縮刷版2010年月8上旬号


【8月10日】 そんな感じに釈然としない時期物感漂う富野由悠季監督によるお台場ガンダムいかがなものか記事よりも、興味深い「中央公論」2010年9月号掲載の記事が「ツイッターが変える中国 人民の芸術家 蒼井そら老師をフォローせよ」。書いたのは共同通信所属で中国報道歴が長くって、今も中国情報を専門に扱っている古畑康雄記者で、AV女優でありながらも中国で空前の人気を持つに至っている蒼井そらさんい関するあれやこれやを、当人へのインタビューも交えて紹介している。

 おそらくは最初は興味本位での人気で、そうした動勢にAV女優だからと批判する意見もあったみたいだけれど、そうした様々な喧噪に蒼井さんが逃げもせず、憤りもせず嘲りもしないで真摯にまじめに対応し続けていったことが、いつしか共感を招いて大きな人気となってそれが、中国上層部の爛れっぷりとも合わさり指導者層が不謹慎で不道徳なら自分たちがAV女優を、それもとても真面目で誇りを持っている蒼井そらさんを称えて何がおかしいといった空気になっていったらしい。記事にはこうある。「つまり蒼井さんをフォローするということは、ネットのお祭り騒ぎであるのだが、それ自体がある種のプロテストのメッセージを発することでもあるのだ」。

 こうなってくると本質からズレて運動化してしまい、蒼井さんも偶像化されてしまいかねない懸念があるけど、そこに蒼井さん、「AVは見下されたり誹謗中傷されたりすることが多い職業。だからツイッターで今回祭り上げられたことで、調子に乗るような自分ではありたくない」と話して、己が立ち位置を認めつつそれを卑下せず、日本であろうと中国であろうと自分は自分と屹立してみせる。ただひたすらに格好良い。海賊版は買いたくない、でも中国では売ってないから日本から取り寄せるためにお金を送りますといった声にも、間に詐欺なんかが介在する可能性を考え注意を促し、いつか中国で見られる時が着て欲しいと願って相手の気持ちや事情を慮る。

 中国のネット事情や、一党独裁の中で市民がどんな感情を抱いて生きているかといった状況なんかが伺え、それから本人だと確認さえされればそれが真摯なコミュニケーションを生んで、国境も誤解も乗り越えていくネットの可能性なんかにも言及されていて、何かと複雑なネット状勢やアジア状勢なんかを、複合的包括的に語って見せたなかなかの記事。それはそれで素晴らしいけど、でもそんな中心にある蒼井そらさんが、常に毅然とした振る舞いを見せ、ファンに対して真摯に応対する姿勢を貫こうとしていていて、それが混沌とした今を、日中関係を貫いて光明となって浮かび上がる。ここから何かが生まれてくるのか? 生まれてきて欲しいけれども果たして。「らき☆すた」御輿の開陳に続いて次は蒼井そらさん大フィーチャーを上海万博で、是非に。

 「中央公論」2010年9月号には、ほかにも壮絶にして唖然とする記事が。福田ますみさんが書いた「言論封殺のロシアからジャーナリストが消えていく」は、「ノーバヤガゼータ」ってメディアの記者たちが次々と殺害され弁護士も殺害されている状況に、ジャーナリストが現場からではなくこの世から排除され、社会的にではなく物理的に抹殺されていながらそんな国家がしっかり存在している不思議さを、どうしても感じないではいられない。そこでひるまず報道を止めない姿勢にも感嘆。見習いたいけど命は惜しい。って日本じゃ命なんて取られることなんでまずないから。なのに誰もなにも動かない。うーん。

 あと伊藤忠で社長なんかやった丹羽宇一郎さんの中国大使就任に関する時事通信記者の記事が、中立で冷静でなかなか読ませる。その就任が中国外交にもたらす前向きな可能性を示唆しつつ、後ろ向きな問題点も指摘しつつ何をどうすれば良いのかって提案もちゃんとある。これがどっかのメディアだと、民主党憎けりゃ袈裟まで憎いってスタンスから、徹底した批判ばかりを繰り広げてそれでそれで終わりになりかねないところを、ちゃんと総合的にまとめているところが伝統。親会社なり発行元は大手町で隣り合わせにいるけれど、そこの違いが結果になって現れているっていうか。

 そんな感じでなかなか良さげな「中央公論」9月号だけど、やっぱり芥川賞発表の「文藝春秋」9月号に押されてしまうのであろうなあ。せめてデザインは何とかした方が良いと思うなあ。そうそう丹羽さんの記事に登場している中国人脈の中で、名前が挙がった薄煕来って、17年くらい前に記者たちが集団で訪中した時に、確か大連市長として旧ヤマトホテルの大広間に登場してきた姿を眺めてる。国務院の商務部長ってんだから経済産業相みたいな政府的には割と役職も経て、今は党職としてたぶんそれなりに重要な重慶市委書記をやっていて、中枢中の中枢とも言えそうな中央政治局の乗務委員入りも間近らしい。もとより薄一波の息子って出自良さもあったけど、それだけで上がっていけるほどヤワな世界じゃない中で、ちゃんと残っていたりする。やり手だったんだなあ。仲良くなっておけば良かったなあ。

 録画してあったアニメを一気見して「戦国BASARA」は話があんまり進まず毛利長曽我部とのバトル開始間際で終わり「黒執事2」は坊ちゃんが生け贄に捧げられるっぽい展開になって先に暗雲、「ケロロ軍曹」は大人の階段を上った夏美がなかなかに麗しくってそして毎週楽しみな「世紀末オカルト学院」はポルシェのフロントにパンなんか入れていろいろ臭いとか写ったりしないのかと心配。展開はそれほど進まず文明の記憶から恐怖の大王が本当に来ると知って摩耶が果たして何を思ってどう動くのか、それとも動かないのかってところで乞うご期待。「けいおん」もようやくやっと見て澪のロミオがどうなっているのか楽しみだけれどライブの練習全然してなくって大丈夫? とまあそんな具合。「もやしもん」は結城蛍の迫りっぷりが凄かった。あの美貌なら別に付いていたってツルペタだって良いんじゃね? なんて思えてしまう僕の目が曇っているのか正しいのか。そこは直保の行動から判断しよう。

 せっかくだからとネイキッドロフトで開かれた、丸田祥三さんを挟んで切通理作さんと枡野浩一さんが例の裁判の状況をあれやこれやと訪ねるイベントを見物。それが類似していることは当たり前のことであり、にも関わらずそっくりだということを当人は否定し、眼前に示された写真にちゃんと写っているバンパーをないと弁護士は言い張り、見方をするからと近づいて話を聞いて、論点となっているそっくりな写真ももらった以上、もはや起こり得ないはずの写真の取り違えを起こして、論旨のねじ曲げをカメラ雑誌がやってのけるという、あまりにもあからさまな動きがあったにもかかわらず、今なお訴えた丸田さん側に対して、批判的な言説が向かうって状況がまるで分からない。

 文学にしても絵画にしても漫画にしても最近だったらライトノベルにしても、他の表現業界だったらすぐにでも問題が露見し、ネット沙汰新聞沙汰となって大騒ぎされた果てに、奪った側が非難され奪われた側の名誉が回復される。そんな当たり前のことが、写真の世界ではどうして起こらないのか、それも10年も起こらないのかを考えると、もはやオカルト的な何かがあるとしか思えない。世紀末オカルト写真界、って世紀末すら超えて10年も経ってしまっているけれど。

 複雑なことなんて何もなく、また丸田さん側も過大な要求はしていない。プロフェッショナルとしてそれがどれだけ妙なことなのかを理解し認めれば終わったことであるにもかかわらず、ここまで続いてしまった背景に、一個人の尊厳なりプライドなり威厳の絶対堅持といったことを超えて、何かそうしなくちゃいけない理由、そうすることによって保持される業界的な約束事が写真の世界にはあったりするのか、なんて想像すら浮かんでしまう。なんと奇妙で恐ろしい世界。近寄るのも恐ろしい。

 そんな世界を相手にしている丸田さんの立ち位置をよりくっきりと浮かび上がらせるってことで、イベントで枡野さんは丸田さんとはカウンター的な立場に立って、どうしてそこまでかたくなに生真面目に相手を追いつめ正義を貫こうとするんだ、そこで下手に出て懐柔にのればもっと早く物事も解決して、名誉も得られたんじゃないかといった懐疑を投げかてみせる。けれども、丸田さんの身になって考えれば、本当に難しいことは何ひとつ言っていなくって、相手が同じプロなら当たり前に通る話で、だからこそ譲らず真摯に真正面から事に当たろうとしたら、相手があからさまな態度で出てきてしまって、二進も三進も行かなくなってしまったって構図が改めて見えてきた。

 それがごくごく狭い写真の世界だけに止まっていたならまだ分からないでもないけれど、カメラ雑誌も含めて周囲のメディアも同様に、訴えた側ではなくって訴えられた側の立場を慮る空気を醸し出すから分からないというか、それほどことは単純ではなく、いろいろと根深い問題があるというか。だから裁判はとりあえず意見陳述なんかが終わってあとは判決を待つばかりって感じになっているけれど、一審でたとえ丸田さんが勝っても、相手が上告してさらに1年2年が飛んでいきそう。一審の判決文でたとえ強烈に丸田さんをプッシュし、相手をけちょんけんちょんにしたところで、そうなると分かっていながら引かず、認めず、こだわり抜いた被告&弁護団なだけに、逃げず最高裁まできっと持っていって戦い続けることになるんだろう。空虚。果てしなく空虚。

 そうやって名前が出てなおかつ状況への理解が進めば、丸田さんもちゃんと名を挙げ仕事も増えていく、っていうとそうでもないところが悩ましいところで、過去に幾つも展覧会に作品を出す話が決まりながらも最終の段階で外されて来たことがあったとか。8月14日から始まる展覧会に名前が挙がって、もう本決まりって言ってよさそうだけれど、ここで何か外されるような事態が起こったりすれば、業界にはきっとフーマンチューが存在して、その尾を分でしまったがために今なお苦闘し続けているんだって想像できそう。果たしてどうなるか。フーマンチューは存在するのか。要注目。

 そんな感じで進んだイベントは、とにかく丸田祥三さんって写真家の真面目さが滲んで来る内容。NHKのドラマプロデューサーから「棄景V」の表紙に使われてる写真と同じシチュエーションをテレビのオープニングカットに使いたいから、場所や時間を教えて欲しいと頼まれた時に、その絵を1枚撮るために10数年も通い試した表現に必要な苦心を、割と簡単にスルーされたと感じて、返事を渋ったエピソード。その憤り引っかかりは分からないでもないけれど、そこでちょい冷静になってこれこれこういう思いがあるのであんまり教えたくないんです、あるいはこれこれこういう思いがこもった作品であるということだけは理解して欲しいとしたためれば、相手もそうかそれならと理解し、紹介する労を鑑み敬意を持ってそれでも是非にと頼みに来たかもしれない。諦めたかもしれない。

 けれどもそうはしかったところも含めて、丸田祥三さんの性格であり信念なんだと認めつつ、それではこの才能をどう世間に改めて問うていくのかと考えていくしかないんだろう。イベントの終盤、「私の作品を知ってください、1冊でも書店員さんのところに持っていきます。本当に10年間苦しかったです、誰がやったかわかりません、物を盗む人間のつらさを別れというなら、盗まれるつらさを分かって欲しい」と絞り出すように言った言葉には、名誉とか対価といったものではなく、存在を消されてしまいかけていることへの悔しさと、それをやろうとしている相手への悲しみが滲む。自分ひとりが消されることではなく、世に送り出してくれた編集者、最良の状態に刷ってくれた印刷所のオペレーター、並べて売ってくれた書店員に読んでくれた読者のすべてが否定され、消されてしまうということへの憤り。それがこの苦しい10年を支え、今を支えているのだと知れば自ずとすべきことは見えてくる。まっすぐに見よう。本当を見よう。見えたら支えよう。支え続けよう。ってことで「棄景V」を買ってサインを頂く。挨拶はしたけどどこまで認知されていたか。そういや「廃電車レクイエム」のSPAでの紹介文って僕が確かやってたんだよなあ。あれも楽しい写真集だったなあ。


【8月9日】 電撃文庫でいまや超売れっ子作家となっておられる壁井ユカコさんの新シリーズ「クロノ×セクス×コンプレックス2」(電撃文庫)はいきなりイラストの感じが代わっているけど前のほのぼのっとした感じも悪くかたったし今回のちょいピリッとしたのが入っているのもなかなか。姉と同級生との睦み合いを見たまま固まったどてら姿の妹の目とかちょい怖い。お話は体が女の子になって時間を操る魔法を覚える学校に入れられたミムラを脇に同級の男子が記憶の時間をバラバラにする力を持ったウサギに蹴り飛ばされて大変な目に遭う中で、ミムラに起こる事件を描いていく物語。ラストに描かれるミムラに起こった衝撃的な事実、その真相やいかに。次号はなるたけお急ぎを。

 そんな「クロノ×セクス×コンプレックス2」のあとがきでは高畑京一郎さんの「タイム・リープ あしたはきのう」と並んで「電撃文庫の時間モノといえば田中哲弥著『やみなべの陰謀』も名作にして怪作です(現在はハヤカワ文庫JA刊で復刊)。おすすめです」と田中さんへの大絶賛あり。「わたしが一読者であった頃、[電撃文庫って面白いなあ!]と心震わされたきっかけがこの高畑さんの『タイム・リープ』と田中さん『大久保町』シリーズだったと記憶しています。非常に尊敬する先輩作家のお二人です」と憧れの言葉まで贈ってる。ちゃんとしっかり愛されてますよ敬されてますよ田中先生。

 古手の人がいなくなってしまうこともあったりするライトノベルの世界だけれど、新しく入ってくる人たちにちゃんとしっかり影響力を残しているってことを鑑みれば、あただおろそかには出来ないし、そうした原典はちゃんと刊行し続けて欲しいものだけれども残念というか「やみなべの陰謀」は電撃版がなくなり今は早川から。そして「お二人ともなかなか新作をだしてくれないところが共通してますげふんげふん」と壁井さんが嘆いている田中さんの新作は「猿駅/初恋」がちゃんと早川から刊行中。あの予告にありながらいつまでもいつまでも出なかった「猿はあけぼの」も入ってます。ええほんと?

 つまりそうした他レーベルどころか他ジャンルでの活躍は、ライトノベルの中の人たちにはあんまり気づかれていないのだなあと思う一方、SFのイベントなんかで賞を取るのが早川ばかりって状況に、世間とSFとの断絶というか隔離というか断層というか異次元漂流的な様相を見てしまう。両者を結びつける術はないのなかあ、それが田中哲弥さんとか牧野修さんの存在であり役目なんだけど、そういう風に遇されているかというとどうなんだろう。

 もともとがライトノベルの野尻抱介さんや小川一水はすっかりSFで人気者で、星雲賞とかバンバンとってて日本SF大賞にだって届きそう。元が本格SFだった山本弘さんはライトノベル方面での活躍を経て今はすっかりSF方面の人って感じ、って割には山本さんは未だ星雲賞には手が届かないという不思議な立ち位置。時の運なのか偶然なのかそれとも。ここんところを考えることでSFの現状とそして将来、さらにはすべきことなんかが見えてくるかも。山本さんの新刊「アリスへの決別」なんかすごいぞう、表紙とか危険だぞう、あれはだから見目麗しい男の子が股間を股に挟み込んでいるんだと見ると別の意味で違った感情がわいてくるぞう。

 界隈で「機動戦士ガンダム」の富野由悠季監督がお台場なんて場所に兵器のガンダムをたてるなんて間違っておると憤った文章が「中央公論」の2010年9月号に掲載されているという情報が漂って来たんでどれどれどういうことかと神田神保町へと走っていつもの早売りの店で「中央公論」を買おうとしたら「文藝春秋」はあるのに見つからない、とおもったらすぐ隣にあったけれどもずっとイメージしていた「中央公論」の表紙の雰囲気とは違って白地が見えず赤茶けたイラストに赤い題字でまるで「正論」とか「WILL」の特別増刊号の用、中国がどうとか朝日があれとか大特集するような。伝統ある雑誌なんだから威厳を持てとはいわないけれどももう少し、キャッチィなのにしないと埋没してしまうぞって心配するならお宅はどうよと切り替えされそうなんで沈黙、ひでえもんなあ4万キロ離れた出版部門が出してる単行本の表紙のデザインとか。どこの自費出版だよっていうか今時自費出版だってもうちょっと凝ったデザインにするぜっていうか。

 でもって読んだ富野監督の記事はまあ予想の範疇。8月って時期に合わせて戦闘について語らせるなかで「ガンダムには、そうした道具と人間の怪しい関係も、意識して盛り込んだ。モビルスーツもロボットも、そういう背景を背負った、あくまでも殺戮や破壊を目的とした”兵器”」なんだからお台場なんて場所に手にしてシンボルとしてあがめられるのはどうよって持論を述べている。でもねえ、お台場ってもともと砲台を置く場所だった訳で兵器を飾るにはもってこい。異論があるなら砲塔を持たないガンダムを立てたことでいっそガンキャノンかガンタンクを置けば21世紀の台場っぽくなって100数十年ぶりに東京湾の警備が強化されたかもしれないけれども今時東京湾には黒船はやって来ないので意味がないのであった。立てるならやっぱり三浦半島か銚子だな。

 それはそれとして今の台場が子供たちの集まる憩いの場所なんだからやっぱり兵器はって意見だとしても、だったらプラモデルとかグッズとか、子供が楽しむものに兵器を押していいのかいって反論が浮かんでくる。戦車に戦闘機のプラモデルを作ってきたんだから良いんじゃない、っていう意見も出そうだけれど、それだと兵器はあがめるなって指摘に太刀打ちできない。ガンプラを認めるんなら二枚舌、認めないんだったらそう言わないとお台場に立ったガンダム、そして今も静岡に立っているガンダムが可愛そう。問題はだからそういうところではなく、ガンダムの背景にある戦争と平和についての思考をも、含めて考えて欲しいということなんだろうけど、そういう部分にまで踏み込んで語られている訳ではないからなあ。ちょっと足りない感じ。まあでも「中央公論」って固い雑誌に富野さんが出たって意味はあるんでそこは編集の人たちの英断と称えよう。

 そんな出歩きの最中に、営団地下鉄丸ノ内線で京都大学体育会弓道部の女子たちがかたまって乗っていた姿がなかなかに凛々しくって輝かしくって目の保養におおいになった。袴の道着で足袋に草履と和風の出で立ちには居合わせた外国からの観光客の瞠目して写真なんか撮っていた、なぜか足下を中心に。これが高校生たちの弓道部だったらもっと猛々しさなんかが出たんだろうけど、京大っていう知性があふれ出るイメージと、弓を持ち矢筒を下げた凛々しさとが重ね合わさって漂う空気はなかなかのもの。こんな娘たちが弓を持ち矢をつがえてキッとしたまなざしでこっちを一斉に見たなら、そのまま討たれても良いとすら思った。でもこれが同じ体育会系の女子柔道部で胴着に巨体を治めて両手を前にこっちに迫ってきたんだとしたら果たして何を思ったか。競技重要。一群では生八つ橋の紙袋を下げた子がとても可愛かったので東大の弓道場でやっているのかもしれない交流戦を見に行く人がいたら注目、って別に競技中に生八つ橋は下げてないし食べてないか。残念。


【8月8日】 そしてまず26年目の夏が来た。1984年の夏に発売になった「漫画ブリッコ」にまるで鉄筆で刻み込まれるようにしたためられた文章でかがみあきらさんの訃報を知った。直前に初めての単行本「鏡の国のリトル」を買って応募した返信として暑中見舞いが送られてきて、その宛名書きだったかサインだったかが漫画の書き文字とまるで同じで、これはご本人が書いたものに違いないと感激し、印刷じゃないかとこすってみたりもして直筆と分かってさらに感激してから程なくして舞い込んできた訃報に慟哭した。

 芸能人有名人文化人の多くの死を、ニュースなので訃報として聞いてもまるで感じなかった哀惜。それがこの時には沸いて流れて仕方がなかった。しばらくして手塚治虫を失い、石森章太郎を失い藤子・F・不二雄を失っても、このときのような茫然自失の気分はなかった。やり遂げていたという喝采で送れた。かがみさんはそれだけ大好きだった漫画家だった。期待もしていた。だからこその落涙。だからこその哀切。流れた26年を思い、これだけあったらかがみさんなら何をやり遂げただろうかを考える。自分が何をやれただろうかを考える。虚ろな気分にとらわれる。死者はもうなにもやれない。生者だけが何かをやれる。まだ間に合うだろうか。何かをやり遂げられるだろうか。そう考えてこれからの1年を過ごすのだろう。

 そして12年目の夏が来た。今なお名人として将棋界に君臨する羽生善治棋士と互角に戦い時には追いつめることもあった村山聖9段は、1998年春に病気の治療に専念すると表舞台を去っていた。相当に悪いのだろうという予感はあったからほどなくしてその夏に没したという話を聞いて、驚きはなかった。けれども悔しかった。まだできる。そして成長していける。それだけの才能を持っていた。それだけの可能性を発していた。存命ならばあるいは、7つあるタイトルのいくつかを羽生善治名人と分け合っていたかもしれない。もしかしたら名人竜王の2つの大きなタイトルを手にしていたかもしれない。それだけの棋士だった。誰もがそう認めていた。それなのに。悔しさは今もなお残り、そしてこれからもかみしめながら、8月8日という日を迎え続けることになるのだろう。

 夏風邪なのか妙に暑くてそれが気温が高いからなのか、体温が高いからなのか区別がつかない朦朧とした状態になってたんでさっさと眠って寝汗を散々っぱらかいたのが良かったか、前日よりは多少は冷めた頭を振り絞って電車を乗り継ぎ船堀へと出かけて、駅の南側にあるミスタードーナッツで君とだけ食べたいけれど食べたい君がいない寂しさにうらぶれながらドーナッツをむさぼりくらって、それから会場へと出向いて「第49回日本SF大会 TOKON10」を見物。電子出版話はつまりは15年前から続く議論が今なお続いているけれども、頒布のしやすさ見るデバイスの多さ課金の便利さといったインフラ部分の改善が、多少は状況の打開につながるんじゃないのかなって話をしたっけ? してなかっけ? まあそんなとこ。

餃子の街だけあって餃子にもキャラがいるのだ宇都宮  話を聞いている間にせっかくだからと手持ちのiPadでキュアサンシャインの変身シーンを再生、したんじゃなくって前に試して見た電子貸本Rentaってサービスを再確認してみたら、ページめくりの速度がやたらと挙がってストレスがなくなっていた。改良したのかそれとも単に通信事情が良かっただけなのか。前はタッチしてもなかなかページがめくれずいらいらしたものだったけど、今だと触れればちゃんとページがめくれる。相変わらず白ページまでスキャンしているんで現れるけれどもそれもすぐにとばせるから気にならない。ものはついでと御厨さと美さんの単行本を即座に購入。やっぱり巧いなあ、絵もお話も。「NORA」も電子本に落ちて来ないかなあ。

 それから埼玉県のアニメ観光部屋へといって島田さんがしゃべるのを聞く。どんどんとプレゼンテーションが巧くなっている。だいたいは既知のことだけれども栗橋みなみによる町おこしプロジェクトの話はあんまり聞いたことがなくってのぞいて良かった。何でも地元の高校生が鷲宮高校に通っていて鷲宮の「らき☆すた」での盛り上がりに悔しくなって地元でもなにかやろうと市長に直談判し商工会に依願しそれでも動かないんで酒屋に頼んで盛り上げようとしたら酒屋の親父の通称クリリンが若い奴が頑張っているのに手間らなんだと商工会のケツをひっぱたいて盛り上げ8月1日には2000人が集まるイベントになったとか。2000人は少ないっていうけどゼロから始めた最初のイベントにそれだけを集めるなんて半端じゃない。やればできる、ってそれは「サマーウォーズ」の婆ちゃんのセリフだけれど、本当にやればできるのだ。やらなきゃなにもできないのだ。やらなきゃ。何を? うーん。何しよう。

 「サマーウォーズ」といえばエンディングを歌っていたのが山下達郎だったっけ、ってことで船堀を午後1時には抜け出して住吉まで行き半蔵門線から東武伊勢崎線へと直通する電車に乗り換え春日部で特急に乗り込み栃木まで行ってそこから日光線宇都宮線へと入っていって山奥へ山奥へと進んでいったい宇都宮はどれだけ山の中であるのだと心配した到着した宇都宮はお祭りの真っ最中で、繁華街のアーケードには屋台が並んでそこでベーコン焼きを食らい名物の餃子も食べ焼きそばも書き込んでから南宇都宮へと戻って宇都宮市文化会館へと入って並んでパンフレットとテレキャスターが配されたTシャツを買ってそして始まった山下達郎の個人的には1年と半年ぶりくらいのライブを見て流れた「サマーウォーズ」のエンディング「僕らの夏の夢」に夏を感じる。ニッポンの夏、達郎の夏。

 夏だ海だタツローだ、って言われている割には夏にライブをやってなかったらしい達郎さんにとっていつ以来だって? 「ポケットミュージック」が出た1986年に夏にツアーをやって以来(これは行ったな、愛知県勤労会館、確か弟と、7月7日か8日のどっちか)だから24年ぶりくらいになるという夏のツアーを迎えて気分は前回夏祭り。リゾート風のセットの上でいつものメンバーがそろい激しく優しく懐かしくすてきなライブを繰り広げてくれた。そう懐かしく。1975年にレコードデビューしてから35周年を迎えたという達郎さんが35周年らしいセットリストを組んで臨んだライブらしく、おじさんおばさんの達郎ファンには嬉しくて仕方がないライブになっていた。

 詳しくはまだ続くから何も書かないけれどもとにかく凄い。そして素晴らしいので昔のアルバムをひっくり返して「シュガーベイブ」も含めて聞き直して臨むこと。これを夏に見られて良かったよ。一言だけ触れるなら同世代として音楽シーンを引っ張ってきた桑田圭祐さんとそれから主題歌を提供した映画「てぃだかん」で主演していた「ナインティナイン」の岡村隆史さんの快復をステージから祈念してた。桑田さんはまあありえるけれども岡村さんにもとはなかなか義理堅い。というか桑田さんの状況が状況だけに岡村さんもそんなにとか不安も浮かぶけれどもそのあたり、詳細はなかったんで言及するほど深刻ではないと信じよう。次に行く大宮の時までに2人とも、明日が見えているようになっていて欲しいと僕も心より祈念。喪っていく悲しみを味わうのはできればもっと先が良いから。


【8月7日】 貴族の子弟として育ったのなら、アダマスさまにはもうちょっと高尚な自意識をもって周囲と関わってもらいたいんだけれども、三上延さん「偽りのドラグーン」第4巻で貴族組のトップを務めるアダマス・バルバートル王子が何とも下衆で、生徒会長だなんて世間から見ればどうだって良い地位にしがみつき、脅かすかもしれない奴らを殺したってかまわないと思っているんだから小さすぎるというか何というか。こういのって余程の権力者でもなければ放逐されてしかるべきなのに、居残っているってことはバルバートル王国ってそれなりの地位がこの世界ではあるって証なんだろうけれど、その割に紛争のまっただ中に放り込まれて命を懸けさせられるってんだから、大事にされているのかどうかもちょっぴり怪しくなってくる。大切な王位jだったらとっとと安全圏に引っ込んで紛争が収まるのを待てば良いのに。

 そんなあたりの人間性のバランスが妙に気にはなってしまうけれども、全体としては死んでしまったヴィクトルって兄貴王子の身代わりに仕立て上げられて、竜といっしょに学ぶ学校に入ってバレないように日常を送ってきたジャンって弟王子が、それでもしっかりとあった能力を発揮して戦線の主力になってしまったものの、愚鈍なアダマスに毛嫌いされ、一方で性別を偽って入学してきた男の格好をしたクリス・キッドマンって中身は少女に関心をもたれ、何より彼を引っ張ってきたティアナって竜族のお姫様から強く興味を示されてしまってくんずほぐれつのなか、戦線を開いた帝国だかの攻撃から世界を守る義勇軍として戦線に行ったはいいものの、すでに大半を占領されて苦境の中で、さらなる衝撃的な事実を突きつけられ、戸惑っているところにその身にも危機が迫るという大転換の物語が最新刊では繰り広げられる。

 どうしてまたヴィクトルが寝返って親族を皆殺しにしてまで帝国について、それでいて下々のような身分でもって王女様に使えていたりするのかといった辺りの謎がまだあるし、そんなヴィクトルの裏切りを知ってジャンがいったいどういった行動に出るのかにも興味が向かいそう。もはやどうしようもないくらいに攻め立てられてしまった世界には逆転の芽は見えず、主人公たちの命運も風前の灯火に見えるけれどもそこはそれ、きっとすべてをひっくり返すような大技が飛び出して圧巻のクライマックスを見せてくれると信じて読み続けよう。それにしても愚劣なアダマス・バルバートル王子。見ているとひたすらにムカつくんんでとっとと退場して欲しいところだけれど、そういうのがいるからこその世界の厳しさでことで。ことほど左様に人間関係は難しい。

 瞬間だけ寝て起きたら朝だったんで電車を乗り継ぎ船堀へと到着。ミスタードーナツで2個ほどむさぼってから会場へと入り、「第49回日本SF大会 TOCKON10」を冒頭だけ見物する。まずはホールでパワードスーツを描く加藤直之さん。白紙にだいたいの当たりつけて外枠を引き等身を示したところから、だんだんと全体像を描いていくんだけれど、最初は直立不動っぽかったポーズにリズムが生まれて前屈みになって重さを持った物体だって感じが出てきたのには、感心というか喝采というかさすがはプロフェッショナル。横に鉄板で作り上げられたパワードスーツもあったけれども、それすら上回る迫力って奴を平面の絵で出すんだから画家っていうのはやっぱりすごい。そんな加藤さんは星雲賞も受賞。何度目? って気もしないでもなくもっと新たなクリエーターをって気も浮かぶけれども、新人賞ではない以上、何度でもチャンピオンに輝いたって不思議はないのが星雲賞。悔しかったら勝てってことか。まあ推薦し投票する人たちの心理観念にもいろいろなものがあるんだろうけど、そこを動かしてこその挑戦者ってことで。

 そんな星雲賞は「ラブプラス」は残念ながら入らず、お台場ガンダムプロジェクトが自由部門で受賞。明日の授賞式には静岡から18メートルのガンダムが駆けつけ……ません。会場に入らないよ。いやいや来年の会場になら入るから来年も引き続いてのリアルガンダムプロジェクト星雲賞獲得で。だめだめ来年こそ「ラブプラス+」で。うーん悩ましい。メディア部門はやっぱりというか「サマーウォーズ」でこれで何冠? まあ仕方がない。漫画部門はあれだけすごい漫画があるのにまたしても浦沢直樹さんってのがなあ。「PLUTO」は悪くはないけどほかにもいっぱいあるような。有りすぎて選びづらいってのもあるんだけど。

 そして悩ましき日本部門長編は栗本薫さんの「グインサーガ」が受賞。もう出ないってことは完結ってみなされ、受賞の権利が巡ってきて晴れて受賞と相成ったんだろうけれど、本当のところは未完な訳でそれを認めてしまって良いのかってあたりは議論の余地がありそう。あるいは功労賞的な意味合いがあるんだとしたら、それはちょっぴり趣旨が違ってくる。栗本さんだから仕方がないという思いと、賞とはそういうものではないという思いの交錯。難しいなあ。年に1冊しか選ばれない、栄えある賞なんだから、もっと新しい人珍しい人にスポットが当たって、SFの存在を満天下に示して欲しい気がしないでもないんだけど。とはいえ栗本さんでなかったら、神林長平さんとかに収まってしまうんだろうけれど。それがSF大会に参加する強靱なファンの気質って奴で。長谷敏司さん万城目学さん森見登彦さんにはまたの機会を。長谷さんには「allo,toi,toi」で来年の短編部門を。

 午前中しか会場にいられず会えた人も少数で超有名声優とかとはすれ違いすらできず残念。もちろん企画の1つとして見ていないし明日は明日で遠く宇都宮まで出かけていって山下達郎さんのライブを見なくちゃいけないってのに体調的には夏風邪の兆候。ベンザブロックIPを飲んで押さえようとはしているけれども果たして治まるか。そんな達郎さんのツアーでキーボードを弾いている難波弘之さんをSF大会の会場で見かけた人がいるらしく、おいおい大丈夫なのかとスケジュールを調べたら今日は明いてる日だった。明日も来場してから宇都宮に向かうということらしいけれども調べたら宇都宮市文化会館、新幹線の駅がある宇都宮からどえりゃあ(ものすごいという意味の名古屋弁)遠いでかんわ(遠いのが困ったという意味の名古屋版)。行きは良くても帰りなんてどうしようかと悩むけれども近くの南宇都宮から飛び乗れば、午前様になるぎりぎりで船橋に帰り着けそうなんでそれを使うことにしよう。まさか達郎さん一行もそれで帰京、ってことはさすがにないか。

 企画的にはだからあんまり見られそうもないからサイバーパンクとぬいぐるみと電子出版をいったりきたり。この時のために買って置いたのかもしれない巨大ポニョを持っていきたいけれども宇都宮まで運ぶのもなあ。誰かに預けるか。あとはクトゥルーの部屋へと持ってはいるとか。午後にはモモーイのライブがあるんだけれどそちてゃ当然ながらパス。「大怪獣映画G」の田口清隆監督が来場する企画もあるからそっちをのぞいてみようかな。埼玉県アニメの部屋も捨てがたいなあ。うーん迷う。迷うけれども身は1つなんであちらこちらをうろついているんで宜しくみなさんごきげんよう。


【8月6日】 朝っぱらから荷物を街ながらTwitterなんかをいじっていたら知らんどるうちに(知らない間にの名古屋弁)「おすすめユーザー」なんてものの表示が出るようになっていて、そこから「全てを見る」へと飛んだら孫正義津田大介浜田幸一なんて月並みな名前が並んでいて、おまえはこんな月並みな人たちをフォローするのがお似合いだって言われているようで無性に虚しくなって来た。

 人間にとって、それもSFなんかをかじっている人間にとって普通だという評価はむしろ悪罵と同等かそれ以上。変わり者だと気取っていたって所詮は一般大衆の泡沫でしかあり得ないんだ、だからみんなが見ている人たちをフォローしていれば安心なんだ。そんな感じの声が聞こえてきて泣きたくなったけど、だからといってそこでフォローしてはSFが廃るので孫津田浜田は速攻外して大海へと漂わせ、すすめられる人もそんな流れに乗るものかと気を張って断固としてフォローを拒絶するのでありました、お世話になっていながらアカウントがあるのを気づいていなかった一部を除いて。

 たとえばだったらどんなメンバーが並んでいたら理想かと言ったらうーん、やっぱりフレディにジェイソンにブギーマンにピンヘッドが並んでその下にハンニバル・レクター博士が来てモリアーティ教授が来てそしてエイリアンにプレデターにグレムリンにETが続いてターミネーターにコマンダーにシルベスター・スタローンとスティーブン・セガールとジャッキー・チェンが加わってそれからニャル子さん隙間女(幅広)なんかが並んでいると、いかにもちょっぴり変わり者だとTwitterの神様に思われているようで嬉しくなってくる。

 そこにセオドア・バンディにエド・ゲインにジェフリー・ダーマー、アルバート・フィッシュ、デビット・バーコウィッツ、ハロルド・シップマン、アンドレイ・チカチーロなんて名前が並んだらさらに妙な神様の思し召しが介在しているとしか思えなくなるけど、そこまで読んでツィート主の嗜好性格なんてものを示せるようになったらTwitterも相当な進化が期待できるって言えそう。しかしいったい何を書いたんだろう、Twitterがもしもあったらテッド・バンディはそこに。

 やっぱりってことで買ったけれども「東のエデン劇場版2」の初回限定版のブルーレイディスクがパッケージ的にいかがなものかでゲショゲショ。説明するなら例の青いブルーレイ専用パッケージが2つ重ねてボックスの中に入っていて、その下にスペーサーをかませる形で表面の広さをDVDと同じ大きさにした下に、テレビでも映画でも出てこなかったセレソンNo.7の活躍だか暗躍だかを描いた特別CDのストーリーボードなんかがつけられ、それらがまとめてビニールによってシュリンクパックされている。

 もしもパックをはがせば本体が出てきてスペーサーが落ちてブックレットがはずれるという3分割。それをしまおうとするとおそらくはブックレットが飛び出したり、どこかに消えてしまうようになっている。これがDVDだったら箱のサイズと同等だから出っぱったりはしないし、じゃまになったりしない。どうせだったら同じサイズでブルーレイの方も出せば良いのにそれができないってのは何なんだろう、ブルーレイはブルーレイ専用のサイズで出さないといけない決まりでもあるんだろうか。

 どうやらあるらしいってことを「マイマイ新子と千年の魔法」の片淵須直監督が「BLACK LAGOON」のブルーレイを出した時なんかに聞かされて「BLACK LAGOON」のイメージにあの青いパッケージは会わないかもと悩んだそうだけれど、見渡すと「けいおん!」なんかは何故かピンクのパッケージで出ているし、「東のエデン」と同じアスミックエースが下欄泥rう「イヴの時間 劇場版」もやっぱりピンクのパッケージが使われている。アニプレックスに目を転じれば大ヒット作品の「化物語」はブルーレイもDVDと同じサイズのパッケージで出ていたりする。

 おまけにそれは、いつもの青いパッケージではなく専用のデジパック仕様。つまりはいじれば結構自在にいじれそうって気も品でもないけれど、初回限定だから汎用じゃなくてもオッケーって言われていたりする可能性もあるし、ある程度売れると算段がつかない作品でなければ無駄にコストが増える特別仕様は使えないってことになっている可能性もある。とはいえ「東のエデン」ならそれなりに売れるだろうからなあ。やっぱり発売元なり販売元の判断か。何とかして欲しいなあ。

 人に向けた拳銃の引き金を引けるかというと躊躇する。大勢の人が集まる場所に散弾をばらまけなどと言われたらさらに躊躇いは広がり懊悩に変わる。100人を殺し1000人を殺め1万人の命を奪うような行動を、取れとたとえ命令されたとしても果たして従えるかというと、これがなかなかに難しい。兵士としてなら、戦争の場でならできるはず、そう訓練されているし、敵への恨みがあれば幾人いようと平気で命を奪えるのだと、言われてもはいそうですかといった気にはなかなかなれない。

 ましてや10万20万といった数字の人間の命を、たった1つのボタンを押すだけで奪ってしまうと分かって、果たしてボタンを押せるのか。押せるとしたらそこにはいったいどんな感情が働くのか。感情なんて働かず、ただ機械的に押したまでのこと。そう言ってのけるかもしれない。同じ人間ではないものだから、躊躇いなんて浮かぶはずがない。そう言って憚らないかもしれない。けれども本当にそうなのか。機械的にボタンを押せるか。人間ではないと見なせるか。広島に原爆を落としたボタンを押したその指の持ち主に、いったいどんな決意があり、心の動きがあってそして原爆が投下されたのかを、考えさせ感じさせ思い出させる舞台「広島に原爆を落とす日」がシアターコクーンで始まった。

 原作のつかこうへいさんが亡くなって、間もない時期での公演という話題性にも惹かれたけれど、その初日が8月6日という日に設定されていたことにも興味をあおられ、チケットを取って見に行った。見に行かざるを得なかった。原作本はハードカバーが刊行された時に読んでいて、大変にラディカルでそれでいて美しい物語だと思った記憶がうっすらとある。けれども舞台を見たら、愛というものの強さ、美しさは確かに描かれてはいても、それ以上に原爆を広島に落とすこと、その裏にはいったいどんな政治的なやりとりがあり、人間としての心の揺れ動きがあったのかを考えさせる内容になっていて、どう論じたら良いのかを言葉に迷った。

 シニカルな告発なんだと言うのも偽善っぽいし、悲劇も苦難もすべてを笑いの中に納めてしまおうとしたと言うのもズレている。何とはなしにあてはまりそうなのは、戦争だろうと何だろうとやっているのは人間で、そして個々の人間には心があって、愛も感じることができて、そんな心が何かを守ろうという思いとなって他人を殺め、国を滅ぼし世界を闇に葬り去ってもかまわないといった心境を生み出してしまうのだという示唆。愛の前には国なんて滅び去って当然とうそぶくヒトラーなんかも含め、人間の揺れ動き怒り憤り悲しみ嘆く感情が、時には世界を導き、時には世界を滅ぼすこともあるんだという推測。そんな辺りから探っていくことで、政治では消えず外交でもなくならない戦争や核兵器開発をどうするべきなのか、ってことも見えてくる、かもしれない。

 とにかく圧倒的なスピード感があって、迫力もあってテーマ性もある舞台。主演した筧利夫さんはいつもながらにエネルギッシュで格好良く、ヒロインの仲間リサさんはエキゾチックな風貌とスレンダーな姿態で躍動していて遠目にも感動。そしてリア・ディゾンさん。女将校といったスタイルで現れては、華麗なキックを放ち、流ちょうな英語でしゃべって舞台の上で存在感を輝かせる。アイドルのアイドル的採用と思っていたらちょっと違ったその位置取り。うまくここから抜けていけば、次のステップを確保して新たな姿を見せてくれるかもしれない。会場では見事に店頭から消えていたハードカバーや文庫版の代わりに、違う出版社から出た「広島に原爆を落とす日」の単行本が販売中。オークションだとバカ高い値段もついている旧版を買うなら、新版を買った方が2000円でも絶対に徳。舞台を見ればなお結構。読んで舞台との違いを探り、込められたテーマを探って65年目の夏の日を送ろう。


【8月5日】 まさかとは思うけれども消えてしまった100歳以上のお年寄りたち。実は命を未来に長らえるために自ら水分を絶って体を乾燥させたところを、ビニール袋に入って親類に掃除機で空気を吸い出してもらい、薄く小さくなったところを押入に座布団なんかに重ねて収納されていたりするだけだったりする。なんてことはないのかな、ないよなあ。

 あの収納力があれば10人が50人だって薄くして重ねて押し入れにだって入れておけるから、今判明していない50人とか60人だって実は1カ所でまとめられて収納保存されていたりするってことはないのかな、ないよなあ。やっぱりそれとも粉末にして瓶詰めにしておいて必要になったら水で戻す方式を採用しているってことなのかなあ、違うよなあ。100歳を超えたお年寄りに宿る秘密の力を求めて某国が来訪を促したとか。うーん。謎は深まり平均寿命は低下する。

 そう来たときにはそうリアクションするのを、初めは自虐混じりで客観的視線も持ちつつ自覚してやっていたのが、やがてそうするのが当然といった気分になり、やがて主観的ですらない反射的な憤怒を乗せるのが常態となってしまって起こる悪罵にまみれた動物的なリアクション。加えてメディアもそれと知りそれはつついかがなものかと騒ぎ立て、それを見た人を引き寄せ騒ぎを増幅させる。こうして完成を見せる平野綾さんをめぐる騒動。気持ち悪いったりゃありゃしない。

 世間が求める像に寄り添い、世情に結託する言動を見せ続けているうちに、そこへと至る思索葛藤も吹き飛び当然の振る舞いとして残り外れればいけないとより先鋭化・鮮明化させていった果てに起こる典型的で類例的なリアクションは、筒井康隆さんが「48億の妄想」を書いた時代からすでに予見されていたのだけれども、気持ち悪い減少として皮肉混じりに描かれていたものが、実現化してしまうくらいに日本人は、人間はどうしようもない生き物だったってことなんだろう。滅びるのも速そうだなあ。

 キングカズマが帰ってきた、っていうか映画からすれば時系列的には前らしいから帰ってきたのは映画の方になるんだけれど、発表順からいけばやっぱり再会となるから帰ってきたと行っておこう。土屋つかささんによる映画「サマーウォーズ」のスピンオフ小説「サマーウォーズ クライシス・オブ・OZ」(角川スニーカー文庫)はレイのOZにおけるラブマシーンの大暴走が始まるだいたい2ヶ月前、名古屋に暮らしてOZのバトルフィールドで大活躍を続けるキングカズマがネット内で出会ったアバターのマスターと関わりを持ったことで、OZをめぐって繰り広げられるとある謀略に巻き込まれることになる。

 逃げようとして捕まり護送されそうになって脱出した果てでもたらされる助けが、もしも最初っからあればあんな苦労はしなかったしそんな助けを最初っからできたはずって気もしないでもないけれど、それだと成長もなければ出合いもない。見つつがんばれと突き放してみせるところがさすがは陣内家ってことだと理解しておこう。その割には映画でも桂主馬、あんまり積極的な感じじゃなかったなあ。まあでも少しは小磯健治とうち解けたのはOZをめぐる事件の経験が生かされたのかな。それにしても理一おじさん、何をやっている人なんだろう? やっぱり言えないこと?

 早朝といっても午前9時なら大学生はすでに授業を始めていたりする時刻なんだと気づいた不良社会人。というか会社だって8時半には始業していたりするところもあるから、特に早くはないんだけれど終業が遅い身にはなかなか厳しい時間に秋葉原へと向かってデジタルハリウッド大学院の授業に登場した舛成孝二さんから「フォトン!」でデビューした堀江由衣さんが歌う「PINCH」がどれだけ素晴らしい歌なのかを方ってもらう、訳ではなくって普通に「宇宙ショーへようこそ」がどうやって作られたのかを聞く。

 だいたいはインタビューの時に聞いた話だけれども、気づきの大切さについては重ねて聞いてもなかなかに意味がありそうなことで、クリエーターを目指す人たちにとっては耳の穴かっぽじいて三半規管に刻み込んでおかなきゃいけない言葉だったんだけれど、果たして届いたのかなあ。インタビューした時に舛成さん、作画とかやってる人とかが描いて来たものが不満なら1度は直すように言ってそこから何が自分には足りないのかに気づいてもらおうとするけれど、言われたことしかやらない人ならもう諦めて自分でやってしまうとか。

 せっかく与えられたチャンスをけれども気づけなければ通り過ぎ、失ってしまうことになりかねない。いずれ上を目指すなら、あるいはその世界を目指すんだったら気づくこと、そこから生み出すことを学んでいく必要性ってことを、講演でも話していたけれどもそこに気づいてレポートに書ける学生はいるのかな。アニメが不況だとかアニメーターの給料が安いとか、環境について耳学問的に知った話を書いたところで、そこから生まれて来る新しいものなんてないなから。アニメを目指すなら作りたいものを考え、やりたいことを考えそれに向かって何が必要かを考える。それがあってこそクリエーターを目指す学校で学ぶ意味もあるんだと思うんだけれど、果たして。


【8月4日】 続々と“発見”される100歳以上の高齢者たちの不在はすなわち日本が100歳以上のお年寄りを大勢抱える長寿大国であることに疑問符がつけられ、世界一の平均寿命もこれでいっきに引き下げられることになるかというと、そんなに大きく揺らぐ数字ではなさそうで年齢で言うところの長寿大国ではあり続けるんだろうけれど、問題はそうしたことよりも長寿として敬わる立場にある高齢者たちが、実は周囲から見守られず自治体から尊ばれず、国かららち外におかれていたりしていたってことの方が、より深刻かもしれない。

 ただでさえ日々の動勢に注意が必要な年齢であるにも関わらず、いなくなっても把握されないって状況は、裏返せばそうした高齢者がまるで無関心の範疇に置かれているってことで、そんな状態で頑張って生きて年齢を重ねても、待っているのは無関心の中での孤独な消滅。それでいったいどう頑張れば良いんだって、高齢者たちの生きる気持ちへのスポイルを招き、国全体の意欲を失わせてそして沈滞へと向かわせてしまいかねない。一方でこれからの国を支える子供たちは、大阪みたく親にネグレクトされようとも救われない状況におかれてしまっている。生まれるも地獄なら生き続けるも地獄のこの国の参った状況を、くっきりと浮かび上がらせた2つの事件。ここで何とかしないと未来はないんだけれど、きっと何にもしないんだろうなあ。

 どれだけ強いんだ赤髪、ってことになるんだろう「ONE PIECE」の第59巻はエースが赤犬にぶち抜かれて絶え、そんな赤犬を頭半分吹き飛ばされながらたたき伏せる白ひげまでもが絶えた後に黒ひげ一味が現れ、いろいろあってなおも収まらない乱戦の中、失われる命を止めようとひとり立ちふさがったコビーへと振り下ろされる赤犬の燃える拳を構えた剣で防ぎ、跳ね返したのが赤髪シャンクス。その威光の前には赤犬も進めず黄猿に青キジも手を止め元、帥センゴクまでもが相手の休戦の申し入れを受け入れるほど。私利に走らず野望にも溺れないシャンクスの人柄ってのもあるんだろうけど、そこを超えても殲滅をもくろむ海軍の手を止めさせる力を、やっぱり持っているってことなんだろう。

 おそらくは王下七武海の面々ですら、メンバーによっては退けるだけの力を持った海軍本部の大将たちですら、もしかしたら束になってもかなわないのが四皇の力だとしたら、いったいそこに至るまで、ルフィはどれだけの修行を積み経験を積んでいかなくちゃならいのか。シャンクスの場合だと1人で黄猿すら止めてしまうだけの部下もいたりするんだけれど、そんな黄猿にまるでかなわなかったルフィよりも、麦わら海賊団の面々は遙かに弱かったりする訳で、そんな面々が再会して束になったところで黒ひげは超えられず、1億越えの他のルーキーたちですら抜けない可能性も割と高そう。ボニーだって確かゾロを手玉にとっていたもなあ。

 だからこそのしばしの鍛錬、そして再会へと向けた物語が次から紡がれていくことになるんだろうけど、それはいったい何日後何週間後何ヶ月後何年後? まあ物語内の時間はパッと勧められてもそこから先の成り上がりのドラマはやっぱり描くのに何年とかもかかりそう、ってことで10年以上が経ってなお折り返し地点って感じの「ONE PIECE」は、ここからさらに同じだけの時間を走り、四半世紀をもってようやく終わりを迎える壮大無比な物語になっていきそう。そんなフィナーレが載った「週刊少年ジャンプ」を手にとって涙に震えられる時を、生きて迎えられることを今は強く願おう。そんな「週刊少年ジャンプ」にもしっかり「こちら葛飾区亀有公園前派出所」はしっかり掲載されているんだろうけれど。恐ろしい面白い。

 そして同時発売された「BLEACH」の第46巻は、乱菊さんの谷間が輝く表紙にまず踊り、そして現れた夜一さんのハイレグなレオタードっぽい戦闘服に大興奮というビジュアル的に見所の多い単行本になっていたけど、ストーリー的には藍染無双がまだ続いていて、黒崎一心が現れ浦原喜助が戻り四鳳院夜一も加わった面々が切って叩いて突いて殴っても平気で生き返ってよみがえって一護たちを追いつめる。その後についても雑誌の方で着々と進行中。ギンの動勢にやや動きはあったけれども、ここまでの藍染を見ていると、それすらも「私の掌で踊っているだけさ」と言ってさらなる無双っぷりを発揮しそう。とりあえず単行本で見せたギンの長さと速さが言うてるほどのもんじゃないとして、それにすら苦戦すら一護っていたいどれくらいの強さというか弱さなんだ。うーん。「ONE PIECE」以上に序列が見えない「BLEACH」。とりあえず最強は藍染?  それとも総隊長?

 紀野ちゃんだ紀野真弓ちゃんがあり得ない格好でジャケットに描かれているからにはもう買うしかないと注文してしまった「青の6号 BD−BOX」。記憶をさかのぼれば1998年3月に銀座のソニービルでたぶん行われた製作発表を見物し、同じ年の9月に西新宿で行われた最初の発表会に行って小沢さとるさんに見え、またエンディングを歌っているスリルの演奏を聞いたか挨拶を見てそしてそこから発売になったOVAのDVDを1巻、また1巻と揃えていったのがこの作品。中でも第1巻に登場した紀野真弓って丸顔でぷにぷにボディの女の子を目の当たりにして、そしてふにふにっとした声を聞いてこれはいった誰だと情報を漁って判明したのが野上ゆかなさん、今のゆかなとの本格的な出合いだった。

 遡れば「モルダイバー」や「楽勝ハイパードール」といた傑作群もあるんだけれど今でこそ超売れっ子の村田蓮爾さんがアニメ方面で本格的にキャラクターを描き始めた時期の、その不思議なキャラクターデザインとも相まって、強烈な印象を残してくれたっけ。あれからえっと12年くらい? 長い年月を経ても未だに衰えないそのデザインセンスはむしろますます現代性を獲得して、肉感を持ったキャラの最右翼として見る者たちをぷにぷにな地獄へと引きずり込む。そんな紀野ちゃんがありえない格好で描かれているからにはもう買うしかない。たとえOVAを全部持っててその後に出たDVDボックスも持っていたて買うしかないのだ絶対に。これでひっくり返すと裏側は褌姿の速水鉄だったら笑うけど。ふと調べたら「青の6号」で超感覚的ソナーマンの黄(ホアン)ちゃんを演じてた齋藤彩夏さんって「東のエデン」のみっちょんになったんだなあ、それもまた隔世の感。ともあれ良い物は作っておけば残るのだ、そんな作品が今あるか? あって欲しいなあ。


【8月3日】 っていうかただの定食屋の娘がポルシェを乗っている方がおかしいんだって。それなのにとくに不思議がらずに車のローンがあるからって方に気を回して、定食屋の総菜パンを学院内で売る許可を取るかどうかって方向でしか考えない文明ちゃんの狭窄っぷり。これが人に惚れるというものなのか。そんな文明ちゃんをみつめる画伯演じる千尋もまた然り。恋って魔物だね。それにしてもただキャラ付けのために世間体とか身の程とかを無視してポルシェに乗せているだけなんだとしたら、それはちょっとあまりにも無意味すぎ。地下壕でのピンチも気にせず生還していた辺りも含めて何かあると思って見ていくのがやっぱり良いのか「世紀末オカルト学院」。

 そういえば今の季節にリアルタイムで見ているアニメってこれくらいになってしまった感じだなあ。録画して即見るのが「BLEACH」に「戦国BASARA弐」で、録画してからしばらくして気が向いたら見るのが「けいおん!!」に「黒執事2」に「ケロロ軍曹」といった所。「ストライクウィッチーズ2」も「学園世紀末 ハイスクール・オブ・ザ・デッド」も「あそびにいくヨ!」も録画はしているのにまだ見たことがないという、これは僕のアニメに対する情感が弱っているのか単に暑くてアニメを見られる部屋にいたくないだけなのか。見てまで語りたいアニメ、絶対に見逃せない仕草や姿態のキャラが減っているってことなのかなあ、やっぱり。この辺、やっぱり未来においていろいろ問題となって来そうだなあ。

 名古屋大学にある豊田講堂がトヨタ自動車の寄付で確か造られたってことは、名古屋あたりに住んでてトヨタを身近に暮らしている人間だったら何となく知っているけど、東京大学にある安田講堂がどうして安田なのかってことを、世間の人がいったいどれだけ知っているのかがちょっと気になる。70年安保の時に全共闘だかが立てこもって機動隊相手に長い時間を戦って敗れ去ったものの、その間に行われるはずだった入試が中止され、東大法学部から公務員の上級試験を受けて合格して大蔵省か通産省に入って官僚になって日本を動かすんだと意気込んでいた人たちの運命を、幾ばくかは変えたというその舞台となったのが安田講堂。放水車で水を浴びせられる映像は今でも昭和を語る時なんかに流される、そんな有名な場所がどうして安田なんて本郷でも東大でもない名なのか。

 そういった疑問から入るのがたぶんわかりやすいってことだったんだろう、渡辺房男さんって人が書いた「儲けすぎた男 小説安田善次郎」(文藝春秋社刊)って本は、そのタイトルにもある安田財閥を興して日本を代表する経済集団を作り上げた安田善次郎の生涯が綴られ、その中でいろいろなところに行った多額の寄付のひとつとして、東大の安田講堂の話が冒頭に掲げられてそういう人がいたんだってことを分からせる。こう聞けば何だあの財閥の安田かと、すぐに気を回す人もいそうだけれども安田なんて財閥があったの? って思う人が今だと逆に多そう。財閥といったら三井三菱住友といたところがまず挙がる。それは企業の人気として三井物産三菱商事あたりがよく挙がるし、住友だって住友商事はなかなかのものだし、かつて権勢をふるった住友銀行ってのの記憶は三菱銀行三井銀行よりもあるいは強く世にしみている。

 けれども安田銀行なんて聞かない名だし安田商事なんてものもない。あったのは安田火災海上保険に安田生命保険といったところ。何だ保険屋さん? そう思われてしまうとそれらが業界でも2位だったり6位くらいだったりとなかなかの地位にあったところであんまり世間に凄さは伝わらない。ところがこの本を読むと安田が三井すら感嘆させる財閥で三菱よりも土台があって住友よりもエレガントな財閥だったってことが見えてくる。というか名前は残らなかったけれれども大手都銀でもトップクラスだった富士銀行、今のみずほフィナンシャルグループの中核の1つがかつての安田銀行であり、その傘下には三井三菱住友あたりに方を並べて上に出る時すらあった企業も多くあったと分かる。知られていたって不思議はないのに安田の名前が世に残ることがなかった理由、そして安田講堂の名が財閥と結びつけてかたられることが少なくなってしまった理由が、安田善次郎という人間の生き様なんかから感じ取れる。

 頑張って士分になりながらも相変わらず農に携わっていた家族を置いて富山から江戸に出てきた善次郎が、街の両替屋から身を起こして出張両替なんかで蓄財して江戸幕府の難しい仕事もこなして成り上がり、両替商となって堂々の大身を築き上げ、そしてご一新のあともしっかりと状況を見据え、太政官札が発行されればそれの行く末を見極め、しっかりと儲けていってそして三井三菱住友に互角の財閥へと育て上げていくプロセスは、維新の英雄との出合いはないけれどもそれがむしろ才覚だけでのし上がっていった凄さを感じさせる。目端を利かせて先を読み、正直な商いを心がけていけばいつかは必ず財産を築けるというメッセージ。受け止めればこの大不況下でも何かやってやろうって気になってきそう。

 そうやって儲けた金を遊興に使わなかったことが後に暗殺を招くんだけれど、でも世に金満ぶりを見せることなく陰で安田講堂を寄付し、市政会館を造り、いろいろな社会資本への投資も行っていた訳で、そうしたひっそりぶりもまた安田財閥の目立たずそれでいてしっかりっていった雰囲気を感じさせる。まあそんな気質が、どこかあくせくしていない感じを後の芙蓉グループ全体にもたらして、山一証券を名門から4位へと転落させてさらに廃業へと追い込ませ、富士銀行を三菱が主導権を握る三菱UFJとか、対等さが見える三井住友といった他の財閥系フィナンシャルグループとは違って、興銀に第一勧銀といった立派すぎる銀行群の中で、決して突出していない場所に置いてしまっているのかも。安田火災海上保険だって剛腕経営者で目立ったけれども、業界的には2位だったしなあ。それでも何となく気になるグループって気にさせてくれる本。したたかに静かに残り存在感を保っていくんだろうなあ、芙蓉グループは。

 立っているだけで汗がしたたり落ちる中を原宿のキディランドで復活しただっこちゃんことVINNYSとやらの発表会を見物してモデル体型の美女のモデル体型っぷりを堪能してから近所を散策。ふとウィンドウ越しに見えたどう見てもアスカにしか見えない美少女キャラのTシャツに誘われるようにRevelationって店に入ってそれがやっぱりアスカだと分かってさらにほかにもいろいろとエヴァ関係のTシャツがあったなかでやっぱりこれだとアスカがMEGな格好をしているTシャツを買ってしまう。

 同じエヴァ物でも初号機とかじゃなくアスカを見せているところが商売的に卑怯というか正統的というか。これでいったいどれだけを巻き込んだ! んでも人気らしく残りも少ない中を買えたのはラッキー。他にもドラゴンボールとかエウレカセブンとか東のエデンとかのコラボもやってて、雲丹黒の大量生産品とは違った面もちを見せてくれているんでこれからもちょくちょく寄って何か買おう。ブログとか読むとグッドスマイルカンパニーも訪ねているんでブラック★ロックシューターとかやってくれるかな。「BLACK LAGOON」とかやってくれたら最高だなあ。


【8月2日】 そして時は流れてルフィと海侠のジンベエと冥王レイリーは行動を起こして居場所を告げ目的を知らせて結集に備え、一方で海軍からはセンゴクが去りガープも降りて元帥に青キジがなりそうな雰囲気。一方の億越えルーキーたちは1人が黒ひげにやられたってことらしくそれが誰かっていうと出ていないのはキャプテンドレイクかそれとも腕長楽器やろうか。ジュエリー・ボニーは気分的に除外。そして始まる新たな秩序の下での物語はどこえいく、って展開もわくわくさせられたけれども「BLEACH」にも驚いた。まさかここで。そしてどうして。でもやっぱりそうは巧くはいかないんだろうなあ、相手はあの藍染なんだから。山場は続きそしてさらにそびえる未踏峰。ジャンプ漫画健在なり。

 1枚の写真、1分の映像が状況を変え、人心を動かし、歴史を塗り替えることがあるってのは存分に理解している。そんな写真や映像を求めてジャーナリストが危険な場所へと入り込み、時には命を賭してもそうした写真なり、映像を持ち帰ろうと奮闘することがあるってことも分かっている。もちろん、そこから生きて写真なり映像を持ち帰るのが大前提で、持ち帰ってこそ状況は変わり人心も動き歴史だって塗り変わるんだけれど、すべてがそう巧くいくとは限らず時には命を失ってしまうこともある。けれどもそこでひるんでは世界は変わらないし歴史も動かない。最大限の危険を避ける努力を積み上げ、その上でジャーナリストは危険な場所へと向かっていく。

 翻って墜落したヘリコプターを撮影することで何か世界は動くだろうか。歴史は変わるだろうか。人心は揺れて何かさざ波を越すだろうか。なあんにも変わらない。すでにしてそれは起こってしまったことであり、周知の事実である上に、別の誰かが先んじて撮影に成功していたりする。命の危険がなくてもおそらくは不必要なことに、どうしてしゃかりきになってしまったのか、ってあたりに1つのテレビ局に限らない、日本のメディアが抱え込んでいるブラックでダークでグレーでブルーな部分ってやつが浮かんで見える。世界のため人々のため歴史のためってよりも、自分のため会社のため上司のために頑張って喜ばせてうれしがってみせる超内向きの価値観なり志向が渦巻き、けれどもそれこそが世界のすべてなんだと思い込んで立ち回るメディアだからこそ、不必要なことに血道を上げて無駄に命を散らしてしまう。

 他の社のことだと言ってる他のメディアがでは、どれだけ外を向いて仕事をしているのか。事実を探り言葉にして発しているのか。そこのところを考えていかないと、同じような事はまた起こってそして同じような無駄としか言いようがない落命が起こる。そうでなくても失われていく信頼がそうした内向きの組織を足下から溶かし崩して消し去ろうとしている。見返すとき。遅いかもしれないけれども足下を見返して周りを見渡して何をすべきかを考えその上で実行に向かうとき。なんだけれども相変わらず内向きの渦ばかりが鳴門のように集まり影響し合って、独自の退化を遂げるていくだけの状況が、これからも続いてそしていつか途切れてしまうんだろうなあ。虚しいなあ。

 小倉純二会長が知らないってことはきっとサッカー日本代表の監督候補のうちの1人は、は宇宙から到来したドルオンダ星サッカーチームを率いる監督で、足が11本あって手も13本くらいある身の丈28メートルの大怪獣で、蹴ればボールは音速で飛んでゴールネットどころか背後のスタンドを消滅させてしまうくらいのパワーを持っているんだけれど、見かけによらずお人好しで大好物のバナナをあげると11本の手のうち10本を使かって上手に向いて3つある口がら順に食べては、至福の顔を浮かべて選手たちからバナナ監督と慕われている、ルルグゥギョンダ・ドラ・リーギャフ・ジンダラーッタに違いない。彼なら……彼女だっっけ、ともあれジンダラーッタならその実績を発揮して、日本代表を木星1のチームへと変ぼうさせてくれるだろう。ちなみに木星にあるサッカーチームは今のところゼロなんだけれど。何だそりゃ。

 あり得なさそうとはいえ、あの小倉さんが知らないってんだからそんな可能性だって無いわけじゃないから、正式発表までは要観察。他の二人は誰だろう、ペケルマンでもビエルサでもなく普通のオリベイラかフィンケってあたりだろうあな、あるいはストイコビッチとか。日本にいて日本の事情をあるていどくんでくれそうで、それなりに人望もあって集客にもつながりそうで何より実績を上げているってことが重要。ってフィンケって最近あんまり勝ってないけど選手の質にバラつきもあるクラブチームよりはそれなりにまとまって思いを体言してくれる選手がそろう代表の方が、力も発揮しやすいんじゃなかろーか。知らないけど。どっちにしたって魅力があるかっていうと……。ならば選手にサプライズを期待したいんだけれどそれもなあ、いないもんなあ、せいぜいが宇佐見ってくらいで。岩渕真奈ちゃん入れちゃったりしないかなあ。しないってば。

 前に見たことがあったかどうかすら記憶に定かじゃないけれども、とりあえずご本人を見た奥泉光さんは饒舌でシューマンが好きでフルートが巧くてまるでサックスのようなポジションでフルートを吹く人だった。シューマンにちなんだ小説が出たってことで池袋のジュンク堂で拓かれたトークショーにはそんな奥泉さんととっても本を読む、それも新刊ばかり読んでいてすごいねえと坪内祐三さん福田和也さんからお墨付きが出た大森望さんに豊崎由美さんが並んで対談という豪華なビジュアル。それをほぼ真横から見物して豊崎社長の金髪なのか白髪なのかわからないくらいの頭の輝きに目を奪われ、お話の方は何がしゃべられたのかあんまり記憶には残らなかったけれどもとりあえずジャンルオーバーってことですらなく書きたいものを奥泉さんは書いていくってことを話してた。それがシューマンであり漱石だったということか。明日から海だそうだけれどもお気をつけて。


【8月1日】 ソードカトラスが来たんでやっぱり気分はレヴィといくには靴まで揃えたいと探して買ってしまったのがジャングルブーツの実物って奴で、なるほど手触りは固く底のゴムはいかにもゴムって感じの臭い。インストラクションタグとかもついたまんまでいかにも本物っぽい、ってか本物なん訳で、だから値段はロスコとかの倍から3倍で、それならそれだけの価値があるかというとたぶん靴としては履き易さより頑丈さが優先されているんで、ロスコとかレプリカの民生品の方はきっと履き易いんじゃないのかなあ。まあでもこういうのって気分だから仕方がないってことで、冬になったら昔買ったM−65とかと羽織って脱いだらダブルホルスターにソードカトラスって格好では、やっぱり確実にとがめられるか警察とかに。コスプレ忘年会用だな。

 すでにして書店では第1巻が全滅状態になっているっぽい青柳碧人さんの「浜村渚の計算ノート」(講談社バース)をアマゾンから取り寄せ、こちらは発売されたばかりで書店で見かける第2巻も合わせて読んだら面白いのなんのって。実力のほどは「千葉県立海中高校」(講談社バース)でも見せてくれてはいたけれど、SF設定のジュブナイルって感じの「千葉県立海中高校」とはまるで違って、女子中学生が数学の才能を使って数学を悪用して犯罪を行うテロリストの野望をくじくといった内容。その事件のひとつひとつに数学のさまざまな定理やら何やらが応用されていて、勉強になる上にそうした事件の背景となっている社会的な問題なんかをいろいろと考えさせられる。

 そもそもどうして数学を利用したテロが行われるようになったかといえば、政府が教育に情操とか文化とかを優先するようになってしまった結果、歴史や文学や芸術なんかが尊ばれ、その代わりに数学のような“役に立たない”と思われている学科が削られ教えられもせず学ばれもしないようになってしまったから。それに異を唱えたのがとある数学者で、かつて数学ソフトを開発提供していた時から、ソフトにいろいろ洗脳プログラムを仕込んでおいて、そいつを発動させれば人間が知らず操られやりようによっては知らずに犯罪を犯させてしまうようにしてしまった。政府がいよいよ数学の排除を決めた時に、数学者はテロリストとなってその洗脳装置を発動させ、人が殺されるような事件を犯し始めたけれどもそれが実は数学に関連した事件になっていたから警視庁は考えた。

 数学が得意でなおかつ洗脳プログラムが使用されていなかった時期に学生をしていたか今もしている人の助けを借りたい。そこで浮かんだのが千葉市立の中学校に通う浜村渚という女の子。眠たそうな目をしていても数学は大好きで、その才能を借りて警視庁は長野県で起こった連続殺人事件の謎を解き、ゼロにまつわる問題に絡んだ事件の謎を解いて敵組織「黒い三角定規」の野望をくじく。何十年も虎視眈々と反抗の時をねらって数学者がプログラムに細工をし続けた、ってのはまあ何というか無茶な感じもしないでもないけれど、今だって未来を想像すればあれやこれやなって問題も起こりそうなのに、それが是正されないって状況がない訳でもない。数学者の予感もそんな感じに漂っていて、そして警告も虚しく現実化するだろう時を予想して仕込んで置いたってことなのかも。定理とかだって予測してから何十年もかけて解明することがある訳だし。

 そして第2巻目ではルービックキューブへの挑戦があり、アリスにまつわる暗号の解明がありと謎の範囲も広がって、それぞれに見事な解決策がなされて感心できる上に勉強まで出来る。クイズ研出身らしい情報量だけれどそれ以上にキャラクターが魅力的に描かれているのが良いところ。幼いけれどもしっかりもので数学大好き歴史嫌いとちょっぴりわがままだけれどひねくれてはいない浜村渚を、たとえばSKE48の松井珠理奈さんとか演じてドラマ化されたら、原作も人気になる上に数学への興味ももってもらえて文部科学省的には万々歳。なので政府はもしも数学を尊ぶ気があるならば、NHKに働きかけてすぐにでもドラマ化の確約を取るべなんじゃなかろーか。それとも小説が皮肉るように数学なんて無駄無駄無駄と思っているのかな。ともあれ愉快なミステリーであり半分ディストピアめいた未来社会を描いたSFでもある作品。ミスマガSFマガのどちらかで取り上げたいけどミスマガ、今月は担当じゃないんだよなあ。SFに回すか。でも来月のミスマガ向けがあるとは限らないし。うーん。迷い。

 暑いんで家にいたら蒸し蒸しするんで家を出て神保町を炎天下の中に「ONE PIECEカーニバル」を散策。なんだ結局暑いじゃん。連日の訪問だけれど最終日だけあって来場者も多くてすずらん通りもさくら通りもそれなりな人手。スタンプラリーのシートを手にして回る若い人やら家族連れやらは普段の神保町ではあまり見ない層だけに、街を盛り上げたいって主催者側の意図は存分に果たされたって云えそう。あとはそうしたファン層が神保町の古本なりグルメといったものの深さ広さに触れて、これからも通うようになれば万々歳なんだけれど。

 あちらこちらの店で売ってたグッズ類も、これからずっと売られる訳じゃないんだろうし。ビーチシートがバッグになるグッズとか結構欲しかったけど値段もあれなんで見逃したけれども、これからも売るのかな。まあもとよりこちらは神保町好きなんで「ONE PIECE」がなくても通うけど、そうじゃない人たちにどんなサービスや魅力を提供し続けていけるかで、こうした漫画やアニメが起爆剤になった町おこしの行方も決まって来る。見習おう鷲宮を。そして続けよう町おこしを。来年はだからコスプレパレードを。リアルなニコ・ロビンをいっぱい見たいし。リアルなブルックは勘弁な。

 「ヤングキングアワーズ」はツマヌダでジローが苦戦中だけれども、普段からドラエさん相手に戦っていれば自然と身に付く危機管理、ってことできっと勝ってくれるだろう。ツマヌダならぬ津田沼で作者の人のサイン会があるんみたいで、行きたいけれども人数も限られているんで果たして行けるかな、行ったらやっぱり誰かと戦わなくっちゃいけないのかな。備えてしっかり鍛えておこう。「エクセルサーガ」は閉じこめられた中で優雅な暮らし。敵はいったい誰なんだ。「惑星のさみだれ」はラス前。やっぱり失われてしまったのかな。それとも帰ってくるのかなあ。「それでも街は回っている」。シリアスにミステリアス。たっつんもっと活躍させて。

 そして「ドリフターズ」は織田信長がエルフの里で墨俣築城。織田信長といえば「戦国BASARA弐」では死してお市を縛り付けていたけれど、こっちでは元気に異世界で堂々の天下布武。っていうか「BASARA」で市って死んだんじゃなかったのか。能登麻美子さんの能登麻美子さんならではの怨念ボイスが聞けて嬉しい上に、お市の戦場にはあり得ないミニっぷりが見られて幸福なんだけれども、それで良いのか良いのだ能登かわいいよ能登なのだから。というわけで見ていく楽しみが増えた。生きていく勇気もわいてきた。能登に支えられる人生。呪われそうだな。


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