縮刷版2007年9月上旬号


【9月10日】 酷いことになっているよーで土地が国有財産なのを良いことにとりあえず市民に貸与していたはずの土地を召し上げ、そして企業なんかがショッピングセンターを作るための土地として売り払ってしまう政府や行政が中国じゃあどんどん生まれて、国民党の時代からずっと住んでて商売なんかしていた場所を叩き出される住民が、デモや暴動や裁判を起こす例が増えているとか。NHKスペシャルで取り上げあれてた地域も県がショッピングセンターの誘致に動いて住んでいた人たちを根こそぎ叩き出そうと算段。対抗して住民代表が組織されて県なんかを相手に裁判を起こそうとしたら警察が出てきて住民代表を騒乱の容疑で逮捕しようとしたらしーからもはや権力は何でもありって状況になっている。

 もっともこーした事態を中央政府では憂慮しているみたいでそれは、暴動なんかが頻発すれば治安に影響が出かねないっていった心配が第一なんだろーけれどもともかく表向きは庶民の権利が守られてこその人民中国ってことで、間に入って肥大化して腐敗化する地方政府を権勢したいって意味もあるんだろー、だからこそNHKが地方に入って県を相手に住民たちが裁判を起こす一部始終を撮影して取材して報道することも可能になったんだろー。これが中央政府も認めての住民蹂躙だったら取材許可なんて下りるはずがないからね。何にしたって政治的な国だなあ。

 まあそれはそれとして住民たちが北京で弁護士事務所を営む人のところへと出向いて1人借り受けた弁護士が、裁判に臨んだあとで住民たちからあなただけが頼りだと言われた時にいやいやそんなことはない、県を見方した弁護士だって同じ弁護士であって手続きに則って弁護士はどちらの見方にだってなる、それが弁護士という仕事なんだってことをしきりに訴えていた。法匪、なんて言えば言えるのかもしれないけれどもそれは相手の側にたてばまるまる返ってきかねない非難。むしろ共通の法律をよりどころにしてお互いがクライアントの利益になるこを主張し合い、あとは裁判所の判断にゆだねようってゆー法治国家の大原則をかの国の弁護士がちゃんと理解していることの方が頼もしくもあり、意外でもあった。さすがはエリート中のエリート。人間的にも出来ている。

 ひるがえってどっかの国では弁護士がテレビであんまり芳しくない弁護戦略をとっている弁護士に対する懲戒請求を呼びかけたってことで大騒ぎに。なるほど感情的な部分で誰もが微妙な感じを抱いていることは理解できるけれども、それとて法に基づきはずれることなく行っていることであって、それが妥当かどうかは裁判という場で争われるのが大原則。外よりの圧力でもって影響を受けることは絶対にあってはならない。いくら法匪に近かろうとも違法でなければそれは適法。そこに対する挑戦はひるがえって己が法によって守られなくなる可能性があることを示唆する。ましては遠からず裁判員制度なんてものが動き出すこの国で、法は法であり情ではないことを徹底しておかないと振り上げた拳はいつか自分へと返ってくる。冷静に、落ち着いて何が妥当で何がそうではないかを議論しつつ、裁判という場で公正な判断が行われることを願うしかない。でなきゃお隣の大国にすら法治国家じゃないじゃんって、笑われるぞ。

 ブロードバンド環境じゃないんで家じゃあ「YouTube」も「ニコニコ動画」もまるで見られず難儀しているかとゆーと普通に地上派で流れるアニメーションを見るのに精一杯でCSだとかMXTVだとかの放送分には最初っから力が向かわないからあんまり関係ない。あと千葉なんで千葉テレビでUHFローカル局のネット作品がだいたい見られてしまうこともあるんで無理にネットで探して見るとかしなくても良いし、そもそもが違法にアップロードされているアニメの新作なんかを見てます楽しんでますなんてことを広原なんか出来るわけない。

 まあアーカイブ的な価値をもったものとかマッドのように批評的側面を持った作品なんかがネットにアップされているのを確認するって使い方をしていないわけじゃなく、それらも厳密に言えば著作権的に違法なコンテンツだったりするんだろーけど新作アニメでDVDも出始めた作品をネットで見てますたぁやっぱり口が裂けても言えない、少なくとも今の著作権をたてにして文筆活動を行っているうちは。だからどこかに右にシフトしかかっている新聞社が作ったネット部門の別会社に所属している人がそこが運営している媒体でブログとして堂々と冒頭に「最近注目の『ニコニコ動画』で、話題のアニメ『ぼくらの』を見ていたときのことだ。投稿コメントに、『ゆとりは黙ってろ!』とあった」と書いているのを見た時にはひっくり返って驚いた。

 当該記事の本意はまた別のところにあってそれについても想うところはあるんだけれども問題はやっぱり冒頭だ。今まさに放映が進んでいてDVDも出始めている「ぼくらの」をこの人はネットに違法にアップロードだれた「ニコニコ動画」で見ているんだと言い切ってる。DVDを買ったとも善意の誰かん家に行って見たとも書いてない。なるほど「ニコニコ動画」に違法にアップされた映像を見ること自体には多分違法性はないんだろーけど、でもこれってどっかの故買屋で売られている盗品を盗品と知ってて買うよーな行為で、買う方には何らかの後ろめたさがあって当然だろー。新聞で言うなら記事のスクラップをコピーして集めた冊子を配るよーなもので、それをされて新聞社は果たして黙っているだろーか。新聞を必要なだけ買ってくれって言うだろー。著作権で商売している企業にとっては死活問題だからだ。

 なのにそこで働く人間が堂々と「ニコニコ動画」で新作アニメを見ていると言ってはばからない。なおかつ「ゆとり世代」が常識や知識から遊離している間抜けな存在をどこか意味する”ゆとり”と揶揄されることに何か言いたいことがあるらしい。それは結構。でも自分が著作権的にいかがなものかな所がある映像を堂々と見ているって宣言しておいての言説のどこに説得力を感じれば良いのか。それとももしかすると「ニコニコ動画」にアップされた映像はあまねく著作権フリーのパブリックドメインになっていて、見るのには一切の呵責も不必要だと考えているんだろーか。まさかぼくの知らない間に著作権法が改正されてそーゆー風になっていた? 気づかなかったよ。

 記事で「ぼくらの」のことを書かねばならぬ緊急避難的に見てみた、というんだったら拙さはいささかも減じられないけれども同情は寄せられる。でもこの書きっぷりにはそーいった衒いも迷いもいっさいない。なにしろ「ニコニコ動画」にアップされた映像をキャプチャーして切り取って記事に添えているくらいだ。報道目的とは言え他人様のコンテンツを掲載する行為に一瞬の迷いがあっても言いのにまるでない。法的な厳密さはともかくとして2重の意味で著作権に挑戦しているこの記事に対して今ひとつ、どこかの女優が人気アニメの主人公をやりたいと言ったことに対するリアクションの10分の1も反応がないのは、それだけ世間から隔絶されたフィールドだからか、反響を寄せ付けないATフィールドの如き内向きのバリアーがあるからなのか。前者だとしたらそおおこぼれに預からなくちゃ食べていけなくなる立場としては悲しいなあ。しかしやっぱりまずいよなあ。

 「呪うぞ」って言われてそれがすっぽんぽんの美少女で夜中に煎餅をかじるキュートな所がある娘だったら「呪って」と頼みたくもなるけれどもそこで発動される呪いがたとえば「鉄の処女」だったり掘削ドリルだったりした日にゃあ身も心もズダボロにされてしまうんでご遠慮するのが常道か。水瀬葉月さんの「シーキューブ」(電撃文庫)はどっかでお宝探しみたいなことをしている父親から届いた黒い立方体をいじっていた少年の耳にかすかに「うあ」とかいった声が聞こえる。気にせず箱をしまって眠ろうとした夜中に、誰かがばりぼりと煎餅をかじっていた。近寄るとそこにはすっぽんぽんんお美少女が。なおかつ少女は少年を非難しよくもはずかしいところを触ったなと怒り出す。

 どこをいったい触ったんだ? そして明らかになる少女の正体から物語りは呪いを受けた道具が人間化してしまい、その呪いを薄めるために贖罪の行動を起こそうとしたところに呪いの道具を絶対的に許さない存在があらわれ挑んで戦いが繰り広げられる方向へと進んでいく。少年の家の離れでくらすナイスバディな眼鏡っ娘の正体など驚くよーな展開もあり、また呪われた道具がその重さに押しつぶされそうになった時に立ち直りたい前を向きたいって気持ちを与える展開もあってなかなかに読ませる。途中に悲劇なんかもあって個人的には悲しさにもだえたくもなったけれども残された面々による贖罪と戦いの日々が始まると想うと先が楽しみで仕方がない。しかしいったどれくらいのお道具が入っているんだ彼女には。ギロチンはあったなあ。電気椅子とかも入っているのかなあ。

 対して10ページとは「月刊ニュータイプ」2007年10月号の「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序」特集は、「アニメージュ」と違いエヴァを自らのコンテンツだと考える角川書店らしー態度。スタジオジブリですら外の会社になってしまった「アニメージュ」にとってこれからは「アニメディア」と同様に読者の最善をこそ考えた特集を組めるってことになるんだろー。その「月刊ニュータイプ」は「コードギアス 反逆のルルーシュ」もしっかりと特集。オリジナルの版権イラストに描かれたC.C.はチャイナ服姿でぽこんと突き出されたお尻が丸い。ようしちゃんと分かっているぞ。胸元の大きく開いたTシャツ姿のカレンはさすがなビッグサイズ。でももはやこんなカジュアルな格好をする機会もないよなあ。残念。それとも「黒の騎士団」で余暇に水泳なんかしてくれるのか。して欲しいなあ。いずれにしたって半年後、か。待ってる。


【9月9日】 とくに何の日でもない。というか日本にとっては悪夢の日か。まずはラグビー。これがサッカーだったら日本中がブルーに染まってお祭り騒ぎを繰り広げている真っ最中なのに、同じスポーツを源流に持ち且つステータスとしては上だと自負、するが故にやや高邁さが見えて庶民を味方に付けられないままズルズルと人気を下落させつつあるラグビーのワールドカップが開幕して、我らが日本が初戦に臨んだものの、前半こそまあそれなりに守りきっては見せてもやっぱり得点差は開く一方。そして後半に世界第2位のワラビーズことオーストラリアの怒濤の攻めが出て日本は軽く粉砕されて、100点にこそ行かなかったものの91点を奪われまずは一敗を喫する。

 とりあえず次のフィジー戦だかにかけたジョン・カーワン監督がサブ組を送り込んだというチーム2分の計的な戦略は理解できる。それでいつかのニュージーランド戦みたく145点だかを奪われなかっただけでも褒めてあげるのが筋なんだろーけど、それにしても見ていてとても日本ご豪州が同じ競技をしているよーに見えなかったのが不思議というか、これがラグビーという奴が持つ伝統の深さなのか。向こうはボールを持ったらまず突っ込んでそこで止められてもサポートが来て受け取りさらに突っ込み、時々投げて振るってはそこからさらに突っ込む繰り返し。やがて日本のディフェンスラインは突破され走り込まれてトライの山を築かれる。感じたのはワラビーズの選手がボールを落とす場面なんてまず見られないこと。対して日本は投げればボールが手からポロポロとこぼれてノックオン。かといって蹴り込んでもそこを機転に密集を作り押し込むなんてことは出来ず、すぐさま逆に攻め返されて時間稼ぎにもならない。どーしてこぼすのか。手が小さいのか、それとも手から出る脂の質が違うのか。

 試合の中でのトラップの下手さはサッカーの日本代表にだって言えることで、同じ日に行われた北京五輪を目指す日本のU−22代表とサウジアラビアの代表との試合でも、ポストに入ったデカ森嶋の足下にボールが収まっらず奪われ反撃されるし、他のパスも受け取った選手が前へとこぼしたところをかっさらわれる。かといって止まった相手にゆったり目のパスを出してちゃあ詰められそこから先へと攻められない。八方ふさがりの手詰まり感が最初っから最後まで続いて見ていて激しく苛立たされた。連動して崩そうったって1人が持って走っても平行して走っている選手なんて皆無。前線を後ろが分断されたところに出来たバイタルエリアをサウジアラビアが埋めて攻めを繰り返す。これでよくぞ守備陣が決壊しなかったもんだと、伊野波選手に水本選手の2人に喝采。ボランチいったい何やってたんだ。

 そんな戦力差戦術差技術差を見せつけられても、とりあえず引き分けて勝ち点1を獲得できるところがサッカーのしたたかさというか世界との僅差というか。ともあれ日本でのカタール戦が重要になることは間違いなくってこれは国立へと駆けつけなければいけないとチケット確保の算段を検討。まあ売れ残っているけどね、たっぷりと、高すぎるんだよU−22の癖に。いやだから問題はラグビーだ。前回のオーストラリアでの大会にも出た日本代表だったけど、あの時は得点も取れていた上に失点も最大でフランス相手の51点。勝てそうに思えた試合だってあって4年後がちょっと楽しみになったけれども、それがどうだ、この4年の間に妙な通いの監督が入り選手層は薄くなり外国人がわんさかと入って世界屈指のオールブラックスのウイングを監督に迎え入れても時すでに遅くこの惨敗。あるいは計算尽くの惨敗なのだとしても、それが見た人に与えるショックを考えると、せめてもう少し得点くらいは奪っておいて欲しかった。

 いや、この世間における噂の閑散ぶりを見るともはや日本という国からラグビーなんてスポーツへの関心はバスケットボールのbjリーグやこれから立ち上がるフットサルのFリーグにすら及ばない程度の低さへと落ち込んでしまっているのかも。関心の薄き場所に選手は集まらず金は向かわない。マスコミに多い高田馬場だの三田だのの出身者たちが全国的にはまるで興味の薄い関東ローカルのラグビー大会をさも重大事と持ち上げまくったところで、目指す最高峰がこの始末では世間の目も遠くなる一方。メディアの主要な部署から母校ノスタルジーに溺れる世代が駆逐された暁には、リーグでも最弱のチームを相手に連勝しただけの実績がさも重大事だともてはやされる、やっぱり関東ローカルの野球大会への関心と同様に、注目も下がって扱われて中面のハンドボールとか男子のホッケーとかと同程度になってしまうかも。それでワールドカップ招致だあ? 笑うよなあ。個人的には見たいけど。世界の本物のラグビーを。

 とは言うもののサッカーだっていつまでこの注目を維持できるのか。幸いにしてA代表は10年の計を散々な批判を覚悟の上で爺さんが進めてくれているんで何とかなるって気はするけれど、そこで中心となる下の世代が今ひとつピリッとしないのが気にかかる。試合前にビブスをちゃんと見に着けないで下半分が上にからまったままで歩いていた平山相太選手の茫漠とした風体を見ると、どこか真剣味って奴に欠けてるんじゃないかって思えて来る。それは平山選手個人の資質に過ぎないのかもしれないけれど、許されてしまう環境ってところに緩みも見えて釈然としない。そして圧倒的に押し込まれてのギリギリの引き分け。前回のホームでのベトナム相手の拙戦も含めて将来にちょっぴり漂う暗雲。しかし。

 ぼくたちにはなでしこがいる。カナダに引き分けブラジルに勝利した女子代表が中国の地でワールドカップに臨む。きっとやってくれるだろう。そして満天下に日本の女子サッカーの強さとしなやかさと凄さを見せつけてくれるだろう。母国イングランドにマラドーナを生んだアルゼンチンに女子の強国ドイツが相手でも臆することなんてない。まあさすがにドイツは強いだろーけどイングランドやアルゼンチンなら勝機は十分。勢いでもってドイツを倒して決勝トーナメントへと歩を進め、そして目指すは優勝だあ。ワールドカップで優勝をねらえるなんてすごいことだよ、バレーボールにだって不可能だよ、ああそれなのに、ジャニーズも織田裕二も誰も応援にかけつけないのが今のメディアの女子サッカーに対する認識度。それでも結構、よっすぃー1人が頑張ってくれているだけでも今は満足。そして大会が終わったら彼女たちは日本の誰もが知ってる有名人になっていた、なんてストーリーが現実になることを願い大会の行く末を見守ろう。いや荒川恵理子だけはすでに十分に有名か、ボンバー。

 ここまで引っ張ってグレン団をボロボロと退場させていくのは何だか感動の大安売りって感じもしないでもないけれど、ここまで引っ張っておいてなおってところに相手の強大さを感じさせるって手でもありそーなんで仕方がないか。「天元突破グレンラガン」は宇宙に巨大なニアのヌードが広がり眼福眼福。肝心なところは霞ならぬモザイクがかかて見えなかったけれどもまあそれなりに拝めたんでグレン団の面々も逝って悔いもなかったか。しかしどーなる宇宙に海。そしてとらえられた一党が、ここからどうやって脱出してそして未だ見えない敵を相手に何をどーやって戦うか。中途半端になった巨大戦艦の変形が完了した暁には、壁を突破し突き進む野郎どもの姿が見られると期待して残る話数を見続けよう。終わるんだろーな、ちゃんと放送期間内に。

 ちゅるっと仕事に出た神保町で早売りの「アニメージュ2007年100月号」を買ったら表紙が「ハヤテのごとく」で一瞬「アニメディア」と間違えそーになった。劇場版の公開が始まった「エヴァ」じゃないってところは何かのこだわりか。ってゆーかそもそも劇場版エヴァの紹介が見開きの2ページしかないのは何か周囲の預かりしらない事情でもあるのか。うーん分からないなあ。とじこみ付録は「コードギアス 反逆のルルーシュ」の24話と25話の詳細な紹介。別冊はいよいよ登場の「DARKER THAN BLACK 黒の契約者」と「天元突破グレンラガン」で「DARKER」の方はストーリーが直近の放送分までしっかり紹介されてて振り返りに役立つ。ノー弁バーイレブンの退場までちゃんと書かれているもんなあ。それだけアニメがスケジュールどおりに作られているってことか。だったら最終回までちゃんと描かれると信じられそー。期待。アンバーに。


【9月8日】 アンバーかわいいよアンバー。って何かこればっかりだけれどでもやっぱりアンバーはかわいい、とくに最近のアンバーは。「DARKER THAN BLACK 黒の契約者」。うっかり喋ったところを木の上にいたアンバーに見つかって何ちゃらプリムローズって組織のアジトへと連れ去られた猫のマオ。気が付くと側には素っ裸のノーベンバーイレブンがいてそして部屋にアンバーと仲間たちが入ってきてこいつはまずいと脂汗をたらたら流しつつここは徹底して猫のフリだと「にゃあおう」と鳴いても誤魔化せない。そりゃあ目の前で喋られちゃあ、アンバーじゃなくっても普通じゃないって思うわな。

 ソファで気が付いた時に首輪を着けたままだったのは、ノーベンバーイレブンとは違って肉体だけなら誰でも連れて瞬間移動できる能力の持ち主(その対価は何だったっけ?)によって連れ込まれた訳じゃないってことか。ってことはずっとあのアンバーに抱きかかえられていた? ああうらやましい。決してこんもりとはしていないけれどもまあそれなりに盛り上がり始めた胸元に抱えられ、猫ちゃん呼ばわりされて頭のひとつでも撫でられた日にゃあ肉体を失ってずっと猫のままでも悪くねえって思えてくる。会議の場所でも今度は膝の上。平べったいお腹を側に感じてきっと心地良かっただろうなあ。まさかそんあアンバーの色香に迷った奴らばかりなのか、あの組織のメンバーってのは。

 いやいやおそらくは初期にはちゃんと出るところは出っ張り切った姿だったに違いないアンバー。初登場時も今よりは少しでこぼこしてたはずなんだけれど能力を使ってしまって対価として小さくなってあともう少しで「宇宙海賊ミトの大冒険」の海賊ミトの中の人サイズになっちゃいそう。声もだからあんな感じになっちゃうのかな。ならないか。けど着ている服はずっといっしょの手首と足首と首の部分にふわふわがついたレオタード。お臍までしっかり透けて見えるのにアンダーウェアが透けないのは何故だ? って疑問は脇においても背丈が10センチは縮んでなお着続けられるとは相当な伸縮性に違いない。

 ともあれアンバーとの接触によって発動した光を見た博士の弁から、黒(ヘイ)自体に南米のゲート消失の鍵が隠されているっぽいことが明らかになっていよいよクライマックスも近くなって来た感じ。消失っても吹き飛んだ訳じゃなくって首都消失っぽく入れなくなっているだけの南米ゲートの向こう側で起こっていることが果たして東京でも再現されるのか、それは能力者たちにどんな影響を与えるのか、そもそも能力者ってのは何のために生み出されたのかって辺りまでをもきっちりと含めて解決編が描かれるだろーと期待しつつ残る話数をリアルタイムで見続けよう。何、次は「コードギアス 反逆のルルーシュ」じゃなくって「灼眼のシャナ2」だって? 1は千葉テレビだったのに2は全国ネットとは出世したなあ「シャナ」。

 だから山岸智を使っていればと黄色いフィルターのかかった目玉はサッカー日本代表の欧州遠征試合「オーストリア代表vs日本代表」の試合を見て思う。なるほど松井大輔選手のぐりぐりとしたドリブルは悪くないけど相手が2人3人と囲んで来た時にゃあさすがに通用はしなさそう。かといってその周囲に走って連携を取ろうとする選手があんまり見あたらず、一方でゴール前に2人3人と走り込んで分厚さを出す感じでもなく預けたら預けっぱなしなのは中盤を構成する選手たちのパサー的性格が未だになかなか矯正されてないってことの現れ。それでも覚醒を促そうと起用し続けていてその甲斐あって数度は中盤がゴール前へと飛び込むシーンも見られたけれども重層的にはなっておらず、未だ状況は改善されていない。

 だからこその山岸智選手の代表入り。ドリブルでごりごりと突っかけるうちに相手守備陣に戻られるなんてことはない。ドリブルするより絶対的に速い動きで相手守備陣を振り切りゴール前へと飛び込み、そこへと彼方より放り込まれるクロスにピンポイントであわせてシュートをたたき込む。相手がデカかろーと速かろーとこれだったら関係ない。問題はそんな山岸選手の動きに合わせたクロスを放り込める選手がなかなかいないってことでジェフユナイテッド市原・千葉だったら水野晃樹選手がいて、去年までだったら阿部勇樹選手がいて年に数度のそんなゴールを演出していたけれど、代表だとそんな場面がこれまでほとんど見られない。いつかのヘディングが決まっていればなあ。

 それでもオシム監督が大久保嘉人選手ではなく未だ山岸選手を呼び続けている理由をだから、代表のメンバーにはもっと考えて欲しいんだけれどどうもそんな空気はなさそー。メディアにも検証する意欲はなさそーで、個の力だ何だといってドリブラーばかりをもてはやす。日本にゃロナウジーニョはいないってば。だからスイス戦には先発・山岸で羽生直剛選手をサイドに入れて千葉ならではの連携を、とても鮮やかな連携を見せてやって頂きたいとジェフ千葉贔屓は思うのであった。屈強なスイスのディフェンス陣に羽生さんが蹂躙されて贔屓の引き倒しになる可能性もあるけれど。

 エースとは絶対的な存在だ。自転車のロードレース。チームにたった1人のエース。そのエースがパンクをすればエース以外の選手は乗っている自転車からタイヤを差し出してエースを先へと送り出す。たとえタイヤを差し出さずに走り続ければトップを取れたかもしれなくても、エースのためには自分の成績を犠牲にする。絶対にして不可侵。それがエースという存在だ。

 ならばエースは傲慢か。無情か。他を犠牲にして恥じず怯まず君臨し続ける存在か。そう見えるかもしれない。そう見せているのかもしれない。だから疎まれる。憎まれる。いつまでも疑念を持たれ続ける。近藤史恵さんの「サクリファイス」(新潮社、1500円)に登場するロードレースチームのエースも憎まれた。石尾豪。山岳で強靱なパワーを発揮し平地でもそれなりの力を持っている彼は国内でも一目置かれている。30歳を超えてやや下り坂ならがもチームのエースとして君臨し続ける彼をチームは絶対視し、支え続けている。

 もちろん人間だから歳を取る。そして若い才能に迫られる。過去にも次代のエースと目された選手がチームへと入ってきて石尾選手のエースンの座を脅かした。けれどもその若い選手は、とあるレースの下り坂で石尾選手と交錯する形になってクラッシュし、背骨を強打して半身不随となって引退を余儀なくされた。その座を脅かされることを許さなかった石尾選手が、レース中なのを良いことにわざと妨害したのではないか。そんな疑いも周囲には浮かんだが、石尾選手は事故だと言い張り、相手には謝り、けれども一切動じることなく自転車に乗り続けて今もエースとして君臨し続ける。まさしく鬼だ。エースとはレースのためなら何でもする修羅なのだ。

 そんな石尾のいるチームに入った主人公の青年・白石誓は、性格的にも実力的にもエースを脅かすほどの自転車乗りではなかったが、そこそこの力はあってエースをサポートするため集団を引っ張っるようなアシスト的な役割を割り当てられて、順当にこなしてチームに貢献をしている。どんな時でもエースとしての立場を崩さず、アシストたちにその立場を強要する石尾に過去の経緯から疑いを抱くこともあったが、さりとてエースはエースなんだと立ててシスト役に徹し続ける。同期でエース候補の伊庭はそんな誓の態度に苛立ち、エースの存在を疎みながらもチームのことだと渋々従っている。先輩の中にも石尾の過去を憤りつつエースだからと沈黙し続ける者がいて、それらがかえって石尾の傲岸ぶりを浮き立たせる。

 そして迎えた欧州遠征で起こった悲惨な出来事。エースはやはり傲岸で非情で悪辣な存在だったのか。だからそうなったのか。それとも他に何か理由があったのか。すべてが明らかにされた時、読者は人間の何かにかける純粋さというものの凄みを知るだろう。高潔さとはこういうことかと慟哭するだろう。エースはそれ故にエースなのだと強く思いしらあれるだろう。自転車のロードレースに関心を抱く人なら、読み始めてたちまちのうちに引っ張り込まれる傑作。注目を浴びるに連れて商業主義にまみれ、人と金にまつわる噂で喧しいロードレースの世界に膿みつつある心を、さらりと洗われアスリートの純粋さに希望を見いだしたくなるはずだ。


【9月7日】 C.C.可愛いよC.C.。バンプレストから発売されてる「コードギアス 反逆のルルーシュ」のポートレート第2弾を引き続きプレーして残りを確保しコンプリーーーーーート! 裸にルルーシュのシャツを着たC.C.がチーズくんじゃない枕を抱きかかえて眠たそうな顔でたたずんでいるイラストも確保し見たら下はちゃんと穿いててボタンがはずされたシャツの前身の間にチラリとのぞいてる。でもちょっと面積小さすぎ。これで隠せるんだとしたら相当に下まで剃っているに違いない。それとも生えていないのか。というよりいったい何色なんだ。やっぱり緑か。髪といっしょか。とうーことはアンバーもやっぱり緑色なのか。いやいやアンバーは能力を使って若返っているから今は生えてないかもしれないなあ。ああ想像とは何と楽しい娯楽なんだ。

 それに比べればカレンは紅蓮弐式に登場する時のスーツの前を胸元くらいまでしか開けてなくって有り難みはユフィ並。さすがにサイズはあるけど谷間の深さでユフィにかなうはずもなく育ちの良さではユフィが圧勝。そんな背景も含めて見られた時にカレンが勝つにはやっぱり前のファスナーをぐぐぐっと下の方まで開いてやて欲しかった。せめてへそのあたりまでは。確か25話だかでセシルさんがナイトメアフレームを操縦するスーツに着替えた時には上も着けてなければ下も穿いてなかったよーな、いや底までは見えなかったけれども上を着けないんだったら下を穿く理由もないからカレンの前をギリギリまで開いて赤毛がチラリと覗くかどーかで止め置けば、裸シャツとヒップ強調のC.C.の2枚にも勝てるポートレートになれたんじゃなかろーか。残念。しかしどーしてコーネリア様はないかなあ。いつもの服じゃないフリヒラなドレスとか水着とかを着たコーネリア様のポートレートならレアでも確保に向かったのになあ。

 佐藤友哉桜庭一樹大塚英志浅田彰阿部和重谷川流筒井康隆大森望太田克史舞城王太郎山形浩生笠井潔笙野頼子鈴木謙介前島賢森川嘉一郎新井素子堀田純司鈴木健矢野優唐沢俊一北田暁大香山リカ……といった固有名詞に全般的に覚えがあったら読んでまあそれなりに含み笑いを得られるかもしれない東浩紀さんと桜坂洋さんによる「新潮」10月号掲載作品「キャラクターズ」。のっけから「ぼく、すなわち東浩紀は、そのとき、みずからの傲慢さを思い知ることになった」という私小説的というかエッセイ的な書き出しから始まった作品は、佐藤友哉さんらしき人が文学賞を獲得して桜庭一樹さんらしき人もミステリーの賞を取って日が試算は拳を握って苛立ち桜坂さんは断筆しかけてそして2人してあれやこれやと画策していくってゆーストーリーが繰り広げられる。

 そしてクライマックスに用意されているのは朝日新聞社大爆破。そこで唐沢俊一さんが焼け死に逃げ場所を求めて窓に出た北田暁大さんがすがる香山リカさんを振り落とそうとして噛みつかれたまま2人抱き合って窓から墜落して死亡。そして朝日を潰したんなら次はやっぱり2ちゃんねるだということで、未だ知らないひろゆきさんを探して96年式のゴルフカブリオレを走らせる。うーんうーんうーん。なるほど批評のキャラクター小説化。でもうーんうーうーん。キャラよりやっぱり文壇バトルロイヤル的な興味が浮かんで来てしまう。最近出た単行本で谷野敦さんも「なんとなくリベラル」って「なんとなくクリスタル」を大学教員の世界を舞台に描こうとした作品を寄せて業界内幕ばらし的なことをやっていたけど、こっちは展開もあげつらい方も実に悪趣味。あるいはそんな悪趣味っぷりを大外から笑うメタ的な立ち位置を取って楽しむべきなのかもしれないけれど、それをやった所で何かが見えて来る感じもあんまりしないところが悩ましい。

 文芸誌ってゆーカテゴリーの雑誌にこーゆー下世話な作品が、それも哲学者にライトノベル作家とゆー門外漢的な2人の書いたものが掲載されたということを取って事件であると騒ぎ、その事件性をひとつの批評として捉えることを尊ぶべきなのかもしれないって思えないこともないけれど、そうしたところで所詮は文壇って世界でのミニ台風。周囲にある広大無比な普通の世界で今回の事件が事件として捉えられることなんてあり得ない。染み出て大きく世界に衝撃を与えるなんてことも考えられない。考えられるとしたらこの事件を事件と取り上げ広め煽るメディアの存在なんだろーけれど、果たしてそこまでの仕込みをしてあるんだろーか。なけりゃただの自爆テロ。2ヶ月策には誰も覚えちゃいないだろー。

 露悪的な趣味を楽しむって方法もないでもない。「すべての元凶は桜坂なのだ。やつの、いい子ちゃんぶったところが問題だ。おれが阿部和重の悪口を言うと、『いい加減仲直りしなよ』と賢しげに諭したりしやがるやす。そもそも桜坂洋は、ライトノベルの新人賞で審査員だった阿部和重に落とされている。あとで阿部本人に確認したところ、桜坂の作品を落とすことに決めたのは新井素子らしいが、桜坂は『阿部が強硬に主張したと編集に聞いた』と言っている。そんな男が、おれに向かってなぜ仲直りしろなどと言えるのだ。アホか」なんて言葉をノンフィクションと理解すれば何だそうだったんだっておかしがれる。フィクションであっても桜坂さんがいかにも言いそうな内容と口調なだけにパロディとして面白い。

 「現におれは、【新潮】の読者はただのひとりとして誰だかわからないであろうまったくどうでもいい存在の前島賢という男に一番起こっている。いいひとぶった桜坂に『どうでもいいんだったら許してあげなよ』と言われるたびにおれの中の怒りは膨れあがる。『ぼくと東さんだっていつケンカ別れするかわからないんだから、あんまり怒らないでひとと仲直りする癖をつけようよ』とか言ってる場合じゃない。いいか桜坂、これだ。この瞬間の怒りがすなわち文学が求めるパワーだ。おまえに欠けているものだ。ノートにメモっとけ」、なんてのも愉快な言葉。知らない人でも何かあるかもって興味を喚起され知ってる人なら何をわざわざって感じにつっこめる。が、しかしだからそれがどうしたという地平を超えて影響を広められるかというと分からない。まだ出たばかりの号でもあるし、これからのリアクションを待ちつつさらなる罵倒かそれとも賞賛か、どちらが贈られるのかを観察しよー。個人的には桜坂さんの名が「新潮」に出たのは事件を超えて僥倖。「SFマガジン」に短編を描いた時にも驚いたけれど、さらなる驚きを見せてくれるとは。この勢いで桜庭さんより先に直木賞ゲットだ。

 姫かわいいよ姫。ってすがると鉄球で粉砕されそーだけれどそれでもふふんと良いながら強靱な肉体を持つ人狼を相手に闘い倒してしまうその強さにはただただひれ伏すより他にない。「怪物王女」。ここに来て絵も割と安定して来ているしお話も姫をねらう他の王族からのプレッシャーが強まり初めて緊迫感が増している。戦争シーンが増えると姫の脚もふわりと浮かんだスカートからのぞくし今回は令裡さんがにょっきりと脚をのぞかせ人狼に蹴りを放つシーンもあって楽しめた。残る話数がどれだけかは知らないけれども半年だとしたらあと数回、派手なアクションと残酷な話でもってほのぼのホラー家族な雰囲気で失いかけたファンを取り戻しつつDVDも買おうかって気分を煽ってやって頂きたい。今実はちょっと買いたい気分が増してきてるんで。ふが。


【9月6日】 やや背丈的に大きめでボディラインは起伏に富んでてちょっとばかりオーバースペックに脚を踏み入れかけてて性格はやや狷介でシニカルなんだけれども時折可愛さがちらりと覗く眼鏡っ娘。ってプロフィルだけで岩波文子が1番であると断言したくなるのは「あずまんが大王」で水原暦を登場するあらゆる美少女たちの中でも1番だって思ってしまった心理に共通するものがあるというか、知的な美女に蹂躙されたい気持ちが働くというか、まあきっとそんな所なんだけれどもこれって案外に病としては根深そう。

 なので晴れて単行本化の成ったCOCOさんの「今日の早川さん」(早川書房、1000円)がテレビなんかでアニメ化されたら、やっぱり声はよみと一緒の田中理恵さんか、そっち系の多い生天目仁美さん辺りを希望してしまいそうになるけれども、ただでさえターゲットの狭いSFを扱った4コマ漫画がアニメ化だなんて考える方がどうかしている、とか言いつつも同様にターゲットは狭そうな「ドージンワーク」が堂々のアニメ化を成し遂げていたりする所に、慢性的なネタ不足のアニメ業界が、河出書房新社とか国書刊行会から出るSF叢書がそれなりにはけていく様を横目に見つつ、狭いながらも確実性はあるSFを特定のターゲット層を狙って取り上げる可能性なんかをついつい想像してみたくなる。あるかなあ。

 しかしまあなんだ、月にだいたい50冊くらいは小説と呼ばれる本を読むけど集まりなんかでそう言ってすごいですねえ読んでますねえって言ってくるSFの人の内心ってのは「思い上がるなよちびすけ」「ラノベは長編とは呼べん」「本は量より質だぞ」って岩波さん早川さん帆掛さんがコンボで突っ込む言葉に近いものがあるんだろーなー。スイスで療養中の難病の青年が自分のクローンの金髪碧眼の美青年と出会い恋に燃え入れられず心中してゾンビになって復活する話にだってオチを付けられるって思われてるんだろーなー。そりゃあ付けられるさ、2人は地獄から来た美少女の死神の使い魔になって、日々腐れていく容貌に悩みながらもいつか揃って転生できる日を夢見てぬとぬととし始めた肌と肌をすりあわせるのでありました。いやこれは富士見延流とはちょっと違うぞ。

 そんな50冊のうちの何冊か。ずいぶんと昔に延流、じゃなかった富士見ファンタジア文庫から「ヴェロフェス」って割にダークな雰囲気があって良かった小説を出してた和田賢一さんが、数年の間をおいてHJ文庫から「迷界のアマリリス」でもって再登場。これが冒頭から現実が歪んで覗く異世界のビジョンが繰り広げられて読む人を引きずり込んで離さない。ホラーハウスなんかだと目をつぶって駆け抜けることができるけれども筋を追わなきゃいけない小説なんかだとそれは不可能。なので文字を追い行を追ってページを繰っていくそこに、見知らぬ男の首吊り死体がぶら下がり、自販機からはけばけばしいラベルの張られた中身不明なカンが転がり出て中からカランと鍵が落ち、そして自販機の取り出し口からゾロリとヤモリみたいな生物がはいだして来て、撃退して逃げ出したどり着いた場所の天井にヤモリがびっしりと張り付いている恐怖を主人公の六道歩と一緒に味わう羽目となる。

 どうにかこうにか悪夢のような世界から抜け出した六道だったが、それからも時折悪夢へと引っ張り込まれては恐怖にさいなまれる日々。同じフリースクールに通う占い師なんかをしている美女のアドバイスなんかも受けて悪夢世界でも生き延びる術は得たものの、それでも依然として悪夢に取り込まれていた六道歩を導いたのは、最初に異世界へと入った時に彼を見て手を振りつつも消えてしまった幼い少女、アマリリスだった。彼女は何者? そしてこの世界の正体は? 引きずっていた子供の頃の記憶が蘇り、悲惨で苛烈な日々に己を封印してしまった少女の叫びが耳へと届いて少年を悪夢の向こう側に待つものへと向かわせる。イラストがあってこそのライトノベルの文庫だけれどイラストなんかには描かれない悪夢的なビジョンとその恐怖を倍加させるシチュエーションの描写がなかなかに巧み。乗っかるストーリーも感動的で読み終えてああ良かったってホラーハウスを抜けて見上げた太陽のまぶしさに目を細めるような気分を味わえる。さらに待つ新たな恐怖も1人じゃないから歩んで行けそう。その未来に広がる希望に、拍手。

 でもって同じHJ文庫から刊行の鯨晴久さん「リベンジ×リベンジ」は遺物らしい銃器を扱う少女メリッサと付き従ってる優しそうに見えて実は何かありそーな青年レオンの2人を主役に進む「銃姫」シチュエーションと見せかけて、メリッサとレオンが実はのっぴきならない緊張関係にあるってゆーのが読ませ所。古代技術によって作られた「遺宝」ってのがどれくらいの貴重品でそれをどーしてメリッサななんかが扱えて、んでもってレオンがどーしてそんな立場になってしまったのか、そもそもいつからそうだったのかってあたりに謎もあるけどおいおい明らかになっていくんだろーと期して見守ろう。しかし何だよカバーのあらすじの「違宝」って。キーとなるガジェットの名前をカバーで堂々と誤植してくれちゃって。気づかなかったのかなあ、今でも気づいてないんだろーなー。

 んで「SF」って堂々と帯に書かれた桑原水菜さんの「イルゲネス」(マッグガーデンノベルズ)を買いつつ「アニメイト」で新しく入った「コードギアス 反逆のルルーシュ」のポートレート第2弾を自販機でがちゃがちゃ。もちろん女子バージョン。いきなりナナリーが出てうにゃーとなったもののすぐに希望のC.C.が出て見返り美人なポーズのC.C.の丸っとしたヒップラインをしっかと愛でつつもう1回、挑戦したらまたもやナナリーだった。にゃー。さらに回して1回当たりもあって6枚そろえたうちにはナナリーと同様に見返りのC.C.も2枚あるから揃ったのはあとはユーフェミアとシャーリーで、裸にカッターシャツ姿だったかのC.C.とナイトメアフレーム搭乗時のスーツの前が開いたカレンという目にも鮮やかなカードは未だにゲットできず。挑戦は続く。

 そりゃあこの商売、長くやってりゃあいろいろな人に会うけれども今日ほど緊張したことはなかったかも。それは日銀総裁と喋ったり自民党の幹事長を間近に見たりしたって感じない緊張感。なにしろアムロだ。シャアだ。それが2人そろって目の前に座って喋っている。手のふるえが止まりません。こんなに嬉しいことはない。ってセリフはこーゆー時に使うんだなあって頭にもわっと浮かぶ。年末にはそんな2人が登場しては25年の時を遡った若々しさと凛々しさで喋っている「劇場版機動戦士ガンダム」のDVDボックスが発売の予定。今でも精一杯に役を演じてみせるプロフェッショナルな2人の仕事ぶりに敬意を表しつつ、けれどもその時にしか出なかった声というのを聞いて何がどう違うか、そしてその違いは2人のキャリアや仕事に対する熱意の上で何を意味するのかを考えてみるのも良さそう。遠慮していたけれどもサウンドリニューアル版もそろえてみようかなあ。


【9月4日】 軽く見える。というより軽く描こうとしている。ジャングルを。戦闘を。爆発を。死を。平板な画面にシンプルな線。可愛らしいキャラクターたちによって繰り広げられるベトナム戦争は、誰がどう見ても現実の、泥と汗と血にまみれて大勢が殺され、大勢を殺したあのベトナム戦闘とは似ても似つかない。今のアフガニスタンやイラクへとつながる米帝による他国への侵略という諸悪の根元であり、また軍事力と経済力を背景に世界を席巻しようとする存在に己が尊厳をかけて闘う民の反抗と独立という正義の発端と、あのベトナム戦争を受け止めている者にはあまりに軽くて薄っぺらに見えるかもしrない。西島大介さんが描く「ディエンビエンフー」(小学館)は。

 けれどもどうだろう。悪と認められる米帝を民主と自立に至らしめた正義と捉える見方もあるし、平等とは言いつつも権力が特権化して民を弾圧する共産的な主義は悪だったと後に歴史が証明するケースもある。どちらかに肩入れすればどちらかがないがしろにされる。そしてないがしろにされた側にこそ正義があるかもしれないという、多面的で多層的な視点からでしか今の世界は見通せない。だから西島大介はどちらにも肩入れせず、そして情動的な描写による感情移入を極限まで廃することを狙った絵柄と物語を取り入れた。オールフラット。どちらが正義でも悪でもないキャラクター設定と、残虐だけれどそうは見えず快楽的ではあってもどこか虚ろな絵柄という、すべてがフラットな状況におかれた手法を取り入れることによって、ベトナム戦争とは一体何だったのかを改めて僕たちの前に問いただす。

 圧倒的なビジュアルで原子爆弾の怖さを見せつけてくれた中沢啓治さんの「はだしのゲン」という作品があり、平凡に見える日常の中に原子爆弾が残した後遺症を浮かび上がらせ読者の悲しさや憤りといった共感を招くこうの史代さん「夕凪の街」という作品がある。ビジュアルの衝撃から来る憤怒。シチュエーションから浮かぶ共感の惹起。けれどもそれらは共に作者が狙いとする情動の発露でしかない。西島大介さんの「ディエンビエンフー」はこのどちらの立場も拒絶して、ひたすらフラットにベトナム戦争を描き、見る者に考えさせる。

 記号に近いところまで単純化された、飛ぶ腕や散らばる内臓の絵。相手の背景など無用とばかりに銃を撃つ米兵に山刀を振り回す姫。見た目の可愛らしさの向こう側にある、起こっていることの残酷さを気づき、考え、飲み込んで初めてベトナムという地であの時代に行われたことの意味、そして今なお続く“南北問題”的で“民族問題”的で“宗教問題”的な争いの根元にきっと何かがあるのだということに思い至る。ではそれは何なのか。答えは容易には出ないし、「ディエンビエンフー」でもそこへと物語が導かれるのかも分からない。

 ただ確実に言えることは、かつての角川書店版より居場所を移し、新たに描き直されているIKKI版「ディエンビエンフー」は確実に完結する。それは5年後かもしれないし10年後かもしれないけれども完結し、冒頭で描かれた固く握られた手首の場面へとループする。誰の手か(おそらくあの2人)。どうしてあそこにいたのか(どうしようもなくたどり着いた)。巡らされる様々な思案が作品として答えとなって立ち現れた時に僕たちは、すべての死とあらゆる破壊を越えて育まれる1人の人間の最愛の人間を求める心の美しさを知るだろう。そこより再びぐるりと時代を遡って1巻の冒頭へと舞い戻って、そしてラストまでを辿るうちに、投げやりで無頓着に見えるフラットな絵と物語から立体視のように立ち現れる、前向きで強烈なメッセージを受け取れるはずだ。まだ出会えないその感動に、出会えるまで生き抜こう。

 ってなことを吉祥寺でつらつらと考えたり考えさせられたりしつつ吉祥寺駅そばにあるアニメイトに入ってしばらく時間を潰す。「コードギアス 反逆のルルーシュ」関連の商品もずいぶんと増えていたけどゼロのお面以外はちょっとなあ、あんまり持ちたいって気が起こらないなあ。食玩風なボックスに入った700円とかしやがるフィギュアも出ていたけれどC.C.の表情がちょっと違う。お尻こそ丸く突き出されて可愛いんだけれどもあのどこか媚びたよーな表情はどこまでも高邁なC.C.のイメージからはちょっとずれているよーに感じる。他のカレンとかもやっぱり同様に微妙さ炸裂。制服の下から水着っぽいものがのぞいていたりするフィギュアはシチュエーションとしては悪くないけどやっぱり人形は顔が命。なので製造元には顔を洗ってもう1度、挑戦して頂きたく候。速くガチャポンで出ないかなあ。

 などとよこしまな心を育ませて次の取材へと赴くとこっちでは純真な気持ちが世界を救うとゆーお話についての取材が待っていて病みかけていた心を洗われる。あの「北斗の拳」の原哲夫さんが2005年頃から絵本とかネットで展開して来た「森の戦士ボノロン」がいよいよキッズステーションでアニメーション化されるってんで関連した取材があってあたたたたたーと力でもって正義を貫くケンシロウとはまた違った、悲しさを喜びの感情をともに味わいながら前へと進んでいくボノロンってゆーキャラクターがどーして生まれて来たのかって辺りを聞く。

 世界からわんさかといろいろなキャラクターが入ってきて、それに子供たちが染まって行くのは悪いことではないけれども、日本にだって素晴らしいクリエーターもいるしキャラクターだってある。けどそれらが子供の心を捉えないのは何故なのか。お話なのか。親近感がないからなのか。そう考え親が子供と一緒にいられる時間を作ってあげらえる物語とキャラクターを生み出したいってゆー、日本が誇る漫画家の思いが結実したコンテンツが「森の戦士ボノロン」で、そーした願いが叶って今ではコンビニで配布されるとすぐに親が取りに来たりするらしー。2年前ちょっと前にいよいよ展開が始まるって記事を書いたけれどもそれが実現して良かった良かった。さらにアニメ化で広がるファンの思いが、世界にも浸透して「トイ・ストーリー」的で「モンスターズインク」的な3DCGでもってボノロンが作られ、あの感動の物語が繰り広げられる時が遠からず訪れるだろうことを切に願う。叶うと良いな。叶って欲しいな。


【9月4日】 ふと気が付くと予約してしまっていた12月に開催の「FIFAクラブワールドカップ2007」だけどその時まで果たして通っている会社が存続しているのかどうなのかってところが目下の悩みか。んまあ消えたんなら消えたで堂々と連日通えば良いんだけれども一方で結構なチケット代が払えるのかって不安もつきまとう。でも行くけど、ミランとボカの試合なんってそうそう滅多に見られないから、ってすでにそのカードになることが決定済みなよーだけれども案外にふらっと浦和レッドダイヤモンズが入って決勝へと出て「横浜国際競技場」を大音声の「ウイアーレッズ」で埋め尽くせば、相手がミランだろーとボカだろーと早々には勝てないかも。リバプールだったら面白かったなあ。どっちもレッズだよ。

 伊依ちゃんは白だった。ということが分かっただけでも儲け物な日日日と書いてあきらと読む日日日さん「アンダカの怪造学 7 パンドラオンリーワン」(角川スニーカー文庫)は前の巻で刺客として送り込まれた涼女ちゃんが最後に自分を取り戻して自らを犠牲にしつつ退場。悲しみを乗り越え敵を退けたものの学園のみんなは怪造する力をずいぶんと奪われてしまってしばらくは授業も出来ないことから学園は休校になってしまう。そんな中で比較的元気だった空井伊依が学校へと出向くと屋上でなにやら釣りをしている金髪の妙な男がいて近づき釣れるかと聞くと釣れたと言われて何が釣れたんだろうと思って見ていたら伊依のスカートが釣れてしまった。

 まくれあがったスカートの下にのぞいた多分白。気づいて伊依は男を屋上から蹴り落とそうとしたものの、そこはそれ、普通の男ではなかったよーでしっかと屋上の縁を掴んではい上がっては伊依を引き連れ会議室へと向かうとそこにはずらり、怪造学会の面子が首を並べて待っていて、そして金髪の男が大音声で名乗りを上げる。「我こそは怪造学会総長の激流院潮静である」。いつもだと妙な着物姿で頭をアップにしてたんで、イラスト見ただじぇかあ分からなかったよ。そんな偉い人が何でまた小頃怪造学校に? ってことだけれども前巻の終わりで潮静が留守にした怪造学会本部に起こった大異変。頭にでっかい帽子を乗せた久渡貴乃子の身を犠牲にしての攻撃が、本部を敵もろとも吹き飛ばしてしまって行く所がなかったんだけれど残念無念にも敵は健在。そして始まる最終決戦のために伊依を引っ張り込みにやって来た。

 虚界の王を相手にした戦いに果たして伊依は勝てるのか。見方に思っていた闇宮影文こと虚無大公は敵に就き、その影文君をしたう真子は雰囲気「コードギアス 反逆のルルーシュ」のニーナ・アインシュタインにも似ている巴已己巳こと喜悦大公に連れられ魔王の根城へと向かう。瓶底眼鏡の地味そうな表情をした已己巳ちゃんが喋ればぞんざいな男ことばで短いスカート姿を気にせずすっくと立ったバックのポーズに伊依の白にも似た感動を覚えたけれどもそこはそれ、とりあえず力を得て憤怒大公を退けたものの伊依が立ち向かうべき敵はまだ多く、それらを相手に怪造生物は友達で、使役したり倒す相手じゃないって信じて信じ抜いてる伊依にとっては辛い日々が待っていそう。けれどもそこは伊依りちゃん。心をすっかりゆがめてしまっていた涼女すら改心させたまっすぐな熱情が、悲惨な戦いではない希望にあふれた何かを見せてくれると信じて続く展開を待ちわびよう。たくさんの本を書いているけどやっぱりこれが日日日じゃあ1番好きだなあ。

 んで電撃文庫から渡部狛さんって人の「ペイン・キャプチャー」(電撃文庫)をとりあえずペラリペラリ。とあるウイルスに感染した結果、不思議な能力を持つに至った人間が犯罪に手を出すよーになった世界で、そんな犯罪者をとらえる警察組織に所属する、これも能力者なんだけれどそれが相手の痛みをそのまま感じると当時に、自分の痛みも相手に伝わる厄介な力を持った刑事だかの戦いを描いた連作集。冒頭でエリートの女性捜査官が出てくる辺りは「DARKER THAN BLACK」の桐原岬ちゃんを想像させられたけれども、別に眼鏡っ娘じゃなく、へまをやったかエリート職場を追われ主人公たちが群れる職場へとやってきて、これでいいよ主人公との二人三脚が始まるかって思ったらそうはならずにもっぱら脇役ってのはなかなかに勿体ない。

 むしろメーンは主人公が過去の経験に折り合いをつけて新しい道を歩み始めようとするライスの前後編2話。口絵に出てきておどおどとしつつ可愛らしい姿態を見せてくれてるコニーちゃんが本編だとあんまり活躍せず、絡んでも来てくれていないのはやや寂しい。前から一緒にいる無駄に明るいと評判のベルちゃんの本文での活躍ぶりとそれからイラストでのローアングルで蹴りを放つ姿を捉えたカットでの見えっぷりが素晴らしいのでまあ良いか。病気で生まれた異能の存在を相手に闘う奴ら、って設定はそのまんま奈須きのこさん「DDD」と重なるけれどもあっちに比べてまだストーリーをエンターテインメント性が考えられているからわかりやすさで取るならこっちか。しかし「DDD」の持つ濃密さと奥深さは噛みしめれば味が染み出る乾き物の様。若くて慣れない人は「ペインキラー」で学んでそれから「DDD」へと歩を進めるのが段取りとしては良いのかも。

 役所広司がお役所仕事、ってどこの夕刊紙の駄洒落見出しだ。でも本当。例の「JAPAN国際コンテンツフェスティバル」こと「コ・フェスタ」のメーンキャラクターに選ばれたってんで近くで会見があって見物へ。新作のためにダイエットをした関係で細身にも拍車のかかった姿で現れた役所さんだけれど喋りはテレビのドラマや映画と同じいつもの役所節。色を何も出さない代わりに何にも染まらない役所っぷりは演技者としてどうよって思われがちだけど、そんな人がどんな映画に出てもピタリとはまってしまうところから考えるに、それだけ汎用性の高い存在だってことなんだろー。汎用人型演劇兵器ヤクショコウジ。それこそ「エヴァ」に出て碇ゲンドウやったってハマりそー。誰がどう見たって役所以外のなにものでもないのに。

 それにしても不思議だよなあ「コ・フェスタ」は。そもそもが「東京ゲームショウ」から「東京国際映画祭」から「エンタ祭り」から何からのエンターテインメント系展示会をひとつの名のもとにまとめた方が世界に対してアピールしやすいんじゃないの、って発想で開かれることになったもの。でも準備期間もないものだから9月半ばの「ゲームショウ」と10月終わりの「映画祭」との間に1ヶ月くらいの間があって、この期間を滞在してすべての展示会に出る、なんてことは絶対に無理。というよりこれが2週間でもアニメのバイヤーがゲームショウに行くとも思えずドラマの買い付けに来た人が家電の展示会「CEATEC」を見に幕張メッセへと出向くとは思えない。ってか何でハードの見本市までが「コ・フェスタ」に入ってるの? まあ再生装置の展示会って意味では関わりがない訳じゃないけれど、それにしたってちょっと異質。来た外国人はさらにそー感じるんじゃなかろーか。

 あるいは「コ・フェスタ」全体を推進する上で必要な支援を得るためには、知名度はあっても経済基盤は決して強くはないコンテンツ業界だけでは無理で、ハードな企業を抱き込む意味でも「CEATEC」を「コ・フェスタ」に認定する必要があったのかも。政治的とゆーか経済的とうーか。けど偉い人は遠からずこの「コ・フェスタ」を2週間にぶち込みたいって言っていて、それが外国から来た人のためになるって主張をしていたけれどもその間に3日間とかある「ゲームショウ」と1週間近くに及ぶ「映画祭」と4日5日はやってる「CEATEC」が重なった上に大小20近いイベントが重なっては行く方としてはとても無理。もとより貧弱な取材体制でやってる身だとほとんどが所管になるんだけに、どれに行けば良いのか迷いそーだし、一般の人もどれに行くかと悩んで面倒になってどれにも行かずに終わってしまうこともありそー。気概は認めても実行段階に無茶がある。でも走り出したら止められない。政治って奴はこれがあるから困るなあ、ってそーいや身近にも無茶が走り出して無理を生じ始めているケースがあったりするぞ。「コ・フェスタ」が消えるのが先かそれとも。チキンレース開催中でーす。


【9月3日】 えっと世界が多元世界的に重なり合ってぐっちゃぐちゃになってしまっているのに人はそれを気づかないって設定は有澤透世さん「世界のキズナ」(角川スニーカー文庫)に何だか似ていたりはするんだけれどもこっちは完全にぐっちゃぐちゃになってて半漁人に宇宙人に人間に何やらかにやらが一緒に暮らしているのに対してベテラン神坂一さんの最新シリーズ「DOORS 1 まぜこぜ修繕屋」(角川スニーカー文庫)はとある少女の家に無数のドアが出来てしまったことをひとつのフックにその向こうに広がる無数の世界がちょっとずつおかしくなってしまったのを少女がひとつひとつ解きほぐしていくってゆー話。だから読後の印象はちょっと違う。

 気が付くと家は無数のドアだらけ。おまけに妹が5本の尻尾を持ったリスになってしまっているのに妹は妹なんだからそれが当然と信じて疑わない。いったいどうしたと思案しているところに現れた男が手にしたレンチで妹の頭を3回叩くと妹はどうやら世界が違っていることに気づきそして主人公の少女は男と一緒にドアの向こうにある世界へと出向いて鍵となる人間をレンチに振れさせる仕事を始める。もっとも一足飛びに世界が元通りになるってことはないよーで、ひとつを直すと今度はたとえば妹が触手になってそれを妹は当然と思っていたり、ハチが小さいハチではなくって巨大な姿で現れ毒をまき散らすようになったりとなかなか大変。それでもひとつひとつを乗り越えていけばいつかはたどり着くと願って、守備隊長が不思議な力を使ったり、妹たちが妹キングに率いられて兄や姉に反乱を起こした世界に行ったりといった冒険を繰り広げる。

 不思議な世界のビジョンが示す面白さ。それを当然と認識している人たちの傍目から見た奇矯さを持ち前のわかりやすくって楽しい文体で描いているから読んでいてもうページを繰る手が止まらない。見た目はまったく普通に見えて懐かしさすら感じさせる世界へと赴いた時は、誰かの頭をコツンとやることで世界を元通りにしてしまうことに躊躇したりと世界に対する個人の認識の是非なんかを問うエピソードもあって考えさせられる。力があるなら世界を変えても良いのか。個人が好ましいと思ったならそれは正義なのか。どこまでも続けられそうなシリーズであとは世界についての発想の多彩さがどこまで維持されるかって所だけれどそこは世紀のライトノベル作家、飽きさせないだけのアイディアの奔流を見せてくれると信じて手にとり続けよう。イラストも良いなあ。

 んで「バイトでウィザード」(角川スニーカー文庫)の椎野美由貴さんが新シリーズを刊行。「螺旋のプリンセス 1 ぼくと自転車の騎士」(角川スニーカー文庫)は秘密を抱えながらも普通に暮らしていた少女が実は! という展開から始まり宇宙のどっかにある世界の王位継承争いなんかに巻き込まれてしまうってゆー、まあありがちといえばいえそーな話だけれどもそこは主人公の吉野聖の可愛らしさとナイト役を務める青年の格好良さと青年を好いている少女の強さ美しさとあと宇宙から来る皇子様の頓狂さ等々、キャラクターの面白さがあるんで最後までちゃんとつき合える。何より聖かわいいよ聖。そーゆー趣味かって言われるかって言われるかもしれないけれどもすぐ変わるからご安心。

 待ち受ける運命が生か死の二者択一だったり青年が生命に危険を抱えながらも闘っていたりとシリアスな設定もビルトインされているんで今後の展開によってちょっとした悲劇なんかも生まれそう。問題はのっぴきならない時代へと話を盛り上げる上で追い込んでいってしまった挙げ句にどう帰結させれば良いのか見えなくなってしまってストップしてしまうこと。「バイトでウィザード」もそんな感じに瀬戸際まで行って身動きがとれなくなっているっぽいだけに、今回はお気楽展開を活かしつつ隘路も壁も笑いで吹き飛ばすくらいの勢いで、ラストまで一気に連れていって欲しいもの。同じ意味では中村恵里加さんの「ダブルブリッド」(電撃文庫)もずっと止まったまま、なんだよなあ。「ソウル・アンダーテイカー」でも良いから再始動して欲しいなあ。

 とりあえず買ってみたけど「コードギアス 反逆のルルーシュ」のムック本、なんだか「ニュータイプ」に掲載された記事とあとDVDに入っているライナーをホッチキスで閉じただけって印象で読んでもどっかで読んだなあ感がありありであんまり役に立たない。キャストとかへのインタビューだってアニメーション誌に掲載されているものと50歩100歩。スタッフへのインタビューは監督もメカ設定もキャラクター設定もゼロ。だから読んでもこのアニメーションがどーゆーシチュエーションから生まれて何を語ろうとしているのかが見えてこない。まあ半分の段階でよけいな知識を付けられても面倒ってことがあるのかもしれないけれど、せめて「アニメディア」あたりが掲載してた谷口吾朗監督へのインタビュー並の情報くらいは載せてくれても良かった気がしてならない。

 一方で各話紹介はまあそれなりに行われているけれども、ストーリーを追うってよりはキャラクターに焦点があてられていて、アニメから格好良いシーンが抜かれてはいるけれどもキャラクターが中心。キャラクターにこそ人気があってそれで売れているアニメなんだから、こーゆー作りになるも当然なんだろーけれど、だったらいっそグラビアイラスト集みたくあられもない格好のC.C.だとか、カレンなんかを大々的に掲載してくれれば使い勝手もあったのに、添えられたイラストはアニメ誌に版権イラストとして使われていたものが大半だから、やっぱり既視感がつきまとう。まあこう言うのも作品紹介にスタッフインタビューに評論がセットになって作品の歴史的文化的芸術的立ち位置なんかを示してくれるよーなムックを尊び育った世代ならではで、キャラクターグッズとして捉えている人が購入者層の大半となった現在は、こーじゃなきゃあ成立しないんだろーなー。かといって売れなく立って評論したいって言っても今度は版権元がいろいろ言って来て企画が成立しない可能性もあったりしそー。難しい時代だなあ。

 エレベーターに乗っている婦人が4人ばかりで話している。1人の家族が支局にいたのが本社へと戻され支局は閉鎖で取材先だった役所をこれから誰がカバーするのか分からなくなっていると言っている。これからどうなるのだろう。そんな不安げな気分が室内を漂う。偉い人は後ろ向きなどでは談じてないと高らかに言う。ならば少なくとも仲間内にそれなりにコンセンサスが出来ていて当然。なぜならすでに一部は実行されて多くも近々実行に移される段階だからだ。あるいは中枢には楽観論が渦巻いていて、その中心にあって決定権者は安泰を確信しているのかもしれない。しかし周辺には未だに不安が漂い消えそうもない。

 最前線で周囲からの反響を直接伺う人たちが抱える不安は、すなわち顕在化して現実化する可能性の極めて高い不安だと言える。それを払拭するだけのロジックを、この期に及んで示せていない状況は、やはり相当に拙いと言うより他にない。それとも天よりの声はすなわち全と認め従うべきだと天は考えているのだろうか。だがしかし。かつて滅亡の手前へと追い込まれた極東の帝国があって、耳障りの良い発表が繰り返されて誰もが楽観に溺れいた裏で敵が迫り、気づくと本土は着々と焼け野原にされていた。今再びそうしたシチュエーションを再現しようと言うのだろうか。それとも今度は本土で勝つつもりなのだろうか。

 いやいや敵は強大でそして本気だ。それを知れば挑み勝とうとする無理さに考えも及ぶだろう。だからかの帝国では最後にすべての上に立つ存在が、無理に気づいて改め勅を出して滅亡の縁から国を救った。救われる可能性はゼロではない。もっとも、今起こっている状況を果たして覆せる立場の存在は果たしてあるのかが問題だ。かの帝国では臣下の猛進をお上が止めた。あるいは現在は最上位にある存在が自ずから統帥権を持り南方を、北方を、大陸を奪われる瀬戸際にありながらもそれを危険とは認めず、撤退でもなく転進であり将来への布石だと言い募っては、本土決戦の為にひたすら竹槍を削りそろえさせているのかもしれない。

 そして残酷なことに、竹槍では駄目だ、飛行機だと言うことは歴史が完璧なまでに証明している。なのに止まらない。竹槍では駄目だという声すらエレベーターの中のささやきにとどまっている。なぜなのか? そうなのか。確かそう唱えた記者は前線送りにされそうになってかろうじて救われ、代わりに無関係の予備役が再招集され送り込まれた硫黄島で散ったっけ。物言えば唇どころか命も寂しいシチュエーション。それが物をいうんだという標榜が飛び交う地で起こっているこの不思議。これだから社会は面白い。会社というものも興味深い。将来においてこの事態は、果たしてどんな歴史として史書に刻まれるのだろう。笑って眺められれば良いのだが。


【9月2日】 アンバーかわいいよアンバー。「DARKER THAN BLACK 黒の契約者」に久々に登場しては全身タイツ姿でアメリカ大使館近くの木の上に登って喋る猫ちゃんことマオをイジって遊んでた。当然誰だか知ってのことだろーけどマオが相手をアンバーと気づいたかは不明。人間に見られたって感じで冷や汗たらたら流していた所を見ると案外に知らなかったのかも、若返ってるしずいぶんと。それでも胸板は完全な洗濯板じゃなくってちゃんと微妙ながらもぷっくりしているところを見ると今ん所だいたい13歳くらいの容貌か。直前に境内で契約者の能力を使ったあたりでもそんなにいってはなかったけれどだいたい16歳くらいだとしたら、1回使うごとに数歳づつ、若返っていくのかそれとも止めた時間に寄るのか。でもってそれ以降は1年立てば1歳分ちゃんとふけるのか。分からないなあ。でも今くらいが好み的にはほぼベストなんでここからあんまり老けず若返らずにずっとあの屈託のない笑顔を見せてやって欲しいなあ。無理だろーけど。

 そんなアンバーの傘下にいるイヴニングプリムローズのメンバーでキスすると肉体だけはテレポーテーションさせられる能力を持ったナイスバディな美女が現れノーベンバー11も引き込みおそらくは猫ちゃんも連れていってしまう模様。残された黒(ヘイ)は果たしてどー出るか、敵にはアクションでもヘイと互角に渡り合える血を付けた相手を吹き飛ばせる能力者もいることだし、1人じゃあちょっと無理そーだけれどかといって銀(イン)を連れて行く訳にもいかないしなあ。まあヘイなら妹可愛さに相手が何人いよーと1人で乗り込むんだろーけど。しかし最近思うにヘイの妹の白(パイ)ってゆーのは本当に実在したんだろーか。南米のゲートが吹っ飛んだ際にアンバーやヘイたちと一緒に闘ってたって言うけど、当時ヘイとかアンバーがいた軍隊みたいな組織にヘイから見れば相当に若そーなパイが何で所属していたのかが分からない。もしかしたらヘイの頭の中にだけ存在していて能力の対価として不在の妹の記憶だけが強まって行ってるんでヘイはいかにも対価を支払っておらず感情を残している珍しい契約者に見えているだけなのかもしれないって、そんな妄想も浮かんではいるけど多分全然違ってるんで残る4話くらいをじっくりと見てそれから改めてどーゆー話だったのかを振り返ろう。「世界陸上」とか入ったけれどちゃんと最終回まで放映するんだろーなTBS。

 そうそうインで思い出したけどいよいよ公開なった「ヱヴァンゲリヲン新劇場版・序」でもやっぱりヤシマ作戦のあとで煮えたぎった零号機から排出されたエントリープラグの中にいる綾波を助けた碇シンジに向かって「こんな時、どんな顔をしたらいいか分からない」って言うあの名シーンが使われていて、テレビ版とは違いそれからあまりにテレビとも違いすぎてた前の劇場版とも違って普通に綾波に見える顔がアップになってそれはそれで嬉しいことなんだけれどここで、シンジがやっぱりこれまでどーりに「笑うと良いと思うよ」とか言った瞬間、レイがインよりしく唇の横に指を添えてくいっと上に上げて笑顔を作ってみせたら個人的にはとっても愉快だったなあ。寡黙系キャラの元祖ってことでレイとインは同じ系譜に属していることなんだし。まあ例えやられたからって見ている人のおそらく9割は訳分からなかっただろーけれど。いっそだったらどこかの同人でレイからレインからルリルリからヴァニラさんから長門からみまみちゃんから無口無表情キャラをぞろりと並べて口元に指添え押し上げ笑顔、って顔を並べてくれたら個人的には絶対に買う。見たいじゃん長門の笑顔。冬コミに期待だ。

 「天元突破グレンラガン」はそっちのけで向かったパシフィコ横浜で開催中の「Nippon20007」ではとりあえずサイバーパンクの部屋に入って若人とベテランの会話のそこはかとなくすれ違っている様に朝の早さを覚える。サイバーパンクの歴史については80年頃よりずっと「SFマガジン」を読んでムーブメントをリアルタイムで経験している人間はもはや基礎でしかなく、むしろ現代的な情勢からサイバーパンク的な未来予想をして欲しかった、つまりはそれが具体的な形として示されよーとしている「ギートステイト」について喋ってもらい巽孝之さんにいろいろとツッコミを入れて欲しかったけれどもまあ横浜市民も来る日だけにいきなりディープで狭隘な話をやっても難しいから平均的に振り返り状況認識を語る内容でかえって良かったのかも。

 その巽孝之さんが寄稿している「科学魔界」の最新49号が帰りがけに「時刊新聞」を配るふりして手売りされていたんで購入。コミックマーケットを立ち上げた米澤嘉博さんに関する追悼号で読むといつかの日比谷高校で行われていた「SFセミナー」での「日本漫画大会」についてのトークが採録されていて、そうだあの時はグランド脇の喫煙室にやって来た米澤さんを間近で見たんだっけと思い出す。続いて寄せられている巽さんの米澤さんに関する思い出は亡くなるほとんど直前の日本SF大会通称「ずんこん」で同じ壇に並んでトークをした話がひとしきり。2004年の岐阜での大会では大瀧詠一さんについて確かとり・みきさんと語り尽くしていた記憶があるけれど、「ずんこん」ではロックに関する著作もある巽さんすら驚くよーな濃くって深いプログレッシブロックについての知識の開陳があったそーで、その知識や興味の広範さにこれまた改めて驚きそして月並みながらも惜しい人材を失ったって悲しさにとらわれる。その訃報をメディアとして伝える貢献は出来たけれども出来ればその生の業績をリアルタイムで伝える仕事をしたかった。まもなく1周忌。合掌。

 知り合いが持ってたパンフレットの出来に感動してハーバーラウンジまで行って理系博士カフェをのぞいてパンフレットを購入。見知った人たちが白衣姿に眼鏡とかかけて博士然としているのかしていないのか分からないポーズで写真に写っている姿はそれぞれに美麗で妖艶で知的でクール。まんま秋葉原とかどっかに店を出して宣伝のパンフレットとして配られてもこりゃあ本物だって受け止められそー。せっかくだから博士を使命していろいろ聞きたかったけれども自分のつたない知識で博士と会話が出来るはずもなく断念。たとえば生命科学の博士を指名して「赤ちゃんはどこから来るの」とか、理論物理学の博士を指名して「地球の反対側にいる人はどうして落っこちないの」とか、宇宙物理学の博士を呼んでもらって「空にはあんなにいっぱい星があるのにどうして光で溢れたりしないの」とか、聞くのも恥ずかしいからあきらめる。「限りなくゼロの質量しかないクオークがいっぱい集まって原始になり分子が出来ているのにどーして重さがあるの」とか、聞いて答えられても理解出来ないしなあ。

ヒューゴー賞なら山ほど見てもこいつを見た人は少ないだろうネビュラ賞。星雲賞じゃないぞ。  菊池誠教授がテルミンを演奏する姿を横目で見つつ戻って「ゲド戦記」の美術監督を務めた武重洋二さんが登場する企画を見物。またもご登場の「Nippon2007」実行委員長の井上博明さんが武重さんに聞いていく形式で、間に通訳も入る関係でざっくばらんというよりはむしろ質疑応答のフォーマットにはまった企画になってて、脱線とか心情の吐露とかいった「ロフトプラスワン」的なトークを期待した人にはやや物足りなかったかもしれないけれど、外国人の参加者も相当にいたことを考えるとこれはこれで良かったみたい。後でちゃんと質問も出たから言いたいことは伝わっていたんだろー。宮崎駿監督と机を並べて仕事をした武重さん、って所への質問もあった所を見るとやっぱり世界でも宮崎駿の名の重さは相当に凄いものがあるんだろー。

 だいたいが企画の始まる直前に、マーク・ジクリーって「スタートレック」の監督なんかをしている有名人が、宮崎駿監督に渡したいものがあるんで「ゲド戦記」企画に来ているスタジオジブリの人の所にやって来たほど。見ても分からなかったその直方体のガラス製のトロフィーは何とネビュラ賞 で、「世界SF大会」でファンが投票して贈る「ヒューゴー賞」と並んでSF界ではもっとも権威のある賞が何でまた宮さんにって調べたら、今春発表の2006年の受賞者に宮崎駿監督がベストスクリプト賞の受賞者として入ってた。いきなり送りつける訳にもいかず、かといって世界SF大会のために渡米して来た日本からの参加者に渡そうにも今年は渡米なんてしてこないからそれも無理。だったら赴くついでに渡してしまおうってことになったんだろー。ヒューゴー賞のトロフィーだったらエキシビションの会場にずらり並んでいたけれど、ネビュラ賞は見たのがこれが初めてでおそらくは次に見る機会もなさそー。ついでのハプニングとは言え貴重な経験が出来て出席して良かった。ジブリじゃあどこに飾るのかな。やっぱり「アカデミー賞」と「金熊賞」に並べての展示だよな、権威的に。

 そして「ヒューゴー賞」の授賞式を見られなかった身としてせめてこれだけは見てワールドコンの雰囲気を感じ取ろうと入ったマスカレードは……うーんうーん……かつてサブカル&オタクの最先端があったワールドコンも今や伝統芸能の域へと棚上げされているのかな、つまりはあんまり華やかじゃあなかった、同じコスプレイベントだったらまだ「世界コスプレサミット」の方が出てくる人たちの心意気も、そして何よりコスチュームも立派だった。まあマスカレードは別に美麗さや迫力を競うものじゃないから先端を行ってなくても仕方ないのかもしれないけれど、ここは日本、コスプレ大国、そこで行われるマスカレードに日本からの参加者があれだけで、それも質があんなんでは立つ瀬もないって気もしないでもない。どーゆー段取りだったのかなあ。そんな中でもとりあえずは最初のノーマッドの無鉄砲さと2番目のピカチュウのいたいけさには惹かれた感じ。あとは皇帝ミンのできの良さ、か。初めてマスカレードに見えてこれなら楽勝と思った方は来年のえっとどこなんだろー、デンバー? だかで開かれるワールドコンへと乗り込みニッポンのコスプレを見せつけてやって来て頂きたいなあ。誰も行かないんなら僕が行くか、何のコスプレで? ルルーシュで。英語で何って言うんだ「撃って良いのか撃たれる覚悟のある奴だけだ!」って。


【9月1日】 それにしても敵ポップカルチャーへの怒り憤りの大きさは単純に大塚英志さんから挑まれただけってことでもないんだろーか笙野頼子さん。曰く「Nippon2007」の企画「アヴァンポップ」に登場して喋ったのは「ポップカルチャーは国家権力より大きい。それはグローバル経済から出ているもので、個人を飲み込んで来る」と市場経済の名の下に行われる抑圧に厳しい反応を示す。権化とも言えるキャラクター小説の台頭にも「私はキャラクターと呼ぶ言い方を自覚的に排除している。人間性とリアリティがあってこそで、ただキャラクターだけで小説を読むのは不毛」と言い切る。配置されたキャラが想像する世界を描くような村上春樹さんはだから”敵”なんだろー。

 そして「だから私私小説的な純文学で闘うのだ。藤枝静夫にしても小川国雄にしても島尾敏雄にしても、幻想小説を書くようになったけれども、何も出来ないひ弱な少年が闘うような話ではない。現実の苦しみを書いている」。自分についてギリギリまで考え抜いて描き抜こうとした挙げ句に弾けてしまっても決して内に向かわないと言っている。そして時代は文学に対してさらに厳しさを増しているとも。「芥川賞を取った『タイムスリップコンビナート』が分水嶺になったようで、今は時代がいっそうつらくなっている。文学の一枚岩化が起こっている。以前は保守的でも良いものがあったが今はない。原点に帰るような私小説がないがしろにされている。ポップなものを女流文学的にちまちまと描いたものが文学の主流になっている」。

 誰のことを言いたいかは該当が多すぎて分からないけど少なくとも、今、笙野さんが芥川賞の選考をしたら入ってこれない作者は確実にいるんだろー。となると諏訪哲史さんなんて観念から何かを描こうとしているって評価を得るのか観念だけで中身がないって誹られるのか。あるいは円城塔さんとか。いずれにしても今はたしか笙野さん、野間文芸新人賞を降板させられて以降あんまり賞とかには絡んでないからその文学観が公の場で物差しとして示されることはなさそー。かといって気鋭の若手について批評をさせる場もない。ってことで登場するのが社会の問題とかを裏にメッセージとして示しつつ描くSFの場ってことで、土俗的な描写の中に批評が暗喩として染みている作品を、SF界が指示していくことによってこれからも笙野頼子さんの名は消えることなく続いていくんだと、思いたいけれども果たして。SFにもキャラクター第一な思考が染みてきているし。

 成増か。住んでいたのはグレゴリー・ベンフォードが日本を占領した米軍にくっついてやって来た時に住んでいたのは。都内からえらく遠そうだけれど当時は確か日本軍の成増飛行場が接収されて米国人のための住宅「グラントハイツ光が丘」が建設されたはずであるいはベンフォードもそこに住んで暮らしていたのかも。結構な広さで米国のロードサイドに立ち並んでる店舗の風情もそのままの商店が並んでいたりしたよーで、最近までその名残もあったみたいだけれど光が丘の大開発があったからもはや今さらベンフォードが訪ねても、面影は残ってないんだろー。「Nippon2007」の企画に登壇したベンフォードはあと父親に連れられ行った先でロールスロイスに乗ったマッカーサーと昭和天皇を見たそーで、日本とはこれでなかなかに深い絆があったんだと知って急に好きさが増大する。読んでみようか「タイムスケープ」。難しいからって敬遠してたんだけど大丈夫かな。

 日本との関係ばかりじゃなくってSFとの関係も滞日時にあったとは新たな驚き。それ成増に居た当時に図書館か何かで読んだハインラインが好きになってSF作家になってそして「ジュピタープロジェクト」って話を書いたらハインラインから5ページの手紙が来て作品を褒められ小説の作法について教えを受けて大喜びしたって話をしてくれた。もしも成増でベンフォードがハインラインを読んでなかったら作家になっただろーか、それともずっと物理学者のまんまだっただろーか、というかSFが科学への関心を誘ったのだとしたら物理学者ベンフォードすら生まれていなかったかもしれない。ベンフォードとハードSFのファンは成増に感謝を。ちなみにそこで読んだハインラインは「宇宙船ガリレオ号」。英語の本だったのか子供向けの版だったのかは伺い知れないけれど、あのベンフォードを目覚めさせた本ってことでこれも今さらながら読んでみよーかな、売っているかなSF大会のディーラーズに。

 そそくさと会場を抜け出して近所の「横浜ワールドポーターズ」へと「ヱヴァンゲリヲン新劇場版・序」を見に……ではなくってその入り口で開かれた風船ガム「バブリシャス」のイベントを取材。ガムったら最近はキシリトールだの何だのと機能が重要視されてて昔みたいに膨らませて楽しむものじゃなくなっているけどそれをひっくり返そうと、バブリシャスを発売している会社ではちょっと前からあちらこちらでイベントを開いて店頭で風船ガムを配り膨らませてみてよって誘いをかけている。コンパニオンもおいて実際に膨らませている姿を見せると子供連れのまずお父さんから俺もって動きがあって、それを見て子供もじゃあって感じに始める動きが見えた。

 お父さんなら子供時代はガムっていったらチューインガム。膨らませられないガムなんてガムじゃなかったのに最近は逆に膨らませられるガムの方が少なくなっている。子供だってだからガムを膨らませるなんてことを知らない。だからお父さんの姿を見て驚きやってみようとして、お父さんは威厳を取り戻せるって寸法。なんだけれども初めてなはずなのに膨らませるのが巧い女の子とかいるからなあ、子供は学習能力が高いってことで。まあこーゆー断片的なイベントがそのまま売り上げの増加につながるとは思えないけれども、ちょっとづず評判になって取材とかも増えていずれテレビのドラマなんかでスターが膨らませてみせたりすればもう完璧にブームを巻き起こせる、かもしれないけれども誰がやったら格好良いかなあ、キムタク? 月並みだなあ、「コードギアス 反逆のルルーシュ」のルルーシュ? でもゼロの仮面じゃあ風船ガムはちょっと無理。女の子がやっぱり良いなあ、ほしのあき? 3つも膨らませてまーす、ってそれは違うとこ、ってギャグでにぎわいそう。あるいは胸より大きく膨らませてまーす、とか。


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