縮刷版2008年11月上旬号


【11月10日】 拙い拙い拙い拙いぞジェフユナイテッド市原・千葉は大分トリニータと引き分けて勝ち点を1つしか積み上げられないまま17位の自動降格圏に踏みとどまって首の皮もぎりぎり。これで次の横浜F・マリノス戦に負けるようなことになればさらに降格の色は増し、来年の地方行脚も確実になって来るんだけれどもそこはマリノス、守備の要の中澤祐二選手が怪我で代表からも離れていたりするあたりに勝機を見出したいんだけれど、昨今“犬害”の異名もますます光ってきたど阿呆が、規定に照らしてもぎりぎりながら満たしているはずのジェフ千葉に制裁だなんて言い出しているから鬱陶しいというかうざったいというか。犬に害なすおっさんの戯れ言なんぞ気にせずがんばって欲しいところだけれどメンタルの弱さは筋金入りだからなあ。鍛えておくれミラーさん。

 2006年のゴールデンウィークに編集長の人が東奔西走しつつ「涼宮ハルヒの憂鬱」の増刷なんかに対応してたって話を聞いたことがあるんで06年の4月にアニメーション版の放送が始まって、放送分の第1話からいきなりフェイクな回をぶつけてそれから本編へと入ってもなお他のエピソードが飛び石みたいに挟まったりする不思議展開に、こりゃあ何だと驚き合われて小説版を買いに走った人の割にとてつもなくいたってことは脳がくっきりと覚えている。

 加えてなかなか進まない「憂鬱」の先行きをやきもきしつつすでにそれが終わったものとして繰り広げられる野球だったり推理だったり学園祭だったりする日常のユルさを味わう展開となって、そのそれぞれの出来の良さとあとはやっぱりエンディングの爆発的な流行が重なり「涼宮ハルヒの憂鬱」は角川でも屈指のメディアミックスコンテンツへと育って「ザ・スニーカー」の最新号にフィギュアがつけられるくらいに今なおその人気を維持している。

 だから2006年の4月5月といった辺りを分水嶺にそれ以前において「涼宮ハルヒの憂鬱」が今ほどの超人気作品ではなかったという安藤健二さん「封印作品の憂鬱」(洋泉社、1500円)において「歯車と少女」って「涼宮ハルヒの憂鬱」を扱った項目での三村美衣さんのコメントは実に当を得たもので、第1作目の「憂鬱」に見られたオタク的ライトノベル的シチュエーションを逆手に取ったメタフィジカルな構造にほくそ笑んだ深い読み手はいっぱいいたし、「涼宮ハルヒの消失」なんかに見られるSF的な思弁性たっぷりな展開を喜んだSF者もやっぱりいた。

 けど一般の、ライトノベルを読みつけている人にとってはちょっぴり敷居が高いシリーズだったってことは自分自身が読者として身をもって感じていた。アニメ化するって決まった時もそうかようやくって意識はあったものの遅すぎるって意識はなかった。それがアニメの放送で一変した。アニメの出来の良さや仕掛けの面白さが作品にあった敷居を超えてでも読んでみたいって人を生みだして、今の超特大なベストセラーに至ったって分析は出来ると思う。

 つまりはだからアニメ化以前のそれも1年以上前の時点で漫画版が連載されながらあんまり伸びずにうち切られたのも事情としては忖度可能で、今から思えば漫画としてのクオリティがどうこうって話もその理由に浮かぶんだろうけれども、きっと当時読んでた人はライトノベル原作の漫画が1つ出てそして終わったって程度の印象しか持たなかったんじゃなかろーか。そういう作品を積極的にプッシュすることがなかなかに難しいのは、他にもたくさんの人気作品を抱えている編集部としては仕方のないとこで、意図した“封印”をそこに見ることができるかっていうと、ちょっと引くものがある。

 あとアニメの人気が高まった2006年4月か5月以降でも、「月刊ニュータイプ」の表紙にならなかったのは千葉テレビだったりテレビ埼玉といったUHF系での放送に限定されていたからで、全国で売らなきゃいけないアニメ誌が全国でネットされていないアニメ作品を表紙にはなかなか出来ないって話を、アニメ誌の人から確か聞いたことがある。そりゃそうだよなあ。東京都下ですら放送されていないアニメが表紙のアニメ誌なんて買わないもんなあ。

 まあそんな時期的な概況を勘案しつつ補正しながら読んでもいろいろと知るところの結構あった「歯車と少女」。途中で途切れたまま単行本の続きが出ない理由とかはまあ連載作品のすべてが単行本化されていない作品の多々あるとはいえやはりいろいろ事情もあったんじゃにかって思わせてくれるし、「らき☆すた」で1話から4話くらいまでを監督していた山本寛さんが降板した理由でいろいろ上との関係があったんじゃないかって指摘にも、そういうことってあるかもしれないなあと考えさせてくれる。

 個人的にはど派手なオープニングが一変してまったりとして淡々としながら会話の妙で見せていくヤマカン演出の「らき☆すた」が割と好きだっただけに、降板は残念ではあったっけ。実際にDVDも1巻しか買ってないし。2期が新シリーズなのかってあたりもまるで分からないけれどもとりあえず望みたいのは途中で止まっている小説の続きが早く読みたいなあ、ってことか。そちらがなかなか出ない理由、安藤さんはどう見ているんだろう? 気になる気になる。

 上を見たら果てしなく、下を見ると底なし沼。気を抜いたら落ちていくだけの人生にくたびれ果てても、死ぬほどの本気にはなれはしない。どうしようもない不安に身を苛まれながらも生きていくしかない中年男の見苦しさ、みっともなさが露わにされて、似た境遇にある世の中年男たちをおののかせる。吉田修一の「元職員」(講談社)はそんな小説だ。

 タイに休暇でやって来た公社職員の男は、タイに長く暮らす青年と知り合いミントという少女を紹介してもらう。男はタイの人たちや風俗を見下す日本人旅行者の振るまいを非難していたはず。それがタイの少女を金で買ってはパトロン気分で少女の弟に会いに行って反感を買い、殴られる。自分だけは平等に世界を見ているのだと思う心は実は、平等なんかではありえないんだと認めている心の裏返し。身を下げて接する態度の尊大さ、それを己では認めない愚鈍さが同様に差別の心を消せない世の人たちを苛立たせる。

 そもそも男が妻を置いて1人でタイに来たのには理由があって、明かな危機に直面しながら、そこから逃亡も懺悔もできないまま根拠のない楽観主義にひたって今をやり過ごす。中年男に限らず、先の見えない社会に生きている日本人全員に、それで良いのかと問いかけてくる物語。読んで何とかしなければと、まるで思えて来ないところに今の社会の末期ぶりも見えてくる。現役でありながらも「元職員」というタイトルが付けられているところにも、不安にのたうちまわるなかで見える最善と最悪、その両極端の最悪がフラッシュバックする悪夢を促す効果がありそう。講談社創業100周年記念出版の「書き下ろし100冊」第1弾。それだけの重さに応えてなお強烈な存在感を放つ作品と言えそう。

 んでもって2日連続で「秋葉原UDX」へと出向いてMr.さん初監督作品の「誰も死なない」をやっと見る。「学園祭」では見なかったんだよなあ。んでもって案外にメロウな内容とかあったけれども基本はやっぱりMr.がオタクとして見たい映像を自ら撮影したパーソナルムービーって感じ? スクール水着での平泳ぎを真後ろから撮ったりブルマ姿で片足上げて銃を撃つ場面を下から舐めたりするカメラワークがばっつぐん。女の子の何が見たいかってのを知り尽くした人間がその通りにとってあるんで女の子のそれが見たい人にはとっても受けそう。

 そりゃあピンクだの青だのってカラフルで茂みでも目立って仕方のない迷彩服でサバゲーをやってもいいんかいと思ったり、喘息持ちの少女の部屋が縫いぐるみでいっぱいなのはどうしてだいって感じたり、近距離で撃ち合って当たらないサバゲーって何だろうって訝ったりしたのも事実だけれど狙いはそんなところにはない。見たいもの。それを見せるためのフックみたいなもんだと思えばまるで気にならない。これが村上隆さんならオタクってこういうのが見たいんだよね的マーケティングなスピリッツを取り入れつつ最適化してみせたりした作品を作り出しつつ、それを外部にプレゼンテーションしてこういう感じなんですオタクってって行ってみせる2重のコンテクストを仕掛けることになるんだろー。

 けれどもMr.の場合は心底よりの願望をまっすぐに移してみせる。あるいみで純粋なオタクってことなんだろう。そんな純粋なオタクが繰り出すオタク願望の垂れ流しを、アートと称しアーティストを認めてプレゼンしてみせたのが村上さん。言うなればMr.自信が「オタクアーティスト」ってタイトルの村上さんの作品でもあるんだけれどそういうことを書き出すと面倒なんで記事には書かない。終了後にMr.とか村上隆さんにご挨拶。もちろん10数年前に名刺交換とかしたことなんざあ覚えてらっしゃいません。そういうものだよ一般人って。有名になりたいなあ。真っ当に。


【11月9日】 コーキが来たコーキがやっと来た。スコットランドのセルティックの水野晃樹選手がようやくもってリーグ戦にてトップチームに初出場。後半も最後になっての投入だけれどその中でもたぶんきっとゴリゴリなドリブルとか素早いクロスを見せて次への印象を残してくれたと信じたい。中村俊輔選手が不調で出られない間だけかもしれないけれども来年の横浜F・マリノス復帰なんて話もあったりする中村選手をストラカン監督が敬遠して右のサイドに突破しクロスも上げられる水野選手をこれから使ってくれるよーになれば体調も整い実績も積み上がって代表へ招集、なんてことだけはやっぱりないか。うっちー大好きだしあの眼鏡。

 そんな眼鏡の率いる代表にけが人続出。楢崎正剛選手は怪我で遠征自体な模様でそれから守備の要の中澤選手もやっぱり怪我でちょっとヤバそう。残るは田中マルクス闘梨王選手だけ? でもって上がりっぱなしのトゥーリオ選手の隙間をやられて得点を奪われカタールに敗戦ってシナリオが妙にクッキリと目に浮かんで来るのが何というか悩ましいというか。阿部勇樹選手がやっぱりセンターバックに入るのかなあ。対人能力を買って水本裕貴選手を招集なんてことはないよなあ、岡ちゃんに限って。とりあえずシリア戦での闘いブリとあと本番での闘いぶりを見て年末年始の動きに期待しよう。

 とはいえトップがまた阿呆だからなあ。育成年代にバックパスを禁止する? それだと組み立てとかどうするんだ。もちろん逃げのバックパスはあんまり宜しくないけれど、最終ラインにいったん戻してそこから組み立て直す攻めってものもある訳で、だからこそオシム監督なんてキーパーにすら足技を使うように厳命していたのに、それを禁じてしまったらディフェンスの人たちはただ受けて守るだけってことにならないか。ブラッターは100言う101が愚作だけれどもそれでも周りがしっかりと差配してそれなりな運営をしちえるFIFA。比べてトップがワンマンなJFAでは阿呆がそのまま通りかねないんだよなあ。心配だしんぱいだ。

キラッ!  キラッ。ってことで「マクロスF」の痛車とやらを見にお台場へと足を運んで「痛Gフェスタ」をぞろりと見物。すっげえ広さの駐車場にマジに500台とかの痛車が参集。どちらかといえばヤンキー文化に近い車の改造とオタク的なモチーフがぶつかり合って反発しあって分裂気味に進んでいるんじゃないのかなって気もしていたけれど、会場に入るとオタク的な風貌でもって車をいじくる人もいればヤンキー的な視点で車の改造されっぷりを見ている人もいたりして、つまりはそんな異なる文化が融合し合っているんだってことを伺わせる展示会になっていた。

 これが10年前だと漫画やアニメをモチーフに車をいじくるヤンキーなんていなかったように思うけれど、その辺りの壁がここに来て低くなっているのはどーゆー理由があるんだろう? あるいは都会だと明確にヤンキーとオタクって見た目も考え方も違うっぽいけど、田舎あたりだとヤンキー的なマインドもオタク的なマインドもそんなに差異はなかったりして、ヤンキーが実は漫画もアニメも見ていたりして車をそういう風にいじったりするものなのか。世代がぐるりと上がった現在においてゲームもやればアニメも見るし漫画も読むヤンキーが増えて、融合を果たしてしまっているものなのか。ヤンキーが好みそうな暴走族漫画とかがモチーフになった痛車って別にないしなあ。ちょっと分からないけどどっちにしても愉快なことには変わりはない。

 ヤンキー文化圏にどちらかといえばあるパチンコにアニメとか漫画のキャラクターが平気で使われるよーになっているのもひとつの融合の形? 以前はそれでも昔懐かしいキャラクターばかりだったのが、「新世紀エヴァンゲリオン」あたりから最近のキャラでも別に平気でパチンコになったりするからなあ、「創世のアクエリオン」なんかが良い例でアニメなんてオタクな人しか見ていなかったのにパチンコになると普通の人が平気で遊んで「一万年と2000年前から」とか口ずさんでる。見た目が気色悪いとか別に言わない。これも世代が下がって違和感を覚えない層がメーンになっているからなのか。単に純粋に面白いから遊んでいるだけなのか。うーん分からないなあ。誰か解説してくれないかなあ。「ゼロアカ道場」に通っている面子とか。でも「文学フリマ」で精一杯で「痛Gフェスタ」を見ていないから無理か。好きなら「文フリ」すっ飛ばして「痛G」に行くもんなあ。

まさに馬馬  まあ昼から言っても評論の同人誌なんでそんなに売れないだろうと思ってしばらくうろうろ。例のうっうっーうまうまなフェラーリがいてあんまりなうまうまぶりに中身のねだんお高さも吹っ飛ぶ。RX−7あたりと代わらなく見えてしまうんだよなあ。でもちゃんとエンブレムは跳ね馬。まさしく馬馬。洒落だったのか? 近所にはうっうっうしうしーなランボルギーニの痛車も登場。ニトロプラスあたりの痛車? ちょっと不明。まあこの辺はおそらく半分くらいは企業のオフィシャルってことで痛くしたてそれが宣伝になってちょうど良いって判断なんだろう。個人が本気でやり始めるようになってからがやっぱり文化として定着して来たってことになるのかな。とりあえず年明けの「オートサロン」あたりでどれくらいのムーブメントが起こっているかに注目。

 その意味では企業なんかの参入具合にも関心。今は個人が勝手にやっているのが多いけれども版権をとってなおかつマニアも納得のものが出始めるあたりがひとつの成長のメルクマールってことになるんだろー。そんな先駆けになりそーなのが「マクロスF」のオフィシャルなカットシートってことで会場ではその予約を受け付け中。でっかいシェリルさんとか2万5000円と高いけれどもモチーフの良さと大きさから考えるなら買って家とかに飾って置いても悪くはなさそう。ラッピングバスなんかを手がけているホンマもんの会社が作っているから5年間は退色なし。気泡もなしに貼れてそして塗装を痛めず剥がせる特殊加工。でもなあ、5年後にいったい「マクロスF」がどれだけのムーブメントを残しているんだろう。いやいや誰も覚えていない5年も前のアニメを堂々と貼る勇気こそが“痛車”の神髄ってことなのだ。貼ったら剥がすな5年間。それが愛だ。それこそが愛なのだ。

大人クランのバージョンも欲しいのだ  ご近所ではシー・シー・ピーの痛ラジコンが売られていたんで早速購入。もちろんランカのインプレッサとシェリルのランエボの両方だ。売ってた人に訪ねるとショップなんかにも入り始めて居るんだけれどすぐに品切れになるところが多いとか。やっぱり世の中ちょっとヘンかも。ちなみに2009年には待望のクランクランのスープラも登場の予定とか。ちびクランがボンネットにくっきりとプリントされたキュートでセクシーなスープラを君もゲットだ。ナナセさんは出ないのかな。出るとしたら車種は何が良いのかな。グラマラスボディってことでフェアレディZか。

 みっくみくにしてやれそうな初音ミクのシートなんかも購入してから「ゆりかもめ」とJRと乗り継ぎ秋葉原へ。途中でお台場ラーメン横丁だか何かで徳島のラーメンを所望、豚肉がわんさかのっててなかなかに美味。んでもって秋葉原の「文学フリマ」では「東浩紀のゼロアカ道場」の同人誌即売競争のまさにまっただ中。評論かだらそんなに来ないなんて甘かった。階段に連なり行列が出来ているのを眺めつつその勢いの速さにこりゃあ売り切れるものも出るかもって思いつつ、けれども例年だと欲しい人はさっさと来て帰ってあとはまったりな状況なんで、今回も午後に出足が鈍って売れ残りなんて可能性も考え果たしてどっちに転ぶかを観察。正午過ぎにいったん人手が途絶えてやっぱり無理かと諦めかけたもののその後に盛り返し、午後の1時で350部とか売る所も出てきて完売の可能性がぐっと高まる。

 さらに時間が経っても人手は途絶えず完売を達成するところが続々。詳細は「ゼロアカ道場」のサイトなんかに出るんだろーから任せるけれども、1つが売り切りさらに1つまた1つと売り切って、最終的はどうなんだろう、5つか6つのブースが完売を達成したんじゃなかろーか。1組500部で道場破りも含めて8つが揃って4000部。そのうちの3500は軽く売り切って実売率的には8割くらいに達した模様。そんだけ売る文芸誌なり批評誌がどれだけあるってことを考え、たとえイベント色が強かったとはいえ素人が書いたものってことを混ぜ合わせると、やっぱり半端じゃない売れ行きを見せたってことだけは言えそう。案外に主要な文芸誌の実売部数を全部足したものより売れていたりして。そりゃあ事件だ。滅茶苦茶事件だ。

 事件なんだけれどもそんな事件に立ち会っているべきメディアのまるでいないのはどういう訳だ。テレビカメラが2台3台取り囲んで完売のシーンを撮って、その周辺をネクタイ姿の新聞記者が固めて口々に「ご感想は」と聞いていたって不思議はないくらいのシーンにいたメディアは1つくらい? テレビカメラなんて当然なし。というか取材に来ていたところもそんなにないってのは実はちょっと意外だった。いつだったか宇野常寛さんが「朝日新聞」に堂々と登場していたのを見るにつけ、批評の世界に入ってくる若い人が増えていることをメディアも当然のごとくキャッチしウォッチしているもんだと思ってた。だから朝日はもとより読売毎日といった「カヲル本」に名を貸すメディアが居並び状況を見守っていて当然かもって思っていたけど、そんな空気はまるで見えない。

 結局のところは何だろう、中森明夫さんが紹介したって上乗せがあったから取り上げられたってことなのか。権威によるお墨付きがあって初めて通り抜けられる関門なのか。これを思うとたとえ「ゼロアカ道場」で勝ち抜けたからってその後とりあえず「講談社BOX」で1冊出して、さらに一般のメディアへと進出して永続的に批評を行っていくなんてちょっと無理なんじゃないかって気がして来た。それは当人の実力云々ってよりもすでにメジャーな存在か、あるいは権威がお墨付きを与えた存在しか取り上げない安全志向、権威志向が一般メディアに硬く強くはびこっているってことで、この壁を突破するのってなかなか容易じゃない。はっきり言って無理かもしれない。

 だからこれからも苦労するかもしれないんだけれども、そうやって権威にすがって生きてる古手のメディアなんざぁ権威を大事にする輩ともども衰退し消滅していくのが関の山。さらに下の権威なんざあ気にもしないで今ある面白いものに飛びつき振りまわす若い人たちを受け手として、伸びていけばいいだけのことだから何も気にする必要はないのかも。すでにしてライトノベルってジャンルが一般文芸の権威から外れたところで数量的にはメジャー中のメジャーな位置づけを締めている。文芸誌よりライトノベル誌の方が実際問題売れている。そういう場所に居所を見つけていくことできっと生き残っていけるんだろう。そんな人たちに居場所を横取りされないようにこっちとしてもがんばらないと。とりあえずは買ってきた痛ラジコンにシールを貼って完成させて気分だけでも若返ろう。キラッ。


【11月8日】 「栄光なき天才たち」では確か単行本の第6巻に掲載されているエピソード。読売新聞社会部の立松和博記者がスクープ記事を書いたもののそれが検察の情報漏洩を見つけだす策略に載ったガセネタで、立松記者は名誉毀損なんていう容疑で逮捕されて拘留されて、けれども倫理にのっとりネタ元を口にしなかったことで記者の鏡と讃えられつつ、どうにか釈放されたものの程なくガセネタだったことが分かって読売新聞はデカデカと記事取り消しを宣言し、立松記者記者は失意のうちに世を去った。

 このエピソードの原型はたぶん立松記者と同じ読売社会部で仕事をしていた本田靖春さんの「不当逮捕」という本で、今はそれは旬報社というところから出た「本田靖春集」で、他の吉展ちゃん誘拐事件を取り上げた「誘拐」や、金嬉老事件を扱った「私戦」といった戦後を代表するノンフィクションなんかと合わせて読むことが出来る。

 そんな本田さんが糖尿病の症状が重くなって両足を切断し、さらにガンで闘病を経て2004年に亡くなった時にいったいどれだけのメディアがその訃報を取り上げたんだろうかを今から調べるのってちょっと面倒だけれど、少なくともテレビメディアが即日にその偉績を並べて訃報を流して死を悼んだって記憶はないし、翌日のスポーツ新聞が1面にデカデカと訃報記事を掲載し芸能面社会面なんかにも関連記事を入れて痛んだって記憶はない。あるはずもない。

 読売時代から売血の拙さを訴え「黄色い血」キャンペーンを展開して今の献血の仕組みが出来上がるのに貢献した人でもあるんだけれど、それだけのジャーナリストの死をそれだけの業績に則して伝えたかってなるとなかなかなに疑問も残る。大阪で大活躍した黒田清さんもそういえば2000年に亡くなったけれど、スポーツ紙が1面で報じたなんて話はなかったよなあ。

 だからいったいどういう訳で1面なんだってあたりを筑紫哲也さんの訃報をデカデカと掲載した今朝のスポーツ新聞なんかを見るにつけ、ジャーナリストとしての価値って奴とテレビメディアにおける知名度って奴は必ずしも一致はしないんだってことを改めて思い知らされる。もちろん筑紫さんが朝日新聞の記者時代にニクソン大統領のウォーターゲート事件なんかに触れたり、その後の大統領選なんかををおいかけた報道は面白かったし、「朝日ジャーナル」の編集長として才能のある若い世代を積極的に取り上げて権威をひっくり返してみせた活動もとっても大好きだった。

 昨今のメディアが前にも増して権威にはしりそれなりに知られた人しか紹介せず、その権威に頼りすがって延命を図ろうとしている状況を見るにつけ、今こそふたたび「若者たちの神々」的な企画をどんどんとぶち上げて行きたいもんだと願い動いては、周囲の白い目を浴びていたりするんだけれどそれはさておき筑紫さん。「朝日ジャーナル」編集長を降りてテレビに転じて20余年の期間にいったい前を超える実績を残したのか? って辺りにちょっぴり懐疑が浮かぶ。

 たぶんいろいろやったんだろう。反戦にしても沖縄の浮揚にしてもやったんだろうけどあの一言、オウム事件に絡んで坂本弁護士にビデオを見せていた局の態度を批判して「TBSは死んだ」と言って喝采を浴びながらもその死んだTBSに出続け、ならば死んだところから生き返らせるだけの力を見せたかというと未だに死に体を維持しながらも続いていたりする状況を、どうにもできなかったことをもってどちらかといえば後ろ向きに評価すべき人なんじゃなかったかって、そんな気分もわき上がる。

 けれどもスポーツ紙は1面で新聞なんかも1面でテレビではワイドショーが取り上げ芸能人も多くかけつけたって報道される。もはや芸能人と代わらないこの扱いはつまり芸能な人としてはそれなりなバリューを得た人だって意味なんだろうけどだからといってそれをジャーナリストとしての価値も示しているんだと感じ取るとどこかにすれ違いを起こしそうなんで、ここは今いちど立ち止まってその活動や言説を、振り返りつつジャーナリストの本分について考えてみよう。ともあれ合掌。

 せっかくだからと小雨の振るなかを「デザインフェスタ」へ。なんだ赤兎馬は出ていないのか。残念。「ちくわぶ」とか見つつうろうろしながら目についたところで名刺なんかを拝領。YASUKOって人が並べていた絵はシンプルなんだけれどキュートな少女たちがなかなかに麗しくってちょっと可愛めの小説の表紙なんかに使ったら目に止まりそう。そりゃあライトノベルとは全然違うけれどもだんだんと差異が見つけにくくなってきているラノベ的美少女表紙にこういうのを混ぜてもちょっと違和感を誘えて良いんじゃなかろーか。挑む出版社があるかどーかは別だけど。ないかなあ。

 あと百田まどかさんって人の墨絵っぽくシンプルな線で女性のボディラインを表現している絵にも着目。見ると島田荘司さんの小説の挿し絵なんかも担当している人らしくって、そんな人でも出てくるんだという驚きつつ、そんな人とも出会える「デザインフェスタ」の面白さを改めて噛みしめる。

しらざあいってきかせやしょう  TAKORASUさんはますます人気で造型物も増えてなかなかに賑やか。あとはだからもっと表の世界で活躍してくれることなんだけれど。そういえば「東京コンテンツマーケット」で富野悠由季さんの話を聞いていたはずなんだけれど何か思うことってあったのかなあ。少なくともCGツールで作るんじゃなくってベースは手書きのイラストな人なんで富野さん的にはオッケーな範囲に入る人だったと思うけど。興味。

 さらにみなわ絢さんて人のドールに釘付け。「弁天小僧菊之介」とかいった歌舞伎の世界のキャラクターをドールっていうかフィギュアにしてみせる人で、スーパードルフィー的な耽美さを持ちながらもアートピースとして美しく、ワンフェス的なキャラクターフィギュアとしても眺めて楽しいハイブリッドな味わいを持っている。聞くとワンフェスにも出展していたとかで、そこでは「劇団新感線」の舞台を漫画にしたものを原作にしたフィギュアを出していたとか。でもやっぱり基本は演劇。そこで繰り広げられる非日常的な空間を、切り取り形にして見せる腕前にはなかなかのものがあるって言えそう。

その者、青き衣をまって…ねえじゃん  「デザインフェスタ」はこれが2回目だから初めて会うのも当然か。1点物でも原型をつくって型どりしてレジンキャストを入れて抜いて組み立て彩色した上で、服も自分で手縫いして着せているとかで普通のガレージキットを作るのとは違った手間をかけている点も異色。髪も植毛しなくちゃいけないし。弁天小僧は3点ばかり置いてあったけれどもどれも手作りの完成度。1万5000円は高いかもしれないけれども完成品でこのお値段はむしろ安いと見るべき。やがてメジャーになってテレビの人形劇を手がけるとかなった暁にはお値段倍のさらに倍、なんてなったりして。

 でもなあ、買っても保管しておく場所がないんだよなあ我が家には。明日また考えて買うかどうか決めよう。それとももう売り切れちゃったかな。さらにカエルフィギュアの鎌田光司さんの所にも挨拶。兎やブタがゴスロリやらビスチェやらを着て踊ってた。新境地? 来年冬のワンフェスが中止になったことがなかなかのダメージで、売る場所を探してイベントなんかと東奔西走の予定とか。出会える機会も多いかな。

 そのワンフェスが中止になった原因ともいえる西館(にし・やかた)の1階から4階へとつながるエスカレーターの無事だった方が稼働していたのにやや驚き。事故を起こした方は止められたまんまだけれどそれでも一方でも動かせたのはやはり利便性を考えてのことなのか。降りるあたりでギチギチいっていたのはしばらくぶりに稼働させたからなのか。今後のイベントではどうなるのか。冬コミあたりではどうなるか。そんな4階ではどっかの演劇集団が「風の谷のナウシカ」とか「紅の豚」とか「ルパン三世カリオストロの城」とか「タイタニック」の名場面を演じるパフォーマンスを繰り広げていた。

 あれがナウシカかという突っ込みはさておき「その者、青き衣をまといて金色の野に降り立つべし」ってあたりを手のひらと指先を使って演じていたのにはちょっと笑った。「カリ城」はルパンが塔の上から駆け下り尖塔を足場にクラリスの塔に張りつく場面を再現。スピード感はまあ出てた、かな。そんな感じに楽しんで退散。大宮と磐田がともに買ってジェフ千葉危うし!


【11月7日】 とりあえずことはは音程が微妙だ。例の「つんつんでれつんでれつんつん、つんつんでれつんでれつんつん」の歌の音程を見事に外していたように聞こえたのは、もしかするとヒメの流しているあの朝と夜の町歌の方こそが音程っぱずれで、それを言霊使いなりの言葉への感性でことはが習性して唄っただけなのかも、って思ったけれどもやっぱり違うよなあ、絶対に。それでカラオケで買ってドイツに行こうなんざあ甘い甘い。つか何でカラオケ大会の商品がドイツ行きなんだ「夜桜四重奏」。そんな分からなさが微妙に面白くって先をまた見ようって気にさせてくれる。

 原作漫画を読んだらそれともこれでいいやって気になるのかな。「隠の王」だと微妙に違ってる筋とあと、出てくる女性陣のキャラの良さでラストまで引っ張っていかれたけれども「夜桜」だとどの辺にそんな興味を置けば良いのか。さとりのアオちゃんにキョンシー鈴ちゃんのお子さま系の仕草がやっぱり。あるいはヒメがいつ「つんつんでれつんでれつんつん」と唄いだすかって緊張感? それもまた微妙なフック。テーマで言うなら妖怪と人間とのすれ違い、ってところだけれどそうした問題を解消するために作られた町なんだから、誰もが妖怪との共存なんて了解事項。日々の爆発も風景として折り込み済みなんじゃないのかなあ。だから教室でマイクを中空から取り出すことはの振る舞いを、嫌そうに見る同級生たちの描写が気になった。あれは実在? それともそう思われているんじゃないかと怯えていることはの深層心理? そんな辺りもきっと絡んで進んでいくんだろうなあと、そういった辺りも踏まえて視聴続行。

 人間界からつまはじきにされて恨みも抱えつつ陽海学園に吹き黙った妖怪たちがたった1人の人間の月音を巡って起こす騒動、って設定が1期目にはあった「ロザリオとヴァンパイア」だったけれども2期目はそうした諍いも収まり2年生が揃って修学旅行で京都行き。人間を見たって畏れもしないし襲いもしないのはそれだけ人間が出来て来たから? って妖怪です全員が。でもって行く先々でサキュバスに雪女に魔女っ娘がとりまき築根と2人きりになれない萌香さんの前に立ちはだかる四国妖怪四天王。って妖怪学園はほかにもあったのか。でもって普通に活動しているのか。

 まあそこは目覚めた萌香が一蹴してジ・エンド。学ラン姿でも高々と足を振り上げるポーズを決めてみせるあたりは絵を描いてる人もしっかりサービスを心得ている。バンクじゃあすまさない、ってことですね。このままだらだらと萌香に胡夢に紫にみぞれに瑠姫も加えてラブコメを続けるのかそれとも噛まれ過ぎの月音にそろそろ何かが起こるか。ビジュアル面では今秋で最高をある意味で誇る作品なだけにこちらも目が離せない。「のだめカンタービレ」はどこまでも「のだめ」だなあ。

 “ウバ害”って非難が杞憂どころか申し訳ない懺悔の気持ちをこめて訂正すべきものに代わったことは記憶に新しいけれども一方でおそらくはこれから出回るだろう“イヌ害”って言葉についてはあるいは定着しつつあらゆるクラブのサポーターへと伝播しデファクトとなり流行語大賞にもなって永遠に残る可能性すらあったりするから困ったというかどうにかして欲しいというか。すでにして川崎フロンターレへの仕打ちが前段にあっていったいベストメンバー規定ってのは誰のためにあるんだってことが論議の的になっていた所へ会長の座に上がってなおも「天皇杯」にベストメンバーが揃っていないとお冠。且つ権威を汚しただのとほざき来年は出さないかもしれないぞとうそぶくその口調の余裕のなさというか薄汚さに聴く耳がカユくなって仕方がない。

 っていうかそもそも「天皇杯」にベストメンバー規定なんかない訳で、それを不文律だのというのはお門違いも甚だしい。チームを引っ張ってきた外国人の助っ人が契約していないからって帰ってしまった出涸らしのよーなチームが試合に臨んだことが過去にいったいどれだけあったか知っているのか。それを検証もしないで言い出すところにメディア受けしそうな言説をバラまいて目立とーとした過去の人のあんまり芳しくない習性を、まんま受け継いだだけじゃなくって過去の人にはあった愛嬌なり過去に行った実績への敬意なんかもまるでない中でもご無体ってことになってよりネガティブな印象を惹起する。鬱陶しいって思わせる。

 だいたいが非難の的になってたジェフユナイテッド市原・千葉と清水エスパルスとの試合での千葉の対応は、調査によれば11人中の6人が過去の5試合のうちで1試合以上に先発していてベストメンバー規定にぎりぎりだけど合致している。それはすなわち無罪放免間違いなしのものなんだけれどそれを知らずに非難しているんだとしたらあまりにも発言が軽すぎる。頭が空っぽすぎる。自らの言説がいったいどれだけの重みを持ったものかを理解していないにも程がある。そんな鳥頭で偉いさんを務めていたから三菱は大間違いを何度もやらかしたんだっていった声だって出てきたって不思議はない。

 知っててそれでも言っているんだとしたら今度は法規をあまりにも軽んじている。心根としてよりベストを尽くして欲しかったと思ったとしたなら、それは願いとして下手に立って言うべきこと。なのに大上段から言うのは越権も甚だしい。無罪が出た人間に最高裁の長官がそれでも疑わしいよね、なんて言ったらもはや法治国家は成り立たない。それくらいのことをやっているんだって実感があれば口に出来ない言葉なんだけれど平気で言ってしまえる人間を、トップに仰いでいるこの国のサッカー界の不幸を投げくしかないのかあと何年も。軽口だけれどそれを理解して誤りやり直せるブラッターの方が人間として何億倍も真っ当に思えて来たよ。

 せっかくだからと幻狼ファンタジアノベルズの状況を偵察に千駄ヶ谷まで。地下鉄の副都心線が走って駅が近所に出来てとっても便利になっていた。これを見越してあそこに本社を作ったとしたら見城さん、見る目があるなあ。どうなんだろう。でもって幻狼ファンタジアノベルズはいわゆるライトノベル系で編集に携わっていた人がまるでいない状況からの立ち上げだったみたいでそれであれだけのラインアップとそしてあれだけのクオリティを揃えて見せたのはなかなかなの仕業。むしろ業界どっぷりじゃあないだけネームバリューじゃなくて読み応えのあるものを揃えられたのかも。とりあえず最新号では妹尾ゆふ子さんのファンタジーが目茶目茶に面白そう。神野オキナさんのハードなアクションもあったりするしちょっと期待の先行き。あとはちゃんと続いていってくれることか。頑張れ。


【11月6日】 116の日、って何かの番号になってたっけ、天気予報は117だから違うよなあ、電報? それはさておき今日は正解のバンダイでの「ウルトラギャラクシー大怪獣バトル」の記者発表を行くついでに近所のポプラでガンダムくじ。タオルとお面の残念賞コンビ。タオルは新柄をもらえたけれどもお面は2枚目のシャアだ。どうしたものか。やっぱり被るしかないのか。タオルは温泉マーク入り。欲しかったザク目のは見あたらず。いずれまた手に入れよう。ともあれ会見前でデカいのが当たらなくて良かったといえば良かったか。でもシャアの胸像は是非に欲しい。いつ当たるのかなあ。本当に当たりくじとか入っているのかなあ。

 でもって「ウルトラギャラクシー大怪獣バトル」の新作発表会を見物。円谷プロダクションの代表取締役副社長にご挨拶。10年ぶり、ってことはなくって一昨年かもうさらに1年位前の「TIFFCOM」で見かけた記憶はあるけれども当時はまるで想像もしていなかったキャリアチェンジっぷりにスキルがあれば世はなべてこともないんだと知る。スキルが欲しい。毛もついでに。しかしこちはら1年ぶりの「ZAP」メンバーは相変わらず小西博之さんが涙ぐみつつチームのまとまりの良さを語り込んで感涙を誘うというかその合間にしっかり笑いもとるあたりがコメディアンでもあるというか。去年の会見で離婚話について聞かれなかったのがそんなにうれしかったのかなあ。まあ聞くのも野暮って奴だし。

 コニタンによるとウルトラマンのシリーズで年をまたいで続編が作られる、っていうかそもそもが続編が作られるケースなんてものがないそうで、それゆえに皆が13話の第1シーズンでもう終わりといっていたのをそんなことはない、がんばれば次もあるんだと言い続けたらかなったことを誇りつつ喜んでいたもよう。「帰ってきたウルトラマン」は直接の続編って訳じゃないんだな。メンバーはもとのまんまだけれど大きな変化もあった模様でそれは1人、得体の知れない扮装で出てきたダークな雰囲気の人がいたってこととあと、CGのクオリティをあげて画面に迫力を出したってこと。新鋭は話しに波乱を巻き起こす役っぽい。普段は仮面をつけているけど外すと二枚目。超クール。どんな役柄なんだろう。でもってCGはビルドアップな面々も入ったからってことなのか、自信満々なところを語っていたので見てその凄さを知ろう。12月20日あたりから再びBS11にて放送。あとネットでも。

 発表会には自称・着ぐるみを着た中西圭三さんが登場。ずっと大昔に「Woman」とか熱唱していた頃は久保田利伸さんをネアカにしたっぽい風貌と歌声が結構テレビなんかで流れていたし歌も好きだったんだけれど「ChoChoTrain」あたりの曲提供を分かれ目にとんと評判を聞かなくなったなあ、なんて思っていたら最近ふたたび活動中でちょっと前にテレビに出ていたのを見たような記憶もあるんだけれど、その時にその人が中西圭三さんと紹介されてまさかそんな筈がないと信じることなく記憶の埒外に放りだしていたらその当人が目の前に登場。まさしく中西圭三さんって着ぐるみを1枚どころか2枚3枚羽織った格好での登場と相成って年月というものの重みを噛みしめる。これを思えば自分くらい。でも歌はなかなか。エンディングはバラードでいい感じ。流れたら聞き入ること請け負い。そんな中西さんにコニタンが質問をぶつけていた場面で「ザ・ベストテン」を思いだしたよ、ってそれはコニタンが自分で突っ込んでいた。栄光の時間忘れまじ。

 秋葉原で修理というか全とっかえで新品になったウィルコムのデータカードを受け取ってから信濃町へと周り明治記念会館で「電撃大賞」の発表会へ。まだ「電撃アニメーションマガジン」が存在していた頃にのぞき始めたからかれこれいったい何年だ、日記の記録だと99年からのぞいているらしいんで10回連続ってことになるみたい。その時の円山夢久さんに中村恵里加さんに一色銀河さんか。いちおうは残っているのかな。飯田橋のホテルでひっそりって訳でもないけどまあ普通に行われていた当時からすれば贈賞式の会場も広くなってやって来る人もいっぱい増えて作家の人たちも大挙して見学に訪れるよーになって、おかげで隅っこで見学しようとしてたらそこらら辺に作家の人が集まって来るんで移動してねって頼まれて荷物をまとめてせかせか移動。規模も大きくなると運営もいろいろ大変みたい。

 パーティー会場も前の軽く倍はあるっぽい部屋がいっぱいになるくらいだからやっぱり賑やかになっている。これが4本目の授賞式っぽい真藤順丈さんに訪ねたら角川ホラー小説大賞よりも規模でデカいって話してた。そうなのか。角川書店本体のいろいろとある新人賞とか文学賞とかってのぞいたことがないから、どんな規模なのかまるで想像もつかないんだけれどたくさん賞もあるなかでそれぞれに規模も来ている人の層も違うんだろーか。スニーカーとかだと若い人とかいっぱいいそうだけれど見たことがないから不明。若い女性がいっぱいいるって風でもないからまあまあいいか。えんため大賞も近況は不明。会場も今はどこなのか知らない。まあでも10回とか連続でのぞいたところでレビュアーであっても新聞屋であってもしょせんは外野の身。誰に見とがめられることもないけれど逆に誰かに見入られることもなく適当に時間を潰して歩いて退散するだけなんで、1社2社を定点観測するだけでも経験としては貴重なものだと受け止めよう。来年はさらにゴージャスになるのかな。

 何しろ来年は「メディアワークス文庫」なんてものを作ってそこでも新人をデビューさせるみたいだし。資料によれば「アスキー・メディアワークスが贈る世代を超えたエンタテインメント・ノベル、それが『メディアワークス文庫』です」とか。電撃文庫からのスピンオフってことだとハードカバーがあった気もするけれど、ハードカバー路線じゃあハンドリングが結構大変だからなあ。数も出せないし。その意味で”電撃派”作家の受け皿であり電撃読者の上がり口ってことに「メディアワークス文庫」はなるんだろー。でもって新人の募集も行ってラインアップを増やしていくと。

 問題はそれの読者がどれだけいるかってことか。なるほど電撃の受け皿ってことで他の文庫より売れるかもしれないけれども、文庫じゃあその先に直木だ何だっていった文学賞という“権威”が得られることはない。権威を得て外へと広がっていく道筋がないなら内でたっぷりと“結果”を与えていかないと、作家としてなかなかに厳しいことになるけれどもその辺り、どんなビジョンを描いているのかな。確かに電撃文庫だったらある程度の分量は見込める。それがメディアワークス文庫に上がった途端に激減じゃあそこにいる意味ってのをきっと見出しにくいんじゃなかろーか。その辺りどんな勝算を見込んでいるのか。まだ先なんでこれから詰まるだろーラインアップとか、体裁とかを見てから先行きを判断しよー。


【11月5日】 ポプラ小説大賞の授賞式にもぐりこんで思ったこと幾つか。受付のそばに巨大なおねえさんがいた。細いけれども巨大でちょっと臆した。オバマの奥さんにあってもきっとそんな巨大感に圧迫されるんだろうなあと思っていたらさらに大きなおねいさんが来場していた。たぶんメディアファクトリーあたりの編集の人? そこで賞をとった首藤順丈さんを“奪還”に来たのかな。いっしょに讃えに来たのかな。とっても巨大だったので見上げていたら首がいたくなった。電撃大賞もそういえば首藤さん、受賞しているからそっちにも来るかな。巨大だからすぐ分かるから遠目に見つけて叫ぼう馬場と。馬場違う。

 山下達郎さんのコンサートを始めて見に行った時だったと思うから何年だろう、84年か5年? アメリカっぽい街の一角が再現されていたあれ。「ON THE STREET CORNER」のジャケットに使われている。そんなセットのツアーを前から2列目で見た時に配られていた音楽雑誌がってそこに「TM NETWORK」ってバンドが乗っていたのを見たのが最初だったんじゃなかろーか。本当に雑誌なのかそれともソニー・ミュージック系の一種のPR誌だったのかも覚えてないけど、福岡ユタカさん岡野ハジメさんホッピー神山さんといった強者の揃った「PINK」の載っていたような。その時はもう「PINK」って知っていたのかな、ちょっと曖昧。

 それをいうなら「TM」だってもうちょっと前にアルバイトしていたつい先だって店を閉めてしまった天白区平針のディスカウントストア「ビッグワン」でアルバイトをしていた時に、有線から流れてきた渡辺美里さんの「My Revolution」を聞いたかあるいは中山美穂さん「JINGI・愛してもらいます」を聞いたかして、その旋律の他とは違った面白さに興味を惹かれてそれを作ったのかを調べてたどり着いたのかもしれない。小室哲哉さんって名前に。いやでも「My Revolution」は86年1月の発売で、「TM」の方は「RAINBOW RAINBOW」と「CHILDOHOOD’S END」をレンタル屋でLPで借りて聞いていたから知ったのは「TM」の方がやっぱり先だ。

 音楽とかはだから最初はまるで知らずに聞いたんだ。そんなことするの? って言うけど昔は、というか今だってそうだけれどジャケットとか名前とか見たり、ラジオで流れた断片とかを聞いてちょい興味が惹かれそうなところがあったらアルバムとか買って聞いてみて、良ければ聞き込むってのはやっていることだから不思議はない。「スキマスイッチ」がそうだった。あとレンタルレコードが増えて来てLPを300円くらいで借りられるようになっていたってのも、気軽に試せた理由かも。そこからやがて買うようになっていった、と。

 CDとかレコードのレンタル制はだから賛成。レンタル供与を縛っているレコード会社はだから阿呆だと思うけれども、今時の人ってレンタルだけで済ませてオッケーって意識だからそれもやむなしなのかも。聴いてあげて育てる、なんて意識が消えて消費するものになってしまったってのも大きいか。その要因が小室哲哉にあるって指摘が、この一件でわんさか出てきているのも何か皮肉な話だ。自業自得ともいうか。いやいやでも今だって「trf」の初期とか聴いて口ずさんでるし「globe」の初期も割と聴いて結構好きだし篠原涼子の「ストリートファイター」の主題歌も耳に強く残ってる。小室サウンド全盛期の曲。それは大量に耳にしたってこともあるけどそこに残させる何かが当時のサウンドにはやっぱりあったってことじゃないのかな。それがいつの間にかなくなってしまった。転換点はどこなんだろう。お笑いと絡み始めた頃からかなあ。音楽じゃなくパフォーマンスが前に出てきて濃さが増してウザくなった。そんな気がする、何となく。

 そうそうだから「TM」の場合は達郎さんのコンサートでもらった雑誌のインタビューで読んだ言葉が購入の動機だったんだ。「TM」が「タイムマシーン」の略だったってこと。SF好きだったってこと。当時からすでにSFを読んでた身には、でもって周囲にSFファンなんていない状況にあった身にはこれは大きかった。SFの見方は全部善。これ当然って意識で聴いたんだったのかな。だいいち2ndアルバムのタイトルなんて「幼年期の終わり」だもん、クラークの。こりゃあマジもんだと思ったね。

 だから聴いた。聞き込んだ。「RAINBOW RAINBOW」とか口ずさんだし「ACCIDENT」なんてのも好きだった。そうやって刻み込まれたメロディラインの独特さが、バイト先で聞こえてきた「My Revolution」とかと重なって美里さんに興味を向かせたのがたぶん流れだ。でもってファーストアルバム「eyes」を聴いて「My Revolution」が入っていないとガッカリした、と。そのアルバム「eyes」はカセットに入れてケンメリのプレーヤーにぶちこんで豊橋の田原あたりを同級生たち乗っけて走り回ってる中でガン鳴らしていたんだっけ。大昔の話だ。まだふさふさだった。

 つまりは僕の小室歴ってのは20年以上に及んでいたりする訳で初期の先進性を打ち出していた頃からちょっぴりヒットして世に出てちょい消えて90年代に入って神プロデューサーとして持ち上げられて絶頂へと上り詰めたあたりから急降下して今に至る過程をずずずっと見てきて思うこと。良い音楽を作れたミュージシャンはその名前を永遠に刻み込めるってことか。薬物が取りざたされたマッキーだって音楽の良さがあるから今もって第一線に居続けられるし岡村ちゃんも今なおヤバい状況にあるけど江口寿史さんとかにとってもっても慕われている。音楽だけ良ければ何やっても良いってことはなくって罪は罪として罰を受けるのが筋ではあるけどそれでも何かを残せるミュージシャン。その位置に今なお小室哲哉って名前はあるんだってことを再認識。今さらだけど「TM」の初期2枚を聴いてその仕事を感じよう。もう無理なのかなあ。あの頃みたいな音楽を作り出すのは。

 出かけていったら1日違いとわかって退散。途中にあったコンビニエンスストアで例のガンダムくじを引いたらまたしてもアルテイシアの悩ましクッションが当たってちょっとうれしい。これで1つを保存用に回して使用できるぞ。どう使うのかってもちろん枕ですよ、顔の上に置く。上に? そういうものです。来年は抱き枕を作ってくれないものだろうか。もう1つはメモパッドがまた当たったんで2個目のザク。シャアの胸像はなかなか出ないなあ。あとタオルが2本か。外れくじから応募できる別カラーのシャアの胸像は携帯電話からじゃないとダメみたい。PHSは無視かいバンプレスト。まあ仕方がない。そっちは他のマニアに譲ってまずはとにかくシャアの胸像ゲットだ。胸像をかかえて会見出席だ。


【11月4日】 そしてシグルドは皇帝になる決意を固めた「ゆらゆらと揺れる海の彼方」(電撃文庫)の第10巻。田舎でうだうだしていた兄ちゃんたちが義勇軍を作って成り上がっては貴族に叙せられ大元帥となってそしてアールガヴ神聖帝国を立ち上げるまでを描いた「七皇戦争編」のラストってことでとにかく分厚く600ページ近くあって手にずっしり。でもすでに川上稔さんの新シリーズがより分厚さで上を行っているんであんまり気にならないのが何というか。しっかり書棚に並べている人たちは川上さんと近藤さんだけでスチールラックの横1段を使ってしまっていそう。前後に重ねていたりするのかも。

 んでいよいよシグルドとギュンターが雌雄を決する戦争に。同士だった2人がどーして反目し会うよーになったかは言い出しっぺのギュンターがあんまり取り立てられずシグルドばかりがもてはやされていることからすれ違いが生まれたって辺りに感じられたけれど、後の世から当時を振り返っているシュニッツラーとかいった面子がギュンターのことを言うのに口ごもっている様を見ていると、いったいどれだけの悪行を行ってシグルドの邪魔をしたのかって思っていたらつまりはそういうことだったか。どちらかといえば好悪の入り交じった複雑な感情。その死をどこまでも悼むシグルドの気持ちを慮って大声では評しにくかったってことなのか。

 シグルドの妻になった病弱なエレオノーラがどうしてそんな境遇になったかって場面も描写。身代わりになったっていうから敢えて選んで毒杯を煽ったのかと思ったら案外にひゅるひゅると行ってしまった模様で、それだけに思ってもいなかった悲劇の到来ってことで浮かぶ悲哀も大きなものになる。そして現代へと戻ってラストシーン。ひとつの区切りを迎えていよいよローデウェイク福音王国との最終決戦へと向かうのか。楽しみたのしみ。第10巻だとやっぱりエミール・デルブリュックの偉丈夫ぶりが光るなあ、って女性だけど。クリムトを恐怖の淵に陥れてはその潜在能力を蘇らせるあたりがなかなかに愉快。覚えてないけど本編の方には出てたっけ。それとも一気に活躍するのかな。そっちも含めて楽しみたのしみ。

 珍しく「ポプラ社小説大賞」の授賞式をのぞく。ポプラ社って四谷三丁目にあったのか。てっきり中央線沿線沿いのどっかにあるかと思ってた。根拠はないけど。でもって1階ホールで手作りの授賞式。社長の人が陽気に楽しく吼えていた。そういうキャラだったのか。さらに1回目の受賞者の方波見大志さんが挨拶に来ていた。こういう人だっのか。「ラットレース」の書評を「週刊SPA!」に書いたのは自分ですって言ってもきっと覚えてないよなあ。マイナス思考。というか本業の漢字の名前でうろついているとカタカナな名前と一致しない人が案外に多いことに最近気付いた。もちろんカタカナの方だって知られている訳じゃあないけれど、人はなるほど見かけでいろいろ判断しているんだなあと改めて知った次第。まあいいや。

 受賞者は3人で1人が優秀賞の小野寺史宜さん。細くて繊細そう。でも歳は40歳。むしろもっと行ってそうに見えた特別賞の真藤順丈さんの方が立派に見えたのはすでにして「角川ホラー小説大賞」を「庵堂三兄弟の聖職」でもって受賞して、さらに「地図男」でダ・ヴィンチ文学賞を受賞してプロとして活動している貫禄ってやつが滲んでいたから? ちなみにさらに受賞は続いて「電撃小説大賞」の銀賞も受賞が決まっているとか。ホラーにエンタメにサスペンスにライトノベルとはまた幅広い。どちらかといえばライトノベルの領域がメーンだった日日日さんとはちょっとタイプが違うかな。「ブラック・ジャック・キッド」で日本ファンタジーノベル大賞を受賞して「みなさん、さようなら」でパピルス新人賞を受賞して「すべての若き野郎ども」で「ドラマ原作大賞」の選考委員特別賞を受賞した久保寺健彦さんもどちらかといえば大人向けエンタメだからちょい違うか。いやでも「ブラック・ジャック・キッド」はあれで結構ラノベぽかった。それだけラノベの水準があがり文学の敷居が下がってどれにも応募しやすくなっているってことなのかも。

 ってな訳で優秀賞を受賞した小野寺さんの「ROCKER」(ポプラ社、1600円)を一気読み。大賞でいいじゃんこれ。改稿があったのか? 親の離婚とか親しかった女の子の事件死とかいろいろあって登校拒否気味な少女。母親は父親と離婚。少女は母と2人暮らし。その別れた父親の姉の息子が近所の公立高校の教師。父親の姉とやらは夫と離婚していてその夫はそれなりに知られたブルースギタリスト。なんか複雑な関係。でもって少女はいとこな高校教師ん家に入り浸り。別につき合ってるってことじゃなく何となく。ちょっと微妙に新しい関係。そんな少女にストーカー気味の少年が現れる。いとこの務める高校の生徒。2人して呼び出してどうしたいんだととっちめ、性欲を抜くために音楽をやれと諭したら音楽を始めた。なんのこっちゃ。

 そんないとこの高校教師と大学時代に知り合いだった、今は違う高校の教師をしている美人な女性が登場。生徒に言い寄られて悩んでいたから生徒を呼びだしてこちらにはいとこ自身がギターを教えてやるから諦めろと誘う。なんじゃそら。でもって2つの高校で少年たちが音楽を始めてロック部も作って練習を重ねてだんだんとうまくなっていって、高校教師とか女教師とか少女に珍しくできた同級生とかを巻き込んで盛り上がって恋愛なんかも生まれたりする中で、少女だけがどことなくいつまでもひとりぼっち。もの悲しい。でも半分は自業自得。

 そんな寂しげな少女に誘い。高校教師の親父がステージに立つから息子にギターを弾けという。少女は弾いて欲しいと頼むと高校教師はだったらお前がステージで歌えを誘ってきた。そんな展開は恋にベタベタでもなく愛にドロドロでもない高校生たちのゆるやかな熱情を、音楽活動に重ねて描きつつ一方の大人の教師にだってそれぞれに欲求もあるし思いがあるんだってことを描きながら、世間に投げやりで孤立気味だった少女がしだいに自分を見つけていくってストーリーが繰り広げられる。面白い。とてもとても面白いからきっと売れるんじゃなかろーか。そういやポプラ社の冊子「アスタ」でトヨザキ社長がやたらと絶賛していた藤谷治さんの新作も音楽がテーマ。「オケ老人!」なんて小説もあったし一般小説にも音楽ブームが到来中ってことなのか。ライトノベルじゃあ「さよならピアノソナタ」がすでにあるし、ちょっとしたまとめなんか出来そう。やらないけど。


【11月3日】 こいつはハッピーエンドなのかバッドエンドなのか。諸口正巳さんのフジミさんシリーズ最終章らしい「フジミさん最恐伝説 殺神鬼勧請」(C・NOVELS)はいよいよもって富士山が噴火するかもしれない状況が生まれて困ったどうしようかと狐の眷属たちは右往左往。止めようとした富士見功さんの頑張りも狐の凛子さんのあがきもむなしく噴火し関東に灰が降り積もる中で会社から1人消え2人消え富士見さんまで消えてしまって物語は幕を閉じる。つまりは異神との戦いに富士見さんたちは敗れてしまったのか。それとも医者から殺神鬼に成り上がった男が後を継いで異神と戦うのか。ともかくもこれで終わりらしくって、ちょっと変わった退魔ストーリーかと思ったら意外な方向へと転んで滅亡のビジョンを見せてくれたこのシリーズの次に何を諸口正巳が書いてくるのかに目下は注目。もうちょっと明るい奴も書いておくれよ「ムシアオの森、カササギの剣」みたいな、ってこれも結構暗いんだよなあ。

 退魔といえばすっかり退魔ラブコメな路線が見えてきたっぽい「喰霊 −零−」は黄泉と飯綱との許嫁なのに会えば喧嘩ばかりしているのをどうにか止めようと神楽が大張り切りでいろいろ作戦をしかけたもののどれも大失敗。対策室の寡黙な美女の二階堂桐ちゃんを刺客に仕立て上げてミニスカートを履かせ中までちょい見せする大盤振る舞いをしたのに飯綱は靡かず黄泉は怒って空き缶を投げては飯綱を粉砕。そしてわき起こる「乱紅蓮」対管狐の全面戦争への恐怖も神楽の泣きがはいってどうにか収まりふたたびくっつくかどうかの曖昧で爛れた日常へと向かうのであった。怒り心頭に達した黄泉には見かけの迫力十分なナブーとナブーでも叶わないのか。そして浮かび上がった相続問題で養女の黄泉ではなくて黄泉の義父の弟の娘の諫山冥が手に剣をふるってバトルにのぞんでなかなかなの腕前を見せてきた。彼女こそがライバルとなって黄泉を迷わせ悪霊へと落として冒頭での神楽との対決に向かわせるのか。予定調和に落ちるかそれともさらに先があるのかを楽しみながら続きをしっとり見ていこう。

 んでもって「マカデミWAっしょい」はハードな芸が繰り広げられて意味不明。きっと見る人が見ればその暑くるしさに感動も感涙も出来たんじゃなかろーか。夏でなくて良かった。さらに「今日の5の2」。水着のチェンジに今時の小学生ってちゃんとてるてる坊主になるんだなあ。パンツなんてパッと脱いでパッと履くだけだからいちいち隠さなくたって良いのに。それとも5年生頃ってそろそろ生えてたり生えてなかったりが分かれてきていろいろと問題も増えるのかな。遠い昔の事なのでもう覚えてないのです。女の子も同様なのかな。「キャシャーンsins」はちらっとだけ見て全部は見てなくって話がどこへと進んだのかは不明。まあきっと暗くてネットリとした中で滅びの恐怖と生き続ける寂しさが交錯する展開になっていたことだろー。買うならやっぱりブルーレイかな。

 でもって微睡みながら「F1」の最終戦「ブラジルグランプリ」。フェラーリのフェリペ・マッサが1位を突っ走っては着々とチャンピオンへの道を固める一方で、それでも5位以内に入ればチャンピオンが決まるルイス・ハミルトンが6位に落ちたり5位に上がったりとなかなかなに微妙な線。それでもだいたい決まったかと思われた終盤に雨とか振ったりしてゴチャついた中で何時の間にやら6位まで下がって最終ラップも大詰めで、マッサがすでにチェッカーをくぐり抜けて後は後続を待つばかりになった最終コーナーあたりでハミルトンが5位へと上がってそのままチェッカー。逆転にて最年少のF1チャンピオンに輝いた。いやあ歴史を見た。その瞬間だけだったけれども歴史を見られたのはちょっとうれしい。いわゆる「黒人ドライバー」としても当然ながら初のチャンピオン。初の「黒人大統領」が誕生間近な(おそらくは)アメリカ合衆国に先駆けての快挙は何か時代って奴を象徴していたりするのかなあ。まさにチェンジ。アナクロな言語を繰り出しては失笑を買うおっさんがわんさかな日本とは偉い違いだなあ。

 仕事なんで仕事場に寄って仕事っぽいことをしつつ情報収集にと切通理作さんと竹熊健太郎さんと氷川竜介さんがそろって宮崎駿さんについて語るトークイベントを見物。当然のよーにポニョを引き連れ見物したあとでサイン会の列に並んでいたら、遠目に見たことのある顔を発見、村上隆さんでした。こんな所にも来ているのか。いや昔だったら別にいたって不思議はないけど今は随分と有名になってお忙しい身。なのに興味のあるところにはやって来るところが貪欲というか前向きというか。この好奇心がオブジェクトとしての創作に向かってくれれば言うことはないんだけれど。コンテクストとしての創作に材料とされてしまうのは形あるものを尊びたい身として何か寂しい。ほかに朝日の人とかハヤカワの人とかびいさんな人とかいたような。まだいたっけか。最後まで聞かずに退店、そして仕事場に戻って仕事をする秋の旗日でありました。

 んでイベントはというとやっぱり昨今の宮崎アニメの妙さについてあちらこちらから言及が。ただし追求ではなくそれだけ突っ込みドコロがあってもあれだけ流行るのは何だろうってな所に一段議論が上がってて、それを解決できれば何かあたらしい批評の地平も見えそうだったけれどもやっぱり明確な答えは出てこなかったみたい。言うなれば宮崎駿だから、ってな感じのトートロジーに陥りかねないからで、流行っているものが流行ってしまうこのメディア的状況の中では流行っていることを理由にした評価がちょっと難しくなっている。かといって流行っている子とを見過ごしてもどこか片手落ち。そこのところを踏まえつつ除きつつ考えなくてはいけないところが宮崎アニメの評価を複雑な物にしてしまっている気がするなあ。評論家ホイホイだのと外野から揶揄したとおころえその揶揄も含めて取り込まれてしまっている訳だし。

 つらつらと文庫の発売予定表をながめていて12月の計画を策定。角川スニーカー文庫だと「円環少女」に「レンズと悪魔」の新刊が出る模様だけれど話はどんな感じに進むのか。GA文庫だと水月郁見さんって人の「イグドラジル 世界樹」ってのがタイトル的に面白そう。電撃文庫からは「さよならピアノソナタ」の最新刊。まだ続くのかな。ガガガ文庫からだと「人類は衰退しました」の第4巻。まあ売れるんだろうねえ。集英社スーパーダッシュ文庫は「迷い猫オーバーラン」の第2巻が早くも。編集長の言うように人気なのかそうなのか。MF文庫Jなら「魔界ヨメ!」の第2巻。今度はどんな“本名”が登場。さらに「月見草平先生新作(仮)」。いや別にこんなタイトルじゃあ出ないだろうけど。まだ決まっていないのか。そんな期待の新刊に交じって一迅社文庫から「銀世界と風の少女」という新刊が。著者は松山剛さん。あの松山剛さん? そりゃあちょっと期待。イラストはかぼちゃ。誰?


【11月2日】 サッカー成分が不足して来たんで西が丘へと天皇杯でも見に行こうかと思っていたけど起きられず断念して秋葉原を散策。駅の南側でハーロックばりのサーベル風な銃を持ってうろついている人とかいたりしてコスプレだからって露天で披露する類のもんじゃないんじゃないのって気分が台頭。歩行者天国を返せとかいう意見はあの賑わいあのゆとりを好む身としてうれしいけれどもコスプレだの歌だのパフォーマンスがあっての秋葉原、って意見にはその限界を超えて派手派手しく騒ぐ面々のいたりする可能性なんかを駅南の現時点での喧噪から想起して、やはり時期尚早かもってな気に至る。とかいいつつ派手なメイドさんたちには顔を崩して微笑む自分。勝手なものだな我ながら。

 そんな駅の北側では蟹工船を右手に掲げて「蟹工有利!」と叫ぶ若者たちが10万人、もいたらニュースだ。実際んところは若い人もまあそれなりにいたけれども手に蟹缶も「蟹工船」も持たずに遠目に眺めては日本共産党の志井和夫委員長の演説を聞いていたというこの“南北格差”が秋葉原らしくてちょっと愉快。大半が組合運動とかに関わっていそうな人たちだったけれども看板を手に演説があるってことを呼びかける人に若い層とか見られていったいどういう経緯で参加したのか、訪ねてみたい気になった。昔だったらそれこそそういう場所で顔をさらして公然と応援することが割に平気な空気が出来ているのは今の環境がそうさせているのか、それとも対抗馬として90年代に台頭して来たライトな面々のレフト以上に教条的で頑固で譲らない姿勢が跳ね返ってソフト化しつつあったレフトを相対的に押し上げたからなのか。分からないけどまあそれなりな人気ぶり。あとは取り巻く面子の頑固さがやや削がれて今を柔軟に取り入れ引っ張るだけのパワーを持てればちょっとは上を向けるかどうなのか。

 そんな様を眺めてから「ラジオ会館」の中にある「ホビーロビー」でリボルテックな長谷川研究員を購入。ちょっと顔が大きい? でもまあそれくらいの方がキャラっぽくって良いんだろー。オリゼーとかロマネコンティの酒瓶とかついてて暴れモードも展開可能。もちろんワイングラスも。カチンと合わせて髭男爵ごっこも出来るかな。でも顔は耳囓りたいモードな凶悪さとは反対のあっけらかんを笑い四角く口を開けたものだけ。登場当初のどこか高飛車で高慢な雰囲気の長谷川研究員ってよりは話も進んで粗忽なところも見え始めた長谷川研究員を再現してるってことになるのかな。付属の腰巻きの裏側には「ザ・スニーカー」から始まる涼宮ハルヒの顔面フィギュアシリーズの宣伝がずらり。それだけ気合いが入っているってことなんだろうけど12月までかかって顔4つ出しても肝心の「Wii」対応ソフトが来年の3月じゃあちょい、間が空いてしまうよなあ。隙間を埋めるべく谷川流さんには新顔付属の文庫を2月に出して頂ければこれ幸いだけれど。

 中央通り沿いにあったサッカーショップが消えているのを見つけてやはり秋葉原では無理だったのかとがっかり。福田健二のユニフォームをそういやあそこで買ったっけ、所属していたチームは忘れた。そういうもんだ。でもって信号を通り過ぎた「ファミリーマート」で並んでいたガンダムくじを引いて遂にアルテイシアの悩ましいクッションをゲット! さすがに「月刊OUT」のよーな悩ましさには欠けるものの本編では見られなかった露出があってぎゅっと抱きしめて眠れば良い夢が見られそうな感じ。でもビニールを取って汗にまみれさせるのは遠慮したいところ。悩ましいなあ。使用用と保存用を得るためにさらなる挑戦を行うか。もうひとつはガンダムお面をゲットでこれでシャアにアムロにザクと泡得て4つをコンプリート。残るはタオルが2枚とそして最後の大物のシャアの胸像。これは1等賞だから容易には出ないだろうけどここまで来たなら意地でも出してフルコンプリートと行きたいもの。いつまで展開しているんだろう?

 んでもって「VELOCHE」にこもって読書とか。呪われて35歳で死んでしまうけれどもその間に富は増えて命も保障されるというドラモンド家にメイドとして入った大食いのジャスミンが主とともに様々な事件に立ち向かう、って趣旨かとおもったら案外に違ってジャスミンは大食いながらもその大食いがあんまり何かの役に立っている感じでもなく、どちらかといえば彩りとしてギャグパートを受け持ちつつ本編は主のアルトゥースがいろいろと活躍して事件を解決する物語になっていた冴木忍さん「ドラモンド家の花嫁」(角川スニーカー文庫)の第2巻「憂鬱な月が満ちるまで」はやっぱりジャスミンの大食いは大食いとして面白がらせてくれつつ本編ではドラモンド家に恨みを抱いた一族が仕掛ける攻撃にどう挑むかってなバトルが繰り広げられる。コイン1つでも奪えば即座に死、とはなかなかにハードな呪いってことが改めて判明。そんな家で今はまだ狂言回しとして大食いの芸を見せているジャスミンだけれど35歳の呪いに彼女も囚われるのか、それとも最後にはその大食いっぷりが本当の意味で本編に絡んでドラモンド家を、アルトゥースを呪いから解放するのか。魔物くんのジャスミンへの愛着なんかも勘案しつつそのあたり、どうなっていくかに注目だ。しかし30人前が34人前まで増えたジャスミンの胃袋が次はどこまで膨らむか?

 さらに藤本圭さん「黒猫の愛読書2 聖なる夜の外典」(角川スニーカー文庫)も。本の声を聞く力を祖母から受け継いだ綴ちゃんが巻き込まれる魔術バトルってストーリーを持って登場した第1巻から続いて今度は綴の祖母の代から生きてる元は猫なんだけれど人間の形になって綴を助けるコウが英国でもって任務を授けられ、マギステル復活を企む組織が差し向けてくる敵を相手にバトルを繰り広げることになる。どうやらコウに埋め込まれている写本はそのマギステルが盗んだものらしく、4つに分割されていて残る3つを集めたら多分何かが起こるのかどうなのか。分からないけどとりあえず眼鏡を外した綴がやたらと美人なのでこれからもその萌えっぷりを堪能しつつ読み継いでいこう。あと英国にあってマギステルと戦うアスカロンのトップに君臨する女男爵のいたいけさにも。来日してこまちにもみくちゃにされるのを希望したい。


【11月1日】 10時11時という正午をまたいでのお仕事な日々の連続にそろそろ体もガタピシとして来た感じですっかりとお昼寝モード。「JAPAN国際コンテンツフェスティバル」とやらもまるで世間に知られることなくひっそりと終わったみたいで週末にイベントもなくなったんで、茫洋としながら昼頃にむっくりと起きては近所の「無限大」までラーメンを食いに行く。二郎系? っていうか柏の匠神角ふじの分派らしいんだけれども食べれば癖になる太いめんとこってり背脂なスープが爛れた日々に実に染みる。ちなみにちょい前に池袋の二郎に寄ってみたけど源流だけあってシンプル過ぎた感じ。好みじゃ船橋の「無限大」だけれどここん家の本家の柏にはまだ行ってないから来年のJ1で日立台に行くときに寄って見よう。J1にいられたら、だけど。

 散歩がてら郵便局に行って「ザ・スニーカー」の最新号を受け取ったらちゃんとハルヒの胸像もついて来た。執筆者向けの雑誌なんでおまけはさすがにつけないだろうから買おうかどうしようかと悩んだんだけれども買わずに正解。でも近所の「ときわ書房本店」の2階コミック売り場じゃあ平積みで「ザ・スニーカー」が置いてあったくらいで相当な気合いが入っているんだと実感。ハルヒってまだそれだけの人気があるのか。あるのかなあ? 読んだのはそんなハルヒじゃなくって「コードギアス 反逆のルルーシュR2」の小説版。すべてが終わって皆さんおちついた後のミレイ・アッシュフォードとセシル・クルーミーの身の処し方って奴でミレイはテレビリポーターを続けていてセシルさんはブリタニアに出来た博物館の館長さんか何かに収まったらしい。ナイトメアとか展示してある。

 でもって2人がナイトメアとか見ながら他の皆さんの近況なんかを語る回。日本とブリタニアの講話は今ひとつ進展がなくて皇族の出馬が期待されているけれどそれで団結でもされたら悲劇が繰り返されるってナナリーもシュナイゼルも二の足を踏んでいるっぽい。シュナイゼルったって相手がゼロでなきゃあ普通に思考できる訳だからそれで最善を考えれば相当にいろいろやれちゃいそうだけれども。まあそうなったらゼロが出ていって抑えるんだろう。ジノは山登りだとか南極探検とかで大忙し。その写真をカレン経由でミレイに送って来るとか。カレンもしっかり元気っぽい。アーニャはセシルたちには消息不明。でもまあしっかりオレンジ畑を耕していることでありましょう。ロイドさんは研究三昧。ラクシャータも一緒? それは知らない。コーネリアのことは書いてないなあ。引退か。せめてリヴァルのことくらいは書いてあげれば良いのにミレイ。でもって小説版もこれで仕舞い。やはりルルーシュの“その後”はご想像でのお任せか。どうなっているのかなあ。

 優雅に見える白鳥でも水面かじゃあすんげえいきおいで水を掻いていたりするよーに、のほほんとして平和に見える世界も実はさまざまなバランスの上に成り立っているのを知らず突っ込めば自爆するハメになるから注意しろっていう話。あるいは古くから伝わっていることには理由があるんでそれを改革だの何だとの行って変えれば齟齬が生まれて下手すりゃ滅亡寸前まで行くから自重しろって話。ともあれ警句に溢れたエピソードをふわふわとして優しげなキャラクターたちによって描いているのが縞田理理「フーバニア国異聞 水の国の賢者と鉄の国の探索者」(C・NOVELS)って本で、読むととっても羨ましくなると同時に人間って存在の自主性が試されているような気にもなって身を引き裂かれる。

 とある工業国から隣国にあってそれでもあまり探索の進んでいないフーバニアへと出かけていった準貴族の3男坊エラード。長男は軍人で次男は官僚だかでそれぞれ栄達を確約されているんだけれど絵を描くしか取り柄のないエラードは、隣国のフーバニアへと赴いて現地を探索して来いそれで成果をあげて栄達を目指せと言われて赴く。潮が引いた海の上にできる道を歩いてわたれるくらいの距離にあるのにどうして交流があまりないのか。不思議だけれども理由があってどうやらフーバニアにはいろいろと危険があるらしい。曰わく人が人を食うだの怪物が跋扈するだの。そんなはずはないと思うことすらせず、てにした大昔のガイドブックをてにして乗り込んだエラードは、巨大な茸の生えた森で巨大な鳥に襲われ人を引きずり込む沼に沈みそうになったところをかろうじて人に助けられ、民家へと運び込まれる。

 そこにいたのは親切そうな人たち。木訥で優しくてエラードを丁寧にもてなしてくれた。茸の毒を避ける方法、食べてはいけないものを見分ける方法、巨大な蜂から身を守る方法等々。危ない動植物はいても人間たちが暮らしているところにはなく、蜜にしてもシルクにしても簡単に取れて集められ、食べ物にも不自由のない楽園のように思われた。けれどもお別れの時は来て帰国したエラードを待っていたのは情報源としての立場。スケッチを奪われ話した情報から豊富な資源を持った国だと思われたフーバニアへと軍隊が派遣されあわや占領の大ピンチ、となるところが実はフーバニアには見かけの楽園とは正反対の顔があった。それは……。

 ってところで明らかになるフーバニアの秘密。そこでは人は決して頂点いんは立っていなくてむしろ何か大きな物の意志によって存在を許されているだけのようにも見えてくる。共存できているうちは加護もあるけどそれを破ればどうなるか? 迫る自然の凶暴あさ奴が浮かんで原始の恐怖って奴を思い知らせる。現実の人間はそれを御してここまで発達できたけれどももし相手がフーバニアだったらどうだったか? きっと大変な目に会っていただろうなあ。何をするにもお気楽極楽な土地柄で育っただけに他人をあんまり疑うことを知らないフーバニアの人たちの暢気っぷりが微笑ましいけれど、族長さんあたりはきっとその天国が何に依拠しているものかを知って受け継いでいるんだろう。でなきゃあ700年もの平穏が人間の増長を生まないはずがない。限定された平和。それは退屈なものではないのかそれとも己の限界を知って得た安寧と認めるべきなのか。フーバニアで暮らしてみれば分かるかな。行きたいけれども遠いなあ。


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