縮刷版2009年9月中旬号


【9月20日】 「機動戦士ガンダム」で主役を張ったアムロ・レイですら鬱屈の果てにたどり着いた境地へと瞬く間に至ってしまった「機動戦士Zガンダム」のカミーユ・ビダンがその才能故に過信しては先走った挙げ句に精神をもっていかれて長い沈黙に入った様を見るにつけ、若さ故の過ちというものの苦さというものは天才ならなおのこと色濃く存在して、その才能の高さ故に落ちる幅も大きく衝撃も強く、それこそ人生をひっくり返してしまうくらいの落剥を見せるものなのだと思わされる。挫折しても立ち直れるのは凡人の所作。アムロやシャアなどはその意味で天才ではなく努力する凡人だったのかもしれない。ジュドー? 脳天気には天才も莫迦もありません。

 いくら才能があってもそれを持続させるのは当人にとっても周囲にとっても容易ならざることらしく、若くして天才と騒がれながらもその天才にすがろうとする周囲の好奇が天才を萎えさせる例もあれば、周りのあまりの期待に天才がハードルをあげすぎて、そしてクリアできそうもないと諦め潰れてしまう例もある。絶頂というよりやや下りかかった所で夭逝していった天才の過去に数多いることを考えると、天才とはそういう運命にあるものなのかもしれないとすら思わされる。尾崎豊よ。リバー・フェニックスよ。ミシェル・バスキアよ。

 ライアン・ラーキンってアニメーターの場合はおそらくは、自分自身のプレッシャーに潰され逃げてしまった方の天才って方になるのだろうか。渋谷の「ライズX」で始まった特集上映の中で、クリス・ランドレスってアニメーターがかつて天才と騒がれながら、今は路上生活者をして食べているライアン・ラーキンに取材し話をきいて、そしてアニメの世界へと帰ってきて欲しいと願うストーリーをCGアニメに仕立て上げた「ライアン」って作品が上映されている。そこではライアン本人から、いくら働いて名声を得ても金とか周囲に持っていかれたとかいった言い訳めいたことが出ているけれど、そうした面は多少なりともあったとしても、それならばを独立して作って稼ぐって手もあったはず。なのにそうした方向へと向かわなかったのは、やっぱり向かえなかったと見るのがある面で正しいのかもしれない。

 ドビュッシーの音楽に絵をつけた木炭画系の「シランクス」って作品で、だいたい21歳くらいでデビューして、動きのセンスと絵の巧みさを見せて注目を浴び、そして「シティスケープ」って作品でやっぱり木炭系の変容する絵を描きつつ、そこにメタモルフォーゼの快楽って奴を盛り込み才能を増進。そして名作「ウォーキング」でもって歩く人たちの姿態をさまざまな角度から描き、時には大勢にもなる絵を描ききってアカデミー賞にノミネートされる快挙まで成し遂げた才能にも、やがて限界が出たのだろうか。「ストリートミュージック」はなるほど奏でられる音楽に従って、メタモルフォーゼを繰り返すフォルムの凄みって奴は見えるけれども、そこにはあふれだすアイデアを物語なり主題なりで抑制し、まとめあげる視点ってのがやや下がってしまって、ただひたすらに才能を垂れ流しているような作品になってしまっている、ように見える。

 そして逃走から路上へ。物乞いだけをする元アニメーターになってしまった彼を呼び戻そうとしたらしいけれども、コカインに溺れ、アルコールに迷い煙草も口から離せないまま時が過ぎ、21世紀になってようやくクリス・ランドレスの作品を契機に復帰への道を拓くもののそこで命が尽きてしまう。残されたアイディアやドローイングなんかをまとめた「スペアチェンジ」っ作品も特集では上映されるけれども、1人の才能が隅々まで行き渡っている過去の作品とはやっぱり違うし、見て凄みってやつを覚えることもあんまりない。協力した人たちの確かさって奴はそりゃあるけれど、でもそれくらい。ライアンが残した言葉に重みはあっても、それはアニメーションとは関係ない。つまりは一種のオマージュ作品に留まっていて、ライアン・ラーキンの作品にはなっていない。

 やはり早すぎた才能だったのだろうし、早すぎた名声だったのだろう。そんな才能をコントロールして育む術をまだ、かつてのカナダ国立映画制作庁も持ち得ていなかったのかもしれない。そこでのひとつの失敗が、今どういう形で経験として活かされているのかってあたりには興味が及ぶところで、天才が生まれて視線に入ってきた時に、持ち上げ引っ張り込んで賞揚してはそのまま使い捨てにしてしまうのか、才能を認めつつも訓練の期間を与えつつ、人格についても育ませ、周囲の雑音に悩まされることもなく周囲の嬌声に溺れることもなく、しっかりと才能を伸ばしていけるような人間にする一方で、支援する側もそうした才能がしっかりと次につながるような支援を行っているのか。投げっぱなしジャーマンじゃないけど、持ち上げ使い捨てる例のままあるお国柄、とくにメディアにそうした使い捨ての思想がはびこっていくこの国から見たら、羨ましくなるような仕組みがあるのかを、偉い人に会ったら聞いてみたいものだけれど、答えてくれるかなあ、かつて使い捨てたライアンを引き合いにしたそうした質問に。

 祭りに湧く渋谷では円山町あたりの、水っぽい男女でもかき集めたのかイケメンばかりが担ぐ御輿が道玄坂を下って走ってなかなかに壮観。そんな様を見つつピンクのDsiで「ラブプラス」を遊ぶ、これがアウトドアな引きこもりって奴か。でもって井の頭線で下北沢へと出たものの服屋しかない街で時間を潰す珈琲屋もないんで、下北沢タウンホールの太陽がさす窓辺でテープ起こしなんかをやってから、頃合いを見計らって昨日に続いて「トリウッド」へと出向いて「カナダ・アニメーション・フェスティバル」の今回はまずは新作ばかりを集めたプログラムのひとつを見る。おお。これは凄い。人形劇。

 その作品「トゥトゥリ・プトゥリ夫人の旅」って奴は、何やら人生のすべてを背負ったような膨大な荷物を背後に従えた女性が、蒸気機関車みたいな不思議な列車で旅に出るってストーリー。スーツケースに入っていた2人の男が、網棚の上でケースから出てチェスをしていたりするのは引きずった過去への残滓? ちょっと分からないし、向かいの座席に座ったテニスプレーヤーが、夫人のスカートの奥とかのぞき指で丸い穴をつくってそこに指を突っ込むイヤらしい仕草を見せて夫人を憤らせたりするのも、意味は分かるけれども表現が目指すところの真意は未定。あるいは自分の容色への未練混じりの自信って奴を、男の態度に投影させつつ過去にすがっていたかったのか。けれども眠り起きると周囲から人は消え、謎めいた男たちが社内にガスを撒いて夫人を苦しめる。列車は暴走して周囲に火の粉をまき散らす危険な状態。夫人は助けを求めて無人の列車内を駆け抜けて、そして行き着いた先に見えた輝く光の意味は?

 って感じに何か女性の運命って奴を象徴していそうなストーリーが、とてつもなくリアリティをもって動く人形によって描かれているのがなかなかの凄み。だったら人間でやっても悪くないじゃんと思うし、人間で演じてもサスペンスフルな映画になったような来もしないでもないけれど、人形だからこそ浮かび上がる現実との乖離って奴が、物語が醸し出す現実からズレた感じとマッチしていたりもするからなあ。そういうものだとここは理解。人によっては実写を取り込んだらしい眼にアニメじゃないアニメじゃない本当のことさってな感じの異論も入ったみたいだけれども、技法にこだわるんじゃなくって説得力にこだわるのが表現者。その意味で説得力を持った視線が得られたんだから別に良いんじゃないのかなあ、アニメかどうかは別にして。あと人形なのに夫人がやたらとなまめかしく、足の奥とかのぞきたくなるのはそういった存在への感情移入に慣れきったオタクだからなのか、それともカナダ人もやっぱり人形の夫人に欲情するのか。さすがにこれはプロデューサーには聞けません。いややっぱり聞くべきか。

 最新作品集ではあとジャンフランソワ・レヴェスクって人の「ネクタイ」って作品が超意味深。20何歳かになった男が、母親からネクタイを贈られたのをひとつのきっかけにして、目指していたアコーディオン弾きになる夢を捨てて就職しなきゃってことになって就職をして、そのまま40歳近くまで働いて、今は部屋で書類にアイロンをかけて平らに延ばす仕事をしているんだけれどある日、その仕事でもって皺を延ばされたされた書類が再利用されることなくシュレッダーにかけられていることに気がついた。いったい何をやっているんだ俺。ってことでもだえるけれども、会社員としての安定から抜け出せないまま翌年に、やっぱり届いたネクタイを締めて上のフロアに上がれといわれ、出世だと讃えられても信じられずに降りるべき階じゃなく、終着点ともいえる65階までエレベータで上がってそこでくり広げられていたことに驚いた。

 お払い箱。ダストシュートへポイ。もはや限界と知った男はひとつの決断をする、ってストーリーは自分が会社という組織において何かの役に立っているようで、しょせんは歯車ですらないことに強烈に気づかせて、そんな無駄に何十年もつきあう虚ろさを味わわせ、今何をなすべきなのかってことを考えさせる。なるほどなあ。実際問題、厳しい経営環境から人員の縮小を画策したい経営の意を汲み、知識も経験も存分にあるにも関わらず、40を半ば過ぎた人たちを司令部から外して、誰でも担える仕事を任せる一方で、兵隊の数が物をいう最前線から働き盛りを司令部に引っ張り込んでは、見よう見まねで指令なんかをさせるものだから、前線への支持は不適切で不的確にならざるを得ないし、そんな指令を実行に移す現場は人数がそろわないという自家撞着。かくしてできあがってくるものは他に品質で劣るものになってしまうんだけれど、そうした後々にじんわりとダメージが現れてくることは棚上げして、今さえ帳尻が合えば良いんだってなスタンスで乗り切ろうとする状況なんかが、どこか遠い場所で起こっていらしいってことを物の本で読んだりしているだけに、「ネクタイ」で中堅になった主人公が、何の役にも立たない仕事をひたすらにさせられている光景に、妙にシンパシーを覚えてしまう。

 主人公を働かせる男が顔に着けている、強面の表情が描かれた額縁を外すとそこには小心者の餓鬼がいるって構図も妙にシンパシー。虎の威をかる狐か狸って構図だな。こうした作品がカナダでアニメーションとして制作されているってことはつまり、世界のいたるところで若い意欲をスポイルし、数字の帳尻合わせだけに汲々として後はどうなっても平気の平左ってな経営が、まかり通っていることの現れなんだろう。アニメではいずれまとめてダストシュートへポイって境遇から抜け出せた主人公が、アコーディオンを手にして奏で始める。彼には楽器があり、それを奏でる才覚があって、自分を慈しんでくれる母親の存在があった。だから抜け出せた。ひるがえって自分には、自分たちには何があるのか。額縁の裏側にある怯えた狸のような面をひっぱたいて、飛び出したものの手に奏でるアコーディオンがあるか。そこが目下の問題なんだよなあ。書くことくらいしかできないもんなあ。でも書けなくなったら一緒か。考えよう。時間はまだある。あんまりないけど。

 そんな最新作を見たあとは、「カナダ・アニメーション・フェスティバル」のフェイバリットな作品を醸成する回も見物。ピーター・フォルデスって人の「餓鬼」ってひたすらに食う男を線画でもって描き抜いた作品とかが凄い。絵を動かす楽しさ不思議さ面白さって奴を感じさせてくれる。「ゆきのねこ」は何というか悲しい話。北風が気を利かせてひとりぼっちの少女に雪で作った猫を贈ったんだけれど、雪なんで暖炉にあたると解けてしまうよって教えたのに、少女はかわいそうな猫を部屋に入れて融かしてしまう。あーあ。そこからまた物語があって離別の寂しさって奴を感じさせるという、ストーリーは単純だけれどそれがフィンガーペイントの絵でもって、温かみのあるアニメに仕上がっている。よく頑張った。見え引きつける絵でもって、素晴らしい物語を送り届ける、って意味もきっとアニメーションにはあるんだろう。

 でもってマーケッターの丹下さんじゃなくってエレーヌ・タンゲさんとそれから「ライアン」や「トゥトゥリ・プトゥリ夫人の旅」なんかをプロデュースしたマーシー・ペイジさんが登場するトークを聞いて、アニメーションを早くから文化と捉え、支援し世界的にして来たカナダって国が羨ましくなる。日本でどうしてこれができないのかなあ。できないよなあ。「アニメの殿堂」って言葉が侮蔑混じりに出る国だから。そんな2人にたずねた日本人のアニメ作家でフェイバリットな人はマーシーが山村浩二さん。「頭山」とか凄い作品もあるんだけれど、本当の凄さは伝えたいメッセージに合わせて最適な手法を取り入れそれで描くってところ。それは感じた。「カフカ 町医者」とかは、あの不条理な世界を描く上でベストな表現がとられていたもんなあ。タンゲさんは山村さんがとられたんて川本喜八郎さん。これも納得。世界に知られたアニメーターが日本にもいるってことを、日本はもっと考えないと。殿堂良いじゃん最高じゃん。そこに山村さん川本さん等々の名を刻める時が端役に訪れんことを。


【9月19日】 ありえないだろうけれども「機動戦士ガンダム」のプロパティを限定的にオープンソースとしてクリエーターのショートアニメを作られたとしたらいったいどんな作品が集まるのだろうか。思い浮かぶのがいわゆるマッド系で既存のフィルムを張り合わせてつなぎ合わせてミックスして、笑いを取りに行くようなものだろうけれどもそうではなくってもーとアーティスティックに、主題としての「機動戦士ガンダム」なりフォルムとしての「機動戦士ガンダム」なりキャラクターとしての「機動戦士ガンダム」といったものを、自由な発想で短編アニメに描き仕立て上げたものがいったいどうなるのかを見てみたい。

 参考になるのはしばらく前に行われた「機動戦士ガンダム」がテーマになった現代アート作品の展覧会で、そこには会田誠さんによる女子高生戦争画をさらにひねったガンダム戦争画みたいなものもあれば、西尾康之さんによる衝撃の巨大セイラさんのようなものもあった。あのセイラさんは僕たちが画面の中のセイラさんに感じていた母性とそして女性を肥大化させ巨大化させて描き出したもので、呑み込まれ取り込まれくわえ込まれるような迫力でもって迫って来てセイラさんって存在の、美しさの向こう側に秘められた見る男子が抱く感情を鏡のようにはね返した凶暴性が露わになって恐ろしく、また面白くもあった。

 見たいのはそんな本質をえぐるような映像で、ガンダムがガンダムであることを理解する上で必要なトリコロールカラーなり、フォルムなりを極限までシンプルにして先鋭化させた物体が、動き回ってそれを果たしてガンダムのバトルだと認識できるのかを問うたような映像なり、「あなたならできるわ」としか言わないセイラさんがただひたすらに繰り返されるだけでそれを見ている内に最初は鼓舞されやがて期待に潰されそうになってそこから快復しそして洗脳され死地に無意のまま飛び込んでいきたくなるようになるのかどうかが問われる映像なりが、出てきたらちょっと面白いような気がしないでもない。そんなガンダム作りの「ショートフィルムフェスティバル」。企画されないものかなあ。やっぱり映像となると難しいのかなあ。

 なんてことを考えたのはとある事情というかそこの偉い人から話を聞かなくちゃならないってこともあって、予習もかねて赴いたカナダ国立映画制作庁の創立70周年なんかも記念された下北沢はトリウッドでの「第10回カナダ・アニメーション・フェスティバル」でいろいろな作品を見せられたから。実に多彩でそして自由。素材も動かし方も物語も表現方法もさまざまあってそれでいて、どれもがちゃんとアニメーションしていたりする状況にこれほどまでに豊かなアニメの表現が、例えば同じ「ガンダム」という素材をどう料理するのかに興味を持ったからってことだったりする。まあ題材も自由だからこその作品の豊かさってこともあるんだろうけど、「ガンダム」縛りがなされた現代アートでもあれだけの作品が出来たんだから、フィルムでも出来るんじゃないかって気もしないでもない。どうだろう?

 ってことでトリウッド。初日の初回は休日プログラムってことで「子供と楽しむアニメーション」ってことになっていて、開場して入ると観客は自分1人で始まってもやっぱり1人であのトリウッドを完全貸し切りの状態で楽しむことができた。やったあ。って喜ばしいことなのか。ダメだろう。宣伝行き渡っていないのかなあ。それともカナダアニメってチェコアニメとかロシアアニメとかに比べてあんまり人気がないのかなあ。いやいや子供と楽しめるといっても重鎮が揃ったプログラム。リズムと動きの多彩さで魅せるらしいノーマン・マクラレンって人の作品に始まりエスカレーションする動きの仰天さで世界が驚いているらしいイシュ・パテルがビーズを並べて動かすだけで生命が生まれ弱肉強食を地でいきながら進化恐竜から類人猿となり人間となって戦争を繰り返した挙げ句にドッカン! となるある意味皮肉のきいた、それでいて表現も完璧な「ビーズ・ゲーム」ってのがあったりして、まずは動きのユニークさでもって目を引きつけられる。

 そしてこれは普通にアニメだったペンギンがシンデレラになった作品と、そしてこれもCGアニメなんだけれどもストーリーの楽しさを表現の確かさが輝いていた「カッコーのエドガーさん」なんかがあって立体アニメの苦心作とも言えそうなコ・ホードマンの「マリアンヌの人形劇」と続いてそこの現れる女性のナイスバディに目を奪われつつプログラム終了。でもって10分の休憩中に来場者も増えるかと思ったら2人の女性が入ってきただけで3人によるほぼ貸し切りでもってAプログラムのエレーヌ・タンゲってマーケティング担当者が長い経験からセレクトしたマーケッター タンゲ セレクションってのが始まって、やっぱり有名なノーマン・マクラレンから始まり水彩画のような絵の連続で魅せるってところは山村浩二さんが大同生命のCMなんかで使っているのと同じ手法のロン・チュニス「嵐」が来て、どうやって描いているのが不思議なキャロライン・リーフって人の「がちょうと結婚したフクロウ」が来て、絵の中に入りこんでいくような幻惑感が漂うものとか、音声模写の芸人が演じる声をバックに赤ん坊が次々にもらわれていくユニセフチックな作品が来て、これは普通にアニメだったピアニストなのに良いわけをしつつなかなか練習を始めない奴の姿が描かれた作品が来て、スイカと初めて出会った人が吃驚する話が来て、そして鳥さんと豚さんが買い物に行った先で出会ってそして鳥さんにいろいろ起こってしまうという、都会の日常が寓話的に描かれた作品なんかも来てそれぞれに、表現方法のユニークさなんてものが漂っていて流石はアニメの国から生まれた作品だってことを強く激しく思わされる。

 そうなんだよなあ。カナダって実はアニメの“本場”でもあるんだよなあ。だって政府が70年とかってスパンで映画を支援し短編アニメを支援して来たのがカナダ。そこから数々の作家が生まれ名作が生まれアカデミー賞の短編賞受賞作品もいっぱいいっぱい生まれている。国が支援すると何かが削がれるなんてまるでない。反骨精神と反逆精神が盛り込まれたシニカルな作品だってちゃんと生まれていたりする。ひるがってどこかの国じゃあ「アニメの殿堂」だなんて名前をあたかも侮蔑のようなニュアンスを持った言葉として引っ張り出してはその不必要さをぶったたく政治の人がいる、っていうかそういう政治の人の口を借りてアニメをさもしい文化だと小馬鹿にしてみせるメディアが存在する。国がアニメなんかに金を出すのは無駄の極みだのどうだのと言う口で、手前らの救済に金を出してといったとこを言いたそうな面をしている。でもカナダじゃあそんな論議なんてとうのむかしい卒業したか、そもそも論じることなんて不必要なくらいにアニメも文化として認められ、支援され続けていたりする。

 そこから生まれた豊饒な表現とそしてクリエーター。何とまあ羨ましい。そりゃあ世界の映画祭で賞とかばんばん取るはずだよ。日本でも賞とか取れば権威大好きなメディアも認めて賞揚するんだろうけれど、それもアカデミー賞が関の山だからなあ。ほかにもいっぱい賞はあるのに。そりゃあ商業アニメとはまた違った存在なのかもしれないけれども、優れたアニメーターは商業の側にだっていてその表現が世界に影響を与えていたりする現状を鑑みるに、区別せず認め育てていくってのがやっぱり必要。そのことを今回の「カナダ・アニメーション・フェスティバル」とそしてカナダ国立映画制作庁の70周年を記念した幾つかのイベントから、汲み取って広められたら良いんだけれども記者クラブの開放には躍起で成果もあげつつあるけど、アニメとか漫画といった文化の育成マインドは皆無だもんなあ民主党。そこがある以上はまだまだ斜め下から見続ける。

 つらりと立ち寄った紀伊国屋で「銀河鉄道999」のブルーレイボックスを買っていた横で神山健治監督がトーク中。映画「東のエデン」がどうなるかってあたりを話しつつ。その前段となる総集編もチーム「東のエデン」の面々が滝沢朗と知り合った間を振り返るって構成からテレビでは語られなかったことなんかを見せるらしい。こりゃあ見逃せない。でもって紀尾井ホールへと回って何年ぶりかの溝口肇さんのコンサート。女性率高し。でもって年輩者もなかなかに。そういうファン層が出来ていたのか溝口さん。そこにはさまって独り者の男子も何人か。あるいはアニソン系のファンか。エスカフローネとかときメモオンリーラブとかぼくの地球を守ってとかJIN−ROHとか。ありえへん。

 そして本番。紀尾井ホールはクラシックのための中規模ホールで箱形。その舞台は何のセットもなし。写真が3枚並んでるだけ。マイクはなし。PAもなし。登場した溝口肇さん。手にチェロ。立ったまま生音で演奏。チェロってこういう音色なんだってことが分かって良い感じ。流石に立っては疲れるので1曲で座って弾き始める。生音。ベースを呼び込む。やっぱり生音。でも響いてくる。緊張感を強いられる。さらにBOSE君もまもなく登場。ただのCDプレーヤー。そこからドラムの音だけ流す。マイク通さずCDプレーヤーのスピーカから。つまりはCDプレーヤ、ベース、チェロのアンサンブル。ぜんぶが生で響く。すごいなあ。でも聞こえるんだよこれが。ホールのせいか楽器ってのがもともとそういう作りになっているからなのか。さらにピアノが登場。ピアニストも登場。BOSEくんは引っ込んでカルテット。生音。耳にじんわりと響く良いコンサートだった。後にPAを介した演奏になったけれどもそれでも極力原音って感じ。喧しくないけれども小さくもない、心地よく鳴り響いく素晴らしいコンサートだった。古いのだと「キリンと月」。あと「エスパス」が聞けてラッキー。残りは「SEASONS」から。やっぱり好きだよ溝口肇。1986年からファンを初めて23年。ずっとファンで居続けよう。だから「ハーフインチデザート」をリマスターで出してくれ。


【9月18日】 「機動戦士ガンダムZZ」のブルーレイボックスが出るらしいけど、それにまったく興味もそそられず、あんまり有り難みも覚えないのは「Z」でもってマイ「機動戦士ガンダム」ライフは打ち止めになってしまっていたりするからで、アニメじゃないと自ら言ってのけてしまった「ZZ」から放たれた物語の、何というか愉快さに隠された平板さに、あまり引きつけられなかったって印象が今もうっすらと残っている。

 振り返って思えば、ハマーン様のチューンアップされたお姿を堪能できる数少ない作品として、見て崇めておきたかった気もするけれども、その後に作られた劇場版の「Z」でもってハマーン様は、ミネバ・ラオ・ザビとともに逃げ落ちて、ジオン再興などを画策することもなく「ZZ」の歴史も大きく変わってしまった訳で、もはや存在しない時空の出来事と決め込んで、見ないで過ごすのもひとつの手だったりするのかもしれない。ってことは「逆襲のシャア」もなかったことにされているのか。「ガンダムUC」はどういった世界線の上に立てられているのだ。

 「ZZ」を見なかった理由がほかにもあるとしたなら、大学の3年時で登下校にそれぞれ2時間もかけていて、夕方にアニメなんか見ている暇がなかったってこともあるし、「ガンダム」なんかが放送される土日はバイトもしていて、やっぱり見る機会もなかったってことの方が大きかったりするのかも。そんなアニメ離れは、この時代にアニメを積極的に追いかけるマインドをちょっぴり損なってしまっていたようで、「Z」終了から間もなく公開された「王立宇宙軍 オネアミスの翼」の劇場公開からも足を遠ざけさせていた。

 あの「DAICON3」とか「DAICON4」のオープニングアニメが上映されたイベントが、1983年頃に名古屋の植田ってところで開かれた時には、外に何時間も並んで見たほどだったのが、3年でこの体たらく。もしも当時もしっかりとアニメを追いかけていて、リアルタイムで「オネアミス」を見ていたとしたら、その勢いに引かれてどこかへと彷徨っていった挙げ句に、人生を変えていたかもしれない。そう思うとちょっと残念。

ヒーローたちのお父さんは自分じゃ飛べないのかそれとも飛べないふりをしているのか  潤がすっぽんぽん。福山じゃないよ上賀茂潤は「夏のあらし」の登場人物で美少年に見えて実は女の子。だけどそれを八坂一には黙ったまま喫茶店の「方舟」で夏の間だけアルバイトをしている。とある夏の日に大雨に降られたカヤと潤はそのまま「方舟」へととって返して幽霊のカヤはそのままでいたけど冷えた潤は暖まらなくちゃいけないと、お風呂に向かって脱いで入ったらおこに八坂一がいた。慌てて蓋の下へと押し込めようとしたけどあれでも男の子。はじき返して飛び出て潤へと迫る一の目が見たものは!

 って時点ですでに気づきそうなものなんだけれど普通だととっても薄べったい潤では両腕で胸を押さえてもそこに谷間はできません。でもって股間は足を重ねて隠しているからパッと見は幼い少年ってとこ。でもってすぐさま落雷で真っ暗になって潤の正体は一には築かれずに済んだというこの一件。でも気づいたら果たして一は潤へと懸想するのか。「夏のあらし」の第6巻だとあらしはそんなことが起こったりしないかと恐れているけど一はあらしさん一筋だから、きっと大丈夫だと思うよ。ってかあの体型で女の子だと分かっても一が潤になびくかなあ。ああいった体型だからこそなびく人もいるかもなあ。

 そろそろ出ていると立ち寄った先で「HEROES」のシーズン3のDVD第1巻を購入。これに10月発売のボックスを買うとちょうど前半が揃ってあとは後半を揃えれば、シーズン1から3までが手元にズラリと並ぶことになる。でも見たのは偉い人に話を聞く準備のためにシーズン3の前半分を見たくらい。善が悪となり悪が善となって混乱していくこの先がどうなるのかが気になったけれどもそれは発売を待ってじっくりと楽しもう。でもってシーズン4もいろいろと大変なことになるみたい。どうなるんだ。そんな偉い人は昨日あたりに渋谷に出没してヒーローが空を飛ぶ後ろでピースサイン。決まってるねえ。

 まるで知らない落合さよりさんって人の描いた「ぎんぎつね」(集英社)って漫画が出ていたんで読む。稲荷の娘のまことはそういったのが見える体質らしくって、稲荷にずっと住んでる眷属の狐の片方、銀太郎と仲良くなって好物のみかんをあげるかわりに占いなんかを手伝ってもらっている。その日も同級生の女子がやってきて恋占いをして、喧嘩を仲直りするには下手に出れば良いといったのに、我の強さからか女子は相手とまたしても喧嘩をして仲直りができず、その八つ当たりをまことにぶつけて占いなんて当たらないと怒り出す。

 自身をなくすまことは銀太郎とも喧嘩してしまうけれどもそおは力で結びついた2人というか1人と1匹。仲直りを果たしてまたいっしょの日々を送り始める。見える体質の人間と得体の知れない存在とが同居するって設定は「夏目友人帳」とか「百鬼夜行抄」なんかと同じパターン。違うのは別に妖怪変化と戦うって訳じゃなく、銀太郎の力もちょっぴりとは借りながらも人間たちが自分の力でものごとに挑み、時には銀太郎が予言してしまったことも覆して進んでいくって前向きさだ。

 ヤンキーみたいで最初の少女は猫好きというところがあって、そこをまことに知られたこともあってだんだんと仲良くなっていく。委員長然と振る舞う女子も本当の自分をはっちゃけさせて2人と仲良くなっていく。自分を変えられるのは自分自身。そのお手伝いを銀太郎はしているだけ。そんな人間の強さになるほど、銀太郎のような存在が忘れ去られていってしまうこともあるけれど、どうにもならなかったことが銀太郎のおかげできっかけが生まれたことも考え合わせると、決して蔑ろにして良い存在ではなさそう。信心は大切に。そして自分自身はしっかりと。依存せず無視もしない自然界と人間との良いあり方って奴を教えてくれる物語、って言えるかも。これがデビュー作なのかな。どっしりとした足とか手とかの描きっぷりが割と好みの絵柄。これからの活動をちょっと注目。


【9月17日】 家庭用では続々と出てくる「機動戦士ガンダム」が題材になったゲームだけれど、業務用では「戦場の絆」が大ヒットしてあちらこちらのゲームセンターにあの丸い筐体を入れて流行した後さいきんまで、これといってヒット作があったと聞かないのは単に関心がゲームセンターに向いていないからなのか、それとも実際にあんまりヒット作が出ていないからなのか。作品としてはたぶんいろいろとあったのだろうけれども、「ガンダム」という作品の中でモビルスーツ戦というものが持つ面白さを、極大化して再現してしまった「戦場の絆」の後では、平面の画面でスティックを操作してモビルスーツを格闘させる「ガンダム拳」のようなゲーム、あるいはビームサーベルをぶつけある「ガンダム・キャリバー」のようなゲームが出ても、どこか遊びの領域を抜けきらない、といったことがあるのかもしれない。

 こうなってはもはやよりリアルさを追求して等身大、は無理としても高さ30センチはある模型の「ガンダム」を無線なり有線で操縦して戦わせる「ロボワンガンダム」のようなゲーム機くらいしか、リアルさに迫力を加えたものにならないのかもしれないけれどもそれも費用がかかりすぎる。ならばと「ガンダム」世界に出てくる言葉だったらどれでもオッケーな「ガンダムぴったん」を出すなり、「ガンダム」を操り向かうものはすべてくっつけていく「ガンダム魂」を出す方がよほど楽しそうだ技術力も活かせそう。癌シューティングの「ガンダムクライシス」でもまあ許容範囲。ぐっと時代を遡って立体のガンダムが寝そべった上に乗って揺れるのを楽しむ「ガンダム馬」。これなら伝統も世に示せる?

 という訳で「アミューズメントマシンショー」。亀井静香さんが晴れて復活の挨拶でもしてくれるかと思ったけれども業界団体のイベントに支援者であっても所管ではない大尽が出るのはやっぱり拙かろうってことだったのか姿は見えず。もっともそんな館内にはあの鳩山首相が来訪しては「うんこさん」ってキャラクターのプライズを宣伝して運(うん)があるところを見せていた。って違った鳩山は鳩山でも鳩山来留男の方だった。まあなるほどたしかに顔立ちは似ているなあ。似ているけれども顔立ちだけだよなあ。顔は超似てはいなくても言動と仕草で似せようとする「ザ・ニュースペーパー」とはアプローチが違うってことで。どっちにしても寿命は鳩山政権次第。しょっぱなから公約がどうとかって話になってしまったけれども果たして突っ走れるかなあ。政権より先にメディアが逝く? その可能性もなきにしもあらざりけりおり。

 ちくわのキャラクターとウインナーのキャラクターが対面で勝負していたり、巨大なテトリスがあったりちゃぶ台をひっくり返すゲームがあったりと愉快な会場。超絶的な目玉はないんだけれどもより簡単に、そして楽しめるゲームってのが主流になって来ているみたい。入っても遊び方が分からない、苦連しなきゃ勝てないじゃあ遊ぼうとしないもんなあ、その意味ではかつての木馬に近いものになってきているっていえるのかも。お金入れたら即遊べ、即楽しめるゲーム。だからガンダム木馬を(やめなさい)。

 景品ではウサビッチってのが歩いていて女史に人気。「イナズマイレブン」はユニフォームが出ていてちょっと欲しいかも。「ハヤテのごとく」のヒナギクとハーマイオニーの抱き枕ならぬ添い寝シーツってのが出ていてシーツにそれぞれが描かれていて、右に添い寝するか左に添い寝するかでプリントする位置をどちらかに寄せますってアンケートをとっていたけどそこはそれ、真ん中にプリントされたヒナギクなりハーマイオニーなりに重なって眠るのが男って奴じゃないのかい。出来れば敷き布団でヒナギク、掛け布団でハーマイオニーが真ん中に描かれた布団にサンドイッチされて眠りたい。きっと幸せな夢が見られそう。そのまま引きこもりからさらに発展したひきねむりってのになったりして。

 男っていったら立つもので、それは精神的にも物理的にも立って男を示すものだろうけれどもそんな男が精神的にも物理的にも折れてしまったらどうなるか。こうなってしまうって話を描いたのが宮沢周さんの「集英社スーパーダッシュ小説大賞」で佳作を受賞した「アンシーズ」って作品だ。とある少年が転校した名門男子校で見学がてら立ち寄った部屋で居眠りをして目覚めると、そこには派手な衣装を着て手に剣を持った美少女がいて何者かと戦っていた。でもって少年に手帳を持たせて助かりたかったら抜刀しろと迫って言う党利にすると。何と立った男が剣になってしまって男が抜けた体は当然にようにそんな感じになってしまったから驚いた。

 でもってそんなスタイルで戦って、男を象徴する剣を折られてしまうと怒ることは当然あれ。でもって少年はなぜか強力な剣を最初から持っていて向かっていた相手の剣を折ってしまう。明けて少年のところには前日に剣を折ってしまった相手が現れ「責任とてね」と迫ってくる。その一方で少年自身にも強大な敵を相手にしてしまった影響が出て体にいろいろと変化が起こる。いったいどうなってしまうのか。ってな感じにトランスな雰囲気を割にシリアスなバトルも交えて描いた物語。最初に出会ったヒカルって少女が謎めいている上に、少年を追い込んだヨロコって敵にも過去に秘密がありそうで、そんな謎にも挑みながら始まる新たな戦いを見せてくれると期待しよう。男を折られる時ってどこかとっても痛いんだろうか?

 そうかやっぱり「東のエデン」の女子人気は滝沢朗人気のことなのかと、聖地な豊洲の映画館で行われた「東のエデン」のラジオの公開録音を見物しながら感じ取る。だってちょっと前の森美咲こと早見沙織さんがみっちょんといっしょに出てきたイベントは、満杯にならなかった上に来場者は1人をのぞいて全員が男、男、男ばかり。それが滝沢朗とそれからセレソンの人でミサイルをぶっぱなした少年役の森田さんが出てきたイベントは、半数以上が女子って感じで名シーンとして上映された2万人のニートがすっぽんぽんで駆けるシーンとか、やっぱりホワイトハウス前で滝沢がすっぽんぽんで現れるシーンをキャーとも言わずに眺めてた。実際んところは水上バスで手を差し伸べる優しさを見せる様な滝沢にきゅんされた人たちなんだろうけれども、そんな人たちが果たして満足できる映画になっているのかどうなのか。公開も近づく映画にかかる期待も大きそう。その前に小説版を読まないと。


【9月16日】 全員がニュータイプ。だから弾は撃てば当たる。そして撃たれれば避けられる。まるで矛盾をそのままいく現象が、「機動戦士ガンダム」の世界観が行き着いた先で起こるのだろうかとついつい想像してしまう。結果は、至らないところを能力で補いつつ誰も突出しない平準化した世界なのか、それとも元の能力なり、別の要素なりに応じて顕在化するニュータイプの能力にも差異が生まれ、格差が現れる世界なのか。分からないけれども描くはとてつもなく難しそう。「HEROES」が、未だ限定された人たちの間だけに能力が現れている世界を描くのに留まっているのも、誰もが能力を得てしまった世界を描く難しさを考えていたりするかなのかもしれないなあ。

 でもって「HEROES」についていろいろと考えさせてもらった日。「チアリーダーを救うことが世界を救うことになる」という論法。上っ面の意味は理解できてもその真意はなにかを考えさせられて、すなわちアメリカではごくごく日常のよくいえば普通で悪く言うならとるにたらないチアリーダーという存在でも、それを救うことから世界というものを救う第一歩が始まるのであってそんなとるにたらないチアリーダーが、意志を強くして世界を救おうとしている姿を見れば、自分だって世界を救うためになにか行動を起こしたくなるだろう? という意味がどうやらそこにはあるのだということを諭される。なあるほど。

 善と悪とが明確に別れてバトルして善が勝つという単純明快な二元論をこそ尊び愛しつつそれでなければ理解できなかったお国柄はとうの昔。あるいは映画のように市場が広いものならそういった考えがまかりとおっているのかもしれないけれどもテレビ番組という、ある程度視聴者の意識に働きかけられるメディアでは長い展開のなかで教え諭していくことによって善が必ずしも無謬の善ではなく、悪もまた究極の悪ではなくって曖昧さの中に右へも左へも傾く可能性がある、だから選ぶのは自分自身なのだという現実に、見ている人を近づけさせることができるようになっているらしい。だからあんなに豊饒なドラマが生まれて来ているのだろうなあ。キャスティング先行で内容は後回しな国とは偉い違う。テレビ局が何を言おうと信念のままに作ってそれを人気という数字によて認めさせてきた国。だからこその勝利が今ある。

 そんな国で働きたかったらどうするか。やはり脚本家から始めるのが良さそうで、もちろん新人賞みたいな登竜門はないから最初はプロのアシスタントとして脚本家の書生めいたことをしてコピー取りからお茶くみから雑用から何から何まで請け負いながら信じてもらえる身になり、仕事についても才能を感じてもらえるようになってそこで初めていざ穴があきそうだ、あるいは外にだれか良い人いないと訪ねられたプロが、うちに頑張っている人間がいて力量もなかなかのものだという推薦を行ってそして最初の突破口が生まれ、そこから次ぎへと進み制作からプロデュースへと進んでいくって段取りがやっぱり大切みたい。年月はそりゃあかかるだろうけど人生いまどき80年。30年も伸びた現代なら50歳だて20歳の気持ちで1から初めて60歳で端緒をつかみ65歳で新進気鋭、70歳で一流の名を得るって道も、あって悪くはないかもなあ。生きていられるとは限らないけれど。うーん。

 山はあったし落ちも面白かったけれども意味だけがあんまり無かった「突入! 痛戦車小隊」(朝日ソノラマ)の“痛戦車”。炭酸ガスの排出権やエネルギーの割り当て量なんかを戦争ではなく戦争に擬した戦車戦のワールドカップで決める「ギガンティックフォーミュラ」みたいな時代にあって日本も戦争忌避では経済的にドンづまっていく一方だったんでこれはいかんと総理の号令のもと、大会に出ることに決まって人選が進み総理の養子になっていた美少女が監督として加わることになって、さあ大会に臨むとなったところで何故か戦車に美少女のイラストを描くことになったという。

 そのイラストの可愛さに世界の荒くれたちもKAWAIIIII! とかMOEEEE! とかいって手を出せなくなって我らは連戦連勝かと思いきや、大会の方は極めて真っ当に正統に戦いがくり広げられ美少女イラストの効用はまるでなし。敢えて言うなら反戦の機運もまだある日本への先鋭的なイメージの緩和くらいだろうけれど、そういった効果に言及はしておらずとりたてて意味はなし。美少女の監督もコスプレはなし。うーん。まあでも戦車戦で世界のトップを決めるってアイデアは面白いし、ちょい未来の戦車技術の競い合いって状況も分かってミリタリーのファンの関心は誘いそう。しかしどうして痛戦車? そこにひっかる人が大勢いそうだからかなあ。だとしたら吉岡平さん、すっげえ商売人。とっても正しい商売人。

 これはあるいは自らの言辞どおりに自民党をぶっ壊してのけた小泉元首相よりも深慮遠謀な作戦で、メディアは政権政党に自分たちの気持ちを忖度してもらって、責任をあちらにも負わせつつこれまでの特典を確保できて一安心しているように見えるけれども、実は裏ではそうして一安心しているメディアの様子を世の中にあからさまに見せてしまうことで、結局は問題はそうした旧来からのスタンスを堅持しようとしているメディアの体質にあるんだということをくっきりと浮き上がらせて、世間の非難の矛先を民主党の態度からメディアへと向かわせて、一気に叩きつぶそうとしていたりするのかも。共闘を持ちかけられた挙げ句に梯子を外されワルモノにされる可能性。メディアは想像しておくべきだろうね。

 だってあれだけ開放開放といっていて、開放しなかったら開放しますといって選挙にも勝った民主党被るダメージは半端じゃない。普通のメディアはやった守れた取り込めたと一安心できたとしても、すでにして情報として周知されてしまた事態がひっくり返ってしまったことは、世間の誰もが分かってしまっている。そうしたことへの反発の声が本当に起こり始めたのを受けて、だって昔からの皆様がひっくり返す方へと導いたんですごめんなさい、ってやった時にダメージは今度は昔からの皆様が強く激しく被ることになる。何だお前らがやっぱり責任の主体なのかって言われることになる。やっぱりねえと誹られる。だからこそぶっつぶせと憤られてそして今度は誰も守ってくれない。今を守れたと安心し守らせたと悦にいっているその背中から、弾が飛んで来る可能性を存分に予想しておかないと、いざというときに逃げ出せないから要注意。といってもそこで変われないのが旧体制って奴なんだろうなあ。それともやっぱり民主党が、世間の非難に気づけないくらいの阿呆なのか。


【9月15日】 誰もが投資したがる案件ほど誰からの投資もあり得ない、ってところに投資で儲ける難しさがあるのだろう。たとえば「機動戦士ガンダム」が、広く投資家から資金を集めて新作映像を作るといった話があれば誰だって1枚噛みたくなるだろう。愛着って部分もあるだろうが、重要なのはやはり作品が持つバリュー。それなりに確実に回収できそうな安全牌に投資しない手はない。

 もっとも、というよりだからこそ「ガンダム」に投資できる人たちは、これまでの内輪に限られてくる。外部に儲けさせるくらいなら、内輪で儲けを最大限にするのが定石。だから「ガンダム」のファンドは世に出ない。そして出てくるのは微妙な線のものばかり。二の足を踏みたくなるような作品には投資は集まらず、作られたものも売れず回収は難しく、分配はできず投資家は損を被りそしてファンドの評価は地に落ちる、と。新たな投資を招くような仕組みも生まれない。

 あるいはここで「機動戦士ガンダム」が一肌脱いで、投資の仕組みを世に見せ成果があることを示しつつ、エンターテインメントへの投資の有効性を見せておくことが、将来の業界の発展につながり、ひいては「ガンダム」プロパティの利益の最大化にも繋がるんだという認識が、あって手を挙げてくれれば面白いのだが、そうもやっぱりいかないのがこの業界。それに「ガンダム」だっていつまでも、どれでも確実だという神話はすでにない。

 代わりになり得そうなのはやはりスタジオジブリのプロパティ、ということになるのだが、これはいくら資金を集めようとも肝心のコンテンツがなかなか生まれないから難しい。間をとって量産型で期待も出来そうな感じが漂っている押井守案件が、世に出てくればきっと話題になるだろう。でも実写は……とか、アニメなら……とか、犬が出るんだったら……といった言説が飛び交って、売れたり売れなかったりもしそう。やあエンターテインメントの資金調達は、とても難しいものなのだ。

   面白そうだと思ったことは確かだったけれどもその後、どうなるかってところについては運用次第だなあとも感じたっけかと、記憶を掘り起こして浮かんでくるジャパン・デジタル・コンテンツ(当時)による「グラビア・アイドルファンド」の発表会見。確か西麻布のクラブめいたスペースで開かれて、当のアイドルたちとそれから関係者が一同に介した会見を見ながら間近に見られるアイドル(の卵)たちに、目をギラギラとさせたっけ。もちろん記事にも書いた。

 当たるも八卦当たらぬも八卦のエンターテインメントビジネスなだけに、投資する人たちも命とまではいかないまでも、結構な人生をかけて投資する。それが当たれば一攫千金だけれど、外れればそのまま貧乏農場行きでリセットの効かない現実社会。それだと投資の額は増えず従って巨額の投資も出来ないまま、世界を相手に商売をする欧米とかが世界で回収できる見込みから、ものすごい金額を投資して作る作品に、押され負けて日本のコンテンツ業界は壊滅の一途を辿るかも、なんてネガティブな見通しもあって、リスクを分散しつつリターンも得られるような、新しいエンターテインメント向けの投資の仕組みが必要だって話になっていた。

 そこに生まれた打ち出の小槌。いやそういうと魔法の杖めいているけれども、リスクを下げつつ投資の金額も小口化して、誰にでも投資しやすくして多くから出資を募り金額を増やす一方で、投資先も選んで確実性の高い案件に対して投資していくようなファンドの手法を取ることで、よりよいコンテンツがよりたくさん、生まれてくるって未来を予感させてくれた。実際に「グラビア・アイドルファンド」はまあそれなりにまとまった模様。あとはだからそんな仕組みをどう確実に運用していくか、ってところにかかっていたんだけれど……。

 アニメのDVDがそれこそ7万本とか売れなきゃ回収できないようなスキームを引っさげ堂々の会見をしたあたりから、ホンマ大丈夫なんかねえって気持ちも湧いてきた。応援したい気持ちはある。それが成功して欲しい気持ちはアニメファンとして強くある。出てきた作品だってとっても素晴らしいものだった。ファンドがあったお陰で傑作が生まれた。けれども……。

 傑作が必ずしも商売に結びつかないのもエンターテインメント業界の常って奴で、そこをうまく差配して、傑作ではなくてもそれなりな数量を稼ぐタイトルも合わせて作ってトータルで、損は出さず儲けが出れば出すようにしていきつつ、作品の質も量も向上させ、投資金額も増やしていけるような流れが生み出せれば良かったんだけれども、どこかで無理が生まれたのか、そもそもが最初の計画から無理があったのか、分からないけれどもどこか至らなさが見え始め、そして今日へと至っていく。

 もったいないなあ、というのがとりあえずの所感で、うまく育てればなかなかな仕組みになっただろうものが、うまく育てられないまま、周辺も引きずり込みつつ沈んでいこうとしている。エンターテインメントへの投資はリスクが高いもの。アニメファンドなんて絶対に回収は不可能なもの。つまりはアニメは儲からないもの。そんな印象ばかりを振りまいて共倒れへと向かいかねない雲行きもあって、先への心配もわいてくる。

 何が足りなかったのか。そもそも最初から無理だったのか。投資先を見る目、ってのもやっぱり必要だったんだろうけれども、そうやって作品が“分かっている”人たちが作っている映画だって、やっぱりヒットにはほど遠い。かといって投資効率一本やりでも巧くはいかない。何かが足りないのだろうか。足せばどうにかなるのだろうか。考えたいけどそんなよそ様のことを考える余裕なんてないうちに、足下が崩れ始めているかならあ、活字メディア業界は。活字メディア業界ファンドとか作ってくれたら嬉しいんだけど。利回りはトイチ?

 それにしても何でリャン・チーはあんな格好をしていたんだろう「CANAAN」。アルファルドを誘いたいっていってもアルファルドにはその気はなさそうだし、あっても興味を示すのはカナンくらい。いくらリャン・チーがハイレグもバッチリと決めて出てきたってピクリとも動かないだろう。動くところもないけれど。まあだからつまりはファンサービスってことで、下からのアングルも多彩に見せてくれたアルファルドとの戦闘シーンは、記憶に残る1場面になったんじゃなかろーか。あれをクッキリと見たいが為にブルーレイディスクを買ってもいいかも、って思ったかどうかは内緒。でも良いものだた。ハッコーも悪くはなかったけれども横からあけじゃあなあ。あれはしかしヤっていたのか。声を聴かせると震えたりしたのか。うーん。まあ良いあとは最後の決戦ってことでカナンの戦いっぷりを楽しもう。ビジュアル的にはあんまり美味しくはなさそうだなあ。

 一般紙ですら書いているんだからスポーツ紙が書かないはずはない、ってことではあるけれども流石に「東京スポーツ」のエロ面に出てくると何かやっぱりイケナイことをしているのかもって気にさせられるなあ「ラブプラス」。堂々「少子化問題の敵は『ラブプラス』」だなんて見出しでもって、「あまりにもよくできているために『ラブプラス』に夢中になりすぎて、現実の彼女に『浮気だ』と怒られる人まで出てきている。彼女がいない人がハマってしまうち、現実に恋人を作ろうとう気持ちすらなくなってしまう」なんて評価がされている。そのとおり。ちなみにライターは安田理央さん。一緒に「ドリームクラブ」も紹介していて「これまた風俗産業の敵になり得る存在だ」なんて高評価。目配り幸どいているなあ。


【9月14日】 連邦だって善人ばかりではないしジオンだって決して悪とは限らない、ってところに「機動戦士ガンダム」が、後々まで支持されジオンのシャアにもモビルスーツにも人気が集まる要因になっているんだけれども、パッと見の構造はやっぱりガンダムを擁する連邦を善としつつ、侵略したジオンを悪と対置して考えてそんなに外れてはいない。余地は残しつつもあんまり善悪を入り乱れさせると、子供じゃあ理解できないだろうし描いている方にも揺らぎが生まれて収集がつかなくなる。仄めかしつつまとめつつ、考えさせてとりまとめる。そんな塩梅の妙がきっと「機動戦士ガンダム」をそれまでとは違った作品として、けれどもそんなに激しくは違っていない作品として認識させたのだろう。

 訳あって「HEROES」のシーズン3を初っぱなから一気に見る。なんつーか、あれだ、力って奴は誰でも持てば振るってみたくなるもので、それが悪のためならもちろんだけれど正義のためでも己の正義なんざあ誰かの悪との裏表、どこかに歪みが生まれて不幸が生じてしまうものだ、ってことを強く激しく感じさせられる。婆ちゃんは世界を救うために組織を作って悪人能力者を捕らえまくっているけれども、手下の眼鏡親父はその悪が未だ悪に染まりきっていない頃から悪だと決めつけ、促し追いつめ事故を起こさせそれでも悪に転んだって感じに決めつけ排除する。悪の権化のサイラーだって昔はああじゃなかったし、今でも決してそうではないみたいなのに。

 爺ちゃんの方はもっと苛烈で、信じる正義のためには子供たちすら殺して排除しても心に一切のおとがめ無し。そのせいで婆ちゃんに排除されかかったけれどもそこはそれ、悪の正義は滅びないとばかりに姿をさらしてパルパティーンの如くに君臨し始める。インドの科学者は恋人の能力を排除する研究をするといった口が、すぐさま転じて能力を自分にも天下する方向へと回っては、自分を追いつめ変えさせ悪へと走らせ人を殺めさせても恥じない身へと向かわせる。何とまあ身勝手な。

 純情可憐なクレアだけは悪を憎んで正義を貫く元気な子、なんだけれどもその正義が父親の諫言やらピートの傷ついた姿やらであっちに触れてこっちに揺らいで、結果的には良いように利用されるだけのどっちつかずになっている。死なない、ってだけの力しかないのに、それで火を放ちブラックホールを造りだし人を操る能力者に勝てると信じている直情的なところも見ていてイライラ。それが若さというものだけれど、そんな若さを導く存在の見えなさが、この話の先もまた見えにくくしてしまっている。いったいどこへと落とそうとしているのか。迎えるエンディングは果たしてあるのか。それは正義が勝利するのか。悪がすべてを手に入れるのか。

 そりゃあ正義を悪の二元論では語れないのがこの世界。だけれどもそこを貫いて流れるポリシーってものがなければ、人は導いていけないはずなんだけれども、未だ群像のそれぞれが正義とは、悪とは何かを定めきれずにフラついているあたりに「HEROES」ってドラマの突き当たりつつある壁ってものがあるのかも。むしろそうした決めきれない難しさって奴を散々ぱら考えさせたその後に、壁を突き抜けさせてみせた上で過去、そうしたヒーロー物が辿り着けなかった境地へと至る可能性もあるんだと、そう思えばなるほど先への興味も湧いてくる。今は迷わせそこから未来を選ばせ導く物語。なのかもしれないなあ。知らないけれど。ティム・クリングに聞いてみたい。

 未だ描かれざる県予選個人戦が先に描かれてしまった「咲−Saki−」は残る話数も少ない中で全国大会に向かうのかそれとも件レベルでの後夜祭って感じにまとめるのか。原作の方が歩みも遅くてようやく個人戦もクライマックスといった辺りなだけにそっちへの影響なんかも気にかかるけれどもとりあえずアニメ版をなぞるとしてもその決着に半年1年をかけてそして全国大会へと進んで予選本戦決勝戦といった段取りを汲むとしたら終幕はだいたい5年後あたりと見ておくのが最良か。その頃にまたアニメ化となって本戦から描くかそれとも最初っから再び描き直していくのかどうか。「セキレイ」みたく寸止めしておけば続く余地もあったけれどもこれではちょっと難しいか。アニメ化作品にありがちな、アニメ終了と共に終わってしまった作品になってしまうような事態に至らないことを祈ろう。「隠の王」だって「ソウルイーター」だってちゃんと続いているんだぜ。

 今月のビーズログ文庫は新作新シリーズもいっぱいあって味わい尽くせるって感じ。香月沙耶さん「」ハミルティアの花庭 〜壊しの聖女と赤炎の王子〜」(ビーズログ文庫) は花から宝石を咲かせることができる貴族と王族がいたりする王国が舞台になっているけれども、そんな貴族でも位の低い貴族の娘として生まれたセラフィーナは、幼い頃から高価なものを選んで壊すようなところがあって長じて都にある学院に留学しては、庭で富貴花を咲かせて石をつくる作業をしてもやっぱりうまくいかず、石になるどころか最初の年は虫になって飛んでいってしまって都中が大騒ぎ。翌年は虫にはならなかったものの得体の知れないドロドロとしたものが生まれてしまって辺り一面を汚泥を悪臭にまみれさせる。

 こりゃもうダメだ見込みなし、ってことで退去を命じられた番に、ペットの猿だか何かが逃げ出して追いかけていった夜の庭園で出会ったのが1人の男性。手から富貴花を咲かせようとしていたその時に飛び込んでしまったものだから、セラフィーナの手が触れてしまった富貴花はサラサラと崩れ落ちてしまう。高価なものならその花びら1枚で一生だって食べていけるくらいの貴重な逸品を破壊したとあって、咎めもあろうかと覚悟していたらなぜかその男性はセラフィーナを嫁にすると言い出した。そりゃあもう従うしかないと言って帰った翌日に、セラフィーナは男性が第2王子だと知りその妻に迎えられたと知って驚くかというと割に淡々とした性格なのか、そのまま臆せず王宮に入ってそこで王子がの能力を知り、置かれた立場を知り王宮に渦巻く陰謀にも巻き込まれつつ自分の居場所を見つけていく。

 第2王子も第2王子なら王位を継ぐ第1王子もなかなかのヘンタイさん。科学大好きなところがあって機械に興味があるセラフィーナとも話が合ったりしてあるいは2人の間に何か芽生えるかというと、そこはお互いに自重しているし自認していて広まらない。むしろ周囲の兄弟は不仲だという説に配慮してお互いにあんまり近づかないようにしなくっちゃとすら思っているほどの理解度で、そんな英明な兄弟がいてもなお親の王は愚鈍なのかと理由が知りたくなって来る。まあそういうものなのか。ちなみにセラフィーナが作り出してしまった虫も汚泥も第1王子の手にかかっていろいろと試されている模様。何とまあ酔狂な。


【9月13日】 ミノフスキー粒子が電波を遮断し通信もレーダーも使えなくなるんだとしたら集中豪雨で1メートル先まで見えない状態でモビルスーツの運用は可能なのかと考たけれど、「機動戦士ガンダム」ではそうした悪天候でのモビルスーツの運用といった場面を見た記憶があまりないので真偽は不明。砂嵐が吹き付けるテキサスコロニーでもゲルググやギャンは動いていたから多少だったら沙混じりの風でも大丈夫なのかもしれない。集中豪雨で運用が不可能になるのだとしたら温暖化の影響もあってゲリラ豪雨の頻出するアジア地域でモビルスーツの運用は難しくなるって見方も可能だけれど、その場合はそうした季節の運用を避けて秋から冬を経て春先の、豪雨が少ない季節に限定した戦いをするようになるのだろうか。なる訳ないよサッカーじゃあるまいし。

 とはいえ日本ではそんな季節を避けたい、というより単純に何かやったことを世に示したいという欲得がどことなく漂っているような気がしてならない爺さんが、夏をはさんだ春から晩秋のシーズンを改め秋から春へと流れるシーズン制への移行を画策していたりするサッカー界。曰く夏は暑い上に雨も多くてサッカーにもその観戦にも不向きだってことらしいけどそれをいうなら冬だって雪が積もってサッカーどころか練習すらおぼつかない地域が各地に発生。なおかつ昼間だって寒さに震えるようなこの国で果たしてサッカーを見に来てくれる人がいるのかどうか、むしろ夏でも涼しい夜の方が観戦してくれるんじゃないのかって主張も可能だろうけれど、こうと決めたら他人の意見はすべて否定して回る性格っぽい偉い人。そんな夏の良さをどうにか潰そうといろいろ目論んでいるに違いない、なんて想像すら浮かぶ。

 鹿島で行われた鹿島アントラーズと川崎フロンターレの試合が、川崎のリードで迎えた後半も途中になって大雨だからと中止にされた件。雷を伴う雨なら選手や観客の安全を考え中止にするのは吝かではないんだけれども聞こえてくる情報に“雷雨”といったものはまるでない。大雨によるピッチコンディションの不良。それだけ。でもなあ。サッカーってあらゆるピッチコンディションでも行われるのが普通じゃなかったっけ。雪が積もってたって行われては転がらないボールに四苦八苦しつつも空中でつなぐプレーによってボールを進めてゴールを決める試合すらあった訳で、それが雨で泥沼のようになってたって、行われるのがサッカーってもんだと思ってた。それが今回は雨で中断。どうしてなんだ?

 夏場には大雨が降ってピッチが不良になることがあるからサッカーには向かないんだってことを、ここでひとつ証明しようとしたかった。クオリティの高い試合を見せるにはそんな大雨が懸念される夏にはやっぱりサッカーの試合は行われない方が良いんだってことを、ここで世間に認識してもらおうとした。そんな背景があって指令が飛んで中断されたんじゃないのか、っていった想像が浮かんで頭からなかなか消えてくれない。まさかとは思いたいし仮にも大人な偉い人たちがそんな幼稚な陰謀をめぐらすはずもないって信じたいんだけれども、言動の数々に頑なさしか感じられないこれまでを振り返ると、そうした“反夏”的な意識が偉い人たちの間に醸成されていて、恵みの大雨にこれはひとつのチャンスをパフォーマンスに打って出た、なんて想像がやっぱり浮かんで離れない。

 だったら大雨が降る9月だってサッカーできないじゃん、でも9月には開幕してないとシーズンの間に試合が終わらないじゃんってことになるけれど、そうした“事実”には目をつぶってもやりたいことをやり抜くってのが偉い人たちのスタンス。9月でこれなら8月はさらに酷いとかいって夏だけを除外する挙に打って出ることになるんだろー。これがもしも本当だとしたら、11月に大雪が降ってもきっとサッカーの試合は行われて途中で中断になることはないだろう。なぜならサッカーはどんな天候でも行われるべきスポーツなのだから。言ってることが矛盾しているって? 偉い人の頭の中には矛盾なんて言葉は存在しないのだ。参ったなあ。

 朝から3人と立て続けにデート。まずは姉ヶ崎寧々さんとカラオケに行ってそこでもっといっしょに居たいと言われたので動物園に行ってキリンを見る。キリンじゃない方が良かったのかな。家まで送り届けていろいろ帰り際に別れたくないそぶりを見せられたけれどもフィニッシュには届かず。焦らしに出てきたか。それから高嶺愛花さんとデート。実に積極的で待ち合わせの駅でいきなりラブプラス。もっと清楚なお嬢様だと思っていたのに。それともお嬢様故のフランクさ? そんな愛花さんと歩いていると向こうから服を着た羊がやって来て、愛花さん曰くあの服ウール? だとしたら仲間のを着せられて可愛そう、とのこと。心の優しい人だ。ってかどっかやっぱりズレてるぞ。凛子とは遊園地へ。ジェットコースターもお化け屋敷も嫌いなのか。これまた見かけに寄らないなあ。ってところで彼氏力(かれし・ぢから)を消耗。貯めて頑張ってまたデートだ。現実に戻れ? 僕にはこれが現実、これだけが現実なんだよう。

 秋葉原へと出てソフマップで「ラブプラス」が並んでいる様子に品切れ状態は解消された模様かと思ったものの午後にはどうなっていたかは不明。そりゃあ「ドラクエ」「ポケモン」にはかなわないけど異色の内容で新規のプロパティとしては頑張ってる方なんじゃなかろーか。20万本まで届けば万歳だけれど果たして。そこから水道橋まで歩いて「ジャンプショップ」なんかを舐めつつ周囲を見渡すと女の子ばかり数万人。近所のコンビニで弁当をかって駐車場でしゃがんで食べている子とかもいたりして、何がオーディションでもあったのかと「東京ドーム」に近づいていってジャニーズな何かがあったと気づく。来ている子の歳が中高生あたりだったところから見るとまだ若いグループか。女の子の姿を見放題なのは良いけれども見過ぎて胡乱がられてはかなわないと退散。しかしあれだけの動員力をいくつものグループで誇っているところにジャニーズの強さってものが感じられるなあ。モー娘。にAKBでドーム満杯にはできないもんなあ。

 道中に読書。「エパタイユカラ」が興味深い設定だった高岡しずるさんが1シリーズを間に挟んで始めた「花は後宮にあり!」(ビーズログ文庫)は地方出身の女の子が子供の頃に仲良くなった男の子のことが気になって、少しだけ長じて都へと出て後宮で働く仕事に就きつつ男の子を探そうとするってところからスタート。到着するといきなり官僚的な対応で戸惑っていたら、そこにお后様なんて偉い人が現れ少女を中へと案内する。何って親切な。でもって入った後宮で事務をやるか掃除をやるか調理をやるか迫られたもののどれをやっても失敗続きで叩き出されそうになった少女を、親譲りの嗅覚の鋭敏さが救いお香を調合する部署へと配属されることになる。

 同室では調理人を目指すスレンダーな少女がいて、それから新しくちょっぴり不遜な態度を見せる少女もやって来てちょっぴり華やか。楽しい日々が始まったものの主人公は愛しい彼の情報を求めて歩き回った挙げ句、その少年と同じ名前の少女が後宮で死んでしまっていたことを知る。それは同一人物なのか。違うとしたらいったい少年はどこに消えたのか。その名前を広言することすら憚れる状況にあっただけに、主人公の行動は何者かを刺激してしまったようで彼女に危機が迫る。それでも思いを貫き探求に励んだ果て、主人公はひとつの悲劇にたどり着く。ミステリー的な要素から真相へと向かう展開も面白いけれど、謎解き以上に漂うのは、仲間を思う気持ちの尊さ。それを自分の独善にも似た思いによって壊すような主人公の態度にちょっぴり鬱陶しさも覚えるけれども、そこでいたずらに正義感を振りかざさず、秘すれば花と引っ込めることによって物語はどうにか収まった模様。目的を果たしてしまった少女に新たな冒険があるのか。あれば続きも生まれるんだけれど果たして。


【9月12日】 「月刊ニュータイプ」の2009年10月号ではゆうきさまみさんがお台場にあった「機動戦士ガンダム」の等身大立像を見に行った話を描いてて、見に行く来がなかったところを見るべき人だと引っ張り出された下りにそりゃあ見るべき人だろうと同意しつつそんな感じに見に行くべき人のいったいどれくらいが見に行ったのかを調べてみたくなって来た。安彦良和さんや大河原邦男さんは行ったのかなあ。富野由悠季監督はオープニングにいたから当然いたんだろうけれど。あとは業界にひしめくガンダム人(がんだむ・びと)たちか。現地で有名人に出会った話、あんまり聞かないもんなあ。トニーたけざきさんは見たのかな。見ていたとしたらどんな感想を漫画に描いてくれるのかな。

 引き続いて「ラブプラス」はリアルタイムモードなんでとくに大きなイベントもなく淡々と続く日常。最近電話かけてもあんまり呼び出されてくれないケースが増えてきたのは熱が冷めたのかそれとも焦らしって高等戦術か。ジャンケンは勝つと着替えてくれることがようやく分かってきたけれども本当に声で判断して勝敗を決めているのかランダムにやっているのかが今ひとつ。まあどっちでもいいや。コミュニケーションってのはそうした齟齬があるから波が生まれて進展するんだ。知った風な口を聞く。髪型の変更はとくに行われず。そりゃあリアルタイムモードでつきあい始めて1週間で好みの髪型に変えてきましたってんじゃあ、受ける方もちょい引くもんなあ。こういうのはじっくりと。それが恋愛ってもんだ。とまた知った風な口を聞く。経験なんぞない癖に。御免。

 「ブラクラブプラス」ってのをふと思いつく。「ブラクラ」こと「BLACK LAGOON」が題材になった「ラブプラス」で現れる彼女候補は当然ならレヴィにロベルタにバラライカ。史上最凶の3美女をロックになってどう攻略するかってゆーゲームで最初は出会ってしょっぱなから、レヴィにジト目で睨まれケツけっ飛ばされ、バラライカにスキッチェンで蜂の巣にされかかってヒールで串刺しにされ、ロベルタに万力のような力でもって首をねじ上げられては床にたたきつけられたところを両足でもって踏みつぶされるんだけれどもそれでも怯まず声をかけ、デートに誘いメールを打って電話をかけラブプラスモードで銃の訓練や体力の増進や敵の拷問に励む彼女たちとお喋りを楽しんでいると……。

 朝に家を出るとロベルタがセーラー服にお下げ髪で立っていては黙って無言で後をつけてくるようになり、帰り際には下駄箱に変形ブレザーで胸元も露わなバラライカが一緒に帰るだろうと喋りかけてきて現れる選択肢は「一緒に帰る」「断ってロアナプラの港にコンクリ詰めで沈められる」しかなく一緒に帰りながら銃の自慢を聞かされ、そして帰宅して外出すればコンビニでレヴィが暴れているのを殴られながらも取り押さえて釣り銭をごまかされそうになったというレヴィの明かな計算ミスから出たグチを聞かされ反論も出来ずに真夜中まで付き合わされ、帰って寝て起きると今度は部屋の隅にロベルタが立っているという毎日が続く。

 体育祭では体力バカな3人娘が競いあう様を見せられ誰が1番かで喧嘩する3人から逃げようとして判断をもとめられて良いあぐねていると引きずり込まれてフクロにされ、誕生日のお祝いに寄越せと要求された銃を買いにいっしょにガンショップへと出向いては蘊蓄を3時間ばかり聞かされその間は電源も落とせなければスキップも不可な状態になっている。聞き終えるとそれでも1挺、好きな銃をかってもらえるんだけれど相手によって選ぶ銃を間違えバラライカの前でワルサーとか行ってスキッチェンで撃たれレヴィの間で日本刀とか選んでソードカトラスのグリップで殴られる始末。ロベルタは基本何でも好きそうだから良いんだけれどもその分、洗練ぶりを求められ趣味に走れば蹴り殺される。何て素敵な昼下がり。そんな日々を繰り返した挙げ句に誰かとの間にフラグが立って告白されてそして始まるエンドレスな彼女たちとの毎日は。

 バラライカなら1時間置きの連絡を書かすと浮気していると疑われ、配下の屈強な男達に拉致され簀巻きにされて引っ立てられてお説教。ロベルタは常に背後に付き従っているからお説教など無縁だけれどもそこから逸脱する行為なんぞしようものなら鋼のような体で羽交い締めにされ引きずられては部屋に閉じこめられてて、ロベルタの歌を聞かされながらの8時間を過ごす羽目となる。もちろんスキップ不可だ。そしてレヴィ。開放的で本命は自分だけだと分かっているならたとは自由だぜ、って鷹揚なところを見せつつも道ばたで出会ったローワンの店の女と話しているとどこから飛んできた弾丸によって目の前で彼女の頭が弾け飛ぶ。さすがにエダくらいになると敏感に察知して避けるけれどもその後に降り注ぐ連写が自分に当たりそうになるからたまらない。

 結局はレヴィ一筋のところを見せていると部屋にやって来たレヴィが料理とやらをやり始めて、消し炭と泥を食わされる羽目となる。そんな日々を重ねて得られるサービスカットは3人が3人とも腹筋が割れた水着姿。あるいはバラライカのブルマーにロベルタのメイド服にレヴィの褌。ってロベルタ今でもメイド服じゃんってのはさておいて、御歳いったい幾つなのかのバラライカのブルマーは、いったいどれくらいのインパクトを与えてくれるのかに興味も募る。さらにあこがれのキスシーン。バラライカはこめかみに銃を押し当てられて巧くなければ撃つとか脅しロベルタは両腕で頭をつかまれ押しつけられたまま3時間という至福に昇天させられる。レヴィだけは案外に純情でやめてとか言うんだけれどだったらやめようと言うと目がすわって説教し始め逃げようとすると撃たれ引きずられてそして再び求められる理不尽さに見舞われるんだろうなあ。何て楽しそうな「ブラクラブプラス」。是非にコナミデジタルエンタテインメントには作って頂きたいとお願い。

 青物横丁の台形ビルで映画を見て原作のゲームは1本もやり通したことがないトウシロだけど見れば世界観は何となく分かりキャラの立ち位置も見えて展開も理解可能なところはそうしたジャンルに対する免疫があるからなのか、映画としてちゃんと理解させようとしているのかを考える。半々だろうなあ。絵はちゃんとしたもので動きもなかなか。原画に西尾鉄也さん中澤一登さん中嶋敦子さんの名もあった。どことやっていたんだろう。作ったのが天下のプロダクションI.G.が作っているなら、ちゃんとしていて当然って声もあるだろうけど「チョコレートアンダーグラウンド」だってIGだし。そういえば「AERA」に石川光久さんの評伝が出て読むと「ホッタラケの島」って滅茶苦茶ヒットしてそうな印象だった。本当か? 1年前倒しにしてフジテレビ開局50周年に合わせさせた亀山Pの話とか出てくるけれど、それに見合った宣伝ってされていたっけ? 50周年が多すぎて逆に埋没してしまってんじゃん。

 それはさておき映画はおっさん隊長がかっこよかった。騎士団に所属している女性キャラの双子の2人は顔も背丈もそっくりなのになぜかデカい方とそうじゃない方が明確に区別されていた。どこがデカいかは想像にお任せ。最初は同じ2人でそれなのに走っていて揺れたり揺れてなかったりするから作画ミスかと思った。ストーリーとしてはここから本編のゲームにつながっていくのかな。幼なじみが騎士団で再開して出向いた先で起こる事件は正義のあるべき組織の中に浮かび上がった非道さに、主人公の1人が脱藩していくまでが描かれた映画の先に、長じて再開した2人が立場を違えながらも1つのことに向かって進んでいくってストーリーが描かれているんだろう。ゲームをちょっとやってみたくなって来た。そこからりんかい線とJRで蘇我へ。いろいろあったが何もなかった。没落の時は迫る。


【9月11日】 そして10日が過ぎてすっかり「機動戦士ガンダム」についての話題は世間から遠のいた、って言ってもそれがお台場に立っていた時だって連日連夜の報道があった訳ではない。ただあるとないとではやっぱり違ってあれば何かにつけて話題にできるけれど、ないとまるで話題にしようがない。神戸にはまもなく鉄人28号も立つみたいでそっちへと話題をさらわれそうで、いったい「ガンダム」はこれから何で食っていくのか。カップヌードルか。カップヌードルは食えば美味いけれどもそれだけじゃガンダム関連企業の全部が食える訳じゃないもんなあ。動きあれ。

 「ビジュアル7」って別にまだ完結してなかったよなあと思い起こしながら辺見えむさん「おくにぬ! 憂鬱の神々と救世の徒」(ビーズログ文庫)なんてのを読んだら世界がいきなり滅びてた。うわあ。でもってそこから少女が2人ばかり過去みたいなところに飛ばされるとそこではオオクニヌシとアマテラスが喧嘩の真っ最中でそして少女は携帯電話に宿った神、というか神が携帯電話に姿を変えたのを持ち歩いては坂本竜馬と出会い織田信長に負われ中大兄皇子につかまってそして大和を変ぼうさせて出雲へと向かう、と。

 うーん何かすごい。現世の偉人が妖精の世界だかに飛ばされそこで暴れる話は「ヤングキングアワーズ」で平野耕太さんが描き始めているけれども、それに負けない破天荒さに独特のベタベタしてない描写が重なって妙にコミカルな少女の大和珍道中物語になっている。もうひとりの飛ばされた少女の神さまなんてフェアレディだもんなあ。スポーツカーの。そんな形に変われる神さまが僕も欲しい。GT−RのVspecに変わってもらって高速道路をぶっとばすんだ。

 なんていうかどうでもいい。あるいは現実に実現が可能な方法論で臨むべき。それなのに無理筋な1点突破にこだわり続け、大上段に構えて威嚇だけする態度が共感ではなく反感を募らせ、寂寥感を生んでなおいっそうの離反を招くのだということをこの3年くらいで存分に学んで来たはずなのに、ライトな感覚の人たちなり、旧態依然とした価値観を引きずるメディアは、揚げ足取りに拘泥してそのまま奈落へとまっしぐらに落ち続けているという、そんな感じが消えるどころか強まっていたりする昨今。どっかの県で当選した民主党の議員が過去に映画でちょっぴりだけど裸を見せていたとか、チアリーダーのコスプレをしていたとか袋とじに出ていたとかって騒ぎ立てているけれど、それのいったいどこになどんな問題があるのか誰も明確にしてくれない。

 というより問題ないじゃん。犯罪でもなければ公序良俗にも反してない。映画って石井輝男監督の映画でしょ。有名監督じゃん。出ていたってことをむしろ栄誉と讃えるべき。なのにネガティブ。カリフォルニア州知事なんて映画で半裸を見せてるぜ。そんなことより重要なのかこれから議員として何をやるかで、そして議員として何をやたのかといったところ。それを見るのが筋だって、世間の誰も彼もが分かって見守っているのにメディアは騒ぎいっしょになって騒ぐ人がいたりするから世間の誰も彼もはやれやれといった感じで眺め、だったらもういいやと背を向ける。ながされやすいと世間は言われるけれども、真っ当さを選ぶ感覚はそんない衰えてはいない。それに乗れない存在は、きっと地デジへの切り替えを待たずに消滅していくんだろう。それはそれで困った話だけれど。

 「iPod」なんかがいろいろ発売になったりビートルズの箱が出たりして物欲をかきたてられる秋。「iPod」の方はnanoに新機能がついてカメラは別にあんまり使い道がなさそうなんだけれどもFMラジオの方は音楽に耽溺したくない時とかにダラダラと聞くのに良さそうなんで興味をそそられ銀座のアップルストアをのぞいたら16GBは品切れ中。ならばと用事のついでに渋谷のアップルストアをのぞいたらそっちには山積みというか店晒しになっていたんで1つ、いつもどうりに赤いストア限定の奴を仕入れてバージョンアップされたiTunesのダウンロードになんどか失敗しつつもどうにか成功。何千曲かを移してさあ稼働ってことになるんだけれども新しいためカバーやケースが未だなく、触るとベタベタして来そうなんであんまり触れたくないんでしばらくは前のを使うことにしようかどうしようか。ラジオってどれくらいの感度があるんだろう? ってかFMなんて最近あんまり聞いてないんで周波数忘れちゃったよ。ベイFMってどれだったっけ。

 んでもってビートズルのボックスは黒いリマスター版と白いモノ版が出ていてどっちにしようかと迷うところ。普通だったらステレオで万全なんだけれどもふと入った渋谷のタワーレコードが、だいたいのアルバムでモノとステレオを聴き比べられるようになっていたんで聞いてみたらうーん、悩ましい。「マジカルミステリーツアー」の「フール・オン・ザ・ヒル」なんかはステレオの方が声の抜けなんかもよくって粒立ちして聞こえるんだけれど「リボルバー」だと「エリナリグビーで歌声がステレオだとところどころ片聞きに聞こえて何か奇妙。

 これがモノだと脳天からもこもこ響いてくるから音楽に浸れるといえば浸れる。普通にセットで音を出して聞けばステレオだって全身に響いて来るんだろうけど普通に聞くのはiPodか、あるいは家でもヘッドホンなんで音がくっきり別れてしまうこてゃ確実。だとしたらやっぱり買うのはモノってことになるんだろうけどどっちがマナーとしては正しいんだろう。って買うかどうかすら本当は決めていないんだけど。ビートルズ。実はほとんど聞いたことがないのです。シティポップの人だし。

 デビュー作とは書いてないからどっかで何かを出していたことがあるのかと調べても見あたらないのが謎だけれども、、受賞未満なリストに名前が出ていたような雰囲気もあるからそうしたところからピックアップし鍛錬して出すいつもながらの手法なのかとも想いつつ、それだったらそう書くだろうから案外に名の知れた人がペンネームで応募していたのが露見したんであんまり新人新人するのもよそうってことになったのかって妄想もしてみたけれどもそうしたことなんで実はどうでもよくって、単純に面白いかどうかってところで判断するなら南井大介さんって人の「ピクシー・ワークス」(電撃文庫)は環太平洋戦争ってこれもどこかで聞いたことがあるっぽいネーミングだけれど、それらのどれとも違う内容の戦争がくり広げられてから15年くらい経った日本にある学校で、成績優秀だけれど態度にはいろいろ難題もあった少女たちにお呼びがかかってとある作業を手伝うようにと頼まれる。

 スレンダーで長身な芹香に和風な奈緒子に眼鏡っ娘だけれどもどちらかといえばどS系な眼鏡女史って感じの千鶴が作る天文部とは名ばかりのマッドサイエンティスト部が、過去に部費を流用してやったロケット打ち上げ実験のカラクリが芹香とは幼なじみの生徒会の会計君に露見し、バラされたくなかったらその彼が裏でいろいろやってた組織の引きからもって来た仕事を手伝えって言われたものでそりゃあ何かと依頼人のところを訪ねると、そこには環太平洋戦争で試作的に作られ使われた無人戦闘機が眠っていた。依頼はそれを飛ばしたいというもので、制御ユニットが壊れていたため有人で飛ばすことになってそして調べていたらとんでもないものを見つけてしまった。飛行機の心です。なあるほど。

 ってことで浮かぶ神林長平的なSFワールド。まあそんな挿話を挟んで先人に敬意を示しつつも話は別に人口知性の人間性めいた話なんかには向かわず、かつて空を飛んでいながら隠されていた飛行機が空を飛びたいという願いもかなえつつ、世の中を攪乱したいという依頼から半ばテロっぽさを含んだ飛行に挑むといった展開へと向かっていく。戦争までした国で自衛のためにしか発砲はしないから未確認の侵入機でもそうそうには撃たれないから有人飛行でも安心だよ、ってなかなかにこヌルいことを言ってくれちゃっているのがやや分からないところだけれど、戦争の悲劇が戦争への忌避感を読んでそうした自衛万歳な体制が、出来ていたとも考えられなくもない、か。とりあえず美少女たちの強気で前向きなキャラは楽しく空を飛ぶ楽しさって奴も味わえる物語。続けば面白いけどその時には猫が空を飛ぶのかな。はいタケコプターとかって出して。


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