縮刷版2009年6月下旬号


【6月30日】 対峙するアムロとシャア。「なぜララアを巻き込んだ」と問うアムロに対してシャアが「ごめん」と言って謝ったとしたら「機動戦士ガンダム」はいったい後にどんな評価を招いただろうか。ピカレスクを身ひとつで体現してガルマをひっかけララアを誘いいずれも死へと至らしめた死に神のような男。アムロでなくたって非難したくなるそのきゃらくたーがあっさり謝り自分が悪うございましたと頭を垂れて、果たしてアムロはそうですか分かりました次からはしっかりして下さいねと無罪放免するのだろうか。

 あり得ない。心理的にも展開的にもあり得ないことなんだけれどもそういうことが良心的に不可能だった時代も今や過去のよう。あり得ないパーソナリティのキャラがあり得ないシチュエーションであり得ない言動を見せてしまって平気な時代がどうやらやって来たようだ。こんな時代ならシャアが謝り軍門に下り共に未来を戦おう、なんてエンディングもユルされ認められたりするのかも。凄い時代になったものだ。

 いやしかしやっぱり「ごめんね」で済んだら警察はいらないし、ICPはいらないし監督も脚本家もいらないんじゃないのか、なあおい「宇宙をかける少女」さんよお。プリンスオブダークネスだか黒レオパルドだかと組んで宇宙を滅ぼそうと立ち上がった我らが獅子堂ナミのところに駆けつけたのは正気を取り戻したって触れ込みのアレイダ変じて獅子堂神楽。長い間にいっぱい悪いことをやってきたのを省みないでチャラにして、正義の味方になりましたって顔でナミの前に立っては彼女を真っ当な道へと戻させようと説教する。

 でもちょっと待て。ナミを誘ってネルヴァルの方へと引っ張り込んだのってアレイダじゃん。つまりは自分がそうなってしまった原因が、今度は元に戻れと言って立ちふさがるこのむちゃくちゃぶりを目の当たりにしたら、決して大人じゃないとはいっても普通に筋道を理解できるくらいの分別を持った人間なんだから、ナミだって唖然呆然としてしまうんじゃなかろーか。だから当然のように違うだろうそれ何言ってんだ手前って突っ込んだところに帰ってきたのが冒頭の言葉。「ごめんね」。そりゃあ切れるよ誰だって。でもそんな怒りがまるで力にならずあっさり倒され拉致連行。いったい何しに出てきたんだ。でもって何を成し遂げたんだ。そこから何を学べば良いんだ。大人の言うことなんて聞いちゃいけません。そんな教訓か。辛いなあ。

 でもって獅子堂秋葉はようやくにして自分ひとりで何かを成し遂げる気になって、大人の階段を上ったと思ったらやって来たイモちゃんを見て途端に2人で1人の半人前へとアイルビーバック。イモ離れできないところを見せつけてくれた。きっとこれからも2人で1人の人生って奴を続けては、別れる時になってジタバタ騒いで姉貴たちを困らせるんだろうなあ。そこからこれまた学べることは自分に素直になりましょう。一生やってろ。そんな秋葉が黒パルドを正気に戻す必殺技がこれまた奇々怪々のキック一閃。叩けば治るテレビじゃあるまいし。それともそこが宇宙をかける少女ならではの力の発露か。滝沢国電パンチよりも凄いキックの威力なのか。きっとこれからも出会う敵をキックでねじ伏せ進んでいくんだろう。そしてやがて呼ばれるようになるんだろう。キックの鬼と。

 いつか出てきたハコちゃんのその後がストーリーに絡む感じもなければ、喫茶えにぐまがいったいどんな場所でそこに残されたメッセージが何かって話も浮かばず。生徒会は初期こそ偉そうにしていたのにストーリーの上ではまるで何の活躍も見せず、唯一つつじだけが自分を建てて世の中に打って出た。思いを貫く勇気を持てって教訓? でもこれはあのつつじの性格だからできたことなんじゃないのかなあ。そもそもが「宇宙をかける少女」で宇宙をかける少女だと言われた獅子堂秋葉はどんな具合に宇宙をかけて何を成し遂げた? そこんところを教えてくれないとどうにも後に引っかかる。気になって夜も眠れない。8時間くらいしか。

 もとよりネルヴァルと戦うために仕立て上げられたポジションなはずなのに、戦うどころか見方につけて共闘しては黒パルドを留めようとする方向転換。技といったらキックくらいでどーして秋葉が「宇宙をかける少女」として見初められたのかがまるで説明されていない。どうしてだ。どうしてなんだ。考えれば出てくる答えだったら教えて欲しい。DVDとか買うとライナーに書いてあるのか。だったら買うか。うーん。あれでもーちょっと「ドットアニメ」の限定版がオリジナルだったらなあ。ただおおきいだけだもんなあ。

 ともあれ終わったひとつの作品。感想を言うならこれなら「キスダム」の方がよっぽどラストに盛り上がったし「ギガンティックフォーミュラ」の方が毎週どーなるかを楽しめた。「黒神」だってしっかりラストは丸くまとめた。原作ファンにはいろいろあるだろうけれどもアニメ版としては「バンブーブレード」くらいに面白かった。「隠の王」はそのちょっと上くらいで「黒執事」はもうちょい上。「夏のあらし」はさらに上といった感じにスクエニ系アニメはランク付けできそう。いやそれはどうでもよくって「宇宙をかける少女」はだから21世紀においてもっとも不条理なアニメに認定。20世紀の不条理さを体現した「新世紀エヴァンゲリオン」が後に大ブームになったように、ここからいったいどんな派生があるかも含めて成り行きを観察していこう。来年の今頃に尋ねて何人が答えられるのかも。

 生栗山千明さんを見たのっていったいいつ以来なんだろう? 何かの会見で見たような記憶もあるけれども確実なのはあるか大昔の「インパク」なんてイベントがくり広げられていた時代、優れた活動をした人を首相官邸で表彰するってイベントがあってそこに行ったらとっても栗山さんに似た人がいたけど名前の登録が違ってた、どういうことだと聞いていたら何かネット上の役柄がその名前だったみたい。どんな取り組みがどう表彰されたのか、今となっては定かじゃないけどネットっていろいろな試みができて面白い場所に当時は映っていたことは間違いない。しかしやっぱり気になるなあ。アニマックスが行った「アニメ党宣言」だかって番組の製作発表会見に登壇の栗山さんは、「インパク」の当時とまるで変わってない美貌が凄い。もはや人間の範疇を超えている。吸血鬼か何かだったりするのかなあ。だったら吸われてあげても良いかもなあ。あそことかガブリといっちゃって、ってどこなんだ。

 3年後くらいだったっけ。普通の超小型モバイルノートがいきなり「iPod」に変わっていたりするからその間に15年は軽く時間が流れていたんじゃないかって気にもなったけれどもそこは漫画、フィクションの世界だけあって一気にテクノロジーの進歩もあったみたい。パワーだって往時のサブノートよりも今の「iPod」の方がよほどパワフルで処理も速くて使い勝手も多彩だもんなあ。そんな情報機器が蔓延っているんだから化け猫だって生きづらいよなあ。ってことで「ヤングキングアワーズ」連載の伊藤明弘さん「ジオブリーダーズ」は田波が化け猫に襲われているところに現れた2人の少女。手にお札を持ち携帯情報端末も駆使するその捕り方は真紀のモーゼルよりも栄子ちゃんのメリケンサックよりも高見ちゃんのバタフライナイフよりも強いのか。強いんだとしたらそんな新神楽は普段いったいどんな仕事をしているのか。どーして田波の前に現れ得たのか。うーんその辺り興味津々。だから休まず来月も。


【6月29日】 歴史にあって苛烈さ、果断ぶりで鳴る為政者を並べようとした時にはやはり、ドイツ第三帝国のアドルフ・ヒトラーが真っ先に挙がるだろう。次いでナポレオン・ボナパルトにヨシフ・スターリンにチンギス・ハーンにアレキサンダー大王に始皇帝といったところか。日本では織田信長が挙がるところだが、欧州全土を戦火に叩き込んだりユーラシア大陸の東から西、西から東を席巻した人々に比べると日本の一部すら平定しきれなかった信長は、残念ながらスケールにおいて小ささが過ぎる。仮に信長のようなパーソナリティが中国に、あるいは欧州に生まれていたらどんな活躍を見せたのかという興味はあるが、それはSF小説なりに描かれるべきフィクション。現実世界では議論できない話題だろう。

 いっそ飛躍するなら架空世界に登場する果断な為政者が現実世界に現れたら、といった方が面白い。例えば「機動戦士ガンダム」のギレン・ザビが20世紀初頭の欧州に出現したら何を成したか。父親が簒奪した権威をそのまま受け継いだ彼の場合は伍長から成り上がったアドルフ・ヒトラーのような才能をそこに見ることが難しい。就任後にいったいどんな作戦を繰り出したのかも分からない。モビルスーツの製造を進めたのは誰なのか。コロニーに毒ガスを注入して住民を虐殺し、地上へと落として混乱を巻き起こしてそして一気呵成に地球侵攻を成し遂げた電撃作戦の立て役者はギレン・ザビなのか。そうだとしたらやはりなかなかに苛烈な為政者ではあったと言えるかもしれない。そうでないならただの二世だ。いったいどちらなのか。ギレンの一代記を是非に読んでみたいものだ。

 それはそれとして、「A」なんかのドキュメンタリーで知られる森達也さんが「例の北野誠さんの件なんですが」ってコラムで芸能界における暗黙というか空気を読みすぎる風潮へのいささかの見解なんかを書いていて、果たして本当にドンは何もいっていないのか、いないのだとしてもだったらどうして周囲は空気を読み過ぎるのか、読まなかったらとしていったい何が起こるのかといった興味も浮かんだけれどもそこまで突き詰めないのもまた空気。曖昧さの中に共同幻想は浮かび広まっていくのだろうと感じつつ、さらにこれはこれとして別に興味深い1分が。

 「その意味では、ブッシュもヒトラーもルーズベルトも東条英機もビッグブラザーもキング・ブラッドレイも金正日も含めて、為政者が国外の危機を煽りたがることは当たり前。そういう人たちなのだ」。えっとひとり何か歴史の教科書に登場しない人がいるんですけど。それを言うならビッグブラザーだって歴史の教科書には出ないけれども文学の教科書には出るかもしれないからまあ同類。問題はだからキング・ブラッドレイ。誰だこれ? って聞くのも嘘臭いほどに漫画好きアニメ好きにはお馴染みのホムンクルスのおっさんだけれどそれを為政者のお歴々に混ぜて出してしまうくらいに森さんにとってキング・ブラッドレイは相当に激しい権力者って映っているのか。単に「鋼の錬金術師」のファンなのか。ちょっと知りたいところ。でもってこの7人だとやっぱり最強はキング・ブラッドレイかなあ。矢でも鉄砲でも死にそうもないもんなあ。

 ああやっと終わった「夏のあらし」は第1話と似た話を繰り返しているようでお遊びも満載の番外編。出てくるキャラクターが水着だったり褌だったり柔王丸だったり何だったりと唐突にして突拍子もない上に、ストーリーはキューティーストロベリーちゃんならぬキューティーチェリーちゃんをどう取り換えるかって内容で1話とは違う次元の違う話ってことを示してる。なおかつそんな話のメインには、痛んだ牛乳を2ヶ月前の冷蔵庫にある痛んでない牛乳と取り換えてきたらいったいパラドックスは起こるのか、って命題があって歴史が微妙に入れ違っていく可能性なんかを示唆して、いつもながらの「夏のあらし」とは似て非なる世界が舞台になってるこのエピソードの、存在理由をエピソードそのものによって語っていたりする。ああややこしい。でも面白い。パラドックスがパラドックスなのか整合性が取れているのかは考えると夜、寝られなくなっちゃうんでそこは量子で時間が亜空間な人たちに答えを出して欲しいとお願い。「SF大会」で「夏のあらし」について語る部屋があったらかけつけたんだけど、って嘘ですもう行けませんお金ありません。

 やっぱり「FTには汚名そそぐ責任がある」とか書いてくるんだろうか。それともFTならばあるいは信じるにたると讃えるのだろうか。ここはやっぱり前者だよなあ。でないとどうしてあっちは駄目でこっちは良いのかを説明しなくちゃいけないから。英国の経済紙のフィナンシャルタイムズが、何でも金正日の後継者に決まったらしい三男、金正雲が今月の中旬に中国を訪問したってことを報道しているって話が海の向こうからわしわし。前に朝日新聞なんかも同じことを書いていたけど、その時は中国の広報官が真っ正面から全面否定し推理小説の読み過ぎなんじゃなのとまで行って朝日をお笑いに貶めた。でもって普段は中国政府の言うことなんてと鼻で嗤ってるお堅い新聞が、このときはなぜか中国の肩を持つようにこの嘘つきめ、ってな感じで朝日を非難していたから驚いた。朝日憎けりゃ中国讃えるっていうことか。まあ海の向こうの良くも悪くもお得意さんと同じ業界の競争相手じゃ、叩くのは後者ってことになるのかもしれないけれど。

 でもここにイギリスの有力紙のフィナンシャル・タイムズまでもが、朝日と内容にやや差異はあるものの、やっぱり中国政府が否定している金生雲の訪中を事実と報道してしまった。これまたやっぱり中国は否定するだろうし、前とやっぱりお案じでルパン三世の見過ぎだとか何とか言うかもしれない。前例にならうならば日本のメディアはやっぱりFTは誤報だから汚名をそそげと書くはずなんだけれども、中国より朝日は嫌いでも、FTは中国ほどに嫌いなのかちょっと分からないだけに出方に迷う。さてはてどっちを正しいと持ち上げるべきか。そんな辺りの出方がちょっと注目されそう。とりあえずはお膝元にいながら嘘だったんじゃねえのと断じた支局長の人とかが、どう出るのか興味津々。己の取材と信念に基づいて虚報と断じたのなら、ここは曲げずに汚名そそげと書くのが尊敬に値するジャーナリストの振るまい方だと期待しておりますによって。

 現れたのはクールな美少女でどうも不思議なところがあって少年が家を訪ねると少女はいるにはいたけどどうも殺し屋っぽくってその時は帰ったけれども後でやっぱり殺し屋だったと知って逃げるかというとそうではなくって逆に迫って仲良くなっていくうちにクールだった少女の鉄壁の心にひびが入って少年への関心を芽生えさせた結果、所属していたチームの追っ手を振りきり日本政府にも捕らえられることなく少年とのいちゃいちゃとした日々をどうにか手にするっていった展開が、今時のライトノベルで繰り出されたとしたらストレート過ぎると言われそうだけれどもこれをジュブナイルと考えれば、ストレートさが逆に分かりやすいと中学生あたりには好まれそう。その意味で吉野匠さんの「死神少女」(幻冬舎)はビギナーが読んで愉快なジュブナイルチックのボーイ・ミーツ・ガールだと理解するのが良さそう。在る意味で飛び抜けてしまった「フルメタルパニック」とは次元が違う世界の物語なんだと思うこと。


【6月28日】 結局のところ恒久としての「機動戦士ガンダム」の“聖地”はどこなのだろう? 上井草の駅前には確かに「機動戦士ガンダム」の像が屹立して、そこが「ガンダム」のアニメを送り出したサンライズの本拠地であることを教えてくれてはいる。だが制作会社がそこにあることが「ガンダム」の“聖地”となり得るのか? 実際のところ上井草あたりを歩いて、「ガンダム」にゆかりの地だからと訪れ像に敬意を示すような人を見たことがない。まだ葛飾区亀有の側にある「こちら葛飾区亀有公園前派出所」に関連した両津勘吉の像を長めに来る人の方がよほど多いし、街も賑わっている。

 「こち亀」の場合は作品自体が亀有を舞台にしたものだから、そこに両津がいるのを当然と思っている人が大勢いる。アニメの世界に入り込める感覚。アニメの舞台を歩く楽しみ。それがたぶん“聖地”となり得る最大の条件なのだろう。上井草は生まれた場所であってもガンダムがいる場所ではない。という部分が彼の地をして“聖地化”に至らしめない理由なのかもしれない。ならばお台場に立つ像は“聖地”になるのか、というとこれもまた限定的。第1に展示が時限的で9月に入ればそこには何も残らない。あった、ということで記憶には残るだろうが、作品とは無縁のその場所にいつまでも耽溺するほどファンも心が優雅ではない。

 ガンダムで“聖地”作りは可能か? となるとしかしやはり上井草が起点になるのがひとつには良さそうだが、それには街とそして制作サイドの協力が必要だろう。シャッターにガンダムが描かれ街頭からガンダムの垂れ幕が下がったところで、そこに来たくなるような何かがなければやはり人は集まらない。グッズを売る、というのも即効的ではあるだろう。今はそれすらないのだから。なおかつやはりガンダムを愛する人たちが居て心に染みる何かが必要だろう。それはいったい何なのか。分かればどの観光地も人集めに悩むことはない。やはし新しい「ガンダム」のシリーズが、上井草を舞台にしたものになるのが良いのだろう。それもまた本末転倒な話だが。

 というわけでやはり行ってみるのが出没家たる存在意義だと8月22日あたりに公開になる「ホッタラケの島 遥と魔法の鏡」の舞台になっているらしい入間市の「出雲祝神社」ってところを見物に行こうと思って家を出たんだけれども入間市なんてどこにあるのか分からない上に神社の場所もなかなか不明。田舎だとほら、駅のそばにない場合にバスとか乗って行かなくちゃいけないし、そもそもが近くをバスが通っているのかも分からないんであれやこれやと調べてみたら、西武池袋線に乗れば入間へは行けると判明。しかし現地までのバス路線があるかどうかが肝心なんで調べて入間市のバス路線図って奴を見つけ、それから住所で最寄りのバス停が宮寺ってとこだと調べて探すとあったあった。

 入間市の駅からずっと離れた場所にあって駅から歩くなんてとんでもないし、そもそも行ってる路線がない。見るとむしろ手前の武蔵藤沢ってところからの方がバスがありそうだったんでそこまでまずは行こうかと、地下鉄で池袋まで出てそこから飯能行きへと乗って走ることしばらく。石神井公園とひばりヶ丘だけ止まる準急で所沢あたりまで行ってさてもう1度と確かめると、どうやら武蔵藤沢から出ているのは循環バスの路線でそれはとても本数が少ないと分かって逡巡。これは困った。どうすればいいんだ。タクシーを使うか。それだと誰もが行ける“聖地”にはならない。うーん。と思って目を凝らすと路線図で下の方からひょろりとかすっている路線が見えた。

願いがなかうと卵を備えるらしい  どこから出て居るんだ、と調べて所沢市のバス路線図へと切り替えて見たら何と! 武蔵藤沢より手前の小手指駅からバスが出ていることが判明し、なおかつ本数も30分に1本は確実にあると分かって急遽、こちらで降りると決めて準備していたら小手指に到着。探すとそこには高田馬場でもないのに早稲田大学行きというバスが止まってて若い女の子男の子がバスを待っている姿が見えた。所沢で、というか小手指で、早稲田。後から来た宮寺を通るバス路線でも大学のそばをかすったんだけれども、いやあ遠いねえ、とてつもなく遠い。とてもじゃないけど私学の雄とやらに勇んで入った善男善女が花の都のキャンパスライフを謳歌できるような場所じゃない。勉学になら励めるかもしれないけれども洋書の1冊古書の1冊を買いに出ようにも都会の書店街まで1時間半はかかりそうな場所ではままならないことも多そう。そんな場所でワセダな人たちは楽しい日々を送っているのかいないのか。ひとつ謎ができた、って名古屋から名鉄で1時間でさらにローカル線で10分な場所にある学校に2時間かけて通ってた人間が言うことじゃないけれど。いやあ長距離通学って良いもんだよ。電車っていっぱい本が読めるんだよ。

 そんな所沢の早稲田でも通えるものなら通いたいなあ、入って勉強し直そうかなあなんて考えさせられる周辺環境が脳裡をよぎる中をさらにバスで走るとそこは三ヶ島。ふと見ると「三ヶ島ペダル」なんて看板が見えた。ええっ、あの自転車のペダルで有名な三ヶ島製作所ってこんな場所にあったのか。日東のバーにMKSのペダルは前ほどセット物がなかった80年代とかは結構、自転車小僧にとって注目のブランドだったんだよなあ。今もまあそれなりに頑張ってくれているみたいで安心。でもってバスはほどなく宮寺へと到着。さあどっちに行くんだと前日に見た地図の記憶を頼りに歩くと「出雲祝神社 0・3キロ」とかって看板があってその矢印に従って歩くと迷わず現地に到着。とはいえ先にたどり着いたのは道なりに見えた「ハタヤの稲荷」で、実はお祈りすると捜し物が見つかるって伝説があったのはこっちのお堂だったりするらしい。宿願成就の暁には卵を備えるんだとか。それらしきものは見えなかったけれどもお堂は脇の大樹ともども風情があって、綺麗にされているところからも慕われているんだなあと感じ入る。

ポスターくらいえあとは静寂。   さて肝心の「出雲祝神社」はと見ると鳥居があって階段が。これかなあと上がってみると正解ではあったものの本殿の脇から入ってしまった。行く人はだから駐車場が見えたら手前の道を左に折れて進んで右に見える鳥居から参道を上がっていくのが良さそう。鳥居をひとつくぐって両脇に樹の並ぶ参道をのぼると階段の上にもう1つ鳥居。そこをくぐると脇から上がってきた時にも到着する境内があって正面に歴史を感じさせる本殿が見える。2000年前の創建、ってことらしいけれども建物自体はいつからのものなのかは不明。人影もなく売店その他もいっさいないけど、その分だけ厳かさもあって軽々しく“聖地”と呼んで通って良いのかと迷いそう。とはいえ本殿にはしっかり「ホッタラケの島」のポスターが貼られてアニメの場面なんかもあるから意識はしているのかな。キャストが揃っての公開祈願とかやるんだったら行ってみたいけど場所が場所だけに取材は大変そう。バスツアーとか出てくれれば良いんだけど。

 映画だと主人公の女の子が縁側の下みたいなところに隠れて向こうからやってくるあやかしの類を格子越しに見るシーンがあるんだけれども本殿にはそうした仕組みはなし。飾ってあるイラストも多少の改編があるみたい。映画の方に伝承の元となった「ハタヤの稲荷」が出てくるのかもちょっと分からないから、あるいはそうした周辺の伝承をひとつにまとめて出雲祝神社の形に収めて絵にしたってことなのかな。振り返って鳥居の向こうには木々が茂っていて、映画のように夕日が見えるってこともなさそう。とはいえ割に忠実に再現されていたりするんで、映画公開の暁にはやっぱり現地を見たくなる人もいそう。そして「ハタヤの稲荷」にも詣でて失せ物探しを祈願し、出てきたらお礼にもう1度、お供えにいくという循環。生まれれば彼の地にも人が向かうようになり、途中にある早稲田にも所沢だからって遠慮が消えて映画の舞台の側なんだからと前向きな関心が芽生えるかも。早稲田も映画を応援すればいいのに。

 そんな行き来でも本は読む。いっぱい出ているんだからいっぱい読んで可能な限り紹介するのが情報の流動化や関心の越境に役に立ちたいってのが目下の願いだし義務でもある。ってことで「迷い猫オーバーラン!5」(集英社スーパーダッシュ文庫)は竹馬園夏帆にちょいと黒さが見え隠れ。あと235ページの10行目にある「お伝えしておきましたわ。夏帆さんのお話になりたかったこと」は明らかに夏帆のセリフだから珠緒の間違いだろうなあ。間違いにしては派手すぎる。でもって三田誠の「レンタルマギカ 滅びし竜と魔法使い」(角川スニーカー文庫)は京都を舞台に伊庭いつきのグラムサイトをめぐって角付き合わせた<螺旋なる蛇>と協会の争いに決着。猫屋敷蓮は父親との諍いに決着を付け<螺旋なる蛇>は幹部を捕らえられ伊庭いつきは無罪とはならなかったものの方面。とはいえ穂波と猫屋敷をとられアディリシアはゲーティアに戻り「アストラル」にはちょっぴりすきま風。ユーダイクスが生んだホムンクルスのラピスは来たけど残りがみかんにオルトヴィーンだけではなあ。黒羽は幽霊なんで役には立たないし。どーすんだろ、これからの展開。それ故に期待も大。

 長谷敏司さん「円環少女」は12巻「運命の螺旋」でメイゼルが地獄へと追放されるまでが明かされる。母親がかつていた世界を大崩壊させて高位の魔法使いたちを共倒れにしてしまったことがひとつの要因らしいんだけれども生き残ってメイゼル追放の戦闘に立つのが父方の叔母にあたるグラフェーラってのが何とも。ってか前はちゃんとした美少女だったのに今は機械のボディにゴスロリ衣装のロボ子ちゃん。いったい内をどーしたんだメイゼルの母ちゃんのイリーズは。

 そして欧州からはお寿司を食べに、じゃなくって世界のこれからを話し合いに500年は生きてる連合の最高議会議長のアリーセがやってきては魔法使いだって操れてしまう再演大系の魔法の使い手の倉本きずなを糾弾。当然にしてメイゼルと仁は反発するもののそこに襲ってきたのがグラフェーラを筆頭に仰ぐ協会の主流派やら別に活動する神聖騎士団の面々やら。東京ビッグサイトあたりを舞台にくり広げられる魔法バトルの中で自分を魔法使いと知らず育って今もその力に怯えつつ追われもする不幸を嘆くきずなが自らの力を使い自分を守り皆を守ろうとして魔法に目覚める。再演大系最強かも。取り急ぎ収まったものの均衡はくずれ激しさを増すバトルの中で仁はメイゼルを守れるのか。復活したらしい妹の正体は。謎をかかえてトゥービーコンティニュー。早くの登場を願おう。


【6月27日】 「機動戦士ガンダム 哀・戦士」を劇場で見たことがない。テレビで見たかも定かではない。DVDは劇場版3部作のボックスをアムロ・レイ役の古谷徹さん、シャア・アズナブルの池田秀一さのサインが入ったポスター付きで買ってはいるものの届いてからまだ箱を開けていない。

 劇場で見なかったのは前にも書いたとおりに中学生から高校生へと移り変わった時期で、劇場に足を運べる金銭的な余裕もなかったことがひとつとそして、テレビで見た感動とはやや異なる展開を受け入れるべきかを悩んだことがある。テレビで始まった作品はテレビがオリジナル。それを踏襲しつつも改編が加えられているものは脇役に過ぎないといった思いがどこかにあったのだろう。

 作り手側としてはテレビでできなかった部分にハサミを入れて、より感性に近いものを作って見せるといった意気込みがあったのかもしれない。劇場版こそがオリジナルの最終形、といった意識も今ではあるのかもしれない。だから30周年を記念するイベントの発表会で、流された感動のラストシーンがテレビではなく井上大輔の歌が流れる劇場版のラストだった。

 テレビ版よりもむしろ劇場版に触れてガンダムに入ってきた世代も少なくない今、そうした位置づけもあながち間違いではないのかもしれない。何より微妙な差異はあっても劇場版の「機動戦士ガンダム」はテレビ版の流れをほとんどそのまま踏襲しており、ストーリーに違いはないしメッセージにも変わりはない。オリジナルを第一義と考える者にとっても代替物として不満はない。

 最近でこそ「機動戦士Zガンダム」が劇場版となってラストシーンにテレビとは大きな違いが描き加えられた。「交響詩篇エウレカセブン」は劇場版「ポケットが虹でいっぱい」で本編の絵を流用しつつまるで違ったストーリーが組み立てられた。サイドというわけではなく一種の描き直し。テレビ本編を見た人でも代替物としてではなく、まったく新しい作品としてテレビとともに楽しめるようになっていたのは、作り手側に総集編にはしないぞという覚悟が感じられて好ましい。

 ビジネスとしてもこれなら同じものだろうということで買わない人も出ない。買わざるを得ない。そしてテレビ版の方も買って見比べざるを得ない。「エウレカセブン」のブルーレイボックスやDVDボックスは品切れ完売となった。劇場版についてもブルーレイの初回限定版は発売元の初回出荷分が売り切れたという。劇場での上映にも大勢の観客が訪れ興行収入だけでそれなりの収益を確保できた。劇場版を一種のファンアイテムにせず、作品として成り立たせ屹立させるひとつの手段と言えるだろう。

 この手法で今、「機動戦士ガンダム」の劇場版を作り直したらいったいどんなストーリーが出来上がるのかに興味が及ぶ。出だしこそこれまでどおりにサイド7でアムロがガンダムと出会い、ホワイトベースで逃げ出し大気圏突入を経て地球に降りるところまでいくだろう。ガルマとの戦いはやはり必須か。シャアという男のしたたかさと底の知れなさがそこに描かれているのだから。

 けれども第2作あたりから改編が始まりランバ・ラルとの戦いを経ずしてすぐさま宇宙へを舞い戻り、そこでの戦いを2部としてラスト近くまで一気に進めた果てに、怪物となったアムロが見方も敵も関係ないとばかりに自分を主張し、そのカリスマ性で宇宙の若い層を集めて独立して連邦に反旗を翻し、ジオンの残党をも巻き込んで一大帝国を気づき挙げて30年に及ぶ戦いをくり広げる、といった展開に向かえばまたひとつ、別の宇中世紀の歴史が刻まれるかもしれない。生まれてくるカミーユ・ビダンはどこに付くのか。ハマーンはアムロと結ばれるのか。シロッコはアムロの軍門に下るのか。10年後くらいに誰かそうした物語を、刻んでくれると少し楽しい。

 10年の時を経て最新のデジタル技術で作り直してみるっていった構想がいっきに膨らみ、絵をまず大きく変えてみたことでテレビ版のファンを再度引きつけつつ、新しいファンにも「さあとりあえずこちらでストーリーを復習しなさい」とばかりに送り出されたはずだった「ヱヴァンゲリヲン新劇場版・序」が、ラストシーンでまるで違ったものになるぞと宣言し、あるいは今ふたたびの生を描くものだといった予感をさせたことを引き継ぐかのように公開された「ヱヴァンゲリヲン新劇場版・破」は、冒頭から新キャラの眼鏡っ娘がやさぐれ口調で暴れ回ってみせて、テレビ版にどっぷりハマった人も新たな視点を与えてくれる。

 とはいえそれすらもテレビ版でほのめかされつつ描かれなかった日本以外の状況が、ビジュアル化されたに過ぎないといった可能性もあったけれども、進むにつれてテレビ版とは違った部分が頻出。ストーリーのみならず心情までをも変化させることによって、「交響詩篇エウレカセブン ポケットが虹でいっぱい」とはまた違ったアナザーであり表裏ともいえる「エヴァ」を見せてくれる。テレビ版を見ていた人ならなるほどそうきたかと喜べる。これが初見の人は遡ってテレビ版を見たくなる。今まらブルーレイでテレビシリーズを出し直せば、きっと相当のスケールで売れるだろう。

 あとは見てのお楽しみ、といったところでストーリー的にはここからどこへと向かうのか、それはテレビでマインドのデフレスパイラルへと向かったキャラたちが逆にインフレスパイラルへと向かうのか、もっと内向きにきみとぼくとの世界を作り上げるのかといった興味をまずはそそられる。シンジは相変わらず。しかしレイには動きが見られるし、アスカとレイとの関係にも対立を超えた何かが見える。ゲンドウにも行動の底になにか確固とした意志がありそう。そうした既存のキャラの変化をテレビ版との対比で感じつつ、新たに投入されたマリというキャラが、そうした関係性をどう破壊していくのかが関心の的になりそう。

 あとは純粋にビジュアル面を楽しみたいところ。新キャラのマリちゃんのスレンダーなのに出るところが出っ張った丸みのあるボディラインとか、式波と名前の代わったアスカのやっぱりそれなりに出ていたり丸かったりする部分とか、綾波レイの柔らかそうな丸みとか、ミサトさんの年寄り……ではなく熟して来たボディラインの魅力とかを目で存分に味わえる。巨大なスクリーンで浴びるように堪能したあとは、家でブルーレイディスクを買ってストップモーションでじっくりと楽しみたいところ。ピンクの服で着座姿勢から立ち上がる瞬間のマリとか。

 さらには制服姿でしゃがみこんだマリとかも。見えた? 見えてはいないか。学校に通うよーになったアスカが手にした携帯型ゲーム機なんかも注目。ってありゃあ「ワンダースワン」だろう、起動音からして。見た目だとカラーになってからのものか、それともちょいスタイリッシュになったクリスタルかは判然としなかったものの、起動音だけは最後まで変わらなかったはずだし、縦にして持って遊べる携帯型ゲーム機なんてあれしかなかったし。

 いやあ良いゲーム機だったよなあ、乾電池1個で20時間から30時間は確か遊べたんだよなあ、飛行機でアメリカに行って帰って来る間をずっと「チョコボのダンジョン」やって電池切れなかったもん。充電式になってからの携帯型ゲーム機って電池切れが不安でなかなか持って歩けない。乾電池を使わないから環境に優しいっていったって充電する電気はどこかで誰かが作ったもの。エネループが普及した今ならむしろ乾電池型の方が環境面をアピールできるんじゃないのかなあ。

 ってことでバンダイナムコゲームスには「ワンダースワン」の便乗復活を望みたいところ。開発した大下聡さんも今はそっちにいるんだったっけ、どうだったっけ。「ピピン」の鵜之沢さんが社長で「スワン」の大下さんもいるとしたらバンダイナムコゲームス、最強かも。あらゆるネガティブもプラスへと転じてキャリアに変えていける会社ってことにもなるし。ちなみに映画で遊んでいたゲームは何だったんだろう? 縦に持ってたからやっぱり「GUNPEY」か。良いゲームだったよなあ。他でも遊べるけれどもこれはやぱり「ワンダースワン」を縦で遊んでこそ楽しいゲームなんだよなあ。なにもかもみななつかしい。


【6月26日】 全盛を保つ難しさ、といったものについて考える。30周年を迎えてさまざまなプロジェクトが動いて、それが話題に上っている「機動戦士ガンダム」はだから幸福な部類に入るのだろう。全盛かと問われると悩ましいものもあるが、アニメーションとしての放送はなくても漫画版「THE ORIGIN」は相変わらずの人気ぶりで、描いた安彦良和さんの画集も結構な売れ行きを見せている。決して衰えは見えない。

 それはしかし初代の人気の残滓ではないのか、全盛というのはリアルタイムな更新があってしかるべきではないのかといった意見もまた真実。その点で言うなら「機動戦士ガンダム00」の劇場版が動いているし、映像としては「ガンダムUC」の企画も進行中。テレビ番組としての全盛はなくても、しっかりと立ち位置を保って屹立していると言える。その都度その都度にしっかりと作品をケアしつつ、ガンプラに始まるグッズ類も欠かさず、そして関係各位に一切のスキャンダルもなく存在を保ち続けたことが30年を経てなお残るコンテンツにガンダムを仕立て上げたのだろう。願うなら最初の輝きが続くことだかこればかりはキングオブポップでも難しかったからなあ。

 気持ちとしては物質的には既にいなくなっていたのも同然の人。人前に出て唄わなくなって割と久しく。テレビで最新のビデオクリップが流れることも少なくなり、見かけてもかつての大ヒット曲の「スリラー」や「ビートイット」や「ビリージーン」のクリップばかり。けれどもそれで十分だったし、それこそがマイケル・ジャクソン、それだけがマイケル・ジャクソンだった世代の人間にとって、亡くなった、これからは新しい活動が見られなくなたったと叫ばれて、浮かぶ感慨はあっても受ける衝撃はまるでない。残酷なようだけれどもそれがポップスターの宿命でもあって、即物的なその死などすぐに無意味なものとなり果て、過去に築き上げた膨大にして絶対の栄光だけがこれからも輝き続けることになる。それでいいではないか。なあ。マイケル。

 とはいえ流石に忍びないと、秋葉原へと出たついでにヨドバシマルチメディア館(よどばしまるちめでぃあ・やかた)へと寄ってタワーレコードに入いろうとしたら入り口にマイケル追悼のPOPが。でもって棚にはあれやこれやと並べられてはいたけれども数としてどっか少ない。寄ってきた店員さんがいうにはメーカーにも今あまり在庫がなくって店頭に出ているだけしかないそうで、そうきくとうずくのがオタクな限定品負けスピリッツって奴で並んでいた中からやっぱりこれな「スリラー」の25周年DVD付き金ぴかバージョンを買い、2枚組のベスト版の「エッセンシャル」を買い、あとはDVDのビデオクリップ集を広いライブとしては最強と言われている「デンジャラスツアー」のブカレストライブを拾って買って1万3000円とかそんなもん。

 でも前に買おう買おうと思ってきっかけがなく踏み切れなかったところもあるんで、これが機会と思えばそんなに高くない。しかしと振り返ってみて2000年代がまるでないのがやっぱり寂しいなあ、クリップ集には2000年代のものも入っているらしいけれども聞いてもまるで分からない。というか90年代ですら既に不明。やっぱりマイケルジャクソンは1980年代を駆け抜けたスーパースターだったんだなあ。そこから生まれてきたマドンナはしかし、未だに現役の最前線。それはそれでちょっと凄いかもしれないなあ。マイケルはどーしてマドンナになれなかったんだろう? やっぱり性的虐待の裁判が痛かったか。

 とはいえしかしキングオブポップな称号を名乗れる絶対の存在だったマイケル亡き後を踏襲できるスターって誰かいるんだろーか。やっぱりローリングストーンズか。あるいはマドンナか。ロックにヘビメタにソウルにヒップホップといったジャンルを仕切ればそれぞれにナンバーワンはいるんだろうけど、音楽の世界をその名前だけで代表できるとなるとストーンズを右翼にマドンナを左翼にあとはベテランがぞろぞろと並ぶってところか。それを脅かす存在が生まれていないってところに音楽業界の悩みもあるのかも。プリンス王子はまあ別格なところの斜め上をずっと歩いているから良いんだけど。サイモン&ガーファンクルのライブはやっぱり見て置いた方が良いよなあ。

 「けいおん」はだからあれを番外編にする意味ってのは何なのだろう、雨降ってバンド固まるまでを描いて演奏して終わりってところで一段落をつけたかったんだろうけれども、学生の時代は学園祭のあとも続いていく訳でそれをきっちり最後まで描ききるには時間も原作も足りなかったってことなのか。んでメンバーがめいめいに自分の時間を過ごすって展開では律がラブレターらしきものをもらってウダウダとし紬はお金持ちなのにバイトを始めて失敗して落ち込んだりもしたけれど私は元気です。梓は猫を預かったものの世話に悩んで泣き出す始末。澪はといえばひとり寂しく日本海。詞なんて浮かんだって演歌だろうに。

 そんな4人をほうぼうに唯だけはいつもどおりにへろへろとした毎日。悩まないのが健康にはやっぱり良いのかも。さわちゃん出てこなかったなあ。とうわけで本当の本当に終わり。まとまってはいたし演出の機微なんかを学ぶのに結構な好例となりそうなアニメではあったけれども、作品として深く愛でて永遠に保有していたいものかっていうとうーん、意欲は買うけどあとひといき、ってところか。バンドシーンとかもっと長ければなあ。「涼宮ハルヒの憂鬱」も本編よりはむしろ「ライブアライブ」の完璧過ぎるライブシーンのすごさに関心して感謝の気持ちでDVDを買ったところもあったし。

 ちなみに買ってる「夏のあらし」は潤萌えが1番の理由。本当です。そんなフックのあるなしが、パッケージビジネスでは重要になって来そう。問題はそのフックがどこになるかが本人にも読めないところか。「鉄腕バーディーDECODE02」はカペラちゃんの事務服姿。なあんだ分かりやすいじゃん。予定だとあと買うのは「東のエデン」か。これは作品の面白さと謎の多彩さと黒江のお尻の垂れ気味な丸さ。やっぱりよく分からない。


【6月25日】 圧倒的に弱い存在が圧倒的に強い存在を倒す番狂わせのことをサッカーでは「ジャイアントキリング」と表現して驚きつつも勝利した側を讃えたりする。「機動戦士ガンダム」は圧倒的に劣性だった地球連邦がジオンを退け滅亡へと追い込んだ展開自体が一種のジャイアントキリングだったとも言えそうだけれど、規模で言うなら連邦が圧倒的でジオンは弱小。それが緒戦に勝利したことの方をむしろジャイアントキリングを読んでサッカー的には讃えるべきなのかもしれない。

 そんな大枠はさておき「ガンダム」の中でのジャイアントキリングを見るとやはり歴戦の勇者でもあったシャアを相手に善戦から最後は勝利したアムロがジャイアントキリングの筆頭か。黒い三連星のトリプルドムをマチルダの助けも借りつつ退けたのもジャイアントキリングと言えそうだけれどその頃になるとガンダムの性能を理解し操縦にも慣れて力量としてドムに優るとも劣らない段階にまで成長していたかもしれないから、一概に番狂わせというのも難しいかもしれない。まああまりいそうした予想外の展開が重なると帰って嘘臭くなるもので、勝てそうで勝てない段階を重ねつつようやく追い越すと新たに壁が見えてそれに挑みはね返されながらも進んでいくような展開の方が、よりリアルさも感じてもらえるし感動も引っ張り出しやすい。ガンダムの場合はだからジャイアントキリングと大仰に言うよりは、アップセットの連続と例える方が適切なのかも知れない。

 でもこれはやっぱりジャイアントキリングだろうなあ。コンフェデレーションズカップでのアメリカ対スペインでアメリカが2点を奪いスペインを零点に抑えて勝利し決勝へ。北米ではそりゃあ強い国かもしれないけれども世界から見れば南米欧州にアフリカを超えられずオーストラリアが交じったアジアだって相手にするのは厳しそう。にも関わらずの勝利。それもEUROで優勝した無敵艦隊のスペインを撃破しての決勝進出はジャイアントキリングというより他にない。これでもう一つのジャイアントキリングがブラジルと南アフリカの間で起こったら、決勝はアメリカに南アフリカというまた異色の取り合わせになりそうだけれど果たしてブラジル、どう出るか? 休みたいだろうけどでもやっぱり南アフリカには負けられないよなあ、ドゥンガ監督だって選手だって。ってことで決勝は南北アメリカで決定? それとも……。

 寂しいからって狸の置物を他人の家から集めたりする人がいたりする一方で、他人が寂しがるとでも思ったのか県の公園に勝手に自分の銅像を建てようとする元県議もいたりする今日この頃。いっそだったら元県議が100体の銅像を造って狸の置物を盗んでしまった人の家に寄付してあげれば、家にいっぱいの元県議で寂しさも吹き飛ぶ一方で、自分の存在を満天下に知らしめたってことで元県議も嬉しがるんじゃなかろーか。何事もマッチングが大事ってことで。ちょっと違う。

 それにしても信楽焼の狸の置物が探せば10体も集まるものなのだなあ、愛知県って。いやまあ出身なんで瀬戸物が盛んで常滑焼きもあってと陶器に慣れ親しんでいる県だって知っているし、また街道沿いなんかにいくと狸から蛙から石灯籠から巨石から、さまざまな庭に必需の置物置き石の類が並べて売られていたりするのも見ていたんで割に信楽焼の狸があちらこちらに蔓延っていたりする。田舎なんで庭のある家が多いんで必ず狸か蛙は置いているって言っても言いすぎじゃあない、って実家には果たしてあったっけ? 蛙くらいはあったかな。

 愛知県はあと滋賀県に隣接していて信楽から持ち込まれる量も割と多そう。そんな風土に接して育ち、また葬式やら新装開店の花輪は持ち帰り自由のおおらさかってのにも見えて育つと、庭の狸くらいはオープンソースで誰かのってものじゃなく、そこいらのって判断から自分が持って帰って家に置いていても構わないって心理が時折芽生えてしまうってこともあるのかな。あったらたまらないけどでもしかし、狸がいっぱいいる家かあ、そりゃなかなか賑やかそうだ。中には1つくらい本物の狸が化けたものとかあったら良いなけれど。ともあれ露見して捕まってしまったこの人が、次はいったい何を集めるのか。天下御免で集められるものっていったらやっぱりあれか、腕降りポリスメンか。って別に天下御免じゃないけれど。

 原作どおりかというとそうでもなさそうだけれど大概のところではそんなに原作を外してもいなかったように思える「鋼殻のレギオス」のアニメーション版が終了。ラストに近くなって谷間も深きアルシェイラ様とか魔女っ娘なくせに口が悪すぎるバーメリンとかいっぱい出てきてキャラ好きには嬉しいビジュアルだったけれども本編ですらその存在意義が未だ確定していない、ただ強いだけとしか見えずその強さが何のためにあるのかが明かされていない天剣たちの存在意義を、見せる物語をアニメ版で独自に作らなかったのが良かったのかどうなのか。

 無理にでも話を決着させた「隠の王」とは違って原作が進んだ段階で2期目のアニメ化なんかを考えているんだとしたら、区切りの良いところで終わっておくのもまた吉なのかもしれない。リーリンの立場だって仄めかされただけで明らかにはされてないし。でもそんな辺りで文庫版はほぼエピソードを使い切ってしまっているんで、描くんなら前史的なエグザミナだってイグリオだっけ、時折挟み込まれた外国語によるスタイリッシュなエピソードをメインに据えたストーリーって奴を作らないと2クールどころか1クールだって保たないよなあ。さてどうするか。いっそオリジナルでアルシェイラ様のエロエロな日々とかフェリのぷんすかな日常とかを「ふもっふ」的に描いてみせるってのは、どう? カナリスの苦労話ってのもありかなあ。

 そういえば「涼宮ハルヒの憂鬱」のアニメーション版は前回にはなかったエピソード。夏だプールだ花火だ盆踊りだってな日常が延々と綴られオチはなし。噂だとこれで半分ってことらしいんだけれども原作読んだのってもう随分と昔のことなんで、どんな風にになるのかまったく覚えてない。まあその方が還って驚けるから良いんだけれど。新エピソードに合わせて新オープニングも登場。「冒険でしょでしょ?」のテンポに合わせてキャラが動いてみくるが揺れて朝倉涼子が回ってた前のオープニングの方がやっぱり好きだけれども、こっちもこっちで鶴屋さんがにかっと出ているからまあ良しだ。旧作ではあと「サムデイインザレイン」に「ライブアライブ」に「朝比奈みくるの冒険」が残っているんだっけ。それも含めて残る3ヶ月。どんな新作が飛び出すことやら。そして女子高生みくるの声の頓狂さは戻って来るのか。だらだらと見続けよう。


【6月24日】 雑誌の数こそ今に遜色はなかったものの、インターネットでデイリーどころか毎秒のように触れられる今と違って、アニメーション関連の情報に今ほど頻繁に接することの難しかった1980年ごろは、たった1枚のイラストでも貴重でそれがついているというだけで売れ行きにも大きな違いがあったような記憶がある。朝日ソノラマから刊行されていた「機動戦士ガンダム」のノベライズがあれだけ注目されたのも、作品自体への関心が高まっていたことに加えてシャア・アズナブルがアニメのままに表紙に描かれていたことがひとつにはあったから、だろう。

 ロボットではなく主人公のアムロでもないシャアをそこに起用した意図は判然としないが、ストーリーの面白さに加えてシャアというキャラクターのビジュアル、性格、声のすべてが過去の王子様系キャラとは違ったところに好意を寄せて、作品に見入った層も少なくなかった「ガンダム」だっただけに、これは正しいチョイスだったといえる。あからこそ続く2巻3巻でガンダムが表紙になっていったのはキャラ好きとしては残念ではあったものの、ガンプラが出てきてメカの格好良さに引かれる人の多さも見えてきた時代だっただけに、これもチョイスとしてはやむを得なかったと考える。

 あとはやはり金髪さん、か。つまりはアムロ・レイの体験がそこに描かれていたことも、富野喜幸監督によるノベライズに関心が集まった理由のとても大きな部分に当たるだろう。絶対に本編では表現できなかったこと。そして誰もが見てみたかったことがそこにある。もちろん本編自体に不満はなく、そのまま小説化してもらっても「機動戦士ガンダム」の場合は差し支えなかったのかもしれないが、せっかくメディアを変えて紡ぎ直されるならば、別の可能性、テレビでは不可能だった部分への挑戦といったところにプラスアルファの期待が向けられるのも当然と言えば当然。そしてその期待に答えたからこそ小説版は伝説となり、本編そのものの伝説性とあいまって「機動戦士ガンダム」を当時のファンの心に強く刻み込んだ。

 でだ。ここにある1冊のノベライズは秋葉原の某書店でもって「アニメより面白……」といったPOPが取り付けられて売られていたりして、もしも月曜日の昼間にそれを読んでいたら「何という不遜!」と憤ったかもしれないけれども月曜の夜を超えた現在においてそれはとてつもない可能性を感じさせる言葉として、通りがかって手に取る人の心をヒットしそう。何しろ冒頭にほど近い22ページ目にある文章がこれだ。「獅子堂家の血を継ぐものは、たった4人となった。長女風音、次女高嶺、三女秋葉、そして末娘の桜。獅子堂財団は、4人の姉妹に託された」。ええええええええええええええええええ。ナミは?  獅子堂ナミはどこいった?

  ちやほやされて蝶よ花よと育てられはしたものの家の力だと妬まれ自信をなくして引きこもり、それでも秋葉には勝っていると思って自分を慰めていたらそのが宇宙をかける何とかだってことになって姉たちから持ち上げられるようになったのを脇で見て、やっかみ妬み落ち込んだ挙げ句にダークサイドへと落ちて力を得て、それなりの自信を取り戻したとほくそ笑んだのにやっぱり駄目ですがっていた旦那に出ていかれ、姉にはメイドのアンドロイドの方が大事だと言われあまつさえ背中から銃で撃たれる始末。行き場のないその感情を最後にどこに向けるのかが、今や最大の注目ポイントとなっている2009年上半期で最大の不幸キャラであるところのナミがいない? そんあのありなのか?

 ありなのだ。ありだったのだよ一迅社。ここでも秋葉は明晰な風音に強靱な高嶺に天才の桜を上下に見つつ自分には何もないとウダウダしている落ちこぼれ。けれども別に世話掛かりをしてくれているナビ人の妹子にべったりってことはなくって、学校で授業を受けている妹子を置いて、かつて自分に「魔法」をかけてくれた誰かと約束をした場所に行くために、アルバイトに出かけてそこで何者かによる襲撃を受けて荷物ごとどこかへと引っ張り込まれる。気がつくと現れたのはピラミッドを上下に重ね合わせたような8面体。尊大な口調で喋るそれはレオパルドと名乗り、自己実現のために秋葉に協力するよう強要する。

 なるほど基本線では似通った部分があるけれども、最初っから何もなくってただ日常からの逃避を望んでいた本編の秋葉と違ってこちらの秋葉は過去の約束を果たしたい、そして自分を前へと進めたいって動機が最初っからある分、行動に芯が通っていてそれが強さになっている。行ってはみたものの苦しいことばかり。自分にはできないとそこも投げだし最後にすがったのがいつも慰めてくれる妹子だけだったのに、その妹子が消えてしまってあとはパニックになるしかなかった本編とは違い、困難にぶち当たっても最初こそ逃げ出したくはなってもちゃんと踏みとどまり、頑張っているほのかちゃんやいつきちゃんと一緒に何かを成し遂げよう、そして魔法をかけてくれた人との再会を楽しもうって前向きさを持って生きている。

 一方でレオとネルって謎の兄弟が急成長しながら知識を吸収し、いずれその記憶と経験が強靱なボディーへと転写されることになっていながら2人の間にはちょっとばかりの気持ちの違いが芽生えた模様。状況を理解し受け入れ発展させたいレオとそれを望むプロジェクトの責任者らしい赤毛の女性がひとつの極となり、倫理も何もないそのやり口に疑問を感じる赤毛の女の妹らしい金髪の女性と状況に悩んでいるレオがもうひとつの極となって始まった諍いが、時をこえて新たな乗り手を擁して再び始まり最終決戦へと向かう、といった筋立てに整理されているからどちらが正義でどちらが悪かはともかく、全体像を理解してどちらかに身を添えつつ、展開を追っていきやすい。

 さらに前編の最後に繰り出される衝撃の展開。そこはどこだ。これから何が起こるのだ。ってな期待も膨らませながら続刊を待てるから、来週の放送がたとえどうなろうとも心を穏やかにしていられそう。ありがとう瀬尾つかささん。最初に読んだ「琥珀の心臓」のあまりにも無体で苛烈な展開にこれはとんでもない才能が現れたって喜び、「クジラのソラ」でさらに苛烈な運命に挑む少年少女の強さを見られて興奮した作家だっただけのことはある。ほとんど同時に富士見ファンタジア文庫から「白夢」って新シリーズも出してたりして活動に停滞はなさそうなんで、いち早く続きが出るのを期待しよう。そしてすべてのがっかりを吹き飛ばしてくれると信じよう。でも本当は本編で歓びに浸りたかった……。

 最近も店頭で見ていたからそんなに経っているとは気づかなかったけれども「崑崙の王」だって初版は1988年で最近出たのはそのリニューアル。だから「21年ぶりの最新刊」という惹句は決して間違いではなくって、まったく新品の「九十九乱蔵が帰ってきた!!」と心から喜んで良いのかも。ってことで「闇狩り師」シリーズの最新刊「黄石公の犬」(徳間書店)は1人の青年が襲われているところを通りがかった2メートルで145キロの巨漢(履いているのはもちろんダナーだ)が助けて始まるストーリー。単なるヤクザの脅迫事件ではなく得体の知れない存在が関わっていてそれこそが九十九乱蔵のテリトリーで、巨躯に秘めた体力とは違った力を使いヤクザを恨む女から放たれた犬の妖怪に立ち向かう。

 「鬼太郎」のような漫画やアニメでお馴染みの妖怪とは違って、古典や古文書に現れる妖怪変化を引っ張り出してその特質を説明しつつ、どうしてそれらが生まれ何を成そうとしているのかを物語の中に埋め込みながらもそうしたものを欲する人間の強欲や浅ましさを浮かび上がらせ、そして圧倒的なヒーローを出して調伏させて平衡へと至らしめる語り口は、夢枕獏さん本人による「陰陽師」を筆頭に、京極夏彦さんの一連のシリーズも含めて五万とある退魔の物語のひとつって思われそうだけれども、1984年に最初の新書が出たあたりで、そんな物語を書いている人は確かにいなかった。あとがきで獏さんが「○○師が悪霊やら鬼やらをやっつける物語の先駆け」と主張するのもなるほど決して誇張ではない。新刊には豚にも羊にも似て死体の脳味噌をすする妖怪なんかも登場する短編が添えられこちらもなかなかにグロテスク。筆の運びの巧みさでもって怪しい世界へといざなってくれる。読めばなるほどこう言える。「この物語は、絶対におもしろい」。できれば次の絶対におもしろい物語も。


【6月23日】 もしも「機動戦士ガンダム」のアムロ・レイが初期に見せた自分だけがガンダムを巧く操縦できるんだから自分を1番に扱ってくれないと拗ねるぞといった、精神の幼いキャラクターのまま最終回まで行ったとしたら、視聴者はアムロに人は成長していけるんだという可能性を見て心を添えて、ラストまでついていけたのだろうか。そして大人のようで実はきわめて私怨で動いていたシャア・アズナブルの幼さとの対比の中で、もっと大人になろう、そして他人を思いやる気持ちを持って世界を変えていこうといった気持ちになれただろうか。

 そもそもがそんな設定だったら、アムロはランバ・ラルに敗れ去ってこの地上から消え、地球連邦は反攻もできないまま潰えジオンの天下となっていただろう。ストーリーは26話の2クールで終了。「機動戦士ガンダム」が30年の後まで関心を持たれる作品にはならなかった。そうさせずリュウ・ホセイの死を描き、マチルダ・アジャンの死を描いて誰かが誰かのために犠牲になる哀しさを示し、それを受け止め自分も誰かのために何かをするんだと心に刻んで生きていく覚悟を決めさせたところに「機動戦士ガンダム」の作劇としての確かさがあった。ずっと幼いままのキャラクター、ずっと我が儘なだけのキャラクターなどエンターテインメントでなくても論外。存在する方がおかしいのだ。

 にも関わらず、同じ制作会社が作った作品のヒロインは最終回を目前にして未だに自分のことだけしか考えない幼さを炸裂させて、見ている人たちを不愉快の坩堝へと叩き込む。世界が明日をも知れない状況にあって、決して死んだ訳でもない友人、というか友ロボットの消息を追いかけ持ち場を離れ、そしてただ逃亡しただけのそのロボットが大事だからと一緒に育った妹を邪険にする。人間か。血の通った人間なのかそのヒロインは。あまつさえ妹が辟易として場を離れようとすると銃を向けて引き金を引いて命を奪おうとする。幸いにして生き延びたものの血を流して呻く妹に近寄り、大丈夫なのかと尋ねる無神経さ。自分でやっておいて今さら。さっきまで毛嫌いしていたのに何という心なさ。あり得ない。あり得て良いはずがない。

 そんなキャラクターの分裂ぶりもさることながら、大切な場所だと黙されヒントも隠されていたはずの古い喫茶店の事情を説明することもなくヒントともども消滅させる展開の不可思議さ。昨日まで希代の犯罪者として追われ恐れられていた女性を洗脳がとけて元に戻ったからと涙を流して受け入れる変わり身の速さ。まるで理解が及ばない。最も悪辣だと思われていた存在が実はきわめて理性的な存在だったという理不尽さ。段取りをしっかりつければ大丈夫だったものがずさんな突貫工事で豹変してしまってそれを反省もせず反攻ばかりを口にする愚昧さ。もう訳が分からない。

 真っ当なのは1体を除いた人工知性ばかりであとは身勝手と恥知らずと無神経のカタマリばかりという、そんなアニメーションが21世紀に存在したことを後生の歴史家はどう記すのだろうか。そんなものはなかった、ただ女の子たちがギターを奏でて騒ぎ少年がホワイトハウス前で裸になったアニメしかなかったのあと記すかもしれない。それで案外に十分なのかもしれないが。いやいや時をかける幽霊のアニメが燦然と輝いていたと記しておくれ。

カンヌでは被ったのかどうかのか   いやあ驚いた。何で今頃って気もしたけれども始まったのが2007年の秋頃で2008年をかけてあれこれプレゼンテーションして来たのなら2009年の「カンヌ国際広告祭」に出品してたって不思議はないよなあ「夕張夫妻」。あの巨額の夫妻を抱えて街が沈んだ北海道の夕張市が、イメージアップを狙って導入したキャラクターで、「負債」と「夫妻」をかけて貧乏な夫婦がそれでも愛情でもって結びつき、頑張ってるぜってイメージをそこに込めつつ、離婚率が全国でも最低らしい夫婦円満の街でもあるんだ夕張市はってなアピールも行っていたんだっけ、確か。

 作ったビーコンコミュニケーションズって広告会社でクリエイティブを担当した三寺雅人さんに確か取材もしていて、聞くと夕張市長に被せて自分も被ったメロン状の帽子は三寺さんの母親が夜なべまではしていないけど手作りしたもの。何しろ正式に依頼があって作ったってものじゃなく、クライアント相手の仕事じゃあなかなかスポイルもされて発揮できないクリエイティブ力(くりえいちぶ・ぢから)を全開にできるチャンスを探して見せつけろ、って社内の自己啓発っぽいプロジェクトで、だったら夕張市の街おこしなんか手伝ったらどうでしょうって提案をして見事に通ったのを受けて、半ば押し掛け気味に夕張へと向かいロハでやりますから参加させてくださいとお願いして突っ込んだのがこの企画。当然ながら会社から出る予算は少なく、とてもじゃないけど帽子の制作を外に依頼している余裕はなかった。

 じゃあってことで家に帰った三寺さんが母親とそして父親を相手に家庭内コンペをしたところ、家庭科の先生だったという母親が作ったメロンの帽子がなかなかのものでこれを採用することになったとか。でも実際に市長に被せられるかどうかは勝負だったみたいで、2007年の秋とかにあった発表会見でえいちゃって感じに被せてしまってそれが記事にもなって定着したっていうのが流れ。今回の「カンヌ国際広告祭」の受賞を受けて広告なんて作らせる余裕があったんなら借金返さなんかいワレ、んでもって借金まみれの夕張市から金巻き上げて広告作って賞なんぞ取ってエエ身分やのお、ってな非難も上がりそうだけれどもそんな経緯はまったくもってございません。まあ帽子がオカンの手作りって段階で分かってもらえるんじゃないかなあ。あんまり知られてないのかなあ。

 ちなみに関連する経費なんかも持ち出しだかボランティアだかで、印象的な歌詞が耳にキンキンと響く「夕張夫妻」の唄うテーマソングも、もともとは共にオペラ歌手でマドリードなんかに留学もしていたくらいの本格派だったのがなぜかどういう訳だか漫才師になってしまった島田夫妻のご厚意がそこにあるんだとか。イイハナシダナア。取材の時から1年半が経って未だにそんなに世に出たわけじゃなさそうな島田夫妻だけれど、今回のカンヌだなんて場所での栄冠をひとつのきっかけに、世に出てその美声を聞かせてやって欲しいもの。でもって娘さんの海外留学の費用を稼がせて差し上げて頂きたいもの。つかいったい普段はどんな芸を披露しているんだ島田夫妻もしくは島田ファミリア。「エンタの神様」とか「レッドカーペット」とか出てるのかなあ。出てなければ今がチャンスだメロンの帽子を被らせ出演させるんだ。

 「おおきく振りかぶって」の13巻が出てたんだけれど延々と野球をやっててそれが微に入り細を穿ちすぎてて読んでいてスポーツの案外な緻密さはあっても存外な溌剌さって奴が浮かんでこなくてなかなかに難渋。溌剌ばかりなのに対して緻密さがしっかり描かれているからと評判になった作品だからそれも仕方がないかもしれないけれども、最初から最後まで一挙手一投足のすべてに意味づけが成されて描かれているものを、読むのはちょっぴり勉強に近いものがあって気が休まらない。これでモモカンがもっといっぱい出ていてくれれば見る場所もたくさんあったのに。次の巻では動くかな。アニメの第2期ってのは動かないのかな。「大正野球娘。」があって「MAJOR」に「クロス・ゲーム」があるから野球物はしばらくいらないか。


【6月22日】 すべてのお膳立てが整いレビル将軍との会談が成って「これで和平が」とつぶやいた刹那、押し寄せる光の本流の呑まれ絶命した「機動戦士ガンダム」のデギン公王の無念ぶりは、その後の戦闘で完膚無きまでにジオン公国が地球連邦によて叩きのめされ、国体の維持すらままならなくなった状況を鑑みる、相当に激しいものだったのではないかと想像できる。もっとも既にして死してジオンの末路を見るとこなく逝ったデギン公王に無念の感情など起こる余地もない。傍観者のみが結果として起こった事態から遡り、デギンの無念を推し量るのみである。

 いかんとしもしがたい過ちによって、事態が急転の果てに末路へとひた走る状況をたぶん、今の横浜F・マリノスの関係者たちは体験していることになるんだろう。復帰が確実と黙されていた中村俊輔選手が、なぜか途中で交渉を打ち切りスペインのリーガ・エスパニョーラに属するレアル・エスパニョールと契約したとの報。仄聞するに球団側が無体な条件を突きつけ、プライドというよりも現実の問題として飲むのは不可能と考えた中村俊輔選手側が拒絶したらしいけれども、そこでギレンならぬ球団側が早まったことをしていなければ、ジオン公国よろしくマリノスに戦力が戻り、これからの春を謳歌できたかもしれない。

 もっとも末期にあったジオン公国とは違いマリノスにはまだ自力で更正する余地はある。事実浦和レッドダイヤモンズ戦に勝利して中位に踏みとどまった。この先にどれだけの苦難が待っているかは不明ながらも飛び抜けることこそなくとも、飛び落ちるような事態もないだろう。背水の陣の背後に断崖絶壁しかなかったジオンとは事情が違う。とはいえしかし前半の停滞ぶりがいつまた蘇らないとも限らない。その時にはやはりデギンの嘆きにも似た悲哀を味わうことになるのだろう。それはすなわちジェフユナイテッド市原・千葉のサポーターにとっては好機に他ならないのだが。待っているぞ、ア・バオア・クーでの白兵戦後の崩壊に匹敵する事態を。

 そしてやよゐと加奈子の帰還によって終わりを告げた「夏のあらし」は、それでも次回もまだ続くみたいなんでそこでは第1回目みたいにちょっぴりコメディタッチのエピソードがくり広げられると期待。海水浴とか。温泉とか。第2期とか作れるくらいのエピソードのストックがある訳でもないんでここで全部吐き出して、潤に本当の自分をさらけ出させてやって欲しいもの。でも一が入れ替わってもそうだとは気づかず、外から触ってもまるでそうだと感じなかったボディラインでは、改めて見せられてもどれほど喜べるのかなあ。これが「咲 Saki」の原村和だったらまだしもなあ。

 いやしかしあれは反則。年上なはずの天江衣がまるで年下に見えてしまうくらいの反則ぶり、ってそれは衣がタコスな片岡優希にだって年下に見られそうなビジュアルをしていたりするからでもあるんだけれど、抱いたペンギンの頭が埋まってしまうくらいのボリュームぶりがシャツから解放されたその瞬間に、現れる弾力の塊はいったいどれくらいの迫力を持って迫ってくるのかが楽しみで仕方がない。見られる訳でもないのにねえ。あれだけのボリュームをしっかり治めているシャツがいったいどんなカッティングになっているのかにも興味津々。袋状になっているのかやっぱり。

 親切に一所懸命な人間が誤解から疎まれ落ち込む姿は見たくないなあって思っていたから、衣が和と無事に出会ってエトペンを手渡せたのには感謝感激。その前に盗んだ2人がちゃんと謝っていたのも悪くはなかった。でもお友達になりたいなあって希望は時間がすれ違ってかなえられなかったのがちょっと可愛そう。それほどまでに願うのはやっぱり龍門渕透華の屋敷ではあんまり幸せな日々を送っていないのか。透華の父親からはどうも疎まれているみたいだし。問題はそれがどういう理由からってところで単に麻雀が強いだけじゃなくって強さの中に得体の知れ無さがあるって処が他の真っ当な人間には恐怖に写るってことなのか。でも咲だってあれで半端な打ち手じゃないんで2人がぶつかった時に卓上で交わされる牌を挟んでの会話から、何か心が通っていけば面白いし見ていて嬉しいかも。エトペンを抱いた天江衣を抱えた原村和が見てみたい。

 ちくちくと「みんなのGOLF5」を進めてみんごる将軍だかその上だかまでたどり着いた後で前日の「スペインvs南アフリカ」に続いて「コンフェデレーションズカップ」が放送されたんで「イタリアvsブラジル戦」を観賞、ブラジル強すぎ。時々はイタリアもピルロの圧倒的な個人技なんかで攻め込むもののトップのルカ・トーニにボールがあんまり収まらない。ヘディングなんかも見せて入っていればと思わせるシーンもあったものの自力じゃあやっぱり上なブラジルが、圧倒的なポゼッションからサイドを使って攻め入る分厚い攻撃を見せて1点、また1点を積み重ねていく。

 最後は2対1の状況を作られ慌てて戻ったディフェンスが敵の横パスに突っ込んでしまってゴールイン。3点を前半で奪われてしまってはもはやイタリアに立ち直る術はなかったみたいで、後半は多分流したブラジルに1点も奪えず、3対0でエジプトを下したアメリカに得点数で上を行かれて哀れ予選での敗退となってしまった。日本だってそれを言うならドイツワールドカップ前のコンフェデで悲惨な予選敗退を喰らっているんで偉そうなことは言えないんだけれども、1994年の「FIFAワールドカップ1994米国大会」では緊張の守備でもってブラジルを押さえ込んでPK戦で敗退したイタリアが、こうもあっさり点を奪われていくのはやっぱり見ていて不思議な気分。

 つまりはだからブラジルが強すぎたってことなんだろう。アレシャンドロ・パトもいなけりゃロナウジーニョもおらずアドリアーノだって出ていないブラジルが。これで同じ組に例えばエジプトの代わりに日本が入って出場していたら? そりゃあ3連敗だったよなあ。もう1組でイラクの代わりだったら。南アフリカに負けスペインに敗れニュージーランドには買ってもようやく3位ってところか。無駄な壊滅を体験するより今はオーストラリアに対抗できる力を蓄える方を優先しよう。それですら1年で届くかどうか危ういんだけれど。監督よ……。


【6月21日】 メイドという記号と並んでアニメーションには90年代あたりから、テコ入れとしての温泉なり海水浴といったエピソードが添えられることが多くなった。その端緒が「天地無用! 魎皇鬼」あたりにあるのかそれより以前に遡れるのかは有識者の研究を待ちたいところだが、入浴という部分に限って言うなら「機動戦士ガンダム」には3つもあってそれぞれが有効にファンを引きつけるエピソードとして機能した。

 もっとも展開の中での半ば必然といった感じであって、食事があるなら入浴があっても不思議ではないだろうといったスタンスからの描写なのだと開き直りも可能な挟まれ方だと言えば言えるが、これがもしも90年代的なテコ入れとして描写されていたとしたら、どんなエピソードになったのか。

 中央アジアでタムラさんに頼まれ塩を探してホワイトベースが迷走するシーンをそっくり取り換え、殺伐とした空気を和らげるにはレクリエーションが必要と判断したブライト艦長が、オペレーターの調査で近所に温泉があると聞いてそこへと艦を向けつつミライの入浴を想像してはひっぱたかれる、そんな一方でやはり息抜きが必要とやって来ていたマ・クベの宿にキシリア・ザビまでも参加した混浴風呂では、幼い頃のアルテイシアを洗ったことがあるのだとセイラの裸を見て思い出すキシリアの傍らで、なんのわたしは赤ん坊の頃からアルテイシア様のお体を磨いて来たのですとランバ・ラルが訴え2人で育ちまくったセイラの体に羨望のまなざしを送るという展開が、あったのではないかといった妄想浮かんで消えないが、残念にも1970年代ではそうした遊びは不可能だった模様。ならば今こそ是非に描いてもらいたいものだと思うのだが、無理なのだろうなあ、トニーたけざきさんの漫画以外では。

 テコ入れなんてする間もなく終わってしまった「戦国BASARA」。えっと市はれでご退場? でも兄貴に負けないくらいの何か黒いもやもやを出して濃姫を退けていたりするくらいに人間離れしてたんで、あれくらいの鉄砲玉なんてはね返して生き延びては第2期でもって魔王ならぬ魔女として大阪城に君臨し、秀吉に娘の淀君も顎で扱い家康無き今の関東を支配する伊達政宗たちと関ヶ原でぶつかり合う、って展開なんかも考えられたりするのかしないのか。いやそんな時代だとさすがに上杉謙信も容色が衰えてしまっているだろうから無理か。いやいやあれで武田信玄ともども同じ姿で生き延び政宗を東軍として支え、市を筆頭に蘭丸に毛利長宗我部あたりも従えた西軍と最終決戦をくり広げている上から復活した信長が振ってくるって展開を、お願いしてみたいところだけれどもさてはて。蘭丸と出会った少女は誰?

 「名状し難き混沌の塊」とは何かを知りたかったら川岸殿魚さん「やむなく覚醒!! 邪心大沼」(ガガガ文庫)を読むのだ。ってライトノベルもクトゥルー流行か。とはいえ先行する「這いよれ! ニャル子さん」(GA文庫)とは違ってこっちは邪神が現れるんじゃなくって邪神そのものになってしまった少年の話。起きるとマニュアルが届いていて捨てても戻ってくるスターターキットから少女が現れ、貴方は実は邪神なんですと言われ信心を集めるためにいろいろやりなさいと言われてさあ困った。

 手下を呼び出せば3匹がグールで1匹が小さい子供の鴉天狗という不思議。でもって代々の勇者が転校して来て攻めて来たりして、容赦なく討ち果たしてその弟も返り討ちにして一族郎党の嫌がらせにも堪え忍んだ果て、ご近所の神社に封印された鬼が覚醒するのを防ぐ羽目となって戦ってベタベタな関係になって、そして邪神としての修行は続くという物語。そんな中に登場する「名状し難き混沌の塊のような肉塊」とは、スーパーで購入した引き裂いた獣の肉に、完膚無きまでに粉砕したタマネギの哀れな残骸を錆び付いた鉄板で透明になるまで炎激を加え熱したものを混ぜ合わせて、全が一となり一が全となって原初地球と同じ状態になたものを差すのだそうだ。焼くと美味しい。目玉焼きも添えてくれるとなお嬉しい。

 マニュアルめいた文章があちゃらこちゃらに挟まれそれらを読んでも邪神にはなれそうもなかったりする愉快さと、スターターキットとして現れた少女の理不尽にして容赦ない態度の可愛らしさに惹かれて読みつつ少年が、妙な力を与えられて戸惑いながらもどうにかしていくストーリーをズレたりねじ曲がったりする会話も添えて描いたコミカルラブクラフトコメディ、って感じ? 敵の勇者があまりにも弱すぎるのが難点だけれどまあそのうち、立ち直って攻めてきてくれることだろう。つか邪神の手下がどーして鴉天狗なんだろう。

 やって来たのは愛くるしい少女で今日からお前の妹だよと言われて戸惑いながらも関係を深めていくところに、幼なじみの少女の横恋慕やら同級生の男子やらの横やりやらが入ってドタバタとするラブコメディーかと思わせて、背後にある苛烈な世界とそれに翻弄される薄幸の少女たちの存在を見せつつままならない中で人間は、精一杯に生きなくちゃいけないんだと思わせてくれる物語がしなな泰之さんの「魔法少女を忘れない」(集英社スーパーダッシュ文庫)だ。

 みらいとう名の妹は兄の悠也の部屋に来て漫画を読みながら眠ってしまっては枕によだれを垂らしてそれを「えっと、なんかのしるしです」と言い訳する可愛らしさ。悠也はそんな妹を時に扱いにあぐねて近所の古本屋へと逃げ込んでは、幼なじみで背丈は小さく髪はまっすぐで眼鏡をかけてる千花と喋って鬱陶しがられながらも慕われているという、不思議な千花の態度にも臆せず時間をつぶす。一方で同級生の男子はみらいに恋慕し悠也に間を取り持つように誘いかけ、そんな4人が一緒になって慌ただしい夏が過ぎていこうとしている、そんな中。

 関係に動きが現れる。同級生の告白をすげなく断ったみらいに、同級生を慕う女子生徒の虐めがかかる。そして化け物といった悪口が向けられる。化け物。そう、みらいは化け物。元魔法少女。魔法を使って世界を救ってきた存在。その世界とは、象徴ではなく実態を持った国家であり、戦いとはすなわち国家に向けられる他国の悪意に他ならない。魔法少女。すなわち異能の使い手たちが防衛のシステムとして組み込まれている世界にあって、長じて能力を失った元魔法少女たちの扱いには慎重が期されていて、みらいは一般の層との接触を持たせることは可能かという実験もはらんで悠也の妹として預けられることになった。

 畏れられる存在。のみならず別の運命も背負った元魔法少女の妹に悠也は次第に妹なのだとう設定を越えた感情を抱くようになる。そんな少年を幼い頃から見てきた千花にも動揺が走って、まとまっていたかに見えた関係は揺らぎ悠也は二者択一を迫られそして……。冒頭の涎をたらして居眠りをする描写がそのまま設定へと関わりラストへとつながっていく構成が巧み。設定面で似た雰囲気の作品では橋本紡さんの「リバーズエンド」(電撃文庫)が近そう。あるいは岡本倫さんの「エルフェンリート」の第1巻に収録されていた短編の「MOL」か。あらがえない運命の中で精一杯の時間を見つけようと足掻く姿は感動を呼び感涙を誘う。問題はすべてが終わったその後で、残された者にはいったいどんな快復が与えられるのか、といったところか。悠也にゃあ可愛らしい千花がいるんだから良いじゃん、って思いたいけど千花にしてみりゃ代替では何だかってところかなあ。


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