縮刷版2010年8月下旬号


【8月31日】 取り上げる、っていうからにはそれが誰で何をやった人でどういう理由からキーワード的に話題になっているかを紹介するのが筋ってものだけれどもフジテレビジョン「とくダネ」のランキングコーナーが、今敏監督に対して報じたことは亡くなったこととアニメーション監督として名が知られていたといったことくらい。そんなことを数秒間、報じられたからといってテレビを見ている今敏監督のことをまるで知らない視聴者には、何ことかさっぱり分からない。

 なのに伝える努力をしないテレビが何だこれはと飽きられ、今敏監督に対して正しい評価をしてくれるのかもと期待した人たちを裏切って見捨てられるのはもはや避けられない道だと言えそう。画面の外で嘆息していたあれは「ニューズウィーク日本語版」の竹田圭吾編集長だろうか。そうした反応も欠片も外に出さないテレビが今後、話題になっているあのラストメッセージに感銘を受けたからドラマ化したいとか、特集を組みたいと言って来ても断固として断るべし、って思ったもののたとえ5秒でも取り上げてくれるだけまだましって状態が、あるいは訪れるかもしれないだけに悩ましい。せめてNHKには期待したいんだけどなあ。MAGネットでも良いから。見られないけどBS2なんで。

 一時話題になったものの最近は都内あたりであんまり見ないんで、やっぱり死体を飾るなんて不謹慎きわまりないって批判に沈黙したかと思ったら、どっこい地方ではしっかりと続いていたみたいな「人体の不思議展」。つまるところは人間の死体をプラスチックみたいな合成樹脂で固めてしまった標本を、並べて見せる展覧会で内蔵がそのまんま見えるものもあれば、神経だけが固められたものもあったり、人体が輪切りになって内臓とかの様子が見えるようになったものもあってと文字通りの人間大博覧会。かといってグロテスクさはプラスチックにまみれて薄れていて、もうほとんど模型みたいな雰囲気で並んでいる。

 だからといってそれは紛う事なき人間様の死体様。かつて生きてて誰かと話して家族もいたかもしれなかったりする人たちが、今はただの物体となって置かれていることを思うとどうにも居心地が不安定になる。いくらそれが生前に献体の意思が示されたものであっても、また医学的に意味のある展示だからといっても、やっぱり死体はしたいな訳で、模型で代替して見せても何の問題もなかったりするところに、倫理とか真理といったものへの挑戦めいた感覚を引き起こされて、眉をひそめて今一度、人間とは何かてことへ思いをはせる。でもって帰りがけにレバ刺しを喰らう、ってことはありません。

 ともあれ世間が非難囂々になるような状況にまでは至っていないそれとは別に、スペインの博物館に70年近く飾ってあった、エル・ネグロと呼ばれたアフリカ人の剥製に対しては、国連のアナン事務総長なんかが非難の声明を出して撤去を求めた結果、2000年になる前に引っ込められてその上でアフリカへと返され埋葬もされたらしい。なるほど生前に同意があっった訳じゃなく、死んで埋められたところを掘り起こされ、半ば見せ物として剥製にされて欧州へと持ってこられた敬意はプラスティックまみれの死体標本とは意味が違う。まあそれでも同じ死体に過ぎないというならなるほどそうかもしれないけれど、問題はエル・ネグロの場合は人間の死体といった意識じゃなく、人間とは違った生き物の標本といった雰囲気で欧州に持ち込まれてしまったことにある。

 1800年代といったらそれなりに、文明も発達していたんだけれどアフリカの地は暗黒大陸と呼ばれ、そこに暮らしている人も人とは思われなかった節がある。ダーウィンが進化論を唱えたのっていつだっけ。そうした科学の萌芽がまだだった時代、欧州の人とは見た目も生活の様子も違っていたアフリカの原住民たちを、人間だって思おうとしない人が欧州にいっぱいたってことは想像できる。そんな人たちに人間みたいだけどそうじゃない生き物の標本として、持ってこられて見せられたのがエル・ネグロ。当時の欧州の常識では仕方がなかったとはいえ、プラスティック人体標本とは違った位置づけがそこにはある。

 それでも億歩譲って当時はそういう雰囲気だったんだから仕方がないじゃん、といった良いわけもできない訳でもないけれど、根深いのは20世紀に入ってそれも後半に至ってもなお、エル・ネグロはアフリカ原住民の標本として飾られ続けたこと。ステレオタイプな衣装と装飾でもって衆目にさらされ、そういう人間がアフリカにいるんだといった偏見を植え付けたか、偏見を納得させる道具として働いた。そりゃあ怒るよアフリカの人は。だからいろいろいって撤去させたんだけれど、それでもやっぱりうち消せてはいない偏見って奴を、若き日に博物館でエル・ネグロを見て衝撃を受けたオランダ人青年が、開発援助の仕事で世界を回るかたわら、誰が何のためにエル・ネグロを剥製にして、欧州に連れてきたのかを追い求めたのがフランク・ヴェスターマンって人の「エル・ネグロと僕」(大月書店)という本だったりする。

 開発援助という仕事をしている過程でこの人は、今なお上から目線でアフリカなど発展途上の国々を見る態度がどうにも妙だと気づいた模様。かつてアフリカが知られていなかった時代に、あくまで標本としてエル・ネグロを捉えていた時よりも、同じ人間として認めながら、明らかに区別を行っているだけに今の方が罪深いてことになる。だったらどうにかすれば意識は消せるのかというと、そうした意識を消すような行為そのものが、現前として存在する格差から目をそらそうとするものだって反発を喰らって、作者もあれこれ迷っている模様。そんな逡巡を、彼がエル・ネグロのルーツを求めて旅した冒険で得た思考なんかもふまえつつ、味わいそして自分ならどうやって世界を感じ、そこに生きる人々の尊厳を意識するのかを考えてみるのが良さそう。

 ザッケローニよりもフェデリーニが好きだけれどもリングィーネも悪くない、ってそれはパスタの話。日刊スポーツのペケルマンで絶対という報道をひっくり返してザッケローニ監督が日本代表に決まって就任会見を行ったみたいだけれどもそれだけおお外しをしながらも日刊スポーツはとりたてて訂正もせず、誤報の経緯も示さず精一杯にやったんだから応援してね的スタンスを貫きつつ、これからのザッケローニ政権の動勢を伝えていく模様。果たして中立に公正に見られるか、って不安は覚える。

 けれども、それよりはもはや出馬断念は確定的って感じで昨日の会談の流れを組んで伝えていた新聞メディアが、小沢一郎さんの民主党代表選出馬続行を誰も予測できていなかったことは、サッカーの監督を外してしまうこと以上にみっともなくそして恥ずかしい。スポーツ新聞はそれでも数紙は当ててた訳で、全紙がおよそ外しまくってそれでも平気の平左でいられるこの国は、やっぱりどこかが(というかメディアが)ゆがんでいるというより他にない。遠からず逝ってしまうんだろうな。でもってその真っ先に位置するのが……。荷物まとめておくか。

 せっかくだからと店を回って田村ゆかりさんが横浜アリーナで繰り広げた王国の饗宴を確かめるべくブルーレイディスクを購入、ピンク色のジャケットがいかにもらしいけれども中身はもっとらしいんだろうなあ。とりあえずネットとかではザラい画像のオープニングアクトを確かめ、奈落から飛び上がってくる田村さんが両手をうまく開いてバランスを取りつつ歌い始めて、それに被さる王国民のすさまじいばかりに揃ったラップを聴いて、埼玉スーパーアリーナでの興奮を思い出すことにしよー。全部見てしまうとそのまま引っ張り込まれてしまうんで要注意。そういやあ自分、本物の田村さんを見たことってあったかなあ、「ギャラクシー・エンジェル」の会見の時とかに見ているような気もするけれど、どうだったかなあ。


【8月30日】 頭の中に田村ゆかりさんがラップのmotsuさんといっしょに繰り広げた楽しげな「you & me」って曲のステージが焼き付いて離れてないんで、探して似たシーンの映像中を見てなるほどこれだけポップなチューンなら、会場も思いっきり沸いて一体感も出るもんだと理解。何せ王国の住民達は、motsuさんがいなステージでもあの激しくて高速のラップを自分たちで刻んで場を盛り上げるんだから凄まじいというか、素晴らしすぎるというか。あんまり素晴らしいんで横浜アリーナのライブのブルーレイは買うと決意。あと9月に出る「you & me」が入ったアルバムも。フェスってこういう敬遠してたり見知ってなかった曲との出会いがあるから楽しんだよなあ、雑誌と一緒で。

 そんな会場で2万5000人を相手に歌い切ったMay’nさんやKOTOKOさんが疲れも見せずに登場した「ANIMAX MUSIX」の会見を見に浜松町まで出かける。一昨日昨日と見かけた人たちも周囲にいたりしていったい自分は何の担当なんだろうかと思うこともあるけれども、総理大臣だの官房長官だのが現れるのを大勢で取り囲んで通り一遍のことを聞いて、それで仕事になってるかというと、肝心の情報の受け手の方がそういったものをまるで求めておらず、そこに生まれたギャップがやがて衰退へと足を向けさせるだろう状況を一方に置く中で、こういう場へと足を向ける人間の方が、よほどか世間に求められているっていった実感も強くあるだけに、胸を張って出かけていけば良いのだ、うん。

 そして現れたKalafinaの3人はビスチェでウエストをしめて細い細い。May’nさんは足がぎゅっと長い長い。HIMEKAさんはいつもながらドギマギとして喋りが詰まりそうになったけれども、2問目の方で持ち直してフェスティバルに出られることを嬉しそうに語る。舞台度胸はともかく歌声は特級品なんだから、自身を持って歌えば誰もが圧倒されるはずなのだ。佐咲紗花さんはそうかまだデビューから1年も経ってないんだよなあ。でもちゃんと頑張ってる。そしてKOTOKOさんは昨日のギンギンな衣装からかわって涼しげな衣装。こっちもこっちでかわいらしい。昨日はシークレットだったんで出歩けず大変だったみたいだけれど、堂々と名の上がる「ANIMAX MUSIX」では会場を回ってもらってくれればファンも嬉しいかも。

 そんな会見の場でアニマック・ブロードキャストジャパンの滝山雅夫社長を見かけたんでまずは今敏監督の逝去に関してお悔やみの挨拶。「東京ゴッドファーザーズ」から「パプリカ」と続くソニー・ピクチャーズでの今監督の仕事をソニー側でサポートしていた関係で、つきあいも長かっただろうだけにやっぱり衝撃だったみたい。早速9月4日の土曜日深夜にアニマックスで「東京ゴッドファーザーズ」と「パプリカ」の追悼放送を編成してくれるところに、アニマックスやソニーにとって今監督の存在がとてつもなく大きかったんだってことが伺える。

 ヴェネツィア国際映画祭のディレクター、マルコ・ミュラーいんもいち早く訃報を伝えて頂いたそうで、そのおかげでヴェネツィア映画祭のページに今監督へのマルコ・ミュラーのメッセージが掲載された模様。もちろんマルコが気にかけ気に病み気落ちするくらいに、今監督の訃報がショックだったからこそのいち早い追悼になったんだろうけど。そんんなヴェネツィアに仮に今監督の残念だけれど“遺作”になってしまった「夢みる機械」が完成の運びとなって、出品されて上映されればこんなに嬉しいことはないんだけれど。そこまで持っていってくれると滝山さんに期待。そして遺されたものを形にしてくれるクリエーターのみなさんにお願い。

 そんな滝山さんと話してて、今監督の47歳の誕生日となるはずだった10月12日あたりが、今監督の逝去からだいたい四十九日に当たると気づく。そうかそれならその日は何か追悼のイベントでもやりたいものだけれども関係者にとってはとても大切で忙しい日なだけにオフィシャルなイベントを期待してはいけなさそう。なので個人として出来ることをやろうってことで家にある映像ソフトを見返すか、それとも映画「パプリカ」に出てくるガラクタに扮して街を練り歩くか。いやでも1人でガラクタやっても仕方がないんでここは追悼の意ある者たちが、めいめいに極彩色のガラクタに扮して、阿佐谷あたりから吉祥寺あたりまでを平沢進さんの音楽をバックに、今監督の人形を輿に置いて担いで練り歩くってのが楽しそうだけれど、それこそ無理だよなあ、うろん過ぎてとてもじゃないけど許可降りない。やっぱり家で頑張ろう。

 近所の駅のコンコースに沖縄の食材のワゴンが出ていてラー油なんかも販売中。何かにわかにラー油が食べるものとして注目されてそれがメーンになりつつあるような印象だけれど、僕らの世代にとってラー油はああいったおかずではなく、また餃子の垂れに注ぐものでもなくって、インスタントラーメンの「出前一丁」に入っていた袋入りのごまラー油がたぶん最初の接触になったんじゃなかろーか。普通に食べてるラーメンについてれば、あるいはテレビのCMで強調されれば自然に覚えるその存在。現在の日本人がこんなにラー油なんて日本初でもない調味料に慣れ親しんでいるのは、たぶんに出前一丁のおかげといっても言い過ぎじゃないような気がする。同様にメンマは桃屋の味付けメンマではなく寿がきやのインスタントラーメンの「本店の味」に付随していた乾燥メンマ。ここから竹をスライスしたような不思議な食感を覚え、やがて食材としてのメンマに行き当たってこういうものだと受け入れた、と。インスタントから生まれた食材への理解。あるいは食生活への影響。あれこれ考えていくと愉快かも。


【8月29日】 ひと箱分にぎっしりを読み終えて詰めて送ってひとつ完了、しかし次の箱のこちらは小さいけれども中身がパターンに収まらないものがやって来ていて、月半ばまではかかりそう。一方でライトノベルの新刊もチェック。日日日さん「みにくいあひるの恋」(MF文庫J)は、何ていうか不思議な解決。恋をすると遺伝子がざわざわっとして死んでしまう病に今なおとりつかれていた少女をどう助けるか、ってところで恋の相手の少年が取った行動。それって別に存在そのものが維持される訳じゃないって気もするけれど、何も残らないより記録だけでも残った方が良いってことなのか。感じとしては萩尾望都さん「スターレッド」で見たアイデアに似ているけれど、あちらは大宇宙の意志めいたものが介在している分、非現実ではあってもあり得る話。こちらは現実の枠組みで解決を計って得られた結果。最善とはいえしかし人間の科学はまだまだ宇宙には遠いみたい。

 もうすぐ9月だっていうのに信じられない暑さの中を「キャラホビ2010」へとは向かわないで秋葉原へと行き、参考資料をいろいろ確保。石丸電気の本店のDVD売り場にはまだ「パーフェクトブルー」の絵コンテ付きDVD初回版が残っているので、あのCHAMのダンスがどう絵コンテで指示されているかを知る資料として、欲しい人は確保急げ。っていうか今敏監督作品の絵コンテ集、出してくれないかなあ、あそこまで緻密に描いて指示もしてある絵コンテは、ある面でアニメーターの創造力を抑制してしまいかねないものだけれども、初めての人にはどう見せるかっていう参考になるし、しょせんは隙間の多い絵の連なりにしか過ぎない絵コンテの間に、アニメーターがどう動かしてそれがどんな絵になったかを深く学ぶ機械にもなると思うのだ。どう?

 もうゆで卵は出してくれなくなった「アキバ海岸」でカレーを食べてから、JRでさいたま新都心へ。もちろん目的は「アニメロサマーライブ」とやらで、最初あたりから開催の話は紹介しては来たけれど、行くのはこれが実は初めてでいったいどんな程度かと思ったらすごかった。駅を降りたら「チケット譲って」という人がいて、それも女子がそんな看板持って立っている姿にここは東京ドームのジャニーズ関連のコンサート会場かって幻惑がチラつく。そんなイベントになっていたのか。けやき広場あたりも人がいっぱい。それぞれにひいきのアーティストの衣装なんかを合わせ法被なんかもそろえて本番に向けて気分を盛り上げている。脇にはまだちゃんと存続していた「ジョン・レノン ミュージアム」。眼鏡をかけたジョンが見下ろす下にアニサマの赤い記念Tシャツを着た人なんかが歩いている光景を、生きてジョンが見たら何を思ったか。アニソン。作ってたかもしれないなあ。ポップでクールとか言って.

 入った場内は目がくらむほどの広さ。埼玉スーパーアリーナってこんなに広かったっけ? 最後に来たのが「SPEED」の復活コンサートの時だったか、NBAの公式戦が日本で開かれた時だったか、もはや記憶に定かではないけれど、それからしばらく経っていたんで最近入った宇都宮市文化会館とかと比べて、半端ないデカさに驚きつつここが満杯になるくらいに今は観客が集まっているだって分かって、改めて今のアニソン人気のほどを知る。すごい時代になったもんだ。もっともそれも始まるまでのこと。始まって今度は真っ暗な中を2万5000人の半分以上は確実に手にしたサイリウムが光り、揺れて動き回る。その躍動感はすごいなんて言葉では言い表せないくらいのすさまじさ。アニメ系のコンサートが別に初めてじゃない人間にだって与える驚きを、一般メディアの人が見たら、こりゃいったい何が起こっているんだと驚き腰を上げても不思議じゃない。

 とはいえそんな驚きを、説明する時に分かりやすさへと走ってしまうのがメディアの不幸であり怠慢なところか。今回の場合だと盛り上がりのすべてを「水樹奈々さんは別格」的な言葉に押し込めそれこそが唯一的な存在として取り上げられる傾向がほの見えた。なるほどなぜ盛り上がっているんだと聞かれて、水樹さんが出演したからですよと答えれば、水樹さんの昨今の露出ぶりをオヤジな世代の人も感じて、そうかそれなら仕方がないと思考が流れるのもやむを得ない。ただそれは裏返せば、水樹さんだけがますます中心として報じられ認知され、ほかのアーティストからはスポットが外れてしまうことに他ならない。いくら優れた歌をそこで聴かせても、いくら会場が盛り上がっても一般のメディアには関心の埒外、というか関心を示しても報道しづらい(する工夫がないってことでもあるけれど)状況の中で、見過ごされていってしまう。

 29日のアニサマで言うなら、ピンクのサイリウムに会場が揺れた田村ゆかりさんの存在感がぬきんでていた印象。衣装からバックから歌声から目に耳に響いてさすがってところを見せていたけど、世間的にはきっと誰それってなもんなんだろうなあ。紅白に出てない、って言われて終わり。motusさんとコラボして見せた「カード学園」の主題歌なんて、テンポもよければ切れも抜群で会場の空気も最高潮に達したんだけれど。それからALI PROJECT。変拍子で変調の多い歌声は会場も乗りづらく、併せづらかったみたいだけれども、それはビート系でがん鳴らす音楽ばかりが多かったことの裏返し。そんな空気の中で音楽を突き詰めようとすると、どうしてもズレが生まれてしまう。けどそこをビジュアルで見せ、トークで誘って最後には引き寄せた宝野アリカさんのパフォーマーとそして才能に、やっぱり持ってる人は持っているんだと実感した次第。

 最高だったのが桃井はるこさん。ほとんど素人みたいなころから存在は知っていて、そこからはい上がり成り上がって名を売っていったプロセスに、どうにもキワモノっぽさを覚えて、認知はしていても積極的に目を向けてはこなかったけれども、光の洪水音の雪崩の中で奏でられるビートの利いた音楽に、気がそれかかっていた所に現れた桃井さんはファッションも特徴的なら歌声も他とは違ったところがあり、なによりその楽曲に他にはない音楽としてのオリジナリティが満ちていた。名曲と名高い「21世紀」もそして新しい曲らしい「勝利の女ネ神」も、旋律節回しに歌詞からすべてが独創的。聞けばいったいこれは何だと耳そばだて、もっと聞いてみたいとCDを買いに走りたくなる。というか会場外のグッズ売り場に早速買いに走ったくらいだから、それくらい衝撃的だった。

 けれどもそんなパフォーマンスを見せても、分かりやすさにまとめざるを得ない一般メディアの前には「圧倒的」の埒外。その場に居合わせた人に衝撃を与えても世間に名をしらしめすことには繋がらないのが悲しいというか、残念というか、メディアの側にもいる身として反省することしきりというか。こんなに凄いものならもっと聞いておくべきだったし、山下達郎さんも我慢してSF大会で聞いておくべきだったよ。まあそうはいっても世論に届かない以上はこうやって、口コミですばらしさを伝えていくより他にない。幸いにして2万5000人があの場にいて、あの凄さを見聞きした。2万5000人が2人に喋りそれがまた2人に喋れば2万5000プラス5万プラス10万で17万5000人だ、って計算あってる? それだけの規模が動けば世間だって……動かないのが一般メディアという世間。知ってる物しか知ろうとせず知られている物しか知らせようとしないメディアの悪癖を前にアニソンは水樹奈々、アイドルはAKB48以外すべて存在を黙殺されるるのだ。何とかならんかなあ。


【8月28日】 作品を見ずとも読めば伝わるものがあると日本中を震わし、筒井康隆御大をも涙にくれさせた今敏監督による「さようなら」のメッセージはすでに英語に訳され、英語圏のファンもそうでない人たちもともに終末に臨む身の処し方のひとつとして、感動を呼び起こしている様子。さらに中国語に訳されそしてドイツ語にも訳され、慟哭を読んで世界にその作品が知れ渡っていたことを羅溜めて示すとともに、人間として覚える感情もやはり同じなんだということを教えてくれている。

 日本でも早速レンタルビデオ店に行って借りようとしたら貸し出されていたとかいった言葉が術津凪ぎ。なかったら買えよとも言いたいけれども今時アニメのDVDなんて売ってるお店が街のいったいどこに全体どれだけあるのといったことを考えると、それぞれの街にあてしっかりアニメのタイトルもそろえているレンタルビデオ店のありがたみって奴もよく分かる。すごいなあ。けどでもやっぱり思うのはそんな名声が、亡くなる前にもっと盛り上がっていてくれていたらってこと。もちろん見てくれていた人の数から想像するに評判が高かったことは確実だけど、そうした評判が国内の映画祭ではさほど拾い上げられていないことがやや残念至極。

 デジタル関係とかメディア芸術祭とか東京アニメアワードとかいったものは基本的に映画の賞じゃない。映画で今さんが受賞したといったら毎日映画コンクールの大藤信郎賞に毎日映画コンクールのアニメーション映画賞くらい? ここはアニメに理解があって知識もある人たちが審査に名を連ねているからあり得る話だけれど、ほかのたとえばアカデミー賞とかスポーツ新聞社系の賞なんてまるで無視、だったもんなあ。そんな一方で世界でも偉大な映画祭のひとつ、「ヴェネツィア国際映画祭」なんて映画祭を仕切るディレクターのマルコ・ミュラーがいち早く追悼のステイトメントを発して今監督の死を悼み、実績を称えてる。

 思いっきり適当に読むと「今先生は私たちを置いていってしまわれました。あの方新しいイメージと新しい物語の至高の創造者の一人でした。常に模倣され、けれども決して越えられることはありませんでした。日本に限らず、またアニメーションの世界に限らず、世界の映画産業と映画にとって突然に降ってわいた損失とも言えます」とか何とか。いやまあ英語は10段階で2だったんで思いっきり外しているかもしれないけれども、総体としてとてつもない評価でありそれだけに慚愧の念滲むステートメント。これを即座に発してマッドハウスの丸山正雄さんに届けるんだから、それだけヴェネツィア国際映画祭と、マルコ・ミュラーが今敏監督のことを思い覚えていたかが分かる。

 翻って日本では誰か映画人、映画産業がステートメントを出して称えたか。間近に迫った東京国際映画祭で追悼プログラムが組まれようとしているか。これでヴェネツィアが何か追悼のイベントとかをやって来たら、日本も立つ瀬がないんだけれどそういう意識にすら、なってないんだろうなあ。ヴェネツィアの反応だってほとんど知られてないんだもんなあ。それが日本の現実。変えようとJanicaで今敏監督が頑張っても、なお至らない日本の現実。違う意味で泣きたくなってきた。

 泣いてばかりもいられないんで早起きして「キャラホビ」に行ったらコンコースが死ねるくらいに暑かった。冷房が効いてなかったのか熱気で効かないくらいになってしまっていたのか。ともあれ入って眺めて10月から始まるTBS系日曜午後5時の新番組「スタードライバー 輝きのタクト」って奴の情報とかを徴集。流れるプロモーション映像から聞こえてくる「銀河美少年」って言葉にまずヤられ、なんだこりゃあと目を凝らしてもうローライズでV字の線とか見えてしまいそうなくらいに下腹部をのぞかせたジーンズをはいた少年が、王子様然として「銀河美少年」と呼ばれるビジュアルに打ちのめされ、こりゃあヒットするしかないと確信するしかないと確信したかどうなのか。

 それくらいに混乱と毀誉褒貶が入り交じった感情がない交ぜになったけれども、とりあえず、「HEROMAN」をスリムにしたようなコヤマシゲトさんのデザインするメカめいたもののデザインも悪くなさそうだったんで、「戦国BASARA弐」で燃えまくった心が別の意味で燃えて萌える時間の訪れを、しばし待つとしよう。制作はボンズで声に登場は宮野真守さんに福山潤さんに石田彰さん早見沙織さんといった面々。こっちの意味でも売れるしかなさそうなアニメだなあ。もしもこれがヒットすれば自分を銀河美少年とか地球美少年とか日本美少年とか東京美少年とか大田区美少年とか江古田美少年とか自称し暴れ回る奴とか出てくるのかなあ。

 巨大なカップヌードルの下にたたずむコンパニオンはまるでアリエッティの様だと思ったり、静岡で巨体をそびえ立たせている「機動戦士ガンダム」を模型にしてみたものが輝き首を振り蒸気を吹き出す様とかかっこよすぎでずっと眺めていたいと思ったり、遠くの方で踊るSKE48のアクションが「ブロッケンブラッド」に出てきたKGB48のダンスシーンみたいだったとか思ったりした「キャラホビ」は午後になると婦女子も男子も買い物の列が途切れてややまったり。もっと殺伐としていて良いはずなんだけれども物欲の沈滞はここまで来てしまっているってことなのか。代わりにタダでも時間をつぶせて満足できる男性声優観察に走ってステージに陣取り脇をかためて歓声嬌声大発声。その人気ぶりはJをしのぐかどうなのか。ともあれなるほど声優人気は衰えを知らず、そして人気声優ばかりで固められた似た者番組の制作は続く、と。

 せっかくだからとタカラトミーの偉い人に教えてもらった「ゾイド」の画集を購入、ゾイドがSFアート風に描かれたもので、高荷義之さんや小松崎茂さんといた模型の箱絵で活躍している人なんかが得意とするアーティスティックな筆致でもってメカが描かれ人物が描かれバトルが描かれていて、アニメとか玩具の世界ではおなじみだったゾイドとは違ったゾイドの姿を見せてくれる。聞くと社員の人がしこしこと描き溜めていたものを「キャラホビ」で初出ししつつ本にもまとめたものらしく、なるほど展示してある絵のどれも模型雑誌なんかで見たことない初物ばかり。目にも新鮮なものを見せてくれた。

 8月31日にホビージャパンから本が発売されるけれどもそんなに部数は出ないと聞き、会場で先行販売されていたものを人気が一段落した頃合いを見計らって1冊購入して買える。情報として行き渡っていないみたいでゾイドファンも近寄っておらず冊数にはまだ余裕があった、のかな、昼過ぎで帰ったんで不明。是非という人はホビージャパンへ。そして帰宅して支度してフクダ電子アリーナで「ジェフユナイテッド市原・千葉vsファジアーノ岡山」へ。パスは繋がらずトラップは流れ組み立てもまるで出来ないチームが4点も取って勝ってはいけない。勝てば強いように見えてもあれではちゃんと守備が出来て攻撃できるチームには粉砕される。だから来年にあがっても即降下の可能性が現時点では大。だとみんなきっと気づいているんだけれどそこで腰をすえて立て直している余裕がないのが辛いなあ。


【8月27日】 日本SF大賞だなんてSF業界におけるノーベル文学賞に匹敵する賞を受賞していながらどーして「年収150万円」だなんて場所に留まって居るんだ、年収1億5000万円の間違いじゃないかと憤りつつもそれが日本のSFの現実、というより作家業の現実であってそんな中にあって書きたいものを書いて評価され続けている北野勇作さんという作家はやっぱりたぐいまれなる存在なんだけれど、一方で本当にこの現代に年収150万円で生活できるんだろうかどうなんだろうかといぶかる向きも多々。そんな疑問に答えるかのように「週刊SPA!」に登場して年収150万円で生活する極意って奴を披露してる。

 北野勇作さん森川弘子さん夫婦が登場した記事ではまず1番高いのは家賃で食費はそんなにかからない、なぜってパンの耳を買っているからで、耳といっても縁を集めて上げて砂糖をまぶして食べるようなものじゃなく、一斤のパンの端だから四角く平べったくなった耳。それをピザ風にしてチーズとか具材なんかを乗っけて焼いて食べているみた。それは確かに食べられる。なおかつ美味い。具に贅沢もしたくなるけどそこはきっとツナ缶とかタマネギといった安価に買える具材を活用しているんだろう。あるいはチーズオンリーか。

 そんな暮らしでもちゃんと何年かに1度は海外旅行に行くそうで、けれどもそこは年収150万円一家だけあって派手に観光地を回るとかせず一所に留まって自炊を続けるんだとか。でも観光地を回らないで宿で自炊をするだけの海外旅行のどこが楽しいんだろう? 空気が日本に比べて美味しいことがいいんだろうか? なんて訝っていたらどうやら海外では観光地は巡らない代わりに、市場なんかを回って現地の現地ならではの食材を買い込んで、調理して喰らって海外の空気を文字通りに味わうんだとか。レストランで食べるんじゃなく自分たちで調達し調理もするからキッチンは必須。自炊は節約のためではなくってむしろ堪能のための贅沢な所作ってことになりそう。

 浮かぶのは屋台の並ぶ市場を歩き食材を眺め試し買い込み、宿に帰ってどう喰らうかを吟味し、調味料を探り時にネットで調べ煮炊きし焼いて完成、試食、歓喜というシーン。そんな合間に物語を紡ぎだして短編にして日本に送る展開なんかも混じる映像は、まるで「情熱大陸」だねあって感じを浮かべたけれど、そうした食材の買い出しから料理からを仕切っているのは森川弘子さんが中心だから、絵的には市場を歩く女性の横におじさんがくっつき、立ち止まっては得体の知れないSFを紡ぎ出すというものになりそう。「情熱大陸」で前に見た「世界屠畜紀行」の内澤旬子さんと南陀楼綾繁さんの回がそんな雰囲気だったっけ。となれば、エンディングと次回予告の間に瞬間挟まるオフショット風映像はつまみ食いしてしかられる夫? それもとっても愉快そう。毎日放送は企画化を是非に。

 今敏監督という人もその作品を知らない人も読んで心動かされるという例の「さようなら」から始まるラストメッセージは、国境を越えて言葉を換えても多くの人に読めば即わき起こる感動を与えている模様。英訳が掲載されたサイトには作品は見ていないけれども手紙に泣きましたといった言葉や、読んだら涙が抑えられなくなったといった言葉が並んで、それが留まることなく積み重なっていっている。国を越えても突然に降ってわく死への恐れ、離別への悲しみ、けれどもそうした感情を秘めて外に出さず淡々と最後の時を迎えて「じゃ、お先に」と言ってのける強さに誰もが惹かれるみたい。世が世ならこの最後のメッセージだけで映画とかドラマとか作られてしまいそうだけれども、日本がやれば感動感涙にまみれた有り体の作品になってしまうだろうから、ここは海外で読んだプロデューサーが、その素晴らしい作品群とともに最後の日々を映画にして公開して、世界に改めて今敏監督という人物の凄さを喧伝してやってくれれば嬉しいんだけれど。どう?

 ふらりと立ち寄った丸善丸の内本店で、新刊を出したばかりの綿矢りささんのサイン会が開かれるとあって早速新刊を買って整理券を確保。表だった姿をまるで見せないところから、あるいはトマス・ピンチョンとかサリンジャーみたいな非実在作家「綿矢りさ、17歳です(おいおい)」なのかもしれないとすら思っていたけれど、こうやってサイン会が開かれて本人が登場するとあっては、やはり実在したんだと認めるしかなさそう。デビューからしばらく経つけれども年齢的にはまだまだ全然若いうち。とはいえ17歳でのデビューがあまりに鮮烈だっただけに、当時の印象を強く引きずっている人も多そうなんで、ここはサインには是非に「綿矢りさ、17歳です(おいおい)」と書いてやって頂きたいもの。おっと(おいおい)と入れるのはサインをもらった僕たちか。

 人が作った歌を人が歌うからこそ人に感動が与えられる、と言い切って良いかどうかは初音ミクに歓喜する大勢の人なんかを見ていると迷うけれども、完璧に練り上げられた歌声よりもどこかに隙があって人間性がかいま見える歌の方が受けたりすることがあるのも世情。人間としての属性も含めて興味の対象となるのだとしたら、そうしたものをどれだけ持てるのかってところが勝負になる。大勢いるってのも一つの属性だし、圧倒的に可愛いってのもまた属性、ってことで餅月望さんの「ロイヤル・リトルスター 魔法王女はアイドルを目指す」(集英社スーパーダッシュ文庫)でとある惑星の王女セノンが頑張って歌手として栄冠を勝ち得たのもそんな可愛らしさが飛び抜けていたからだろう、スクール水着にニーソックスとか半端じゃないもんなあ、可愛らしさの質として。そういうものか?

 とはえいかわいさだけでは金にならいと、星の窮状を救うためにセノンが画策したのがスターを選び出す大会で優勝するくらいの活躍を見せて、そこで得られる人の心の力から金を作り出そうとする企み。けれども地上に降りて教えを請おうとしたプロデューサーは現れず、路頭に迷っていたとこにアイドルを研究してパソコン上にアイドルを作り出して競っている少年が通りがかって、セノンを助けやがて大会に臨んだセノンのみすぼらしさにほだされて、そのままプロデューサーとして彼女を大会の優勝へと導いていく。対抗となる強敵もいたけれどもそこは生身のすばらしさを訴え勝ち抜けていくセノン。果てに得られた大きな栄冠の向こうに待ち受けるのは離別か、ってそうなったら続きは描けない、ってことで再び歩むスターの道、立ちふさがるのは先輩かそれとも。


【8月26日】 どれだけ著名で有名で影響力があって権力さえもっていても、愚作には愚作といい稚拙なものは稚拙といってこき下ろしてみせるところに、アメリカのこと文化に関連したジャーナリズムの清冽さってのはちゃんと残っている。ブロードウェイで鳴り物入りで始まった劇評が新聞に掲載されて、それが罵倒悪口の類だったら客は来なくなり劇は畳まれる。それこそが権力という向きもあるけれど、だからこそ常に中立性を守り知名度ではなく中身でもって判断し、認めるなら認めけなすならけなす。

ジョン・ラセターが亡くなったって日本の新聞がサイトのトップで紹介するとは思えない  しかるにそんな辛辣な文化批評でもこと高踏さにかけて世界のあらゆるメディアを寄せ付けない天下のニューヨークタイムズが、24日に死去したアニメーション監督の今敏さんの追悼記事をとてつもないスピードで、とてつもないボリュームで掲載。スペースに余裕があるウェブだからとはいえ、見渡して日本のメディアのどこにもこれだけのスペースを割いて今敏監督の凄さを伝えている新聞テレビがない中で、破格ともいえるボリュームを割いての掲載は、すなわちそれだけの存在感を東海岸のカルチャーシーンにおいて、今敏監督が持っていた現れにほからならない。

 記事には日本の漫画研究で知られるスーザン・J・ネイピアさんがプロフェッショナルのコメントを寄せている。作品を総括して語った記事の内容は、素早い割にとてもクリティカル。それだけの仕事がお膝元の日本ではなく、遠くアメリカは東海岸で行われたということに驚くよりほかはなく、翻ってアニメ大国だ漫画大国だと自ら言ったところで、内実の伴っていない日本の一般に権威があると言われているメディアのていたらくを炙り出す。

 東海岸が高踏な文化の庇護地なら、西海岸のロサンゼルスはハリウッドを要する映画産業の膝元、エンターテインメントの本場とも言える地だけれども、そんなロサンゼルスにあって世界に存在感を響かせるロサンゼルスタイムズも、やっぱり破格のボリュームで今敏監督の追悼記事を書いて、その存在意義を満天下に指し示す。一時はウェブサイトのトップページに堂々と今敏監督のポートレートが掲出されるくらいの扱いぶり。地元とは何の関係もない海の向こうのアニメ映画監督を、トップページで掲載してみせるということはつまり、映画というジャンルにおいてたぐいまれなる資質を持っていたことを、映画の都が認めていたことの現れに他ならない。

 記事の中身も「ヒックとドラゴン」というドリームワークスのヒット映画を監督したディーン・デュボアに話を聞いて、今敏監督のファンだという彼の言葉を添えてみせる。これも労作。それにしても、同じアメリカ合衆国とはいえ、文化に対する認識も態度も異なるニューヨークとロサンゼルスでそれぞれに、ともに盛大な扱いが数日すらおかずに掲載される意味を考えたとき、アメリカという国が持つ、才能をしっかりと見極め、正しければそれを惜しまず推奨し、亡くなれば総出で追悼する気風に溢れているということが分かる。彼らにとっての文化に多大なる貢献をした人物だと、あのアメリカに認められたということだ。

 そんな日本人のクリエーターが今、ほかにどれだけいるのだろうか。アカデミー賞を受賞した宮崎駿監督は別格として、下に連なる映画監督俳優歌手等のいったい誰が今敏監督のような称えられ方をするかを考え、翻って日本での主要なメディアにおける今敏監督のベタでの訃報を越えない扱いぶりを見るに付け、文化のとりわけサブカルチャーに対する見る目のなさ、認める気の乏しさってものが浮かび上がってくる。なるほど確かにアニメや漫画の話題は取り上げられるようになったけれども、その範囲はごくごく限定的であって権威が認めたものしか認めず素人もしないのだ。

 これだけの扱いをニューヨークとロサンゼルスで受けたことで、今敏監督への関心が高まるかというと、そもそもそうした扱い方がされていることすら、知ろうとする気がないんだろう。まあ良い。そうした硬直化した価値観に縛られた権威を任じてがらんどうになっているメディアはいずれ見放され、フットワークも軽くそして知性に溢れた人材を多く抱えているネットのメディアに、取って代わられることになるだけだから。

 中には先走りすぎて確かめもせず情報を振りまくネットメディアもないでもない。それはしかし衆人環視の中で是正され、淘汰されて公正にして高踏な情報が尊ばれるようになる。氷川竜介さんがいち早く追悼の言辞を寄せている。経験と知識に基づく解説は情報しかない日本の旧来のメディアを遙かにしのいで読者の求めに答える。こうした言説にあとは、対価がもたらされることが必要なのだけれど、こればっかりはなあ。権威に金が未だついている旧来のメディアに、斬新で的確な言説が乗るようになればそれが1番良いのだけれど。無理かなあ。というか旧来メディアでも金、ないんだよ。

 繋がりにくくなっているNOTEBOOKをそれでもつながるときにぼんやりと眺めていたらこっちへの言及があって身が引き締まる。1998年の6月。「パーフェクトブルー・リミックス」という一種のムック本が出た時にその感想を日記の1998年5月29日付けに書いていたら、しっかり見られて「へえ」でつなげるテクニカルな文章の中で言及されていた。その意がどこいら辺にあったのかは分からないけど、韜晦しつつもそれなりにちゃんとしっかり中身を充実させたってことを言いたいような文章でもあって、監督が自ら「パーフェクトブルー」で主演した岩男潤子さんにインタビューした話なんかも振り返られていて、もっといろいろ話したかったらしい岩男さんの言葉を聞いて「へえ」と言いつつまんざらでもないようなそうでもないようなニュアンスを漂わせている。

 僕の方はといえば日記で「岩男潤子さんへのインタビューが普通のインタビュアーなら後込みしたり遠慮したり気をきかせ過ぎたりで聞けない所まで踏み込んでいて、なかなか読ませる」と賞賛。「何せ冒頭から『この役は重かったですか』だもん。もちろん理由は『岩男さんが昔アイドルだったことを知ってるから、周りの人間はやっぱり気を遣ったんでしょうね』って背景を受けての本人の気持ちを慮ったもので、そんな過去を抉るような問いに、岩男さんも投げず怒らず答えている、というか答えがちゃんと載っている」と、今さんの臆さない態度と、それにひるまない岩男さんの態度に感嘆してる。

 それから12年とか他って岩男さんはなおも元気にしっかり歌手活動とかしている様子で、昨晩なんかはあの憧れの相曽晴日さんといっしょにネットの番組に登場して、トークと歌声を披露してくれた。透明感のある声はなるほど岩男さんらしかったけれど、それに加えてわき出すような声量でもって歌声を奏でる相曽さんにただただ圧倒された。もとより歌のうまい人ではあったけれどもライブ会場でもない会議室の場で座って手持ちのトーク用のマイクで歌ってあれだけの声量、そして声質。これをしっかりとしたライブ会場で聞いたらいったいどれだけの迫力と感動をもたらしてくれるのか、ってことはすでに知って手外苑前にあるライブハウスで聞いてたりしたんだけれど、ネット放送を見て改めて見に行きたくなって来た。江古田で次はあるのか。そして名古屋か。行きたいなあ。行こうかな。次のアルバムも予定に乗ったそうだし、楽しみだなあ。


【8月25日】 連載の方では市丸ギンがようやくやっと本意を明かし、けれども破れて倒れ、それに乱菊が谷間も露わにすがったものの、迫るは世界に無敵の藍染惣右介。絶体絶命と思われたところに、異世界での修行を終えてようやくやっと黒崎一護が駆けつけ、さあいよいよ最後の戦いとなるの、かそれとも「こんなこともあろうかと」藍染がさらなる秘密兵器を取り出し一護を退けるのか。

 どっちにしたって一段落がつくまでにはまだ半年ぐらいかかるんだろうなあ。そこにテレビアニメが追いつく2年先? ウェコムンドで戦うルキアたちの前に、朽木白哉や更木剣八やマユリといた隊長たちがかけつけるのがテレビで来週。その彼らは連載の時点で未だウェコムンドだもんなあ、確か。増えすぎると活躍できない人が出てくる自縛をさて、どううち破って皆に見せ場をつくるのか。ラスボス戦での勢揃いに期待するしかないんだけれど。

 チュパカブラを信じてしまった以上はもはやオカルトの全否定は無理になってしまったマヤちゃんが、ここからどうやって文明くんといっしょにノストラダムスの鍵を見つけて来るべき破滅を防ぐのか、ってあたりにそろそろ興味を移したいんだけれど、なかなかとっかかりが見えないところが悩ましい「世紀末オカルト学院」。敵の姿は未だに見えず未来が本当に破滅するのかも怪しげな中で、思わせぶりな食堂の娘にもそろそろ何らかの役割が与えられるのか、それとも本当にただの通行人Aだったのか。ポルシェを操る通行人ってのも豪勢だ。

 一方で、JKのダウジングに関する能力の高さと、そんなダウジングの棒をトンファーのごとくに扱いチュパカブラを叩きのめす戦いぶりに、もしかしてJKこそが未来から送り込まれたエージェントNo.5? なんて思いも生まれてくる。違うだろうけど。落としどころが見えないのは気分がもやもやするけど、どこに連れて行かれるか分からないのがオリジナルの良いところ。それが当たれば傑作になるし、外れれば凡百の作品となって歴史に埋もれる。今が分水嶺。さてどっちに転ぶか「世紀末オカルト学院」は。

 悔しさを噛みしめてばかりいる、8月。26年前に漫画家のかがみあきらさんを喪い、12年前には将棋の村山聖さんを連れて行かれてしまった。そして今敏さんまでもが8月に。言わずとしれたアニメーション映画監督で、「パーフェクトブルー」に「千年女優」と来て「東京ゴッドファーザーズ」とそして「パプリカ」を作り、合間にテレビで「妄想代理人」というシリーズも手がけて、そのいずれもが傑作との誉れが高く、日本よりもむしろ海外でとてつもない知名度を得ていた今敏監督が、24日の朝に亡くなっていたことが分かった。

 もう次の作品を見られない、発表になっていた「夢見る機械」も含めて今敏監督の隅々まで思考がめぐらされた画に動きに物語を、もう新しく味わうことはできないのだと思うと、どうにも悔しくて仕方がない。それはどん欲な消費者としての傲慢な要求なのかもいけれど、そんな要求を真正面から受け止め、次なる作品に挑もうとして果たせなかった今敏監督の悔しさを思うと、決して多作ではなくてもこうして味わえる作品が現存していることを、とりあえずありがたく思い受け入れるしかないのだろう。しかしやっぱり悔しいものは悔しい。悲しさよりも悔しさの方が上に立って歯がみする。

笑顔も苦笑ももう見られない。けれども作品は今でも見られる。見て思う。その不在の重大さを。  享年46歳は僕よりたった1歳上。学年的には2年上で、それでもそれほど離れてはいない年齢の人が、情報的に何の予兆もなく亡くなってしまうというのは、我が身に当ててみてどうにも恐ろしい。聞けば5月に検査を受けたらもはや膵臓ガンの末期で、余命半年という中をどう最後まで生きるかを考えに考え、実行に移した模様。途中に危篤の状態に陥りながらも回復し、さあと思えたかと言うとはやり難しく残る日数を最後の言葉を綴ることにあてて、僕たちに貴重な言葉を残してくれた。

 「さようなら」から始まり「じゃ、お先に」で結ばれた、公開の遺言とも言えそうな言葉からは、唐突に断絶する己が運命をどう受け止め、そして何を次につなげるのかを真剣に考えた軌跡が見える。何のたとえでもなく骨に染みる痛みも冗句に紛らせ、苦衷を外に露わにしないで己が運命を受け止め、そしてこれからも生き続ける僕らが今をどう生きたらいいのかを悟らせる。今敏監督ほどに残す才能などなく、作品など皆無の僕でも、いつか必ず訪れるその日に向けて、こう覚悟を決めろと示してくれている。

 綴られた内容はとても重いのに、浮かび上がる空気はとても優しげで軽やか。諧謔とも韜晦ともとれそうな、飄々とした文体は生前にそれこそ10数年間、断続的に綴ってきたホームページでの言葉そのもの。論理的でありながら冷たくはなく、突き放すようでいて警句を含んだ優しさがのぞくそうした言葉に触れて、そこから生まれる作品を眺めて、その存在を味わってきた僕には、今敏監督が残した最後の言葉は泣けるという類のものではなかった。

 むしろああ、またやっているなあといった微笑ましさ、あるいはちょっぴりの苦笑いが浮かぶような、楽しげで優しげな言葉たちだった。残る人たちを悲嘆にくれさせ、誰もがいつかは直面する死への恐怖に気持ちを落として、愕然とさせるなど今敏監督の美学の範囲にはあり得ない。そう思わせてくれるような言葉に心が落ち着いた。喪った悲しみよりも、先に走っていった者への感謝が浮かんだ。それでもやはり悔しさだけは消えない。もっと見たかったし、見せてくれたはずだという傲慢な消費者としての思いが、もう十分ですという言葉を飲み込ませる。

 どうして未だに名を広く知られていないのか。そんな状況への憤りも悔しさに拍車をかける。アニメの監督といったら世間は未だに宮崎駿監督を筆頭に置いて、押井守監督を対抗に、富野由悠季監督を混ぜた三つどもえ。プラスがあるとしたら、あとは爆発的なヒットで社会現象を起こした庵野秀明監督か、宮崎監督の名前が引っかかっているスタジオジブリの面々くらいで、それ以外のアニメーション監督については、ようやくやっと細田守監督の名前が加わりかけて来た程度。それでも扱いからいけばおそらくは宮崎押井富野の半分どころか10分の1にも満たないだろう感覚に過ぎない。

 そして今敏監督は、そこからさらに外れてしまって誰も気づかず誰も知らない監督の域に押し込められている。もちろん知っている人は知っている。意識を持って高みをながめ広きを尊ぶ心意気を持った人は、存分以上に知られている。問題はメディア。それも大手のメディアの中に、今敏監督の存在価値を感じていない人が多過ぎて、それが訃報ひとつとっても芸能リポーターにすら遥か及ばない扱いを強いている。会社員に過ぎない女性アナウンサーの退社に劣る扱いを強いている。

 しかるに海外では、訃報がまだ未確定な状況から嘆くつぶやきが広がり、叫ぶ言葉が連なって、嵐のような言葉の奔流が渦巻いた。掲示板には信じられない、嘘だろうといった言葉が並ぶ。情報を伝えるサイトにはアメリカだけでなく、イギリスにフランスにドイツにスペインにイタリア韓国中国といった世界中の国々が並ぶ。1人の日本人の訃報でそれだけ世界中が驚き、慌て落胆して慟哭することがあるのか。少なくとも芸能リポーターではないだろうし、女子アナウンサーでもあり得ない。宮崎監督、押井監督ならあり得る話。あとは北野武監督ぐらいか。歌手にも役者にも今敏監督ほどの慟哭を、世界で呼ぶ日本人は見あたらない。

 それだけの人を喪ったという現実が一方にありながら、気づいていないのか気づいていないふりをしている日本のメディアの驕慢で鈍重な感覚が、今敏監督を世間の関心のらち外に追いやり、作品を送り出すことへの刺激とならず、手を止めさせて結果、決して多作とはいえない作品数に留まらせたのだとしたらそれはもう、文化に対する冒涜であり歴史に対する犯罪だ。今頃になってどうこう騒いだって遅いのだと、臍をかんで悶絶するくらいのことをしなければ、とてもではないけれど許せない。そして、そんな冒涜と犯罪の一端を、僕自身も結果として担ってしまっているという自覚が、どうしてもっとといった悔しさとなって胸を貫く。

 最初の映画「パーフェクトブルー」が公開されるに当たって、製作を担った会社に行ってプロデューサーにインタビューして記事にしたことはしたけれど、媒体が媒体だったために世間に大きく作品を知らしめたとは言えず、大きな力にはなれなかった。2004年の1月に文化庁メディア芸術祭か何かの受賞を機に、インタビューをさせて頂いたことがあって、それを記事にもしたけれど、目立つ媒体ではなく世間に存在を示せなかった。今も決して恵まれているとはいえないけれど、ネット時代は媒体の部数の多寡とは無関係にネット上で情報が頒布される時代。そこで何らなのアクションをとれば、きっとそれなりな成果も出せると思って「夢見る機械」の完成を待っていたら、こんな事態に至ってしまった。

 訃報などいくら大きくなったところで、そんなものはこれからの作品づくりに一切の励みとはならない訳で、虚しいだけではあるんだけれども幸いというか、これも優しさの現れというか、最後の言葉の中に、新作の「夢見る機械」の後始末をマッドハウスの丸山正雄社長に託している節がある。それが事実か、そして実現可能かは分からない。すべてを頭の中に納めてコントロールしていた、その頭脳が失われて出てくるものが同じになるとも言えない。とはいえ、残した思いの真摯さと、受けた丸山さんの正直さが合わさった場所に、何かの光明が開かれないとも限らない。違うものが出てくるくらいなら、幻に終わってもかまわないといった気分を抱く人も多いかもしれない。

 けれども、当人が心残りを表明している以上、それはやはり完成させるべきものだということだ。才能を得ない作品に資金は出ないかもしれないけれど、完成への道筋が見え、傑作となる可能性が見えてさえいれば、評判という追い風が吹いて、固まっていたものがほどけて大きく動き出す可能性がないでもない。ならばここにその凄さ、世界が認め世界が悲しみ世界が慟哭している存在を訴えることで、作り続けられる必然性を見てもらい、前へと進む力の一端にしてもらえれば僥倖。応援する。ただひたすらに応援する。もっとも、そうやって「夢見る機械」が日の目を見た時に、僕は改めて才能の不在を嘆いて、この後はないのだという現実を味わい、今以上の悔しさに悲嘆することになるのだろう。そればかりは逃げられそうにもない。合唱。


【8月24日】 無口だけれども戦闘が得意な少女に異能の使い手である少年が付き従ったパーティが、異星人たちの侵略を受けた地表を旅して回る冒険ストーリー、って言われると何でまた「円環のパラダイム」(一迅社文庫)なんでハードにコアな設定のSFライトノベルを書いた瀬尾つかさが、そっちの続きじゃなくって流行の萌え系小説に逃げたんだって、憤りつつガッカリしてしまう人もいそうだけれどもご安心ご安心、新作「くいなパスファインダー」(一迅社文庫)は表紙こそスカートがぶわっとまくれた美少女の絵柄になっているけど、中身はしっかり「円環のパラダイム」を受け継いだ設定で、苛烈な世界に放り込まれてしまった人類の、それでもしたたかに生きていこうとしている姿が描かれる。

 白い壁によって地表が「ゾーン」に分断されて、それぞれに設けられたゲートから進入して来た異星人たちのとりわけ凶暴な種族に襲われ絶滅するゾーンもあれば、親切そうな宇宙人の提案によって保護されたり、共生されたりして生き延びる人類もあったりと千差万別、とはいえ人口の9割近くは死んでしまった事件の中で、どうにか少年が生き延びられたのは、創造者とよばれる宇宙を作った存在が残した宝に触れて、たぐいまれなる力を得ることができたから。これも「円環のパラダイム」を引き継ぐ設定だけれど、そっちとは違う主人公がこっちでは立ってヒロインの無口な少女が宝を求めて探索するのを助けたりする。

 仲間には異星人と共生して、あらゆる物品を材料さえあれば作り出せてしまえる力を持った少女がいたり、途中の村で見つけた少女がいたりと賑やか。そうやって世の中に伝わっているお宝を探しに行った先で起こったアクシデントは、万能なはずの少年を戸惑わせ、少女の本気を引っ張り出す。前がシリアスすぎた関係か、キャラクターを立てて展開にほのぼのとした雰囲気を混ぜてはみたけれども、生き延びるに必死な世界であることには変わりなく、そんな世界を都合良くは生きていけない状況が、一行にどんな苦難をもたらすのかに興味が及ぶけれども、そこはやっぱりこれでエピソードとして完結して、別のエピソードを同じ世界を舞台に描くってことに商売的になったりするのかな。前の少年とその妹がどうなったかも読みたいのになあ。良い物なんだから耐えて出し続けて欲しいなあ。

 アムトラックにブルックリン橋だからやっぱりアメリカだよなあ「もやしもん」で沢木や美里高浜に長谷川遥が旅している国は。でもって到着地点のニューヨークでは白蛍ことマリーが待ち受け美里たちを列車に置いて飛行機で逃げた遥をお出迎え。でも元がどういう理由から家を出て遥たちに助力を求めてきたのかが分からないから、これから始まる展開がどうなるのかもさっぱり分からない。アメリカで何をするんだろ。そんな一行に追いついたように見えて置いて行かれた結城蛍と樹教授がどんな役割と果たすのかも不明。とりあえず分かったのはアムトラックで出てくる食事はあんまり美味しそうじゃないってことか、トウモロコシの粉を煮たかなにかしたグリッツとか、想像するだけで味なさそう。ベーコンにソーセージとかじゃないのかな。あれは大味ではあっても肉なんて美味いのだ。

 来年の1月にアジアカップが開催されるのは決まっていることで、そしてワールドカップを最後に岡田武史サンが止めることもほぼ決まっていたことで、それを勘案しつつアジアカップで好成績を収めて次のアジアカップの予選を免れ、あわよくば優勝して子フェデレーションズカップに出たいと思っているなら、去年の終わりから遅くても今年の春くらいまでには、次の監督の目処をつけて交渉も行い岡田サンの退任とともに次の監督の就任を発表し、9月の試合はアジアカップに向けたチーム作りに当てるのが常套。それにも関わらず未だに監督が決っていない上に、目標をどこに置くかも定かでないまま花相撲のようなカードにようやくこれからレギュラーをつかむぞって感じの海外の選手たちを呼び集め、チームでの信頼を失わせ体調を崩させようとしているのは何なのか。まるでかみ合っていない。

 本気でアジアカップを価値に行く覚悟があって海外組を呼び寄せるんなら分からないでもないけれど、それなら監督も含めてチームの土台を作るのが先決。なのにそれは脇に置いたまま、ただ海外組を読んで顔見せに当てるという心根の奥にあるのはやっぱり金儲け主義なのか。アジアカップなんて飾りです、偉い人はそれが分からないんですというなら原博美さんの代用監督でもかまわないし、むしろその方が長い目でのチーム作りができる。経験を積ませるって意味で日本にいる若手を抜擢して様子を見ることだってできる。コンフェデに出なくても南米選手権があるんだからそっちで本気の試合はできると考え、照準をそちらにずらしてチーム作りを行う構えを見せながら、海外組も呼ぶというこのちぐはぐさを是正しようとしない限り、いつまでたっても僕たちは本番のガッカリを続けることになるんだ。っていうか次に出られるかどうかも怪しくなって来た。時間はある。考えることもできる。でも実行に移せるだけの力がないのだ、この国のサッカー協会には。

 全盛期の神木隆之介くんだったらきっととってもカワイイ可愛い忍たまになったんだろうなあ、なんて想像しながら加藤清史郎くんが実写版「忍たま乱太郎」に出演するって報を読む。なるほどそっくり。だけどちょっと小さすぎ。そりゃあアニメの設定とかをそのまま踏むなら子供店長でだって間に合うけれども、いざ喋りとなるとアニメのようなしゃきしゃきとした喋りはぜったいに無理。だってそれは大人の女性のプロの役者が演じていたりするんだから。それをそのまんまの子供でやってどんな喋りになるのか。いかにも子役の子役的喋りになってしまうんだろなあ、加藤清史郎くんってそもそもそんなに喋りが……。富澤風斗くんだったら良かったかな、でももう14歳だから姿的にキツいのか。「河童のクゥと夏休み」ん時に劇場で見た冨沢くんは普通に子供だったんだけど。子供って成長するのが早いからなあ。「鉄人28号」の時の正太郎役のどーでも良さげな池松荘亮くんも立派な青年になってしまったし。

 まあけど三池崇史さんのことだから、子供店長はだしにに使って演技巧者の大人たちで遊ぶんだろう、寺島進の山田先生なんてハマり過ぎてて期待大。対抗する山本先生は誰がやるんだろう。フカキョン希望。あとくノ一組のユキとトモミのどちらかを、「ケロロ軍曹」でエンディングとか歌ってる松本環季ちゃんがやってくれないかなあ。やってくれたら絶対ぜったい見に行くんだけどなあ。浅見姫香ちゃんもいっしょに出てくれたら楽しいのになあ。子供店長よりも偉そうなフォルクスワーゲン報道官だし。「よなよなペンギン」でココを演じて「マイマイ新子と千年の魔法」でも諾子を演じた声の不思議な森迫永衣ちゃんでも良いぞ。そう思ったら何か期待も沸いてきた。でもって並ぶのがAKB48にSKE48だったら……確実に死ねるな。


【8月23日】 現実など存在しない。本当のことなんて何もない。全てが虚構。すべてが偽物。この世に信じられるものなんて何もない。あるとしたらそれは己のみ。そう信じていれば騙され引きずり回されたあげくに愕然とし、呆然とし暗澹とし脱力して頓死するなんてこもないのだと、気づかされたのはNHKで夜に放送されてい「カワイイTV」を見たから。東大の大学院のそれも理系に通って研究にいそしむ美女が悩みをうち明け解決してもらおうというコーナー。その悩みというのが薄くて小さい胸に谷間を作りたいという無理難題。物理だって化学だって完璧なはずの東大院生ですら、無理だと諦めていたことをNHKの番組では見事にやりのけてしまった。

 現れた女性の胸はしっかりと前に盛り上がり、その間にはくっきりとした谷間が出来ていた。どうやったのか。寄せる、上げるはまだ序の口で、おそらくは内側の橋っこにパットを押しつけそれで押し出すように下から中央上へと胸を寄せ、露わになっている部分の量を増やして丸みを持たせた。コップの中に石を入れれば水面が高くなるのは当然の理。物理的な作用を胸に用いて高さを作り上げてみせた。それでいて見た目は全体がしっかりふくらんでいるかのよう。これでたとえば脱いだらはたしてどうなるか。コップの中から石を取り出せば水面は下がる。胸の高さも下がって谷間も消える。それを見て果たして彼氏は何という? 見せないから大丈夫? 一生を偽って生きる苦しさを彼女は味わい続けるおとになる。

 それでも最初のきっかけが生まれるんだったら、将来のことなんて悩んでも仕方がないという心理が苦悩を上回り、男子が茫然自失を味わっているひますら与えないよう、フィニッシュへと持ち込むことへと血道を上げる。る幻術によって男性は翻弄され、幻惑されて谷間を谷間と認めて近寄り抱きしめそして網に絡め取られてしまって一巻の終わりとなるのだ。恐ろしい。現実にはないものに惑い本当ではないものに耽溺したあげく、待っているのは一生の不覚。だから信じるなと言ったじゃないか、と言ってももう遅いのだ。でおなあ、相手が東大の大学院生で理系で白衣で眼鏡じゃないけど美女だったら、谷間なんてどうでも良いと思うんだがなあ。

 「なでしこオールスター」とそれから「なでしこリーグカップ2010」の会場で見かけた映画「アイ・コンタクト」のブースに近づいたら監督の名前が中村和彦さんとあってこれはと確認したらやっぱり映画「プライド in ブルー」の人だった、「もうひとつのワールドカップ」としてワールドカップイヤーに行われる知的障害者のチームによる世界大会、そのドイツ大会に出場した選手たちの頑張りと、支える人たちの頑張りがスクリーンからあふれ出していて感動をもたらしてくれた。オープニングゲームだったっけ、それに数万人もかけつけるドイツの人の情愛と、サッカー好きっぷりにも驚いたけど。

 そんな大会とはまた別に、やっぱりハンディキャップを持った人たちによって行われているサッカーが「デフリンピック」という聴覚障害者のためのスポーツ大会の中のサッカー部門。そこには出場した女子選手たちを追いかけたドキュメンタリー映画が西ヶ丘サッカー場でPRをしていた「アイ・コンタクト」といういう映画で、試合の合間にも選手たちと中村監督が登場して鑑賞を呼びかけていた。スタンドからは万雷の喝采、とはならずに手をひらひらとさせる大勢の人。なぜなら拍手は選手たちには届かないから。だから試合前にどうやって応援するかをサポーターの人が案内に来てくれて、そのようにちゃんと観客が応援した。ナイスアシスト。知らないとただ拍手するだけだからなあ、仕方がないこととはいえ。

 それにしてもいったいどんな感じで試合をしているんだろう? 監督の指示もキーパーからの支持も何も聞こえない見てそれが何かを全部理解しなければいけない選手たちにとって、重要なのはやはりアイ・コンタクト。何がしたいかという意図を伝え、それを受け取り次につなげる連続が試合を作り、得点を生んで勝利を生む。常に全力の集中力で挑んでいるんだろう。普通に耳が聞こえる人たちでも、スタンドを埋め尽くす人たちから飛ぶコールでピッチ上での声も監督からの指示も聞こえなくなることがある。それで集中を崩して負けることもあるけれど、「アイ・コンタクト」の選手たちは常にそんな状態におかれながらも、手話によるコミュニケーションと、そして目と目での話し合い、さらにおそらくは試合を通じて培った信頼関係と連携で、この時はこうなりこの場合はこうするといった約束事が、きっと体に染みついていて言葉に頼らなくてもサッカーをできるんだろう。男子でも健常者でも学ぶところの多そうな映画。前売りを買ったんで見に行こう。

 良いと信じる心が荒んで優しくない世界を変えようと挑む純真な魂があって、けれども人が人として選んで進む道こそが正しいんだと貫く強靱な魂があって、それらがぶつかり合うって構造を共に最後で見せてくれた賀東招二さんの「フルメタル・パニック!」シリーズとも重なる所があるみたいな五代ゆうさん「パラケルススの娘」。とりわけ「パラケルススの娘」はそうやって選ばれた道が果たしてどうなったのかって所を示し、それでもやっぱりそうなのだと言って言えるのかと、言いたくない気もしないでもない状況なだけに悩ましい。

 これならば「フルメタル・パニック!」の方も道を選んだ方が未来のために良かったんじゃないのかも、って思えてきたけどそれでも人の道は人が選ぶべきであって、それがどうなるのかはだから「パラケルススの娘」に学び「フルメタル・パニック!」以後の世界に生かせば良い、というと「パラケルススの娘」のアスパラガス君の決断に失礼か。1人の人間が頑張っても変えられないことはある。けれども頑張り抜いた積み重ねが何かを変えるのだと信じるしかないのかもしれない。そんな「パラケルススの娘」の第10巻での完結に会わせてちょい前のを読もうとしたらまるで売ってないのはすでにして、ライトノベルが雑誌と化して初版売り切りとなっていて、一部の売れ筋のみが増刷されて店頭に残される状況だったりするからなのか。文庫が知の倉庫だった時代が懐かしい。そんな時代なんて身に覚えがないけれど。


【8月22日】 日頃は出歩いて遺跡発掘なんかをしている父親が、珍しく帰ってきた時に連れていたのは可愛いらしい女の子の姿をした天使だか悪魔だか。面倒を見ることになった息子の少年は、どこか舌足らずなところがあって、けれども元気だけは有り余っている少女を妹みたいな立場にして、通っている学校へと連れて行く。極度に挙がり症で女子とは真正面から口を利けない性格から、とても凶悪で凶暴な人間だと思われていた少年だったが、連れて行った少女の天真爛漫で傍若無人な活躍に引っ張り回されるうちに、生来の優しさや強さが知られるようになって、友だちを得て今までにはなかった学校生活を送れるようになるという、超感動のストーリー。

 それが赤井紅介さんの「それがどうしたっ 1 悪魔に憑かれた時の、ステキな対策」(集英社スーパーダッシュ文庫)かというと、確かに本質はそうだけれどもそこへと至る道筋と、そして描かれる内容が半端なく愉快で破天荒。悪魔というよりは天使でつまりは堕天使かというとそれは違う、駄目な天使だから駄天使だと明かした少女。少年を「あるじー」と呼んで慕い、ずっと地上にいられるようにするために、まずは背中の羽根を外してくれと頼んで、そう言うのなら簡単に着脱できるのかなと少年が手に羽根を持って引っ張っても外れない。

 それでも大丈夫だからと言い「かかってこいや」と勇ましい少女の言葉を真に受け、羽根を手に取り思いっきり引っ張ってみた時に少女が出した声。「痛びゃああぁぁぁぁぁぁぁん……!」。噴き出す血によって周辺が真っ赤に染まるなかをのたうちまわって苦しむ少女の姿に驚く以前に、自分もその血に気が遠くなって倒れてしまった少年が、気づくと平気な顔をした少女ださあもう1枚と背中を差し出してくる。そして再び起こる阿鼻叫喚のブラッドバス。もしもこれがアニメ化されたらいったいどんな映像になるかが今から楽しみえしょうがない。いやさすがに赤では描かないか。でも緑でもやっぱりグロいよなあ。

 そうやって人間風になった少女が、猫と戯れ棄てられていた赤ん坊を大事に扱い、少年の高校ではなく、なぜか間違えてそっちに転入してしまっていた中学校で同級生たちに慕われていく姿の可愛らしさ、あどけなさ純真さが心にしみるストーリー。少年のはす向かいに住んでいて、美人と評判の少女がいつも侍らせているカエキリアって美少女の正体なんかにもあれこれあって、それが露わになってちょっとした騒動も起こるけれども、総じて話しはハートウォーミング。とにかく前向きさひたむきさが心に気持ちいいストーリー。駄天使少女と天使少女のバトルにもとりあえず片は付いたみたいだけれども、そこは本能レベルで反発し会っている2人。そんなバトルの再来なんかを期待しながら続きを待とう。1巻ってことは2巻も出るよな遠からず。

 心が女の子だから身もそうなりたいと家出した男の子が、移動中の電車でナイスバディナな女とたばこをくわえた少女がそれぞれ携帯から雪女やら河童がモチーフになったロボットを引っ張り出し、乗り込みバトルする場に遭遇。勝利した雪女のロボットを引き連れた側に引き入れられ、その悩みを受け入れられて女が運営している喫茶店でウエイトレスとして働きながら、自分も携帯電話からイヅナのロボを引っ張り出し、日美子様って女に率いられた、不純なものはすべて駄目だから浄化すべしって教義を掲げた宗教団体が送り込んでくる戦闘員たちと、激しいバトルを繰り広げるというライトノベルがあると言ったら信じるか。

 マッグガーデンってマンガでは広く知られた会社が募集していたらしい「プロダクションI.G×マッグガーデンコミック大賞」で原作・脚本部門を入選した作品が小説化。小金井ゴルさんって作者の「京華の妖械戦記」(マッグガーデン)は、性同一性障害の問題やら嗜好に踏入排除しようとする動きのうさんくささなんかを衝きつつ、和やら妖怪やらをモチーフにしたロボットバトルを見せてくる今までにない組み合わせがなかなかに新鮮。男の娘だ何だと萌えあがっている世間があるけど、見た目の麗しさのみに目をやって、本当にそうなりたいと願って、けれども周囲の視線が許してくれそうもないからと悩む現実の“男の娘”たちへの配慮のまるで抜けてる薄気味悪いそんな世間に、異を唱えるかのように心底からそうあらねばと思い悩みもだえる感情が描かれていて好感がもてる。

 イラストが可愛らしさからややズレてはいるけどその分、妙な迫力があるからこれはこれで他と差をつけるという意味でありなのかも。けどしかしいったいなにをどうつめたら今はまだ薬もなにも入れていない主人公の胸があんなに丸くなるんだ大きくなるんだ。組織の四天王の1人にしてゴスロリで眼帯をした少女が可愛そうじゃないか。つるり。ぺたりだもんなあ。そんな妙ちきりんな周囲のキャラクターがいて、敵の凄腕がいて、そんな敵のボスがいよいよもって本格的に表舞台に姿を現して始まろうとしている決戦は果たして描かれるのか。読んでみたいけど果たして刊行されるかな、だって目立ってなさ過ぎだもんEDENノベルズ。売れなきゃ次はないんでここに宣伝。でもきっと売ってないだろうなあ。

 血の繋がらない妹との表向きはギスギスとしていて内心はうーみゅな関係を続けていたまるで女の子みたいな顔をした兄貴のところに現れたのは美少女の姿をした悪魔。妹になにかしたみたいで問題が起こって命が危ない、救うにはおまえが代わりに精気を集めろと兄にいって術をかけるとあら不思議、兄は女顔もそのままにボディまでもが女の子になってしまって学校にいって密かに好意を寄せていた同級生の少女に女の子ちして近づいていくっていう展開のライトノベルがあると言ったら信じるか、ってつまりはパターンなんだけれども美少女悪魔がどうして血の繋がらない妹を狙い、そして精気を集めるためといいながら少年を少女姿のサキュバスにしてそして少女ばかりから精気を集めさせるのかといった不可思議な展開ああって、そこに理由がありそうなところに興味を持てそうなんで次巻が出たら呼んでみよう。三角鉄狼さん「ツイてないっ!」(MF文庫J)。しかしバリエーションってのはいろいろあるんだなあ。

遠くからでも分かるがんちゃんのボンバーヘッド  体力も減退気味な中を叱咤して体を動かして電車を乗り継ぎはるばる来たのは西ヶ丘サッカー場。今年に入ってJ2リーグにジェフユナイテッド市原・千葉が落ちてしまって日曜日の試合が多くなって、まるで見られなくなった女子サッカーのなでしこリーグのひとつはオールスター戦、もうひとつはリーグとは違った仕組みで行われるカップ戦の決勝戦がダブルヘッダーで開かれるってんで、これはやっぱり見ておくしかないと訪れた久々の西ヶ丘は北側のゴール裏の立ち席に椅子がついていた。南側にもちょっとだけ椅子。そしてバックスタンドもベンチではなくなってセパレートの椅子。なんかすっかり様変わり。電光掲示板がついたのっていつだったっけ。ともあれこれならJリーグの試合だって開いて観客も集まりそう。Jリーグだとちょっと狭い? まあでもここをよく使う東京ヴェルディだったらサイズ的にもぴったりって感じだけれど最近は。流石に狭いかそれは。

 いやでも前節の国立競技場でのコンサドーレ札幌を相手にした試合の観客は7405人。これなら一応は7940人の収容人員になっている西ヶ丘でも間に合いそう。ちょうど来週はそのヴェルディの試合とそして、日テレ・ベレーザが浦和レッズレディースを招いて行う試合があるから西ヶ丘も満杯になって往年の人気を混雑具合だけは取り戻したかのように見せてくれるかもしれなさそう。でもってベレーザと浦和レッズレディースの試合が終わった途端に人の数がぐっと減る、と。それはない? でも馬鹿に出来ない動員数なんだ女子サッカー。それが証拠に今日の試合、なでしこオールスターってお祭りが乗っかったってこともあるけれど、ベレーザと浦和レッズレディースが激突したなでしこリーグカップ2010決勝の入場者数は実に4186人。これって女子の試合では半端じゃないくらいの数になる。

 大昔だったら女子サッカーに観客はよく集まって300人。それがアテネ五輪を経たなでしこ人気で一気に広がり1000人くらいは来てくれるチームも出てきた。とはいえそれでも1000人が来ればあっとのところがオールスターってお祭りに誘われそして女子サッカーの頂点ともいえるチームの試合が重なって、4000人なんて規模の人数を集めてしまった。これってJ2でも十分にあり得る数字。各チームがブースを出して試合に出ない選手たちに相手をさせて、それで身近にあこがれのサッカー選手に出会えるとサッカー好きの女の子たちが大量に参加してくれた。こうした交流を経て生まれたシンパシーが、女子サッカーをプレーする子を増やし支える親を増やして女子サッカーへの理解を育み、選手の裾野を広げてそして日本の女子サッカーが強くなる土壌となっていく。オールスターって無意味っていう人もいるけど、女子のオールスターに関しては絶対に確実に意味がある。

 もちろん男子にだって意味は出そうとすれば出せるはずなんだけれど、リーグの発展とサッカーファンの裾野の拡大に結びつくというオールスターの存在意義を忘れて、アジアでのサッカー人気の拡大にすら繋がらない妙ちきりんな日韓戦に走ってしまったJリーグは、注目が集まらないからとついにオールスターを止めてしまった。なにをか況や。それでリーグに注力するなら良いんだけれど、その分別のもうけ口を探して選手を酷使し、試合を凡庸なものにしてリーグの価値を下げていく。悔い改めよ、って言いたいけれどもそれができたらとっくに変わっているよなあ。女子にできたことがどうして男子にはできないんだろうか。男子だからできないんだろうか。上田栄治さんが未だに理事としてちゃんと教会に残って女子を見て、そしてちゃんとオールスターとリーグカップの試合を暑い中で視察するその情熱が、男子にも代表にも見えないんだよなあ。

 さて試合はといえば、まずはなでしこリーグオールスターで東軍に当たるすせり姫から取られたSUSERIが、東北電力マリーゼに今はいる宮本ともみ選手の圧倒的な中盤での支配力と、それに答えて走るジェフユナイテッド市原・千葉レディースの清水由香選手のスピードスターぶりに呼応し、中央で頑張るアルビレックス新潟レディースの上尾野辺めぐみ選手がどかんどかんと決め、4対1で西軍にあたるこちらはくくり姫からとられたCUCURIを撃破し勝利し、MVPは上尾野辺選手が2得点の活躍で国産黒毛和牛を持っていった。まあ納得だけれど、1人で得点できた訳じゃないから脂身くらいは分けてあげても良いんじゃない? とか何とか。でもいっぱい食べて強くなって代表入りして日本の女子サッカーをもり立ててやって下さいな。宮本選手の安定感は今のワーワーになりがちななでしこジャパンに求められそうな印象だけれど、どーなんだろうその辺り。

 そして本番ともいえるリーグカップ、ってそんなカップがあったのか、できたばかりか、そうなのか、それはともかくやっぱり出てきた日本の女子サッカーの最高峰、日テレ・ベレーザと浦和レッズレディースが激突。まずは浦和が後半にいつの間にか浦和に移籍していた荒川恵理子選手が、巨大なアフロヘアをふりつつ走って奪ってキープして送ってって活躍を見せ、それが起点となってミドルからの1点を呼び込み、追いつかれてもまたしても荒川選手がサイドからの低めのクロスをポストとなって、ちょい戻したところにいた藤田めぐみ選手が叩き込んで2点目。1点リードで迎えてもうこのままか、て思ったもののそこはベレーザも全体で押し上げゴール前に攻め込む戦術でもって相手を押し下げ、たまらずファウルをさせてPKを得て、これを伊藤香菜子選手が決めて同点。このまま延長戦かと思っていたところ……。

 世界が愛する岩渕真奈選手が、中央の混戦から足下でキープしたボールを反転して振り向きざまにシュートしたら、これがずばんと浦和のゴールに突き刺さってベレーザが3点目を得て1点のリード。アディショナルタイムの3分も逃げ切って、見事にリーグカップ優勝を果たした。すばしっこくって足下がうまいんだけれどそれが仇となって持ちすぎつぶされる場面が多く、むしろ足下にもらわずひたすらに走って抜けだし受け取り決める大野忍選手の方が有効になっていた試合を、最後の最後で自分に引き寄せ決めてMVPまで持っていく。やっぱり何かあるんだなあ、岩渕選手には。この何かを存分に生かせるようなチームをなでしこジャパンでも作れたらなあ。頑健なポストがつぶれ役にいれば拾ってかわしてってこともできるのになあ、ってところですっかり復活していた荒川がんちゃんなんて、どうすかね。


【8月21日】 ポーク(スパム)に決まってる。神野オキナさん原作のアニメーション「あそびにいくヨ!」を見ればなおさらそういうことに決まっている。「最もおいしいと思う卵焼きの具は何ですか?」ってアンケートが行われたみたいだけれども、昔だったらツナとかウインナとか答えていたもの、が今ではすっかりポークへと転向してしまった僕。何年か前にふと入った新宿にある沖縄定食の「やんばる」で食べたポーク玉子定食が、イメージしていたスパムの生臭さがまるでないランチョンミートを玉子と合わせて出してくれていてこれがことのほか美味で、以降、新宿に足を踏み入れる10回に3回はそこでポーク玉子定食を食べている。10回に2回はそこでラフテー丼セット。こっちもなかなか美味いんだ。

 あとこれはポーク玉子そのものでははくって、ポークと卵焼きがご飯といっしょにノリで巻かれて出てくるおにぎり、すなわち「オニポー」をたぶんコンビニエンスストアのミニストップが「鬼ポー」名で出してた時に、食べて沖縄名物とはあまり知らず気に入って、そこに近寄るたびに食べていたって経験もポーク玉子への支持の理由になっている。最近もファミリーマートが似たようなのを出していて、見かけるたびに買っていたけど時間が過ぎたらなくなっちゃった。ちょっと残念。そういえば幕張のビル内になったデリカ付きのコンビニでも、スパムおにぎりっておを出していて、用事があって幕張メッセに行くときは立ち寄って買って食べていたなあ。これには玉子は入ってなかったかな? こっちはこっちでスパムへの抵抗を下げる一因になったっけ。

 でもってアニメーション版「あそびにいくヨ!」なんかを見ると食卓には時にオニポーが並び、朝ご飯はだいたいにおいてポーク玉子が出てくるという楽園状態。主人公みたくそれを美少女3人に囲まれて食べられたら言うことなしではあるんだけれど、1人は猫耳宇宙人で1人は政府のエージェントだった悪運紅葉で1人はCIA入り希望のガンマニア。たとえそれぞれが好意を向けてくれていたとしても、というよりそれがむしろ互いの権勢を生んでとてつもない空気の中で緊張しながら朝食を食べなくてはならなくなりそう。きっと味も分からないんだろうなあ。いやいや嘉数くんはあれでニブチンだからきっと気にしないで美味しく食べている姿を見ながら、女の子たちは内心をモヤモヤさせているんだろう。罪作りな奴め。

 「あそびにいくヨ!」の偉大なところはポーク玉子を世に認知させたこととあと、猫耳は立派に宇宙人であり宇宙人であるからにはSFなのだと世に知らしめたことだろうか。にも関わらずSFファン交流会の場で創刊号から50年に渡って振り返られた「SFマガジン」の表紙絵に、1人の猫耳美少女も登場していないというのは何という理不尽。今やあらゆるライトノベルがMF文庫Jの軍門へと下り美少女をピンなり2人なりにして、それも本編で主役でもなければ脇役にもなっていない美少女なんかを配することもあったりするのに「SFマガジン」はSFと認定された猫耳を頑なに出そうとしないのはやはり間違っているので憤ったアントイア配下の猫耳教団信者は決起して叫べ早川書房へとムカって。「うにゃあーーーーーーん」と。ちなみにうさ耳もSFなので早急に出すようにと月よりの使者。犬耳はハードボイルドだから「ミステリマガジン」で是非に。

 何でハードボイルドなんだと言えばそれは犬好きバトーの所為だろうなあ、あるいはそんな犬好きを隠しもしないでむしろ露わにしてあらゆる媒体を犬で埋め尽くす押井守監督の嗜好がハードボイルドっぽいからか。遙か彼方の八王子市にある八王子市夢美術館で開かれている「押井守と映像の魔術師たち」展でも並んでいたのは犬の人形に犬のオルゴールに犬の看板に犬みたいな押井監督のポートレート。飾ってあったプロテクトギアは「地獄の番犬」のものだし愛知万博で見せた映像にも猫頭の神ならぬ犬頭の神像なんかが出たみたい。犬好きにはたまらないけど猫耳教団には犬臭さで居づらさも感じた場所ではあっても、そこはやっぱり一方では押井信者でありマモルマニア。「天使のたまご」の絵コンテとか、草薙水素が空中の非難してから戻ってきてコックピットからスカート姿で降りてくる場面の絵コンテとか、見て見入ってしまう品が結構あって狭いながらも楽しめた。

 見て思ったのはやっぱり僕は「スカイ・クロラ」が大好きだ、ってことでそれはもちろん草薙水素のキャラクターの、あのぶっきらぼうな態度やら死んでいるまなざしやら、菊池凛子で演技が出来ているって感じじゃないんだけれどまっすぐ突き刺さる響きを持った声やらが妙に気になって仕方がない上に、ボーリング場で見せたくいっと腰を入れるシーンの可愛らしさが加わって、草薙素子や南雲隊長を超えるヒロインの位置へと押し上げていたりするからだったりもする。けれどもそれはそれとして、全体が持っている停滞しつつも進んでいってる空気感が今に留まりたいけれども進まざるを得ない気分に合致して、共感を与えてくれているからなのかもしれない。それが証拠に「ポニョ」は劇場で1度しか見ていないのに「スカイ・クロラ」は5回以上見たからなあ。「失敗作なんかじゃない。反感なんかで、あいつを侮辱するな!」。言ってやりたいなあ。

 それよりも驚いたのがあの幻の超大作「ガルム戦記」に関連した品々が並んでいたことか。巨大な戦艦の模型とか登場するキャラクターのフィギュアとかマネキンサイズになった衣装とかが並んでいて、その独特過ぎるデザインセンスにこれがもしも実現していたら、いったいどんな映像になってそして世界のアートデザインをどう変えたのかって興味が浮かぶ。レトロフューチャーというかパスとフューチャーといったスタイルでどこか有機的なフォルムが重なったメカニックのデザインは、今でこそ「ラストエグザイル」なんかにも使われていて今時っぽさの最先端になっているけど、「ガルム戦記」を含むデジタルエンジン構想が立ち上がった当時は決して主流ではなかった。そして押井監督もそれを他にあんまり使わず、今に至ってしまっている。過去に置き去りにされたそんなデザインでも、やっぱり気になっていたんだろう、引っ張り出して展示してみせたってことはあるいはこれをきっかけに再び動かしたいと考えているからなのか、それとも。今の技術だったらそんなに金をかけなくたって出来そうな……無理か凝り性な奴らの巣窟だから、押井組は。駄目ならアニメの方で是非。「スチームボーイ」だって出来たんだから「ガルム戦記」だっていつか、きっと。


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