縮刷版2009年5月中旬号


【5月20日】 いったいどれだけの「機動戦士ガンダム」関連商品が世の中に出たのかを数えることはおそらく不可能。ライセンスの窓口になっている創通ならあるいは、帳簿なり台帳なりをひっくり返せばおおよその数字は出せるかもしれないが、厳密なまでの管理がされていたとはなかなか考えにくいだけに、正確な数字となるともは算出は不可能。それともすべての「ガンダム」グッズを購入している世界的なマニアがいるというなら話は別だろうけれど、そんな人物がいるとは終ぞ聴いたことがない。いれば是非に聞いてみたいものだ。どの商品が1番のお気に入りで、どれが1番気に入らないかと。

 マニアなら気に入らない商品などあり得ないというのが優等生的回答。そうではない僕ならちょっぴり逡巡した上で、山佐から出ているパチスロ機だと答えそうな気がする。機械としては良くできていて、遊べばきっと楽しめるのではないかと思う。発表されたばかりの「機動戦士ガンダム3 めぐりあい宇宙編」も具合は良さそうで、ギレン総帥の「国民よ打て、打てよ国民」の叫びも高らかと響く中でいったい誰が声を出しているのかなぞのスレッガー・ロウの「悲しいけれどこれ、戦争なのよね」に耳そばだて、合成音声のように抑揚なく喋る鈴置洋孝さんの声音に涙を滲ませセイラにアムロといった面々の闘いぶりを眺めながらコインを入れ、ボタンを押してレバーを押し下げたりしただろう。

 けれどもやはりパチスロなり、パチンコといった産業にどうにもよろしくない感情がある。存在への悩ましさを覚えている。理由は複雑だけれども根っこには子供も含めて楽しんでいるようなアニメ作品を、子供にはあまり遊んで欲しくないジャンルのものに使うことへの懐疑があるからなのではないだろうか。振り返ってみれば手塚プロダクションがパチンコやパチスロに版権を卸したという記憶がないし、東映アニメーションも漫画原作のものはともかく、オリジナルに近い作品はやっぱり出していないのではなかったか。サンライズもそういえばあまり出していないのだけれども何故かこの劇場版の「ガンダム3」と前作「機動戦士ガンダム2 哀・戦士たち」がパチスロとして登場している。

 なぜなんだろうかと思う。子供に夢をクリエイションするようなバンダイのグループにあってこうした展開はやや異例に映るけれども考えてみれば「機動戦士ガンダム」の初期にバンダイは、あくまで版権をお借りする立場のメーカーで、それも先約があるところに割り込んでいった後発のメーカーだった訳で劇場版が作られた当時にその中身を云々する立場にはなかった。もちろんライセンス面も。一手に引き受けていた創通がだから許諾の面でイニシアティブをとっていたのだとしたら、そこから初期の劇場版については大人が楽しむパチスロへとライセンスが回されたといった可能性も想像できる。まるで見当外れなのかもしれず、探せば他にもバンダイにナムコにサンライズのパチンコやパチスロが登場していたりするのかもしれない。いずれにしてもそれれをグッズだからと喜び、嗜むようなことはこれまでもなかったし、これからもないだろう。勝てないから? まあそういうことにしておこう。

 えっとこれはまだ通常の再放送だよなあと「涼宮ハルヒの憂鬱」のテレビアニメーションを身ながらひとりで納得。すでにすっかり記憶から細かいディテールが抜け落ちてしまっているだけに、冒頭で朝比奈みくるがお茶を入れていたシーンを前に見たのかそれとも初見なのかが瞬時に判断できなかった。幸いにしてすぐにハルヒが飛び込んできてはチラシを掲げて野球をやると言い出して、ああ野球をやる回だったと分かったけれどもこれからもしもいきなり新作とかが出てきた時に、逆にこれは前に見た奴だよなあと思わないかが目下の悩み。だったらDVDを見返しておけばいいと言われそうだけれども何しろあの部屋だ、どこにあるのか分からないのでありました。やっぱり鶴屋さんはかわいいなあ。学園祭のメイド姿も早くみたいなあ。キョンの妹は永遠に「キョンの妹」のままなのかなあ。新作はどうして書かれないんだろうなあ。げふげふ。

 神になって現実に世界を創造できるんだとしたらそりゃあもう作るのは酒池肉林のハーレムにきまっとろうがと、自分で言うんじゃなくって古川登志夫さんの声で誰かがそう言っては「エッチだっちゃ」と平野文さんの声で突っ込まれてしびれながらも諦めない身を奮い立たせてナンパに走る男がいたりする、そんな世界にきまっとろうがと答えたいんだけれども残念ながら書けばそんな世界が生まれるノートなんて手元にはない。書けばその名前の人が死んでしまうようなノートももちろんないから世界はあくまでフィクションとして世界を想像するだけに留まっている。だからやっぱり本当に、そんなノートがあるんだったらと考えてしまうけれども世の中にはそうした己が欲望に淡泊な人もいたりするみたいで、難儀な世界を作ってはそこで起こる出来事に一喜一憂し、悲しんでは神の無力を痛感し、打ちひしがれたりするみたい。勿体ないよなあ。

 というわけで早矢塚かつやさんが一迅社文庫から出した「文芸部発マイソロジー」は文芸部内での同病相憐れむというより人の振りを叩いて我が身を癒せ敵な輩の糾弾に窮していた文芸部の新人部員に救いの手を差し伸べいっしょに辞めて第2文芸部とやらを作った近藤君と須弥さん。移ってきた諏訪命って明るい同級とそれから愛倉葉月って3年の先輩ながらも背丈は低くて可愛らしいんだけれども口を開けば出てくるのはクトゥルーの暗黒心といった少女も交えた4人でダラダラと暇つぶし。とはいえやっぱり部活でもしようと4人が神話を考え世界を創造してくリレー小説みたなものを書き始めたら、なぜかそうやって創作された世界へと入りこんでしまった。

 どうやら自分が創造した北欧神話系の神様になっていたらしい近藤は、そこで生け贄に捧げられていた少女と出会いヤマタノオロチから救い出す。良い娘で近藤を神と慕い妻として添い遂げるとまで言ってくれた彼女を置いて元の世界へと戻ってふと気づくと、ノートに新たなな展開が勝手に現れるようになっていた。それは創造した世界が何者かによって侵略され蹂躙されるというストーリー。近藤はそんな不思議なノートの持ち主である須弥や尊に葉月らも交えて神として降臨。ロキの娘のヘラを相手に闘いを挑む。

 神話のごっちゃになった世界という設定のユニークさが、たんなるバトルロイヤル的なハチャメチャ展開へとは流れず、そんな世界だからこそ起こり得る悲劇へと進み、なおかつそんな世界になってしまった背後にあった、須弥のとある人物への感傷めいたものも浮かんできて、神となって世界を創造するような力の有り難さと、けれどもそれ故に迫られる決断への重圧を感じさせる。ハーレムを作って酒池肉林といった設定だって悪くはないし面白いけど誰かが書いていただろうし誰だってかける。そうじゃないところで勝負しようとしているところに好感。ヘルを操る存在のさらに背後に蠢いていそうな力の正体が気になるし、露見したらきっと衝撃をもたらしそう。そこまで描いていってくれるのか。葉月の暴走が始まり世界はクトゥルーの暗黒神によって蹂躙されてしまうのか。いやいやそれがニャル子となって顕現しては、世界に名状しがたいバールのようなものの力を背景とした平和をもたらしていたりするのかも。読んでみたいので読ませるように。

 旅客機の中で乗り込んできたロベルタにちょっかい出した隣の席のスーツ姿の女はエダ? 顔を見分けるのが難しいだけにそのスベタな口調から判断するしかないんだけれどもとりあえず国防総省あありを牽制し、CIAの権限を取り戻したいエダとしてはロベルタが軍人さんたちを噛み合ってくれる方が有り難いからエダを助けて運んであげてるって状況か。レヴィも引っ込みバラライカは姿を見せずシェンホアもソーヤーも出てこないんで色気がないなあ今月号の「BLACK LAGOON」。ちびっこメイド1人じゃあやっぱりちょっと荷が重いので次号ではエダとロベルタの水着姿での幕間劇とか見せてやって欲しいもの。そこに現れるバラライカの肌荒れはそれとしてナイス過ぎるバディに誰もが圧倒されるという展開。けど実はああ見えて雪緒が着やせするタイプだったと判明して誰が1番かバトルが始まるのだった。レヴィはさっさと退場、ね。


【5月19日】 医務室には美人女医。切れ者の医師にグラマラスな看護士。そんなキャラクター配置的なお約束としてではなくても、戦場に軍医は不可欠だし手伝う看護士もいたって別に悪くはないにも関わらず、「機動戦士ガンダム」の最初のシリーズで「ホワイトベース」に載っていただろう軍医の姿が記憶にない。リュウ・ホセイが重傷を負って治療を受けた後で、コアファイターを操縦してハモンにぶつかりアムロを助けた流れからすれば、治療した軍医なり医師なりがいたと考えるのが普通だが、そうした場面で印象に残るような出演のさせかたをしなかったのは、まだ「ガンダム」の時代では船医なり軍医は組織における機能の1つであって、キャラクターとして立てるに不足していたからか。

 いやいや。松本零士が先んじること数年前に「宇宙戦艦ヤマト」で佐渡酒造という軍医を描いているし、「宇宙海賊キャプテンハーロック」に出てくるドクター・ゼロも含めて類似のキャラが松本作品に頻出する。無頼だが腕は確かなキャラクターの存在は、若さゆえに一直線に突き進みがちなクルーたちを時に抑え、時に正しい方向へと導く縁の下の力持ちのような存在として使われる。擬似家族における父性としての軍医。その必要性がクルーを家族のように描いた松本漫画では必要とされたが、殺伐とした空気の中で少年や少女たちが誰にも頼れず、手探りで道を見いだそうとする展開の「ガンダム」においては不必要。あくまで治療する機能としてその存在が仄めかされていればそれで良い、という判断だったのだろうか。

 調べると「機動戦士ガンダム00」にはジョイス・モレノという船医がプトレマイオスに搭乗していてロックオンの治療に当たったという。名もあり顔も存在するキャラクターだが、しかし与えられた役割は機能であって情動には絡まない。おイタをしたガンダムマイスターたちにお小言をいいながら治療し、ついでにちょっぴりの愛も「あ・げ・る(ハアト)」といったような、お約束を煎じ詰めたような軍医でも看護士でもないただの男という設定は、シリアスな世界において当たり前と言えば当たり前。そんな要素の積み重ねが「ガンダム」のリアルさを支え補強し、確たる世界として作り上げては支持を集めている、といったとこなのか。

 医者の不養生って訳でもあるまいが、神戸あたりで開かれる予定だった精神神経学会が新型インフルエンザ発生の影響で中止になった模様。「医学会」とはついてないから医者ばかりって訳でもなくってカウンセラーみたいな人も交えた学会なのかどうかは分からないけど精神科医だとするなら医者は医者だから感染症とかについても基礎くらいは知っていて、そんな人たちが危険だからと中止を判断したならもはや神戸は世界に冠たる汚染地帯で周辺への立ち入りすら既成され、近寄れば防護服を着た兵士に警告無しで射殺されちゃったりするくらいの状況になっているのかどうなのか。うーん。とりあえずマスクを持っていったら高く売れるかな。

 とは言いつつ関東あたりでもマスクの売れ行きは絶好調みたいでアマゾンも楽天も軒並み売り切れに。そんなに買ってどうすんだ。近所では薬局が軒並み売り切れだったけれどもマスクだったらそこにもあるってのぞいたロフトにはちゃんと残ってたし、東京へと出て銀座にある東急ハンズに寄ったら3Mのカップ型をしたN95対応マスクってのもならんでたんでせっかくだからと流行にのるべく仕入れてみる。蛇腹状になった奴より何か高級そうで効果もありそう。でもきっとあんまり変わらないんだろうなあ。色気も何もないんでシールでも貼るか、前にもらった「GEKIDO」マークのシールとか。

 豪放磊落にして眉目秀麗にして淫猥にして強靱無比なお姫さまっていうギャップの積み重ねのようなキャラクターが、日々をぬとぬととしたりぐちゃぐちゃとしたりして過ごしていたところに起こるどがどがとしてぎちゃぎちゃとした殺伐とした事態を経て、隠棲から出て前に向かって歩き始めていった展開が痛ましいなかにも晴れ晴れしさを感じさせて瞠目した八薙玉造さん「鉄球姫エミリー」(集英社スーパーダッシュ文庫)。続いて修道院でも襲われ帰国したら弟だった国王が殺され戦場に出れば最強にして最大の敵が立ちふさがってもはや八方ふさがりといったところへと追いつめられてさあどうなる? といった瀬戸際から幕を開けた「鉄球王エミリー」(集英社スーパーダッシュ文庫)は、これがシリーズのラストという前提もあって、やはり全員突撃の上での玉砕しかないといった心配も浮かんでページをめくる手が震える。

 自身は王位継承権を返上してリーダーに立てず、かといって継承権の最上位にある男は反乱みたいなものの先陣を切って半ば敵対。そこはどうにか抑えたものの生来よりに歪んだ性格故になかなかすんなりとは上に立てづらく、かといってその下に続く継承者も誰1人として上に立とうとはしない。そりゃそうだ。滅亡が確実視されている国の王になんて誰だって鳴りたくないわなあ。ゆえにまとまれず四散から崩壊へと辿ろうとしている国になって我らがエミリーが何をしたか、ってあたりがひとつの鍵か。ご託なんて意味がない、必要なことと必要なときに愚直にやることが大切なんだって明快なまでのロジックがそこから浮かび上がる。

 そして四面楚歌の危機に対してとった作戦の凄まじさ。先に立ちふさがった血風姫のヴェルヘルミーナことミーナちゃんとの戦いの激しさ。そこから見えるのは当たり前だけれども人はひとりじゃないってこと。みんながあって1人がある。ウィンバイオール。個の力に頼りすぎればいつかぶつかる壁って奴に、何かを感じてページを静かに閉じられる。本当なら続きが読みたいところだけれどもあれだけの戦いの後じゃあ双方に残るダメージも大きいそうなんでしばらくは無理か。それにこれだけのことを成し遂げた国だから、後にいくらミーナが嵩に掛かって攻めてきたってその都度守り抜いて国を盛り立てていくって道しかないだろう。だからこれまで。そして次にいったい何を読ませてくれるか八薙玉造さん。これだけ強烈なキャラを生みだしこれだけ壮絶な物語を生みだした後で残るキャラと物語があれば、作家として本物以上の才能だって照明になる。期待。

 「宇宙をかける少女」で秋葉が閉じこめられた箱の中があまりにただの箱の中で食事はどうするんだトイレはどうなっているんだ既に前に閉じこめられた人の箱の中は垂れ流されたものが山積みな上に干からびた人間が息も絶え絶えに載っているのかさらにはそんなぐちゃぐちゃが混ざり合った汚泥みたいなもが詰まっていたりするのか等々、考えてしまったけれどもまあそこはきっとそれなりな解決方法が採られているんだろう。でなきゃいつかの箱ちゃん登場が無意味になってしまうから。あの時って少しドアとか開いたよねえ。開かなかったっけ。風呂とかしばらく入ってないだろうからにおいとかきっと凄かったんじゃなかろうか。

 獅子堂の姉妹はしかし長姉を除いて阿呆揃いというか、秋葉は捕まり脱出不可能でナミは拾ってきた何かに不用意に触れて刺されて卒倒。でも次回予告には出ていたから復活したのか。次姉の高嶺はずっと捕まり洗脳されたまんまで富んで戦うお人形さん。ああそうだわくわくぼんぼんな末の桜が残ってたけど通常ではまるで役に立たない才能だからなあ。んでも何かスケッチを描いていたんでそれがどうにかなってくれると想像。残り話数も少なくなって来たところでどこに落としどころを持っていくのか、でもってどんな未来が描かれるのか。単に誉められないと力を出せない後ろ向き少女と後ろ向き人工知能のひきこもり脱出物語に帰結しちゃったら……それはそれでまあいいか。つみれじゃなかったつつじはしかしお風呂好きだよなあ。誰の影響だ。

 えっとこれで終わっちゃうってことはないよねえ。深見真さんの「武林クロスロード」(ガガガ文庫)は分解された母親の体を取り戻そうと皇帝の下でチャンピオンだかになろうと頑張る少女がそんな皇帝の強靱な部下達によって封じ込められていた武侠を助けて道連れとなって進んでいった果て。いよいよ近づく皇帝のお膝元で天下一武闘会みたいなものに参加が決まりかけたのに、外から攻めてきた強敵によって皇帝は追われ娘が籠絡されて傀儡に仕立て上げられてしまってすべてがおじゃん。母親の体を取り戻すって話はすっとび武侠な女もどこぞへと出奔。まさに宙ぶらりんな状態で第1部の完となって果たして第2部はあるのかって投げかけられても、ねえ。「わたしたちのたたかいはこれからよ」ってんじゃあ読者も納得しないんでここは是非に続きを。同一レーベルが無理でもより相応しいレーベルは他にしっかりあるんだから。


【5月18日】 戦争をしていた日本でも尋常小学校というものはあり、旧制中学というものはあって人々は学校に通っていたけれど「機動戦士ガンダム」の世界に果たして学校というものが出てきたかというとあまり記憶にない。アムロの家にフラウ・ボウがやって来る描写はあるけれどもそれは寝坊したアムロを幼なじみのフラウが迎えに来て、学校に遅刻するからとベッドから引っ張り出し、口にトーストを突っ込み家から叩き出すようないわゆるラブコメディ的お約束の展開にはなっていない。

 フラウが来たのは避難命令を教えに来たからであってアムロはすでに目覚めていて、家で電子部品をいじっていた。学校に通っていた風はないし、かといって日曜日でお休みだった様子もない。ハヤト・コバヤシは近所の隣人であって同級生という訳ではない。ならば「サイド7」には学校はなく、学制といったものが存在していなかったのかというとその辺りはやはり単に展開の上で不必要だからと削られたに過ぎず、地球に降りてからアムロが尋ねた女学院がすでにジオンの賛歌に入って生徒達が手に銃を持ち襲いかかって来るような描写が存在しなかったのも、展開に加えるには無理があったからに他ならない。

 あの世界ではいったいどんな学制が敷かれているのか。アムロはどんな学校に通っているどんな生徒だったのか。セイラやミライといったお嬢様な人たちはどれくらいの「ひみつの花園」に通っていたのか。考えてみると面白い。本編を通じて出てくる「学校」はシャア・アズナブルが通っていたジオンの士官学校くらいか。ガルマ・ザビとはそこで同期だったというから相当なエリートたちが通う学校だったのあろう。卒業すればだいたい少尉くらいに任官か。そこから少佐まで一気に駆け上がったのだとしたらシャア・アズナブル、相当にできる奴だったってことになるのだろう。氏素性も定かではないシャアが実力だけて成り上がれるくらいにジオンは在る意味で厳密だったということか。良い国ではないか。

 女子高ってのはそれだけで「ひみつの花園」であって男子禁制の壁の向こうでいったいどんな日常が乙女達によって繰り広げられているのかを、知りたい男子も多いだろうし知ってしまってそのあまりに解放されて四散しきった乙女の残骸たちに幻滅を覚えたりする男子も中にはいたりするのかもしれない。真実についてはまるで不明。女子高の教員にでもなって確かめるより他はなさそうだけれどそれには教員免許が必要だからなあ……って持ってるよ、20年くらい使っていないゴールド免許だけど。

 そんな「ひみつの花園」に集まり喋り過ごす乙女たちにとってさらなる「ひみつの花園」が在るらくって誰もがそこの万人になることを憧れるけれどもどういう選考経緯があるのか分からないまま入学した手の1年生の都野ナンナが選ばれてしまったから当人も吃驚で周囲は羨望、ちょっぴり嫉妬。中庭にある花園の「リスガーデン」。そこに生えている花たちを花ごとにお世話する役が「リスランタンプテフルール」でナンナはライラックを世話する「ライラック」に選ばれてしまう。

 向かうとそこには入学した手の朝に転んだところを助けてくれたちょっぴりボーイッシュで言葉は厳しいけれども内心は優しい先輩の桐宮ゆう子が。なぜ自分がという悩みも引きずり、祖母らしき人が前に「リスランタンプティフルール」だったことを知って血筋だけで選ばれたのかもしれないと疑ってもだえたりしていたけれども、桐宮先輩や綺麗な顔立ちをして言葉でちょっぴりイジってしまうのが大好きらしい桜マリィ先輩たちの導きがあり、また花たちのささやきかけのような不思議な現象にも助けられてナンナは「プティライラック」の責務を果たしていく。

 ライラックの花びらが廊下に散らばっていた事件の裏にあった乙女のちょっぴり欲張りだけれど当人にとっては真摯な悩みにライラックが答えたり、自分がなりたいと憧れて頑張ってきた「リスランタンプティフルール」を横からかっさわられたように感じている笹井さんの荒んで愛おしい心を映すように花びらが舞ったりと、起こる不思議な現象を通して多感な乙女たちの姿を描いていく連作集。紺野キタさん「ひみつの階段」にも描かれるちょっぴり不思議なこともある、ティルナノーグとしての女子高を花という素材を元に描いているようでああいった雰囲気に関心のある人なら読んで心惹かれそう。絵も美麗。キャラではやっぱり桜マリィかな。最高だもんなあ、ニコニコとしてグサッと衝く言葉を吐くところとか。

 生死をかけた真剣極まりない自分たちの戦いが、実は誰かによって管理され監視されている中で行われていて誰かを喜ばせているゲームに過ぎないのではないかという想像。これが行き過ぎると現実の歴史に起こった数々の戦いの裏にある秘密結社のようなものへの妄想へと至ったりするけれども、どこかの国の政策としてひとつの国内の異なる勢力がそれぞれに煽られ武器を持たされ、戦いへと突入していった例は過去に幾つもありそうだし、今のこの瞬間にだって行われていたりする。アフリカとかアジアとか南米とかバルカンとかで。

 ゲームとしての戦争。それを突き詰めて描いた作品として突きつけられて戦慄を覚えたのが永井豪さんの「真夜中の戦士」という作品。もちろん漫画で男が目覚めると戦場にいて馬の首をした奴らや、背中にロケットをかかえて一直線に富んでいく奴らが周囲に見方としていて戦うというストーリーだったと記憶している。どうして戦うのか、といった男の悩みはそのまま戦争へのアンチとなっていたけれども、そんな戦いの果てに敵の姿を見た時に己の意志とは無関係な場所で繰り広げられていたゲームのようなものの存在が浮かび上がり、操られる虚しさの呆然としつつそんな操られる身では自分はないとどうして言えるのか、といった懐疑が浮かんで悩みもだえた。

 個人としての主体もなければ総体としての主権もない、押しつけられるだけの戦いに身を置いた者の絶望感。その先にだったら人は何をすべきなのかといったところを考えさせてくれるのがGA文庫大賞の奨励賞を受賞したあわむら赤光さんの「無限のリンケージ」という本だ。舞台はどこかの都市。戦士が科学的な力を生み出す3つのアイテムを駆使して戦う「BTR」って競技に人気が集まる中でロバートという男は若いながらもなかな優秀で、ステップアップを果たして2部リーグまでやって来て、そこでも残り3試合を2勝1分けで乗り切れば、晴れて1部リーグへの昇格が決まるくらいの強さを見せていた。

 圧倒的でないのはロバートが剣による近接戦にこだわっていたから。そんな正々堂々の戦いを好むのは、彼がとある星にある小国で王に仕える騎士だったからなんだけれども、だったらどうして今、異星でプレーヤーなんかをやっているのかというと、それには悲劇とも言える過去があり、その悲劇にBTRという競技も関わっていたからなんだけれども不思議なのはそんな、遠くから自分たちを操り悲劇を演出したような競技に自分から入りこんで戦いに手を染めているってあたり。あるいは演出はしても根本にあったのは星を舞台に対立を繰り返した自分たちの落ち度という奴で、そこにBTR側はつけ込んだだけだといった割り切りをあと、稼げる金の多さから参加せざるを得なかったといった理由があったから、なのか。

 いずれにして心に相当のプレッシャーをかけてのぞんでいるのだなあ、それでいて平生は若い科学者のサクヤちゃんをからかってみせるロバートの鉄面皮。騎士という奴の底知れない強さって奴が伺えそう。果たして先は描かれるのか。そこでは母国に幸福をもたらすことができるのか。1部で当たるだろう敵の凄まじいまでの強さなんかにも興味深々。イラスト担当のせんむさんは「けんぷファー」の人か、きょろっとした目とよこにくいっと伸びが口が特徴的。今回のヒロインのサクヤちゃんもなかなかの可愛らしさだけれど16歳に見えるかなあ、16歳ってこんなもんかなあ。

 フリは一とあらしの掛け合いでも途中から潤とカヤを中心にして女性とは、恋愛とはといった展開へと持っていって言いたいことも言えないでいたカヤのような戦前の女性の立ち居振る舞いを見せつつ今の何でもあけっぴろげに語ってしまう現代の女性に対する潤の嫌悪を示しつつ、ならばカヤのように黙っているのが美徳なのかといった懐疑を潤に抱かせつつ、やっぱり今の何だって言えてやろうと思えば何だってやれる現代の良さを感じさせる流れが実にくっきり現れていて見ていてぐぐっと引き込まれた「夏のあらし」。セリフもシリアスなら絵柄も緻密で実にシリアス。とはいえ合間にグラサンの初めてのお遣いを混ぜて気分が沈み込むのをひき留めている巧さは昨今の新房昭之作品でも屈指のできばえなんじゃなかろーか。「まりあほりっく」とはまるで違うもんなあ。ブルーレイが出たら買おう。

 せっかくだからとオープニングの「あたしだけにかけて」もディスクユニオンで購入。驚くべきことに唄っている「面影ラッキーホール」のライブ映像を収録したDVD−Rが着いてきた。唄われているのは「好きな男の名前 腕にコンパスの針でかいた」で切なさのフレーズに重なるサウンドがメロディアスでファンクな「 あたしだけにかけて」とは違った魅力の一端を見せてくれた。この切なさで唄われる「パチンコやってる間に産まれて間もない娘を車の中で死なせた…夏」なんてきっと聴いたら泣け死ぬだろうなあ。自分に経験はなくてもそんな経験を持つ親の切なさなんかを思ってしまって。先週土曜日に幡豆郡吉良町で開かれた野外フェスティバルに出てたんだなあ。見てみたかったなあ。


【5月17日】 セイラ・マスがもっとも映えるファッションは何か、と考えてそれはだから「月刊アウト」に掲載された「悩ましのアルテイシア」に見られる衣装だと即答したい気持ちを脇に置き、真面目に考えた時に導き出されるひとつの答えが黄色いノーマルスーツでヘルメットを被りバイザー越しに顔がのぞく姿ではないかというもの。もはやファッションでも何でもない「機動戦士ガンダム」で標準の戦闘服だが、この姿でアムロが拗ねていなくなった後のガンダムに乗り込み蹂躙されながら焦り、呻く姿なり、Gファイターに乗り込み1本の操縦桿を握りしめ、激しいGに耐えつつ機体を振りまわす姿なりから放たれる悩ましさには、声が付いている分「アウト」のグラビアでもかなわない強さがあって心奪われる。

 テキサスコロニーで出会った兄のキャスバルを目で追いかけながら、砂塵舞う大地にへたりこんだ姿を横から捉えたシーンもなかなかなの悩ましさ。「新世紀エヴァンゲリオン」のプラグスーツに見られるあからさまに体の線を外へとくっきり映し出すようなタイトさはないものの、カイ・シデンが着てもハヤト・コバヤシが着てもそれなりに体型を外に出すくらいには体にフィットする素材が、セイラ・マスの場合はスレンダーながらもしっかりと整えられたボディラインを描き出していた。真横から見たシーンではだから胸部に臀部の丸みが線となって現れていて、これまた幼い頭に官能を芽生えさせるきっかけとなった。

 あとはいつものピンク色の制服で白いタイツ風のパンツを履いた姿も悪くはなかった。シンプルだが質素ではないその立ち姿。あるいは中の人のキャラクターが服を通してにじみ出ているだけなのかもしれないが、そうした人格を覆ってなお特質を抑えない「ガンダム」のファッションデザインというものには、やはり素晴らしいものがあったと言えるのだろう。大きく時代が下がって「機動戦士ガンダムSEED」や続編「DESTINY」になると、ラスク・クラインやミーア・キャンベルといったお姫さまが出てきて派手極まりないファッションを見せてくれるものの、その華美さに反してファッションが心に深く刻まれるということはあまりない。人馬一体ならぬ人服一体。どちらが駆けても足りないのだということなのだろう。

 これは良い。素晴らしい。GA文庫大賞で奨励賞を受賞した速水秋水さんって人の「純愛を探せ!」がとってともとっても面白い。話はまあ普通。姦淫と虚言にかけては魔界でもトップクラスにあって天使を相手に大暴れして来た魔神カルマは大魔王の覚えも目出度く娘のレイナからだて求愛を受ける身に。これでとてつもない顔立ちだったらまだしも魔界にあって誰よりも美しく天使だって見ほれるくらいのレイナ王女の求愛をカルマは恐れて逃げ出そうとする。何故ってそりゃあ誕生日のお祝いにと蠢く触手の束を送りつけられその退治に天使すら何人だって倒せそうな力を使わされたんだから溜まらない。何より長い姦淫と虚言の日々に、誰かを力でもってねじ伏せる暮らしが嫌になっていた。

 純愛したい。純粋な愛がしたい。ってことで魔神カルマは召使いみたいなリビエラとともに地上に降りて純愛探しを始めようとするものの、そんな純愛なんて生まれてこの方5億と3000万年だかしたことがないカルマ。どうすりゃいいのか分からないなあと漂っていたところで圧巻に絡まれていた少女を見つけて胸どっきゅん。助けたい。いたわりたいと思ったそれが恋心って奴なのか、光楼院カナデというその少女に結婚したいとその場で告げてはごめんなさいと謝られ、放心していたところをリビエラに1度で諦めるのかと叱咤され、そこで強引に行かなかったからこそ純愛はまだはぐくめるのだと諭されカナデが通う学校へと入学し、同級生として始めようってことになって乗り込んでいく、女子高へ。

 ってな感じに始まった魔神カルマの純愛奪取作戦は天使の側に経つキアラってカナデの幼なじみらしい少女の邪魔は入るは、カナデ自身にも許嫁がいてそれがとことんいい奴だわと障害は多々。とりわけ婚約については没落気味で格式も低い家を救う起死回生の策だと家族も後押ししており、さらに裏え天使の企みなんかも動いていて早々には解消が不可能。けれどもそこで1番大切なのがカナデ自身の心持ち、ってことでとっても良い奴な婚約者がその良い奴ぶりを発揮して、どうにかまとまりかけてさあいよいよって時になって最悪にして最凶の災厄が訪れる。レイナ王女。カルマは果たしてカナデと結ばれるのか。それともやっぱり無理なのか。

 ってな感じの展開が、軽妙な語り口と巧みな会話でもって綴られぐいぐいっと読みされる。ギャグもあるけどいたずらに走らず内輪ネタとか時事ネタとかに取り込まれないでスムーズに流れていくから辟易とはさせられない。冒頭の『真実の愛を探しに人間界へ旅立ちます。探さないで下さい−カルマより。』「何でしょう? この頭の悪い中学生並の文章は? 実に不快です。ビリビリ」「うわあああああ! 俺が一晩かけて書き上げた書き置きを八つ裂きにするな!」という書き出しからして味がある。ごくごく普通に見えて妙に引っかかる面白さ。リビエラに口で「ビリビリ」と言わせている辺りから醸し出される妙さが全編を通じて漂い、純愛だなんてものを追い求める中学生並の青臭さが出がちな物語に辛味を与えている。

 キャラクターの造形もどれもしっかりしていて無理がない。イラストも美麗。とくにレイナ王女。どうして素直に惚れないの? てカルマに聞きたくなるけれど、触手大好きで乱暴者ではなあ。でもまあそこはそれ、お姫さまならではの純粋さって奴がカルマへの思いに重なってああいった態度を取らせたんだとも理解できそう。そう、彼女も純愛を貫こうとしていたのだ。なんてね。けどまあ魔王の教育も入ってちょっとは人間並になってくれそうで、そんなレイナ王女が加わって始まるだろうカルマ争奪戦の第2幕に新たに絡む存在はあるのか、天使あたりが何かをやって来たりするのか。楽しみだけれど果たして続刊、あるのかな。

 せっかくだからと純愛を探しに浦和駒場スタジアムへ。躍動するスポーツ女子の姿に純粋な汗って奴を見て堪能しよーとしたけれどもそこは首位近くを走るベテランチームだけあって浦和レッドダイヤモンズレディースは、風上に立った前半も風下に下がった後半も変わらずしっかりとボールを回して送り込んでは張りし込んだ選手が打って得点を重ねてジェフユナイテッド市原・千葉レディースを撃破。3点を奪われた日テレ・ベレーザ戦を上回る4失点でさすがはディビジョン1に長く名を連ねる強豪の底力って奴をあらためて見せつけられた。

 攻撃しようにも攻め手がなかった前半の半分くらいは回されバイタルを制圧されて良いところなし。それでも途中からゴール前へと迫れるようになり、後半もそんな勢いが出ていたんだけれども1点を追加されて意気消沈。そのまま試合終了になってしまった模様。余りの風の強さに途中で引き上げたんでそこまでは見ていないけれどもスコアからすれば最後に見た失点で一応はくい止めたみたいで、5点7点を奪われるような事態は避けられたみたい。でもやっぱり1点も奪えなかったってのはちょっとなあ。まあ今期は1部に上がったばかりなんで上位と当たる中で相手の出方を見て詰められるところは詰め、最終ラインでは不用意に持たせないよう気を引き締める訓練を重ねていけば、2クール目からは立て直して負けないまでも引き分けられるくらいの戦いは演じて行けるだろう。期待。ジェフ千葉側を追いかけているフジテレビのカメラがあったけれども石田美穂子さんの追いかけか何かか。代表候補にもなったロッカー選手、って筋書き的に良いもんなあ。

 神戸あたりでは日テレ・ベレーザとINACレオネッサとの試合が中止になったみたいで試合数が少ない状態が続いてどこが1番かを量るのがしばらくは難しそう。これでこのまま流行とやらが全国レベルへと広がりあらゆる会合が制限されたらいったいどーなってしまうのか。野球みたいな室内でドームの中に5万人とか集まるゲームなんて真っ先に中止ってことにされそうだよなあ、屋外のサッカーですらこの状況なんだから。今はまだ1人の死者も国内では出ていない状態で、派手に騒ぎすぎているって印象あってこの状況が感染者の拡大とともに全国へと広がっていったら、いったいどうなるんだって心配もうかんで来る。

 あまりの過敏な反応の連鎖に、これでは経済活動が麻痺してしまうと訴えて、大阪府の橋下知事が普通のインフルエンザへの対応と同等に切り替えるべきって言っているのも分かるけれどもそこはそれ、1人でも死者が出た日にやあ世間の騒ぎはさらにバーストし、是正を求めようにも大声に消されて右へ倣えとあらゆる活動が自粛へと追い込まれそう。選挙だって人が集まるからって中止にされかねないよなあ。会社は果たして休業になるのか。それより以前に他の理由で休業になったりするところもありそうだけれど。お陰で家から出なくなって感染せずに済みました、って後で感謝の言葉の1つでも出たりして。


【5月16日】 アニメーションのような場所でゲリラなりレジスタンスが登場する時、それは弾圧的な権力に逆らっている身でありながらも弾圧に抗するために拠り所にした思想なり大義なりが逆に独善的な権力となって組織を縛り硬直化させる愚劣な例として描かれる場合が割とあって、そうした大人たちの事情に触れて次代の子供たちは権力に阿らず、かといって反権力に凝り固まることなく中道というかリベラルというか、真っ当にしっかりとした道というものを探り進むように諭されるものだけれども思いだして「機動戦士ガンダム」にそうしたゲリラ、あるいはレジスタンスは出てきたのだろうか。

 「機動戦士Zガンダム」の場合はエリート集団のティターンに対抗するエウーゴが一種の反乱組織として機能しつつ主役となりつつもエウーゴといったいどこが違うんだといった感想の中に真実を見る目を養わされたような気もしないでもない。そうした両者への反発がシャア・アズナブルにジオンの復活を決心させて後の「逆襲のシャア」へと至らせたとも言えないでもないけれど。ともあれ振り返って「機動戦士ガンダム」には括る巣・ドアンのようなサボタージュはあっても、明確な組織だってのレジスタンスは出てこなかったのではなかったか。

 それは多分に時間的な制約でそこまで描く余裕がなかったからだろうと想像できるが、一方に宇宙よりの侵略者でありながらも弾圧なり独裁といった施策で地球を圧迫した訳でもないジオン公国に、レジスタンスを組織し挑む大義が見えにくかったこともあるのかもしれない。出すとしたら例えば「サイド6」に中立を良いことに入りこんできた反乱勢力が爆弾を持ち込み弱腰のサイド6もろともジオンの高官を暗殺するといった具合になったのか。ストーリーが全部で50話に届いてたらそういったものも出ていたのか。いややはり無理がある。あの世界では抗するほどに切実ではなく、また栄華も短かったと考えておくのが良さそうだ。

 歴史に名を刻む反乱なりレジスタンスといったらナチスドイツに抗するフランスの抵抗や、やっぱりナチスドイツに対するユーゴスラビアのパルチザンといったものになるのだろうか。マスード率いたアフガニスタンの北部同盟のようなゲリラとほぼ同義語のレジスタンスもある。中国の後漢に対して反乱を起こした黄巾のようなものは一揆と呼ばれる方が似つかわしいのかもしれないけれども規模の大きさと残した影響の大きさから考えるならフランスの自由フランスやユーゴのパルチザンにも増して歴史に名が刻まれるレジスタンス、あるいはゲリラ活動だと言えるのかもしれない。

 そのスローガン「蒼天已死 黄天当立 歳有甲子 天下大吉」はすなわち蒼天に象徴される漢王朝は既に死んでおり、そこに黄天がなりかわって既に立ち上がった。年は変革を促す甲子であり、天下は大吉だよといった呼びかけであって体制内においてこれを大っぴらにするということはすなわち反旗を翻す用意があるぜって意味なんだろうけれども浅学非才な身ではそうした大それた意味があるとはつゆ知らず、前に「デザインフェスタ」で赤兎馬って三国志グッズを専門に扱う店が出していた、そうしたスローガンが背中に1本に描かれたジャージを着てうろちょろしていたのをもしも見られていたとしたら、明日にも首がすっ飛んだかもしれないなあ。そういやあカラーは青だもんなあ。まあいいそれで黄巾が万円したとして、問題は数年で黄巾が終息した後に台頭する三国の英雄が見えないってことか。霊帝未だ退かず。

 背にそんなスローガンを引っさげ「デザインフェスタ」の会場を闊歩。さべあのまさんが奥さんを務める(どういう表現だ)伝陽一郎さんの犬のフィギュアをまず見物。前に「東京コンテンツマーケット」で拝見した時は数も少なかったけれども初出店となったデザインフェスタに向けていろいろと仕込んで来たみたいで数も増え、愛嬌も深まっていて集まってくる人たちの強い関心を惹いていた。造形の巧みさはすでにプロ級。もともとがイラストの世界から来た人なのに造形もやらせてこんなに上手いのはなぜなんだ。ようやく型どりから複製のテクニックも身につけたようだけれど大量生産はさすがに無理。かといってデザインフェスタで売って儲かるものでもないので企業には独特の犬キャラをカプセル玩具なり何なりに採用することを密かにお願い。これ良いって。

 ちょろりと歩いて毎度お馴染みなカエルフィギュアの鎌田光司さんのところを見学。やっぱりなかなかの人気ぶり。脱サラして4年目くらいで50歳になっていよいよ道も造形中心になって来たみたいなだけにここが飛躍の大きな年って印象。雑誌の連載も始まっているそうでここからその造形力が何かに採用されるなりしてくれれば一昨年くらいから応援して来た甲斐もあったもんだ。っていうか既にデザインフェスタではメジャーな風格さえ漂っているみたいんなんだけど。夏には再開なった「ワンダーフェスティバル」にも登場とか。タイプは違うけれども造形魂のこもった作品だけに注目、集めて欲しいなあ。

見かけたらパリでローマでモロッコでメキシコでおこえがけえ  こっちは脱サラというより定年退職後の腕に職探し道が極まった入江廣相さんは定年前から自宅裏の竹藪から切り出した竹を使って虫なんかを作り始めたらこれが評判に。定年退職を契機に本格的に初めてからまだ7年ほどしか経っていないんだけれど昆虫類からバッタ類の似っぷりはプロの竹細工師の域。でもって最近になって始めたのがトンボでそれもただそこにオブジェとして置かれるだけじゃなく、先端のフックをちょいとかけると羽も動態もバランス良く水平になって枝の先っぽに止まっているような感じになるってところが目新しい。尻尾を細く羽から先に重心が向くようになっているからこその水平。考えるだけでも大変だけれどそれを作ってしまうんだからもっと凄い。デザインフェスタは5回目と中堅の域。けど67歳でこれは流石に賢者の域。伝さんも鎌田さんもオーバー50だけれどその上を行く人もいる様を見るにつけ、始めるのに遅いってことは絶対にないのだと思い知る。

顔で笑って帽子で激怒して、って時にお勧め。色も豊富でチームカラーに逢わせてどうぞ、と。  もちろん若い人だって頑張っているようで重盛守道さんって28歳の人は名古屋の芸大を出てからしばらく販売の仕事をしていたけれども一念発起しアート活動を初めてオリジナルのフィギュアを作り、ブラウニーさんって自分をモデルにした人形を旅先へと運んで写真を撮って歩く活動を始めたそうでそれをエジプト旅行でやり、沖縄への展覧会行でやってそしていよいよ6月から世界一周の旅でやるんだそうな。仕事を辞めてアートに絞り1本立ち。それもバックパック1つでの世界行き。やったところで先人もいそうなコンセプトなだけにどこまで受けるか分からないけど、その心意気に惚れました。頑張れ。イランイラクにアフガンだけは近寄らない方が吉だけど伺うとそっちは避けてまずはイタリアから。見かけた人はお声がけを。

 でもって33歳の運送業に従事する兄ちゃんが32歳の保育士の奥さんとこれがやりたい、やってみたいと仕事の傍らで立ち上げたのが「GEKIDO」って帽子のブランド。GEKIDOとはそのまま「激怒」のことで漫画なんかで起こった時に額にうかぶ斜めな井げたが額の斜め上のところに太くこんもりと刺しゅうされたキャップを作って売っていた。見て大笑い。あと押し出しの強さに興味を惹かれ話を聞いてついでに黄色いキャップを購入。もちろん最近ふがいない黄色いユニフォームのチームの試合に被っていって激怒しているんだというところを示しつつ頑張りを促すためのもの。なんだけれど自分、てんで帽子が似合わへんああ。

 普段はネットなんかで販売しているみたいだけれどもその割には大量の箱を持ち込み在庫も用意し商売熱心。大丈夫か。でもこれをトレードマークにした芸人さんとか出てきたら一気にオモローな品物として火が着きそう。どっかのテレビで取りあげられたら良いのになあ。それにはまずは新聞か。頑張って紹介してみたいなあ。井げたが後頭部に小さく1つでフロントにはローマ字の筆記体で「Gekido」と描かれたバージョンもあるんで、おとなしめなのが好きな人はそっちを選ぶのが吉か。タータンチェックなバージョンを指して「神戸」とはよく言った。大阪もんにはやっぱり神戸はスカしよってるってこっちゃなあ。明後日も仕事だそうで1日で撤収とか。行って良かった「デザインフェスタ」。明日はさてはてどーしよー。行くといろいろ買っちゃいそーだしなあ。


【5月15日】 振り返ってみれば「機動戦士ガンダム」には、およそ“お約束”といったものが混ぜられていなかった。宇宙人や怪獣やロボットが日本ばかりを襲うお約束はストーリー展開からあり得ないし、ピンチに際して普段は酒飲みの博士が「こんなこともあろうかと」と言って秘密兵器を渡したり、挫折したライバルが顔をマスクで覆って臥薪嘗胆、鍛え直して最強の敵となって向かってくるような展開もなかった。マスクを被ったヒーロー自体が「ガンダム」のシャアを半ば発祥として「聖戦士ダンバイン」の黒騎士へと受け継がれ、「機動戦士ガンダムW」のゼクス・マーキス辺りへと流れていくものだからそれも当然だが。

 キャラクターに関するお約束では眼鏡っ娘はおらず、グラマラスな女医も出てこず、ドジっ娘も寡黙娘も男勝りのやんちゃ娘の出てこない。いわんやメイドをや。存在するのはセイラにしてもミライにしてフラウ・ボウにしてもそこにいて不思議のないキャラばかり。マチルダにしてもララアにしても”お約束枠”といったものとは違ってごくごく普通の流れで現れ、主人公に絡んでそして散っていった。成長を促す年上の女性に運命的な出会いをしながらも引き裂かれてしまう少女といったモチーフもまた「ガンダム」を半ば発祥としているところがあるだけに、これもまた当然のお約束キャラの不在と言えるだろう。

 もしも「ホワイトベース」に眼鏡つ娘のオペレーターがいたら。船内を掃除して回るメイドがいたら。コックのタムラが太ったおっさんではなく切符の良いおかみさんだったら。ガンキャノンを操縦するカイ・シデンがニヒルでグラマラスな美女だったら。そうしたキャラの入れ替えはせずともセイラとミライとフランにキッカまでもがアムロに密かに恋心を寄せる乙女たちに描かれていたら「ガンダム」はとんでもなく変わった内容になっていだろう。

 とはいえそこは富野喜幸監督だけに、後に「戦闘メカザブングル」でキャラの配置にハーレム的な“お約束”をぶち込みながらも未来に生きる人類を描いた壮大なスケールの作品を作り上げたように、染み出るドラマを持ったアニメに仕立て上げただろう。よりシリアスに振られた「THE ORIGIN」の後はよりコミカルに振られた「THE OUTSIDE」を誰かに描いて欲しいもの。トニーたけざきがベスト、かやはり。

 メイドでなおかつ眼鏡つ娘というキャラクター性としてのお約束に加えて、「スケバン刑事」から流れるメイドに見えて実は潜入捜査官で凄腕の格闘家だったというお約束も重なって笑いを呼びつつマニアを引きつけた早見裕司さんの「メイド刑事」が、あろうことか実写のテレビドラマになって登場するとか。演じるは「ヤッターマン」の実写版で2号さんを演じた福田沙紀さん。本当なのかどうなのかは不明ながらも(字が違うし)、名前の由来は「スケバン刑事」の麻宮サキだったというからこれは天佑。演じないではいられるかって感じで役を引き受け撮影にのぞんだに違いない。

 繰り広げられるのは手にした20キロのクイックルワイパーを振りまわし、立ちふさがる正義の敵を「メイドの一里塚」から地獄へと叩き込んでは手に「メイドのみやげ」を持たせる感動のシーン。とはいえ中森明菜を好んで聞く、どこか影があって職務に真面目で上司に絶対的な忠誠を誓う若槻葵はヤッターマン2号とは正反対。2号さんがハマり役だった福田さんに果たして勤まるのか。音楽に中森明菜は出てくるのか、等々の興味も漂う。さてはてどんな内容になるのやら。これがライトノベルから実写として展開されるんだからそのうち「涼宮ハルヒの憂鬱」も実写化されたりして、平野綾さん主演で、ってそれで良いのかどうなのか。できれば「狼と香辛料」なんて実写化して欲しいよなあ、尻尾が根本まで見えるホロももちろん実写で、さ。

 ジョニー刈りなのかジョニー狩りなのか。どっちにしたって痛そうなのは黒羽の姉さんが手にした葉巻が真ん中からすぱっと切断されたシーンの切れ味からも想像できそうだけれど、問題は葉巻程度を切る道具に大杉くんのそれは果たして収まるのか? ってことろか。あれで身長は結構高いってことだから当然にジョニーもぶっといはず。下手したら女性の手首くらいあったって不思議はないそれをシガーカッター程度ですぱっとできるのか。そもそも穴に入るのか。

 そんなあたりが実際に描かれるシーンを期待したいけれどもさすがにテレビでは無理だよなあ。「東のエデン」」の第6話。そんな大杉くんと向かい合ってる黒羽さんのお尻が何とも丸かった。女性のそれもややユルみかけたグラマラスな人のお尻を見事に再現している。男性とは絶対的に違う形。丸み。しっかり描けるアニメーターがいるってことか。先週のベッドから起きあがる黒羽も実に悩ましげなボディラインだったし。

 でもって森美咲は岸壁だか埠頭でもって滝沢朗にすべてをぶちまけて朝帰り、ではなくちゃんと夜帰り。みっちょんだかの家まで行って借りたジャージが実にエロティックというか小さいみっちょんのを借りているからおへそとか背中とかがのぞいて見えてなかなかに良い感じ。そんな恰好で大学まで来て滝沢の住む豊洲のららぽーともどきへと出向いたとしたらあれでなかなかに大胆だなあ。でなきゃあ姉の旦那に恋慕なんかしないか。

 ようやくしっかり登場して来たみっちょんは、毒舌と人見知りが同居する複雑ちゃんだけれど滝沢の前では普通に振る舞えるみたい。やっぱり不思議な奴。ってことで牛丼をぶっかけるオヤジを慌てさせるべく立ち上がった滝沢&東のエデンチームの戦いやいかに。でもって大杉くんに救いの道は開かれるのか。残り5話でいったいどこまで片づくのか。映画の公開はいつなのか。1年先まで楽しませてくれそうだなあ。それもなかなかにしんどいけれど。1年先とかまるで展望描けないし。あるいはニートとなって作品世界にどっぷり感情移入できる身になっていたりとか。うーん。いやしかし。うーん。

 ちゃんと続いていたんだなあ「小学館ルルル文庫」は。新人として鮎川はぎさんって人が「横柄巫女と宰相陛下」で新登場。横柄っていうか単に口べたでボキャブラリーが足りず間をすっ飛ばして喋るもんだから誤解を招きやすい巫女が働く神殿に、やって来たのが王の候補をその兄で宰相なんかをやっている男と2人の叔父とそれから王の候補を支える貴族。弟なのに王になるのは健全で健康でないと王になれないって決まりめいたものがあって、その点で兄は手にやや不自由なところがあったというか不自由にされてしまったため、王にはならず宰相として実力を発揮する道を選んだ。

 それが弟には気に入らないようで、何かあったら兄の宰相を排除しようと目論んでいたところに就任の儀式が行われることになってやって来た神殿で、お付きの貴族の妹をパートナーの巫女に選ぶとともに兄の宰相をどうにかしようと画策。パートナーに選ばれる巫女から目障りだと思われていた横柄巫女と兄の宰相とが密会している場面をでっちあげては2人を追放しようと画策するも、そんな2人が行方不明になってしまったから驚いた。どこに行ったのか。それは読んでのお楽しみってことで2人が冒険を経て得た新たな立場のその先に、広がるだろう素晴らしい世界に期待。とりあえず横柄巫女をずっと信じて助けようと駆け回った少女が1番のヒロインだ。


【5月14日】 宇宙世紀が使われている「機動戦士ガンダム」は果たして現実のこの世界の延長線上に位置する未来なのか、といった問題については宇宙への移民が始まった年をもって西暦から宇宙世紀へと移行したという説明がなされている以上、延長線上にあるのだろうと想像できる。ただしアメリカ合衆国なり日本なり大英帝国なり中華人民共和国といった国々がそのまま延長線上の姿として登場している風はない。ならばまったく架空の歴史を有史から辿って至った未来なのかというとこれが難しい。

 デギン公とギレン・ザビが会話していた場面でデギンはギレンに向かい「アドルフ・ヒトラーを知っているか」と尋ね、「おまえはヒトラーのしっぽだな」と揶揄する言葉を掃く。現実の歴史に登場する人物が「機動戦士ガンダム」の中で記憶によれば初めてで、そして唯一登場する場面でこれを持って「ガンダム」の歴史の上にはヒトラーによるドイツ第三帝国が存在し、そして独裁の果てに討ち滅ぼされた過去がしっかり刻まれていると言える。その先の冷戦構造がどうなったか、そして地球連邦はどうやって誕生したのかといった説明はなく、GMやソニーやディズニーといった企業が宇宙世紀にどう移行していったかという記述もない。

 あるいは「ガンダム」の中に姿を変えてこうした企業が何かしらの影響を残していたりするのかもしれない。アナハイムを本拠地にするディズニーから、アトラクションで使われているさまざまなサイバネティクスの技術を移転してアナハイムエレクトロニクスが誕生した、とか。ジオンの技術はだったらメルセデスあたりの技術で、コロニーの太陽電池はサンヨー製、とか。もっともGMですら破産を余儀なくされるくらいに経済の世界は変化が激しい。宇宙世紀に入るまでこうした企業が保つという保証はまるでなく、まったく別の新興企業が発展していったと見るのがここは正しいのかもしれない。

 宇宙世紀01年が西暦でいったい何年なのかという明確な設定はないという。前述のように宇宙移民の開始をもって宇宙世紀へと移行したという説明はあるものの、それがいったいいつなのかは、未だ移民など始まっていない現時点において答えることは不可能だ。あるいはアポロ11号が月面に人類を送り込んだ1969年をもって移民への第1歩と見ることも可能だが、それが正しいといった設定もないためあとは想像に任せるより他はない。

 もっとも1969年を元年とすると「機動戦士ガンダム」の舞台になっている宇宙世紀0079は40年後にはやって来る。そんな時代にコロニーが幾つも建造されて何億人もの人類が宇宙へと赴き国家が立ち上げられて反乱が起こり戦争へと突入する中で「ガンダム」が生まれニュータイプが誕生する、とはやはり思えないだけにここは未だ訪れない宇中世紀を思いつつ、人類が宇宙へと羽ばたく時を待つしかなさそう。「機動戦士ガンダム」が宇宙を駆ける時代はだから、それよりもずっと先になるのだろう。生きている間に会えるのか、僕たちは「ガンダム」に。

 そして第6話まで来て完璧さの中に「涼宮ハルヒの憂鬱」は幕を閉じて……はいないんだよなあ、小説的にもアニメーション的にも。アニメはここまで来る合間に孤島症候群やら何やらが挟まってオリジナルも2本ばかりあった上でのエンディングだったためにその後って奴を見せられつつもその前の、退屈な毎日に飽き飽きとしていたハルヒがすがった異空間への脱出をどこか心惹かれるものがあるキョンの渾身の説得によって踏みとどまり、元の世界へと戻ってお好みのポニーテールにしてみせたってエンディングにラストに見えてああ良かったねって雰囲気で幕を閉じれた。小説はそれが1冊で終わって完璧な物語だったと感動できた。

 が。現在放映中のアニメはその後が続く。何が続くんだろう。孤島か野球かネトゲかライブか冬のストーブ引き取りか。どっちにしたって後付けっぽい印象にしかならないストーリーが幾つ重なろうともラストにこれで終わりって印象を抱くのは難しい。DVDだってそんな順番で出たじゃんか、って言えば言えるけれどもテレビで感涙にむせんだ後でのDVDなんておまけみたいなものだからそうした余韻は気にならなかった。今回はこれが初見って人もいっぱいいそうな再放送。でもって後に余韻が続きまくって果たして前みたいな感動を得られるのかどうなのか。新作があっても状況は同じって気もするけれどもあるいは誰もが初見の映像が続くことで違った感動って奴が生まれてきたりするんだろうか。成り行きにちょっとばかり注目。にょろーんとハルヒちゃんが続いたりしたらひっくり返るけど。

 でもってこちらはすべてが初見な「鋼殻のレギオス」はレイフォンの嫌な奴っぷりが増加気味だけれどもテンパってるってことなんだから仕方がない。フェリも半ばコクり気味。けれども何故かすっとばされたニーナと落ち合ったリーリンがやがてツェルニへとやって来てはレイフォンとよりを戻してそして起こる十重二十重の争奪戦。いつまでも我感せずって面もしてられなくなるレイフォンの、最後のクールさだとここは温かく見守ってあげよう。しかし強いなあレイフォン。人間じゃないってどーゆーことなんだろう。文字通り? でもってニーナはいったいどうなったんだ。たどり着いた都市でニーナの頑張りを助けつつニヤリと笑った野郎の腹は何色だ。淡々として外連味はないけど素直に見ていて楽しめるアニメーション。相変わらずモノクロで英語なシーンの繋がりが分からないんだけど。英語勉強しておけば良かったかな。

 マガジンとか「SPA!」とかやってて新作が読めない最中でもちょろちょろとは読んでいかないと「ザ・スニーカー」が回ってくるんで手に取った木下半太さんって人の「東京バッティングセンター」(幻冬舎)が妙に面白そう。歌舞伎町でホストをしているタケシは吸血鬼で、客の女性の血が吸いたいんだけれども下っ端なので吸えずに悶々。そんな時にナンバーワンホストが刺される事件が勃発し、犯人というサンタの衣装を着た女を捜しに出た先でやる気のない先輩ホストに誘われ入ったバッティングセンターでミニスカサンタのナタリー・ポートマンみたいな美女をみつけて、この血が吸いたいと見方についてホストたちと一悶着を起こした果てに実は復讐屋だった彼女の子分のような立場になって起こる事件に挑む。

 さらに彼女にも秘密があってといった感じの連作は展開も愉快で街の描写も豊でキャラも立っててとっても読ませる。真藤順丈さんの「東京ヴァンパイア・ファイナンス」(電撃文庫)とは何の関係もないんだけれども比べてみたくなるなあ。あとやっぱりバッティングセンターに行ってみたくなるとか。実写映画にするとしたらタケシはやっぱりモデルとなった金城武さんが演じるとか、ポートマン似の雪美嬢はやっぱりそういうのが得意そうな栗山千明さんあたりになるのか、新しいところでスタイル抜群な山田優さんに演じてもらったらどうとか思ったけれどもとりあえず、バッティングの腕前だけは磨いておく必要がありそー。続きを読もうとっとと。


【5月13日】 洋画のカタログが1枚1980円とか2枚なら1枚980円とかいった価格でならんでいたりする現実を見るにつけ、1980年に公開されて幾度もパッケージ化されて来た劇場版「機動戦士ガンダム」の3部作がそれぞれ3000円という値段設定はまだまだ高いといった気はするものの、新作のアニメーション映画がDVD化されればやはり5000円はしている状況を鑑みつつ、数年前に公開された劇場版の「機動戦士Zガンダム」3部作も含めてオール3000円という値段は、それなりに頑張ったといって評価して良いのかそれとも。

 バンダイビジュアルから7月に「ガンダム」関連の劇場版DVDが1枚3000円でリリースされるという情報。新しめの新版「Z」と30年前から別にリニューアルはされていない劇場版「ガンダム」が同じ値段で良いのかという疑問も浮かばないではないけれど、今年迎えている「機動戦士ガンダム」の放送開始から30周年を記念したリリースで、だからなるほど30という数字にこだわり3000円という値段で揃えたのだろうという想像も成り立つだけに悩ましい。かといって3部作セットで3000円では流石に安すぎる。しばらく前に18900円でボックスセットが出たものをバラして各3000円にしたのだと考え、半値になっていると思えばむしろやっぱり安いのだと納得も出来そう。反応やいかに。

 歯が抜ける夢を見る時は心にストレスがあってすべてぶん投げてしまいたいけどできない苛立ちにモヤモヤとしているとかいった、夢解釈なんてものがあったりしたけどここんところ見る夢は、見ている間は分からなくっても起きた直後にちょい振り返ってこれなら見た理由も分かるなあってものが多くって、いろいろと思い悩んでいたり引っかかっていたりすることが覿面に現れていたりして、どうしたもんかなあと気持ちを焦らせるけれどもすぐに夢ごと忘れてしまってそのままになって、しばらくしてまた似たような夢を見たりする繰り返し。長く生きていりゃあ溜まる記憶も増えるばかりで、重要度の低い順に脳の奥へとしまい込むんだけれどそれが眠っているうちにこぼれ落ちて来るんだろう。やっかいだけれど仕方がない。

 梨木香歩さんの新しい長編「f植物園の巣穴」(朝日新聞出版)はそんな埋もれさせた記憶が沼地のようにしみ出してくるような物語、ってことなのか。とある植物園で働いている男が歯痛に耐えかね歯医者に通うようになったけれども、どうも藪医者というか奇妙な医者で腕前はもとより手伝っている奥さんが実は犬だったりしてそれもあたふたすると犬になるそうで、治療の時に犬になっていたりするのを見るにつけいったい治療はまともに進んでいるのかと不安が募る。

 そんな医者でも歯痛の治療が続いている間は通わなくちゃいけないと、出かけていったりするうちにどうやら世界がとろけはじめて勤め先の植物園にある水辺の手入れなんかをしているうちにどこか異界へと紛れ込んだらしくナマズの神主らしきものが現れカエルらしきものが泳ぎ、いなくなってしまったお手伝いさんの千代と胎児を抱きつつ死んでしまった妻の千代なんかに行きつけの洋食屋のウェイトレスのこれまた千代さんだかが絡んだりしつつ子供になってしまった自分をどこかの子供がいざなっていく。そんな夢の道行から見えてくるのが埋もれていた記憶、というか忘れたい忘れてしわなくちゃいけないと過去のどこかに埋めてしまっていた記憶で、椋の木のそばにある巣穴で目覚めた主人公はお手伝いの千代の行方も死んだという妻の千代の行方もすべて思いだす。

 どこからどこまでが夢の中でどこからが現実なのか。最初っからもしかしたらすでに夢中にとらわれていたような雰囲気すらあって繰り出されるエピソードにキーワードのすべてにあるいは意味があって、それらが現実とどう結びついているのかを想像するのが楽しそう。夢から覚めて迫ってきた現実は果たして主人公にとって嬉しいものだったのかそれとも逃げ出したくなるものなのか。きっとすぐさま綺麗さっぱり忘れてしまって現実を都合良く受け入れていくんだろうなあ、それが年寄りの特権って奴だ。描かれる植物園のイギリス風っていうか日本の庭園とは違って種々雑多な樹々草木があふれかえった様子が、日本とはまた違って自然にスピリチュアルなものを見たがるケルト的英国的な観念を感じさせる。「沼地のある森を抜けて」とも重なる、梨木さんの自然観があふれた幻惑的な物語。再読しつつ自分の記憶をおさらいしてみよう。

 年を取ると涙もろくなるというか、年を取るにれて知りあいが増え、それぞれに人生があって家族があるんだと気づき、自分にも家族ができて家族の有り難みを実感できるようになったりして、そんでもって事件や事故が起こったとき、若い頃だったら自分からは遠い話しと認識して「ふーん」と受け流していたものが、年をとると被害者の家族の誰かが悲しんでいる、怒っているといった想像が敏感に働いて、別に自分のことでもないのについついもらい泣きしてしまうものらしい。

 5月21日からいよいよ始まる裁判員制度って奴は、日本中の人たちを、そんなもらい泣きの渦にいきなり叩き込んでしまうようなものかもしれない。法廷で被害者の家族が怒りに叫んだり、被告人が号泣して反省の言葉をしぼり出し、そんな姿を老母が見つめる姿を目の当たりにして、もらい泣きみたいな感情に左右されないで、法律にのとっとって冷静に判断を下せるものなのか。調書を聞かされ加害者の実は悲惨だった生い立ちなり境遇なんかを知って同情心を覚えないでいられるのか。テレビの向こうにある事件にだったら気分に流され他人事のように白黒はっきり付けられる若者だって、裁判員の現場に入って伝わってくる生の激しい情動に、たぶん平静ではいられないんじゃなかろうか。

 これが裁判官なら、検事なら、弁護士なら仕事だからという砦を心に築いて割り切れる。法律の条文と過去の判例に照らし合わせて判断を下して良しと納得できる。そういう職務にある人たちだからと周囲も見なす。怒ることだってあるけれどもそんな怒りに法律をかざして我慢できる。でも裁判員にはそうした職業意識なんて存在しない。法曹に就く選ばれた者だからって自尊心によるガードもできない。それでいて事件に判断を下さなくちゃいけない。恐喝されたと告げ口して自分を刑務所に送った男を出所してすぐに刺し殺した事件とか、暴走族を抜けようとした少年をリーダーが仲間2人とともに暴行し、放置して死に至らしめた事件とか。被害者の家族を思う感情は死刑だって叫ぶけれども、法律なり判例に照らし合わせてこれが妥当なのか、更正の可能性を永遠に奪って良いのかという優しさも浮かんで気持ちを迷わせる。

 殺人に傷害致死に過失致死。もっと軽い事件も含めて弁護士から投げかけられる数々の例題に、裁判傍聴の記録を本にしたこともある北尾トロさんが考えていく「裁判長! おもいっきり悩んでもいいすか」(文藝春秋社)を読むと、傍聴のプロでさまざまの公判に立ち会ってきた北尾さんですら判断に迷う事件を昨日今日、裁判員に任命されてしまった人が判断しなくちゃいけない難しさって奴が見えてくる。なにより法律家だから、望んで入った法曹の道であり、そこで選ばれた者の責務だからと「死」を下していた「死刑」の判断を、そうした一切の心構えを持てない人間が下さなくてはいけない難しさって奴がくっきりと浮かび上がってくる。

 とんでもない制度だったんだなあ、裁判員制度はって気づいたところで後の祭り、散々っぱら法律家たちをヌルいだの厳しいだのと罵倒して来た一般人に、だったら手前らやってみろと突きつけられた復讐の刃みたなもので、いたんはだから受けてみて、こりゃあ無理だと突っ返すなりここから自分たちなりの流されず、かといって冷酷にも偏らない身の処し方って奴を編み出していくより他にないんだろー。自分がもしも裁判員になったら。3日は仕事休めるぜ、って喜んだりするのかな、脚光を浴びてるって嬉しがるのかな。怒るか浮かれるか優しくなるか。ちょっと楽しみ。だから楽しむものではないんだってば。


【5月12日】 演説。それはとても魅力的なパフォーマンスだ。言葉の力で人を引き寄せ、人の心を動かし、人々に夢を見させて同じ方を向かせる。そんな影響力の大きさに憧れるし、何より大勢の注目を浴びながら言葉を発する姿がとてつもなく恰好良い。と、そう感じたのは「機動戦士ガンダム」でギレン・ザビが2度にわたって行った演説を見たからだという人は、決して少なくないだろう。

 ホワイトベースに特攻をかけて散った弟のガルマ・ザビの葬儀の場で、「ガルマ・ザビは死んだ。なぜだ?」と慟哭の中に叫びを発して国民の嘆きを誘い、シャア・アズナブルの「坊やだからさ」という呟きを引っ張りながらもひとりの政治家として持つ底知れないパワフルさを見せつけた。そして次。地球連邦の総攻撃が迫るア・バオア・クーから「あえて言おう。カスであると」と言葉をぶつけてジオン軍を鼓舞し、危地にあってもひるまない態度の勇壮さを満天下に知らしめた。

 声もまた良かった。当時は田中崇といった銀河万丈の、低いけれども温かさではなく冷徹さ、尊大さを感じさせる声質で叫び訴えた演説が、内容に一定の真実性を与えてジオン軍ともども聞いている者たちを惑わせた。徳間書店から出ている「グッズプレス」の2009年6月号で、アーティストのGacktは「ギレンの演説はいつ聞いてもシビれるね。僕がジオンの人間なら陶酔するだろうな」と書いているくらいだ。「坊やだからさ」と言いそうなGacktをして憧れさせるのだから威力は凄まじい。絶妙のタイミングで行われる完璧な内容を持ち陶然とした仕草と声で発せられる演説が持つ、そんなパワーを目の当たりにして、ギレン・ザビノの演説にいつか自分も大勢の前で演説をしたいと憧れた子供もいたのではないだろうか。そんなひとりが鳥肌実だったのかどうかは知らないが。

 現実の世界でも素晴らしい演説は歴史に残る。オバマ大統領の演説がCD化されて販売されて日本人に人気になっているのは衆目の知るところだし、同じく大統領ならケネディの演説も「祖国のために何ができるかを考えて欲しい」といったフレーズが幾度となく引き合いに出されるくらいに、強く世界に印象を残して今も語り継がれている。大統領ではないがキング牧師の演説もまた、「私には夢がある」のフレーズで重ねられた言葉が醸し出すスケール感の大きさが未来に本当に夢を見ているような心地へと誘ってくれ、今なお名演説のトップクラスとして語られる。「我らは断じて降伏しない」のチャーチルの演説しかり。国民を鼓舞して地獄の底へと引っ張っていったヒトラーの演説しかり。政治なり運動の分野で世界史に名を残す人々には、決まって素晴らしい演説の才能があった。

 翻って日本の政治家に、記録に残り記憶に刻まれるような演説がひとつでもあるのだろうか。まるでない。演説といって思いつくのは浅沼稲次郎が日比谷の市政会館の舞台で山口二矢によって刺され、絶命した時に行っていたのが演説だったということくらい。その内容がどういうものだったのかを聞かれて、答えられる人はいないだろう。日本人の政治家にとって演説とは不必要なものなのか。けれども早稲田にある雄弁会なる組織は、弁舌を持って政策を訴える練習を重ねていて、そんな中から実際の政治家たちも出てきているから、決して演説が必要とされていないということはない。

 選挙の時にも車の上にたって「第一声」とやらを発する姿がメディアによって伝えられる。麻生首相が秋葉原で演説したというニュースも大きく報じられる。しかし。そこで何が語られたのかはまるで伝えられない。いや、伝えられてはいるのだけれど誰の心にも留まらない。空へと消えて後に何も残らない。CD化されて売られるなんてあり得ない。

 演説が持つ力の大きさは、オバマが大統領となりチャーチルが英国民を鼓舞しヒトラーがドイツ国民を煽動したことでも明かだ。けれども日本では、それ以上に別の作用が政治の勢力図を決めたり、選挙での票につながったりする。言葉ではない。かといって「男は黙って」のような不言実行のスピリッツでもない別の何か。情実であり、利益誘導であり仲間意識のようなものが言葉を超えて人を誘い、取り込んで転がり行く。そんな風土に生きていれば演説がうまくなるなてことなんてあり得ない。スピーチの内容を練り、どんなファッションが世間に見られやすいかを考え、発声の仕方や視線に仕草の鍛錬を重ねて演説を完成させるようなことにはならない。

 ギレン・ザビの演説を見て育った世代が結構なところまで来ている今こそ、演説の恰好良さでアピールする政治家が出てきてもいいのではないのか。というよりもそうした世代が世間にひしめきあっている現状では、素晴らしい演説を行える政治家は決して悪い目では見られない。むしろ憧れられる存在となって讃えられ、奉られるに違いない。なすべきことはだから優れたスピーチライターを開拓し、ボイストレーニングをつんで多くを魅了する発声を行えるようにすること。壇上に立ったらいっさいのひるみも見せず、媚びもしないで言葉を張り上げ、ぶつけて聴衆の記憶に刻みつけること。それができればその時は当選できなくても、いずれ語り継がれて多くを集めていつか国会のあの中央の席から、所信表明演説を世界に向かって発せられるようになるはずだ。学ぶのだ、ギレン・ザビに。リズム感なら最後の大隊の少佐が繰り出した演説も実に軽快だけれど、内容は学ぶにはいささか不穏当なものなので注意せよ。

 そうか「増刊少年サンデー」は編集部が「週刊少年サンデー」と同じだったのか、だから二軍が増刊からデビューしてそこから週刊へと移行し人気を獲得する漫画家がいっぱい出ていたのか、さすがは「風の戦士ダン」から「炎の転校生」へと移ってヒット街道を驀進した島本和彦さんだけのことはあるなあ、ってそこが関心のしどころではないんだけれどもそんな過去が書かれた「アオイホノオ」も連載されている「月刊少年サンデー」こと「ゲッサン」が登場したので早速買って読んでみた。「電撃大王」かと思った。ってそれは「あずまんが大王」が載っていたからか。いったい何年ぶりなんだ。というより卒業して終わった彼女たちの青春がどーしてプレイバックしてるんだ。

 それは事情って奴でつまりは単行本がリニューアルされて小学館から出る関係で前宣伝っぽく漫画が再会されたってことなんだけれども、「げんしけん」と同様にリアルタイムに進む時間と同じ年月を経て、同時代感を感じさせながら綺麗に終わった作品が前に戻るような感じで現れるのって、どこかちょっぴり寂しいものがある。読んで今なお面白いだけに、なおさら気分は複雑だったりする。

 ともあれ登場してしまった平成版(前も平成だったぜ)の「あずまんが大王」は、大阪フィーチャーな感じで大阪があれやこれやボケつつフラつきながら巻き起こす言動に周りが振りまわされたり振りまわすような感じ。いつも賑やかなともちゃんともどもまるで変わってない。あとちよちゃんも。ただよみはちょっぴり大人びた感じ。胸とかもーちょっとデカかったんじゃなかったのかなあ。榊さんも顔がちょい眺め。優しいんだけれど傍目にはコワい感じがやや足りてない? にゃもはまだ活躍していない。車の運転で暴れろよとお願い。ちよ父は出てくるのかなあ。出てきてついでに幻の等身大ちよ父も復刻してくれると嬉しいなあ。買わないけれど。部屋に入らないんだよもう。

 あだち充さんの漫画は窓越しの裸とかが有り難い。あと女子プロレスの選手寮が舞台になっているっぽい漫画も露出があって楽しそう。なぜかこっちで連載が始まった「ぱにぽに」は随分と絵柄が変わっているなあ、名前もベッキーじゃなくてイボンヌになってるし、ってそれは言わないお約束? どこからやって来た先生が天才でおまけに子供って、そりゃあちょっとないよなあ。

 ほかに読んで読み続けたい漫画は……おとなしく「サンデーGX」を買い続けようっと、そっちには「BLACK LAGOON」に「ヨルムンガンド」に「ワイルダネス」の拳銃御三家があって、島本和彦さんの新連載もあってほかにもごちょごちょ愉快そうな漫画が載ってるから。誰に読ませたいんだろうなあ「ゲッサン」。月刊漫画誌にお約束のポニーの通販広告は今なお健在か。「月刊少年ジャンプ」の頃は鼓弾を打つモデルガンが欲しくて仕方がなかったんだ。今は「ゴルゴ13」の7万円以上するモデルガンとか「ハヤテのごとく」の西沢さんやヒナギクさんナギのフィギュアが掲載、か。時代は変わったなあ。

 そうか覆面が受賞の鍵か。って訳ではなくって「マンガ大賞」の場合は立場を勘案して今はまだ出るべきではないと考えたから欠席しただけのことであって決して覆面ではなかったんだけれども同じようにショップ側なり受け手が選ぶいろいろな賞のひとつとして立ち上がった「CDショップ大賞」の第1回目の受賞者が、ライブはやるけどメディアには出ない「相対性理論」の「シフォン主義」に決定して、でもってしばらく前に「大学読書人大賞」が舞城王太郎さんの「好き好き大好き超愛してる。」に決まってともに、授賞式には当人たちが現れなかった連続に見(まみ)えるにつけ、出会えそうもないところに魅力を感じて投票したりするのかなあ、なんて考えたり。

 もっとも元祖の「本屋大賞」は書店員さんが逢いたい作家さんを選ぶ傾向もあったりして、そんな中で顔出し拒否の覆面さんが選ばれることはまずないだろうことからも、舞城さん相対性理論の連続は、今年限りの傾向で来年からは有名人がバンバン出てきてくれるって期待したいけれどもやっぱり「ハイファイ新書」で相対性理論が取ったりして。あり得そう。準優勝も「Perfume」で来場せず。2年前だったら来てたよなあ。もう1人は大橋トリオ。ナイスガイだった。歌も良さそう。エイベックスってこういう人も集めているんだ。フトコロ深いっていうかなりふり構わないっていうか。貪欲。


【5月11日】 現実の軍事が政治を抜きにしては絶対に動かないのとは対照的に「機動戦士ガンダム」の世界で政治に関する動きが表に出てきた場面が、ファーストシリーズではほとんどないように思えたのはそれを描く余裕なり、必要性がなかったからなのか。ジオン公国の場合は半ば王政であって統帥権を持って軍隊を指揮するのがそのまま政治も司っているから分かるけれども、地球連邦の場合はさまざまな政体がひとつになって議会的に運営されているだろう状況にも関わらず、政治的な決定といった部分がまるで見えて来ないため、いったいどういう思想でジオンに対峙し、どういう指揮系統で戦いを進めているのかが分からない。

 連邦で最高位の権力者的な位置に立つのがレビル将軍で、オデッサ作戦でも指揮を取り和平を成そうとジオン公国を出てきたデギン公のカウンターになっているのもレビル将軍。なるほど日本が占領された後で昭和天皇がマッカーサー元帥の下を訪れたって構図から見ればそうした対面もあって不思議ではないけれども、マッカーサーの背後にトルーマン大統領が立っていたことが分かる現実の世界史的な状況とは違って、レビル将軍がどういった権限をどういう経緯から与えられていたのかがちょっと見えづらい。というよりまるで存在していないかのようにレビルたちや地球連邦軍の面々が振る舞っているようにすら見える。

 初期の戦闘でジオンに蹂躙されたのは政治的な混乱があったからなのか、それとも政治的に無能だったためなのか、それ以前にサイド3の一派がジオン共和国建国へと至るような政策を地球連邦がどのようにとっていたのか。ここが見えない限りはあの世界を解釈することはちょっと難しい。軍事的な側面だけから語ったところで、それを支える成り邪魔するなりしていた政治があってこそ、現代の政治的軍事的状況と照らし合わせてどこか拙く、何を学ぶべきかを理解できるのだが。「機動戦士Zガンダム」はもう少し政府といったものが見えていたような気がするので、そちらを見通した上で遡って1年戦争時の政体が、どのようなものだったのかを考えてみたい気もするが、果たして可能か。否か。

 まあ現実の世界で政治ってのはつまり政策を並べて遂行していくようなロマンティックでロジカルなものではまるでなくって、似たようなごたくを並べあってはどっちがよりましか、くらいの差しかない間で選ばせるような愚劣を何かたいそうなことのように“政局”とかって言葉でもって語るくらいの無内容。薬にはならずむしろ毒でしかない政治なんか脇に放ってかかる喫緊の事態に統率のとれてビジョンも持った軍隊があたるしかなかったのかも、ってことを民主党の今さらでしかない小沢一郎党首の代表辞任劇なんぞを見つつ考えてみたり。2日後には党首討論をやるって決めて置いてなぜ級に? どうしてその前に辞めておかない? 代表質問を前に政権を投げ出した安倍晋三をそれじゃあ笑えないよなあ。かといってだったら自民党が真っ当か? 誤差でしかないんだけれども訳の分からない奴らよりはマシか。いやしかし妙なタイミングで国民栄誉賞とか言い出すからなあ自民党も。それも誰もどうでも良いとしか思っていないでんぐり返りなおばあさんに。

 なるほど確かに演劇業界的には画期的な事柄なのかもしれない。一部のファンには嬉しいことなのかもしれいない。けれどもだったら国民的かと言われるとちょっとなあといった気分がわじわじと起こる森光子さんへの国民栄誉賞話。そりゃあ2000回も舞台に立ったってのは数としちゃあ凄いけれどもそれはお仕事だからであって、同じように80過ぎまで産婆さんをやってた人とか坊さんとして読経していた人だってとっても偉大。それがメディアを通じて喧伝されたかどうかによって方や栄誉賞でこなた市井の頑張り屋さんてんじゃあ生きててちっとも面白くないんじゃなかろうか。いや本当に他人のためになればと産婆なり坊さんなりをしている人は賞がもらえるかどうかに面白みなんか見いださないんだろうけれど。

 同じ国民に広く夢と希望を与えたって面ならつい先だって90歳という超大台に達した「アンパンマン」のやなせたかしさんの方がよっぽど国民栄誉賞的。未だに現役として楽しい物語を生みだしては子供たちの間にナンバーワンの人気を保ち続けているやなせさん。その活動の長さを考えれば影響を受けた人の数は狭い舞台でしかない森さんの活動に感じた人を遙かに上回る。メディアを通じた伝播ぶりだってテレビアニメって舞台とあと絵本って舞台を加えればひとケタ億じゃあ効かないだろー。10億って数字すら少ないかもしれないなあ。

 それだけの人に愛と勇気と涙と笑いを届け続けて今なお健在のやなせたかしさんこそ国民栄誉賞に相応しいし、無形文化財すなわち人間国宝にだって指定されて不思議はない。けどそんな話は欠片も持ち上がらないところがこの国のみっともなさ。何が漫画大国日本だってーの。同様に水木しげるさんだって「鬼太郎」を描き続けて何十年。よっぽど国民的だってーのになあ。そんな程度の文化政策でしかないと認めて無視して僕らの栄誉賞を心の中で与えるのがやっぱり良いのかなあ。

 「めぞん一刻」は「ビッグコミックスピリッツ」の連載を最初に読んだんだっけそれとも単行本が出てから始めて読み始めたんだっけ。もはや遠き彼方の記憶なんではっきり覚えてないけれどもすでに「うる星やつら」を読み始めてはいたから高橋留美子さんには注目はしていたはず。そのポップなSF的ビジョンと女の子たちの可愛らしさに脳天をヤられた「うる星」の作者が書いてきたのが下宿における未亡人と若い下宿人との恋物語だったってあたりにちょっとは驚いたには違いない。とはいえさすがに島本和彦さんの自伝的漫画「アオイホノオ」の第2巻で主人公の焔燃みたいにいったい高橋留美子は何をしようとしているんだ、ギャグ漫画家なのにギャグを主体に持って来ていないのは何故なんだ、とか深くは考えないで音無響子さんの茫洋とした佇まいに雰囲気ある人だなあ、と感じて見入っていただけに違いない。まあ当時はただの中学高校生だったし。

 けど漫画家を志していた島本さんにはやっぱり何か衝撃だったんだろう、大ヒットしている「うる星やつら」とはまるで作風を変えたものを隔週ながらも同時に連載するそのスタンスに、挑戦のマインドを感じこれは侮れないと目を見張りつつ、けれども未だ全然おいついてもいない身を案じて何かしようとやきもきしたんだろー。そんな気分で一念発起し漫画を描く覚悟をまず固め、それから描いていよいよ持ち込みってところで「アオイホノオ」の第2巻は幕。そして創刊される「ゲッサン」こと「月刊少年サンデー」でもって連載が始まるらしいんだけれどそういう中途からの連載物が乗ってることって新創刊される雑誌的にはどうなんだ。ほかにもそんな漫画があるのか「ゲッサン」。読んでみるしかないよなあ。創刊号くらいは。

 んで「アオイホノオ」にはいつもの庵野秀明語録というか行動録も。劇場版「銀河鉄道999」に登場したキャプテンハーロックの歩き方をどう真似るかってあたりで動画枚数を計算に入れた歩き方をするってことを言ったとか言わなかったとか。あとセカンドシーズンの「ルパン三世」で照樹努さんって知る人ぞ知るっていつかつまりは宮崎駿さんが演出をした145話「死の翼アルバトロス」をたぶん山賀博之さんのアパートに転がり込んで見ながら「これギガント」とか叫んだり「宮崎さんだよ」「宮崎演出だよ」と叫んだとか。なんかそれらしい。145話とかのあたりでエンディングで木村昇さん「 ラブ・イズ・エブリシング」がちゃんと使われていたことを覚えているんだなあ、島本さん。145話と155話のカップリングLDは買わずLDのボックスもDVDのボックスも買ってない身なんで覚えるほど繰り返しは見てないんだよ。フィルムブックからでは歌声、聞こえないし。

 殺伐として怜悧。小説版でもそーだし押井守監督のアニメーション版でもやっぱりそんな雰囲気があっただけに「スカイ・クロラ」の世界観は誰が描いても共通なものだと思っていたら上地優歩さんが描く漫画版「スカイ・クロラ1」(マッグガーデン)は草薙水素、ではなくオシリーナ、でもないオリシナマウミたんの寡黙ではあってもどこかに内心に動揺する精神を持っていたり、周囲に集う面々が熱血だったり坊やだったりと人間臭かったりしてちょっと不思議。熱血な奴らが戦っている最中にひとり、冷静で冷徹で怜悧なキルドレが紛れ込んではただひたすらに飛ぶために飛び、戦うために戦う姿を見せて周囲に違和感を覚えさせたりする展開は、そうした世界が当たり前に描かれている小説版なりアニメ版の、全体像として奇妙な世界を見せて今生きている世界との違いを感じさせる手法とは違って、人間性とは何かって奴をキャラクターの対比の中から描いて見せていて分かりやすい。

 物語の舞台もロストック側ではなくラウテルン側。その人間味がいっぱいな描き方が国の違いだけによるものなのか作者の感性なのか。分からないけれども映画も終わり小説版もひとまつ完結している中で、世界を押し広げてくれる試みとして注目しておくに過ぎたことはなさそう。何巻まで続くのかな。しかしオリシナって名字はやっぱりオシリーナって読んでしまうよなあ。なのにオリシナはそんな言い間違いとは無縁な平らっぷり。あるいは脱いだら丸いのか。やっぱり平べったくってごつごつしているのか。うーん。


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