縮刷版2010年月下旬号


【10月31日】 ミニスカ尼さんの乱暴な言葉遣いに行ってデコピンしてやりたくなった「とある魔術の禁書目録2」はどうやらワルモノだったローマに当麻が戦いを挑みイギリスもやって来て天草も到着したものの敵は多数。そして美少女揃いの軍団に手を焼くと思ったら案外にあっさり燃やしているなあイギリス野郎。でもってインデックスの技が炸裂したもののそこに耳をふさぐどころか鼓膜をペンで突き破る替え仕業で絶体絶命となって以下次回。聖人様の乱入とかもあるのかな。展開はゆっくりだけれど表情とかアクションに見るものがあってさすがはJCスタッフ、いい仕事をしています。

 そしてこちらもJCらしい「探偵オペラ ミルキィホームズ」はバリツが炸裂。ってそれバリツじゃない。バリツってのはもっと謎の格闘技でサブミッションとかスープレッスとかあるものじゃなかったのか。でもってそんなニセバリツに絡むような東小金井技炸裂。熊の大量発生しているこのタイミングでやってしまうところが何というか先読みの凄さというか。熊で人命が損なわれる事態が頻発していたらちょっと放送されなかったかもしれないなあ。とりあえず熊は王虫ではないってことで。触手の代わりにパンチが飛んでくるってことで。

 それにしてもジーニアス4だっけ、メンバーの3人に沢城みゆきさんと田村ゆかりさん新谷良子さんを置きながらメインの小衣(こころ)ちゃんは割かし新鋭というこのバランスが面白い。ミルキィホームズの4人もほとのど新人ばかりの並びだけれどそれでも違和感を感じさせない面白さでもっていつしかファンにさせている。「デ・ジ・キャラット」の頃から新人を主役級に持ってきていつの間にやらトップへと押し上げる技を発揮してきただけのことはある木谷流って奴か。いずれ未来の真田か沢城か。下も続々追い上げる中、頑張って頂きたいものである。

 展開はなるほどズレてハズれてスベってトんでともうしっちゃかめっちゃか。ギャグのテンポがもうちょっと早いと畳みかけられるような感覚を味わえたかもしれないけれども、やりすぎるとついていけなくなる人がいるから仕方がない。5分もない番組でぎゅっと詰め込んで見る者を粉砕したワンダフル事態の「デ・ジ・キャラット」とは流石に違うし。「ギャラクシー・エンジェル」だって1期の最初の方のエピソードは割に間延びして何だこりゃ的印象だったし。それが途中からシナリオも演出も手慣れ、見る側にもそう受け止めるんだって覚悟が出来て相互理解の中に爆笑が生まれた。「ミルキィホームズ」もきっとそうなっていくんだろう。最後まで突っ走れ。熊に負けるな。

 喫茶店にこもっていろいろ考えていたけどまとまらないのでフクダ電子アリーナへと出かけてヴァンホーレ甲府との試合をみたら前半で1点をとられて負けムードだったんで退散。結果は後半に1点を返したもののまた1点を取り替えされて1対2で敗戦で、これで福岡との差を広げられる一方で東京ヴェルディにも詰め寄られ、もはや気分は風前の灯火すら消滅した感じ。仮にこれから勝っても上が取りこぼさなければ昇格はあり得ない訳で、ここで見切りをつけて来年に向けた何かを始める方を、選ぶのが得策ではあるんだけれどもそれをやると己の無能さを認めたことになるからきっとやらないだろうなあ、監督もフロントも。

 だいたいがいつも同じの戦いぶり。相手が前線からプレスをかけつつ攻撃をなかなか自陣へと入れさせないのに対してジェフユナイテッド市原・千葉はハーフラインすら超えられないところからサイドに渡して囲まれ戻す繰り返し。たまに上にロビング上げても相手の頭を越えていくことはなくそれに突っ込む前戦もおらず、奪われ攻められいとも簡単にゴール前へと入れられる。この差はやっぱりポジショニングの差であり前戦の戦い方の差であり中盤最終ラインの押し上げ意欲の差。そこを何とかしないと攻撃すらままらないののこの1年、まるで変えようとしなかった。相変わらずのサイド出し、そして狭いところで囲まれ奪われる繰り返し。まるで修正が効かない。

 そこで前だったらトンとはたいて後ろから来た人に渡しつつ自分も走る成り、大きくサイドを変えてそちらから突っ込んでいくものが中盤で経由させられる人がおらずサイドも感じておらず回らない。だったら中盤から前戦にあてて後ろからフォローっていった攻撃も、前戦がまるでキープできない上に中盤も前を向く余裕がないものだからそこで滞って最終ラインから組み立て直して遅攻となってプレスをくらい、そのまま失点へと至る繰り返し。これって選手の力ってよりは戦術なりそれを仕込む練習の問題なんだろうけれど、それに気づいているのかいないのか。気づいていたら直しているし直らないようなら代えている。きっと誰も気づかなかったんだろうなあ。それとも気づいても直せない妙な理由があったとか。プライドだの契約だのといった。

 この期に及んでようやく責任は自分とか言い出したみたいだけれどもここまで言えなかった辺りにも、気づいていなかったか気づいていなかったふりをしなくちゃいけなかった理由がありそう。どっちにしたってもう終わり。そして来年。すぐ後ろに来ている東京ヴェルディもさすがに3位以内は苦しいだろうけれど、終盤の追い込み度合いが来年の力となり、また八王子移転も噂される中で了法寺の萌え弁天を見方につけて巻き返してくるだろうとも妄想。そんな相手を周囲に見つつ、落ちてくる湘南なり神戸なり京都といったところも相手にしなくちゃいけないこの状況を、分かっているならすぐにどうにかして下さい、って出来ればやっているかとっくに。期待薄いなあ来年も。せめてトップに踏みとどまったレディースの爪の垢でも煎じて飲んで欲しい。僕なら喜んで飲むよ丸山桂里奈選手の臍のゴマでも足の爪でも。

 そんな帰りがけにちらっと見たポプラ小説大賞の発表で大賞が出ていてふうんと思ったら直後にページが消えてきて、フライングだったんだなあと思って頬って置いたら夜中にすごいことになっていた。大賞の人が実はあのイケメンさんだったと判明。なるほど需要作についてた名前はその人の本名で、過去にもサッカー絡みで出ていたこともあったから調べればすぐにひっかかったんだろうけれど、その時は気づかずスルーして発見の栄誉を持っていかれてしまった。残念。教訓。名前はすぐにググること。それからもうひとつ。何事についてもそれが事実であり、かつ正直な結果だということを考慮にいれること。直情があとで躓きとなって全身打撲をくらう可能性だってあるんだから。


【10月30日】 朝も早くから起き出して新宿はピカデリー1に到着すると長蛇の列でみんなプラモデルを買っている。「機動戦士ガンダムUC」の劇場版第2弾の公開が始まったってことで会場限定のプラモデルを買い求める客でいっぱい、ってそれやあどこか本末転倒な気もしないでもないけれど、公開自体がそれで興行収入を稼ぐってためのものでなく、まずみせて認知度を得てブルーレイディスクなり、DVDの売り上げにつなげるプロモーションの意味が濃いだけにそれでプラモデルを売るのもあるいは本末転倒どころか本来の目的を果たしているって言えるのかも。

 それでも巨大なスクリーンで見るだけの価値はある作品ってことで集まった人もそれなりにいたみたい。なおかつ劇場では出演者の挨拶もあるってことでそれを見物に言ったら会場内にシャアがいた。あとフル・フロンタルも。もしかしたらシャアは秋葉原界隈で有名なシャアの人か。ヘルメットがデカいんで後ろの人にとっていろいろだったかもしれないけれど、上映中は脱いだのかな。でもって舞台挨拶では福井晴敏さんがいて池田秀一さんがいて、監督の古橋一浩さんがいて主役のバナージを演じている内山昂輝さんがいてって感じだったけれども目が向くのはやっぱりシャア・アズナブルからフル・フロンタルへと役を乗り換え声を引き継いだ池田秀一さん。

 同じ「機動戦士ガンダム」で主役を分け合った古谷徹さんが、「機動戦士ガンダム」とはワールドを異にするシリーズだからと「00」に出演したのに対してこちらは同じ宇宙世紀なだけに挑む心境にもいろいろとあったんだろうけれども、そんな役柄を単にオマージュとしてではなく、意味を持ってつなぐ福井晴敏さんのストーリーもきっと奏功したんだろう、魂なり怨念が乗り移った存在としてのフル・フロンタルを演じる気持ちになって役に向かったんだと思うんだけれどそのあたり、どっかで喋ってくれていたかな。

 舞台挨拶ではそこまで突っ込んでの話しはなかったけれども、かつて同じ新宿のピカデリーが立っていた場所にあった松竹で、最初の「機動戦士ガンダム」の劇場版が公開された舞台に立ったことを思い出しつつ、新しいガンダムの世界をユニコーンを通じて演じていきたいので「いまひとつ、諸君らの力を貸していただきたい」とあの、浪々とした声で喋った以上は役に相当の自負と自信を持ているんだろう。ならば応えるしかないではないか。ってことで近く見に行こう。でも新宿とっても混んでそう。幕張が良いかな。ブルーレイは売り切れていないかな。

 そんな元気な池田秀一さんに安心した一方で「スペースコブラ」のコブラであり「エースをねらえ」の宗方コーチでもある野沢那智さんの訃報に愕然。そういやあ最近あんまり聞いてない気もしたけれどもここに着ての訃報はつまりずっと悪かったってことなんだろうか。あれだけ仕事に毅然とした態度を持って臨み後進の指導にも熱心だった人がいなくなると後に続く人が出てくるだろうかと、それが心配。実力というよりはちがった部分で評判になりそれが評判を呼んで実力と錯覚されがちな状況が進んだ果てに来る孤立。既に起こりつつあるだけにどうにもこうにも悩ましい。

 振り返れば富山敬さんに山田康雄さんといったアテ師草創期の面々から曽我部和恭さん塩沢兼人さん鈴置洋孝さん井上瑤さんといったアニメ世代のトップランナーまでさまざまな人をこの10年15年の間に失ってしまったこの業界。声でもってまず聞かせ、その声の良さとキャラクターの良さとががっちり組み合って強い印象を残して来た人たちの退場が、いったい何をもたらすのかに興味があるというか心配も募る。

 声よりもむしろ絵としてのキャラの人気が先に来て、それに付随して出た声の人気を次の絵次の絵で重ね乗り換えるようにして人気者を作り上げていく業界の体質と、それを喜ぶ受けての体調が合致してしまっているだけに、もはや後戻りも出来ないまま実力者は退場を余儀なくされ、新鋭は人気ばかりが先行し、そして訪れる縮小均衡。他業界で鍛え上げられた俳優アイドルの進出を甘んじて受ける屈辱を、これからも味わわなくっちゃいけないのかと思うと胸も痛むけれどもそれもあるいは自業自得と諦めつつ、残る気力で頑張る人たちを応援し続けることにしよう。矢島正明さんが出ていた「世紀末オカルト学院」のブルーレイ、やっぱり買って置こうかなあ。

 久しぶりに竹宮恵子さんの「地球へ…」を読んでみて、記憶にあったものとはちがっていた、結末のその救われていなさに少しばかり慄然とする。物語の構図事態は昔からある人類対ミュータント。汚れた地球を脱出した人類が、地球を再生する計画の中で、優秀な人類を作るプロジェクトを始めたものの、その過程で異能の力を持った存在「ミュウ」が生まれ始める。とるに足らない力であっても、人は異質のものを恐れ排除しようとする。それが行き過ぎて迫害となり、恐れて逃げたミュウはやがて集まりコミュニティを作って生き延びつつ、人類の中に生まれるミュウを救い出していく。

 そうやって行く年月を過ごしてきたミュウを、長く率いて来たソルジャー・ブルーによって見出され、救い出されたジョミー・マーキス・シンという強い力を持った存在に導かれ、ミュウは自立を目指すものの人類ではそうしたミュウを認めず、住まう星も襲い破壊しどこまでも狩り立てて、やがて本格的な対立へと突き進んでいく。敵はコンピュータによって監理された社会の申し子とも言えるキース・アニアン。その絶対的な信心は迷う人類にあっても揺るぎなく、ミュウを相手に戦いを挑み、ジョミーを退けそして地球の地下で自分の出生の秘密を知り、ミュウが生まれ今なお存在し続ける理由を知り、地球の命運すらゆだねられながらそれらを全部保護にする。アニメーション版ではあった和解はなく、人類はカタストロフの果てに新たな地平を得て四散。その果てに新たな歴史を刻みながらも、今なお強く残る「地球へ…」への思いに導かれ、そして故郷へと還ろうと宇宙を旅する。

 もしもどこかで折り合っていたら。手に手を取り合って未来を切りひらこうと努力していたら。世界はきっともっと変わったものになっていただろう。けれどもそうはらなず、恐れと疑心が対立を招いてそして崩壊へと人類を誘った。ソルジャー・ブルーが願い、ジョミー・マーキス・シンが夢見ていたものとはほど遠い風景に人の、それは普通の人間もミュウも含めた人類の何とも言いがたい未熟さを見てしまう。恐れる必要なんてなかったのに、人類は異質なものをとことん恐れて排除する。狩り立てる。狩られれば逃げてそして憎しみを抱く。むしろ異質さを極めたがために得た力を優越感とともに人類にぶつけ返す。そうやって応酬される憎しみの感情が招く誤解と対立の果てに待っているのは、ひたすらに胸苦しい光景だ。

 どうして分かり合えないのだろう。分かり合おうとしないのだろう。警句としての物語が積み上げられても、警句としてとらえ省みることなく、むしろ予言の書としてなぞるように対立を突き進み、崩壊を招く。いつか誰もが同じ丘に登って手を取り合い、語り合う時が来ると夢見な、その夢に多くの賛同を得ながら、それでも残る対立の狭間に命を失う羽目となる。どうして止められないのだろう。どうして止めようとしないのだろ。きっとそれは誰もが楽園を得たいと願い、けれども誰にとっての楽園なんてないと思っているからなのだろう。

 誰にとっての楽園なんてないのなら、自分だけの楽園を作るしかないという、人の心が異質を排除し、他人を退ける。世界がすべて楽園になったら止まるのか。そもそも世界のすべてが誰にとっての楽園になることなんてあり得るのか。人類が思いを得て以来探求してきた悩み。物語によって散々紡がれてきた問いかけだけに答えは簡単には出ないけれどもそれだけに、考える意味はとてもある。ましてや今、自分どころか誰ひとりとして楽園を持てない時代にある。どうするべきかひとりひとりが願う楽園の姿を、少しづつ重ね合わせることによって誰にとっても完全な楽園という訳ではないけれど、誰かにとって必要な楽園なのだという意識を誰もが持つようになっていくことで、それを失いたくないという思いに近づくことはできるかもしれない。出来るだろうか。出来なければそこに待つのは。やるしかない。それだけだ。


【10月29日】 幾ら何でも溜め過ぎなんで「それでも町は廻っている」の最新を見たら、紺先輩が普通に歩鳥の仲間になっていた。ってことは前週に仲良くなるエピソードがあったのかと、そっちを見直したらコバンを引きずり寄せる原作でも屈指の楽しいエピソードが繰り広げられていた。この頃は本当に面白かったんだよなあ。って今は面白くないみたいじゃないか。いや面白いんだけれど面白さの質がちがうっていうか、シュールな展開に片寄せた感じがあって、へっぽこ娘の失敗記って分かりやすい面白さが後退してしまっているんだよなあ、最近の原作は。それがあってメイド喫茶って分かりやすいビジュアルもあった初期のアニメがだから、一般にも受けているってのはよく分かる。それが続く限りは受けていきそうだとも思う。

 問題はだからどこまでやるか、ってところか。堅物の数学教師を相手にした丁々発止を基準にメイド喫茶でのダラダラとした日常に、ご町内の男共の大暴れを混ぜていけば話しは、1クール程度ならぴったりと着地させられそう。それこそ「夏のあらし」の第1期と同じで、太平洋戦争との対決なり死との対面っていったハードな部分を脇においやり、一夏の経験値的ボーイ・ミーツ・ガールズな話に絞ってまとめ上げたから、見ていて最後まで見通せた。第2期もそうしたハードな方にはいかずに、日常話で終始させたけれどもそれにやや限界もあってちょっと気分的に難しかった。「それ町」が1クールなのか2クールなのか知らないけれど、1クールならこのまま楽しく愉快な問答話として押し切ってくれれば最後まで見ていられそう。どうなるかな。

 微睡みの中をそれでもネタになる物を探して幕張メッセで開かれている花とガーデニングとエクステリアの展示会をのぞくとゾンビが穴からはい上がろうとしていた。群馬県だかどっかにある会社が外国の庭とかによく置かれているらしい動物とか人物とか怪物とか妖精とかの樹脂製の人形を展示。ガーデニングのお役に、って置いて喜ぶ家も好くなさそうだけれど、ちょっぴり変わったことをしたい人たちには受けそうな予感。オバマっぽい人形もあるそうだけれど飾って楽しいかなあ。マリリンだったら欲しいなあ。でもってココペリだかいうハワイの幸運のぬいぐるみみたいなものを置いてある店も見物。ちょっと前までブードゥー人形って別名ポクポンなんて毛糸玉みたいな人形が流行っていたけど、それもそろそろ旬を過ぎてきた時期に送り出そうってことなのか。有名人もこっそりぶら下げているみたいなんでちょっと注目。

 早々に抜け出して秋葉原へと出向いてゴーゴーカレーで昼食を摂ろうとしたら人がいっぱいなんでちょい、離れた場所にあるカレーの市民アルパへと向かう途中に新しくすき家が出来ていた。中央通り添いなら御徒町方面にちょいいったところに既にあるのにもう1軒、より秋葉原に近いところに持ってくるとはなかなか積極的。そしてアルパではカツカレーが安価になってて食べて納得、ちょい弱り気味の胃腸にはこってり過ぎるゴーゴーよりもアルパの方がちょうど良いかもしれないなあ。開店当初は揚げる豚カツの匂いが充満気味でそれだけで胃がもたれ気味になったけれども、今はクールになっててむしろ客が少な目なくらいで、あるいはヤバいかもしれないんでちょいちょい通わせてもらおう。ゴーゴーは精神が強くなったらまた行こう。

 そして新譜の売れ行きなんかをチェックしつつ「とらのあな」でもって頼んで置いた「serial experiments lain」のブルーレイディスクボックスを受け取ろうとしたら巨大な箱を渡された。まるでカレンダーが丸められずに平べったいまま1ダースは入れられそうな巨大な箱に、あるいはこれは勝利したかもとほくそ笑んだのには訳がある。9月の終わりか10月の頭だったかに「lain」のBDボックスが販売されるに当たって、ソフマップとかでは先着で「lain」のセル画が付くって話しが出回った。すでにアマゾンで予約はしてあったけれどもおまけがつくならを秋葉原を回ってみたもののどこも予約をとっている風は無し。それでもいつか始めるはずだとチェックして、ちょい油断した隙にソフマップで予約が始まって、さあと駆けつけたらセル画付きの分は完売してしまっていた。

わらってよ、玲音!  もうダメだ。これはダメだと諦めながらも、あるいはといった思いからアクセスしたとらのあなの通販サイトで「lain」のBDボックスの予約は行われていた。とはいえそこにはセル画がおまけにつくなんて話しは書いてなく、単に商品だけが送られてくる可能性もあった。むしろそっちの方が時期的にも高いと思ったけれども9割9分が不透明でも残る1分にかけようと、アマゾンをキャンセルしてそっちに乗り換え注文を出してそして待つこと3週間とか1ヶ月。店頭で受け取った箱の大きさがBDボックス1つを入れるサイズではないことがすぐに分かって、これは中に何かが添えられていると理解し、そして開いて実物を見て期待が現実だったことに歓喜したという次第。人生、たまには突っ走ってみるものだなあ。

 あとはその絵がどんなところかっってところで、くまの帽子を被っている「lain」なら最高って思ったけれどもそれは外し。くまちゃんパジャマでもなし。とはいえ斜めでもなく目だけのアップでもない玲音の顔は、真正面から描かれ伏し目がちにした目には涙がたまって今にもこぼれ落ちそう。無表情な玲音にしてはちゃんと内面を感じさせる表情が描かれたシーンに、これは個人的には多いに当たりだと強く激しく感じて喜ぶ小躍りする。もちろん顔を中心に選んだって話は聞いていたけど、ここのところ「マクロスF」でも真っ暗な中をケーブルカーの隙間にランカが歩くシーンなんてものが当たったりして運の悪さを嘆いただけに、肝心要の「lain」のセル画で当たりが弾けたことはただただ嬉しい喜ばしい。この勢いでシナリオ集でも良いところが来て欲しいもの。ミュウミュウとか。電信柱の影とか。

 第1回目ってことは過去に例がないってことで、それが今後の展開を決める可能性もあるってことでこれは見て置かなくっちゃと駆けつけた角川書店主催による新しい文学賞「山田風太郎賞」の発表会。まず現れた審査員の京極夏彦さんが案の定という感じに山田風太郎という希代の書き手の名を冠された賞を選ぶにあたっていろいろ議論があったってことを明かしてくれた。候補の5本はどれをとっても優れた作品ではあるけれど、こと山田風太郎って名前の前では一長一短があってこれぞといった感じにはならない。というか京極さんが言うには5つが揃って山田風太郎といった感じになるだけに、そこから1つを抜き出すと何かが欠けてしまう気がして悩んだともいう。

 ならばいっそ5作の候補と審査員の議論を含めて、「山田風太郎賞」として表彰してしまう、メディアアート的というかインスタレーション的な振る舞いでもって賞を遊んでしまうのも面白かったけれども、そこまでぶっとべる訳でもないのが文学賞。筒井康隆さんによる文学性というよりはエンターテインメント性、娯楽性でもって選ぶのが肝心で、その年に1番面白い賞に与えるのが山田風太郎賞なんだって意見も受けつつ、綾辻行人さんの「Another」とそして貴志祐介さんの「悪の教典」が、一騎打ちに近い形となって、そこから「小説としての力強さ、完成度というよりは力強さが『悪の教典』の方が頭一つ抜けていた」って理由から「悪の教典」が授賞になった。「小説としての力強さとは、良いところも悪いところもあっても、悪いところを承知でぐいぐいと読ませてしまうこと」って京極さん。つまり「悪の教典」には上下巻って大部を一気に読ませてしまう力があったっていうことになる。

 貴志さん的には「文学賞として顕彰される作品とは正反対。およそ賞には恵まれない作品だと思っていたので驚いている」と話していたけど、内容への自信には並々ならぬものがあった模様。エンターテインメントとしての面白さを追求したことが、それを第一にした文学賞に選ばれた。「悪の教典」にとって実にベストタイミングで賞が創設されたってことになるんだろう。だったら次もこうした傾向の作品が受賞するかっていうと話は別。1回目は割に選択に保守的になっても、2回目はジャンルも体裁もおかまいなしの選考が行われるはずで、そこで見せるカウンターによって賞の幅と奥行きを規定し、賞としての存在感を高めていくことになるから、狙う人は悪人がいっぱい出てくるとか、人がいっぱい死ぬとかじゃなくって「面白さ」を、絶対無比の「面白さ」を追求していくことが肝心かと。それが出来れば苦労しない? ごもっとも。あとは信じるだけだね、自分自身を。


【10月28日】 そしてエンディングにスキマスイッチの「全力少年」が流れて、みんな頑張ってこれからも歩いて行こうぜって爽やかに終わるかというとそうでもなく、むしろ銀河の彼方より現れた「岳 みんなの山」の島崎三歩が大きな手でくすんだ灰色の球体を包み込みながら「よく頑張った」と声を掛けるエンディングの方がふさわしくも感動的ではないか、なんて印象すら生まれた上田早夕里さん「華竜の宮」(ハヤカワSFシリーズJコレクション)は、地面の大変動によって海面が250メートルほど上がった地球で起こった社会的生態的な変化の中で、人が人として生きようとあがく姿を一方に見せつつ、その先に控えた終局的な事態にもはや人という個ではなく、人類であり生命といった大きな枠組みから地球を未来につなげていこうとする精神が立ち現れては、未だ個にすがる人々との対峙を浮かび上がらせる。

 もはや後はなくあったとしても確率的には極めて微少で誤差の範囲内のゼロといったところだったりする苛烈な状況に、向かって人はたいてい己なり己の周辺ばかりを気にして行動しようとする。分からないことではないけれどもそんな人に対して人類を、英知を持った人間という種族の存在を伝え残していこうと考え、踏みとどまって行動することがどれだけ大変で、けれども大切なことなのかってことを展開の中からみせてくれるところが素晴らしい。スペクタクルの描写もそれを受けて進んだ未来のビジョンも新しいし面白いけれど、そうしたガジェット類を貫いて流れる思想にむしろ感動した。

 ビジョンだけでなくメッセージもあってそれらが融合してぶつけられるというSFの醍醐味が、存分に詰まった作品って言えそうな「華竜の宮」。誰がヒーローでもヒロインでもなく共通の思いを抱いた人々がいて、ややずれていてもそんな思いに感化され引っ張られ、時には逆に引っ張るようにして人類を導く。そんな人々の鎖のどこかに入れたなら。こんなに素晴らしい生き様はないだろうなあ。目指そう、宇宙の島崎三歩から「よく頑張った」と言われる人生を。

 やっぱりアニメの放送とか見ず当然ながら主題歌もこの秋のアニメのほとんどを知らない状態が続く中で、品川プリンスホテルで開かれている「東京アジアコンテンツマーケット」ってイベントで、アニメソングが現状海外でどんなことになっているかっていった話をランティスノ井上俊次社長、っていうか「レイジー」のポッキーさんと、それからNHKでアニソンスペシャルとかやっている人らしい石原真さんの2人によるトークショーでもって聞く。個人的にはとりたてて驚くような話はなし。アニソンが海外で売れている。そりゃ知っている。アニソンのCDが国内じゃあグッズとして売れまくっている。そんな気分で買っている。というか買わされている。もう部屋には山積みだ。

 そんなアニソンを一般のメディアはほとんど無視をする。というか正直言ってまるで気づいていない。うんうんそのとおり。そしてそんな思いを僕たちは5年も10年も前からNHKの人に感じていた訳で、去年あたりからにわかにアニソンすげえと言いだし、番組を作り始めた人から、嬉々として言われたくはないよねって気もしたけれど、そこはそれ、いくらマイナーなメディアなり専門誌なりが頑張ってやっっところで届く範囲は限られているところを、みなさまのNHKが本気になってやってくれたってところをここは素直に喜ぶのが良いんだろう。少なくとも石原プロデューサーは本気だし、本物だし。

 何しろセミナーの場にサイリウムを持ち込み振ってみせてこれがすごいと言って示す実地ぶり。見れば一目瞭然の輝きとそしてアクションでも、知らない人には何が起こっているのか分からない、演歌歌手のペンライトと何がちがうか分からないってところ。そこを石原プロデューサーは応援する人によってサイリウムの色を変えてみたりするし、自分がアピールしたい場所ではひときわ輝きの強いサイリウムを使って存在を示すといった文化まで、把握した上でそうした盛り上がりの空気を伝えている。50歳を越えた大NHKの音楽番組プロデューサーが、本気で調べ本当に愛しているそのバックアップを、アニメ業界は活かさない手はないんだけれどそこはそれ、NHK以上にお役所化している感じもある大レコード会社の中で、アニソンをやるのも苦労がまだまだあるみたい。ユニバーサルのある人なんか自分は好きだけれど、上があんまり分かってなくて困ってますって石原プロデューサーに話してた。

 そこですかさずだったらジェネオンとやればいいじゃんジェネオン・ユニバーサル担ったんだからと突っ込んでみせる辺りに本物ぶりが見て取れる石原プロデューサー。もちろんそうは簡単でもないのがあの組織体であって、ユニバーサルの人もそうしたことを返して来たし、石原さんだって状況は多分熟知はしているんだろうけれどもそれでもというか、だからこそいっしょにやれるようになれば良いってことを訴えてみせた。やりたいことがあるならやれる環境を作ればいいだけのこと。あのNHKでそれをやって来た人だけに説得力はなかなか高い。受けてこちらもやりまくりたいんだけれどいかんせん知名度がなあ、媒体力がなあ、認知度がなあ……。世の中ままならないもんですまったく。

 聞いているともうアニソンは世界の共通言語なんで、あとはどんどんと世界に出していくだけ、それを経済産業相あたりがバックアップしてレコード会社も一致団結して、どんどんと盛り上げていきましょうって話になりそうだけれど、ちょと待て。アニソンはなるほど世界で人気になっているけど、それってやっぱり元のアニメが人気になっていたからってことで、アニメがないアニソンを海外がいきなり受容していたって訳じゃない。アニソンとアニメは表裏一体。でもって今、アニメの場で起こっているのはアニメ市場のシュリンクであり弱体化であって、とりわけ海外なんかは出てもパッケージが売れず放送にもならず、収益を稼げない状態が続いていたりする。

 それでも知られているのはネットで見られているからだけれど、そこから収益はまだまだなかなか上がってこない。そうなると次にアニメが作られなくなり、海外で流されなくなり当然ながらアニソンも作られなくなり海外で聞けなくなっていった暁に、起こることはアニメもろともアニソンまでもが停滞していくって可能性。そこのところへの配慮をしつつ、アニメも含めてアニソンを、そして日本のコンテンツを構築して世界に発信していくモデルを、ビジョンを考えていかないとうまくいかないんじゃなかろーか。アニソンは世界の共通言語になった。これからもどんどんとなっていくだろう。それと同時にアニメそのものも世界の共通エンターテインメントとして、収益化され次につながるようなビジネスモデルをどうにかして作り上げていくことに、誰かが腐心する時期が来た。誰が? 誰もいないんだよなあ。好きそうな総理は飛ばされてしまったし。誰が飛ばした?

 休憩してから品川にとって返してこれが何年目だろうかのアニソンのショーケースを見物。記憶だと前は普通のアーティストのライブもあったように思うんだけれど今年はライブがアニソンだけしかなくってそれだけ、日本の音楽シーンでアニソンがしめる位置づけがぐいぐいっと増しているって印象を強く抱く。午後の5時には開いていたみたいな会場に午後の5時半には入って午後6時からいよいよスタート。1時間半くらいかなあ、って思っていたらこれが甘くて実に3時間15分、待っていた間も入れれば4時間近くを立ちっぱなしで迎える羽目となる。とりあえず1番聞きたかったKarafinaがおおとりだったのがひとつの誤算、そんなにすごいグループになっていたのかこの1年2年で、ってなものであと、これも見たかった中野腐女シスターズも後半戦に登場となって帰ろうにも帰れなかった。

 でも他のアーティストもこれがアニソンってなると何故かずっと聞いていられるのは耳になじんでいることがひとつ、そして知らない曲でもすぐに入り込めるってところがひとつで、つまりはアニソンは聞かせどころをちゃんと持った実にエンターテインメントした音楽なんだってこと。だからこそ世界でも支持されるしこんなに盛りあがってもいるんだろう。んでもってライブは「ニルギリス」が出てきて「鉄腕バーディーDECODE2」とか「交響詩編エウレカセブン」の「sakura」とかをやって気分を盛り上げそして誰だったっけ、「ハートキャッチプリキュア」のエンディングを歌っている工藤真夕さんに「とある魔術の禁書目録2」のエンディングなかをやってる黒崎真音さんあたりが出てきて踊り叫んで空気は熱々。プリキュアなんて大画面であのCGでのダンスを見つつアーティストの同じダンスを目の当たりにできてとっても目の保養になりました。さすがにリアルなキュアムーンライトは出てこないけど。あんな体型した人間滅多にいないし。

 それから彩音さんがいて懐かしい「ウミショー」の歌を聴いて喜多修平さんが来て「ペルソナ2」に「夏目友人帳」の定番をやってアニマックス関係で散々っぱら聞いているだけに耳になじんだ歌声にいっしょになって口ずさむ。そんな合間に現れたまるで知らなかった「東京ブラススタイル」は、女性ばかり11人のブラスジャズバンドでジブリとかルパンとかいった誰もが知っているアニソンを8人のホーンセクションとドラムにキーボードにベースのリズムセクションが支える感じで演奏。その迫力のサウンドとその麗しいビジュアルにひかれて12月18日いなるライブに行こうと決める、っていうか既にチケットは押さえた。テナーサックスの子が眼鏡だったのが大きなポイント。これってとっても重要なことだよね。あとトランペットが片手で持って吹いていたのが気になった。どうせだったらくるくる回して欲しかった、ってそれは「スペクトラム」だよ。

 あとは中島愛さんが「キラッ」をやってくれたし米倉千尋さんが「08小隊」の歌をやってくれたり「Dasy×Dasy」があれば「鋼殻のレギオス」の主題歌かな? 懐かしかったりちょっと懐かしかったりする歌のオンパレードに足の痛みも吹き飛ぶ中でも、とりわけ中野腐女シスターズは7人が自己紹介しつつ歌う歌からそしてみんなで歌う歌までとってもキュートで見せ場も抱負。集団のパフォーマンスとして素晴らしく、そして見た目も麗しいグループになっていたけどこれだけ凄いことをやっても、AKBとやらの先っぽほどにも世間には知られていないのが悔しいというか虚しいというか。そういうところをしっかり感じ取ってNHKの石原プロデューサーにはAKB枠でなく、ちゃんとした人気実力見た目その他を兼ね備えた真実のアニソン枠を作って世界にアピールしてやって欲しいんだけれど、あれで結構しがらみも多い世界だからなあ、NHK。やっぱり無理かなあ。

 そんなこんなで現れたKarafinaはやっぱりコーラスが美しい。いきなり「Ovlivious」をやってくれるところがイベント的で、そこから「輝く空の静寂には」をやりつなげて「ソラノヲト」へと向かって結ぶ展開で、冴えたコーラスワークとスローなバラードの聞かせっぷりとそれからhikaruの可愛らしい声を、外国から来ていたバイヤーにしっかり聞かせたんじゃなかろーか。この勢いで世界デビュー、なんて行って欲しいものだけれど果たして。渋谷のライブもあるけれど競争率激しそうなんで様子見。その前に12月の頭だかにライブのDVDが出るそうなんでそれを買って5月だか6月に見え味わった感動を再び存分に全身に浴びよう。来年は誰が出るんだろう。3時間オールスタンドはさすがに歳なんで勘弁願いたいものだけど。


【10月27日】 全国的に熊の里への進入が相次ぎ、ハンターによって射殺される熊が続出。その悲惨な運命に抗議し、て映画「くまのがっこう」に出ている熊たちが出演を拒否した模様で、映画を見てもまるで誰も出ていない展開が、延々と繰り広げられていたけれど、併映となる「チェブラーシカ」については、熊に見えても実は猿かもしれず、本当のところ何者かはっきりしないこともあって、そのまま出演を続行した模様で、ちゃんと最後まで楽しめた。なんて事態があったかというとなかったのは有り難いこと。そこはどこかのぶち切れ団長とは違うってことで。でも映画やテレビ番組を売り込むTIFFCOMにはちゃんと並んで商談に花を咲かせていたなあ、中華人民共和国。何だんだろうグリーンカーペット登場拒否のあの騒動。

 戻って「くまのがっこう」だけれど、実に不思議な映像体験をさせてくれるアニメーション映画。作品自体はバンダイのキャラ研が立ち上がった時代から見知っていて、知らない間に人気になていたことは分かっていたけど、アニメの方はまるで情報が入ってこず、東京国際映画祭のプレス向け上映で見て、はじめてそういう作品だったと判明。おそらくは3DのCGによって描かれているんだろう画面は、平面的なテクスチャの効果もあって絵本が動いているような印象でもって、そんなに違和感なく目に入ってくる。なおかつ動きに関しては、3DCGならではの愛嬌のある動きがつけられていて、12匹いるくまたちが重なりあったりつみあがったりするようなシーンで、コミカルでワンダフルな動きを見せてくれていて楽しめる。

 ストーリーもくまのなかで唯一の女の子のジャッキーが、近所に越してきた女の子と仲良くなって、その子のために頑張る話しなんかもあて、そこに他の男の子のくまたちも強力してみせたりするとっても良い話に仕上がっている。見てほんわかとして映像できゅっと来る映画。同時上映の「チェブラーシカ」が、これも相変わらずの可愛らしさと感動のストーリーで見せてくれているけれど、「くまのがっこう」もそれと存分に対抗できるコンテンツになっているって言えそう。六本木ヒルズの東宝シネマズにはジャッキーの人形が売ってて欲しくなったけれど、すでに置く場所のない身では遠慮するのが筋かなあ。いやあ良い映画でした。それにしてもロシア発の「チェブラーシカ」では、未だにサーカスが憧れの舞台になっているんだと感嘆。そいういった文化的発見もあって楽しめる2本立て。公開されたらまた行こう。

 きゅっと引き締まったマリーの腰つきに目を奪われて買ってしまった「イブニング」では、石川雅之さんの「もやしもん」が掲載されててニューヨークに来たマリーを囲んで沢木や長谷川さんたちがスーパーでお買い物。オムライスまで冷凍になっている国じゃあ電子レンジがないと生きていけないのかもなあ。それもちょっと嫌かも。一方で樹教授とアメリカ横断ドライブ旅行中の結城蛍は相変わらずの麗しさをみせてくれているけれど、12月のグランドキャニオンでゴスロリ姿は寒くないのかな。カワイイを目指す気持ちは寒さを越える? それは真冬のコミケのコスプレ広場でも存分に見せられていることだから分からないでもないけれど。そして向かうニューオリンズで沢木は兄貴と体面か。どんな兄なんだ。

 「ミスター味っ子」では味皇様が出てきたけれども、初代ミスター味っ子の陽一の老けように比べる案外に艶々。それともあれは人形か何かなのか。息子味つ子の勝負ではハンバーグにステーキを入れるって技を見せていたけど、それっていったいどんな歯ごたえがするんだろう? 歯の裏あたりにゴリゴリ当たって来る気がして、柔らかい方が良いっていってた人たちを満足させられるとも思えないんだけれども。よほど旨く焼いたんだろうなあミニミニステーキ。どっかで食べさせてくれないかな。そしてフィギュアスケートの万年2位がボートレースに転向してトップを目指す「全開アクセル」は次が最終回とか。プロとなった山田さんの苦闘を描く展開が続いていくって思っていたけど、物語自体はもともと彼女ではなくって彼女をネタに広告代理店で一旗揚げる演歌歌手の息子君が主人公だった訳だから、ひとつプロジェクトが片づいた時点で終わるってのもアリなんだろうなあ。七光りだってしっかり使えば14光りにも28光りにもなって、とてつもないものを生み出すってことで。それが出来てない奴らが多いから周りが苦労するんだろうけど。

 やっぱり朝から六本木。だけど映画祭本体ではなくユニジャパンってところが開いていたエンタテインメント関連のセミナーの1つとして開かれた、アメリカ市場を相手にしてのピッチングについてのパネルディスカッションを聞く。日本よりちょっと大きめのボールはこう握り、空気の薄いコロラドあたりではこう投げろ、って大リーグ入りの極意を話す場では当然なくって、アニメーションの企画をアメリカに売り込むピッチングって作業で、いったい何が求められているかを海外から来たネットワークやケーブルチャンネルの担当者が集まって話すというディスカッション。すでに数日にわたって日本のクリエーターによるピッチングを受けた人たちが印象を語るには、「作品のレベルは高いんだけれど内容に具体性がない」んだそうな。

 設定やコンセプトや世界観を話し出す人が多いんだけれど、向こうの担当者が聞きたいのはキャラクターは誰でどんな特徴があって、どんな冒険をしてどう成長して、それが視聴者にどんな影響を与えるか、ってこと。それこそ運動が好きとかスポーツが好きとか映画スターなら誰が好きとかいったプロフィールまで話して、キャラクターに人間味を感じさせ、体温を感じさせないと向こうの視聴者は感情を添えられず、作品にも引き込まれないんだという。日本の場合だと逆にそうした体温は後回しで、見た目の属性なんかを評価しネコミミだメイドだといった設定面だけでオッケーを出し、その後で繰り出される物語を楽しもうとする。長い経験が属性からいきなり入っても大丈夫なようにファンも訓練されていたりするんだけれど、そういう“甘え”はアメリカでは通用せず、誰が見ても分かりそして興味を抱けるキャラクターを作らないといけないってことらしい。銀河美少年って単語だけで大喜びできる日本とは随分と違うってことで。

 あとはストーリーか。例えば第9話でヒロインのキャラクターは何をやっていて、そこでの経験が視聴者にどんな影響をもたらすのかってところまで説明をさせることもあるから大変。作品を知り尽くし、結末までしっかり練り上げた上で、具体性を持って臨まなければまるで意味をなさないピッチング。なおかつ大切なのは、持ち込むネットワークなりチャンネルがどんな作品を求めているかを事前にしっかり調べておくことで、それをした上でマッチしたものを持ち込まなければ、永久に採用なんてされないしされるはずもない。いくら良い作品であっても。まあ凄い作品ならそれを見て別に展開しようと欲を出すプロデューサーなりがいない訳じゃないけれど、相手が求めるものを出さずに自分が出したいものを出したところで蹴られる確率が9割9分。実に当たり前なことなんだけれど出来ていないのは、やっぱり日本がクリエーターに甘い国だから、なんだろうか。

 年齢層って奴も気にされるところで、向こうでアニメが求められるのはそれこそ6歳から11歳といったキッズ層。日本みたいにハイティーンから20代30代、果ては40代が面白がって関心を示すような作品なんてまるで求められていないってことになる。でもってヒーローが冒険をするような話はマーベルがあり、DCがあってとネタにまるで困ってない、むしろ欲しいのはコメディでそれも誰も見たことがないようなものが欲しいということらしい。例としてよくあがっていたのが「スポンジボブ」でなるほどあんなキャラクターの話しが面白い訳ないよなって思っていたらあれよあれよと大人気になってしまった前例は、アメリカ本国でも貴重なケースになっているらしい。ってことはイカ娘なら大丈夫か。スポンジボブより異色でなおかつ可愛らしい。特徴だってたっぷりあるし、何よりキャラクターが単純で強力。イカの娘で正解制服を狙ってます。実に分かりやすい。どうなんだろうなあうイカ娘。売り込まないかなイカ娘。


【10月26日】 新番組もまるで消化できず、HDDレコーダーの余裕もだんだんとなくなる改変期。まず見ないのをそろそろ切らないといけないんだけれど、見てないために見たらいいのか見ないでいいのか判断不能なのも悩ましい。「薄桜鬼」の第2期はもう見なくて良いかなあ。でもあれはあれで悶えるような内容だし。幕末好きだし。「百花繚乱」は「クイーンズブレイド」よりヤらしいのかどうなのか。「えむえむっ」は原作も1巻止まりだったしなあ。それともアニメは愉快なのか。うーん。迷う。

 「おとめ妖怪ざくろ」はきっと見れば良いものなんだろうけど、漫画で知っているだけに見なくても分かってしまいそうな印象があって、見るのを妨げている。ここは一気に見て通すか。「それでも町は廻っている」は演出にのめりこんで食い入るように見てしまうんで、心が強くないと見られないので最新のは今パス中。近く片づけるか。「海月姫」ならまだ1話だけだし見ておくか。というわけでじっくりみているのは「とある魔術の禁書目録2」と「ミルキィホームズ」と「STAR DRIVER 輝きのタクト」くらいか。こんなもんでいいのか。いかんのか。

 そういやあ本もまるで読めてないけど、そんな中で上田早夕里さんの「華竜の宮」(ハヤカワSFシリーズ・Jコレクション)の冒頭あたりをつらりつらり。小松左京さんが1974年に最初のとっかかりを書いてから、35年以上もまとめ上げられずにいた「日本沈没」のサーガを、プロローグだけでズバッとまとめ上げた力業にまず感嘆。なおかつその向こう側に、海面が250メートルとか上がった世界で起こっている、さまざまな出来事をさまざまな角度から描いていこうとしている感じがあって凄まじい。

 今のところは日本って国の流れを継いでいるっぽい国家の外交官が頑張って、そして海の一族を仕切る年齢不詳の美人が応えるかどうかを模索して、そこに地上人(ちじょうびと)、ではないけれど地上に残った人類のちょっかいが入ろうとしているところまで読了。その先に待っているものが激しいバトルか、次なる時代への予感なのかは不明だけれども、感じられるのは変化していく世界の中で人はどう生きているのかというビジョンの鋭さ、鮮やかさ。時代が変わり環境が代われば変化する人の心情や営み、そして生態そのものも踏まえつつ、世界の有り様を描いている。大傑作の予感。「虫と歌」と同じ年でなくて良かったよ、って「SFが読みたい」ではどっちも入って来たりするのか?

 何というか流されやすい人が大勢いるこの世界、発売されたばっかりのアップルのマックブックエアを買って、薄さ速さを自慢しているスノッブの話がネットにあふれかえっているけれど、そんなもの僕はとっくに持っている。その名もエアマックブックは、軽いの軽くないのって、何と重さ0グラム。羽根よりも魂よりも軽くっていつでもどこでも持ち歩ける上に、起動までの時間もゼロコンマ秒と計測不能なくらいに素早く立ち上がっては僕の目の前に現れる。

 そのモニターではどんなものだって見えるし、そのプレーヤーではどんな音だって再生可能。心に響く音楽、まぶたの裏に映る映像が、幽霊だって火星の地中だって覗かせてくれるし、キリストだってニーチェだってあらゆる人の言葉を脳内に響かせる。電池寿命は僕が生きている限り。ネットワーク機能も充実していて、電波は受信だって発信し放題。遙か彼方のアンドロメダから発信されたメールだって、遠い昔のジュラ紀から寄せられたメールだって受信できるし、誰にだって心で念じてメールを送れる。それが届いているかは知らないけれど、届いているはずだ絶対に。何て便利なエアマックブック。何て素晴らしいエアマックブック。今晩はエアマックブックを操りながらエア彼女とエアディナーをたしなみエアワインで乾杯だ。

 妄想はそのくらいにしてお仕事。朝早くから富士見方面へと出かけて、角川グループホールディングスが開いた電子書籍のプラットフォームの会見を見物。ツダオカダユカといったネット有名人も勢ぞろいしていた会見だけれど、内容的には角川グループでやっていた電子書籍事業を集約して、有り余ったコンテンツをぶわっと乗っけて公開していきます、ってなもの。そりゃあ他にも出すけれど、ここん家ならプライオリティも高いですってな感じで、それはそれで便利だけれど、それで誰が使うのか、といった辺りがまだはっきりとは見えず、先行きについてはまだまだ明確には言えなさそう。

 漫画やライトノベルに強いグループってのはひとつの強みではあるけれど、それを見たり読んだりするのって中高生だったりする訳で、カードもなければ携帯電話以上のデバイスだって持っていないそうした層に、携帯小説以上のボリュームで迫る既存のライトノベルや、携帯電話ではやっぱり見づらい漫画がどれほど浸透するのか。コミュニケーションツールとしてのソーシャルゲームは遊んでも、本格的なゲームは遊ばない層も増えていたりする状況に、既存の本だの漫画だのといった文化なりフォーマットをぶっこんで、どこまで受け容れてもらえるのか。何よりクレジットカードを使えない層に、どうやって課金をしてコンテンツを楽しんでもらうのか。そんな辺りの解決策を見るなり、乗り越えてでも楽しいたいコンテンツの登場を待つなりしてから、先行きを考えよう。どうなるかなあ。

 禁美人学会ではこのほど、美人が出ていない「無美人映画大賞」を制定し、第1回目の受賞作品を選びました。多くの方が、映画における美人を見て超カワイイと思い女性とはそういうものだと思い始めたことが、「どうして結婚しないのかアンケート」の結果として明らかになりました。そこで、無美人映画大賞の選考に当たっては、邦画のうち、「映画の場面に美人が出ないこと」「プロダクトプレースメントとしての美人も見られないこと」を最低条件とし、その上で、もっとも良い映画を選びました。審査委員長は禁美人学会会員の道程一生(みちほど・かずお)氏です。栄えある第1回目の大賞に選ばれたのは「君に届け」でした。ってそれで良いのか見てないから分からないのだ「君に届け」の無美人度合い。


【10月25日】 4回目となった「STAR DRIVER 輝きのタクト」はアクションも少なくお色気シーンもあんまりなくってやや箸休め。オカモト・ミドリにニチ・ケイトにヤマスガタ・ジャガーという眼鏡っ娘3にの横並びってシーンだけは美味しかったけれども前週の足の組み替えの連続に比べるとやっぱりちょっと。とはいえ一方でシンドウ・スガタの心に微妙にまかれたタクトへのワコをめぐっての不信感がやがて芽を出し花を咲かせて2人の間に亀裂を生んで、大きな争いを生み出しそう。その時にワコはどっちの見方をするんだろう。いっそ綺羅星十字団を見方につけたタクトが銀河美少年颯爽登場綺羅星と、連続で叫んでみせれば世界もその足下にひれ伏し万事丸く収まるのに。それくらいの格好良さだぜ銀河美少年。

 真夜中にかけてF1が突っ走っていたけど、言われていたほど路面がうねっている様子もなくってみんな割に普通に走って普通にゴールイン。問題だったらそもそも主催者が開催を認めないだろうし、ドライバーだって走らないだろうから、これはちゃんとそれなりに、しっかりとした体制で行われたって判断するのが正しいんだろうなあ、F1グランプリ初の韓国開催は。何事につけても初めてってのはいろいろ起こるもので、日本だって1976年に開かれた時には、大雨が降ってスタートが遅れて、ニキ・ラウダがチャンピオンの可能性を蹴ってまでマシンを降りてそのまま帰国。ほかのドライバーも降りる算段をするくらいに悲惨な状況が起こっていた訳で、そこを主催者が無理推ししてのスタートとなり、ゴールとなった状況は、例え昭和51年という時代だったとはいえ、やっぱりちょっと凄まじい。

 それから翌年の1977年の開催では、コース側の本当は人が入ってはいけない場所にまで人を入れてしまった運営が災いして、突っ込んできたジル・ビルヌーブだっけかのマシンに接触して観客と警備員が死亡する事故が起こっていたりして、それからしばらく日本でF1が開けない状況を作ってしまった。安全性の確保ってのは33年の昔だって同様だった訳なのに、守られなかった運営なり、守ろうとしなかった観客の意識ってのはやっぱりいろいろ言われて当然だろう。そんな過去を踏まえて今の素晴らしい日本での運営があるかっていうと、数年前に富士に戻ってきたF1では、渋滞とか陥没とかで観客が辿りつけなかったり、スタンドから走ってくるマシンが見えなかったりと、やっぱり同様の運営のずさんさを露呈した。そういった反省を自省としつつ、周囲を見渡しどうだこうだと考えていく中で、アジアのF1文化が生まれていくんだと思うのが、ここは取るべき道なんじゃなかろーか。とりあえずよく頑張った。

 いつかのアニメ祭よりは真っ当に商談が出来る場らしいTIFFCOMを見物に言ったらメインの展示は明日からだと判明。せっかくだからと関連してユニジャパンが開いている「ユニジャパンエンターテインメントフォーラム」で、アジアの映画関係者が勢ぞろいしてどんな具合かを話す「東アジア コンテンツプレゼンテーション」を見物してたら、本来は来るはずだった中国の北京市電影局のヤン・リーピン局長が出席を見合わせたとのこと。つまりはこれは中国関連の映画祭ボイコットの延長なのかどうなのか。分からなかったけれどもどうにも収まりどころがよろしくない。

 映画祭は何も日本のために開いている訳ではなく、世界から集まってくるさまざまな国のジャーナリストや投資者にも、事情を聞いて貰う絶好の場であって、そこで今の中国映画市場の隆盛ぶりを話してこその国益なのに、面子だか何かにこだわり機会を失ってしまうとうのはどこかズレているような気がしないでもない。それでもまだ投資が来ると思っているのか。国内でまかなえるから良いと考えているのか。後者についてはやや当てはまりそうだけれど、内での成長がいずれ飽和を迎えたときに外へと向かおうとしてピシャリと門戸を閉じられる可能性を、やっぱり考えておくべきなんじゃないのかなあ。考えられないからこそのあの国なんだろうけれ。

 そんな状況でも香港から参加の香港国際映画祭のエグゼクティブ・プロデューサー、ロジャー・ガルシアは香港の事情を話し、外国から来たジャーナリストに中国での合作の可能性についてしっかりと説明。そうした質問をしたがる人たちがしっかり集まり、有意義な意見交換が行われ将来に向けた好感を振りまける場に背を向ける態度はやがて身に跳ね返って来ることになるんだろうなあ。そういうのに負けず体制に迎合しないで国の暗部をさらけ出し、過去を悔いて今を嘆く映画を作り続けてきたのがあの国の映画人だったんじゃないのかなあ。それがすっかり体制側に。ということはつまり生まれてくる作品も、もはやかつてのピリピリとして舌を刺すような苦さがあって、けれども人間にとって絶対不可欠の栄養素を持った映画ではあり得ないんだろうなあ。1つの国の映画が死んでいくのって、こういうことなんだ。

 昭和29年、1954年に公開された映画「ゴジラ」は核兵器の攻撃を世界で唯一浴びた日本という土壌における核および核兵器への感情を映し、またビキニ環礁で行われた水爆実験で第五福竜丸が被爆し人命が損なわれたことも踏まえて、ゴジラという存在を核に象徴される巨大な悪意と見てそれに蹂躙される日本を描いてみせた。日本という国の置かれた境遇を考えればそれはそれで当然とも言える反応だろうけれど、一方で「ゴジラ」に先立つ1953年いに発表されたウィルマー・H・シラスによる「アトムの子ら」に描かれた、知的に進んだ少年少女たちはその“進化”の要因が原発の事故として描かれている。放射線を浴びることの恐ろしさを身に染みて感じていない国民ならではの発想と、あるいは言えるのかもしれず、また原子力なり核エネルギーが持つ神秘性将来性可能性も強く感じていた現れと言えるのかもしれない。

 もっとも「アトムの子ら」から感じたのは、そうした核への脳天気なまでのスタンスよりもむしろ、ミュータントとして集う少年少女たちに悪意が向けられながら、それを理性がしっかりと押さえ込んでいく描写の清々しさだ。とある街に学校を着くって集まった頭脳明晰な少年少女たち。けれどもそんな状況を知ったとある説教師が、テレビで彼らは毒蛇だ、危険な存在なんだと危険性を訴え扇動する。普通だったらここで扇動された人々が押し掛け、問答無用の魔女狩りが起こって血にまみれた悲惨な光景が起こる。それがこういったミュータントをテーマにした物語の常道でもある。けれども「アトムの子ら」では説教師の扇動に矛盾を感じ、憤る少年たちも冷静な対応を仲間に呼びかけ、扉を開いて集まってきていた街の人たちに語りかけ、理解を求めそうした理解の中から共感を引き寄せ、無傷の中に辞退を納めてみせる。説教師も誤りを認めて撤回する。

 危険ではない。危害を加えるつもりは毛頭ない。そう訴えたところで、一度蔓延った恐怖はなかなか消えず、むしろ猜疑心となってふくらみ人と違った存在を危険にさらす。そこからどう理解を求めていくか、求められないからこそ戦いを選ぶのか、といったテーマで物語りが描かれていく。けれども1953年のあの時代に、相互理解が平和をもたらす物語が書かれていたことに驚く。それが著者のウィルマー・H・シラスの信念でしかなかったのか、時代がまだ異質な存在に鷹揚だったのか。今となっては想像もつかないけれどもやがて東西冷戦が激化する中で、人は猜疑心をふくらませて異質な存在、理解できない存在への敵意をふくらませ、撤回をしようとしなくなる。冷戦は終わっても今度は身に迫る苦労が外への敵意を支えとして使うようになり、かくして猜疑心の渦は留まることを知らず回り続けて世界を混乱に中に迷わせている。

 もはや「アトムの子ら」の時代には立ち返られないのか。あの説得と納得と理解と調和の中に人類が未来をより素晴らしいものへと変えていくようなビジョンは描けないのか。できない、といってしまうのは簡単だし、実際にそうした可能性の方が現時点では高い。ただそれでも、いつか誰もが手を取り合って丘に登り、顔を見合わせて笑顔で語らう時が着て欲しいと願いたい。そんな願いに繋がる物語として今のこの苦境を描く物語が必要なのだとしたら、張間ミカが「楽園まで」を描いた意味はとてつもなく大きいと言えるだろう。ちなみに人類のその先を描いたスタージョンの「人間以上」が書かれたのもやはり1953年。異質なものへの驚異を感じるマインドはやはりその時代にもあったのだろう。なればこそウィルマー・H・シラスの善を信じ理性を尊ぶ心はとてつもなく美しい。今こそ、今だからこそ読み返されるべき物語、なのかもしれない。


【10月24日】 「世界の果てでも漫画描き 1 キューバ編」のあとがき漫画で、母親の「マンガ大賞」獲得によって「宇宙兄弟」が惜しくも受賞の機会を逃してしまったことに激怒したヤマザキマリさんのご子息のためにも、「宇宙兄弟」には是非に星雲賞か日本SF大賞を狙って欲しいところではあるけれども、これも完結しないと受賞には至らないみたいなんで、来年にもすぐってことはなさそう。完結すれば別だけど、すぐに完結してもらっても淋しいのでそれはなし。あと宝島社が出してる「このマンガがすごい」だったら未完でも選出はあるけれども、ライトノベルには関わっていても漫画についてはどういうシステムで運営されているかはまるで不明だし、買ってもないんで過去がどんな順位になってて、今年は何が上位に来そうか想像もつかない。

 あとはヤマザキマリさんがマンガ大賞直後に受賞した「手塚治虫漫画文化賞」が直近で狙い目か。あるいは時期も似通っている「文化庁メディア芸術祭」か。アニメーション化なり実写映画化ってのも機会としてはあり。そういった何らかのきっかけがあれば話も聞きに行けるんだけどなあ。受けてくれるかどうかは別にして。ヤマザキマリさんみたく展覧会で「宇宙兄弟」絡みのイベントがあってそこに来訪、ってのもきかけだけど、国立科学博物館での宇宙関連の展覧会、関わっている風もないもんなあ。まあ様子見。「SFが読みたい」だったら完結してないから入れても大丈夫なのかな。

 届いた「SFマガジン」の2010年12月号を見たら表紙がどちらか分からなかった、んじゃなくってどっちもアニメーション版の「マルドゥック・スクランブル」のポスターだかイメージイラストが表紙は表紙絵として、裏は宣伝として掲載されてて結果的に同じデザインになってしまった。こういうのって企みとしては面白いけど、常に新しいビジュアルを求めたがる目にはやっぱりちょっと淋しい。表紙だってSF表現のひとつの形と考えるならば別のイラストを付けるなりしてくれれば嬉しかったかも。体裁を考えるなら文庫改訂版の方を持ってくるって手もあったか。

 まあともあれ完全版が出て改訂版も出て3D版が出るかは知らないけれども厚みは増している「マルドゥック・スクランブル」ムーブメント。表紙絵の元になってる林原めぐみさんが声を務める劇場アニメーション映画も公開だそうで、冲方丁さんを初期より遠くより応援している身としては嬉しくも目出度いことではあるけれど、マイナーなメディアにはアニメ化関連の情報も案内も告知もまるで一切来ないんで、未だにどういう映画なのかが分からない。売り込んでくれれば独断と独善で何ページだって割いちゃうってのになあ。それは他の作品だって同じだけれど、存在を知られてないんで話も来ない。マイナーは辛い。映画については伝わってくる評判はとてつもなく良いものばかりだけれど、本当はどれほどのものなのかは、だから劇場で見て判断するしかなさそー。表紙ほどのエロさでバロットちゃんが動き回ってくれているならサイコーだけど。

 ヤマカン山本寛監督の近況なんかをさらっていたら何か第「20回映画祭TAMA CHINEMA FORUM」で行われる「第2回TAMA映画賞」でもって「私の優しくない先輩」で山本寛監督が最優秀新進監督賞を受賞していた模様でいっしょに金田哲さんも最優秀新進男優賞を獲得と映画としては2冠を達成。過去にそうした賞とは無縁だったというヤマカンさんも嬉しがっているんだけれどそれ以上に嬉しいのは映画祭でもって上映とトークショーが行われることで、そこでは何と今年見た映画の中で泣けた2本のうちの1本が「私の優しくない先輩」だとしたら、もう1本に並ぶ「半分の月がのぼる空」がいっしょに上映されることになっていて、続けて見たらもう滂沱でもってスクリーンが見えなくなるんじゃないかって心配が浮かぶ。

 幸いというか間に山本寛監督と、これは「アンニョン由美香」の松江哲明監督が並んでトークショーをやってくれるみたいで、一息ついてから再び感涙の中へと向かっていきそう。トークショーのテーマも「アイドル映画とライトノベルの幸福な出会い」となっていて、文章でのアイドルというかキャラ立ちが際だっている小説のジャンルといえるライトノベルが映画というメディアに出会ってどういった展開を見せているのか、あるいは見せてくれるのかってところを語ってもらえそう。

 もっともライトノベルといっても実写映画に出来るライトノベルの数はそんなに多くはなく、内容的にも今時の異能バトルに極端ラブコメといった主流から外れた傍流の方が多いから、果たしてどこまで一般化できる話か分からないけど、山本監督がライトノベルをどうとらえ、アイドル映画をどう見なしているかを語る機会はなかなか貴重。多摩でも多摩センターは文字通りの山奥だけれど頑張って出かけて見て聞いて、泣いてそれから山本監督が作品に込めた思いとその意図を、今再び感じてみよう。

 いやあ素晴らしい。髪に花がちって脳内がお花畑になっていたりする描写もある意味で確信的な革新性を持っていたけど今度はぶつけた鼻から赤い花がとぽとぽと流れ落ちてくる描写を発明。額に汗とかこめかみに井桁といった漫画的な表現をアニメに持ち込んで目に新しさを見せようとした挑戦はあったけれども、しょせんは漫画からの借り物でしかなかったそいうした表現に対してこれは、漫画でも使われていなかった表現手法。それを使って納得できる世界観って奴をまず作り上げ、それをやらせても了解可能なキャラクターという奴を造形した上で初めて成せるものだけに、ここでこうして使ってみせて、強いインパクトを与えてくれたことことにはただただ感嘆の言葉を贈りたい。素晴らしいぞ「探偵オペラ ミルキィホームズ」。

 アルセーヌの世を忍ぶ仮の姿の生徒会長のこれは謀略というよりむしろ叱咤に近いつっこみでもって失った超能力の回復に務めようとするミルキィホームズだけれど、同じ探偵の別のチームが出刃っている会場に乗り込んでは騒ぎを起こして咎められ、ついでに騙され能力が回復するかもと言われてゲームをさせられそこであられもない格好をさせられおうとした女の子が1人、逃げ出し能力の回復はならず、ってもともと騙されていただけなんで回復するはずもないんだけれど、藁にもすがりたかった他の面々にはそのことが原因と咎められ落ち込んだ女の子は次に恥ずかしくない格好をしてゲームにのぞむ、その格好が以前だったらスパッツだったものが今はレギンスになっているというこれも21世紀的表現のひとつの形か。レギンスなんてタイツじゃんとかラクダじゃんという突っ込みは禁止な。


【10月23日】 最後はやっぱり伝統の「魔像の十字路」方式をなぞって、「手品師」の面々もひとり、またひとりと倒れて行く展開なのかと心配もしたけど、榊一郎さんが書き継いで来たSF作品「ザ・ジャグル 汝と共に平和のあらんこと」(ハヤカワ文庫JA)は、先にコロニー落としならぬ軌道エレベーター落としの巻き添えで失ったひとりの代わりに入ったグリフォンも含めたメンバーが、火星に新たに発見されたレアメタルへと宇宙の関心が向かう中で見逃されようとしていた軌道エレベーター直下にある地上の楽園に、訳あってしつこくこだわる傭兵組織の幹部による究極の攻撃に立ち向かって、そしてそれなりな結末を迎えて全5巻の終わりとなる。拍手喝采。

 途中、ややもすれば忘れられガチになった電脳を食い散らかす虫の存在が再び浮かび上がって人類へと牙をむく上に、それが生まれた裏側までもが明かされていてそこから人間という生き物がどうしてこうも戦い続けるのか、あるいは戦い続けることでしか人間は人間でいられないのかといった命題が投げかけられてそれに傭兵組織の幹部も、そして軌道エレベーター直下にある街オフィールを陰からマモっている「ザ・ジャグル」の面々も、それぞれに戦う意味、平和の価値について考え同時に読者にも考えさせる。

 偽りの平和は打ち壊すべきなのか。それとも偽りを真の平和であらせ続けるべきなのか。そんな問いかけに出た答えを僕は支持する。人間だもの。きっとできるさ。そんなテーマに加えて最終巻は1冊まるまる1つの話になっていて、それぞれに見せ場もあってなかなかに格好良い。戦闘の為に生み出された女の子はやっぱり似た境遇の女の子と戦ってそして激しいバトルの中で経験というものを武器に先んじる。火星から来た機械化兵の女子はそのあっけらかんとして冷酷さも持ったパーソナリティーでもって激しく派手な戦いを演じてみせる。

 主役とも言える三月兎はどちらかといえば思索を担っているけれど、それでもちゃんと戦って勝つ。その上で思索の結論も示して見せる。公爵夫人もあるいは居場所を得られたのかな。そんな感じにまとまりそしてビジョンも得られたSF作品は今年の数ある作品でもベスト級と言って言えそう。冊数が多いのがハンディだけれどでも1冊、読めば次へ次へと向かうは確実。まずは最初を手に取らせ、そして一気加勢に読ませよう。読んでくれるかな。でもハヤカワ文庫JA、他にも面白い作品が書き下ろしでいっぱい出たからなあ。木本雅彦さんに森田季節さんに月村了衛さんに籐真千歳さんに大西科学さんにほかたくさん。これだけあるんだから1冊くらいはSF大賞に…入って…ない…のか…。

 一夜明けて事態は別に紛糾もしていないけれどもさまざまな意見が飛び交う日本SF大賞候補作のラインアップ。そもそもどういう選び方をしているのかまるでSF業界に近くない人間では想像すら及ばないけど伝わる話によれば予備選考みたいな人がいていろいろとリストを挙げてそれを日本SF作家クラブの人に見せてそして推薦作品を挙げて貰う方式だとか。

 もっともそうやって挙がったリストから選ばなくっちゃいけないって法もないみたいでめいめいが推したい作品を挙げてそれがどうなんだろう、この場合は単純に得票順なんだろうか、それとも別の差配が入るんだろうか、分からないけどともあれそうやった果てに5作品が並んで来た次第。結局のところはよく分からないってことだ。

 作家クラブの人が1人1票でもって推薦作を投じてその上位が並ぶってなら、それはそれである意味で公明正大。そして並んだ結果を、外野はさすがSFの専門家たちと讃えるなり、案外にもしかしてどうというかなんというかと沈思するなりすれば良い。ただクラブ員の全員が投票しているって訳でもなさそうで、そりゃあ忙しい創作者たちの集団だから他の作品なんか読んでる時間なんてないってことで、畢竟周囲で評判になっている作品なりが挙げられる可能性が高くなる。

 そうした周囲ってのがどの辺までなのかも、身の回りに事情に通じた人がいない当方にはまるで伺いしれないけれども幾人か、肝胆相照らす同志たちが周囲にいる人ならば、その支えを得て前面に押し出してもらいやすいのかもしれないといった想像は働く。全員が全員、資格があっても行動している訳ではないだろうことも、よりポジティブなクラスタを目立たせる結果を招いているかもしれないといった空想も浮かぶ。

 一方で、遠く業界から離れた場所で生まれる作品は、たとえとてつもない凄さを持っていても、見落とされがちになってしまう。それを避けるために、そうした方面への目配りも効かせてピックアップする予備選考があるんだろうけれど、そうやって挙がってきたものを全部読むような時間もないとなれば、やっぱり周囲からってことになる。そんな結果があるいはあのラインアップってことになるのだとしたら、なるほどそういうものなのかといった理解をひとつ、日本SF大賞というものに対してしておく必要があるのかもしれない。難しいなあ。

 これが例えばマンガ大賞の場合だと、90人だかの選考員が1人5冊づつ挙げてその上位10作品が最終候補作となり、それをやっぱり90人だかが必ず全部読んで上位3作品を決めて投票することが義務づけられている。最高で8巻刊行時までノミネート可能な賞だけに、1作で何冊も読まないと行けないケースも多々あるけれど、それでも読まないと判断不能。だから読んでそして感じて投票する。当たり前っちゃー当たり前のことがなされている。

 まあ漫画だから高いといっても1冊1000円のワイド版がある程度で普通は500円とか600円。それが8冊で5000円で10シリーズなら5万円? やっぱり高いか。でもそれをやってこそ選べるものだという自負と、自覚と、自意識で選考員を誰もがやっている。与えられた権利を行使するなら義務を果たす。それがあるから行為に対して自身を抱ける。疚しさを覚えないですむ。

 また、そうした行為が漫画との新しい出会いを生んでくれる。自分はずっと読んでこなかったけれどもこんなに大勢が推薦して上位10冊に入ったってことは、なるほどそれなりに凄い作品なんだという確信が得られる。だったら読んでみるかということになって読んだら案外に凄いということが分かって、そして投票へと至る。大人数が大量に挙げて、その数の論理だけて決まっていくことは、時とすれば大ベストセラーばかりが並ぶ結果を招きかねない。けれども不思議というかマンガ大賞は、なぜか単なる人気投票にはならない結果を読んでいる。

 数字を嫌って裏目に走りたがるサブカル意識の悪い面だといった批判も成り立つけれど、とはいえ1年目の「岳」も2年目の「ちはやふる」も3年目の「テルマエ・ロマエ」も、それなりに知られてはいて、けれどもトップを張っていた訳ではなかった作品たちが、その後にちゃんと広い読者を得て、ランキングのトップ10くらいには入ってくる人気作品になった。もちろん作品にそれだけの力があったればこその受賞であり、ベストセラー入りだけれど、そこにマンガ大賞というマークなり座標を与えることで、普段はそういった作品を読まないそうに手に取らせることに成功した。選考員には時間とお金を強いるシステムだけれど、いい結果も生んでいる。そう思えばそうした労苦もまるで気にならない。むしろ嬉しさが浮かんでくる。

 推薦するからには責任を。推薦する気持ちに実直さを。その上で結果に対して成果がちゃんとついてくれば八方まるく収まる。それが果たして出来ているのか。どこかに何かひかっかている部分はありはしないか。そんなことをつらつらと考えてしまたけれども、業界からはまるで縁遠い人間が何を言っても始まらない。ただただ出てくるラインアップであり、結果によってそれがどうなのかを判断するよりない。だから今は模様眺め。そして結果は結果として受け止めつつ、そこに至らなかった作品についてはまた別の機会で、ちゃんとした支持を集められるだろうことを願って、こちらでも出来る限りのことをするのだ。でもなあ。「千葉県立海中高校」とかまるで読まれている風、ないもんなあ。面白いのになあ。

 そして初の中野サンプラザは山下達郎のツアーを見物。今回は3回目でそして打ち止めになりそうなツアーを聖地で見られたのは嬉しい限りだけれども、宇都宮でも大宮でもしつこく喋っていたいサンプラザでの切った張ったな果たし合い的雰囲気って奴を半ば期待しつつ半ば不安げに訪れたら案外にアットホーム。それもそのはずで追加となった今回のサンプラザにはマスコミがおらず招待もそれほどいなかったため来ていたのは達郎さんが見たい素直なお客さんばかり。最初こその登場に戸惑いつつも引っ張られていく中で盛り上がっていく雰囲気に、達郎さんも心地よさを感じたみたいでいつもとは違う雰囲気だと言って最後にとっておきのサービスを見せてくれた。土曜日なだけにぴったりのあの曲。最近不可思議なアレンジで出て頭がもんわりしていただけに本家のものを本場で聞くと頭もスカッと晴れやか。これで良い週末を迎えられそう。頭も働き始めたところで読むか「スラン」に「アトムの子ら」に「人間以上」。意味不明。


【10月22日】 この季節に豪雨という事態があり得るのかという気象的な知識経験則の類はさておき、現実に奄美大島ではたいへんな豪雨で災害も起こっている様子。台風のシーズンになら幾度となく全国で起こる豪雨災害だけれど、秋も深まり晩秋から初冬の色さえ帯びてきたタイミングで、夏なり梅雨時にも似た報を聞く。やはりどこかがゆがんできている現れなのだろうか。それとも今年がことさらに不思議な気象なだけなのだろうか。折からの田中一村ブームもあって存在がクローズアップされ、あるいは訪れてみたいと思った人も少なからずいただろう島にとっては、やはりタイミングが悪いというより他に言葉もない。願うなら最小限に被害を止めて想起に復興へと向かって欲しいのだけれど。それにしてもやはりこの季節この気象、どこかズレて来ているなあ。

 見るものが果たしてあるのかという懐疑と、なぜこの時期にという怪訝さも含みながら赴いた秋葉原UDXで今日から始まった「東京国際アニメ祭2010秋」。すでに10年の回数を重ねる「東京国際アニメフェア」の秋版という位置づけなのだろうとは分かるけれどもその割に、会場の広さも限られ華やかなイベントにも欠けてどこか淋しげ。もちろんそうした一般向けのアピールの場としてではなく、この時期東京国際映画祭の開催に会わせて来日している海外からのバイヤーに、アニメーションなどのコンテンツを見せる場といった意味合いをもっての開催なのかもしれないけれど、それなら立派にマーケットとしてのTIFFCOMがある訳で、会場も六本木から離れた秋葉原で似たようなイベントを開く意味ってのにやや欠ける。

 あるいは秋葉原だからこそという海外からのマーケット参加者も、少なからず見込んでの開催かもしれないけれど、それならばもっと見るべきもの、例えばメイドさん100人大集合とか、コスプレイヤー100人勢揃いとか、痛車1000台大展示といったイベント性の高い見せ物を展開し、アニソンのライブなりアニメの上映会等々をバイリンガルで実施して見せるくらいのことをすれば、世界の目も向きそれにつられて、世界がどうみているかに弱い日本の目も一緒に向いてそれなりに、イベントの存在とそして出品物の存在も世間に知れ渡ったのかもしれないけれど、そこに展示してある品々が作品のパネルの放送中なり放送上映間近な作品の予告編程度では、いったい見てどうしろというのか。これを買いたいといって買える場でもなくかといって情報として雑誌以上の豊富さもない。そんなイベントが経済産業省というコンテンツ政策を推進する省庁が音頭をとってやっているコ・フェスタというイベントの一環として行われてしまうという現実が、つまり政策とやらのどうにももやもやとした実体って奴を伺わせる。

 だいたいが見て1番ピンと来た展示物が、スタジオぴえろに置かれていた狛村隊長のちょっと大きめのぬいぐるみっていうのはどういう訳だ。でもって次にピント来たのが同じぴえろのブースにおかれていたマユリさまの小さいぬいぐるみだというのはどういう次第だ。そもそもが「BLEACH」の映画の予告編が流されチラシが置かれているそのブースに、他におかれていたのがその2隊長のぬいぐるみ。一護もルキアも織姫ちゃんも夜一さんすら置いてないという状況は、いったい誰に何をアピールしようとしていたのか。それとも海外から来るバイヤーには狛村隊長とマユリ様が1番人気なのか。もちろんマユリ様は大好きだけれど、それだったらネムも一緒に付けて欲しかった。あとは金色足そぎ地蔵のぬいぐるみとか。まあそんな感じ。見入って為になるブースがほとんどない。

 そんな中でも入り口に1番近い1列を閉めてたサンライズの展示ではあの名作傑作秀作不思議作の「コイ☆セント」が展示されていて多分予告編なんかも流れていたんでその不思議さ炸裂な映像って奴を拝めることでありましょう。あと「いばらの王」なんかも。ほかではやっぱりプリキュアのパネルか、キュアムーンライト様とかちゃんと大きく描かれているんで眺めて愛でて愛でまくれ。そんな東映アニメーションのブース脇には何でも10月31日に大泉あたりで開催されるらしーとやらのポスターが。プリキュア関連の展示もあるようだけれど目玉はあのエンディングだかが3Dになっての上映会か。東映の試写室であるんで画質も抜群な筈。でも待っていて出て来たのが3Dは3Dでも立体視ならぬ立体の着ぐるみのキュアブロッサムにマリンにキュアサンシャインにキュアムーンライトだったらどうしよう。目茶立体感。当たり前だ。まあそれはそれで良い物ではあるんだけれど。遠いけど行こうかな、大泉学園まで。

 知らないうちに今年の日本SF大賞候補が出ていたようでリストを見て市川春子さんの「虫と歌」が入っていないと分かって関心を大きく減退させる。マンガ大賞は入らなかったけれども手塚治虫文化賞には入って「テルマエ・ロマエ」と並んで話題の漫画として大きくクローズアップはされたけれども、その作品が本質的に漂わせているSF性については結局、星雲賞でも引っかけられず日本SF大賞には審査の遡上にすら挙がらないという事態でそれってつまりSFとして認められていないのかなあ、なんて落胆すら覚えてしまうけれども考えてみればあれだけ大量に出たSFの中で候補とならなかったSF作品はそれこそ無量。一方でSF大賞の候補が決められるだろうプロセスにおいて漫画作品やライトノベル作品なんかが挙がってくる可能性の低さを考えるなら、候補に入らないことがSFではないといったことにはならないんだろうとも考えられる。でもやぱり論じて欲しかった。せめてこちらには入らないものだろうか「SFが読みたい!」には。


【10月21日】 奨学金をもらうとうことは家計が大変だということで、家計が大変だということは奨学金がもらえるまではアルバイトでも何でもして家計の足しにするなり学費を稼ぐなり、食費や光熱費や住居費などもそれてまかなってきた訳で、そこまでしなくてはならない苦学生にとって無給のボランティアというのは向かう方向性とはまったく逆で、やりたくたってやれないくらいにせっぱ詰まった状況の中で頑張って勉強をして大学に進学して、さあこれから勉強に専念できるぞと思い勇んで奨学金を申請したら、ボランティア経験がないあなたには奨学金は与えられませんと言われかねない状況が、すぐそばに迫ってるかもしれないこの滑稽さを何と表現するべきなのか。一言「ダメだこりゃ」か。でもそれで奪われる未来もあるとしたらやっぱり言わなきゃ。「ダメだろ日本」。

 こりゃ面白いかもしれないね。バンダイが11月に出すとかいう「ドラゴンボール」を使ったカードバトルゲーム機をさわれる機会があったんで見物に言ったらプリモプエルが合羽を着てお出迎え。そこを抜けて会場へと入ってマシンを見ると、モニターがあって手前にテーブルがあってそこにカードが並べられてといった具合に、セガの「ワールドクラブチャンピオンフットボール」なり「三国志大戦」といった先行するカードゲーム機と似た雰囲気が見て取れた。まあ要点はだいだい同じだけれどもそこはバンダイ、キャラクターを使い倒せるメーカーとしては最強で、あの「ドラゴンボール」を持ち出しカードにキャラクターをあてはめて、台の上に置くと画面に現れ敵と大戦するよーなゲームを作り上げて来た。

 まあそれも「WCCF」と同じっちゃー同じだけれどゲームを始めてからいろいろとs作業が必用で、つまりは遊ぶ要素が多いってところがあるいはほかとはもしかしたら違うところか。5枚までカードが置けるようになっていて、んでもって敵に近い前衛に置いたカードはパワーをいっぱいまで出せるんだけれどその分気力が減るのも早くって、手前に置いたカードはエネルギーがチャージあれて回復していくような感じになっている。攻める時にはだからそのあたりを気を付けないと、敵に近く置いて戦わせてばっかりいたら弱って敵の攻撃1発で沈みかねない。かといって前衛に誰もおかないと相手の攻撃を防ぎきれない。そのあたりをゲージとか見ながら判断してカードを置く位置を決めないといけないから、結構頭を使わされる。

 あと攻守の時に動くゲージに会わせてボタンを押す必用もあって、それでうまくいけば相手にダメージを与えられるし、失敗すると激しいダメージを食らったりもする。そこでまた1つ、作業する必用があって見ているだけのゲームとは違った一体感を味わえる。カードには組み合わせの妙まるようで、サイヤ人たちが揃うとすごい技を発揮したりもするそう。そんなコンボも頭に入れてカードを組み合わせ、置いて位置も考え攻撃に守備に動かしそしてボタンをタイミング押すという多元的な理解と操作を必用とするこのゲーム機を子どもが果たして楽しめるかっていうと、そこは理解が早くて反射神経も衰えていない子ども達。すぐさま理解し遊んで遊び倒すんだろうなあ。自分でもやって見たいけどそんな子ども達にすぐさま占領されそうな予感。見ていても楽しいんで導入されたら背後霊でもやって見物しよう。

 これが売れたらやっぱり次に出てくるのは「ウルトラ大怪獣バトル」の関連か、あるいは「機動戦士ガンダム」あたりか。ガンダムはメカにするのかキャラにするべなのかで迷いそう。そこで分けると組み合わせが面倒になるからなあ。「ドラゴンボール」はキャラだけの肉弾戦なんで割と理解も簡単だった。個人的には「ジョジョの奇妙な冒険」とかで作ってスタンドを組み合わせて敵ディオたちと戦うよーなゲームを遊びたいけど、どうせだったら音声認識機能も付けてプレーする際に「おらおらおらおら」ってデカい声を出したらよりパワーアップするようにすればさらに面白さも増すかも。それもそれで面倒か。ちなみに「ドラゴンボール」ではカードが兄ちゃんとおっさんと怪物しかいないのが残念というか、「ドラゴンボール」だから仕方がないというか。ヒロインが人造人間18号しかいないのだ。まあそれだけいれば十分すぎるけど。あの世界で最強な女子の訳だし。

 ブルボンといったらルマンドかホワイトロリータだろう味でも食べた感じでも、って思うんだけれど人によってはコンガリと焼き上げたクッキーがくるりと丸まったようなルーベラがお好きらしいと知って味覚にはいろいろあるなあと思ったり。っていった細かいネタが満載な上に会話も最高に面白い野崎まど「死なない生徒殺人事件 識別組子とさまよえる不死」(メディアワークス文庫)はストーリー自体も面白くって読み始めたら止められなくなって最後まで一気に行ってしまうこと請負。幼稚園から高校まであって大学がない女子校に赴任してきた新任教師のところに通ってくるのは転校生。友だちができないという相談をしつつ悪口に不死の人がいるという噂について喋っていたらおいおい人のうわさ話とは感心しないなと当の不死者が現れた。

 でも本当に不死なのかを確かめようとしたらそれは無理だと断られる。まあそうだ。でも気になった教師が興味を示していたら彼女は彼に直接的ではないけれど、証拠になりそうは不思議な現象を見せて2割くらい信じ込ませる。そこで事件。当の死なない生徒が殺されてしまうという事件が起こって教師を戸惑わせた上に、新たな展開を読んで教師を今度は驚かせる。果たして不死とは存在するのか。するとしたらそれはどういった状況なのか。不死者と名乗った少女を殺した真犯人を追いつめていくミステリー的な仕掛けもあって楽しめる上に、哲学的というかSF的な種明かしもあって驚かされること必定。こんな話も書けたんだなあ野崎まどさん。

 ともあれストーリーとして楽しくおかずの会話劇も楽しい1冊。楽しかった最高なのがこんな会話で、行って名字の生徒と、有賀という女教師の間で『「行ちゃん」「キュアアリガ!」「先生を呼び捨てにしない」「敬称は付けました」キュアは敬称ではない』という部分はいつかどこかで使ってみたいもの。もちろん尊敬する人にキュアを付けてみるっていった形で。例えば首相会見。「キュア総理、質問よろしいですか」。あるいは大統領会見「キュアオバマ、この問題についてですが」。さらにはサッカー日本代表の会見。「キュアザック、あそこでの選手交代の意図だが」。答えてキュアザック。「埼玉スタジアムに咲く一輪の花」。まるで意味不明。でも何となく尊敬しあっていることは伝わる……訳はないよなあ。


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