縮刷版2010年月中旬号


【7月20日】 続くのかよ。って続いて良いけど割に良いテンポで来ていただけに、ここで続かれると先の見えなさから募った欲求不満が週央あたりで爆発しそうな「世紀末オカルト学院」は、画伯演じるお団子姉さんに未来から来た文明ちゃんが妙なことを言って慕われつつも逃げだし、逃げ込んだ料理屋でカレーライスを頼んだらそこの看板娘と懇ろになって、誘われ松代見物に行こうとしたら彼女が乗って現れたのが何故かポルシェ。それもスポーツタイムのカレラだか911だか系。ヒール&トゥも鮮やかにこなして突っ走るポルシェの横で文明は、振り回されるもいろいろと回ったその先で、松代に関する闇のようなものと直面し、そこで起こった事件に巻き込まれる。さてどうなる。っていうかポルシェの彼女は誰なんだ。撮れば良いのにあの携帯で。未来が写るという。でもちょっと怖いかも。

 1984年ったら青春もど真ん中だった時期で、聴いていた音楽見ていたテレビに読んでいた漫画や小説なんかも、日々の暮らしと割に密接に関わり合って血肉のレベルにまで体にとけ込んでいたりして、25年以上が経った今も割に鮮明に覚えている。むしろ最近読んだ本とか漫画の方がよっぽど印象に残っていないというか、記憶からすらっと抜けてしまっているのは長期記憶化する回路が衰える一方で、短期記憶の回路もキャパシティが減って3歩歩いたら忘れてしまうようになってしまっている模様。あるいは金がない時期だっただけに、どんな漫画も本も何度も読み返して脳に刻みつけたのに対して、今は次から次へと入ってくる情報が前の情報を押し流して、記憶にすらさせない状況になっているからなんだろう。飽食は敵だ、体にも知識にも。

 そんな1984年の風俗がわんさか出てくる小説が加藤実秋さんって人の「風が吹けば」(文藝春秋社刊)。2009年に生きてる普通の若い高校生の兄ちゃんが、女性カメラマンのアシスタントとして出向いた先で穴から落ちて気がつくとそこは1984年。ヤンキーたちがバリバリ言わせて田舎の町を駆け回り、夜ごとに集まってはゲームなんかせずネットも携帯なんかも使わず、アイドルやら車やら音楽やら漫画やらについてしゃべりあったりしている時代に放り込まれて、そうしたべたべたなコミュニケーションに慣れていない少年は、最初はとまどいながらも直情的でわかりやすく裏がなくってまっすぐな若い奴らの気持ちに打たれうち解け、仲間になっていこうとする、その矢先。

 街に大型商業施設が進出しようとしている問題から発生した事件が、2009年から来た主人公も、彼を世話して面倒を見ていた少年も巻き込んだ大事となって少年たちをとまどわせる。もうどうでもいい。そう諦めかけた1984年の奴らに対して啖呵を切って1人血気盛んなところを見せたのが2009年から来た主人公。ちゃらいはずだったのが、妙な田舎のルールなんて知ったことかと逆に1984年の不良たちを言い負かし、一人悪い奴らのところへと乗り込んでいく。そんな少年が過去に残したいろいろが、今に跳ね返って現れて見えるタイムスリップ物の面白さを存分に味わえる物語。と同時に、今の若い奴らにどこか足りないコミュニケーションの形とか、昔も今も変わらないまっすぐに生きていくことの大切さなんかが見えて来て、現実に今の時代を生きている若者には頑張りを、中高年には奮起を促す。誰も終わってなんかいない。まだまだこれから始められるんだ、っていうか。

 出てくる1984年的なガジェットは、どれもこれも見覚え聞き覚えがあって懐かしくってちょっぴり赤面。チェッカーズとかうる星やつらとか菊池桃子とか伊藤つかさとか。84年に伊藤つかさって3年ずれてる気がしないでもないけれど、そういう風に言えるのも1年1年あるいは1月1月が体験とともに記憶に鮮明に刻み込まれているからなんだろう。若いってそれだけですごい吸収力を持っているんだな。表紙絵と挿し絵を描いているのは牧野和子さんって人、ってこの名前を聞けば1980年代に生きていた、とりわけヤンキーとアイドリアンは奮い立たずにはいられないし、買わずにだっていられない。「ハイティーンブギ」の人。一世を風靡したけどその後はあんまり聞かなくなっていたけど、ちゃんと変わらず活動をしていたみたい。紡たくの「ホットロード」も時代を築いてその後……だったけどそっちも復刻されているから「ハイティーンブギ」もまた是非に。主題歌とともに。山下達郎が外向けに書いた最高の曲だから。

 FIFAワールドカップ2010南アフリカ大会で決勝トーナメントまで残ってパラグアイに破れた日本代表が得られる賞金額が9億円とか聞き、それから次の次のその次くらいのワールドカップ招致に向けてやって来たFIFAの人たち向けにおそらくとてつもないお金が使われているだろうと想像できてしまう一方で、同じ南アフリカで8月21日から開かれる「もうひとつのワールドカップ」こと知的障がい者サッカー大会への日本代表派遣がなかなかに厳しい状況に置かれていると聞いていったいどうなっているんだといった思いが浮かぶ。とりあえず出来ることとして応援Tシャツとか買ってみるけれども、そうやって積み上げていったお金のおそらく何倍何十倍何百倍ものお金が右から左に動いている様を見て、やっぱり釈然としない思いが浮かぶ。

 その思いは実は4年前にドイツで開かれた「もうひとつのワールドカップ」に出場した日本代表が、やっぱりとてつもない苦労を味わっていたんだという経過が記録された映画「プライドinブルー」を見た時にもやっぱり抱いた思いで、空前のブームに沸いた2002年のワールドカップ日韓大会の後、空前の潤いを見せた日本サッカー協会を仰ぐあっカー界で、どうしてこういう事態が起こるのかと憤りつつ悩んだものだったけれども、映画「プライドinブルー」に描かれていたことが本により詳しくしたためられた「夢 プライドinブルー」なんかを読み、当時にいろいろと出たインタビューなんかを漁って、いかな日本サッカー協会といえども翼下にない団体を支援はできず、そして知的障がい者のサッカーの団体がJFAの翼下に入るためには、全国的な組織ではないという規模の問題がネックとなって、誰もが願うようには進まないんだと分かって、もやもやとした思いに駆られた。

 きっとやりようもあるんだろうけれど、それにはいろいろと曲げたりたたいたりすることも必要で、手間もかかれば面倒も多そう。一方で喫緊の課題として資金が必要という時に、先頭に立って動いたのが日本のサッカー界でも重鎮中の重鎮だった長沼健さんで、自分で企業を回って寄付を呼びかけたり、映画の完成公開時には壇上に立ってオークションへの参加を呼びかけたりして知的障がい者サッカーなり、ハンディキャップサッカーへの理解を求めようとしていた。そんな姿を見るに付け、世間がかつて日本代表監督の選考時に当時の長沼健会長がとった振る舞いを元にして、いろいろと言ってきたことにはたぶん裏があって(実際に会ったらしいけれどもみんなそれを語ろうとしない)、本当の長沼さんは心底から公正でそして博愛の精神の持ち主なんじゃないかって思うようになった。

 けれどもそんな長沼さんを失って迎えた今回の「もうひとつのワールドカップ」で、長沼さんのようなリーダーシップを示し、世間に対して強く呼びかけ、そして実際に実入りを得るだけのことをやってくれる人が見あたらない。立場的には同じくらいの偉さを持った人がいるんだけれど、そういう人が何かしてくれるなんてとてもじゃないけど思えない。うん思えない。だからこそ今の今まで問題がなかなか表だって来ず、間際になって大変なことが見えて来てしまったんだろうけれども、そこでJFAがどうして動かないんだと言っても仕方がないし、立場的に動けないんだろうことにも理解が及ぶ。個人として誰かが動こうとしないことにも文句を言っている余裕はない。出来ることはだからTシャツを買うなり寄付をするなりした上で、さらに広く呼びかけ動きを起こすこと。4年前と決定的に違って来た情報伝達の環境が、きっと言い方向へと転がってくれると思いたいけど……。ともあれ頑張ろう、「プライドinブルー」の上映時に行われたチャリティオークションで握手してくれた長沼さんの手のぬくもりを思い出しながら。


【7月19日】 フォワードが1人だけでサッカーをやって、勝てるチームなど存在しないことなど誰だって当たり前に知っているかと思ったけれども、このスポーツジャーナリズム後進国では得点を取ればフォワードの力がすばらしく、得点を奪えなければフォワードとして劣っているとみなされる訳で、そうした妙な“教育”が行き届いてしまった世間もまた、得点を取るフォワードだけが正しくて、得点を取れないフォワードはただひたすらに間違っていると断じて廃しようとする。とんでもない。

 フォワードは点を取るのが仕事だとしたら、フォワードに点を取らせるのが周りの選手たちの仕事な訳で、そうやって成り立っているチームの1部だけを抜き出し是非を論じる愚かさを、もっと早く知るべきだと思うんだけれど、スターシステムとやらがそうしたトータルでチームを見る思考って奴を奪ってスポイルして足蹴にしてしまっているから、やっぱりいつまで経ってもこの国のサッカーは、進化しないし強くもならないんだろう。唯一、進歩に近づいた時があったとしたらそれは、スターシステムを心底から唾棄し、チームこそが重要と考えそう徹底して教え込み、且つ戦術としても全体で得点を奪う仕掛けがオシム監督によってとあるチームに施された時だろう。そのチームの名はジェフユナイテッド市原・千葉。そんなチームでふぃにっしゃーとしてバンバンと得点を奪っていたのが巻誠一郎選手だった。

 なるほど背が高くて屈強で前向き。その特質を存分に生かして巻選手は、フォワードとして最前線からチェックに行きボールを追いかけもらえばつぶれて周囲を生かす仕事をこなしてた。周囲もそんな巻選手を生かそうとしちていた。サイドからはしっかりとピンポイントでクロスが入った。中盤からもしっかりとボールが送り込まれ、それをつぶれながら落とせば誰かが走り込んで広いゴールを決めていた。決して最前線で孤立させず全体の中の1つのピースとして活用していた。だから得点を奪えた。チームは勝っていけた。それが今はどうだろう。サイドからのクロスは頭を飛び越していくか、届かずディフェンスに跳ね返されるばかり。中盤からのボールは向かわず細かいパスだけで前に行こうとしては奪われ、ボールをもらえない巻選手はただただ孤立していくばかり。それでは得点は奪えない。奪えないから試合に出られなくなって、そして……。

 途中出場でも見せていた鋭いヘッドなんかを思えば、使い方さえ間違えなければ今だってしっかり仕事を果たせるだけの力を持った選手を、まるで生かそうとしない仕組みにこそ問題がある訳で、それを1人の選手の力量に還元してあれやこれや言うのは、チームも違うしメディアも違う。断じて違う。とはいえやっぱり得点できないフォワードはチームにいる資格がないと見なされてしまうこの状況で、巻選手がロシアリーグに行くことに何の異論も差し挟む気はない。むしろ歓迎。願うならそんな巻選手の特質をちゃんと知って使おうとするチームに行ってくれること。それさえ守られればきっと前にも負けないゴールゲッターぶりを見せて返り咲いてくれるだろうから、代表に。待ってる。

 パルクール、ったら佐藤嗣麻子さんが映画「K−20 怪人二十面相・伝」ん中で積極的に取り入れていてCGIなんか使って人とか後から合成するんじゃなくってやっぱり、肉体から発散される迫力なり生々しさって奴を出すにはやっぱり、人間がまんま演じてみせるのが1番だからやらせてみたってことを前に会った時に話してくれたっけ。ちなみにパルクールとは人間が生身であらゆる街の障害物とかを乗り越え駆け上がりよじ登り飛び降りつつ突っ走っていくって一種のスポーツで、もちろん人間だから10メートルもある垂直の壁なんかを駆け上がれる訳はないけれど、背丈より高い壁とかだったら周辺にある足場なんかを使いひょいっと上って越えていく、その躊躇のなさが見ていて人間業じゃないって思わせる動きとなって目に映る。

 必要なのは単に体力筋力だけでなく、それが越えられるかどうかを考え、どうやったら越えられるかを瞬間的に見いだす判断力。ある肉体を使って巨大なパズルを解いていくような楽しみがあるって言うけど、実際にやってみた訳じゃないから分からない。どこかのオープンなスタジアムかどっかに足場を組んで目の前で実演でもしてくれたら、あるいはすごみもわかるかもしれないけれども、そうやって仕込まれた場をいくら走っても、そこにあるのは計算され尽くした上での1分の隙のない行動であって、瞬間の判断とはほど遠いものになってしまう。

 やはり街に置けパルクール。それはうえお久光さんが描く「ヴィークルエンド」(電撃文庫)って小説に出てくるヴィークルレースでも同様な様で、だからじわじわと流行し初めてはいても、綺麗な場所で行われる競技とはならず、街中を誰の許可も得ずに使って行われる、アンダーグラウンドでイリーガルな遊びとして若者たちに興じられているそれは一種のパルクールなんだけれど、当人たちは肉体をそのまま使って飛び跳ね上り走って降りているような感覚を持っていない。

 ある時期から若い層に感覚がおかしくなる症状が発生。感情に狂いが生じてそれも人それぞれに異なって現れるということで、国はそうした若者層の感情を補正するためのサプリを与えて、どうにかまっとうな社会人生活を送らせようとしたけれども、中にそんなサプリの効果を別の方面に使い、自分が乗り物になったような感覚にさせるサプリを作り出しては自分たちで飲み、その乗り物で街中を疾走する遊びが流行り始めていた。それがヴィークルレース。主人公の羽鳥はそんなヴィークルレースのレーサーとして5人の仲間たちをチームを作り、街のトップチームに挑戦状をたたきつける。

 自分をレースマシンに見立ててしまうという着想と、それを成り立たせるサプリという存在、そのサプリが流通している感情の棄損という現象を存分に使いながら大人たちとは違う心を持った若者たちの考え方や日常を描いてみせる。うれしいとか楽しいといった感情すら棄損されてしまっている世の中で、主人公が何を目的に危ない橋を渡って命すら危険にさらして走るのか、といった軸となるテーマはご託を並べて生き方を規定したがる風潮に、もっと単純な思いに忠実に生きようぜと誘いかける。

 そして、主人公と知り合う超有名美少女歌手の少女の心情の揺れ動く様は、焦りに生き急ぐ若い人たちの気分にもっと素直になろうぜと語りかける。そんな彼女を本意させたクライマックスのシーン。もしも映画になったとして、それをCGではなく生身で誰かが演じたとしたら、きっととんでもない迫力の映像ができあがるんだろうなあ。無理だけど。主人公が憧れ追いつこうとして追いつけないカリスマ的なレーサーの存在とか、その他仲間たちの独特さも愉快だけれどそうした他のキャラに筆を回している余裕もないみたいなのが物足りないところ。次があれば是非にそうしたキャラたちによる逡巡と葛藤と悦楽と解放のドラマって奴を、読ませてやっていただきたい。

 銀座も松坂屋の裏あたりなんてまず歩かないからシューズブランドの42ndロイヤルハイランドのショップが出来ているのをようやく知った。2年くらい前からあるそうだけれど松屋方面のロイドフットウエアは10年以上前から知っていても42ndはまるで気づいていなかった。まあ気づいても最近はまっとうな革靴なんて履かないから買いはしないんだけれど、でもちょっと気になるんで今度のぞこう。その並びに沖縄料理の店があるのもやっと知ってソーキそば定食を食べたらなかなかに美味だった。ご飯についてたみそが最高。珍しくポーク玉子定食もあったんでここん家が新宿のやんばるとどう違うのか、今度また行って試してみよう。やんばるは行く度にポーク玉子しか食わないんだよなあ。あとはラフテー丼定食か。


【7月18日】 ところで「黒執事2」は続きなのか別腹なのか多層的多次元的なのかどうでもインナースペースなのか、誰か教えてくれると便利だけれどきっといずれ明らかになるだろうから見ていればいいか。マダムレッドなんて死んだしな。ってか中華な2人だって確か滅びてたんじゃなかったっけ。それを言うならシエル・ファントムハイヴだって。まあいろいろあるんだろうということで録画分を見て、それから石川遼選手が予選を残って決勝ラウンドに進んでエポック社とバンダイ的にうれしいジ・オープンこと全英オープンをテレビで見て、セント・アンドリュースのリンクスぶりに嘆息。あんなところでゴルフしてりゃあうまくなるっていうか、鏡みたいなグリーンとグリーンみたいなフェアウェーしかない日本でゴルフなんかやっちゃ一生涯全英なんかで勝てんよな。

 んでもそんなコースで2日目までちゃんと良いゴルフを見せていられた石川遼選手もそれはそれでなかなかのもの。聞くとバンダイが当人を計測して作った石川遼選手のスタチューは全体に線が細くって、その筋肉の付き方では最初はセンスで突き抜けられても3日目4日目の決勝ラウンドでは疲れが現れスコアを崩すんだとバンダイの偉い人が言っていた。増しては神経の使いようでも世界屈指のセント・アンドリュースでは3日目に付かれが一気に現れるのも仕方がないか。それでも40位くらいにとどまっていられるんだからやっぱりすごい。トム・ワトソンだって予選落ちしたコースに残っているんだからやっぱりすごいとここは称えて石川選手のスタチューを買っておくか。10年くらい立てばいずれ全英も全米もマスターズも制覇して世界のリョウ・イシカワとして君臨。その暁にスタチューも世界的なマストアイテムになっている、って寸法。あるかなあ。

 ドロドロになって眠って起きて朝になったんで最終日の「東京おもちゃショー」へと駆けつける。目的はもちろんAKB48の研究生3人が作ったユニット「ミニスカート」の登場……ではなかったんだけれど結果として見ることになったのはご愛敬。とりあえずインテリアにもなりそうな玩具を探してあっちのブースこっちのブースをそぞろ歩き。木製玩具で輸入物に良いのがたくさんあって放していたらどこもかしこも伊勢丹三越が仕入れに歩いていたと聴く。めざといなあ伊勢丹。良いものを見過たずにしっかりと仕入れつつそれをちゃんと良いものだとプレゼンテーションしてそして、良いものをほしがる人たちに届け、良いものを持つ暮らしの心地よさを醸成させることに成功している。ただ仕入れて売るだけだったらどこにだってできる話。それをちゃんとライフスタイルの中に価値付けしていける提案力企画力販売力ブランド力を兼ね備えることが重要なんだろうなあ。伊勢丹の勝利は続きそう。

 遠目にプリキュアなんとかが踊り戦っている姿を見つつ場内をうろうろ。エポック社の石川遼ゴルフのコーナーにはさすがの行列。映画系フィギュアの店のマイケル・ジャクソンのフィギュアの出来はなかなかに最高。ラブプラスのパズルはどれも良さげ、ってところで手持ちの「ラブプラス+」で稟子と旅行中だったことを思い出して開けてプレー。お泊まりしたんだよなあ僕たち、んでもってきっといろいろヤったんだよなあ、ヤったはずだよなあ、ヤってないのかなあ、枕投げ。なんでやねん。そしてだらだらとやっていって夜になって結局水着は見られず。せっかく一緒に買いに行ったのにどうしてだ。ずっとプレーしていなかったからなのか。反省して次の寧々さん愛花ちゃんとのデートに備えよう。あそこではイベント発生を待つべきだ、とか何とか。

 時間がやって来たんでタカラトミーのブースに行って新製品らしい女児向けアーケードゲーム機「プリティーリズム・ミニスカート」とやらの発表会にやってくるAKB研究生によるユニット、その名もミニスカートの登場を待ちながら、隣のカメラマンの人と放していて大概のAKBファンはよみうりランドへの大登場に行っているはずだと教えてもらってそれならばと周りを見渡すとそれなりの数の若者衆。今はまるで無名だけれどもいずれ星となって輝くだろう未来のアイドルの先物買いこそが、アンダーグラウンド・アイドリアンの魂だって考えるならこっちが正しい態度なのかもしれないけれども、もはやそうした地下アイドル的メソッドの域を超えて普通のムーブメントになってしまっているからなあAKB48。

 それほどのメジャーを追いかけて果たして楽しいのか? ってマイナー狙い隙間狙いアングラ好きな身としては思う訳だけれども、有名だからこそ追いかけたくなるのはそれで正統派アイドリアンのスピリッツだから仕方がない。そう思うと今のAKB48のファンっていったい、どういう階層というか分布になっているのか興味がある。初期からと最近と大人と中高生と女子と男子と云々。求めるものが違うだろうなかをどう答えていくのか、それともいけないのか。そんなあたりから眺めていくと今は隆盛のAKB48の将来像って奴も見えてくるのか来ないのか。予想に反して売れてしまったってだけですでに見えないんだよなあ、個人的には。まあ深く考えないで眺めていこう。とりあえずミニスカートは名前も知らないけれども向かって左端に立っていた娘の声が妙で良かった。顔立ちより声質に興味が向かいがちな声フェチな僕。升望さんにはだから大活躍してもらいたいものである。

 会場を出て一路東へと東京湾岸を向かうものの暑さが体を蝕み途中の海浜幕張駅で下車してイオンとかアウトレットモールを散策した後、さらに東へと向かうことを断念して家に帰って眠ってそれから起きてネットで確認したら負けていやがったジェフユナイテッド市原・千葉。きっとスタジアムで見ていたら血圧が3倍くらいになって暑さも加わって倒れていたに違いない。合宿中はそれなりに良さげに見えても試合になるととたんに勝てなくなる悪癖が今回も出たっていうか何というか。動かない選手が悪いのか動かせない監督が悪いのか、はっきりしないけれども別の監督だったらきっとしっかり規律を守らせ走らせ点を取らせて勝たせてくれるような気がしてならないのはシーズン前の去年に江尻篤彦監督が就任してからずっとだから、やっぱり監督にはさっさととっととすっぱりと離れていただきたいものであるなあ。次? 御大。さもなくばポポビッチ。いっぱいいるのに候補なんて。それこそ岡ちゃんだって……それはないないそれはない。


【7月17日】 引っかけたか引っかかったか崩れたかして、ハードディスクが動かなくなる現象が多発しフリーズしまくりなX41を諦め、買ってあったX61を引っ張り出して2時間くらいかけて起動。必要なソフトを入れサンダーバードのプロファイルとか一太郎にテキストエディアの過去ファイルとかを移してどうにかこうにか前の環境を再現、やっぱりセントリーノは早いなあ。あとキーボードの感触もその前に使っていたX60に戻った感じで心地良い。

 思えばこの後くらいから、旧Think Padの時代からの伝統をちゃんと組んでいたlenovoのノートPCって、どこかが崩れていったんだよなあ。質実剛健さが失われていったっていうか、今なんて見る影もないって言ってしまって良いのかな。キーボードなんてぺかぺかのふなふな。そんなんでどうやって長文打てって言うのさや。デッドストックを仕込んでおいて正解だったけれどもこれが壊れて次に使うパソコンがなさそうなのもまた事実。もう若松通商にだってデッドなんておいてないから程度の良さそうな中古を探して買っておくのが良いのかな、ってかX41をSSDに換装すれば早くて丈夫になるのかな。考慮。

 すっかり失念していた「BLACK LAGOON」の第3期OVA発売に初回限定版がなくなってしまう恐怖から朝早く起き出してヨドバシカメラのAkibaマルチメディア館(まるちめでぃあ・やかた)へと行ったらおもちゃ売り場に大行列ができていた。何だろう? 超合金? しかしそんなにいるんだフィギュアのファン。海洋堂がリボルテックとか出して質で押したって、マスプロダクツが資本をかけて投入したものにはかなわないってことなのか。それとも売れているのは同じくらい? ちょっと気になる。

 そんな行列を横目に、DVD売り場で当該のロベルタちゃん大爆発編を無事に購入。石丸とかアニメイトとか見てないけれどもそうした専門店に行くよりも、ほとんど確実にヨドバシの方がこうした初回限定版も手に入り易いってことに、秋葉原をオタクの都と神聖視する人たちは、もっと注意を払った方が良いんじゃないのかなあ、街場のショップのオタク力(おたく・ちから)が弱っているっていうことだから。今はまだ石丸電気とかアニメイトとかソフマップとかメッセサンオーとかが育んだオタクタウン的残滓があるけれど、そうした街場のショップが疲弊して人が寄りつかなくなると、ヨドバシからだってオタク的商品が消えて、やがて家電とパソコンだけが残ってそして綺麗でお洒落な街になっていって後に何も残らない。

 AKB48が盛り上がっているっていうけれど、これだって秋葉原がそうしたアイドルを好きそうな街だからってイメージを借り受けるようにそこに入り込んできて、いかにも盛り上がっているように見せかけ、テレビや雑誌に分かりやすさと秋元康さんってマス的なフックのわかりやすさから秋葉ブームの中心的存在のよう捕らえさせ、取り上げさせていった果てに他が疲弊していって、残ったAKB48が本当に中心になってしまったって感じ。そんなAKB48ブームがいつか沈滞して秋葉原から引き下がっていった時に、いったい何が残るんだろうかって考えると、なかなかに空恐ろしいものがある。次が見えないんだよなあ、次が。にそうならないためにもがんばれ街場のメイドカフェにガンダムカフェ。でもまだ行ったことないメイドカフェ。

 そのまま神保町に向かって歩いていこうとしたけれど、何年かぶりにはいてみたナイキのエアジョーダンの底がぱっくりとはがれ落ちる現象が発生。そういやちょっと前にも別のローカットでメッシュのエアジョーダンの底が、やっぱりぱっくりはがれてしまって、泣く泣く捨てた記憶があった。他のスニーカーではあんまり見られない現象だけに、しょせんは瞬間に性能が発揮されればそれで良いプロフェッショナル向けのスポーツギアであって、ゲームには耐えられても3年5年といった経年劣化はさけられないってことなのか。いやいやけれどもアディダスのサッカーシューズとか普通に今でもはけるしなあ。やっぱりナイキのバスケットシューズの問題か。単に持ち主の保守が悪いのか。

 どうでも歩けないのは問題だと、神保町は本の街であり楽器の街であると同時にスポーツの街でもあったことを利用して、午前中のうちに靴はおろさなくっちゃいけないって言いつけにも従う意味から、その辺に飛び込んでニューバランスの574って定番ランニングシューズの赤いやつを買って履き替える。そういや昨日に見かけた築地の論壇な記者の人もニューバランスを履いていたっけ。流行っているのか。そのまま古いのは捨ててもらって神保町で「ONE PIECE」のお祭りを見物。集英社を抱えながらも人気タイトルのイベントはお台場だったりUSJとかで行われていたのが、足下の商店街を見つめ直してがんばってもらおうと、お膝元の神保町で一大イベントを開くことになったもの。もう町中が「ONE PIECE」づくしになっていて、歩くとそこかしこでニコ・ロビンとかナミとかに出会えてうれしい限り。サンジ? ゾロ? 男はどうだって良い。

 すごいのは青空の下にパネルとか並べた展覧会が開かれているもので、ぱっと見では原画にしか思えないくらいのクオリティで再現された原稿とかカラーページなんかが並べられていて、このシーンあの扉絵そのビジュアルといったものをスズラン通りからさらに向こう側の通りを往復する間に楽しめる。とりわけ誰もが足を止めていたのがエースのあの場面。赤犬に後ろから……ってシーンを前に誰もが「この場面ダメ、もうダメ」っていった感じにフルフルしているのを見るとそれだけやっぱり衝撃だったんだなあと気づかされる。あの長い長編でどれだけも出てないんだけどね、エース。でもやっぱりいきがった生き方に共感する人も多いのかなあ。ともあれそうした作品そのものに触れられるって意味では「東京都現代美術館」で始まった「借りぐらしのアリエッティ×種田陽平展」より上かも。水水肉のチヂミとか焼き印入りのもも肉とか食えるし。パセラではチョッパー付きのハニトーだとかルフィの防止型オムライスとかも出してるし。

 そんな「ONE PIECE」まみれの中を我らがニコ・ロビンちゃんとナミさんのパネルに挨拶してから渋谷へと回って電書フリマをのぞこうとしたけど疲れ切って宮益坂が上れずどういかあがって入ったカフェは人が充満していて眺められなかったんで新聞だけ渡して退散して寝て起きて熱海デートもちょっとだけしてからワーナーマイカル市川妙典へと向かって「借りぐらしのアリエッティ」を見る。……。そうかなるほど半魚人でも人間そっくりになれた女の子だったら受け入れる用意はあっても、14歳の女の子でなおかつ人間の12分の1しかない小人ではともにくらしていはいけないといって叩き出そうとするのがエコロジストのヒューマニズムというやつか。

 もちろんそれが原作にあることではあるんだけれど、外に向かって弱者が自立していく展開っぽい原作とは違って妙に未練を残させつつ、そこに徹底しての悪を要素として投げ込んで見る人にああり心地よい感じを与えないまま荒波へと放り出してしまう展開を、与えたのは脚本をつとめたエコロジストのおじいさん。あのへんな生き物とだって共存しようと呼びかけ人の手がさんざん入った里山を猫の額のように残そうと奮い立ち、住民の暮らしを考えての道路工事を景観に良くないからと異論を唱え映画まで作ってしまう一方で、物語の中では弱者に居場所を与えようしない態度のどちらをいった信じたら良いんだろう。

 思いがあるなら原作を曲げて未来を期待できる物語にするところを、そうしなかった意思ってものの根底にはあるいは滅びるものは滅びるに任せるしかないんだって諦念が、生まれてしまったかあるいはそうした残酷さは他人の監督作品に押しつけて、自分は自分の作品でいい人ぶってみせたりする考えなのか。うーん。とりあえず僕は「ゲド戦記」の方が好き。作品そのものでは冒頭で草から降りて草むらをアリエッティがかけていくシーンがちょこまかとして好き。人間と小人とのサイズの違いをそれぞれの視点から見たそれぞれの動きを通して感じさせる演出も好き。つまりは麻呂監督にはそうした力はあるってことで、それなのに与えられた脚本がそれでずいぶんと背負わされてしまったかもしれないなあ。それこそアリエッティみたく出て外で勝負、かけてみた方がいいんじゃないのかなあ。


【7月16日】 そうかそうまとめたか。長谷川遥のボンデージ姿が中身に人間を入れ込めたおかげで原作の漫画とも、またアニメーションとも違ってとてつもなく生々しさを増して見る者を真夜中に奮い立たせて止まないドラマ「もやしもん」では、遥と父親との確執からくる監禁とそして救出のエピソードを一気に前段へと持ってきて、そこに及川の衝撃的なエイを抱えての登場と、そして遥救出劇で使われたシュールストレミングの開缶という世界が3度ひっくり返ってもまだ足りないくらいの臭気ショウを重ねてスペクタクルの中に見る者の興味を引きつける手段に出た。

 長谷川遥の救出劇は、あれで喧嘩しているようでほんのり仲間意識も見えてきた美里たちと遥との関係が、沢木惣右衛門直保を間に挟みつつぐっと近づくエピソードでもあるので、まだお互いが関心を向けあっていないこの段階で、描いてしまうことにはちょっと悩ましい部分もありそうだけれど、ドラマがそうした美里と遥の関係を重視して描かれるとは限らず、むしろイケメンだけれどどこは気弱な沢木をめぐって及川に遥に武藤葵にそして未だ姿を見せない結城蛍があれやこれやするという、わかりやすさへと走る可能性もないでもないので、そうした方面へと向かうため、未だ沢木の能力を認めず憤慨する遥をここで描いて強調しようとしたのかも。憶測だけど。

 ともあれ今は見所は長谷川遥のボンデージに集中しがちなドラマ「もやしもん」が、次に盛り上がるとしたらやっぱり武藤葵の登場か、それとも一気に結城蛍の変わり果てた姿での出現か。そんなに長くはないクールの間に毎度山場をもうけるのて大変そうだけれどもシリーズ監督の人にはがんばって最高で最上のフェティシズムを見せて下さいと伏してお願い。こちらは一週遅れて始まった小野不由美さん原作の「屍鬼」は……まだ見てません。絵が妙にかわいいなあ。それいんしても根気はこれに「学園黙示録 HIGH SCHOOL OF THE DEAD」があって「世紀末オカルト学院」があってとホラーにオカルトじみた作品が多いなあ。20102年対策か。

 ドラマでは本家大本の水木しげるさんも「ゲゲゲの女房」でブームだし、楳図かずおさんもずっと地道に人気ある。ならばここで一気に恐怖のカリスマ、つのだじろうさんの大復帰といきたいところだけれど、つのださんって本当に怖いからなあ、「うしろの百太郎」と「恐怖新聞」を双璧に見るとどれもマジ、寿命が縮みそうになるくらいに怖かった。短編もどれも怖くって、学校に昔はまだあったくみ取り式のトイレに足を向けづらくしたのもつのださんの何とかって漫画が大本だった。その恐怖は今にも通称しそうだけれど、だた新聞が題材になった「恐怖新聞」は時代が時代だからわかってもらえないかもなあ、取ってないし、来ても読まないし。ならば電子書籍の時代に「恐怖電子新聞」ってのはどうだ、ある日突然にiPadにインストールしていないアプリが現れ、それを読むと未来の出来事が読めるかれども寿命が1日縮むという。怖っ。怖いから速攻削除となってやっぱり誰にも読まれませんでした、ってことになるのかな、この活字離れの時代には。

 目覚めると融け出してしまいそうな暑さの中を、地下鉄で木場まで行って「東京都現代美術か」で17日から始まる「借りぐらしのアリエッティ×種田陽平展」の内覧会を見物。試写なんてたいそうなものにはおよびじゃないんで、未だ見られていないアニメだけれども内容の方は小さくなってしまったおばあさんがコケモモのジャムを食べて喜ぶ……ってそれはスプーンおばさんだ。違ってこちらは最初っから小さい人たちが、床下に暮らしていて人間に見られたらいけないって言いつけをまもって、いつもネズミの着ぐるみをかぶっていたらつかまって捨てられてしまいました…ってそういう話でもなさそうな物語。

 ともあれ小さい人の目線から描かれた日々の暮らしや人間の営みを、そのまま小さい人の立場になれるようなセットを組んで体験させるっていう展覧会は、入り口から排気口に取り付けられた鉄のゲージの隙間をくぐって入るようになっていて、そこには床下っぽい暗い廊下があって巨大な瓶が立っていて、小さくなってしまった感をいきなり味わえる。まずあるアリエッティの部屋は見た目なるほど普通の部屋だけれども、おかれている者が人間サイズの巨大なものを工夫して小さくしたり自分たちにも使えるような道具にしり使っていて、全部が人間サイズになっている人間の部屋とはどこか違った気分にさせてくる。よくよく見るのが吉。

 それは誰だろう、お父さんか誰かの作業部屋についても言そうで、机があって道具がおかれたまさしく作業のための部屋なんだけれど眼前に顔より大きな昔懐かしいナショナルの赤い乾電池がどんとおかれ、脇には腰までありそうな木工用ボンドがおかれ、ドリルがにょきにょきと生え釘がごろごろと転がっていて、なるほどそこは小人の世界なんだとわからせる。キッチンも巨大すぎる角砂糖やら木の実やらがごろごろ。ペンのキャップを巨大なタンポポとか刺す花瓶に使い腕時計を壁にかけて巨大な壁掛け時計にしているその工夫。まさしくリサイクルの精神ってやつを教えてくれる。エコじいさんが美術をやって脚本を書いただけのことはあるけれど、残念ながら人間の世界には人間の12倍大きな巨人たちはいないから、彼らの道具を人間がリサイクルするなんて無理なんだ。

 灰皿がリサイクルされたお風呂とかもあっていわれてなるほどのリサイクル。お父さんの作業部屋の反対側の通路に隠されているように飾ってある、アリエッティのかわいいステンドグラスとか見つけるのも楽しい床下の世界を抜けて次に来る外の世界も圧巻。巨大になった草木の下をくぐりぬける感じはまさしく小人となって雑草が茂る庭を歩く気分に等しい。もっとじめじめしてれば森との違いもでるんだろうけどそれはさすがに。けど質感はどれもとっても草っぽい。水滴までドーム型の透明な素材で付け加えられている。さわっても葉っぱから滑り落ちないけど。当たり前。こっそり虫とか放したらおこられるけどおもしろそうだけれど生きていけないか、しょせんは美術館なんだし。

 しかしよく作り込んであるすべてのセット。そのままどこかのテーマパークにおいても良いくらいの出来だけれども、「東京都現代美術館」のあの巨大な展示室だからこそ置けたってところもあるんでそのままどこかに移設、って訳にはいかないか、「三鷹の森ジブリ美術館」にだって無理だろうからきっとこの夏の一期一会になるんだろうなあ、もったいないけどそれがセットってもんだときっと、種田陽平さんならいうんだろう。そこがだから見た目もすばらしさとは別に「×種田陽平」って展覧会名の意味するところでもあるんだろう。種田さんからみでは「有頂天ホテル」とか「不夜城」といった映画の美術がデカいパネルで展示してあって、入り込んだ雰囲気の一端には触れられるけれどもパネルなんで立体感はない。かといって再び作らないところがあるいは種田流? 映画のセットは映画で使われ映画の中で輝いてこそのもの、とか?

 やっぱりあったグッズ売り場にはお父さん部屋とかアリエッティ部屋のミニチュア模型も売られていたけど高くてとても手がでない。あと巨大な歯ブラシとか鉛筆とか定規もあったけれどもこれも高くてとてもとても。唯一マッチが5000円で手を出せそうだったけれど、マッチだもんなあ、新聞紙で作れそうだもんなあ、それでも高いものの横におかれるとやすく見えてしまう錯覚。なるほどなあ。けど買わずアリエッティ人形とあと」アリエッティの髪にくっついている洗濯ばさみの髪留めを購入してつけて歩いていたけど誰にもなにもいわれないのは、それだけアリエッティが浸透しているからか、近寄っちゃ危ないと思われたからか、後者だなきっと。しばらく付けて歩いてみよう、映画が広まるにつれてきっと町にも増え出すだろうから。


【7月15日】 高校ゾンビの話も遊びに行く話も録画だけして見ないで眠って起きたら午前8時を回っていたので、支度して電車に飛び乗り「東京ビッグサイト」へと着いたら9時過ぎだった。こんな程度で到着できる場所に済んでいる身がこんな時ばかりは嬉しい。ちなみに「幕張メッセ」ならもうちょっと余裕。展示会通いまくる訳だ。でもって見物を始めた「東京おもちゃショー」では真っ先にウィズってところが作り始めているという、500分の1サイズの「東京スカイツリー」の貯金箱へと駆けつける。そして見る。でっけえなあ。

 だって500分の1だよ、500分の1。634メートルって何かをたとえたような数字になっている「東京スカイツリー」を500メートルで割ったって1を越える。ってことはつまり500分の1の貯金箱は、その高さで1メートルを超える大型サイズで部屋の隅っこに置いておいても目立つというか邪魔っけというか、人に見せたら驚くこと間違いなし。買って帰ったら家族だって吃驚仰天。こんなものどこに置くのとお父さんならお母さんから突っ込まれ、昔に北海道で買ったニポポと同様に倉庫送りにされてしまいそう。

 とはいえ既に伝統のニポポと違って未だ完成に至っていない「東京スカイツリー」を模型とはいえ一足先に買えるってのはアドバンテージ、オープンするそ日までは家に飾られ眺められ、夫婦げんかの時には振りまわされてそして完成するその時を日の当たる場所で待ち続けるのだ。完成したあとは知らないよ。ちなみに「東京スカイツリー」物の商品はそこだけで、唯一ブロックのカワダがスカイツリーを模したタワーを造ってたてていた程度。ウィズがサイズで攻めてきたからには他はやっぱり細密さで攻めることになるのかな。それともやっぱり変形合体か。東京タワーに名古屋のテレビ塔に札幌のタワーとあち京都タワーも混ぜて合体。どんな形になるのかな。上に積み上がるだけだったら大笑い。何メートルになるんだよ。

 そんなウィズで気になったのはiPhone上でTwitterのタイムラインを流すとそれを音声で読み上げてくるフィギュアの製品。デジタル系のガジェットとしてはどっかが作っていて不思議はなさそうなアイデアだけれどそれを玩具の会社がそんなに高くない値段でフィギュアもそれからiPhone向けのTwitterクライアントも作ってしまうところが面白い。というか足が速いなあウィズ。さすがは「たまごっち」を生みだしただけのことはある。自動で次々と言葉にしていってくれれば眺めてないで気になった時だけ見て変事、ってことも出来そうだけれど油断をすると悪口雑言が連続して流れて競うなんで要注意。あと声の質も気になるなあ。合成っぽいのかなあ。ミクっぽいのかなあ。

 向こうを見るとブシロードの木谷高明さんがいたので挨拶。また何か作るらしい。勝負師だ。そしてメガハウスで昆虫グミを見物。超リアルな昆虫の姿をしたグミを作れるという玩具。そのリアルさは昆虫標本なみ。カブトムシの幼虫とかプニプニ感まで再現されているけれど、食べれば普通なグミな訳で、だからといって食べられるかというと……。おもちゃ大賞の選考でほとんど誰も試食しなかったらしいって話も分かるなあ。それからタカラトミーで眼鏡っ娘社員たちによる決起集会を見物してバンダイで白ひげを見てゴムダンに「デジ・キャラットにょ!」を思い出して遠い目になりセガトイズで脳波玩具を見て21世紀だなあと思いそれから……といろいろ見たけど暑さで全部ふっとんだ。とりあえずアンドロメダが格好良かったけれどこいつって、あっけなくやられてしまうんだよなあ、最高にスタイリッシュなやられメカ、それがアンドロメダ。

 どうにかこうにか引き上げてそれから直木賞で万城目学さんがとらないかなあと待っていたけどとらなかったみたいなんで早々に引き上げ秋葉原へと回って山本寛監督によるセミナーを聴く。言わずと知れた「私の優しくない先輩」についての解説公演でデジタルハリウッド大学の人に答えるような形でどういう経緯でこの映画の監督をするようになって、そしてどういう風に作ったのかを聴いたけれどもそれはちょっと前にやったインタビューでも聞いて文字にもしたんでここではアスミック・エースにアニメの仕事を探しに行ったらプロデューサーから脚本を渡され読んだら面白くってやりたいと思ったけれども当て馬かもと引いていたら本当に監督だったということと、あのチープな導入部とか激しいモノローグとかは脚本のまんまでそれは西表耶麻子という少女の過剰なまでの自意識と、それでいてどこか醒めてて妄想世界は夢というより虚構と諦観している心情ってものを現しているんだと言っておこう。これでだいたい全部だけど。

 あと面白かったのは川島海荷さんがとにかく凄まじくって最終日なか42時間ぶっとうしの撮影の中を富士急ハイランドで急傾斜のジェットコースターに降りずに5回連続で乗り、それから埼玉へと回って冒頭の宙づりのシーンをこれも8回くらい撮ったとか。でもって使ったのは最高の表情が見られた最後のテイク。この直後にドクターストップすらかかって当然の状態になっていながら、倒れず笑顔を絶やさず演技し続けそれもより高みへと上がっていってしまう女優的スピリッツには、誰もが恐れ入ってしまいそう。そう言われるとそれはいったいどんなテイクなのかともう1度、映画館に足を運びたくなってしまう。

 ヤマカンさんが言っていたのは若い俳優はピークが前にきていてそこで精いっぱいになってしまうとあとにぐっとテンションが下がって、もう一山が出てこない。そつはないけど越えられないって意味でもあるんだろうけれど、そこを海荷さんは突破して高いそのさらに高みを見せてくれたというからきっと、これからすごい女優になっていくことになるんだろうなあ。でもそれも妥協したくない監督の妥協を許さない目があったから。その意味で監督の実写やアニメを問わない演出力、キャスティング力があったってことなんだろー。ちなみに海荷さんの起用はさいしょから決めていたものではなく、何人かの候補の何番目か。それでも何となく知っていたCMから起用してあとでアルピスウォーターのCMで怒鳴っていたのを思い出し、映画で耶麻子が怒鳴るシーンがあることに思い至って通じていると感じたとか。落ち着くところに落ち着いたってことなのか。世はなべて巡り合わせに時の運。幸運になるといいのだけれど。

 あとこれもインタビューの時に聞いていた話ではあるけれど、他流試合に出てそしてアニメファン的な視線ではいきなりドカンと浴びせられるような映画を作ってしまたことについて、それはアニメの世界だけにこだわっている孤高さが別の側面で濃縮からの振るい分けを起こしかねない状況へのアンチテーゼ的行為でもあったてことで、ヤマカンさんが言うには「アニメって本当に市場で言えば少ないです。ひとりひとりのお客が落とすお金は大きくても、せいぜいが10万人。その客が何を買うかを勝負し会っている。旗の立った山をみんなで崩しあっているだけ」とか。なるほど言い得て妙。僕だって今勝っているのは「戦う司書」に「ダンスインザヴァンパイアバンド」に「刀語」程度だから。

 「各クールごとに勝つ作品が決まっていて、1本勝てばあとは壊滅。業界はそれでは疲弊する。こぼれ落ちた人間はアニメから離れていってしまう。それで良いのか。残った人間だけで作れればいいけれど、それは健全ではない」。だから他流試合に出ても、そこからお客をアニメに引っ張ってきたいんだ。なんてことを話してそして声優にも外から客を引っ張ってこれるよう、もっと実写にも出ろと言っていると話してた。だから「私の優しくない先輩」には声優さんも出演しているのだそうな。どこに出ていたかは気づかなかったけど。東浩紀さんも。聞いたら病院のシーンで後ろ姿が映っているそうだけど。見直して見つけよう。

 「アニメ業界を広げるためにはいろいろな努力をする。市場を広げる努力もする。アニメだけやっている場合じゃない」。アニメを愛しているからこそ出る言葉。そのスピリッツを注ぎ込み、それから自分の高校時代の自分勝手で自意識過剰で多弁で尊大だけれど肝心な時には逃げてしまうような性格を、耶麻子に感じながら描いたという映画「私の優しくない先輩」は17日公開。最初の1分で絶望し、10分で虚脱してしまいそうになってもそこを我慢して過ぎれば圧巻に転換に出会え、そして感動のラストに行き着ける。耐えて見てそして感銘せよ。でも保証はしない。


【7月14日】 ワールドカップの混乱で見られなかった「けいおん!!」の新しいオープニングを見たけれども、何を歌っているのかさっぱりやっぱり聞き取れない。それはたぶんきっと我が家のテレビが今もまだアナログテレビで、細かい字幕とかクレジットなんかが滲んでしまってまるで読めないことと同様に、音声の方もアナログになっていて細かい部分が潰れてしまって聞き取れないだけで、既に地上デジタルに切り替えていたりする人は、ちゃんとしっかり一言一句まで聞き取れていたりするに違いない。

 うんきっとそうだ。でなければあんな風に日本語かどうかすらアヤシゲに聞こえてしまう歌を、下手したら放送事故だと言われることも覚悟して、流してしまうなんてことがあるはずない。あるはずないのだがしかしやっぱり聞き取れない。CDを買うしかないかなあ。でも我が家のアナログセットではやっぱり聞き取れないかも。ラインも全部デジタルにしないといけない時代がやってきたのかなあ。

 そんな「けいおん!!」はやっぱり唯の無茶さ無謀さ空気の読めなさが際だちすぎというか、マラソン大会の途中でいなくなって大勢に大迷惑をかけているにも関わらず、しれっと近所のおばあちゃん家にしけこんで、お茶とか出してもらったりしていてそれで復帰してから先生が、今も探しているのに普通にお汁粉食べていたりする。それで叱られず成績も咎められずにちゃんと進学していけるんだから幸せな学校だなあ、ってかあの学校ってやっぱり女子高なのか、マラソンで走っている生徒の誰1人として男子がいなかったんだけれど。これって常識なのか。うーん。

 うーんうーん。人はなるほどライトノベル的だとあっさり言ってのけるけれど、たとえばライトノベル的と言ったってそれがキャラクターの記号性が際だっているのか展開のご都合主義が行き過ぎているのかといった分類分析が必要なもの。なのにそうした説明をせずにライトノベル的だと言い切って、その匂いを消すのがこれから一般の世界でやっていくのに必要だって言ってしまえることがどうにもこうにも分からない。軽くちゃいかのか。軽妙さの中にしっかりとテーマが描かれてあるからこそ伝わる面白さって奴があると思うのに。そこにライトノベル的な手法が使われていることはむしろ現代的な進化なのに。

 キャラクターがあるいは記号的って意味からそういっているかもしれないけれど、その作品についてはどちらかと言えば個性を際だたせる方面で、ライトノベル的な分かりやすくて強烈なキャラクター造形が行われている。記号性という観点なら時代小説とか探偵小説といった分野の方が、ほほどキャラクターの記号性が強まっている。そいうしたジャンルはジャンルだと認めつつライトノベル系はライトノベル的だからと言って眉を顰めるスタンスが、あるいは年長者においてのスタンダードだったとしたら、ライトノベルから一般へと読者層を広げようとしている人たちにとって、壁はまだまだ高いって言えるのかも。ああでもそうした人たちが広く一般的になっていけば、世代の波とともに壁は彼方へと押し下げられるから、気にする必要もないのかな。しばらく様子見。そして勝利を得られる日を待つ。

 貴族の出らしいお嬢様が営んでいるのはしがない下宿で、家賃を溜め込んた青年を助手にこき使うようにお嬢様は何でも屋なんてものを開業する。さっそく舞い込んできたのが灰色をした猫さがし。勇んで着替えて街に出るけどそこはお嬢様だけあって世間知らずで、危ない場所へと平気で入っていくから青年には気が気でならない。守ろうとして傷を負って、それでも天真爛漫なお嬢様の心根に、ほだされそして家賃の負い目も背負ってお嬢様の何でも屋を手伝い続ける。

 笠井スイさんって人の「ジゼル・アラン」(エンターブレイン)第一巻はそんなお嬢様に振り回される青年と、お嬢さまとの楽しい日々が綴られる。ストリップが何かも知らずでかけて行っては熱に当てられたかのようになってしまったりと大変なお嬢さま。その行為は街にファンを得て、森が公園にされてしまいそうな事態に大きな力を発揮する。それでもいたらなかった事態の先、現れた労する紳士の正体は。丁寧な作画と心暖まるエピソードから、向かう風雲の先に再びの平穏が訪れんことを祈ろう。


【7月13日】 およそ最先端ではないし流行に乗っているとはとても良い難いし、特徴的とも言えそうもないキャラクターデザインで、声だって突拍子の無さなんてなくどちらかといえば実力はあっても声質的には地味目な人たちが並んでいるのに、その物語だけでなくって絵として映像として「世紀末オカルト学院」が面白いのはなぜななんだろうかと考える。

 それはたぶん細かく支持されつけられていったキャラクターの演技とか、細かい表情なんかが素晴らしいからなんだろうなあ、神代マヤと川島千尋とが会っている場面で千尋がマヤににらまれ引き下がろうとして見せた猫ニャン風なポーズとか、教師として入ってきた内田文明に見せるジト目とか、地味目な絵柄の中にあってピンポイントに笑いを誘って目を引きつけたまんま離せなくしてみせる辺りに作り手の工夫なんかが感じられる。

  そんな笑いを感じさせる一方で、物語の方はとてつもなくリアルでシリアスだったりするところになかなか油断がならないこのアニメーション。人死には出ているし未来は滅亡の危機に瀕しているし、マヤには見た目も怖ければ力も恐ろしい妖怪変化魑魅魍魎悪鬼羅刹の類が襲いかかって本当に命を危険にさらす。面白さに笑って見ていると、不意に襲ってくるそんなリアルでシリアスな恐怖、が夜中にトイレに行けなくさせてしまいそう。

 だけれど、そこは作り手も考えて、マヤにオカルトなんて大嫌いだと叫ばせ人間の知恵と勇気で御していけるものだって勇気を与えてくれるから、見終わって布団に潜ってがたがたと震える必要はなさそう。だいたい見るのは録画したものを夜が明けてだから怖いはずがないのだ、ってそれは夜中に見る勇気がないからかい? そんなことはありません。ぜったいにぜったいにありません。とりあえずマヤはワンピース姿が良いなあ。透けて見える臍とかせくしい。

 ようやくやっと見た「戦国BASARA弐」に現れた巨人はまたしても本多忠勝かと想ったら豊臣秀吉でありました。そんなはずあるかいな。猿とあだ名される剽軽者が秀吉という存在へのマスイメージ。それをああもあっけなくあっさりと鮮やかにひっくり返してみせるなんざあ、親子どころじゃないくらいに歳の離れた奴らがひとつの戦場で向き合い戦いを繰り広げるオモシロ戦国時代が舞台の「戦国BASARA」でしかあり得ない、っていうか明智光秀だって金柑頭の堅物ではないけれど策士っぽさは出ていたし、上杉謙信だって女人との噂もあっただけのビジュアルを与えられている。

 伊達政宗が恰好良いのは昔から。だから秀吉だけが突飛なさすぎで、むしろ徳川家康の方が小兵で猿っぽかったけれども今回は見えず。ひとり異形っぷりを発揮して秀吉が爆走していってくれそうだけれど、大柄なキャラにありがちな見てくれのみで中身不明な傀儡っぽさが未だ漂うだけに、前田利家とまつもなびくその意思って奴を、語り示す機会は早いうちに欲しいもの。でないと竹中半兵衛の傀儡のままで終わってしまうぞ。

 モモちゃん目立ってない。けどたぶん主人公は才能がありながらも極度の上がり症で人前で真っ当な音楽を披露できなアマディアで、彼女がいずれ歴史に名を残す神曲楽士になっていく姿を描くついでに、才能はそこそこあっても天才どまりで神の才能にはとどかない男が、それでも虚勢を張りつつ自身を見せつつ精いっぱいに音楽を奏でる姿を、ときには悪口雑言乱暴狼藉も見せつつアマディアにさらし続けることで、反面教師というか狂言回しというか、そんな感じの役回りをこなしていく様も描いて人間、分相応が大事だよってことを教えようとしているのかな、あざの耕平さん「神曲奏界ポリフォニカ ダン・サリエルと真夜中のカルテット」(GA文庫)。でもやっぱりモモちゃん目立ってない。あれで結構な精霊だったんだっけ、シリーズ多すぎて思い出せないよ。


【7月12日】 ダニエル・ハルケ選手が存命だったらあるいは中村俊輔選手の今も違っていたかもしれないって意味で、日本代表にも関わってくる事柄だったりするエスパニョールの守備の要にして心の支えだったハルケ選手の突然の死は、スペインのサッカー選手達にとっても大きな悲しみを残していたようで、FIFAワールドカップ2010南アフリカ大会でオランダの激しい当たりをかわしてトーレス選手から送られたクロスがこぼれたところをセスク・ファブレガス選手が押さえ出したボールを、受け取り見事にオランダゴールに決めてスペインを初のワールドカップ優勝に導いたイニエスタ選手が、脱ぎにくそうなテックフィットを即座に脱いで見せたアンダーシャツに書かれてあった文字が、ハルケ選手への追悼だったことにもそれが現れている。

 ゴールを決めなければきっと見せられるはずではなかった言葉。そもそもがつなぎの人でフィニッシュの人ではないイニエスタ選手がそうした時を配慮して、書き込んでいたかあるいは見せることなんて良いからやっぱりいっしょに戦いたかったと思っていたか、それは明かではないけれどもそうした思いをちゃんと持っている人間たちによる戦いだったんだと、改めて思った次第。日本ではそんな人いなさそうだったもんなあ、長友選手が落選した石川選手や平山選手への気持ちをアンダーシャツに書いている……ないな、絶対にないな。

 それにしても攻守に激しかったオランダ。あの巨体でもってガンガンとあたり削りパスを寸断していく戦い方ではいかなスペインでも何度だってボールをつないで圧倒的なポゼッションを確立し、そこから針に糸を通すような瞬間の冴えを見せてゴールを奪うスペインサッカーなんて見せる余裕もなかった。そうしたファウルさながら攻撃に加えてオランダが見せた、日本代表もかくやと思わせる最前線からのプレスの早さ。あれで波状攻撃を止められるんだからあるいはパラグアイに日本が買っていたらそこでスペインを……なんて想像も浮かぶ。

 けどさすがに90分からさらに30分を続けられる訳でもなく、スペインのイニエスタ選手のゴールで敗北。なりふりかまっていられない姿で敗れたことを非難する人もいそうだけれど、ワールドカップは別に空手でいう型を披露して美しさを競う大会ではない、勝つために見せるがむしゃらさもサッカーのひとつの形なんだと認め、それでもファールとはならないで攻撃を止めパスを切り、奪い繁劇につなげるスタイルって奴を確立できたら、オランダも強くなるし日本だって強くなれるんじゃなかろーか。ともあれ終わった1カ月の大会のその向こうにあるのは何か、まずはジェフユナイテッド市原・千葉が1部に戻り、新たに結成される日本代表が真っ当で、アジアカップを順当に戦い南米でも存分に戦ってみせる姿を楽しみに見守っていこう、とか言っているととんでもない事態になるんだ、代表も、ジェフも。

 鉄っちゃんで不思議ちゃんの女の子から連れ回されていた少年が、その女の子とは子供の頃から知り合いらしい女の子も含めた3人で作ったのがともだち同盟。嘘をつかないとかいったルールがあったトライアングルだけれど、その形も程なく崩れる。朝日という名の知り合いらしい女の子が、少年の弥刀に告白をしてつきあい始めてそして鉄ちゃんで不思議ちゃんの千里が駅から裏の崖下に転落して死亡する。

 関係が崩壊したことへの絶望か、ってあたりから始まる敵討ち、なんて向かわず弥刀と朝日は千里の死をはかなみつつ潮干狩りへ。そこで迷い込んだ山奥で2人は千里と出合う。ひょっとしてオカルトホラーサスペンス? まそうかもしれないけれども大体においてはミステリー。千里と朝日の間にあった友情とは違った感情の交錯をまずつかみ、そして千里と弥刀、弥刀と朝日との距離感を鉄ちゃん的着想なんかも絡めて判断し、それがどうなるかという想像も踏まえた上で訪れた結末の理由を探る楽しみがあある。

 森田四季「ともだち同盟」(角川書店)はだからそんな話。人を恨み慕い寄り添い憎む感情って奴はなかなかにやっかいで、人の関係も永遠に変わらない訳ではないってことを知らしめる意味があって今を妙な階層の上位にいると安心している餓鬼どもに、いつか売るかも知れない転倒なんて奴を想像させもする。まあそっちが本意ってよりは間に入って振りまわされる弥刀の可愛らしさを見せたいって雰囲気もあるみたいで、あがいてもがいて逃げようとして達したとある境地なんて想像するともう、気持ちがとっても愉快になる。唐突だけれどそれもあり。あるからこそ結末に優しい風が吹く、っていうか。ともあれ不思議な物語。短いけれどもスリリングな物語。朝日は一生をかけて抵抗し続けられるのか。続編はないだろうけど気になるなあ。

 60億人が見るべき映画がやって来る。60億の世界の人が見て何かを思い何かを行うことで世界を永劫に渡って良い方向へと変えていける力を持ったアニメーション映画がやって来る。タイトルは「カラフル」。森絵都さんが1999年に発表した原作小説を、「カッパのクゥと夏休み」の原恵一監督が長編アニメにした作品。学校に行きたくないとか家族がうっとうしいとか、兄弟がねたましいとか生きていたくないとか思うことって人生で時々だったり、人によってはしょっちゅうある。けれどもそんな人たちがもしも「カラフル」を見たならば、きっともう一度学校や家族や兄弟や命を考えてみたくなるはずだ。そうさせる力がこの映画にはある。たっぷりと。

 描かれるキャラクターが突飛ではなく適度にリアルで適度に漫画的で大勢の関心を引きそう。担当する声優も女優に俳優に子役と揃えてあって、その誰もがとても良い仕事をしている。等々力から二子玉川あたりを描いた背景はどこも美しく、大谷幸が担当した音楽もどれも素晴らしい。そうしたアニメーション的要素から映画の凄さを語ることは存分に可能だけれど、でもやっぱりこの映画は物語が1番すごい。メッセージを伝えたいという思いが強い。そこへと誘うためにキャラがあり、声優がいて、背景が描かれ音楽が奏でられる。

 もしもこれが実写だったら、リアルに描こうとすれば重苦しいテーマに映画自体が重くなって、ファンを誘えそうもない。かといって「告白」のようにオーバーさや映像の突飛さで見せようとすると、楽しんではもらえても伝えたいメッセージから眼がそらされる。そこで取られたアニメという手法は、悲惨過ぎてリアル過ぎる内容から半歩身を引き、半ば架空のこととして感じることで悲惨で酷薄な展開に対する受けての初っぱなからの拒絶意識を和らげ、見させてメッセージを感じさせ、そして後半に一気に立ち上る和解と理解の感動へと観賞を誘いこむ。リアルでシリアスだからこそ実写ではなくアニメでやる意味、といったものがその内容から感じられる。

 それだけに冗談ではなく60億人に見てもらいたけれども、見て欲しいと伝えることはとても不可能。ならばせいぜいできる範囲で、周囲の3人に見てもらう努力をし、そしてその3人がそれぞれ3人づつに見せていくことによって、遠からず60億人という数字に近づいていくことができるだろう。だから臥してここは願うのい。原恵一監督の「カラフル」を見よう。見たらさらに何人かの人に見て欲しいと言おう。その結果が世界を差別から救い、人を恐怖から救うのだ。なんてな。でもやっぱりなかなか見てもらい辛い映画だよなあ。重すぎるもんなあ、最初のうち。そこを越えれば広がる喜びと開放感が待っていると分かっていても、越えるまでにつきつけられる日常があまりにも重たいんだよなあ。そのあたりを気にさせず、ちうか気にはしても逃げるんじゃなく突き進む方へと意識を向けさせるためのガイドが必要だよなあ。早乙女くんとの日常が始まるまで、ホント気が気じゃなかったよ。


【7月11日】 和歌山県はKKY48が蜜柑を売るよりもやっぱりこっちの方が受けそうだと思い浮かんだKYS48。高野山に全国から修行のために集う若き僧侶たちの中から、イケメンばかりを選んで抜擢して結成されたチーム。菜食だから皆スリムでスレンダーな上に日々山野を歩いて鍛えられた肉体から醸し出されるエネルギッシュな色香は見る女性たちをたちどころにとろけさせ、男性たちをも虜にするはず。

 見せる芸だって全員が毎日の読経で鍛えられた喉を持っているから、何を歌っても朗々と響く。それこそ流行歌からスタンダードから歌いこなせるけれども、見どころはやっぱり全員が正装の袈裟を来て、直立不動のまま合掌して歌う「ボヘミアンラプソディ」。リード部分はメンバーでもセンターに立つトップが、まだ幼さの残るハイトーンな声で高らかに歌い上げ、そして合唱部分は48人が一斉に渋みの聞いたバリトンで一斉に歌って盛り上げる。もう身震いがするくらいに最高のステージ。聞いてみたいなあ。いや本当に聞いてみたいよ坊主たちの「ボヘミアンラプソディ」。

 歴史の時間。空海が開いた高野山に集う僧侶より抜擢されたKYS48が、ストイックさを全面に出して演じる芸に膨らむ都での評判に対抗すべく、ライバルの最澄が開いた天台宗でも、比叡山延暦寺に集う僧侶たちによるHEZ48を立ち上げた。もっともこちらは美僧ならぬ裹頭、すなわち頭巾で頭を覆った荒くれ法師どもによる僧兵48人が、長刀手に暴れ回るだけの粗暴な集団であったため、ことのほか都の人々に評判が悪く、折良く上洛した織田信長の軍団より抜擢されたNBN48によって叩き伏せられ、焼き討ちされて滅亡した。元亀2年のことであった。なんてな。ところで織田軍団より抜擢のNBN48だと、やっぱりセンターは戦果で秀吉なのか、それともキャリアの長さで勝家か犬千代か、切れ味で光秀か。一益成政長秀じゃあ地味だもんなあ。

 せっかくだからと「宇宙ショーへようこそ」のオフィシャルショップでものぞくかと渋谷に出かけて、ギャル軍団の隙間をぬってパルコへと行って会場でガチャガチャ回したらいきなりポチが出た。生きていても良いんだろうかと悩んだ。2回目は全員で3回目は名前なんだっけ、宇宙ショーの美人犬。本当はインクちゃんが欲しかったのに出ないのはやっぱり僕が映画にそれほど熱を入れていないからなのか。いやいや映画は大好きだし舛成孝二監督は心から応援しているけれども、いっしょになって盛り上げていってやりたいなって思わせるだけの何かがうーん、やっぱりちょっと足りないんだよなあ、それが何かって言われるとうーん、ちょっとよくわからない。それが見えればフックとして使えて世に喧伝するきっかけにできるんだけど。

 サイン会もあったけれどもそれまで待てないと、インクちゃんストラップだけ買って退散して帰りがけ、電撃文庫から発売された浅生楽さんって人の「ミネルヴァと智慧の樹 始原」を読んだらとてつもなく面白かったので、ここに広く世に読むようにと喧伝する。知られていないものを知らしめる楽しみ、そして知らせたいと願い人たちの熱量に引かれ添いたいと思う気持ちが生むカタルシス、そんなところなんだろうなあやっぱり。さて物語。高校時代にバンドを組んでまあまあだったけれど、そこでリーダーやってた先輩が学校でもトップクラスの成績なのに、上を目指すとかせずそこそこ生きるのが正解と訴え、有名私大の法学部へと進んだ姿を倣い、師と仰いで自分も努力とかせず無駄な知識とかもため込まず、そこそこの大学でそれなりの成績を収めて就職活動を勝ち抜き、それなりな人生を送ろうと考えていた青年が主人公。

 入った学校でもサークルとかに熱を入れず、単位を取りやすい授業に出て、就職に役立つ英語だけを学んで大過なくすごそうと考えていた折りもおり、教科書を買うのも面倒だからと探しに入った図書館で出合った同級生に誘われて、図書館の資料整理のアルバイトを始めることになってそこで出合ったなぜか大正袴姿をした西洋人の美少女によって運命を大きく変えられる。彼女は智慧の神であるミネルヴァだと名乗り、400年生きていると言った少女は青年をミネルバの眼となる梟と位置づけ、助手のような仕事をさせる。まったく予期していなかった状況に戸惑いながらも青年は、そんなミネルヴァの言うことを信じ、とりあえず彼女の眼となり働き始める。

 知識は豊富でも俗世には疎く、なぜか自己啓発書とライトノベルを好んで読み耽り、知識として得た人の感情を試してみようとツンしてデレして拗ねてしなだれてみせるミネルヴァの少女に翻弄される青年。さらに、かつて中世のドイツでミネルヴァを生んだ錬金術師と関わった一族の末裔で、日本が大好きでとりわけオタク文化を溺愛して妙なコスプレを披露し当然のように「あんたバカ」とか言ってのける長身のドイツ人少女も現れ、挟み込まれる幸運に浸る青年は、無駄だと師には誹られたドイツ語を学び、咎められるとちょっぴり反抗してみせるようになり、それが一悶着を起こした後、ミネルヴァたちによってドイツへと連れて行かれ、そこでミネルヴァが生まれ現世にいる事実を生みだす円環を結び、入ってくる妨害を退ける仕事を成し遂げる。

 繰り返される歴史の因果を結ぶ物語は、大過なく生きることを是としたい人間がそう思わざるを得なくなる昨今の風潮に釘を差し、挑戦する気概を誘い出し閉じた円環からの脱却を説く。青年が師と仰いだ先輩の気概が行き着いた果てを見るにつけ、そうなるくらいだったらもっと動け、泥にまみれて突き進めと誘いかける。もっともしょせんはフィクションでしかない物語は、理髪で冷静だけれどどこかに抜けたところがある美少女がいて、日本が大好きというオタクの金髪美少女がいて、主人公の青年がかつて高校時代につき合っていた、演劇を愛する魔女的雰囲気を持った美少女がいて、青年が大学で知り合ういつも溌剌とした美少女がいてと、次から次に現れる美少女たちとの出合いという、現実にはおよそあり得ない状況を描いて見せて、そんなうまい話は物語の中だけのこと、脱却の喜びを味わうのもその瞬間だけなんだと囁き、酸っぱい絶望へと誘う。

 書物が呼びかける解放の正しさと至らなさ。そのどちらも正しくて、どちらにも悩ましさがある事実を吟味しつつではいったいい、僕たちは何をすべきなのか? それを考えるのは自分自身。踏み外せば抜け出せない奈落の恐怖を感じつつ、それでも落ちないで突き進むし、落ちたところで死にものぐるいではい上がってみせると信じる気概を持ってフィクションも現実と受け止め前を向くも良し。所詮は口先だけだった師とやらには頼らず、踏み外さない道を一生かかって歩いてやると確信するも良し。言えることは、それが己の人生であって誰のためのものでもないのだということで、そこに気を向ければ自ずと道は見えてくる、と思いたいけどそうも行かないこの世の厳しさ。20歳過ぎたら余生と思いたくなる気持ちも分かるよなあ。

 ともあれキャラ造形の素晴らしさがあり、展開の鮮やかさがあり主題の現代性があって得られるカタルシスもあって、その上で今一度足下を見つめさせる物語だった浅生楽さん「ミネルヴァと智慧の樹 始原」は、重ねて言うけど傑作なので読むように。火のトカゲな癖して妙に江戸が大好きなサラマンデルとかも実にいい味出してる。「惑星のさみだれ」のトカゲみたい。そいつがツンデレを落語でいうところの意気地と解釈してみせるところなんざあ、なかなかの炯眼でトカゲの癖に物知りだって蒙を啓かれる。と同時にそうしたすべてを割り切ることはしない、曖昧さの中に機微を見る感性が実は日本には昔からあったんだってことを思い出させてくれる。そんな程良く散りばめられた知識も味わいつつ、キャラクターたちの行動を楽しみつつ、描かれる物語から何かを感じ取るのが良さそう。閉じこもった円環に呻く者は外への道を探り、物語の円環に溺れる者も目を上げ、現実を見回して未来を得よう。


日刊リウイチへ戻る
リウイチのホームページへ戻る