縮刷版2010年2月中旬号


【2月20日】 ラピュタ阿佐ヶ谷での「マイマイ新子と千年の魔法」の幾度にもなる上映延長も19日で終わってしまって何だか哀しい気持ちが多少。とはいえ1つところでずっと上映されるということはそこに来られない人には見られないってことでもあるので、ここをいったんの卒業として上映される場所を増やし時間を広げてより多くの、例えばやっぱり子供とか、お母さんとかおじいさんおばあさんに見てもらって国民的な盛り上がりへとつながっていって欲しいなあ。

 そんなお手伝いになったか否かは不明ながらもとりあえず、先だってのロフトプラスワンでの「マイマイ新子と千年の魔法 公開宣伝会議」の記事が出た新聞を持って最終日のラピュタ阿佐ヶ谷へと行き皆々様に配布。片渕須直監督にはフランス帰りのバルサミコ酢を拝領してこれが柊つかさも大好きだというバルサミコ酢かと手に取り打ち震える。早速帰宅してサラダにぶっかけモリモリ。酢っていうから酸っぱいかと思ったけれどもむしろ淡泊に甘みがあった。なるほどお上品。こういうのがきっとつかさは好きなんだ、って違うんだけどね、単に語感が妙だったからなんだけどね、ばるさみこすー。
BR>  「カールじいさんの空飛ぶ家」を旧約聖書の巨人ゴリアテに例えてアカデミー賞なんてとてもとてもと言っていたヘンリー・セリック監督だったけれどもなかなかどうして日本で19日から公開が始まった「コララインとボタンの魔女3D」の評判がなかなかみたいで、劇場によっては満員札止めなんかも出ているらいし。宣伝がそんなにされていたって訳でもないしディズニーとかスタジオジブリとかってメジャーなスタジオが作った訳でもない。かろうじて「ナイトメア・ビフォア・クリスマス」ってディズニーが絡んだメジャーな作品を監督していたってつながりはあるけれど、「ナイトメア…」ってどっちかって言えばティム・バートンの名前で知れ渡っていて監督名がそれほど引きになるとは思えない。

 それでもフジテレビが「めざましテレビ」なんかで割に深く取り上げていたみただし声を担当した榮倉奈々さん絡みで芸能マスコミなんかにも引っかけられてはいたから、まるで通っていなかった「マイマイ新子と千年の魔法」よりは多少は認知度もあったんじゃなかろーか。とはいえだったら爆笑問題も絡んでいた「よなよなペンギン」とか田中麗奈さんが声を担当してフジテレビの開局50週記念作品にもなっていた「ホッタラケの島」と比べてどれほどってことになるといかほどってものでもない。なのにこのスタート時の認知度の高さはそうした認知度を測るTwitterみたいなメディアがこの半年で一気に広がって可視化されたってことがあるのかあるいはその独特の世界が一目でもチラリと見た人を引きつけて止まないのか。いろいろな要因があるんだろうなあ。

 とはいえ決して取っつきの良い作品ではなくってビジュアルはどちらかといえばグロテスク。ヒロインのコララインも憮然とした表情なんかがが広まっていて可愛らしさから客が付くって感じでもない。何よりあの「映画秘宝」が2010年4月号で堂々の表紙にして取り上げてしまうくらいのカウンターぶり。そんな映画が一般に関心を持たれ得るってのはそれだけ世間の興味が大メジャーが推す砂糖菓子なんかよりもピリリっとしたところを持った作品に、シフトしているって現れか。いやいや「映画秘宝」がぶったたいている「アバター」は日本で未だに大ヒット中。単に今は封切り直後ってことで情報が見えやすいのと、僕自身もヘンリー・セリック監督へのインタビューとか通して作品に入れ込んでいて情報を目に止めやすいってことなのかもしれない。

 結果としてどうなるかってのはこれからの展開次第だけれども、もしも大ブレイクがあるとしたら3月に発表になるアカデミー賞でゴリアテ「カールじいさん」をうち破って「コララインとボタンの魔女3D」がアカデミー賞のアニメ部門を獲得することか。あの「崖の上のポニョ」だって入れなかった最終候補に残っているんだからそれだけでも意義深い上に、自らをダビデに例えたってことはつまり最後はゴリアテをうち破って王様になるだけの自信を秘めているってことかもしれない。もしもアカデミー賞となったらビジュアルコンセプトの上杉弘さんのアニー賞とも絡めていっぱい宣伝も乗りそう。そうやって人気が出れば今は国内でほぼ払底しているNECAのコララインフィギュアもいっぱい入ってきて、ショップに並んだりするんだけれど。欲しいんだよレインコートのコララインが。だから来て来てアカデミー。

 出ていた「月刊サンデーGX」で早速、広江礼威さんの「BLACK LAGOON」を読んだらデコメガネがただのフリーターではなくって八一な会社で働くOLさんだと判明。ラングレーの方の会社から来たエダなんかと話も合いそうというか対立もしそうな間柄だけれど今後の展開で絡んでくるのかどうなのか。というよりそんなデコメガネをそれと知りつつ仲間に引き入れ泳がしているチチメガネことジェーンの深慮遠謀ぶりがなかなか。いったい何が目的でそれは誰につながっているのか。ベニーにロックを加えてそこにソーヤーなんかみ飛び入りして内輪でガチャガチャっと終わる話でもないだろうに。っていうかこれまでダッチも出て来なければ我らがガンマンというかガンレディ、レヴィも全然出て気やしねえ。それでも「BLACK LAGOON」かい? まあ別にレヴィが主役って訳でもないから良いのか。目はだから水着フィギュアで癒そうっと。

 フィギュアといえばメガハウスなんかが浅草橋で開いていた展示会に行ったら「ONEPIECE」の豪華フィギュア「ポートレート・オブ・パイレーツ」の新作が並んでてバーソロミュー・くまとか鷹の目ミホークとかに続きそうな王家七武海の面々が登場する模様。とりあえずやっぱりボア・ハンコックは買いだな。海侠のジンベエはうーん、ボリューム感があるから奥と結構目に楽しそう。クロコダイルも出るのか。最近の活躍ぶりで妙に興味が湧いてきた。けどやっぱり注目は四皇の白ひげか。これまた最近の漫画での大活躍があるだけにファンとかバンバン買っていきそう。漫画だともっとデカい気もするんだけれどバーソロミュー・くまよりもデカいと置くのも大変だからまあこのあたりで勘弁しておいてやろうってことか。劇場版のニコ・ロビンも出るみたいでこれももちろん買い。部屋がどんどんどんどん狭くなる。

 非日常を求めてある者は自分たちの内に妄想を膨らませてはクラスに弾かれそれでも孤高を保ち続け、ある者は想念のパワーでもって自分を変え周囲を変えて世界を作り替えててしまう。「AURA 魔龍院光牙最後の闘い」とか「空色パンデミック」の話。けれども普通の人は自分自身がのめりこむには冷静すぎるし、かといって妄想で世界を歪められるような力はない。そんな人がひとたび味わった非日常の快楽を再び得られるとしたらいったい内をしでかすか。もはや絶対に失いたくないとしがみつくに違いない。たとえ誰かを裏切っても。そして人をあやめても。

 秋口ぎぐるの「いつか勇者だった少年」(朝日ノベルズ)は、非日常とう宴の後に来る心の空虚さにとらわれた少年が、徹底して非日常にこだわりしがみつこうとした挙げ句にとった行動の凄まじさを描いた物語。かつて異世界に召還されて勇者として戦った少年だたけれど、戦いを終えて現世に戻されこの二年間、平穏過ぎる日常に何もやる気を失ってふらふらと漂っていた。そんな時に起こった知人の家が燃える事件。何かがあったと直感した少年は、道ばたで出会った少女の正体にすぐ気づき、彼女が自分を襲ってきた理由もすぐさま察知した上で、再びめぐってきた非日常をもはや絶対に手放したくないと考えあらゆる手段を駆使する。そもそもが少女に襲われる羽目になったのも、過去に異世界で抱いた非日常への憧れでありそれを手放したくないという執着心。今再びの非日常にそんな執着はさらに増し、少女を使おうとしていた勢力に自分を見方にするよう求め、自分を頼ってきた勢力をあっさり裏切ることまでする。

 それより以前に自分と同じ経験をしながら非日常に背を向けていたかつての仲間を自分と同じ思いにさせるよう、とんでもない行為に出てしまったりするから何というか。その心根の冷えっぷりに触れるにつけ、物語だったりゲームだったりを通して非日常を求め楽しんだ果てに来る、ポッカリとあいた虚ろな心の恐ろしさって奴が感じられ、そうした心をもしも埋められない人が続出した時に、世界はいったいどうなってしまうんだろうという恐怖が背筋をぞぞっと冷やす。あるいは非日常を諦められない奴が妄想の果てに起こした暴走かとも思ったけれどもそうでもなさそう。非日常の魅惑ばかりを煽る物語の氾濫が何を招くのかということを探求した、ある面でメタな設定を持ったストーリー。後味の悪さはいつか晴れるのかそれとも。というか続くのかどうなのか。どっちにしたって今年トップ級の問題作って言えるかも。


【2月19日】 幕張メッセへと駆けつけると、会場にはサンチアゴ・ベルナベウとサン・シーロ、そしてオールド・トラッフォードを燃したミニチュアのスタジアムが組み上がっていて、そこで子供たちがフットサルを繰り広げる中に、それらのすべてに所属経験のあるデビッド・ベッカム選手がユニフォームを着替え、髪型も変えながら加わってボールを蹴るというほほえましい光景が広がっていたかというと、もとよりそんな予定はまるでなかったからあり得ない上に、そうではない普通のフットサルコートもなく当然ながらリヴァプールとかのブースもない、まっさらな床面が広がっていて完全完璧に中止となっていた「国際サッカービジネス展示会2010」。

 海浜幕張駅は帰りがけに見てもとりたてて人が案内している風はなく、会場では入り口を入ったところに1枚張り紙が張ってあるくらいで誰かが立って説明している状況ではなく、また来場して迷っている人もそんなに見かけなかったところを見ると緊急ながらも出展関係予約関係には連絡がいったんじゃないかって予想も浮かぶ。とはいえフリで参加も考えていた人もいただろうから、そうした人は会場に来て張り紙を見て愕然とし、展示ホール前に置かれた机に座っている多分説明員らしい人の姿に呆然として、それから幕張に吹く2月の海風を全身に感じて寂しさにうち震えるんだ。せめてそんな時にちーばくんが現れて慰めてくれたら心も温まっただろうに。見るからに暑苦しいもんなあ、赤くって、デカくって。

 だったらとそこで主催者が気を回して、サッカーも良いけどゲームもね、って誘いかければちょっとは景気も上向きそうな感じがした「アミューズメントエキスポ」。いわずとしれた業務用ゲーム機の展示会で、秋に開かれる「アミューズメントマシンショー」と基本はいっしょなんだけれどもそっちには出ないコナミデジタルエンタテインメントが出るのが大きな特色。でもって今回は「アバター」とか「やさいのようせい」とか「コララインとボタンの魔女」で大流行の兆しが見えてきた3Dこと立体視を取り入れたゲーム機を投入ってことで、話題に釣られて来ていたメディアなんかも多くいたみたい。このタイミングでこれを出せばこうなるってことが見えていたとしたらなかなか巧い戦略かも。

 そのゲーム機とうのは、形は双眼鏡を分厚くして大きくした感じで双眼鏡みたな接眼レンズに両目を当てて中をのぞくと、赤いワイヤーで描かれたオブジェクトが登場してこちらに迫ってくるところをコントローラーのボタンを押して弾を発射して打ち落とすという……それは違う全然違う。場所はやっぱり幕張メッセだったけれども時期はもう10年以上も昔のまだ「東京ゲームショウ」が始まっていなかった時代、任天堂がセガといっしょに出展したという珍しいイベントが開かれて、そこに目玉として並べられたのがそんな形のゲーム機だった。名を「バーチャルボーイ」という。

 当時はそのデカさからさんざんっぱら笑いのめされ、「プレイステーション」とか「セガサターン」といった次世代ゲーム機の美麗なグラフィックに背を向けたような簡素なグラフィックもあれこれ言われて、結局は沈んでいってしまったんだけれど、「ボーイ」って名が付いているよーにこれは「ゲームボーイ」のひとつの進化系、手にしてピコピコと遊ぶゲームが、ぐわっと立体になったというパラダイムシフトに等しい進歩がそこにはあったことが気づかれなかったこと、が今となっては残念無念で仕方がない。ここで本当に3Dゲームの面白さやら可能性に気づいていれば、一気にそっちの道が拓かれ日本が世界に冠たる3D先進国になれたかもしれない、ってそれは無理か、今の「アバター」にしても撮影の技術があって、映写の設備があって成り立つ物、それがないうちはいくら次世代家庭用ゲーム機向けに3Dを作ったところで、遊ぶ場所がない。

 そうはいってもテクニックとして3Dをどう見せればどう楽しいかっていったノウハウは蓄積されていって、ゲームの作り方という部分で大きなアドバンテージを得られたかもしれない。あるいは任天堂の中には「バーチャルボーイ」の資産を受け継ぐ部署なんてものが実は密かに存在していて、来るべき本格3Dの時代に向けて何をどう見せどう遊ばせれば面白いかのノウハウが、しっかりと蓄積されていて次世代Wiiあたりで一気に実装されて他社を圧倒的に引き離す準備ができていたりするのかも。そこに至って横井軍平さんという不世出のゲームデザイナーの偉績が輝き、辺りを照らすのだ。夢物語かそれとも。

 それはそれとしてコナミが出していた「メタルギアソリッド」の3Dアーケードは、さすがに立体視に関しては今時の技術が入っていてなかなかに立体に見える。あとメガネの横に取り付けられたポインターみたいなのが顔の動きを関知して、見上げれば画面も上を見上げ見下げれば下を向いてやや俯瞰になるから没入感もなかなかに高い。とはいえそうした動きへの追随にややタイムラグがあって、人間の速度にキャラクターが追いつけていないのが今後の課題か。早過ぎてもぶれが大きくなってゲーム酔いしてしまうからあんまりセンシティブにはできないけれど、巨大なクレーンを操縦しているような感じはメタルのアクション性とはやっぱり違う。そのあたりをどう煮詰めてくるかにちょっと注目したいところ。いつ頃出てくるのかなあ。

 あとはビーマニシリーズがよりグレードアップして登場して来たみたいで、ドラムマニアはドラムセットがまるまる乗っかったような感じになっていて、プロなドラマーでも楽しめそう、っていうかプロなら楽しめるけれどそれと普通の人でもどこまで楽しめるものにしてあるのか、ってところにちょっと関心。Xジャパンの曲も入っていたらちょっとやってみたいかも、でもあれはバスドラがツインじゃないとできないか、YOSHIKI仕様とか作ったりして、でもって毎回最後に壊されてしまうという。ギターフリークスは音楽性が高まっていてライブハウスの中で惹いているような感じを味わえそう。「けいおん」とかSCANDALの曲が入っていたら女の子が集まりそうだなあ、そんなタイアップはあるのかなあ、水樹奈々さんの曲は入っていたみたいだけど。

 セガはもうミックミクにされまくり。あとは我らが「ムシキング」が合体物になって再登場、って虫が合体するのか、それって前の昆虫だけはリアルな「ムシキング」とはちょっと思想が違うなあ。でも、せっかくのブランドを生かさない手はないからこれはこれであり、と。さらに狙うなら女の子向けで一世を風靡した「ラブandベリー」もここで合体タイプを出して、2人の女の子が手を組むと変身するというギミックを加えれば……女バロム1? タイトーはプライズに「化物語」の戦場ヶ原ひたぎとか、「とある科学の超電磁砲」の御坂美琴とかが並んでた。売れるだろうなあ。美琴はセガにもあったけどどっちが人気になるのかな。あとはコロスケとパーマンか。バンプレストには火拳のエース登場で、あまりの旬ぶりに熱い視線を集めてた。王下七武海も8人が(数が合わない! のはクロコダイルも黒ひげも両方いたから)並んで壮観。集めたいよう。さらに大きなソフビのガンダム。スタイルが初代アニメっぽかった。これだよこのガンダムが見たかった、って人を集めそう。でも欲しくても買えないんだよ取るしかないんだよプライズだから。

 高岡早紀さんの話の参考になればとシアター・クリエで開かれている演劇の「39 STEPS」を見に行く。そんなに広い劇場じゃないから最後列からでもちゃんと見えたし、手にしっかりと双眼鏡も持っていたんで高岡さんのこんもりもばっちり、とはいえ最初は怪しげなしゃべりの女スパイを凄みのきいた声で演じ、続いて列車のコンパートメントに居合わせたはきはきとしたところもあるお嬢様をしゃきしゃきと演じ、そして農家の若妻をきゃぴきゃぴと演じてみせる演じ分けに目が行って、その巧みさに感じ入ってあんまりこんもりとかすらりとか見る機会もなかったのが残念、これなら1メートル以内で見たときにもっと見ておくんだたよなあ。

 その時は普通に優しげな人だったけれど、いったん板の上に出れば変幻自在とはさすがに女優。一緒に演じた石丸幹二さんは「時をかける少女2010」のケン・ソゴルみたいな落ち着いた兄貴とはまた違って、殺人事件に巻き込まれ、犯人と疑われ追いかけ回され逃げ回ってそして最後に大逆転をつかむ男を、だいたいがコミカルで時にスマートに演じてた。さすがというか素晴らしいというか。自由の身になって本格稼働を初めてまだ1年2年ってところなんだけれど、これほど幅が広い役者だったとはちょっと知らなかった。元いた場所ではやっぱり与えられる役割も決まり気味だったんだろうなあ、だからこその自由化か。それが大成功した役者ってことでこれからの活躍が期待できそう。

 それにしても無茶な設定だよ「39 STEPS」。何しろあのアルフレッド・ヒッチコック監督による「39夜」って映画を、そのまま舞台でやったらどうなるか、ってなメタ視点を入れつつそれを何の前置きもなしにいきなり始めてしまうんだから見た人はとまどってしまいそう。だからなのか舞台では、10分前から演出助手の人の前説が入ってこれはどういう作品で、どこがどうすごいのかって説明があってああそうなんだって感じに舞台に入って、やっぱりそうなんだってその展開に驚き感心して笑いまくれる。前説あって良かったよ。でも映画を舞台でやることのどこがどうすごいんだ、それなら他にもあるだろうってことになるんだろうけど、「39 STEPS」のすごいのは「39夜」のシーンをすべて舞台に移すだけに止まらず、それをたったの4人でやってしまったらどうなるか、ってところをあからさまにしている部分。

 そりゃあすごい。映画だったらエキストラも含めて大勢出せるところをたったの4人。おまけに石丸さんはずっとどこまでも1人の主役を演じるから、残りは他の3人で演じ分けなくちゃいけない。高岡さんは女性をメインにおそらく3役。そして残る130役以上を浅野和之さんと今村ねずみさんの2人が、手を変え品を変え服を変え声色も変えて望んでいるからもうおかしいやら凄まじいやら。爺さんから警官から農夫から乗り合わせた客から何から何まで2人で演じなきゃいけないところを、どう配役してどう動かすか、ってところに工夫が見られてなるほどそこは1人をそう動かしてそう演じさせ、もう1人をそう受けさせてそう動かせばそうなるんだってことが目の当たりにできて、その手管にただただ感嘆の言葉が漏れる。よく考えたなあ。

 なおかつ舞台上ではそれが映画として撮られているってことになっているから、暗転の時に舞台ががらがらと変えられるのは普通として、途中で急に転換が必要となった時に間に合わずセリフで急かしたりしてそれがまた笑いを誘う。楽屋落ちめいたところを見せつつ、それをどうすれば愉快になるかを工夫した舞台の上で、そう演じれば面白くなるぞって役者が分かって挑んで出来上がった作品。1幕45分でそれが2幕とトータルの時間は映画とほぼ同じになって、舞台としては短いけれどもそれがまた映画とのシンクロを誘う感じ。舞台を見てから映画を見たら、これは舞台ではこう演じられていたなあってことが分かって相当に面白そう。逆に映画を先に見ていた人は、それがそうなるかって笑えそう。3月4日まで割と長くやっているんでちょいとのぞいてみては如何。これを見てから「時をかける少女2010」を見ると、石丸さんの役柄の真面目っぷりの裏には何かあるんじゃないかって思えてくるぞ。別にないけどケン・ソゴルには。


【2月18日】 ツンなメイドは数いれど、そこへ直れ食事を持てと命令するメイドはなかなかいない。そりゃあ当たり前。だってメイドは命令されるからメイドなんであって、命令するメイドをメイドと呼ぶのはお門違いも甚だしいんだけれど、そこはメイド大好き少年の主人公、衣装がメイドで自分をメイドと呼ぶならそれはもはや完璧なメイド。その口から発せられる無茶な命令も居丈だかな指令もすべて素直に受け止め、主人としてメイドに心から仕えるのだ。やっぱり何か奇妙だな。

 もっとも奇妙だからこそ面白い榎木津無代さんの電撃小説大賞銀賞受賞作「ご主人さまとメイドさま」(電撃文庫)。突然現れた金髪少女はメイドの服で手に刀を持ってご主人と言って少年の家に転がりこんでうまか棒だか何かを囓り飯をくらい風呂に入って主人に背中を流させる。何と理不尽な。いや背中を流させるのはちょっと良いのか。どうしてそれほどまでに居丈高かと言えば何しろ出身が英国だかのお姫様。お姫様? まあ跡取りとかいは絡まない身で幼いころから決まった路線を歩まされそうになっていたところをいろいろあってメイドの道を志し、学校で学んで曰く因縁のあった少年の前に現れたという寸法。

 そしてメイドがメイド服をまとった時だけ発することができる強大なパワーを使って向かってくる敵を切り伏せなぎ倒し、少年を守り少年に守られながら戦うのであった、ってそれ本当にメイドもの? 立場逆転の上に美少女変身ヒーロー物みたいな愉快さも乗って、無理無茶無謀な設定も気にさせないでぐいぐいっと最後まで引っ張っていってくれる。ありきたりに見えても工夫と創意で勝利をつかんだというケース。続きもありそうだけれどそこに現れるのはいったいどれだけ強大な敵メイドか。そして少女は更なるパワーアップを図れるのか。すべては少年の給仕次第。頑張れご主人。メイドのために働くのだ、ってやっぱり書いてて奇妙だなあ。

 ああっと明日から「コララインとボタンの魔女3D」が公開になるのか金曜日からってちょい変則だけれどそういうにが無いって訳じゃないからまあ良いか。個人的にはプロの声優さんじゃない芸能人を声優に起用して話題を作ろうとする手法は苦手だけれど、最近はそうした批判もとらえつつ、しっかりを演技できて且つ話題性もある人を使うようになっていたりするからストレスなく吹き替えも見ていられる。好例が「よなよなペンギン」の爆笑問題の2人で、見ている間は2人が出ているなんてまるで気づかなかった。「コララインとボタンの魔女3D」でも榮倉奈々さんが構ってもらえずふてくされた少女にぴったりの声を出しているから見ていてしっくり。11歳にはちょい聞こえないけどそれはキャラだってそうは見えないんだから仕方がない。劇団ひとりはそれが劇団ひとりと分からない名演。何を演じているかすら気づかなかった。そしてママは戸田恵子さんだ。マチルダさんだ。魔女も戸田恵子さんだ。アンパンマンだ。完璧。なので気にせず吹き替え版を見に行こう。3Dはちょっと画面が暗いけど。

 デジタルハリウッド大学が去年に引き続いてアニメビジネスに関わっている人を講師に招いてのフォーラムを開くってんで秋葉原まで行ってマクドナルドでメガマフィンを食らってそれからダイビルの中で6時間に渡るフォーラムを見物。途中のお昼休みに抜け出して、秋葉原ラジオ会館にある輸入ブルーレイディスクなんかを売ってる店であの「バジリスク 甲賀忍法帖」のブルーレイコンプリートの海外版がたったの10500円で売られてたんで買ってしまう。日本版もまもなく発売になるんだけれど確か値段が4万5万。もちろんそれなりの映像が収録されているんだろうけれど、見られるかどうかってことだけを考えればDVDよりは真っ当な画質だろう輸入ブルーレイに傾いてしまう気持ちも分からないでもない。とはいえやっぱりしっかりとした画質で見たい気もするから日本版が発売されて様子を見てそれから考えよう。

 けどこれだけの低価格なのに米国あたりではパッケージビジネスはシュリンクしてしまっているそうで、いったいどれだけお金がないんだって気分も浮かんでしまう。それとも価値観がまるで違うのか。そうしつけられているから100ドルでも高いって映るのか。だとしたら日本は米国でのビジネスを根元のところで間違えてしまっていたってことになる。今から取り返すにはだからネットくらいしか道がないってことで、テレビ東京の海外販売担当の部長さんが登場してクランチロールと組んでやってるって話をしてくれた。去年も今はAT−Xの社長になってる岩田圭介さんが、クランチロールと組んだ早々の話をしていたけれど1年経ってそれなりに成果はあがっているようす。ただし1つと組んでは他から湧いてくる違法なアップロードは無くならない。潰すにはまんべんなく組みより広範囲にオフィシャルのものを巻くことで、違法なものを後退させていけるってスタンスを話してた。そういうものなのかあ。

 今年はAT−X社長として登壇した岩田さんの方では地上波ではない場所でのアニメ放送ビジネスの可能性をいろいろ。いろいろ言っていた中で気になったのは決して下請けの制作会社のお金が回ってないんじゃなくって、逆にプロダクション印税として出資もしていない制作会社にもちゃんとお金が入っているって話。それならどこからも文句は出ないはずなのに、聞こえてくる声は何だろう、業界の外からアニメ業界の赤貧を“常識”として認識してしまっている人の動物的な反応なだけなのか、それともプロダクション印税ったって網をくぐり抜けるための方便で内実が伴っていなかったりするのか。気にしておこう。

 あと下請けになんて出資の話が回って来ないってのも違っているそうで、今時はリスクを分散させたいから声をかけようとしているんだけれど体力がない下請けからやっぱり出資なんて出てこないんだってことも話してたけど、これも卵と鶏みたいなもので、体力を付けさせてくれなかったからこそ今になって出資の話をされても対応できないぜって諦めがあったりするのか、それともいろいろな方面に出資を願うほどリスクがある作品で、それを持ってこられたって応じられるはずもないって認識があったりするのか。1つの事象には表もあれば裏もあるのが世の常だ。言葉の意味を探り裏側をのぞいて見てみないと何とも言えない講演だった。どこまで本当なんだろう?

 アニメビジネスフォーラムでトバしていたのはグーグルとくっついたyoutubeの人で、元はヤフーから移った人らしいんだけれど立て板に水としゃべってyoutubeのすばらしさって奴を訴える。映像をアップしてそれに自分で字幕を乗っけておけば、自動翻訳が動作して自分の分かる言語でしゃべりを理解できるし、そんな手間をかけなくたって音声からだってテキスト化をしてくれる機能もあるから、字幕書きも翻訳も不要で映像をネットに乗っければあとは世界に映像が届き、それはどの地域でどれだけ見られたかも含め把握可能と訴えてた。そりゃすげえ。

 youtubeにはかようにバックグラウンドとなる技術があるので、コンテンツホルダーの人は恐れず乗っけろそうすれば世界で見られるようになって、どこでどれだけ売れば効果的かも分かるんだというセールストークにヨロめきたくなるアニメな会社の人もいそうだけれど、問題はそれのどこでどれだけ利益が生まれるかといった所。youtube経由でいっぱい見られたとして、それにはっつけられた広告からの上がりってどれくらいなんだろうか、パッケージビジネスにはそれが本当に結びつくんだろうか、キャラクタービジネスにすらなるんだろうか、見られておしまいになるんじゃないのか。それでも見られていくらか入るから良いって考えもあるけれど、誰もが食えるような規模になるかどうかはちょっと判然としない。

 テクノロジーの最先端が詰め込まれている プラットフォームにはとても利便性を感じるけれど、ニューカマーなりアマチュアがそこで何かのステップを得るには効果があっても、プロフェッショナルたちがみなまとめて食べられるような仕組みに果たしてなっているのか。中国人の作曲家が書いた交響曲を演奏してくれるメンバーを、youtubeを通して世界中の人にスコアを見てもらい、それを演奏してもらった映像をアップしてもらうことでオーディションして集め、演奏会を開いて話題を集める企画も行われたけれど、それでどういう具合にお金が集まり、誰にお金が行ったのかってところも含めて考えないと、全容は見えてこない。所詮は集められた新鋭たち、出られることで未来が開けるならと手弁当で参加したんだとしたら、それはプロフェッショナルが作品を開発して提供し、プロフェッショナルならではの対価を得るスキームとはちょっと違う。ボランティアでありファンイベントといったもの。ビジネスとして見ると見間違える。

  翻訳だってそれでニュアンスがすべて通るような精度になっている訳じゃない。日本語に訳された字幕を見てもまるで意味が通じない。それでも届く可能性があるなら届ける上で有効なプラットフォーム、広く多くバラまけばひっかかりも出てくるという理解も成り立たないでもない。うーん。どっちだろう、いろいろと刺激され考えさせられたグーグル=youtubeな人のトークセッションだったフォーラム。どっちにしても山科誠さんがやろうとしているロングテイルなんとかよりは、革新的な技術がすでに実装されていたりするんで、有効利用できればそれにこしたことはないんだがなあ。動く映像のフレーム間のズレ具合で、同じ映像を見分けてしまうんだから何というか。それで誰かファンがアップロードしてきたものを把握して権利者の意向が働かない視聴は不可能にしてしまう技術なんかもあるそうな。頭の良い人たちがいるんだなあグーグル=youtube。世界は遠からずそのサーバーにすべて把握されてしまうんだろうなあ。


【2月17日】 真夜中にユースケとなぎすけが出ている番組がやっていて北村一輝さん小池栄子さんも交えてカップ焼きそばの食べ比べをやっていたけど、並んでいたのがペヤングにUFOに一平ちゃん夜店の焼きそば。これって別に食べなくたってお湯入れて出来上がった奴をみればすぐに分かるよね。UFOはリニューアルでもって麺が太くなって真っ直ぐになったし、ペヤングは昔ながらの細いちりちり麺で具がキャベツと小さい肉。一平ちゃんは香りにマヨネーズが混じっている。

 そんな特徴をつかめばテレビ越しにだってどれがどれだか分かって当然、なぎすけと北村さん小池さんは正解したけどユースケだけは外してた。やっぱり簡単過ぎる問題を全員が当てたらつまらないから? まあでもUFOだってリニューアルしたのは最近こと。昔よく食べてたってだけじゃあ分からなかったかも。かくいう僕は痩せる方向へと向かってからは、カップ焼きそばは1つも食べてない。昔は大盛り1・5倍にマルシンとかイシイのハンバーグを入れスイートコーンを入れポテトサラダを乗せてビールでかきこんでた。それも真夜中に。太るはずだよなあ。でもちょっとまた食べてみたくなてきた。あの色あの香り。カップやきそばには何かがあるのだ。記念日を見つけて食べて見るか。何の記念日?

 やっている時間が時間だからなのか、開幕してもうずいぶんと経つのにバンクーバーでの冬季五輪の競技をどれもリアルタイムで見ていない。見ていたらたぶんスピードスケートの女子の透ける褌の神々しさとか、まるでメディアに無視されている里谷選手の今いったいどんな感じになっているのか見ていろいろリアクションできるんだろうけど、それすら後からニュースで知る程度なんで反応した時には、もう世の中での話題から取り残されている感じ。だったら見ない方がいいやと離れていってしまうようなことが、やっぱり時間が合わない南アフリカでのワールドカップでも起こったりするのかな。あれはまだ夜だからちゃんと見られるのか。

 それ以前に日本からサッカーへの興味がぐっと後退して、もはやスポーツビジネスすら成立しない時代に突入してしまったから、って訳では多分なくっていろいろと事情があるって可能性も高そうだけれど、明後日19日から幕張メッセでアミューズメントエキスポなんかと重なるように開かれる予定だったサッカー関連の展示会が、開催2日前になって突如中止になったとの報。すでにおそらくはブースの建て込みなんかも始まっていた可能性もあるし、そうでなくっても機材の手配人員の配置もおわっていて不思議ではないタイミングでの中止は、来場が見込める見込めないっていった次元を越えての決定だと思うけど、たとえ普通に開かれていたとして、いったいどれだけの来場と、そして商談が見込めたか。このままでは停滞する一方の代表人気。その先に来るリーグをも巻き込んだ氷河期にサッカービジネスを始めましょうって言えるところがどれだけあるのか。それを思うと二の足を踏んでくるりと振り返り、すたこら逃げ出しくなって当然かも。

 それが新規参入組の間だったら良いけれど、このままだったら架空の動物をマークにした酒造メーカーだとか、3本ラインをキラキラと輝かせているスポーツ用品店もくるりと振り返っていざさらばと成りかねない。にも関わらずそうした可能性にまるで気づいていないのか、それとも気づかないふりをしているだけなのか、一向に手を打たない本郷の大きなビルの主だち。業を煮やして大手サッカー雑誌の1画を占める「週刊サッカーダイジェスト」が、表紙に堂々「岡田監督を更迭せよ」って書き、それもページの上に大きく下にも小さく書いてあおり立てるとともに、巻頭では編集長があばずれ女と手が切れる的な言説という、ちょっぴり下品に見えるかもしれないけれど、それだけ心から振り絞っての叫びを上げ、巻末でも多大なページを割いて岡田サン更迭の必要性を説いている。

 さらには代替の監督として鹿島アントラーズのオリベイラ監督を上げ名古屋グランパスのストイコビッチも挙げそして我らがイビチャ・オシム監督の名も挙げて、代わってもらえるなら即代わってもらえと訴えている。チームを強くする上でも人々の関心をサッカーの日本代表に引きつける上でも必要な交代、といった論陣はおそらくあの寒空に代表のふがいない闘いぶりを見た人が抱いた気持ちと共通。それはたったの200人なんかじゃなくってその背後にいる万倍の同士たちの気持ちも代弁しているものだろー。

 それほどまでの声を馬耳東風と聞き流せるとしたら、よほど日本サッカー協会は鈍感か、それとも強靱過ぎる意志の持ち主なのかってことになる。どっちなんだろう。「週刊サッカーマガジン」も「サカダイ」ほどではないけど決断を促す論調。2大サッカー雑誌がそろってそうした論陣を張ってなお、踏みとどまれるとしたらやっぱり強靱な意志、それもサッカーのためではない何かのために頑張る意志を持っていることの証かも。何にそんなにこだわっているのだろう? それが分かればサッカー界隈ビジネスの世界できっと成功できるだろうなあ。サッカービジネスではなく。

 昔読んだはずだけれども内容まで良く覚えていなかった川崎康宏さんの「Alice(アリス)」(電撃文庫)の続きになるのかそれともリニューアルになるのか。ちょい内容も違うみたいだからここは続きと踏んでおく「ありすとBOBO 猫とマグロと恋心」(GA文庫)は探偵事務所の所長がカナダグリズリーのボーボーで所員が戦闘が得意なアリスって少女と自分がゲームのキャラクターだと思いこんでいる少年というキャラでもって繰り広げられるドタバタな日常を描いたストーリー。

 といってもアリスは派手に闘うことなくむしろ同級生への恋心をどうやって打ち明けようかとドギマギして、服を買ったりしている間にマグロの密輸入密輸出をめぐって起こったチャイナマフィアと日本の猟師とのバトルに巻き込まれ、ボーボーが立ち上がってはチャイナマフィアのサイボーグを倒し、猟師に追いつめられそこをアリスがどうにかするとかいった展開が描かれ、中にマグロの重要さだとか、大和魂に武士道が文化大革命に毛沢東と闘う意味なんかも語られる。するりと異常な世界が見えて、それが淡々と過ぎていく不思議な小説。それにしてもやっぱり思う。ボーボーって何者だ?


そりゃあ可愛くないよ中国製なら、な訳あるか 【2月16日】 「ポニョ」。2008年に日本で公開された宮崎駿監督の映画「崖の上のポニョ」に登場するキャラクターの名前である。半魚人をあしらったこのキャラクター人形が今、世界中で評判が悪い。ある在留邦人の女性は、ぬいぐるみの布地に記された原産地を見て(やっぱり)と納得した。「メード・イン・チャイナ」−。日本の人々が問題視するのも「中国」だ。「どうして中国で作る必要があるのか。日本映画のキャラクターなのだからここで作るべきではないか」(労働組合)。しかも、ポニョを作るために中国の工場で……ってのはだから冗談なんだけれど、こんな冗談へと置き換えればどれだけロジックが突拍子もないかが分かってもらえそうな文章が、とあるところで正々堂々まかり通っている状況に対して、何をどう思ったらいいのかがまるで分からなかったりする冬2月。

 なるほど安い労働力を使って安く作り上げて世界で勝負する搾取取云々の問題に対して警告的ではある文章だったし、それはそれでごもっとも。とはいえそれは何も中国に限った話ではなく、パキスタンバングラデシュインドあたりの労働力でサッカーボールが作られていたりしそうな状況もあるというのにそうした話は引き合いに出されない。というか今は中国も労働力が高くなってカンボジアあたりに流れているんじゃなかったっけって話が、ジーンズの歴史と経済を追った本に書かれてあったって記憶がある。かくいう日本だって農業の現場に安い中国の労働力を導入しようとしていたり、介護の現場にインドネシアからの働き手を入れようとしていたりするから根本のスピリッツで断然たる差は見いだしにくい。

 つまるところは何でも中国について書きたい、それも後ろ向きに書かなくてはいけないんだっていうとてつもない意欲が、最初っから不細工なワールドカップ南アフリカ大会のマスコットの不細工さを中国製だからって所に求めてそれを枕に中国非難へと筆を進める、猪突猛進な牽強付会を我田引水させてしまったって言えば言って言えるかも。ちなみにポニョのぬいぐるみも混じりっけなしの中国製だ。ある意味でモノを言い過ぎるだけ言い過ぎる人たちの、その物言いが世界的に見て正義だったら誰もが讃えて認め受け入れ広められる。その反対だったら何が起こるかということで、今ではいったいどうなっているのという状況からいったいそれれは正義か否かを、改めて考える時期に来ているかというと既にもう遅かったりしちゃったりするかもなあ。千葉日報に日刊工業を仰ぎ見る世界の果ての底では。

 しかしそんな中国だって、バンクーバーでの冬季五輪が終わって、南アフリカでサッカーのワールドカップが始まるまでの間に、世界の目が最も厚めそう。なぜなら始まるのだ万国博覧会が5月1日から中国は魔都と呼ばれる上海で。行けば近代的なパビリオンがニョキニョキと経って何千万どころか何億って人が詰めかけ賑わっている様子を見られそう。日本からなら時間はたったの3時間。下手に新幹線で東京から岡山博多に行くことを思えば上海あたりの方はよっぽど簡単に行けてしまうから、わんさか押し寄せる人とか出てきそう。そんな時でのJALはちゃんと飛行機飛ばしているのかな。

 さて上海。何を見て何を食べれば良いのかってことはそれこそごまんとガイドブックが出ているし、これからだって出るだろうけどそんなガイドにひと味もふたあじもスパイスが加わっていそうなのが荘魯迅って人が書いた「上海 時空往来」(平凡社)だ。もちろん単なる観光ガイドではなくって、書かれてあるのはかつて租界として欧米列強や日本に支配されていた上海って街の歴史から、それよりさらに大昔の英雄豪傑が活躍していた頃の上海の歴史、さらにはぐっと下がって中華人民共和国建国後に全土を吹き荒れた、文化大革命の嵐に翻弄された人々の姿なんかだったりする。

 かくゆう著者の荘魯迅さんも、今は日本で音楽活動をしながら漢詩や歴史を教えているけれど、かつては国に認められた工芸家だった祖母が文革によって虐げられたのを間近に見、さらに自身も願った画家への道をブルジョワな家系だからってことで閉ざされて肉体労働に勤しんだって過去を持つ。そうした経験から語られる文化大革命の凄まじさは、傍目で思うほどに簡単ではなく日々がそうとうに暗くて厳しいものだった様子。当時に生きていなくて良かったって今の上海を闊歩する若者も思っているだろう。あるいはそうした思いなんてまるで想起しないし出来ないかも。文革で心を痛めた祖母が、飛んでしまった魂を取り戻してきて欲しいと、魯迅にかつて務めていた研究所、そして迫害を受けた研究所に行って3回回ってきて欲しいと頼んだりするところに、うがたれた心の穴の大きさとそして、迷信風習を含めた伝統の深さって奴を思い知る。

 今の上海といったら超近代的なビルが立ち並び、ショッピングも観光も自在にござれって感じだけれど、そんなネオンに輝く上海にも他の中国の都市なんかと同様に、暗くて厳しい過去を抱えている。といった知識をこの本から得て踏まて見てみれば、まばゆい光景にも奥行きが出るはずだ。あと権力が潰えても次の権力が現れのしあがってきた激動の歴 史なんかも振り返れば、未来の中国、それも遠くではなくちょい先の中国がが日本も欧米も脅かす可能性って奴にも思いが及ぶ。

 さすがは地元育ちって感じで、紹介されている食と観光のガイドはとても有用。上海まで来て北京料理を食べる愚なんてものを指摘して、ここでこれを食えて感じになってて役に立つ。そうしたガイドを思う存分に活用し、食べて飲んで見てそれから忘れないで思うこと。日本が抜かれる恐怖におびえる訳でも、欧米がおそれを抱いて敬遠するでもなく中国とつき合っていくことの大切さって奴を。もちろん中国自身が奢らず威張らないでいることが、世界を平和のままでいさせる上でとても大きいんだけれど。どっちも無理かなあ、ぬいぐるみのデザインのまずさをメードインチャイナのせいにしてしまって平気な言説がはびこっていたりする限りは。

 萌えもいれば燃えもある。それもすさまじい燃えがやって来そうな感触があって楽しみになって来た「コみケッとスペシャル5in水戸」。四谷あたりでどうなるこうなる会見があったんで見物に言ったら前に買った梅サブレーとか、記事にもした水戸納豆カレーとか情報はもらっていた提灯なんかに加えてさらに多数のコラボレーション商品が公表されてて、その中にはもちろん萌えでいっぱいのキャラクターなんかもいたけどそうした風潮に真っ向から火の拳をたたき込むのが広江礼威さんに平野耕太さん。持ち前の迫力たっぷりな筆でもってマッチョな黄門をワイルド&クールな助さん格さんが見守るハードコアなビジュアルを持ってきた。

 それで入るのが饅頭ってことでいったいどんな饅頭になるのやら。ちゃんと丸いだけじゃなくって突起がぽっちり出ていたりする饅頭なのか。それを握って潰して食べるのが作法として求められているのか。うーん楽しみ。ほかにもいっぱいのコラボ商品だけれど提灯だけは注文開始で即完売となった模様。当日も売るけど抽選になりそうとかなんで諦めるのが寛容? それでも挑むのがファン心? 一方でシンポジウムにイベントなんかも盛りだくさん。本当に盛りだくさんで聞いて回って買えば1日では足りなさそう。ここはやっぱり泊まって梅を見て、そして通って楽しむのが良いのかな。何より楽しみなのはあの瀟洒でお洒落な水戸芸術館の前庭がコスプレ広場になることだ! ロココでゴスロリでベルサイユなコスプレも似合いそうだけれど空間をぶち壊すようなクールだったりポップだったりするコスプレも見たいかも。ただし水戸なんで西郷隆盛とか坂本龍馬とかは厳禁か。それとも西郷なら気脈通じるところがあるのか。要研究。


【2月15日】 母校での応援まで取りやめになるとかって話に、いったいどれだけ世の中はどうでも良いことにこだわっているんだと呆れかえって腹が減る。そんなだから無性に海原零さんの「銀盤カレイドスコープ」(集英社スーパーダッシュ文庫)を読み返したくなっているんだけれど、いつものとうりに部屋のどこぞに埋もれて出て来ない。買い直そうにもオアゾの丸善には売ってない。家の近所のときわ書房本店になら残っているかなあ。読めば我らが桜野タズサのメディア弄りが、昨今のとことんまで薄ら寒くて薄気味悪い風潮に対して誰もが多分覚えている不満をスカッと解消してくれるのに。

 何しろタズサったら圧倒的な美貌とそしてフィギュアスケートの実力を持って、群がるメディアに悪口雑言。その態度の悪さに腹を立ててつっかかってくるメディアに向かって「実力で勝ち取ったものを泥棒扱いするマスコミに感謝しろって?」と言い放ち、「貴方のような無名人間の、ひがみと嫉妬。そう言い換えるなら、理解もできますけど」って言ってのける。そおとうり。何よりこの言葉が強烈無比でなおかつ的確。「オリンピックになったら突然、何処からともなく湧いて出てきて、ロクな知識もないのに専門家面しちゃって、でも競技なことなんて分からないモンだから、バカの一つ覚えでメダル、メダルって勝手に騒いで押しつけて」。

 これで潰されたたアスリートも山といて、今はひとりのスノーボーダーがもみくちゃにされようとしている。まあそりゃあ口調はぞんざいだったけれども世界の誰も注目してないマイナー競技なんかじゃなくって、プロとして大枚を稼いでいける人気スポーツから出てきたスターでもある選手。五輪だからって出場させてもらえる有り難みなんざあ押しつけられてもたまらないし、そもそもがそうした期待なんかを国民とやらが押しつけるのが間違っている。彼らは彼らの努力でそれをつかんだ。その努力に与えられる支援はあくまで対価であって、それに何もしていない国民とかメディアってのが過剰な期待を押しつけるのは恥ずべき振る舞いに他ならない。

 相手は競技でもって生きている人間。言うんだったら競技者としての相手に競技について云々すべきなんだけれども、それが出来ないからこそメダルだの態度だのを云々され、物語ではタズサに悪口雑言を投げつけられ、現実ではあらゆるアスリートたちから敵視され、さらにはそうした事情を感じ取っているごくごく常識的な人たちから、メディアの横暴性をかぎ取られる。今ですら落ちかけている信頼性はさらに下がって、果ては地獄の底の底。はい上がれないところまで落ちていってしまうってことに気づかないと大変なことになるよ、ってもう実は遅かったりするんだけれど。しかし海原零さんは的確にこの状況を見通していたなあ。まさにバンクーバー五輪が最後に近いところで出てくるシリーズでもあるし、今こそその中身ともども再注目を集めて欲しい本だよなあ。アニメ化の再挑戦も是非に。

 いやもうメディアが大変になっているってことは、発売になった「週刊東洋経済」の2010年2月20日号「新聞・テレビ断末魔特集」なんかでも喝破されてしまっているとおり。実を言うら書いてあることはヌルくてアマくて現実はもっと酷い、かもしれないってことを4万キロの彼方から電波によって受け取っていたりするんだけれども、そこにはあんまり危機感なんて感じられないだけに、何というか何ともかんともというか。千葉日報よりも日刊工業新聞なんかよりも下にあったりする状況も、そういうものだからって受け止めていたりするんだろうか。それが自己責任ってことなのか。

 見出しにも表紙にも踊っているのは朝日読売毎日日経ってあたりで、そこにとある全国紙の名前が載っていないってことに、決して危機ではないからだって言い分が出たりする可能性もあったりするけれど、読んでみれば時事通信は読売新聞が持って行き、日経朝日と読売のANYもそのままクルージング。そして共同通信は毎日新聞を取り込み地方紙とも連携して再生へと向かうって構図が見えてくる。弾かれているのはどこ? ってことで表紙や見出しに名前がのっていないのは、乗せる意味がないからだって類推が浮かぶ人も多そうだけれど、そのあたり本質はどうなんだろう? 子細は4万キロの彼方から流れてくる電波待ち。ガーガーピーピー。我は坂本龍馬なり。をを?

 テレビを見ていたらフィギュアスケート女子団体の競技がスタート。新体操とかシンクロナイズドスイミングの団体も華麗だけれど、これがフィギュアともなると6人がピタッと高さも合わせてトリプルを連続2回を決める様とかもう鳥肌物。現場で見ればさらに壮観だったに違いない。ただ1人で滑っても結構リンクって傷つくだけに、4組くらいが滑ったらちょっぴり補修に時間をとられて間延びするのが辛いとこではあるか。男子団体がないのもアクションが派手になって、リンクの痛みが激しくなるからってのも分かるなあ。全員がトリプルアクセルを決めるチームはどこから出てくるのかな。12年後くらいには出てきて欲しいなあ。そんな競技はありません。

 おお、こっちはこっちで3000メートルモーグルだ。いつ見ても過酷なレース。大滑降ですら高度差が激しいところを、こちらは連続しての足の運びが半端じゃないから選手も大変。その上に途中で30回のジャンプを織り交ぜなくちゃいけないから、終わった時には筋肉はぼろぼろで衣装も半分くらいは吹き飛んでいる。スキー競技でも最も過酷な鉄人レースといわれる訳がよく分かる。もちろんそんな競技もありません。でもあったら果たして人間、耐えられるんだろうか。250メートルですらあんなに足とか動かしているから、10倍以上ともなると途中で足がはずれてしまう人も出てしまいそう。ちょっと見てみたいかも。

 えっ? だってほら、オシム監督が倒れた時に後任をどうするかって結構みんなで悩んだじゃん、その経験があるからには監督がいつどうなってもいいように、常にリスクを想定してマネジメントしておくのが当たり前ってことじゃん、おまけにもうずいぶんと前から、その闘いぶりのふがいなさが取りざたされて、あるいはこの先にどうにかなってしまうって可能性も浮上していたじゃん、だから当然後任についても、すぐに何人か出していけるようにしてあったと思うのが普通じゃん、それが普通の組織じゃん、でも普通じゃなかったんだ日本サッカー協会は。犬飼会長が岡田サンの続投を明言して言ったことには「一般的に監督交代というのはそう簡単ではないということを皆さんに是非ご理解いただきたいと思います」。そりゃないぜ。

 「通常、監督の選考については、まず技術委員会で検討し、日本に適した監督をリストアップします。そして、その監督が今、どういう状況か−つまり、空いているかどうかということですね。空いていても代表監督を受ける意思があるか、そして、契約金やその他条件が合うかどうか…」。でも、いつそうなるか分からないからこそ常に次の目星をつけておけばこんな言い訳は通用しない。ましてや前任者のオシム監督の例も間近にあってそうしたリスクマネジメントがまるでされていなかったのだとしたら、どうにもこうにも閉まらない。本当にまるで考えていないんだとしたら、とんでもない話だし、考えていても踏み切れない事情があるんだとしたら、その事情の主はやっぱりとんでもない。今を大事にするばかりに失われる永劫の未来を思えば、とてもじゃないけど寝てられないはずなんだけれどもきっとみんなぐっすり眠って、明日にには火が収まっていると思っているんだろうなあ。昭和19年20年の日本もこんな感じだったのかなあ。八咫烏、南阿弗利加ニ玉砕ス。


【2月14日】 バレンタインデーだけど血の雨も降らなければチョコレートの風も吹かない。どういう訳だ。そういう訳だ。閑話休題。天気も良かったんで国立競技場なんかへや行かずに木場まで行って東京都現代美術館でアルスエレクトロニカって欧州だかで行われているメディアアートの展覧会に合格した日本の作品なんかを集めた展示会を見物したけど何だかなあ、動いてないメディアアートがただ並んでいるだけの会場はまるで死体置き場のよーだった。

 飾ってある絵や彫刻を眺めて美しさ凄さを感じるアートならいざしらず、触って動かして感じるインタラクティブこそがメディアアートの神髄な訳で、だからこそ見る人に対してどういう見方楽しみ方が出来るのかってところを子細に解説してあげなければまるで意味がないんだけれど、それを突っ立っている監視の兄ちゃんたち姉ちゃんたちは、そこにただいるだけで置いてある装置やらの操り方を説明してくれる訳でもなければ、どういう楽しみ方をすれば良いのか伝える訳でもない。黙って突っ立っていられると、近寄ることすら迷惑行為にとられかねないってビクビクするじゃないか。

 行った時間がたまたま早くでそういう段取りが出来ていなかったのかもしれず、しばらくすると目玉がかかれた紙を空気砲で打ち上げるアートだとかデカいプロペラが回っている下で寝そべっても良いアートだとかと体感している人がいたけど、僕が眺めていた時間にそうしたことを示唆する監視員はいなかった。他でも同様。テノリオンに触って良いとも言わないし、缶バッジ製造器とかポストペットのコーナーとか、壊れているのか止められているのか動かないものも多々あってまるで楽しめない。デカいモモちゃんが普通のお座敷に座っているだけのそれのどこがアートなのか。菜っ葉服がずらりと並んで珍妙な装置が背負われていたりするガラスケースのどこがメディアアートなのか。

 それを見たって何の驚きも感心もない。動いてこそ、動かしてこそのアートをただ並べ、それを見ている人たちをただ突っ立って眺めているだけの展示なんざあ無意味だってことぐらい、偉いキュレーターの人なら百も承知なはずなのにそーしたことを日曜日だってのにしてないこの状況を、笑って見過ごしていたら日本にメディア芸術への理解なんざあ百年経ったって気やしないってことをちょっと言いたい。格では劣る文化庁メディア芸術祭が、若い受賞者たちの参加なんかを得て演奏もあれば体感もあったりとそれなりに盛り上がっているのと比べると、なおのこと死体置き場感が強くなる。こんな感じに国立メディア芸術総合センターとやらも運用されたらきっとつまらなかっただろうなあ。ああでもそんな死体置き場にしないためのアクティブな展示が可能な恒久施設として計画されてもいたんだっけ。政争の具にして汚い言葉でこき下ろした政治家とメディアとその他の人たちには永久に消えない“敵”の烙印を押してやる。

 その点で同じ会場で今日までひらかれていて滑り込みセーフだった「レベッカ・ホルン展」はちゃんと動いて楽しめたんでなかなかに良し。向かい合った拳銃(本物を改造したのかなあ?)が左右に動いて時々バンとなる作品なんか銃口がこっちを向くと妙に緊張してしまうし、ピアノが逆さ吊りになった作品なんか次に何が起こるのかってついつい長時間にわたって眺めてしまう。そんな眺めている人のなかに体育座りしているスカート姿の女性とかもいたりして、ついつい正面からながめてみたい衝動にもかられたりするところがインタラクティブアートの醍醐味か、ってそれは違う。全然違う。

 その意味でいうならショートカットでうなじがのぞいた髪型をして顎がつんと尖った黒縁眼鏡の娘さんとかが歩いていて、なかなかにコケティッシュでキュートで遠巻きに眺めてしまったよ。反対に回ってもう会場を出ようと思っていたところだったけれども会場にとって返して明るいところでよく見たりとかもしたけれど、そこでやあ君現代アートとか好きなのかい僕はとっても大好きなんだよところでこのあと時間あるかいちょっとお茶でもしようよ何だったら食事でもとかいった声掛けなんか出来るはずがないし出来てたら今頃になってひとりでバレンタインデーに「ラブプラス」を持って美術館巡りをするような恥知らずなまねはしない。そういう訳で遠目に眺めてその場は退散。またひとつ心に哀しみを刻んだ1日だったとさ。

333メートル越え近し  しかしレベッカ・ホルンって妙な人。わしゃわしゃと動いたりする作品とかスプリンクラーが壁に黒い模様を描き出す作品とかはフォルムとそして動きから得られる結果の楽しさが折り重なっていたりして味わい深かったけれども、映像として流されていた顔に鉛筆を何本も取り付けてその顔を壁に寄せて左右に振って線を幾重にも重ねていくパフォーマンスとか、顔にこちらはふさふさとした鳥の毛をはりつけて誰かに頬寄せたり寄せてもらったりするパフォーマンスにいったいどんな意味があるのか、ってあたりがちょっと不思議に感じられた。やってみれば鉛筆のパフォーマンスはその動きの連続が次第に快感に変わって来そうだし、鳥の毛は触れたらなかなかに心地よさそう。そうしたフェティッシュな感覚を想像してみることによってスクリーンの向こうがこちらにしみ出て、一体となった喜びを感じられるってことになるんだろー。なるほどメディアアート。でも妖精なんたらって映像はやっぱり意味が分からなかった。殿堂車椅子との鬼ごっこのどこに一体何の意味が?

 そして会場を出て業平橋駅行きのバスにのってどこまで行こうか本所吾妻橋あたりまで行こうかと思っていたら見えてきた東京スカイツリーにそういや近所の駅が業平橋駅だったと思い出して初めてバスの終点まで行き東武日光線に乗り換え駅から眺めた東京スカイツリーはやっぱり高かった。まだ300メートルには達してなかったけれどもこのペースだとあと1ヶ月前後で333メートルを超えていきそう。そうなった時にはやっぱり東京タワーからのっぽの引継なんかをやるのかな。いやいや高台にある僕の方がまだ高いって東京タワーが言い出して、それならどっちが高いかを比べようと両方の突端に雨樋の両端を乗せて水を流してどちらがより多く水を被るかを試すという。どこかで聞いた話だね。

 業平橋駅からは浅草へと出て上野を周り御徒町から東京へと出て大手町経由で引き上げ一眠りしてからテレビで見た東アジアサッカー選手権大会の日本代表対韓国代表は……当然過ぎる結果かあ、なるほど闘莉王選手の退場はあったけれども本番でだって十分に想定できる事態。もっともパワーのぶつかり合いが誤解されるってんならまだしも最後に1発、蹴りをくれているような動作を見とがめられての退場なだけにいつかの大久保嘉人選手と同様にリスクとして考えておく必要も生じてしまって、なおのこと暗雲を色濃くしてしまった。それでも守り切れれば良いんだけれど攻め立てられ崩され抜かれかけた所を押しとどめてのPK献上は、セットプレーの混乱に乗じたPKよりもちょっと痛いしミドルが不運からでも決まっての追加点はミドルを撃たれてしまった時点でやっぱりどこかに問題がある。

 対してそうした流れからの得点がまるで奪えない日本は、結局最後まで奪えないまま逆にカウンターから綺麗に崩され1点を決められ万事休す。2点差の勝利どころか2点もの差をつけられ、そして中身は点差以上の差を見せられての乾杯にオイコラ岡田サンいったい進退どうすんの的怒声が観客席からだけじゃなくって身内から飛びだしたって不思議はないのに、そこは誰も責任をとりたがらないニッポン無責任協会。まだ大丈夫だのもう間に合わないだのといった理由をつけて退任させるよーなことはしないんだろう。間に合わないって何に間に合わないんだ。今のまんまじゃ負けは確実。ならむしろこれからの3ヶ月とそして南アフリカでの競合相手の実戦を、次の4年後を見据えた土台作りの絶好機と見ていろいろと試してみるってのも手じゃないか。それで人気が落ちるってんならすでに人気は底の底。むしろ新しい実験を初めて着々と効果を上げてきているところを見てもらった方が、続く4年をサッカーに引きつけられるんじゃ無かろうか、ってところを分かっていたら即行動なんだけれど、そこはだからニッポン無責任協会だからなあ。明日も明後日も6月までも岡田定食一丁、パクリ、まっずぅー、が続くのだ。嗚呼。


  【2月13日】 でもって「おおきく振りかぶって」はモモカンがあんまり目立ってなかったのがちと残念。バストショットとは良いながらもその曲線の半分より上からではサイズが今ひとつ迫って来ないのであった。来週はもうちょっと見られるかな。早くブルーレイボックス化でもしてくれれば買うのになぜか出るのはDVDでの総集編。春からの第2シーズンに向けた施策で呼び込みにはベストとはいえ熱いファン向けではないところに、熱いファンの冷却化による購買の手控えなんって現象も垣間見える。実際のところバンダイビジュアルが始めた低価格化にすら追いつけてないもんなあ。「バジリスク」の輸入ブルーレイボックスが1万円とかで売られてちゃあ1万5000円のDVDボックスだって高額に見えるもんなあ。

 というわけでアニメがダメなら実物をと味の素スタジアムまで駆けつけて東アジア女子サッカー選手権大会の最終日の2戦、中国女子代表対チャイニーズ・タイペイ女子代表とそして我らがなでしこ日本女子代表対韓国女子代表の試合を続けざまに観戦。午後から晴れるかと思ったけれども一向に止まない雨は時折みぞれから雪にすら変わって身に刺さるけれども下に西洋股引を履きジッポのオイル懐炉を2つチャージしていたおかげもあってどうにか耐えられた。ブランケットはサイズこそ小さいけれども足に巻けばまあそれなりに傍観に役立つ。掲げるだけしか役に立たない青い紙切れよりもよっぽど有意義。満員を予想して大量に作ってあったのが余ったらまとめて配ってくれれば縫って布団にするのになあ。

 そして始まった試合はまずは中国女子代表のユニフォームが白くって、そのために下がややのぞいているような雰囲気が感じられた上に、女性特有とは言えないけれども女性ならではの突出した部分が伺える選手もいたりして遠目ながらにもいろいろと感じ入る。もっとも試合が始まればそうしたビジュアルよりも試合の中身に目がいって、そんな突き出たところを気にせず中国女子代表の9番が2得点を決めてさらももう1点を別の選手が決めて3点で勝利。チャイニーズ・タイペイも背番号10番の実に男前な選手とかいて頑張ってはいたけれど、そこは自力で中国が押し切ったって感じ。それでも見ていて一方的といった感じはなく、またテクニックや戦術において格段の差はなく互いに切磋琢磨しつつ上に向かって進んでいるといった印象。ここにパワーの北朝鮮女子代表も加わる訳で東アジアの女子は相当に自力を着けている。次のワールドカップが楽しみだけれどそれだけに出られるかどうかが心配になって来た。

 実際に続く日本女子代表と韓国女子代表は、前半こそ押し気味に試合を進めてまずは大野忍選手が抜け出し1点を奪えばすぐさま山口麻美選手が大野選手のスルーを受けてそのまま流し込んで1点と、鮮やかすぎる2得点でリードしこのまま圧倒かと思わせながら後半にはいると韓国女子代表の出足が速まりプレッシャーも強まって、前半ほど日本女子代表にボールをキープさせない。先の試合だと中国女子代表が右に左にボールを散らしてサイドから中をうかがう攻撃を徹底させてチャイニーズ・タイペイをポゼッションで最後まで圧倒していたけれど、そうした攻撃を日本女子代表がなかなか見せられなくなってしまってじりじりとラインを押し下げられ、そして最後は苦し紛れのクリアを中盤でとられ前へと送られその中から1点を決められ1点差に寄られてしまった。

 さらにシュートが放たれたところを男子も含めて日本代表では最年長になるっぽい山郷のぞみ選手が手を伸ばし、押し出して防ぐもののそうしたプレッシャーは最後まで緩まず逆に日本女子代表はまるで好機を見せられなくなってしまった。その原因が右の前目に途中から入った岩渕真奈選手にあるかっていうとそうではなくって岩渕選手自身にボールが渡らず活躍してもらう機会を作れなかったってところも大きいかも。まあそれだけ相手も警戒してフリーにさせなかったってところもあるのかな。あれだけ報道されれば警戒されても仕方がないか。何せ和製リオネル・メッシの名に1番近い選手だから。

なでしこが誇る男前な近賀に迫る色気プレス  でもそうした状況ですら打開してこそのリオネル・メッシな訳で、他にディフェンスを引きつける選手もいてそして岩渕選手のディフェンスから離れる動きもあって初めてバルセロナにおけるシャビからイニエスタからメッシにイブラヒモビッチといった多彩なパスとフリーラン、そしてシュートといった攻撃が成り立つ。相手との力量差が大きな世代別ではなくフル代表のそれも力が拮抗した相手でも、名を残し活躍し得点を奪えるように当人も精進が必要だし、チームも熟成が必要だってことが見えただけでも十分に意義のあった大会であり招集であり出場だったって言えそう。そうした世代交代をちゃんとやりつつ優勝までしてしまうんだからなでしこジャパンとこサッカー日本女子代表の未来は明るし。とうことでやっぱり誰もが口にする「それにくらべて男子は……」。

 しかし韓国女子代表のナイキユニフォームは反則だよなあ、男子もそれなりにピッチピチなんだけれども女子はボディラインに沿ったカットまでしてあってさらにピッチピチ感が増している雰囲気。遠目にも背番号8番とあと24番だったっけ、やや大柄の選手のとっても女性らしいラインが目について身もぐっと前に乗り出していってしまう。これが雨でなかったら屋根がかからず水滴がおちていたため敬遠された最前列まで観客が押し寄せ、双眼鏡なり望遠レンズのついたカメラで一挙手一投足を追いかけまくったことだろー。いやすごかった。モモカンなみにすごかった。

 もしも全選手がモモカンだったらスタジアムには別の熱気が立ち上って、寒さなんて吹き飛ばしたことだろう。おまけに試合内容も白熱していて、あっとう間に時間が経っていったよーな気がした。本当に寒さなんて忘れてしまうくらいの素晴らしい試合内容だった。そんな試合ですら観客の足がなかなかに遠いのは、やっぱり冬場に試合なんてやるもんじゃないって国民の声な訳で、それを無視してでも冬の試合を強行したがっているおじさんは、いやいやそうじゃないんだってことを雨の降りしきる最前列で合羽もなしに見て世間に示せばいいアピールになったのに、ずっと暖かい場所にいてそこから出て来やしねえ。どういうことだ。かつて女子の監督をして今は協会で女子の担当をしている上田栄治特任理事はちゃんと外の関係者席で観戦してたのに。率先垂範の言葉はもはや日本では死んだってことなのかなあ。期待はしてなかったけどそういう人がすべてを握っているから未来はドンヨリっていうか。明日こそ示せよ真冬の夜の泥仕合で。泥仕合になってしまうのかなあ。


【2月12日】 上野動物園にパンダが戻ってくると聞いて真っ当な動物ファンは雄と雌とがそれぞれ1頭づつ来ていずれは子々孫々、なんて期待を浮かべるんだろうけれども、そこは世界に冠たるオタク大国ニッポンなだけあって、どうせ来るなら雄が2頭でやって来てはパンダ舎の中で見つめ合い、寄り添っている姿を見せてくれればいろいろと妄想も膨らむのになあ、なんて思った腐女子なんかも割といそう。問題はどっちが×で並べられた2頭の先に来るかってところで、流儀流派にシチュエーションの差異によって様々な派閥が生まれ、あれやこれやと議論を戦わせることにもなりそう。奥が深いなそっちの世界。一方で男子は男子でどっちも雌だった場合を妄想してみたり。美しき哉百合世界。

 別にいいよ闘莉王選手が点を取っても。問題はそれがたとえばワールドカップのオランダやカメルーンやデンマークを相手にしても出来るかってところで、点を取るために思いっきり前に上がりっぱなしになった隙をオランダだったらバッチリと衝いて2人がポンポンとパスを回して2点3点とたたき込むだろうし、デンマークだったらデカいディフェンダーが闘莉王選手を挟み込んで仕事をさせないだろう。カメルーンもまあ同様。だからおそらくは香港相手の限定仕様な攻撃スタイルな訳で、それでいくら檄を飛ばしてみたところで、次にほとんどつながらないのは意味がない。

 むしろだったら慣れていない選手を出して連携を取り戻させるなりした方が、よほど先の為になるんだけれども監督も上の空なら選手も自分が自分が状態。このまま6月の本番に突入して見えるのは瓦解して粉砕されるハラキリブルー。今ですら減りまくってる観客が更に減って1万人を切るなんて事態も今年の秋頃には起こりそう。1万5000人は入れられるフクダ電子アリーナで代表選だって開けるな。それはそれで近いし快適なんで嬉しいんだけど。サマラナのカレーを食らい喜作のソーセージをむさぼりながら見る代表。監督は我らがシュワーボ。美しいなあ。

 なるほど「時の宙づり」とは巧いことを言う。「IZU PHOTO MUSEUM」が4月3日から始める展覧会は、有名写真家の撮影した写真でもなければ有名人を撮影した写真でもなく、市井の誰かが映っている記念写真やポートレートの類を集めたもの。そこに存在した人々のすべては、死という避けられない運命とともに時の向こう側へと去っていったけれど、残された写真に写っている影はそのまま残って僕たちの目にさらされる。過去と現在、そして未来へと向かう時間の中にまさに宙づりにされた人たち。副題にもある「生と死のあわいで」という言葉がそんな彼ら彼女たちの状態をさらに明確に規定する。

 見てきっと思うのは、かつて確実に存在した人たちがどういう生き方をして、そしてどういう死に様を見せた間に、どういう経緯でそこに写真として定着させられたのか、ってあたりで結婚の記念なのかそれとも最愛の人への贈り物なのか、分からないけれども今ほど簡単に写真なんか撮れなかった時代なだけに、それ相応の理由があってカメラの前に立ったことだけは間違いない。そんな人たちから写真を通して伝わってくる様々な感情を想像すると、きっといろいろなことが浮かぶだろう。そしてそうした思考をした人たち、様々な思いを抱いていた人たちが皆死んでしまったという事実が、いずれ我が身にも訪れる死への感覚を鋭いものにするだろう。

 絵画でも決して感じない訳ではない、そうした過去に生きた人々への感情が、事実をそのままにとらえ画像にして定着させる写真は、さらに強くそして濃い者として見る人を突き動かす。それが写真というメディアの面白さでもあり、残酷さでもあるのかもしれない。単なる子葉から綺麗な額に納められたものまで並んだ写真から、そこにこめられた様々な思いなんてものも伝わってくるだろう展覧会「時の宙づり 生と死のあわいで」は4月3日から8月20日まで開催。行ってみたいんだけど遠いんだよなあ、三島駅から東レの工場の脇を抜けて山の上までえっちらおっちらバスで行くのは。ヴァンジの彫刻とかビュッフェの絵画を展示した美術館も近場にあるんでまとめて見られるのは有り難いんだけど、すでにどっちも見ているし。暇が出来たら行ってみるか。暇が出来ても貧乏になれば無理だけど。

 なぜに「ホッタラケの島」のコットンがチケット販売中と叫んでいるのか謎だけれどもそこはそれ、ボタンが眼になった魔女の物語を映像にする国なだけに、ボタンが眼になったぬいぐるみには何か共感するものがあるんだろうなあ、「ニューヨーク国際児童映画祭2010」。子供たちのために映画祭としてとてつもない伝統と権威があるらしいんだけれど、ラインアップを見ると多くがアニメーション。そのオープニングには「サマーウォーズ」なんかが挙げられていたりして、アニメ大国日本って奴の面目を見せてくれていたりする。もちろん「ホッタラケの島」も上映予定。埼玉の入間が世界に羽ばたく瞬間か。

 もちろん我らが「マイマイ新子と千年の魔法」も正式出品作として上映予定。賞があるとかどうとかまでは分からないけれど、見た人がどんな反応を示すかってあたりがちょっと楽しみ。ほかに日本からだと「イヴの時間」が上映か。それにしても子供向けにしてはアワードのセレモニーに招かれているゲストが半端ないところが映画に対して敬意を払うアメリカって国ならでは。ざっと見るとユマ・サーマンがいてスーザン・サランドンがいてガス・ヴァン・サントがいたりする。どんなメンバーだ。

 「アズールとアスマール」のミッシェル・オスロット監督も「ブローバック・マウンテン」のジェームズ・シェイマス監督もいるなあ。そんな豪華な授賞式をやり世界から集められた山ほどのアニメなんかを上映する。アニメ大国日本ですらやってないイベントをやってしまう国はやっぱり強いなあ。「東京国際アニメフェア」でもやれば良いのに。五輪招致にかけた金の1割でも使えば世界が注目するアニメ映画祭を作れるのに。それではもうけられるところが出ない? それがきっと実状なんだろうなあ。


【2月11日】 これで14年が経ち、そして15年目が始まる。身に変わるところなし。財布は軽くなるばかりなり。ようやくやっと「ダンスインザヴァンパイアバンド」の放送分を見たらミナのリボンがあんまりピコピコいってなかった。あれが良いのに。でもって生徒会長の陵辱と失踪は生徒の間にミナたちヴァンパイアへの不審を招いている様子。それはいいから生徒会長を早く戻して欲しいなあ。貴重な眼鏡なのになあ。

 そしてミナは学園から戦いの場へと赴き時の総理大臣を相手に大ばくちに打って出る。学校で卵焼きを作っている時のどこか健気さを残した声音が、総理大臣の前に出ると見かけどおりではない歳からわき出る強さを潜ませてくる辺りを、ちゃんと頑張って出している悠木碧がやっぱりすごい。「紅−Kurenai−」の時は年相応の紫を演じていれば良かったのが今回はそうではないからなあ。沢城みゆきさん戸松遙さんの系譜をたどりあるいは越えていく、すごい役者になりそうだ。

 そしてこれも録画だった「BLEACH」の斬魄刀編その続きは、場所を地上へと変えて黒崎一守の前にも刀獣が現れてはホロウと合体して強大化。それを相手に日番谷やらの隊長格も追ってきたりするあたりはちょい相手の力がインフレ気味? まあそうでなくっちゃ面白くならないから仕方がない。前みたいに村雨を倒せば終わりのフラグを立てられる展開とは違うだけに、どこへと向かいどうなっていくのかを楽しめないのが悩ましいところ。そこは死神が斬魄刀と心通わせ信頼を築き合うという、気持ちに訴えるエピソードだって理解しておけば楽しめるのかな。灰猫ちゃんとか出てきてこれでおさらばってのも勿体なかったし、まあ良いか。

 しまった「バカとテストと召還獣」の録画ミスった。きっといつもの展開だったと理解。そういや「神父と悪魔」の最終巻のあとがきに、アンシャールのことは「性別はアンシャール」って説明がしてあった。そうだったのか。これであと録画して見てないのは何だったっけ「おまもりひまり」……面白くなって来たのかな。「おおかみかくし」もずっと録画はしてあるんだけれどまだ手つかず。「コードギアス 反逆のルルーシュ」とか「うみねこのなく頃に」みたいにふとした機会で数回経ってからのをぽっと見て、これはと思い最初に戻って見直すような面白さがあるのかな。それとも何か分かってしまった気になって見ないで消した「テガミバチ」みたいなことになるのかな。ここが分水嶺。

 雨の中を国立競技場へとは行かずに「国立新美術館」にて「文化庁メディア芸術祭」の受賞者シンポジウムをダブルヘッダーで見物。入ると相変わらず良い匂いがして空きっ腹に来る美術館。ありえないなあ。他にないぜこんな生々しさ。さてシンポジウムは「ヴィンランド・サガ」で漫画部門を受賞した幸村誠さんが、昨日の締め切りの敵討ちに来た編集を眼前に見ながらも、ニコニコと愉快に作品を解説。あんな殺伐とした世界を描いている人が、こんなに愉快な人で良いんだろうかって懐疑を抱いた人もいたみたいだけれど、それを尋ねられて幸村さん。「ギャグ漫画家の人はみんな紳士でかっこいい。むしろストーリー漫画を描いている人たちの方がバカばっかりやってます。バランスをとっているのかなあ」と言っていた。自分はだから……。あっけらかん。

 しかし作品に対して取材はとてつもなく綿密で、2週間プラス1週間を北海周辺の旅行に費やし資料も集め鎧兜まであつらえてしまったくらいののめりこみ。それを最初は連載が決まらない中でやっていたというから作品にかける情熱たるや、凄まじい物がある。だったらそんなにヴァイキングが好きかというと「好きではないです」と意外な答え。つまりは「暴力が描きたい」という根元があって、それを描くには現代でもファンタジーでも無理だから過去に行く。しかし日本が舞台では他にいろいろな作品があるから自分は海外に向かってさがしてヴァイキングの時代が暴力的で魅力的に見えた、そんな暴力的な民族が新大陸を発見したという面白さもあった、だからヴァイキングなんだ、と話してた。とてもロジカル。それだからこそ見てくれに流されない、深い主張を持った作品が描けるんだろう。

 それから暴力が描きたいといってもその全肯定ではないところもひとつの意図。そうした暴力を使わずに生き抜けていけるかどうか、っていった難しさも含めて思案し考えて描いているってことらしい。10話くらいの先まで見通している上に、早い段階で父親だっけ、そんな人の死も決めて「千里の道も一歩から」と描いていくことによって、曲がった方へと向かわず過程はともかくとしてしっかりと続いていけるって話も。ストーリー漫画家は要メモ。問題はそうしたとkろまでちゃんと描かせてくれるのか、ってあたりで幸村さんの場合は編集の人がちゃんと認め理解して、描き続けさせているんだろう。良い編集だ。

 だから生まれるんだな「ユルヴァちゃん」なんてまるでパロディな漫画が同じ誌面の上に。それが描かれていることは幸村さんも先刻承知。でもそれが始まる過程では「やるから」と電話がかかって来てそれっきり。あとはどうなるかなんてことも知らずにキャラクターと、それからレイアウトがまんまパロられていることに憤りもせず、むしろ自分の暗い世界との対比があって面白いんじゃないかとすら見てる。太っ腹。そしてよく立ち位置を分かっている。

 ちなみに幸村さんが連載にあたって編集の人からヒットする漫画の要素として言われたことが、「女子を出せ、そして肩にのるくらいのマスコットを出せ、フィギュアになりそうなコスチュームを着せろ、そして大きな剣を持たせろ」だったとか。そんなキャラ「ヴィンランド・サガ」にはいやしない。でもって「元祖ユルヴァちゃん」はそのままずばり、女の子で水着みたいな衣装で剣を持っていてマスコットのクリオネちゃんが側にいる。売れる要素ガンガン。あるいはそちらで火の着いた人気が本家へと戻っていったいるす、なんて現象が起こり兼ねなかったところを、「文化庁メディア芸術祭」が本編に光を与えて良かったというか、本家なのに裏だと思われなくて助かったというか。面白いなあ世の中って。

 そのまま下でルノワール展を見物して、ルノワールが描く女性みたいな人をいっぱい見て冬なのに暖かそうだと思ってから戻ってやっぱり「文化庁メディア芸術祭」の受賞者シンポジウムで、今度は特別功労賞の金田伊功さんを取り上げりんたろう監督と氷川竜介さんが語るイベントを見る。いやまあなんというか金田さんのカラオケ映像が金田的でおかしいやら楽しいやら。そこでもらったタップが展示してあったタップかもしれないということで、また行く機会があったらじっくりと見よう。雲形定規でどうやってキャラを描いたのかも想像してみよう。

 作品はそれこそ「ザンボッと3」から「銀河鉄道999」「さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち」「幻魔大戦」「X」といったあたりをぞくぞくと紹介。「孔雀王」とかグラマラスナ女性が出てきてこんな話だったら見てみたいって思えてきた。あと「X」もだ。りんたろうさんはやっぱりあの才能は特別で、分析して真似はできてもそっくりにはならないって指摘していた。そういうものなんだろうなあ。フォロワーはいても越えられない、っていうか。

 問題はそうした特別な完成が、ここで途切れてしまわないかってあたりで、かつて金田さんに憧れ大勢のクリエーターがわざわざ儲からないアニメ界に向かったような現象を、今の時代に起こせるクリエーターが果たしているのかってあたりを考えて見る必要がありそう。いるのかもしれないけれどもそれを拾い切れていないメディアの果たす責任についても。とても勉強になったイベント。そんな間にサッカー女子日本代表が岩渕真奈の2ゴールで台湾に解消。マナマナすっげえなあ。明日は男子より大きく扱って欲しいなあ。っていうか扱うべきだよ。


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