリップ・トゥルシエの総監督とか金子達仁さんのスーパーバイザーとかが話題になっているけど、運営会社の社長って今は榊原信行さんだってことが分かってさらに驚き。いつかの大ブーム興行だった格闘技イベントのPRIDEを運営していた会社の偉い人。だけどいろいろあってPRIDEが崩壊した後、何をやっていたのかと思ったらちゃんと興行を続けていて、そしてFC琉球の運営会社を吸収する形で代表になっていた。いろいろあっても手腕はちゃんとあったってことか。それならFC琉球もかりゆしFCみたいなことにはならないで続いていくかな、やっぱりPRIDEみたくなってしまうのかな、さて。

。  でもって試合は前半に混戦からネットが押し込みどうにか1対0で折り返す。中盤に中後雅喜選手と山口慶が入り両サイドに坂本將貴選手と和田拓三選手が入るものの、中盤は展開できず両サイドはえぐれず攻撃も散発。逆に琉球は両サイドが突っ走って再度からチャンスを作る。なかでもFC琉球の背番号10番が良い動き。見た目はとてつもなく小さく縮尺が違っているんじゃないかってくらいで、調べたらなんと身長が153センチしかなかった。中村友亮って選手でヴィッセル神戸なんかを経て今はFC琉球に所属らしい。153センチったら女子サッカー期待の星の岩渕真奈選手と同じ。それで男子のサッカーで途中交代もさせられないでフル出場ってどれだけ期待されているんだ。ちょっと凄い。

 だって153センチだよ。女子だって今時187センチの選手がいるくらいだし、ってそれは特別だけれど、そんな187センチくらすのディフェンスと対峙した時に感じる大きさは、171センチの僕が209センチの人間を見たくらいの大きさ。そうでなくても180センチクラスだって2メートル級に見える場所にいて、あれだけの活躍を見せるんだから凄いもの。そんな中村選手が引っ張ったからって倒れたことに憤るJEFの選手やサポーターがいたけれど、153センチの選手と競り合って倒れる方が弱いって思った方がここはアスリートして妥当なんじゃないのかなあ、せっかくの体格が勿体ないっていうか。まあ体格や技術を無駄にしている選手がジェフに多いのも事実なんだけど。

 だって歩いてるんだよ。中後選手も山口選手もてくてくと歩いててまるでピクニック。それじゃあぽっかりと中盤が開くはずだよ。でもって前線にポスト役はいないからボールがまるで収まらない。そこから送ったって跳ね返されるだけ。かといってサイドに渡したところでそこから中盤と連携してのオーバーラップが出来ないから攻撃には繋がらない。ってのは去年から見続けていた光景だけど、1年半が経ってもまるで変わってない。変えようとしない。困ったねえ。まあそれでも後半途中に碇というより重りに近かった不動の中後選手が下がり、サイドで以前のようなキレがあんまり見られなくなった谷澤達也選手も下がって代わりに工藤浩平選手が底へと下がってボールをさばくようになって一変。伊藤大介選手が動き倉田秋選手は相変わらず中スキーだけれどそれでも突破を見せてクロスを上げる。

 そんな攻撃を続けているうちにラインも上がって中盤も埋まりボールが回り始めるようになって、そしてサイドから伊藤選手が入れたクロスをネット選手がヘッドで入れて2対0。綺麗な得点でJEF千葉がFC琉球を突き放し、さらに倉田選手が追加して3対0で勝利した。ほっ。同じJ2の東京ヴェルディが町田ゼルビアにアップセットを喰らったりして似た状況になるんじゃないか心配したけど、とりあえずここはしのいで次はどこだ、J1の京都サンガか、今のサンガならあるいは、でも今のサンガにすら負けるようだともはや……。心配は尽きない。というより今の状況では来年にJ1に復帰してもちょっと大変。選手の体系もオシム監督がいたころに比べて横にじんわり。そこを絞り中盤から一気に広がり走る選手たちを作らないと勝てないし残れない。それをやれる監督を呼んでこないと行けないんだけれど……。困ったなあ。まあとりあえず今を勝とう。

 本城雅人の「嗤うエース」(幻冬舎)って本を読む。「ぐいぐいジョーはもういない」と同様に野球ネタの小説だけれどタイプはまるで違ってて、こっちは和歌山の漁村で貧乏暮らしをしていながらも、実力があって小学生時から嘱望された投手が、高校野球を経てプロと活躍するんだけれどときどき妙な試合をする。実は八百長やってんじゃないかと疑われ、刑事やらトップ屋やらが追いかける話だけれど、そこに乗ってくるのが、バッターと投手の1球1球のかけひき。小差で且つ成り負けるなりすることが必要な八百長では、明らかな失投ではなく流れの中でそうと気づかせずに相手に打ってもらわないといけないから、当然のように心理の世見合いが必要になる。こうすれば打ち取れるってのと逆。むしろさらに裏の裏まで読むような投球が求められる。

 それが「嗤うエース」には書かれてあってなかなかに読ませる。書いた本城雅人さんはどうやら元スポーツ紙の記者らしい。普段は選手の人情話くらいしか紙面に書かないで、それでOKと言われているスポーツ紙だけれど、記者は本当はスポーツそのものを書きたいし書ける力も持っている。読者もそれを望んでいるのに、机な連中とかが人情物に走って邪魔するからああいった紙面になっている。乖離が招く離反。それが今のスポーツ紙の限界と、感じてフィクションの世界へと飛び込みスポーツが持つ技術やかけひきといった部分の面白さを描こうと思ったのかな。分からないけど面白い作品。そのラストもなかなかに壮絶。こんなピッチャー、現実にいるのかなあ。


【9月4日】 さすがに8月35日とまではいかないまでも、やっぱり続く暑さはこのまま9月の終わりまで続きそう。暖房がいらない幸せな生活が送れそうだけれども、その反動は来年の春に花粉の大量発生となって、その筋の人たちを苦しめることになるのであった。僕はまだそれほどでもないんで気にしないけど。ムズムズはしてもグジュグジュはしない程度なんで。田舎育ちだからかな。それともあんまり外に出歩かないから、花粉反応物質が身体に貯まっていないのかな。

 そんな暑さの中でも本くらいは読んでおきたいと、講談社BOXから出た樺薫さんってライトノベルの方なんかでも書いているらしい人の「ぐいぐいジョーはもういない」って本を読む。ぐいぐいジョーってのはアメリカの大リーグで活躍してマリリン・モンローなんかとも結婚していた不世出の大打者、ジョー・ディマジオのあだ名らしいけど、「ぐいぐいジョー」は主題こそ野球であっても、むくつけきおっさんが打撃にいそしむ話ではなくって、可愛い女子高生が硬式野球に挑むって話。つまりは「大正野球娘」で「クロスゲーム」の青葉のみってところだけれども、ここん家の凄いところはそうした話題性のある話に、今最高の野球漫画とも言える「おおきく振りかぶって」の緻密さも混ぜ合わせたってところか。

 長身でスラリとしてお嬢さまで直球は早くスライダーは激しい投手の少女と、本当はやりたくなかったんだけれどもそんな投手の球を受けられるのが自分しかいなかったって関係で、中学に引き続いて捕手をやり、豪打でもってチームを引っ張ることになる少女との関係を百合的に描きながらも、こと試合となれば1球1球とそして1打席1打席のすべてに意味を持たせて語り上げる。その時の心理その時のシチュエーション。すべてを勘案してこそ見えてくる野球ってスポーツの奥深さをくっきりを浮かび上がらせつつ、そうしたスポーツにいそしむ少女たちが抱くスポーツへの思い、そして仲間たちへの情愛なんかもドラマにして描いて引っ張り込む。

 とにかく圧倒的なキャラクター。そしてその振る舞い。ディマジオって名を使いつつそんなディマジオの名が出てくる「ミセスロビンソン」が流れる映画「卒業」なんかもモチーフに取り入れながら、投手のお嬢さまの少女が我が儘いっぱい百合いっぱいに振る舞って捕手の少女をキリキリとさせるかわいさを描いてぐっと引きつける。球を取れる捕手がおらず、文句を言って捕手を変えてくれと直訴して監督に叱られ正座している姿なんか、映像で見たらきっと可愛らしいんだろうなあ。それとも小憎らしい? でもってそんな投手とそれから捕手とが最後の打席で交わす情愛の表現。これも映像で見てみたい。それも実写で。ってなると誰が誰を演じるのが良いんだろう? 成海璃子と北乃きいではないよなあ、それは「武士道シックスティーン」でもうやったし(やってません)。

 いやまあそれが女子野球だから見て目にもはんなりできるけれど、男子の高校野球をテーマにしていて同じシチュエーションで同じ展開を望めるか、ってところでちょっと逡巡。なるほど世にはBLってジャンルがあるにはあるけれど、そうしたところで主人公になる細身で見目麗しい青年たちが臨んでどうにかなるスポーツじゃあ、野球はないんだよたぶんきっと。かといって投手が星飛雄馬で捕手が伴宙太では抱き合って泣きあって感動を呼んでも、その先に顔を重ね合わせて唇を……って想像するだけで暑苦しい。里中と山田太郎でも。日本はことごとく捕手の描写に厳しいからなあ。だからやっぱり「ぐいぐいジョーはもういない」は原作どおりに女子での実写化を希望。そこから日本の女子野球への理解が生まれ、いろいろな意味でのハッテンが生まれる。

 神保町あたりをうろついていたら見つけた「週刊現代」の2010年9月18日号に「『家で死にたい』46歳すい臓がんで死んだアニメ監督の選択」として今敏監督のラストメッセージ「さよなら」に関連しての記事が掲載。ほぼ3ページにわたる内容はもっぱら終末ケアの問題についての提案で、このご時世にやっぱり家で死にたいという人が多くなっていることを表したもの。同じ週に発売となる東洋経済だったかも同様に終末医療を取り上げている辺りに、問題の大きさって奴も見て取れる。

 それはそれとして今さんの記事には、追悼の言辞として、氷川竜介さんによるラストメッセージへの所感も。シリアスさとユーモアの混じった内容と言って「今さんの映画の作風そのままで、私たちファンにしてみれば、読んで泣き笑いするしかありません」と結ぶ。もうとてつもなく同感。そうだよなあ、ほんとうに今さんらし過ぎるってて笑ってしまったんだよなあ。つきあいの長さがあればこそ書ける良い言葉。それをしっかり拾った週刊現代に感謝。ぱっと眺めたところ「週刊ポスト」にも「AERA」にも今さん関連記事は見えず。やっぱりヤングマガジンをはじめ講談社系で描いていた人だけに、地元として追悼しなきゃって意識が働いたのかなあ。

 本職でもってロシアに妙なアート集団の話を書かなきゃならなくなっていろいろ探してなるほどと了解。その名もタナトス・バニオニスってアート集団は、女性の背中に刺青をして歩かせたりしてるんだけれど、その刺青が何と神風。それも特攻機から参謀から靖国神社から竜から旭日旗から半分だけの菊の紋まで入れてしまっていたりして、エキゾチックなモチーフを背負わせて楽しんでいるだけなのかと思いきや、根は真面目に特攻の勇気にインスパイアされたものだとか。意思をもって勇気を持って死に臨んだ若者達の決断を、讃えたいって意識の産物。でもって女性たちも背中にそんなものを入れる覚悟を示していっしょに“カミカゼ”しているところが、エキゾチックさを超えた評価を得ているらしい。今はサンクトペテルブルグでもって展覧会を開催中。日本に来てくれたらどういう評価を受けるんだろう。莫迦にするなって感じかなあ。よくぞやったって感じかなあ。

 だから嫌だって最初に思ったんだ。観光立国ナビゲーターとやらに例のJの事務所の集団が選ばれたって話があった時、ネットでの露出を極端に嫌っている彼らを起用したってネットを通じたアピールに使えないじゃんかって言った記憶があるけれど、そうした観光立国の流れか何かか、再建途上にある日本航空が、その集団を新しくジェット機に描いて飛ばすことになったって発表して、ネットでリリースなんかも出しているけどそのどこにも肝心の画像が乗っていない。どういうデザインなのか知りたいってのがファンだし一般のユーザー。それに答えられないタレントを器用していったい何の宣伝になるのか。再建の助けになるのか。やっぱりそれでも人気だって言うんだろうけど、最大値を狙わなくてはいけない会社がこういう制約を受けてなお平気な顔を見せていることにまず唖然。なおかつそうした会社の事情も斟酌しないで自己主張を押し通す事務所のスタンスにも呆然。こうして世界はゆがんでいく。日本は衰えていく。愕然。


【9月3日】 実は8月34日。朝から気温は上がりうだるような暑さの中を、とろけるような気分になりながら起き出して支度をしたりする日々がいったいいつまで続くんだ。それでもどうにか日陰とかは涼しくなっているけれど、夜にもまだ扇風機を回さなければ寝ていられない状況はちょっと異常。これほどの暑さってのは経験と記憶を総動員すると、教育実習に出ていた1987年くらいしか思い浮かばない。あの年も暑くて教育実習期間中、背広姿にひいひい言ってた記憶がある。けど14日過ぎたら急に涼しくなったんだよなあ。今年もそんな感じかなあ。

 教育実習は名古屋市立なんで9月にやって3クラスで2時間づつ、120人くらいを相手に授業をやったんだっけ。世界史でインド古代史のあたり。その時に受けていたのは1年生だったか2年生だったか。あれから23年も経っている訳だから元生徒の年齢も40歳くらいになっている訳だ。その中から有名人は出ているかなあ。出ないよなあ。そういう学校でもないもんなあ。もちろん実習が終わったあとは没交渉でラブレターをくれる女子高生も居なければ果たし状を送ってくる男子生徒もいなかった。もしも僕の授業でインド史に目覚め学問を究めてインドでIT産業を興して長者になっている人がいたら連絡請う、金貸して。

 グループ・タックが準破産申請をして事実上の倒産をしたそうで、「タッチ」を中心にした青春アニメの総本山として懐かしみ勿体ながる人も多そうだけれどそうした青春時代にあんまり青春アニメを見ていなかった身には、むしろ30過ぎにテレビを見る時間が出来て見たNHKの土曜日放送のアニメなんかが記憶にも鮮明だし勿体ない気分も高い。たとえば「飛べ!イサミ」とかはヒロインが履くスパッツにどうしてスパッツでなければならないのだろうと生な足(といったってアニメなんで絵なんだけど)を見せてもらえないんだろうと懊悩しつつ、いやむしろこうして体にぴったりとはりついたスパッツの方が色こそ違え体の線をしっかり表しているものではないかといった結論を導き出し、眺めつつ透視して心を燃えに萌え立たせていた。

 それから「YAT安心!宇宙旅行」。へきへき椎名へきるさんをヒロインの声に迎えて繰り広げられた宇宙を舞台にした旅行&冒険の物語は、何よりも天上院桂さんの短いスカートからスラリと延びた足なんかに目が行って、目が釘付けとなって目線を縛られ、1度見たらやみつきになってそのまま見るようになって、そして繰り出されるユーモアいっぱいの展開と、桂さんの超パワーのおかしさと、そんな裏にあった割に深いドラマなんかを楽しんでいた。もっとも2期に入るとそんな綺麗な足が見られないようなコスチュームに変更となって、愕然として呆然として、激怒して憤怒して、滂沱して呻吟して悔しさにまみれながらそれでも声だけは前のとおりと見続けたんだっけ。懐かしい。

 あとはやっぱり「はれときどきぶた」か。これはNHKではないけれど、会社として立ち上がったばかりのSPE・ビジュアルワークスを尋ねて白川隆三さんに話を聞いて、面白いアニメーションが始まるって話を早速記事に仕立て上げたんだっけ。始まった時は童話が原作ってことでほのぼのっぽさ漂う作品になるかと思ったら、次第にテンポアップを重ねて激しい展開をなってたたきつけて畳み込むような終盤へと至って伝説のアニメーションとして今に名をとどろかせるに至った。あれとその直前の「るろうに剣心」があったから後に「空の境界」とか「宇宙ショーへようこそ」なんかを手がけて業界を震撼させるアニプレックスはあるんだって言えそう。いっそA−1ピクチャーズでタックの商権を引き継いでしまえば良いのに。そんなお金はないかやっぱり。うーん。

 そんな「はれときどきぶた」が放送されていたのが1997年から1998年まででそして「YAT安心!宇宙旅行」の慟哭の第2期が放送されたのも1998年。ってことでこの前後ってのはやっぱりアニメーションにとっても結構意味のある年なのかもしれないってことを最近あれこれ考える。中心にあるのは「serial experiments lain」でそこに描かれた電脳空間と現実空間が重なり合わさっていくビジョンは、同じ年に公開された今敏監督の「パーフェクトブルー」に描かれた、電脳の仮想空間に現実の存在が浸食されていって何がリアルで何がバーチャルか分からなくなってしまうビジョンと対をなして、電脳空間が広がっていった時に起こるさまざまな問題なり、得られる可能性といったものを示してくれた。

 もちろん先行してそうしたリアルとバーチャルの融合を描いた作品はいくらでもあって、サイバーパンクと呼ばれる作品に始まって電脳空間にジャックインする東野司さんの「京美ちゃん」シリーズなり、柾悟郎さん「ヴィーナス・シティ」なり、内田美奈子さんの傑作漫画「BOOMTOWN」といった作品が電脳空間の持つ可能性を怖さって奴を感じさせてくれていた。とはいえまだまだコンピュータが手の届かない場所にあって夢のテクノロジーとして示されたものが、マッキントッシュやらウィンドウズ3.1やらの到来で個人でもインターネットを利用できるようになり、そこから始まった見知らぬ人とのテキストベースのコミュニケーションが、世界規模に広がっていくという面的な拡大、あるいはやがてキャラクターベースのコミュニケーションとなっていく質的な拡大が想定できるようになったのが1996年とかそんな辺りになる。

 1994年に「WIRED」って雑誌が米国で生まれ、95年には日本語版も創刊されて「つながる」ことがひとつの文化として浸透し始めていった果て、実感できるところまで広がりそれが創作へと跳ね返って「lain」が生まれ、「パーフェクトブルー」が生まれた、って見方も出来なくもない。ちなみに「WIRED」の日本語版はそんなワイアードカルチャー真っ盛りの1998年に版元の都合もあってあえなく休刊。先行してアジったものが浸透して拡散していったがために本家本元が必要とされなくなった、って訳ではないにしても一般化してしまった先鋭的な文化はもはや先鋭的ではないってことでもあって、そこに先鋭性をアピールする雑誌があってもかえってアナクロに見えてしまう。休刊はだからタイミング的にも悪くなかったんじゃなかろうか。

 電脳といえば「アキハバラ電脳組」も1998年ってことになるのか。こちらはデジタルカルチャーを含んではいても基本的には美少女戦死の格闘バトル的ストーリー。絵柄も旧来から続くしゃくれ顔で目の巨大な少女たちで、見てそれがトレンドだって思わせる範囲に留まっている。当時のって意味だけど。今みたらすっげえよなあ。対して「lain」は丸顔で目はそんなに大きくない少女が憮然として登場していてこれは何だと驚いたっけ。やっぱり1998年にはOVAで「青の6号」のリリースが始まって、こちらには村田蓮爾さんがやっぱり丸顔で目がきょろんとした少女が登場していた。どちらも当時のいわゆるアニメ絵的な流行からはかけ離れたデザインで、故にたぶんあんまり評判にもならなかったけれど、干支が一巡りした2010年に「青の6号」も「lain」もブルーレイ化されて最先端に戻ってきた。早すぎたといえば言えるけれどもそれならそれで選んだ人たちの目の確かさは凄いというか素晴らしいというか。翻って今、他と違って評判を得られていないけれども2020年辺りで最先端を晴れるタイトルとそしてキャラクターがいるだろうか。いたらどれだろうか。考えてみるのも面白い。


【9月2日】 でも本当は8月33日。8月だから暑くって当然。でも8月なのに学校は始まってしまっているこの矛盾。気温が8月なうちは学校も会社も休みになれば良いのになあ。会社は違うか。どうも最近疲れ気味。1年くらい休んでいたくなって来た。ずっと休んで良くなる制度も復活か。でも今回は違うんだよなあ対象が。何のこっちゃ。人数集まらなかったら混ざって良い? 左うちわで2年くらいのんびりしていたい。そんな余裕をかませる額でもないけれど。というかそんなヌルいことやってる場合でもないんだけれど。前にやって失敗したことをまたやろうとして、それもより大きくやろうとしている上に、はっきりとしたメニューも固まっていないんじゃあ、受け取る方だって迷惑だよなあ。何のこっちゃ。

 POPのボア・ハンコックはついぞ拝めなかった秋葉原で、アミューズメント施設向けに作られた景品のレヴィが平積みにされているのを発見。すでにAM施設に出回り終えたものが戻ってきたのか、それとも出回る前の物かは知らないけれども、クレーン下手で獲得不可能なものが、たとえ1380円でも手にはいるのは嬉しいところ。造形は割としっかりしていて、それこそ数千円で売っても良さげ。表情はややキツめだけれどもそれもまた大人びて良い感じ。バラライカ風? 等身がすらりとしているから身長的に170センチくらいありそうに見えるけれども、レヴィって割と身長低そうなんだよなあ、それが例のダブルホルスターのサイズに影響していると聞いて、果たして自分にはめられるのかがちょっと心配。はめてどうするって訳でもないけど。さすがにソードカトラス2挺突っ込んで歩いてたら止められるもんなあ。

 「ヤングキングアワーズ」の2010年10月号は表紙にどっかんと「惑星のさみだれ」。10年とかの未来になっているけど、元がだれだかしっかりと把握していなかったんで10年後の誰が誰だか今ひとつ不明。誰が誰でも良いような気がするけれども、対泥人形の怪物を作ってたでぶちんが、白蛇使いのお嬢さまと結ばれていることにはアニマならずとも「ん」「ん」「ん」とつぶやきたい。「ん」。まとまってみれば異能バトルが地球を救うって割とありがちな話だったけれども、絵柄の飄々とした感じと展開に混じるコミカルさ、けれども根はシリアスといったところで関心を引き続けたみたい。終わりも爽やかで鮮やか。喝采。それはそれとしてページが続く「天はひびき」の波多野さん。デカ過ぎやしないか。もうとてつもなくデカくないか。それで弾けるのかバイオリン。台になるのかバイオリンの。謎。

 設定的には1970年代で絵柄的にも1980年代90年代を大きく踏み外す者じゃないけれど、でもやっぱり熱血スポ根は良いものだ。「サムライリーガーズ」。メジャーリーグならぬメジャーボールに参戦している日本人だけの侍チームが出来たけれど、優勝を果たした直後にエースが死んで弱体化。もはや後がないって時に死んだエースの弟がやって来て、兄貴を越える活躍をしようとメジャーボールに飛び込む。葛藤はあるようだけれどそれほどいじけず、実力もそんなに遜色ないところを見せて突っ走る明るさは、ドロドロとした相克にドラマを感じさせ引きつけた70年代80年代とは違うところ? ただただアクションで見せて引っ張るこの楽しさ。そしてちょっぴりのお色気も。頭を楽にして読んでいけそう。そういや宇宙人たちが野球やってた板橋しゅうほうさんの漫画、単行本になったっけ。

 巻頭には「それでも町は廻っている」のキャストがメイド姿で勢揃い。主役の歩鳥の声はそうか小見川千明さんか。そしてたっつんは悠木碧さんか。ともに声に特徴を持ってる若手の声優、っていうか顔出しだってオッケーな2人をフロントにすれば、イベントだっていろいろやれちゃいそう。声マニアックな身としては見ざるを得ない。ただ本編の方は初期のほのぼのがややシュールに流れて来ているのが気になるところ。それを新房昭之さんがどう料理するかってのも見物か。近藤るるるさん「アリョーシャ」は淡々と連載中。「ドリフターズ」は連載はないけど単行本の1巻から連載最新まで収録の小冊子を付録。「ヤングキングアワーズ」なかなか張ってます。これでで「ジオブリーダーズ」も載っていればなあ。もう1年以上経つのか。うーん。

 朝方に「パーフェクトブルー」のブルーレイディスクの初回限定版が届く。とっくに品切れになっていたはずの商品で、店頭なんかでも見かけずプレミアなんかついていたりしたはずのものが、なぜか突然アマゾンに発送可能予定商品として現れそして現実に到着した。どこかにあったのを掘り当てたのか。あれだけ広い市川塩浜の倉庫なんだからきっとどこかに眠っていたに違いない。探せばきっとグーテンベルクの聖書とか、ネクロノミコンとかも発掘されるい違いない。ロゼッタストーンとかパピルスとかもあったりして。そしてその奥にそびえ立つモノリス。

 とはいえしかし「パーフェクトブルー」のブルーレイは絵柄がそれほどBDっぽくないって評判。違うんだ元が貧乏ビスタで撮影にも金をかけておらず動画は足りないフレームはガタつくと見るたびに冷や汗をかいていた作品が、ブルーレイになったからといって鮮やかになるはずもなく、むしろくっきいりと粗が見えてしまっているだけなんだって可能性もあるけれど、そうした所も含めて作り直してこそのBD化、って皆が思ってしまうんだろうなあ。そこが悩ましいところ。まあこれはこれとしてコレクションに加え映像は1番最初のDVDで楽しむことにしよう。レーザーディスクはハードが埋もれていてちょっと無理。動くのかこれ。「VIRUS」とかレーザーでしか持ってないタイトルも多いんだよなあ。やっぱり探して買い置きしておくか。プレーヤー。


【9月1日】 つか何だこの暑さは。9月1日といったらもはや秋。次に来る季節は冬で雪で凍りで極寒な季節の手前がどうしてこんなに暑いのか。むわっとする外気の中を歩いているだけでそこがサウナかと体が感じで汗を吹き出す。もうもうとした空気が身にまとわりついて足を前へと踏み出させない。日陰に入っても暖まり果てた空気は流れ込んで顔面を紅潮させる。もう秋だからと学校のプールだって閉じられていそうだけれど、この気温ならまだまだ水泳大会だって開かれて不思議はない。っていうか学校のプールっていつまで開いていたっけ。もう30年近くも昔のことなんで覚えてないけど、ともあれ希少な気象の異状はまだまだしばらく続きそう。一般家庭なら冷房代で家計が文字通りに燃え上がりそうだけれども我が家の冷房は壊れて飛び出て使用不能、したがって今夏も冷房なしでどうにかクリアの見通し。財力には嬉しいけれども体力にはやや損耗。1ヶ月くらい休んで養生したいなあ。

 それでも頑張って起き出して電車に乗ってパシフィコ横浜へ。8時40分に出て9時10分には到着していたからかかった時間は多めに見積もっても1時間半。幕張メッセなら40分で東京ビッグサイトでも1時間あれば行けるから、東京湾岸にある主要なイベント会場ならそんなに果てしない苦労をしなくてもたどり着けるってことが改めて証明された。これがたとえば三鷹あたりだったらビッグサイトはやっぱり1時間でパシフィコはもうちょっとかかるのかな。でもって幕張メッセは2時間コース。イベントに出向く仕事も少なくない身には、お洒落で文化漂う下北吉祥寺あたりより、何もないけど本屋だけは充実している船橋ってなかなかいい場所なのかもしれにあなあ。冷房が壊れても温水が出なくても引っ越さないのはそれが理由? いえいえ本が多すぎて引っ越せないだけでございます。1年くらい休んで片づけたいなあ。

 なんか弱気になって来た。んでもってパシフィコ横浜では「CEDEC」ってゲーム業界の開発者たちを対象にしたカンファレンスを見物。あの会議棟にいっぱいのセッションがつまってホールでも大きなトークショーがあってと気分は2007年の世界SF大会。ただしマスカレードな人はおらずシール交換を頼んでくる人もいないのは、遊びのイベントって訳じゃなく開発者たちがゲーム開発の新技術なり新サービスいんついて話し合ったりするイベントだから仕方がない。これでたとえばベヨネッタ様とか歩いていたら目にも毒だし雰囲気もユルくなってしまうからなあ。いやいてくれても良いんだけれど。1日うらいはそういった、遊びが漂うスケジュールになっても面白いんじゃないかなあ「CEDEC」。海外だとこういう開発者向けイベントはどんな感じなんだろ。やっぱりガチガチ?

 それにしても朝の9時半だなんてゲーム業界のとりわけクリエーターにとっては深夜に近い時間によくもいっぱい集まったもんだ。瀬名秀明さんが登壇して重力にとらわれる人類をアジテーションして宇宙へ出よと呼びかけた、訳ではないけど重力が思考に及ぼしている影響の少なくない点を改めて強調して、ゲーム開発やに気づかせたセッションもそれなりに満杯だったし、ポケモンを仕切る石原恒和さんが登壇したイベントもやっぱりいっぱい。そしてあの「ルパン三世」やら「未来少年コナン」やらで超絶のアクションを描ききって宮崎駿監督高畑勲監督の演出を支えた大塚康生さんが登壇したイベントも、ゲーム業界的にはまるで無関係といった人物であるにも関わらず、いっぱいの聴講者が来て1000人は入るホールが埋まってた。まあなあ、ゲーマーだってオタクな訳で、あの大塚さんが来るんだったらやっぱり見てみたくなるよなあ。

 そんあ大塚さん、東映アニメーションに入った時の試験なんかを再現して、もりやすじさんから出された槌をふるって下ろす人間の絵を、ちゃんと重さも感じられるように作画して入社を果たした話なんかを披露。それから誰かを試験した時に、飛び込み台から飛び込む男を書けって過大に男が下をのぞき込み、梯子をつたって下へと降りてそこから飛び込む絵を描いた人をこれは面白いと採用した話なんかを披露して、人間がどう動くのかを観察して描く必要性、そして言われたことをそのままやるんじゃなくってより面白くなるように、自分で工夫する必要性なんかを話してた。つまりはオリジナリティ。ただ突っ立ってるだけのポーズも、上げて下ろした2場面をつなげて槌を振ってるおうに見せかける最近のアニメも、どっちも駄目なんだけれど状況はむしろそっちへと靡いてどうにも釈然としない旨を示してくれた。動けば良いってもんじゃない、ってことなのだ。

 もっともアニメーション業界を外から見ているゲーム業界にとって、動きを描けるアニメーターはやっぱり凄い存在で、そうした人たちがもっとゲームに来てくれたら、今のただ動けば良いだけっぽいゲームのキャラクターのアクションなんかにも、アニメならではの溜めやら重量の表現やらが加わって、よりリアリティを持った映像になるんじゃないかってことを、ゲーム「ワンダと巨像」を作った人が訴えていた。ゲーム業界ではそうしたアニメーターの立場が蔑ろにされているか、そもそも役職として存在しないとか。アニメに目の肥えた日本人が見てやっぱりどこかぎこちなさを感じるのもそうした部分なんだろうけど、違うカルチャーで育つとなかなか間が埋まらない。そこを埋めようと設けられたセッション。どうにかしようと頑張っているんだ。一方でだったらアニメの世界は、ゲームを始め他の世界の成功例を学ぼうとしているか、ってところに今後の課題なんかもありそう。CEDECめいたセミナーがアニメ業界にもあればなあ、ってJANICAがやってたっけ。どうなっていくんだろう今後。

 外に出てもまだ暑い横浜からの帰途に長谷敏司さんの「円環少女」(角川スニーカー文庫)の12巻を読んだら倉本きずなが頑張っていた。前の巻で再演体系ってとてつもない魔法の力を受け入れ時には人の命を殺めることすら辞さない覚悟を得たきずなが、頑張って竹原仁の苦境を救ったけれどもそこから果たして次の最終巻に向かって何が起こるのか。「フルメタル・パニック!」のラス前ほどのふりもなく、最後の謎が示された訳でもない静かで平穏な巻になっていたけどその底でいろいろとうごめいてもいそうなんで、次に一気に現れては、一気に解決する怒濤の展開が間っているんだろうと想像。楽しみにしつつ次こそはセラ・バードの普段着っぷりをより詳しく、イラストも含めて描いて欲しいとここに懇願。真冬に出るとちょっと寒さを覚えるかな。でもそれがセラ・バードのポリシーなんだから仕方がない。冬でも耐えろ。そして僕たちに見せつけろ。

 行くシリーズもあれば来る新シリーズもあるもよう。「レンズと悪魔」の六塚光さんが始めた「墜落世界のハイダイバー」(角川スニーカー文庫)はおっぱいの小さいというかまるでない女性は奴隷以下の身分として虐げられても当然といった世界が舞台になってて、そういった方面に気がある者とかまさにそういった状態にある者なんかを激怒させそう。コンビニで弁当をかっていた主人公がふと気が付くとそこは異世界。重力が四方発表からのびていて、それに身をゆだねることで空へと浮かぶっていうか空に落ちる感覚を味わえ、それらをうまく操ることで自在に空を飛び、舞台を操って戦えるようになるという。少年は自分を召還した奴の所から逃げ出して、現れた巨大な乳の持ち主のところで修行を重ねるものの落下とはすなわち高い場所から落ちること。高所恐怖症の少年にはなかなか大変だったけれどもいっしょにこっちに来たらしい少年少女の少女が極度の貧乳で、奴隷扱いされかねない可能性を鑑み助け出そうと頑張るストーリーが繰り広げられる。その辺りは真っ当。だけどやっぱりつきまとう「おおきいは正義」。引っかかるけど表紙を見るとなるほどなあ、やっぱりなあ、正義かなあ。


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