縮刷版2010年2月下旬号


【2月28日】 2カ月だから6分の1が過ぎてそして滅亡へのカウントダウンは着々と。着々? 目覚めるとやっぱりチリでの地震に絡んだ津波の報がテレビにいっぱい出ていたけれども高さが房総あたりで2メートルとかって数字も出てたんで、東京湾の最奥とはいえ海辺な街では何があるか分からないと避難がてら東武野田線を乗り継いで柏へ。駅前から雨の中を歩いておおここが角ふじかとラーメン屋の前を通り過ぎながら思いつつ、いかにも古典的な市立図書館って雰囲気の柏市立図書館へと行き、ここが主催して3月7日に開かれる「橋本紡文芸講演会」を直接カウンターで予約して来たけれどリストではおおよそ25番目くらいとやや少数精鋭気味だった。

 ほかに電話なんかで取っていたりいっぱいになったリストがあったりするのかもしれないけれど、そのままの数字だとしたらやや少数精鋭過ぎるんで「半分の月がのぼる空」でファンになった人も「リバーズエンド」「バトリシップガール」あたりから好きな人も、もちろん「もうすぐ」での周産期医療問題についての指摘に関心を持った人も駆けつけるのが宜しいかと。図書館には平台が作られ橋本さんの過去のライトノベルの文庫本から昨今の一般文芸へとシフトしてからの著作とそして「九つの、物語」なんかで紹介されていた本に「半分の月がのぼる空」に出てきた「チボー家の人々」なんかも並べられた特集コーナーが出来ていて、その全貌を知ることができるので興味がある人はゴー。

 あと「新刊展望」の2010年3月号も置いてあってこちらでは三村美衣さんが昨今のライトノベル事情なんかを語ってる文章が載っていた。橋本さんとは関係ないけど新城カズマさんの紹介とそして新城さん自身の登場もあって結構面白そう。講演会の会場とは違うから見るには図書館へ行くしかないのかな。3月7日は遠く熊本で我らがジェフユナイテッド市原・千葉がJ2の開幕戦を戦っている日でもあって、遠く千葉から応援するべく中にユニフォームを着ていきたいところだけれどおなJ2を戦う柏レイソルの本拠にそれは失礼なので遠慮。といいつつ下に鎖帷子の如く着込んでいったりして。さて。

 角ふじの前を通り過ぎて柏駅まで戻ってマクドナルドで2度目のハワイアンバーガーをむさぼりつつ雨のようすを伺っていたら晴れてきたんで船橋に戻ってテレビで実況を見るのは遠慮して、電車で秋葉原へと出て海野がしていたブルーレイディスクなんかを漁ってみたけど石丸電器がどうにも使いづらくなっていたのにちょっと愕然、っていうかここん家で「BLACK LAGOON」のブルーレイディスクの初回版が普通に並んでいるのを見たことがない。すぐに売り切れになるってんなら近所のヨドバシカメラにはどうしてあんなにも豊富に在庫があるのか。売れるものなら売りたいんだろうけれどもそのためには在庫を揃えなくっちゃいけないんだけれど、揃えるとリスクになるから極力予約にしてあとは数本とかって状況に陥っていたりするんだろうか。単に利用が多くてすぐに品切れに成っているだけなら良いんだけれど。

 あるいはリスクテイクだとしたらパッケージ市場の停滞もひとつの要因なんだろうけれど、それを秋葉原って場所に好立地しながらせざるをえないくらいにヨドバシヤマダビック以外の家電量販店にとって秋葉原が好立地ではなくなっていたりする現れだったりするのかなあ。今はまだパーツ屋とかあってメイドさんも路地に立ってて賑わっていたりするけれど、漫画にしたってゲームにしたってDVDにしたってそこにいけばたいていそろった時代ではだんだんとなくなっていたりする状況が、そのまま進行すればやがて趣都と森川嘉一郎さんが評した秋葉原も、遂にただの商業地へと変わっていったりするのかも。それとも違う別の趣味がやって来たりするんだろうか。それはいったい何だろうか。見かけは商業でもその上のレイヤーにARな何かが重なっていたりする、とか。そしてヘッドマウンテッドディスプレーを着けた人々がさまよいながら、秋葉ならではのARの快楽に身をゆだねているとか。

 水没もしていなかった船橋へともどりときわ書房船橋本店で山尾悠子さんの「歪み真珠」(国書刊行会)とか船戸与一さんの分厚い上下巻の新刊サイン入りなんかを購入したら財布が尽きた。「歪み真珠」は美麗な箱入りできっと中身も嘆美な文言に満ちているのだろうけれど、ブーブー紙がついているのを出すと二度と元通りには入れられないのでちょっと読むのを遠慮したいところ。でも読まなきゃ中身が分からない。悩ましい。ほかに角川スニーカー文庫から出ていた新人の人のエイリアンにアンドロイドにされちゃう少年の話なんかを買って冒頭からちょい読んでみたけど、完全に死んでしまった人間から意識というか記憶というかデータをぶっこぬいて移植したアンドロイドは当人じゃないよね? それをそうだと自覚できるアンドロイドが自分は自分なのかと葛藤するかどうかが個人的な観点で、そこに最初はあまり触れられていなかった「灼眼のシャナ」がやがて葛藤の中に選択をしていく展開となって浮上したように、こちらも存在について語ってくれるのなら(それともすでに語っているなら)要注目。さてはれ。

 気づいたら中村俊輔選手が横浜F・マリノスに復帰していた。半年前に復帰していたら今頃は日本代表にもすっかり定着してそれなりのものを見せていたかもしれないけれど、逆に何も変わっていなかったとしたらこれから先に何の劇的な変化も起こらないって絶望を与えてくれたかもしれないんで、この時期の復帰は岡田サンにとっても干天の慈雨になったんじゃなかろーか。それで3月3日バーレーン戦で中村選手を使って本田圭祐選手を控えに回して粉砕されたら元も子もないんだけど。中村選手といえば2002年のワールドカップに出られなかった直後に欧州に移籍するって言った時にマリノスでの最後の試合を国立に見にいったんだっけか、2002年仕様のユニフォームに10番を書かれているものを着て、サイン会でもらったタカノ綾さんに描いてもらった似顔絵が入った本持って。

 あれから7年と半年。日本のサッカー界があの興奮をバネにジャンプアップしたかっていうと逆なのがどうにも空しい。せっかくの復帰だから歓迎したい気は大いにあるけど、未だに中村選手が現役トップに君臨していたりする状況は、やっぱり違うんじゃなかろうか。イングランド代表はベッカム選手は脇に追いやられてルーニー選手がトップとなったし、アルゼンチン代表も1次リーグ敗退の憂き目からメッシ選手が現れた。ルイ・コスタ選手とかパウレタ選手しかいなかったポルトガル代表にはクリスチアーノ・ロナウド選手が加わり世界の顔として引っ張ってる。

 ロナウド選手一辺倒だったブラジル代表はロナウジーニョ選手すら新陳代謝されてカカー選手が現れアレシャンドレ・パト選手も現れトップを張り始めているのに日本は未だ中村選手。やぱりこれって拙いよなあ。でも持ち上げ続けるメディアばかりの責任じゃなくって実績として中村選手を上回る選手が出ていないのも事実な訳で、そこんところを日本のサッカー界の人たちも、噛みしめないと4年後にはもう何も残っていないなんてことになりかねない。ってか4年後もワールドカップに出られるなんて思えない。そんな瀬戸際まで来ているのにまるで危機感がないのがどうにも見ていてやるせない。今が分水嶺。それをどう越えるか。越えてみせるか。3月3日以後に注目したいけど、果たして。


【2月27日】 天気も良くはないのでサッカーなんぞを見に行くのは止めにしたっていつか、ハナっから見に行く気もなかったけれども天気次第ではってちょっとは思ったりもしていたのをあっさり袖にして、六本木のTOHOシネマズで字幕の方の「コララインとボタンの魔女3D」でも見ようかと出かけて行って時間を調べたら午後の3時からが字幕版の1回目。それなら途中で美術館でも入ればいいかと現地に着いてふと見たら、「機動戦士ガンダムUC」のポスターが張ってあってここでもやっているんだと知って調べたら午後までに何度かの上映があるみたい。

 ならばと1枚まず買って、頃合いを見計らって劇場へと入って4割くらいの入りの中を見た「ガンダムUC」はやっぱり少年がいて新型のモビルスーツがあってそして戦いが始まっていた。だったら新型のモビルスーツなんか作らなかったら戦いなんて始まらないんじゃないのかねえ、って考えたところで技術があれば高めたいのが人間の本性。そして作り上げれば使ってみたいのもまた人間の習い性って奴だったりする。

 かくして次に次にと進化発展していくモビルスーツに少年は憧れ人々は引っ張られ、そして宇宙から戦争はなくならないのであったという、宇宙戦争モビルスーツ原因説。それが無理なら新型のない新シリーズを作ってみれば良いんだよ、ってもはやそれだと「ガンダム」じゃないからなあ。玩具メーカーの思惑になんか乗るものかと作り出したモビルスーツが結局は作品の核となって物語を引っ張っていく。富野由悠季監督とかどう思っているのかなあ。

 それはそれとしてユニコーンガンダムはやっぱり恰好良いなあ、とりわけ変形する場面とかは、覆い隠されていた顔が明らかになり、角がひらいてVの字になる場面とか見ていて鳥肌がたつ。やっぱり長年ファンをやっているとあの意匠に強く感じるものがあるらしい、っていうかあの意匠だからこそってことだとも言える訳で、それがすなわちそれなくしてはって心理と、そしてそれがあるからこそって真理に直結していたりするみたい。印籠なくして黄門にあらずといったところ? まあそんな感じ。ガンダム出ずしてガンダムに非ず。そんなもんだ。

 でもあの時代、あの世界に生きる人にとってガンダムであることの意味ってのはどれほどのものなのかがちょっと見えない。アニメの描き手が主役メカとしてガンダムを位置づけ秘密兵器的な位置づけに置いているのはそれとして、物語世界において頭にVなガンダムフォルム、あるいはガンダムフォーマットは禁止されてて、それは最強であり最凶を意味するものだからといった認識がされていて、それが作られていて現れたことにことに驚いているのかどうなのか。そんなあたりに踏み込んだ言及が福井晴敏さんの小説にはなされていたのかいないのか。ちょっとまとめて読み返してみようかなあ。途中で止まってたもんなあ。

 というかほとんど出だしすら覚えていなかったんで、アニメ版を見て誰がどうで何がそうなのかがまるでつかめず。手探りのようにしてカミーユ、じゃなかったバナージ・リンクスとう少年がいて学校みたいなところに通っていたけど妙に勘が鋭くって眼も良くってコロニーから降ってくるお嬢さんをめざとく見つけたら、いろいろと引っ張り込まれてその挙げ句にユニコーンガンダムど出会い乗り込みついでに今生の別れなんかも経験して、そしていよいよ戦いの渦中へと飛び込んでいくんだ以下次号、ってなもんか。

 でも次号って秋なんだよなあ。隔月じゃなかったんだよなあ。半年に1本で3年ってペースが映画として遅すぎる訳じゃないけどOVAとしちゃあちょっと間延びし過ぎかも。ムーブメントにもしづらいし。クオリティったって「空の境界」あたりはもっと早いペースでクオリティも維持しながら走り抜けたんだから天下のサンライズにできないはずはない、って言いたいんだけれどUCだって戦闘シーンは迫力あったけれどもコロニー内の描写が「マクロスF」のフロンティア内の描写に勝っていたかっていうと……。あれはあれで妙に街の描写が緻密だったんだよなあ、そんでもってスケール感があった。初代の頃はオインール型コロニーの湾曲した“地表”すなわち内周部分の描写だけでリアリズムだったんだけれど、時代が進んでそこに生活感といったものまでリアルさを持たせないと、満足できなくなってしまったみたい。そこをつかんで「マクロスF」は勝利した。対して「機動戦士ガンダムUC」は。要検討なところかも。

 まあでもストーリーは面白そうだし深そうだし、オードリーちゃんは髪型も変わらないままツンとして凛として可愛らしく描かれていて、とりわけ横顔での唇のふくらみなんてとても柔らかそうでスクリーンに顔を寄せそうになったくらいなんでこれからも、終わるまでつき合っていくことだけは確実。見終わってブルーレイディスクも買ったんで再生しながらそんな唇とか見入ったり、キュベレイほどじゃないけどそれはそれで異形っぷりが恰好良いクシャトリアの構造を研究しつつあの世界で何が起こっているのかをつかみ直し、そしてどこへと向かっていくのかを小説とともに楽しんでいこう。劇場では公開し続けるのかな。

 劇場を出て「コラライン」まで時間を潰そうと森美術館で「医学と芸術」を見物。飾られていた貞操帯を見ながらこれがいったいどんな女性のどこにどんな感じで取り付けられていたのかってことを想像して、それを家に持ち帰っていろいろ仕えるほどには若くないけどそれでも想像してみるとちょっと愉快。そういうところが博物的な展示にはあるのだ。義足とか義手の類にも。珍奇だったのが頭蓋骨を紙におしつけごりごりごりごりとやり抜いて、白っぽくしあげた平面作品で、貞操帯以上にそこには誰かが存在しているってことの重さを突きつけられる。死んでしまえばそれは頭蓋骨であっても人ではない。だから人間には意味がないと知らしめるのか、それでもそこに人はいたのだという記憶を喚起するきっかけにすべきなのか。どっちにしたって刺激的。ただしあんまり趣味はよくない。これが成り立つなら死体から搾り取った油から石鹸を作って手を洗うことだって芸術になりそうだし。

 そして戻って「コララインとボタンの魔女3D」の字幕版。ダコタ・ファニングは叫ばせれば超一級の女優だなあ、個人的にはもうひとつの世界のもうひとりのボビンスキーの部屋から叩き出されて放り出されるシーンだかでのぎゃーって叫びが素晴らしかった。上っ面だけじゃなくって喉の奥の腹の底から出る叫び。金切り声とも違うけれども野太さもない叫び。それを聞くだけでも吹き替え版が入ったブルーレイディスクを買う意味があるかも。もちろん吹き替え版だって嫌いじゃない。あれはあれで良い物だ。

 全体については2回目だから分かっていたんで細部に目を配れて、冒頭から何をやっててそれがどう繋がったが見えてなるほどなあといった感じ。動きについてはやっぱりこれCGじゃねえかと思わせるような滑らかさ。でも違うところが凄いよやっぱり。その凄さがどこまで伝わっているかは謎だけれども、そうしたこととはお構いなしに物語とビジュアルに引かれてちゃんと観客がやって来ているところが面白いというか好ましいというか。決して大宣伝をしている訳じゃないのに午後3時の吹き替え版のちょっと割高3D上映はほぼ満席だったもんなあ。人気を受けてNECAのファッションドールも再発されるみたいだし、この勢いでアカデミー賞も受賞してくれたら日本でもコマ撮りアニメへの理解が深まっていろいろなアニメが作られるようになるんだけれど。ジブリディズニーピクサーばっかじゃねえんだぜ。


【2月26日】 「よなよなペンギン」の歌でも聴きながら見るべきだったかもしれない宇宙的にビッグバンしていたらしいキム・ヨナさんの演技を放り出して、なぜかシネマート六本木に移っていたGAGAの試写会場でもってとあるフルCG映画を見て、とりあえず日本の戦隊物とか「ワイルド7」とか勉強してから脚本は書こうとか思ったり思わなかったり。9人揃えるんだったらそれぞれに特徴を持たせ得意技を発揮させつつそれでもかなわないなら他に引き継がせるような何かを残していかないと、数だけ出しても雑魚のもぐらたたきになって何の感動も浮かばないんじゃなかろうか。

 9人をそろえた意味ってのがどこにあって、それが9人じゃなくってもどうにかなったんだってところにがないと単なる人数あわせに終わってしまう。あるいは数だけ用意してバッファーにしたって考え方も出来ない訳じゃないけどそういう感じでもないしなあ。あとは何を何から守ろうとして得られた何かは何のためになっているのかってところも示さないと、その戦いにまるで意味がなくなってしまう。そういった所を気にしなければさすがに奇才が認めた才能だけあって絵は巧みでデザインも独特。ついついそんな世界に引っ張り込まれてしまう。ビジュアルコンセプトとグラフィックの才能は発揮しつつスクリプトを外から得て何かを作り出してくれればきっとこれからに期待が持てるかも。注目していこう。

 って感じに外に出てテレビを見たらすべて終わって我らが名古屋の星は銀だった。銀盤カレイドスコープなだけに銀が1番、っていった意見もあったそうでなるほどその通り。なおかつ桜野タズサはバンクーバーでは金はとらずに最後の世界選手権でライバルのリア・ガーネットにうち勝ち自分にもうち勝って世界トップの称号を名実共に手に入れた。なので我らが名古屋のスーパースターもトリノの世界選手権で本当の真実の正解のリアルの実力って奴を存分に発揮して記録としても記憶としても永遠に語り継がれるフィギュアスケーターになっていただきたいもの。タズサばりの悪口雑言だって許しちゃうけどそれだけはまるで正反対なんだよなあ、真央ちゃん。偉いなあ。

 張間ミカさんの「星をさがして」(トクマ・ノベルズEdge)が傑作すぎるのですべてのSFファンとファンタジーファンと、天文ファンと猫ちゃん好きは読むようにとここに高らかに断じよう。物語の滑り出しは樹上都市。いずこからともなく流れ着いた魔女ガートルードが、テントでの生活から抜け出て知識を活用し、星がつまった部屋を作りたいと願うところから幕を開ける。部屋の壁に星が輝くという仕掛はつまり一種のプラネタリウムだ。

 そんでもってルードは夜の闇を司り、星の光を集められる神様を魔法の力で呼びだして、何とか手伝わせようとする。そして現れたのが黒猫のような神様で、ルードは神様が逃げ出さないようにして捕まえ従わせるようにしつつ、星を投射できるだけの場所を作るための費用を稼ぐ算段をめぐらし、とりあえず裏町でカツアゲをしている悪党からカツアゲしようと画策する。何という気性に腕っ節。魔女っ娘とかいった可愛らしさとは対照的なルードの性格が面白い。

 もっとも、ルードがそんなに強いのは実は裏があり、過去が絡んだりするんだけれどもしばらくは魔法は確かでも貧乏なルードが、潜在的に持っている力とそして今の実直な暮らしぶりから妖精たちを見方に引き入れ、さらに避暑にやって来たお金持ちの貴族にも慕われて、星の部屋を作るために邁進していくってストーリーが繰り広げられる。もっともそんな魔女っ娘頑張りストーリーの間に軍人らしき青年と、そしてアンジェリカという少女の話が挟まれこれは何だろうと気を引く。

 そしてめぐってきた軍人とアンジェリカとルードの邂逅のシーン。ここに来て陰惨な過去がルードの心に落としている暗闇の重さを感じさせ、やってしまったこと、失ってしまったものへの後悔を引きずって生きるつらさを感じさせる。一方では、憧れの存在に裏切られる哀しみも描かれて、そんな様々な思いがひとつに重なって哀しみと傷ましさの色濃く滲むクライマックスへと進む。初っぱなの愉快さがまるで嘘のように残酷で悲しい物語。ちょっと意表をつかれた。

 ミギーさんが描くイラストの可愛らしさも相まって、てっきりファンタジックでリリカルな物語かと思っていたら、理想だけでは決してままならないい世界の仕組みの複雑さ、人が生きるには誰かを踏み台にしなければならなかったりする現実の残酷さを感じさせ、そうした事態から離れては生きられない人間という存在の愚かさ、やるせなさを知らしめつつ、それでも自分の本当の願いを求めて生きる大切さを教える物語。それを多分まだ20歳に満たない作者が描いたんだから驚くより他にない。これが才能という奴なのだ。

 前作の「楽園まで」でも可憐な双子の姉弟が、能力者であるというだけで教会によって迫害され、差別されて逃げまどう世界の残酷さを浮かび上がらせつつ、それでも諦めないで楽園を目指す心の清らかさを描いて心に大きなものを残してくれたっけ。最新作の「星をさがして」では物語を構築する巧さを高めキャラクターを立てる巧みさを高め、そして告げるメッセージの強さ激しさも同時に広げて見せたその才能が、いったい次に何を描くのかに興味津々。その前にやっぱり現時点での到達点の高さを感じるべく、読むのだすべてのSF好きとファンタジー好きと星好きを黒猫好きは。

 鶴田謙二さんの描く少女がかわいらしいのは「チャイナさんの憂鬱」の昔(そんなに昔でもないか)から知ってはいたけど改めて漫画による大判でフルカラーでもって発行された梶尾真治さん原作の「さすらいエマノン」(徳間書店)なんかを読むと、スレンダーでストレートヘアな美女を描いてもとんでもなくキュートだってことが確認できて嬉しいやら気恥ずかしいやら。ジーンズ姿にセーターってのも体のラインがしっかり出ていてお尻の丸みも眼に感じられて嬉しいんだけれど、新刊には川で泳いでいたり温泉に入っていたりとすっぽんぽんのエマノンがいっぱい登場。ちょっと電車では読めないくらいのビジュアルを誇ってる、って表紙からしてそんな感じなんだけど。

 ついでに子供の男の子もすっぽんぽんがいっぱいいるけどそれはそれとして、あまりのビジュアルのマーベラスさに自分が中学生なら買って親の眼から隠してベッドの下にしまっておいて、時々出して眺めていろいろなことに使ってしまいそう。でもってこんな美女に出会いたい知り合いたいと思いながら値踏みをするようになって、そして四半世紀が経ってもやっぱり同じ気持ちで眼を更にしつつ弱冠の諦めと自嘲を漂わせていたりするんだ。それ自分じゃん。痛いなあ。


【2月25日】 下衆で粗野。だから下野なのだろうなあ。フィギュアスケートのショートプログラムで過去、トップに立った選手がこけちゃう例が五輪であったことを挙げて今、トップに立っているからといって安心するのはまだ早いと、その選手を応援している国のファンに対して物言うコラムが掲載されていた某スポーツ紙。でもそのショートプログラムでは2位に某スポーツ紙が出ている国の選手も入っていて、上位を狙いつつも3位4位の追い上げを気にする必要があったりする。

 そうした状況に対して過去の例を持ち出して、戒めとするならまだ分かる。けれどもコラムは1位になっている別の国から出た選手に対する、現時点での過剰な期待に対する突っ込みがメイン。すなわちこける可能性っていった奴をつぶやきつつ、下にいる者の逆転を期待するようなニュアンスを醸し出している。そりゃないよ。スポーツマンシップという奴は誰もが精一杯に努力し才能を発揮した結果を讃えるもの。アクシデントによってもたらされる結果に期待するのは下衆で粗野な人間のやることだけれど、それが堂々とまかり通ってしまうところがまさしく下衆で粗野、略して下野なスタンスの現れなんだろう。そうかあれは正直な心の発露だったんだ。どうしたものかなあ。

 池袋のアムラックスへとMay’nさんが出てくる会見があったんで出向く途中でゲーマーズに寄り「化物語 つばさキャット<上>」ブルーレイディスクを購入したらおまけのポスターがついてきた。翼が描かれているジャケットと同じ絵柄なんだろうけれどもそれだとまくれかかってはいても見えてないからなあ、本編だとあんなにくっきり見せてくれたのに。そこはやっぱり皇女陵辱って奴か。違った公序良俗だ。1文字間違えるととんでもない変換になるなあ。あとは「戦う司書」のブルーレイも購入。えらく安かったのは1話しか入ってなかったからか。池袋なんでやっぱり「デュラララ!」も買うかと思ったけれどもDVDしか見あたらず躊躇。調べたらDVDしか出ていないみたい。揃えるしかないかなあ。悩むなあ。

 そして読み終えた長谷敏司さんの「SFマガジン」2010年4月号所収の中編「allo,toi,toi」は紛う事なきSFであった。常識と非常識、社会的と反社会的、正義と悪、その当たり前と人が切り分ける境界線上にある情動が、本当に当たり前なのかを問い直す思考実験が行われている物語。純文学だとそうした思考実験は語り手の脳内なんかで行われるケースが多いんだけれど、そこはSFなだけあって実験を哲学にはせずテクノロジーによって可視化して突きつけようとしているって感じがある。

 8歳の少女を好きになり、なり過ぎて求め拒絶され殺しバラバラにして捕まり永久に捕らわれることになった男が、少女を愛するとはどういう意味なのかを刑務所の中で虐げられながらも自問する。そこにテクノロジーによって脳内に埋め込まれた機械から少女が生み出されて来て、男とあれやこれや対話を始める。それがおおまかな「allo,toi,toi」のストーリー。男が子供を好きになったのは、世間が子供を好きになるようにCMとかドラマなんかでし向けているからだ、だから仕方のないことだったんだって正当化の思考があるんだけれど、そうした好きの延長で少女を殺したことは罪としてとられ、男は刑務所に入る羽目になた。どうしてなのか。どうしてそれは罪なのか。自問が行われ、世間の常識やら人間の情動やらをよりどころにした結論が導き出される。

 親が子を愛するという感情は当然で、大人が他人の少女を愛する感情は不当であるという常識は常識なのか。「好き」という感情、その神経が発火して生み出される情報に、どれにどれほどの差異があるのか。それともまるでないのか。そんな脳内で繰り広げられる感情の変化を、未来的なテクノロジーがあからさまにしてしまった時、人はだったら何をもって善悪を問うべきなのか。正否を問うべきなのか。物語が突きつける。そして男は、脳より来る声との対話で男は悟る。結果として、物語は表向きには良識を認め矯正を賛してみせる。

 もっともそれは、一方には彼我の間にどれほどの差異があるのかも改めて浮き彫りにしているに他ならない。テクノロジーの発達がそうした分析を可能にしてしまっている。表向きのメッセージの下は、実はどれこもれこ同じという仄めかしが流れている。いつ人間が絡め取られないとは限らない。そもそもが常識と良識によって矯正され得る感情は、けれども常識や良識から変成し得る。後付でしかない感情の根元は、実はフラットなんだというメッセージがはらむのは、だとしたら罪にどれだけの罪があるのだという叫びを呼び起こしかねない。つまりは悪徳の栄え、それにになる。

 こうした主張を含んだ小説が、文芸誌に掲載されればあからさまなメッセージとして喧伝され、事件になるけれども一方で本質はなおざりにされる。SFという思考実験を架空の技術によって成り立たせることが可能なジャンルだからこそ、長谷敏司の「allo,toi,toi」は物語性を持った作品として描け、なおかつ底に説得力も持たせ得た。これを載せるのはしかし「SFマガジン」としてもきっと冒険だったろうなあ、元編集長からして理解に悩み、周辺でも侃々諤々といった声が起こったらしい作品。過去だったらこの程度の背徳でも、澁澤龍彦さんあたりがディレッタンティズムに混ぜ込んでエッセイに描けばそういう意見もあるのだろうと受け入れられたけれども、法律がどうとか言われている現代ではそれすら不可能になりかねない。

 ましてや小説。書く方にも載せる方にも決意が必要だったろう。けれどもやり遂げた。どちらも凄いし素晴らしい。問題はだから受け手がこれをどう読むかで、決して肯定ではなくむしろ否定のニュアンスで、子供相手の愛について語っているようには見えるけれどもそれもやっぱり裏表、裏側への興味を誘い出しフラットさからどっちだって実は良いんだと思わせかねないだけに、それをそうなんだからと受け入れてしまうべきなのか、やっぱり悪徳は背徳で不徳なのだといった決然とした意識を持って受け止め租借し吐き出すべきなのか。これから出てくるだろう様々なリアクションも参考にしながら僕としての対峙の仕方を考えていきたい。改めて言うなら紛う事なきSFであり、紛う事なき傑作、かも。2010年の「SFマガジン読者賞」はこれかなやっぱり。


【2月24日】 何か夜中に「餃子の王将」のメニューを食べ比べている番組があって、人気ナンバーワンの「餃子定食」とやらが30点満点で32点なんて無茶な点数を獲得しているのを見て、そんなに王将って凄かったかなあと名古屋にいるころによく行ったり、東京方面に来てもパシフィコ横浜あたりに行ったときに桜木町の駅にある王将に入ったりしていた経験から訝しく思い、だったら行ってみるかと番組に登場していた水道橋の店へと立ち寄って餃子定食ではないけどチャーハンに餃子もセットになった定食を食べたら餃子の王将だった、ってそれ以上でもないしそれ以下でもないんだけれどそれが普通な人にはとてつもない美味に取られてしまう。他はそれだけダメってことか。そうなのだろうなあ。

 とりあえず唐揚げの美味さは光っていて外はカリッとしていながらも中は柔らかくってジューシー。チャーハンも無茶に塩っ気が利いている感じじゃなくってすらりすらりと胃袋におさまっていく。餃子は餃子。それで定食にして2人前をかきこんで耐えられるかっていうと判然としないけれども、1皿食べても大丈夫だったあたりを考えれば多分大丈夫なんだろう。次はラーメンも含めた定食にするか、得点が良かった油林鶏定食にするか。とはいえカロリー高そうなんて次に行くのは3カ月後くらいなんだけど。水道橋以外だとやっぱり味とか変わってくるのかなあ。船橋にも出来てくれないかなあ。

 腹ごなしに歩く道々「蒼穹のカルマ」(富士見ファンタジア文庫)の最新刊なんかを読んでいたら、姪っ子と過ごす時間がなくなるからと化け物相手に戦う部隊を辞めた駆真がメイド喫茶で接客してた。なんてこった。まあ美人でもシスコンで戦うことしか能がない彼女に普通の勤めが務まるはずもなく、面接に行けば退けられメイド喫茶でも大暴れ。結果やっぱり首になって路頭に迷い駆けていたところを、条件に誘われいった面接でキックが得意と自慢したら何故か採用されてそしてそのまま魔王の女幹部となって勇者となった在紗を相手に戦う羽目となる、って前はその魔王と戦ってじゃないか駆真。でもって在紗の母親なんてのも現れ過去とか伺い知れるようになってなにやら世界がまたしてもどんどん広がりそう。戦闘莫迦の阿呆シスコン的日常をおかしく描いていた話がどうしてこうなった。でもこれの方が良いので願おうさらなるエスカレーション。

 うーむ。っていうか「ユザワヤ」は普通に店舗を広げてて、お客さんもそれほど減ってなくって前に立ち寄った津田沼なんてレジ前にぎっしりと人が並んでいたほどで、それを見ればいったいどこから「母から娘に伝えられてきた『手芸文化』が廃れつつあるのも一因だろう」と書けるのかがちょっと浅薄な僕にはわからない。もしもユザワヤの事例を知っていたならキンカ堂が倒産したってニュースを聞いてもそこに単なる手芸衰退だけでない理由があると類推し、素直には書かないのがジャーナリストってものなんだけれど、ほかに何か深慮遠謀があるんだろう、そうしたエピソードを枕にして、コラムではとてつもなく強いメッセージを伝えようとしている。

 つまりは「そんな中でも鳩山首相夫妻の消費意欲は健在だ。首相公邸に引っ越した際に、和室を洋風に改装するなど500万円近くも改修費に使っている」って感じの鳩山政権へのあれやこれや。手芸の衰退がユニクロなんかなのようなファストファッションへとシフトしていることをもって消費意欲の減退とし、そこから前述の文言を引っ張り出しているんだけれど、ユニクロだって消費だし、H&Mだって消費だしマクドナルドだって立派に消費。それらが結構な収益を挙げているのは消費のスタイルがシフトしただけのことであって、消費の減退と即座に結びつけるのはどこか違ってるような気がしないでもない。もちろん本当に手芸の衰退が原因か判然としないキンカ堂の倒産も。

 けれどもコラムはそうしたことは気にしない。「いつものように母親から援助してもらえば腹も立たないが、税金で賄ったという」とくっつけるにいたってなあるほどと理解。政権批判という大看板を掲げるためには枕は単なる枕なのだ、どうであっても言いたいことを言うのが正しいのだという強い姿勢がこめられたコラムなんだってことが見えてくる。ほー。これさえ言えれば別に枕がユザワヤの隆盛であっても、「手芸の意欲はますます向上」「外で買うより内で作る慎ましやかな母と娘の手芸礼賛」へとつないで「それにつけても母は金を出すだけ息子は使うだけ」だと鳩山政権にあれやこれや言っていくに違いない。

 考えるなら公邸の改装だってひとつの消費。それがどこかに消えてしまったってことじゃない。金は天下を周り回って誰かのところに行ってそして再び消費に回る。そういうものだけれどもそれはこの際脇に置いておく。「政治がこの体たらくでは、耐乏時代がくるのは近い。子供たちに急いで針仕事を身につけさせなければなるまい」と結んで鳩山政権を非難する。だったら公共事業も止めるべき谷場ダムも止めるべきって言うのが流れとして自然なんだけれど、重ねて言うなら趣旨はそうしたところじゃない、あくまで鳩山政権をどうにかしたいといった強いスタンスがそこにあるから言いはしないし気にもしない。何という強固なポリシー。これがあってこそ看板コラムを執筆できる栄誉を得られるんだろうなあ。勉強になるなあ。真似はちょっとまったくとうていぜんぜん出来ないなあ。

 高度に拡散と浸透が進んだSFだったら描かれるのはその先であって、日本に古くからあるゼネコンの中にひっそりと作られている謎の部署が、建設を請け負うゼネコンにとって文字通り鬼門となっている怪異に対して出動するという設定でも、そんな設定を逆手にとって国がオカルト側に支配されてしまってゼネコンをつぶしにかかった時に、これはいかんと武装し立ち上がって戦うようなスペクタクルを描くか、あるいは相手がオカルトであってもそれなりに事情もあるってこを描き、人類オカルト皆兄弟的展開から国に対して立ち上がるような展開を描いていくことになるかもしれない。

 ライトノベルだったらもっとキャラクターを立てて、ゼネコンの中のオカルト部隊にケルト魔法のエキスパートと猫大好きの陰陽師と、神社の幼い巫女と幽霊を入れついでにソロモンの姫なんかも交えてそんな面々を妖精の眼をもった少年が指揮して戦う話にするに違いない、ってそれはそのまま「レンタル・マギカ」だ角川スニーカー文庫刊。つまりはすでにして多く描かれているんだけれどもその結果、先鋭化していたりお約束の上に立てられていたりして初心者の人には逆にとっつきにくい印象を与えてしまっているところを、一般層を大賞にしたボイルドエッグズ新人賞ではもっと単純明快な、ゼネコンのオカルト部門に配属された新入社員が、命じられたオカルトを相手にした仕事に四苦八苦する物語をベースに会社組織の理不尽さと、日本にちりばめられたオカルト的事象の多さとそして日本という国をどうすべきかといったメッセージを乗せた、わかりやすくて楽しい物語を選び出した。

 それが蒲原二郎さんの「オカルトゼネコン富田林組」(産業編集センター)って小説で、冒頭からすーっと入って行けて奇妙な部署に配属されてそれが文字通り奇妙だったけれどももう仕方がないと頑張っていく新入社員がしっかり描かれていて、同じような気持ちになって次に何が起こるんだろうかって興味に引っ張って行かれてしまう。ラストとか泣けるんだよこれがまた。前のボイルドエッグ新人賞の叶泉さん「お稲荷さんが通る」もそうだし、ダ・ヴィンチ新人賞の「マタタビ潔子の猫魂」もそう、伝奇やライトノベルでは割と普通の設定ながらもキャラを突出させず萌えをあからさまにせず少年が美少女の物の怪と同居したり少女が美声年の幽霊にとり憑かれたりする話しにしないで社会の中で怪異に退治する人たちを描いて、社会に生きてその理不尽さにとまどっている人たちの心を引きつけようとしている。なるほどなあ。つまりはこのあたりが狙い目で、ライトノベルではお約束の設定を一般向けに展開できる方法を、うまく取り入れることがこれからの勝利の秘訣だと理解して何が出来るかを探っていこう。何か出来ないかなあ。


【2月23日】 仕事の延長でヒッチコック「三十九夜」を見たがなるほどそのまんま舞台「THE 39 STEPS」だった。さすがにラストのラインダンスは四人では再現は難しかったみたいだけど。そんな舞台に出演している高岡早紀さんの話をいろいろと思い出しながら書いていく。書きながらマドラスのCMを思い出してあのころは可愛かったなあと懐かしがる。今も可愛いけど。もっちりしているけれど。「ウェルかめ」の倉科カナさんもこんな感じになっていくのかな。というか今ウェルカメってどんなあたりだ。朝彼女倒れてたぞ。

 漫画が終わってしまったあだち充さんの「クロス・ゲーム」で最大の不満は青葉がその実力をその時点で発揮できる場所で活躍してくれなかったこと。つまりは女子野球の世界で大エースとなって世界に挑み世界を倒して実力を大勢に知ってもらいそうしたカテゴリーが存在することを知ってもらい、そこにいる大勢の人たちの希望となってもらうことで、だからこそアニメ版「クロス・ゲーム」には女子野球の世界で頑張る女の子たちがCMに出て目指せ青葉なんてやっている。

 けれどその青葉が、名だたる大会のマウンドに立つことなく自分の夢であり姉の若葉の夢でもあった喜多村が甲子園に行くという、そのことだけを考えてその場に居続け自分の力を見せようとしないことにCMで一所懸命を見せている野球少女たちはいったい何を思ったか。そこがやっぱり引っかかる。どうして私たちの夢を背負って世界に挑んでくれないのか。頑張れば世界に行けるんだということを見せてくれないのか。そこにガッカリしてしまう人だって出てきそうだ。

 もちろんひとつには制度として女子が男子に混じって高校野球の公式戦には出られないということがあって、そうした理不尽さへのひとつの提言にはなっていたりするけれど、現実問題として筋力体力等に差異があるのが必然の世界で、同等の実力を発揮してしまう“超人”を出す方にやっぱり無理がある。差異は差異。ならそれがどちらを上とすることなくどちらもどちらなんだと認め合い高め合うような構図の中で、それぞれが最高を見せることの方がやっぱり意義深いんじゃなかろうか。

 あるいはそうした期待を背負わされるキツさ、五輪なんかで身も知らない人から国民の代表だからメダルをとって当たり前、真面目手ストイックであって当然といった無茶な要求をされる理不尽さにもみくちゃにされるよりも、心の中で想っている人の側にいて、その人を含んだチーム全体が力を上げて、目標に向かって突き進んでいく、その原動力になっているという部分で、存在意義を果たしているといった解釈も成り立つ。それもそれで個人の生き方。真正面から批判は出来ない。出来ないけれどもやっぱりどこか勿体ない。

 願うならだから青葉が喜多村の夢、若葉の夢がかなってからの次のステップで持てる力を存分に発揮できる場所にいて、それを見せることによって大勢の希望を引っ張り感動を誘うような物語を、描いていって欲しいということなんだろうけれどもそうしたことにはきっとならないんだろうなあ。あれはあれでひとつの形を見せてくれた訳だし「クロス・ゲーム」は。あるいは急に制度が変わって男子に混じって高校野球が出来る世界にスルリと入って青葉が甲子園のマウンドに立つとか。それは無理か、SFだから。

 なのでそちらは柏葉空十郎さんの「ひとりぼっちの王様と再度スローのお姫様」(メディアワークス文庫)にお任せってことで。こちらでは女子も男子と同様に高校野球の公式戦に出られるようになったような世界が舞台。あやねえと呼ばれている綾音という名の少女は小学校の頃に結構な球を投げてた野球少女だったけれども転校で海外に行くことになって、いつもいっしょに投げていた巧也とこれからも投げ続けようとして分かれてしばらく。巧也は中学で世界を相手に戦えるくらいの投手になって綾音の期待を大きく上まわった存在になってくれて、これならと期待して帰国し彼と同じ高校に進んで野球部に行ったら彼がいない。見つけて誘っても自分は野球は辞めた医学部に行くと言ってなびいてこない。

 いくつか理由があって野球にどこか絶望していたらしい巧也。その彼をどうにかこういか野球部へと引っ張り込むまでのドラマがあり、それから進学校故に弱小な野球部を少人数ながらもどうにか立て直して強豪校と戦えるようにしていくまでの戦略的なドラマがあって楽しめる。野球の部分は樋口アサさんの「おおきく振りかぶって」並に緻密で球は襲いけれども球種が多彩な綾音の特徴をうまく使って強豪校を手玉に取り、シチュエーションによって次になにが起こるかを読み合う戦略的な楽しさもあって読まされる。

 砲丸投げで期待された男が先輩との諍いから陸上部に入らず野球部に入って大活躍、ってところはちょっと無理があるけどそうでなくっちゃ物語は面白くないからこれはアリ。気持ち良いのは綾音が野球部に入ってきたり、別のシニアリーグで活躍していたビシバシランこと石橋蘭って女子をビシバシランだって騒いで普通に受け入れているところで、そこには架空とはいえ壁をあっさりと越えてしまった時の、分け隔てのない認識が示されているような気がする。「クロス・ゲーム」もそうなれば良かったけれどもそうではなかったからこその「クロス・ゲーム」とも言えるから悩ましい。ともあれ綾音と巧也の闘いは幕を上げたばかりでこれから、続いていくのかそれともひとつの到達点を見たことで役目は終えたとなるのか。そんなあたりも期待しつつ次に描く物にも注目していこう。次は女子サッカー?

 女子サッカーとえいば「週刊サッカーダイジェスト」2010年3月9日号で西森彰さんがサッカー女子日本代表こと「よるなでしこジャパン」の佐々木則夫監督にインタビューしていてこれが実に素晴らしい監督インタビュー。世間が大騒ぎしてスターとして祭り上げようとしている岩渕真奈選手を、けれども大きな大会ではなかなか使わずずっと下のカテゴリーで使いそして満を持して東アジア女性選手権へと引っ張り出してそして使った感想として「まあまあのレベルでできています。その一方でオフ・ザ・ボールの動きなど、まだまだ身につけなければいけないことがたくさんあります」と手放しでは賞賛せず、何が足りていないかをちゃんと語って示している。

 これなら頑張ろう、足りないところを埋めようって本人も思うはず。そんな岩渕選手に対して。佐々木則夫監督は「今は少しづつレベルアップしていく段階です。焦らずに一つひとつ、身につけさせていきたい。そうした成長途上の時期に、今大会を経験できたことは、いいことも悪いことも含めて、彼女の財産になると思います」と言って支えようとしている。岩渕真奈を決して一足飛びにトップにはいれず戦える試合で出して自身を付けさせ強豪相手には試すように使って成長を促し、2年後3年後につなげていく。そうした構想を持ちつつ「U−20までをなでしこジャパンの戦力として考えています」と言って目配りをちゃんとしているとメッセージを送る。そうやって全世代のモチベーションは上がり、世代交代も進んでいく。対して男子のトップの眼鏡のおじさんは。その人を支える協会は。2年後4年後は焼け野原で良いのか。すでに焼け野原って説もあるけど。

 さらに佐々木監督、現代表にも目配りを怠らない。韓国との試合で2点リードで迎えた後半をシチュエーションとして0対0だと言ってそこからどうするかを問い、1点を奪われ“敗れた“ことを自身が噛みしめ、選手にも噛みしめさせて次へのステップを促す。「いくら私が『危機感を持て!』と言っても、選手の耳に届かせる自信はありません。大一番を前にしているのだから、『韓国も強くなったね』とか、『なでしこ、本当にワールドカップに行けるのかな?』と言われているくらいでしょうどいいんです」。それで男子は何を言っているの? ワールドカップでベスト4? 現実味のない数字を虚ろにとなえてもそこに希望は生まれない。モチベーションも高まらない。現実を見据え至らなければ策を打ち、その上で未来を語りロードマップを指し示してこそ夢はふくらみ希望も生まれモチベーションだって高まる。それが出来ないのかやろうとしないのか。だから言われてしまうだよなあ、「週刊サッカーダイジェスト」でまたしても解任と。そうさせようとしない会長ともども。


【2月22日】 ニニニの日。って何の日だ。もしかしたら高木美帆選手ってスケートじゃたいしたことなかったりするのか、それともまだ中学生でこれからぐんぐんとのびる可能性があるのか。バンクーバー五輪で1000メートルと1500メートルに出てあんまり良い成績を収められていないみたいで、これなら別に誰か送った方が良かったとかいった意見も出そうな感じだけれど、あんまり出ないところを見ると日本にはそれを上回る成績を出せる人がいなかったということなのか、それとも中学生としての延びしろへの期待がちゃんとあるからなのか。いずれにしたってほぼ終わった彼女の五輪。ここからは本業のサッカーに足を移して、北海道からなでしこジャパン入りを目指しそして岩渕真奈選手とツートップを組んで世界に羽ばたいていって欲しいと女子サッカーファンとして切に願う。後ろを守るのあ187センチのゴールキーパー山根絵里奈さんだ。なんかとってもすっげえ強そう。

 カーリングって男子も女子も同じ道具を使って同じ場所でプレーしているんだっけ。それならサッカーだって女子も男子も同じ広さで同じ道具を使ってプレーされているんだけれど、体力の面ではっきりと違う男子と女子が戦って女子が勝てるということはまずあり得ない。でもカーリングなら男子と女子とで道具の扱い方に差がでて戦い方がガラリと変わるってことがそんなにありそうに見えず、だとしたらわざわざ分けて置く必要があるんだろうかって思いも浮かんだけれども、それは男子のカーリングを日本で見る機会がほとんどないからだけで、もしもテレビでそのあたりもちゃんと放送されていたとしたら、男子の場合はストーンを投げる動きも投げられたストーンの速度もまるで違って、はじき飛ばしの連続のようなすっげえ試合が繰り広げられていて、女子の戦略性とはまた違ったプレーぶりにとても混成なんて無理って思えたりするのかもしれない。本当のところはどうなんだ。

 やっぱり投げたストーンが超高速で回転しては、直接当たらないストーンですら吹き飛ばしはじき飛ばしたりするんだろうか。高速回転したストーンがハウスのど真ん中にぴたりと止まったまま超高速で回転し続け近寄るストーンをはじき飛ばしたて、居座り続けるなんて技も見られたりするんだろうか。ドイツ代表だったら“爆撃機”とあだ名されるスキップが出てきて、ストーンを投げては空中に浮かしてハウスの真ん中に突き刺しそのまま絶対に動かないようにしてしまうんだろうか。フランスあたりから“魔術師”なんて選手が出てきて、ブロックのためのストーンの手前でパッと消えてそして向こう側にパッと現れる技なんて使ったりするんだろうか。うーん見てみたいぞ能力体力の応酬によって繰り広げられる新次元のカーリングを。いつかそんな漫画も出てくるだろうなあ。それとももう出てたりして。

 ようやくやっと顕身してみせたミナ・ツェペシュの大暴れを遠巻きに見ていた「ダンスインザヴァンパイアバンド」は、アキラとの和解も行われてさあいよいよ敵との戦いって感じだけれど、1クールだとしたら残りは4回くらいしかない上に来週は特別編とやらなんでそれで原作のあの展開を片づけられるはずもない。というか原作はまだ続いていたりする訳で、それの全部をやるならやっぱりもう1クールは必要なんだろうけれどもそのあたりどうなっているんだろう。まあ別にヴァンパイアの王が現れ居留地を得てそこにアキラっていう僕も加わって、永遠の少女の哀しみは癒されました目出度し目出度しといったエンディングしてもそんなに悪くはないか。ところであの姿に顕身できる意味ってのが原作では重要になるんだけれど、アニメだとその辺りはどう説明されるんだろう。ただかっこう良くなるだけでは、そこに立場の危うさは見て取れないんだけれど。っていうか傷つけられてもすぐに全部直ってしまうヴァンパイアの王って、どこがどう傷ついたってすぐに直ってしまうからいつでもフレッシュ、だから検査も無意味なんじゃ……。うーんちょっと分からない。

 なぜかどういう訳か手元に届いた小説を即読んで即感動。年間ベストと叫んでいたら同じような感動の声があちらこちらから挙がって、あれよあれよという間に人気作品となった誉田哲也さんの剣道ガール小説「武士道シックスティーン」は、「セブンティーン」から「エイティーン」へと続いて感動の輪をさらに広げつつ、漫画にもなってそれも安藤慈郎さんに尾崎あきらさんの2人が漫画化しているという面白い展開にもなっていて、ますます評判を呼びそうなところにいよいよ映画も登場の様子。ゴールデンウィーク前の公開も決まって試写なんかも始まっていて、いったいどんな映像になっているんだと興味が深々と津々になっていたんだけれど、ようやくもって見る機会があってこれが実に「武士道シックスティーン」。原作の小説が言いたかったことをちゃんと描かれている上に、磯山香織と西荻早苗という、正反対でそれぞれにどこか突出しつつどこが欠けていた2人が、知り合い争い埋め合って高め合う姿がちゃんとしっかり描かれてあって、見ていてグイグイっと引き込まれた。

 原作が大好きで漫画も超好きな人間が見て満足できる実写映画ってのがあるとしたら、これはその代表になれそうな印象。それを引っ張ったのがまずは磯山香織を演じた成海璃子さんの演技。っていうか当人的にはもはや本人になりきっていたってことらしくって、激しい剣道での雄叫びから激しく踏み込んでの竹刀さばきから、武士道に賭け竹刀であっても斬ることだと思い負けたら次は勝つだけだというひたすらに勝利を求め続ける心根まで、すべてが完璧なまでの磯山香織になっていた。もう目つきとか最高。笑えばコミカルな演技だってできる成海さんが、くすりとも笑わず眉根を寄せて渋面をつくりひたすらに武士道を探求する少女をスクリーンの中に作り上げている。

 対して西荻早苗を演じる北乃きいさんは、ふわふわとしていつも楽しげでちょっぴり鈍感なところもあって、何故か磯山に勝ってしまってそれから目を付けられ、しごかれ訳が分からないうちにだんだんと本気が出せるようになっていく少女を、これも持ち前の体当たり的な演技でもって演じている。そんな好対照の2人がぶつかり合って飛び散る火花がひとつの楽しみ。外では激しい武士道少女の香織が、家では剣道の道場主の父親を相手に弱々しくてしおらしい表情なんかも見せたりするギャップと、外ではにこやかで楽しげな早苗が、実は家庭の問題を抱えどこかに弱さを抱えたまま生きているという内面を吐き出してみせるギャップなんかが、どちらも良い感じに表現されていて、人間ってのが見た目のまんまじゃないんだってことを教えてくれて、そして頑張れば変わっていけるんだということを示してくれる。

 試合もとりたててドラマチックには演出されておらず、情動的な音楽をバックに積み重ねられたエピソードの果てに激しい感動が湧き起こるようないかにも感じにはなっていない。淡々として進んでいく展開の中で揺れ動く少女たちの心が見えてきて、そんな迷いがあっちこっちにさまよいながらも1つの太い幹に合体して、そして大きなことを成し遂げる感動をとても素直に味わえる。監督は「奈緒子」や「ロボコン」の古厩智之さん。派手さではなく当たり前さの積み重ねによって空気を作り物語を作ることに長けた人、ってことなのかな。ともあれ良い映画になっていた。いろいろ評判の成海璃子さんにとっても大きく存在感をアピールできそうな作品。その雄叫びを耳一杯に聞き目一杯に見るにはやっぱりスクリーンでないとだめに。だから行こう映画館に。続編は作ってくれるかなあ。作って欲しいなあ。


【2月21日】 眠りもしないで午前8時には家を出て向かった「京成ローザ」のイーストで、映画「コトバのない冬」を見たら言葉のない冬の映画だったおしまい。ってそれはあまりに省略し過ぎだから説明するなら、俳優の渡部篤郎さんが監督をした初めての作品で主演は高岡早紀さん。北海道の札幌ではない街に暮らしてて、父は薬剤師で妹は東京でモデルをしていて自分は馬を育てる牧場で働いていたりしていて、それなりの歳ではあるんだけれどまだ未婚。彼氏っぽいのはいて札幌で音楽関係の仕事をしていて、けれども最近あんまり電話に出てくれない。どうしたんだろう? ともやもや続きの冬。

 東京から妹が帰省していて車を使ってて、高岡早紀は父親に頼まれた薬の配達にバスで行ったものの帰りにバスが途絶えてしまって、あれはおそらく夕張あたりの冬だから閉鎖された遊園地のそばでとまどっていたら、雪かきの人が歩いてきて、どうなっているんでしょうねと訪ねたら返事がない。無口な人かと思ったらそうではなくって、耳は聞こえるんだけれどしゃべれない人。それでも親切でしばらく雪をしのぐ場所を提供してくれてありがとうございましたとその場は分かれる。

 でもって再び配達を頼まれ今度は車で出向いたら、前の彼がいて話し込んでいるうちに連絡のない彼氏と対照的なその雰囲気に、惹かれたか何かして高岡早紀さんは彼に心を向けていく。彼の方もそれまでの世間に背を向けてきた暮らしに射した光みたいだと感じたか、彼女に興味を持つようになるもののそこにアクシデント、そして……。といった展開は実に淡々としてエンディングもしんみりとして心にどちらともなく可哀想といった感情が浮かぶ。あのエンディングでは果たして高岡さん、それを気づいていたのかやっぱり気づいていないままだったのか。気づいていたとしても果たしてそこで戻ろうとしたのかもはや戻る意味がないと考えたのか。ケースによっては渡部篤郎さん演じるはなせない男の立場もいろいろ変わってくる。高岡さんの演じる女性の立ち位置も。

 これを本格的なドラマでもってやったとしたら展開もドラマチックになったんだろうけど渡部さん、演出にあたっておそらくは演技で台本を読ませるようなことはせずシチュエーションだけを与えて、あとはその場にいる役者たちに任せてライブ的に撮っていったって感じ。だから映像も雰囲気もどこかドキュメンタリー的な空気があっていわゆるエンターテインメントな映画とは違った印象を受ける。出演しているのはみなプロの女優であり俳優なんだけれど、それがそのまま俳優らしく女優らしく演技すると、どこか上滑りしたものになってしまうと感じたのか、日常に放り出されてしゃべっているような雰囲気にとどめてあって、れぞれの役者の生がそこに出ているような画面になっている。

 かといって生身の役者が自分をさらけ出しては映画じゃない。演じているという意識も一方に持ちつつナチュラルさも維持した姿は、過去の映画やドラマにない、そして舞台智違った役者の姿を見せてくれる。カメラも淡々として日常を撮影していて、どこか田舎でくたびれかけている女性って空気を実によくとらえている。かぶせられる音楽もきわめて少なくセリフもあまり多くはないから、見ていないと何が起こっているかを見逃してしまう。その意味で集中させられる映画だし、集中して見てこそ感じられる役者たちの真価と、北海道という自然の厳しさが伝わってくる。その設定には心理的にも展開的にも納得できない部分もあるけれど、面白くって興味深い映画であることには変わりがない。「静かな生活」のイーヨーからして難しい役だったけれども渡部さん、経験を重ね歳を経て、さらに突っ走っているよなあ。これからも期待していけそうだなあ。

 そしてかけつけた「フクダ電子アリーナ」で世界三大カップとの誉れも高い「ちばぎんカップ」を見る。最前列。何しろ数字的には1より上の2というカテゴリーに共に属するチームが激突する試合、いわば頂上決戦ともいえる戦いの行方が今期の頂上リーグをも左右するとあって注目しない訳にはいかない、ってことでじっと見入った試合の中身は……点がなかなか入らないなあ。なるほど去年とかに比べてチャンスは全然作れてる、っていうかとてつもなく作れていていい形で何本もシュートを打って終われている。スルーパスからのゴールなんて一体いつ以来で誰以来? こんなゴールもあげられるんだと見直したくなったけれども、バルセロナじゃあそれが普通。できない方がおかしい。日本代表も含めて。

 でも得点はその1点だけであとは相手のセーブの良さもあってなかなか奪えず、最初にとられた1点もあって同点のままかろうじてPK戦で勝利だけは得られたけれどもそれならクゼ監督がいた一昨年と一緒。その試合だって巻誠一郎選手の巧みポストワークとかあってなかなか見られたんだけれど、本番にはいるととたんに停滞して降格寸前まで追い込まれた。今年はその時よりもチャンスは増えている感じがあるんだけれど、それは相手が柏レイソルでちゃんと前に出てきてくれたから。引き分け狙いの守備固めをしてくるチームを相手にゴールをこじ開けられるのか、って辺りをちょっと心配したくなる。

 戻ってきた茶野選手村井選手佐藤勇人選手は誰もこれもさすがな走りと技と蹴り。ここにあと羽生選手山岸選手水本選手水野選手阿部選手が加わればもう間違いなしにJ1でだって優勝をねらえる。ACLでだって勝ててしまいそう。そう思うとあの社長のあの振る舞いがやっぱり今のこの窮状を作ったんだなあ。そしてあの会長のよけいな一言が。うーん。慨嘆。でもまあこれが現実、仕方がない。とにかくこれからのシーズンを一所懸命に戦って、ここからはいあがっていくしかない。12月までのシーズンを頑張ってそしてつかむのだ、頂上のその上を。

 とって返して八丁堀から新川へと歩いて内田洋行のショールームで何故か開かれたノイタミナの新作ラインアップ発表会を見物。日曜の、それも夕方なんてまるで「サザエさん」や「ちびまるこちゃん」を見せまいとするライバル局の陰謀か、って疑いたくもなったけれどもそもそもそれを放送している局の番組発表。おそらくはそうした国民的アニメーションとは違ったものを求めている人たちが、関心を抱くアニメとやらを放送する枠として作ったノイタミナって認識を、作り手も持って臨んでいるからこその時間帯なのだろう。でなきゃまるで重なりまくりの時間帯にTwitterとかustreamとかでの生中継だかをいっしょにやって、人々の目を「サザエさん」「ちびまるこちゃん」からそちらに引きつけるような真似はしないって。

 なにしろタイトルからしてノイタミナ、すなわちnoitamina、つまりはanimationをひっくり返したものであってアニメの常識をくつがえすんだって意気込みを最初から持たされた番組枠。その目的どおりに今度の新作ラインアップでは、アニメの常識を越えた作品が登場することが決定した。これがまたすごいんだ、アニメーターが絵を描かないしCGクリエーターがCGも描かない。人間が動いたその動きをカメラがとらえて映像として記録していくという手法。これならどんなアニメーターが描くよりもリアルな人の動きを再現できるしCGが迫っても飛び越せない不気味の谷間だって飛び越せる、っておいこらそりゃあ実写じゃん。

 そのとおり、今度のノイタミナでは実写ドラマが途上するのだそのタイトルは「もやしもん」。って既に知れ渡っていた話だけれど改めてキャストを発表されると美里役に笑い飯の西田さんを配置するという絶妙さに加えて長谷川遙院生に加藤夏希さんを配置するというこれまたベストな配役を持ってきて目から耳から「もやしもん」の世界を楽しませてくれる。沢木がイケメンなあたりが気に入らないっちゃあ気に入らないけど武藤葵を演じる人は扮装まで武藤葵そっくりで、彼女と長谷川さんの絡みなんかが実写で繰り広げられてしまった日にはもう2Dの漫画の世界には戻れないくらいの衝撃を脳に受け付けられそう。

 問題はだから結城蛍の配役か。発表されなかったし。そもそも出ないかもしれないし。中村優一がイケメン過ぎるからそっちに合体させたとか。そうだとしたら作り手は「もやしもん」の5割を分かってないって言いたいね、結城がいてこそマニアは「もやしもん」を見ていたし、沖縄娘もフランス娘も成り立つのだから。せめて今は未定ということにしてスタート時に決定して誰が彼女な彼氏を演じてくれるかに注目しよう。個人的には栗山千明さんでどうよ。


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