縮刷版2010年月上旬号


【10月10日】 そして始まった「とある魔術の禁書目録」のアニメーション版は猫が可愛かった。あと荒耶宗蓮が弱かった。どっちも本筋とは微妙にズレてる。まあセカンドシーズンのスタートを前に立ち位置を整理して主人公はイマジンブレーカーって魔術や超能力を無効化する能力を持っててそこに大食らいのインデックスって娘が居候していて頭に猫を張り付けている。いや頭とは限らないけど猫が張り付いている上に内部に10万なんとか冊の魔導書なんかをインプットされていてそれが理由に狙われていたりするらしい、と。

 でもって主人公には御坂美琴って電撃使いの娘が知り合いにいて「とある科学の超電磁砲」では主人公になっていたけどこっちでは脇にいながらインデックスより目立ってる。でもってスカートの下にはトランクスというかスパッツではあり得ない無粋なものを履いて白井黒子に嫌がられていたりするっていうのは「超電磁砲」でのお話か。ともあれそんな配置で始まったセカンドシーズンの冒頭に登場したのが魔術師・荒耶宗蓮と声を同じにした一種の雑魚。インデックスから本を引っ張り出そうとしても力が足りず内部を滅茶苦茶にされて血を吐きぶっ倒れる始末。殺しても殺しても生き返ってきた荒屋総連とはまるで違うところが情けない。

 けど彼がそんだけ苦労して理屈を乗っけて語った好きな女にかかった呪いをはらそうとする行為は、実は主人公のイマジンブレーカー1発で吹っ飛ぶという代物だったというオチ。微笑ましいといったらいえるけれどもこれから始まる苛烈なバトルではそんな能力もどれほども役に立たず苦労の連続の果てに主役の座すらアクセラレータに奪われていくという悲劇が待っているのであった。って第2期はどこまでアニメで描くんだろう。ファーストシーズンも録画はしたけどほとんど見てなかったけど見返しておくか。それとも消してしまったっけ。

 無理矢理に早起きして外を見ると小降りの雨に何とか保ってくれと願いつつ、電車を乗り継ぎ珍しく新橋からお台場に入って船の科学館駅へ。晴れていたなら新木場から臨海線で近くまで行って歩いたんだけれどそれをやるには天気が不安だったんで、時間はかかっても確実な方をセレクトしたもの。あと1回目と違って前回から現場がより船の科学館駅に近づいて、入り口もそっちになったってのが大きいかも。でもって到着した「痛Gフェスタinお台場」の会場は見渡す限りの痛車の列。前回にも増しての並び具合に最初はキワモノだった感じのある痛車がこの2年ですっかり車のカスタマイズの1ジャンルへと、ステップアップしているような印象が見えてきた。

 さすがに銀座原宿六本木のど真ん中を何台もの痛車が走ることはないけれど、そういう場所にたまに現れてもああそうなんだって反応を抱けるくらいの知名度を持つに至ったって印象。そしてそれが端から見ても自覚的にも、不格好とか無様とかいったニュアンスで受け止められるだろうといった想定から、自嘲気味に“痛い”と行っていた精神にも変化が出て、そうしたひねくれた思考実験をしなくても、普通にひとつのジャンルとして認識され、痛いという言葉に込められた意味深なニュアンスも薄れて来ているような気がしている。

 オタクという言葉がかつては自嘲と高邁の入り交じったニュアンスで自分の趣味思考を語るときに使われていたものが、今は普通にそれっぽさのみでそう語られるのと同様。この勢いなら来年はそれこそ一帯の駐車場を埋め尽くす数千台の痛車が見られるかもしれないなあ。有名人の参加とかあったらなお広がりそうなんだけれど。ガンプラを塗る有名人がいるように。

 ざっと見渡して目に付いたのが、去年も来ていたマツダのキャロルに今年目に入ったシトロエンの2CV。後者は聞くと1985年式だから滅茶苦古いって訳でもないようなんだけれど、それでも25年は経っていたりする訳だからやっぱり感覚的には相当か。前に載っていたスカイラインのケンメリが1975年式だったから、それをもしも2000年に載っていたら同じ感覚を与えただろう。なるほどやったり古いか。1985年くらいに出たスカイラインといったらいわゆる7thって奴だからそれが今走っているとなると……7th事態が歴史から抹殺されかかっているんで古いとか新しいといった感覚が沸かないや。難しいなあ。

 でもそんなシトロエンを自前で改造してバッテリーとか強化し良いオーディオを積んでいたりするからなかなかの好き者。旧車系ではスカイラインはスカイラインでも箱の2000GTのハードトップをダカーポ2仕様にしていた車もあったりして、ある意味ひとつのジャンルとして成立して来てそう。曲面が綺麗ないすゞ117クーペとかでやったら格好良いかもなあ、とか思ったけれどもそれをやるには車がないと、でもって置く場所がないと。なるほど痛車ってのはDVDを集めたりグッズを拾ったりするよりはるかにリッチな道楽だ。

 キャラでは「なのは」「はるひ」「らき☆すた」「けいおん!」「マクロスF」といったところはしっかりと主流。あとアニメ化の影響もあったからか「エンジェルビート」もいっぱい見受けられたような気がするけれどアニメ化でこちらが存在を知って痛車にもその存在を認めるようになっただけで前からちゃんとあった可能性もあるからはっきりしたことは不明。同人誌でジャンル分けの変遷がたどれるなら痛車もまだ3回目の今のうちにどんなキャラなりで出展があったかを押さえ分布をとらえておけば10年20年続くうちに立派にひとつの傾向を示す史料となりそう。問題はそれを誰があるかだけど。というか誰か既にやっているんだろうか。気になったキャラでは「ARIA」のシリーズが集まった一角があったことか、ちゃんとオールが並んでた、好きな人がいるんだなあ、今もあのアニメ、ブルーレイ化はまだかなあ。

 そうこうしているうちに雨は上がりかけて気温も上がって汗だくになって来たんで替えのTシャツでも拾おうとアルケミストのブースで売ってた1000円の「うみねこのなく頃に」のベアトリーチェ様Tシャツを1枚購入。アルケミストといえば東京ゲームショウにうみねこ痛車を持ち込み一緒に煉獄の七姉妹も連れ込んで話題になったけれども流石に痛車のイベントでは興味も薄いと見えて七姉妹のお出ましはかなわなかった模様。代わりといっては何だけれど羊頭の執事めいた人はいた。さらに言うなら水鉄砲でぶっかけあっこしている人たちもいなかった。ぶっかけあわなくたってパラつく雨で濡れてたんで良いのか。

 見栄えといった点ではグッドスマイルカンパニーのブースにレースクイーン様が3人ほど登場してポージング。出てくる前の下準備が念入りで待つ身もなかなか辛く、なるほどこれが女性にとって着替えと化粧の時間はゼロに等しくそれを男子は永劫と感じるという、彼女や妻とそれを待つ彼氏なり夫との間に生じる感覚的ギャップなのかと思ったり。僕としては過去においても現在も、そして未来においても経験しそうもない感覚だけにちょっぴり得したかも。そんなレースクイーンを撮影して会場を後に。天候はその後に回復して午後には晴れ間すら見えた訳でなるほどこれが痛車神の思し召しなのかと天に向かって頭を垂れる。護られているから来年もきっと快晴の中で3000台の痛車が連なる光景を見られることだろう。ってか入るのかそんなにいっぱいの痛車が。

 車に刺激されたって訳ではなくってやっぱり劇場でちゃんと見ておきたいと渋谷に出て「REDLINE」を観賞。やっぱり凄いなあ。1度見ているからストーリーも理解しているしビジュアルにだってファーストコンタクトから来るインパクトはない。既知の範囲でではあるんだけれどそんな覚めた目を覆って、繰り広げられる爆音レースの迫力やら、出会いと再会のドラマなんかが胸に響いて感心してしまう。1カ所でも良いシーンがあるとそれだけを身に映画館に通うことが割とあって、それがあった「千と千尋の神隠し」は6度は見て、なかった「崖の上のポニョ」も「ハウルの動く城」も1度しか見ていない人間だけれど「REDLINE」は最初のイエローラインのレースで、1着に飛び込んだソノシーが「Yes!」とかいって突っ込むシーンの表情も声も抜群に可愛くってまた見たいと思ってしまった。

 最近の経験になぞらえるなら、「スカイ・クロラ」なら草薙水素がボーリングをして腰をくいっと入れるシーンだけを見に4度通ったのと同様。「REDLINE」もだからソノシーのそんな表情と声と、あと繰り広げられるレース展開の楽しさと、どっかのお姫様の天真爛漫っぷりを見て目の奥に焼き付けに、劇場でやってる限りはまた見に行ってしまいそう。問題はどれくらいやっているかだなあ。木村拓哉が声をやっているっていうのに世間でそれほど評判になっている風はなく、劇場にいっぱいファンが駆けつけているって感じでもないんだよなあ。一般層こそ見て一切の先入観なく単純にスタイリッシュなアニメだと楽しめるはずなのに。うーん。ここからだ。


【10月9日】 見上げると曇天で今にも降り出しそうだったけれども、そこは現場を分で現場を見たまま書くくらいしか能のない五流のモノカキ。頭から知識をひねり出して行数を連ねることも出来なければ、華麗な人脈に頼って集めた情報を左から右へと受け流す芸も見せられない。美文でもって感動を誘うなんて持ってのほかの浅学非才ができることとなんてそうはない訳で、それでも食べていくには現場にお百度、これ絶対、雨だ何だと臆していては始まらないのでとっとと支度をして家を出る午前7時。早すぎたかな。

 早すぎたみたいで途中の東武動物公園あたりで40分ほど時間を調整してから乗り込んだ鷲宮駅は人影も見えない午前9時。普通だったらもっとそれっぽい人たちが降車してゾロゾロと歩いていくんだろうけど雨なでやっぱり臆したか、それとも中止と思ったか、単に時間が早かっただけか分からないけどそんなに居ない中を1人2人、それっぽさを覚える人の後を追いながら、トコトコと歩いて向かうは久喜市鷲宮支所庁舎前広場。例の鷲宮町商工会がまたしても何かしでかすってことで、こいつは見て置かなくちゃと謹んで参上した次第。

 とはいえこの雨この人数。もしかしたら勘違いして日取りを間違えていたか、それとも朝に中止の連絡が来て見落としていて、到着したら人っ子1人いない状態にポツネンとする事態も免れないかと心配したのも杞憂といえば杞憂。到着すると駐車場には30台ほどの痛車、すなわちイタい絵柄が書かれた車がずらりと並んで、それなりな人たちがそれっぽい雰囲気で見物している。まだ9時半なのに。流石は鷲宮、魂の聖地、そこに集う人たちは僕なんかよりも心が清く開催を信じて朝も早くからやって来ていたみたい。素晴らしいなあこのスピリッツ。

 とはいえ流石の雨で外でのイベントは軒並み中止。準備をしていた商工会の人たちも芝生の広場からテントを撤収して駐車場の方へと移し、物販はそっちで行うことにしたみたい。あとこれも貴重な美水かがみさんの描いたイラストがプリントされた封筒の配布も、庁舎の中で行うことになって始まるとそれなりな行列が出来て賑わっていたけれど、これが晴れていたなら即座にはけたところを雨なんでそこまでの人数がまだ来ておらず、派手さにはちょっと欠けてしまった。残念。でもそれでも来る人がいて対応する人がいるというこの状況が嬉しいじゃあ、ないですか。どっちも本気。だから続くのだ。

 大河ドラマのご意向をバックに地域興しのイベントとか立ち上げ、なんとか博とか開いて盛り上がる地域も少ないないけど、でもそれも番組が終わったとたんにしょぼくれてしまって、1年2年が経ってもやって来る人なんていない。地元にしてみれば、せっかくの盛り上がりを維持して、そのままつなぎ出来れば拡大していきたいところなんだけれど、核となるコンテンツはたとえ地域が舞台でも、余所様のものであってそうそう簡単には使えない。かといってそれ抜きでは全国区への訴求は弱く、かくして無念のシュリンクと行かざるを得ない状況を、幾度となく重ねて来ながら誰もどうにも出来なかった。

 それが鷲宮では、とっくに放送も終わっているアニメで盛り上がった人気が今なお堅持されている。彼我のこの違いを理解しなければ、いくらアニメで町おこしったって一過性で終わってしまうんだってことをやっぱり全国の人も知るしかないし、コンテンツを提供する側も理解しておいて欲しいもの。まあ鷲宮って比較的電車でも行きやすい場所にあるってことも大きな利点なんだけど。水戸だってまた行きたいけど結構面倒なんだよなあ、水戸ホーリーホックの試合でもないとちょっと……。今でもあの空気はちょっとは残っているのかなあ、残っていてくれると嬉しいなあ。

 せっかくだからとうな玉弁当を買って帰って鷲宮神社に詣でてから鷲宮駅でぱくつきそれから東武宇都宮線に乗って東武伊勢崎線へと入り春日部駅で乗り換え東武野田線をおおたかの森まで行ってそこからつくばエクスプレスで柏の葉。ららぽーと柏の葉でもってニッポン放送の吉田尚記アナウンサーが自著の「ツイッターってラジオだ」の宣伝拡販サイン会立ちとしていたんで見物しがてら、鷲宮で買ったというか鷲宮でしか買えない重たい重たいツンダレソースをおみやげとして押しつける。

 でもお土産が軽いのってやっぱり名古屋出身の人間にはちょっとなじまない。名古屋の人間は、重さが感じられるものしかお土産と認めないところがあって、だから守口漬なんかが重宝がられるのだ、ってのが清水義範さんかだれかの説。ちなみに守口漬ってのは、でっかくて丸くて平べったい樽に入った漬け物で、開くと中で細い大根がとぐろをまいて入っている。デパートの地下とかにいけば売ってるし、家にもきっとあったんだろうけど、どんな味だったかあんまり記憶にない。ってか食べてはいたんだろうけど、奈良漬けと区別できてなかったかも。ともあれどんな味なんだろうツンダレソース。家にも3月に買った1セットがまだあるけど開けてないのだ勿体なくて。

 これは何かの冗談なのか朝日新聞天声人語。例のNHK記者が捜索情報を相撲部屋に伝えていたとかって問題について「報道機関として、取材先との癒着は最たる禁じ手だろう」なんて書いて批判している。をいをい。取材先との癒着ってのは何も相撲部屋だけではないだろう? この場合だと警察だし、昨今話題の事件だったら検察なんかも取材先。でもってそことの密接な関係によって捜索前の情報なんかが漏れ伝わってきてそれを記事にしてご飯を食べてる。むしろそうした関係が強いほど優れた人材と言われて尊ばれる。

 政治記者だったら政治家との関係を強めてオープンになっていない情報を取る。でもってその時には政治家が聞きたい情報、すなわち他の政治家の話とか他の政党の話なんかを手みやげに持っていく。そうやって100年も新聞を作ってきた口から「取材先との癒着は最たる禁じ手」だなんて言葉が出るから笑える、っていうか笑えない、っていうかともかくも口あんぐりで声も出ない。

 違う、そういうのは癒着ではなく正当な取材であって、相手も正義のために口を開いてくれているのだから、相手の利益のために情報をやりとりするのとは違うんだって言い訳も、成り立たない訳ではない。っていうかジャーナリズムって地平に立っているなら、そういった言い訳も認めなくては、世の中が曲がった方向に行ってしまう。そして現在だってそういった地平に立脚して、正義のために口を開いてもらう人を探し正義のために記事にして、正義を貫こうとしているジャーナリストはちゃんといる。おそらくはかつてはそうしたスピリッツが大勢を締め、だからこそメディアも信頼されたんだろう。

 けれども、いつからか商業主義化が激しくなって、特オチ怖さの横並び主義が横行する中で正義が廃れ商売が台頭しては取材先との関係が逆転し、読者を喜ばせ正義を貫くためよりは、取材先を喜ばせ商売に有利に働かせようとするスピリッツへと代わっていってしまったんだろう。それが現在のメディアの弱体化を招いてしまっている、だからこそ戒めのために今こそ「報道機関として、取材先との癒着は最たる禁じ手だろう」という立場に戻り、商売のための癒着ではなく正義のための親密を回復させようって意識からこの天声人語が書かれたんなら認めるにやぶさかではない。

 でもなあ。この場合はそうではなくって、単に脊髄反射的なNHK批判でしかないんだろうなあ。そんなあたりにメディアの相対的な衰滅って奴が見て取れて頭がカユくなってくる。つかそんな一角にいたりする訳だし。まあ癒着しようにもそんな相手もいないし。だからいつまで経ってもエラくなれないんだけれど。なりたくもないけど。

 怖いのは教条主義的な「報道機関として、取材先との癒着は最たる禁じ手だろう」というスピリッツが、良い意味での癒着をも阻害してしまわないかってことで、捜査情報だって漏らしてもらわなければ記事化はできず、そこに潜んでいる問題点も指摘できないまま密室の中ですべてが決してしまう恐れがある。ためにするリーク情報も中にはあるけれど、そうしたものと正義のためのリークって奴を峻別し、正しさのために言葉を連ねそんな正しさを読者として、世間として認め称揚する空気なり共通認識なりを作る方向へと働かず、逆に権力の側に情報が集約されそこにアクセスする力さえそがれてしまっては、メディアに未来はないどころか世間に未来はない。

 だから、「天声人語」の無茶にその口が何を言うと突っ込むことも必用だけれど、さらに下がって見渡して、リークに左右されない体質をメディアが持ち、またリークが踊る扇情的なメディアに走らず、事実が書かれ正義が貫かれたメディアに理解を示す社会の空気って奴を、作る方向へと向かわせる言葉って奴を、世間に影響力を持った人たちには喋って欲しいなあ。でもそんな影響力を持った人ほど、扇情的だというこの矛盾。困ったなあ。


【10月8日】 待ちに待った「BLACK LAGOON」のレヴィが身につけているっぽいソードカトラス用のダブルホルスターが到着。革製でゼロから作っているんで持った感じはまだ固く、体になじんだ風もないけれどこれを普段から身につけて。両脇にソードカトラスをぶっこんで夏も昼も冬も夜も外さずに歩き回れば、柔らかさもでて体の線にもなじんで良い感じになって来そう。とはいえここはロアナプラではなく日本。流石に外をソードカトラス2挺差しで出歩く訳にもいかずたとえモデルガンであっても誰何されることは必定。上着を着て歩いていたらなおのこと怪しまれて疑われてしまうんでそれも出来ない。

 週末事にコスプレイベントに出向いて無理にでも取り付け1日をそれで過ごす繰り返しをすれば多少はなじむかもしれないけれどそれをやる勇気もなければ体型もない。こうなれば家に帰ったらまずホルスターを身につけソードカトラスをぶっこんで、飯を暗い日記を付けゲームを遊んで漫画を読み、アニメを見てから布団に潜って起きて顔を洗い着替えをして家を出るまでの何時間か、着けっぱなしにしておくくらいしか道はなさそうだなあ。ずっと新品ってのも悪い訳じゃあないけれど、でもせっかく職人さんが苦労して作った革のホルスター。体になじませてあげたいじゃないのさ。いっそ仕事をほっぽりだして1日を家でずっとそれ着けて暮らす日々を1年くらい続けるか。続けられるんならやりたいもんだよ最近ちょっぴり疲れ気味。

 それでもアニメは新番組が続々とたまっていくんで消化に勤しもうと見た「もっとTo LOVEる」の絵がなかなかに素晴らしかった。金色の闇ちゃんとやらのボディラインがそのデカからず板でもない絶妙さで目を射抜いたというのはそれとして、冒頭の朝食のシーンで梨斗だっけ、メインの男の子とヒロインのララと頭に花が咲いたセリーヌが食卓を囲んでご飯を食べているところにあれは妹か誰かが給仕をしているという場面で、必至になって魚か何かを食べて万歳をしたセリーヌの叫びにふっと梨斗とララが目を向け微笑みつつ食事と続けセリーヌもみそ汁へと取りかかる場面がちゃんと4者4様で描かれていて、いったいどうやって描いたんだろう1人1人描いて重ねたんだろうかなんて考えてしまった。人間だったら4人が演技すれば済む場面、それを描くのってやっぱりアニメって凄いなあ。

 でもって「それでも町は廻っている」。オープニングの坂本真綾さんが歌う「DOWN TOWN」を懐かしむ人もいるけれども山下達郎さんのライブに現役で通いiPodにはシュガーベイブのアルバムが突っ込んであってライブアルバム「JOY」も突っ込んである身には未だに現役も最先端の楽曲で、懐かしさってよりはむしろそうアレンジしてきたか感の方が強く漂う。アニメの絵に重なるのも悪くはないけどどこかジャジーな雰囲気の中で胸元の開いたドレス姿で前屈みになってみせたりする坂本真綾さんもセクシイなCMの映像の方が案外に好みだったりするかも。楽曲ではむしろエンディングのパール兄弟再結成的作家陣による演歌ロックの方がとてつもなく凄くて素晴らしい。それを歌うメイズって声優陣のユニットも同様に。紺先輩ってそういや誰が声やってるんだっけ。

 声優といえば歩鳥の小見川千明のドジっ子系ボイスが存分に炸裂していてとっても耳になじむというか耳がくすぐったいというか。「ソウルイーター」の頃から声質の不思議さに演技力なんてどうでも良いって思わせられたけれども「夏のあらし」とか「生徒会役員共」とかを経て格段に上手く……やっぱり素晴らしい声質を維持していて聞くほどに背中をぞわぞわっとさせてくれる。声優は声だねやっぱり、それも作り声じゃない地声の凄さ。演技力で言うならたっつんを演じている悠木碧が相変わらずの完璧ぶり。大昔の沢城みゆきに昔の戸松遥とデビュー早々から上手くて凄かった声優さんはいたけれど、悠木碧さんはまだ違う名前で演じていた「おねがいマイメロディ」の頃から上手くって、それが「紅」で爆発してそして演技にも幅が生まれて「ダンス・イン・ザ・ヴァンパイアバンド」で一気にトップ声優の仲間入り、と。今のクールだって「百花繚乱」に「屍鬼」にほかいろいろ、出演しているんだから凄いなあ。沢城戸松悠木の3人が勢揃いしたアニメとか見たいよなあ。カチコチ過ぎるかハネトビ過ぎるか。

 アニメの方は原作の醸し出す理屈っぽさと不条理っぽさが巧みに映像にされていて感心感激。見た目の割に淡々と進む漫画なんでそのままやったら間延びして静かすぎるところを、下から見上げるような構図を入れたり見栄を切らせたりと見た目にポイントをつくって見る目を離させないし気持ちも飽きさせない。なかなか。でもって時々ちょろりとガーターベルトは見えて、けれどもその奥は見えないっていうじらしも使って録画分を消させないところも巧みというか。1カ所だけ白ではなく黒いっぽいのが見えたっぽいけどあれは単なる陰なんだろうけど自分がそう見てそうだと思えばそうなのだ、ってことで。教師は杉田智和さんが相変わらずの小理屈ひねくり回してて最高。しかし1回目のこれを見たにはてっきりメイド喫茶コメディだと思うだろうなあ。違うのに。最近なんてほとんどたっつん出てこないのに。うーみゅ。

 なんだできるじゃん、と考えるとやっぱり監督か、とも考えられるサッカー日本代表。本番を前にせっぱ詰まっているのとこれから作っていくって時と状態もマインドも違っているとはいえ、結果を見せてこそ次の仕事にもつながるって監督の立場からすればやっぱり自分を見せておきたいところ。そこでしっかり自分を出せてそれがぴったりハマってしまうんだからやっぱり監督の力量は大きいってことで。前へ。誰もが前へ。そんな意識をちゃんと持って臨めばスピード感も出る。ちょい持ちすぎな人みたけどご愛敬。そこをドリブルと壁パスで楽々突破していくメッシに学べばさらに攻撃の速度も圧力も挙がりそう。このチームにだったら復帰したいって思う10番もいたりして。でも復帰して前への圧力は保てるか。保たせようとしたオシム監督みたいな叱咤をもらえれば大丈夫、なのかもなあ。

 そんな流れで「ルパン三世 カリオストロの城」。最後に劇場で見たのは何時だろう、たぶん昭和区の宮裏太陽って劇場で1週間だか2週間、上映された時に見に行ったんだと思うけれどもそれだって25年くらい昔の話だしなあ、後に再上映って機会があってポスター付きで前売り券も買ったけれども結局行かなかったっけ、何でだろう? それにしても31年も昔の映画で、それも筋もセリフも完璧に覚えているのにこんなに面白いのはなぜ? それは見どころがあって聞かせどころがあって演じている人たちが誰も巧みで何度見ても聞いても感心できるから。同じ宮崎駿監督の作品でも「千と千尋の神隠し」を最後に、見たいシーン聞きたいセリフがあんまりなくなってしまたような気がするなあ、だから劇場に行くのも1度だけになってしまっているなあ。そんな面から過去現在の宮崎作品を思い返してみるのも面白そう。「千と千尋の神隠し」のおにぎりのシーン、何度見ても泣けるんだよなあ。


【10月7日】 フリオ・コルタサルにホルヘ・ルイス・ボルヘスにアレホ・カルペンティエールにマヌエル・プイグにアドルフォ・ビオイ・カサーレスにカルロス・フェンテスにガブリエル・ガルシア・マルケスとそしてマリオ・バルガス・リョサって辺りが1980年代に筒井康隆さんのエッセイとかを通して知った、ラテンアメリカ文学の作家の名前たちだったけか。「精霊の家」のイザベル・アジェンデはまだ世にはあんまり出てはいなくて、後に国書刊行会の「文学の冒険」あたりで名前を知ることになるんだけれども、それはそれとして世界の大筒井康隆が面白がって読むんだから、きっと面白いに違いないと大学の図書館にあった多分集英社あたりのラテンアメリカ文学全集か、地元の図書館に入っていた新潮社から出ていた「現代の文学」シリーズあたりを手にとって開いて読んですぐに閉じて知らん顔、ってな感じが多分続いたなあ。

 重厚にして複雑にして幻想的にして猟奇的。後にマジックリアリズムといった名前でもって認識するようになる不可思議な文学を理解するのは、当時のラテンアメリカの国情も多層的な文学を読み込む根気もない身には難しかったし無理だった。多分今でも無理かもなあ。知識は増えたけれども根気の方がまるでゼロ。そんな狭間で知識と興味と根気がクロスマッチングした時期に、うまくあたったエマヌエル・プイグの「蜘蛛女のキス」だけは、これは文庫になったものを読んで中身の猥雑だけれど複雑で、衒学的だけれど残酷な展開に深く感動したっけか。当時にはすでに映画にもなり後に舞台化なんかもされた作品。分かりやすさって意味でもラテンアメリカの中ではぬきんでていたのかも。だから読めたと。

 あとは短い話が多かったボルヘスを読めたくらいか。ガブリエル・ガルシア・マルケスの「千年の孤独」もそしてマリオ・バルガス・リョサの「世界終末戦争」も、存在は強く認識していて手にも何度か取ったけれども読み通したって記憶がない。後に店頭からすぱっと消えてまるで見なくなった本たちを、今にして思えば買っておけば良かったかなあとも思うけれども、あの分厚さのものを置くスペースなんざあ部屋のどこにも存在しない。あっても手元に置いてもきっと読まないだろうから(ピンチョンの「V.」なんて買って22年が経つけど未だに読んでないし)、やっぱり買わずにおいて正解だったのかも。とはいえしかし、ノーベル賞ともなって評判が高まると、俄然気になるのが流行に弱い性格のこの身。もしも新潮社が覚悟を決めて復刊したなら買って部屋を狭くしそう。果たして出すかな。ピンチョンに負けないくらい売れるかも。

 それにしてもリョサも80歳での受賞とは。マルケスは1982年とかに確か50歳代で受賞していたりしたから、同じラテンアメリカ文学の雄としてはいろいろと忸怩たるものがあったのかも。というかそうした状況すら超越した大御所って気もしていて、ノーベル文学賞の発表で名前が出たときも、それが受賞者とは気づかず選考員か何かをリョサがやっていて、その名前で談話でも出していたのかなあと思ったくらい。受賞者だと分かって驚いたけれども一方では当然だとも思った。だってリョサだよ。世界の。村上春樹さんがどれだけ日本で人気があって、世界でポップスターになっていたってリョサの前ではまだまだひよこ豆。単なる流行作家に過ぎない訳で、そんな人を今にもとるかもって持ち上げ煽るメディアもメディア。それよりも世界にはもっととってふさわしい、文学で戦い文学で喜ばせ文学で引っ張る作家たちがいっぱいいるんだってことを、もっと騒いでそうした世界文学に目を向けさせることを、メディアはしないといつまで経ってもこの国に教養は生まれないぞ。もはや生まれる素地もないけれど。参ったなあ。

 簡単に言うなら信じられない。ネット上にある文章を参考どころか大きく使って原稿を書いたものを新人賞に応募するという神経が。それが悪いことだというのがまずは第一に立つだろうから、あり得ないというのが第1にして絶対の理由で、見る人が見ればばれるしばれなくっても刊行されればいずれはばれると思えば絶対にできない所業だろう。1億歩譲ってそれが悪いことだと知らなかったとしたら、というよりどうしてそれが悪いことだと思えないのか、思考の回路がまるで分からないのだけれど1億3歩譲っているから仕方がないとして、けれどもオリジナル作品を求める文学賞で、誰かの創作物を参考以上の借り受けをして送るという神経もやっぱり信じられない。

 だからもはや世界は信じられない状況にまで来てしまっているのだろう。40何年ぶりとかに受賞者が出なかった第47回文藝賞の選評が「文藝」に載ったんで早速ペラペラ。まずは角田光代さん。とある作品が選考委員絶賛の中で「受賞作になったのだが、その最後まで貫かれている発想自体が、インターネットの某ページに掲載されているものから拝借したということが直後にわかった」と明かして「もっと根本的な、小説を書くということはどういうことかというそもそもの姿勢が誤っていたようである」糾弾。基本的姿勢のなってなさを訴える。そして斎藤美奈子さん。「作品の柱となるべき二つのプロット(アイディア)の二つともが借り物であり、またディテールにおいても既存の情報と告示した部分があると判明した以上、失格はやむを得ない」と角田さん同様の意見。その上で著作権への配慮のなさという考えるまでもないことを含めて「応募者のみなさまには『作品のオリジナリティとは何か』ということを改めて考えてみて欲しい」と諭すように書く。それだけ危機感があるということか。

 高橋源一郎さんはインスパイアめいたものやらオマージュめいたものを重ねて創作が発展していく可能性は可能性として求めた上で「受賞決定後、その設定が、他の人たちによってインターネット上で『創造』されていたことが判明し、受賞は取り消しとなった」と経緯を明かし、「作者に悪意はないと思えただけに、このような結果になったことは残念でならない」と嘆く。悪意がなけりゃあいいのか? って問題はだから1億15歩譲ったあたりからの意見で、どうして悪意もなしに借り物ができてしまうのかって心性に切り込んで欲しかったんだけれどそちらは田中康夫さんが拾っている。「第三の作品には息を呑み、選考会に臨んだ。が、その卓越した着想も、秀逸な冒頭の畳み掛けも『借り物』だったと知っては、失格の烙印を押さざるを得なかった」。

 そして「電磁媒体からの『借り物』と看倣される行為に、『走れメロス』とは異なり悪い意味で無自覚だった現実は、最早、秀でた次代の紡ぎ手が絶滅種となりつつある日本を照射しているやもしれず、ちょっぴり怖い」と結んで、無自覚でそういった行為がなされてしまう不思議を絶望的状況への道筋と見て嘆いている。まあ次代の紡ぎ手が絶滅種かどうかは、応募作ではなかったけれどもネットの上に田中さんや高橋さんらをはっとさせたアイデアがあったということは確かで、そこに次代の紡ぎ手を見るってことも可能な訳だし、いっそそっちに与えてしまったら、やるなあアバンギャルドな文藝賞って話題も挙がったかもしれないけれどもそれは流石に規定外か。どっちにしても書き手の問題は何とかなっているとして、借り物が平気な心性の跳梁だけはどうにかしないと妙になる。お隣の国がどうとか言ってられなくなるけどだったらどうすれば良いんだろう? ってところで思い悩む。教育、なんだけれどもそれができてないからこうなった訳で……。悩ましいなあ。


【10月6日】 神保町という名前を知るより先に神保くんとう名前を知っていた僕は「サイクルスポーツ」の期間限定愛読者。だいたい1979年から82年あたりの世界自転車選手権で言うなら中野浩一選手がトラック競技のプロスプリントで3連勝を成し遂げ記念のバーが発売されたあたり、ツール・ド・フランスで言うならベルナール・イノーが連覇を果たしてエディ・メルクスやフェリーチェ・ジモンディといった名前を塗り替えつつあった時代だけれど、そうした競技を読んで競技車に憧れたというよりはむしろ一般にも乗れるランドナーが欲しくてたまらず広告を見ては切り抜いて部屋に貼りまくり、アピールしたけど買ってもらえずそうこうするうちにランドナーってカテゴリーが消滅の危機に瀕して未だ乗れないままでいる。

 んでもって神保くんとはそんなランドナーを駆って峠道を走るという連載を「サイクルスポーツ」誌上でやってた学生で、多分早稲田あたりの人だったような記憶もあるけどはっきりしたことは不明。今はいったいどうしているんだと調べて島野工業かどっかにいるんじゃないかといった話もネットのどこかで見たような記憶もあるけれど、どっちにしたって一時の雑誌的な英雄も卒業すればただの社会人というのは、1990年代後半になってわっと出たネット雑誌でネット上からピックアップされた人たちがフィーチャーされてスター扱いされつつも、その後にすぐに消え去って社会人となって普通に生活していることからも伺える。あの人たちは今?

 それはそれとしてやっぱり強く引かれたランドナーにして今はもう乗れないランドナーかと思ったら、「旅する自転車の本VOL.2」ってムックが出てそこには泥よけのついたスポルティーフとそしてランドナーがわんさか。ユーレージュビリーだのサンプレックスだのTAだのとといった昔のパーツを使って組み上げた懐かしいランドナーもあれば、今のパーツを使いながらも往年のランドナーらしさを出した車までいろいろ載っていて、これがあればもしもランドナーを買おうとするときに、大いに役立ちそう。サンツアーのシュパーブだのシマノのシマノ600にデュラエースだの吉貝のダイヤコンペだの、当時の「サイクルスポーツ」を読んでいて目に入り耳に聞こえたパーツがずらりと並んで胸躍る。当時はまだ安く買えたんだよなあこいつらも。でも今は。30年前に戻って買い占めたい。

 昔広告でみたラスコルサだのルマンだのオリンピクだのユーラシアだの片倉シルク号だのといった完成車がカタログ的に紹介されてて懐かしいことしきり。一長一短はあるけれどもそれぞれに雰囲気を持ったランドナーでこのどれでも良いから欲しかったけど買えないまま今に至る。でもってこっちは今買える完成車として並んだ中から、とりあえずマスプロだったらARAYAのスワロウが形も色もパーツのアセンブルも良さそう。リムのメーカーだけれど自転車づくりもお手の物。いい雰囲気の物を作るんだ。ショップだったら京都にあるというグランボアという車が雰囲気もたっぷりとあって、それでいて22万円とロードレーサーの良いのに比べたらお買得な値段。いつかお金が貯まったら注文しに行きたいもんだとフトコロを見てこれは無理だと茫然自失。かくして今なお乗れないランドナーは未来永劫存在し続けてくれるのだろうか。

 もしもモノカキとして世に出たとして、書いた作品が好評だから漫画にしてもっと広めようと言われたとき、誰に漫画を描いてもらえれば1番嬉しくて光栄なのかを考えたとき、真っ先に挙がる名前は1人、萩尾望都さんをおいて他にない。言わずとしれた少女漫画でSF漫画でファンタジー漫画で耽美漫画でコメディ漫画の大御所も大御所。それでいて高ぶらず今なお現役としてしっかり漫画を描いている。それがまた静謐さを高め感情にささやくような作品で、読む人たちを静かだけれど確実な感動の中へと引っ張り込む。凄いよなあ。

 けど萩尾さん、自分ですごいものを描ける人だからそんなに他の人の原作を漫画にはしていない。あるのは光瀬龍さんの「百億の昼と千億の夜」とかジャン・コクトー「恐るべき子どもたち」とかいった有名な作家の有名な作品。ひょっと出ただけの人間の誰も知らない作品なんか、漫画になるはずないって思っていただけに、ひょろりと登場した田中アコさんという人の原作による萩尾さんの漫画「菱川さんと猫」(講談社)には驚いたり慌てたり。どういう人なんだろうと原作の人が気になって、萩尾さんが漫画にするくらいだから実は有名な児童文学の人か誰かからと調べたら前々違ってた。

 まったくの新人。それもゆきのまち文学賞とかいう青森の地方文学賞で佳作か何かに入っただけの人なんだけれど、その作品に選考委員をしていた萩尾さんがいたく引かれた模様。漫画に描いてそれも1本だけでなく3本も漫画にして単行本にまとめあげた。ゆきのまちと賞についているからには、雪がテーマに入っている作品がもとめられている文学賞らしく、「菱川さんと猫」には雪がちゃんと出てくるけれどもそれが決してメーンじゃない。メーンは猫。それも化け猫。白湯さんって呼ばれている女性が会社に行くといつもは菱川さんが座っていた席に大きな猫が座っていた。誰だあんた。

 驚いて周囲を見渡したけれども誰もそれが猫だとは分からない。どうやら見えているのはそういうのが見える白湯さんだけ。帰りがけに呼び出して問いつめるとどうやら菱川さんのところに飼われているゲバラという猫で、菱川さんが突然キューバに旅行に行ってしまったから、代わりに会社に出ているんだと話した。家族に連絡はときくと母親がいるけどいっしょにキューバにいっているとのこと。それもアメリカのキューバに。おかしいなあとはそのときは思わなかったけど、母親はすでに死んでいると誰かから聞き、キューバはアメリカにはないとも分かってどういうことだとゲバラを問いつめて分かったこと。それは……。

 というところに重なる雪のモチーフ。ちょっぴり悲しくて切なくて、けれども思い思われる関係の温かさというものも感じさせてくれる物語に仕上がっている。人間なんていつどうなるかわからないけれど、そうなったときに人間にも猫にも誰からも思われる存在でありたい。なんて思えてきた。なるほど萩尾さんが気に入って描きそうなストーリー。実際漫画を読んでも萩尾さんが考え描くファンタジックでコミカルで、でも切ない物語と遜色ないからなあ。それは2編目の良心を失った兄と妹の話にもいえること。白湯とは同級だった女性が白湯と再開。家に招くと兄がいて引きこもり気味になって魚だけを愛でている。

 単に心身が弱っていただけでなく、兄には秘密があってそれが明らかにされる展開は、現世と異界とが重なる幻想的な物語となって読む人に自分の居場所、本当の居場所といったものを考えさせる。もう1本は白湯はあんまりからまないけど現世に膿んだ男性が、ゲバラたちのような存在と接触しつつ元の世界を自覚するとかいったストーリー。これも不思議な世界を覗かせてくれる。そういやあ「レオくん」って猫が擬人化して人間と暮らしているストーリーも描いていた萩尾さん。猫が主役と聞いていてもたってもいられなくなって漫画に描いたのかもしれないなあ。携帯のデータにもちゃんとレオくんの写真を入れてるくらいの猫好きだし。シリーズっていうことは続きもありそうで、どんなゲバラのお調子者ぶりが見せてもらえるのか、そして異界との重なりを感じさせてくれるのか。期待して待とう。あるいはいっそゆきのまち文学賞に応募して、萩尾さんに漫画化しれもらうか。猫を持ってくれば確率が高いかな。

 居並ぶ見出しから推定されるロジックの見え見えぶりに食指が延びない週刊誌だけれども時間のお供にはなると「週刊文春」を買って読んだらいしかわじゅんさんが佐藤マコトさんの「轟けっ! 鉄骨くん」を紹介していて流れるような文章とツボをおさえた紹介っぷりに既に読んでいて感じていたポイントが言葉にされていることに関心。漫画家なのにどうしてこんなに文章が巧みなのだ。それから辛酸なめ子さんがあちこち出没ルポルタージュで鷲宮神社の土師祭へと潜入してヤンキーとオタクが萌えみこしをかついで盛り上がる街の融合っぷりを紹介している。これまでの週刊文春の連載ではセレブなところへいったりスポーツへいったりと真っ当さのなかに自らの珍奇さを混ぜて違和感を醸し出していたけど今回ばかりはまさに自分の居場所と感じたか、それとも長い文春暮らしでセレブ化した目には鷲宮神社の萌えみこしは珍奇に映ったか。どっちいしたって売れっ子は良いな。出没がお金になって。


【10月5日】 それどこの「パワーパフサウスパーク」って感じだと言われそうな気が見てした「パンティ&ストッキングwithガーターベルト」は「ハイ! ハイ! パフィー・アミユミ」なんかとも共通しそうな、カートゥーン的絵柄に動きを出しつつキャラクターの性格付けをエロくてクロくてガサツにして、お上品さとも可愛らしさとも無縁の物語をくっつけぶちまける。時にリアルな権威にも踏み込みおちょくってみせる「サウスパーク」や「シンプソンズ」だとかに比べると、下品さはあっても皮肉さが足りないのはやっぱりいろいろしなきゃいけない配慮があるからなのか。それでもそうした皮相さよりは、見てまっすぐに伝わってくる下品さがあるんで、飽きはしないで引っ張り込まれる。

 さすがに夕方とかは無理でも、深夜のもっと浅い時間にゲバゲバなお下劣さを前面に出して、実はお下劣だって嫌いじゃない一般の人たちとかヤンキーだとかギャルなんかを、引っ張り引きつけゲラゲラと笑わせるにふさわしい作品。なんだけれども放送されてる時間は深夜も深夜でそれも平日。なおかつ裏は乙女が可憐にイケメンとペアでバトルする「おとめ妖怪ざくろ」と来ていて分が悪い。それとも普通のギャグ好きを真夜中まで引っ張り込んで笑わせるか。それだけの原動力はありそうなんで、あとはどこまで評判が広がるかってところになるのかな。そういやガイナックスって「フリクリ」ん中で「サウスパーク」パロやってたっけ。技術力は相変わらず凄いなあ。「侵略イカ娘」はまあイカ娘だった。「そらのおとしもの」は反則OPで攻めてきたけどそればっかりではなあ。

 CEATEC押井守監督の「サイボーグ009」3Dを見に行こうとする前に言っておくっ! おれは「サイボーグ009」をほんのちょっぴりだが観賞した。観賞したというよりはまったく理解を超えていたのだが……。あ…ありのまま今起こったことを話すぜ! 『おれは「サイボーグ009」を見ていたと思ったらいつのまにか「GHOST IN THE SHELL/攻殻機動隊」を見ていた』。な…何を言っているのかわからねーと思うが、おれも何を見せられたのかわからなかった。頭がどうにかなりそうだった…。 自己模倣だとか超立体だとかそんなちゃちなもんじゃ断じてねえ。もっとおもしろいものの片鱗を味わったぜ…。ってポルナレフになってしまったパナソニックの「サイボーグ009」3D上映会。見ればその意味がきっと誰にも伝わるだろう。

 冒頭から六本木ヒルズだかのてっぺんに立った島村ジョーが、下へと落ちていく場面が現れまるで草薙素子少佐と空目。でも少佐だったら光学迷彩を来てすっぽんぽんに近くて目に潤いがあるけれど(2.0は除外。あれは泥人形だから)、ジョーは服を着ていてそれでいて長いマフラーを巻き付けて、引っかかったら首がギュッとしまってブラブラとぶら下がってしまんじゃないかって懸念すら浮かんだ。そんなジョーに寄り添う美女はいったい誰なんだろう。フランソワーズ・アルヌールって感じじゃなかったけれども他の誰か? ちょっと調べてみたいところ。それから場面変わってアメリカあたり? それともドバイ? 高いタワーに爆発が起こって崩れ落ちそうなところに迫るステルス機。その背にしがみつくジョーをとりまき飛ぶあれはジェット・リンクかそれとも義体化された9課員か。

 なるほど同じサイボーグではあるけれどもこと改造って面ではオールドファッションだった石ノ森章太郎的ビジョンを、「GHOST IN THE SHELL」的なメカメカっとしたビジョンに置き換え描いた「サイボーグ009」が「GHOST…」に見えてしまうってのも致し方ないところ。ジェット機とかミサイルなんかを絡めつつ描いたスピード感とか、あんまり「GHOST…」にはない部分も加わっていてスタイリッシュでスピーディーな映像を楽しめはするけれど、それならばやっぱり冒頭に生身のダイブとかいったいかにもなシーンを付け加えて、それっぽさを主張しなくても良かったような気がしないでもない。それともそれがあれば自分の作品として感じてもらえると思っているのか。高いところから現れるのが格好いいとロトトン・ザ・ウィザードと同じことを考えているのか。うーむ。

 こっちに向かって飛んで来るミサイルのアップなんかも「GHOST…」であり「起動警察パトレイバー」。つまりは押井的ビジョンから犬を抜いてそこに「009」の義体をはめたのが「サイボーグ009」3Dだって言って言えないこともなさそう。いっそだったら9課のキャラで「009」をやれば嬉しかったのに、少佐が加速装置で吹っ飛びバドーが怪力で車を持ち上げトグサは自在に空を飛び、サイトーは手足を折り曲げミサイルを撃ちだし石川は口から火を噴く。001はミニタチコマ。ギルモア博士は当然荒巻。003は誰がやっても無理だから茅葺よう子にやって頂きましょう。それかこちらは2.0版の人形遣い。フランソワーズで声がレプカってのもちょっと困るし。

 でもって隣では歌番組を3D化して放送するってプレゼンやってて見たらSPEEDが3Dになって踊ってた。実写だとよく立て看板を何枚も重ねたみたいな立体化が行われていたりするケースがあるんだけれど、この番組は最初っから3Dを意識して作られたのか立体になった人間に違和感がなく全体にちゃんと奥行きが感じられる。SPEEDだって立体感がしっかり。でもなあ。今のSPEEDの立体感ってそれなりに年齢を重ねた女たちから滲む豊満さと紙一重だもんなあ、ダンスにだって昔みたいなキレがある訳じゃないから3Dで見てどこまで響くかっていうっとちょっと……。他の出演者も稲垣潤一に坂本冬美あたりでは3Dである必然が……。やっぱりだからAKB48を3Dにしてあの迫力あの奥行きをシアターじゃなくても感じられるようにするのが3D普及にとって早道かも。


【10月4日】 ようやくやっと見た「BLACK LAGOON」の第3期ロベルタ編第2巻は、銃撃戦も格闘も殴り合いも殺し合いもなく淡々と進む裏側で、頭脳が巡り思惑が飛び交い迷いがうごめき合って決意が立ち上がるという心理戦。派手さはないけど見ている間だはぐいぐいっと引っ張り込まれ、そして見終わってなるほどそういう理由で誰もが動き始めることになったのかって納得できるようになっている。作っている方はモヤモヤ感もあっただろうし、見る側もともすれば鬱屈してしまいそうな巻だけれど、これを越えてこそ後のど派手な展開も意味を持つ。だから避けられないのだ当然やっぱり。

 見どころはやっぱり原作の漫画にはないロックの懊悩かなあ、与えられたデータを元に図面を並べ壁にいっぱい落書きをして、誰が何を狙いその背景にどんな思惑があるのかを探り、そしてそれらがどう結びついて影響し合って何が起こるのかってところを、検討して答えらしきものを導き出した上で、それならどうすれば良いって結論を持ってガルシア君のところを訪ねて受けると言ってみせる。原作だとそこはコマの1つもなくって、ロックが単なるお人好し、同情から受けたようにともすれば見えてしまうけれど、背後にそれだけの分析と覚悟があったんだと分かってだからこそ、ちゃんと成功へと導けただと分かる。

 あとは部屋に置いた鉄棒で逆さ吊りになりながら腹筋をしていたレヴィがロックにほだされ出ていく心変わりのシーンか。何しろシャワー。でもってアンダーウェア。とっても小さい布きれを身に張り付けて歩くレヴィの麗しさったらないけれど、そんな彼女がジャングルブーツを履きタンクトップを着てカットジーンズにピストルベルトをつけてダブルショルダーホルスターを巻き、ソードカトラスを2挺ぶっさしていつもながらのレヴィへと変わり街へと出ていく一種儀式めいた流れは、背景にそこまでの決意があったんだと伺わせる。と同時にロックへの微妙な思いって奴も。それこそエダじゃないけど聞きたいねえ、やったのかよ、ねえってばやったのかよ。

 そんな感じに野卑たところを見せるエダだけれどもその正体は……ってことで不快感も露わにしてヨランダ婆さんと喋る場面の、理性と冷酷さが入り交じった声とか、変声機を使って張と会話するシーンでの、相手を見下し自らをひけらかす尊大さを持って「チンピラ」呼ばわりする侮蔑の滲んだ声とかもう最高。そんな声で嘲って欲しいといった趣味の人もいそうだけれど、そうは表に出ては来ないところが彼女のラングレー生まれたるゆえん。ひとりロアナプラの地で何をしているのかは分からないけど、火薬庫みたいな場所を任されているってことはそれなりに信頼もされているんだろう。どういう立場なんだろう彼女。ヘックスみたいなパラミリには見えないけど、スケアクロウみたいなエージェントとも違っていそう。謎。

 でもって秋の新番組のひとつ、「荒川アンダーザブリッジ×ブリッジ」は、すでに第1期でキャラクターの登場が終わりひとしきり説明も終わって、誰だこれ変だこれってな驚きが足りないなかを、変態さんたちのドタバタ劇といった様相になっていて、面白いことは面白いんだけれどもやっぱりちょっとサプライズが足りない印象。ようやくご対面となったアマゾネスが絡んで来て、ストーリーに抑揚がつけば良いんだろうけどそれも保って2話とかそんなもん。妙な夢を見るようになったニノを相手に、リクが困って悩む姿で全話を通すわけにもいかないし。どう料理してくれるのかが見物かな。同じ新房昭之さんだと「夏のあらし」も1期に比べて二期にオリジナル要素が増えたから、その手でいってくれるのかも。小見川千明さんの爆発的な登場を期待しよう。

 はっきりいえば女性が警察に入って1年で警察学校を卒業して、赴任した警察署で刑事になるなんてことはあり得ないけど、それがあり得たらって話で進めて面白さを醸し出すのが、漫画って表現形式の荒唐無稽な面白さ。木葉功一さんって何故かあんまり描かない漫画家の人が、週刊漫画サンデーに連載をしているという「セツ」(実業之日本社)が単行本にまとまったんで読んでみたら、これが破天荒だけれどもどこか強く訴えかけるところに溢れてて、荒唐無稽だのあり得ないだのといった言葉で断じ切れない味があった。ヒロインの天翔セツは世界陸上の女子400メートルで日本人として初めての金メダルを取ったアスリート。その余勢を駆って招かれた一日所長の場で、強盗が逃げる姿を目の当たりにして警官としておいかけそして犯人に迫ろうとした時、トラックでも走っていて見えてけれどもつかめなかった星を見て、天職と感じて警察に入る。

 そして1年で刑事となって、ってやっぱり無理があるかなあ、でも金メダリストだからあるいは……。そして刑事となって早々に万引犯を捕まえるんだけれど、まだ店内で支払う可能性もあった中での逮捕は行き過ぎと指摘されシュン。ところがその犯人が防犯カメラにはしっかりと万引している場面が映っていて、けれども誰も彼女が商品を持ち出してもとがめないという不思議な現象が発生。その希薄さ故に誰にも気づかれないという透明人間のような存在になっていた彼女の沈黙を守る頑な態度に、セツはぶちキレ殴ってまた謹慎。けれども1度見た星は逃さないと突っ走って万引犯を動かす何かを見つけだす。

 犯人といえども臆さず容赦せず、けれども時には親身になることもあるセツのむちゃくちゃさは、警察の中では極めて異常で浮きまくり。それでいて市民感情をしっかり引きつけファンを増やしてみせるところが、安易に首にできない理由なのか、やっぱり漫画的なデフォルメなのか。2つ目のエピソードでは殺し屋に挑み市長に挑んで生き延び、3つ目のエピソードでは与党幹事長の息子の横暴に真正面から挑んでいく。その圧倒的な情熱と清々しさを見ればなるほど、考えるより走れって言いたくなるけど走ってどうにかなるほど現実の世の中は簡単じゃないんだよなあ。だからこその漫画ってことで。それにしてもセツ、良い脚してるよなあ。


【10月3日】 キュアブロッサムにキュアマリーンにキュアサンシャインの3人が連携しても、まるで歯が立たなかったダークプリキュアを相手に1歩も引かず、互角からやや上回って倒しサバーク博士に救出させるまで追い込み、ブロッサムマリーンサンシャインのそれぞれが戦っても、やっぱり叶わなかった3人の使徒たちを軽くひねって窮地へと追い込んだキュアムーンライトの強さを例えるならば完全体となったセルで、ほかのプリキュアたちはヤムチャかせいぜいが天津飯でクリリンの域にすら届いていないといったところか。

 1人で戦っているじゃないと言いつつ全部まとめて1人でやっつけてしまったゆりさんことキュアムーンライトがいればもはや、向かうところに的はなし。すでにサンシャインの下で鉄砲玉と化してしまったブラッサムにマリーンたちをまとめてその傘下におき、サンシャインを打ち出しそこからブラッサムにマリーンを放つ3段ロケット先方で、敵をばったばったとなぎ倒していく展開が来週以降は繰り広げられることになるんだろう。なのにもはや雑魚と化した3人の方が変身シーンが充実しているのが解せない。来週はだから冒頭からエンディングまでをムーン来意との変身に費やしてやって頂きたいのことよ。

 せっかくだからと東京国立近代美術館に行ったらフロアに人が溢れてた。そんなにみんあ上村松園が好きか。まあ評判になったものに人が集まる習性はどこも変わりがないんだけれども、普段は閑散としている竹橋に人がいっぱいいるのは個人的には嬉しいところ。あれでなかなか良い作品を収蔵している美術館。とりわけ明治大正昭和初期の日本の美術については他に追随を許さない充実ぶりに、見れば昔の絵ってちゃんとしっかり描かれているんだなあ、でもって50年代60年代の現代美術ってちゃんとしっかり作品になっているんだなあと分かる。コンセプチュアルも悪くないけどやっぱりブツがないと日本人、安心できないんだよね。

 でもって頭越しに見る上村松園は美人美人のオンパレード。よくもまああんなに美人ばかり描けるもんだと感心したけどあの時代の美人画っていったい、どういう層にどう受け入れられていたんだろうと考えるとなかなかに興味深い。浮世絵の美人画は一種のブロマイドだった訳だし昭和も中期になれば写真でのブロマイドが普及する。そんな間にずらりと描かれた日本画としての美人画は、芸術なのかそれともコマーシャルなものなのか、どういう層に向かって描かれ誰が求めどう熱かったのか。ちょっと訪ねてみたくなった。山水とかとは明らかに違って目的性がありそうだしなあ。かといって今で言う美少女イラストとも違うしなあ。

 絵としては「花がたみ」って絵がとっても気になり気に入った。ほぼ正面から女性を描いた作品で何でも気狂いとなった女の絵らしくなるほど漂い出す情念って奴が感じられて見る者を引きつけて離さない。吸い込まれそうにすらなる。他の美人画は綺麗で丁寧だけれどそこにはない魂って奴が浮かんで見える。家にあったらあの有名な幽霊画以上に人を魅了し、そのまま引きずり込んで連れていってしまいそう。今はどこに置いてあるんだろう。常設なところがあれば何度でも身に通いたいところだけれど、それも叶わないんで家では前にもらった田村ゆかりさんのタペストリーで代替しよう、ってどう重なる? 何故か重なる。そういうものなのだ。うん。

 ざっと見終わってから定位置になっている4階の休憩室へと上がって窓越しに皇居を眺めると周辺を走る皇居ランナーがわんさか。前もいたけど明らかに数が増えている。人が群がる場所にわざわざ行きたがる心根って奴があんまり理解できないし、そうした意識を覗いても都心部で車が周辺をぶんぶんと走る道路を走って健康に良いんだろうかって疑問も浮かぶけれども、これもまたそいういうものなのだっていう意識が彼らにはあるんだろう。オタクを彼らが理解し難いようにこちらも彼らを理解し難いってことで。でもやっぱり見ていてあまりの大量さは奇異。あるいは誰かが皇居ランナーをブームにして置いて、そこにタクラミでも潜ませているじゃないかと勘ぐりたくなる。

 例えば皇居ランナーが密かに携えているお守りみたいなのがあったとして、それは人に言ったら効果が薄まると密かに流行していたりするんだけれど実はそのお守り、呪いがこめられていて持っている人たちが1万人、それぞれ1周すると呪いが発動して皇居に置かれている日本を鎮護する要の石が割れ、悪鬼が日本を襲うとかいった展開でもあったりするんじゃなかろうか。あるいはいずれ都から朝廷が攻めてくると予感した徳川家康が、かくしておいた巨大ロボット「DAIGONGEN」が復活して、西へと攻め上って京の街を焼き尽くすとか。でもそこに皇室はすでにないんだけれど。意味ないじゃん。

 そうした伝奇的な設定はさておいき、これだけの大量の人がいたりすると商売だって成り立ちそう。差詰め見ていて左周りに走るのがスタンダードとなっているところから、左回りの皇居ランナー専用シューズの販売とか。ばかばかしいとかいうけれど、小学校あたりのたかだか運動会用に、トラックが左回りだからってことでそれにマッチした底が付けられた「瞬足」って靴が作られ、売られていたりするんだよ。そこで1秒速かったとして、あるいは遅かったとして一生においてどれほどの意味も持たないものが、その瞬間の栄光のために認められ代われているとういうこの不思議。ならば皇居ランナーという流行の中で、より先を目指したいと意識する者たちが、そういったものを求めてもおかしくはないし、切実さでは学校の運動会よりも強くて激しいものがある。

 なので遠からずナイキもアディダスもミズノもアシックスも、底が非対称になって左回りに最適化された底を持った皇居ランナー専用ジョギングシューズを出してくるだろうと予想。エアロイヤルとかスーパーインペリアルとかいった商品名で。でもってミズノなりアシックスあたりは皇室御用達のお墨付きをもらって菊の御紋をどこかに入れて、より皇居ランナー専用っぽさを出してくるんだ。それとも左右非対称ってのはアキレスの専売特許になってしまっているのかな。成り行きを見守ろう。でもどうして左回りが定着したんだろう。九段方面の坂は上るとだらだらしているけれど下ると爽快なのに。だから右回りの方が楽しそうなのに。三宅坂の方が登るのが大変だから下りにしたのかな。やっぱり人間は左に回るのが習性なのかな。

 だから「キャラホビ2010」でそのPVを見た瞬間にこれは受けると断言したけど実際に始まると世間も阿鼻叫喚が渦巻きやっぱりこういうのが大好きだったんだと理解した「STAR DRIVER 輝きのタクト」。その「銀河美少年」という言葉ひとつで誰をもねじ伏せる力があるけど、物語自体も意味不明な上に展開不明だけれど妙にきらびやかで妙にかっこよく、ついつい見てしまい誰が誰なんだと見返してしまいたくなってくる。そんな中に飛び出す「銀河美少年」というターム。それが当然の言葉として語られている世界観がいったいどうなっているのか。そしてどう進むのか。興味だけを引っ張って離しは次回へ。これはやっぱり見ねばならない。そして語らねばならない。日曜夕方に家から出なくなる可能性が出てきたなあ。


【10月2日】 チバシティと呼ばれてスタイリッシュでサイバーな街だと、千葉県千葉市が世界で思われていたのも2000年代までのこと。2010年ともなった千葉市は、今やチーバくんシティとなっては燃えるように真っ赤な熱情を、千葉県を模したひょうきんなデザインの中に詰め込んだキャラクターが、街中を埋め尽くしては愛嬌を振りまき、見る人の顔にほほえみをもたらすのであった。とか何とか。

 それはともかく何年もの期間をかけての普及が奏功したのか、当初のあまりに無理筋過ぎるデザインに抱いた違和感もすっかり消え去り、立派に千葉県を代表するキャラクターへとのし上がったチーバくんが、いよいよもってマスコットとしての存在感をアピールする千葉国体が始まっていたんで、これはやっぱり本来の仕事を目の当たりにしておかなくてはと、千葉市になる陸上競技場へと向かう。ずいぶんと昔に高校サッカーを見に行った記憶はあるけれど、久々にたどり着いた競技場は、国体に合わせたのかこぎれいになっていた上に、周辺にはチーバくんが登場する幟もなってなかなかの賑わい。歩いている人も多くって、お祭り気分も盛り上がる。

 入ると眼前では少年女子の陸上短距離100メートルの予選なんかが進行中。高校生くらいなんで明らかに陸上やってる系の細身で筋肉が出ている子もいれば、女子ならではのやや皮下脂肪もついたぷっくり系の子もいたりと、千差万別なあたりが五輪とかで陸上を見て、いかにもな選手達の競演に感嘆するのとはまた違った趣がある。ショーツ姿で臨む選手たちが多かったけれど、もう見事に部活焼けして、太股にくっきりと短パンをはいていただろう部分とむき出しになっていた部分と間に色の違いが見られて、それはそれで不思議な味わいを感じられた、っていったい何を見に行っているんだか。

 適当なところでスタンドの反対側で行われている女子棒高跳びも見物。こちらはこちらでイシンバエワあたりの筋骨隆々ぶりとはまた違った、スリムな女子が賢明にバーを越えていく姿が見られてなかなかに興味深い。完全に高さでは飛べているのに、突き放しが足りず、落ちるときに引っかかってしまうあたりが競技としての奥深さって奴なのか。ここも適当に切り上げ、いよいよ本日の本命が出てくる成年女子100メートルの予選へ。日本記録保持者の福島千里選手が登場してくる競技だけあって、取り囲むファンも鈴なりかと思ったけれども、スタート地点いたのはその向こう側で行われている少年男子砲丸投げを応援する一団。選手が立つと大きな声で声援を送る、そのすがすがしさその部活っぽさに過ぎ去った日々を思い出して懐かしむ、って部活、やってなかったんだけど。

 こんな感じに全国からやってくる少年の部の選手たちと、それを応援する生徒や教師やコーチといった集団の、厳しいんだけれども楽しそうな姿を見ると、国体ってやっぱり何かをしている人たちには大きな目標であって、晴れ舞台でもあって、そうした場が例えば全国持ち回りで費用がかかって無駄も多いとか、世界レベルの1部の選手を育てる方が国威発揚になるとかいった意見なんかに対して、目標は目標として育成する必要があるけれども、そうした目標に近づける場、挑める場をちゃんと用意して、裾野を広げていくこともやっぱり大切なんだと思えてくる。無駄を無駄にして流してしまうじゃなく、かといって絞らず遍く機会を与えられるような運営。そこが大事ってことで。

 そして現れた福島千里選手は、女子100メートルで確か11秒21って日本記を出した選手で、世界にも近いと言われるだけあって筋骨隆々なたくましい体を……まるでしていない。細身で腹筋とかも割れている様子はなく、手足も力瘤がふくらむようなところがない。むしろ他の選手たちの方がよっぽど陸上短距離選手っぽい体格をしているのに、いざスタートってなるともうまるで福島選手にかなわない。だってスタートしてから5メートルで、完全に体1人分抜け出してしまうんだもん、そこからさらに引き離して詰められることなく悠々1位。それを決勝まで繰り返して最後はどうやら日本記録に近い数字も出したみたい。いったいあの細身の体型のどこにそんな爆発力があるんだろう。誰だってきっと不思議に思う。それとも触ると鋼のような体なんだろうか。

 でも案外にそうした体型の方が、軽さもあってスタートで一気に加速してトップスピードへと持っていけるからいいのかも。だからスタートであれだけの差がついてしまう、と。でもそこから慣性をつけてゴールまで行くには体重なり筋力が必要となるから、どうしても世界との差が開いてしまう。ならば走っている途中で筋肉をふくらませて、スピードが落ちないようにするような能力を持てば良い。それこそ牧野修さんが幻狼ファンタジアノベルズから出した「死んだ女は歩かない」に出てくる、異能の力を持った女性みたいな。

 人体で欠けた臓器を補修するために生み出された、医療虫と呼ばれる人工生命体が、本来の役目を越えた変異体を作り出し、人間を変えるようになった近未来が舞台の物語。変異体に感染すると、女性にはさまざまな不思議な力が発現するけれど、男性にとりついた変異体は、極度なストレスに陥った男性を凶暴化させたり、死にかけた男性をゾンビめいた存在に変えてしまう働きを持っている。とりわけ後者は世間に与える被害も多かったため、感染が判明した男性は一生高価なクスリを飲み続けるか、それとも隔離された地域に行くかの選択を迫られ、大半は隔離された地域域を選ばざるを得なくなっていた。

 そんな地域をもっぱら監視する特務部のメンバーは、逆に感染によって不思議な力を持つにいったった女性たち。ヒロインズと呼ばれる彼女たちのリーダー、乾月がとりあえずの主人公で、腹に開いたブラックホールめいたところから、さまざまな武器を取りだし戦う力を持っている。ほかの2人は10代の少女で負った傷を他人に転嫁できる能力を持ってはいたものの、業務では狙撃を担当していた少女とあと、鍛え抜かれた2メートル近い長身に爆発的な力を持っていた女性が1人、ってこれは単に鍛えただけか。力はいったい何だったっけ、。ミラクルボイス? 後でまた調べよう。

 そんな3人が集まって、相手にするのは男のゾンビどもかというとそれだけではなく、特殊な力を持ちながら、それを悪用しようとする女性だったり、そんな女性やゾンビ化する男性を実験材料にして、何かを画策する組織だったりとこれも多彩。単なる“ゾンビvs美少女”といった構図にせず、多面的に世界が置かれた状況を描き出すあたりに、読者の欲望に割とストレートに答え、図式もシンプルにしてみせがちなライトノベルとはまた違った、どちらかというとSFな雰囲気って奴が感じられる。まあSFなんだけど。

 とはいえそこはレーベルがレーベルだけあって、キャラクターはなかなかなに特徴的。とりわけヒロインの乾月が、見た目のゴシックで酷薄そうな雰囲気とは違って、案外に砕けていて快活そうなところが面白い。部下たのボケた発言とかに突っ込んだりもしてみせるし、書類仕事でデスクに張り付いている時も、大袋のチョコレートを広げていたりするあたり、陽気なOLさんたちとあんまり変わらなさそう。でも仕事となると剣を振りかざし、向かっていく姿はなかなに凄絶。是非にその活躍をまた読みたいところだけれど、浮かび上がってくる的も単なるゾンビや犯罪者を越え、国家とか企業のレベルへとふくらんでいるだけに、次巻以降があったら軽さが抜けてもうちょっと、苦難に挑み破れそこからはい上がるようなドラマとかも見せてくれるるようになるのかな。それはそれで楽しみ。

 何だかなあ。世間では逮捕された特捜部長とかがさも組織だって部下の不始末を隠滅し、公判を有利に持っていこうとしたって感じの報道のされ方がされているけれど、そうしたストーリーを作って組織ぐるみを印象づける報道って、村木厚子さんが逮捕された時の報道のされ方を、そのまま反転させたようなもの。さすがにでっち上げみたいなものはないかもしれないけれど、どこまで関与していたのかってところはこれからの取り調べと、その後に起訴されたのなら、裁判を賭して明らかにされているもので、それまでは“推定無罪”の原則に則り、予断を交えずに報道するのが筋ってもの。けれどもそんな雰囲気はまるでない。

 村木さんの一件があって、組織ぐるみだって感じに作られたストーリーに沿って報じて、大失敗をやらかしてしまい、多大な反省をした直後なだけに、メディアには自省と吟味を持ってもらいたいものだけれども、そうはまるでいっていないところが、何というか薄気味悪いというか。検察の犯罪だから、といった理由付けもあるんだろうけど、そうやって曲げて広げられた原則は、やがて希薄化されて時の感情、世間の空気にネタ元の意向をのみ、原動力とするようになっていく。とうよりすでになっている。せっかくあたえられた機会をまるで糧としないとこに、この国のメディアと、そしてこの国の人間が持つ悩ましさって奴が浮かぶ。本当に悩ましい。


【10月1日】 築地俊彦さんが初めて角川スニーカー文庫で描いた「放課後のダンジョンにほまれはよみがえる魔物を見た」(角川スニーカー文庫)を読んだらほまれさんがよみがえる魔物を放課後のダンジョンで見た話だった。分かりやすい。ただし見たのはほまれさんだけでなく複数。陸軍の大演習場があったらしい場所に作られた学園は広大な敷地のあちらこちらに陸軍が残した秘密の施設があるらしく、それを探索して地図を作る仕事を生徒会に属する測量部とやらが請け負って、地下壕に潜り奥へと潜入しては謎めいた施設を探ってそしてよみがえる魔物とか、緑色のなめくじとか、銀色のスーツを着込んだ宇宙人とかを見た。

 そんなものを蘇らせられるんだったら戦争に投入して米英を叩きつぶせば良かったのにって思うけれども、潜入した測量部がどうにかできてしまうような怪物なんかを戦争に投入したって勝てるはずもないからあんまり意味ないのか。あと測量部っていっても天地を計り星を眺める「天地明察」のような緻密さはまるでなくってむしろ風体は探検部。足に安全靴を履いて学校内を闊歩し地下迷宮を闊歩し騒がせまくって荒らしまくる。どうにも迷惑な存在を、消そうと企む生徒会長の少女だけれどその狙いは測量部にたった1人の男子部員にして生徒会長の弟くん。ブラコン炸裂で手元に引き寄せようとしても、無口な割にやるときはやる弟の反撃をくらってへにゃっとなる。ちょっと可愛い。そんな面子が揃って起こるどたばた劇。まだまだ奥深いダンジョンのその果てに眠るのはいったい何? 楽しみ。

 パックマンが遊べるってんで秋葉原からやや末広町を越したあたりにある学校の跡地めいた場所で開かれるパックマンのイベントにいったらパックマンがいっぱいあった。どれがどれやら。仰天したのはピンボールといっしょになったパックマンで、正面にモニターがついててパックマンをやってそれが何かなると下のピンボールからボールが出てきてそれを跳ね返したりして、失敗するなりどうにかすると上のモニターに戻るという、何ともアクロバティックなゲームを楽しめる。っていうか楽しいのかこれ。楽しいかも。いっそだったらジュークボックスとクレーンゲームもセットにして、1台で4つのパックマンが遊べるようにすれば愉快かも。遊びたくないけど。

 とにかく世界各地からパックマンに関連したグッズがかき集められていた展示会だったけれども、聞いた話でそんなのよりも貴重と思ったのがパックマンの原型。元がコンピュータゲームなパックマンは平面で描かれていたりするけどそれを立体化したモデルってのがあって、以後の3Dなパックマンの造形はそれを基本に作られているらしい。今ならCGでモデリングしてデータ化して渡せるけれども、そういう時代でもなかっただけに原型が作られ会社に置かれ、ケースに入れられ厳重に保管されていたらしい。それが今回は珍しいお蔵だし。近寄ると中村雅哉さんのサインが入って会社の資産番号まで振ってある。正真正銘の原型はあるいはメートル原器なんかよりも貴重かも。間近で見よ。ただのパックマンフィギュアだけどね。

 うーん。しっとりとした話なのかもしれないけれども石黒正数さんの「それでも町は廻っている」の最新エピソード、「ヤングキングアワーズ」の2010年11月号に収録の話では、紺先輩ん家の猫がいなくなって探したらよその家で子供達が飼い始めていて、親に見付かって反対されるかとおもったらそれが良いってことになって大喜びする子供達の前に現れ、これはうち猫なんですという展開は、紺先輩の側にたてば戻ってきて良かったってことになるんだけれど、せっかく目の前に現れた喜びをさらわれるような子供たちの心情を思うとどうにも心がいたくなる。そういう現実も歴然としてあるって見せつける意味では正しい展開なのかもしれないけれど、読み終えた時に残る釈然としない気持ちはやっぱりちょっぴり受け入れがたい。だったらどういう展開が良かったんだろうかと考えて、歩鳥がバカやって1人で全部責任をひっかぶって笑ってエンディング、って結びもないでもないけどそれもまた、非日常的だからなあ。難しい。こういう展開でアニメにしづらいよなあ。どーすんだろ。

 そんな「ヤングキングアワーズ」2010年11月号ではやっぱり塩野干支郎次さん「ブロッケンブラッド」が最高にキューティ。いよいよ登場のノイシュヴァンシュタイン桜子こと守流津健一の父親は息子に似て美男子だったけれども息子と同様の変態さんでもありました。でもそこはノイシュヴァンシュタイン桜子に血を分けただけのことはあって、リヒトホーフェン薫子として今でも十分に世間に通用しそう。カッシュマッシュの新メンバーとまで思いこませるくらいの見目なんだもな、でもって必殺技もなかなか。いずれ再び桜子の危機に現れてくれると思いたいけど、ホワイティレナも1度限りの出演だったから今回限りって線も強そう。勿体ない。ともあれおそらく個人的には休載中の「ジオブリーダーズ」を覗けば「ヤングキングアワーズ」で1番の作品。休まず続けてもらって世に変態を愛でる心を広めてやって欲しいもの。「アリョーシャ!」もなかなか頑張ってます。

 分からない。横浜ベイスターズが身売りされることになったって報道に、どーして読売巨人軍の前はともかく、今はオーナーでもない渡邊恒夫さんが出てきてそれを認めるだのどうだのといった話になるのか。そりゃあ状況を察するに、野球の世界でそれなりの発言力を今でも持っていて、売却にあたって妙なところにいかないよう配慮を求めたいっていった立場があることくらいは分かるけれども、そうした裏事情って奴はあくまで裏であって、表から見ればリーグの代表なりプロ野球全体のコミッショナーが、どうするかってことを考え判断するのが筋だし、そっちの方の意見をまず取ってから、ナベツネの見解を添えるてのが真っ当な道。けれどもそうした真っ当さをまるで気にせず、闇やら裏を当然の如くに見せて平気なメディアも、そうした行動をとって平気なドンも、ただただ薄気味悪いし気持ち悪い。

 東京スポーツでは、TBSがオーナーとなった時に加盟金30億円を払わないでいいように差配したのが自分だってナベツネに言わせている。確か楽天は新規加盟で大枚をはたいて入ったのに、内輪では融通を平気できかせる二枚腰。そんなことを公然と言って平気な人間が、ドンとしても君臨しているこの国は、この国のメディアは、この国のプロ野球はやっぱりひたすらに澱んでいる。なおかつそうした澱みを澱みとも思わないで伝えるメディアも、いずれ遠からず信頼を失い墜落していくんだと思い始めて何年か。未だしっかり自力を残しているところが、きっとこの国がいつまでも画期的決定的な浮上を遂げられい理由でもあるんだろうなあ。もっとも消えたらそれで浮上どろこか急落してしまったりして。もはや国にも人にも客観的に己を見て、自らを律し歩むだけの甲斐性が失われているからなあ。困ったなあ。


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