縮刷版2010年上月旬号


【5月10日】 たっぷりと眠り起きたら朝だった。わお。なので録画で「荒川アンダー・ザ・ブリッジ」をまず見たらひもの歌が流れてた。良い歌だ。あんな歌で揶揄される身分になってみたいでござる。あとロケット兄弟はあれでなかなかのイケメンなのか。というか鉄なのかやっぱり。ニノさんのスクール水着はとっても可愛い。マリアさんの出番が少なくって心に響いてこなかった。響きすぎるのも難だけど。エンディングのスネオヘアーの「逆様ブリッジ」はとても良い歌なんだけれどもCDの発売が遅すぎる。放送終わってしまうじゃないか。とかなんとか。やっぱり今ひとつ決定打に欠けるなあ。今月って「刀語」って放送いつだったっけ?

 そして「一騎当千XX」は関羽の目に異変。張飛は偉そうだけれど案外に弱そう。もーちゃんの出番が少ない。孫策に主役の自覚がない。それはいつものことか。「夜のケロロ軍曹」。ママさんナイスバディ。でもって作戦もなかなかにナイス。ケロロの母さんは作戦がバッド。でもどっちも大切な親なのです。エンディングの松元環季ちゃんは相変わらずに可愛いなあ、声だけだけど。そんなこんなで迎えた朝をとりあえずやっぱり自分だって代表に呼ばれるかもしれないと、気合いを入れて届いたばかりのテックフィットなサッカー日本代表のユニフォームに身を包んで家を出ようとしたものの、あまりの窮屈さにこれでは途中で意識を失うと断念。途中で着替えることにして持って出る。

 でもって何が書いてあるかと購入した「エルゴラッソ」は、表紙がサッカー日本代表のことではなくって横浜F・マリノスで浦和レッドダイヤモンズ戦に大活躍した渡邉千真選手が大きく取り上げてあった。これだよこれ。サッカーにおいてもっとも大切なのは毎週のように繰り広げられているリーグ戦で、しっかりと活躍した選手を取り上げ讃えること。そうした積み重ねが選手にも良い効果をもたらすし、見る側にだってそれが大事なんだと伝わる。まずは日々を研鑽すること。それがすべてにつながるのだ。なのにスポーツ新聞の方は変わらず代表が誰になるのかってことがメイン。それがどういうチームになるのかって分析があればいいけど、そこまでの踏み込みがないから読んでもどういうサッカーを目指していて、だからこそこういう選手が選ばれたのかって分からない。

 っていうかそういう意識が代表を形作っている側にあるのか、ってところがまず問題。なればといよいよもって発表になったFIFAワールドカップ2010南アフリカ大会に臨む我らが日本代表の面子をみると、これがやっぱり分からない。いや分かるか。すくなくともこれまでの岡田武史さんのチームと大差ない。ってことは結果もやっぱり大差なさそう。つまりは……。なんか気が遠くなってきた。サプライズ? あるにはあったけれどもどうにも前向きさを身に感じない。ゴールキーパーに川口能活選手が選ばれた。でも最近リーグ戦で活躍してたっけ。その意味でいうなら他に選ぶべきGKはいたような気はする。

 なるほどそれでも現場で過去の実績を発揮できるとするならば、とりあえずメーンを張りそうな楢崎正剛選手のバックアップとしてこれほど適任のGKはいないかもしれない。怪我なり事故なりで楢崎選手が出られなかった場合に、同じだけのパフォーマンスを計算できる選手はやっぱり川口選手しかいなさそう。でも岡田さんは言ってしまった。第3GKだって。それって川口選手に向かっていって良い言葉? 少なくとも本人は今も第1GKだって思ってる。けれどもバックアップで経験から場に落ち着きをもたらす役割しか期待していない。失礼でしょ? それって。

 っていうかそういう役割が川口選手に向いている? 1998年のフランス大会の時は若い楢崎選手と川口選手の間をとりもつように小島伸幸選手が入ってベテランの経験と元からの明るい性格で2人をちゃんと支えた。チームにも落ち着きをもたらした。でも川口選手は未だに虎視眈々とトップを狙う選手。第1GKとして出られないならその座にとってかわれないかと思うタイプと自ら告白した選手。場の盛り上げ役とか緩衝剤にもっとも不向きな選手をそうした役割で呼んでしまえること事態に、どこか不思議さが漂う。矢野貴章選手の起用も同様。なるほど高さはあるしスピードもあるけど、最終局面で投入してポストをさせるタイプじゃない。かといってそういうタイプでなければ守備を固める相手を打ち抜けない。スピードがあったって入り込める隙間は存在しないのだから。

 だから高さで純粋に選ぶなり、最初からスピードを計算できる選手を選ぶなりするのが妥当なんだけれどもそうじゃない。今期まだ得点のないフォワードを選んで連れて行く。きっと世の他のフォワードは自らを振り返ってどうしたら良いんだって頭を抱えただろうなあ。それは他の選ばれなかった選手たちも同様か。サイドを切り裂き進める選手たち。石川直宏選手や香川慎二選手といったサイドプレーヤーは松井大輔選手がひとりで受け持つことになるのか。中村俊輔選手? オシム監督の下なら走ってもらって出して走るサイドの凄いプレーヤーだったかもしれない。でも今は? 戦艦大和の46センチ砲のごとく発揮されれば凄まじいかもしれないけれども発揮される機会の少ない兵器としてサイドから虎視眈々とクロスを狙って意味なく跳ね返される役回りを受け持つんだろう。それはそれで華麗だけれど、やっぱりあんまり意味がない。

 連れて行って欲しい選手はいっぱいいた。オシム監督だったら連れて行ったかもしれない選手もその中に居たりする。でも現実にオシム監督はもう監督じゃない。だから連れていってもらえないし、オシム監督の下で宝石のように輝いていた選手たち、輝く可能性があった選手たちも今の代表チームで不動の石となってカチンコチンに固まっている。大久保嘉人選手がオシム監督の試合で点を取れたのは、大久保選手の能力だけではなかったし。それは今の神戸でも同様。なのに今の代表に大久保選手を選んでどれだけの活躍を期待するのか。なかなかに切ない。とはいえもはやどうしようもない。だからあとは精一杯にオシム時代を思い出し、選手もコーチもその教えに従って走り埋め合いチームとして得点を奪い守備を固めるて試合を乗り切ろう。ああでもそうはさせない布陣で試合に臨ませるのか。岡田サン。嗚呼…。

 とりあえずひとりごと。セリフとして喋らせる言葉の耳分量で50倍くらいをモノローグとして重ねるなら実写として演技する俳優を使う必要なんてない、ラジオドラマで十分に伝えられると考える。それでもモノローグを使うんだったらキンキンとした声でさして演技もさせないで間断なく続けさせるより、ある程度声で演技できる力量と聞かせる声質とそしてメリハリをもたせて喋らせるべきだとも考える。そうでないモノローグはただひたすらに押しつけがましいだけ。映像として撮る映画ですべてと内面の声として喋らせてどうするんだ。セリフとシチュエーションと表情なり演技から、本当は何を思っているのかを感じさせてこその映画って表現芸術じゃないのかと考える。以上ひとりごと。

 それはそれとして日日日さん原作では2本目となる映画はひたすらにエンディングが須ばらしくって、これを見るまでは何があっても耳が痛くなっても目がくらんでも心臓が止まりそうになっても、劇場の席を立てないと思わせてくれる。あの広末涼子さんの名曲中の名曲に、ダンスがついてそれも大勢によるダンスがついて繰り広げられるのだから。セーラー服が踊りセーラー服の眼鏡っ娘が踊りジャージ男もナースもプロレスラーも踊る愉快なエンディングをその目で見るまでは、何があっても生き延びよ。そしてその目でしかと見よ。


【5月9日】 何がすごいってリラダンとして作られた人形として、ころののセリフを訥々と喋るしゃべり口調も完璧なら、妹役となってお兄ちゃんお兄ちゃんと飛びついていく時の口調も完璧な悠木碧さんの演技ぶり。「おねがいマイメロディ」の末の妹の琴ちゃん役の時にはまだそれほどでもなかったけれど、「紅 −Kurenai−」で紫を演じて幼いけれども高邁さを持ちつついじらしさも残した少女を演じて素晴らしい演技っぷりを見せた上に、「ダンスインザヴァンパイアバンド」で幼い見かけながらも何百年も生きている老かいさも持ったミナ姫の時に残酷で、時に悲しげなところも見せる口調をとてつもなく素晴らしく演じてくれたその実力は、沢城みゆきさんから戸松遙さんへと流れる天才系声優の系譜に連なるだけでなく、もう1段の進化すら見せているといっても過言ではない。

 なおかつ「いちばん後ろの大魔王」では淡々とした中に卑猥な文言をさらりと言って恥じず衒いも見せない人形っぷりをしっかりと演じきっている。いったいどんな感情でマイクの前に立って喋っているのか。そもそも意味を分かっているのか。そのまだ成人前の女の子が言ったらたわば先輩が飛んできて横にいるR・田中一郎を何発もぶん殴ってしまうくらいの激しいセリフなんだけれども、それをさらりと言ってしまえる剛胆さに改めて肝胆した次第。どんな現場になっているのかを見てみたいなあ。あるいはオーディオコメンタリーでその時の気持ちを話してくれないかなあ。どんな罰ゲームだそれ。いやしかし売れる要素にはなるか。うーん。

 100枚足りない、いやもっとだ。100ページ足りない気がした第1回野生時代フロンティア小説大賞受賞作の「鳩とクラウジウスの原理」(角川書店、1300円)は、しがない広告会社でコピーやイラストの仕事をしている磯野という25歳の青年が、折からの不況で職にあぶれかけ、ぼんやり公園で鳩に餌をやっていたところに怪しい人影。紺色のブレザーを着てなぜかアフロ頭の柳田という老人が現れ、鳩の餌のやり方が気に入ったと言って磯野をとある仕事に誘った。それが鳩航空事業団(PAC)。なんだそれ。名前のとおりに鳩で航空事業をする団体。だからどういうこと。伝書鳩に荷物を運ばせる事業を営んでいる団体。ああなるほど。

 でもこのご時世、メールで手紙は送れるし書類だってメール添付でポンできる。大きい荷物だったら宅配便が発達していて世界のどこにだって翌朝には届けてくれる。近い距離ならバイク便だって自転車便だって利用できる。それなのに伝書鳩。どういうこと。それはこういうこと。書類でも印鑑が押してある書類はメールでは送れず、かといって郵便ではちょっと遅い。鳩に運ばせれば数十キロの距離なら5分で届けてくれる。形あるものも同様。郊外の工場で作った団子を、都心部の親方まで届けるのにバイクでは30分から1時間はかかるけど、鳩なら10分。これは速い。なあるほど。

 それよりもなによりも、鳩が届けるなんてロマンチックじゃあーりませんか。ちょっとチャーリー浜。それも仕方がない。鳩航空事業団が位置するのは、大阪の難波は吉本興業があるビルの屋上なのだから。そして鳩が運ぶロマンを利用して生まれた事業が、ラブレターを鳩に届けさせる新しい事業。真っ白な鳩が届けてくれるラブレターは、メールで届くものよりも、例え同じ言葉であっても100倍は愛がこもっているように見える、かもしれない。ともあれさまざまな事業を手がける鳩航空事業団に磯野は誘われ、食い扶持も増えたことだしと参加を決めた。

 食い扶持って? それはかつて大学でともにクラウジウス原理主義者のを結成していたロンメルなる長身の男との再会。なにしろ着ているものがロンメルの名の由来のとおりにドイツ軍の軍服ばかり。卒業しても変わらない。これでは周囲がドン引きしてしまう。コミュニケーションもままならないまま派遣先を首になり、どこにも雇われないまま寮を追い出されたロンメルは、大学時代の大の仲良しの家に転がり込んできた。コミュニケーション下手なロンメルが仲良しとはいかに? その鍵となるのがクラウジウスの原理だ。

 熱は低いところから熱いところには流れない。常に熱いところから冷たいところへと流れていく。これを変じて易きに流れると解釈し、女性は常にいい男のところへと流れる寂しさを噛みしめたオタク男たちが結成したのがクラウジウス原理主義者の会だった。主人公はその創始者であり突撃隊長として会を背負い、ロンメルは行動部隊を率いて散々悪さをしでかした。カップルが等間隔で並ぶ鴨川に飛び込み、おしゃれな奴らが集まる場所にオタクな扮装で乗り込み大暴れ。これは引く。引きまくる。

 そうやって誰もが引いて青ざめる姿を居て大喜びしていたクラウジウス原理主義者の会に、たった1人、下級生ながら挑んできた女がいた。それが犬塚こと犬さん。「ギャハーン、電車男の方々ですね?」。実にストレート。そしてメガトン級の破壊力。とても居たたまれないと泣きながら飛び出たクラウジウス原理主義者の会。存続も危ぶまれたものの、そんな犬さんとも仲良くなって過ごした大学生活も終わって就職した世界は、クラウジウスな奴らにやっぱり優しくなかった。

 だから主人公は大企業に行かず、広告会社でデザインを手がけそして鳩航空事業団で鳩を相手に仕事を始めた。ロンメルはそんな主人公の家に転がり込み、さら犬さんまでもがやってきて懐かしのクラウジウス原理主義者の会再結成? とはならないのが経った時の短いようでそれなりの大きさか。主人公は鳩を飛ばす仕事に興味を抱き始め、自分が過去に埋めてきた他人とのコミュニケーションの至らなさを思い浮かべ、立ち直りに向けて動き始める。クラウジウス団なるかつての自分を彷彿とさせる団体が、ラブレターを飛ばす鳩ばかりを襲ってラブレターを書き換える妨害に出て来たのに挑み、戦おうと頑張った果て。世界との関わりを取り戻し、新たな人生に向けて動き始める。

 そんな主人公の物語を中心に描いているなら足りる枚数ではあるけれども、一方の新たに生まれたクラウジウス団なる存在の暗躍があったり、ロンメルと犬さんとのどうにもこうにももどかしい関係の端緒が描かれているから、枚数に不足が生まれてくる。クラウジウス団の暗躍を描くのだったら、彼らがこれまでどういう活動を続けてきて、それが今どうして過去との対峙に至ったのかを描いてやらなければ唐突すぎる。ロンメルと犬さんとの関係も、そこに向かうきっかけめいたエピソードがなければ、どうにも納得できない。納得できねえよ。学生時代に何かあったのか。同居を始めてから生まれたものなのか。そうした経緯があってこそクライマックスのスリリングな展開に意味が出る。

 そのクライマックスもあっさりとし過ぎてのめり込む前に終わってしまう。鳩をつかまえる算段と、その実行の巧みさなり、そうした行為を出し抜くために主人公が行った企みの凄まじさなりをもっと描きこんであってこそ、クライマックスシーンでの荘厳ともいえそうなシーンに味が出る。浮かぶ感動の感情も濃さを増す。主人公の過去との対峙とそして回帰もやはり唐突。そもそもが半年の邂逅から分かれといった記憶がどうして、後にいたるまで彼にコミュニケーションを拒絶させ、そして今へといたる孤高さを生みだしたのかがあまり見えない。そこがあってそして小瓶を拾っての記憶のフラッシュバックがあって、なおかつそれを乗り越えようとする葛藤があってラストに彼が会社の命令に背いてまでも、ラブレター鳩を飛ばそうとしたのかが分かってくる。それが他人のためであっても、自分の思いが重なって行動に向かわせたのだと思えてくる。

 そうしたエピソードの積み重ねがあれば、濃さも増し読み応えもたっぷりだった「鳩とクラウジウスの原理」だけれど、まあこれはこれであっさりとした中に感情の変化を描いてあって、さくっと読めて楽しめるから良いのかな、何しろデビュー作な訳だし、無理に延ばして混乱させるよりは短くまとめて楽しませて、ちょっぴり気にさせるといったところが戦略としても妥当かも。キャラクターも展開も書ける人、って分かったし。だからこそ、次にどんな作品を書いてくるかに注目。鳩航空事業団のその後であっても、そうでないエンターテインメントであっても構わないから、次はたっぷりと枚数を取って、ジェットコースターのようにあふれ出る娯楽が連続した作品を読ませて欲しい。あと、帰巣本能だけの伝書鳩を、電波だか何かで操り自在に飛ばせるってところはやっぱりSFって良いよなあ。

 10日に代表選手の発表を控えてテレビも新聞も誰が選ばれるかってところに注目が集まっているけれど、そこで話題になるのがどうしてフォワードの選手ばかりなのかってところが分からない上に、そのフォワードですら当確だ当落線上だと決めつけにかかっている節があってどうにもこうにも腹が立つ。とりわけサッカー番組を結果を伝えるべき土曜成り日曜から予定を伝えるしかない金曜日に持っていく無様さを見せつけたTBSが、スーパーサッカーの後釜のスポーツ番組で、代表のフォワード争いにかこつけて岡崎慎二選手に“当確岡崎”とつけつつ、田中達也選手だったか矢野貴章選手だったかに“三角矢野”とかつけてアナウンサーが読んでいたのがとてつもなくムカついた。

 なんだよ三角って。そんな選手はいない。ニックネームでもありはしない。というよりその試合でちゃんと仕事をしようとしている選手への敬意もへったくれもない。解説に入っていた小倉隆史さんがが笑いつつも三角ではないです横一線ですってフォワードの気持ちに配慮してたしなめても、アナウンサーはそのまま連呼し続けた。もう莫迦かと。阿呆かと。そんな風にしか選手を見られず伝えられないから日本のサッカー番組はファンから見られなくなり、そして金曜日に追いやられる憂き目を喰らうんだ。自業自得だまったくもう。

 そりゃあ1番目にいるフォワードが得点を取る機会が多く目立つのはよく分かる。でもサッカーはフォワードが点を取るだけのものでは決してない。その前の守備がありパスがありランがあってムダ走りもあって、成果として誰かが点を取る。チーム全体を見てその中でフォワードがどんな役割を果たしたのかを考えてこそ意味があるのに、スポーツ新聞もTVも阿呆のようにフォワードばかりに目を向け、点をとったかどうかで当確だの三角だのをつける。愚劣過ぎる。蒙昧過ぎる。

 折しも千田善さんがイビチャ・オシム監督のチームをどう鍛えたかをリポートした「オシムの戦術」(中央公論新社)が発売されて、「手の使えるカンナバーロ」であるべきキーパーも含めた11人のプレーヤー全員が、同じ意識を持ち精一杯にタスクをこなして得点に向かい勝利に向かっているのがチームなのだと強く思わされた。フォワードが活躍できるのには理由がある。チーム全体の戦術がある。それを考えずに得点をとったからと抜いても無意味。チームで得点をとっても代表で得点をとれないFWを、これまで何度見てきたか。選手は並べられてもチームを作れないという問題が、過去もそうだし今も続いているから、同じ現象が繰り返される。

 それなのにメディアは相変わらずFWが誰かばかりに注目する。そうじゃない。どんなチームを作りたいと岡田武史サンが考えていて、その結果としてどんなフォワードが最適なのかを論じなければ意味がない。というよりそもそもどんなチームを作ろうとしているのか、その中でディフェンスはあれでいいのか、ミッドフィルダーは大丈夫なのかも考えチーム全体を論じなければ何も見えてこない。でもやらない。そういうやりかたで報じる術を持たないし、それを受け止める読者なり視聴者を育てていないから。こうして祭りは終わり選手が並んだだけという、まるでチームになっていないサッカー日本代表の瓦解を経て、そして関心はトップが誰になるかに向けられることになるんだろう。そこでもトップが何を目指しているかではなく、誰がトップかだけにしか興味が向かわないんだろう。結果、4年後もやっぱり同じことが繰り返される。いや4年後は来ないかもしれない。その可能性は低くない。虚しいなあ。悲しいなあ。

 走り抜けとか言ってる割に走らないから勝てるわけないジェフユナイテッド市原・千葉。なるほどボールは回せたって止まってる選手から止まった選手へとわたるだけだから詰められたら後は戻すなり横に出すだけ。前へと抜けようとする動きがなければ近寄ってフォローしようとする動きもないなかをどん詰まりの果てに奪われカウンターをしかけられる繰り返しは、見ていて本当にイライラさせられる。中盤の底を固めているといえば聞こえも言いけれどもほとんどうごかず近寄りもしないで戻ってきたボールを散らすだけの中後選手とか、サイドバックなのに前目に位置してボールをもらってもそこから戻すなり横に出すだけで前へ走り込んでクロスを上げるとかしないアレックス選手とか、場としての役目は果たしても攻撃を仕掛けるチームとしての動きを損なってしまっているようにしか見えない。

 連戦の疲れとかあるんだろうけれどそれだったら他にも出していない選手入るわけで、そうした選手をやりくりすればちゃんと何とかなりそうなのに何ともしようとしな監督も含めてやっぱりこのチームはJ2ですら下手したら中位に沈んでそのままはい上がれない万年ぶりを、見せてしまう可能性すら強まってきた。何とかするなら今のうちだけれど何とかしようとするそぶりもない。それはトップにもなければ選手にも見られないなかで暑さを増してさらに走れなくなるシーズンにどこまで踏ん張っていけるのか。行けない可能性も高いだけに心も萎え気味。スタジアムでそんなチームを見るのも億劫になて来た。ワールドカップが終わってすっげえ選手とか来てくれないかなあ。くれないよなあ。


【5月8日】 そして到着したサッカー日本代表のFIFAワールドカップ2010南アフリカ大会仕様のユニフォームはまずもって外箱が巨大な上にそれを4段は重ねて入れられそうな段ボール箱に入れて届けられて吃驚。そこまで大事に扱って頂けるとはサッカーショップKAMOは偉い。やっぱり加茂監督の後を継いだ岡田武史サン率いる代表なだけにそのあたり応援していたりするのかな、って関係あったんだっけKAMOと加茂監督。岡野俊一郎さんの実家が饅頭屋さんだったみたく。

 でもって早速来てみたらこれがキツい。もうキツい。僕が太っているからってんじゃなくって(太ってもいるけれど)それ以上に背中のバッテン模様の締め付けが厳しくってまるでプロレスのフルネルソンを決められているように背筋が立って胸が前に張り出す感じ。なるほどこれなら普通に筋肉をつけている人なら、その筋肉が引き締まってパワーを120%出せるはずだと納得。と同時に筋肉が外国のアスリートほどない日本のテクニシャン系ではかえって動きの柔軟性を殺いでしまって疲れさせるだけなんじゃないの? って疑問も浮かぶ。

 まあそりゃあ天下のアディダスがそのあたり考えもなしに創っているとは思えないけれど、同じ筋肉でも日本のどちらかといえば持続系な筋肉とアフリカ人のとてつもなく分厚くて鎧のように張り出したパワー系の筋肉とでは、やっぱり質も違ってそれを同じテックフィットとして締め上げたところで、同じ効果が果たして出るものか。アフリカの代表チームの試合で見るテックフィットを来たアフリカ系の選手の筋骨隆々として躍動的な動きを見ると、なるほど効果もありそうって思えてくる。でも日本のひょろりとしてゆらゆらと動き回っていざという時にそれなりの力を発揮する選手が試合中にずっと締め上げられていたら、終わるまでに疲れてしまうんじゃないかって来もしてくる。なにせフルネルソンな訳だし。

 そうかだから最近の日本代表は後半になるとバテてユルんで負けてしまうのか、って妙な納得も浮かんでしまうんだけれどそのあたり、どんな判断が働いているのかな。実際んところ全員がテックフィットを来ている訳じゃないから後半にバテるのも試合に負け続けるのも別に大きな要員があるんだろうけれど、それを言っても詮無いだけなんでここは頑張ってあと1カ月で全員がアフリカ人なみの筋肉をつけて、テックフィットのアワーを余すところなく引き出せる体を作ってアフリカに行くことを望みたい。とりあえず10日はこれ着て1日を過ごして代表の呼ばれる瞬間を待とう。呼ばれないってば。

 なるほど、練習に意図があり起用に理由があり戦術に目的があって、それを監督もコーチも選手も全員がしっかりと理解していたからこそ、試合であんな風に動けたんだなあと吉田戦車さんのいとこって人が書いた「オシムの戦術」(中央公論新社)を読みながら考える。誰だよいとこって。それは千田善さん。えっ、千田さんってそういう人だったのか。旧ユーゴスラビア状勢に詳しくってリポートなんかも書きつつ2006年からのオシム監督体制では通訳も務めていた髭で眼鏡の人。吉田戦車さんも本に描いててプロフィルでは人間として、裏表紙では猫にして描いている。見ればああこの人かってすぐ分かる。

 千田さんといえば、前にその付き合いの日々をつづった「オシムの伝言」(みすず書房)も書いていたけれども今度は子供の頃からのサッカーファンで、プレーもしてユーゴ時代にはレッドスターじゃない時代のピクシーも、サラエボのチームを率いていたオシムも見ていたことがあるという。なるほど通訳に適任だった訳だ。でもまさかテレビ番組のコーディネートで2006年のワールドカップでのオーストラリア戦を番記者と見ていたオシム監督に会いに行ってゼルズニチャルのユニフォームにサインをもらった時は、自分が通訳をするとは思っていなかっただろうなあ。それだから人生って面白い。そんな巡り合わせは僕にはないけど。1度くらいは有名になった人に会った時にあそこで書いてた書評読んでましたよと言われてみたいもんだなあ。もう13年も続けている媒体だってあるのになあ。

 それはそれとして、千田さんが今度書いたのはオシム監督の練習がどんな風に行われていて選手選考がどんな感じに行われていて、試合の采配がどんなだったかっていったサッカーそのものに関する報告。読めばなるほど何を狙って練習していたかがよく分かるし、それがどうしてうまくいったのかもよく分かる。サッカーとは何か。そして戦うというのはどういうことか。それには何をすれば良いのか。そうしたことをしっかりと意識づける練習を組み立てた上に、それがしっかりと意識されるようにした。飽きさせず前向きに選手が取り組めるような雰囲気を作り出した。

 たぶんそこが最大のポイントで、練習内容だけ見ていればそれはいくらだって真似られるけれど、その練習が選手たちにとってどんな心理のもとで行われていたかまでは練習の様子を聞くだけでは分からない。流れを負い選手の表情や態度を眺めることによってそれが選手たちをどう動かし、選手たちに何を感じさせたのかまで知らなければオシム監督の練習は本当の意味を持たない。オシム監督の下でまなんだコーチたちが、試合の方法だけ真似ようとしてもうまくいかないのもたぶんそこなんだろう、ねえ江尻、ねえ反町。

 ある程度は戦術の巧みさとオシム監督によって引き出された選手の潜在能力を取り入れて、自分のチームの底上げにつなげたガンバ大阪の西野朗監督だって、選手の心理にまでは踏み込めていないだろうかなあ。いや多分西野監督は選手のモチベーションも分かっているんだろうけど、そこに踏み込まずむしろ自分の采配についてこれる心理に持ってこさせるタイプだから敢えて知らないふりをして時に選手の造反も招いてしまうんだろうけれど。ともあれとても役に立つ本。と同時にサッカーの監督とはとてつもなく奥深い仕事なんだと教えてくれる本。こりゃあ1カ月であのチームを頂点に持っていくのは無理だよなあ。でも1カ月あれば戦えるチームにすることは可能かも。誰かの2年半よりオシム監督の1カ月の方が絶対に凄い。だからこそそのオシム監督に4年を任せてみたかった……。いやいや今からだって……。

 気を取り直して朝から池袋で「いばらの王 King of Thorn」を見る。まあまあの入り。2回目なんで細かいところで見落としがなかったか、なんてところを考えながら見てなるほどこれならちゃんと筋が通っていると改めて理解しなおす。ああなっていたはずのカスミがコールドスリープから目覚めるまでの過程。主観と客観の交錯。記憶にある光景が現実にあったものとは限らないという認識を確認した上で眺めていくとちゃんとその辺りを説明している部分があって、考えて作ってあるんだなあと分かってくる。でもちょっとやっぱり見えにくいか。その意味でも2回3回と見る意味がある作品か。

 とりあえずカスミもシズクも地味目な顔の割にボディはナイス。最近の女子高生は成長が早いってことで。あとやっぱり見ていてカスミのウザったさがよく分かる。姉貴の活躍にうじうじと劣等感を持ち足をひっぱているんじゃないかと恐れつつ、それで引っ込んでいればいいところを背負った不幸に他人を巻き込み大騒ぎした挙げ句に破滅へと突き進んでいってしまう自爆ちゃん。こんな妹を持ってどうしてあそこまでシズクをカスミをずっと思い続けていられたんだろうか。普通だったらこのウザ妹あっちいってって投げ出したくなるだろうに。それがあんなものを生みだすまでにカスミのことを思ってた。何かあったのかなああの2人は。カスミの覚えていないところでシズクが人生において大きな借りをカスミに対して負っていた、とか。そこんところも考えながら3回目、行くか。


【5月7日】 地下鉄から地上へと登れば、普通に目に入っていた光景が変わってしまうというのはなかなかに感傷的なもので、グランドプリンスホテル赤坂のあの屏風のような壁のような新館が消えてしまったあとに見える光景は、いったいどんなものになるんだろうかと、想像を巡らしてみる。背後にとりたてて大きなビルも建っていないだけに、きっと山上に青い空が広がって見えるんだろう。後に何が建つのか分からないけれど、ホテルのロビーへと登っていく階段の、脇に並んだ桜までもがなくなってしまうのはちょっと寂しい。なんてことをホテルニューオータニに立ち寄ったついでにグランドプリンスホテル赤坂を見上げて考える。

来年の今頃この光景は…"  当然跡地には何かがまた建てられることになるんだろうけれど、再開発が行われるなら多少は残った都市の緑を保ちつつ進めて欲しいところ。とはいえ都心にあれだけの再開発が可能な場所もそれほどないだけに、すべてをひっくり返すような開発が行われてはガラリと風景を変えてしまうんだろう。得体の知れない教義とか持った団体が出てきて巨大な神像とか建てたりしないことを願いたい。いやまあそれはそれで興味深い光景になるんだけれど。牛久大仏とかやっぱり異様だもんなあ、風景的に。それにしても30年保たないで“老朽化”とは、よほどいじくる費用がなかったのかなあ、でも宴会場の「五色」とか作ってまだ13年だし、いじくる考えはあったんだろうけどトップがああなってしまって後が続かなかったんだろうなあ。盛者必衰諸行無常。

 でもって任天堂の決算説明会。「2000万台も売れたWiiが売れてないって言われるんだから」という岩田聡社長の嘆息が物語っているように、とってもフロー的な数字でしか経営を判断しないアナリストとジャーナリストの感覚が、今なお面白い遊びでそれも世界で1番売れている遊びを提供しているじゃんって経営側とあとゲームファン側の感覚とかみ合っていない印象が相変わらず浮かぶ。それだけ任天堂って会社の存在感が高まっているってことなんだろうけれど、永遠に増収増益を続ける企業なんてないし永遠に存在する企業だってなかなかない。あったなら東インド会社なんていったいどれだけの規模の企業になっている? その時々にどんな感じで、そしてこれから何をしでかしてくれそうあのかっていった長いスパンで企業を見られる気分がないと、育つも企業や文化も育たなくなるし、人の目だって曇ってくる。株価が如実に関わってくるアナリストはともあく、ジャーナリストはやっぱり心に夢を持って見てそして書くべき、って気がするけれどもそうはいかないんだよなあ、夢がないから、書かせる側に。

 トマス・ピンチョンの季節がやって来た。続く長雨にムシムシとした部屋の中に入ってきては湿気を急速に吸い取って部屋をカラリと居心地良くしてくれる。すばらしいぞピンチョンくん。流石は老舗のエアコンだ。それはぴちょんくん。ピンチョンはといえばまさしくぴちょんんくん出動となる6月から日本で「トマス・ピンチョン全小説」を刊行の予定で今は懐かしく手に入れた時には感動もした(けど読んでない)「V.」を筆頭にして「競売ナンバー49の叫び」に「スローラーナー」に「重力の虹」ときて「ヴァインラインド」と、日本で発売されたもののことごとくを手にしている(けど競売ナンバーしか読んでいない)憧れの作家。それが新しい作品「メイスン&ディスクン」から「逆光」を経て「インヒアレント・ヴァイス」に至るまで、全部日本語になるっていうんだからこれは喜ばないではいられない。買いそろえよう(でもたぶん読まないけど)。

 毎朝新聞は7日、動画投稿サイトの「ヌコヌコ動画」と連携した新媒体「MAICHOU DANMAKU」を6月1日付けで創刊すると発表した。毎朝新聞のサイトで話題になっているニュースに関連したヌコヌコ動画の動画像に、コメント機能を使って付け加えられていくダンマクのようなコメントをピックアップ。これを紙面に反映させていく。具体的には新聞1ページに1つのニュースを掲載した上で、ニュース関連画像向けに寄せられたすべてのダンマクコメントを乗せて、ビジュアル的にヌコヌコ動画の雰囲気を残した読者参加型の紙面を製作する。

 なあんてな。まあこれよりはTwitterと連携するって方が時代性はあるけれど、すでにネット上に出ているってだけでタイムラグがあるニュースになのに、それにTwitterからコメントが寄せられる、それを編集して紙面化して印刷して配達して手元に届けるまでの間にかかる数時間から10数時間ってのは、今や先読みすら当たり前になっている情報の高速化の中でいったいどれだけの存在意義を確保していけるのか。そこのあたりで少し道が見えない気がしないでもない。

 その内容の濃さとそして重要さにおいて、最近わらわらと発売あれている記者クラブがどうとか2011年がどうとか電子書籍がショックだとかいった本にも引けを取らない内容を持ちつつも、なぜか書店であまり見かけず評判にも上がってきてないアレックス・S・ジョーンズの「新聞が消える」(朝日新聞出版)で指摘されている新聞の弱体化した理由は、1にも2にもニュースそのものの価値を軽んじて読者離れを招いたこと。速報だの俗情だのに阿りった挙げ句、信頼を失い経営を縮小させざるを得なくなり、結果としてさらにニュースそのものの価値を減じていってさらなり読者離れを招いている。

 そんなマイナスのスパイラルを止めるために必要なことは、読んで価値のある真っ当なニュースをちゃんと取り出し、掘り下げ形にして届けることなんだけれど、まるで正反対を行くように場当たりな人気で価値を決めて並べ、人気投票のようなコメントを添えて出す、それも1日2日遅れの話題として出していくってメディアにいったい、どれくらいの共感が集まるのか。ちょっと見えないけれどもそれを言ったら同様にタブロイドで切り張りな新聞に跳ね返ってくる。これが新聞なんだっていった感じにその存在を世に問い直し、新聞ってものがあるんだねって認識を広めるきっかけになることをとりあえず願いつつ、成り行きを見守っていくことにしよう。さてどうなる。


【5月6日】 ゴローの日。野口か「時かけ」かは知らない。財前ってのもあるか。でもって高速増殖炉もんじゅが再稼働との報。響く語感から誰もが「高速増殖炉もんじゃ」を思い浮かべたに違いない。「お昼のニュースです。東京・月島にある高速増殖炉もんじゃで発生した土手の決壊で、こぼれだしたもんじゃのたねは鉄板中に広がり縁をこえて座敷へと流れだし、畳の半畳を汚染し停止しました。政府では事故を重く見て、関西方面からの来店客にこれはお好み焼きではなくもんじゃ焼きで、製造には土手を高さ3センチ以上に作る必要があると指導するよう店に命じました」。そういやあ東京まで出てきてもんじゃって1回くらいしか食べたことがない。本当に東京名物なのか、ちょっと思案する今日この頃。

 月島つながりでもないけれども月島の古書店が舞台になった篠田真由美さんの新刊「緑金書房午睡譚」(講談社)を読み始める。父親が英国に研究にいってしまって残された娘が遠い親戚が営んでいる月島の古本屋に行って暮らし始めるんだけれど、いるはずの大叔母が見えないし何やら不穏が動きもあってこれは何か隠していると騒ぎ出す。でも現れるのは事件ではなく妖精だとか喋る猫。リアルの世界での出来事なのかそれともファンタジックな世界につながるのか。ミステリーとしての体裁も取りつつ日常にぽかっと開く裂け目の向こうにのぞく非日常みたいなのも魅せてくれそうな物語。ファンタジーなのかミステリーなのかはこれから読んでのお楽しみ。

 流れてきたメールに山下達郎さんのライブツアーの告知があって早速予約。とれるかな。とれそうもないんで関東近郊の行けそうな場所をとりあえず予約しまくろうと思っていたんだけれど、日程を見たら2公演目の宇都宮が日本SF大会の2日目を重なっててちょっと逡巡。達郎ファンでありSF者として果たして達郎さんを選ぶべきなのか、それともSFを選ぶべきなのか。迷ったけれどもまあそこはSF者らしい達郎さんへの敬意を重んじて達郎さんの公演を選ぶ。達郎こそがSFだ。だから達郎のコンサートもSF大会なのだ。そんな理屈はない。どっちにしたってすごい申し込みがあるだろうから取れないだろうなあ。中野サンプラザも大宮ソニックシティも。

 それでもちゃんとあちらこちらでやっていただけるのはありがたい。これが大阪になると前回のツアーでその閉鎖を惜しんで何度かライブを行ったフェスティバルホールが、いよいよ閉鎖されてしまったからなのか今回のツアーでは大阪会場がとられていない。あそこだってそれなりの都市なんだから、ほかにホールくらいあるはずなのに、日程が儲けられていないのはやっぱり相当にフェスティバルホールが気に入っていて、他でやるなんてもってのほかって考えたからなのか。ファンのことを考えるならやってあげたいんだけれど、そんなファンが劣悪な環境でライブを聞くことの方がよっぽど拙いって考える達郎さんらしい判断。

 とはいえしかしやっぱり寂しい。ホールがなくなるってことは単純に箱が1つ失われるってことじゃなく、それに付随するもろもろもも失われるんだってことを、世間はもっと考えた方がいい。新宿厚生年金会館もしかり。中野サンプラザもしかり。狭いからとか老朽化したからって理由で立て直して、それぜゼネコンにはお金はおちても肝心の中身がなくなってしまってはまったく無意味なのだから。フェスティバルホールは建て直されて2013年にはオープンするらしいけれど、そこを達郎さんが気に入って演奏に使うとは限らない。使うんだったら現状の場所にも探して試そうとするのに、そうはしていないところを見ると、大阪は永劫に達郎さんのコンサートを失ったかもしれない。このことを踏まえてこれからホールの閉鎖云々を計画しているところは、その計画の妥当性を考えた方が良いんじゃないのかなあ。

 1カ月かかるぜって言われたはずのサッカー日本代表のユニフォームが、何か10日で発送されたという案内がKAMOから届く。どうしたんだろう。2種類発表されたうちの例のテックフィットって奴なんで、背番号とかのマーキングはアディダスまで持ち込まなきゃいけないらしく、ゴールデンウィークにそういったことをしない関係で、しばらく時間がかかるって言われてたんだけれど、代表選手の発表も間際で盛りあがってきただけに、一所懸命仕事したってことなのか。それにしてもどんな着心地になるのか楽しみで不安。体にピッタリフィットくするように出来ているから、ブヨブヨの僕が着るととってもすごいことになりそう。でもそこはそれ、着て10日の代表発表の日に街を歩いて、旬な人ってインタビューを受けるのだ。目立ってどうする。とりあえず背番号は10でネームはNAKAMURA。それはもう2002年の時から続けているから、って2002年に中村俊輔選手出てねえじゃん。今回も出るのかなあ。


【5月5日】 柏餅食べてない。日日日さんの新刊「爆裂天使Xサン」(角川スニーカー文庫)とか出ていたんで読んだらXメンではなくXサンが出ていた。そういう意味合いなのかそれとも別のひっかけがあるのか。世界がいつの間にか正義の味方に占拠されたもののそのリーダーが消えてしまって残った正義の味方どうしでバトルロイヤルが始まったって無茶展開。

 でもってそんなひとりが突然現れとある少年に正義の味方を駆動させるエネルギーがあるから自分の僕になれと言っていろいろあってといった無茶ストーリー。さらに魔法少女が現れ変身美女が現れ戦ったり共闘したりといった果てに強大な敵が現れさらにその向こうに驚くべき真相が控えている無茶尽くしなのに、ちゃんと畳んで妙に説得力のあるメッセージを込めてみせるところがベテランの日日日さんってところか。

 森橋ビンゴさんの「ぼくこい」(角川スニーカー文庫)も読んだら高校生が彼女を作ろうとする話だった。贅沢な。僭越な。身の程知らずな。でもそれをやらないと部屋をヤンキーな姉貴にとられてしまうから仕方がないと立ち上がった4人組。けれどもいろいろあってそれぞれあってといった具合に進んでいった果て。果たして1人でも彼女は作れたのでありましょうか。それは読んでのお楽しみ。

 ドロドロっとしたシチュエーションにはいかず割にからりと青春やっている印象。とりあえず思わせぶりの女王様が最も性質が悪いってことで。いるよなあそんなの。けれどもそんなのにすら引っかかったことのない僕。人生はいろいろだ。個人的には部屋の明け渡しを要求してくるヤンキーお姉さんが実はとっても可愛らしくって良いんじゃね? って思うんだけれどどうして誰も手を出そうとしないのか。そこが不思議。デブチンな漫画好きの弟は論外としてエロゲー好きとかモンハン野郎とか生物部クンでは、やっぱり荷が重いか。

 細音啓さんの「氷結鏡界のエデン」(富士見ファンタジア文庫)の第3巻もようやくやっと読了。浮遊大陸からおっこちて汚れた波動を身に帯びながらも生きて還ってきた少年シュルティスが、前にあった最強の騎士の地位を目指して頑張っているところに起こる様々な陰謀って感じのストーリーに、計算が得意な少女キャラってのが新登場。聞けばシュルティスとは知り合いの理系少女エリエのライバルらしいんだけれど作れば確実に1等を捕るのはその少女キャラなのに、エリエに勝った感がしないのは、エリエが作るものが突拍子もないものばかりだからだとか。んでも完璧な計算機を作って誉められている人が、爆発する計算機ごときに負けたと思うってもちょっと違うんじゃないのかな。いやそれは確かに画期的で革新的だけど。使えないじゃんそんな計算機。

 そして物語は何やら画策する輩が出てきて浮遊大陸にとっての敵を培養したりしているところに調査に赴いた騎士たちが軒並み未帰還という事態を受けて乗り込んだ我らが主人公シュルティスとそして新登場の計算少女。謎めいた暗号を解読したりヘッドマウンテッドディスプレイを外して愛くるしいお耳を魅せてくれたりと大活躍だったんだけれど、現場で苦労して説いた暗号を戻ってエリエにぶつけたら間髪入れずに解答されてぎゃふん。やっぱりすげえのはあっちだったかという結論。そして始まるいろいろな陰謀が果たして誰のためのものなのか、それは何を目的にしているのかといったあたりが次巻あたりで明らかになるのかまだまだ続くのか。シュルティスといい、「鋼殻のレギオス」のレイフォンといい、最強を隠しながらもいざというときにすっげえ力を出す奴ってやっぱり恰好良いなあ。

 勝つには勝ったけれどもがっちり護った相手のディフェンスライン前まで持っていった先が雑で得点がなかなか入らない病が治った兆候はまるで見えないジェフユナイテッド市原・千葉。あちらこちらに振ってそこまで持っていったってそこから点がとれなければあちらこちらに振った労力はすべて無駄。走りも無駄。溜まるのは疲ればっかりで後半に奪われ青息吐息の中をパワープレーでたたき込むなら、最初っからもうちょっと考えて攻めれば良いのにって思えてくる。とにかくポストにボールがおさまらない。パスがまるでみないで出しているみたいで選手に合わない。そしてフィニッシュの工夫がまるでない。だから得点の気配が漂わない。

 裏を取るとかスルーパスに走り込むとかまるでない。サイドが走っているのに中に持ち込む倉田秋選手。シュートは売ってもゴールの枠に飛ばないネット選手。頑張りはわかるけれどももうちょっとしっかりと。久々に顔を見た中後選手。何かしてたっけ。とまあそんな感じに先は厳しそうだけれども、どうにか形になってくれば上でも通用するだろうからあとは精度とそしてテクニックを磨いていって頂きたい、ってそれプロの選手のそれも去年までJ1だった人たちに言う言葉かなあ。そんな程度なんだよ今はまだ。うーん。

 そして始めてiPod nanoの第5世代についてきたFMラジオが役に立った夜。NHKのFMでアニソン三昧が始まって途中から参戦したけど聞いたことある曲が立て続けに流れてきて記憶を幼少期から最近から90年代から80年代から零年代から最近へと飛ばされ引っかき回される。歌は世に連れ歌に連れ、っていうけれどもそしたヒット曲が普通の歌謡曲なりドラマ主題歌なりCMソングから生まれにくくなっているご時世に、アニメソングって奴の方がむしろしっかり時代を象徴して心に刻み込まれるっていう感じ。オリコンの1位にアニソンが来るのもそりゃあ当然だよなあ。

 「天空のエスカフローネ」あたりから聞き始めてそれでもたっぷり聞けたっけいったい何曲くらいいったっけ。テレビ版の「天地無用!」のオープニングとか懐かしすぎ。これを見て久々にアニメを追いかけようって思って追いかけていたら15年が経ってしまって今では立派な……。あそこで日曜日午後6時に「天地無用!」が放送されなかったら今でも普通の読書家に留まっていたかなあ。ああでも直後の「新世紀エヴァンゲリオン」でどうせ引っ張り込まれていたか。というか「天地無用!」で萌えシチュを経ていたから「エヴァ」の解釈合戦に巻き込まれて人生を変えられることなく、客観性を保って人生をまだ真っ当に生きて来られたのかもしれない。それが良かったどうかはこれからの状況次第。崖っぷちなんすよこれがまた。


【5月4日】 渋谷へ行こうと半蔵門線に乗ったら、沿線にあるらしい「東京都市大学」なんて学校の広告が貼ってあってどこの大学の話なのかと後で調べたら武蔵工業大学だった。23区内でも郊外の世田谷にあって都市も何もないけれど、電車で10分も走れば家並みの途切れる千葉とか名古屋あたりと違って、ここいら辺は川崎横浜にいたるまでびっちりと家々が連なった「都市」だから、似合ってないこともないか。これが例えば練馬区や江戸川区にあっても「東京都市大学」を名乗って許されたかというと……。まあJR埼京線の板橋駅前にあって「池袋本町」を名乗るマンションもあるんだから、今時のネーミングって奴は多分に気分に左右されているってことで。

 そういやあ似た大学に「首都大学東京」って奴もあったなあと思い出す。入学式で礼がどうとかいったことをウッドストック陰茎障子破りな作家が喋ってた学校だけれど、考えてみればこれもすっげえネーミング。元は東京都立大学でほかにいくつかくっつけた際に改名したらしいんだけれど、首都と東京って言葉が被っている上に間に「大学」が挟まっているから文法的に何がなんだか分からない。首都大学じゃあいかんのか。100歩譲って首都東京大学にしなけりゃ言葉的に変じゃないのか。それでも意味が分からないこともないのは、表意文字の漢字が並べばビジュアル的に意味を伝えられるってこともあるんだろう。英語じゃどう表記してるんだっけ。

 そこからいろいろと連想。大阪市立大学と大阪府立大学の合併とかが問題になってた大阪は、国立の大阪大学には出来ないんだったら首都大学東京方式で商都大学大阪にすればいかにも大阪っぽさがにじみ出てええねんな。どことの言葉だ。京都で似た話が浮かんだらすかさず古都大学京都に。雅やか。ちょっと通ってみたくなる。生徒は全員和服ってのも良いかも。横浜だったら港都大学横浜ってのもありかなあ、でもそれだと西の港都、神戸といろいろ悶着がありそう。ここは実力で決着を、ってなったら日本有数のコワい人たちも抱える神戸の方が勝つかなあ。横浜にだって濱マイクがいるから大丈夫、な訳ないか。

 同じことは神都大学なんかでも起こりそう。当然にして伊勢神宮のある伊勢市が名乗りを上げて、神都大学伊勢を立ち上げようとするんだけれども国津神を擁する出雲にたっぷり異論がありそう。神都大学出雲を名乗って対抗し、天津神と国津神とで再び戦いが起こりそうだけれど、そこはやっぱり故事にならって出雲が譲って平時は伊勢が神都を名乗り、10月の神無月だけ神在月になる出雲に神都大学を移転するってので、どう? 生徒もその時だけは出雲行き。玉造温泉に合宿しながら出雲のキャンパスへと通うのだ。それはそれで楽しそう。でもいったい何を学ぶんだ。名古屋は……何も思いつかない。さすがは不毛の地。不毛大学名古屋。じゃあ誰も来てくれないよなあ。

 とか考えていたら朝1回の上映になってた「半分の月がのぼる空」を見た人が、劇場から目頭を押さえて中から出てきてそして入れ替わりに入って「劇場版 文学少女」。見た印象としてはとりあえず、描かれている駅とか繁華街に人がほとんどいない“貸し切り”っぷりがなかなかに作画的に興味深い作品。さすがにラストの追っかけ部分で駅に少し人がいたけど、天野遠子と井上心葉が2人で歩いている街とか道に、まるで他人もいなければ車も走っていないのがなかなかに妙だった。2人のために世界はあるの? まあそれが徹底して不自然かというとそうでもないところが、描きたいことだけを描いてそれを観客も理解してくれるアニメの良さでもあるんだけれど。

 大きな筋では共感が嫉妬に転がり憎悪を生んで怨念に代わり、慚愧を引き寄せ永劫の泥沼に耽溺しようとしていたそところに救済が入り、すべてを親愛で包み込んで浄化して、そして新たな恋愛を育むという展開があって、それはそれでちゃんとしていたんで、見ていてしっかり腑に落ちた。主役に見えた少年と少女が、ネガティブなフィールドに閉じこもって終わりそうな所に打開が入ってそして解決編。やって来た遠子がタイトルロールっぽさを発揮して、文学を拠り所にしてわだかまった2人の心を解きほぐし、浄化していくシーンはなかなかに感動した。ちょっぴり涙ぐんだ。その意味ではなるほど立派に「文学少女」の映画ではあったか。用いられた本が「半分の月がのぼる空」と同じ宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」ってのも興味深いところ。使い方は違っていたけどどっちも親愛に結ばれた2人がたどる道の先を指し示していて、人との関係にいろいろと思いを馳せさせられた。

 あの長い話をよくまあぐわっしゅとまとめたという印象。そのため遠子が抱えていた家庭の事情、母親代わりの人とのとてつもなく陰険な関係なんがまるで描かれず、タイトルロールの文学少女であるところの彼女が、主人公ではあってもキャラクターとしてではなく、機械仕掛けの花嫁っていうか最後に出てきて良いとこ取りする女神にしか見えなかったのは、遠子好きとしてはやや残念。本は食べるけれども妖怪って感じでもないのも原作から読んできた人間には引っかかったかも。どうして彼女は本を喰らうのか。その理由に一切の説明がないから、ただの珍妙な人に見えてしまう。本が大好きな文学少女の癖して、どうしてどうして本を食べちゃうの? 好きなら普通は食べないよなあ。まあでも原作でも妖怪っぽさは影を潜めて人間としての遠子が描かれるようになっていったから、それはそれでありなのか。


 お買い物お買い物。無印良品で麻のペラペラの黒いジャケットと麻のパンツを買ったんで、合わせる麻のワッチをセンター街にあるおはようございますではない帽子屋さんで調達。去年買ったまんま着なかった生成の麻のパンツとジャケットに合わせた生成のワッチもあわせて調達。夏に帽子は必需品。直射日光が直接肌に当たるんで。ほっとけよ。せっかくだからとABCマートにも寄って黒いコンバースのローカットを調達。3000円しなかった。安くなったよなあ。コンバースっていえば高校時代は憧れの一品だったっけ、ハイカットのバッシュを買って履いていたなあ、それ以来だから四半世紀ぶり? いやもっとか。ちゃんとブランドとして残っているのは偉いなあ。日本ブランドのカジュアルスニーカー、オニツカの復活くらいしかないもんああ。


【5月3日】 やっぱり見ておかなくっちゃと起きだし新宿武蔵野館で「劇場版TRIGUN」を見る。何で2010年のこの生きに「トライガン」なのか? という根元に関わる疑問については気分を12年くらい前の、テレビで「トライガン」が普通にやってた時代へと直結させてることで解決。人気テレビ番組がそのまま劇場版にもなって出血大サービスしている流れに載ったものだという、理解を無理矢理にすれば別に気にすることでもない。というかそでもしないとやっぱり浮かぶ何故今なのかという疑問。きっといろいろあったんだろう。

 とりあえずヴァッシュは相変わらずにウザったく生きてて人を殺さないのが1番だとう信念をどこか道化めいた態度に載せて発揮しては、凄腕の強盗も撃退してしまうけれどもそれが将来に禍根を残した。20年後。強盗の一味はボスから奪った金でゴージャスな暮らしをしていたものの、復讐というよりけじめをつけに現れたボスによって1人また1人と財産が奪われていく。そして残った1人の財産を護るべく、ベルナルデ保険協会からメリル・ストライフとミリィ・トンプソンのペアが送り込まれるもののマントの下のデリンジャー列は使わずガトリング拘束弾も撃たないままどっちかといえば右往左往の脇役に徹し、ヒロインはどっかからやって来た両儀式、ではなく金星人のニノ、でもない男嫌いの女性ガンマンが務めてヴァッシュに絡む。

 一方で復讐に燃える強盗は道で倒れてひからびていたウルフウッドを用心棒につけ街へと迫る。そして始まる大乱闘。ウザさ炸裂だったヴァッシュのとてつもなく恰好良いガン捌きとかアクションとかが見られてそれだけで十分に満足できるできあがりだった。テンポも良くってダレ場もない。さすがは何故いまんだんだと思わせるくらいの時間がかかっただけのことはある。制作にそれだけの時間を直接かけたかは知らないけれど。このあとで原作漫画はナイヴスとの激闘へと向かうしテレビ版も漫画ほどではないけど激闘が始まるんだけれど、そこまで至らない時期を切り取り、あちらこちらでヴァッシュとウルフウッドとミリィにメリルが繰り広げたドタバタ人情アクションを、毎年1本上映するなりテレビ放送していけば、きっとお客もついて来ると思うんだけれど。「トライガンスペシャル ナポレオンの秘宝をさがせ」とか。それ違うシリーズだよ。

 すごい必殺技を見た。喰らえば頓死は確実。一生涯に残るダメージを負うかもしれない。その必殺技の名は「DoSパーンチッ!」。DoSとはディスクオペレーティングシステムではなく「Denial of Service=サービス不能」の略で、つまりサービス不能パンチとは「大量の同期パケットを送りつけて、その応答を無視することで相手の通信機能を停止させるパンチのことである。セキュアな通信路であっても、暗号通信関係を確立する状態変移の初期段階で無反応になってしまえば、タイムアウトまでの間は相手のリソースを削り取ることができる」ものらしい。

 つまりはどういうこと? それのどこが必殺技なの? 「『今からメッセージを送るよ」「おう、待つぜ」「なーんちゃって」で放置プレイをする。子供のの頃、気になっている女のことと遊ぶ約束をしたのに、無邪気にすっぽかされた経験はないだろうか。そういう待ちぼうけを、1000回同時にくらったようなものだ」。うわお。これは痛い。そして辛い。ライフの9割9分を削り取られた挙げ句に部屋に引きこもって布団を頭から被って「おんなのここわいおんなのこおそろしい」をぶつぶつ唱えながら3日3晩震えてそして一生、女の子にアプローチできなくなるくらいのダメージを被る拒絶の必殺技、テラトン級の肘鉄だ。

 それなのに「照れているのだろうか」としれっと言って自分の一切合切の責任がないように感じていられる精神は希代の変人として一部に知られた野上正三郎が半ば分身としてネットの中に残したエージェントだからだろうか。いやいや彼は実生活では極めて真面目で女性にも奥手で、心を引かれた大学の同窓生の女性にすらなかなか告白できずに悶々とした挙げ句、結婚告知サイトのデモンストレーションに彼女の写真を自分の写真といっしょに載せて激怒される失態をやらかしたほど。それで現世では吹っ切れたのが、固い性格がやや円くはなったものの女性に対していきなり「子供を作らないか」と言って「DoSパーンチッ!」を喰らうほどではなかった。

 あるいはエージェントとは、使役する主人の表面上の性格だけではなく、理性なり尊厳といったものの陰におしこめられて表には出てこない「こうありたい」という願望までもを写しとっては、現実ではまだまだ壁があるコミュニケーションをやすやすと成し遂げ影響を与え影響をもらって成長していくものなのかもしれない。だからこそ木本雅彦さんが「星の舞台からみてる」(ハヤカワ文庫SF)に登場させたエージェントたちは、現実の世界を動き回って野上正三郎が死後に残したネット上の痕跡を追いかける仕事の狙いを時に追い越すように、新たなコミュニケーションを育み危機的な状況からの脱出を成し遂げたのかもしれない。

 野上正三郎。天才的なプログラマーとして若くして幾つもの事業を立ち上げながら、経営には向かわず会社を売却して本人は悠々自適。しかし悪くしていた心臓がついに止まってしまって、野上自身が立ち上げた、死後にネット上の痕跡を処理する会社で働く25歳の女性、香南に野上の案件が回された。伝説の創業メンバーという重鎮の案件がどうして一介の契約社員に? という疑問はあったもののそれなりにそつなく仕事をこなし将来は正社員登用も願っていた香南は、親会社からやって来た男といっしょに業務にとりかかろうとした時。死んだはずの野上からメッセージが届いた。「僕は生きているよ。まだまだすることがあるし、贖罪しなければならないこともある。僕を、探してごらん。それが君の仕事だよ」。

 そうして始まった追跡は、リアルワールドでは香南が本社からやってきた辻河原という男とさらに、野上とは知り合いだったらしい若いハッカーの広野も加わって、メッセージの発信元にされていた野上が経由した小学校中学校高校大学に、あと経歴には残されていなかった就職先を訪ねて、人となりを聞きやってきた仕事を知っていく旅となる。その過程で繰り出されるさまざまなテクノロジー、LEDのサイネージを使ったデータ通信であったり脳波で操作可能な義肢だったり、宇宙とのタイムラグなき交信であったりと、今はまだ研究の段階にあってもいずれ、実用化されるだろうし実用化されて欲しいテクノロジーとして、生活にどう関わってくるのかを示唆してくれる。なおかつストーリーの上でも そうした技術がパズルのように組み合わさって、事態の打開をもたらすのだけれどそれはもう少し後の話。

 一方で香南や広野といった登場人物たちが使うエージェントたちも、ネットの上でさまざまな活躍をしつつ対話をしつつ思考もめぐらせる。思考。データを与えられば処理して送り出すだけのプログラムに果たして思考があるのか、といった部分についても本編の中で考察が行われるくらいに悩まし問題でありながら、それでも思考し意思を持って行動しているかのように動くエージェントたちの活躍ぶりに、次第に愛着もわいてくる。その便利さ、その親密さが人間の依存を生んでコミュニケーションが断絶した際に人間に混乱をもたらすかもしれないという考察。ますますネット化が進む世界が遠くない将来に受けるひとつの試練を示している。それを乗り越えるための道筋も。

 やがてたどり着いた野上の「贖罪」。それをめぐるスペクタクルの先に示される、野上の人生を追いかけていく物語の上で登場してきたさまざなテクノロジーが活かされたひとつの解決法を、アニメーションのファンなら涙なくして読むことはかなわない。疑問があるとしたら何故に野上が「贖罪」の元になった行為に手を染めたのかだが、単なる好奇心でも金や名誉といった対価でもない心理なり、真相がきっとあったのだろう。あるいは見通していた世界の距離が、現実の価値基準では判断できないくらいに遠すぎていたのかもしれない。

 結果、人類には次への一歩がもたらされる。それが起点となって紡がれるかもしれない壮大な宇宙年代記、人類の発展史への興味も浮かぶが、そうはならなくても地球に、人類に閉そく感を打破して未来へと向かう扉が与えられたかもしれないという希望が、読んだ後の心を洗って目を明かせる。頑張らなければと思わされる。現実には未だそういうことなはくても、いつかそうなるかもしれないという期待が心を躍らせる。現実に目を転じても、立場に不満を覚えていた25歳の契約社員の香南は自分とう人間に自信を得、そしてコミュニケーションをしたい相手も得た。それだけでも状況を打破する力になる。

 死後にネット上に残される痕跡の扱いの難しさ。能力があっても契約社員は部品に過ぎない悲哀。エージェントが一般化した世界での情報収集の形やコミュニケーションのあり方。人工知能の意思。散りばめられたひとつひとつが物語になりそうなくらいの重さがある。それを惜しげもなく配置し、なおかつひとつひとつに答えを出しながらひとつに束ねて描き出した、人類の未来を示唆して希望をもたらす物語。「声で魅せてよベイビー」から「クロノレイヤーに僕らはいた」を経てわずか3作目にして木本雅彦は、とんでもない傑作を送り出した。喝采をもって讃えよう。

 酷い言葉を見た。その言葉が公器を標榜する媒体に掲載されていることに驚いた。もはや公器は公器としての体をなさず、プロパガンダの領域、それも低劣にして卑俗な言説を垂れ流すだけの、チラシの裏以下になり果てかかっている。どうしてこうなってしまったんだろうなあ。ちょっと考えればそれが決して時流をとらえた言説として多くの支持を集めることにはならず、逆に本来の見方すらドン引きせ、いたずらな先鋭化を招いた挙げ句に縮小していくだけなのは明らかなのに。それ以前に社会の激しい糾弾を浴びて大きく勢力を削られることは明快なのに。そこに思い至らず現場のノリみたいなもので突っ走っているんだとしたら、ノリを押さえて節度を保ち矜持を保ち続けられるだけの知性が、もはやどこにも存在しなくなっているってことなんだろうなあ。今度こそ本当にいけないかもしれないなあ。


【5月2日】 気象庁が、気象予報士に続く資格として内閣支持率予報士の設置を検討し始めたことが明かとなった。新政権の誕生に伴い、支持率を調するメディアが増えて、ほとんど毎日のように結果が発表されるようになり、細かく変動する内閣支持率が政策の可否を左右する可能性が浮上。これが、農業従事者や漁業従事者のやる気に作用し、野菜の作柄や漁獲高に影響して市民生活を圧迫したり、支持率低下に伴う空気の感覚的な湿度増大が、洗濯物の乾きに気分的に影響していることが増えていた。

 このため政府では、内閣支持率を時間単位で予想し、提供することで心構えを持たせ、影響を低減する必要があると判断。気象データから天気を判断する気象予報士のように、メディアの情報や政治家の顔色から支持率の変動を予想する内閣支持率予報士の資格化に載りだし、気象予報士を所管する気象庁に資格の授与を任せることになった。施行は来年の予定で、今年度後半に第1回目の試験を行って合格者を決定するという。

 そして登場した内閣支持率予報士の仕事ぶり。「明日の鳩山内閣の支持率は、朝は米軍基地移設問題で米側の支持得られずとの新聞報道が掲載される予定になっていることから、18・2%に下がる模様ですが、昼に首相が人気アイドルユニットのAKB48を官邸で顕彰することで、ファンからの支持が集まり21・8%まで盛り返すでしょう。ただ午後には小沢幹事長の会見で憮然とした表情が、事故による音声抜きで放映されて、悪い印象だけが伝わることになっていますので、19・7%まで下がることになるでしょう。遅くまでお出かけになる方は傘が必要です」。そのうち株価欄か天気欄に内閣支持率予報も載るようになると思われ。

 眼鏡で巨乳で女医ってだけで正解な上にメインなネタはさらに強烈。だから山本和生さんの「ドリーズパーティー」(少年画報社)は素晴らしいと断言しよう。パッと表紙を見ると平野耕太さんの新作に見えて、手に取って中身を見るとやっぱり平野さんの新作みたいに思えるけれどもそれならそうと書くだろうし、よくよく見ればキャラの雰囲気も異なってはいるんで違うんだろう。でも関係はあるのかな。ないのかな。どっちだって良いけど、面白いんだから。

 荒くれ者たちが暮らす街に委員を開いている医師ドリー・シロマの病院には、真っ当な医者には直せない傷を負った人々がやって来ては、彼女のとてつもない手術の腕前によって治療してもらっていた。そこにやって来たのが今にも死にそうな男。ところが治る確率0%と診断されて後回しにされていたところに、金目のものがありそうだと乗り込んできた荒くれたちによって男は心臓をぶち抜かれてしまう。これは死んだ、と思いきや男は立ち上がって立ち向かい、荒くれ者の銃弾をすべて全身に浴びてもまだ生きて迫っていく。

 そんな頃には医院の用心棒たちも本領を発揮して荒くれ者たちを撃退。そしてドリーによる見立てでは、死なない男は全身が腐敗して崩れ落ちるまでは生き続ける不治の病に冒されていて、完治ではなくても延命なら可能だという。それで頼むと男が眠って起きた時、男の世界は変わっていたというか男ですらなくなっていたという、もうとってもありがちだけれどとっても麗しい展開が待っていたりするから、読めば誰もが眼鏡で巨乳で女医だけではない楽しみを、存分以上に味わえる。

 柔らかそうでコケティッシュな体にされてしまった、前は剣士だったらしい男に降りかかる忙しくも愉快な日々がしばらくは描かれていくけれど、どうやら最後にその正体が周知され、なおかつ敵らしい存在も浮かび上がって向かうは全面戦争か何かか。そんな展開に加えて依然として得体の知れない女医ドリーの物語も絡んできそうでとっても先が楽しみ。っていうかこんな漫画があったなんて単行本が出るまで気づかなかった。「ヤングキング」で連載されていたのかな。だから「ヤングキングアワーズ」での「ヘルシング」とかと違って、モロもなければチラもないのかな。まあそれもそれでそそられるんだけど。

 「怪物くん」はおっさんたちより美少女たちばっかりの方が良いよねってことを「怪物王女」に続いて「いちばんうしろの大魔王」でも確認してからはるばる板橋へと向かって「ライトノベルフェスティバル」を見物、えっとほぼ皆勤賞? その割にはライトノベルの作家さんと大勢知り合いになったとう感じもしないのは、こっちが未だに名の知られていないレビュアーで面とかまるで認知されていなかったりするからで、集まって談笑する作家の人たちを遠巻きにしつつ、選考を勝ち抜き新人賞の受賞なりを経てデビューしファンを獲得しながら本を書き続けて来た、クリエイティブへの情熱からしみ出る作家の人の存在感に、追いつくのは無理でもすがっていけるようにと頑張ってこれからも読み続けようライトノベルを。とか何とか。開場までの時間を過ごした練馬駅前のBECKSでも見かけた作家っぽい人たちは誰だったんだろう?

 そんなイベントでは馬の首をした平坂読さんと「俺の妹がこんなに可愛いわけがない」がアニメ化とかどうとからしい伏見つかささんとが談笑してハミュッツ・メセタでベヨネッタが良いという伏見さんの話に納得しつつ間を抜けて居眠りしてから賀東招二さんのトークを拝聴、篠房六郎さんが描く巨乳美少女っぷりがすばらしかった「ドラグネットミラージュ」がどうして「コップクラフト」になった際に薄い胸板の少女になってしまったのかと言えばその方が売れそうだという身も蓋もない答えが飛び出しそういうものかと理解。まあ村田蓮爾さんの少女も篠房さんの美女も、どっちも嫌いじゃないんで良いんだけれども可能ならば両方のタイプで描き継いでいってもらえれば、両方にアピールできたんじゃなかろうか。本筋にはそんなに違いはないんだし、一部とそれからさし絵を自在に選べるような電子版って奴を出してくれたら嬉しいなあ。電子出版の時代ならそううことも可能になるのかなあ。

 んで待望の「フルメタルパニック」の最終巻は現在進行形で発売時期もほぼ決まって確実に読めそう。そうはならないシリーズがわんさかある中でちゃんと最後まで締めていただけるだけでも嬉しいことこの上ない。「コップクラフト」のシリーズも2巻目からさらに先をよろしくお願い。そんな賀東さんはすっかり大人で喋りも巧みで面白くって、もっと一杯露出すればファンも増えて作品にだって人気が出て美少女のファンとか群を成して集まってくるんじゃなかと思ったけれどもそういったスター扱いに、冷静なスタンスをとって来たことが今までちゃんと作家を続けてこれた理由でもあるようなことを話してたから、これからも浮かず沈まず定位置を保って疾走し続けてくれると期待。完結に併せて新聞の方とかで話とか聞いてみたいよなあ。1ページだって使って大々的に紹介しちゃうんだけれどなあ。


【5月1日】 新年が始まり3分の1が過ぎて、事態はひたすらに悪化の一途をたどるばかり。新年度が始まってからの1カ月ですら、事態の減退が見え隠れする状況の中で、ぼんやりと見えてきたデッドラインに向かってひた走るチキンレースが、岸壁から海の中へと落ちるなり、迫る壁にぶち当たる瞬間に向けて身を固め、せめて命くらいは保ちたいと願うものの、パラシュートもなく鎧もヘルメットもない、むき身の体で突っ込んでいくデスマーチ。やがて訪れる新年の3分の2が過ぎたあたりで、果たして世界はどんな色をしているのかを、想像するのも億劫なんでひたすらに逃避だ、夢の世界へ。

 かつて発表した廃墟の写真を、似た場所から似た角度でいっぱい撮られ発表されて困ってしまったという訴えを行っている写真家の丸田祥三さんの問題については、今まさに裁判が繰り広げられているため帰結は審理にゆだねるとして、そこへと至る過程で起こった出来事が、丸田さんのブログで期間限定(?)ながら公表されてて、そこにしたためられている事態にこれは剽窃か否かといった問題とは別の、ジャーナリズムのあり方に関わる問題が横たわっていて、こうした事態が起こり得る状況の恐ろしさに戦慄が走る。

 おそらくは築地方面で刊行されているカメラ雑誌なんだろうけれど、丸田さんが写真が似ている問題をぶ指摘して、それはどういうことなのかと言い分をライターの人が聞きに来て、ならばと丸田さん側では似ている写真を並べて読者に見てもらおうと提供したら、何故か似ていると指摘したものとは違う写真が掲載されていて、それでもって「似てる?」って問題提起がされていたから驚いた。読めば「似てないよねえ」と思えてくる記事と写真の構成。でも本当はそうじゃなかった。似ている写真があった。それを渡していた。向こうも渡されたことを認識してた。してないはずがなかった。それなのなのに違う写真が掲載されて、どうなっているんだと抗議をしたら、担当している編集の人から拒絶され、あまつさえ悪者にされかかった。

 半端ない。もうとてつもないくらいに半端ない出来事。だってこれ、完全に人を陥れようとしているじゃん。築地といったら前にサンゴを自分で傷つけておいて、その写真を撮ってサンゴを傷つけたのは誰だってデカデカと報じた挙げ句に自演を見破られ、糾弾されて社長が辞めたんじゃなかったっけ。そのサンゴは今では元通りになってるみたいだけれど、丸田さんのケースは丸田さんを知っていながら知らないふりして傷つけて、そのまま逃げ切ろうとしていた訳で、功名心とプレッシャーからついつい出来心で動いてしまったサンゴの事件なんかより悪意が深く、問題として大きいような気がして仕方がない。

 それが証拠に事態を重く見た雑誌の発行元が、「我が社はじまっていらいの不祥事」と認識しておわびを出すなど対処をしたほど。でもそれで誰かの処分はあったのか。原因究明は行われたのか。かつて行われた「我が社はじまっていらいの不祥事」では社長の首が飛んでいるのに、こちらでは誰かがどうなったのかという話は聞こえて来ないし、1年が経って丸田さん自身が経緯を明かすまで、そこに何があったのかが伝わって来なかった。おわびだけみれば単なる掲載ミスにしか見えないけれども、背後にあったのは悪意すら指摘されてやむを得ない事実の歪曲と状況の捏造。ジャーナリズムの根幹に関わる問題でもあるだけに、なぜそうなったのかを究明し、責任の所在を明確にして糾弾しなければジャーナリズムとしての信頼に関わる。

 言論が中立というのが幻想なのは百も承知で、分かれた勢力の片方に立脚して弁明なり擁護なりをすることはあって不思議じゃない。裁判というデリケートな問題に関わっていることだけに、偏りは決して良いことではないけれども、そういうことが絶対にないとはなかなか言えない。問題は、片方に立脚するためにありもしないことを持ち出し、もう片方を貶めようとした振る舞いがあったように見受けられること。これを知れば築地方面を強く忌避する勢力から、声高に糾弾の声が起こって不思議ではないんだけれど、そうした声のまるで聞こえて来ないところを見ると、築地だ大手町だ紀尾井町だ神楽坂だといった対立の構図を上回って、片方に立脚し続けざるを得ない空気が写真の世界には漂っているってことになるのかもしれない。憎み合う勢力が恩讐を超えて一致し片方を認め片方を貶めようとするくらいに、何か強い影響力が働いているのか。分からないなあ。

 透明人間のようにSFセミナーに入り込んで、透明人間のようにいろいろ聞いて帰る。透明人間なんでほとんど誰とも喋らず。小川一水さんの「天明の標」シリーズは時代も設定も主役も替えながら描いていく壮大なクロニクルになりそう。結果として導き出されるのは人類の未来かそれとも宇宙の姿か。間はちょっと抜けて戻って日本のSFなんかを海外向けに翻訳している外国の人の話。英語に自力で訳したものを編集者代わりの別のネイティブに見せて文章としてちゃんとしているかを精査してもらうらしい。自分でいじくっていても歯止めがきかないってのが理由。それを自費で雇って完成原稿を作って納品したら、あとは翻訳印税なんてつかないもの不思議な話。それが安価に日本の小説を世界に持っていく仕組みだとしても、どこか詮無い話しではある。正解はどこに。

 そして東浩紀さんが喋って喋って1時間のトークショー。まあだいたいのところは聞けた。ちょっぴり細くなったように見えたけれども遠目だから分からない。そのまま帰宅。存在感の希薄さがどんどんと増しているなあ。まあそれで困ることはないけれど、なんて強がってみせる。うーん。昼食はひとりでリンガーハットで野菜ちゃんぽん。7種類で480グラムの国産野菜が入っているってふれこみだけれど、このご時世に野菜も高騰しているだろうにどうやって調達しているのかが不思議。それとも今は良いけれどもやがて豆もやしにカイワレにアルファルファといったモヤシ系野菜を含んで7種類とかってことになっていったりするんだろうか。まあそれもそれで野菜いっぱい食べられて文句はないけど。僕たちには野菜が足りない。それ以上にお金も足りない。1年を終えて生きていられるかなあ。


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