縮刷版2009年6月上旬号


【6月10日】 もしも1年戦争が起こらなかったら「機動戦士ガンダム」の世界はその後にどのような変遷をたどっていたのだろうか。当然ながらサイド3だけが「ジオン公国」として孤立する形で周辺を地球連邦に抑えられ、蹂躙された挙げ句に消滅の道を辿っていただろう。そうならないための先制攻撃によってジオン公国は宇宙での覇権を確立し、地球にも攻め入るころが出来た。とはいえ間延びした補給線を衝かれ連邦側の兵器開発も招いて結局は衰亡した訳だから結果は同じ。ただモビルスーツというアイテムが世に残ったかどうかが気になるポイントだろう。

 1年戦争を回避するならするでジオン公国も永続への布石を打っていたと考えることも可能。1年戦争までの全面戦争へと突入することなく、近隣のコロニーを占拠しつつ植民地化しつつ更に周辺の連邦に対する不満分子を巻き込んで、実質的な共栄圏を確立した上で武力を育て、容易には攻め入れないようにして独立を成し遂げ、そのまま大きな勢力へと発展していく。専守防衛。そんな殊勝な心がけをギレンが行えたかは疑問だが、デギンの差配がギレンを抑えることに成功していれば、そういった展開もあるいはあったかもしれない。

 宇宙はかくして2大勢力が拮抗した状況となってその間に冷戦構造が生まれるか、それともなれ合いの様相を呈していくかは判断に迷うところだが、それによってアムロは世に出ずシャアも一士官のまま、埋もれて歴史の彼方に消えていく。そんな歴史が築かれた「機動戦士ガンダム」が果たして面白いか否か。たぶん面白くはないけれども、どこかが変わればガラリと変わるのも歴史の必定。そうした可能性を想像することによって現実の歴史のどこをどう変えるかで、未来がどう変わるのかを想像してみることも人間にはたぶん、必要だ。

 太平洋戦争が起こらなかった1949年の日本が舞台になった、佐藤嗣麻子監督の映画「K−20 怪人二十面相・伝」で、冒頭に映し出されるCGでもて描かれた東京の街にはなぜか東京タワーのような高い塔がそびえ立っている。現実の歴史で東京タワーが完成したのは1958年だから9年も先のこと。けれどももしも「K−20」の映画のように太平洋戦争が回避されていたとしたら、東京タワーは1949年の東京にそびえ立ち、街は整備され列島を大陸に向かい弾丸列車が走っっていた可能性がある。それも結構な高さでだ。

 指南役って集団の「幻の1940年計画」(アスペクト)には、そんなあり得たかもしれない未来を想像させるトピックがいっぱい登場する。1964年から52年ぶりの五輪開催を目指して東京都が立候補しているけれど、実は1940年に東京で五輪が開かれることが決まっていたのは有名な話。日中戦争の激化で返上しなくてはならなくなったこの五輪をもしも開催していたら? 1940年にはすでに誕生していたテレビを使って中継が行われ、街頭テレビに観衆が押し寄せていたに違いない。力道山のプロレスに人々が群がるよりもはるかに早いその時期に。

 1970年と2005年に大阪、愛知でそれぞれ開かれた万博も、1940年の東京が日本で最初になっていたはずだ。場所は月島。跳ね上げ式で有名な勝鬨橋をわたって会場に行けば、日本が技術の粋を尽くして作り上げた自動車や飛行機が並び、世界の珍品が並ぶなかを歩いて最先端の空気に触れられただろう。1940年が当初の計画のように過ぎていたら、東京は焼け野原ではなくって「K−20」に映し出された東京タワーがそびえ立ち、巨大な競技場が林立し最新の自動車が走り飛行機が飛ぶ屈指のメトロポリタンへと発展して、日本が世界に雄飛する日も早まっていたかもしれない。

 逆におごりに溺れて20世紀の終わり頃には衰滅の道を辿っていたかもしれない。歴史の可能性を振り返ってそこから未来を想像してみることで、これからの未来をどう創っていくかが見えてくる。東京五輪が2016年に開催されたら、今度は何が起こるのだろうか。1940年を境に暗さを増した日本が、5年後に災厄に見舞われたことを思うと、五輪もリニアもワールドカップもまとめてやってきて、不景気だ何だと世知辛い空気を吹き飛ばしてやって欲しいと思えてくる。むだ遣いかもしれないけれど、でもむだ遣いってとっても気持ちいいんだよねえ。何であれ。

 「lain」が還ってきた! 訳ではないんだけれども安倍吉俊さんに小中千昭さんに中村隆太郎さんという「serial experiments lain」を作り上げたトライアングルが再び結集して「月刊アニメージュ」で始める「ですぺら」って企画に「lain」が示してくれたアニメーションの深遠さって奴を今一度、見せてくれるんじゃないかってかかる期待は無限大。中村さんはコメントで「『lain』で3人は、クリエイター的に繋がっているので、作品としても、ある意味、繋げちゃっていいなと僕は思って」いるって書いているだけに、アニメ化も含めて興味はどんどんと膨らんでいく。

 未来の平成の都会が舞台になった「lain」を起点に大正風味が漂う「ですぺら」が過去となるのか、それともぐるりと回ってもたらされるネオモダンとしての大正風味になるのか、偏在化してしまったレインが住まう世界が舞台になっていたりするのかと、そんな興味も今から浮かんで仕方がない。これに旧パイオニアLDCの上田プロデューサーも絡めばカルテットは完璧なんだけれどもスタジオとか、決まっているって感じじゃないからなあ。前の「lain」は今は無き「AX」が舞台だったけどその行く末までをも「アニメージュ」が嗣がないことだけは絶対にお願い。

 でもって新作情報ではやっぱり「DARKER THAN BLACK」の第2期スタートか。黒は生き延び銀も生き延びたものの猫ちゃんは心がどっかのサーバーに残ったまま体から消えてそして黄のおっさんは死亡。眼鏡の警視な美咲ちゃんは忙しそうに働いていたけどそんな暮らしに再び黒や銀が戻ってきて絡むのか、まったく違う展開へと向かうのか。ゲートについてのネタばらしとかって大事な部分は全部すっとばして雰囲気を語りつつ終わってそれはそれで良かったけれども、やっぱり知りたい世界の秘密。そこんところに迫るストーリーでいくのかそれとも不思議な世界を舞台にした能力者たちの丁々発止で見せるのか。とても楽しみ。偽C.C.と評判のアンバーの再登場なんかも含めて。できればガキンチョでの再登場を希う。


【6月9日】 情報ツールとしてのインターネットの利便性は、それが存在しなくなった場合のことを考えた時にくっきりと浮かび上がって身に迫る。とはいえ仮に「機動戦士ガンダム」の世界にネットが入りこんだとして、物語にいったいどんな変化を与えるのだろうかと考えてみてもこれといった可能性が浮かばない。アクセスすればたちどころにあらゆる情報が確認できるデータベースが存在していたとしても、それはコンピューター間の無線通信といった形で視覚化される程度で、改めてネットと関連づけて語られる可能性はあまりない。

 市井の人々がメディアとして活用しながら連邦軍、ジオン軍の情報を交換しつつ左右しながら世論をどこかへと誘導するような、プロパガンダのツールとして登場する可能性は考えられないこともないが、「ガンダム」の世界においてレジスタンスが積極的な活動を展開しているようには見えなかった関係から、そこにツールが加わったところで物語に変化は起こりそうもない。それともネットがなかったからこそレジスタンスは成立し得なかった、あれば歴史は変わったという可能性もあるのだろうか。ミノフスキー粒子に満ちあふれた世界で無線を介したインターネットが成立し得るかも含めて考えてみるのも良さそうだ。

 あるいはホワイトベースからネットを通じてショッピングをすると、マッコイ爺さんよろしく小人が貨物機を飛ばして何でも届けてくれる、といった描写が生まれ得たかもしれないが、あの殺伐としたホワイトベースにそうした余裕を加えることもまた難しそう。セイラさんミライさんフラウ・ボウが日替わりで書くブログが地球のファンにホワイトベースへの親派を生んで支持させ戦いを有利に導く、といった明るさもやっぱりあのストーリーにはそぐわない。20世紀末の画期的な発明と言われるインターネットも、こと「機動戦士ガンダム」の世界ではあまり意味を持ったものにはならないのか。それともやっぱり違うのか。他の作品でネットが果たしている役割を検証してみる必要がありそうだ。

 っていうか便利だよなあ、ネット。パナソニックのワイヤレスヘッドホンの調子が極端に悪くなってしまったんで代わりを探してショップを歩いても見つからないし、値段も高い。じゃあと価格を調べ楽天あたりのサイトを洗うと市価より3割は安い値段で同じ商品がゴロゴロと並んで売られている。頼めば翌日には発送でその翌日には確実に手元へと届けられる。店を歩いても見つからず頼んで1週間後とかいった時代とはもはや大きく購買行為に変化が生まれているのだと、今さらながらに激しく実感させられる。

 とはいえなあ。買ったパイオニアのワイヤレスヘッドホンも光接続とかしなきゃあまるで意味がないんだよなあ。かといってそれをやるにはアンプとかの環境が古すぎる。テレビ画面も小さいまま。そっちも接続は依然アナログ。周辺だけスペックをあげても無意味なら安いので良いじゃんと思いながらもついつい高級な方へと傾いてしまうスノッブ野郎の悪い癖が、ここでも激しく発揮されてる感じ。けど高額商品ではスノッブが発揮できない中途半端さ。いつか値段とか気にせずばんばん物が買える身分になりたい。そしておそらく一生なれそうもない。困ったなあ。

 ちゃんと分かってくれている。けどだったらどうしてウズベキスタン戦ではひとりで突っかけ奪われるシーンばかりが目立ったのかって尋ねてもみたくなった中村俊輔選手が「週刊サッカーダイジェスト」でここまでの戦いぶりを振り返っている記事には岡田さんよりも前に監督を務めて惨劇に沈むサッカー日本代表を立て直したイビチャ・オシム監督の功績について実にしっかりとコメント。「もうひとつ、(イビチャ・)オシム監督時代の土台があったことも大きいと思う。相手よりも走る。考えて走る。パスを出したらサポートする。チームのためにプレーする。当時も今もそれができる選手しか選ばれていない」。

 固定化していたメンバーをガラリと変えてそこにパスを出して前へと走りフォローして、受け取ったら今度はパスを出した人なり他の人なりが動いている先を見てパスを出すなり、前へと進む攻撃の基本を叩き込み、停滞気味だった代表の動きを潤滑にしつつ選手に下克上のモチベーションを持たせたオシム監督があったればこその今。けどでもどうやらメディア的には、あるいは評論家的には前任者の全否定を持ち出し岡田流なる言葉でもって今を讃えて近寄っていこうとする。トルシェ監督の全否定に始まりジーコ監督全面肯定が4年後に何を起こしたのか、ってことを考えればその厄介さは誰もが承知しているはずなのに。きっと他のよんどころない事情が今の礼賛しか許さないのかもしれないなあ。ともあれ明日は気楽なバーレーン戦。そこでやっぱりしっかりと“オシム”を見せて欧州にいる爺さんを喜ばせてやってくれ。至らなさに立ち上がらせてくれても悪くはないんだけれど。うん。

 17歳とか16歳とかデビューの若さが売りの作家さんっていたりするけどこの人も若そう。1994年10月生まれってことだからえっと、14歳? 「2008年下期ホワイトハート新人賞」受賞作だから書いた時は13歳? ああこりゃまた世界には才能ってのがごろごろごろごろといるもんだなあとプロフィールを見てひっくり返った天野ゆいなさん「さながか駆けし破軍の如く」。国があって王がいて兄たちの下に娘がいたけど娘なんで王を護り暗殺なんかを請け負う「破軍」に任じられてしまった少女が主人公。その苛烈な運命を過去に悲劇なんかもあって憤りつつも王の子として生まれた運命だからと受け入れ仕事をこなしていた彼女が偵察に出た先で出会った男は隣国のこれまた王の息子の次男坊。長兄に狙われたりもしつつ引き下がらせる優秀さを持ちながらも王にはなれない立場故に外を回って医術を極めようとしている。

 そんな2人が出会いそして本当の姿を知り惹かれ会っていった先に待ち受けていた悲しみ。乗り越えるには苛烈過ぎるその悲運に向けて少女の心は揺れ動く。やや書き割りっぽいところもあるけれども読みやすくキャラクターの心の機微もしっかりとらえて描写しているあたりがやっぱり才能か。これにもっとドラマ性が載って世界観が加われば無敵? SF界だと16歳って記憶にある新井素子さんさん大和真也さんさんより下っていたっけ「天才えりちゃん」の人は別として。


【6月8日】 「交響詩篇エウレカセブン」ではゲッコーステートの船にストナーという名のカメラマン兼ジャーナリストとして乗り合わせて、ホランドやタルホといったアウトサイダーたちの活動をリポートしては世論を喚起する役割と担っていた。「コードギアス 反逆のルルーシュ」ではディートハルトがテレビ局のプロデューサーの身を「黒の騎士団」の中に投げ入れ、広報担当として希代の悪党ルルーシュのロマンを世に問い世論を動かす仕事に従事していた。社会を比較的リアルに扱うアニメーションの作品の中で、ジャーナリズムなりジャーナリストがそれなりの役を与えられる機会が多くなっている。

 それはすなわちジャーナリズムが世間に対してさまざまな影響を良くも悪くも持ち得ているといった認識が、一般にも広まってきている現れだ。といってもジャーナリズムは100年以上も昔から存在していたし、ジャーナリストの活動も時代時代でしっかりと注目を集めていた。それなのに「機動戦士ガンダム」の中ではホワイトベースにジャーナリズムが乗り合わせ、アムロたちの活動を世に喧伝することもなかったし、逆にジオン公国のプロパガンダをジャーナリストが担うような描写もなかった。ジャーナリズムが軽んじられていたからか。

 むしろ逆で、ジャーナリズムが社会の中で確固とした地位を占め、空気のように自然と信頼されていたのが当時であって、アニメのようなどこかキャラクターたちが戯画化されがちな作品に、敢えてジャーナリズムという存在を持ち出し、ジャーナリズムとはいったい何なのかを考えさせるような必要はなかったのではないか。これが現代になると、ジャーナリズムが実は公明正大でもなければ中立公正でもなく、時に為にするような言説を垂れ流してみたり、何かに阿っている言説が紛れ込んでいたりすることがあるのだと、一般にも知られてしまった。

 だからこそ、そうしたジャーナリズムの特性なり特異性をストーリーの中に持ち込んで、ストナーの密接なようで傍観者に過ぎない空虚さなり、ディートハルトのメディアパワーを嵩に来た言説の高慢さといった形に描いて揶揄し、暴露して平気になってしまった。決してメディアの重要性が見直された訳ではなく、むしろジャーナリズムの無謬性の虚が公然となっているのだということを、ジャーナリズムに関わる者は認識し、改める必要があるのだろうけれどもそうしたことを認めたがらないのもまたジャーナリズムの高慢さ。ストナーが消えディートハルトが自滅したような末路をきっと辿っていくことになるのだろう。

 買って1年2年ってところのパナソニックのワイヤレスヘッドフォンの調子が妙なんで代わりを探して秋葉原へと出向いた途中でちょうど1年目という事件の場所をたずねて黙祷しようと思ったら、積まれた献花の両脇からハの字に伸びるように脚立が並んで周囲をカメラマンとテレビカメラが壁のように囲んでまるで近づけない。昼に近い時間で人通りも増えていたんだけれどスクラムがこれから組まれるかのように両脇に壁が作られている間を放り込まれるボールのように入っていったら、当然のように詰め寄られマイクを向けられカメラで映されるのが必定。それが嫌な身じゃないし、むしろ場合によってはカメラを向ける立場でもあるんだけれど、それはイベントのような場所で遠景として撮る場合が大半。追悼の場で静かに祈りたい人を囲み「OKIMOCHIWA?」とやる程の度胸はない。

 やらなきゃいけない人にはだから同情したくもなるけれど、問題はそれをやらせる側の心理なり、やらされて平気な側の感情であって慟哭を抱えながらも仕事なんだと自分を偽り、突き進んだ挙げ句に心をパンクさせて消えていく人もいたりする一方で、心にいっぱいの襦袢を張り付け何が問題なのかを分からないまま、笑顔で談笑しながら近寄って来る人を値踏みして、絵的にバッチリだなあとかこれは絵にはならないなあといった価値観だけを拠り所に、現場を囲み続けるような人も割にいたりするから悩ましい。そして一般の心理はそうした襦袢な人たちにどこか不思議さを覚え、遠ざけていくことになる。ジャーナリズムは正義ばかりじゃない、といった感性はこうして染み渡って、アニメの中に不正義のジャーナリズム、偽正義のジャーナリズムを登場させることになる。先は長くないかもしれないなあ。

 やっとこさ加奈子とやよゐの過去編へと突入。それも続き物。すでにして放送分の第1話では加奈子もやよゐも箱船の店員となって和気藹々としていた場面が描かれていたんだけれど単行本ではそこへと至る過程でいろいろとあった幽霊たちの再会に至る物語でも、苛烈さとドラマ性ではなかなかな2人のエピソードをラス前的な盛り上がりの中に叩き込んで見せる辺りはアニメーション版「夏のあらし」、シリーズ構成になかなかの冴えってやつを覚えたりするねえ。展開はすでに頭に入っているけどあの激しくも初々しい過去の加奈子をほっちゃん一体どー演じるのか。そこに絡む未だ幽霊にはなっていないあらしとカヤさんがどんな演技を見せるのか。注目。終わって残る6月はどんなエピソードが来るんだろう? やっぱり海水浴&温泉のコンボだよねえ。よねえ。よねえ。

 なんつーかまたぞろ今度は自民党から「国営漫画喫茶」呼ばわりが出てきて気も萎え萎え。そーいや受けると思ってしゃかりきになって叫んでいる辺りが激しく果てしなく見苦しいんだけれども麻生憎けりゃやることなすこと全否定なメディアでは、そーしたみっともなさを腹の底で笑いながらも、そうですね国営漫画喫茶いけませんねと同調して見せつつ矢面に無理矢理引っ張り出して麻生総理をこきおろす材料に使っているてやっぱりどうにも暑苦しい。麻生じゃなくって昔っから議論されていたことで、なおかつ漫画喫茶じゃなく美術館的なものなんだって説明したって聞きゃあしないからなあ。

 しつこくこれを漫画喫茶って言う人たちは、だったらどーして国立劇場は国営芝居小屋っていわないんだ? 国営寄席って非難しないんだ? 鈴本や浅草演芸場や歌舞伎座のような民業を圧迫してるじゃないか? 新国立劇場は国営の歌声喫茶か? サントリーホールやオーチャードホールの営業を国が妨害してるのか? 歌舞伎やバレエやオペラや落語は国営の小屋で見せて良くても漫画やアニメは駄目っていうのか? 自分はそんなところに飾られたくないってホザく漫画家もいたけれども、それって自分の仕事のみならず全ての漫画家の仕事を見下していることに他ならないんじゃないのか? なるほど中身の議論は必要。けれどもそれは運用の問題であって国営漫画喫茶なんて使途は最初っから入ってない。にもかかわらずそれを用いる政治家は、世間を見る目がないって自分から明らかにしていることに他ならない。選挙も遠くないことだし、世間はいろいろ考えた方が良いんじゃないのかなあ。


【6月7日】 1979年の時点で世界はアメリカ合衆国とソビエト連邦の2つの超大国を機軸にして、西側と東側に別れて冷戦を繰り広げているただ中にあった。年末から翌年にかけて起こるソ連によるアフガニスタン侵攻とそこから始まる反攻は、冷戦の半ば代理戦争のようなものとして位置づけられ、アメリカによる一方への肩入れを生み、後にその肩入れがアメリカに牙を剥いて「9・11」へと繋がる皮肉な歴史の扉を開ける。

 ソ連によるアフガニスタン侵攻は、1980年に開催されたモスクワでの五輪に日本も含めてアメリカとその一部の同盟国からの参加をボイコットさせ(イギリス、フランス、イタリア、スペインなどは実は参加していたりする、報復として4年後のロサンゼルス五輪にソ連および東側からの参加を見送らせた。傍目には肩入れ勢力を通しての代理戦争よりも、ボイコット騒動の方が「冷戦ここにあり」といった構図をまざまざと見せつけてくれた。いつかのキューバ危機の時のような、世界が明日にも核戦争によって滅びてしまうような恐怖感はなかったものの、世界が2つの勢力に別れて対峙している様を、狭間にある日本の人にも形として見せつけた。

 あるいはそうした2つの勢力による対峙を、宇宙規模に広げたのが地球連邦とジオンの対立を描いた「機動戦士ガンダム」だという見方も可能だろう。もちろんその独裁権力的なジオンの描かれ方は、第二次世界大戦時のドイツ第三帝国の有り様とも見て取れるものの、どこまでいっても悪にしかならないドイツ第三帝国に比して、立場の違いこそあれどちらも善であり裏表の悪であったりするジオンと地球連邦の関係は、冷戦になぞらえる方が見えやすい部分もあるのかもしれない。もっとも、そんな冷戦を感じさせてくれたアフガニスタン紛争は、ソ連の弱体化を招き疲弊をもたらした果てに、ソ連邦の解体へとつながる原因ともなったのだが。

 冷戦の崩壊をだから1979年に放送された「機動戦士ガンダム」が取り入れているはずがなく、あの歴史においてソ連邦がどのような経緯をその後に辿ったのかに興味が及ぶ。後にいろいろと語られていたりするのかもしれないけれども、アニメの中においてはソ連邦およびアメリカ合衆国が、現実の歴史とは違った経緯を辿って変化し、しかる後に地球連邦へと至ったのかははっきりとは描かれていない。だからホワイトベースがランバ・ラルの追撃をかわしながら進んだ中央アジアにおいて、果たして国々が独立した後に地球連邦に参加したのか、はたまたソ連という大枠を残しながら加わっていたのかは分からない。

 オデッサ作戦に向けてホワイトベースは、中央アジアをカスピ海に向けて移動していたということだから、もしかするとウズベキスタンという国を、ホワイトベースが通過していた可能性はあるし、逆に独立していないウズベキスタンの地域を通り過ぎていたという可能性も想像できる。もちろん南のアフガニスタンにトルクメニスタンを経ていたかもしれないし、北のカザフスタンかもしれない。それらがもしもしっかりと作品に描かれていたとしたら、あるいは内戦が起こり、あるいは独裁が起こり、あるいはサッカー日本代表の敵として立ちふさがるこれらのソ連邦に属していた国々にも、もう少し関心を抱けたかもしれないが、いずれにしてもソ連邦解体が絵空事ですらなかった時代の作品に、そうした未来を入れ込むというのは無理でしかない。かろうじて描かれたベルファストを拠り所に、北アイルランドへの感情を掻き立てるせいぜい、といったところか。

 もしも「機動戦士ガンダム」にランバ・ラル終焉の地なりマチルダ・アジャン落命の地としてウズベキスタンなりが描かれていたとしたら、弾丸ツアーも単なるサッカー日本代表の応援に留まらず、一種の聖地巡礼として機能したかもしれないけれども幸いというかそういった情報はなく、行った人たちも代表の試合に集中出来た模様、っていうか弾丸なんで仮にそこが「ガンダム」に何らかの縁を持った土地だからといって、見物しているような余裕もなかったんだろうけれど。あとは試合がやっぱり相当に厳しくって、見ているだけでハラハラドキドキだったから、終わった後に近所をうろつく精神的なゆとりもなかっただろう。

 なるほど最初に1点はとれたけれどもその後は中盤を完全に制圧され、セカンドボールをすべてとられてそこから一気に攻撃へと持って行かれる。ここでウズベキスタンが前に大きい人たちを揃えつつ中盤から前戦へと放り込むようなパワープレーを繰り返していたら、あるいは守備も決壊するなり、守備陣の精神が結界するなりして相手に得点を与えていた可能性があったりする。それも割と高い確率で。幸いにしてそこからの攻撃にあまり工夫もなかったようで守備陣が持ちこたえて得点を許さなかったけれども、どーしてああも中盤を蹂躙されたのか、ってあたりはやっぱり考える必要がありそう。

 クリアが雑だったりキープが長すぎて奪われたりドリブルがリスクの高さを省みないで頻発されて奪われたりといったことも多々。何よりどーして中盤で誰も競ってないのかが分からなかった。その前にいた人たちは何をやっていたんだろう。まああんまり競ってもあの審判だからすべてファウルにされてしまいカードまで出されて退場、ってことになりかねないと無理に競らなかった可能性もあるから一概には言えないけれども、それにしてもな戦いぶり。あそこで最前線でボールを競れる巻誠一郎選手がいたら、ってのはひいき目過ぎるけれどもでも、走らせることすらしないでボールをいたずらに奪われていたりする様はやっぱり見ていて不安も募る。

 なるほどワールドカップに出られた。4度連続で出られることになったけれどもこの先に、何もしないといつか来た道、というよりもむしろタレント性ではいつか来た道を引き返しかねないんでここからの1年をどう過ごすのかを関係する人たちは、よっく考えてやって欲しいもの。もう監督を変えろとは言わないから……多分言わないからせめて采配の中身と選手の妥当性を。是非に。

 なるほどこいつも一種の能力バトル物。それも特定地域にのみ異能力者がいっぱいいて暮らしている上にその地域から出た途端に能力のことを忘れてしまうって設定は異能バトルを世界大戦レベルにはせずにご近所レベルで留めておける制約にはなっているけれど、だったらそうした能力を管理する組織はいったいどーゆー仕組みで運営されているのかって辺りがやや気になる。国家レベルのプロジェクトなんだとしたらその中央政府は、いったいどーやって特定地域に能力者たちがいっぱいいることを知ったんだ。まさか組織もご町内レベルってことなのか。うーん。

 ってな疑問はさておいて河野裕さん「サクラダリセット」(角川スニーカー文庫)は地域限定の多彩な能力を駆使して主人公たちが挑む事件を描いたストーリー。時間を巻き戻せる力を発揮する少女がいて、その少女に力を発揮させられるトリガーとなっている少年がいて、彼らに猫殺しの犯人を依頼する少女がいてって構図から 始まって猫が殺される前に戻ってそこから始めようとしたら前とは違う人死にが起こって寝覚めが悪いとリセットをするその過程で、猫探しを以来した少女の企みが浮かび上がったり能力が不明だった少女の能力が判明したりしていく。

 力をどう使えばより有効か、ってあたりの練られ方とそれから全体を流れる乾いたトーンが割に好み。猫と仲良しに慣れる少女とか情報を後生大事にしている潔癖性の能力者とか、いろいろな能力を巧みに組み合わせて1つのストーリーを練り上げていたりする頭の良さがあればきっといろいろ書けるだろう。作者はグループSNE所属の人みたい。SNEといえば安田均御大が「ゲーマーズ」で開かれた「モンコレ」の発表会に登場して新たに「モンスター・コレクションTCG」ってものを立ち上げて展開していくって公表。それがどれくらい凄いことなのかはまるで分からないけれどもただい1点、「これはゾンビですか」のチェーンソウ少女を「鋼のクレイモア」と言い切ってカード化する富士見の太っ腹にはなかなかに驚嘆。っていうか人気シリーズになっていたのか「これはゾンビですか」って。

 発表会がてら秋葉原を散策してソフマップ前の交差点に花束とペットボトルが戻ってきているのを発見、そのわきにテレビ局のカメラまで戻ってきていたんでさすがにお辞儀は遠慮したけど明日はどんぴしゃのまる1年だけにそうもこうも言っていられないんで気にせずにしゃがんで手を合わせて来よう。でもってラオックスのギター館めいたところで「けいおん」の影響なんかを観察しつつ「けいおん」に感化されつつある身がギターを欲しがっているのを無理矢理抑えようとはしているもののちょっとヤバそう。

 でもスノッブなんでギブソンは無理でもエピフォンのレスポールとかフェンダーのマスタングとかに手を出したくなる気があって、けれども値段からとてもじゃないけど手が出ないんでここは他の安物で妥協せず諦めるって方向に流れそうなのが幸いか。とはいえ店頭で流されていた安達久美さんって人のギター教則ビデオをギターが抱えられた胸元の露出ぶりに惹かれて買ってしまったからなあ。決して谷間が見たかったからじゃないってことを証明するべく、それを試すためにギターもって本末転倒を起こしかねないのが自分だからなあ。ああ困った。


【6月6日】 雨、というものが演出に対して持つ重要さは、打たれている人物に例えば挫折といった属性を持たせることも可能なら、逆にどん底からの再帰を表現させることも可能な道具立てとして使えるところにあったりする。どちらかといえば晴天に対するネガティブな要素として見られがちな雨。それを順手に取れば前者となり、逆手にとれば後者のように打たれても屈服しない強さを人物に持たせることができるのだ。さらに敷衍すれば「雨に唄えば」のジーン・ケリーの如く、雨を逆にリズム感を醸し出す道具として用いて陽気さを醸し出すことだって可能になる。雨。何と素晴らしいシチュエーション。

 そして雨は出会いも生み出す。「機動戦士ガンダム」でサイド6を訪れたアムロ・レイが突然に降り出した雨に駆け込んだ軒先で少女と出会う。ララア・スン。後に敵として立ちふさがりつつも導き手となってアムロをニュータイプの域へと覚醒させ、シャアをも引っ張って2人を後の宇宙を2分する勢力へと押し上げていく。あそこで雨が降らなければ、アムロはララアと戦場でのみ出会い、あるいは何かを通じさせることもなくすれ違っていたかもしれない。あそこで車がぬかるみにはまらなければ、シャアとアムロの最初の邂逅は起こらず双方がララアを挟んで対峙しつつ次への段階へと昇っていくこともなかったかもしれない。

 そんな雨が実は仕組まれたものだた、という可能性は果たしてあるのか。なにしろそこはサイド6。スペースコロニーの中。天気は自在に調整が可能であらかじめ天気予報、というより天気予告として雨が降ることが住人には伝えられている。その予告を持たなかったアムロは予定どおりに振ってきた雨に降られたということになっているのだが、予告を持っていないが故にそれが正しいものだったのかははっきりとしない。もしかすると2人に出会いをもたらすために誰かがコロニーの天候を差配するシステムを動かして、2人の周囲に雨を降らせたという可能性もないでもない。

 それは誰が。いったい何のために。宇宙的な意思かもしれないし、宇宙に融けて普遍の存在となったララアが時空を遡って未だ知らぬ2人を引き合わせたのかもしれない。さらに俯瞰すれば、覚醒によって起こった人類の進歩のさらに延長に生まれるであろうオーバーロードの意思が、ララアを動かし過去へと介入してお膳立てをしたといった想像も浮かぶ。いきなり話が飛びすぎて収集がつかなくなりそうなのでここはこの辺で。そういえば「機動戦士ガンダム」でほかに雨のシーンはあっただろうか。続編では。他のシリーズでは。記憶がなかなか蘇って来ない。それ故にだからこそ、コロニーに降らせたあの雨の意味も大きくなって来る。

 ざあざあとは降ってないし三角定規にヒビも入ってないけれども雨だったんで遠出も片づけもしないで家でひたすらに「プレイステーション3」で「みんなのゴルフ」で遊ぶ。今さら。っていうかもうベストが出ているのだなあ。「プレイステーションポータブル」で前のバージョンなんかを遊んでいたんだけれども家庭用のコンソールで遊ぶのはこれが始めて。ゴルフ場の描写が特段にリアルになったという感じはしないし、キャラクターもデフォルメのまんま細密になってもあまり面白いものではないって実感。胸とか揺れないし。スカートの奥も見えないし。

 とはいえゴルフはゴルフなんでやっていればラウンドを回る面白さはちゃんと伝わってくるからこれで構わないってことでまずはこのバージョンから導入されたっぽい本格モードとやらでプレーしてみたものの、クラブを振り上げるタイミングとそれを振り下ろすタイミングがつかめずまずは難儀。これまのようにバーの長さでパワーを決めて止めるタイミングでショットを決める方式の方がやっぱり慣れていたようで、そっちにすると次々とバーディーも取れるんだけれどこれでは進歩がないと何度か本格に挑んでいるうちに、ことティーショットとかについては振り上げて、チャーシューメン、ではないけれども振り下ろすような間合いでボタンを押すことによってジャストインパクトを出せるようになって来て、スコアも作れるようにはなってきた。

 問題はだからパットで、ティーバックする間合いが今ひとつ掴めず打ちすぎになったり、足りなかったりして決まらない。従来モードなら距離に会わせたゲージが出ていてそれを参考に登りなら多め、下りなら少な目で止めれば良かったんだけど、本格モードではどれくらい下げればどれくらいの強さになるのかが未だ不明。ピッピッと音が4つ鳴るんでそれで25%づつだと計算して距離に対する割合を導き5割なら2個鳴ったあたりで打てば良いのかとも思ったけれども、それだと音を聞こえなくするとまるで打てなくなるんだよなあ。でもまあこれもそのうち慣れるだろう。あるいはテレビが小さすぎてそれを遠くから見ながらプレーしているんで、微妙なティーバックの距離感がつかめていないだけかもしれない。訓練訓練。ひきこもり度が増しそうだなあ。

 ネトゲの肉丸ことハルユキの成長を描いた「アクセル・ワールド」(電撃文庫)の第2巻「アクセル・ワールド2 紅の暴風姫」はハルユキに素敵な妹が登場。帰るといきなり家にいて、クッキーを焼きお風呂にまで入って来てはお兄ちゃんお兄ちゃんと迫ってくる。ああ何という至福。あの居丈高で高慢でツンケンしていてデレデレな黒雪姫という存在がいながらあおかつ妹までもと世の反感を一身に浴びそうだったけれどもそこは脳内からネットに接続してはあらゆる情報を検索可能な世界。風呂場から探りを入れて妹というか実は親戚の娘と名乗ったその少女が実はいったい誰なんだ的展開へと向かいそしてハルユキを新たな戦いへと引っ張り込んでいくことになる。敵はどうにか撃退できたけれども残った引っかかり。さらに倒すべき敵に親近感を抱かせてしまったことで果たしてバトルロイヤルに結末を描けるのかといった悩みも。まあそれは「レンズと悪魔」なんかでも似たような状況なんで誰かがブレイクしてそれを収集する方向へと向かうと期待。相変わらずしかし出力高いよなあ、川原礫さん。

 ひきこもっていても暗くなるんでファミリーマートで売り始めた巨大ナポリタンを買いつつ近所のときわ書房船橋本店をのぞいたら茶木さんが店頭に立っていた。この店のミステリーやエンターテインメントの品揃えがやたらと濃くってサイン本の陳列が多いのも茶木さんのお陰、なのかなあやっぱり。とっともジャンルは違うしキャリアも段違いな上に直接の面識はないのでとくに何も語らないまま東直子さんの新刊らしい「薬屋のタバサ」(新潮社)って本を買って帰る。まさか東さんが「ゼロの使い魔」のスピンオフを手がけていたとは知らなかったよ、ってそんなことはない。あと送って来なくなった講談社BOXから出ている定金伸治さんの「四方世界の王」でまだ買ってなかった第4巻も。月イチなはずだからもう6巻くらいまで出てたって不思議じゃないのに続きが出ないのはどうしてだ。うーん。面白いのに。面白くなりそうなのに。このままフェードアウトだけは止めて。でも3分の1で止まっている方が幸せといえば幸せか。ファイナル手前の停滞がやっぱり読み手には堪えるのだ。イージーなコンバットとか。フルメタルなパニックとか。

 久々に登場して来たと思ったらお市の方は片足に鉄球をつながれうなだれぶつぶつぶつぶつ。能登声の能登声らしさを存分に発揮してくれていて実に嗜虐心をそそられるけれども一方でその内に潜んでいた何かが溢れ出す恐怖も同時に感じさせる声質に、侮れば迎えるのは死かもって思いも浮かんでくる。信長はそんなお市をあなどり虐げていたけれどもあるいはいつか爆発し、浅井長政の仇ではあってもより上位の敵として君臨する信長を撃つべく共闘し、本能寺へと向かい長刀を振るうなんてこともあったりするのかどうなのか。けどしかし相変わらず下に何をはいているのか分からないスタイルだよなあ。やっぱりはいてないのかなあ。どーでもいいけど「ハヤテのごとく」の第2期って誰が見てるの?


【6月5日】 1979年に放送された「機動戦士ガンダム」において善と悪を敢えて分けるとするならば、やはり主人公格のアムロ・レイが属する地球連邦がどちらかと言えば善であり、その連邦に戦争を仕掛け蹂躙し、挙げ句にソーラーレイという虐殺兵器を持ち出し敵のみならず見方をも白熱の渦へと叩き込んだジオン公国側に悪を見る、といった構図になるのだろう。そのジオン側で権力構造のトップに位置したのは、ザビ家という世襲的な一族で、ただザビ家であるというだけで長兄のギレンは総帥となって全軍を率い妹のキシリア、弟のドズル、末弟のガルマもともに部隊を率いる立場にある。

 対する連邦にはそうした、世襲的な権限を持って始動に当たるといった人員は見受けられない。もっぱら世襲が政治に多いとして、「ガンダム」ではその政治がまるで見えないところもあって、一概に世襲は成されてはいなかったと言えないのかもしれないが、軍関係も含めて名家である、権力者の家系であるといったことを自由に差配するような人物がほとんどいない。こうした連邦を是とし、ジオン側をネガティブに描くことはつまり、ジオンの世襲的な権力構造をもやはりネガティブに見ているという認識が、当時の空気の中にはあって作品に反映されていた、といって果たして言えるのかが少し気になる。

 敢えていうなら「サイド6」で責任ある地位に就いているカムランが当てはまりそうで、こちらも名家の出らしいミライ・ヤシマと旧知の間柄のように描かれているが、カムランの家名にすがる頼りなさが、地位など微塵も気にしていないミライの潔さと対比して描かれているところからも、世襲の側をネガティブにとらえている節が伺える。いずれにしても、世襲的な権力は滅びてそうではない面々が勝利する。作品で最大のヒロインであるところのセイラと、ヒーローであるところのシャア・アズナブルは、ともにジオン・ズム・ダイクンの遺児として世襲の力を持ち得る立場にはいるが、1年戦争下ではともに才覚のみで行動し、世襲だからという部分をのぞかせていない。それが現れるのは「機動戦士Zガンダム」でシャアがジオンの遺児だと表明して以降。そしてシャアは再びまとった威光を膨らませた果てに「逆襲のシャア」での暴挙へと走ってアムロに叩き伏せられる。

 時代が変わって紡がれた「機動戦士ガンダムSEED」と、その続編「DESTINY」にはいったいどれだけの世襲が主要なキャラクターとして登場し、活躍をしているのだろうか。ラクス・クラインは最高評議会議長の娘でありアスラン・ザラもやはり国防委員長の息子。カガリ・ユラ・アスハはオーブ連合首長国の娘として育てられた身で例えるなら姫である。もちろんそぞれが優秀であり強い意志をもって活動していたことは読めるものの、そうした最初から特権的な地位にあるものたちが、大勢を率いて活躍する様が何の衒いもなく描かれる。「ガンダム」ですらジオン・ズム・ダイクンから権力を半ば簒奪した形になったデギン皇王は、権力に先走るギレンを危惧し、専横に先んじようとしてソーラーレイに撃たれた。イセリナとの恋の成就にガルマは地位を捨てようとさえ(本気かはともかく)訴えた。

 人を凶行に走らせ身分を縛る、やっかいなものとして描かれていた世襲的権力が、21世紀にはリーダシップの根元、大勢を束ねるカリスマとして描かれているこの変転は、いったい何が起因しているのだろうか。ゲームとして再話が繰り返されるファンタジーの物語の中で姫と王に遣える騎士に身を委ねて物語を進めていくうちに、そうしたスタンスが身に染みていったのだろうか。政治家に氾濫する2世3世に対してやっかいさを抱きつつもだからといって完全否定には向かわず、それもありなのではないのかといった考え方が広まってきたからなのか。むしろ逆にフィクションでの世襲容認が現実にもそうしたカリスマの到来を世襲にこそ求めたいといった心情につながっているのだろうか。敗戦があり学生運動があって権威筋への反意が未だ漂っていた時代こそが異常であって、貴族は貴族だった平安、武士は武士であり続けた徳川の世の1000年近くこそが常態なのだとしたらもはや、「ガンダム」にかつてのような構図は戻って来ないのかもしれない。

 というようなことを昨今の世襲議員の問題なんかから考えてしまってみたりする今日この頃。2大政党(どこか笑えるなあ)の両方ともが世襲のそれも2世どころではない状況でその成否を叫ばれたって何の説得力があるんだっていう気がまず先に立ってどうにも真面目に議論しているのかに疑いが浮かんでしょうがない。というか別に世襲だからといってそれを一概に禁止してしまうのは勘違いも甚だしい。人材が適しているかどうかってのがすべての分かれ目であってそれを有権者が適していると認めたからこそすべての議員がそこにいる。

 問うならそれを適して認めてしまう有権者の側の考え方であってそこに例えば情実なり、別の経済的なつながりがあったのだとしてもそれが今の時点で否とされていない以上、何かを言う筋合いのものではない。そうした情実や癒着が恥ずべきものだといった風潮をどう作っていくかがきっと課題なんだろうけれども世のフィクションにお姫さま王様が割と良い奴らに描かれてそこに傅く恰好良さってのもあったりするから、なかなかに是正は難しいんだろうなあ。楽だもんなあ傅いてさえいれば無責任でいられるし。いっそだったら政治家の側に自分が適しているかどうかを判断してもらいたいところだけれど二世三世でそんな殊勝な人ってなかなかいないもんなあ。久野忠治さんの息子の久野統一郎さんくらいか、小林照幸さんが取材した「国会議員やめます」(毎日新聞社)って本があったっけ。何か再び注目を集めてしまっているようで。これで政界復帰、なんてことになったらまた妙なんだけれど。

 パンツくん……って板津がどしてバンではなくてパンなのか? まあ「バカ」「スカ」が「バスカッシュ」になることに比べたらそんなに違和感はないか、ジャージをとばされた後をずっつパンツ姿で過ごしていたみたいだし。けどでもあんなに危険な携帯電話をポンと置いてきてしまって他のセレソンが狙うって思わなかったんだろうか滝沢朗。あるいは基本は善政をこそ尊ぶセレソンが、1人の人間を屠るとまでは考えていなかったのかもしれないし、ナンバー1の行為だってよたよたと走り出てきた姿とその手にあった携帯電話を見て衝動的に行ったもの。あそこでもしも板津の携帯が生きていたら、アパートに電話があったら外には出ないであっさり見逃されたのかもしれない。そんなこんなで話が動いて滝沢の本意ではない悪っぽさが浮かんで来てしまった「東のエデン」。残り2話しかないのに片づくのか? って無理だから映画があるんだけど。でもケリは付けてよ咲ちゃんnみっちょんには幸せになって欲しいのに。大杉はどーでもいい。どーにでもなってくれ。

 あー「けいおん」はまた合宿かあ。でもやっていることは前の合宿と大差なし。そんな中でも梓ちゃんを混ぜて関係にちょっぴり変化を持たせていたりするところが工夫か。平沢唯のギターはビンテージじゃないけど高い本場もんのギブソンのレスポールなんだけれども梓って何を使ってたっけ、よく見えないんで調べたらフェンダーでもストラスキャスターではなくってムスタングだった。まだ小さいからこぶりのムスタングってことなのか。でもだからといって左用のベースを無理矢理買ってみたりするのと同様にデカくてゴツい男子があずにゃん仕様といってムスタングのキャンディー・アップル・レッドを買って惹いていたらちょっとなかなかユ・カ・イ、かも。とかいってると何かギターが欲しくなって来た。弾けないのに。でも欲しい。テレキャスター欲しいなあ。


【6月4日】 お台場に建造中の全高18メートル「機動戦士ガンダム」等身大立像は、徐々に完成の域へと向かっている模様で、5月19日に見学に行った時にはまだむきだしだった腕のパーツの上部にカバーがついて、ガンダムらしい肩になりつつあるといった報告も上がり始めている。青い胴体の背中部分にパイプだけが剥き出しになっていたビームサーベルやランドセルの部分の造形もきっと進んでいるのだろう。それらが完成した暁にスカート部分が腰に乗り、胴体が乗ってそして腕が付き、頭が付くといった段取りがこの6月の下旬にかけて行われていくことになる。きっとスペクタクルな場面が見られるだろう。それこそコアブロックと脚に丈夫が合体していくアニメーション映像のような。

ラグビーボールを蹴り上げ顔に届かせたくなる大きさ?  もちろんそれが立つことによって新しい何かが果たして生まれるのかといった疑問は未だに抱いている。見て楽しむだけではただの感謝祭。30周年という記念の年を迎えた以上は明日の「機動戦士ガンダム」につながるような種まきをすべきであって、それは例えば新作アニメーションの制作なり、新しいクリエーターの発掘といった方向に向けられるべきだといった認識は未だに消えていないけれども実際に、お台場に立ち始めたガンダムを目の当たりにすると、その意外なほどのボリューム感に圧倒され、これはこれでありなのかもしれないという気になってしまうから人間とは現金なものだ。

 サンライズのプロデューサーが図面や模型で見ていても分からないボリューム感が本体にはあると言うほどだから、一般の人が見ればまずその大きさに圧倒され、そして現実にあのガンダムが立ち上がっている様子に感動を覚えて不思議はない。それこそ涙すら流したくなる圧倒感。こうして生まれる感情の動きは、単なる一過性の感謝には留まらず、いつか自分もこれだけのインパクトを持って後生に語り継がれる作品を、生みだしてみたいといった方向に向かうことも十分にある。

 大きいからこそ、立像だからこそ生まれる感動。そこまでの目論みをもってプロジェクトを進めていたのだとしたらこれでなかなかの企画家だと担当者に言ってあげたくなる。そうでなくても単なるデカけりゃユカイといった思いつきが実現してしまっただけでも、せっかく生まれるこれだけのブツをもってして新しいことにつなげようといった動きが起これば結果は同じ。別に構わないといった考え方もできる。まずは見てみること。そして考えること。一番の無能は“仏作って魂入れず”を地でいくこと。ガンダムつくって見せ物倒れにしないだけの才覚が、完成後の企画者たちには求められているし、期待もされているのだ。

 仏は作るが仏しか作らないとあからさまに言ってしまっているからこそ、異論反論も生まれてしまって話が建設的な方向に進まない「メディア芸術総合センター(仮)」について、推進にたずさわっている身でありながらも、そうした立場を越えて個人として言いたいことがあると、東大院の浜野保樹さんがやって来て話す会合があったんで見物に行く。この案件、目下のところ政局の具にされて麻生総理の政策に難癖を付けたい奴らの言いがかりに近い文言もあたりして、話が複雑怪奇にはなっているから話がややこしい。

 けれども、そうした部分を廃して見た時に、メディア芸術についての収集・研究や展示を行う施設が必要といった部分では割に意見が一致していたりする。予算が建物にしかかけられておらず、年間1億5000万円といった予算では何の研究もできないといった非難は生まれてしかるべきではあるんだけれど、だから不必要かという議論に向かう意見に陥りがちなところを、浜野さんや漫画家の里中満智子さんは箱すらない状況で、クリエーターの養成をしたくっても場所がないような状況を改善し、少しでも前に進める上でこういった施設が必要なんだってことを訴えて、この先の議論に期待を示した。

 浜野さんは政府なんかのお台場で決定、名称もこれっていった情報があくまで案でしかなく決定したことではないってことを、政府の会合で指摘し確認して来たことを訴えていた。つまりはあの案がもつ至らなさについては推進側も理解していて、そこを是正するために必要なことを考えたいってスタンスは持っている。そうして議論が始まった時に、いったいどう進んでいくのかってところを注視するのが重要であって、ハコだけであとはどうぞご勝手に、ってのが決定事項ならばそこに期待は抱けない。

 一方で森川嘉一郎さんたちが明治大学とともに同人誌の資料を集め、漫画やアニメやゲームにも広げて収集していこうという動きを進めている。ソフトについては手当は出来ることは確定しているんだから、ここに政府の「メディア芸術総合センター(仮)」のハコ物予算を合体させて、お茶の水に国の施設を建ててしまえは、双方に満足の施設が生まれ、利用者も喜ぶといったビジョンも描けるんだけれども、これでなかなか政治って奴はしたたかだから、既にやっぱり場所も確定建物も確定で、予算もこれだけってことが水面下で確定していたりするのかもしれない。そこをどう見極めるかってところが、このプロジェクトの成否を伺うポイントになりそう。

 あとやっぱりというか、アニメーターの給料や漫画家の報酬が安すぎるといった問題を解決する方が先だろうという意見も出てきたけれど、これについては漫画家として十分に理解はしているけれども、漫画じゃない業界にだって低賃金問題はあったりする訳で、漫画なりアニメといった特定の業界だけについて話し合われる筋のものではなく、社会保障の整備と充実という国家規模での課題の中で考えて、解決していくべき問題なんだと里中さんは指摘していた。生きづらい世の中になってしまったと感じる人が大勢いる昨今、アニメや漫画に限らず最低限の保障を得られる社会の実現に向けて、すべての国民が政治も経済も含めて取り組んでいく必要があるってこと。なるほどそりゃあ当然過ぎる意見だよなあ。

 個人的に言うならアニメーターの給料の安さはアニメ産業の構造に起因する問題でもあって、例えばテレビ局からは制作費なんてまるで出ず、むしろ波料なんかをとって放送させてやっている的なスタンスでいたりする状況について考え、そうした状況がしばらく前は回っていても昨今はテレビ局をあてにしないでも稼げた販売収入なんかに期待が持てなくなっている状況が、何に起因するのかを考え是正に向けて動く方が先だといった考えもでくなくもない。市場の大きさも踏まえて適正規模で物が作られる状況を作り出す方がやっぱり先だし、加えてそうやって生み出された物に対して敬意を示し、適正な対価を支払うような受け手側のリテラシーの向上も必要だったりする。そうした部分について考えないで、いきなり政府の支援が必要だって言ったところで無理なのだ。

 だからこそ世の中にアニメーションなり漫画に対する認識を深めてもらい、良き読者良き視聴者として育っていってもらえるように、ここで作品を見せクリエーターに触れてもらってリスペクトの気持ちを育ませる施設として、センターが求められているといった意見も出てきそう。今はとにかく政局から反対をしているレイヤーがあり、予算の付け方が奇妙だから全部チャラにすべきといったレイヤーがあり、サブカルチャーに政府の支援なんて不要だといった思想的なものに起因するレイヤーなんかがあってそれらがごっちゃになって本質が見えにくくなっているからややこしい。

 チャラでもいいけどでもそれだと予算はどこかに飛んでしまう。意見交換によって無様さが洗い流され、誰もが納得できる企画となって実現に向かい動き始めるといった、例え億に1つであっても納得され得る可能性が、チャラでは完全なまでに潰される。反対する人たちはそんな危険性について、やっぱり考えておく必要があるじゃなかろーか。ともあれ動き出していることは確かなプロジェクト。今は不満が充満してても、ここがスタート地点となってくれて、真っ当な企画へと昇華していってくれれれば嬉しいんだけれど、世間って奴は上っ面だけ見られれば良いって人が多いからなあ。どうなるんだろう。予定されていた富野由悠季監督がなぜ来なかったのかも知りたいなあ。

 冒頭に読みづらいところもあったものの、句読点の打ち方に慣れ物語の世界が見えてきた後は一気呵成に読まされてしまった蟻沢ナツさんの「草 愛づる」(講談社Birth)は、古代の和風といった雰囲気なんだけれども日本ではなく中国でもなく架空の世界にある、表と裏の2つの島が並んだ地域が舞台。裏島にいる種族は体に植物の種を埋め込んでは、それを自在に発芽させて蔓とか葉とか花にしたものを武器にして、戦う能力を持っていたんだけれど、一方で表島に暮らす人たちからは追われ引っ込んでいて、それらの間にには交流はなく、むしろ最近では敵対の感情すら浮かんでいた。理由は表島で起こった火山の噴火で、食料が減り灰による病気も増えて青息吐息。これはいけないと裏島への侵攻を画策し、その軍勢には裏島から流れてきた男がひとり付き従っている。

 彼こそは裏島でも屈指の能力を持つ少女・心野の兄で、敵に下った兄の礎苗が向かってくるのを承知で心野は、2つの島を結ぶ蔓草で出来た橋の上に立って兄たちを待ち受ける。体に埋め込んだ植物はさまざまな形態に変化する。そのバリエーションは数ある異能者にあってもなかなかに異色。考えようによっては体から植物が生えてくる薄気味悪さもあるけれども、描き方が巧みなのか読んでいてあまり違和感は覚えず、むしろ人間を超える技として憧れてみたい気分すら浮かぶ。そして、双方が激突する中で分かったお互いにお互いを思っていたのだという気持ちの切なさと、新しく生まれた危機にもはや戦いすら無意味となっていく切迫感が、次にいったいどうなるかって気持ちを煽り、ページをめくらせる。

 薄幸の少女もいたり事態が収束したあとも過酷な状況が続いたりと、決してハッピーエンドとは言えないけれども、そんな中でも生きていこうとする心の強さが、余計に感動を生んで生きていかんきゃという気持ちにさせる。悪くない。このレベルが続けば「講談社Birth」も悪くないんだけれどもしかしやっぱり、置き場所に困るよなあ、ライトノベルにおけばそこそこ行けそうなのに、文芸のコーナーにまとめて並べていたりしちゃあ誰も手に取らないもんなあ。かといってバラバラにしてしまうと存在感も薄れる。ターゲットとする世代も入っている物語のジャンルもてんでバラバラな叢書ってやっぱり、無理があるよなあ。

 そうだったよ「本の姫は謳う」のイラストも山本ヤマトさんだったんだよってことを「山本ヤマトイラスト集 AURORA GEM」(集英社)を読んで思いだしたり。前半ややっぱり今が旬っぽい「紅 −kurenai−」関連のイラストで紫ちゃんとか闇絵さんとか環とか、銀子なんかが描かれたイラストがでっかいサイズで読めてなかなかに目に麗しい。でも大半が服を着ているのでそれはちょっとなあ。いやまあ仕方がないなんだけれど。あとは「電波的な彼女」とか「優しい煉獄」とかいろいろ。中に1枚こりゃあどっかで見たキャラだよなあと初出を見たらやっぱりコーティカルテだった。「神曲奏界ポリフォニカ」の何かシリーズで1枚、イラストを描いていたみたい。本家よりもむしろ……。でも本家はあれで大人バージョンが素晴らしいのでやっぱりそっちを支持しよう。


【6月3日】 プロダクトデザイン、インダストリアルデザイン的に見て現実と違和感なく見ていられるアニメーション、といった意味でも「機動戦士ガンダム」は先鋭的だったのではないか、といった考え方が今ならば浮かぶ。なるほどトータルデザインという意味では「宇宙戦艦ヤマト」のあの松本零士色で固められたメカニカルであったり、ガミラス側のようにどこか有機的であったりといったデザインが採用されて雰囲気は出していたけれど、人間工学的に見てあれらは果たして使いやすいのかといった疑問も一方には出されて不思議はなさそう。目で見たビジュアルこそが重視される漫画の世界だったからこそ、描けたデザインといった解釈も成り立つ。

 その後のアニメも例えばスーパーロボット物なんかは、武器は大仰で室内の調度は質素でとても人が暮らして平気、といった感じはない。そもそもがロボットからして見た目をこそ重視され、使い勝手についてはまるで考慮されていないのだから仕方がない。もちろんそれは決して悪いことではなく、見た目が恰好良いからこそ誰もが憧れファンになり、その戦う姿に惚れ込んで玩具を買った。逆に「ガンダム」の場合はロボットがあまりに質実剛健過ぎて、幼い子供心に働きかけなかったからこその不振があり、打ち切りがあったともいえる。

 これがある程度、ドリームから離れて社会を普通に見て回っているハイティーン層になるとむしろシンプルさが恰好良さだとヒットしたのだから世の中は分からない。もいるスーツ群に限らずスペースコロニーの中の街並みは、現実の街並みの延長であって奇をてらったところはなかったし、「ホワイトベース」における調度も戦艦といった立場を踏まえたシンプルなものになっていた。各員の部屋がやは広すぎるのは無駄のような気もしないでもないけれど、そこは狭苦しい部屋では演技をさせても見苦しいから仕方がないという判断か。

 食器類に銃器類も現実にあって不思議はないデザイン。グラスに角など生えておらず拳銃に鍔もついていない。もっともだからこそ後になって当時の異色ぶりへの憧れを喚起するような、総統のワイングラス(角が生えていないのは解せないが)は作られても、ホワイトベースのあの食器(プレート状の軍隊仕様)とか、セイラが握っていたあの拳銃が作られ限定で売られるようなことにもならないのだが。ただひとつ、キシリアの兜だけはどこか虚仮威しじみていたような。シャアのヘルメットは士官用だとしてもキシリアのあれは将軍用とは思えない。幼いキャスバル坊やのおイタに付き合ってあげたということか。

 もしもこの一角に「機動戦士ガンダム」のインダストリアルデザインが並んでいたとしたら、それでもやっぱり飛び抜けた違和感を覚えたのだろうか、もっともそれはアニメで深く見知ったものが並んでいることへの驚きであって、意匠的にはそれほど異色ではないのだろうかと考えながら「東京ビッグサイト」で始まった「インテリアライフスタイル」を見物。家具やら器やらランプやら何やらといったインテリアに関連した商材がわんさか集められ並べられている展示会で、実は行ったのは始めてだけれどこれがなかなかに面白い。恰好良いインテリアが並んでいるってこともあるけれど、細かい食器とか住宅用品にも少し筒のアイディアが加えられた、センスの良いものがあってそうしたひとつひとつを眺めて、目の付け所がシャープとか言って楽しめる。

 四角錐の箱の上部にある蓋がパカンと開いて中にいろいろ放り込めるダストボックスはパカンと開く四角い板の隅っこがちょいめくれあがっているデザインになっていて、そこに指を添えて簡単に開ける。ピタリと閉まらないといけないって発想の逆を衝いたものってことか。とっくりのちょいと開いた丈夫におちょこをいれて上に蓋を被せると達磨みたいになるとっくりは若いデザイナーの人が考えたらしいアイデア。漫画の吹き出しの形を抜き出したお皿とかもあって瀬戸物といえども日々進歩ってのがあるんだって見えてくる。

 シャープの液晶テレビ「アクオス」のデザインなかをずっとやってる超有名なインダストリアルデザイナーの喜多俊之さんの娘さんらしい喜多倫子さんが手がけた「Book light」ってのがセンスもなかなかに使い方もユニーク。本があったとしてそれを開くと蛇腹みたいにページの部分が広がって、その中でLEDのライトが光ってぼんやりとした明かりで周囲を照らす。紙に見えてグラスファイバーだから燃え出すことはないし、何度の折り曲げにも壊れたりすることはない。

 表紙背表紙を下に孔雀の羽みたく広げることも可能だし、立てて開いて光らせることも、小口の部分を下にちょっとだけ開いて置くことも可能とパターンは自在で、それぞれに雰囲気のある明かりの姿を見せてくれる。ベッドサイドに置いてちょい、照らしながら本を読むってライフスタイルが送れれば最高だけれど残念にも我が家にそんなベッドサイドなんて余裕はなく、すでに頭の周りを本がいっぱいに埋め尽くしている状況で、こんなものを置いたら崩れ落ちた時に他の本を紛れてしまう可能性が大。残念だけれど諦めつつもこれは愉快な品だから、誰か試してみては如何と紹介してみる次第。

 なぜか玩具めいたものもあって例えばホソカワシュピールバーレンってころが輸入を始めるドイツ製の馬の玩具は、丸太みたいな胴体から生えた4本の脚が前足、後ろ足をそれぞれ1本の棒でとめられ前後に動くようになっているから、斜めになった場所におくと脚をとことこと動かしながら前に進むようになっている。ただ前後に動くだけではひっかかるところを、脚の裏の削り方を工夫することでちゃんとひっかからないで脚が動くようになっている模様。ちょっと面白い。8000円くらいするから玩具というよりインテリアか。でも分析すれば日本の会社が真似して作ってきそう。それだときっと素材に安価なものが使われて、あの味は出ないんだよなあ。

 それより驚いたのが「Pepe&Menta」ってイタリアのブランド。少女のキャラクターが遠目に見えたんでどこの日本の会社が昨今の「kawaii」を真似してブランド化したなと思ったらイタリアのミラノで始まったブランドだとか。デザインしているのはギャルっぽい見てくれだけれどアルマーニとかドルチェ&ガッバーナでスタイリストをしていた人らしい。ピンクを基調にした品々はネックレスに小さいケーキが2つくらいぶら下がって真ん中のペンダント部分にキャラクターが描かれていたりととてつもなく派手。だけどガチャガチャとした感じにはなっていないのはイタリアならではのセンスか、そうなんだからそう見えると思ってしまう先入観によるものか。いずれにしてもちょっとキそうなブランド。とはいえ日本はkawaiiの本場。原宿渋谷にはわんさか並んでいそうなアイテムでもあるからなあ。そこをイタリアならではのセンスと雰囲気と先入観で押し切るか。作った人も日本に来るらしいんでkawaii系のメディアは要注目。何歳くらいの人なんだろう?


【6月2日】 実写版ガンダム、というか海外版のゲームに登場した実写映像に現れたシャア・アズナブルらしい人物のあまりなファット感にこれなら自分の方がまっとうだと考えた人も少なからずいるだろう。仮面には隠されていても外せば傷ひとつない顔立ちをした絶世の美男子。育ちも良い上に頭も切れて戦闘能力も抜群といった具合に「機動戦士ガンダム」のキャラクターでもトップクラスに位置する男性キャラクターに扮するには、ゲームの実写映像でシャアを務めた役者は至らなさすぎた。それはもう明確に至らなさすぎた。

 だからといって自分が演じられるかというとこれはなかなかに難しい。あちらよりはまともかもしれなくても本当のシャアに比べて果たして、と考えるといくら相手は2次元だとはいえ、やはり躊躇いが生まれてしまう。シャアのコスプレをしている自分を想像してみればその躊躇いにも納得してもらえるだろう。ファットかどうかは問題ではなくやはり顔立ちに隔たりが在りすぎる。仮面を被ってものぞく顎の線や口元の形が明らかに違うと訴えかける。とてもではないが人前で、そんな恰好をするのははばかられる。けれどもやってみたいという思いは募る。

 ならば。シャアの立像に自分の顔をはめこんでもらえばどうなのか。それは手元にのみ置かれ、自分の分身のごとくシャアとしての自分を周囲に見せつける。それを視るのは自分だけ。だから周囲から誰彼なくツッコミを浴びるようなことはない。自分自身で突っ込んでも良いがそれほどまでの自虐をする必要もないだろう。仮面を普段は被せておいて、はずせばそこに自分の顔。スタイルは細身で長身で脚の長いシャア・アズナブルのまま。こんなフィギュアが出れば誰だってきっと注文したくなるに違いない。女性だったらセイラ・マスのフィギュアか。とはいえしかし仮面をつけられるシャアと違ってセイラはいつも素顔。そのマッチング度合いに何の躊躇いも抱かず直視できるかどうかといった悩みも生まれそう。そんなの気にしない、自分が1番美しいのだと、そう考え切れるのが女性という性だとしたらこれはこれでありなのかもしれない。企画は果たして実現し得るか。

 シャアやセイラは無理でも、元が実写で普段は仮面を被っているキャラクターという意味からバンダイが新しく提供を開始した「自分魂」の方が、やはり購入希望者も多そう。あの仮面ライダーのアクションフィギュアの顔の部分だけが自分に差し変わる。写真を提供すればそれをもとに原型師なりが顔だけながらも自分をフィギュア化してくれて、それを製品に入れ込んで届けてくれるというのがこのサービス。視ると割に顔立ちが横に広めの人でも、顔の表情部分だけを抜き出し細面のフィギュアにはめ込むような形になっているから、自分らしさとライダーらしさの双方がハイブリッドになった感じを楽しめる。そりゃあそうだ。ザブングルの四角い人がこれを試して四角いままでは仮面が被れないから絶対に。果たしてどれくらいの受注があって年代はどのくらいなのかに興味。女性が応募する、といったこともあるのかな。あったらちょっと見てみたい。

 なんで緑色なんだろうと気になってテレビでCMが流れていた坂本真綾さんのライブDVD「坂本真綾LIVE TOUR2009 “WE ARE KAZEYOMI!”」を買って視たらやっぱり「トライアングラー」を唄う真綾さんが緑色になっていた。妖怪ゴケミドロ? グリーンレクイエム? そんな訳はなくってただの照明なんだけれどもどーしてあの場面だけ人物に緑色だけが当たっているのかが分からない。いろいろと光っていて真正面とかから視れば普通の色なんだけれど下のアングルからの映像が是非に欲しくって抜き出したら角度的に緑だけが当たっていたってことなのか。でもあの角度からだからこそにょっきり伸びた立派な脚を舞台にしっかと踏みしめて唄う真綾さんを堪能できる訳だしなあ。緑だからって触って弾力に富んでいる訳でもないんで気にしないのが一番ということで。

 これはやっぱり買うべきか。買いたいけれども一方で藤子F不二雄さんの全集も発売になっていたりするからとてもじゃないけどお金が回らない。買っても置く場所がもとよりない。ないけれどもでもやっぱり欲しいよなあ、アトムの子供としては。うーんうーん。ジェネオン・ユニバーサル・エンタテインメントからいよいよもって「鉄腕アトムオリジナル版復刻大全集」ってのが発売開始。これがどれくらいレアで貴重なものなのかは、アトムの漫画そのものに対する知識があまりない身には分からないけれども、現時点では変えない内容のものが読めるという部分ではやっぱり相当に貴重なものなんだろう。2000部の限定もすぐに埋まってしまうかな。

 しかし価格は1ユニットで14900円もして、それが6ユニットも続くというから集めればえっと9万円弱?  アニメのDVDボックスだって今時そんなにしないだけに漫画でこれだけを出す意味ってのに迷うけれどもでもやっぱり欲しいなあ。ボーナスをつぎ込むかなあ。いや無理だ。出ても手取りがLPレコードの回転数に及ぶかどうか怪しく、冬はさらに冷え込みそうな予感 があったりするだけに、路頭に迷う羽目になるその時に備えて溜め込んでおかなきゃいけないって気もしてる。いやいやこれだけのレアものなんだから買っておいておけば上がらないまでも下がらずに売れる可能性もあるから投資と思って買っておくのも手なのかも。うーんうーん。注文開始日まで考えよう。その日が平和で迎えられますように。

 冒頭から漂う「死」の香りにあるいは「シ」とは「死」なのかって類推も浮かんでしまった鈴木志保さんの「薔薇のかたちのシ」(ジャイブ、950円)だけれど読むとそこにあったのは古びていくものへの郷愁の情や、精一杯の生を経て死んでも後に再生し、再会することへの喜びといった前向きさ。17歳で死んでしまったキャサリン・モーレーという少女の名前を付けられた薔薇は幼い少女の姿となって野原に出て、テントウムシといっしょに旅に出る。廃車となってひとところに留まり続けている古い電車に乗り込んで、どこかへと向かう途中で見せしめのために逆さに吊された鴉を助け、タンポポが芋虫と仲睦まじく支え合って生きている様を見る。廃車となった電車にゆかりの人物も現れ通り過ぎていき、そして迎えるキャサリン・モーレーの死の向こうに、新たに再生する彼女の姿が見えてまた出会えたという喜びに胸踊らされる。

 展開も詩的なら通常の順列とは違って自由奔放に配されたコマ割と、そんなコマいn添えられる言葉のビジュアルだとっても詩的。漫画なのに詩集を読んでいるような印象すら漂ってくる。流石は漫画界きっての詩人らしー鈴木志保さん。絵はさべあのま的っていうか高野文子的っていうかシンプルでそしてとってもメルヘンチック。少女はかわいくちょい女性化するといさましく、男性もとことんまで恰好良いキャラクターの描写にも惚れそうだけれど、やっぱり綴られる物語がとっても心に染みるなあ。他の漫画も読んでみたくなって来た。ちょい前に出た河上遙さんの「ケーキを買いに」と「チルヒ」の2本も含めて今年は「マンガ大賞」にとてつもない選択の不自由さが伴いそう。多すぎるんだよ傑作が。


【6月1日】 企業、といったものが「機動戦士ガンダム」の少なくとも最初のテレビシリーズで描かれたという記憶がない。それを言うなら政治も決して描かれてはいないけれども、ともあれ戦争には兵器を供給する企業が絶対的に必要で、にも関わらず「ガンダム」において企業がどういった形で戦争に参加していたのか、という描写が見あたらない。描く必要がなかった、というのは従前からの物語をどう見せるかが重要だったテレビアニメゆえの理由のひとつでもあるけれど、戦争を通じて肥え太っていく企業が歴史に結構な頻度で登場する以上、「ガンダム」のあの戦争を通して巨大化していった企業もきっとあったのだろう。例えばアナハイムエレクトロニクスとか。

 それが明確に打ち出されたのは「機動戦士Zガンダム」の段階であって、どんな規模でどこに拠点を置いてどういった業務を行っているのかという情報は、アニメそのものから関連する小説などを読んでいけば浮かび上がるようにはなっている。メラニー・ヒュー・カーバインといった指導者の固有名詞も登場して、企業という実態をどんどんと確かなものにしていくけれども、そうした情報を調べずとも名前だけでも鳴り響いているアナハイムエレクトロニクスが、「ガンダム」の世界では1、2を争う存在感を持った企業なのだろうという想像は浮かぶ。何があっても絶対に揺らぐことのない巨大企業、なのだろう。

 もっともGMことゼネラルモーターズが米国政府に破産を申請したというニュースが現実のものとして流れるようになってしまった現実を鑑みれば、アナハイムエレクトロニクスとて決して盤石ではないのかもしれない。何しろGMだ。世界を引っ張るアメリカ合衆国において、最大の企業として経済の世界に確固とした地位を保ってきた巨大企業。それが崩壊する時は、国が崩壊する時だという予断すらあったのにも関わらず、国はかろうじて体面を保ったまま、GMという会社だけが衰退し、崩壊へと追い込まれた。20世紀では、というより21世紀に入っても想像のつかなかったことが起こっている。日本の企業も安閑とはしていられないのかもしれない。

 この凋落を「ガンダム」の世界、アナハイムエレクトロニクスに当てはめてみると、いったいどんな未来が描き出せるのだろうか。モビルスーツの開発競争。コストと品質で優る勢力の台頭に敗れ去った果てに、会社が潰れ大勢が路頭に迷いそして国営企業として細々と命脈を保っていく。そこから生み出されるものは、エコロジーに配慮したモビルスーツ、だとすると妙に不思議な宇宙の様子が浮かび上がる。コストにクオリティにエコロジー。セキュリティにセーフティ。そんな概念が行き届いた中で繰り広げられる宇宙の戦いとはいったいどんな姿になるのだろうか。考えてみるのも楽しそうだ。

 しかしあっさりと潰れてくれたものだよなあ。これをトヨタ自動車に置き換えて考えると米国って国が被ったダメージのデカさも見えてくるけどそんな日本だって絶対に潰れないって思っていた都銀がいくつも破綻し、永遠に君臨し続けると思っていた都銀だって合併を繰り返して残っているは3つかそんなもん。絶対無敵な会社だってそーなるんだからもはや構造不況が叫ばれている業界であるところの新聞あたりは明日にもどうよってことになって全然不思議はない。もうまったくもって不思議はない。

 ペラリとめくれば広告も文明が第3だったりエルカンターレだったり月刊テーミスだったりといわゆる世間一般が広く読んでる雑誌なんかとは違ったジャンルの広告が、半5とかって奥ゆかしさもなく全5とかってデカさで掲載されていたりするから何というか末世というか。ナショナルクライアントなんてせいぜいが発毛罪程度ってところに明日をも知れなさって奴がひしひしと染みてくる。売れてなかった地域で売らんかなと特定勢力に媚び気味の記事を載せればそれで受けるパートもあるだろうけど、より多くの層が離れクライアントも手を引きさらに不思議時空化が進む連鎖反応。その先に訪れるだろうブラックホール落ちの果て。残るのは己の身ひとつってことだってありかねないって予想をしておくのが、いざというときの気持ちの備えになって良いのかも。いざって架空の定義すら不可能性が増していたりもするしなあ。

 センカはこれまでにいったい何人出てきたんだろう。数えるのも億劫になってきたけどタイトルが既にして「ムゲンのセンカ」なんだから無限に出てきたって不思議はないと諦めるのが吉なのかも、ってことで「レンズと悪魔」の悲惨極まりないバトルへの遠慮もあってかこっちが先に出た六塚光さん「ムゲンのセンカ2」(角川スニーカー文庫)は多次元世界でそれぞれに生きているセンカって少女がとある時空に滞在中の令って少年を護りにやって来たりして始まった忙しい日々。世界を護るために必要な令を護り敵勢力を討ち果たす戦いはセンカたちをさまざまな世界へと送り込んで、敵勢力を戦うエピソードが連作気味に連ねられた果てに、1箇所にまとまってくんずほぐれつのバトルへと向かっていく。サイボーグなセンカに過去が現れ悲劇の予感。読みたいけれどもでもやっぱり「レンズと悪魔」が読みたいよう。「ペンギン・サマー」は続編とか不可能なんでそっちは別に気にしない。

 息も絶え絶えになったやよいを放りだして可奈子が乗り込んだ箱船にけいおんやらアイマスやらまりほりやらの面子がいたりしたのは新房昭之さん作品ならではのお遊びとしていつもながらに楽しいけれども役に立っているかというと意味不明。無意味だからこそ意味がある、ってのも矛盾だよなあ。まあいい可奈子と対峙し新しい展開が起こりそうな「夏のあらし」だけれども残されたやよいは冒頭でつぶやけなかった口癖を、断末魔のように叫んで僕たちにあの傑作学園教師ものの存在って奴を思い出させてくれた。でも声質が違い過ぎるんで「ともだチ(以下略)」ほどには感動はしなかったなあ。「絶望し(以下略)」は。そして集まっていく幽霊たちの行き着く先は。終わっていない単行本とは違うエンディングを無理に作るかそれとも流れ解散的に言って2部への期待を抱かせるか。どっちにしたって今シーズンで屈指の作品になって来たなあ。DVDとかはやっぱりオープニングは全バージョン収録されるのかなあ。それなら買わなきゃなあ。金ないのになあ。


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