縮刷版2009年7月下旬号


【7月31日】 初放送時に10代半ばだった人も30年経った今では立派にお父さん世代。「機動戦士ガンダム」はだからその意味では2世代コンテンツになっていると言えるのだけれど、規模として果たしてどれくらいかというとやはり10代20代のファンの方が圧倒的に多くて、お父さんと子供だけを相手にした商売が成り立つかというといささか難しいものがありそう。

 夏休みの際に客足が途絶えがちになる都心のホテルが、親子連れを狙った企画を打ち出すようになってから数年。今年はあのグランドプリンスホテル新高輪にある、かつて芸能人がよく結婚披露宴なんかを開いてテレビ中継なんかをさせていた、国内でも最大級にゴージャスだった飛天の間ですら親子連れのためのイベントをこの夏の間はくり広げることになったみたい。子供が大好きな電車を集めた「大鉄道博」ってイベントで、入るとプラレールがあったり鉄道模型があったりリニアモーターカーが走っていたりと鉄道一色。シャンデリアの下をリニアが走っている光景にはちょっぴり不思議な印象が浮かぶ。これも時代か。

 本来的にはリアルな模型や鉄道関連のお宝グッズが集まった、鉄オタな人向けのマニアックなイベントだった雰囲気もあった模様だが、それではあまりに来場者が偏る可能性がきわめて大。プラレールを持ち込みリニアを持ち込み親子連れがあれやこれやと体験したり、購入したりして楽しめるイベントにしたのは方向としては間違っていない。親子におけるプラレールやトミカの浸透度は、毎年のサンシャインでのイベントを見れば明確だから。

 ここで想像したいのは、そんなホテルでの夏休みの親子向けイベントに、果たして「機動戦士ガンダム」がコンテンツとして迎え入れられる日が来るとしたらいつ頃か、といったあたりで今はまだ2世代で規模の小さなガンダムも、10年後あたりは親子で楽しむ層もぐっと広がって来るような感じがしないでもない。そうなった暁に飛天の間のシャンデリアを浴びてコアファイターが鎮座し、天上いっぱいの高さにガンダムがそびえたった間を、シャアのコスプレをした給仕があるきラクス・クラインのコスプレをしたウェイトレスが歩いていたりすると面白いのだが、問題はやはりグランドプリンスホテルがどれだけのステイタスをその時期も維持しているか、といったあたりか。立派になり過ぎればガンダムは無理。けれども逆だったら……。それが時代か。

 らめちゃんったらぎっちょんちょんでぱいのぱいのぱいな「大正野球娘。」はひたすらにランニングな日々で全員がバテバテ。散らばって倒れている順番から体力のあるなしが分かるって寸法? だとしたら1番手前で倒れているのは野枝なのか、頭は切れても体力はなさそうだもんなあ。たまちゃんが巴に負けないくらいに体力があるとはちょっと意外。本ばかり読んでいるよーに見えたけれどもあれで案外に鍛えているのか。そんなに重くないのよと最初は軽くたしなめていた宗谷雪だったけれども2度目はどこかに怨念がこもっていた感じ。そう感じさせる声音を能登さん使ったのか。それとも能登さんだからそう感じてしまったのか。本当はいったいどれくらいの重さなんだ。聞くと呪われそうだから聞かない。

 明日に迫っていよいよ気分も高まってきたというか名シーンを思い浮かべて泣ける準備も万端な「サマーウォーズ」の関連書籍があれやこれやと登場の様子。まずは「アニメージュオリジナル」の第4号を買ってこっちはしっかり色味も出ている特集なんかを読みつつ浜州英喜さんや山下高明さんといった作画の人がどれだけすごい作画な人なのかって話を読みつつ誰がどこをどう描いたのかを見分けられない我が作画への無定見ぶりを反省。勉強のために青山浩行さんの「次男も長男もあるか!」シーンとか西田達三さんのキングカズマ大バトルシーンとかの原画を観察して人の芝居の確かさと、アクションの描きっぷりのど派手さに感心。でも劇場だとそういう誰が描いているかなんて気にせずお話にのめりこんでしまうんだよなあ。アニメライターのとりわけ作画紹介は務まりそうもありません。

 とはいえ単に「作画スゲェーー」でも細田守監督からダメだしを出されそうだと収録のインタビューから想像。「アニメである以上は作画のクオリティーは高いにこしたことはない」「ただ、最近の傾向からは、作画のクオリティーに対する評価ばかりが一人歩きしているという印象を受けざるを得ない」「本来なら作品のバランスとのなかで評価されるはずの作画が、その作画の『動き』なり『リアルさ』のみで評価されている傾向があるのではないかと僕は感じてしまうんです」。ごもっとも。

 つまりは描かれている芝居も含めて作画の巧さを評価して、ってことなんだけれどそうした演出面とも関わる部分を果たしてどう見抜くのか、ってところでまだまだ修行が足りてない。前出の青山さんの「次男も長男もあるか!」のシーンだと目線と体の向き方で、主馬が警官の親戚をぶん殴るシーンだと殴りつけた瞬間にぐっと肩が前に出てひじがきゅっと下がるあたりの力の伝わり具合、溜め具合、全身の使い具合って奴か。アニメで見れば一瞬でしかない動きだから果たしてくみ取れるか分からないけど、2度目ということも幸いとじっくり動きの芝居を見させていただこう、としてもやっぱり泣いてしまうんだよなあ。

 なにしろ飛鳥新社から発売された「サマーウォーズ 絵コンテ 細田守」をペラペラとめくって婆ちゃんお栄が電話をかけているシーンを眺めただけでじんわりと涙がにじんで来てしまったくらいだからなあ。その絵コンテ集では巻末で細田さんとアニメ様こと小黒祐一郎さんが対談。「うる星やつら」の絵コンテがアニメージュに載ってたって話ですぐに「面堂はトラブルとともに」の絵コンテの「テッテ的に」と面堂が言うシーンだったと注釈を着ける小黒さんがすごい。よくそこまで覚えていられるなあ。先月の「SFマガジン」のレビューで何を紹介したかすら既に覚えていない当事者には想像もつかない記憶力。あやかりたいけどもはやこの歳では。まあいい今はまだあくまでも観客として楽しませて頂こう。来年はそれすらも不可能なくらいに雁字搦めになっているかもしれないけれど。何だって? 来月すらもはやだって?


【7月30日】 例えば「機動戦士ガンダム」のモビルスーツがアストロガンガーよろしく意志を持つようになって擬人化して、操縦しているアムロ・レイをはじめパイロットたちに反旗を翻したら、いったいどんな展開になるのだろうかと想像してみる。何しろ戦局を最初はジオン公国へと引き寄せ、次いで地球連邦へと傾けさせたくらいに圧倒的な力を持っているモビルスーツ。これが個として立ち上がったら、人類はもはや何をどうあがいても適うはずがないだろう。

 戦車を持ち出したって踏みつぶされるし、飛行機だってたたき落とされる。Gファイターくらいの大きさだったらあるいは対抗できるかもしれないけれども、それくらいの大きさになった途端にモビルアーマーだからと擬人化して、反乱を起こして向こう側。かといって戦艦サイズでは鈍重で小回りが利かずモビルスーツに追いつけない。究極にして絶対の武器。それがモビルスーツなのだということを、きっと誰もが改めて知るだろう。とはいえそこは人類。ならばと人間そのものを強化しハイパー化して生身プラス装甲あたりで抑えて、モビルスーツに対抗できるようにしてしまうかも。人類の進化力を試すという意味でも、そんな想像をしてみるのもたまには良いのかも知れない。

 などと考えたのは「BLEACH」が連載分のアニメ化でストーリーを消化し切ってしまって展開が行き詰まってしまっていて、それならばと持ち出した日常物も水着のサービス回を終わってもはやこれまでと途絶えてしまった関係で、いよいよ斬魄刀の擬人化という展開へと向かってしまったから。圧倒的な力を持っている護廷十三隊の隊長クラスであっても斬魄刀が目覚めて敵方に寝返って仕えなくなってしまった途端に、弱くなって多々寄付せられてしまうとういのは何というかあり得ないというか、そんなに死神たちって力を刀に頼っていたのかと驚かされる。

 個人的には死神たちはそれぞれが圧倒的な力の持ち主であって、何を持ってもそれこそ棒きれだけでも隊長だったら副隊長クラスをあしらえるくらいの達人であって欲しいもの。刀が普通のものになったところでそれで斬魄刀に負けるはずがないって気がしているんだけれどそれだとお話にならないってことなんだろう。原作者はそれでオッケーしたのかな。ともかく始まってしまったシリーズがどこに決着するのかを眺めていこう。灰猫はどれか分かったけれども他はどれがどれなんだ。おお久々にマユリの顔を見たなあ。虚圏に行ったまんまだけれどまだ帰って来ないのかなあ、ってそれは一護も一緒か。話どう進める気なんだろうなあ。

 鮮やかに決まった鮮花のかかと落としを劇場で見た時から久々に観賞、うん見事だ。柔らかい股関節をぐるりと回しながら強靱な筋肉を使って脚を引っ張り上げたその勢いを殺すことなく、重さも加えて振り下ろす動きが小さいテレビの画面からでもしっかりと伝わってくる、劇場だと一瞬だった上に目はほとんどが真っ白い脚に釘付けになっていて、そんな細かい動きや雰囲気なんて噛みしめる余裕がなかったもんなあ。決めた相手も記憶の中じゃあ妖精を操っていた美沙夜にすり替わっていたけど、実際はどこかからか現れた花のお化けだったみたい。あれはいったい何なんだ。

 そんな「空の境界第6章 忘却録音」に続いて劇場では「空の境界第7章 殺人考察(後)」も公開が間近でこれでプロジェクトもいよいよ完結。いつかの「東京国際アニメフェア」でユーフォーテーブルのブースに「空の境界」全7章をすべてそのまま劇場アニメにするぞって発表が行われていてまた無謀なことをと思ったものの、原作のそれなりな浸透力に「住めば都のコスモス荘」あたりからもはや神懸かり的だった制作力を加えて生みだしたハイクオリティな作品を、単館でレイトショー公開して満席御礼を維持し続けることで“現象”へと発展させ、さらなるファンを呼び込み盛り上がって劇場として公開して激情的にOKな状況を生みだした。

 それだけではもちろん作り手の特にはならないんだけれども、そうしてウインドウを絞って流して評判を稼いだことが、漫然と撮られて見られてそれで終わりって今時の構図へとは向かわず、見るためはこれが必須といった気持ちを誘ってDVDの販売にこれまたOK過ぎる状況を招いた結果、テレビ公開という有力なウインドウを経ず、全国ロードショーという形も踏まずに、ひとつの立派な産業としてまとまった成果を上げることができた、っていった感じ? まあ売れ行きから想像するにしっかりとビジネスとして回っているんだろう。でもこれも「空の境界」って線だからこそのリクープで、他のアニメなら何でも可能かというとどうなんだろう「天上人とアクト人と最後の戦い」とかってどれくらお客さん入ったんだろう。でもってDVDはどれくらい売れるんだろう。

 「東のエデン」はテレビで見せて映画に誘って関心を惹いて前売りのチケットが売り切れになる人気ぶりだからとりあえず成功する可能性は大。「アジール・セッション」は初日こそそれなりだったけれども平日はそこそこの入りだから劇場では稼げず、かといってDVDがどれだけ売れるかというと……。ただ何もやっていないよりは確実に認知もされるはずなんで、それをプラスして劇場でのマイナスをさっ引いてもしっかりと数字的に元がとれるか、名声的に次回につながる実績を挙げることができれば良いって判断なんだろー。「センコロール」は未見だけれども出来は良さそうなんでちょっと期待。そんな話はキネ旬ムック「ハマルアニメ」でアニメ評論の人が書いてくれるかな。同じムックの目次にゼロ年代の人もいたりしそうで興味深し。

 そんで男の子なのか女の子なのかその間なのかどっちもなのか。結局のところはあんまり分かっていないみたいだけれどもどっちだって良いじゃん可愛ければ、ってところでSOWさんって人のメガミノベル大賞受賞作「みすぷり!」(学研)は、元譲って少年と小学校だかの時に仲が良いのか悪いのか、散々っぱら戦ってきたそあらって子が突然転校してしまって会えなくなったなあと思っていたら、元譲が高校生になって転校生があるって聞いて、それがさる皇国のお姫さまだって言われて待っていたら入ってきたのが髪は金髪になって目も青くなっていたけど、顔立ちはかつての天野そあら。名前もソアラで一緒でそして何より元譲のことをよく知っていた。こりゃいったいどういう訳だ?

 ひっくり返りつつもかつてのライバルでもちろん男の子だと信じていた相手が女の子の恰好で転校して来て、だったら中身を確かめようとしても分からないままソアラは学校の人気者になっていく。決着をつけたいのなら男の子であって欲しい。けど女の子であるってことにも真っ向から否定は出来ず悶々としていたその裏で、ソアラの出自の複雑さに絡んだ動きが起こり、ソアラ自身に課せられた苛烈な運命が浮かび上がって問題を単純なラブコメディからサスペンスフルなものへと引っ張っていく。皇位継承者として殺せば良いのにそうはできない複雑さも絡まって話の興味を先へと引っ張る。元譲がどうしてパワフルだったのか、その師匠がいったいどうしてそこにいたのか、今後絡んで来る可能性はあるのかって辺りも含めて楽しみ。しかしやっぱりどっちなんだろ。


【7月29日】 気が早いと言えば言えるけれども、10年後に放送から40周年を迎える「機動戦士ガンダム」が、いったいどんなイベントと関連づけて騒がれるのかを想像してみたくなってきた。今年の秋に決定するという2016年の「東京オリンピック」誘致に向けて、現在お台場に建っている等身大の「機動戦士ガンダム」の立像には、肩に召致ステッカーが貼られることになっている。五輪とガンダムは激しく無関係ではあるものの、こういう時期に共闘することによってガンダムのファンの関心を、五輪に向けさせガンダムへの好感を五輪の共感に変えさせることには成功しているし、一方でガンダムをオフィシャルなコンテンツへと昇華させることにも成功している。

 ならば10年後はいったい何との共闘があり得るかといえば、2019年に日本での開催が正式に決まったラグビーのワールドカップと「機動戦士ガンダム」とのコラボレーションが真っ先に浮かぶ。むろん既に召致が決まったものだから、再び等身大のガンダムを作って肩にマークを入れるといった二番煎じは出来ないが、現実に開催されるラグビーのワールドカップという祝典の中にガンダムを入れ込むことは、権利的にはともかく物理的には可能だろう。ならば権利を互いにクリアしてコラボレーションを考えれば良いだけの話で、それがまとまった先に何があるのかを想像してみると、少し楽しい気分になれる。

 例えばメインスタジアムにホワイトベースの巨大な風船を置いて、「ガルマ散る」を再現してみるとか。開会式の演説を銀河万丈さんに立ってもらって、「あえて言おう、カスであると」と他国のチームを牽制してもらうとか。日本代表のジャージをこれまでの赤白ではなく、赤青黄色白のガンダムカラーに変えてのぞむとか。でもってパスやラインアウトのプレーにニュータイプならではのテレパシーを使うとか。いささか無理で無茶な話もあるけれども、せめて競技場の脇に巨大なガンダムの立像を建てて、世界から集まる選手やファンに日本の科学力が世界一であることを見せつけるのは、そんなに悪い話ではないだろう。少なくともアニメ力が宇宙一であるといったことは存分にアピールできる。

 日本代表のジャージは無理でも、トリコロールをナショナルカラーにしているフランスにならガンダムマークを入れてもらって、試合に臨んでもらうといったコラボレーションは可能のような気がしないでもない。強豪のアイルランドには、ガンダムの中で北アイルランドのベルファストが登場し、ZZでアイルランドのダブリンも出たらしい縁をよすがに強力を申し出たりするのも悪くない。オールブラックスのニュージーランド代表には、3人が縦に並んで突進するジェットストリームアタックを伝授し実戦してもらおう。まさにガンダム一色のラグビーワールドカップ。これが実現すれば、日本のコンテンツ力が世界へと広まり、世界のファンも今までにない日本テイストのラグビーを楽しめる、といった寸法。10年という時間がまだあるのだから、ここはバンダイナムコに是非に頑張ってもらって、絶対に実現にこぎ着けてやって頂きたい。せめてすべてのスタジアムにモビルスーツの立像を。

 神保町あたりで新刊の早売りっぽいのをチェックしていたら、「ヤングキングアワーズ」の2009年9月号があったんで買ったら伊藤明弘さんの「ジオブリーダーズ」が乗っていなくってゲショゲショ。作者急病ってのはリアリスティックな意味での急病なのか、何かの隠語なのか。そーいや「サンデーGX」にも「ワイルダネス」がやっぱり同じ理由で乗っていなかったら、きっとリアリーに急病なのだろう。快復を祈る。代わりって訳じゃないけど平野耕太さん「ドリフターズ」はページも分厚く掲載中。織田信長と那須与一と島津なんとかってのが過去だか未来だか魔法の国へと飛ばされて邂逅しているんだけれど、世界がどうなっているかが見えず、彼らが何のためにそこに来たのかも不明なまま事件ばかりが勃発した模様。この先いったいどうなるの? それより美少女&美女キャラが居なさ過ぎなのはちょっと愕然。そっちを早く。那須与一はあれでもしかしって口? 違うよなあ。

 でもって「サマーウォーズ」の公式ガイドブックも購入。いきなり100ページ以上にもわたってストーリーをコマとキャプションによって綿密にしっかりと追いかけていくコーナーがあって、読めばすっかり映画を見た気になれそう。つまりは相当にお話がバラされているんで、映画をまっさらな気持ちで見たい人は買わないか、買っても読まないで劇場へと足を運ぶのが吉。細田守監督のインタビューにもストーリー上の大きな展開が書かれているんでそういうのもやっぱり読まない方がいいかなあ。主題歌を寄せている山下達郎さんのコメントもあって、相当な厳しいスケジュールの中で作ったってことだとか。確かにコンサートツアーのまっただ中での注文だもんなあ。個人的には達郎さんの大ファンだけれど、あの強いインパクトが映画の持っている雰囲気と果たしてマッチするかが目下の心配。歌が使われたCMでも流れているけど、映画から受け取った感動とはちょい、違うところにあるような気もするんだよなあ。「さよなら夏の日」だったらピッタリだったかも。まあ似たようなものか。

 えっといったいもはや何回目なのかこっちまで分からなくなって来た「涼宮ハルヒの憂鬱」のエンドレスエイトは、見ていれば次にどんな展開があるかが全部分かってしまうデジャ・ヴュがそのまま再現されていて、作中のキャラクターたちと同じような苛立ちとモヤモヤに包まれたような気分になれる。それを最初っから意図していたとしたらすごいよ監督。あるいは無理矢理にでもそんな気分にならないと、この展開を納得できないという気持ちが無理にそう感じさせているのだとしても、そういう風に心情を誘導している訳だからやっぱり作り手側に分がある。繰り返される楽しさにハルヒ自身がまるで気づいていないのに、それで良いのかって問題と、繰り返されていると知って長門に脱出の方法をたずねずラストの焦燥を、またもや流して諦めてしまうキョンたちの態度の抜けっぷりが気になるけれども、抜け出したいのに抜け出せないのもまた悪夢のひとつの形。自分ではどうにもならない所を、どう抜けだしていくのかってのを一緒になって考えることで、自分もまた成長していけるのだと感じよう。しかしいったい何回目なんだ。

 今時はやりのストーリー4コマじゃない、単独でポコッと読んでも死ぬほど面白い4コマ漫画の極みだねえ。西炯子さん「ひとりで生きるモン! 3」(徳間書店)は「拙者」「然からば」と喋るセーラー服美少女剣士が出てきたり、喫茶店でお見合い中に相手の男の希望を丁寧に聞いて軽快に注文するコーヒーショップ勤務の女性が出てきたり、落語刑事が出てきたり、仕事が終わらないと悩む男に30年後はやってないですからとほほえみかける親切なのかイチビリなのか分からない優しげなOLが出てきたり、見上げた雲が何に見えると男子に聞かれて尻と答える美少女が出てきたりと、もう得体の知れない奴らがいっぱい出てきて笑わせまくってくれる。何本かが続いた漫画もあるけど「あずまんが大王」「けいおん」みたく1冊まるまるって感じじゃなくって4話くらいで打ち止めって中に流れを作ってオチまで入れる巧みさ。そして美女美少女を可愛くもエロくも描いてみせる画力の凄さ。もう天才としか言いようがないなけれどもしかしこの漫画、9年かかって3冊だもんなあ、次が読めるのは南アフリカでのワールドカップの後か。生き伸びて待とう。


【7月28日】 「機動戦士ガンダム」の出足の悪さはアムロ・レイの声優をやっていた古谷徹さんも感じていたようで、それでもいつかこの良さに気づいてくれるだろうという確信を持って演じていたということが、これまでの声優人生を振り返った「ヒーローの声 飛雄馬とアムロと僕の声優人生」(角川書店)という本の中にしたためられている。そんな古谷さんが「ガンダム」に実は人気があるのかもしれないと感じたエピソードの紹介もあって、スタジオで出待ちをしているファンが50人くらい、集まるようになったらしく近隣にあったラブホテルから、営業妨害だというクレームが入ったという。

 どこでどんなアニメの録音が行われているのか、という情報はネットが発達した今ではそれほど明かされない。明かされれば情報の伝播速度の激しさから、半端ではない数が集まり大混乱を来すだろうことは明白だからだろうが、逆に今ほど情報の規制が厳しくはなかったとはいっても、その分情報の伝播が激しくなかった1979年あたりでいったい、どうやって情報を交換してその場に集まっていたのかを少し不思議に感じる。ファンはだからそれくらいに熱心だったということなのだろう。もしも自分が東京にいたらそうした交流の輪に参加していただろうか。年齢からいってまずなかったしそもそも79年の段階では「ガンダム」の面白さに気づいていなかった。先達達の目利きぶりにはやはり頭が下がる。

 古谷さんの本によればいつしかファンクラブの連合会なるものができて、その会長が代表してインタビューを申し込んできたという。それはいったい誰だったのか、今も業界で活躍する有名な人なのかどうか分からないけれど、熱意あるファンは当時からいて、積極的な活動をしていたということが古谷さんの本から伺える。今でもそうした連合会めいたものはあるのだろうか。ジャンルごと作品ごとに膨大な数の同人誌が作られるようにはなっていても、それぞれが独立したサークルとして存立している雰囲気があって、そこに連合会めいたものが存在している雰囲気はあまりない。同好の士は皆仲間といった空気があった1979年頃だったら連合会が成り立ったのか、連帯してでも持ち上げたいという「ガンダム」の作品性が連合会を生みだしたのか。誰が古谷さんに話しかけたのかも含めて振り返ってみたい伝説だ。

 しかし古谷さんぶっちゃけてるなあ。まずは小山茉美さんとの結婚と離婚話。なれそめは22歳の時だったというから古谷さんはまだ「ガンダム」には出ていなくって星飛雄馬でスターになったけれども後に悩んでいた時代。仕事もバリバリこなしているって感じじゃなくって大学を出るか出ないかってあたりでいよいよプロになるぞって覚悟したあたりでよく結婚に踏み切れたなあ。一方の小山さんだって20歳くらいで「ガンダム」のキシリアだってまだやってない無名時代。そんな頃から惹かれ会って認め合って結婚したけど古谷さんがまずもってアムロでブレイクしながらその後に再び隙間に落ち込んだ間を縫って、小山さんがアラレちゃんにミンキーモモにレミー島田で大ブレイク。そんなすれ違いが古谷さんに離婚を考えさせたというから傍目には、自分の後を付いてくるのは認めても、先に行くのは許せないっていった度量の少なさを吐露しているようにすら写る。

 実際に本でも古谷さんは、自分には度量がなかったと告白しているんだけれどもそれを自覚しているってところに単なる狭量さではない、仕事に対する覚悟ってやつが見え隠れする。自分が仕事から逃げる訳にはいかない。自分が仕事で遅れを取る訳にはいかない。仕事へのプライドと信念に照らして相手が羨ましいと思うと同時に自分が許せないといった気持ちが、一念発起の離婚を決意させたのだとしたらやっぱりこれで古谷さん、相当な声優魂の持ち主だってことになる。それを知っているからなんだろう。小山さんだって今も古谷さんと声優仲間として付き合っているし競演だってしている。「キャシャーンSins」じゃあ愛憎入り交じった関係を、実にドロドロと好演してたっけ。ってな感じに内幕を全部さらけ出しているところに、今の仕事における充実ぶりって奴も垣間見える。弱まってちゃあ言えないことだもんなあ。

 今の奥さんの間嶋里美さんが、古谷さんとの結婚を機に引退してしまった理由も分かって残念だけれど仕方がないと諦めもつく。少年声の主役級をやっていれば野沢雅子さんと田中真弓さんの間をつないで巨頭として君臨できただろうに。惜しいけれども仕方がない。あと「聖闘士星矢」における声優交替騒動についてもしっかり触れていて、いかに深く声優たちが結びついていたのかってところが伺える。プロとしてどうか、って声もあっただろうけれどもチームとして一体感があるからこそ良い作品になるんだという部分で、一歩も引かない所もまた立派なプロ意識。どちらが善で悪ではなく、どちらしかなかった状況の中で選んだのが全員の交替だったというだけのことに過ぎない。結果はどうなのか。新しいのは見ていないから分からないけど、鈴置洋孝さんの逝去なんかもあったりしたからやむを得なかったんじゃないかなあ。

 まずは十文字青さんが「純血ブルースプリング」(角川書店)って本を出すみたいでそれから小川一水さんも「煙突の上にハイヒール」(光文社)って本を出し、さらに長谷敏司さんが「あなたのための物語」(早川書房)って本を出すとは8月はライトノベルな人たちの一般書籍方面での大活躍がさらに爆発しそう。すでに発売がされている「傑作近未来バイオレンス伝奇SF」だなんてゴージャス過ぎるアオリがついた岡田剛さん「ヴコドラク」(早川書房)って本もあったりっして、ライトノベルな人たちならではの読ませるアイディアとそして文章力にやっとというかさらにというか、一般書籍の人も感づき始めているってことなのか。でもまだまだイケそう。イスがないとか業界事情から心配することも可能だけれどもイスなんて置けばいいし作ればいいのだ。もっと行けどんどん行け。そして席巻せよ蹂躙せよ。

 いそいそと「空の境界第6章忘却録音」のDVDを買い「東のエデン」のブルーレイディスクを買ったついでにカウンターで出番を待っていた「サマーウォーズ」のサウンドトラックを買って貪り聞く。テレビの予告編なんかで流れている楽しげなイントロダクション的音楽も悪くはないけどとりあえずひととおり本編を知っている人間にとっては久石譲さんばりに勇壮で深淵なメインテーマが心にずんずんと響いて聞いているだけでシーンが思い出されて泣けてきた。とりわけ栄って婆ちゃんの奮闘に被さるらしい音楽は、そのシーンでくり広げられる言葉の強さとつながりの素晴らしさを描いたドラマがむくむくと沸いて出てきてパブロフの犬みたいに涙がにじんできた。劇場で見たらきっと泣くな。ってことで8月1日の初回を予約。行くぞ劇場、神林長平さんのサイン会はチケット品切れみたいなんでたぶん遠回りだ。


【7月27日】 監督の途中降板といったら最近では「らき☆すた」の水準に達していなかった監督の後退なんかがあったりして、そんな降板さんがたとていたって果たして関われたかどうか不明な「涼宮ハルヒの憂鬱」のエンドレスエイトエンドレスについてモノを言っていたのに妙な感じを覚えたけれども、歴史をひもとけば「機動戦士ガンダム」の富野由悠季監督が「勇者ライディーン」を途中降板して長浜忠夫監督に後をつないで結果としてロマンティックな作品に仕上がり女性のアニメファンを喜ばせたこともあったりした。

 その後退は富野監督にとって傷ではなくってむしろ長浜節と間近に接してドラマに目覚めて「ガンダム」「ダンバイン」で高いドラマ性を持った作品を作りあげるにいたった。「ライディーン」ですべてをやり遂げていたら果たして成長して開眼して「ガンダム」のあの世界を生み出せたのか? といった興味も浮かぶけれども歴史にイフはあり得ない。ここにこうして出来上がった長浜忠夫の「ライディーン」「コン・バトラー」「ボルテス」「ダイモス」の素晴らしさを噛みしめ、富野監督の「ダイターン」「ザンボット」「ガンダム」と流れるドラマに浸りつつ今の富野監督の名声の根元のひとつに、監督交代があったと前向きに受け止めるのが筋だろう。

 過去にイフはなくても未来にならいくらだってイフは言える。ってことで遂に監督が交代してしまったジェフユナイテッド市原千葉。まるで結果の出せないアレックス・ミラー監督をとっかえて江尻コーチがそのまま監督に。実力未知数の人を据えてこのJ2落ちもあわやといった修羅場をくぐり抜けようなんって常識では甘過ぎるんだけれど、ひとまず落ち着いてから1年がかりで立て直しを考えるって割り切ったんなら現場を良く知るコーチの就任は悪いことではないのかも。問題はだからJ2に落ちた1年を堂過ごすか、ってことで広島みたく才能のある監督とじっくり仕事できればいいんだけれども同じ名前で来年も、ってなるとちょっと心配になって来る。さてどうなるか。来るか御大。来てくれ御大。オスタニオスタニシュワーボオスタニ。

 祖母の代ってことだからそれこそ半世紀近くも昔のことを自分で決めたことだからと引きずり変えられず、孫に解決を託す有馬の総帥ってただの無能にしか思えないんだけれど、それを言ったら哲平の出る幕がなくなるんでそういうことになる未来を見越して、ここまで引きずっていたとしたらあれでとてつもなく深慮遠謀な所を持った男ということになる。どっちなんだ。今回はシルヴィの出番が少なくローアングルからのカットもなくって即物的なビジュアルって意味ではやや物足りなかった「プリンセスラバー」だけれども、こと動きに関してはどこもしっかり動くし絵も丁寧。表情とかの描かれ方も真理を汲み取ったものだったり、ギャグめいた場の空気を現したものだったりと内容にそぐう絵がちゃんと採用されている。

 この丁寧さで「アジール・セッション」を作ったら果たしてあの荒々しい勢いは消えてしまうのか、それともそれを保ちつつスピード感があってパワフルなストーリーを作り上げるのか。拠点が供に大阪、ってあたりで何かやって欲しいもの。京都アニメーションで「アジール・セッション」を作ったら……。ヒヨコが「あたしの言うことをききなさいよアキラ」と傲岸不遜に叫ぶだけか、「アキラァってばぁ。絵ってものは魂で描くものなのさ心にわき上がる幼い少女への衝動を筆先に移して撫でるように喜ばせるように描くべきなのさ」とかって危ない内容のことを、目を細めてぶつぶつトークするだけの不思議な作品になりそう。それはそれで不思議だけれど。ああいやアキラが跳ぶシーンだけの迫力は出せるかな。「オレがアキラさまだ」「アキラさまとよべ」。そこだけはピッタリ。

 どういう訳だか知らないけれどもそびえたつ壁が左右に見える土地に暮らす住民の中の1人が壁づたいに歩いていくことによって壁の向こう側に出られたものの反対側にはまた別の壁が見えたりしてこれはどいういうことかと考えてそうだ渦巻き状に壁が建っているんだと気づきつつだったらそんな渦巻きを外へ外へと向かうように歩いていったらどこにたどり着くのかという探求の物語を描いてその壮大なスケール感に圧倒された中井紀夫さん「見果てぬ夢」は今、果たしてすぐに読めるのだろうかとふと思ったのはここに登場したもう1つの不思議な世界の物語、涼原みなとさんという人の「C・NOVELS大賞」の特別賞受賞作「赤の円環(トーラス)」を呼んだから、だったりする。

 舞台はむしろ内へ、そして下へと段々になって向かう円環状の窪地。例えるなら露天掘りの鉱山に似た構造だけれど規模は半端ではなく、ひとつの棚がひとつの州として機能するくらいの規模になっていて、そこに農業をやったり牧畜をやったりする人たちが暮らしている。ただし問題があって上の方の棚になればなるほど水が出にくくなる様子。逆に下の棚は水が豊富でそれゆえに富が集まり政治や経済の中枢が集まって円環の世界を支配している。そんな世界のとある棚にやって来たキリオンという名のひとりの水導士。水の状態を管理する役人だけれど本来は歴史学者になりたかった彼は仕事に気乗り薄。たどり着いた村でも脆弱な感じで、パートナーとなって水を見張る村人にへこまされてばかりいる。

 これが普段どおりに屈強な男だったら話も分かるけれども、水導士のパートナーに選ばれたのは背丈も力も男性並に強いものの中身は立派に女性のフィオル。竜樹の落胤と呼ばれる遺伝の気質が現れていて長身に力持ちな関係で嫁ぎ先の候補にあがっていた男性にはふられ、父の手伝いをしながら陶器を焼いて暮らしていた。ところがそんなフィオルの家系に伝わる秘伝書を求めてキリオンが暮らす世界からキリオンの師匠筋がやって来た。おまけに何者かによって狙われる始末。これはよほど大切なものだということで、探し当てたキリオンとフィオルは段々の露天掘り状になった世界を下へと降りて秘伝の書を届けた先で、世界の運命に関わる陰謀に巻き込まれてしまう。

 どうしてそんな世界になったのか、といった辺りまで説明がない部分は「見果てぬ夢」と同様で、そこにSF的な解説の妙味を味わうことは出来ないけれども不思議すぎる世界だからこそ起こり得る、太陽の傾きの違いによって棚に日が遮られて陰になり、寒さが続く地域があってそうした地域を避けて冬場は日が射し込みやすい地域へと移住し夏は反対側に行くという独特な暮らしぶりとか、上層だからこそ水が届かず干からびてしまって、生活は大変になってそれでもやっぱり水は届かず、やがてうち捨てられる運命になっているといった世界の残酷さなんかを感じながら、現実とは違う世界の面白さ興味深さを創造しえ楽しむことができる。「見果てぬ夢」でもそんな日照の問題ってあったっけ?

 フィオルが受け継いでいる竜樹の落胤という形質が何を意味するもので、それが新たな世界への導きにどんな貢献をするのかといった辺りにも言及があって、散りばめられたさまざまな謎が無駄にならないで物語の中に使われそしてストーリーを終息させていくあたりに、描き手の巧さを感じてみたりする。世界を創れて物語を組み立てられる才能。なかなかのものだと見た。でもやっぱり世界がどーしてそうなっているのか、だからどーしてラストにああなったのか、それはいったいどういう意味を持っているものなのか、なにゆえにただ厳しさが増す状況では発動しなかったのか、といった部分に折り合いをつけて欲しかった。それがあればとてつもなく深淵で興味深いSF作品になったかもしれないけれどもこれはこれでキャラは愉快でとりわけフィオルのデカいが故に抱えた繊細な心とのギャップが醸し出す、不思議な可笑しさを楽しめる。何となく見えてきた世界がさらに語られる時は来るのか。それよりは別のシリーズへと転戦するのか。どっちにしたって次が気になる書き手。早く読みたいなあ。


【7月26日】 1980年頃のテレビを席巻していたものは、「ゴダイゴ」や「アリス」といった、アイドルや歌謡曲や演歌といったポピュラー音楽とは違ったところから出てきたバンドやアーティストで、こうした人たちの台頭が世間の目をアイドル歌謡や演歌といった方面ではない音楽シーンへと向けさせ、アイドルを冬の時代へと送り込み演歌やムード歌謡を花道という名の床の間に棚上げして、シティポップにロックにJポップの台頭を呼んで今に至っている。とはいえそうした音楽シーンにあってアイドル化するグループが逆に出てきて、ヘタウマな魅力を見せているのは皮肉なことでもあるのだが。今にして振り返れば1970年代か80年代のアイドルの方が、よほどの人を除けば歌は巧かったしビジュアルも素晴らしかった。フェイクはいなかったし存在が許されなかった。良い時代だった。

 そんな音楽シーンとは別にもう1つ、テレビを席巻していたのが漫才ブームで、テレビをつければ漫才師たちが雪崩のように現れ、持ち上げられては激しい笑いの渦へと世間を叩き込んでいた。今のように1分で終わるネタの数珠繋ぎ番組なんてことはなく、3分はしっかりとネタをやって笑わせ魅力を見せてくれていた。1分のギャグだってそりゃあ練習はしているだろうけれども、漫才となると台本がしっかりしていなければ成り立たない。スタジオではなく観客も入れての放送だから、芸人たちが受けるプレッシャーも凄まじい。そうした中で鍛えられた人たちだからこそ、漫才ブームの最前線で戦った芸人たちは、30年が経った今も最前線で生き残って活躍していられるのだろう。

 そんな漫才が当時それなりに人気を得つつあった「機動戦士ガンダム」と結びついていたかというと、まったくもって記憶にない。今でこそ「ガンダム」芸人がテレビに出てガンダムについて語って笑いをとれる時代だけれども、当時はアニメで世間に知られているといえば「鉄腕アトム」に「サザエさん」がせいぜい。そんな真似をやったところで受けもしないし、面白いと認知されるなんてことも多分なかっただろう。そもそもが芸人にガンダムが広まっていたとも思えない。

 聞くところによれば「オレたちひょうきん族」では「機動戦士ガンダム」のBGMが時々使われていたというから、テレビの最前線に立つ人にはアニメも認知されていたようだが、しかしやはり漫才のようなお笑いの方がよほど世間にメジャーで、それに比べるとアニメは例え「ガンダム」であっても、というより「ガンダム」だからこそ知られておらず、認知されておらず漫才にも取り入れられはしなかった。そういう時代を知っているからこそ今のこの、妙に認知され共通言語となっている世界が喜ばしく、そして梯子を外されやしないかと心配でならない。どうなってしまうのだろうか。

 しかしやっぱり凄まじいくらいの鍛えられっぷりだった明石家さんまさんと島田紳助さんの26時間テレビでのトークセッション。座敷で友人同士が語り明かすような体裁でくり広げられた真夜中のトークは、繋ぎにSMAPの中居宏正さんがいるにはいたけどほとんど合いの手程度に終始していて、あとは紳助さんさんまさんのトークだけが破裂し転がり膨らんでいくかのように突っ走って、時間が過ぎるのに気づかせない。

 紳助さんがこうふればそれに答えてさんまさんの話が繰り出され、さらに横へとすべって広がっていてとりとめがなくなるところを、紳助さんが引き戻しつつさらに混ぜ返してどこまでもどこまでも続いていく。どこにもダレ場がないその丁々発止のやりとりが、天然のものなのかそれとも訓練の賜なのかは分からないけれども友に修羅場をくぐり抜け、人気停滞の恐怖を振り払って30年を突っ走ってきた超ベテラン。鍛錬と才能が絡み合ってのスリリングなトークだったってことなんだろー。今の人たちにテレビで生で3時間、喋り続けて人を楽しませ続けることの出来るお笑いの人は果たしているんだろうか。いないだろうなあ。

 あんまり面白かったんで、ベスト4あたりまでさんまさんが2008年あたりに見かけて気になった女性を並べていくコーナーを見てしまって、あんまり寝られない中を起き出したら26時間テレビがまだ続いていて「ONEPIECE」は無し。当たり前だけれどもちょっぴり寂しさに浸りつつ、支度をして今回から「幕張メッセ」へと移った「ワンダーフェスティバル2009夏」を見物に行く。会場に入って思ったのは「これってちょっと閑散としていない?」ってこと。だって通路に人が溢れていない。11時の段階で行列が見えない。どうなっているんだ。遠くなって人が来るのを敬遠したのか。

 しかし午後にあった「ワンダーショーケース」が10周年を迎えたトークショーで宮脇専務から語られたのは来場者数で過去最大、ディーラー数でも最大級だったという事実。つまりは会場がそれだけ拾いってことで、歩けば幅が480メートルもあるホール、往復すれば1キロに達するホールを使えばこれまでの規模であっても隙間が十分にとれて余裕を持って配置できるってことらしー。入場も3箇所くらいに増やしたそーでいつもだったら狭い1箇所から数珠繋ぎだったために時間がかかったものが3倍の速度で入場列がさばけて午前11時ではもうたいした数になっていなかったってことらしい。最高じゃん「幕張メッセ」。

 問題があるとしたら条例の面でいわゆる18禁って奴をどー処置するかってところだったけれども問題になっているってことはそれだけ対処も出来ているってこと。でなきゃあ日本で初でそして最後になってしまったエログッズにエロビデオのイベントが「幕張メッセ」で開けたはずがない。柵で囲って入り口を狭くしてそこで身分証の確認を厳密に行うことによって、18歳未満の入場を排除するゾーニングをきっちりやっていた。「使い勝手が良くて居心地が良い。冷房だってちゃんと効く」って宮脇専務も絶讃していたから、これからも会場は「メッセ」ってことでOK? その方が僕的には近くて嬉しいんだけど。でも普通の人は大変かもなあ。“これだから”の千葉だもんなあ。

 そんな「ワンダーショーケース」の10周年記念イベントは、まず3人のピックアップアーティストが登場して選ばれた時の感想とかその後の運命なんかを話していたけど、総じてとてもなく儲かっちゃってるって風があるのかないのか微妙なところ。腕前だけを見ればなるほど誰も彼もすさまじくって魅力的。なのに10年前に「ワンダーショーケース」が始まった時に取材をしたり、記事にも書いたような誰もが知ってる原型師、っていった地位に躍り出た人は誰もいないい。

 っていうかそもそも原型師で割に一般的に知られているのが、当時からずっとBOMEさん1人っていうのは何なんだろう。いくら世の中がおたくブームだ何だと騒いだところで目立つのはそうした空気を取り入れつつメジャーがプロデュースした「AKB48」だのしょこたんといった“借景派”。つまるところ世間って奴はそう易々とは流されないくらいに強固であり、また別の言い方をすれば新しいものに対してとてつもなく鈍感で無関心ってことなんだろう。進取の気風だのやってみなはれだの、そんなのは嘘だよなあ。本当だったら日本からもっと「iPod」とか出ているはずだもんなあ。

 だったら原型師の方にはそうした世間には引っかけられないまでもしっかりと新しいものを生みだしていく風潮があるのかというと、「ワンダーショーケース」のトークに登場した総合プロデューサーのあさのまさひこさんがちょっと気になることを言っていた。なるほど誰もがとても巧い。造形の技術は10年前からとてつもなく進歩しているんだけれども、そうしたテクニックってのはつまりガレージキットの最先端に立つ人たちのものを見て、真似て得られたテクニック。だからなるほど巧いんだけれどアレンジされた巧さであって、オリジナリティという部分、何かをぶち壊して新しい時代を作るようなダイナミズムの部分が、もしかしたら欠けているのかもしれないといった感じの指摘が繰り出された。なあるほど。

 文化が浸透した時に生まれるこれは悩みでもあって、昔だったら動物に人間といった実物を見て会得した動きを紙の上に描いて表現していたアニメーションが、今は先人のクリエーターが発明して描いた動きや絵を見て感動し、その表現技法を真似て発展させていくことによって進歩しているって傾向があったりするため、巧さの度合いは深まってもそれはもはや絵を見て描かれた絵であって、観察の中から新しい動きを見いだし描き挙げるようなブレイクってのもが、そこに果たしてあり得るのかが悩ましい。

 なるほど快楽の積み重ねから生み出されたものだけあって、快楽に訴えてくるとてつもない巧さはるんだけれど、それがそのまま固有名詞でもって語られるようになり、ひとつの時代を作り上げるかというと……。むしろアニメが好きでアニメ作りに入ったって人たちじゃないところから、アニメ作りの新しい潮流ってのが起こって来ていたりするのかもしれない、それと同じ事がきっと模型やフィギュアの世界にも言えてたりするんだろう。絵を見て立体化を思案した時代は終わり、フィギュアを見てフィギュアを作る時代なだけに。

 だからこそ、そうしたオリジナリティを持った何かを見つけてすくい上げ、世に問われる名目にしてもらって世間に知らしめるプロジェクトとして始まった「ワンダーショーケース」が、どこか孤軍奮闘気味になってしまうのかもしれない。転がされたパーツをちらりと見て、これは凄いとピックアップした臼井さんとか、なるほど凄いんだけれど凄さがどこまでも知れ渡っているって訳じゃないからなあ。いくらリリースを撒いたってどこにも取りあげてもらえないってあさのまさひこさんも言ってたし。

 まあリリースをもらってないメディアとしちゃあ如何ともしがたいんだけれども、1999年の8月に最初の「ワンダーショーケース」が始まった時にこっそり潜り込んでしっかり記事にして日刊新聞に掲載したことに免じて許してもらおう。あれから10年かあ。歳とったよなあ。

 歳をとったといえば多分生まれ年がいっしょのあさのまさひこさんも、流石に10年後となると総合プロデューサーをやっているかどうかは分からないっていっていた。いくら見る目があったって、54歳の爺さんに来られてすっげえと言われたって受け取る方も悩ましだけだし。とはいえもしかして出展している方もだんだんと年齢が上がっていたりして。SF界みたいだ。いやそれはともかく流石に次へと引き継ぎたいけど人材が周囲にはおらず、1人いるにはいるんだけれどその人とは連絡もとれないんだとか。

 それはウェブで「ザ・グランドファーザー」ってサイトをやっている人で、ワンフェスで見て回った感想が自分に近いんでこの人ならしっかりと「ワンダーショーケース」にそぐう人材を見つけられるって言っていた。けど連絡先が分からないんでこの場を借りて名乗り出てよとお願いしていたけれどもでもそんあに拾い業界でもないんで、会ってみたら案外に知っている人、だったりして。あるいは年上の人とか。総合プロデューサーが54でプロデューサーが60歳還暦。でもってピックアップされるアーティストは30過ぎばかりという。いやでも今のまんまにキャラクターの浮き沈みと連動するかのよーに造形の人気が揺れていたらやがて造形するって気概も才能も削られて、中心部分は細り周囲は薄まるだけなんじゃないかって心配もあったりしそう。

ほねほねほーねになるのは魚だけじゃない。鶉だって骨になるのだ  あさのまさひこさんは、トークショーでそう言ったり、会場で配られていた団扇なんかに書き下ろしのテキストを寄せたりして、そうならないためにももっと見る目を付けようよ、そして発言していこうよって呼びかけていた。そうした受け手側を育てるってのも「ワンダーショーケース」の目的でもあったって、改めて言及していたあさのさんの思惑は、果たしてこれから育つかそれとも廃れるか。これからの10年、とは言わないまでも続く限りは観察していこう。冬も取材で入れるかなあ。所属している先が保たない可能性もゼロじゃないんだよなあ。割とマジで。目茶真剣に。

 現地では、こばげん小林源文さんのキャラを使って兵隊ウサギを作っていたディーラーでバイクうさぎだかを購入して、中出しがどうとか書いてあって人前では絶対に着られそうもないTシャツを買って、「夏目友人帳」の柊のお面を眺めつつヒビが入っている「続」バージョンが冬に出るのを待とうと見送り、海洋生物をもっぱら骨格が透けてみえる標本にして売っていた新世界ってディーラーをのぞいて凄さに感動したりしていたら、とっぷりと夕方になってしまったんで退散。そこで普通だったら帰って寝るところを、出不精になってしまうと一念発起し、新宿に回って舞台挨拶だけは見ていた「アジール・セッション」のレイトショーを見物。おもしれーじゃんこの映画。アオキタクトさんって人が割とひとりで作り上げたインディペンデントアニメーションってことで、同じコミックスウェーブが前にしかけた新海誠監督の「ほしのこえ」なんかに続くクリエーター育成プロジェクトってことになるんだろうけど、2D系の絵でリリカルさに訴えた新海誠さんとは反対に、3Dのキャラを動かすアクション系は「鉄コン筋クリート」っぽさを存分に醸し出していた。

 結構な金がかけられた商業作品の「鉄コン」があるんだから、「アジール・セッション」がビジュアル面のクオリティで届いているってはずはない。そりゃもう全然ないんだけれども、不思議と見ていて癖になる絵なのは妙な歪みが目をそらさせない効果を発揮していたからなのかも。そして何よりストーリーが面白いい。死んでしまった母親の画壇で認められていた絵が家から消えていたのを怒り、父親に反発して家出した絵描きを目指す少女がたどりついたのはスラム街。家を持たない人たちがスタジアムの中に町を作って住んでいたけど、そこは取り壊しの決定が成されていて、警察が押し寄せ一悶着が起こっていた。もはやこれまで? それはいやだと立ち上がったスタジアムの住民達は、戦うかわりにロックフェスを真似た「アジール・セッション」なるイベントを考案し、サイボーグ化されて空を飛ぶ力を持った少年を祭り上げて、家出した少女の指導でもって巨大な絵を描かせることにする。

 圧迫されて鬱屈している若者達の怒りを代弁するよーな物語があり、やりたいことがあるのにやらない言い訳ばかりをして逃げてしまうことの虚しさへの指摘があり、人間と違った能力を持たされた存在に対して起こる差別への憤りってものがあったりして、60分という決して長くはないけれど、自主映画としては短くもない時間を物語にしっかり集中できる。慣れてくれば絵もしっかりと動いて見えるし、そしてとってもスタイリッシュ。選ばれた声優たちの演技も恰好良かったりして耳に快楽目に新鮮味、そして物語に共感といったさまざまな感情を喚起させられ最後までずっと見ていられる。

 音楽もなかなかに恰好良い。このビジュアルを少しばかり洗練させつつ物語力と音楽力と設定力を叩き込めば、さらにスタイリッシュでエキサイティングな映画になるんじゃなかろーか。同じくサイボーグ化された少年が活躍する「ハルヲ」を原型にした「アジール・セッション」が、より多くの資本を呼び込みさらにビッグなバジェットとなって広がっていくとしたら、日本のアニメもまだまだ安心できるかも。元はミュージシャンだったってことらしいアオキタクト監督。やっぱり異質な方面からの参加がいろいろと新風を起こすんだ。負けてられないぞプロパーな人たち。


【7月25日】 たったひとりの才能で「機動戦士ガンダム」は作り得たかと考える。やはり無理だろう。「ガンダム」の魅力はひとつの宇宙と地球とをめぐる争いの中で人類が次のステップへと成長していく大きなドラマの下、ライバルたちが競いあい仲間たちが紆余曲折を経て団結を深めていくドラマであり、かつてなかったスタイリッシュなメカであり、凛々しかったり可愛かったりするキャラクターたち。そのどれが欠けてもおそらくは今ほどの人気は出なかっただろう。

 その意味でドラマの部分を担った富野由悠季監督の力があり、メカをデザインした大河原邦男さんの力があり、キャラクターをデザインした安彦良和さんの力がある。さらにはシナリオを手がけた多くの人たち、作画を行ったこれも多くの人たちに音楽を手がけた渡辺岳夫さん、そして忘れてはいけない声を担当した声優の方々の力がすべて巧みに重なり合って、後生に語り継がれる傑作が出来上がった。ガンダムは一人では作り得ない。それは現代のように技術が発達し、絵を描き物語を作り音楽まで創造できくらいにマルチな才能を持った人たちが世に溢れてきても、ガンダムだけは絶対に作り得ない、と思いたいのだが果たしてそうなのか。どうなのか。

 と言うわけでアオキタクトという人がほとんどの部分をひとりで作り上げた「アジールセッション」とゆーアニメーションが劇場公開されるってんで、朝っぱらからむくむくと起き出してテアトル新宿まで舞台挨拶を見物に行く。声で出演している平野綾さん目当てで、って訳では決してない。だって平野さんだったら前に何度も実物を目の当たりにしていたりして、初期の小さい帽子を被った不思議っぽいキャラを一変させてストレートの長い髪にした姿で現れて集まった人の度肝を抜いた「ギャラクシーエンジェル」関連の発表会では、ほぼ真正面に座って変化の凄まじさに驚嘆しつつもこれが普通のアイドルのビジュアルって奴なんだと自答し、これで世間にもっと広まって行くんじゃないかと思っていたら。

 案の定、一般メディアにどんどんと進出していって今や週刊漫画誌のグラビアまで飾るようになっていったその端境期も見ていたりするから、とりたてて見られて嬉しいってこともないんだけれども、見られるのならそれはそれで僥倖ってことでかけつけた劇場で、いそいそと現れた平野さんの相変わらずに細くてスリムなスレンダーボディ(意味いっしょ)を存分に堪能する。ビジュアルはもはや普通に普通のところから出てきたアイドルたちの遜色なし。メディア受けも過去のアイドル声優とは次元が違っている印象だし、このまま女優方面へと抜けていってしまう可能性なんかもあったりするけど、そうやって消えてしまった人もいるしなあ。活躍できる場所で活躍して欲しいというのが本音でおじゃる丸。

 せっかくだからと秋葉原へと回ってブシロードがやってたカードフェスタを見物。時間があったら自演乙なコスプレ格闘家の登場までいたかったけれども仕事があったんで早々に退散。けれどもすっげえ来場者の数。秋葉原の駅のホームにはショップもできていたし夜のテレビ東京とはいえゴールデンタイムにCMも流れていたみたいで、TBS深夜のカードゲーム番組なんかのスポンサードも含めてメキメキメキと勢力を拡大している勢い。まあそうした露出の激しさだったらブロッコリーを率いていた時代も同様ではあったけれども、お金がかかるアニメ制作のような分野にはまだ出ていないところを見ると、本業に絞ってしたたかに確実に、収益を確保していこうって戦略があってそれが巧く回っているって言えるのかも。「まんたんブロード」にもでっかい広告、出てたしなあ。行けばうちにも広告でるかなあ。武士道だから親和性は高いかもなあ。どうなんだ。

 ついでに石丸電器でDVDをあれこれ。3万円を買えば景品に前にもらいそこねていた「鉄腕バーディーDECODE」のポスターカレンダーがもらえるってことで無駄買いではないけれども金銭的に背伸びをして「サイボーグ009」の1969年ボックスと、なぜかここからいきなりブルーレイ版もでやがった「ヘルシング」の第6巻の前と揃える意味もこめてのDVD版と、「コードギアス反逆のルルーシュR2」のダイジェスト版のこれもこれまでと揃える意味でのDVD版を買ってちょい足りないなあと思って「サクラサクミライコイユメ」がとっても好ましいYozucaさんの10周年ベストを買ってオーバー。無事にバーディのエロいポスターカレンダーをもらう。でもはる場所なんてないんだよなあ。保管する場所はもっとない。忙しくなけりゃあ倉庫に運ぶんだけど。でも歩くの暑いし。そうやって玄関がまたぞろ塞がって来ている。どげんかせんと。

 暗喩としてでも橋は心と心をつなぐために必要な存在として使われるけれども、現実の意味でも橋は物資を通して交流を豊にすることで人と人との心をつなぐとっても大切な存在だったりする。そんな2つの意味を橋にこめ、それほどまでに大切な橋は天の恵みによるものだとゆーニュアンスを導き出して描かれたのが葦原青さんって人による第5回C・NOVELS大賞受賞作の「遙かなる虹の大地 架橋技師伝」(中央公論社)って物語。 「踏みしめた、地面の固さが違った。落ち葉の量が増えているのだ。ついこのあいだ夏が終わったばかりだと思っていたのに、もうそんな季節なのか」という冒頭の書き出しからしてコイツデキルナと思わせて、そのまま異様なシチュエーションを現出させて一気に作中へと引っ張り込む。

 そのシチュエーションとは詠唱によって橋を作り上げてしまう人々の登場。魔法、だと言えば言えるんだけれどそれを言うと異端になるそうだから神の恩寵、とでも言うのだろうか、ともかくもそんな不思議な力が現存している世界にあって、橋をかける能力に秀でた青年フレイを主人公にした物語は、彼を見捨てるような形で出奔し、裏切り者扱いされている師匠への愛憎入り交じった思いを抱えたフレイが、隣国との紛争に駆り出された先で捕らえられたことをきっかけに判明する、過去の事情と現在の陰謀を描いて進んでいく。

 橋というものが持つ現実と暗喩の両方の意義を指摘しつつ、戦略的に重要過ぎる力ともいえる架橋技師に課せられた苛烈な運命を示唆しつつ、力というものが持つさまざまな側面を浮かび上がらせる。フレイの師匠はどこか「ONEPIECE」のレイリーっぽい感じ。あとフレイと対になって橋をかけてた少女とフレイの関係なんかにやや驚き。そりゃねえよなあとフレイも思ったかどうなのか。それもアリかと思ったのなら仏頂面してあれでなかなかの女好き、ってことか。文章は達者で独特の世界観も持ってメッセージ性も盛り込める、新人らしからぬ力量の持ち主。次に描くものが同じ世界を舞台にしたものでも、別の作品でも相当に期待できそうだけれど果たして。海原育人さん多崎礼さんもそろそろ新刊を。新シリーズを。


【7月24日】 1979年の「チャンピオン」をひとつの頂点に「夢去りし街角」「秋止符」「狂った果実」「エスピオナージ」とそれなりなヒット曲をアリスが出していた時代は、1979年に放送が始まった「機動戦士ガンダム」のブームとモロに被っている。そう考えると1981年に公開された映画「機動戦士ガンダム」の主題歌「砂の十字架」を谷村新二が作詞作曲を手がけたということも分かるのだが、この時期にアリスと「ガンダム」がクロスしたのはこれくらい。映画の主題歌は「哀・戦士」からは富野監督と大学の同級生でもあった井上大輔さんへと移って最後の「めぐりあい宇宙」へと至る。

 後に「ターンエーガンダム」のエンディング「AURA」を手がけるまで重ならないのだから縁はそれほど厚いとは言えない。だから同じ時代にどちらも多くを目にして耳にいたとしても、アリスを聞いて「ガンダム」を思い浮かべることがない。不思議だかしかし、十分にあり得る話だし、実際にアリスの久々のツアーも記念して発売された30曲のベストを収めたCDを聴いていても、ガンダムのガの字も思い浮かばない。もっともだからといって同じ時期に放送されていた「サイボーグ009」も思い浮かばないのだが。アニメとヒット曲がダイレクトに結びついたのは、劇場版「銀河鉄道999」でゴダイゴが主題歌を唄って大ヒットをした時くらいか。それくらいに歌謡曲の世界とアニメは遠かったのだ。

 でもってアリスのアルバムをつらつら。やっぱり悪くない。けど積極的に好きでもなかったなあ。どことなく泥臭い感じがあって人気や実力に比して過小評価をしていた印象。むしろサウンドとしてはゴダイゴの方が迫力があったし、ちょっと後に出てきた長渕剛やチャゲ&飛鳥の方がメロディアスで耳に響いてきた。あとは山下達郎さんのようなシティーポップスも台頭して来た中で演歌に香りの近いフォークといった赴きのアリスにどこか古さを感じてしまったからかもしれない。それも30年が経った今ではあんまり気にならないところが時代ではなくハートに訴える歌をアリスが作っていた現れでもあるんだろう。「冬の稲妻」。響くなあ。「遠くで汽笛を聞きながら」。泣けるなあ。

 らめちゃんたらぎっちょんちょんでアニメーション版「大正野球娘。」はぱいのぱいのぱい。能登かわいいよ能登のお市もかくやと思わせるようなシリアスな次回予告もそのままに、許嫁の学校にあっさりしっかりコテンパンにされた岩崎のお嬢様は仲間に恥を掻かせた自己嫌悪から引きこもり。悶々としていたところに訪ねてきた小梅には笑顔を見せてもやっぱり立ち直れないみたいで、明けてもやっぱり学校に出てこない。

 もう無理だと辞める新聞部との掛け持ち尾張に自分のせいだとやっぱり引きこもる百合娘。けど百合については巴のおおらかな愛が包み込んで引っ張り出すことに成功し(後が大変そう)、お嬢も小梅への許嫁の無礼についに眉間の皺も顕在化、というのは漫画の設定読まないと分からないか、怒っていても表情がまるでほとんど変わらないという。ともかく立ち上がって再び結集したメンバー、さあやるぞと鬨の声をあげたら1人、足りなかったというところで次回。さあどうする? ってところで今回も丁寧に作られておりました。普通に夕方にやって欲しいよなあ、絶対にファンとか増えると思うんだよなあ。そういうのが出来るのってもうNHKしかないのかなあ。

 能登がいったいどんな演技を見せるのかに俄然興味が沸いてきて再アニメーション化を是非にも希望したい「もやしもん」の第8巻は、日吉酒店に訪ねてきた地ビール娘の加納はなを相手に能登、じゃなかった武藤が講釈をひとしきり。もうめった打ちの様相を呈しているのにそこは耐えて痛み分けのままはなちゃんは結城螢にビールの味を認められ、頑張ろうとファームに帰る。一方の武藤はどうしてそこまでこだわってしまうのかを自分でも分からず悶々としていたところに持ち上がった祭りの話。発酵食品抱えて大陸を横断したバイタリティが発揮され、加納ファームを訪ねて地ビールについての理解を深め、そして祭りにビールを持ち込みドイツのオクトーバーフェスタ再現に向けて走り出す。

 デラデラと引きずるよーな恨み声でもなく茫洋とした不思議娘の声でもなく、淫靡さ漂う大人の女の声でもない武藤の長広舌をいったいどんな声で演じるのか。見てみたい気もするけれどもアニメ版は1期の後に再浮上の話は聞こえず、仮に実現したとしてもフランスのワイン娘との一件に長谷川研究員の婚前旅行が絡んだブルゴーニュ編があるからなあ。それを5話使ってやってあとの5話でビール編。だと間の沖縄娘再会編が吹き飛ぶかまあ単行本の5冊を10話でやっちまった過去もあるんで13話くらいの枠に詰めれば何とか。問題はそんな再アニメ化なんてものが実現するかってことだ。OVAで第3期やる「BLACK LAGOON」みたくOVAで、ってのもこの際ありかなあ。あって欲しいなあ。動いている螢をもっと見たいなあ。

 銀座の「ギンザグラフィックギャラリー」に行く用事があったんで歩いていたら体が苔むした女の子が寝そべっている絵が張り出してあったんで「銀座Gallery S.C.O.T.T.T.」ってところに入って地下に潜るとやっていたのは羽鳥裕美子って人の展覧会。女の子系のイラスト風な絵を描いている人っぽくって今ドキな感じがしてとっても爽やか。そして意味深。キャンバスに絵が描かれた表面が皺っていたりザラっていたりするのは描いてから加工したんだろうか。だってザラっていたり皺っている場所に絵なんて普通は描けないもんなあ。どうやっているか聞けば良かった。メインになっている絵で2万5000円(だと思う)はとってもリーズナブル。他も割に休めで「GEISAI」とかを歩いているよーな感じ。少なくとも銀座プライスじゃなかった。それとも見間違いで25万円だったかな。気になったんたんで期間中に時間があったらまた行こう。電通通りの電通からgggに到着するちょい手前。交詢社ビル向かいあたり。皆様も是非に。


【7月23日】 30周年というのなら「機動戦士ガンダム」よりもむしろ劇場版の「銀河鉄道999」の方が、当時の時代に与えた影響度から考えて、より大きな意味を持っている、といった考え方もできるかもしれない。「ガンダム」の主題歌はアニメの中だけで完結して外には出てこなかったが、「999」の主題歌は当時ヒットメーカーだったゴダイゴが唄っていて、「ザ・ベストテン」にも出演して大ヒットを記録した。まさに国民的ヒット曲。「ガンダーラ」よりも「モンキーマジック」よりも広く国民に知られたゴダイゴの曲だと言っても言いすぎではないだろう。

 劇場で「999」が盛り上がっていた一方でテレビでは「ガンダム」よりも「サイボーグ009」の方に、アニメファンの目は釘付けになっていた。漫画で大人気だった「009」が還ってきたという歓迎ムードの中で始まった番組で、冒頭に流れるどこか切なさを感じさせるオープニングに、過去のモノクロ版の「009」とも、それを引き継いだ劇場版の2本とも違った、漫画の世界により近い「009」がようやく姿を現したといって目を見張ったファンもきっと少なくない。というより僕自身がそうだった。

 アニメの「サイボーグ009」が始まったことはとてもよく覚えているし、「999」が大ヒットしていたことも記憶している。それと同じ1979年に「ガンダム」が始まっていたのだと言われて、ようやくそうだったのかと気づくぐらいに「ガンダム」は、本放送の時に限って言えばまるで眼中になかった。何度も言うが「ガンダム」が広く知られて大人気となったのは再放送された1980年以降。生誕30周年と言われてもピンと来ないのはそこに理由があったりする。祝うなら「サイボーグ009」のカラー版放送30周年。そして後に独特のアクションで広く知られることになった金田伊功さんの技の凄まじさを、ロボットアニメのファン以外も気づかせてから30年という記念すべき年だと言った方がアニメ好きにはより身に響いてきたかもしれない。

 その金田さんが亡くなったという。作画でアニメを見るようになったのってそれこそ1980年代になって、「うる星やつら」なんかの毎回顔が変わるようなデタラメな愉快さに触れて、個性ってのがあるんだなあと理解するようになって以降で、それ以前だとロボットアニメならインパクトのある動きなんかに格好良さを感じても、それが当たり前であってそれ以外のものがあるとは気づかなかったというのが実態。目立つものだけが記憶に残るという状況の、大元の部分で大きな仕事をしていただろう金田さんについてだから名前を持って活動を意識し始めたのは、アニメ界隈で活躍していた人が漫画の世界に出ていっていろいろな物を書く中で出てきた「バース」という漫画を見てからだった、ような気がする。

 印象としては漫画としてはあんまり楽しくないなあといった感じ。絵の動きで見せる凄さはあったとしても、物語の面白さで読ませるのが漫画である以上は単なる動きの良さだけで、惹かれるということはなかった。他のアニメーター系の人による漫画にも同様のことを感じた記憶。とはいえ一方でアニメという表現の上でその凄さは徐々に感じ始めていて、大いにハマっていた「幻魔大戦」のアニメ版が出来たからといって見に行った劇場で、吹き上がるオーラとかの描写にオーラっぽいと思った後で、そうしたエフェクトの多くに金田さんの色が現れているのだと理解して、そういう人がいるのだと認知していった。切れのあるアクションも同様。「プラレス三四郎」などに見られた緩急のはっきりしてサイズの変化も激しい動きから受けるスピード感と迫力に、手書きのアニメならではの心地よさを知った。

 教えを乞うクリエーターのような立場ではない身として、とりたてて耽溺はせず敬愛もせず思慕もなく、ただ受け手として良いものを作ってくれる人だという認識で眺めていただけではあるけれど、それでもやはりなくてはならないクリエーターだという認識には変わりがない。デジタルによって絵は美麗さを増しても、それをどう動かせば見る人に凄いと思ってもらえるかというところで悩みを抱えた作品も少なくない昨今、宮崎駿監督とは違った意味で動きに命を吹き込める人だった金田さんの死は、だからやはりアニメの世界に於いて大きすぎる損失なのだろう。残念というよりほかにない。けれども続く人も少なからずいる。そうした人たちが師のエピゴーネンではなく師を超えて動きに革命をもたらす仕事を、していってくれればアニメのファンとしてはとても嬉しい。改めて合掌。

 という訳でDVDボックスが出た「サイボーグ009」の1979年版のパート1を買って早速オープニングを見てみる。ああなるほど金田しているなあ。でも当時はそうした動きよりもどこか鼻にかかった歌声の方が気になったんだよなあ。「009」といったらやっぱり勇ましい「赤いマフラーなびかせて」の方が心に染みてた訳で、本当だったら買うのもまずはそっちに1963年版になっていたはずだったんだけれど、こんな事態にこのタイミングで出たならたちまち品切れになってしまう可能性もあるかもしれないと、慌てて抑えに走ってしまった次第。似非ファンっぷりが出ています。でも嫌いじゃないんだ「009」。本当は平成版も欲しいんだけれどあれ、途中で妙なことになっていったからなあ。あれさえなければ……。また作って欲しいなあ。

 ウルトラマンのイベントが明日から始まるってんでサンシャインへと出向いて、バンダイナムコゲームスが「ウルトラ大怪獣」をベースにしたゲームを出すって会見を見ていた子供たちから発せられた言葉に、子供の純粋さと残酷さを感じ取る。ゲームはウルトラマンシリーズに必需の怪獣たちが暴れ回るところに、ウルトラマンならぬ隊員たちが出向いていって手にさまざまな武器を持ち、怪獣にかかっていって倒すというもの。その説明を聞いて映像を見た子供から漏れた言葉がこれ。「モンハンみたい」。言っちまったよ。寸止めなしだよ。そんな子供のすぐ側で聴いていたバンダイナムコゲームスの前の偉い人で今はバンダイナムコホールディングスの偉い人はいったい何を思ったか。「そのとおり」って思ったか。うーん。でもアイディアとしてはとっても正しいし、とってもとっても面白そう。僕らだってレッドキング、倒したいもんねえ。でも最初はやっぱりゼットンに火だるまにされるのかな。いつかそのうち発売。

 生まれた双子がどちらも双子を生んでそこからいずれも三つ子が誕生してきたとしたら数は12人。全員がそっくり同じ顔をした女の子たちが現れては待ちに大騒動を巻き起こすってなかせよしみさん「でもくらちゃん」(徳間書店)を笑いながら読む。まずはこの12人を全部描いているんだとしたらなかなか凄い。だってみんな同じ顔だよ。普通書けないよ、って書けるからプロになったのか。でもって12人がズラズラと出てくるシュールな画面でくり広げられる、12人だかからこその愉快なエピソードが大勢でいるのって楽しいかもって思わせてくれる。ある意味で大家族の助け合いが描かれた「サマーウォーズ」に通じる面白さ、なのかな。何より驚いたのは女の子とたちの母親たちと父親達か。母親たちはみんなそっくり。でもって可愛らしい。父親たちはてんでバラバラ。職業もバラバラ。それなのに。これはある種の奇蹟かも。そうでなくてもそっくりな12人。この世界にあったら本当に奇蹟かも。あるのかな。ないよなあ。


【7月22日】 日蝕、という記憶に刻まれる時をどこで迎えるかによって刻まれる深さも大きく変わってくる。何時に一体何処にて。それが瞭然な場所で日蝕を迎えれば記録が記憶となって深く大きく刻まれて、何十年が経ってもきっと思い出せるに違いない。と、そう考えて向かった先は当然にして至極なお台場は潮風公演の等身大「機動戦士ガンダム」立像。1979年のテレビ放送開始から30周年を記念して建てられたという歴史性、そして7月11日から8月31日までの期間にしか建てられていなかったという時期性が明確な日付まではともかくおおよその季節を日蝕に関連づけるはずだからだ。

雨でもガンダムは傘も差さずに意気軒昂  そう思った人たちで現場もきっと大変な人ごみになっているだろうと覚悟もして赴いた会場は、あいにくの雨模様ということが祟ったのかたいして人も折らず名物の“股潜り”も待ち時間にして10分足らずという静けさ。おまけにいくら見上げても空には分厚い雲がかかって太陽の在処され分からず、これでは我らがガンダムと、欠けた太陽とを重ねて見るのは不可能に違いないと適当に見切りを付けて退散することに決定。とりあえずグッズ売り場でピンバッジを買い、売店でハム焼きを貪り食ってからバンダイの撮影隊に面通しをして会場を後にする。ガンダム力(がんだむ・ちから)でも雨には勝てぬ、ということなのか。

 いやしかし。せっかくだからと近隣の日本科学未来館で開設でも聞きながら、硫黄島の中継でも見ようと出向くとそこには激しくも長い子供とその親による長蛇の列。これがららら科学の子たちかと日本の未来に明るさを抱く一方で、ららら科学の子ならやはりここは「ガンダム」とともに日蝕を見るのがスタイリッシュだろうとも思いながらも子供にとってガンダムはストライクがフリーダムなりエクシアでもなければガンダムに非ず。ならばやはり素直に普通に日本科学未来館で見るのが普通で妥当とここは認めてロートルに居場所はないと引き下がり、歩き始めたその矢先。

雲間にのぞくこれは三日月ではない  すっと薄まった雲間よりのぞく欠けた太陽あり。潮風公園では欠片も見えなかった部分日蝕の太陽がのぞいたその暁光に、なるほどこれが毛利力(もうり・ちから)の成せる技か、宇宙飛行士が得るという宇宙の神秘を現す力かと恐れ入る。いやさすがにそこまでは。頑張っていればガンダム立像の横でもきっと少しは見えたんだろうけれども、見えた時間の瞬間瞬間の非連続から考えると、あるいはやはり無理だったかもしれない。大勢の子供が見上げ注視する空気から見えた瞬間を察知できたという意味でも、そこに宇宙(そら)への関心を抱いたニュータイプたちを集めた毛利力(もうり・ちから)の凄さを認め感じ入るべきなのだろう。ロートルの発するガンダム力(がんだむ・ちから)では無理なのだ。

 まあそんなガンダムでも関西から来ているらしい口調の人が、見に来て良かったと笑顔で楽しげに語っている様を見るにつけ、建てられた意味もあったのだろう。親子連れがガンダムをバックに撮った写真を楽しそうに回覧している姿をながめるにつけ、親から子へとガンダムの魅力は口伝されていっているのだろう。そうした感動と感心の連続が、途切れることなく続いていってくれることだけが希望だけれどもそれをするにはやはり強力なコンテンツが必要。ショートフィルムではなく富野由悠季監督にはテレビシリーズをお願いしたいし、そうでなくても新しい作品を万人が見られるテレビで放送して欲しいというのが切なる願い。38年後かに訪れるという次の国内での皆既日食を、居並ぶ等身大ガンダム立像にザクの立像にセイラさんの10倍立像を見上げつつ観察したいのだから。

 記憶にないなら涼宮ハルヒは主観的にたった1度の夏休みしか送っていない訳で、それでは1万5000回とかって数の夏休みを存分に楽しみまくっている歓びは味わえていないんじゃないのか。それではループさせる美味しさも何もないんじゃないか。って考えるとちょっと分からないところも出てくるんだけれどそうした何度でも楽しみたいって意識じゃなく、たった1度で良いからやってみたいことが心のどこかにあるんだけれど、それが成されないからループさせているんだということならばあの繰り返しも理解できるってことになる。

 問題はそのやり残していることが何かってことで、いったいそりゃあ何だってことをループに気づいたキョンがそれから精一杯に考えてさえいればラストの喫茶店で別れてそのままループに突入するんじゃなく、希望を満たして9月の新学期へと迎えるんじゃないかって気もしないでもない。過去に何をどう思ったかを記憶していなくたって、過去にそう思っただろうなあということくらいは分かって当然。そして考え確かめてみて、駄目なら戻ってまた気づいて長門に何回目か聞いて、前はどうだったかも聴いてそして差分を埋めるように挑戦してみるってのが筋だろう。

 なのに最後まで楽しみ惚けて迎えた喫茶店で何もできないでスルリと手から逃してしまうキョンの姿を長門は毎回、どんな気持ちで眺めているんだろうか。こいつアホちゃうかと思っているんだろうか。思っているかもなあ。でもって今が何回目の「エンドレスエイト」か分からなくなってしまった「涼宮ハルヒの憂鬱」。まさにアニメ的事件が起こっている、その渦中に放り込まれてグルグルとシェイクされている感覚は今後一生味わえないものだろうなあ。だから今を存分に味わい尽くそう。しかしいった何回目だ。長門はキョンの前カゴに何回乗って荷台に何回乗ったんだ。

 シックスティーン。2人は仲間だった。同じ場所で認め合い競い合いながら、ともに強くなっていった。足りない部分を補い合い、秀でた部分をわけあって、上へ、上へと伸びていった。セブンティーン。2人はライバルになった。離れた場所で切磋琢磨し、そこで出会った人たちからそれぞれに学び、それぞれに教えながら横へ、横へと広げていった。そうやって2人は、前よりもさらに大きくなって、そしてふたたび出会って互いに互いを高め合った。広げ合った。シックスティーンからセブンティーンへ。重ねた年齢が2人の少女を成長させた。

 仲間になって、ライバルになって、同士になってそしてエイティーンになった2人の物語は、もう2人だけのものではなくなった。2人が出会った人たちの物語があって。2人が導かれた人たちの物語があって。2人が導いた人たちの物語もあって。2人が決して2人だけではなかったこと、そしてこれからも2人だけではないのだということを教えてくれた。

 人生は1人だけのものではない。そして2人だけのものでもない。みんなのもの。みんなが認め合い、競い合い、高め合い、導き合って人は育まれるのだという真理が、誉田哲也による剣道部員の少女2人の成長を描いたシリーズの最新作「武士道エイティーン」(文藝春秋社刊)では綴られる。

 神奈川の学校で3年生になった香織は剛の剣を旨としながらも早苗の柔を認めて頑なさを抑え、後輩を導く先輩としての役割も果たしながら学校を引っ張り、自分自身も強さを増してインターハイでの優勝を目指している。福岡の学校で3年生になった早苗も、同級生になった強豪のレナと言葉を交わしつつ、互いに影響を与えながら福岡の高校を全国上位のレベルに留める活躍を見せている。

 そんな2人が最後の夏にぶつかり合うというのが、通例だったらストーリーのメインになるはず。ところが早苗は膝を痛めて力を存分には発揮できない立場に追い込まれてしまう。好敵手として香織の前に立ちふさがるなり、至らなかった者として香織の強さにひれ伏すといった決着のドラマの舞台に立たない。早苗からみても香織は決着をつける相手ではない。認め合って高め合った関係を再確認する区切りとして、2人は最後の舞台に立って竹刀を交える。

 むしろドラマは、そんな2人に関わる人たちが経てきた経験や、感じた思いへと見聞を広げていくことによって、それぞれにそれぞれの出会いのシックスティーンがり、戦いのセブンティーンがあって、昇華のエイティーンがあるのだということを知らしめる。早苗の姉は雑誌のモデルとして人気急上昇中。ティーンモデルから大人のモデルに脱皮しようとする端境期にあって仕事に悩み、恋に惑う。そして選んだひとつの道が、真剣な世界で生きる厳しさを伺わせる。

 香織の師匠は過去に今いる道場を飛び出して、全国を渡り歩いていた時代があった。祖父は技量に優れた彼に継がせる気で居たが、兄が頑なに後を継いで弟を外へと送り出した。どうして急にと訝る彼が何十年かを経て知った真実は、人を斬ってこその剣であるといった考えがもたらす傷みを浮かび上がらせ、斬ることが剣ではなく当て合うだけが剣でもない、武士道と呼ぶに相応しい剣の道のあり方を指し示す。

 早苗の高校での顧問が過去にしでかした圧巻の活躍ぶりが示す、やらなければならない時にやっておく心地よさ。香織の高校での後輩が態度で示す、自分ならではの道を探ろうとする大変さ。先達に肉親。先輩に後輩がそれぞれにそれぞれの分野で切り開こうとした道を経ることで、出会い高め合い別れて競い合い再び出会って寄り添うだけのストレートな、それゆえに感動を呼びやすい展開を選ぶことで置き去りにされがちな、人にはほんとうにいろいろな人がいるのだという事実、それぞれに思いを抱え悩みに苦しみながらも生きているのだという現実を知る。そこから2人へと眼を戻し、互いに讃え周囲に感謝して生きる大切さとうものを改めて強く感じる。

 ひとまず片づいた物語は、それでも次のステップへと進んで新しい関係も始まった。そこから4度の武士道をめぐるドラマが描かれるのかどうかは分からない。あって嬉しいことには違いないが、なくてもこれで十分といった気分にも溢れている。重なって離れ近づき合った道がまたしても重なって、太くなっていくのかそれとも更なる混乱を来す中で、よりいっそうの固くて強い関係を築いていくことになるのか。想像の中に楽しみつつ、わずかな可能性としての現実として出会える期待も抱いて、ひとまずの終幕を喜ぼう。作者に礼。


【7月21日】 46年ぶりだとかいう日本の陸地で見られる皆既日食が迫って観測が可能な地域に人が詰めかけているという話。全部は無理でも相当部分が東京あたりでも欠けて見えるということで池袋にあるサンシャイン水族館ではアシカといっしょに日蝕を見るイベントが企画され、お台場の日本科学未来館では遠く硫黄島の日蝕を中継しながら開設混じりで日蝕を見るイベントが行われているという。面白そうではあるもののしかしどこか決め手にかける。

 お台場ならやはりあの「機動戦士ガンダム」の等身大立像とともに日蝕を見るのがある種の旬であり王道であって、どこか未来的な空気が漂う空間で日蝕という非日常に接することで浮かび上がる異形の空気に包まれて、過ごした時間は一生の心に刻まれることだろう。夜にしかやらないレーザーによる演出を、ここぞとばかりに昼間に繰り出してみせればなおのこと、あり得ないビジョンがそこに現れてガンダムの持つ神秘性を一層増すと思うのだが果たして。

 「スタンドバイミー、スタンドバイユー」(スクウェア・エニックス)ってガンガンノベルズの新刊を読んでまず一言。ひとりの少女がいて丁寧なお弁当を作って持たせてくれる母親がいながら学校で虐められて弁当をトイレにこもって食べているところを上から水をかけられて、泣いて耐えてそれでも耐えきれずはねかえし切れずに自殺してしまうという設定は、たとえフィクションでも決して認められない、認めたくない。現実ではないって分かっていても似た話が現実に起こっているんだろうといった感情が湧いて、妙な観賞とか倫理観が働いて許せないって思ってしまう。これだから年寄りって難しんだよなあと自戒。

 それをおけば物語の方はいたって警戒で前向きのストーリー。タイマではなく退魔の力を持った少女が現れ、幽霊の少女にとりつかれた少年といろいろあるってゆー話。少女には実は過去にあれやこれやあって力に自信を失っていたりする一方で、少年の方も知り合いが自殺してしまった事件にこだわりがあって、幽霊の少女から目をそらせないままずっとひきずって生きている。そこに絡む謎の眼鏡っ娘。割にドライな彼女の裁きも受けながら迷う少女と引きずる少年は、ともに迷いを断ち切り過去を見つめ直したその上で、新しい生き方を見つけようと足掻くんだけれども結局の所少年は自意識に蹴りを付けたのか。そこだけが謎。女子トイレの個室に飛び込んでしっかり見たのは羨ましいというか何というか。そんな瞬間で見えるものなのか、生えてるかどうかって。

 一ノ瀬弓子クリスティーナはパンツはいてなかったけれども学級委員長の竹山友加はちゃんとはいてて眼福というか一瞬で終わって残念というか。弓子ちゃんもスースーしっぱなしな「よくわかる現代魔法」でイラストとそれからコミカライズも手がけている宮下未紀さんが、一迅社から出した「マイナスりてらしー」は銀座にでっかい家屋敷を持つ松平家のお嬢様、康光ってのがいるんだけれども彼女は類い希なるマイナス金運の持ち主らしくって、その家にやって来た途端に家族は不幸に襲われ財産は減って、後に莫大な借金が残り家には毎日のように督促状が届き借金取りが訪れている。

 そんな家を訪れたのが康光とは学校の同級生になる竹山友加で、借金じゃないけど給食費を取り立てに行ったらドアではじき飛ばされ吹っ飛ぶ時にまくれあがったスカートの下にのぞいた白い布。けどすぐに立ち直った友加がそのまま康光のそばに居続けて分かったのはもしかしたら彼女がマイナス金運の持ち主ではないと言うこと。では誰かというとそれはといった展開から、ご主人思いのメイドが健気に働く展開へと進んでいく中で金を超えた関係ってのが存在するんだと教えられる。けどでも何十億も借金背負わされるマイナス金運の持ち主と、居続けて耐えられる財力ってのはなかなかないよなあ。どうやって生きてきたんだろう原因の彼女。

 「ぷりるん?」「ぷりるん!」。駄目だ意味通じない。けどそうとしか言わない女の子が身近にいたら嫌でも意味を組まなきゃやってられないんだろうけど、それが行き過ぎるとかえって気にしたくなくなって相手が「ぷりるん」としか言わなかろうとも問題なし。とはいえそれがさらに続けばもうどうしようもなくなってやっぱり気にしてしまうと言うから根比べみたなものなのか。「ぷりるん」。ということで十文字青さん「ぷりるん。 特種相対性幸福論序説」(一迅社文庫)は兄思いの妹が作ってくれた弁当を持って家を出たら「ぷりるん」としか言わない女の子がいて幼なじみで何故か今日から「ぷりるん」としか言わないと言いだしてそうですかと受け流していたら本当にそうなってしまってから暫く。

 やっぱり「ぷりるん」としか言わなくなったその娘を脇にやって学校で親しい仲間と喋っている中でそんな一人だった桃川みうと電話とメールでコミュニケーションを取るようになったら中が一気に進展。デートにいってウィンドーショッピングして食事してちょい誘われたけれども初めてなんでかわしてうん健全、なんて思っていたらすぐさまみうが電話をかけて来て別の誰かとどこかに行くと言ってきて、そりゃあいったいどいうことだと憤り苛立ち焦りつつそういうものかと諦めていたらまたまたみうとの仲が深まり一気に進展。

 ところがそれが悪夢の始まりか、積極的になったみうとデートに出るもののコースはお定まり。クラスメートが陰でそんな2人を揶揄している声が響いてきて主人公の気持ちをダークにさせたら今度は優秀だけど就職しないで旅人になった姉が戻ってきて、少年の出生の秘密を暴露し妹もそれに気づいていたらしいことを知って少年を戸惑わせる。ぎくしゃくする姉との関係に妹との関係。みうの電話攻勢は激しさを増して邪険にしていたら誰と出かけた、誰と寝たという話ばかりをするようになってプレッシャーをかけてくる。友人との関係も崩壊寸前。出口無しのそんな気持ちの時に「ぷりるん」としか言わない彼女が目に入って来て……。

 といった感じにふとしたささいなきっかけが、関係をこじらせ暗くさせ崩壊の瀬戸際まで持っていくけどそんな裏側にある寂しい気持ち、誰かにすがりたい気持ち、誰かに幸せになって欲しいと願う気持ちが浮かび上がってはみんなを暗黒には向かわせず、死なども与えずに立ち直らせては元の鞘というよりは、すべてを知ってそしてさらに1歩進んで欺瞞が薄れて自然さが増した関係へとみんなを持っていく。取り繕わず、阿らず、空想に逃げないで厳しさも受け止めることで得られる確かさが、このどこか仮面を被ったように上っ面な関係が蔓延した陰で、鬱憤が吹き出て不幸が生まれる社会にひとつのメッセージとなって響いてくる。今にとっても必要な小説、なのかもしれないなあ。「ぷりるん!」。


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