縮刷版2009年5月上旬号


【5月10日】 戦時下であっても、というか戦時下であるからこそ戦意高揚のプロパガンダなり、逆にゲリラ側の意志結束に向けたメッセージなり、中立な市民から起こる反戦歌といった感じで歌なり音楽が登場しても不思議はないという気がするけれども、「機動戦士ガンダム」の世界には歌といったものが存在している気配がない。「ホワイトベース」に閉じこめられた民間人たちが沈みがちな心を歌で紛らわせるといった描写もないし、戦争に荒んだ気持ちになっている軍人たちを露出もオーバーなアイドルたちが慰問する描写もない。軍人たちの活躍ぶりをPRしようと流行歌手にホワイトベースを訪問させて新聞テレビに流したりするような場面も目に付かない。

 戦争と音楽の関係では第二次世界大戦中に流行してドイツ軍兵士と連合軍兵士の双方に涙を流させたマレーネ・デートリヒの「リリー・マルレーン」が有名だし、戦場への慰問ならフランシス・コッポラの「地獄の黙示録」でプレイメイトが派手な音楽に乗りながらベトナムの戦場に集う兵士たちを慰撫するシーンが記憶に残る。「スター・ウォーズ」のライトセイバーをビームサーベルの形に取り入れた「機動戦士ガンダム」が直近の流行として「地獄の黙示録」の戦場シーンを取り入れて不思議はない気もしたけれども、調べると映画の公開は米国が1979年の夏で日本は翌80年の2月。すでに「ガンダム」の放送は終了していた訳でいくら進取の気風に富んだ富野喜幸監督でも、これではさすがに取り入れられはしなかった。

 そうこうしているうちに歌が宇宙規模の戦闘を終息させてしまう、設定だけならとてつもないバカさ加減を保ちながらも妙な説得力があった「超時空要塞マクロス」が登場して戦争と歌の関係が、どこか大げさなものになってしまってごくごく普通のレベルで戦争の中に歌を入れ込むのが難しくなってしまった感じ。そういう訳ではないけれども続編の「Zガンダム」でも歌はあまり作品において重要な役割を占めてはいなかったようすがある。イメージソング的なものは流れても歌そのものがストーリーに絡むことも含めて。自ら作詞もする井荻燐はどうして戦争と音楽、戦争と歌をストーリーに絡めなかったのか。それとも他の作品では積極的に取り入れていたのか。「戦闘メカザブングル」「聖戦士ダンバイン」「重戦機エルガイム」ではどうだったのか。いずれ見直して確かめてみたい。

 戦争のようなものにアンチとしての歌を叩きつけるロックのような音楽も「ガンダム」の世界では皆無だったなあ、などとスポーツ新聞各紙が乗せた忌野清志郎さんの葬儀関連記事なんかを読みながら考える。しかし無駄にデカくて妙な感じ。なるほど愛され支持されていた人なんだろうけれどもこうやってメディアで大々的にその死が報じられることによって、すでにして体制側でしかないメディアの中において“良い人化”が進んで体制へのアンチだったスタンスが体制との迎合へとすり替えられていってしまいそう。青山斎場での粛々とした葬儀もけじめとしては必要だけれど、そこからエラ得るものって追憶と郷愁しかない。むしろそんな場所に行くんだっらた街に出よエレキを弾こうとかって運動が、広がり日本の辻辻で丸め込もうとする世間にアンチを唱える空気が生まれた方がよっぽど故人のキャリアにそぐう企みのような気もするなあ。49日辺りにはだからそんな動きがドカンと起こって欲しいよなあ。

 「スポーツニッポン」の2009年5月10日号では大きく巻ヘッド。応援しているチームだからってこともあるけどこの日は浦和レッドダイヤモンズとか鹿島アントラーズってトップを走るチームがなかったことも紙面の構成に作用した模様。この2チームがあるとどうしても大迫勇也選手に原口元気選手といった若手の記事がデカくなってしまうからなあ、活躍の如何に関わらず。

 そんな“スターシステム”絶賛発動中のメディア的状況に業を煮やしたかフィンケ監督は、原口選手への取材を禁止しようとお触れを出してはみたものの、日本サッカー協会の犬飼基昭会長はそれに異論を唱え元ボスと現監督との間にはさまれるかのように浦和レッドダイヤモンズのゼネラルマネジャーは、取材は良いかもとかやって間に立たされた原口選手がどうするかって思ったら自主的に取材を拒絶。なかなかの好漢ぶりに拍手を贈りたくなったけれどもまだ高校生って年頃の選手に、監督とチームの二者択一を迫るよーな状況ってのはやっぱりあんまりよろしくないんじゃなかろーか。

 決断は下したように見えてこころはあれこれ迷うもの。そんな迷いはストレスとなって神経を細らせ体のどこかを鈍らせる。プレーにだってきっと現れてくるだろう。そんなの関係ねえとぶっとばせる神経の持ち主だったら実に心強いけれども、そこまでの逸材ってなかなかいないからなあ。東京ヴェルディの森本貴幸選手の時はチームがしっかりガードして取材を厳禁にしたっけか、あの時はチーム内で監督とフロントの意見が分かれるなんてことはなかったよなあ、協会もそれについては何も言わなかったし。

 つまりは今はそれについて言わざるを得ないくらいにサッカーへの話題が薄れていて、高校生にだってすがりたくなる状況にあるってことなのか。だから未来の逸材が潰れる可能性があっても今さえ避ければと今の地位にあってそれがどれだけ偉大なのかを世間にアピールしなければ気の済まない爺さんが、何かと口を挟んでくる、と。練習の公開に関してもだけれどそれがどれだけサッカーそのもののためになるかではなく、サッカーを取り巻くメディアだったり広告だったりする部分で利を得ようとする勢力のためになりさえすればって思考が透けて見えるから非難も集まるだよなあ、この犬爺さんの場合。

 もちろん結果としてサッカーそのものに跳ね返ってくることもあるから一概には否定できないんだけれども、そういう方向へとメディアを導こうとしていいたオシム監督みたいな人を欠く状況ではただひたすらに周辺ばかりが肥大して、本質が蔑ろにされてやせ細り、気がつけば幹は枯れ果て枝葉も落ちてあとには何も残らない、って状況が遠からず訪れそう。困ったものだが困ってばかりでは未来が……。帰って来ないかなあドイツ野郎。

 ニコ・ロビン様のローアングルとか拝めて(パンツスタイルだったけど)有り難かった「ONEPIECE」を見てから支度をして蒲田へ。青山ブックセンターから会場を移した秋葉原でも手狭になっていた「文学フリマ」をさらに大規模なものとせんと有志一同が頑張ったことに加えてこれほどまでに読みたい、書きたい、話したい人も増えていたってことで「大田区産業プラザ」の大きな展示ホールを埋めて300以上のサークルが出展した「第8回文学フリマ」はいわゆる有名人系お忍びサークルもないのに午前からしっかり人が入ってなかなかの盛況。小学生っぽい子供から爺さん世代までがやって来てはブースを周り見本を読んでいろいろ買っていた。

 見知ったところで「科学魔界」へと伺うと伊藤計劃さんインタビュー入りの号は追悼の意もあってか品切れに。回って分厚い本は円城塔さんのインタビューとかが掲載されてて即購入。あとはフランス書院美少女文庫の総解説なんかを広いつつ取材に切り替えNHKが出してた「パフォー」のブースを見に行って、小説の集まり具合を聞いたら何と桜庭一樹さんが見るらしいショートショートに10本近い応募が集まっていた。申し訳ないけど1週おきでは「ケータイ大喜利」しか見てない身として果たしてどんなバリューがあるのか興味深かったけれども、あの桜庭さんに見てもらえるって気持ちとあと、やっぱり書きたい見せたいって人の多さが数字になって表れている模様。若者の活字離れ? そんなのジジイの繰り言だぜ。

 松山剛さんと話をしたり風船を配っていたお姉さんの胸元からのぞくリアルな2つの風船に心惑わせたりしつつぐるりと巡り早々に退散。冬にも開催が決まっているそうでこれだけの勢いをすでにして得ている創作・批評形同人誌即売会の未来は明るい。あとはここからスタアが出て一般メディアが注目することか。1年で30万部がどうとか1ヶ月で17万部がこうとかいった媒体では世間に何の影響力もないのだよ、おまけにそこん家のさらに間借りしているようなマイナー媒体だし。冬の「文学フリマ」ん時まで保ってるかなあ。保ってなさそうな気もするなあ。

 会場を出ると陽光は激しく気温はぐんぐんと上昇して蒸し暑さに倒れそう。JR蒲田駅まで行くとビルが美麗になっていて吃驚。駅前にあった十勝風の真・豚丼を囓りこれがやっぱり豚丼だよなあとひとりごと。インフルエンザ? かかるかよ豚肉で。松屋はだからはやく豚ステーキを復活せよ。豚丼止めたすき家は例のいろいろが続いている限り入店ご遠慮。しまった「ウェンディーズ」に入ってしまったよ。注意注意。


【5月9日】 猫っていただろうか、と「機動戦士ガンダム」の映像を頭の中でプレイバックしてみたものの思い浮かばない。コロニーでは無駄な生命など飼うのは酸素的に厳禁だろうから分からないでもないけれど、地上に降りて陶磁器など愛でていたマ・クベあたりが貴族趣味的に飼っていて不思議はなかったような感じもする。だが思い出せない。「グッズプレス」の安彦良和インタビューによればマ・クベはキシリアに取り入って鉱山の責任者にしてもらたような小物ではなく、地球侵攻の総司令官にして趣味人。とはいえ奢侈に溺れることはなく良い物を良いと認める教養の持ち主だったから、戦火に消えゆく文化遺産の保護には熱心でも猫を飼ったりグルメに走るような真似はしなかった、といった解釈は果たして成り立つか。

 しかしやはり猫とは不思議な生き物で、いるだけで触れたくなるような気にさせられるけれども触れようとしたって触れさせてくれるかは猫次第といった奔放さもあって、それがまた魅力になっている。そんなところが古来より猫を神様扱いさせていたりするのかもしれない。望月飛鳥の「猫桃神話」(ランダムハウス講談社)に出てくる猫もそんな神様猫でどうやら代々、神域にあったものがそれを見初めた人間と触れあい交わったもののあまりの素晴らしさに人間の夫はリアル昇天してしまい、猫の妻は悲しみから子を産んですぐに井戸にこもって出てこなくなった。そんな娘が桃と名付けられて通っていた大学で、不思議な一段と出会ったことから運命は大きく動き出す。

 どうやら西欧の精霊の血を引いていたりする人もいたりして、あとは狐に狸の顕現した兄弟姉妹もいたりする不思議な一段は桃を仲間に取り込もうとするけれども、一方で海の向こうからは地獄に堕ちた兄を救うには桃の体に眠っている仙果を取り出し西王母に捧げなくちゃいけないと吹き込まれた妹が、魂だけになった兄も連れて桃を襲いにやって来る。強い力を持った桃の祖母が這った結界が退けはしたものの、スピリチュアルな儀式の中に桃を入れ込み取り込もうとする集団のリーダー格の女性が、かつての恋人だった女性や今の夫や子供との関係に揺れ動いていた好きに取り入って乗り移ったりして桃を襲い、目覚めた桃の母親によって退けられると今度は夫の方に取り憑いたりして襲ってくる。

 そこは祖母に劣らない強い力を持った母の復活に加えて、仙果を内に秘めた桃が本当の力を目覚めさせ、沼に消えた両親を捜して世界を渡り歩いてきた良人の協力も得てこれを撃退。そして新しい暮らしが始まるという、ファンタジックでオカルティックでスピリチュアルなんだけれどもラブストーリーだったりする本書。奔放なビジョンの中に自然への畏敬も伺え、愛し愛されることの困難さも描かれていて読み込むほどに滲んでくるものがありそう。同じランダムハウス講談社から刊行されている小島てるみさん「ヘルマフロディテの体温」と同様に、幻想性があってジェンダーなり異性装なり両性具有について考えさせてくれる物語。デビュー作だかの「回転する熱帯」はまだ未読だったんでそっちも読んでみるかなあ、あんまり幻想性はなさそうだけれど。

 もう完結したのかなと思っていたらすっかり続き物になっていた三雲岳斗さん「ダンタリアンの書架」(角川スニーカー文庫)は第3巻が出て幻書の鍵守となったヒューイを罵倒し足蹴にし雑巾扱いしながらもくっついて回っては揚げパンを喰らう「黒の読姫」ことダリアンのツンデレぶりもいっそう増していい感じ。連作短編によって人の欲望を露わにしつつ行き過ぎた欲望が身を滅ぼす話を描き継いでいくのはどことなく「キノの旅」を感じさせる。ということはこちらもいずれアニメになったりするのかな。お話ではかぐや姫よろしく幻書を集めさせた美しい娼婦の少女が頑張った人たちを足蹴にしてまるで無関係な1人を選ぶ展開に女性の怖さって奴を感じてみたり。愛されると嬉しいけれども愛されすぎると鬱陶しいということか。聞いてるか大杉くんin「東のエデン」。まあ奴はウザさが行き過ぎていたからなあ。男目線で森美咲の奔放ぶりを非難する声が男所帯のネットには溢れているけど女目線のコミュニティーではそんな声、からっきしだもんなあ。

蘇我から700円ってえとどこまでだ東京か  勝った! ジェフが勝った! って喜んでいる場合ではないんだけれどもとりあえず、得点できるパターンを作りつつあるよーなんで次は守備を頑張って得点されないよーにすればもっと勝っていけるんじゃなかろーか。ってことでフクダ電子アリーナでの「ジェフユナイテッド市原・千葉vsサンフレッチェ広島」は西日のまぶしいスタジアムで午後4時にキックオフ。いきなりゴール前を左右に振られて真ん中にマークの外れた高萩選手が残りズドンと1点を奪われる展開になったけれども、しつこい動きで何度も突破を見せた深井正樹選手が最後は長い後ろからのボールを間髪入れずに蹴り込み1点。そしてコーナーキックをなぜかマークが外れてフリー気味になってた巻誠一郎選手がどんぴしゃのヘッドで1点を奪って逆転して前半を折り返す。

 蘇我から700円ってよく分からない切符を手にした女の子たちが踊り回ったりする新作パフォーマンスを遠目に見物しつつ始まる直前に地面に置かれたフラッグの間を蛇行しながらドリブル練習する広島の選手のお茶目さもみつつ後半。サイドを走る深井選手に気づかなかったか気づかないふりをしていたか、谷澤選手がパスを出さずにシュートを打って止められたりする苦さもあったりその逆もみられたりして噛み合わず追加点を奪えなかったけれども、トップで張って飛び出しやらしたりサイドで受けて中に入れ込む絶妙の動きを見せる佐藤寿人選手とか、中央から持ち上がっては長いボールを両サイドに供給して攻撃を組み立てるストヤノフ選手とかの好パフォーマンスにも得点を許さず逃げ切って勝利。4分のロスタイムが終わってようやく気持ちに一息つけた。ああ恐かった。

 ボールをさばける中後選手の復活もあって下村東美選手が守備に力を傾けられるようになったこともあってか、みていて危なさが少なくなっていた感じがあって、これであとは中盤をぽっかりあけてバイタルを占拠されて二次攻撃につなげられるようなパターンを防げば、どうにかなって来るんじゃないかって気もして来た。あとはやっぱり巻選手と後ろの選手との距離感か。青木良太選手はどーして後半だけあんなに怒濤のサイドアタックを見せるんだろう? 前半からもっと出していけば先手をとって良い感じで試合を運べるのになあ。久々にみた中島浩司選手は相変わらずに飄々。試合には出られなかったけれども出られるってことは広島が逃げ切りに入った時だから出てくれなくて有り難かったというか、ちょっと複雑。久保選手はジャージも別で試合前練習とかにも出てこずひたすら走り込んでいたけどやっぱり未だにどこか悪いのかなあ。日本最高のフォワードは膝靱帯を切らなかった小倉か腰が痛くならなかった久保じゃないかと思っているだけに、今のこの現実にはやっぱり一抹の寂しさが。せめてもう一花を。


【5月8日】 戦争がもたらした未曾有の大災厄によって大陸はずたずたにされて海へと沈み、残された陸地で人々はあるいは農耕を中心とした牧歌的な暮らしに沈み、または過去の資源に頼りながら機械文明を維持しようとしていた世界にあって、最後に残された機械文明の砦に復活をもたらす力を授けられた少女をめぐって人々が争い、その中でひとりの少年が台頭していく物語だった「未来少年コナン」には、確たる世界観があったと思うし武器小人の暗躍を防ごうと、世界各国から集められたサイボーグたちが戦う「サイボーグ009」には、ベトナム戦争をはじめとして世界の政治や社会や風土を描こうとする意欲があった。

 「グッズプレス」の2009年6月号に掲載されている「機動戦士ガンダム」の特集にあって、「アニメージュ」の松下俊也編集長が「アニメに”世界観を持ち込んだのは”ファーストが最初ではないでしょうか」というのはだから、決して諸手を挙げて賛成のできる意見ではないけれども「コナン」には原作の小説があるし「009」は漫画が原作で石森章太郎さんがしっかり考えて作っていたからその延長。オリジナルのアニメーションでさらにロボットアニメともなるとそうした世界そのものを練り上げそこにリアリティを持たせてた作品は、やっぱりなかったというのが正しい見方なのかもしれない。

 その後でいうなら「戦闘メカザブングル」は世界を1からすべて作り上げてしまった作品だし、「重戦機エルガイム」も同様にこちらは宇宙までをも練り上げてしまった。高橋良輔さんにも転移して「ダグラム」「ボトムズ」といった世界があって人がいてメカがある作品が普通になっていったって意味でやっぱり「ガンダム」は最初の礎だったと言って多分言いのだろう。現在はそれよりキャラの愉快さによって世界なんてものをすっ飛ばしてしまう作品が増えているけれども、記事によればそうしたものは飽きられつつあるようなので反動としての世界そのものを味わい中で動く人々を観察するような作品が、これからはきっと増えていくことになるのだろう。その筆頭が「東のエデン」という訳か。

 つまり売り切れってことはえっとあの「もうほっといて」な咲ちゃんパンは誰かに買われてあんぐりとあけた大口に次々と呑み込まれていったってことなのか。なるほどたしかにパンにしたら美味しそうなふくれ顔。ほっぺたのとろなんて囓ると甘い皮がぼろりととれて口の中を転がり出しそうだけれども、有名なキャラクターとか動物だったらいざしらず、どこの誰とも知らない女の子の顔を囓ってはたして元気が出きるのか。お腹は大丈夫なのか。考えると普通は躊躇しそうなものだけれどもそこはご近所でも評判のパン屋さん。その看板娘ってことで知られてああこの娘だったら食べたらきっと美味しいに違いないってお得意さまから思われているに違いない。だからこその品切れ。これが古河さん家の早苗さんが作ったパンだったら……ご近所は今頃阿鼻叫喚、な前に誰も買わずに秋生パパがひとりで全部平らげているに違いない。パン屋って、大変。

 そんな「東のエデン」は予想も付かない方向へと進展していき先のまるで読めない状況に。いきなり登場の豊満なお姉さまは誰でそしてイスに縛られていた娚は何者。でもって転がっていたあれはシガーカッター? お姉さまが鏡を見たときに確かカアわらに葉巻の箱があったから、それに使われていたものだとは思うけれども葉巻みたいに細くはないものでも、そして中が時々固くなるものでもすっぱりこんと切れるのか。切れたらやっぱりどばどば吹き出て多量に至ってしまうものなのか。エレガントな後始末ってもしかして。ああ恐い恐い恐すぎる。でもってもっと恐いのが電車でさも偶然を装って近づいてくる大杉くん。ダウナーな咲の生返事に大喜びしていたけれどもあっさり捨てられ放っておかれたところに現れたグラマー姉さん。狙いは何だ。やっぱり切るのか。奴のジョニーを。

 しかし内定者面談ってことは内定が出ているってことでそれが面談に遅れただけで取り消されるって状況が今ひとつ分からない。ただの面接だったのか。世間にはああいって面談の場に遅れてきたりする方が悪いんだ社会を甘く見るなといった声も出ていたりするんだけれどちょっと待て、そんな真正面から真っ当な言説をぶつけず絡めてから嫌がらせをそれも学生に対してするような企業ってのをみんな、大人の社会だから正しいと思っているのか、それが競争に厳しい社会の当たり前だと思っているのか。誰かのために何かをしたって誰のためにもならない閉塞感が、すべてを投げやりにして今だけ避ければってな刹那的心情へと走らせる。そんな積み重ねがさらなる閉塞感を読んで今に至る。

 だからこそ真っ当さを取り戻し、他人をいたわることで自分も幸福になれる連鎖を広げていくことでしか世界は変えられず、それゆえに何かをする人たちを求めてセレソンという制度をアニメの中に描いてメッセージを送ろうとしているんだろう神山健治監督なんだけれども、すでに刹那でいっぱいの世の中では説教くさいだの理想主義すぎるだのといった声がわき上がっては真っ当さをひねりつぶし、流し去って後に何も残らない不毛にして荒涼とした社会を、現出させて滅びるに任せる事態へと向かっていくことになるんだろう。いやいやそれでは意味がないと、あのほんわかとした中に前向きさを持った「東のエデン」を世に問うた訳で、今はただ滝沢朗のあっけらかんとして強靱な態度にキュン死ぬと叫ぶ婦女子を生み出しながら、そんな彼の生き様に学び倣って社会を立て直す力が生まれて来ることを願いたい。それにはもっとブーム化が必要。暑いけど頑張ってM−65を来て勝手PRに邁進しよう。

 おいしいタラのムニエルの作り方が書かれた漫画だと思っていたらどういう訳だか世界の滅亡と戦う話になっていた。何が何だかさっぱり分からない。てポルナレフになって語りたくなるくらいにすっげえ世界観を持った漫画が高橋しんさん「花と奥たん」(小学館、700円)って感じで最初は仕事に出かけた旦那さんのために夕ご飯を作る奥さんの可愛らしい日常が描かれていたんだけれどもどうも世界の様子がおかしい。植物がやたらと繁殖しているしスーパーへのタラの入荷が政府によって差し止められていたりするし、電車が途中で止まっていたりするし横浜の港が策で囲われて近づけないようになっている。現れた漁師さんみたいな人がフードで全身を覆っているしチラリと見えた手には鱗がびっしり。そして東京には巨大な花の蕾が……。

 つまりは東京は突如として現れた巨大な花とその影響によって繁茂した植物によって覆い尽くされ、そこにいた人たちはおそらくは花の下に埋もれたか、発生させている何かによって変えられてしまっている可能性が大。そして周辺に住む住民には立ち退きの要求が政府から下っているにも関わらず、会社に行った旦那たんを待って奥たんは夕食の準備をし、近隣の奥さんたちも踏みとどまっては日々を平穏のままに暮らし続けようとしている。しのびよる破滅は帰還した兵士によって仄めかされていたりもするけれど、明日の滅亡よりも今日の晩ご飯が大事と料理に勤しむ奥たんの、健気といえば健気で狂気じみているといえばいえるその振る舞いが、何かあった場合にさても自分だったらどーするのかって決断を迫る。知らん顔をして踏みとどまる強さがあるか。あっさりあきらめ身を引き立て直しに向かう賢さがあるか。現実には考えたくない命題だけれど、世界の破滅より前に足下の破滅が近づくなかで踏みとどまるか撤退するかを、マジに考えなくちゃいけなさそうなんだよなあ。どうしたもんかなあ。


【5月7日】 パソコンすらまだ普及していなかった1979年の制作だっただけに「機動戦士ガンダム」で未来の電子ペーパーを想像することは困難だったか、それともやはり本という形態は残ると考えたのかがひとつの興味だったと前に書いた。これについて、発売された徳間書店「グッズプレス」の2009年6月号に掲載されていた安彦良和さんへのインタビューがひとつの回答を示してくれている。曰わく「ただ、ガンダムに乗り込む際に、シートをめくったらコクピットが開いていた…なんていうのはちょっと整合性がない。それに、眉アルを身ながらガンダムを動かすというのも(笑)」。

 本の形式をしたマニュアルが存在しているかどうかについての言及はないものの、本としてのマニュアルが備えられているかどうかについてはどうやらあり得ないといった結論が現状では導き出せるらしく「今だからという目線で、親父の留守中にPCを盗み見て、アムロにはある程度の予備知識があったら操縦できたんだと」連載中の漫画「機動戦士ガンダム THE ORIGIN」では変えたと安彦さんは話している。データによって配布される操縦マニュアル。それを読み込んでおいて始めて操縦に取り組めるという設定は、考えようによっては本の形式によるマニュアルという形態は、すでに存在しなくなっているのだとう状況を仄めかす。

 当時はだからやはり想像が付かなかったことが、テクノロジーの進歩によって起こるようになって来て、それを勘案しつつ描き直したのが『ジ・オリジン』ということになるのだろう。現状、ドキュメント類のペーパーレス化が進んでいる状況を鑑みて、未来を想像すればマニュアル類のペーパーレス化も当然に起こり得る事態。そこでいったいアムロはどうやってガンダムの操縦方法を知ったのかを考え、漫画に描いたのだと言えるだろう。インタビューではそうしたテクノロジーサイドからの見方の他に、テレビでは流れの中でそうならざるを得なかった描写を変えてもあるという。マ・クベという存在は地球派遣軍のトップであって、鉱山の管理者などではなかったが故にオデッサ作戦の中で華々しく戦士を遂げるのだとか。テキサスコロニーでギャンには乗らないのか。とするとテキサスコロニーでのシャアとセイラの再会はどうなるのか。別の興味が浮かんできた。

 マニュアルが電子ペーパー化した未来にはこうした端末を各人が持ち歩いてはアクセス権限のある範囲で情報を閲覧するようになるのだろうかと、アマゾンによる「キンドルDX」の発表なんかを見ながら考える。すでにあった読書端末の「キンドル」をさらに大きくしたようなデザインで、話を聞いた時にはせいぜいが「デジタルブック」かソニーの「クリエ」あたりのサイズを想像していたら、もっとデカくてジェフ・ベゾスの顔が隠れるくらいの大きさに思わず「でかっ!」とつぶやいた。そりゃあこれなら新聞記事とか雑誌のレイアウトとかをそのまま再現するには適しているけど、新聞1部雑誌1冊に対してどれだけの重さなのかを考えると、習慣的に持ち歩くようになるとはちょっと考えにくい。

 とはいえそこは米国。日本人の1・5倍はありそうな巨体のおっさんたちが巨大なパソコンを鷲掴みして持ち歩いてはぶっとい指でべちべちと打っていたりするお国柄。なおかつ移動には車が使われるため2キロ3キロの重さがたとえあったとしても気にしない。朝に情報をどかどか入れ込み車の助手席に放り込んで、そのまま走ってはカフェテリアで一服しながら閲覧し、オフィスで眺め持ち帰って家のクレードルか何かに刺して次の情報をダウンロード、なんて習慣が生まれれば、そこに新聞雑誌といったコンテンツを配信するビジネスが成り立つかも知れない。ただでさえ宅配があまり存在していない国だけに、スタンドで売れなくなった新聞をそうした端末向けに配信するビジネスに新聞業界がかけたくなる気持ちも分かる。

 もっとも日本では携帯電話からiphoneになったあたりが大きさの限界で、本当だったらiphoneだって重さであんまり持ち歩きたくないのかもしれないけれど音楽プレーヤーになるし電話にもなるってんでお得感から持ち歩けるアイテムになっている。これが他に様とのない読書専用端末だったら誰も見向きもしないし現に振り向かれもしなかった。新聞専用端末も過去に存在したけどまるで売れないままに歴史の闇へと消えた。だいたいがパソコン向けにフルの新聞データを配信するビジネスだってうまく流れていないのが現状。必要とされていないコンテンツをどこにどんな形で流そうとも、必要とされないってことを考えれば「キンドルDX」が米国はともかく日本の新聞業界にとっての救世主には当面、成り得ないって可能性を考える方が得策だろう。

 その上でだったら何をどうするか。「Wii」向けの配信なんてひとつの手なんだろうけれどもそれを考えている新聞ってあるのかなあ。「Wii」が立ち上がった直後に京都に日参すれば今頃立ち上がっていたかもしれないのになあ。「キンドルDX」が成功するとしたら家で雑誌や新聞を読む端末としてという位置づけで、それには手軽にコンテンツがやって来るような仕組みが必要で、ついでに電子チラシなんかもいっしょに配信されたりするとお母さんたちは大喜び、お父さん向けには秘密の画像なんかが毎夜毎夜送られて来て……ってそれだと家族に見られて大変なことになるか。サイズでいえば漫画なんか配信できそうだけれど解像度とかはどーなっているんだろう。いずれにしてもひとつのエポック。それがどう転ぶのか。ガンダムのマニュアルは配信されるのか。関心を持って見ていこう。

 本は門。人は鍵。時代も場所もどこにだって自在に出かけていってはあらゆる人の、動物の、世界の姿を物語にして描ける本は異界への扉となって向こう側へと読む人を誘う。人が手にして読めば扉の開かれて、誰もが向こう側へと飛び出していける。けれども人が良からぬことを考えたとき。扉の向こう側には混乱が生まれ恐怖が立ち上ることになる。人はだから鍵としての役割をしっかりと身に入れ、考えなくてはならないのだ。なんてことを考えさせられる本が秋永真琴さんの「眠り王子と幻書の乙女」(ビーズログ文庫)。貴族に嫁に入った本好きの祖母か親戚でもただ1人可愛がっている孫娘のマーヤ。彼女もまた本好きで世界の名著が集まる図書館を持ったゲオルギウス学院に高等部から入ろうとして祖母の推薦をもらい見事に入学を果たした時、祖母は祖先から伝わっているという1冊の本「ナユタズ・ロスト」をマーヤに渡す。

 それは過去に起こった大戦で世界を救いに導いた女性が、大切なことを書いた本を8冊に分けて封印して世界のあちらこちらに分散させたと言われているものの1冊。つまりはとてつもなく貴重な1冊で、マーヤはそれを持ってゲオルギウス学院へと向かう。そして迎えた入学式。迷ってしまったマーヤは庭園で1人の少年と出会う。すぐに眠ってしまう癖を持った少年は図書館に暮らす学園でも人気者のエイジ。そのエイジとおつきのレン、さらに図書館の責任者でマーヤ持ってきた「ナユタズ・ロスト」に興味津々のアキラといった面々に囲まれ始まった学園生活は、「ナユタズ・ロスト」の謎をつきとめようとする少女たちと、その謎を使って世界を破滅に導こうとする存在との戦いに突入していく。

 世界が危機に瀕したとき、眠り王子がどうして眠り王子なのかの理由が明かされ、そして世界は次なる段階へと道を進み始める。文章の運び方からキャラクターの配置から、展開の深さから何から何まで新人とはとうてい思えない筆さばき。でも帯には「大注目の実力派新人」ってあるからなあ。村山由佳さんとは知人のようだけれども既にプロとして活動しているって話はないから名を変えてのデビューではなさそう。それにしてはな書きっぷりはつまりそれだけの実力者ってことか。ならば注目していくしかなさそう。イラストも美麗で時折眼鏡をかけたヒロインが綺麗。出番のきわめて少なかったシジミ、ではなくアサリ、でもないナナミ様の出番をもっとおくれ、そして庶民共を愚民扱いしてやておくれとお願い。


【5月6日】 白兵戦だと突入した「ホワイトベース」に子供が乗っていると驚き臆したランバ・ラル隊の振る舞いは、戦争という場に子供という存在が似つかわしくないというある意味で当たり前のことを見せたに過ぎない描写だけれども振り返ると、「ザンボット3」は子供が3人、ロボットに乗って戦う話だったし遡っても子供が戦いの場でメインではなくてもサイドに立ってヒーローたちに協力し、戦いを勝利へと導く役割を果たすような内容の作品が幾つもあった。「未来少年コナン」なんて子供がスーパーヒーロー。それは子供という視聴者に対して自分たちでもこんなに出来るんだという憧れを与えて、引っ張り込むための常套手段だったからだとも言える。

 けれども「機動戦士ガンダム」はカツ、レツ、キッカという3人に子供を戦いの場に入れ込んでは、何もできずただ恐れ泣き叫び、時に傍若無人に振る舞って窮地を招くような弱い存在、つまりは子供そのものとして描いた。時には何かを手伝わせることがあっても、「ガンダム」そのものを操縦させては敵を倒して見方の喝采を浴びさせるような真似はさせなかった。戦争とは残酷なもので戦場とは苛烈なもの。そして強欲なもの。子供がその頭と体で何かをできる場所ではなく、できるとしたら子供であることを利用して突入させ特攻させるという、ゲリラ的な戦いの部品としての使い方くらい。それにヒーロー性を感じさてはやはり拙い。

 いみじくも「ザンボット3」で子供が爆弾として利用される悲惨さを描いた富野喜幸監督は、やや絵空事じみた世界観だった「ザンボット」からよりリアルへと設定を振った「ガンダム」では子供を物語の中心から除き、感情を入れ込む器にしなかった。結果。子供は見ようとしなくなり玩具は売れずお話は途中でうち切られる憂き目に遭い、続く作品では社長で小学生がスーパーロボットを操縦して敵と戦う物語に回帰したが、一方で大人たちは関心を抱き傑作と讃え絶大なる人気を獲得して今に至る。カツ、レツ、キッカというキャラクターがどうして生まれてどうしてあの場に置かれたのか。そしてどうしてあの程度の役割しか与えられないままだったのか。「戦闘メカザブングル」では子供はどんな扱いにされていて、それが物語にどんな意味を与えているのか。子供の日を過ぎて浮かんだ気になる事柄。時間があれば考えてみたい。

 「漢」と書いて「おとこ」と読み、「敵」とかいて「とも」と呼ぶような世界とはまるで無縁の学園ストーリーでは、「朋」と書いてどう読むのかと言えば答えは「るなるな」と読むのだそうな。「月」はルナでそれがならんで「るなるな」とはおじさん1本とられたよ、って笑ってられないのが昨今の名前事情だからなあ、本当に実在していそうだ。そんな名前の少女が登場するのが加納朋子(かのう・ともこ。るなるなこさんではない、たぶん)さんの「少年少女飛行倶楽部」(文藝春秋)。タイトルのとおりに少年少女が飛行する話で、いわゆる青春突拍子もない系部活物で、中学に進んだ海月(くらげじゃない)とう名の少女が、幼なじみの少女に誘われ引っ張り込まれたのが「飛行クラブ」というところだった。

 幼なじみはそこに所属している野球部の先輩に行為を抱いただけの関心だったけれども、どこかの部活に所属していないと内申点がもらえない仕組みになていることもあって、そのまま入部することになる。ところが部を仕切っているのは口の悪さと態度のデカさで鳴る神という名の少年で、頭を下げず頼まないままただひたすらに海月たちを叱咤しながらまずは顧問の獲得、そして部員の勧誘へと走らせる。とりあえず学校にまだきていなかった少女の話を聞いて、これなら部活には入っていないと辺りをつけてどういう事情かと尋ねたら、マンションから飛んだといった話でこれは本物、ではなくむしろ逆なんじゃないかと臆したもののそこは傍若無人な神様は、少女が暮らす家へと出かけていく。そこで出てきたのが朋ちゃん。名を「るなるな」。どういう趣味なんだここの親は。

 聞くと飛び降りたんじゃなくて高い場所に上がると不思議と落っこちる癖があるようで、皆は心配した物の背に腹もかえられないとそのまま勧誘。当人も喜んで入部しさらに、野球部とかけもちの先輩が、野球嫌いだけれど親の期待で野球をやらあれていたその名も球児くんを引っ張り込み、どうにか員数は揃ってさあ飛ぼうとう段になって予算もなにもないことに気づく。仕方なく近所のカルチャースクールか何かでトランポリンを飛ぶことから始めて、体験学習に出かけた先でスーパーの親父が持っていた熱気球を飛ばそうという展開へと向かう過程で、口の悪さでは一級品だけれど実は海月が気になっているツンデレ(?)少女もまじってさあいよいよ飛ばすぞといったところで起こる大問題。

 娘の活動的な姿に喜んだのか協力的に見えたるなるなの家族がクライマックスで拒絶に出て、ちょっとばかし命にかかわる自体が起こったりしてこれでどうして部が潰されるような事態に陥らなかったのかがちょっと不思議だけれども、そこはそれ、冒険なくして進歩なしとでも言うのかいろいろと融通も効いたのか、とりあえず収まり部も存続が認められたようでさあ次はいったいどんな所で何を飛ばすのか、って興味も浮かぶけれども果たして続きはあるんだろうか。ちょっと気になる。純情で純粋そうなるなるなが、海月の球児くんを誉めてくっつけようとしているよな言動にあからさまに嫌な顔をして嫌味を言っった存在に描こうとしている工夫なんかも見えて興味深い。悪口ばかり言ったりしている少女がどうして海月を気にしているかとかも含めて、中学生くらいの年頃の子供たちの、好きだ嫌いだ苦手だ何だといった関係性が伺えるストーリー。しかしクラスメートの好きなところを書かせて回すような授業。やったりするのかなあ。ちょっとそれって嫌だなあ。

 始まってからずっと見ている再放送の「涼宮ハルヒの憂鬱」の第5話。なんか地味。ハルヒは暗めで長門は少ししか出ていなくってミクルちゃんも消滅気味。タクシーの中での古泉との会話に絡めた絵とかBGMとかの工夫が引っ張ってはくれているけど、これが本放送の時に普通に5番目にストレートに流れていたら、インパクトは削がれ静かに終焉を迎えていた、なんてこともあったかも。1発目の「朝比奈ミクルの大冒険」からしてヤられた感があったからなあ、本放送の時は。シャッフル放送はそれ自体がネタとして機能し中身のはっちゃけさでひっつかんで今がある、ってことで。

 だから今、始めてこの作品を映像として見ている人たちがどう考えているのかに興味があるけれども、すでにしてそれなりに知られてしまっている状況と、当時はまだそれほど知られて折らず、1発目とかシャッフルとか、ダンスのエンディングで大騒ぎされてゴールデンウイークに大増刷をかけて爆発していった当時の状況とを比べるのもやっぱり難しいか。しかしこうして始まっちまった「涼宮ハルヒの憂鬱」のアニメ版の再放送が、意味するのはパッケージの活性化なのか。新しいシリーズへの布石なのか。アニメがさらに作られるとしても、そこは本読みなだけあって小説版の方にもさらなる展開を臨みたいところではあるけれど、どーなっているんだ今、続きは。


【5月5日】 本はいったいいつの時代まで存在し続けるのか、という問題を考えた時にあと100年は確実に存在するだろう、なぜならやっぱり紙の形で読むのが楽だしコスト的にも安いんじゃないのかな、といった想像と理由が思い浮かぶけれどもそれはどこかに本という形態に対する愛着が根強くあったりすることから来る牽強付会な贔屓の引き倒しに過ぎず、現実にはキンドルのような読書端末が米国などでは蔓延りはじめていたりする事実を踏まえつつ、日本では結局ソニーでもパナソニックでもシャープでもNECでも無理だったものが、膨大なコンテンツをバックにしたアマゾンの手によって普及の目を見る可能性に思いが及んでいる。

 というかすでに日本でだって携帯電話の上で小説を読んだり、漫画を読んだりすることがきわめて日常的になっていたりする。読者を引きつけ引っ張り駆動するコンテンツがそこにあれば、そこにありさえすれば人は案外に軽々と端末の不便さとか価格といったものを乗り越えて、紙を捨てて移っていってしまうのなのだ。と、そんな前提に立って未来が描かれたアニメーションを見た時に、本というものがどう扱われているかが少し気になった。見たばかりでの「宇宙をかける少女」ではどうだったのか。雑誌の表紙に獅子堂ナミがなっていた、というから雑誌はあるのか。あれは電子ペーパーか電子端末向けの雑誌だったのか。

 「機動戦士ガンダム」の世界で誰か本を読んでいただろうか。まるで記憶に残ってはいなけれども少なくとも、マニュアルの類は紙の冊子によって作られていたようで、冒頭でアムロがガンダムに乗り込む時に、爆発で降ってきたマニュアルを手にして開き読んで、操縦の仕方を覚えていった描写がある。あれが電子ペーパーか電子端末のようなものだったら、開けず立ち上がらず読めないまま、アムロはガンダムに乗り込めずザクにつぶされガンダムも壊され、連邦はジオンに敗れシャアは復讐を果たせないま歴史は大きく変わっていたかもしれない。

 本そのものがなくなった訳でもたぶんなく、誰かの豪邸なり居間なりの描写の中に、本棚のようなものは出てきただろうから印刷による本や雑誌、それと印刷による新聞の類はあのテクノロジーの中でもしっかり発行されているのだろう。そうしたものを小道具に使い、敢えて描写して本を読む人たちなんだという属性なり、そうした情報が伝達されているという状況なりを描写する必要が、展開の上ではなかっただけなのだろう。あれば出した。そういうものだ。これがさらに時代の進んだ「逆襲のシャア」あたりではどうなっていたのか。あまり見ていない作品なだけに、次に見るときはその辺りも気にして見てみよう。

 とりあえず今は本がやっぱり情報流通のとりわけ創作評論では中心な様子。そんな本があまり若い人には読まれていないかも、って風説を覆して若い大学生にも本に関心を持ってもらうんだとばかりに始まった「大学読書人大賞」の公開討論会が上野で開かれたんで見物に行く。去年に続いて2度目。ノミネートされている本には依然としてライトノベルが含まれていたりして、大学生だったら藤原岩波国書云々のトンがった本を読んで自慢するのがポーズじゃないのかって気がしたけれども、エンターテインメントの先鋭を今のライトノベルに見たいって気分もライトノベル好きとしてあったりするだけに、これはこれで有るべき姿なのかもしれないと気持ちを納得。とはいえそこに入っているのが田中ロミオさんの「AURA」(ガガガ文庫)だったりするのはちょっと、なあ。イタい中学生が高校デビューで真っ当になろうとして果たせなかったけれども、どうにかしたって話はやっぱり、高校で卒業しておくのが良いんじゃないのかなあ。

 ライトノベルではあと犬村小六さん「とある飛空士の追憶」(ガガガ文庫)が。ガガガつええな。推薦はつまり「王道であるから」ってことだけれども、王道の王道さを訴えているにも関わらず、その王道な王女と庶民の恋物語がストレートな形で描かれておらず、誰かの記録という形で描かれていることが相対化を呼び、半歩引いたところから見られるようにしているから素晴らしいという推薦理由はどこかに行き違いがあるような。素晴らしい王道の物語なら相対化は不必要だし引いてみることも無用。そのままストレートに響いて来るものだろう。なるほど「とある飛空士の追憶」は入れ子のような構造になってはいるけど、それは恋路こそかなわなかったけれども、あの旅は決してひとときの逢瀬ではなく未来に幸福を呼んだんだって状況を見せ、読む人に安心感を与えるためにとられた構成。一種のエピローグであって、そうした部分も含めて王道であるからこその一般受けだったんだと思うけどさてはて。

 あとライトノベルを進めていた人たちの口調に、これから社会人としてリアルな世界に触れていく訳で、そうなればもっとリアルなものを読まざるを得なくなるんだけれど、今はまだ大学生という子供と大人の中間段階にあるんでライトノベルを目一杯に読んでおこう、そうやってモラトリアムな時代の気分を満喫した上で、ライトノベルから卒業していけば良いんだ的論旨もあったのが気になった。大人になってからでも読めば良いじゃんライトノベル。過渡期的なジャンルだなんって言うのは失礼だろうライトノベルに。

 まあ大人に必要な読み物があることに異論はないけれど、それとエンターテインメントは別な話。荒唐無稽さに溢れ現実にはあり得ない展開がてんこ盛りのドラマや映画が普通にエンターテインメントとして楽しまれているのに、ライトノベルだけが過渡期的なジャンルとして“卒業”されてしまうって見解にはどこか行き違いがある。ようは溺れないこと。読んでいるうちは思いっきりハマって楽しみ、そして現実の世界ではリアルを見つめつつ、そこにライトノベル的な突破力を持ち込んで、この行き詰まった現状を打破していくんだって主張があれば諸手を挙げて歓迎したのになあ。どうして大学生の身でライトノベルを読むことにああいった“理由”を着けたがるんだろう? それがディベート的な戦略? 言えば良いんだ「ライトノベルが好き好き大好き超愛してる」って。

 と言うわけで第2回本屋大賞は舞城王太郎さん「好き好き大好き超愛してる」に決定。2年続けて受賞者の顔見せはなし、か。落ち着きどころとしては妥当だしプレゼンテーションもイカしてた。プレゼンした人のスタイルも愉快だった。過去に溺れたって良いじゃん。そこから未来ってのは開けるんだから、ってのはそりゃあそうだし過去を検証しないで未来なんてつかめやしないって史学科出身者は思う訳で、それを否定されたら史学科なんて学問は存在できないもんああ。ともあれ受賞おめでとう。芥川賞の候補になった時でも三島賞を受賞した時でも見せなかった正体を、大学読書人大賞って今はマイナーな場でいきなり見せてしまうってのも生き方としてカッコ良いような気がするけど、どうです講談社さん?

 あー、宇野常寛さん「ゼロ年代の想像力」(早川書房)も頑張って3位にランクイン。今というこの行きづらい時代をどうとらえ、そしてどう克服していくのかって命題には藍学生の人も興味があったようで、決断主義を克服するにはどうすればいいのか、といった質問に対して推薦したいわき明星大の人は社会や国家といったところで、決断主義が悪い方向へと走らないよう、システムを整備して暴走を防ぐことが必要ではあるけれど、そうした法や国家のセーフティーネットからこぼれ落ちてしまうような人は、「木更津キャッツアイ」のようなゆるい共同体で他愛のないやりとりに超越性を見いだすなり、よしながふみが描く漫画(「フラワー・オブ・ライフ」か?)のように、自分の考えを押し通すためには何をしても良いんだ的な盲目的で暴力的なスタンスには向かわず、個人の軽いや りとりの中で、自分の存在意義を確かめていけばいいのだ、なんて答えを本から引いて話してた。自分の考えを信じるだけでなく他人の考えを触れること、それが決断主義の克服につながるのだということで、そうした主張をできる原著者の人には勘違いロック中年にも口が匂うおやじにも博愛と理解とディズニー的思いやりを頂戴とお願い。

 やっとこさ見た「夏のあらし」のオープニングが毎回違っていたことにようやく気づく。4話くらいん時に、これまで繰り返し見ていた1話の感覚でオープニングを口ずさもうとしたら、まるで合ってなくってついに脳味噌がいかれたか、言語中枢に詰まりが出たかと怯えたけれども逆だった、覚えていたからこそ生じた違和感だったとひとまず安心。問題はだからこれから先の10話12話あたりになった時にどう言い回すかってことと、CDにはどのバージョンを収録するかってことで12番まで収録してロングランにして流すとしても1つ1分半として15分はやっぱり長いか。後半はだいたい同じな訳だし。

 お話の方は潤について。すでに原作を読んで知っているしアニメの1話ですでに仄めかされている訳だから潤がいったい何を悩んでいるかは自明ではあるんだけれどもそれを信じたくない人もやっぱりいるのかなあ、こんなに綺麗な少女が女の子の筈がない、なんて伝説を。原作の展開とキャラクターの配置を知っていても楽しめるアニメ、っていうか知ってた方がより差異と同位を楽しめるアニメもちょっと珍しいかも。新房さんの手がけるものは大概にしてその傾向があるんだけれども「ぱにぽにだっしゅ」は後から単行本の「ぱにぽに」を読んでDVDを見返した口だし「まりはほりっく」は割に原作に近い展開が採用されててギミックが少なかったんであんまり驚きと喜びを感じなかった。最終回だけは別か、スクール水着をひっぺがされた鞠也(偽)とかビジュアル的にショッキングだったし。ここまでの展開でパッケージ購入意欲は70%。戦中でのシリアス話とかが出てきたとしてそれをどうまとめるか、さらに原作では終わっていないエンディングにどう決着を付けるかで100%に向かうかそれとも5割以下に下がるのか。見守ろう。


【5月4日】 「機動戦士ガンダム00」のセカンドシーズンのDVDとかブルーレイディスクもそろそろ発売になってはきているけれどもいったい、どれくらいの売上があるんだろうか。いつかの「機動戦士ガンダムSEED」では1巻で10万本弱といった売上本数があったことが喧伝されて、いったい誰が買っているんだと訝った頭が「C3」のようなイベントに集まりブースを取り囲む女性ファンの多さでもってクリアにされ、そうかそういったジャンルになっているんだと認識させられたけれども、「00」もやっぱり同じ状況が続いているのか、それとも少し様変わりを見せているのか。

 イベントがない現状では「SEED」の時のような盛り上がりが実はあんまり伝わってこない。「東京国際アニメフェア2009」の会場ではなるほど、出演声優のイベントを取り囲むようなファンの姿が見られたけれども、去年ほどの賑わいだったかというと少し微妙。熱が冷めてしまっているのかそれとも別に理由があってパッケージが売れなくなっているのか。パッケージ市場を引っ張るタイトルだけに動向が気になって仕方がない。ブルーレイでは「機動戦士Zガンダム」のボックスが品切れ続出の「交響詩篇エウレカセブン」を上回った売れ行きを見せていたといった話があるが、それとていったいどれほどの数字になったのか。もはや「ガンダム」ですらテレビにかからずパッケージで儲からない時代になっているのだとしたら、アニメーションというビジネスは根本的な曲がり角にさしかかっていると言って言えるだろう。

 そんな状況を改めて可視化するような記事が朝日新聞に登場。「アニメバブル崩壊」と扇情的なタイトルを付けられた記事は、アニメ関連の取材でつとに知られる小原篤記者によるもので「日本の『ソフトパワー』として期待を集めるアニメが、06年ごろをピークに作品数もDVD売り上げも減り続けている。今春の新番組も激減。関係者は『アニメバブルが崩壊し、右肩下がりの時代に入った』と話す」といった書き出しから、パッケージが売れず製作本数が減っている実態を数字で示し、その理由に「ソフトが売れないのは、増えた作品がどれも、美少女やメカといった売れそうな要素を並べただけで似たり寄ったりだとファンが気づいたから」といった言説を並べて、質の低下が売上の低下を招いたと分析し、量より質の重視が必須でそのために教育機関での人材育成が急務と結ぶ。

 ストーリーとしては実にオーソドックスなスタイルの記事。総じて言えば飽和から調整のサイクルに入ったという話で、とりたてて新しめのトピックは書かれておらず、せいぜいがネット対策として講じられた、テレビ東京によるクランチロールを通じたほぼ同時の海外向け配信の話が取りあげられている程度。その後に続くように行われている「黒神」や「鋼の錬金術師」の世界同時放送や、「機動戦士ガンダムUC」あたりのテレビ放送ではなくネット展開を中心に据えたような展開も織り交ぜて、地上波というメディアでのアニメの苦境を描き出しつつ、「空の境界」で見られた劇場からのパッケージの売上確保なり、漫画の単行本とセットになったオリジナルアニメの販売といった見えない場所での巻き返し作を並べ、煽られっぱなしのタイトルの向こうにある光明を見せて欲しかった。

 「量より質」には同意できるけれども「『年間の総制作分数で、日本はすでに中国に抜かれたはず。これからは量より質を重視し、国公立大学でアニメをじっくり教えるなど、官民が力を合わせて質の高い人材を育て、それを日本の強みとする道を考えるべきです』」といった日本動画協会の専務理事のコメントはとてもひっかかる。人材がいない訳ではない。問題はだからアニメが作られ、見られ資金が回収されるような資金循環の道筋を整えることであり、それが可能になるような適正な市場規模の把握と維持だったりする。けれどもそうした前向きな方策については記事ではまるで触れられない。それはたぶん「アニメバブル崩壊」というストーリーから外れてしまうからで、質が落ちたから売れなくなったから人材を育てましょうという、分かりやすいロジックを組み立てた場合に諸所の対策はノイズとなってしまうと考えられたから、なのかもしれない。

 アニメのパッケージ市場が停滞の一途を辿っていることなど、業界団体の日本映像ソフト協会が毎年発表している統計によって白日のもとにさらされている。それ自体が記事になることには今さら感があるし、縮小する市場に対する対策だって、今年の1月にデジタルハリウッド大学で行われたアニメビジネスに関する講演の、アサツーDK本部長やアスミックエース社長やバンダイチャンネル社長や諏訪竹田の名PDのトークなんかもすっ飛ばし、たった1時間目の岩田さん講演を聞いただけで、ITmediaの岡田有花さんが記事を作り上げて即日ネットに流している。

 必要なのはだから善後策であり未来への諸策であって現状の再認識ではないんだけれども、あの小原記者を擁してこれだけの分量を使って記事が書かれても、中身はオーソドックスで分かりやすいというか有り体のというか、表面的には正しいけれどもどこか隔靴掻痒な記事にしかならないというところに、一般紙というメディアの立ち位置の難しさなんかが伺えて感じて身もだえる今日このごろ。なるほど一般紙には長い発行活動によって培われた、広く頒布し且つ世論としてオーソライズしてみせるという機能もあったりするんだけれど、そうした目的のために普遍性があって分かりやすい事象しか選べず、細かいけれども重要な事象を書いてもそれが読者に分かるのか(紙で読んでいる読者、と言う意味。ネットに乗ればもはや関係ないのになあ)といったデスクサイドの判断で、丸められ有り体のストーリーの上に収められ、かくして今回のような記事になってしまうという。

 分かる人には売れているものは売れているし、例え売れなくても多様性から上澄みが生まれる環境は重要だって指摘も文化を語る上では抜かせない。また、アニメに限らずサブカル全般が趣味嗜好の変化の波に揉まれている訳なんで、一概にアニメだけが売れなくなったとは言えないんだと分かるんだろうけど、そうした思考をめぐらさない人、とりわけ大人過ぎて情報源が狭くなっていて、けれどもそんな情報源を金科玉条のごとく崇めたくなる人には、そうかアニメは売れないのかって印象だけを残してしまいかねないだけに要注意。なおかつそんな人が政策も金策も握っていたりするから困るのだ。新聞というメディアの影響力と限界めいたものと、ネットメディアの問題点とそして可能性なんかについて、改めて思いを馳せたこの一件。アニメを流すメディアとしての可能性なんかにも思いを至らせつつ、どんな影響が出てきてどう転がっていくのかを注意深く見守っていきたい。見守ってちゃあ潰れちゃう? けどマイナー過ぎるメディアでは如何ともしがたいのだよ。

 気がついたら女子サッカーのジェフユナイテッド市原・千葉レディースが「プレナスなでしこリーグ」のディビジョン1で浦和レッドダイヤモンズレディースに継いで2位に浮上していた驚いた。一昨年の戦いをディビジョン2で2位に入ってのぞんだ入れ替え戦で敗れ、涙を呑んで雌伏の冬を越えて始まった2008年のシーズンで負け知らずのまま1位を走り続けて見事に昇格。そして臨んだディビジョン1だけれども選手層の厚みが違う女子サッカーで下位ディビジョンから上がってきたチームがそうそう簡単に勝ち続けられるはずもなく、まあとりあえずは残留が婚期の目標だろうしこれからもずっとディビジョン1でやってくれれば有り難い、ってな程度の期待で応援していたらこの成果。いったい何があったんだ?

 選手層はTASAKIペルーレの消滅に伴い選手が移って来て出場したりはしているけれども、代表クラスが入って攻撃の迫力が大きく増したといったところはない。むしろ主力がごっそり抜けた日テレ・ベレーザの方が大変だったはずなのに、ディビジョン1での久々の対戦でジェフ千葉レディースは得点を奪えずに敗北。ベレーザの流石の強さってやつを見せつけられた。けれども他の試合ではしっかり勝ち続けて勝ち点を積み重ね、去年からディビジョン1にいて代表選手元代表選手を擁するTEPCOマリーゼを相手に快足の清水由香選手、ロッカーの石田美穂子選手を欠いた布陣で勝利してしまった。どうしたんだマリーゼ。どうしてあの187センチゴールキーパーを出さないんだ。いたらたいていのボールなんて止められてしまうのに。カリナ1人じゃあいくらサイドをえぐったってゴールは決められないのに。

 ベレーザの方も何か足踏み。アルビレックス新潟レディースを相手に無得点で引き分けて4位に沈んでしまった。荒川恵理子選手はいなくっても永里優季選手に大野忍選手と代表クラスのフォワードは残り岩渕真名選手のような有望株も出てきているのになぜ無得点が続くんだ。あるいは当たるチームが守備を固めて引き分け狙いに持ち込もうとしているからなのかもしれないけれど、そんな相手でもよほどの強豪でなければ軽く一蹴して大量得点を重ねるのがベレーザの特徴だったのに、それがまるで見られないのはどこかに不思議が眠っているのか。まあそんな間隙をぬってジェフ千葉レディースが上に上がって行けてる訳なんで、このチャンスにかじりついて勝ち点を延ばし、上位チームにも引き分けで食らいついて最後まで楽しませてくれれば今シーズンのサッカー熱も冷めずに済むってもんだよなあ。兄貴分が早々に降格を決めてしまう、なんてことにもなりかねないだけに。

 池袋へと出向いて「リカちゃん博」を見ていたら170センチを超える長身のリカちゃんが現れて圧倒される。スーパーモデルかよ。でもってジュンク堂へと回ってもヒラコウはなく、戻って丸の内線の池袋駅のそばにある地下のスタンドでいつもだったら牛丼を頼むところを珍しくハンバーグランチにしたら、1枚のプレートにご飯とハンバーグとキャベツとポテトサラダと目玉焼きが乗っけられたものが出てきて、これが丼に盛られていたら「ロコモコ」だよなった思いながら食べたら結構上手かった。ハンバーグも「キッチンジロー」に負けない柔らかさと深みがあったし、ポテトサラダも冷たくって乾いてな。目玉焼きも焼きたてのほっかほか。量も十分でそれが550円だとはさすがはスタンド、やってくれると讃えたい。次はベーコンエッグのランチにも挑戦してみるか。でもやっぱりここん家は牛丼が好き。柔らかくって味が染みてるんだよなあ。おまけに安い。連休中にまたのぞこう。


【5月3日】 ドーム球場にホワイトベースは入らないとして、そんなサイズ的な錯誤ががほかに「機動戦士ガンダム」にあったかというと案外に見あたらない。むしろ逆に「ガンダム」がサイズ感にこだわって作られていたとも言えて「サイド7」で見上げるように立つザクのサイズ感なり発射されたザクマシンガンから転げ落ちる薬莢のサイズ感は、もしもそういったものが実在したらといった感覚を映したものになっていて、それが見る人たちにリアルさを覚えさせている。身長57メートルのロボットの巨大さをアニメから感じることはなかったが、17、8メートルのザクやガンダムの大きさは未だに感覚に刷り込まれている。

 それだけに実際に18メートルのガンダムがお台場に立ったときにどれほどの既視感を覚えさせてくれるのかが目下の興味の置き所、か。松戸での見上げるような半身像ではやはり半身、同じものを栃木で見た時も感覚は同様だっただけに立像となった意味はきわめて大きい。とはいえ周囲に何も存在しない公園なだけに、現実の構築物との関係を把握できないのが残念なところ、か。

 「東京タワー」に比べれば展望台にすら届かないサイズであり、近所にあるフジテレビの本社と比べても地上100メートルにある球体展望台のわずか5分の1の高さにしか届かない。お台場にある自由の女神が11メートル半。倍にして頭を削ればちょうどガンダムくらいの高さ、ということは実はそれほど巨大ではなかったと、思わせてしまうのかもしれない。出来上がったものを見たあとで、アニメを見返してそのサイズに納得できるか、やはり錯誤があると感じるか。そんな方面からも気にしてみたい展示物になりそうだ。

 1560年の「桶狭間の戦い」から間をおかずして1575年の「長篠の戦い」が始まってみたりすることは、1560年にそもそも生まれてさえいない伊達政宗や真田幸村が参戦していることに比べればさしたる問題ではないし、ただぼ武将の本多忠勝がどう見たってモビルスーツにしか見えない重装備で、背中から火炎を噴き出しいったいそこはどこなんだ的山腹内の基地よりカタパルトに乗って発進していく姿も、上杉謙信はいったい男なのかそれとも女なのかもっと違う生き物なのかといった疑問に比べれば問題として塵芥。菊島雄佳風に言うなら「気になるから気になるのよ。気にしなければ気にならないわよ」といった程度の誤差でしかない。

 だから「戦国BASARA」における問題はたったひとつ、お市の方はいったい穿いているのか、いないのかということである。である。だって見てご覧、浅井長政に駈け寄ろう下場面ですっころんだお市をとらえたあの場面。腰から下がってヒップを覆った後ろの草がふわりとうきあがったその下に見えるのは楚々とした布ではなくってそのままの肌。丸みを帯びた形状も色も生というよりほかに例えようがないもので、そこには目を時に刺激してくれて、けれども時に邪魔だと思わせるような布の姿はまるで見えない。

 可能性としてはそうした右の丸みと左の丸みの間に割れた谷間を細いひも状のようなものでつないで前を覆った布が存在していることだけれども、少なくとも横からのビジュアルでは確認しようがない。ここはだから作家陣には鎧兜の用語辞典で調べるならば、腹部より下がった前草が弾みでまくれ上がるようなビジョンを描く成りして頂きたいと伏してお願いするより他にないけど、果たして聞き届けられるのか、何しろ開いては第六天魔王・織田信長の妹君、下手に刺激すれば兄貴が出てきて踏みつぶされる。気に入らなければ義弟だって蜂の巣だもんなあ。次回予告によればお市の方、来週は頑張るみたいなんでどう頑張るのかを能登声のウィスパーボイスにも誘われつつ見るより他になさそう。

 ついてに「バシュカッシュ!」の問題点について触れるなら「バカ」と「スカ」をいくら連呼しても100万回連呼しても縮まって「バシュカッシュ!」になることはあり得ない、ってことか。「バカ」「スカ」「バカ」「スカ」「バカス」「ッカ」「バ」「カスッカ」「バカシュ」「ッカバッカシュ」「バッカッシュッカ」「バッカッシュ」……やっぱりならない。誰だこんな強引な展開にしたのは。せめて「スカッシュ」を間に入れれば簡単に出来たのに。いやまあそれも問題ではあるけれどもやっぱり問題は6分の1しかない月の重力でもって育まれ成長してふくらんだ部位が地上に降りても重力に引っ張れて垂れ下がることなく弾力も丸みも完璧に維持していることか。いったいどんな道具で支えられているんだ。それは軌道エレベーターすら支えられる強度を持っているに違いない。さすがは未来。

 忌野清志郎、死す、といっても熱中して聞いた口ではないので感慨はそれほどでも。というかもっと昔のそれこそ泉谷しげるさんとか井上陽水さんといったフォーライフな面々と同じくらいから活動しているのかと思ったら、案外に若くて80年代に入ってから名を上げてきたってことに気づいて意外に思う。それにしてはなインパクトはやっぱりあの顔立ちに歌い方に唄っている内容の過激さが、一気にまとめて爆発して世間を引きつけたからか。「僕の好きな先生」とかはラジオで後で聞いたくちで、気づいた時には「トランジスタラジオ」とか「雨上がりの夜空に」といった独特の歌唱とサウンドが鳴り響いていたもんなあ。あとは世間様への反骨心というか茶目っ気みたいな態度が時々新聞沙汰になったことか。でもそうした活動がギミックとして軽んじられることもなければ、逆に運動として痛々しく見られることもなかった辺りが絶妙というか人柄というか。言いたいことはいうけどそれを錦の御旗に立てずシンボルにもならないスタンス。けれども世間は何かを感じて動きたくなる影響力。右も左も極論がはびこって結局は行き詰まり離反を招いて雲散霧消し一部が先鋭化して離反が嫌悪に至る運動に、打開の道を示唆してくれそうな生き方だった。合掌。

 むっくりと起き出して「ワンピース」も見ないで秋葉原へと向かい「ライトノベルフェスティバル」。その前にマクドナルドでメガドッグとやらを食べたけれどもいつも食べてるサイズのフランクがコッペパンにはさまっている程度。これならコンビニでコッペパンを買ってフランクも買っていっしょに食べた方が味も濃ければ中身も濃いような。それから会場へと出向いて受付をして席に座って待っていたら桜坂洋さんが現れては消えていく。お仕事頑張って。

 ほかにはMF文庫Jの作家の人がわんさかといたみたいだけれども知らない人に話しかけるのが極度に苦手な引っ込み思案では如何ともしがたく、遠巻きにクロスシャッターの人だ死神ナッツの人だドルイドさんの人だ等々の感想を抱いて有名な人に出会えたと嬉しがる。藍上陸さんはどっかですれ違ったことがあったっけ。MF系の人たちと知りあいなのはライトノベルの作家のギルドが地下に出来上がっている現れか。そんなギルドに睨まれたレビュアーはやがてクロスシャッターで服を歯がされ地下へと送られ異次元へと飛ばされ消えて行くんだ。

 そんなギルドに版元方面から近づくって手段も出来ない一般人は静かに出し物を席に座って聞くのが重畳。アサウラさんは例の半額弁当争奪戦を半ばノンフィクションだと言っていたのがちょっと愉快。あんなバトルを繰り広げたからこそのリアリティって奴か。リアルなのか。竹岡さんはそうか「ウォーターソング」ってSFだったのかと自分の日記なんかを読み返して今さら反復。「東方ウィッチクラフト」とか「フラクタルチャイルド」とか印象的な話をいっぱいコバルトで出していたんだけれど今って、どうなんだろう。「SHAPPLE」は折り返し地点は過ぎたらしい。1巻の完璧さからエスカレーションしてく話に頑張って面白さを見つけて付いていこう。

 「聖剣の鍛冶職人」はコスプレしていたお姉さんばかりが気になって話はうろ覚え。肩当てをガムテープで張り付けていたのが手作り風。胸元の鎧の下はちゃんと入っていたのか空間になっていたのか。聞きたかったけれど斬られると思うと恐くて聞けない。内山二郎さんはそれこそ「ハヤカワSFコンテスト」が現存していた時代から投稿生活を続けていたとか。苦労がしのばれる。MF文庫Jな人たちが集まった同人誌とやらも販売。「みみっく」って開けたら噛みつくって意味か違うのか。そんなこんなで閉幕したんでそのまま帰途へ。居残ったって別にやることないし、秋葉原へと出て本屋とかのぞいて平野耕一郎さんの本は軒並み品切れなことを確認。「交響詩篇エウレカセブン ポケットが虹でいっぱい」のムックはむしろテレビ版のおさらいが役立ちそう。「ハルヒ」「かんなぎ」「ギアス」の画集は余裕が出来たら。ってことは3年後くらいか。買収されて外資になってボーナス1億円とか。ないない。

 語らわずとも読めれば楽しいとの信念に基づき読書な時間。前田栄さんって人の新書館ウィングス文庫から出た意SN感「天涯のパッシュルーナ1」(新書館)は山賊の跡取りにえらばれた少年が気づくと周辺を治める領主にとらえられて都へと送られようとしていた。何でも16年前に王宮から偽の巫女によって攫われた第1王子だそうで、14歳になると神託を受けて進路が決められるシステムになっている国にあって、第1王子亡き後の王位を伺っていた第2王子が聖職に就くよう神託をを受けたことで、第1王子の存命が噂されそれにのった領主が近隣にいた、神託を受けていない16歳の少年だった主人公に目を付け引っ張り込んだらしい。

 とはいえ一方には実は暗殺の危機があった第1王子を逃がすために巫女が偽巫女に扮して王子をさらい、近衛隊長へと預け隊長はそのまま山賊となり、王子を義理の息子にして育て上げたといった説もあるという。近衛隊長が王子を連れて山賊になったのなら義理の子じゃなく実子にしておいたって良かった訳だし、主人公が拾われた時にはすでに山賊としての名を上げていたのだとしたら時期も合わないような気もしないけれどもそのあたりの胡散臭さを主人公は微妙に感じて、降って湧いた幸運を幸運と受け止めず山賊時代の暮らしへの愛着を隠そうとしない。

 領主の許嫁になっているお姫様もやっぱり外で普通の暮らしをしていたところを思いだしたように父親に引っ張られ、政略の出汁にされたこともあって主人公の少年と性格の強さが似たり寄ったり。酒場で騒ぎ庭で料理をして騒ぐ姿とお姫様として楚々としている姿とのギャップが妙におかしいけれどもそんな姿を果たして領主はどう思っているのか。それよりも目は主人公の少年の方へと向いていたりするのか。ウィングス文庫だしなあ。そんな感じで始まった物語は先がまだ見えず王宮での10人以上は集まった第1王子候補たちのバトルロイヤルへと向かうのか、それともやっぱり主人公は真実の王子様なのか、そんな辺りが明らかになってくれるだろうと第2巻には期待。領主が連れていたジト目の少女の正体や如何に?


【5月2日】 「宇宙をかける少女」の中に少女たちによる野球のチームが登場したのはまあ、番外編的なお遊びだから関係ないと除外して近未来なんかを描いたアニメーションの中で現代のスポーツがいったいどうなっているのか、といった描写が果たしてあるのかどうかを考えてはみたものの、これといって記憶に上らないのは本筋を語る上でそうした社会とも政治とも経済とも縁遠い、背景説明になりづらい素材をわざわざ入れる必要性が感じられなかったという理由があるからなのか、それとも作り手に興味がないからなのか。

 とはいえ都市のランドスケープを描く上で巨大建築のひとつとしてのスポーツ施設は結構意味がありそうで、生活する人たちがいる以上はそうしたスポーツ施設の1つや2つがあって当然なのに、存在していないということはつまりそこにスポーツを楽しむ社会も文化も存在し得ないといった可能性が浮かび上がる。あるいは国威発揚の道具としてのスポーツといったものもある訳で、それらを省いて描かれた国体なり社会なりの物足りなさについて、さまざまなアニメを思い返すことによって考察することもできそう。

 ということで「機動戦士ガンダム」の場合について、思い返してあからさまにスポーツをしている場面は出ていなかったのではといった記憶がとりあえずあるけれども、だからといってあの世界にスポーツがなかった訳ではないのは、「ガルマ散る」の場面でホワイトベースが巨大なドームに隠れていた場面から想像が可能。ドームに出来た裂け目から中に隠れてホワイトベースは上空を行くガルマのガウをやり過ごし、外に出て背後から砲撃を加え頭を回して迫ってきたガウを破壊し、サイド7から続いていた戦いにひとまずのピリオドを打つシーンから、おそらくは野球のようなスポーツはしばらく前まで行われていて、それがジオンの進行によって休止されているのだといった想像が浮かぶ。ただし。

 ヒューストンにあってドーム球場では最古の1965年にできた「アストロドーム」でサイズは直径が215メートル。日本の「東京ドーム」は200メートルで「大阪ドーム」もそれくらいと考えると野球のドームのサイズはせいぜいが200メートルからプラスマイナス20メートルと考えるのが妥当で、そこに240メートルも長さのあるホワイトベースが入るはずがない。とはいえ「ガンダム」が作られた1979年の段階で、日本に「東京ドーム」はまだなくアストロドームやガルマ特攻の舞台になったと言われているシアトルに出来たばかりの「キング・ドーム」も海の向こうで今ほど資料も楽には手に入れられない。広くて巨大なアメリカへの憧れもあった当時の心境で、伝わってくる情報から考えて野球が出来てしまうドーム球場なんてきっととてつもなく巨大で、500メートルくらはあるんじゃないかといった想像が作る側に浮かんでいたのかもしれない。それなら十分に入るだろうから。

 もっとも考えれば野球の試合でホームベースからスタンドまでが100メートルと少し。そこにバックネットまでの距離とスタンドを合わせてもグラウンドの3倍以上になるとは思えないのだが。ちなみサッカーは長さが縦が100メートルで幅が50メートルのピッチの周囲をスタンドが取り囲んだとしてもやっぱり200メートルもあれば十分そう。仮にホワイトベースがサッカーの盛んな中南米に落下していたとしてもメキシコの「アステカスタジアム」でもブラジル「マラカナンスタジアム」でも中に入るのは不可能だったのではないだろうか。そもそも屋根がないから入ったところで空爆されてしまうのだが。

 という訳で今日もきょうとて「フクダ電子アリーナ」へとかけつけサッカーの試合。「SFセミナー」にも興味があって円城塔さんのしゃべくりなんかも聞きたかったけれどもそれを経ると開始に間に合わないんで不参加。SF評論家パネルってのもあったけれども批評のスタイルもSFに対するスタンスもたぶん結構違っていたりしそうな人たちが並んでいったい何を喋ったのかに興味。作家の評伝的な視点で分析するのと類書を並べSFというジャンルにおいてどんな位置づけを持つのかといった書誌的な視点から分析するのと描かれている内容と社会との関わりから分析するのと文体その他の文芸的な視点から分析するのとではアプローチも違うし出てくるものも違うし評価の基準も違うのに、ひとくくりに「SF評論」って言ってしまうことって果たして出来るのかに目下の興味があるのだけれども考えると面倒なので考えない。向いてないし。

 んで鹿島アントラーズ戦は……負けました。やっぱりなあ、パスがとおらないしトラップしていても流して奪われてしまうし持ちすぎて後ろからかっさらわれてしまうってところに問題があるような。すべてが動き出しの悪さにあるようでトラップの先に人がいれば奪われずに澄んだりスペースに人がいれば無理なドリブルをせずともパスを出せたりするのがそこに人がいないんで躊躇している間に詰められ狭められて前へとボールを進められない。サイドチェンジのパスなんて前半、ほとんどなかったもんなあ。対して鹿島は右サイドの新井場選手がほとんどフリーで前へと走り込んではもらった、あるいは左サイドで前へのサイドチェンジが簡単に通ったりする場面が多発。あれだけ攻められればセンターバックも釣り出されて中央に穴が開いてしまうよなあ。

 後半に入って青木良太選手がどとうの上がりを見せてはいたけどそれができるんだったらどーして前半からやらないんだ? 前にスペースがあっても後ろに張りつき上がらず中央で奪ったボールは左に渡すしかなくくってそこを詰められ奪われる繰り返し。サイドがスペースを意識しそして中央が両サイドに視野を広げて使うようにしないと、いつまでたってもどん詰まりから前に人を避けず巻選手が孤立の果てに潰れるだけの試合が続くことになりそう。阿部ちゃんがあそこにいればなあ、とか水野晃樹選手山岸智選手がサイドで前を意識した動きをしていればなあとか、思うことは多々。使わないんなら川崎フロンターレには山岸選手の返還を求めたいなあ、セルティックの水野選手はもーちょっと頑張れ。

 なんだとっても良くできてんじゃん「電波的な彼女」のOVA。キャラクターが山本ヤマトさんのまんまかというとそうでもないけどアニメーション版「紅 −Kurenai−」と比べるとまだイラストに近いって雰囲気だし、お話の進め方も猟奇があって青春があって電波が来て懐疑から行動を経て共闘に至り、解決したと見せかけて最後に闇を持ってくるオーソドックスな語り口。原作を読んでそうじゃないって知ってはいてもそうかもしれないって思わせてくれる出し入れの巧みさと、あとは時折見せる堕花雨の前髪を上げた素顔の超絶的な可愛らしさで興味を引きつけ、最後までグイグイっと引っ張っていってくれる。

 テレビで放送されないOVAって特徴も生かして性的な陵辱があり、暴力の果ての惨殺があり、そしてリアルタイムの暴行もあって身に痛みも走りそうな迫力。そんな物語の合間にかつて出会ったことのある2人が時を隔てて邂逅し、今ふたたび併走を始める青春の1ページって奴を見せて胸をキュンとさせてくれる。雨が降る町の暗さに昼間の空の爽やかさ。背景もしっかりと描かれていて世界にとってもリアルさを感じさせる、ってこれって時代的にはしばらく先のことなんだよなあ、機械人間とか平気で闊歩している「紅」よりさらに先の。

 まあもともとはこちらが先に出てきた話で「裏十三家」の設定なんてまだ見えてもいなかった(考えてはあったのかな?)時代に書かれた話で、ストーカー気味な少女と孤独な少年が出会い寂しさを埋め合って前へと進み始める青春物って考えれば、これはこれで実にシンプルで古典的な物語って言えるのかも。そのまんま実写になったって不思議はないくらいの。問題は小柄で電波で前髪が長いんだけれど上げるととっても美少女な役者がいるか、ってところか。昔の栗山千明さん? はだめだどう考えても電波に可憐さが微塵ものぞかない。蒼井優さんも宮崎あおいさんも歳食い過ぎてしまったしなあ。

 声では「CLANNAD」の藤林杏ではなくって「バンブーブレード」の珠ちゃんだった堕花雨は、感動を内にこめてとつとつと喋る澄んでいて何の裏もなさそうな響きが耳に突き刺さってきて良い感じ。ジュウは……よく知らない。細谷佳正さんって人。あと堕花光をやってて駅のプラットフォームでいきなりジュウに回し蹴りを喰らわす吉住梢さんって人も。知られている人はだからジュウのことを気にかけている紗月美夜を演じている小林ゆうさんくらいか。でも総じて実力派がそろっているんで聞いてて違和感はない。突拍子のなさが求められるど派手演出のアニメ演技よりも海外ドラマの吹き替えに近い雰囲気を出したかった、って言えば言えるのかそれとも単純にお財布の都合か。続編も作られるそうなんでそっちでの進化ぶりに期待。テレビ化は難しいだろうなあ、内容的に。

 夏海公司さんの「葉桜が来た夏」(電撃文庫)の第4巻ではいよいよもってアポロトス、ではなくアポストリと人類との諍いが幕をあけて事態は逼迫。ほとんど戦争状態になってしまったこの先に調和を見いだす余地はあるのか。ゴスロリな憲兵の手にした鞄の秘密に呆然。そうだよなあ。質量こそが武器だよなあ。折口良乃さんって人の「九罰の悪魔召還術」(電撃文庫)は呼び出してもいない炎の悪魔との同居物。そこにエクソシストって少女もやって来ては服を脱いだりしたりして、さらには九罰って少年の妹の七罪も絡んだりしてもうハーレム状態って感じだけれども、かといってラブコメには傾かないで罪を犯し悪魔にすがった人間の末路なんてものも描き、悪魔と契約することの痛みってのも描いてあったりしてとシリアスな側面も残してる。キリスト教が天草四郎の乱の成功で国教となった日本が舞台って設定がますます生きてくるのか。九罰に七罪なんて物騒な兄妹の名前に意味はあるのか。そんなあたりを続きがあれば探っていこう。

 だから牽強付会は止めないとブーメランに撃たれ自縄自縛に陥るってあれほど言っているのに止めないところにらしさはあってもそれは結果として信頼を失わせ隘路へと迷わせ衰退から消滅へとひた走らせるだけだと叫んだところで馬耳東風というか届くはずもないし届いていたらこれほどまでの惨状にも至らなかっただろうからやっぱり今さらということでとりあえずとある事態に異論が差し挟まれたものの中立的な審査機関によっておとがめを受けなかったことに対してそれでは不十分だというのはつまりそうした審査機関すなわち国においては法律とも言えそうな基準をも否定する行為であって中立性公正性を自ら否定するものであるといった自覚をまずは抱かないと信頼はさらに失われ破滅への階段を転げ落ちていくだけなんだろうけど今さら遅く夏は寒く来年は来ない。


【5月1日】 もはやテレビでいくら宣伝をしたところでDVDもブルーレイディスクもなかなか売れない時代。以前だったらそれでも素晴らしい作品を有り難うといった感謝の気持ちで購入していた層が、昨今の不景気でDVDに回せる可処分所得が減少し、テレビで見られるんならそれで良しといった段階に踏みとどまってしまって、なかなかパッケージへと手を伸ばさない。自分の場合でいうなら「空をかける少女」あたりが分水嶺に立つ1作で、たとえパッケージに50カットの新作が加わったと聞かされても、それでストーリーが大きく変わる訳でもなければ神凪いつきのヌードを拝める訳でもないと分かっているから、買ってまでして見ようという気に至らない。

 半年前ならそれでも「かんなぎ」を揃えたような突発的な動きも見せられたけれども、これとて限定版といった妙味につられてしまったのがひとつの理由。「鉄腕バーディーDECODE02」については作品としてはビジョンが狭くなっていてあまり好みではないものの、「01」を揃えてしまった流れでやっぱり買わざるを得ないといった考えに至って、とりあえず揃える気持ちが先走る。あとはカペラちゃんのかわいさか。1クールだから揃えても半年で終わるといった理由もある。この後だと「キャシャーンSins」のブルーレイボックスの最終巻を買って「東のエデン」のブルーレイを買い始めて、他に何があるのだろう。「けいおん」……多分買わない。買っていったいどれだけの上乗せがあるとも思えないから。

 つまりは相当に厳しいパッケージビジネスの世界に新しく起こりつつあるのが、漫画とセットにしてOVAめいたものを売りさばこうという出版社とアニメ制作会社の魂胆。30分くらいの映像だからつまりはまるまる1本の作品が入って価格は4000円程度とOVAより安いくらい。そのクオリティについては数をこなしていないためはっきりしたことは言えないが、漫画本の”おまけ”的な位置づけに立つOVAをテレビで放送されるハイビジョンクオリティのアニメーションと同質に語って優劣を決めようといった気にはなかなかならない。まあまあで結構。つまりはキャラクターグッズのひとつであって、それがOVAクオリティなら儲けもんだといったある種の錯覚を、購入者側に起こすのではないのだろうか。

 それでいて数はそれなりに出る。10万部は出ないにしても1万部とか出ればパッケージビジネスとしてはまあ成功。余計なレコード会社とかを間に立てていないから収益もフルにぶんどれる。「機動戦士ガンダムUC」がテレビ放送をしないでネット配信や上映といった手法で稼ぐモデルをうち立てようとしている話が先日から流れて新時代の到来を予感させている。出版を組んだ展開もあるいはそこに加わって来る可能性もあるように思えて仕方がない。漫画、という訳にはいかないのならそれこそ福井晴敏さんの「ガンダムUC」の単行本とセットで販売する。1巻で1万部も売ればリクープは可能か。値段は1冊3000円。これなら買ってみようかといった気分も起こる。

 すでに先行して相当巻数の単行本が出ている上にまた買わせるのか、といった声もあるだろう。未見の人用と割り切っても良いのだが、それなら新刊分から着けるようにしていくといった手もとれないこともない。いずれにしてもパッケージを単体で販売するよりは、書店というルートを通して世間により広範囲に流通させやすい状況を作れる。買わなくてはといった気も喚起させられる。その手を広げて今後のガンダムは「ガンダムA」での漫画連載とアニメの制作がセットになって進められ、単行本が出るごとに2話なり3話のアニメが入ったDVDが付いてくる、といったビジネスモデルもあるいは起こって来たりするのかもしれない。しないかもしれない。ともあれ漫画や本の付録DVDがいったいどれだけのクオリティなのか、おまけレベルを超えているのかをまずは確かめてみるしかないだろう。かといって「ネギま!」とか買いたくないしなあ。そういやあ「こどものじかん」のDVD付きを買ったんだっけ、あれはどこに行ったんだ?

 と言うわけで買ってみた「紅」の第3巻の「電波的な彼女」のOVA付き。だけどまだ見ていない。というかどんな話しだったっけ「電波的」。まあアニメーション版「紅」と同じブレインズベースが制作しているからクオリティについては安心できるんだろうけれど、あれは完全に松尾衡さんの作品になってて音楽も村松健さんだったのがこちらは監督もキャラクターも音楽も完全にオリジナルになっているから、同一の雰囲気を楽しむってことは出来なさそう。後でゆっくりと見よう。でもって漫画の方は紫がとっても可愛らしい。アニメ版が終わってしばらく離れていたりするんで漫画版なり小説のイラスト版の可愛いかわいい紫が、すっかり頭に染みついてしまって来た模様。銀子については顔立ちは漫画版も良いけどでも、あのつんとしてちょっぴり抜ける声があってのものだったから優劣は五分五分か。弥生さんこんなに目つき、悪かったっけ?

 ザラリとしてキラキラと輝く用紙はさすがにコストもかかるのか、幻狼ファンタジアノベルズの最新刊として出た栗原ちひろさんの「世界画廊の住人」(幻狼ファンタジアノベルス)はツルツルのコート紙になって普通のノベルズの様。描かれているのがイケメンな男子2人なだけあってあるいはそっちに傾いた耽美な話かって想像も巻き起こったけれども読むとこれがなかなかに”世界”について考えさせられるファンタジー。今いるこの世界が誰かの描いた絵ではないのかといった懐疑を抱かせ、それならば諦めるのかそれであっても突き抜けるのかといった判断を迫る。

 錬金術師の卵としてようやく論文を書き上げ送った主人公のセツリだったけれども、協会から認定が来る前に兄弟子で今は神殺しを目的にする深淵派ってところに入ってしまったカルヴァスが現れ、仲間に入れと誘いかける。嫌だと断った彼はその前に道ばたで拾った記憶喪失ながらも自分は画家だと主張するリンという男といっしょにどこかへと逃げ込む。そこは「世界画廊」と呼ばれていてさまざまな絵がかかっていて、セツリはそんな中にあった1枚の少女が描かれた絵に目を引かれ、そのまま少女がいる世界へと入りこんでしまう。驚きながらもコミュニケーションに応じた少女は王によってその場所に留め置かれていると告げ、画家と呼ばれる存在が世界を差配していると教える。画家とはいったい何者か。絵の世界を出たセツリは幾度となく少女のいる絵の中の世界と現実の世界を行き来するようになる。

 「世界画廊」の在処を嗅ぎつけたカルヴァスが深淵派に入った理由。その彼がセツリに興味を持った理由。画家がすべてを支配していると絵の中の世界で恐れられていた理由。それらがセツリたちの暮らす世界の有り様を示し、彼らにひとつの絶望を強いる。けれどもそこで絶望に沈まなかったのがセツリの強さ。絶対不可能な状況に対して挑む彼のスタンスに、壁なんて吹き飛ばしてしまえば良いんだという前向きな楽観さを教えられる。「フェッセンデンの宇宙」にも似た入れ子構造はいったいどこまで続いているのか。その末端までをも突きつめようとすると、話は百億の昼と千億の夜を超えても終わらないけど、額縁の枠をちょい飛び出した場所から再び額縁の中を見させる方向に進むことで、半歩上がって見渡しそして今を受け入れ、前へと進むほど良さに留まっていて、それなりなハッピーエンド感を得られる。作者はそうか「オペラ・エテルニタ」の人か。THORES柴本さんの耽美で構築的な絵で読んでいた時とは違ったポップな雰囲気。絵ってやっぱり印象を大きく引っ張るなあ。

 ジョニー軍団っていったい何だ? 新聞配達をやっていたのか滝沢朗? そして交差点で新聞を手渡した相手がサポーターなのか? 分からなくなって来たけれどもそうした断片が散りばめられながらも重なり回収されていく過程を楽しめそうな予感があって、毎回を見逃せなくなって来た「東のエデン」。2万人だっけ、ニートをいったいどこに送り出したんだろうとか、過去にあった謎も断片が輪郭をもって来たし、そうした謎が明らかにされていく様をこれからの数ヶ月間、楽しめると思うとこの厳しい環境の中でも生きていこうって気が湧くもんだ。定期でもないのにわんさか異動があったりする会社ってやっぱりまともじゃないよねえ。キャラクターでは森美咲がちょい後退気味で本筋に絡んで来ないのが残念。あのぼへーとした顔がくるくる表情を変える様を見たいんだ。そういやあお姉さんも同じ顔立ちだったなあ。家系か。のべつまくなしに電話をかけて来る大杉くん、ちょいウザいよなあ。


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