縮刷版2009年月上旬号


【2月10日】 頂点を極めたスポーツチームがあれよあれよという間に凋落して今は見る影もく遂に身売りだなんて状況が、親会社の倒産だの犯罪に手を染めただのといった事態もないのに起こってしまった例が過去をほじくり返してもあんまり見つからないのはつまり、それだけ経営していた親会社のガバナンスに奇矯な部分があったってことなんだろうか。プロ野球で西鉄がライオンズを太平洋クラブに売りクラウンライターを経て西武ライオンズへと至ったケースもああるにはあるけど、西鉄が輸送需要の減少なんかで厳しくなって来た上での放出で、ライオンズはその後にやや時間はかかったけれども見事に復活を果たして今なお人気の球団であり続けている。

 それなのに「東京ヴェルディ」は親会社がまだ健在だった時代に突如として失速し、それからはい上がれないまま経営権が他に移ったけれどもそれととえ同じグループ内での横流し。総体として大きな変化がなかったにも関わらずひたすらに弱さばかりが増して1度のJ2落ちを喫し、今また2度目のJ2落ちを喰らったままどっかの会社の売却されようとしている。Jリーグの勃興期ならいざしらず、読売クラブとして立ち上がった当時なんて企業からもらえる金なんかないクラブチームでありながらも、最強の強さと最高のパフォーマンスを見せて大勢のファンを獲得。それが初期の大人気とつながった訳であってまず金ありきだったものではない。

 つまりは読売クラブっていうものが持っていた魅力なり、ノウハウなりが慕われ認められての強さだったはずなんだけれどバブル的な状況を超えたどこかの段階で、そうした諸々の伝統がスコンと断たれてしまった様子。過去にあったんだったら取り戻せるはずなんだけれど、そんな過去を知らずただひたすらに賑わっていた時代しか知らない者がきっと引っ張ろうとして引っ張りきれなかった結果が弱体化へとつながり、けれどもそこで原点に返れないまま失敗ばかりを積み重ねてきた結果が今のこの状況につながっている、ってことなんだろうかどうなんだろうか。ただただ勿体ないというより他にない。だって1から伝統なんて作れないんだぜ。

 ここで再び原点へと戻り規模を縮小しながらもマインドだけは、スピリッツだけは往年のものを取り戻せれば未来の復活だってあり得るはずなんだけれど、今の経営陣にはそうした、地道だけれど大切なものにまるで考えが及ぶほど、洗練された人がいないんだろう。毀誉褒貶あったけれどもサッカークラブを創るんだって音頭を取った正力松太郎はやっぱり凄かったんだなあ。それを思うと今の奴らは。んまあ新聞人なんて今はどこにだってそんな将来を掴めるビジョンなんて抱ける人、なおかつ実行に向かって動ける人なんでいないんだけれど。戻ってヴェルディはどこに行く? ドナドナと買われていった先で原点を取り戻せるならそれもいいんだけれど、そんな可能性を持っているチームを売り払って平気な奴らの心性が、やっぱり気になるし腹も立つ。おまけにそんな心性の持ち主が、世間をリードするメディア企業って所も気に入らない。そんな奴らが生み出すコンテンツ。面白いって思えるか? 思いたくないよなあ、やっぱり。

 つか末の妹は何も知らないないまんまで面白そうだからと敵に協力していたって寸法かよ「宇宙をかける少女」。説明無用にキャラクターが出てきては前提無視に展開されていくその流しっぱなし素麺的手法は録画して見返したりDVDを買って理解していったりすることが可能な現代だからこそ通用する手法であって1度見たらそれっきりなテレビアニメの時代だと、きっと何やってるんだってことになったんだろー。そんな時代の演出に慣れた人が見たら今はきっといろいろ気にかかることも多いんだろうなあ。でも個人的にはやっぱり昔のようにひとつひとつを分からせる努力をしながら見せていくような作品が好きだなあ、テレビ放送している以上は。まあともあれレオパルドが何かと接触して始まるバトルの行方や如何に。福山と潤がお伝えしました、って同じ人間だろうこいつらは。

 いろいろと話題になている映画を完成披露の試写会で見たらあまりに素晴らしかったんで素晴らしいところを羅列していくとまず渋谷あたりを模した街での戦いで、メカから現れた肉感ムチムチな女優の人のボンデージな衣装の胸元からのぞく谷間が素晴らしくってそれから正義の味方の2号さん(さんは付けちゃだめらしい)が側転したりするシーンでのつなぎのタイトフィットぶりが素晴らしく、それからメカ戦になって操縦席でやや屈み気味になった泥棒一味の女ボスの胸元からのぞく谷間が完璧に素晴らしく、正義の味方に敗れて自転車を漕いで走るシーンでの真正面から見た彼女の谷間がもうひたすらに神々しく、失敗したからとお仕置きされて吹き飛ばされた女ボスの肢体が艶めかしく基地に帰って新しい商売を旗揚げした時に一味を鼓舞する歌を唄いながら踊るシーンでの女ボスのボンデージな衣装のハイレグぶりが素晴らしい上にもちろん胸元からのぞく谷間がなかなかに深くて美しかった。

 あとはエジプトみたいな場所へと向かう犬型メカの尻尾にしがみついている何とか博士の娘のスカートからのぞく脚が細くそんな脚の付け根がどういうわけかサソリに刺されてしまったところで毒を吸い出すからと1号がスカートをまくりあげた時にのぞいた脚が白くてただただ眩しく、エジプトみたいな場所で正義の味方を相手に戦うボンデージ姿の女ボスの胸元がふかふかと柔らかそうで素晴らしくヒマラヤみたいな場所で最終決戦にのぞむ女ボスのマスクの下の瞳が潤んで優しげで唇が赤くふくよかでやっぱり素晴らしい上にしっかりと刻まれた谷間の深さがやっぱりとってもひたすらに激しく素晴らしかった。といった具合に素晴らしいところが満載だから公開されてからまた劇場に行って見よう。最前列の中央がグランドキャニオン鑑賞にはオススメかな。

 そんな映画とは全然まるで関係のない深見真さんの新作「硝煙の向こう側に彼女」(エンターブレイン)でとっても胸を打つ描写を見つけたんでここに記しておこう。「稲葉は邦画が好きではない。ハリウッド映画に予算やセットON規模で負けているのは仕方ないにしても、脚本、編集、演出等がお粗末すぎる。ハリウッド映画はテーマは幼稚でも脚本は破綻が少なくよく練られているものが多い」。なあるほど。見た映画とは全然関係ないんだけれどもいろいろと考えさせられることの多い言葉だなあ。ちょっと前に劇場公開されて今はDVDも出ている「スピードレーサー」って映画をちょっと見てみたい気持ちが湧いてきた。きっととってもシナリオ的には素晴らしい作品なんだろうなあ。ビジュアル的にいくら素晴らしくってもタニマニアしか納得させられないんじゃあ意味ないもんなあ。


【2月9日】 ベッカムのクロスはやっぱり破壊力抜群。距離も角度も正確に見方のプレーヤーの所まで飛んでいくから、合わせさえすれば得点になるし相手ディフェンダーがはじいても後ろから攻めて2次攻撃へと結びつけられる。この技が日本の両翼にあったらなあ、って真夜中のミランとレッジーナの試合を見ながら思ったけれども、仮に内田篤人選手とかにベッカム並のクロスの精度があったところで、ゴール前に攻め上がっている選手が皆無な日本代表では如何ともしがたい。インザーギみたいに飛び込む選手もいなけりゃカカやセードルフみたく拾って鋭いシュートを正確に枠に飛ばす選手もいない。そもそも内田選手にベッカム並のクロスの精度を期待できないこの現実。なので早く台頭して代表に呼ばれるようになって欲しいmのだと、遠くスコットランドの曇天に思いを馳せる。水野晃樹選手よ、いったい何をしているのだ。

   ライドバックが走りも立ちもしない回では見ていてどうにもモヤモヤが。ってか大広間の座敷に皿盛りで串刺しにされたハムカツがどんと出てくるあの居酒屋の風景って、いったいいつの時代へのノスタルジー? 1980年代だとあんな感じの店もあって安く飲めて食べられたけど、今時の学生街にもあんな感じの店って残っているんだろうか。大学校内の描写も妙に80年代っぽいしなあ。原作だと学生運動とかって出てくるからさらに70年代80年代オマージュが描かれているんだろうなあ。それはそれで読んでみたい気が。アニメの展開も原作とズレて来ているみたいだし読んで差し支えもなさそうなんで読んでみるか「RIDEBACK」。

 んでいよいよリューズにも滅びの影がヒタヒタと。首筋からペカンと飛んだあれは表皮なのか。現れた美女とそれからロボットって前にも後にも別に関わりなんてないよねえ。唐突だけれど象徴で埋めていく展開が続いている中だけに、あれもリューズの「わたしはここにいていいのか?」という迷いや葛藤の現れなんだと見てとっておくのが吉なのか。死ぬ恐怖から逃げようと殺してくれと頼むリューズと、死ねない苦しみから解放されたいと願うキャシャーン。選ぶならどっちの道? 共に救われるといいけれど。戦闘シーンはスピード感があるけれども重厚感はやや下がっている雰囲気。肉弾相打つバトルはディオとの再開がブライキングボスとの決戦までお預けか。でもって次回にはいよいよルナもご登場みたいで、果たしてどんな真相が待ち受けているのか。ブルーレイボックスの予約もしておこうかな。

 ヴィジョネアって見たい分だけお金を払うとパスワードがやって来て1週間だけ鑑賞できるペイパービュー方式のDVDに、「ふしぎなメルモ」が混じっていたのに気がついて、パッケージをよくよく見ると「リニューアル」って書いてあった。んでも「メルモ」が「鉄腕アトム」みたいに何度も作り直されたって記憶はないから、何だろうって調べたら1998年に映像はほとんどいっしょながらも声優さんが刷新されたリニューアル版が作られて、放送されていたことを初めて知った。いやもしかしたら当時にちゃんと気づいていたかもしれないけれど、忘れていたから同じこと。子供の時に夏休みとかで朝方に「海のトリトン」「宝島」あたりと並んで頻繁に見た作品なだけに思い入れも強く、どこがどう変わっているかにちょっと興味がある。

 というか声とかは今時な(それでも10年前だけど)声優さんを並べた程度でそれほど変化はなく、むしろ映像の方にいろいろと細工が施されていたりするんだろうか。何しろ「やけっぱちのマリヤ」と並んで手塚治虫さんの作品では最右翼的な性教育ストーリー。生物の発生から赤ちゃんの創られ方まで、それこそ生命に関わる情報がてんこ盛りな内容は、見せる映像もなかなかに刺激的でもしかしたら今時の、妙に自主規制したがる風潮にそぐわないものも混じっていた可能性もあったりする。そうでなくてもメルモが大きくなった時に、子供のまんまのスカートをはいていた関係でまるっと見えてしまうヒップとか。子供どころか大人になってもなかなかの刺激物だったアニメーション。そのあたりを変えてあるのかそれともないのか、より過激になっていたりするのかを確かめたいけどオリジナル版をすっかり忘れてしまっているから、見たってきっと分からないよなあ。オープニングを聞くのだけでも懐かしさにタイムトリップできるんで、それで身を癒そう。

 少女小説を別名で書いているって言われたところで読んでいるかどうかは不明な上に、それが誰かを聞いて回る伝もないんで誰だって良いってことにしてとりあえず、目の前にあるこの一冊というか2冊で評価するなら揚羽千景さんの「大正探偵怪奇譚」(徳間ディアル文庫)は第壱巻の「鬼哭」も第弐巻「鬼子」もともになかなかの伝奇ぶり。まずは壱の「鬼哭」は舞台を大正な東京において、喫茶店を経営している元は九尾の狐さまん家に居候気味で、実は鬼なんだけれど今は作家として活動しつつ妖怪たちが絡んだ事件を解決する役目も負っている丑三進ノ介が主役となった物語で、かよわい女子ばかりが狙われた事件が気になり追ううちに、とある貴族の娘でなおかつ進ノ介の著書のファンだという少女と知り合い気持ちが通う。

 とはいえ鬼では幸せなんかつかめるはずもない上に、少女の側にもいろいろと事情があってハッピーとは正反対のエンディングを迎えることになる。さらに浮かび上がった進ノ介の過去。第弐巻ではそれが1編の物語になっていて大江山から逃げ出した酒呑童子の妻の茨木に、息子の鬼の兄弟2人のうち後に進ノ介となる鬼が、里で健気に幼い少年少女を養いながら生きる少女と知り合い心を寄せるものの、現れた弟の暴虐を喰らって幸せは砕かれそして進ノ介が長い時の旅路を歩み始める端緒までが描かれる。松田環さんって人が原作になって舞台なんかで演じられていたもののノベライズってことだけれども、舞台の方は未見なんで大正なのか鎌倉あたりがメインなのかは不明。ただどちらにしても、異形な者たちが例え力があったとしても生きづらい状況を描いていることは共通。そこより浮かび上がる区別も差別もない世の中への憧れは、よりくっきりと格差が浮かび上がっている現代だからこそなお強いものとなって心を突き動かしそう。続きとかってあり得るのかな。


【2月8日】 5歳でたぶん10月か11月。通っていた保育園でずっと続けていた皆勤が、その日だけ途切れたのを、出席するとくれるハンコの列が秋を象徴するオレンジだか茶色のトーンになっていたその月の、その日にだけ空欄になっていたか欠席のハンコになっていたことを今でもうっすらと覚えているし、平針のたぶん布団の「わたや」かそのあたりにあった民家の前で、まだ明け切らぬ空の下、寒さを感じながらバスを待っていたことも覚えているからやっぱり秋だったんだと思う。それも結構な晩秋。

この空間に立っていたらまた違った未来も開けたか  バスに乗ってから千里の会場まで到着するまでのことはあんまり覚えていない。入場は並んだんだろうか。中に入ってからも見たパビリオンは幾つもない。中をぐるりと動く歩道で周りながら何かを見たような記憶はある。調べるとどうやら「富士通館」らしい。平べったい形をして月の石が置かれた「アメリカ館」にも行ってないしお祭り広場にも行ってない。「太陽の塔」は見たんだろうか? でも当時の「太陽の塔」は下の顔は大屋根の下に隠され外からは見えず、上の金色の顔は広場にはいると見えない作りになっていた。

 遠目からもよく見えない状況は、今の空き地にそれだけがポツンと佇み全体像を見せている様子とはまるで違う。後生になって写真なんかでその全体像が分かるようになってから、ああこれが有名な「太陽の塔」なんだと理解できたんであって多分当時、会場に入って大勢の人並みに押されながら子供の身長で人垣の間にのぞくそれを見たとしても、きっと太陽の塔だとは気づかなかったんじゃなかろうか。むしろキラキラと光る「みどり館」や怪獣のような顔をした「ガスパビリオン」の方がくっきりと記憶に残っている。そういうもんだ。

 入場して蹴躓いて転んで、膝を怪我したことは覚えている。あれは「ガスパビリオン」の近所にあった空き地で絆創膏とかを貼ってもらったんだろうか。そんな空き地があったのかすら実ははっきりとは覚えていない。ただ実家に行けばその時に撮ってもらった写真があってそこに座っている姿が写し出されていた記憶がある。見れば思い出せるはずなんだけれど、前に見てからもう30年は経っているからカラーだったのかどうかすら記憶から遠ざかっている。今でもちゃんとアルバムはとってあるんだろうか。いつか見返しながらああやっぱり僕は1970年にちゃんと「日本万国博覧会(EXPO70)」に行ったんだと思うんだろう。

 そんな程度の経験だから、国立科学博物館で開かれていた「1970 大阪万博の軌跡」を見ても「ああ懐かしい」といった感情はそれほど湧かなかった。そこに後に愛知県の「青少年公園」に移設されて、2005年の「愛知万博」開催でお取りつぶしに遭うまで存在していた「フジパンロボット館」」の中で音楽を奏でていたロボットでも出展していたら、感慨もちょっとは湧いたかもしれないけれどもそれは万博の想い出というより、子供時代に通った青少年公園の想い出だからちょっと違う。「オーストラリア館」も会場では見ず、三重へと出かけるたびに四日市あたりで近鉄の線路からその偉容が遠目に見えたことで知った程度。仮に展覧会に出ていたとしても湧いた感情は「フジパンロボット館」と大差ない。

 とはいえ1970年以降に生まれ、まるで「EXPO70」を知らない人たちに比べれば、そこにいたんだという実感がある分、並べられている物に対して同じくらいの時間を過ごしてきて、そしてめぐり会えたんだという感慨はある。夢があって未来があって明日があった時代。直後にあさま山荘やらオイルショックやら田中角栄やら公害やらがどばっと訪れ世相にはいろいろと霞もかかったけれど、個人としての自分にはまだまだ開けた未来があって可能性があって夢があった。それの果たしてどこまで実現したものか。ひとつとして実現していないとは言わないけれども、それにしても思い描いていた状況とはまるで違う日々の暮らしを思うたびにあの会場へ、当時の姿でタイムスリップをしてそこから何かを始め直してみたいという思いがわき上がる。

 何でもありのパワーで突破していけた団塊世代があって高度成長の余韻からバブルの急成長を享受できた世代があってその下で、バブルの残り香も潰えバブル崩壊の波に翻弄され汲々とはしていなくても福々しくはなれない曖昧さのなかをどっちつかずに漂う「EXPO70」チルドレン。そんなどっちつかずさがカルトに走らせ「20世紀少年」のような郷愁に惹かせ夢の固まりのようなアニメに耽溺させて社会からの乖離を拡げさせ、そして永遠の助走のなかでいつかの終焉を迎えさせることになるんだろうなあ。そう思うとなかなかに罪なイベントだったなあ「EXPO70」。でも行って本当に良かったよ。あの空気。感じられたのは後に2002年の「ワールドカップ日韓大会」があるくらいだもんなあ。

 最終日だってのにそんなに混んでないのはもはや「EXPO70」世代は下でも40歳を超えていたりして、子連れの30代の興味を惹かず上過ぎる世代の夢も煽らなかったからなのか。10年前ならもっと入っていたような。おおこれがあの月の石か。待ち時間20秒。過ぎた時間の長さを改めて思う。会場を出て食堂でお弁当とか貪り食ってから上でパンダちゃん大会を見物。近所の「上野動物園」に来ていてそしてぜんぶが死んでしまったジャイアントパンダの剥製たちが一堂に会した珍しくも興味深いイベント。日本はこんなにもパンダを消費して来たのかって思わされる一方で、これに続くパンダが今はいない寂しさって奴も感じさせられる。

 「カンカン」「ランラン」の最初のペアに始まってちょっと前に死んだあれは「リンリン」だったけ? の剥製もあるんだけれど思うのは生きている時にはわりにずんぐりとでっかい印象のあったパンダが剥製になるとそんなに大きくは感じられなかったこと。ちょっとした豚くらいの大きさで牛ほどもなく「猛獣」ってイメージにはちょい遠いんだけれどそれでもツキノワグマだって立ち上がれば結構な背丈になる訳で、それよりちょい大きい感じがあるジャイアントパンダに山で遭ったらやっぱり逃げるのが正しいのかもしれない。1頭、白黒ではないパンダが小さい水槽の中にいたのは生まれて数日で死んでしまったチュチュか。パンダって生まれたときは白黒ではないのだなあ。

 てくてくと上野から秋葉原を抜けて神田まで歩く途中で喫茶店に入って読書。おお。断言しよう。第15回電撃小説大賞金賞を受賞した静月遠火さんの「パララバ」(電撃文庫)は絶対に面白いから読むように。遠野綾というヒロインとは別の高校にいて、綾とは電話だけでしか話したことがない村瀬一哉が、通っている学校の屋上で脚を滑らせ頭を打って死んてしまった。遠野綾と村瀬一哉はそれぞれの高校で共に合気道部に所属していて、2つの高校で合同練習の話をし始めて親しくなって、電話をやりとりするようになったものの、結局は練習話は潰れて2人は最後まで会わず仕舞。そして聞いた訃報に遠野綾は一哉の葬儀に出かけて行って、帰って死んでしまったことを悲しんでいたところに電話があった。

 それは一哉からのもの。出ると何と一哉が喋りかけてきた。そして告げた。こちらの世界では遠野綾が通り魔に襲われて刺し殺されたのだと。さらに村瀬一哉は告げた。高所恐怖症の自分が屋上に上がるはずはないと。別々の世界でそれぞれのうちの1人が死んでいた事件。それも殺されたか殺された可能性がある事件。2人はそれぞれの世界で相手を殺してしまった犯人を捜そうと、調査を始める。それぞれの世界では相手は死んでしまって周辺のも知人はいないけれど、電話を通せば相手は生きているから周辺の情報を聞き出させる。

 そうして得られた相手の情報を活用しながら、自分が今いる世界で死んでしまった相手の周辺の調査につなげる設定の妙。共に時空を隔てながらも同じ場場所にいて、危険が起こった時に、つながった電話でお互いに支持を出し合い、それぞれを救うという展開の巧さ。設定を活かした上に乗った、2人がそれぞれに殺されてしまった事件の真相をめぐるミステリーのドラマも完璧で、SF的な設定の上で繰り広げられるミステリーとしてなかななの冴えを見せてくれる。

 ラストはちょっぴり寂しいけれども、頼りのないは元気な証拠と思うしかないんだろう。これだけ完璧な物語が金賞どまりなのは、上も上だったから仕方がない。しかし今年は電撃大賞、大賞の「アクセルワールド」といい銀賞の「ロウキューブ」といいどれもこれも傑作揃い。数集まるとやっぱり質も上がるんだなあ。おっと真藤順丈さんの「東京ヴァンパイア・ファイナンス」も忘れちゃだめだ。とはいえこれだけ“ライトノベル”にしては凝りすぎているんだよなあ。やっぱり一般向けエンターテインメントの人、なんだろうなあ。


【2月7日】 ギリギリと締め付けられていく現実から逃げるようにフィクションへと耽溺する今日この頃。だって真面目に考えるといやになるだけだもんなあ。んで志麻友紀さん「神父と悪魔 邪眼の審問官」(ビーズログ文庫)はアンアンことアンシャールって悪魔で元は6枚羽の天使のそれも「明けの明星」と呼ばれた偉いさんだったのが反抗を起こして悪魔となってあれこれ悪さをしていたのが、見初めた破壊神父のヴィヴィことヴェドリックのところに現れ美丈夫の男性だったり可愛い女の子の姿になってつきまとい、それを守護天使のオフィエルがあたふたしながらも見守り夢魔の少年やら狼男の青年やらも取り囲んでてんやわんやの状況になっていたのがこれまで。

 そこに現れたのが何とアンシャールにそっくりな顔をした神父でおまけにオフィエルとは双子の弟ながらオフェイルよりも遙かに格上の天使になっていたセラミエルがくっついていたから皆驚いた。誰だこりゃ、ってところですぐに浮かんだ「明けの明星」とは対になっていた「宵の明星」。もはや形ある天使では最高の場所にいる彼の卑近な思惑ヴィヴィの元からオフェイルを奪い、夢魔のデニスも奪っていく。アンシャールの実はとてつもなく強大な力が判明し、そして宵の明星との対立も深まる間でただ翻弄されるばかりのヴィヴィだけれども憤ればアンシャールのさらに倍の羽を広げるヴィヴィの謎なんかも浮かび上がって明星たちの思惑すら超えたところで動き始めた何かへの興味を引っ張られる。いったいやっぱり何者なんだヴェドリック、ってあたりが落としどころになるのかな。とりあえず連続刊行らしいんで来月が楽しみ。

 んでばむばねさんの「Edgeでデュアル新人賞」とやらの徳間デュアル文庫特別賞受賞作「 魔王さんちの勇者さま」(徳間デュアル文庫)。ってかスクウェア・エニックスのノベルズですでに活躍している人が何でまた、って気もしないでもないけれどあのノベルズって良い作品がでる割に評判になりづらいんだよなあ。「ステレオタイプ・パワープレイ」って面白いのに。でもって「魔王さんちの勇者さま」。勇者の家系に生まれた澄人は16歳になった歳に父親から言われ魔王を退治しに異世界へと送り込まれる。普通だったら手にした聖剣のジョンボムでもって魔王を両断。それでとりあえず「災厄」とやはら封印されて澄人の子の代になるまで先送りになるんだけれどのんびり屋なのか澄人くん。魔王を前にしても剣を振るおうとはしなかった。

 むしろ魔王の家に居候してまだ幼い娘のサフラのお世話掛かりになる道を選択。見かけはむちゃくちゃ可愛らしいけど実は強烈な魔力を秘めているが故に周囲からどこか畏怖されてそれを敏感に感じ嫌われていると思いこんで頑なになっていたサフラにものほほんと親切に接する中に信頼とそれから恋情らしきものが生まれていくんだけれど運命は澄人を安閑とした日々に留め置いてはくれなかった。魔王はだから魔物たちをざわつかせる象徴であり災厄の担い手。行かしておけば魔物が騒いで人間たちの間に緊張関係を生みだすし、封印しなければ暴れ出した災厄が人類のそれこそ3分の1の命を奪うくらいの大暴れする。

 だから人間の元より魔王を討伐する騎士も送り込まれてくるんだけれど、本来だったらそちらに見方すべき澄人は迷ってしまう。明るそうな魔王にいたいけなサフラをどうして斬れるのか。それで世界を救ってしまって良いのか。ってあたりから生まれる澄人の決断。魔王と勇者というある意味でファンタジー世界に必須な対立し相克する存在の記号性を指摘しつつその記号性を引き剥がし、のみならずメタ的な状況に収斂させず魔王も勇者も超えた存在はあり得るのかと模索し誰しもが幸福になれる道を描き出した爽やかで前向きな物語。自分だったらどうするか? って問いを投げかけられているような気にもさせられる。でもって自分だったらどうするか? やっぱり選ぶかなあ、澄人の道を。8年後のサフラを見てしまった後ならなおさら。

 こっちは勇者ではなく世界の王にさせられる物語、だけれど規模はしょぼん。わかつきひかるさんの「放課後の世界征服」(HJ文庫)は机の引き出しから現れたカメエモン(何て名前だ)から世界征服をするよう求められた少年が主人公。双子の妹がいていっしょに高校に通ってクラスも一緒でおまけにとってもブラコンだなんて羨ましすぎる環境にいたりするけど当人は生徒会の委員で地味な眼鏡っ娘の梨梨子が大好き。だけれど梨梨子は見かけによらずハードなオタクでコスプレしBLやら何やらのシチュエーションを妄想した挙げ句に口走る僻があっておまけにナマモノにあんまり興味がなさそう。

 そんなラブコメチックな状況に祖父も父も政治家という生徒会長の瑠璃さんって美少女が加わって起こるのは学校内で起こる生徒会長追い落としの陰謀でそれを最初は副会長の謀略と思い相手を糾弾していたのがどうやら違うかもしれないと分かってきて、そして起こった夜の生徒会室での悩ましげなシーン。さあどうする青少年! ってまるで世界征服とは無関係なドタバタが最後まで続いていくあたりにもしかしたらカメエモン、必要ないんじゃないかって思えないでもないけれどもいたからこそあり得た攻撃の回避ってのもあったと認め、またこれはプロローグであって学園を征服した主人公が、次巻から本格的な世界征服を始める物語へと発展していくんだと信じて続きがでるのを待つことにしよう。待つべきか。

 愛は憎しみを超えるのか? ってことがやっぱり主旋律になるのだろうか紅玉いづきさんの「雪蟷螂」(電撃文庫)。雪深い山間部で長く争うフェルビエとミルデの部族。けれども10年前の戦争時に起こったとある出来事が、10年の後にそれぞれの族長のフェルビエは娘、ミルデは息子を結婚させるという約束を生みだしそして迎えた10年後。フェルビエを率いるようになっていた娘アルテシアは父の思いを叶えるべく、婚礼のためにミルデへと向かうがミルデを率いるようになっていた息子のオウガはアルテシアに剣を向け、戦いを仕掛けると脅す。理由はミイラとして保存していた父親の首が何者かによって持ち去られたから。永遠の生を信じるミルデにとってそれは冒涜であり宣戦布告にも等しいということらしい。

 けれども平穏を願った父の思いをかなえたいとアルテシアは憤りを抑え、オウガの首を探すには隠棲している魔女から話をきくしかないと言いだしオウガの元に替え玉を置いて旅に出る。たどりついた魔女の居場所で知った真実は、対立の中に生まれた心の通い合いが平和を望んでいたという事実。相手を憎むことはつまり相手からも憎まれる連鎖しか生まないのだということを思い知らされ、それを断ち切るためには精一杯の憎しみや悲しみを相手の憎しみや悲しみに置き換えて、分かり合い譲り合い労り合う必要がるんだと教えられる。憎しみの連鎖がいつまでも途切れない現代にこそ相応しい物語だけれど、個人的な愛が生まれる隙間なんてないからなあ、現代の外交や政治には。ではどうするか。象徴を置いてそれを通した理解しかないよなあ、ってことでアニメキャラ登場。キャプつばが、ハルヒがNARUTOが世界をひとつに繋ぐ、ってことで。

 常務ったら普通は役員フロアでもそれなりな部屋を与えられて、秘書もついて1日のスケジュールなんかを朝にうち合わせて黒塗りで出かけて夜も料亭で会食とかいった日々を送っているものなんじゃないかと思うし、それが本業であり命でもある部門の担当常務だったらなおのこと個室なりせめてパーティションが切られた場所にあってこそ目指すべき頂点だって意識も周囲に持てるものなんだけれども、どうやら最近の常務ってのは主戦場の対面あたりに椅子をおかれ周囲は無任所で無役の古参兵が並ぶなかで黙々と雑務をこなしているものらしいと思うとそんな場所に登るんだったら、下っ端として外を自在に歩き回ってた方が気も楽だし人生に有意義だよなあってきっと誰もが思うんだろうなあ。それともそこでは常務ってのは部長って意味で使われているのかな。いや部長だって今時はパーティションくらい切られた場所にいるよなあ。中小企業でもなければ。つまりはそういうことか。


【2月6日】 中身はカエルにそっくりでも、見かけは子供の手足が引っ張られ、引きちぎられる場面ってのはやっぱり目に痛々しい。それをやってしまう容赦の無さ、恨みの深さを表現したかったんだろうと理解は及ぶものの、見てそうした理解の回路を抱ける世代ってのがあって、下がるともはや普通の行動として手足を引っ張り引きちぎれてしまえる心性ってのが醸成されていて、果てにバーチャルがリアルへと融けだし、混ざり合った世界なんってものがって来たりするんだろうかと考えたりもするけれど、リアルってのはすでにその先をいってて中東ではミサイルが降り注ぎ、アフリカでは難民があふれだし、日本でだって産み落とされた子供がその場で息の根を止められる。何と殺伐とした世界。

 ならばむしろ事の残酷さ、傷ましさをビジュアルでもってはっきりと見せつけ、戦慄させる方がむしろ適切なのかもしれないとすら思わされるこの世の中に、フィクションが何をできるのかってことを考えてみたいけれども暇がない。などと「鉄腕バーディーDECODE 02」なんかを見ながら、うつらうつらと考えたりする真冬の深夜。これを仮に海外なんかで放送するとなったら、どんな規制がかかるんだろう? 「BLACK LAGOON」もそういえば、双子の姉妹のヘンゼルとグレーテルが惨殺ではないけれど、撃たれ死んでいく場面があったっけ。海外ではどんな感じに放送されたんだろう? 「バーディー」は残った妹にもナタルの手は及ぶのか? それにしても私怨による復讐話で半分くらいを使ってしまったりと相変わらずの後日譚。このままで行ってしまうのか、クリステラ・レビへと及ぶのか。チラ見せして「DECODE 03」なんてことになってたりして。なってるの?

 ふと気がつくと不況はひたひたと背中まで迫っていたというか、本当を言うなら内臓から脳味噌から不況でグヅグヅになっていたりするんだけれどもそれには気づかない振りをして話を戻せばアメリカの通信社のブルームバーグが日本でやってる日本語のテレビ放送を4月30日ですっぱりこんと打ち切りにするって話。まるで予兆がなかったところを一気にやってしまうあたりがアメリカ流だけれども、日本語の放送って市況はしっかりとしている上に社長インタビューなんかもあって見ていると結構役に立っていた、ような気がしないでもない、いや通りがかりに丸の内のOAZOとか、丸ビルとかにあるモニターで眺めていただけだから詳しいことは知らないけれど、それでも夜にやってる「ワールドビジネスサテライト」の昼間版みたいな感じで、投資家の人たちにはそれなりし支持されていたんじゃなかろーか。何、曽宮一恵さんの爆なバストが見たかっただけ? だから詳しく知らないんだってば。

 けれども採算として今ひとつだと見るとあっさり切り捨てるのが外資系。日本語に限らずあらゆる言語について英語以外の放送をとりやめてしまうってんだから思い切りが良すぎる。英語が世界のどこででも通用すると思っているんだろうか? ってもしかしたら思っていたりするかもしれないけれど、映画だってハリウッドだけじゃあもはやリクープも難しいから収益機会を増やそうと、海外向けに字幕を入れたり吹き替えを用意したりするなかで、英語以外を全否定しなきゃいけないところに報道機関が直面している、業績面での超が付くほどの厳しさって奴が見えてくる。あそこでこれなら弱小全国紙なんてきっととんでもないくらいに大変なんだろうなあ。大変っぽいけど。気になるのはブルームバーグでどれくらいの退職金が出るのかってところか。出ないって訳はないよなあ。やっぱり1億円くらいいくのかなあ。ブルームバーグと提携じゃない連携をしている新聞はどうなってしまうのかなあ。

 斉藤けんさんって人の「亡鬼桜奇譚(なきざくらきたん)」(白泉社、400円)を読んで亡く。見せ物にされていた女には額の左右に角があって依然は虐待され迫害されていた。通りかかった男が金を与えて女を引き取り連れて歩くことになったものの男は路銀を切らし托鉢僧のふりをして旅をし女もそれについて歩いていてたどり着いたとある村で、女は角があるところを見つかり村にある桜が咲かないのは鬼のせいだと糾弾され、捕まり首をはねられる。男に優しくされ続けるのは鬼と誹られ続けた自分には苦しいと感じたのか、半ば自ら捕まった雰囲気。虐待されていたなかで歯を折られたところを男に笑うとマヌケな顔になるよなあと言われていたのに、打ち首になる場面で垣根に駆け寄った男に向かって精一杯の笑顔を見せるその顔から放たれる優しさと、そんな女を鬼みたいだからと虐げる人々のみっともなさが対比され人として情けなさに涙する。

 手首に取り付けられた時計の進み具合によって生命の長さも変わってくるという不思議な集落に生きる少女が出会い別れるなかで自分を見つめ直す「無限時計」に姉を失った悲しみから暴政に走った挙げ句、暴動を起こされ殺されたはずの王が魔女によって行かされ年に1歳づつ若返りつつ記憶も失う呪いをかけられ、最初は魔女の館でかしづかれる感じで囚われそして館を出て自分のできる精一杯のことをして生き始めようとする「サンドグラスの檻」と、ファンタジックな設定を持った短編はともにただ過ぎていくだけの時間とは違った時間があったとして、その中で何を考えどう生きるのだろうかってことを感じさせてくれる。ラストの「花のカノン」は学校でふざけあって少女の下半身を動かなくしてしまった少年の迷いが花束となってめぐり少女に届き少年との間のわだかまりをうち消す物語。長編も書いている人だけど短編もそれぞれに輝きがあって面白い。遡って読んだり追いかけてみるか。

 江草天仁さんの「びんちょうタン」の第4巻を読んで泣きじゃくる。何があったかひとりで雨宿りしていたところに通りがかったばあちゃんに拾われはじめは施設にいたけど引き取られ、豊かではないけれども幸せな暮らしをおくっていたけれども、ある夏のある日、なにがあったかいっしょに街にいかずに家でばあちゃん人形を手に待っていたら誰かが訪ねてきてばあちゃんが市場で倒れてそのまま亡くなってしまったと告げる。突然の別れ。後悔の別れ。子供だからすぐには理解できなかったかもしれないえkれども、いなくなってしまったばあちゃんの思いが募ってびんちょうを再び引き取られた施設から山の家へと戻らせる。ああ書いているだけで泣けて来た。

 とりあえずこれで終わりみたいだけれども友達もいっぱい出来て厳しいけれども頑張れれば親切にしてくれる人もいてきっと、びんちょうタンは元気に育っていってくれることだと信じよう。「びんちょうタン」はアニメーションにもなって泣ける話のオンパレードで、見ながらこれが売れて皆が見るよーになれればきっと世界も平和になると思ったけれど、放送されてDVD化されるとあとはもう日の目を見ないってのが今時のアニメだからなあ。再放送されて欲しいなあ。漫画を読むたんびに飽食はよくない質素に生きようって思うんだけれど、守れないのはそれだけ周囲が汚れすぎているからか、自分が汚れまくっているからなのか。ちょっと反省。でも明日には忘れていそう。情けないなあ。


【2月5日】 なんだ女性じゃないのか英(はなぶさ)さん。んでも男性キャラクターだからこその突っ慳貪とした態度から、逆に内心に秘めている真っ直ぐさってものも浮かんでくるんだなあと都戸利津さんの「環状白馬線 車掌の英さん」(白泉社)なんかを読みながら思ったり。ずっと幼い頃に白馬線というシティをまわる環状鉄道の中に置き去りにされてしまった子どもが、車掌さんに拾われそのまま見習いの形で車掌の仕事を始めて幾年月。いまはすっかり“名物”になって、「乗り合わせると幸せになれる」とまで評判が立つほどになっている。

 といっても別にヒーローめいた大活躍をする訳でもなく、むしろ愚直なまでに仕事だけにとり組んで他には何もしない英さん。けれども車掌としてとり組むその仕事こそが大勢の人たちの気持ちに光を灯し、道を示して明日を与え、それが結果として「幸せをもたらす」伝説となって積み重なっていく。どこかの子どもが家では飼えないからと電車に残していった犬を、もらったお金の分だけ置いて子どもの再来を待っていたら、子どもが親を説得して戻ってきて、犬は幸せな家庭へと引き取られていった。その犬がやがて大きくなった時に、ひとときを一緒に過ごしてにおいを覚えていいた車掌さんが持っていたリボンが、譲られ取り付けられたトランクに吶喊。持っていたのは職を失いシティにやってきた青年で、ちょっと前まで白馬線に乗って英さんから前向きになる気持ちをもらったばかりだったりする彼は、犬に追われて飛び込んだ店で見事に職を得る。

 そんな出会いの積み重ねが描かれていく連作集。例えるならゴンドラの仕事を通していろいろな人に幸せを与えた「ARIA」に雰囲気が似ているかもしれないなあ。タイプは随分と違うけど。いつも同じ電車に乗ってぐるぐると回る環状線の中だけで生きていてたのしいの? って疑問も浮かぶし、当人だって昔はそんな暮らしに懐疑を抱いたこともあったけれども、遠くをめぐっていろいろな人に出会い景色を見ることが世界を知ることとは違う、同じ場所にいて車掌としての仕事を一所懸命にこなすことで乗り合わせた人たちの気持ちを幸せにし、それが大勢の人の幸せへと連鎖してくことによって、自分もまた大きな世界の一員になれるんだってことを感じ取ったみたい。思い通りにならないから、というか何をするにも嫌気が先走って熱心になれない最近の人たちに、ひとつ箇所からがんばる素晴らしさを語って聞かせられそう。1巻だけでおわりみたいだけれども、淡々とした仕事ぶりの中に前向きさを感じ、成長を味わえる物語をもっと読んでみたいなあ。

 浦和レッドダイヤモンズがヤバいかも、ってのはネガティブじゃなくってポジティブにヤバいくらい強いチームになってしまうかもって予感のことで「ナンバー」の2009年2月19日号に我らがイビチャ・オシム監督のインタビューが載っているの、その後ろに浦和レッズの新監督に就任したフィンケのインタビューも掲載。中で自分がドイツのオシムと呼ばれていることに「驚きはないなぜなら私はフライブルクの監督時代、オーストリアリーグをチェックして、オシムがグラーツで素晴らしいサッカーをしていたのを知っていた」と話し「美しさのためだけに攻撃サッカーを志向するのは本末転倒だが、オシムは美しさと結果の2つを見事に結びつけた。私と彼のフィロソフィーはとてもよく似ている」とオシムへの敬意を口にしている。

 そんな態度でオシム的な練習を重ね采配を積み上げられたらいったいどれくらいの強いチームになってしまうのか? いやもう恐い恐い恐すぎる。今を持ち上げようと過去を誹る傾向のある評論家たちがオシムを悪し様に言ったり無視したりする傾向があって某評論家もオシムのフィロソフィーなんかをまるで無視してPK戦を見ない監督は勝負師ではないって無根拠の言説を繰り広げて貶めつつ、おそらくは今の代表監督を持ち上げようとしているんだけれど、そうした業界バランスとかをまるで気にせず己は己の良いところを出し彼の良いところも見習う謙虚さと勇気を持ち合わせて実行に移してみせる監督の登場で、きっと浦和レッズは強くなりやっぱりオシムの薫陶を受けたサンフレッチェ広島も強くなる。

 もちろん欧州スタンダードを知り尽くしたアレックス・ミラー率いる我らがジェフユナイテッド市原・千葉も強くなってそして日本代表だけが弱くなる弱くなる弱くなる……のかな。豪州戦まではがまんだ。しかし気になる情報が。「実は2月にオシムと、お互いの知人を交えて、東京で会うことになっているんだ」ってあるけど収録した1月上旬にはすでにオシムの帰国は発表済み。それでもなおかつ東京で会うとはつまりオシムの再来日があるってことか。何しに来るんだ。もしかして浦和レッズと接触するのか。それとも。気になるなあ。気になりすぎるなあ。そうだきっと世界三大カップ戦のひとつを見に来るんだ。ようこそ「ちばぎんカップ」へ。柏で出会える時を楽しみにしています。

 実は読んでないんだけれど「フルーツバスケット」。アニメーション版の方も熱心には見ていないから時々「彼氏彼女の事情」なんかとごっちゃになってどんな話だったか分からなくなるんだけれども男優ばかりの劇団って触れ込みが行き渡り始めたスタジオライフがフジテレビに銀河劇場と主催する形のプロデュース講演として「フルーツバスケット」を上演。その発表会があったんではるばる彼方の青海にあるスタジオまで出かけて行って綺麗所の男優達が勢揃いする様に見入る。おお松本慎也さんだ王子だ今はこっちに戻っているのか。「風が強く吹いている」の舞台で演技派なところもしっかり見せたから次はきっとテレビに映画といった所からもお呼びがかかる、ようになると面白いけどどうだろう。

 こっちはおお曽世海児さんだ舟見和利さんだ岩崎大さんだ三上俊さんだ荒木健太郎さんだって感じに主要所がそろった上に、「RUN&GUN」の2人とか「メイちゃんの執事」にも出ている人とかが入ってなかなかに華やかそう、とはいえこれは「フルーツバスケット」。主役の本田透はもとより草摩神楽とか女の子もいっぱい出てくる演目なだけにここに並んだイケメンのいくらかが女性役を演じると思うと見方もちょっと変わってくる。まあ別に化粧とか衣装とかで女を作り出すってよりは脚本とシチュエーションで女以外のものではありえないって状況を作り出し、そこにはめこまれるかたちで演じる役者もだから必然として女性に見えてしまうマジックを繰り出すスタジオライフ。瞬間の見た目にこだわるよりはむしろやっぱり通して視た上で感じる方が正しい見方なんだろう。とはいえひとり声も女性なら見かけも女性っぽいSHOWTAってシンガーが混じっていたのが驚きというか誰なんだこの人というか。変化すればいったいどんな感じになるのか興味が尽きないんでここは出演する回を選んで見に行くとするか。銀河劇場。鉄人はもういないんだよね?


【2月4日】 「見上げてごらん少女の瞳を」ではなくって「空を見上げる少女の瞳に映る世界」はそろそろOVAの第2巻に入っているんだっけ、買ったけど出てこないから見られないけど妙によく動く絵からするにきっと相当な時間と労力をかけて作ってあったんだろう、それが地上波でもって放送されて京都アニメーションここにあり、って実力を見せつけてくれた。

 これがこのまま新ハルヒだか続ハルヒだか超ハルヒへとつながっていってくれれば良いんだけれども、どうやら噂じゃあ再放送どまりみたいだし、現役な「CLANNAD」が絵はともかく話的にどわんとしているからちょっとどうなるかがまだ見えない。まあ今は「空上げ」(略しすぎ)の方がストーリー的にも先が見えないだけあって面白いから無理に新作を追い求める必要はなし。偽シャザーンことガスもいよいよ最後の力を振り絞っているみたいでハイハイサーと笑いながら消えていったその後で、誰がどんな戦いぶりを見せてくれるのか。ライカさんも加わって戦力は整ったけれども敵もまだまだ強そうだし。見続けよう。

 そうか売り出していたのは等身大からちょっとだけ背の低い鉄腕アトム。パルコの手塚治虫展でもって入り口付近に飾られていながら初日のレセプションの最中も目とかの色塗りを施されていた立像だけれど「ギフトショー」へと言ったら手塚プロダクションのブースに屹立してはお値段35万円でもって売りに出されていた。もちろん1点物ではなくって商品として。パルコで見たものと同じ型でもって作られるアトムはアニメの中から抜け出して来たような顔とはちょっと違って等身がやや高く、というか顔が小さめになっていて生きている人間に近い感じ。だからライフスケール・フィギュアってことなのか。

 脚は裾広がりに太くなってるアトム脚だけれどもデフォルメが行き過ぎているってこともないから見ていて本当にそこに人間だったトビオを模して天馬博士が作り上げたロボットがいるような感覚を味わえる。手がけたのは秋山工房。注文から1カ月くらいっだからきっとすでに型はあってそれに彩色が施される期間がそれだけってことなのか。手塗りだろうから1点ごとに感じも違って来る模様。ザクとかガンダムを飾るのも悪くないけど世界に通じるアトムだったらあるいは将来にそれなりの値段になったりするかもしれないんで注文するなら今がチャンスだ。でも35万円はやっぱり高いなあ。だいいち置く場所がないもんなあ。

 これを思えば3万円なんて安い方か。いやでもアニメのDVDに3万円は。しかしパーティーにご招待されてフィギュアももらえるんなら悪い金額ではないのか。悩ましい商品として今猛烈に逡巡している叶姉妹の兄めーそyんDVDセット。映像に関してはプロダクションI.G.が手がけているってことでまあそれなりのクオリティは保証されているだろうし、見た感じもビット・ザ・キューピッドの時代からは大きくテクノロジーも進化して、フォルムが独特な松下進さんが描いた叶姉妹がモデルになったグラマラスな美女2人が、とってもいやらしくって艶っぽい雰囲気でもって造型されていて見ていてなかなかに素晴らしい。

 その映像クオリティを評価するなら5000円が1万円でも許せそうだけれどもさすがに3万円となるとちょっと厳しい気がするなあ。いやしかし秘密のパーティーに16センチのフィギュアに直筆サインか。あの谷間を直に見られるチャンスか。まあすでに叶美香さんの方ならバンダイナムコゲームスの新作ゲームソフトの発表会でもう目の前にいる叶さんを見た記憶があるから別に良いんだけれども、あんまりそういう場所に出てこないお姉さままで見られるってのにはちょっと引かれるものがある。どうしようかなあ。アニメ者にはここぞと踏み切る勇気が必要なんだと自分を無理矢理納得させるかなあ。パーティーには何人くらい来るのかなあ。ギャザリングはそもそも成立するのかなあ。ああ悩ましい。

 もとい「ギフトショー」では6分の1フィギュアのメディコム・トイが出展していて一時はベアブリックみたいなオサレなフィギュアにシフトしていった感じがあった会社がしっかりと、キャラクターフィギュアを作る方へと戻っていたみたいで初期からのファンとしてはちょっと嬉しい。でも実は買ったことないんだけど。目玉は仮面ライダーの旧1号がフルカウルをつけたサイクロン号に乗っていたりするフィギュア。旧ライダーの1号はバージョンが3・5だから完成度も上がっていだろうし、何よりサイクロンがとてつもなく本格的。これほどまでに精密に作られたものってきっと過去にもなかったんじゃなかろうか。売れるだろうなあ。でも4万8000円するからなあ。でも欲しいなあ。

 欲しがる人だとむしろ「仮面ライダーNEW電王(ストライクフォーム)」に惹かれたりするのか。たぶん劇場版に登場していた電王? なのかやたらと派手な飾りが付いている。1万9740円となかなかなお値段だけれどその分、しっかりと装備がそろっているから見るほどにドキドキ感が湧いてくる、人もいるかも、僕は1話たりとも見たことないから知らないけれど。新製品だとあとはご存じ寺沢武一先生の描く「コブラ」のフィギュアか。ニヤけた顔に葉巻を加えた整形後のコブラがあって、それを買った人だけが長髪でハンサムな昔のコブラのフィギュアを注文できるって仕組みは、つまり両方買えってお誘いなんだな。足せばきっと4万円近くになってしまうけど、その完成度を見ると揃えたくなってしまうからやっぱり僕は「コブラ」世代。そんああたりをしっかりと突くラインアップに戻していくことが、景気が悪くって売れ行きも良い物と悪い物とが極端になってしまっているフィギュアのビジネスにとって、生き残る道なんだろうなあ。

 バランスが問題、なのだなあ、きっと。転校してきた女の子は日本の帝国の総理大臣でおまけにいっしょに帝国の皇帝という少女も連れてきては幼なじみらしい男の子を引っ張り回してツンデレぶりを見せつける。そこにやっぱり女の子だけれど歳はちょい上の軍の総司令官までもが転校してきてもう大変。何かあれば権力を振りかざしそうでなくても相手が遠慮してしまう3人の少女たちに囲まれ少年の学校生活はたのしくも凄まじいものになっていく、って学園ラブコメがメインな癖に背後では女の子が宰相に皇帝に司令官を務めなくてはいけないくらい、人類の存亡が逼迫していたりするって設定が隠されているんだけれどもそれがまるで出てこないからどうにもバランスが悪く見えてしまう竹井10月さん「東京皇帝北条恋歌 1」(角川スニーカー文庫)。続きを想定して設定を隠すのって連続者としては正しいけれどもでももうちょっと逼迫する事態に3人がどう対処するかを見たかった。まあ仕方がないかた続きも読もう。ってか明らかにヒロインは宰相の方っぽいのにタイトルは皇帝。これはつまり大逆転の予定?


【2月3日】 にいさんの日。兄さんだけど別に何にもなかったよ。ってことで脈絡もなく読むだ佐々木倫子さんの「チャンネルはそのまま!」(小学館)は、花枝まきアナウンサーのガッツポーズがとにかく素晴らしい。それはもう朝青龍のガッツポーズに勝るとも劣らない神々しさでもって何かをやりとげた喜びを感じさせ、ともに祝ってあげたいという気持ちを沸き立たせ、そして困難に挑んで得られる感動を自らも味わいたいという勇気をもたらしてくれる、かもしれない。

 何しろ相手は「HHTV北海道☆テレビ」始まって以来の女性の「バカ枠」とやらで採用された雪丸花子。その書く原稿は誤字もあれば間違いもたっぷりあって、見ればベテランであっても噴き出さずにはいられない。難読地名にルビも打ってなくって、大学生の同期がキー局に入ったことからも分かるようにおそらくは中央出身ながら、受験の果てに地方局にやってきた花枝アナにはまるで不明な読み方だったはずなのに、日頃の勉強の成果が出たのかつっかえつ間違えずに花畔、生振、濃昼といった地名を読み上げる、って書いててもどう読むのか分からなくなったよ。ばんなぐろ、おやふる、ごきびる、か。

 「使ってないから潜在能力で」と言い訳までしたのを、アロハな情報部の小倉部長から「現れないのが透明人間か」ときっと今の世代の人にはまるで訳の分からない言葉で言い負かされて逡巡しつつも落ち込まず、発声に務め態度を落ち着かせそして回ってきた明らかに大爆笑な雪丸の原稿を相手にたぐいまれなる潜在能力を発揮して、見事にニュース番組としての“初鳴き”をやりとげてみせた。おめでとう。おめでとう。心の底からおめでとう。

 もうこれで何が来たって大丈夫、かというとそれはある意味で火事場のバカ力であり、ピンチにあふれ出る脳内物質が時間を究極まで引き延ばして見せただけかもしれず、超絶的な雪丸が相手でなくては発揮されない能力なのかもしれないって可能性もあるだけに、先行きはまだまだ不透明。そんな間にも雪丸はトカゲを捕まえ犯人逮捕の瞬間を聞き出してみせる大活躍。バカ枠ならではの突破力でもって突き進んでいく雪丸花子の大活躍、に同期のプチプチこと山根くんすら陰が薄くなるなかで、我らが花枝アナの再登場はあるのだろうか。あって欲しいなあ。なのでチャンネルはそのままに読み続けよう、続く限り。

 えっと獅子堂家は三姉妹ではなかったのか。一番上の姉の風音はおそらく財閥を仕切っている眼鏡っ娘だけれどもその下に、月かどっかので剣を手にして戦っている高嶺って娘がいてそして1番下にどっかの学術機関で研究に勤しんでいる桜って娘もいる、ってことは5人姉妹なのかどうなのか。年の近い4女のナミはナミでモデルなんかの仕事で大活躍していた経験あり。ひとりヒロインの秋葉だけがなあんにも持たずに毎日を生きているんだけれど、特段に屈託とか見せていなかったのが内心ではやっぱりいろいろと劣等感を味わっていたんだなあ。

 だから彷徨う人工知能コロニーのレオパルドに選ばれたことを、畏れず嫌がらず不審がりはしても結局は言うことを聞いてあげては非日常へと飛び込んでいく。最終的に宇宙を手につかむのはやっぱりヒロインの秋葉ちゃん? でもそもそものレオパルドの目的が未だに判然としないんだよなあ。桜が何を研究していたのか、それを奪おうと誘拐した一味は誰なのかもちょっと分からない。これだけエピソードが進んでも見えないことが多すぎるし、さらにどんどんと増えていく。それだけに見る楽しみもある「宇宙をかける少女」。巧い作りだ。

 巧いといったらやっぱりベストセラーを続々生み出すだけあって水野敬也さんの「大金星」(小学館)も巧い小説。小説? そうです今回は小説でもって水野愛也ばりの恋愛の極意って奴を教えてくれる。高校時代からあんまり目立たずゲーセン通いばかりしていた御手洗だけれど大学に行ったら変わりたいと思っていたものの生来の臆病さが出たかまるで変わらず渋谷の街で呆然。そこに現れたのが高校時代から派手な言動で人気を獲得していた男でさらに派手さを増しては慶応の合コンサークルに入ってバリバリ言わせてる。誘われたけれど社交辞令と思い留まり歯がみしていた御手洗の前に、どうにも不思議な男が現れたことが彼の人生を大きく変えた。

 ランニングシャツの短パンで豆柴を連れた鹿児島弁の男。まるで上野にある西郷像のような春男というその青年は、御手洗から食事をおごられたお礼にと女性をものにする極意を教えて共に実践を始める。道玄坂こそ最高のポイント。そこで豆柴を放って女性に絡ませ脚を止めさせる。でもそこで強引には行かない。あくまで布石とがまんする。なあるほど。それから真剣さを見せる。坂を駆け下り声をかけることで相手のプライドをくすぐる。それが成功しなくてもやっぱり布石。結果御手洗はSNSのハンドルネームに過ぎないけれども人妻という女性からひとつの名前を教えられる成果を手にする。やったじゃん。

 その勢いで乗り込んだ元同級生のグループが仕切る新歓コンパ。とはいえ主要メンバーが女性を独り占めして、その他の男はもしかしたらな出会いを期待するだけの他力本願さを見透かされ、隅っこに寄り添い指をくわえて見ているだけの惨状。ここからどうやればはい上がれるのかと誰もが諦めかけていたその時に、春男の技が炸裂する。OBと偽り近寄ってはすぐに嘘だと謝り土下座までしてパシリとなってテーブルに近寄る。そこから道化も演じて受けをとって徐々に存在感を高めていく。

 もちろん敵も百戦錬磨の強者たちで、切り返されてはさらに祖父より伝わる春男の極意で挑む丁々発止の格闘戦。そうかナンパは体力と知力をフルに使うスポーツなのかと気づかせてくれたけれども、現れたアイドルグループのメンバーらしき男の口から、春男の過去らしき話が繰り出されたことで春男が固まりその場はいったん休戦に。続いてしまった話の先にはいったい、どんな大金星が待ち受けているのか。それは僕たちにでも掴めるものなのか。期待せずにはいられないけど、この歳で新歓コンパもないからなあ。枯れていこう、ひっそりと。


【2月2日】 ニンニンの日。忍者の日? んでもって「RIDEBACK」は行われようとしていた式典を邪魔するように近所の百貨店だかにテロリストが現れ集まっていた人たちを人質に。中にヒロインの琳ちゃんの友人もいたためいてもたってもいられなくなって、ライドバックにスカート姿でひらりとまたがり救助に向かうもそこではすでに戦闘が始まっていて、巻き込まれそうになった友人をひっかけ外に飛び出し逃げようとしたらテロリストと間違われて追いかけられた、ってどう見たって後から突入しては普通の人を助けた少女じゃん、スカート姿だし、だけどそんな風体を誰何することなく官憲は琳たちに無言の圧力。そしておそらく排除の指令。どういうこと?

 たぶんそれはテロリストに屈しないって態度を頑なに示すために人質も含めて排除してしまった行動に、漏れがあっては悪評が広まるばかりだという考えの発露。つまりは強圧的な組織によって世界が支配されているっぽい光景が見えて来たけどそこに至るまでいったい、どんな戦いがあったのかが気にかかる。だいいちどうして日本が? ブリタニアに攻め滅ぼされた訳でもないのに? まあその辺は原作を読めば分かるんだろうけどストーリー自体は原作とは違っている可能性もあるっぽいんでここは仄めかされる断片から、全体像を掴んでいく楽しみを味わわせていただくことにしよう。あれで平気に学校に通って捕まらないってこともないだろうし。

 んで「まりあほりっく」はほとんど原作のまんまの展開。前半は桐さんの妙さが炸裂だけれど展開言動ともに原作のまんまで調和してくんで安心はできた。後半はゴッドの査察が入って見つかったカバンにうごめく物体Xを捨てなければとお別れして、そしてエンディングの「君に胸キュン」。これで原作を知らない人がきれいな終わり方だと納得してしまったら愉快だけれども、そういう単純な終わり方をする話じゃないってこれまでのエピソードから察しているだろうからエンディング後に戻ってきた物体Xとの対面が待っていたのをしっかり目の当たりに出来ただろー。原作既読者には当然の帰結でこれまた安心。でも炸裂がないなあ。せめてビジュアル面だけでも楽しみたいなあ、鞠也のヌード……は別にいらないか。

 冒頭に謎の幽霊写真が入って不気味さ炸裂だった「キャシャーンSins」はリューズちゃん一人語りのエピソード。ベタンと腹這いになって転んだ子供リューズの可愛らしさったらなかったけれどもそんな過去がよみがえり、戦い続ける現在が繰り返される悪夢のような中でいったりリューズは何かを掴んだのかがちょと判然としなかった。戦いのシーンも同じ映像が繰り返されていたのは悪夢的な効果もあるだろうけどコスト的効率性もたぶんあったのかな。途中で人間っぽい男に誘われ横たわったリューズのシーンは人間性への憧憬か。でもあんな人間社会がどうしてリューズの記憶野に入っていたんだろう。それも含めて幻想と幻影のモノローグ。明けてさて物語はどう動き、どこへと向かう?

 そろそろ仕込んでおかなくっちゃと「コードギアス 反逆のルルーシュR2」のDVDを仕入れ「マクロスF」のこちらはブルーレイを仕入れてまだ6巻で完結までにはあとどれくらいと指折り数える。先は長いなあ。買っているのはこれらと「鉄腕バーディーDECODE」と「かんなぎ」とそれから「空の境界」の劇場版。「バーディー」はとりあえずあと2本で終わりだけれど「2」があるから先はまだまだ。「かんなぎ」はあと3本? 見えてきたけど果たしてその頃にジャケットは誰が描いているのやら。「空の境界」は2本。ほかに注文済みの「スカイ・クロラ」のブルーレイがあってさらに欲しいのは「キャシャーンSins」のブルーレイボックスと「魍魎の匣」のブルーレイボックスくらいで1月スタートの新番組はどれも買わなさそうなのはやっぱり景気が不透明で産業と経済が不況のまっただ中だから、なのか。いろいろ動いているからなあ、産業と経済。それも極めてナーバスに。来年もあるかなあ、産業と経済。

 気も停滞したので元気を取り戻そうと読書。おお。断言するぞ。第15回電撃小説大賞銀賞の蒼山サグ「ロウきゅーぶ!」(電撃文庫)はとてつもなく面白いから絶対読もう。スポーツ推薦で入学した高校のバスケ部が先輩の“不祥事”で1年の休部に。もてあました時間を怠惰に過ごしていた長谷川昴という少年に姉から誘いが入る。それは姉が務める小学校の女子ミニバスケットボール部の臨時コーチという仕事だった。なにしろ休部の理由がバスケ部キャプテンと部長の小学生の娘との恋愛沙汰。なので躊躇しまた自身もバスケへの情念が冷えかけていただけに姉の頼みで受けた仕事もさっさと終わらせるつもりだった。そして出向いた最初の日に長谷川昴はとんでもないものを目にすることになる。

 ってことで普通だったら「こどものじかん」的な小学生なんだけど女の子なんだよ的シチュエーションから、高校生コーチのドギマギ展開へと発展しつつドタバタの中に話を入れ込みがちなんだけれど、そういう描写には休部を食らった主人公の内心に生まれる葛藤が自制となって情動に歯止めをかけ、そして描き抜かれるのは真剣でガチなバスケットボールのコーチングと、その目的としての圧倒的な戦力差を誇る男子バスケ部との対抗試合。つまりは「頑張れベアーズ」に代表される弱小チームの努力友情勝利なスポーツ青春ストーリーってことで、読んでいて知らず物事への熱情って奴が浮かび上がってがんばらなくっちゃって思えてくる。こいつは傑作。掘り出し物。実写で是非にとお願い……するのはやっぱりこの本の趣旨的には拙いよなあ、でも見たいなあ。尻餅とか。

 「トルネードベース」が強者共の夢の跡地となってから暫く。バンダイビジュアルがこんどは創作を中心にしたサイトとして「YOMBAN」ってのを立ち上げた。読むバンダイビジュアルだからYOMBANたあまたストレートなネーミングだけれど集まっているコンテンツは森岡浩之さんの小説をはじめマンガにイラストとなかなかなの分量。それらがぜんぶ無料で読めてしまうってところは売りだけれど、今時無料のコンテンツがあったからといって集まってくれる人はいないし、それでお金も稼げない。単行本にするっていったって売れるライトノベルでも数万な世界に入りこんで稼げるとも思えないんだけれどそこはバンダイビジュアルって企業体が、アニメ化するネタを探すサイトとして機能していけば良いなろう。あとは3月に登場の円城塔さんの小説か。どんな萌えな小説になるんだ。


【2月1日】 存在する価値の至らなさを味わいつつ、それでも大海の一滴、砂漠の砂粒ほどであっても存在している事実を重ねることこそが証と自らを奮い立たせつつ、やっぱりどこまでも無価値なのかと哀切に浸りつつといった具合に行ったり来たり。やっぱり引っ込み思案なのがいけないのか。あるいは主張が足りないとか。まあ良いそれでもなるようにしからなんのだと自棄酒をうち切り布団に潜って前に買ってあった「空の境界 第五章 矛盾螺旋」のDVDを見る。あのトランクの中に入っているのはミミックか? いやミミックだったら宝箱の中だからちょっと違うか。それとも「まりあほりっく」で鞠也がかなこのカバンに入れたのと同じもの? だとしたらかなこ、毎日すっげえのと付き合っているんだなあ。

 ってことで「矛盾螺旋」はアニメ批評な人も含めて大勢が、ただのイベントムービーじゃないって感じて劇場に駆けつけ観たってくらいに映画映画しているエピソード。時間もそうだけれども2時間近い長丁場を時系列をおきかえ、タイミングを計りつつ時には前後し、時には繰り返して叩き出すことで、何が起こっているのかを思い出させ何が起こるのかと興味を抱かせながら最後まで飽きさせずに観ている人を引っ張っていく。展開だけなら左右に弧状の建物を置いたマンションで起こっている実験を、両儀式が暴こうとして捕まってしまうけれども実験の渦中で意思を抱いた少年の思いが、黒桐幹也の思いとも重なって、式の救出へと向かわせるって本筋に魔術師の蒼崎橙子の過去の因縁が絡むっていった明快さ。それをまんまやったら多分当たり前に面白い作品になるだろうところを時間をつまみ入れ替えることによって、予定調和へと向かわせないスリル感を醸し出している。

 アクションで言うなら第三章の「痛覚残留」での浅上藤乃と両儀式とのレインボーブリッジあたりを舞台にした屋台崩しの大業も炸裂するなかでのバトルの方が圧倒的な迫力だし、狭いマンションの廊下が舞台になっているって共通点なら第一章の巫条霧絵との最初の出会いで繰り広げられた戦いの方が一触即発の緊張感があった感じ。「矛盾螺旋」でのクライマックスに当たるはずの荒耶宗蓮とのエレベーター前での戦いは画面こを派手に見えても肉弾相打つ感じが少し淡泊なような感じがしたし、その前の人形たちを両儀式がばったばったと切り倒していくシーンも相手が弱すぎたせいで体操の練習を観ているようだった。

 ハッと目を引く絵だったら巴が逃げ込んだ倉庫で両儀式が巴を追いかけていたチンピラたちを叩きのめしたシーンで着物のすそがちょろりとはだけ、脚がちらりと見えた場面? ってそりゃあ目の引き所が違うかな。まあともかくふんだんにある分、慣れてしまったってことでそのあたりをレベル上げ的な関門にしない意味でも、間をつなぐ日常の時系列をバラバラにしたり似た連続を重ねたり繰り返したりして気持ちを途切れさせない工夫をしたのかな。そうした心理と展開との関係を研究してみると面白いかも。時間が欲しいなあ。どうしようかなあ。そうそうビジュアルだったらやっぱり洗面台に積み重ねられていく両儀式の下着類、か。割とフリヒラのを見に着けてるんだね、誰が選んだろう? どうやって買っているんだろう? 黒桐幹也が選んでいるに50円。

赤いマントにシルクハットで見物に行きたいものである  映画に出てくる橙子の人形が展示してあって、赤いシルクハットも鮮やかなコルネリウス・アルバと橙子が再会する場所に見覚えがあって考えて、即座に東京は竹橋にある東京国立近代美術館の工芸館だと気づく。旧近衛師団の建物を使ってあって外は煉瓦造りで中は木製の階段があって登るとちゃんとフロアに工芸品の椅子なんかが並んでいる。出入り口の白い扉もそのまんま。横にカウンターまでちゃんとあるからよほど正確に取材して描いたんだろう。エンドクレジットにも協力者に入っていたし。そんな工芸館がどんなかを見物に行こうと出向いたら手前の東京国立近代美術館では写真家の高梨豊さんの個展がやていた。

 森山大道さんとか中平卓馬さんとかが参加して作っていた「プロヴォーク」にも参加していた写真家で得意はやっぱり街撮り風景撮りで、1960年頃からつい最近までにあちらこちらを回ってとった都市のシーンを切り取った写真が並んでて、あああったなあこんな景色、おやまだこれってついさいきんの景色じゃん、とかって思いだして懐かしんだり意外に思ったりできるようになっている。浅草十二階こと凌雲閣を模した田原町の仁丹塔って見た記憶もあるんだけれど取り壊されたのは1986年だから違うのか。前に写真で見たのが模造記憶として残っていたのかな。

 そう、写真って時間を見ただけでワープさせてそのシーンを目の当たりにさせてくれる効果があって見ているうちにそれがあたかも自分の目でみた光景だと刷り込まれてしまう。テレビのモニターで見るデジタル写真だとどうにも見流してしまうんだけれど、アルバムに貼られたスナップなり、展覧会に飾られた写真を1枚いちまいじっくり見ていると起こるそんな現象は、人間が持つ意識の集中具合に依るものなのか。すべてが平べったいモニターの中に等価に描き出され見流されてしまうようになった現代で、見たものが記憶かされ何らかの特殊性を伴う感情を生み、それが創造なり保護といった活動なりにつながっていくことってないんだろうなあ。かくして世界はバーチャルもリアルもフラット化されて平板な景色だけがはびこりそれすらも数年でデリートされ上書きされていくという。寂しい時代だなあ。

 写っている絵だと1978年に京橋のテアトル東京でシネラマに上映されている「2001年宇宙の旅」の上映シーンを上から撮ったものが何というか時代的というか。シネラマってカーブがかかったワイドなスクリーンにおそらくは3台くらいの映写機から投影して臨場感があって身に迫ってくるような上映空間を作り出す技術、ってのがかつてはあったんだよなあ。名古屋だと白川公園の横にあった「中日シネラマ劇場」ってのがそんなスクリーンを持っていて、「スター・ウォーズ」なんかを見た記憶があるけれどもシネラマに適応された上映だったかどうかは今となっては不明。でも迫力があったって記憶はある。自分の小遣いをかき集めて1人で見に行った最初の映画だったんだよなあ、これ。高梨さんの写真は、今となってはもはやどこでも見ることのかなわないスクリーンの湾曲ぶりが分かる1枚。最前列で見たかったなあスターゲート。

 無料だった(といっても企画展を見た人はもとから無料なんだけれど)常設展へと入り4階の休憩室で皇居方面を臨みながら読書。神崎リンさん「ヒメゴトシステム 先輩、セップクです!」(角川スニーカー文庫)はダラダラとした毎日を送っている少年に起こる左と右から美少女たちに両腕を引っ張られる羨ましくも妬ましい事態を描いたラブコメディ、って言って良いのかな。一応は新入学して来たおかっぱ風な少女がその学園こそはかつての自分の祖先が守っていた城で、お家再興のために城を取り戻したいから本丸にあたる場所にある先輩たちのいる放送室を明け渡せ、って要求するって設定があるんだけれど、向き合う1年先輩の主人公の少年には、例えば「CLANNAD」の渚に演劇部再興を頼まれ話に乗った岡崎智也みたいな前向きさはなく、入っている放送部でミニスカート姿で結構な美少女なのに、恥じらいとか無縁のずぼらさでもって、床に寝転がってごろごろしている3年生の有馬部長の半ば下僕で半ば同類的な無関心さで、前村琴音って新入生を適当にあしらうものだから話はちゃっちゃとは進まない。

 それでもへこたれない前村のアタックにあんまり主人公には感心なさそうに見えていた有馬先輩が、その外面の良さを全面的に発揮して少年にアプローチをかけて来たものだから事態はお家再興から外れて少年をめぐるどんちゃかへ。なおかつ少年の義兄にあたる生徒会長も少年にぞっこんといった展開が加わり、少年とは友人で不良を束ねる田中とのバトルも加わったストーリーはどこまでも愉快に楽しく大騒ぎする学園生活へと発展。してはいったんだけれどとりあえず家来とかが出来た前村に、いよいよ次なる一歩があるのかないのはか次巻のお楽しみってことで。美少女だけれどずぼらでそんでもって下っ端の自分に関心を向けてくれる先輩ってシチュエーション。現実にあり得るのかなあ。あり得ないからこその小説化なんだろうなあ。「アクセルワールド 01 黒雪姫の帰還」も含めて。


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