縮刷版2009年4月上旬号


【4月10日】 ビジュアルにインパクトを感じて引っ張り込まれたという「機動戦士ガンダム」の世界。中学3年のクラスで誰かが話していたのを耳にして、見せられたのがきっかけだとして、ではいったい何のメディアでビジュアルを見せられたのかがまるでまったく記憶にない。今だったらそれこそ携帯電話の待ち受け画像にでも入れて見せて歩けるけれども、当時にそんなテクノロジーはない。雑誌くらい。そしてアニメーションの情報を掲載する雑誌というのも、今に比べてまるで全然少なかった。

 アニメ雑誌というのがあることは分かっていて「月刊アニメージュ」に「ジ・アニメ」に「マイアニメ」あたりが競い合っていたのだろうか? 「ニュータイプ」の創刊はずっと後のそれこそ「ガンダム」が大ブームになり、「機動戦士Zガンダム」が作られることになって、合わせて創刊されたものだから1980年の世界にはまだ存在していなかった。専門誌ではなかったけれども「月刊アウト」が「ヤマト」に続いて「ガンダム」にも目を付けて、アニメ関係の情報をコンスタントに掲載し始めていた頃だったような記憶もあって、毎号になにがしかのアニメ関係の話が載っていた可能性はある。

 そして忘れていけないのが「アニメック」。大判の月刊アニメ誌とも「アウト」のようなザラ紙を束ねた中にギッシリと記事を詰め込んだ情報誌とも違って、固い紙に文字が行儀良く並んで画も綺麗にレイアウトされていた、雑誌というよりムックに近い作りの本が売られていた。なおかつそれが、名古屋でも外れの田舎にようやく出来た本屋にしっかり配本されていたのだから、今にして思えば奇蹟に近い。あふれかえる雑誌に書籍が店頭から売れ筋なり、大手書店の予定配本だけを残して他の、マイナーな雑誌や書籍を並ぶ前に排除している。当時より倍も広さのある書店がロードサイドに建ったとしても、並んでいる本や雑誌は案外に守備範囲が狭い。「SFマガジン」すら置いていない店だってある。それも割に多く。

 平針のハローフーヅ斜め前に出来たその本屋には、「SFマガジン」が積まれていた。「SFイズム」や「SFの本」や「SFアドベンチャー」や「SF宝石」「奇想天外」も並んでいたような気もするけれども、時代が前後しているから一緒に並んでいたかどうかは定かではないけれどもともかく、当時出ていた雑誌のほとんどにお目にかかることが出来た。奥の書籍の棚には早川の海外SFシリーズも入っていた。イタロ・カルヴィーノの「レ・コスミコミケ」がいつまでも並んでいた記憶が、今もくっきり残っている。買っておけば良かったなあ。

 そんな情報に対してアクセスが容易だった時代、というより繰り出される情報そのものの種類は多彩でも、1つの種類に津波のようにメディアが群がる時代ではなく、まんべんなく情報が1つのポータルで公開されてアクセスを容易にしていた時代に生きられたという幸運がまずあって、そこにしっかりとアニメ雑誌も置かれていたという僥倖も重なって「アニメック」をすぐさま手に取ることが出来た。最新号に限ってのことだけど。

 振り返るにあるいは中学校で見せられたのは「アニメック」の第10号あたりで、それに触発されてすぐに買いに走って貪るように読んでビジュアルに触れ、各話ごとにしっかりと粗筋が下手な論評も筆者の自分語りもない文章で書かれてあって、それでストーリーも学んでこれはと引っ張り込まれていったという、そんな可能性がだんだんと高くなって来た。ついでにいうならこの雑誌で、板橋しゅうほうという漫画家の名も知った。「ペイルココーン」、というより「熱中ジアーラ!!」か。破天荒過ぎるギャグをアメコミ調の絵で見せる内容にこれは何だと驚きつつも、画の巧みさに目を見張った記憶がこれも、やはりくっきりと残っている。さまざまな情報が詰め込まれてパッケージとして提供される雑誌は、こういう出会いがあるから面白い。

 後にやはりたしか「アニメック」でモビルスーツが特集された時に、取りあげられていた「超人ロック」の「炎の虎」に興味を抱いて「ロック」を読み始めたのだった。コンテンツがトピックごとに細分化され、検索装置によってピンポイントで発信者と受信者が結びつく時代にはこうした出会いも少なくなって、売れるもの、話題になっているものだけが盛り上がって後は死屍累々という状況が生まれ始めていたりする。ネットの発達と検索機能の精緻化は、検索対象として記憶される以前に誰の目にも届かないまま、検索の埒外に放り出されて埋もれていく。誤配が生まれず発見が行われず将来の爆発へとつながらない状況は、もしかしたらコンテンツ産業の将来にとってあまり好ましいことではないのかもしれない。

 ようやくやっとザッと見てみた「クイーンズブレイド」を見たら、乳が大爆発していた。それはだから爆乳って巨大さをさらに上乗せしたものを形容しただけの言葉ではなくって、文字通りに爆発していて驚いた。いったい何が起こっているんだ。そんな「クイーンズブレイド」では、他の作品にも似て亀甲縛りの前に霞がかかったようなエフェクトが行われていたんだけれど「ノイタミナ」の枠として新しく始まった「東のエデン」は、ホワイトハウス前でコインを投げて警察に声をかけられ右往左往しかかっていたはぐ……ではなくって森美咲に、道路を挟んで声をかけて来た男が何故か手に拳銃を持っているだけであとは素っ裸。だから当然に前にぶら下がっていて不思議はないんだけれど、そこにはもにゃもにゃとした毛玉みたいなのがまとわりついて、ぶら下がっているものを見せてくれない。

 見たいかと言われると寒さに縮こまっているジョニーなんて、見て象さんにもなっていないんで別に良いけど、そんな恰好になっておまけにまるで記憶を失っていても場に対して機転をきかして女の子を助けて切り抜け、そしていけしゃあしゃあと彼女を連れて日本へと向かおうとする行動力に判断力はやっぱり彼、M−65の着用者であるところの滝沢朗のただ者でなさって奴を感じさせてくれる。実際に彼はセレソンと呼ばれる、日本を正しい方向に導くために1人頭100億円の電子マネーを携帯電話に入れられ渡された12人のひとり。素っ裸になって拳銃をホワイトハウス方向に向けた段階で、携帯電話から信号を聞いて記憶を消した理由への謎もあり、また滝沢をはじめセレソンにそうした行動をさせている勢力の正体への謎もあってこれからの展開で、どう明らかにされていくのかって興味を激しく引っ張られる。

 羽海野チカさんのキャラクター原案ってことで「ハチミツとクローバー」の醸し出した空気に引っ張られかねないんじゃないかって懸念も浮かんだけれども、神山健治さんが過去に得てきたさまざまな経験と、そして今に対する想いをぶち込んだ作品として漂っている、謎のミサイルが日本に落っこちそして新しいミサイルも落っこちてきたりする状況の不可思議さ、1歩間違えば危うい方向へと転がっていきかねない展開のシリアスさを、あのほわほわとしてにこにことしたキャラクターのイメージが、中和し覆って目に優しく、心に鋭いアニメ作品へと仕立て上げている。なかなかナイスなコラボレーション。絵もしっかりしているし安心して見て行けそう。滝沢のアパート前でジョニーを婦人警官に披露した前後で棒立ちになる咲の頭をつかんでくるりと1回転させた絵とか、見ていて心地よい動きをしていたもんなあ。最大の期待作。「シャングリ・ラ」は追いすがっていけるのか。

 えっとこれはどこの「かんなぎ友人帳」ですか? ってむしろ逆なんだけれども当時は余りの絵の凄まじさ、展開の破天荒さに声なんてじっくりと聞く暇もなかったもんなあ、演技も今ほどこなれていなかったし。ってんで始まった「神曲奏界ポリフォニカ クリムゾンS」は夏目な神谷浩史さんとナギの戸松遙さんが再びの結集。舞台をタタラ・フォロンがまだ学生だった頃のトルバス神曲学院へと戻し、進級できるかどうかの瀬戸際にあったフォロンが眠っていたコーティカルテを呼び出し自分の契約精霊にするまでが第1話では描かれる。学校での騒動はこれからか。とりあえずちびっ子で狸顔だったからこその可愛らしさだったコーティが、狐顔でスリムな娘になっているのが何というか違うというか、うーん悩ましい。前のキャラ絵で今ほど動けばと振り返っても仕方がないんだけど。とりあえず最後まで保ってくれと期待。


【4月9日】 「機動戦士ガンダム」ではメカよりもキャラクターに惹かれて見始めたのではないかという推察。自分のことを語るのに推察も何もないんだけれども、事が30年近くも昔のことなだけに、今の「ガンダム」に感情や趣味嗜好やらから遡って当時の感覚を思い出すより他に術はない。では僕はアニメーションのいったいどこを見てビビッドな反応を抱いているのか。現時点では実はキャラクターというより物語なり設定で、事前にアニメ雑誌なんかで情報を集めるなり、ネットから情報を得るなり原作がある作品なら原作を読むなりして、自分にマッチした作品かどうかを勘案する。

 キャラクターも考えない訳ではないけれど、言ってしまえばどれも美少女であってそこに他との大差を覚えることが少なくなっている。微差でも差だと認知し、その差異にこそこだわるのが真の現代のアニメオタクと言うなら僕は、とうにアニメオタクの範疇から外れてしまった、サブカル野郎でしかない。この4月に始まった番組のキャラクターをずらりと並べられたところで、どれがどの作品のキャラクターだということはまずできないし、それより以前に誰に惹かれたかを聞かれても、即答することは難しい。敢えて言うなら「夏のあらし」の潤、か。これも顔立ちというより、声に惹かれたことが理由にあるのだけれど。

 「ガンダム」の当時は違っていた。キャラクターの画に関心をそれほど抱いていなかったのは今と変わらないけれども、当時はそんなキャラクターにだけ注目するような見方を覚えていなかった。なるほど「宇宙戦艦ヤマト」の森雪に憧れ松本零士の描くキャラクター原案に惹かれていたし、「未来少年コナン」のラナの表情に焦がれてもいたけれどもそこからだったらキャラクターとは? とまで視点を広げて見るようなことはしていなかった。ストーリー。毎週の展開がどうなるかっていう、連続ドラマの楽しみ方の範疇でテレビアニメを見ていたのではないだろうか。

 「ガンダム」ではストーリーは未見のために未知だった。既に放送は終わっていても知る術がなかった。そんな状況で惹かれる対象があったとしたらキャラクターしかないという推察。これを信じたとしてではいったい、どのキャラクターに惹かれたのだろうということを考えたときに、たぶんアムロ・レイではなかっただろうという確信がすぐに浮かぶ。天然パーマで鼻がひくく弱々しそうな目つきをした少年のどこに惹かれろというのか。100%あり得ない。ならばブライト・ノアか。やはりあり得ない。シャア・アズナブル。またはセイラ・マス。美男美女のこの兄妹のビジュアルが目に入ったことが「ガンダム」に、引きつけられた根底になるのではないのかとう想像が、きわめて妥当で穏当ながらも浮かんでくる。

 金髪というかテレビで見れば黄色い髪をした、顎の細くて目つきのキツいセイラさん。キッと見据えた目線にとらえられたら中学生の男子に逃げる術はなかっただろう。サイド7で侵入して来た兄に銃を向けたイラストだったらなおのこと、どこかに怯えと悲しみを顰めつつ驚きを表情に込めた顔が発射されない拳銃の弾のように、僕を貫いていたって不思議はない。実際に、そんなイラストを見た記憶があるのだけれどもそれが最初だったかどうかは定かではない。後にいりなかという場所にあった三洋堂書店の中に設置された「アニメック」で買い物をするようになった結果、届けられてダイレクトメールのイラストがそれだたような記憶もある。いずれにしても曖昧だ。

 もしかするとだからシャアだったのかもしれない。仮面の男。広がったつばを持ち額に角のついたヘルメットを被ったマスクの男の異形さに、驚き惹かれたという可能性も実はある。番組を見るようになって1番に惹かれたキャラクターはシャアだった。その不敵さと内に秘めた思いの大胆さ、戦士としての強さに憧れた。けれども未見の段階で、そうした情報は皆無。それでも何かを感じさせずにはいられない異質さが、シャア・アズナブルというキャラクターのビジュアルにはあった。あれだけの存在感をビジュアルだけで持ち得て、実際の作品の中ではそれ以上に輝きを放つキャラクターが他にいるだろうか。今に至るまで現れただろうか。いないからこそシャアは永遠のキャラクターとして植え付けられ、僕の口語での一人称を30年来、ずっと「わたし」に留め置かせているのだ。

 「鉄腕バーディーDECODE02」が無くなってしまって、「とらドラ」の放送も終わってしまって水曜日に見るのが「鋼殻のレギオス」くらいになってしまった。4月とゆー改変期をまたいで2クールのアニメって珍しいけど、今期はこれとあと「宇宙をかける少女」ってのもあったりするのは、1クールで終わってさあ次へと移らなければ時間がとれないくらいに込み合っていた放送局の事情に、緩みが出てきたからなのかどうなのか。買う方にしてみれば2クールだと巻数も多くなるから痛し痒しなんだけれど、こと見ている分では長くしっかりと物語を楽しめるのが嬉しいんだよね。

 んで「レギオス」は縦ロールと禿頭のチームがいろいろよからぬことを企んでいるみたいで、それに対して調査の手が伸びる一方で、近所で破壊された都市から逃げ出してきた廃貴族とかいう精霊をめぐってレイフォンのところにお客様。1人はガキなんだけれど強そうで、もうひとりは眼鏡のお下げで弱そうだけれどでも騎士団みたいなところに所属しているからにはあの眼鏡っ娘、見た目じゃ判断できないくらいにすごい弓矢の腕前を持っていたりするんだろうなあ。知らないけど。とりあえず事件を片づけた後はいよいよグレンダンの天剣授受者たちのお出ましか。オープニングであれだけ吹っ飛んでいるのに1話目くらいでしか見たことのないのもいるからなあ。そんな奴らとの絡みとあと女王様の立派なバストが登場する時を期待して、水曜日の夜にチャンネルを合わせ続けよう。

 気がつくと「週刊SPA!」で江川達也さんの直言イラストコラムが終了してた。長く連載していたからそろそろって判断がお互いにあったのかもしれないけれど、代わって始まったのが赤木智弘さんと荻上チキさんて若い人たちでどちらかといえば右とか左とかいったイデオロギーとは関係なく、左右のどちらかで硬直してしまって進展のない立ち位置を離れて、社会に対して辛辣に意見を言う人たちってところに、雑誌としての立ち位置の変更なり、視点の変化なり想定する読者のシフトなりがあったのかもって想像も浮かぶ。

 あまりに形式化してしまった左よりのスタンスに呆れ始めた人がいた時代に、右よりに立った場所から左の形式主義をえぐり右的な情動も含む真っ当さでモノを言うことが喜ばれ、受け入れられていた状況がかつては確かにあった。そんな状況をバックに登場してきた論客もたくさんいたりしたけれど、右も左に負けず負けず形式化が進んでしまい、とある国家の施策に反対であることが、とある国家の国民たちに対する侮蔑にすり替わっていっても、あまり気にしない人をわんさかと作り出して、いくらなんでもそりゃあ無いだろうって感じる人を生んでいる。

 たぶん赤木さんはそんな筆頭で、だからこそ「『当たり前』をひっぱたく」って本を書いて左的なだけじゃなく、右的にも「当たり前」なことに苦言を呈して人間として、社会として「当たり前」なことを示そうとしている。新しく始まったコラムもそんな「当たり前」感が滲んだ内容で、好況が続いたところで企業はバッファーとしての非正規雇用者を増やすばかりで、「就職氷河期」時代の犠牲者を正規雇用するようなことはしなかった。今の不景気はそんな状況の非道っぷりを浮かび上がらせる効果があったんだってことを指摘している。読者として想定されているいわゆる“下層”で“ワーキングプア”な若年層に届く内容。だからこその起用ってことになったんだろー。

 「SPA!」では冒頭の勝谷正彦さんのコラムが未だに続いていて、最新号では税金を滞納している人の定額給付金を自治体が没収してしまうことに賛辞を贈っている。左的な運動の色を滲ませながら、税金の未納に正義を唱えていた人たちがいて、それを支持する声も強かった時代にはおおいに意義のある内包を含んだコラムだったかもしれないけれども、事態はもはや税金を払うどころか日々の生活に事欠く人すら大量に生まれかねない状況にまで至っている。もらえる定額給付金が1カ月の命につながるかもしれない。そんな悲惨な状況に未納は罪だ、そんな輩に定額給付金を支払うのは納税者への裏切りだ、って叫んで果たしてどこまで納得を得られるか。

 明日は我が身と思いながら、底辺すれすれのところをかろうじて歩いている最近の若者層にはたぶん響かない。むしろそうした払えないような人を生み出す社会の構造に牙を剥いて欲しいと願うだろう。赤木さんならそう書くかな? 分からないけど雰囲気としてスタンスを正反対にする2人のコラムがこれからも載り続けるのか、それともどちらかに終焉が訪れるのか。その果てに雑誌はどういう風になっていくのか。関心を持って見ていこう。というか見ていかないと本を選ぶ時に困るもんなあ。2回続けてワープア本だったから流石に次回は遠慮したけど。


【4月8日】 ミリタリーに通じるメカのデザインやその扱いが既存の巨大ロボットに飽いた中高生や大学生を引きずり込んだという説もあれば、安彦良和さんが描くキャラクターの従来からある美男美女像とは違った独特さが目新しさを覚えさせたという説もある。宇宙コロニーへと移り住んだ住民達の地球への反乱という、植民地問題や移民問題や南北問題に似た世界が抱える問題、将来に直面するかもしれない問題をサイエンス・フィクションの形にして描いた設定のリアルさが、メカをひたすら倒していくだけの“ロボットプロレス”に子供っぽさを覚えて見下しかかっていたアニメ好きを引きずり戻したという説もある。

 どれも「機動戦士ガンダム」がこれほどまでの人気作品となって30年間も続いた理由としては本当だろうし僕にもおおまかなところで当てはまっている。「未来少年コナン」くらいしか見ていなかった僕をテレビアニメの世界へと引っ張り戻したのだから、やはり目新しさというのは相当に大きな要素だったに違いない。ただ、ではいったいこのうちのどれが1番最初に僕に響いてきたのかと言われると明快な記憶があまりない。様々な要素も後から考えればそうだったのだろうといったものに過ぎない。95年にテレビ版の「天地無用」が始まったのを見て、再びアニメに回帰するきっかけになった時のように「うる星やつら」的なハーレム設定への郷愁と願望、横山智佐さんが唄いますなりこうじさんが動きを付けたエンディングのインパクトといった、強く記憶に残っている理由が「ガンダム」についてはあまり思い浮かばない。30年近くも前の話だからそれもまあ、仕方がない。

 とはいえやっぱり気になる。ここまで自分を引っ張るのだから何らかの衝撃があったことは間違いない。それはメカなのか、キャラなのか、ストーリーなのか。テレビをほとんど見ていなかったから、アニメそのものということはたぶんないからストーリーではあり得ない。となると誰かに見せられたメカかキャラということになるけれども、今にいたるまで作ったガンプラが3個程度という人間が、メカに惹かれてのめり込んだとも思えないからやっぱりキャラの画なりイラストを、誰かに見せられたのが多分きっかけになったのだろう。ではいった誰のイラストでそのどこに惹かれたのかを、これから1晩眠って思い出すことに務めたい。

 「クイーンズブレイド」はまだ見ていないが果たして見えたのかどうだったのか。見えたところで「クイーンズブレイド」だからなあ、「一騎当千」みたいな同時代性はないから見て現実に重ね合わせて官能を得られるかっていると悩ましい。まあ見えたらそれはそれで嬉しいんだろうけれど。でもって「涼宮ハルヒの憂鬱」は見た。何度目だいったい。でもってどーして「朝比奈ミクルの冒険」じゃないんだ。あれがトップに来たからこそ誰もが吃驚して驚いて驚嘆して呆然としてこりゃあ何だと食いつきそして繰り出されるシャッフルに脳天かき回されつつ本編筋の「憂鬱」の案外なシリアスさと、間に挟まるエピソードのとことんまでの愉快さを堪能してそして「サムデイインザレイン」の静けさに満たされ、「ライブアライブ」のビート感に打ちのめされたのだった。普通に流れて行くだけじゃあDVDを買って眺めていた時よりも楽しみが減りそうだけれどそこはまあ、きっと何かをやらかしてくれるんじゃないかと勝手に期待。して外されたらどーしよう?

 舞い戻って「宇宙をかける少女」を見て福山潤さんの演技の広さに驚嘆しつつ虎縞娘の虚勢っぷりに涙しつつさてはていったいどこへと向かっているのかまるで見えない展開から目をだんだんと離したくなって来た。相変わらず秋葉は精神が弱っちくって箱娘になってアブダクションされそーになっていた。そんなに人生に不満があるのか。まるで脳天気にしか見えないのに。カークウッドでは役立たずっぷりが出まくっている生徒会メンバーが学校だかの密室に逃げ込んではひたすら耐久。外ではナミが神楽い説得され納得の上で悪の権化へと歩みそう。というか神楽はどういう展開でもってあーなったんだ。秋葉の夢の中から出撃していって拉致されたってことなのか。ミンちゃんブーちゃんのコンビは怪奇課のニーナに餌付けされて本線に復帰の模様でこれは嬉しい。しかいピザを始めて食ったっていったいどんな生活をして来たんだろー彼女たち。エリートじゃなかったのか。とかまあいろいろとネタふりもあって愉快なシリーズ。まあ見続けよう他に楽しい作品もないし。

 評論家は気楽な稼業と来た者なのかどうかは知らないけれどもあんまり深く考え右や左に目を配ろうとして言説を濁すよりも霞ヶ関に目を配って思いっきり断じてしまう方が覚えも目出度くなるものなのかどーなのか。それはそれとしてこの頃話題の女の方な勝間和代さんって人が」著作権法ダウンロード違法化でコンテンツ産業に課せられた責務」って文章を書いていて、結局は抵抗も実らずに通ってしまった違法コンテンツのダウンロードそのものの違法かに対して諸手を挙げて賛成している。図書館に行けば本だってタダで借りられて、ブックオフみたいな中古で大量の本がわんさか売られて権利者にはまるでお金が入らない状況について一切の考察をしないまま「優良なコンテンツを育成するためには、フリーライダーの発生を防がなければいけないためである」って言ってしまえる気っ風が爽快。タダで本が借りられたり、権利者にお金が回らないまま本だけが売り買いされている状況からはつまり優良なコンテンツ(=本)は育成されていないってことなのか、ってのは牽強付会も過ぎるけれども本の世界でお仕事している人にはそのあたり、どう感じているのか触れて欲しかった。

 「シングルCDの潜在ユーザーと書籍の潜在ユーザーでは、前者の方が人数がずっと多い。ところが、普段の売れゆきはほぼ同じくらいになってしまったうえ、ミリオンセラーになると、今はシングルCDよりも書籍の方がよほど出やすいのである」って書いてもいるけどこれもまた素晴らしいくらいに爽快。シングルCD市場の壊滅は違法ダウンロードの増加というより、合法的なネット配信の充実と「iPod」とか携帯電話のよーな利用しやすいツールの発達がもたらしたもので、そうしたシフト分を勘案することなしにシングルCDの壊滅を持ち出すのはまずもってナンセンスなんだけれども気にしていたら明快でメッセージ性を持った文章なんで書けないってことなんだろう。曖昧さに悩む僕にはとっても勉強になるロジックの組み立て方。

 さらに言うならCDを買う層と新書を買う層なんて現状、重なっていないと思うしむしろカテゴライズされターゲット層がティーンあたりに絞られた音楽を聴く層よりも、20代30代40代と幅広い層に向けて出される新書の方がマーケットが広いような気もするのに、CDの潜在ユーザーの方が多いと断じる根拠がよくわからない。分からないけれどもそれを考えたら前向きの結論なんて導き出せず、読者も霞ヶ関も引きつけられないって考え敢えて触れないところに強さを感じて憧れる。「結果として書籍では、例えば『新書の乱立』と言われながらも、まだまだ多くの新しい著者が新しいテーマでチャレンジできる土壌がある。なぜなら、書籍をオンラインで無料ダウンロードしたり、無料で読んだりすることは今のところ、できないためである」。やろうとしているんだけどね。やったらやっぱり売れなくなる? 違うだろうけどそう考えないと成立しないから敢えて無視。潔い。

 「ただし、違法コンテンツを取り締まるだけではユーザーにとっては意味がない。書籍は手にとって、立ち読みをして、内容を確認してから買うことができるのに対し、映像・画像系は実際に買ってから見たり聞いたりしないと、なかなか品質がわからないという欠点があるのである」。1000円とかのシングルCDの話が映像系画像系コンテンツにすり替わっていくところもテクニシャン。1000円のシングルCDと新書なら比べられるけど、5000円1万円の映像形コンテンツを本と比べて中身が見えないから問題だと言われても、納得しづらいところがあるけれどもすべては言いたいことのため。その割り切りが売れる文章を作り出す。素晴らしい。

 テレビで放送されて中身が明快に分かっているのにアニメのDVDとか売れてないものがあるし、逆に違法でも見られることによって人気に火が着き売れるものもある。後者についてはだから必要と誉める気はなくそれなら合法に誰でも見られるようなインフラを整えるべきって考えで、それによってパッケージが売れるなり、有料での視聴が増える成りすれば良いだけのことなんだけれど。違法アップは公衆送信権の侵害でもってそのままお縄で十分。だけれどでもしかしやっぱりそうした逡巡はしないのが一流の評論家って奴で。見習って明快に語るためのロジックテクニックを身に着けよう。取りあえず読むか「断る力」とか。


【4月7日】 1979年4月7日にたぶん、というか確実に「機動戦士ガンダム」は見ていなかった。その前の「ザンボット3」とか「ダイターン3」も実は本放送では見ていなかったのは「ボルテスV」あたりで巨大ロボットアニメに飽きてしまっていたのとあとはやっぱり家庭の事情。中学2年生にもなってアニメなんか見ているんじゃない、といった親の小うるさい要求に従っていたもので、それでもあのNHKが放送しているんだからと「未来少年コナン」だけは毎週しっかりと見ていたっけ。

 「ガンダム」はだから放送終了まで存在すら知らなかったのに翌年の、年度が替わって中学3年生になった春に、同級生となった誰かから存在を知らせる情報が舞い込んで、それで一気にハマっていった。7月に最初のガンプラが出る頃には相当なハマりようだったから短い間に情報をかき集め、作品を見てその面白さを知ったってこといなる。すごい集中力。それを中学3年生だなんて大切な時期にやっていたから成績も伸びず進学先も選べずってことになったんだけれど、そうして入った高校でSF好きがいてSFに回帰するきっかけをつかんで今に至っている訳なんで、運命と言う奴はこれでなかなかに複雑怪奇なものらしい。あの時にあのクラスになって「ガンダム」を目にしていなかったら? そんな未来を想像してみるのもちょっと楽しい。

 だから僕にとってあんまり30周年という気はしない2009年4月7日だけれども、やぱり記念すべき日だってことでここに記しつつ折角の機会でもあるんで世間で繰り広げられる「機動戦士ガンダム30年記念プロジェクト」の外枠だけで中身のあんまり見えないことをあれやこれや言っているんじゃなくって、自分ならではの「ガンダム」への思いというか覚悟みたいなのを振り返っていきながら、これからの30年に向けて「ガンダム」に何ができるのか、ってあたりを考えて行きたいと思う。合い言葉は「1日1ガンダム」。まあ「コードギアス 反逆のルルーシュ」みたいに連続させられるかは分からないけれど。

 天皇皇后両陛下が表紙になった「AERA」の2009年4月13日号を買ったけれどもこれを読み終えた後にどうするかってところが目下の悩み。だってご真影じゃん。扱い方によっては戦前だったら何かされてしまうかもしれないくらいに大切で畏れ多いものな訳で人間宣言をされてそしてそのご子息が跡を継がれた現在になったからといって、そう軽々しくは扱えない。駅のダストボックスに放り込んでも心が咎めるし、かといって正論な方々が周囲にわんさかといる場所で捨てればさらに激しい視線が飛んで来そう。

 読んだら捨てられるのが定めの雑誌の表紙にされれば、読んだ後でどうされるかって可能性を宮内庁とかが考えていたら許可はしなかったんだろうけれど、公人である以上は撮られたら使われてしまうのもまた定め。可能性への判断はだから使う側がするべきで、この場合は朝日新聞社がいろいろと考えた上での起用を決めたんだろう。出来れば本社とか販売店とかの前に、失礼にならないような形でお納めできるような箱でもポストでも作って頂きたいものだよなあ。納められたものをどう扱うかって所でも難渋が予想されるけど。

 そんな「AERA」で気になった記事。映画「ドロップ」がヒットしているよーで週末ランキングでは公開週に続いて2週間連続で3位と好位置につけていて、スクリーン数を考えれば大ヒットとも言える成績に内容への賞賛も起こりつつある。記事もそんな1本で、放送作家の鈴木おさむさんって人が讃えているんだけれどその讃え方で、ひな壇芸人の所作が引き合いに出されているところがひっかかった。ひな壇芸人とはつまりバラエティなんかで壇上にずらりと並んでは、司会者のフリに気の利いた答えを返して盛り上げる役を割り当てられた芸人たちのこと。「スタジオの空気を考え、時には一斉に突っ込み、笑いにつなげる」って記事にはあるから、もはや番組の一種の装置として、欠かせない存在になっているって認識で良いんだろう。

 でもそこでいう「スタジオの空気」って何だ? トータルとして盛り上がったまま流れていくのが一種の空気だとして、そんな型どおりのやりとりって見ていて面白いものなのか? なるほど丁々発止のやりとりは瞬間の娯楽として刺激的かもしれないけれども、下がって俯瞰した時に現れるのは、そんな受け手の了解すら含めた全体としての予定調和。そこでボケがはいって突っ込みが来てまとめとなって次へと流れる繰り返しが続いていけば、遠からず(というよりかはすでに)みんな飽きていく。それが単なる形式でしかないことに気づいて嫌になる。

 記事では鈴木さんが、不細工だと振られた芸人AがBをさらに不細工だとこき下ろし、周囲の芸人たちがなだめて場を納める展開を「これによりスタジオに大きな笑いが生まれる」と褒めそやす。それはそれで面白い。だから終わった後でカメラが切り替わっている間に、Bが振ってくれたAに有り難うの親指立てをするのもよく分かる。チャンスボールを皆でパスして回して、より多くがその場で潤えるよう頑張る姿は実に健気だ。でも。そうしたことが重なり繰り返された果てに見えて来るのは、突っ込みとボケが予定調和として認識されてしまった世界。皆が幸せになりたいとパスを回しているんだなと見透かされてしまった微温的な世界。そこに一時の笑いは生まれても、意外な驚きは生まれないし抜きん出たスターも現れない。

 映画の「ドロップ」に登場している数多の芸人たちに「おいしい場所」をつくてあげていることを記事は評価する。その精神はひな壇芸人として「おいしい」思いをしたいと誰もが願っていることを知っている芸人ならではの優しさだと褒めそやす。映画なら面白さが連なっていく映像として評価されるかもしれないけれども、バラエティのような番組で予定調和の面白さが連なっていった果てには、きっと何も残らない。誰もが立ち位置を考え譲り合っているようなヌルい世界の実態を、見透かされて嫌気されて見られなくなってそして、テレビは衰退し滅亡していくんじゃないかって、そんな気がしてならない。

 孤島で大勢の人が蹴落とし合って賞金を目指す「サバイバー」もなるほど、場の空気を読んだ行動ってのが求められてはいるけれど、その空気ってのは皆が幸せになるためのものではなくって、視聴者が見たい見せろと思っていることを実行し、さらに意外性でもって驚かせるよーな行動。だから飽きられもしないで作られ続けて世界各国にフォーマットが販売されている。そんな「サバイバー」を生みだしたアメリカのテレビ番組は、だからどれも視聴者の見たいんだ見せるんだって欲望に対してストレートで、赤裸々であからさまで痛々しいような内容でも放送することにためらいがない。

 町山智浩さんの「アメリカ横断TVガイド」が新版となって登場していて、そこにたくさんのアメリカのテレビ番組が紹介されているけれど、黒人どうしが嘲り合う黒人専門番組があって、白人がカントリーライフをおう歌しつつ黒人が一切出て来ない番組があって、巨乳のブロンドが巨乳を見せつけ若い男の子たちを大興奮させる番組があって、何百万台ものハーレーがスタージスに集まって来る番組があってと、実にさまざまでそして実にストレート。そこには予定調和の微温さなんてカケラもない。このへんでこんなものを出しておけばピタリとおさまって、いい感じに受けるかも、なんてポジション取りを勘案した番組があって、その中でポジション取りに汲々とする出演者たちがいる日本とは対照的に、ここでこうしたものをうち立てることによって世間を喜ばせ、驚かせられるといった強欲さがアメリカンのテレビ番組は溢れているって感じが「アメリカ横断TVガイド」を読むと伝わってくる。ああ見えてやっぱり凄い国だよなあ。

 もっとも新版として出された本の巻末では、2001年9月11日のあの事件をきっかけにして、テレビにもいろいろと煩わしい制約なんかが押し寄せてきたりして、また受け手の方にもストレートな欲望を発露するのはもう止めだ、何かを犠牲にしてでも安心を守らなくっちゃいけないんだって気分が浮かんで来ているのか、番組にかつての自由さやむちゃくちゃさが許されなくなっているってことが後書きとして書かれている。メディア自体の終焉にテレビ番組の終焉が重なった果てに起こるのは、がらんどうとなったテレビモニター。そこでいったい何を見たら良いだ? って困る人もいるんだろうけどサッカーとアニメさえありゃあ別にまるで困らない僕にはむしろ大歓迎。それだけを伝えてくれるチャンネルだって既にあったりする訳で、遠からずそうしたチャンネルがメジャーとなっていくんだろう。地上派がそーなってくれると嬉しいんだけど。テレビ東京とか千葉テレビはすでに個人的にそんなチャンネルになっているんだけど。

 「1」ってことは「2」があるってことなのか川原礫さん「ソードアートオンライン1」(電撃文庫)はネットで超絶有名だったオンライン小説を「電撃大賞」の「アクセルワールド」での受賞を契機に出版したもので、人体の感覚をすべて移し替えられる「ヴィーナスシティ」で「BOOMTOWN」的なバーチャルワールドを使ったMMORPGが誕生したものの、そこに初日にアクセスしたプレーヤーがそのままバーチャルワールドに留め置かれる事態となってしまうってストーリー。何でも被っているヘッドギアを無理に外そうとするとマイクロウェーブが流れて脳が焼けてしまうんだとか。事情を知らない親とかが外そうとしてすぐに数百人とかが死んでしまたとゲーム内で伝えられたプレーヤーは、自分の体が病院に運ばれ安置されてはじめてとりあえずの生を確認する。

 かといってゲームの中で死んでもやっぱり脳が焼かれてしまう。生きてゲームを出るには100層あるゲームをクリアしなくちゃいけない、ってことで残った参加者の中に軍隊が生まれパーティーが生まれギルドが生まれて攻略に乗り出す一派が生まれた一方で、もうここで十分と安住を決め込むような一派も生まれていって2年。単独で行動をしている少年が、有力ギルドでナンバー2に上り詰めた少女と知りあい愛し合いつつも、リアルな世界でのリアルな愛を求めて75層への攻略に向かうって展開がつづられる。まだ75層。あと25層が続けばそりゃあ10巻だって20巻だって行って不思議はないんだけれども意外やそうはならないでとりあえずのちゃんとした帰結を迎えたストーリー。だから「2」では何が描かれるのか。興味を持って続きを待とう。


【4月6日】 いろいろと始まっているのにほとんど見られていないけどそんな中でも見たくなったり見てしまったりするものもあってそうして見られ語られる作品と、見られず語られないままDVD−Rに焼かれて保存されっぱなしになっていく作品とが生まれて来るんだろー。「コードギアス 反逆のルルーシュ」のよーに最初は撮り溜められていたのがふと見て面白さに驚嘆して見返しそして見続けたって作品もあるから判断するのはまだ早計だけど。とはいえ「機動戦士ガンダム00」のよーに結局全話通しても5話も見ていなかったりする作品もあるからなあ。コーラサワーってどんな飲み物だ、ってくらいの知識しかないもんなあ。

 でもって見たのは「夏のあらし」。寝ようとして布団に潜り込んだ時間あたりにちょーど流れているんで見てしまう口。でもって見ても何が何だかさっぱりもって分からない。江戸川コナン声(本当はレントンだけど)の眼鏡がどーして苺爆弾なんかを作っているのか。でもってどーして近くに美少女がいるのか。何でまたあらしだなんて奇妙な名前なのか。やって来た喫茶店からいきなりどーして過去へと飛ぶのか。その際に何でまたセーラー服に代わるのか。一緒にやっぱり飛んでしまえる少女もいたりするのはどーゆー訳だ。彼女がつかんだ奴は男なのか女なのか。生まれた時代に甘いお菓子とかあんまりなかったってのはどーゆー意味だ。

 等々、訳の分からないことが連続して押し寄せて来て頭ポカーンになったけれども説明無用にすっ飛ばした上でじわじわと設定を見せて行くのが昨今のアニメのある種の特徴。ネットで状況を調べつつ必要ならば漫画も読みつつアニメならではの構成を、理解してそしてどう見せていくってあたりに新房監督の技が冴えまくりそう。演出の不思議さは「ef」の大沼心さんも絡んでいるみたいでそちらにも興味。あとは小早川千明さんの声の興味深さか。演技がどうこうって点じゃあ1年間、「ソウルイーター」でマカを演じたとおろで遙かな高みへと行った訳ではないけれども、そうした演技とは別に声優さんって声の質が実は重要。小早川さんのどこか媚が交じりつつ強さもあったりして、それが演技の特徴と絡んで耳にいい感じで響いてくるんだよなあ。可愛いけりゃあ良いってもんじゃあ、ないってことで。

 そんな興味から視聴継続を決定しつつ戻って「シャングリ・ラ」。あれえ、「東京国際アニメフェア2009」の会場であったオープニングの上映会だと、短いスカートすがたで飛んだあとに地面に着地する瞬間に、まくれあがって見えていたよーな記憶があってそれを確認するために再度の上映に目を凝らしたはずだったんだけれど放映されたものは普通に見てもスローにして見てもそんなものはカケラも見えやしない。もともと存在していなかったものを見たいという思いが図像として網膜に結びつけ、脳に見せてしまっていただけなのか。ことほどに脳って奴は不思議な働きをするのである。あるいは見えてはいけないといった配慮が重なった? 分からないけどまあとりあえず見えそうな描写は続くんでそっちに期待。でも絶対に見えないんだろうなあ。描かれていないものは見えないのだ。

 履いてないから見えないという説もある「咲 −saki−」の方も始まっていてまずは出会ってさあ麻雀。割と田舎の楚々とした学校に何の脈絡もなく麻雀部があってツインテールでピンク頭の少女や集中力はすごいけど持続しない子どもっ子ややさぐれているようで見る目はって人望もある生徒会長が所属していたりする突拍子のなさ。けどそこを言い出すと回らないから誰も何も突っ込まない。「ちはやふる」とか漫画として人気もあって支持を集めているんだけれど「咲」ってそーいえば「マンガ大賞」で評とか入っていたっけ。同じ学園を舞台にあんまり学校とはなじみがなさそうな文化系の部活を取りあげバトル化していって人気の「ちはやふる」と「咲」だけれども雅やかなかるたとどこか煤けてるイメージがつきまとう麻雀ではヒットポイントが違うのか。ともあれ原作同様に見えないというか履いていないように見えてしまう描写も健在のアニメが果たして動的描写の中でいつまでも見えないけれどもその中も見えない状況を、保ち続けられるのか否かに注目だ。

 でもって再び戻って「シャングリ・ラ」。原作どんなだったか忘れているけどとりあえず東京が密林になっててでっかい建物が上に被さっている中で地べたに残った人たちが精一杯に生きていて、そんなリーダーとして女子高生だか中学生だかが刑務所から出所して来て再任する、と。どーして刑務所に入っていたんだっけ。忘れてるなあ。そんなプリミティブな環境の人たちを尻目に排出ガスの削減とかを目指した炭素消費量の取引なんかをより進めた炭素経済の中で生きて稼ぎまくる子どもたちも一方に登場。これが本筋とどー絡んでいくんだたっけ。やっぱりすっかり忘れてる。これが書かれてしばらくたって本当に炭素の排出権が取り引きされるよーになって、商社なんかが売り買いしているってニュースが紙面を賑わせるよーになったもんなあ。まさに時代を先取りしていた作品が、あの密林とそして塔をとある場所の上に立てさせるよーな状況まで、先取りしていたら凄いんだけど。小説だったらしっかり描けたけれどもアニメでそのシチュエーションを描けるか。ご成婚50周年な年でもあったりする現在に。

 13歳くらいの女の子。髪と眉毛くらいしか目に見える毛は生えていない彼女が素っ裸であぐらをかいて座っているというシチュエーションに、飛び込んでいったら男の子として何をどうすべきなのかと考えてみたけれど、おそらくは一生そんなシチュエーションに見えることもないんで無駄だと納得。そんな羨ましくも空恐ろしいシチュエーションに遭遇した青年は、名家の3男として生まれながら役人に軍人として優秀な成績で士官していった兄にと違って科挙にもとおらず武人にもなれないまま、穀潰しになろうとしていたところを父親に謂われ、語学の際だけを見込まれ帝国の国境地帯にあってシムールという部族連合国家に接した地域へと赴き、シムールの中で帝国に従う意志を見せている士族の末姫の家庭教師という仕事を始めることになる。

 別に普段から素っ裸で駆け回っている部族ではなくちゃんと普通に服を着て過ごす遊牧民なんだけれどもやんちゃ極まりないお姫様だけは暑いからと服を脱ぎ腹が減ったからと肉にかぶりつく奔放さ。そんなお姫様でも自分に与えられた職務だと、青年は静かにゆっくりと、そして当たり前のことを当たり前のように言っていろいろと諭しては勉強への感心を抱かせ、自らへの興味も抱かせてしまう。そこに事件。誘ってくれた地域の統治者が妬みもあって帝都へと引き戻され、代わりにやって来たのが税金をちょろまかすことしか考えていない輩で、けれども前の統治者がきっちりしていたため抜くことはできず。ならばとシムール族が山中に持つおそらくは岩塩の発掘場所を知ろうと兵隊を送り出したから大変なことになった。

 すでに為政者の変更で仕事を奪われ、お姫様のところでやっかいになっていた青年は、ふしぎと自分にあっていた弓の技術もつかって帝国の新たな為政者がしくんだ攻撃を撃退する。もっともそれではおさまらないのがシムール族で、裏切られたと言い反撃に出ると訴え帝国に対して宣戦布告をした。板挟みになった青年はそれでもとりあえず帝国側の街へととって返して住人たちを逃がし、向かってくるシムールの主戦派を迎え撃つことになる。敵は多く見方は少数。おまけに援軍も期待できないなかでどうでるのか? といった具合にとっても良いとおろで終わってしまっている鷹見一幸さん「ご主人は山猫姫 偏狭見習い英雄編」(電撃文庫)。とにかく続きを早く読みたい。勝てるかな。勝ってもその後をどうするのかな。


【4月5日】 ようやく届いたバルキリーの強化パーツを代引きで受け取ってから家を出て、京成で八幡まで出てそこにある「大黒屋」って店でカツ丼を喰らう。先週に発売された「SPA!」でもって福田和也さんと坪内祐三さんが永井荷風の愛した店だってことで立ち寄ってはカツ丼をくらっているのを呼んで、近場にそんな店があったんだと気づいて出向いた次第でなるほど上はお重に入って細切りにされたカツが卵で閉じてあって噛めばサクッと衣が歯にあたり、肉がクリッと噛めて口中に入ってくるところがなかなかな味。並だと丼に入った文字通りにカツ丼が出てきたんだろうけどその場合のカツってもーちょっと太く切られているのかな。味とかは同じなのかな。今度また行ってそっちを食べてみようっと。日曜の昼間だったら酒1合の付く永井荷風セットでも良いかな。

 そこから都営新宿線で神保町あありまで出て新刊なんかをチェックしたけどとりあえずあまり出ておらず、秋葉原へと向かい手塚真さん関連のDVDを探したものの3軒目でよーやく「星くず兄弟の伝説」を見つけたくらいで「白痴」とかはなし。代表作なのに。「妖怪天国」とかがセットになったボックスはなかったけれども単品では出回っていたんだろーか。アニメの「ブラックジャック」は見る気しないしなあ。まあとりあえず懐かしすぎる「星くず……」でどんな作家だったのかを理解しようっと。そういやあ奥さんの岡野玲子さんて「陰陽師」の後に何か描いているんだったっけ? ちょっとあんまりチェックしてない。でもさすがに手塚さんに聞くのもなあ。せいぜいが聞けて鼻の形がそっくりですねえってことくらいだよなあ。

 小川町から新宿線と京王線を乗り継ぎ「味の素スタジアム」へとたどり着いて「東京ヴェルディ1969vsベガルタ仙台」のゲームを見て不足気味だったサッカー成分を補給する。しかし少ないなあサポーター。仙台ゴール裏の方が数多いんじゃなか、ってくらいの集まり具合に上が例えば企業名がチーム名に入ってないから衰退したんだってことをいくら言ったところで、そんなの関係無しに支えてくれるサポーターを「味の素スタジアム」のゴール裏の1階席を埋める程度の人数すら、集め切れていないチームの現実を前にしたらただの悪あがきにしか聞こえない。たった1万人のサポーターを集められないで、どーして企業がスポンサーになろうって気になる? 不人気のチームなんてどこも取りあげない。それはつまり広告効果もないってこと。そうした基本すら理解できない人が経営してたんだから衰退もするわなあ、サッカーチームも、もといた放送局も。

 そんな逆風に負けず応援するサポーターに応えてヴェルディも前半はよく頑張った。ロスタイムに1点を奪われ同点においつかれたけれども大黒将志選手をトップによく攻めていたし、得点機会だって作ってた。とにかく動き出しの速さでは図抜けたところのある大黒選手。持ってからの反転とかも素早くってそこにボールが集まれば、相当な得点だって期待できたかもしれないんだけれどもしっかりとサイドを使いチェンジも頻繁に行うセオリーどおりの攻めを見せたベガルタ仙台が、後半も半ばになると押し返していったみたいで最終的には3対1でヴェルディを下したみたい。

 みたいってのはつまり途中で出てきてしまったからで、それが後述の屈辱につながるんだけれどもともかくヴェルディは攻めの歯車が噛み合いさえすればまだまだ反撃のチャンスはありそう。それに比べて我らがジェフユナイテッド市原・千葉は……。引き分けられないんだよなあ。まだ下にジュビロ磐田がいて横浜F・マリノスも付き合ってくれているんで心は安心だけれどいつ飛び出していくか分からない2チームに、置いて行かれないうちに改善から上昇を願いたいところ。背中に「Suica」の文字も入ったこだし、ユニフォームを買って応援するか真剣に。

 「味の素スタジアム」をいち早く抜け出して京王線で新宿駅まで来てコンコースを歩いていたら、新宿西口の地下コンコースにある派出所から巡査が2人ばかり近寄ってきて、あれやこれや見せろと言ってきた。俗に言う職務質問って奴を喰らった訳で、こっちは新聞屋やってて何があったか全部書くかもしれないけれどもそれで良いのかい? と言っても引き下がらないところは、そうした反応に対して断固すべしと言った指令でもきっと出ているんだろう。うだうだとしていると、往来だから派出所に来いとかいって引っ張っていこうとしたけど、それって任意同行っしょ、可能なの? 往来で引き留めたのはそっちじゃないか。なのに手前のフィールドに引っ張り込もうとするところが面倒だし、時間も勿体ないんで鞄をさあ見ろと放り出す。

 どうして目を付けたのかを聞くと、春なのに帽子を被って厚着していたところを認めたらしいけどでもねえ、直前までスタジアムでサッカーを見ていたんで多少の防寒対策は必要。たぶん想像するに着ていたのがM−65のミリタリールックだからってことで近寄ってきたんだと思うけど、そーした恰好でもって人を見たって、そもそもが怪しまれたくない人がそういう恰好をするはずもない。つまるところはそうした恰好の好きそうな人が、おそらくは持っているだろう十徳ナイフなんかを引っ張り出して、点数稼ぎでもしようかって思ったんだろー。おあいにく様。というかそんなことを1万人にやったところで、本当の犯罪者も指名手配犯も捕まえられるはずがない。まさに形式的。本質を外した行動が、けれども仕事として認められてしまうところにこの国に生まれつつある綻びが見て取れる、ってそれは警察とか官僚に限らずメディアなんかにも言えることなんだけれど。ちなみに帽子は禿げてて寒いから被っているんだい。大きなお世話だまったくもう。

 ともあれ恰好だけ見て職質するって根性が鬱陶しかったんで、本当にお前は警官かと聞いたらちゃんとバッジを見せてそこには○○さんって名前が書いてあったんでまあ了解。じゃあこっちもと名刺を渡したんだけれど、勤務先とかあとで見て何か思ってくれるのかどうなのか。思わないのが誰であれ分け隔てなく接する警察官の鏡。その仕事熱心さ、生真面目さって奴を誉めて差し上げても良いかもしれない。もっとも鞄のポケットはとりあえず見たけど、底までひっくり返して見ることはせず、財布の中とか開けず。もしもそこに何か入っていたらどうするんだ。靴底に何か入れていたかもしれないぞ。ナイフって奴はブーツの内側に差し込んでおくものだ。って言ったところで後の祭りか。

 ともあれ愉快な経験ではあったけれどもやっぱり鬱陶しいことこの上ないし気分的にもよろしくない。生まれてからこのかた24年くらいを警察官と同居していた訳だけれども、改めて警察官に近寄ってこられるとやっぱり疑われているんじゃないかって気分が浮かんで、人間として何かダメなんじゃないかと言われているような気がして鬱になる。もしも高校を出た後とか、大学を出た時とかにともに合格していた愛知県警に入って、そのまま警察官とかなっていたら、こういう鬱陶しい仕事をやらされていたんだろうなあ。でもきっと中にいたらそうした疑問とかも抱かないんだろうなあ。職務に忠実であれ、でなきゃあ去れっていった空気の中でどんどんと感化されていったんだろうなあ。ともあれよく仕事をしたぞ巡査君。これからも頑張って見てくれの悪い者から十徳ナイフを取りあげるだけじゃなく、本当の悪をしょっ引いて犯罪を未然に防ぐんだ。日本の安全は君たちにかかっているのだ。

 そんなゴタゴタを喰らっている間にテレビでは放送が始まったらしい「鋼の錬金術師」ではロイ・マスタングの声についてあれやこれやと議論も始まっているとかいないとか。売れっ子さんを持ってきたって理由でまあ十分な気もするけれどもここで勝手に妄想するならあれはいつのことだったっけ、代々木体育館で開かれた「ハガレン」のイベントは映像に重ねて声優さんたちがマイクの前に立ってライブで声をあてていく内容で、ロイの時になると大川透さんがあらわれてはその髭で立派過ぎる体格をもって渋さにあふれたロイの声を演じてみせてくれていたけれども、見た目の格好良さが一方にあったロイのビジュアルと大川さん本人のビジュアルに、当然ながら違いあって人によってはとまどいを覚えたかもしれない。

 もちろんおおかたの反応は出てくるロイの格好良さを目で追いそこに重なる美声に感嘆していたからあんまり気にならなかったんだろうけれども、世の中には天上を見上げてミサイルが落ちてこないかと心配するような杞憂家もいたりする訳で、いつかまたそうしたイベントを開くにあたって果たしてどうしたものかと勘案し、ならば売れっ子で人気もあってビジュアル的な要素も兼ね備えた人をあててみたらどうだろうって、勝手に思ってしまったって可能性はさてはてあったりするのか、しないのか。旧と新でそれぞれにリザ・ホークアイを演じている根谷美智子さんと折笠富美子さんの違いについてはよく知らないんでノーコメント。


【4月4日】 桃の節句と端午の節句に挟まれた何の節句と過去に言う? 桜の節句か。まあ上野千鳥が淵あたりは満開の桜に浮かれ騒ぐ人も出ているみたいだけれど、日頃の出不精ぶりも祟って晴れやかな席への誘いなんぞカケラもない身では桜に無縁の生活も致し方なしと理解しつつ、ひとり秋葉原へと出向いてそこいらへんを適当に散策。「マクロスF」の一番くじはさっさと売り切れみたいでクラン・クランもランカも手に入れられず。それでも最大の目標だったシェリルを1発で手に入れられたのは何よりの僥倖。今後も再販される事態があったら挑んでシェリルを確保し上から下から眺めて楽しい遊び用とそれから箱に入れて保存するバージョンを用意できればさらに僥倖。無理かなあ運もないし。金も潰えそうだし。

 届いていた新刊から柏葉空十郎さん「MIB」(電撃文庫)なんかをまず拝読。「メン・イン・ブラック」じゃなくって「メイド・イン・ブラック」と読むらしー作品は宇宙人を見た後で尋ねてくるのは黒服ではなくメイドだって伝説がまずあって、それが何故かといえば黒服では強烈なヤバさとともに記憶が残ってしまうけれどもメイドだったら可愛さに記憶が良化されて宇宙人とかの記憶は吹き飛んでしまうとかってことらしく、そりゃ本当なのかと訝しさも浮かんだけれども現に目の前にメイドが現れ「忘れちゃってね、キャッツ」とか言ったらやっぱりあっさり忘れちゃう可能性も大だからこれはアリなのかもしれないなあ。まあメイドの中身によるけどさ。

 んでそんなメイド・イン・ブラックの存在を世に出したUFO研究家の父親が失踪。何やらヤバげなものをつかんでいたみたいでそれを息子に託すと書き置きがあって一体何事かと息子が悩んでいたところに空からUFOが落ちてきて、中からグレイのデカいのが現れた。でもって首を外して顔を出したらそこにメイドが。まさにメイドが。つまりはメイドが現れさっさっさと父親から渡されたものを寄越しなさいと居丈高に行ってきた。ツンデレ? デレはまだないその状況で敵か味方も分からないと逡巡したらそのままメイドは居着いてともに学校へと通い出す。そこに現れた息子の幼なじみがメイドな少女を牽制して起こる恋の鞘当てバトル。だがちょっと待て。動物も出るような田舎住まいの少年に幼なじみって? 明らかになる綱引きの間で迷った少年が世界の危機に取った行動とは? 題材の面白さで引っ張って来てはいるけれど、もーちょっと爆発感も欲しかったかなあって印象。つまりは予定調和過ぎ。続くみたいなんで次はさらなる爆発を。魔法使い行き確定って苛烈な運命を背負った少年にも幸福を。

 そうこうしているうちに発射されただの誤報だったのと大忙しな世間。日本の上空を飛び越える打ち上げの不作法さは糾弾されてしかるべきだけれどもそれとて決して認められない訳ではない宇宙開発のアプローチであって、それ事態を日本い対する威嚇だのと憤ってはハリネズミのごとく武装して、まず確率的にあり得ない首都圏への落下なんぞも想定しては大枚はたいて準備を整え、さあ来いやと外に向かって吼えつつ内にむかってアピールもしたりする状況の何ともいえない不気味さなんかを一方に感じながら他方でヤバいお国柄のところが核弾頭を遠くに発射する技術を持ちかねない状況を、杞憂に過ぎない対症療法なんかではなくって根っこから改める方策を、世界なんかとも協力しあえる体制を整えた上で実行に移すくらいの策略が、まるで感じられない状況を憂うべきなんだろうけれども情動に流されやすいメディアなんかも含めて杞憂な毎日。そんな体裁が取り繕われているに過ぎない状況が、メディアへの信頼も政治への期待も損なわせていることにどーして気づかないのかなあ。気づかないからこその凋落なんだろうなあ。そして賞与はEPレコード化と。かなわないなあ。

 まあ東に打ち上げる理由がソ連も中国も刺激したくないからって意味不明過ぎる記事を書いていたりする軍事専門記者も隣国にはいたりするくらいだからメディアの衰退は万国共通ってことなのか。そんな杞憂まみれの世間に反して新作アニメはどれも平穏にスタートしてたみたいであれやこれやを早回しで昇華。「パンドラハーツ」は猫をぶんぶんと振りまわしていた妹が可愛かった。「バシュカッシュ!」は逆に猫みたいなのを食べて吐き出す謎生物が恐かった。それを除けば「パンドラハーツ」は兄貴と妹が並んで絵歩くシーンで歩幅の違いが体の動きに現れていたりする演出がちゃんと成されていたところに感心。動きも悪くない。あとは物語がどれだけ面白いか、か。原作は読むべきか否か。「バシュカッシュ!」はよく動き良くはね回る映像が綺麗。途中に展開に強引なところもあったけれども下層であえぎつつ反抗心を失わない少年が権威をひっくりかえそうと張り切る姿は王道ながらも憧れる。なのに1年間の刑務所暮らしってのはいったい何だ。その間にあの足の不自由な妹はどーなっていたんだ。2話目できっと明らかになるんだろー。ビッグフットはまだバスケシューズ、履いてないんだな。

 「ハヤテのごとく」は真夜中にやる意味が不明。真夜中なんだからもっとマリアさんをアレしてコレしてしまくっちゃってくれても良いのに楚々として身持ちの堅いところは日曜午前と変わらない。地が良いんで見ていて楽しいけれども録画してすぐに消してすっぱり忘れるアニメ行きってところは確実だよなあ。メイドなハヤテが毎回出てくれば別だけど。「マジンガ」な何かはマジンガである意味がよく分からない。何しろこちとら最初の「マジンガーZ」でもって巨大なロボットが暴れる楽しみと、エスカレートしていく強さの面白みに毎週触れて育った世代。その原点にして伝説の「マジンガーZ」をどうリミックスしようとあのワクワク感を抱けるはずもないし、実際に驚けてもワクワク感はまるで感じられなかった。スパロボ的なごった煮の爆裂に慣れ、オリジナリティよりも集合の破天荒さに惹かれる世代にとってはあるいは楽しい一品なのかもしれいないけれど、旧世代には意味不明なだけ、なんだよなあ。まあとりあえず弓さやかが可愛いんで見ては行こう。


【4月3日】 「ミサキラヂオ」の話を靴誌向けに書くべく「STRANGE FICTION」を買って瀬川深さんの話を拝聴した後で帰ったら「STRANGE FICTION」が届いていたという間合いの良さに絶句したりしなかったり。でもって始まった春アニメ。まあこんなもんというか見たまんまというか「けいおん!」は、かきふらいさんの4コマ漫画を巧みにつなげて流れをつくって当てはめていって1本のアニメーションに仕立て上げるというオーソドックスな演出で、「ぱにぽにだっしゅ」のようなリミックスにシャッフルにエスカレーションといった技巧の限りを尽くした展開はなく、「らき☆すた」のような4コマ的起承転結を重ね合わせながら1話分を作り上げるような別の意味でのオーソドックスさでもない、至極真っ当な1本のストーリーアニメになっていたんで見て安心、流し見てしっかりと内容が伝わってくるんで、漫画を読んでいない、これが初めての人でも大丈夫なんじゃなかろーか。

 動きもあって表情も豊かでキーボードの子の眉毛も太くって見ていて飽きない。驚けもあんまりしないけど。京都アニメーションならまだまだもっと凄いことが出来るんじゃないかって期待値を上げ過ぎてしまっているだけに、標準を作ってもなかなか感心してもらえないという。これでエンディングがさらにぎゅんぎゅんと動いていたら、神と呼ばれたかもしれないなあ。あのバンドだとベースがやっぱりフロントなのか。それとも4人をそれぞれメインにしたバージョンを作っていくのかな。キーボードの眉毛がそうか寿美菜子さんって人か「よくわかる現代魔法」で坂崎嘉穂を演じる人か。イメージ合ってる? それとも滅茶苦茶幅広い人?

 始まったんで「アートフェア東京2009」を見物に行く。これで手元に臨時収入の2500万円(最大限)がもし入っていたら札びらを切ってあれもこれも買い占めていたかもしれないけれどもそっちに踏み出す勇気もなく、居残りそして大幅な削減の可能性を味わう羽目になりそうな立場では何ができるはずもなく、取材と称してあれやこれやを眺めてあるくだけに留まる。悔しいなあ。まずは昨日のNHKのローカルニュースか何かで放送されたフェアの模様でチラリと映っていた不思議な絵を発見。少女なんだけれども黒地に白抜きのフォルムだけで 、その白い部分がだんだんと色を濃くしていくよーなグラデーションで立体感をつけてあって見ているとCGでモデリングをしたフィギュアを見ているよーな気がしてくる。

 描いたのは高松和樹さんって人で会場に立っていたんでうかがうと、人体の画像をパソコンに持ってきてCGソフトでグラデ化して感じをつかんだ上で、カンバスにペインティングしていく手法を取っているとか。以前は自分で実際に粘土でモデルをつくった後で、ワイヤーか糸で薄く切っていく手法も導入していたんだけれどもそれだとどーしても厚切りになって立体感が雑多になる。そこでCGの導入を相成った模様。脳内ですべてを導き出して描いてこその画家、っていった見方も出来るのかもしれないけれども、写真が生まれてこちら、精密に描くことの芸術性に価値を見いだすか否かといった議論なんかもあったりするなかで、アートとはアイディアでありそれを実現する手法といった考え方も台頭。その論になぞらえるなら、人体をグラデ化して黒地に描くアイディアをこそアートを認め、そのプロセスにCGが使われようと天才的なペインターの技量が使われようと、立派に高松和樹さんのアートなんだと断じて決して悪いことはないんんだろー。

 人によっては東郷青児みたいって言う人もいて感想ってそれぞれだなあと勉強。でもって妙にリアルな人形が鎧を着た立像があったんで近寄ったら胴にシャネルのロゴがついていた。人呼んで「シャネル侍」は野口哲哉さんの作品で、前にシャネルの若手アーティストのセッションに入って作品を作ってオークションで販売したものが、シャネルの偉い人にも好評でもう1体作って欲しいと言われて手がけたものだとか。前のは兜の前に鍬形が広がっていたけれども今度のはシンプルな鉄兜で細くシャネルの文字があるくらい。胴も真っ白で黒地に金文字でロゴが抜かれていた前のに比べて大人しめだけれども、白い部分をよくよく見ると浮き彫りっぽくシャネルのロゴが入っていて、密やかだけれど主張している侍の美学めいたものがむしろ感じられた。

 鎧なんかもFRPをベースにしつつ自分で糸を通して形に仕上げて作っているんだとか。中の人形のまるで生きているよーな精巧さといい相当な技巧をもっているからこそ作り上げられる侍フィギュア、なんだけれどもこれがシャネルだから戦国時代との違和感を醸し出し、面白さを感じさせているって可能性もあるだけにアートの可能性についてはちょっと思案のしどころか。絵にしてもシャネル侍なる存在があったとしてそれがどういう謂われで受け継がれていったのかを妄想し、想像していったからこその面白さ。最初のぶつかり合いがないとちょっと成り立たないよーな気がしないでもない。

 けどギャラリーの人にうかがうと、そうした現代性をシャネルってブランドだけじゃなく、たとえばスキージャンプの飛び上がる寸前みたいなポーズを挿入してみたり、馬に鎧を着せた話を猫に置き換えてみたりといった“創造”を行うことで、ギャップを生みだしおかしみを誘うことが本当はメインらしい。なるほどそれはそれでイケてるかも。戦場の女子高生を“創造”した会田誠さんしかり、六本木ヒルズの錦絵化に挑んだ山口晃さんしかり。そんな系譜に連なり且つ、立体化の技巧を持ったアーティストとして世界に広がっていくのかも。とりあえず見てみたいなあ鎧猫。

 そして見たかった北川宏人さんの新作を見物。テラコッタでスリムな若者の像を造るアーティストで去年は小さいサイズのものしかなかったけれども今年は等身大に近いサイズのものが2体も登場。土から来る温かみのある雰囲気が、シンプルに造形されてくっつけた粘土の後をのこしてモコモコとした表面のフォルムと相まって、不思議な存在感を醸し出している。初期はこれがサイヤ人みたいな未来風のフォルムをしていたんだけれども、どんどんと具象に向かっている辺りは具体的な人物像に手が生え両性具有化してフィクションが混じり込んでいった舟越桂さんてゃ正反対の進化度合い。分かりやすさを恰好良さが折良く交じった今があるいは、キャリアとしてベストな状態にあったりすのかもしれないなあ。

 聞くと大型の像で300万円くらいだからまだ変える。舟越さんは1000万を越えているけど300万円ならボーナスをつぎ込めば買える、かも、しれない……無理だやっぱり。小さい方は50万円だからこれなら買えた。去年なら買えたけど今年は無理だ。つまりこれ以下だってことになるのかな。嫌だなあ。ご近所の画廊でも同じ北川さんのこちらはブロンズ製の複製品が並んでいて割にいい雰囲気。テラコッタだと転がれば割れるけれどもブロンズだったら殴ったって折れ曲がるくらい。いや殴っちゃいけないけど。値段は42万円だから複製品にしちゃあ高いっちゃあ高いかもしれないけれどもアーティストがアートピースとして制作して、色を違えた“1点物”ってことを考えるとこれはこれで案外に、正しくもお安い値段なのかも。ギリギリってところか。うーん。

 向かいの「KOKIA」ってところにもブースが出ていたんで眺めていたら妙に目を引く絵が1枚。筆の筋を残したような荒い絵でもって街並みを描いた絵の前に、和紙を表面に張り重ねていって女の子の人形を作って置いた作品で、マクドナルドのテーブルに突っ伏して休憩している少女があって、おそらくは夜の渋谷のスクランブル交差点前に立ってガードレールに上って躍動する少女があって、黄昏時の街並みに佇んでジュースを開ける少女がいてといった具合に1日の変化がそこに描かれ作り上げられている。丸っこくてシンプルな人物像と、スーラの点描をもっと大きくしたような絵柄がどこかで見たことあるよなあと思って、カタログを開いたら何と。「笹サンド」大畑伸太郎さんでありました。

 最初に見たのは2002年9月の「GEISAI2」辺りで雨の横断歩道に立って上を見上げる少女のいとおしさが心に響いた「雨」って作品が本当にとっても大好きで、このテイストならばすぐにでもイラストの世界で大活躍できるんじゃないのかって勝手に太鼓判を押してからはや6年と半年ほど。最近はそういえば「GEISAI」にも「デザインフェスタ」にも出てきていないなあと首をかしげていたら、ギャラリーも決まって「アートフェア東京」にも出てとまさに昇り調子。これなら「GEISAI」に出ている間に絵とか買っておけば良かったなあと思うけれどもそうした所有する喜びよりも、見かけた人が凄くなっていくのを見る喜びの方が好きなんで別にそんなにあんまりほとんど気にならない。いやまあ買うにも原資がないんだけれど。ともあれおめでとうと喝采。売れたらさらに万歳。

 金曜日なんで映画館の封切り情報なんかを見ようと朝日新聞の夕刊を手にとったらたったの12ページしかなくってちょっと吃驚。田舎じゃあるまいし都心部で劇場も多く封切られる映画もいっぱいあるんでその広告だけで何ページ分もとれてたのが金曜日。中身も充実していて文化関係を中心に記事がぎっしりと載って20ページからそれ以上の厚さがあったって記憶している。それもほんのちょっと前まで。けれども今は12ページ。これを見ると「夕刊廃止で社内失業者続出」って事態が起こって編集からほかの部署へと行ってはみたもののそもそもがそっちの方だって人余りの状態で回せる仕事もないからと、ダイレクトメールだか何かのチラシを折って封筒に詰める単純作業めいたことを延々と1日中やってる元記者とか出たり現れたりすることも、起こって全然不思議がないのかも。けどライバルの読売新聞がそれでも20ページを維持して映画の広告をいっぱい載せているのを見ると、広告が取れないってよりは取ってページ建てを維持して記事とか作ったものの、部数が出なくてコストが見合わなくなってしまう事態を朝日は積極的に避けようとして、読売は何が何でも維持しようとしたって判断の違いがあったのかもしれないなあ。ともあれ新聞、厳しいです。


【4月2日】 よく動いていたとは思うし頑張って動かしていたとは讃えたいけどそんな動きが動いているという以上に動いた奴らによる愛憎と常人を越えたパワーぶつけあってのバトルに見えたのかってあたりがやっぱり判断の分かれ目になるんだろうなあ「鉄腕バーディーDECODE02」最終回。スピード感はあっても全体に同じペースで進んでいるようで気合いを溜めたり殴るのを躊躇ったり、逆に殴った後に痛みが伝わるような余韻が見えたりといったことはなくってただひたすらに殴り蹴り吹き飛びぶつかりといったシーンが続くだけ。見ていてどこかに虚ろさってやつが漂って来る。

 それはそれで何もかもぶっ飛んでしまった奴らの気兼ねも何もないバトルなんだと理解することも可能だけれど、見てすごい動きだといった感心をこえてすごい戦いだったと感涙を得られるシーンだったかというとちょっと分からない。実力の一端を見せつけたシーンではあっても動きの中に動いている存在の気持ちまでをも練り込めていたのかどうかってところを、ちょっと聴いてみてみたい気がするなあ。ともあれ第2シリーズも完結。幼なじみは犯罪者だったよ困ったなあ的枠から飛び出ず、おまけにそんな犯罪者をあいてに職務をすっとばしてうだうだとする気の弱いバーディしか見られなかったのがやや残念。カペラちゃんは可愛かったけれども終わりを前に退場だったしなあ。次があれば是非に再登場を。今度こそブルマで。あるいはスク水で。

 入園者の水準が60年前に戻った上野動物園みたいな例もあるんだから、別にボーナスが20年前の水準を下回ったって普通だよねえ、なんて言ってくる経営者がいたとしたらそりゃあそうですねえと相づちを打って、頑張って経営してくださいねって激励するかってゆーとそうは問屋が卸さない。あれやこれやと物価も上がり、タクシーの初乗り料金なんてほとんど倍な状況になっているのに給料だの、ボーナスだのが減ってしまうのは生活で困るし遊興費にだって不足する。それでなくても経済状況とかとはいった別のところで道を踏み謝ったりしたからこその結果って可能性もあったりする訳で、そんな間違いを認めるどころか下に苦労を押しつけて、逃げ切る技に出ようものなら世界が黙ってはいないだろーから気をつけよう、悔い改めようボーナスをちゃんと1度でしっかり出そう。せめて去年の水準くらいは。

 びっけびっけびっけは小さなジンギスカン。全然違う。びっけさんとは漫画家さんで前から若いらしくってリリカルなストーリーをつむぐ人って気になっていたところに新刊が2冊ほどエンターブレインからまとめて登場。そのうちの「あめのちはれ1」(エンターブレイン)は新しく始まった新学期。名門高校の女子部とは背中合わせになっていて行き来にはいったん校門を出てアプローチの坂道を下の分岐点まで降りなくちゃいけないくらいの隔絶ぶりが特徴的な男子部に入学した生徒5人が、入学式も早々に学校にしばらく残って散策していたところに落ちた雷。気がつくと5人とも体が女の子になっていたから驚いた.

 うち4人はすぐさま集まり対策を練り、用務員みたいなハルちゃんて男性の住居に世話になりつつどうやったら変化するのかを検討。その結果雨が降り出してから1時間ほど経ち止まないとそのまま女の子になってしまって以後、12時間ほどで元に戻ると判明した。戻る前に雨が降り出すと再度の12時間。さらにもう1人、そのときは出会わなかったけど男子寮に入っている生徒に同じ現象が起こっていることが判明して、都合5人が変わった体質を隠しながら男子の時は男子部に、そして女子になった時は女子部へと通って授業を受けるようになる。

 いったいどこの「けんぷファー」ですか。まあナツルたちと違って誰かと戦っている訳でなく、ただ変身してしまうだけの状況な様子でこれがいったいどういう理由によるものなのか、それが目的とすることは何なのか、ってあたりはこれからの展開の中でいろいろと明らかになって行きそう。4人は体型こそ変わっても髪型は普通なのに遅れて変化が明らかになった真城悠介こと悠子だけは紙がぐわっと伸びてとてつもなく可愛らしくなってしまうのは何か理由があるんだろうか。眼鏡っ子だからか。他は直後ならごまかしがきいても髪がいきなり伸びてはやっぱり面倒だろうなあ。だったら男子の時も延ばしてしまえば良いのか。さてはてどんな変身を見せてくれることやら。追いかけよう。

 「縛りの心は義母(はは)心。鞭打てば命の汗ほとばしる」、とはいったい誰が言った言葉だろうか(誰も言ってません)。とはいえしかしそれだけの腕前だったら縛られたって良いかもと、思う面々が出ても不思議ではないくらいに見事な縛りを披露してくれる紫ママの活躍を、堪能したいんだったら大泉リサさん「サディスティック88」(ガガガ文庫)を即座に買って読み込もう。南米に出かけている父親が現地で再婚したという連絡。そしてやってきた義母は和服の美人で娘は1人はギャルみたいな恰好の美人でBL方面の漫画家として大人気。もう1人は楓といって華奢で大人しそうな少女に見えたけれども程なくして実はくっついている存在なんだと気がついた。何が、とは聞かない。

 んで最初は賑やかな家族が増えたと喜んだ息子だったけれども朝に台所に入ると男が裸の上からエプロンをつけ食事を作っていた。尋ねると「ぶひ」としか言わない。まるで豚野郎。そう豚野郎。どうやら紫さんにはそうたい方面で女王様として君臨していた過去があって現在も君臨しているらしく、奴隷を調教しては飼い慣らして使役しているらしい。実に独創的な家族たち。あまりに独創的過ぎて、ようやく親しくなれそうだった同級生の桜井ひとみさんにはちょっと紹介できないなあと思っていたら、桜井さんを狙う上級生の百合でSな少女の白百合さんが自分の思うようにならない桜井さんを狙い、楓のついてる秘密もバラして追いつめていく。そんなピンチに現れたのが紫さん。正義の縄で白百合を縛り上げ、正義の鞭でひっぱたき、正義のボールギャグで恥ずかしい思いをさせていく光景に家族やその友人への愛情が……感じられたりするのかな。まさしく「ドSの心は母心」。知らぬは少年ばかりなり。少年が気づかなかった桜井さんの正体も凄まじかったし。


【4月1日】 ネタはない。というか季節の変わり目にしてクール変わりってことでどんな新番組が新しく、そして何時から始まるのかを把握しなくちゃいけなくってテレビ番組表を見るのに忙しい。1日あたりはそれでも新年度の特番とか入ったりするんで新しいアニメ番組が始まることも少ないけれど、週末から来週あたりがひとつの山場でどんな番組が始まって、どれが見続けなくちゃいけないものでどれを見切るべきかってのを検討しなきゃいけないからとっても忙しくなりそう。とりあえず木曜の「Phantom」「けいおん。」あたりからチェック。とかいってたら「毎日かあさん」撮り忘れてた。まあ、いいよねこれは。

 「どろろ梵」が4巻で完結。ニセなのかチビなのか分からない百鬼丸が出てきて妖怪になったどろろに挑むものの強すぎて太刀打ちできずに体を半分こ。それでも生きてて再生なんかも始めていたのが本物百鬼丸の連れの梵ちゃん背負った妖猫ホフマンをいっしょに引き連れてあの世行き。とはいえどろろは残り猫爺ちゃんを殺された怨みなんかもあって暴れ回っては町中に竜巻なんかを起こしまくる。家は吹き飛び飛行機も落ちていっぱい人死にとか出ているんだけれどそんなどろろを調伏せずに連れにして、旅を続けて良いのか正義の百鬼丸! 別に正義じゃないから良いのか。

 ダークな世界を描いたってことで根強いファンも多い手塚治虫さんの世界を、百鬼丸の性別を変えて時代も変えて絵柄もまるで変えてしまって描いて、果たしてって思われ異論もいっぱい出たけれど、戦闘場面の迫力とか妖怪になってしまったモノの辛さとか、いろいろと描かれてあって楽しめたし何より百鬼丸が良い女、だったんでこれはこれで絶対にアリと断言。実はあんまり読んでいない「PLUTO」とどっちが手塚トリビュートとして面白いんだろう。読んでみたいけれど知らないうちに結構巻数、増えてしまっているからなあ。そういやあ「リボンの騎士」のトリビュートは一体、どーなったんだ。もしかしていろいろあった挙げ句に「リポンの騎士」みたくなっていやしないか。

 会えばするのが女と男、って訳じゃないのは長い人生、生きてるリアルな男子が良く知っているけれども中にはそうじゃない世界とか、そうはならない人とかもきっといるみたい。世界でいうなら小説の世界で豊島ミホさんの「純情エレジー:(新潮社)に描かれている7つの物語に出てくる男女はもうそりゃあしっかりとやりまくり。羨ましいと言うしかないけどそれを言ったら負けかと思うんで大っぴらには言わないで影でいう。ああ羨ましい。缶ジュースだからたったの120円でやらせてくれると噂の樋口愛子にたった2人きりで受けてた追試の時に誘われて、びくつきながらもやってしまう少年が微笑ましい「十七歳スイッチ」。17歳とは小説の世界じゃあちょい遅めだけれどもリアリティならこっちの方がありそう。問題はだからは120円ガールの存在か。いるのか。いて欲しいのか。

 大学の時から京都の呉服屋の若旦那と付き合い半分囲われるような形で暮らしていたけど若旦那が結婚して妾厳禁となって京都にいられなくなり、別れ戻った田舎町で免状もないけど若旦那から手を取られ指をとられて教わった書道の教室を開いたところ、子どもがまずは習いに来て、それから少年もやって来るようになったその彼、ミノルに男を感じて股間にむしゃぶりつく女がとっても艶めかしい「指で習う」。英語を習いに行ってた女子大生の家じゃあそういうことってなかったよなあと嘆息。

 こんな村いやだぁあ、って感じに飛び出してきた東京で学生生活を過ごし出版社なんかに就職したいと考えていた女性が会合で出会った綺麗な男性は田舎にいた頃から見知った顔で、今はモデルなんかもしていて人気も得てはいたんだけれどどこか境遇に不満なのか、郷里の知り合いに出会えたことを喜んで彼女に近寄りそのままいい仲になっていく。背が今ひとつ低くてブレイクできない彼を売り出したいという思いから彼女の就職活動にも熱が入るけれども反対に、彼は都会での暮らしに蹴りをつけ、捨てきれない田舎での暮らしを選んで帰っていく「結晶」。都会で同郷にあったからって盛り上がる経験はないけどそれ以前に同郷の人にもそうでない人にも会わないからなあ。出不精はやっぱりいかんか。

 気づいたら「エル・ゴラッソ」が150円になっていた。「東京スポーツ」が120円から130円に値上がった時ほどの衝撃はないんだけれども原油価格とか下がってあらゆるおのがデフレ気味な中での値上げってのはつあり原価の代金が下がる以上の広告の入りも下がっているってことなのかなあ。小回りの利く業界ではナンバーワン(というかオンリーワン)の新聞ですらこれなんだから一般な新聞の世界じゃあ3番手までがせいぜいで、それ以下はおはや命脈すら保てない時代がきっと来ているんだろうなあ。7万部減とかどうとか。でもって回らなくなり人を削り商売に必要な人がいなくなって見入りも減って紙も減る暗黒のデフレスパイラル。たどり着く先は、何処。


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