縮刷版2010年10月中旬号


【10月20日】 裸を見るのはさすがに忍びないと気を遣う男子に向かってそれなら目を潰しなさいと追い打ちをかける女子は好きですか? 好きなら読もう海空りくさん「断罪のイクシード 白き魔女は放課後とともに」(GA文庫)。剣術を割と得意とする男子が鍛錬を終えて帰る途中に現れた巨大な黒い犬。けっ飛ばしたら襲ってきたんで相手をしようとしたらこれが強敵。降り飛ばされて死ぬかと思ったと言うよりほとんど死んでしまったところを現れた美少女がにらみを利かせると犬はすごすご引き下がり、そして少女は少年のバラバラになった内蔵に手を突っ込み綺麗になおしてみせる。何者?

 実はその日に転校して来た新しいクラスメート。でもまるで暮らすになじもうとせず掘って置けといった態度で望んだため、男子がパンツは何色と聴いて存在を浮かび上がらせようとしたら敵も去る者、ピンクノサイドストリングと答えておまけにスカートもまくり上げて実物を見せて来た。こりゃあ1本とられたと焦った男子はあったらケツも見せろと言って大ひんしゅく。ほぼ敗北となっていたところに加えて夜の事件とそして再生でほぼ完全に尻に敷かれるようになってしまう。でも彼女は別に少年を仲間にしたワケではんくって、1人で何者かと戦い始めてそれに少年はおせっかいにも絡んでいく。その相手は町を闇に引きずり込もうとしている存在だった。GA文庫大賞優秀賞の受賞作は展開こそとりたてて特別なものではないけれど、キャラの造形が強靱で結構ひかれる。強気でけれども弱さを抱えた少女とか。その戦いがまだ続くとなってこれからの展開は。そして履いているパンツの色は。楽しみたのしみ。

 石黒正数さんによる原作の漫画はまあ好きで、漫画の初期が持っていたポップさとシュールさがいい感じに融け混じった雰囲気を、巧みに出してて今クールでもトップの出来のアニメーション版「それでも町は廻っている」も好きだし、アニメ版の主題歌となっている「DOWN TOWN」も大好きな曲だけれど、それを坂本真綾さんが歌っているバージョンがどうにも耳にしっくりと来ないのは、30年来の山下達郎フリークでシュガーベイブ時代の達郎さんが歌った「DOWN TOWN」なんて何十回から何百回となく聴いて耳になじませ、それからEPOさんが「おれたちひょうきん族」のエンディングに歌って評判を取った「DOWN TOWN」も幾度となく聴いていて、それらがすっかりスタンダードになっているから、なんだろうかどうなんだろうか。

 ホーンセクションを混ぜたジャージーな感じのアレンジになっていて、それ自体は服部隆之さんのものだからプロフェッショナルの仕事なんだとは思うけれども、そうやって奏でられるポップな演奏に坂本真綾さんの声が乗ると、どうにも響くリズムに重なり合って聞こえてこず、「DOWN TOWN」ならではの弾むような感じが漂ってこない。そりゃあジャズっぽいなから気だるげな感じになることもあるんだけれど、テンポとしてはこれまでの「DOWN TOWN」とそれほど違わないテンポなだけに、それに合わさるのはやっぱり弾むような歌声で、それが出来ていたっというかそれが元々のオリジナルな達郎さんの声も、それからパンチが効いたEPOさんの声も、「DOWN TOWN」という曲にとってもマッチしていたのに対して、坂本真綾さんの歌声は、どこか未だ解け合っていないような印象が感じられてしまう。

 ジャージーなアレンジだから坂本さんの声にそぐわない拙い、って可能性もあるけれど、EPOさんがいつかのカバーとは別に、「EPO works」ってアルバムに寄せたライブ感溢れる録音での、ジャズかボサノバかってなアレンジの中で歌った「DOWN TOWN」は鳴り響くリズムやサウンドに、EPOさんの粒立ちの良い声が乗って実にぴったりマッチしていた。前面へとせり出してくる感じがした。粒立ちの良さでは坂本さんもEPOさんも同じくらいに綺麗な声なんだけれど、それがサウンドに巧く絡まないのは発声方法に違いがあるのか、同じようなジャージーなアレンジでも「DOWN TOWN」のいじり方にズレがあったのか。音楽の専門家でないとちょっと分かりそうもない問題なだけに、近田春夫さんにどこかで解説して貰いたいものだけど、きっと届かないだろうなあ。つじあやのさんは「DOWN TOWN」をどう歌っているんだろう。

 同じ坂本真綾さんでもシングルに収録されている荒井由実さんの「やさしさに包まれたなら」とそれから加藤和彦さんがいたフォーク・クルセイダーズ「悲しくてやりきれない」については曲とアレンジと歌声が見事にマッチして、荒井さんのポップさとはまた違ったキュートな「やさしさに包まれたなら」、そして透き通るような雰囲気の中に寂しさが滲む「悲しくてやりきれない」となっている。たぶんあから選曲とアレンジと歌い方の詰めの問題であって、あとはやっぱり僕自身の楽曲への思い入れの差でもあって、それが気になって「DOWN TOWN」ではどこかに違和感を覚えてしまってそれをずっと引きずってしまっているんだろう。あるいは収録されているPVを見てその谷間っぷりにノックアウトされたら坂本さんの「DOWN TOWN」も頭になじみ耳になじむんだろうか。見てみよう繰り返して100回くらい。

 これは凄い。とてつもなく凄いので発売されたらみんな読むように。集英社スーパーダッシュ文庫でやってるSD小説新人賞で佳作を受賞した朝田雅康さんって人の「二年四組 交換日記 腐ったリンゴはくさらない」は、先生達のたくらみもあって始めて担任をもった女教師のクラスに問題児ばかりが集められてしまうところからスタート。そこでクラス委員の委員長となった少女から、提案があって教室で交換日記が交わされるようになってそして始まった、リレー式に綴られる交換日記の記述によって物語が進んでいく。もっとも日記には、出てくるクラスメート達の名前はもっぱらあだ名で記載されて、誰が誰だか分からない。読む人はその特技や性別をふまえつつ、メモを取るなり口絵のあだ名と顔が描かれたシートを元にして誰が誰なのかを埋めていくことになる。

 交換日記にはそんなイニシャルトークめいた記述の中に、連日の出来事が記されていき、それからクラスメートどうしの関係性も綴られて、人によっては本名もバラしてしまっていたりして、そんな情報を元にしながら誰が誰なのかをぼんやりとながら理解していくという、そんなパズル的な楽しみ方がまず出来る「二年四組 交換日記 腐ったリンゴはくさらない」。さらにはある事件も重なり、別の事件も重なって謎解きだったり事件解決といいったミステリー的な要素も楽しめる。そして多感な若い者たちの間だに起こりがちなぶつかり合ったりすれ違ったりする関係の難しさも描いて青春してみせる。

 実に多くの楽しみどころを持った作品。とはいえ探りながらの読書は最後まで読むのがまず苦労だし、読み終えても積み残した謎があるようで、再びページを戻して最初っか読み返してしまうから面白いというか凄まじいというか。その意味でも大きな話題を呼びそう。メンバーの重なりによって展開を描く新城カズマさんの「15×24」にも迫りそうな異端のライトノベル。とりあえず言っておくなら副委員長はつかみ所がなさ過ぎで、委員長は別に腹黒がいるにも関わらず1番腹黒。お嬢健気すぎ。そして何より登校拒否自動二、凄まじ過ぎ。これから2周目に入るんで誰が誰と関係があってどういう名前なのかをしっかり埋めて行こう。


【10月19日】 2009年9月の発売だからほぼ1年。中国の北京に集まり暮らしている、大学やら大学院を出ながら仕事がなく、日々貧困に喘ぎながらアルバイトで食いつなぎ、職探しに奔走し、見つかってもマルチ商法だったりして心を痛めてすぐに辞め、そして職探しに明け暮れたり企業に奔走しながら、見えない未来に絶望の色を深めている1980年代生まれの若い世代を指して言う「蟻族」という一群に聞き取りを行い、その生態をまとめた廉思って自身も1980年生まれの「80後」世代に属する研究者の本「蟻族 高学歴ワーキングプアたちの群れ」が、日本の勉誠出版ってところからいよいよ刊行されたこのタイミングで起こり広がる若い世代が中心となった反日デモ。その核をこうした「蟻族」に求める見解があちらこちらで出始めている。

 ここで考えたいのは本当にそうなのかという点で、この「蟻族」という本によれば中心となっている世代はなるほど高学歴な上に社会に参画できず、未来に不安をかかえて戸惑っていたりするけれど、同時に何かの帰属意識や参加意識に乏しく、何事につけても傍観者的な立場を好むといった調査結果が出ていたりする。日本でも似たように大学は出たけれど就職できないフリーターの人たちは、不安は抱えているけれども不満を爆発させて暴れ回るよりは、沈み引きこもって暮らす方向へと向かっていた。それと同じ現象が中国でも起こっているとするならば、反日デモに参加しているのはまた違った層なのではないのかといった見方も出来そうだけれど、気を付けたいのは中国での「蟻族」の調査が2009年以前に行われたもので、さらに発売から1年が経過しているという事実。この間だに起こっただろうことを勘案した時、あるいは「蟻族」こそが社会に対する鬱憤を爆発させている集団の、中心にいる可能性がないとも限らない。

 ちなみに「蟻族」という本には、こういう指摘がある。「インターネットは『蟻族』が外界と交流し憂さを晴らす主要な手段となっている。現在ネット上で活躍する『草の根』集団は、およそ三十歳以下の、成長に息詰まって悩む若者たちである。それらの者たちは、激しい競争の中で生まれた焦りや憤りをインターネット上でぶちまけ、少数の者は過激な思想の「ネットフーリガン」となるのである」(56−57ページ)。運動には出なくても自らを隠せるツールの中では不満を明かすくらいに憤った若者達だとう事実が伺える。そして「インターネットの現実に及ぼす影響を無視することはできない。インターネット上の活動に傍観射的態度をとり、実際の関与が少なくても、インターネットというメディアの伝達力や扇動力は極めて大きく、一面的な感情を誇張して一定の影響力を持ち、現実世界においてそれと呼応するような行為に至ることすらある」(64ページ)。ツールの利便性が意見の濃縮と増長を生んで伝播へと至り起こる憎悪の空気。そこに刺激される人たちは確実にいるということだ。

 その上でこうも予言する。「現在、『蟻族』は、相対的な剥奪感が強く、生活満足度が低い状況下にある。もしこのまま我々が『蟻族』の生活状況を改善する措置をとらず、不満の蓄積を放置するならば、将来さまざまな社会的憎悪が蓄積し、集団行動に至る臨界点に達することもある(65−66ページ)。調査から数年、そして刊行から1年、リーマンショックという激震も加わって混迷の度合いを深めた経済の中で、「蟻族」たちの絶望感はさらに増して臨界点へとたどり着いた。「その時、ひとたび引き金を引くよな出来事が起これば、状況次第では、大規模な集団行動が発生する可能性もあるのだ」(66ページ)。

 残念にも引き金は引かれてしまって、そして内陸部という北京や沿岸部に加えてよりいっそう「蟻族」の人たちの不安と不満が大きい地域で低い臨界点は突破され、大規模な集団行動が発生しているというこの現実。それを予言した著者も凄いけれど、そうした予言を中国という地に暮らしながらせざるを得ない空気感にも、いろいろと思うところがある。薔薇色の未来なんて描きようがない若い世代の鬱憤が、インターネット上での極論に刺激された少数の行動に重なり増幅されて集団へと化す。これを止めるにはもはや情報からの遮断ではいかんともし難く、母集団となる不満と不安にのたうちまわる世代を何とかするしかないんだけれど、世界経済は上向かず国内の格差は増すばかり。その中でまんべんなくすべての「蟻族」とそしてその後に続く90後と呼ばれる世代を社会に参加させられるようなシステムを、作り上げるには相当な困難が伴うだけに即座の対応は難しそう。

 結果、起こる不満は行動となって可視化され、それに刺激を受けて今度は日本でも似た動きが起こって大きくなって洋を挟んでぶつかり合う。本来ならば自らの国の自らをないがしろにした政府に向けるべき矛先が、そちらには向かないのは甚だ妙な光景だけれど、向けたところでどうにもならないといった絶望感が、これまたどちらの国にも蔓延していたりするんだろう。かくして内向きの憎悪は渦巻き燃え上がって国を燃やし尽くす。どうにもいたたまれずどうにも滑稽なこのスパイラル。果たしてどうやったら変えられるのか。それとももはや変えられないまま最終局面まで突き進むのか。注意深く見守りたい。見守るしかできないのがもどかしくとも。

 堀江信彦編集へのインタビューを読むために「サイゾー」を買ったら村上隆さんの大特集があって懐かしいなつかしい「SPA!」の村上さんインタビューが紹介されていた。あれが1997年12月3日掲載だから「エッジな人々」はそれくらいから始まっていたってことで、書評欄のリニューアルも含めて行われたのがだいたいそのころ。自分がそこで書籍の紹介を始めたのも同時期だとするとだいたい13年間をそこにずっと書いてきたってことになる。名前はちらりとのっているけど小さい欄だからほとんど無名に近い扱い。そこで最初は毎週2冊、後半は2週にだいたい3冊くらいのペースで続けて来たから並べるとどうだろう、年間で平均80冊くらいは紹介したってことになるのかな、それが13年だから1000冊に届いたかどうか。それだけやっても時に世間から認知されることもないのが雑誌のライターだってことになる。

 専業なら大変だけれどほかにいろいろやってるんでまあ何とかなっているって状況。専業になったらなったで意気込みも代わりほかに仕事もあっだろうから分からないけど、それでも1000冊を読んで評して世間からのリアクションが作者も版元もほとんどなく、数えて10指くらいってのはうーん、それだけ雑誌が読まれてないのかそれとも気にとめられるくらいの事を書けなかったこちらの至らなさか。後者なら反省しなくっちゃ。でも終わってしまうから仕方がない。普段は読みそうもないルポルタージュとか経済書とか、廻ってきて紹介できて面白かったんだけどなあ。ってかそんな節操のなさが専門性を世に喧伝できず、名をあげられなかったゆえんなのか。うーん。とか言いつつやっぱりラストスパートもルポルタージュやらサブカルやらと無節操なんだけど。それが我が読書。これからは元にもどってひっそりとネットで、無節操な読書遍歴をあれやこれや紹介していくことにしよう。

 さても「サイゾー」の村上隆特集にはつまり企業家となり企業そのものとなった“村上隆”の運営手法が紹介されてはいるんだけれど、核となっている村上さんの生み出す“アート”そのものが今、どーなっているかといった指摘がなくって今の村上さんの美術的意義を客観的に知りたい身にはちょっとつかみ所がない感じ。あるいはそうした現状をアート作品と一体化して語れないところが村上さんという存在そのものであって、ベルサイユ宮殿に何かを並べ、それが右翼にやらにいろいろいわれてもう大変なんすから、ってリアクションも込みで1つのアート的事象をして、とらえ感じて評するのが正しいのかも。

 そこにはだから個別の作品の芸術性なり技巧性なんて関係ない。でもそれだと稼げないからイメージを抽出したアイテムを作って売り稼ぐ、という。もはやそれは村上隆さんの表層ですらない1部分、言うなればプロモーション用の缶バッジみたいなものでアートそのものではないんだと思うと昔に比べて購入意欲も薄れてしまう。っていうかそれですら買える値段じゃないんだけど。昔は「マイロンサムカウボーイ」みたいにそれ1品で16億円となっても納得できる品があったんだけど、今はいったいどうなんだろう。「美術手帖」にはそこについての言及があるのかな。読んでみないと。

 「サイゾー」の特集には坂口恭平さんって人が出てきて話しているんだけれど、そこで「むしろ彼がやるべきなのは、日本の評論家に英語で村上隆の『芸術』の批評を発表させることだと思う」と書いている。エキゾチックでプリミティブなアフリカ美術と同種の受け止め方しかされていない海外で日本人がどう思っているかを伝えることで、民芸工芸の類ではない芸術と世界に知って貰う必用があるって意味らしいけど、それをやるにも今の総体としての村上さんを語る言葉ってなかなか難しそうだしなあ。かくして海外で評判という日本での認識が、総体としての村上隆さんを領域に押し入れ崇め奉る一方で、具体的な作品という部分には虚ろさが広がっていくという。それもまた興味深い現象。あと何十年か経った時に、いったい村上隆そいう存在が、あるいは総体がどういった受け止め方を去れているのか、見極めたいけどそれまで存在していられるかな、僕が。


【10月18日】 そうか「絶対運命黙示録」なんだ、さかなちゃんの歌うあの歌は。綺羅星の出撃直後から流れ始めて、そしてタクトが銀河美少年となってタウバーンとともに出撃するところまで流れて目を向けさせ、気分を盛り上げつつそこが見どころと刷り込ませ、また見たいと思わせる効果をだんだんと発揮し始めている。耳に残る旋律に歌声がビジュアルと重なり生む様式美。そこでひとつ息を継いでふたたび息を飲み、戦いがどう進み誰がどうなるかを見極めそして次への展開を想像する。

 ヒーロー物ヒロイン物の変身バンクにも似た効果だけれど、「少女革命ウテナ」の場合は初期にそうした「絶対運命黙示録」を核に置いて何事かが起こっていると思わせ十分に引きつけた後で、黒薔薇会編へと向かわせなおいっそうの、謎をちりばめ目を離せないようにして2クール目を乗り切り、そして3クール目へと突っ走った。そんな転換が「STAR DRIVER 輝きのタクト」の場合はどこで起こるのか。そこで安易に走ると失速しかねないんで注意注意要注意。

 倭漢道荒田井芙蓉子、と書いて何と読むかというとえっとなになに「やまとのあやのあたえあらたいふよこ」だってへえ。けどその名前が何かすっげえ意味を持っていたかというとその時だけの呼びにくくって意外性たっぷりな名前ですね的扱いでしかなかったところがちょっぴり不満ではあった西炯子さんの「ふわふわポリス」(小学館、420円)だけど、トーンとしては女性警察官になってはみたものの30才を前にして1年先輩は刑事となってバリバリやってるし同期生は警察でも将来を嘱望されてる若い警官と結婚して退くしと、どこか浮かばれない気持ちでいた佐倉エリが、それでも生来の頑張りを見せて仕事に仕事に仕事に仕事に邁進していくという話で読んでいてとっても心地良い。恋にはいかない。行く先もないし。

 んでもってそんな佐倉エリが務める交番で1人が異動となってしまって後に誰が来るか分からなかったところに迷い込んできた少女が1人。幼げでおまけにどうにも世間知らずなところがあって、エリが与えた魚肉ソーセージすら知らない世間知らずっぷりにこれはどうしたものかと困っていたら事件が発生。近所の交番に強盗が立てこもったと聞いて先輩の刑事といっしょに駆けつけた先になぜかその幼げな少女もやって来ては、メガホンを取って犯人に向かって今ならまだ罪が軽くなるからとっとと自首しろと法律を並べて説得とうより喋りかけてみせる。虚をつかれた強盗はそのままご用。でもって少女が明かしたその名こそが倭漢道荒田井芙蓉子だったという。

 そうなると気になるその名の由来。大和朝廷の古来より伝わる渡来人だか豪族だかの末裔で実は国の中枢に知り合いも多くいる家計の出身で、いざというときにそのネットワークを駆使してどんなに難しい事件も解決してみせるとかいった展開が思い浮かぶけれども、抜群の記憶力を誇っていて、赴任先と間違えた先の地図を古今含めて丸暗記していた才能を見せつける程度で後はとりたてて能力も見せず、当然ながら家系も示さないからいったいあの名前は何だったのって気になってしまう。それとも密かに続きとかを構想していて好評ならまた連載ってことになって、そこで正体も明かされたりするんだろうか。割と気になる。

 まあしなくってもどこかズレてるお嬢さん警官が、ズレてはないけど如才に欠ける一本気なエリと一緒に凸凹コンビを結成して、205件を逃げ切った食い逃げ犯を捕まえたり、結婚詐欺にあったかもしれない女性の相談にのってみせたりしてご町内の役にたつ、ほのぼのとした話をいつもながらの美麗なキャラ絵で見せてくれるだけでも十分。表紙だとスカートなのに本編だとほとんどパンツ姿のエリの警官としての生真面目さ(というか今は女性でもパンツなのか)にも好感が持てるけど、それでまるで靡いてくる人がいないのが悲しいというか勿体ないというか。見かけだってそこは漫画なだけに前々悪くないどころかスタイリッシュで格好良いのに。

 それこそ同じ職場にエリみたいなのがいたら放っておかないって人も多そうなビジュアルでありキャラクターなのに、そこは男所帯の警察官、求めるのはおしとやかで控えめな人たちで、自分たちにも勝る豪傑な女性はやっぱり排除されてしまうのかなあ。警察官には受かっても警察官はやったことない僕にはその辺りがちょっと分からない。まあいくら見目麗しくっても、芙蓉子のような扱いづらそうなのもやっぱり排除されてしまうみたいなんで、男所帯だからといって婿探しに行くのは決断が必用かも。ともあれ「娚の一生」の堂薗つぐみにも負けない仕事に前向きで性格も強気で、けれどもちょっぴり隙もある女性を見せてくれる作品だからそいういうのが好きな人、そういうのに憧れる人は読んで自分も頑張ろうと思うかそれとも自分はまだましと思うか。ご随意に。

 なんか毎週のように「鉄腕バーディーEVOLUTION」が掲載されているのを見て、「増刊少年サンデー」の頃からのファンとしてはこんな嬉しい状況があって良いんだろうかと四半世紀を越えてなおしっかり「バーディー」が描かれていることと重ねて、喜びに頬をつねってみるんだけれど今週発売の「ビッグコミックスピリッツ」では、そんなバーディーでも最大にして最高の謎だったクリステラ・レビのビジュアルが、過去はああで今はどうしてそうなのかってことが明かされてもう大変。それこそ四半世紀を挟んでの謎だったものが理由も含めて明かされようとしている訳で、これはもう「週刊少年ジャンプ」を読む以上に注目し、それこそ購入もして展開を見守らなくちゃって気にもなってくる。いったいどうなってしまったんか。そしてどこに向かうのか。展開に期待。なおかつそんな期待を上回ってくれるとも信じて。

 ほかのどこの場所で主張をしようと、それはひとつの権利だから内容はともかく端からどう思われるかも別にして、やってどうとかいうことにはならないけれど、あの日曜日、2008年6月8日に大変な出来事が起こって、そこで幾人もの人たちが、誰ひとりとして望みもしないまま生を断たれた場所に、そうした悲しむべき事態、悼むべき人たちへの一切の感情を持たないまま、大勢で立って足下を見ず、上を向いてただひたすらに自己主張をして平気な人たちの、その主張がたとえどれほどまでに現実を憂い、未来を憂いたものであっても、過去を省みて悼まない心根には、どうにも同意をしづらい。そこで未来を憂わざるを得ない状況は、2年前にもたらされた悲劇とも同根。なればそこでは死を悼み、悲劇を受け止め黙するのが礼というもの。けれどもそんなニュアンスすらない疾走は、果たしてどこまで共感を得ていけるのか。半歩下がって己を見よ。そしてその姿がどう映るかを感じ取れ。


【10月17日】 そうだよなあ、解散したってことはネガ・ネビュラス、ちゃんと黒雪姫以外にもメンバーがいたんだよなあ。実際にスカイ・レイカーは黒雪姫の以前からの知り合いで、いろいろとあった苦労を乗り越え復帰して新生ネガ・ネビュラスに加わった訳で、そんな彼女と同じような境遇の人がほかにもいたって当然ってことで、川原礫さん「アクセル・ワールド」の第6巻「浄化の神子」には旧ネガ・ネビュラスの四天王だったスカイ・レイカーとは別の1人が登場。その風体その才能たるやまた凄まじいものがありそうで、ここに来てそういう弾を打って世間をずっきゅんさせる川原礫さんの才能に、ひたすらに頭を垂れる。いやあずっきゅんだ。

 でもってハルユキに眠ったクロム・ディザスターを1週間以内に取り除かないと、ブレイン・バーストの世界から叩き出されて記憶もその際にもっていかれてしまう見通し。とはいえクロム・ディザスターを浄化できるアバターは、何でも現実世界でいうところの江戸城の中、加速世界でもやっぱり禁忌の一帯に閉じこめられているみたいで護る怪物たちと戦って果たして勝てるのか、ってところで以下続刊、いやあ引っ張るねえ、でも楽しみだ。そんな楽しみを乗り越えてもなお残るこのゲーム世界の謎。そもそもどうして作られたのか。でもってどうしてクロム・ディザスターなんてものが残っているのか。そのクロム・ディザスターみたいな能力をコピーしたようなプログラムが出回っていて、いったい何がもたらされるのか。謎もちりばめられて今後の大きなテーマになっていきそう。戦いはこれから。本当の敵を見極めよ。

 ぐるぐると廻っているのはお掃除ロボットの上に乗っていたからなのかちびっ子メイド。名は知らないけれどもそれなりな重鎮らしい彼女と、10万なんとか冊もの魔法書をその内に納めているインデックスが会話してもまるで話が進まない上に、あれは英国がどっかでお嬢さまが、ありおりはべりな言葉を喋ってこれもまた素っ頓狂。さらには現れたシスターは1人が人の言うことをまるで聞かない抜けっぷり、別の1人はちびっ子な癖にやたらとスカートが短い微エロっぷりと、出てくるキャラクターのどいつもこいつも癖ありすぎで、あの白井黒子や御坂美琴がまるで普通の人間に見えてきたアニメーション版「とある魔術の禁書目録2」。ぐるぐる廻るときはやっぱり吹き込みもぐるぐると廻って、マイクから声が遠ざかる芸とやって欲しかったけれど、それやると聞きづらくなるから却下なんだな多分。

 川上産業がチリの鉱山落盤事故で閉じこめられた人たちに時間つぶしをして貰おうと贈ったプチプチが、地下で本当に使われていたらしいというニュースが流れて万国共通にお楽しみの品なんだと実感。まあ日本のテレビ局が聞き出そうとして適当に愛想混じりに答えただけかもしれないから、真義のほどは世界のニュースでそれが入ってくるまで分からないけど、それでも何となく心温まるニュースではある。真っ暗ではないけれど決して明るくはない場所で、長い時間を積み重ねなくてはいけない人たちにとって、何かやることがあるってのがもしかしたらとっても大切なことかもしれない。つぶせば酸素も漏れてリフレッシュできる、なんて効果もあったのかな、だったら中にリラックスできるフィトンチッド入りの空気を詰めておけばこういう時になお役立つのに。ってそういう用途じゃ本来ないんだけど、プチプチは。

 そして思いついたサスペンス。とある国家で要人が暗殺におびえて狭い場所に閉じこもって一切外に出てこなくなった。娯楽はひととおり与えられていたけれど、さすがにそれにも飽きてきた。そんな時に聞いた時間つぶしに役立つプチプチの噂。これは試してみたいと取り寄せようとしたところに事件が起こった。差し入れたプチプチを楽しんでいるんだろうなあと警護の人が噂をしてからほどなくして、密室の要人と連絡がとれなくなって慌てて開くと、部屋で要人が死んでいた。完全な密室でいったい誰が要人を殺害したのか。これは完全犯罪なのか。そこに現れた名探偵。鮮やかに事件を解決してみせた。手がかりは要人の死体が手にしていたプチプチ。そう、誰かが空気の代わりに青酸ガスを詰めたプチプチを紛れ込ませていたのだった。なんつって。

 もしもそんな状況があったとしたら、危険性も当然鑑みるよなあ、差し入れるものには。という訳で別の小話。とある国家の国王がプチプチなる遊びの噂を聞いて家来たちに取り寄せて欲しいと依頼した。ところが家来たちはプチプチの中に毒ガスが仕込んである危険性を鑑みて、すべてのプチプチをつぶしてから国王に渡していたからたまらない。国王が手にするプチプチはすべて潰れて遊べない。ひねってもおしても何とも言わない。プチプチとはこんなにつまらないものなのか。悲嘆にくれる国王だったけれど、そんな時に発生したチリの落盤事故。つきあいのある国で心配していたら、全員が救出されたと聞いて外交もかねて国王みずからお祝いにかけつけると、炭鉱夫が手に何やらもっていた。これは何かと聞くとプチプチだという。これがそうかと借り受けつぶしてつぶしてつぶして遊んで一言。「プチプチはチリに限る」。笑えねえ。

時告山羊は見えません  そんなこんなで2度目の山下達郎コンサートを大宮ソニックホールで見るために、埼玉方面へと向かう必用があったんで、せっかくだからどこか寄ろうと調べたら、川越で有名な「川越まつり」がやっていたんで電車を乗り継ぎえっちらおっちら川越へ。東武東上線の川越市駅を降りるとすでに屋台が並んで祭りな雰囲気。さっそくタコの脚がでっかく入ったたこ焼きを食らってから歩いていると、次第に風景が江戸時代っぽくなってきて、そこを巨大な山車がのっそり転がってくる場面に遭遇。なかなかの壮観にしてなかなかの情感。東京でも浅草三社祭とかあるけれど、活気はあってもこれだけの風情はない。おまけに最近はヨサコイソーランとかいう、参加者だけは楽しいハイブリッドなダンスカーニバルが祭りの顔をして広まり始めているだけに、伝統を守りつつそれがしっかり見て楽しい祭りになっている川越まつりは、やっぱり貴重で素晴らしい。

 せっかくだからといかにも小江戸な通りを歩いて、今はりそな銀行だけど昔は武州銀行か何かだったんだろうか、古い銀行の横も過ぎて写真なんかで有名な時の鐘とかいったでっかい櫓の所まで到着。時告ぐる山羊とか浮き彫りにはされてなかったけれども、その代わりに前をこれは埼玉県の重要文化財らしい羅稜王とか書かれた山車がゆったり歩いていくツーショットを見られて、歩いてきた甲斐があったと小躍り。あの喧噪のなかをそこまでいくのって大変なんだよなかなか。それもたった1人でわき目もふらずに歩くこの寂しさ。とはいえ誰かとどこかにいく習慣なんてものは、生まれてこのかた持ったこともないんで仕方がない。1人だからこその自在さもあるってもので、何かを得れば何かを捨てる、トレードオフの論理は厳選として我が身を覆うのであった。でも両方ちゃんと得ている人もいるしなあ。泣こう。

 屋台ではあと焼きそばを食べてから、JRの川越駅までえっちらおっちら歩いてそこから大宮へと出てもまだ時間があったんで、2度目の鉄道博物館へと向かってそこで天皇陛下ら皇室の方々がご利用された列車の展示なんかを見物。豪華というより瀟洒な感じの室内は、日本の伝統工芸の極地でもあってそうしたところで維持される巧みの技ってのもあるんだろう。伊勢神宮の式年遷宮にもだから、そうした宮大工的技術の堅持って意味があるってことなのだ。そのほかの列車の類は前に見たたことがあるものばかりだから目新しさは感じなかったけれど、それでも置いてある特急列車のシートにすわると妙に心が騒ぐのは、そこから何かが始まる興奮、あるいはすべてが終わって家路に向かう安らぎが、シートの感触をキーにして脳に浮かび上がってくるからなのかも。旅は思い出を生み、鉄道はそんな旅を支える。びゅわーんと向かいびゅばーんと飛んで終わりな旅も楽で良いけどでも、時間と苦労を重ねる旅ってのも悪くない。してみたいけどする相手がいないって現実が立ちふさがる。やっぱり泣こう。

 そして大宮ソニックホールでの山下達郎さんは、夏に宇都宮で見た時よりもこなれていたっていうかこちらもセットリストをだいたい分かって気楽に聞けたっていうか。席も二階で前も立たない人たちだったんで、ずっと座って見られたのもまったり気分に拍車をかけた模様。「RIDE ONE TIME」も含めてオールシッティングな達郎は生まれて初めてだ。まあそれもたまには良いってことで。ちなみに隣の席にいた緑色したワンピースを来た美人のおねえさんは、バレッタはずして髪を垂らして踊ってたりしていい感じ。達郎のライブはなぜか女性を踊らせるのだ。というか男性は年寄りばかりなんで踊れないし、踊っても踊っているように見えないだけなんだけど。

 喋りもだいたいが宇都宮と同じ。ただ竹内まりやさんのライブが決まったってこともあって12月のライブは達郎さんのライブのメンバーがそのまま引き継ぎ竹内さんのバックを務めることになる模様。当然にして達郎さんも。2人で何かを歌うのかな。そこに桑田圭佑さん原由子さんも参加して「蒼氓」とかやってくれたら泣いてしまいそう。でもこれは達郎さんの曲だからやらないか。「宇宙戦艦ヤマト」実写版の宣伝もかねて木村拓哉さんが「ねえ、パーティにおいでよ」の一言を言うためだけにやって来るとか。あり得ないけどあったら愉快。さてもどんなライブになるのやら。ってその前に今回のツアーでは多分最後の見物になる中野サンプラザ。やっぱり見ておきたかったサンプラザでの達郎さんはいったいどんなだろう。期待に胸が躍ります。そんなライブも行くのはやっぱり一人きり。うーん。もう諦めよう人並みの暮らしは。


【10月16日】 しまった「刀語」見忘れた。まあいいやブルーレイを買うから。でもって撮り貯めてあった「それでも町は廻っている」の第2話。小見川千明さんはやっぱり良い。なぜか知らないうちに始まっていた「ソウルイーター」の再放送めいた番組でも喋っているけど、当時から感じていた声の粒立ちっぷりにますます磨きがかかって脳にキュンキュンと響いてくる。このままずっとこの味を持ち続けていって欲しいもの。妙に巧くなったりしないでね、ってそれは失礼か、巧いんだけれど声も良いという人になっていって下さいな。

 でもってタッツンこと辰野役の悠木碧さんはダルげな演技をさせると最高。それは「ダンス・イン・ザ・ヴァンパイアバンド」でも感じられたことだけれど、タッツンという役を得て、歩鳥相手には強くだけれど思い人の真田君相手にはデレるそいう、そんな間をいったりきたりする演技をしっかり絵に分けている。巧いなあ、まだ若いのに。絵的にはでっかい布きれに歩鳥がペンキでメイド喫茶シーサイドと書こうとした際に、長いスカートをぱっとまくり上げた時に見えた脚とヒップのラインが見どころか。あとは前回と同様に透明ガラスの上に立たせたような角度でのたっつんのお習字。でもスカート長いから中見えない。残念。

 森田修平監督による奈良遷都2000年を描いたOVAの「コイ☆セント」を見て、奈良への興味がグンっ湧いたんで8日から上野の東京国立博物館で始まっていた「東大寺大仏−天平の至宝」展を見に行く。あの大仏が初めて奈良にある大仏殿を飛び出し巡回するって展覧会……な訳はなくって、大仏様はずっと東大寺に鎮座ましましているけれど、その代わりに大仏殿前にあって偉容を誇る八角の巨大な燈籠が初の東大寺外への持ち出しで、それから片手をあげて「ういーっす」とやっていることで有名な「誕生釈迦仏」の像もやって来ているとあってこれは見に行かねばを早朝よりえっちらおっちら到着した上野山。歩いてでも開館までにはまだまだ間があるから、しばらく並んで待つ覚悟をしていたら、午前9時半の段階ですでに開場していてそのままイン。でもっていつかの阿修羅とは違ってまだ人もそれほど来ておらず、間近にお釈迦様も燈籠もしっかりと見て取れた。早起きすると良いことがある。

 片手をあげて手のひらをバルカンサインでもなければメイド喫茶のサインでもない、普通に指を揃えて上に向けた「誕生釈迦仏」はえっといつだっけ、もう大昔に「すくらっぷ・ブック」で雅一郎と西尾がいたずらをしかけていた場面で憤怒のすたがから一気に仏へと変じてみせた際に、持ち出されたのがこの仏像だったって記憶があるけど手元に本がないから今ひとつ判然とせず。ともあれそんな記憶を土台に思い浮かべた仏像は、灌仏会で水をかけられるって面からもそんなに大きくはないと覆っていたらこれが意外に巨大なサイズ。っても大仏ほどではないけれどそれでも数十センチはあって間近に見上げればなかなかのふくよかさ、混雑し初めてからでも遠目に見て見えないサイズで楽しめそう。なるほど実物ってものは見るもんだ。

 それから燈籠は大仏殿を模した壁面の前に立てられていてこれまたなかなかの偉容。どうして正面に1本だけ建っているのか、って謎について梅原猛先生が明らかにしたような本は読んだことがないけれど、これがあってこそのあの大仏殿の引き締まり具合だとしたら、これがない今はいったいどんあビジュアルになっているのか、それだけを確かめに行く意味もありそう。巨大な仏様の後背だけが来ていたりもするからそれがない仏様がどうなっているかってことも。ちなみに1階のロビーに来ていた手は別に大仏から引っこ抜いて来た訳じゃないんで、言ったら手がなかったってことにはなりそうもないんであしからず。どうせだったら顔が見たかったし、あの鼻の穴がどれくらいの広さかを確かめもしたかったんだけれど、江戸時代になってから再建された顔だけ外して持ってくる、ってのもやったら面白いことは面白いものの、それをやるのも不謹慎過ぎるんで却下ってことで。かといって顔だけ別に作るって訳にもいかなかったんだろうなあ。鼻の穴。どんなんだろう。大昔に修学旅行に行って通りがかりに見たときは一瞬だったから分からなかったよ。

 土産物の売り場ではいつかの阿修羅に続いて海洋堂が「誕生釈迦仏」とそれから「月光菩薩立像」のフィギュアを作って先行販売中。阿修羅ほどの大人気で即品切れってなる感じでもなく、また東大寺で来年から売ることにもなっているから急ぐ必用はないんだけれど、それでも現場で先行とか見るとわき出してしまう物欲が、ついついセットで手を伸ばさせてしまった。飾る場所なんてないのになあ。そもそも阿修羅象はどこに行ったんだ。まあいいや、そういうもんだよ物欲って。あと珍しくカタログも購入。眺めてなるほど大仏殿って昔は横に相当広かったんだと気づく。今だって相当に大きいのに、昔はいったいそこに何が治められていたんだろう。平氏が焼いてそれから松永弾正が焼いて消えた宝物を今に換算するとどれだけの金額になることか。せめて大戦で焼かれなかったことを喜ぼう。でもほかにいっぱい焼かれたからなあ。名古屋城も。人々も。だから感謝はしないよ。

 開場を出て3DCGワールドだか何とかって日本未来科学館でやってるイベントの中で、「コイ☆セント」の森田修平監督が出てきて作り方なんかを喋るセミナーがあったんで見物に行く。むしろ今日の活動はそっちがメイン。どう見たって2Dの作画アニメにしか見えないコミカルな絵を、どうやって3DCGで作っているんだろう、もしかしたら2Dの作画をメインに3Dを合成しているだけなんじゃないのか、って疑って見にいったら、ちゃんと3Dで作ってて、そんな3Dのモデルをどうやって2Dっぽく見せるかっていったテクニックを披露してくれた。そんなことをやっていたのか。

 ほら、3DCGってモデルはかっちり作れるけれども、2Dの作画的な遊びができないっていってた話がいつもつきまとうじゃん。でも「コイ☆セント」は2D的な見た目に動きがちゃんとなっている。人間の顔の表情も2Dのような漫画のようなデフォルメがちゃんど浮かんでいる。それは何故? ってところで見せてくれたのが3Dモデルの別角度。真横から見ると口がコの時に開いてたりする漫画的な横顔があったとして、これって絵で描けば簡単に描けて動かすのも楽なんだけれど、これを3DCGで作ろうとしても普通にやってはうまくかない。なぜなら人間の顔についてる口を横か見たって、絶対にコの字のように向こう側が透けて見えるようには開かないからだ。

 それをどうやってコの時に見せるかっていうと、正面から見た時に口が片側にぐわっと寄った風な顔にしてああって、それで横顔で口がコの時になるように見せるという手法。なるほどなあ。あと肩が怒り肩になるのも、普通のモデルから肩の関節を外して引っ張り出して引っ張り上げているからで、それによって怒らせたようなすくませたようなポーズを作ってる。単に1つのモデルの骨格部分を関節人形のように動かすだけじゃなくって、まずはいろいろ動かし、時には大きく歪めてベストな絵を作ってから、それを取り出し平面化してアフターエフェクト上でトゥーンシェードかけたり影を入れたりして処理して2Dっぽく見せて、それをコマとして重ねていってアニメーションにしている。

 たぶん「トイストーリー」なんかのような、キャラを人形っぽくしたりおもちゃそのものにして、奇矯な動きでも見て納得できるようにしたフル3DCGアニメとも、またとことんまで実写と見間違えるようなリアルな造形にして、恐怖の谷間を越えようとしたフル3DCGアニメとも違ったアプローチ。でもそうやることによって日本の伝統的なアニメの動き表情面白さを見せられる。なおかつ3DCGならではの木漏れ日表現をつけたり、自在なカメラワークを見せて驚きの映像を作れる。良いとこどりに見えるけれども、そこには積み重ねてきた苦労もあったんだろう。

 「FREEDOM」の時はまだ3DCGキャラがトゥーンシェードされているだけっぽいキャラだったのが、ここに来て一気に進化した理由は慣れなのか、ブレイクスルーがあったのか。聞いてみたいなあ。でもってこの「コイ☆セント」は今年始めに企画が持ち上がって2ヶ月くらいでプリプロやって作り始めて、4ヶ月くらいで6人くらいで作ったとか。それでこの出来なんだから面白い。そこに3DCGゆえの短縮があるのかそれとも「スチームボーイ」以来の蓄積があったからできたのかは分からないんで、これもいつか聞いてみたいところ。あとはやっぱり鹿が踊っている映像が3DCGだったのかってところか。良い動きをしているんだ、これがまた。ヒロインはともかくヒーローの側があれは博多弁なのは「○○せんと」って前向き表現に恋をしたい欲望を重ねた「恋せんと」って言葉を「遷都」に重ねたものなのか。そこい至った発想もまた聞き所か。寿美菜子さんの歌も良いんで行くぞ劇場、絶対に。


【10月15日】 唐突に目に入ってきたバンダイビジュアルのOVAの企画「コイセント」は、平城遷都2000年だなんていったいそれいつだよ的シチュエーション下で描かれたボーイ・ミーツ・ガールの物語。25分くらいの本編は唐突に修学旅行で奈良へ行くぜ的場面から始まって、そこで出会ってそして事件が起こってといった具合に説明不足も山ほどの中に進んでいくけど、そこはSF眼(えすえふ・め)でもって想像をめぐらせ了解しつつ、世界がそうなっていてそこで人たちはそうやっているんだってことを探ってつなぎ合わせて納得していく楽しみがあるから気にしない。そんな解釈が正しいかどうかはしらないけれど。

 でもって映像は「FREEDOM」の森田修平監督がやってるだけあって3DCGのデジタルアニメーションなんだけれども、「FREEDOM」で見せた3Dを2Dに見せかけてみました的テクニックがさらに進んだ感じで、ここではああいった絵じゃなく、割に普通の可愛くってコミカルなタッチの絵でもって描かれていたりするから面白い。「茨の王 −King of Thorn」でもそれに挑戦していたけれども全編がそれ、普通の2Dアニメっぽいってところにさらなる進歩と可能性を感じる。これで2Dの極地ともいえそうな「けいおん!」とか作ったらどうなるのかなあ。

 あと、平城遷都2000年って今から700年も未来に奈良の描写とかが、もうキッチュで最高。とてつもなく観光地ナイズされていて、いったい奈良どーなってしまったんだって驚きまみれにされる。700年前の1310年の奈良から今の奈良との代わり具合が、そのまま700年後に当てはめられなていないところが不思議というか面白いというか。感じとしては、昔連れて行かれた天理市の夏祭りシーズンの町並みとかに似ているような。アーケード街があって土産物屋が並んで仏像だの何だのがでたらめに売られているような雰囲気。何をモデルにしてああいった奈良を描いたのか、監督の人に聞けるんだったら聞いてみたいものである。

 ストーリーから言うならとにかく不思議な物語。そして爽やかな物語。寿美菜子さんの歌まで聞こえてお買得。それが11月末だかに劇場で公開されるっていうのもまた不思議な宣伝方法。見たら買うか? っていうと謎だけど、見ないで買うかを迷われるより見てこれならと買ってくれる方を選んだんだろうなあ。そういうOVAって最近多い。バンダイビジュアルでも「機動戦士ガンダムUC」でやってるし。それを今回は3本でやってしまおうって寸法。劇場公開ではあと「マジンカイザーSLK」とそれから「.hack//Quantum」のそれぞれ第1話も上映になる予定。「マジンカイザーSLK」はとにかく熱い。でもってヒミコってキャラが妙。1話ではあんまり登場してないんで2話行こうに期待だ。「.hack//」は監督が「東京マグニチュード8.0」の橘正紀さんで制作も同じネオンテトラス、じゃなかったキネマシトラス。丁寧に作られていてスペクタクルもあって未来にもつながって。「ソードアートオンライン」の第2部的な感じもあるけどどんな物語をどんな結末を見せてくれるのか。見に劇場に通ってしまいそう。

 それを言っちゃあおしまいあんだけれども実際問題、そうあって欲しいと願う横浜ベイスターズの経営権譲渡に関する神奈川県知事の意見。宣伝費より安いと言ったとか言わないとかいった話も聞こえる買収側企業のマインドに、プロ野球ってのは宣伝だけじゃねえんだゴルァと反論したもので、だったら神奈川県が買えば良いとか今まで何かしてくれのかワリャといった反発がどんどん。それもそれで仕方がないこととはいえ、あの喧噪の2004年にプロ野球が企業の思惑とそして既存勢力のギルド的意識のなかで翻弄され、つぶされかかった時に世間は野球チームってのはもはや公共財でもあるんだ、だから企業の論理でつぶしちゃいけないし、そうした論理を振りかざす企業にまかせてちゃいけないんだって意見で一致を見た。なのに数年が経つとこのていたらく。金を出す企業がそれを宣伝に使うのは当たり前だろうって空気が、またぞろ蔓延り始めてる。

 金を出す以上は宣伝したい。その気持ちはわかる。ましてやこの不景気に宣伝効果なくして金は出せないし、出したら今度は株主が怒り始める。必用なのはだからそういった部分の意識を替えるってことで、企業はいっぱいお金を出してくれるけれどもそれを無理矢理な宣伝には使おうとはしていないってことを、市民も汲んで企業のそうしたスタンスを讃え感謝し、親近感を抱き遠回りかもしれないけれどもその企業に恩返しをすることが求められる。企業も名前を出して効果を得ることよりも、公共財としての野球チームを持っていることを誇りに思い、地元の人たちの喜びを尊び、プラスアルファとして親近感がもたらす収益なり、あるいは公共財を所有していることに対する税制面の優遇なりを享受できるようになる。そんな感じにまとまれば気分は良好、八方丸く収まる。そうなっていけばって希望が生まれ、そうなっていきかけたあの2004年9月の喧噪が、わずか数年でまるで忘れ去られてしまっているこの状況が何とも淋しい。

 本当だったら、球団の名前に企業名を入れることだって疎ましいことで、それをむしろかっこうわるいんだって思うような意識が醸成されてくれば、なお結構なんだけれどもどこかの球団の元盟主が、未だに頑固に企業宣伝としてのプロ野球にこだわり、それでなくては立ちゆかなくなると喧伝して、企業名の排除を決して認めようとしていないところにネックがある。それもまた正論で、企業の豊富な資金があるから選手が集まり最高の競技が見せてもらえて、見に来る人も増えるといったロジックは成り立つ。成り立つけれどもそれがどんどんと行き過ぎてしまった結果があの事件、そして今の地上波ではまったく野球が放送されなくなってしまったという状況。企業が全国にストレートに存在をアピールする看板として、プロ野球の球団は重みがなくなってしまった。

 だからこその転換で、企業は球団を持つけど敢えてアピールをしない、けれども地域の人たちはそんな企業に感謝をささげ、企業はそんな感謝を名誉と感じ、そんな中から企業価値も向上してそれが株主も納得させるような構図ってものを、作り上げていければ良いんだけれどそれが出来たらとっくになっているよなあ。Jリーグみたいに初っぱなからそれで行くって決めてそれ以外は認めないって空気を作り、その中でクラブが苦労もしながら地元にとけ込む努力をし、地元もそうした努力を認めて親愛の情を抱くようなスパイラルが出来ていたなら話は簡単なんだけど、って言いつつ我らがジェフユナイテッド市原・千葉はそうした努力をちょい怠ってしまって今に至っていたりするんだけど。ジェフって名前がそもそもね。

 まあそれはそれとして横浜ベイスターズ問題は、改めて企業がプロ野球の球団を持つことの意味を問い直し、プロ野球の球団とは何なのかってことを考え直す機会になりそう。ここでまた80過ぎた元盟主の爺さんが、何の権限もないのにしゃしゃり出て、口を出してギルド意識をむき出しにしてすべてを取り仕切るようなことになれば、道はいっきに元いた場所へと向かい企業の論理だけが横行し、市民の思いは見捨てられ、景気の波に左右されて売られ売られて三千里ってな状況が生まれる中で潰れる球団も現れて、あれだけ必至に阻止した1リーグ制への道がいっきに開けてくる。それは野球ってスポーツの裾野を狭め頂上を低くして世界の潮流からも置いて行かれる状況を生む、と。だからこの横浜ベイスターズ問題は、単なる球団譲渡ではなく、2004年の再来を招きかねない事態として、プロ野球を愛する人のみならずスポーツを愛する人たちはみな、他人事としではなく自分たちのこととして、しっかり考えた方が良さそうだ。

 その意味でいうとナイキはそういうのに慣れてるアメリカの会社だけあって巧みに対応したっていうか。例の渋谷の宮下公園を再整備するってことで渋谷区だかがネーミングライツを募ってナイキを引き寄せお金を出してもらう代わりにスケボーだとかクライミングだとかの施設も作るっていった改装案。つか何で公共の場所にそうしたいかにもナイキっぽい施設を作って、そいういうのとは無関係な人たちにとっては意味のない場所にしてしまうんだろうって疑問もあるけど、こういうのを作りたいって要求したのがお金を出したナイキなのか、それともお金を出してもらう渋谷区がそれならと下手に出すぎたのか、ちょっと状況が分からないだけに判然としない。金を出すから作らせろ、ってんなら状況は横浜ベイスターズの新オーナー予定会社と根は同じ。ただそこから方針を転換して、作りはするしお金も出すけど名前は出さないよって言い出したところが、機を見てしっかり判断を下せる人たちがいるってことなんだろう。頑なじゃないっていうか。

 宮下公園の問題は別にあって、ここに居住していた人たちをどうするかってところで整備するから出ていって、って言いたい気持ちが渋谷区側にあって、けれども行く場所なんてないじゃんって言い分が寝泊まりしている側にあって堂々巡り。結果1年も着工が遅くなってしまった。こうした寝泊まりする人たちをどうするかっていうのは公園の整備とは別に福祉なり社会保障の面から対応する必用があって、それには区だけじゃなくって都も国も国民全体が将来そうなるのは自分かもって想像力を働かせながら、解決の道を探っていく必用があったりする。単に1公園だけの問題じゃないんだけれどそれが自由の砦めいて語られ、対極に企業のネーミングライツって主題が現れたりするから話がもつれてしまった。その一極が“降りた”格好となった今、今度は残された渋谷区という極と支援者という極が答えを出す必用がありそう。けどここまで事態を引っ張った渋谷区側にこれを反省の材料とする意識があるか。単に好都合と思っているだけだったりする可能性はないのか。そうなると今度はナイキが怒り降りるなんて言い出すかも。これもやっぱり考えるしかないんだろう。

 奇跡のような映画が奇跡のような舞台になっただけでも奇跡なのに、それが再演されあまつさえ追加公演までされて本当に「キサラギ」は奇跡が幾重にも積み重なって幸せな作品へと昇華した。もちろん奇跡はただ待っていては起きるものではなくって練られたシナリオがあってそれを映画にしたプロデューサーの粘りがあって、そこから舞台化ってオファーに至って舞台になって大勢のファンを呼んだってことはあるけれど、そんな実力の上にやっぱりキャスティングなり口コミなりの評判が乗って千秋楽まで満員という僥倖が作品の上に訪れたんだろう。というわけでメルパルクTOKYOで迎えた「キサラギ」千秋楽はシアタークリエよりも広い会場を埋めた人たちの前で演技者たちもノリノリ。アドリブがはりそれを受け帰すアドリブがあってと見ていて笑いの渦。そんな狭間からの思いがあって答えようとする思いが重なって、悲しくも優しい気分にさせてくれる。良い話だったなあ。

 ラストのダンスはみんなで一斉に踊り出すかと思ったけれどそれはなし。ちょっと残念。ダンスフリーな劇を今一度、やってくれると嬉しいかも。あるいは劇場版のリバイバルでラストのダンスはオッケーってイベントを。ともあれこれでもうしばらく見られないというのは悲しいんでプロデューサーの人たちには、来年も是非に同じかあるいは違うメンバーでの再演を、願い奉り存じ上げ。それが叶うまでは手元にある映画を見たり、もうすぐ発売になるという舞台版のDVDを見て心の透き間を埋めよう。いっそ「キサラギ」をメインにひっかけ「パーフェクトブルー」と「罪とか罰とか」を並べたD級アイドル映画祭なんてものを勝手に家でやって盛り上がるか。「キサラギ」のエンディングとそして「パーフェクトブルー」のオープニングではいっしょになって踊るんだ、家で、1人で。


【10月14日】 昨日は有明教は幕張の湾岸流浪。横浜がないのは有り難いけどそれでもやっぱり寄る年波、朝からでっかい荷物を抱えてえっちらおっちら出歩くのは、なかなか体に応えてくる。それでも出かけた模型ショー、まずは恒例の350分の1スケール戦艦シリーズをハセガワまで見に行ったら、今年は長門赤城といった日本物ではなくって米海軍のガンビアベイって空母がラインアップされていた。何でもレイテ沖回戦で日本の連合艦隊と戦ったって代物らしいけれども、エンタープライズにニミッツあたしりか知らない非軍オタには何がどう凄いのかが分からない。

 それでもそのサイズその精密さにはやっぱり感動。そして生頼範義さんの箱絵にも。そこんところのヌかりのなさはさすが伝統の模型屋さんだけのことはある。前のに比べて認知度が下がる分、売れ行きもアレだったりするとあるいは幻のキットとして長い年月を経たあたりで一儲けの材料になったりするのかな、それはないかやっぱり。同じハセガワではこれも恒例のマクロス関連のキットがいくつか。サイズも立派なバルキリーのスカル小隊仕様ってのがあって、多分変形こそいないんだろうけど飛行機としての格好良さに目を引かれた。フォッカー機にもできるし光やマックスの機体にも出来るデカール付き? だったっけ、あんまり見てないけどともかくドクロマークはちゃんとあった。作りたいなあ。暇もテクニックもないけれど。

 暇はともかくテクニックって意味では、接着なりパテ埋めの作業がいらないバンダイのプラモデルなんかは有り難いけど、でもこのサイズにこのパーツ量ともなるとさすがにテクニックだって必用かもしれないリアルグレードシリーズ。第1弾のガンダムに続いて赤いザクが発売になるとかで展示してあって小さいんだけれどのそベースになるフレームを見るだけでパーツがびっしり。ちょっと僕には作れそうもありません。同じ赤いザクならメガサイズって奴も出ていてこっちならパーツも少なくそれでいて量感たっぷりの赤いザクが作れそう。ちょっと興味。問題は作った後に飾る場所も箱を置いておく場所も我が家には存在しないってことだ。

 バンダイではあと700分の1サイズの東京スカイツリーってのが発表になっていたけど、パネルだけで実物はなし。700分の1ったって元が634メートルもあるんだから相当な高さになるはずで、それをいったいどうやって組み立てるのか、鉄骨を組んでいくのかまとめて張り付けるだけなのか。ちょっと興味。同じくバンダイでは「ONE PIECE」シリーズでアクションフィギュア風プラモデルのルフィが登場。去年にドラゴンボールの悟空を作った技術で、今度はルフィとあと仮面ライダー。作って楽しく飾って楽しいシリーズになりそう。「ONE PIECE」では船のゴーイングメリー号もプラモデルになっていた。これも接着剤いらずなのかな。色に関してはさすがい素組では薄っぺらなんで買ってぬって汚しとかいれて雰囲気出したい。最後はそして海に沈める、ってそれは悲しいからやらないで。サウザンドサニー号は出ないのかな。

 スカイツリーでふと思ったけれども、あのチリでの救出カプセルフェニックス号って、地下の700メートルくらいん所から引っ張り上げられている訳で、これってつまりはスカイツリーの真下から、てっぺんへと引っ張り上げられるくらいの高低差があったりするってことで、だからもそもワイヤーがぶちっといった日には、まんまって感じではないにしろあのスカイツリーのてっぺんから突き落とされるくらいの衝撃ってやつを味わうことになるって、そう考えるとあのカプセルに乗るのもちょっと怖くなる。エレベーターだったらロックがかかって滑らないようになるんだろうけど、そこまでの複雑な機器でもなさそうだったし。見えないってことは良いことだ。ともあれあれだけ全世界的に有名になったカプセルを、きっと日本に持ってきて見せようって興行師がいたりするはず。むしろそれをやらなきゃ興行師じゃないってことで、来年あたりにはきっと日本でお目にかかれるって期待しちゃおう。スカイツリーにぶら下げ引き上げ下ろすってイベントなんかもあったりしたら……やりません。

 ふと気が付くと経済産業省系の「第25回デジタルコンテンツグランプリ」が発表になっていた。経済産業大臣賞は当然のように「iPad」だったけれども、同じくらいの格を持ったDCAJ会長賞が「ホッタラケの島」ってところに妙な引っかかり。だってこれって、去年の8月に公開された映画じゃん、確かデジタルコンテンツグランプリって9月から翌年8月いっぱいまでの作品を対象にしていたはずじゃんって思って調べたら、今年は何とがノミネート期間が2009年8月18日から2010年8月2日になっていた。すっげえ半端。でもって「ホッタラケの島」は2009年8月22日公開だから、見事に範囲内に収まっていたってことになる。

 ちなみに「ホッタラケの島」と2009年の夏アニメを競い合った「サマーウォーズ」は2009年8月1日の公開で、これは第24回のデジタルコンテンツグランプリで経済産業大臣賞を受賞している。同じ年ならまだしも同じシーズンを競い合った同じ月に公開の映画が、年を連ねてそれぞれ受賞。何か不思議な光景。そしてさらに言うなら今年の8月21日という、「ホッタラケの島」から公開1年未満に公開された「カラフル」は、第25回のエントリー期間に収まっていないというこの僥倖。「ホッタラケの島」と「カラフル」が競っていたら果たして? なんて考えてしまうけれどもこればっかりはお上が決めたことだから、「カラフル」には来年に頑張ってくださいとしか良いようがない。でも的は実写版「宇宙戦艦ヤマト」。かなわねえ。

 さても「ホッタラケの島」と「マクロスF イツワリの歌姫」と「東のエデン」と「いばらの王」と「イブの時間」と「宇宙ショーへようこそ」を比べた時に、いったいどれがDCAJ会長賞にふさわしいのかってこともあるけど、偉い偉いコンテンツ界の人たちは「ホッタラケの島」を選んだってことだから、それもそういうことなんだろう。だから僕は僕の感性を信じて考えるしかない。絵的にはともかくビジネスモデル的な面では、グッドスマイルカンパニーが仕掛けた「ブラック★ロックシューター」だって面白かったんだけどなあ。まるでかすってないや。まあそれでも「ラブプラス」と「ラブプラス+」が優秀賞に名を連ねているのは心よりの歓喜感激。その不思議さを審査員も認めたってことで、その部分では信じてもいいのかなて気にもなる。あの「初音ミク」だって、2007年8月31日に発売となった関係で、その年から2007年9月1日以降1年間となったノミネート期間から外れてかすりもしなかったデジタルコンテンツグランプリに、名を連ねられたという素晴らしさ。この勢いで「メディア芸術祭」も獲得だあ。


【10月13日】 第二科学部なんてものを作ってそこで何やら研究していて普段はあんまり表に出てこない少女が、なぜか陸上部をやめる決断をたばかりの少年のところにやってきて入部を勧誘するという、そんな始まりから見える唐突系ボーイ・ミーツ・ガールの行く末は、過去に何やら因縁があってそれが勧誘につながっているって展開があって、二人の間に波風もたってそれが収束してめでたしめでたし、ってなるって予想が立つ。

 立つけれども実際問題優木カズヒロさんお「ハロー、ジーニアス」(電撃文庫)はそんな話ではあるものの、状況として設定されているひとつは少子化が進んで減ってしまった学生は学園都市に集められて学業を義務づけられている上に、そうした学業なり運動なりの対価として報酬が与えられてそれで食べているといった、シリアスさも混じったSFっぽさも漂う近未来像が示されていて面白い。

 それからそんな世界に誕生するジーニアス、すなわち天才がい単なるお勉強の天才なんて範囲を超えてとんでもないものを作り出してしまうことがあって、それが時には暴走してとてつもないことをしでかしてしまったりもするといった設定が示され、その上でヒロインとなっている少女もまたジーニアスでありながら、その主たる能力がどこに向けて発揮されているのか今ひとつ分からない謎を置いて、すべてが片づいた後の物語のその先への期待を引っ張る。あるいは原型ではそこにも触れられていたのかもしれないけれど、その場合は先の展開を考え次に回そうとしたのかも、ってことは第2巻も読めるのかな。

 陸上選手の2人が友人でありながらもライバルとしてぶつかり合うような青春描写もあり、ヒロインが組み立てるなぞめいたメカの描写もありと多層的な興味の置き所があるのも面白いところか。どうにか鞘に収まったかに見える物語、きっとこの先に爆発を遂げて発展し、ジーニアスの優秀性と危険性の裏腹さも見せつつそんな中を生きる男女の羨ましくもむつまじい姿を、拝ませてくれることだろう。期待して待とう。

 朝も早くから起き出して今日は今日とて東京ビッグサイトへと出向いて東京コンテンツマーケットだかライセンシングアジアだかが合体したキャラクターライセンスのイベントを見物。去年はまだこれからのキャラクターが出展されて落ち着き先を探す東京コンテンツマーケットの側にいたスタジオフェイクのセバタンが、今年は一般企業が並ぶ旧ライセンシングアジア側にいたりする様にこの1年のセバタンの出世魚、っていうかしゅっセバタンぶりに感心する。去年にもいっぱい出ていたキャラでここまで延びたのってそはないみたいだし。

 エコなキャラっていった元のアイデアが良いのと、あとはセバタン自体の造形が愉快なところが認められての進撃で、今日もブースにはひっきりなしに来場者が訪れて、日本人だけじゃなくって外国人もやって来てはセバタンを眺めてあれやこれや聞いたりしていた。ほかにもいっぱいコンテンツはあっても、ここまで賑わっていたのはあとは阪神タイガースのブースくらいか、ラムちゃん人形とかがいた。こういう事例があると頑張れば未来はあるんだって思えるから、クリエーターも頑張る力も沸いてくるんだろう。あらに奮起させる意味でもセバタンにはまだまだ行って欲しいなあ。次は全日本プロレスとノアも巻き込んで、って蝶野正洋選手が声のキャラってイメージがデフォルトか?

 一方で東京コンテンツマーケット側にもいろいろと眼あたらしくって将来有望なキャラが続々。例えば「我武者羅應援團」ってのがあってこれはその名前のとおりに応援団なっだけれども別に大学とか関係なしにいわゆる応援団スタイルと応援団スピリッツをもった大人たちが集まって、何でもかんでも新幹線でも羊でも、フランス人でも構わず応援したいと思えば、あるいは応援して欲しいと思われれば応援するという活動を行っている。それ事態は昔懐かしい大川興行的パフォーマンスの領域なんだろうけど、ここん家はそうした活動全般を含めてコンテンツを考え、キャラ化するなりアニメ化するなりして広めていきたいって考えている模様。御歳32歳でかつて高校時に応援団に入りながらも一年生一人に上級生多数の状況を逃げたと話した団長が、一念発起して立ち上げ仲間を募り始めたこの活動。応援したいなあ。

 あと高知県から参加していた三組のコンテンツクリエーターがそれぞれに特徴的過ぎて高知すげえかもと思ったり。おもちのキャラを並べたファンシーさがあるコンテンツがあり、それから各県を萌えキャラにして並べ戦国大戦的なものを構築しようとしている21歳の二人組があり、さらに薄く柳のようにはげたおっさんたちを絵に描き言葉をつけて並べていった作品をコンテンツとして提供している36歳くらいのグラフィックデザイナーがいたりと三者三様。そんな触れ幅を輩出している方も方だし、選んで東京へと送り込んだ側も側。産業に抱負とはいえず鰹と竜馬くらいしか思い浮かべてもらえない高知を、実は屈指のコンテンツ生産地だと認めてもらおうっていう深慮遠謀があるのかも。

 とはいえ柳はなあ、既にして柳から満月化へと進み始めた僕には見ていて胸がキュンキュンさせられたなあ。まあそういうひがみを越えて、応援してもらっているような気にもさせられるところがそのコンテンツの面白いところでもあったんだけれど。「タイツくん」みたいな展開のさせ方ってのがありそうだなあ。そんな隣ではDoGAがCGアニメコンテストの成果を並べ、そこに入選していた「フルーツ侍」をひっさげ福岡からやってきていた会社のブースなんかも立っていて、一年デジハリで学んで本格的なコンテンツ製作を始めた人にしてはの完成度って奴を見せてくれた。才能ってやっぱりあるところにはあるんだなあ。あとはそれを引き出すきっかけと、引き出させる環境を自らに与える勇気か。僕にはないなあ。

 サンダーバードがいたらとっくにって思わないこともなかったけれども、残念ながらこの世界にはサンダーバードはおらず、あとは自前で地道にやるしかなかったチリの落盤事故における生存者の救出活動。掘って掘り抜いて救い出すならいったいどれくらいかかったか分からず、さらなる落盤のキケンすらあったところを縦穴を掘ってパイプを通して中にカプセルを下ろしてそこに人を入れて引っ張り上げるというアイディアの勝利めいた発想が導入され、実施に向けて着手されてそして1ヶ月ほどで完成の域にまで達してしまった。傍目には最先端から遠そうに見えるチリであっても現代の地球にある国だから、最善で最先端がちゃんと作られ利用されている。そんな当たり前のことにも改めて気づかされた次第。頑張った被災者と成し遂げた救助者に拍手。


【10月12日】 知らんどる間に(名古屋弁で知らないうちにの意)角川書店が山本周五郎…じゃなかった山田風太郎賞ってのを作ってたみたいでその第1回目のノミネート作品が挙がって来ていて見たら綾辻行人さんって超も超がつくベテランの人が挙がってた。島田荘司さんって人が突っ走って突き破った地平を称して新本格って言い始めた所に現れた貴公子ってポジションの人なんだけれど、そこから23年ってだいたい四半世紀近くが経っているにも関わらず、こうして賞に名前が挙げられるってところが妙な感じというか、なおかつ新本格のムーブメントが一段落したところにちょっぴり伝奇っぽさも加味した形で現れた京極夏彦さんが、選考委員に名を連ねているというこの逆転現象。やりにくいってことはないんだろうけど傍目にはどうにも不思議に見える。

 っていうか綾辻行人さんは新本格でミステリーな人であって山田風太郎賞ってタイトルに果たしてそぐうのかって印象も。風太郎作品にだって探偵小説怪奇小説の類はあったんだろうけど、印象としてはやっぱり伝奇で忍法帳な人な訳でそうした娯楽性活劇性の高いエンターテインメント作品を選ぶってんならまだしも、ミステリーでホラーにも足を踏み入れた綾辻さんお「Another」だったり貴志祐介さんの「悪の教典」あったり有川浩さんの「キケン」だったり森見登美彦さんの「ペンギン・ハイウェイ」だったりとジャンル的にも内容的にも山風って感じがあんまりしなさそうなのが並んでる。そぐうのはだから川中島決戦って歴史が題材になってる海道龍一朗さんの「天佑、我にあり」くらいなんだけど、これだって忍法が炸裂するような話でもないし。

 だからまあ名のある文豪作家の中から未だ賞に名を冠されていない人をピックアップし、それを被せることによって賞をひとつ作り上げて看板にしつつ本を売っていこう小説の世界を盛り上げようって意識が働いての創設だったのかもしれないなあ。山田風太郎賞受賞作品、って言われたらちょっとは読んでみたいって思う人も増えるだろうし。まあそれもそれで賞のキャッチコピー化だったりしてあんまり気乗りはしない。せっかく生まれた賞なんだし、山田風太郎って看板を共にもり立てていくくらいの気概でノミネート作品を選び、受賞作品を選んで欲しいもの。とはいえ既に1回目のノミネートは決まってしまっている訳だし……。だったらいっそ森見さんに受賞させて前に取った山本周五郎賞とともに山山ダブル受賞の作家として、売り出しつつ賞の認知もさせていくって手段をとってくれたら愉快だなあ。

 さらに言うならそこに柴田錬三郎賞と司馬遼太郎賞と大江健三郎賞と谷崎潤一郎賞って既存の文学賞も森見さんにそうなめしてもらって、6人の郎が付く作家の賞を振るコンプリートしたって意味で六郎賞受賞者ってタイトルを贈って讃えてみるってのも愉快そう。でもって2年後くらいに高橋源一郎賞ってのも付くってそれも森見さんが獲得して七郎賞ホルダーになるという。ってかそのうち本当に出来てしまいそうな気がするぞ、高橋源一郎賞とか。茂木健一郎賞はちょっと無理か。土橋真二郎賞ってのは……って文壇は誰もまだ知らないか土橋真二郎さんのことを。それいしても多いな文学賞。柴田錬三郎賞なんて誰が取っててどんな良いことがあるのかまるで想像ができないや。

 「君のための物語」ってどんな話だったっけ、って思いだそうとしてあんまり思い出せない程度の印象ではあったけれども、それでも名前だけは記憶にあった水鏡希人さんの「ハーレムはイヤッ!!」(電撃文庫)って本が出てたんで読んだらこれが面白いのなんのって。高校に入って半月の上月慧って少年が主人公なんだけれども、なぜか学校の同級生上級生問わずハーレム王と呼ばれてるようになっている。1年上にいる生徒会長の美女から妙に慕われていたりすることがあり、また同学年でモデルをやっている美少女にもまとわりつかれているところを、周囲がみていったいどういう関係なんだゴルァと怒り心頭になっているんだけれど、そんなモテ環境を実は慧はあまり嬉しくは受け止めていない。なぜなら彼には詩織という本命がいたからだった。

 もっとも当の詩織は男女関係どころか人間関係にもカチカチの性格で、同姓にもあまり友だちがおらずひとり図書館とかに通ったり、中庭で文章を書いていたりするような日々。慧が声を掛けようとしても、周囲からハーレム王扱いされる慧を良くは思っていないのか振り向きもせず、慧を暗澹とした気分にさせる。そうこうしているうちに生徒会長の美女もモデル美少女も、慧へのまとわり具合を強めつつ、互いの存在を関知してを牽制し合うようになる。間に入った慧は大変。その上に同級生も上級生も男共は慧憎しの情念を燃やし、下駄箱に蛙やらわら人形やらを放り込んで呪おうとしたり、サッカーボールをぶつけて倒そうと画策する。暗いねえ。でもやっぱりそう思うかも。美女に美少女から1人慕われているんだから。

 そこから物語は、巻き込まれ系っぽい慧が外野から両手を引っ張られるハーレム状態の中で純愛を貫こうとしてあがくラブコメディになっていくのかと思いきや、そうはならないところが新しさであり面白さ。生徒会長美女と慧、そして慧とモデル美少女との関係に意外というか興味深い工夫をこらして状況をコミカルではなくリアルでシリアスな物として成り立たせ、けれども人間関係に配慮して公言できない慧だけが、ひとり嫉妬羨望の害を被り続けるというあり得なさそうだけれどあったら愉快な状況を作り上げてみせる。ここが巧い。どうして互いに紹介しないの? って疑問も立つけどそこはそれぞれに事情もあっておおっぴらには言いづらいもの。ハブになってる慧の母親だって己の過去なり身内の恥をさらしたくはないだろう。

 そんななかで1人四面楚歌の状況に陥った感じの慧の、羨ましがられそうで実はとっても大変な状況を見せつつ読者を楽しませつつ、そこから少しづつ真相を1つまた1つと明かし、その上ですれ違いと誤解の満載なコメディも入れつつ純愛も描いて感動へと持っていこうとしている。巧みなのはそんなテクニカルな話でも、なおも秘密を残していたりするところ。決して仕掛けと種明かしだけで引っ張るんじゃなく、土台となっている状況は堅持した上で楽しめるドラマに仕立て上げているところい才能を感じる。この面白さはあるいはドラマ化しても良いものができるかも。脚本づくりは大変だけれどそこに工夫をこらして10話くらいのドラマを付くって見せて欲しいもの。テレビ局のプロデューサーは早速読んでは企画書書いて版元に送って許可を取ってそのまま映像化に走れ。

 ペットショップが倒産云々って似た話がツイッターに挙がるたんびにリツイートがされて拡散されてそれがニセだと分かって悔いてもやっぱり挙がってくるとまたリツイートという悪循環。いつか本当かもしれないという善意が働いてのことなんだけれど、実際に電話番号とかはいったツイートだったりしてそれがニセだったりすると業務に被害が出てその結果として片棒を担いだってことにもなりかねないだけに、やっぱり慎重さが必用だし、またいざという時に役立つツールとしての信頼性を残すために、何かあっても反射の前にワンクッションおいてそれがリアルかフェイクかを、考えるのが良いんだろう。でもやっぱり判断が難しい。明らかに嘘だって分かるツイートだったらまだしも。

 例えばこんな感じ。「千葉県●●市にある動物園が倒産し、アフリカ象とキリンとライオンとテナガザルとカバとサイと豚80頭とニワトリ200羽ペリカン2つがいに立たないレッサーパンダ2匹が殺処分になってしまいそうです。もし引き取ってくださる方が居ましたら連絡お願いします」。どう考えたってあり得ない話だから誰もリツイートはしないだろう。仮に本当でも行政レベルじゃないと太刀打ちできない問題だからわざわざリツイートしようとは思わない。ってか象なんてどうやって引き取るんだ。ライオンだって子ライオンじゃなくちゃ飼えないよ(子ライオンだって飼えないけど)。レッサーパンダはちょっと欲しい。でも立たないんじゃね。

 あるいは「アメリカのアリゾナ州にあるエドワーズ空軍基地が倒産し、保護されていたグレイ30匹と金星人ひとつがい、レプタリアン8頭が殺処分になってしまいそうです。もし引き取ってくださる方が居ましたらホワイトハウスまで連絡お願いします」とか。いやいやアメリカだったらあるかもな、って思えなくもないけどでもやっぱりさすがにねえ、グレイ飼おうって家もないだろうしねえ。「東京・六本木にきているレッドマンショウが倒産し、レッドマン3人ほどが殺処分いなってしまいそうです。もし引き取ってくださる方が居ましたら3人まとめてお引き取りお願いします」。長く興行を続けていると途中で勧進元がいかれるってこともあるからなあ。「北海道網走市にある網走刑務所が倒産して収監されている囚人が200人ほど殺しょ(以下自粛)」。怖すぎます。


【10月11日】 船橋にあってすぽぽんの殿堂と関東に鳴り響いていた若松劇場が、知らないうちに営業停止になっていた。しばらく前にも通りがかったら、いつもは開いている入り口が閉まって休館になっていて、妙だなと思ったらどうやら5月の摘発の影響で営業停止を食らった模様。船橋に住んで20年、いつか覗いてみたい場所の1つではあったのだけれど、これでしばらくは叶わない、というか営業停止からそのまま廃館となる可能性も高そうなので、これで永久に2Dでもなければ抱き枕でもなく3Dの立体視でもない、本物リアルなすぽぽんを見る機会はなくなってしまいそうで甚だ専ら念も無し。

 もっと昔は京成船橋に近い場所にも1つあったし、西船橋にもあった小屋がこうして消えていく。芸能というにはアレではあるけどそれでも立派にひとつの芸能。とはいえ東京と違って遠くてなかなか来づらい上に、景気もこうではやっぱり立ちゆかず営業停止を食らうような芸に走ってしまったのか、それとも昔ながらのなあなあな中に成り立つ芸だったものが、組み変わってしまったシステムの中には居場所はなくってはじき出されてしまったのか。分からないけど最低でも来年の5月までは営業停止なんで仕方がないのですぽぽんは諦める。それくら自分でどうにかしろったって声もありそうだけれど、それが出来れば世話ないぜ。って威張るこっちゃない。

 近代的なビルの屋上に神社が建てられていたり、オフィスに神棚が祀られていたりするのは何故なのか。新しく建物を建てようとするときに神主や僧侶を呼んで地鎮祭を行うのはどうしてなのか。東京でも屈指のオフィス街である大手町に、今なお敷地を要して平将門を祀った神社が存在しているその訳は。伝統とも言うし信仰とも言うし、人によってはオカルトとも迷信とも言いかねない、科学的な厳密さとはかけ離れたそうした状況が今もなお継続しているのには、おそらく訳がある。

 その訳が具体的にどういったものなのかは、この際あまり意味を持たない。長い年月を経て積み重ねられてきた“なにか”がある。それだけで十分だろう。まったくなにもなければ、人は神社を置き神棚を祀り地鎮祭を執り行っては来なかった。なにかがあたからこそそうした状況が生まれた。それならば今さら逆らう必用などない。逆らってなにかが起こってしまったら一大事。従っていたから起こらなかったという経験を、大事にして引き継ぎ伝えていけば良い。それが賢さというものだ。

 とはいえ世間は広く、経験が通じない国があり人がいる。その結果起こってしまう“なにか”のために存在するのが、ゼネコンの富田林組の中にあるチーム。そこに採用された田中って青年が出会う“なにか”を描いた蒲原二郎「オカルトゼネコン富田林組」(産業編集センター)は、ギャグもたっぷりの文体で明るくそして軽く田中の苦闘を描いて笑わせつつ、古からの言い伝えをおろそかにしない大切さって奴をじんわりかにさせてくれる。これが結構な数読まれたのも、日本人の心に経験から根付く“なにか”への畏怖があって、けれどもそれが近代化の中でないがしろにされている状況への不安があったから、かもしれない。

 そんな好評を受けて登場した蒲原二郎の第2弾「オカルトゼネコン火の島」は、舞台を太平洋上に浮かぶ硫黄島ならぬ鬼王島へと移し、そこで暴れ始めた火の神様との苦闘を描こうとしたものだが、そうした対決の描写よりも、重点がおかれたのが鬼王島の悲しい歴史を背景とした出会いと別れの物語。太平洋戦争でもサイパン島、沖縄と並ぶ激戦の地、硫黄島をモデルにしているだけあって、鬼王島はかつて太平洋戦争で米軍との激戦が繰り広げられた歴史があって、そこで大勢の日本兵が戦死し、あるいは地下壕の中で焼かれて死んでいった。兵士だけでなく島にいた民間人もことごとくが死亡。その痛ましい歴史を経て、鬼王島は民間人がいない、日本の自A隊と米軍とが監理する軍事拠点になっている。

 だからこそ、火の神様の怒りで島が使えなくなることを懸念した日本政府が送り込んだ富田林組の田中たもつ。コンクリートに関する権威でありながらも、アンドーナツばかりを食べるおねえ言葉のアンドーさんからゴミクズ扱いされながらも、日々山に入って鎮護ドームの建設に勤しむ。その過程で、島で死んだ兵士の霊を感じ、のみならず目撃し、果ては交流を図るようになる。一方で、厳しい仕事をした帰り道、平らになった場所から海を眺める少女と知り合いになる。桜ちゃんという名の看護婦で、厳しい日々にも希望が開けたものの、肝心の火の神の怒りを鎮めることが難しく、一行は遂に撤退を余儀なくされ、そして最後の説得のために田中たもつだけが、「グスコーブドリの伝記」よろしく島に取り残される。

 もはや絶体絶命となったその時。水をあげ本を読ませご飯をお供えしてあげた兵士たちの霊が浮かんできて、田中たもつを窮地から救う。そして桜ちゃんまでも……。つまりはそういう物語で、生きたくて、ずっと生きていたくって、決して死にたくなんてなくて、それでも死んでいった若い人たちの無念が胸に響いてきて、目に涙をにじませる。過剰なまでに繰り出されるギャグの中に浮かぶヘビーなエピソード。深刻になればどこまでも深刻になっていくところを、お調子者で空気が読めない田中君の上滑り気味な言動が、重たさへの果てしないスパイラルを防ぎつつ、過去のシリアスで切ないエピソードをくっきりと浮かび上がらせ、するりと心に感じさせて泣かせる。

 意図的なのか、それとも天然の筆運びなのかは分からないが、結果として滲む過去への敬意、自然への畏怖は、未来が見えない中でせっぱ詰まって焦り始めた日本人が、効率化の中で忘れてしまいそうになっている重要なことを、このタイミングで思い出させてくれる。そんな目配りの良さと、そして深いテーマにさくっと切り込む強靱さで、これからもいろいろ書いていってくれそう。2作目にしてさらに進化。蒲原二郎こそら来年に大化する作家ナンバーワンかもしれないなあ。次もやっぱり続き物かな、それとも目先を変えた新しい作品かな。どっちにしても楽しみ。

 やっとみた「STAR DRIVER 輝きのタクト」はまたしても変身して戦って敵を削ってそして終幕。思い出すのはやっぱり「少女革命ウテナ」であれも新入学だかの女生徒ウテナが学園にあったシステムに反旗を翻すかのように変身してはメンバーの中でも下っ端をまず倒し、そして次の回でも別の誰かを倒して様式美のなかに形式を見せてそういう世界観なんだということを強引に見せつけ、引っ張り込んではそんな様式に浸らせつつ、ずらして驚かせ興味を続けさせてそして変革を混ぜ混乱を加えてラストまで突っ走りきった。あそこまでの様式性はないけれど、説明のないままなぞめいた組織の存在を見せ対立を見せることによって世界観を信じ込ませる手法は同様。そこからあとはマンネリ化しないでどう転がしどう変化をつけてそして究極的なメッセージを見せるのか。そもそもそんなメッセージは存在するのか。そんな辺りを興味深く見ていこう。


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