縮刷版2007年7月上旬号


【7月10日】 某池袋にある大型書店のカリスマ副店長もすっかり染まり、蘇我に通い詰めていると聞いたイビチャ・オシム監督の言葉によって内蔵まで黄色くなっている身から見れば、日本代表がのぞんだアジアカップ初戦のオマーン戦は中盤が横パスばかりでせっかく前が走っているのにボール離れが悪かったせいもあってなかなかトップにボールが入らない中を、どうにかかきわけまずは山岸智選手が飛び込み終盤には羽生直剛選手が走り込んで決定機を作り出した素晴らしいプレーであって、そーしたプレー機会をせめてあとそれぞれに数度は作り出せていたならば、それぞれに1点は奪って戦犯どころか英雄としてあがめ立てられていたんだとゆー確信がある。

 高原直泰選手は1回で決めたけれどもそれはロシアンルーレットの当たりが最初に出ただけのことで、2度目3度目があったら外していたかもしれない。それとは逆のことが羽生と山岸には起きただけ。後ろでこちょこちょ持って時々前に放り込んでは走り込むなんてしなかったマン・オブ・ダ・マッチな選手がもーちょっとだけダイレクトを使い飛び込みもして、山岸羽生にチャンスを与えていたなら2発目3発目と連続して決めた可能性ってあるんだって、そう主張したところで所詮は黄色いフィルターと言われてしまえばそうかもしれないってところが、結果がすべてのあの世界。次こそは頑張って戴きたい。使われれば。使われるよな。いずれにしたって真正面で受けたボールを反対側に蹴り返した代表フォワードよりはマシだと思うぞと黄色いフィルターから見れば。

 世界のどんな場所とでも、瞬時に情報のやりとりが出来る時代になったところで国境とか、人種とか宗教といった“壁”が消えることはないし、そこから生まれる偏見が拭い払われることもない。中国人は頭を弁髪にしているとか、アメリカ人はどこに行くにもテンガロンハットを被っているんだと思っている人は今時いないだろうけど、日本人は出っ歯で眼鏡をかけていて、カメラを首からかけていると信じている外国人は多いかも。何か起こったり誰か有名人がいれば、ところ構わず携帯電話を向けて撮影する日本人の多さを目の当たりにすると、やっぱり写真好きなんだと思いたくもなるだろう。偏見には理由があるのだ。

 19世紀のロンドンに生きたモーティマー夫人という児童文学作家が書いていたという、世界の国々についてのガイド「モーティマー夫人の不機嫌な世界地誌」(バジリコって本も実に多くの偏見と思いこみに溢れている。隣国フランスについては流行に敏感だと誉めているけど、スペイン人は怠け者の上に陰気で残酷、ロシア人は金持ちは傲慢で貧乏人は不正直のどケチ野郎ばかりだと容赦ない。日本に至っては誰もが礼儀正しいけれども切腹という邪悪な風習を5歳の時から学び始める恐ろしい国だと書く。中国人は弁髪してると書いているのはまあ正直か。確かに当時はそうだった。しかし言ったこともないアフリカの各国について書いていたりするのはねえ。

 なにしろ現地を見聞したことは皆無で、それどころか1度も英国から出ることはなかったというんだから、欧州にアジアに北米南米アフリカと世界のほとんどすべての国々について知ったような風を書いた文章が真実であるはずがない。そういう意味で言うならこの本は、西洋の文明人が異国の未開の人たちを半ば見下して書いた思いこみによる傲慢ぶりを今になって嗤う反面教師的な意味を持ってトッド・プリュザンという人の編集によって刊行されたんだって見てとれる。

 冒頭の前書き部分でもプリュザンは、トロント市長がケニアを称して「原住民たちがぐるぐる踊り回る光景が目に浮かぶ」と言い、イタリアのベルルスコーニ首相がドイツを称して「超国家主義のプライド……ドイツ人がユーモアのセンスに恵まれているなんて思ったこともない」と言い、米国務次官代理のボイキンがイスラム教徒との戦いに関して「わたしの神は、彼の神より偉大だった」と言う現代の状況を指摘していたりする。モーティマー夫人を笑えない、人間にはそーした偏見が今も生きているんだってことを訴え、改めようって啓発しているんだってことを読みとれるけど、でも果たしてモーティマー夫人をただ嗤って良いんだろうか? 理由は何であっても日本人が作法として切腹を幼少よりおおえ実際に腹を切っていたのは事実だし、スペイン人への判断もかつて英国がスペインと激しく覇権争いをしていた時代を思い浮かべれば仕方のないこと。何より米国の黒人奴隷についてえモーティマー夫人は、恥ずべきことであり即刻奴隷は解放すべし、なんて書いている。実に開明的。当時としては奴隷制度に対するネガティブな偏見だったのかもしれないけれど、現代から見ればこれは正しい。

 ようはモーティマー夫人の偏見とやらがどういう理由から生まれたんだってことが重要で、それを突き詰め誤解があるなら正し理解に務めようとする努力の方が、偏見をただ嗤うよりも大事ってこと。ただ嗤っているだけではそれこそ相手に対する偏見だ。偏見をもたれているならどこに原因があるかをまず探ること。逆に他人への偏見は改め謙虚に務めることの大切さって奴を、編者や版元がそう意図していなくてもくみ取ることの方がより前向きで建設的なんじゃなかろーか。だから副題の「可笑しな可笑しな万国ガイド」って言葉にはちょっと反感。嗤っているその態度が嗤われているんだと知れ。でも中華連邦は怠け者ばかりだってのは真実。だって「コードギアス 反逆のルルーシュ」で1番偉いブリタニア皇帝がそう言っている。オール・ハイル・ブリタァァァァァァニアァァ!

 とか言いつつ双子の弟の誕生日で本厄が後厄に変わる人を記念して、自由が丘スイーツフォレストへと行きケーキに囲まれる中をゴージャスな叶美香様にまみえてゴージャスさを眼前にしながら良き日を言祝ぐことにする。ああゴージャス。問題はそれがただの仕事だってことでバンダイナムコゲームスが7月末に発売する「anan監修女ヂカラ緊急アップ!DS」ってゲームソフト発売を記念して、女ヂカラに溢れた叶美香さんがどーやってそのスタイルあのボディを維持しているのかって秘訣を聞く。そうか1日5食も食べるのか。けどどこに消えているのだ? しかし写真で見てもゴージャスな叶美香さなけど実物は立体感がある分さらにゴージャス。それは遠くにあっても富士山は生で見る方が銭湯の壁絵で見るより感動的なのと一緒で、おまけに麓から見上げるよーに見た訳でもうそれは富士山どころかチョモランマ。そびえる戴きの高さにいつか登頂したいと山男の血が騒ぐ。無理だよなあ永遠に。

 悲しくなって来たので仕方がないのでゲームソフトとのコラボレーションということで作られ備長炭入り亀ゼリー挟み込みシュークリームと燕の巣入りマンゴープリンと楊貴妃も好んだライチにシャンパンがたっぷりとはいったゼリーをむさぼり食ってひとりで口の中でぶつぶつとハッピーバースデーを唄う。聞こえるとスイーツの森がいっしょに僕のためにハッピーバースデーと唄っているのが。いよいよ末期。まあ良い本厄が後厄になったところで厄年にゃあ変わりがない。目下の問題であり足場は不安定さを増し、かといって別の足場へと写るための道は狭くて不安定。そこを何とか太くするのが今の喫緊の課題かあ。やっぱり書くか、いろいろと言葉を。ここでこーして書いていたって1文にもならなかったもんなあ。まあ好きだから良いんだけど。来年もきっと同じ嘆きを書いているだろーことに1ゴージャス。


【7月9日】 えっとこれはどこの暗黒「ぱにぽにだっしゅ」でしょうか? 夏の新番組として初めて見た「さよなら絶望先生」は平面の紙芝居どころかしっかりとぐるぐる動き回る絵でもって描かれるあの世界観が、技術の無駄遣いって奴を強く感じさせるけれどもそれがあるからこそ漫画と同じ展開で、ギャグも基本的には漫画に沿ってる内容を認めつつ感じた足りなさを、繰り広げられる動きによって埋めてもらえるって言えそー。声だと木津千里役の井上麻里奈さんが何となく「グレンラガン」のヨーコだったけど、絶望先生の神谷浩史さんはあんまりタタラ・フォロンっぽくなかった。っていうかとっても絶望先生だった。期待の木村カエレは未だ出ず。出たって妙な顔のマークできっちり消されてしまうんだけれど。あれはコード遵守のための緊急避難的な処置なのかそれともDVDでも残るのか。つか誰なんだ、あの髭達磨。

 そして迎えた誕生日前日を、だからといって本厄が後厄に代わるだけでどうということもないと右から左に受け流しつつ「らき☆すた」を見たらエンディングが凄まじかった。それはもうとてつもなく凄まじくって世界中から怨嗟と絶叫が響いて来たけど、まあそれはそれで「らき☆すた」っぽくって京都アニメーションらしくて良かったんじゃないでしょーかと白々しく言ってみる。とりあえず歌は外れてなかった。やっぱり問題は本編かなあ、ショートコントを畳みかけつなげていく展開がここに来て定着して来たけれど、それなりのスピード感はあって楽しめはするものの、ちょっと詰め込みすぎって気がしないでもない。

 止め絵にするとシャギーが出る点が悩ましげなDVDで第1話と2話を見返すと、まったりとした中でも会話に緊張感があって知らず間合いに引きずり込まれていたりして、これはこれでありな演出だんじゃないかって今にして思うけれども時はすでに遅し。監督した人は何が理由か分からないままお空のお星様になってしまって、次いだ人が今はもう全力で大暴走をしてくれえちゃっている。問題はその暴走っぷりが自分の趣味とは合わないことか、アニメ店長の多様とか。でも一般には評判悪くなさそーだし、スポンサー的にもやっぱりスピード感のあるギャグ炸裂な展開が好ましかったって印象。だからこそ続く監督が降ろされるってこともない。でもやっぱり初期の会話が淡々としつつピリピリとしながら進む奴が好きだった。機会があったら全編を山本寛さんによる緊張まったりバージョンなシリーズなり、OVAを作って欲しいもの。2時間とかあのペースで続いたら見終わった時に不思議な感動をきっと得られるんじゃなかろーか。

 さらに「ナギの使い魔」……じゃない「ゼロの使い魔 双月の騎士」だけど、いつルイズが「私の使い魔にならないか?」ってしゃべり出すんじゃないかとちょっと心配になって来た。他にもいろんな声を出せる釘宮理恵さんなんだけどこの2つに関してはだいたいが同じだもんなー。「灼眼のシャナ」はもーちょっと違ってた感じが。「シャナ」の第2期が「ゼロ」には重ならなくってとりあえずは良かった。オープニングの歌は全作の方が好きだけれどもまあ慣れる。お話の方は原作をちょっと忘れているんでどこまで進むのか、でもって何が起こるのかが不明。読み返してみるか。

 ところで才人はタバサのいったいどこにエロスを感じて仮面を光らせたんだろー? 女王様でもキュルケでも分かりやすいところが出っ張っていたから光って当然だし、おみ足の綺麗だったモンモランシーでもオッケーなのは理解できるんだけど、服装も顔立ちもスタイルもそろいも揃って地味なタバサじゃあなあ。それとあの眼鏡か。やっぱり眼鏡が良いのか才人。だったらルイズにも眼鏡をかけさせろ。んでもって間をおいて始まった「もえたん」をちらっとだけ見る。キャラの土手の描きっぷりは感動ものだったけど、それだけで毎週見る程のマニアじゃあない。もっとドラマを。お話を。「コードギアス 反逆のルルーシュ」みたく来週が見たくてたまらなくなる物語を。

 それだったら「ヒロイック・エイジ」がある? でも時々時間が移動するんで最近は録画が面倒になってあんまり見てないんだよね。だから今宵も放っておいてテニスの「全英オープン」の男子決勝をリアルタイムで視聴。そーいやセンターコートのはずなのに屋根じゃなくって空が見えるよなあ、青い空にどろどろと浮かぶ雲が英国っぽいよなあって思って調べたら、開閉式の屋根を着けるために今は古い屋根が取り外されているんだとか。雨の多いシーズンだけに観客としては迷惑かもしれないけれども、雰囲気としてはあの透ける空の感じにスタンドの濃い緑にコートの鮮やかな緑って調和が目に美麗。いっそこのまま屋根なんて作らず、雨が降ったら即中断で観客は合羽持参を申しつけつつ、ずっとあの景色の中でやってくれた方が伝統のウィンブルドンぽさも際だつんじゃなかろーか。スポーツは屋外で晴天時に。それは野球も同じ。とか言いつつ「国立霞ヶ丘競技場」はバックスタンドも含めてとっとと屋根を着けて欲しいと切なる願い。サッカー好きのわがままです。

 それにしてもボルグ以来の5連覇とはロジャー・フェデラー凄い奴。記憶を探るとボルグvsマッケンローでボルグが5連覇を達成した翌年に、マッケンローがボルグの6連覇を阻んだ試合を確かテレビで見ていて、感動にむせぶマッケンローの姿にぐっと来たんだっけ、確か1981年。ちょうど「POPEYE」を読み始めた時期で、ウェアなんかも含めてテニスも結構特集されていて、そこでボルグとマッケンローのことをより強く知ったんだった。前年の5連覇がそこでは偉業として語られていて、だからこそマッケンローの優勝はより凄さをもって迫ってきた。あれからそうか26年か。歳を取ったもんだよ。とか言いつつ会場に来ていたボルグは相変わらずの格好良さ。当時はまだ25歳くらいだったけど、その頃からつまりは老け顔だったんだよなー、ボルグって。ちなみにマッケンローは当時から入っていた剃り込みが今もとりたてて大きくはなっておらず。老け顔の選手こそが強いのか、男子テニスって。

 なるほど確かにその意味じゃあ、5連覇を達成したフェデラーもこれでなかなかの老け顔で、無精ひげがもわっとした顎とかの雰囲気だけならとっくに30歳を超えていたって不思議じゃない。けどまだ25歳。でもってすでに5連覇。なおかつ圧倒的な強さでライバルもなかなかいなさそー。確かに2年連続でナダルがウィンブルドンでは決勝に上がってきたけれど、第4セットをナダルが6−2で取ってこのまま行くかと思いきや、第5セットはフェデラーが6−2で奪い返してそのままゲームセット。追い込まれながらもそれを軽々と跳ね返す精神力の強さを見るにつけ、でもって追いつめながらも跳ね返されたナダルの弱さを見るにつけ、クレーコートの全仏オープンをのぞけばフェデラーの天下がまだしばらくは続くことになりそー。ナダルはだから次の全米で何としてでもフェデラーを破る必要があるけれども、さてはてどーなることか。新星がそれとも生まれるか。見物だねえ。見たいねえ。

  桜庭一樹さんのサイン会に行ったついでに「ジュンク堂」で表紙を見てピンと来て駆買ったもりもと崇さんって人の「鳴渡雷神於新全伝」(小池書院)って漫画がもうむちゃくちゃ面白かった。2巻まで出ていたことに気付かなかった不明はあるけれども、時代劇が中心の「刃」なんて雑誌に連載されていちゃあオタクな人は気付かない。もうおそらくは一生だって気付かないところを、表紙の絵ってゆー面でもって見せてアピールできるリアルな書店はやっぱり凄いなと改めて感心。

 終身刑で収容されていた監獄を逃げ出した身の丈6尺はありそうな美女の「雷神お新」が、明治維新からもうしばらく経って自由民権運動なんかが動き始めた日本の大阪とか神戸あたりに出没しては、時には和装、時には洋装でもって暴れ回るって話がメイン。もっとも主役を張っているのはゴシップなんかを主に掲載する新聞社で、記者見習みたいな仕事をしている専三って青年で、取材に言った先で知り合うことになった、かつて宮中で働いていながら辞めて女権拡張運動を始めた岸田俊子って女性とか、板垣退助とか「オッペケペー節」の川上音二郎なんかと絡む中をお新が現れ、あるいはお新がそうした人物を巻き込んでは事件を起こすストーリーになている。

 口よりも手と体が先に出る暴れん坊のお新と、演説によって女権拡張を目指す岸田俊子って女性が、生真面目な専三って青年を間に挟んで対峙している構図ってのも興味深いけれども、朴念仁なのかそーした方へとはあんまり流れず、お新の暴れっぷりの壮絶さと、出会う男どもを引っ張り込んで絡め取る艶っぽさが凄まじく描かれていて、読み人を心底より見惚れさせる。明治の女は誰もが格好良かったんだよなあ。専三にはあと勝手に髪を切ってしまうくらいにお転婆で、それが原因で学習院を追い出されて親戚のいる大阪に今は暮らす華族の少女が絡んだりして、朴念仁の癖にどーしてそんなに持てるのかと妬み嫉みの気持ちがムラムラ。そんな人情の機微が描かれ、移り変わる時代が描かれている感じは、江戸を舞台にして市井の人たちの生き様を、独特のタッチで描いた杉浦日向子さんをちょっと伺わせるところがあり。お気に入りの漫画家だっただけに、同じくらいの活躍がもりもと崇さんにも期待できるってことだと信じたい。ともかく圧巻の明治女傑列伝。読まずして2007年は語れない。


【7月8日】 世代によっては江田島平八とかいったあたりを思い浮かべるんだろーけど、僕の世代はやっぱり伊吹一番か、島本和彦さんの「炎の転校生」に出てきたラスボスで「裏の教育委員会」の委員長で滝沢昇を追い回していた自称ライバルの伊吹三郎の生き別れになったお父さん。とにかく巨大で強くって、褐色に日焼けした上半身を何も着ないでさらしながら、滝沢昇の攻撃を小指であしらうよーな戦いぶりを見せつけた姿はまるでロージェノム。シモンとロシウが操るグレンラガンの攻撃を爪の先っぽではじき飛ばし、分離したラガンの攻撃にはガンメンを降りて生身になって拳を振り上げ立ち向かう。

 だいたいが小さいとは言えラガンくらいのサイズを良がするその長身ぶりはまるでラオウかやっぱり伊吹一番か。そこでお互いに視力の限りを尽くして拳をぶつけあった後、理解し合ってともに新たな的へと立ち向かうよーになれれば良かったんだけれどそこは何か信念を持って人類を地下へと追いやり“守って”来たとゆー自負を持ったロージェノム。人口が100万人を超えて地表へと溢れ出したら月から何かが訪れ人類に襲いかかると予言してえテッペリンの屋上より身を投じて消えていく。体に大穴が開いても喋っていられるところが人間っぽさを超えていたけど、1000年とか生きてるって言っていたからその間、体を調整し人類が地上に溢れて滅ぼされないよー獣人を作って頑張って来たんだろー。

 想像するなら地上が汚染され人が住めなくなって月へと退いた人類の名代として地表に送り込まれた管理者か、あるいはシモンやカミナと同様に地下より地上へと上がり支配していた存在を月へと押し上げたもののそこで真相を知り管理者の道を選んだか。まあその辺はいずれ遠からず明らかになるんだろー。そしてシモンたちに決断を迫る、と。同じ道を歩むのかそれとも。宇宙に巨大な戦艦を駆って出ていた冒頭からはおとなしく地表に止まっているよーには見えなかったから、どこまでもどこまでも突っ走って行くんだろー。それがグレンラガン。それこそがグレンラガン。

 ここで話は天下ゴメンの「総集片」を経て7年後へと飛ぶ模様。平べったかったニアのボディもすっかりでこぼこして来るみたいだしシモンも凛々しくなるしロシウは鬱陶しさをデコの輝きとともに増すみたいだけれど、今月発売のアニメ雑誌に出ているそんなキャラクター表に混じって描かれているヨーコはあんまり変わってない。衣装はずっとあのまあんま。でもって容色も。でもニアだってあんなになってしまうのに初登場時でまあそれなりな歳だった(幾つだろー、16歳くらい?)が7年経ってもそのまんまってのはなかなかに無理があるよなー。まあその頃から完成されていたってことなのかな、アップになると口元とかに皺が描かれていたりするのかな。カミナ亡き後でニア登場以来、すっかり薄くなった影を果たしてどー取り戻すのか。お約束なら敵に寝返る成り捕まって洗脳されて向かって来る、ってところかな。エルチ・カーゴ式。

 んで池袋へと回って桜庭一樹さんのサイン会。直前に地下鉄丸の内線の池袋駅からパルコへと向かう地下通路にあるスナックでどっぷりとタレに浸って甘く柔らかく煮込まれたすじ肉が特徴的な牛丼を描き込み(大盛りで500円だ!)それからアニメイトへと回っていろいろ見物。知らないうちに出ていた「コードギアス 反逆のルルーシュ」のポストカードの自販機があってなおかつここん家は男性キャラと女性キャラに機械を分ける親切設置。男子に配慮したってよりは大勢集まる婦女子に対して女性キャラクターばかりが出たときの反動にあらかじめ配慮したって言えそうで、だったらそれをポスター自販機でもやって欲しかったと秋葉原のアニメイトに向かって吠える。未だに生徒会メンバーの揃ったポスターだけが出ないのだ。

 んでポストカードの自販機は2枚がセットになって台紙に挟み込まれてあってポスターよりもハンドリングがよさそうな点が嬉しい逸品。絵柄は描きおろしじゃなくってアニメから抜いたものみたいだけれどそれでも女子伽rだから嬉しい。1番欲しかったのは当然にしてコーネリア様なんだけれど7回挑んで出たのはC.C.のピザ食ってチーズくんを抱えた絵とナナリーとミレイとユーフェミアとヴィレッタ&千草とカレンでカレンはだぶり。そこで流石に止めたけれどもいずれコーネリア様が出るまでは挑むぞ。ほかにあったのはシャーリーとセシルとC.C.の別バージョンくらいだったっけ、ラクシャータもあれば嬉しかったんだけどなあ。

 んでサイン会へと回って整理券の番号順に順繰りに行われていくのを観察。見知った顔が大勢集まるかと思ったけれどもブックフェアに言っているのかカラオケ疲れで寝ているのか見あたらず、小浜さんが冒頭いにてあとはたぶん東京創元社の眼鏡っ娘な編集の人だったっけ、それがツインでいて行列に並んでサインをもらっていたけどすでにして100人を超える行列ができるくらいの人気なんだからサクラって訳じゃなく、サインが欲しかったってことなんだろー、立体シールを貼ってもらったり小冊子をくれたりするから、普通に挨拶するよりは断然にお得。だいたいが取材とかで作家と話したって面と向かってサイン欲しいとは言えないもので、そーした仕事を離れた場所で堂々とサインをもらうにはやっぱりサイン会って場に行くしかないってことなんだろー。

 んで1時間ほどで回ってきた順番でサインを戴き漢字の方の名前を入れてもらってそそくさと退散。気付かれなかったああ良かった。ジュンク堂池袋本店へと寄りいろいろと仕込み8月11日に行われる古川日出男さんとめった斬りツインズすなわち大森望さんと豊崎由美さんによる「古川日出男メッタ斬り」のトークショーの予約をする。このメンバーでこの内容ならきっとすぐにでも満杯になるんで気になった人はお早めに。その前々日には佐藤亜紀さんと中俣暁生さんによる「ミノタアウロス」について話すトークショーも開かれるみたいだけどこっちは平日ってこともあるんで保留。2人の顔合わせはこれまであんまり見たことがなくってちょっと興味があるけど、さてどーするか。


【7月7日】 フィーバーな日。七夕な日。織り姫と彦星がいちゃいちゃする人。ああ羨ましい。それはそれとしてサイン会に備えて桜庭一樹さんの「青年のための読書クラブ」(新潮社)を読んだら軽く傑作だった。とある学園に営々と伝わる読書クラブに集う少女たちを主人公にした連作短編集で、100何年も前のフランスから2019年の近未来までを幾つかのエピソードに割って、時代時代の雰囲気を混ぜつつ描いている点は「赤朽葉家」とそれから「ブルースカイ」(早川書房)にも共通する構成って言えそう。こーゆーのが好きなのかな。

 伝奇っぽく少女3代を扱った「赤朽葉家の伝説」(東京創元社)よりもメタっぽく少女を構築してあるって印象。社会とリアルに結びついた人たちを描いてあった分、記録を羅列したっぽい背景の描き方がどうにも書き割りっぽくなってしまって、時代に生きた記憶を持つ人たちに薄っぺらさを感じさせてしまった「赤朽葉家」に比べると、「青年のための読書クラブ」は時代性よりも少女という存在を描く方に重点が置かれている分、背景は書き割りっぽくって構わないというか、むしろその方が時々によって変わる少女って存在を、くっきりと際だたせる感じがあって好ましい。

 とあるお嬢様学園にあってみそっかす扱いのアウトローばかりが集まっている読書クラブが舞台になって描かれる様々な時代のエピソード。まずは関西から来た美少女がその出自の庶民っぴりから忌避されつまはじきにされたどり着いた読書クラブで、部長をしていた傑女のプロデュースによって不良性を持った王子様的キャラへと生まれ変わり、学園に制度として伝わる王子の座すら射止めて学園の女生徒達を興奮させるんだけれどそこは庶民の出だけあって居着かず遁走、そして記録から抹消されるとゆーお話に本が絡んで少女の翻弄され易さや残酷さが浮かび上がる。

 学園を作って慕われながらもある時こつ然と姿を消してしまった尼さんがフランスでどんな過去を背負って日本に来たのかを描いた短編があったり、バブルの時代にスカートを短くして派手なジュリ扇を持って学園に来た外部からの進学者たちがのし上がろうとして果たせず、読書クラブにかくまわれながらも己を貫き通した短編があったりと、それぞれの時代に生きるそれぞれの少女たちの感性って奴が描かれてあって面白い。東大闘争だの禅共闘だんといった時代を背景にしたエピソードもあって、なるほどそんな時代もあったもんだと記憶を刺激される。

 重ねるけれども「赤朽葉」と違うのはそれら時代を感じさせるエピソードはあくまで時代の象徴でしかなく上で踊る少女たちを際だたせるフレームに過ぎないってところか。感性が変わっていって現代からちょい未来へと話が進んでいっても少女はそれぞれの時代の少女であり続け、そしておそらくは永遠に少女であり続けるんだろー、本とともに。ペダンティックに言葉を弄するあたりは小林恭二さん的とも、奥泉光さん的とも視てとれそーな書きっぷり。だから今回「赤朽葉家」で直木賞にノミネートされているけど、やっぱり文学を感じさせる短編群の方で芥川賞を獲得すべき人なんじゃなかろーか、桜庭一樹さんって作家は。それとも日本SF大賞? 資格は十分、だって2019年を扱っているんだから。

 ゴーレムな人たちについていかないで帰って早寝して早起きしたのは午前9時にゆうこりんに会うためで、午前8時半には到着した原宿にバンダイがオープンする「ちゃおスタイル原宿本店」の取材に駆けつけたら店頭では整理券をもらいに立ち寄るちゃおらー(?)が三々五々と来ては時間をどこかで潰すために散っていく。何時の間にそんなに人気になったんだろ「ちゃお」。90年代だったら「セーラームーン」で「なかよし」が圧倒的だったしそれ以前は「りぼん」がやっぱり人気だった記憶があって、「ちゃお」はどちらかとゆーと脇役だった印象。「なかよし」に「りぼん」の単行本は買ったことがある僕でも「ちゃお」のだけは手にしたことがなかったんだけれど、最近じゃあ「きらりんレボリューション」なんかがアニメになって大人気。そんな勢いもあって少女たちの間じゃあおそらくナンバーワンの少女漫画誌になっている。

 「ちゃおスタイル」の面白いのところはそんな人気漫画誌の人気キャラクターを使ったグッズを売るブランドじゃないって点で、「ちゃお」の漫画の舞台になっているよーな学校とか街とかで使われていたりしそーな女の子たちのファッションやグッズってものを具現化させたブランドって感じで、色彩とかデザインなんかを視るとなるほど普通に街で売られているファンシーな衣装やグッズと大きな差はないから、キャラクター人気を気にすることなく持ったり着たりできる。そこんところがきっと受けてる理由なんだろー。

 あとこのショップに関しては八神千歳さんって漫画家の人のデザインしたバッグを買った人には先着100人でサインをしてもらえたってイベントがあったみたい。それも行列ができた理由か。さすがに2日前からシュラフを持ち込み店の前で寝泊まりするよーなファンはいなかったけど、早々と整理券をゲットし開店前に来店しては前に並んで開店と同時に、やや世代的にちゃおらー(って言葉はあるのか?)よりは上っぽい人たちが突入して来たところを視ると八神さん、女の子たちには人気の漫画家さんなんだろー。ひとつ勉強になりました。。

 そんなお店のVIPとして登場したゆうこりんこと小倉優子さんはクローバーが描かれたTシャツを着て登場してはにこにこにこにこといつものゆうこりん。恋愛騒動を巡るリポーターとの闘争もそろそろ双方に飽きが来ていたみたいで、無理矢理に聞く人もいなかったけれどもショップにあるグッズについて「よいこに着てもらいですか?」と聞かれた時には一瞬ひやり。でも分かっていたのかそれとも気付かないふりをしていたのか、本当に気付かなかったのかゆうこりん、さらりと「よいこに着てもらいたいです」って答えたところはなかなかにスリリングだった。「そうですね」じゃなく「よいこに」って言葉を含めたあたりが分かってるっぽかったんだけれど、真実はゆうこりんだけが知ってる。しかし相変わらず細かったなあ、薄かったなあ、顔小さかったなあ。ところで小さいころから「ちゃお」が好きだって言っていたけど、「こりん星」にも「ちゃお」ってあるのかな? あるんだきっと。千葉県こりん星字こりん。

 「私は、ここにいる」って言われたってなあ、「朝日新聞」だけじゃあ読んでいる人が限られるんだよなあ、「涼宮ハルヒの憂鬱」の二期決定って広告。せっかく一所懸命にオタクな記事とか書いて来ているのに、こーゆー所で広告が外されると天下の読売新聞にも忸怩たるものがるんじゃなかろーか。うちに関してはまあ部数がね、読売の数百分の1だから出してもらえなくたって仕方がないんだけれど、朝日よりも部数的に多い読売が外されたってのは何だろー、ハイブロウで反体制的な内容を好むハルヒのファンはそれだけ朝日に多いって出稿元の判断なのか。

 だとしたら産経はさらに無理だよ体制側を徹底して支える実直で前向きな人たちが書くまるで二人三脚のよーな記事を三人四脚に加わるかのごとくに併走して読む読者に支えられているんだから、あんな反体制で革命的な「ハルヒ」の広告が載るはずがない。同じ理屈でいうなら「コードギアス 反逆のルルーシュ」の二期決定って広告があっても、一所懸命になってPRに務めたうちは部数的な意味から外され、産経も親米ってスタンスが反米っぽさを持った内容の宣伝には向かないとやっぱり外されて、反逆な朝日とあと北海道新聞あたりに広告が載ったりするんだろーな。しかしやっぱりこーゆー所で朝日ってのは底力があるんだよなあ、書籍広告にしてもやっぱり、朝日が、一番、ってか。

【7月6日】 えっと「サイレントヒル」? 最初のうちこそFLASHアニメにも劣る動かなさで視る人たちを悶絶させていた「怪物王女」だったけれどもスケジュールが真っ当になって来たのかここん所は割と絵も安定して、お話もゆったりのんびりまったりぼんやりとしつつ不思議とまとまった感じに仕上がっている。視る方が慣れただけ? それもあるけど原作をまるで読んでなかった人間にとってはアニメーションがスタンダード。そこで繰り返されてきた作法やリズムがすっかあり体にとけ込んだってことになるんだろー。んで事故った姫と浩とフランちゃんが訪ねた村には誰もおらず掲示板に写真が貼られ、また貼られて前に貼られていた者には罰点が着けられ殺されたって新聞記事が添えられる。

 ちょっと目を離すと掲示板に別の写真が貼られ罰点が着けられた写真が増えていく、その演出は「かしらかしら」な頃の「少女革命ウテナ」っぽさがあってちょっと懐かしい。んでもって結構やっぱりギクっと来る。あそこでリアルに鎌を振り回すピラミッド男、ならぬ袋男を見せてしまうんじゃなくって何も見せないまま姫や浩を追いつめていく感じがあればスリルは増したけれども地味になってしまうから仕方がない。脚を捻挫した姫が自分で治療する場面はストッキングを脱いで白くむき出しになった脚が美麗。でもってそんな姫を背負い歩く浩が何とも羨ましい。背中に山と突起が。手に太股が。腰に下腹部が。僕も家来にして下さい。

 鯨が空を飛んでいるのを見たことがない。当たり前だ。鯨は海に泳いでいるもので、その姿だってイルカとかと違って滅多なことでは拝めやしない。黒潮が流れる小笠原諸島とか、オキアミがいっぱい集まる氷の海とかにいってやっと泳いでいる鯨が時折水面上に頭をのぞかせては、盛大に汐を吹き上げる様を見られるくらいでそれすらも、本格的に探してようやくっていったところが関の山。いくら海に鯨が増えたからって海はとてつもなく広い。鯨でいっぱいになるなんてことはたぶん地球が滅びる時になったってありはしない。

 ましてや空だ。空に鯨は住めはしない。だいたいが重たい鯨が空中を泳ぐはずがない。だから明神町の上空を飛ぶ鯨は幻だ。10年前。大震災が起こって1000人近くが死亡した時、どんな時空のひずみが生まれたのかは分からないけど鯨が空に現れるようになった。幻の鯨が。飛行機が飛んでも鯨にはぶつからない。悠然と泳いで鯨はどこかへと消えていく。ただひとつ。吹いた汐だけは空中に広がって地表に降り注ぐ。10年前の震災では、現れた鯨が汐を吹いて波を起こして降らせたことで町を焼いていた炎が消えた。だから鯨は恩人かもしれない。けれども鯨が現れたから地震を起こしたという見方も出来る。どちらなんだろう? いずれにしても人は大震災の記憶とともに鯨を記憶している。だから鯨が現れた時に、モーツァルトを鳴らして鯨の訪れを知らせようとする青年の行動を良く思わない。

 女子中学生の真琴は違って鯨が大好き。現れれば空を見上げ、空が見えない時でもモーツァルトが聞こえてくれば天井を空かして空を感じようとする。ついにはモーツァルトを鳴らす鈴村康平の家を訪ねて話を聞き、モーツァルトに批判的な人たちが投げ捨てていくゴミを片づけ庭を綺麗にしようと申し出た、そこに現れたのが同級生の鈴村洋助。聞けば康平の弟なんだけど優しい康平と違って洋助は真琴には妙に厳しく当たる。何でだろう? それは大好きな兄がモーツァルトのことで嫌われていることが悲しく、それを思い出させる真琴の前向きさが鬱陶しかったからのかもしれない。一方で真琴の素直さに何かを感じ、いろいろあったその後は一緒に掃除をして、一緒に出かける仲になる。鯨が取り持った縁、とでも言うのかな。

 日比生典成さんの「海をみあげて」(電撃文庫、587円)はだから空に現れる鯨の謎を探る話でもないし、ましてや鯨を相手に自衛軍を編成して対峙に望むって話じゃない。鯨はきっかけ。人が何かを取り戻すための。町に放たれた火が燃えさかる時、現れた鯨の噴く汐の有り難さを知り10年前の鯨の功績を思い出して町の人たちは自ら動こうとする。町を飛び立ちアメリカへと気球で向かおうとする女性の冒険を応援し、そして真琴の彼氏が米国に留学しようとして憤る真琴の心を静めて前へと向かう力を与える。鯨はきっかけ。鯨はシンボル。復興の。そして前進の。

 気持ちから言えばもうちょっとだけ、例えば時空のひずみが空に鯨を映しているだけとか、悲惨さに直面した人の想いが生み出した存在だとかいった鯨の存在する理由めいたものが欲しかった気もするし、残酷めいた話へと向かうけれども主人公たちが暮らしている町は、震災で燃え尽きてしまった町とそこに暮らしていた人たちの想いを飲み込んだ異次元鯨の見る夢のようなもので、それ故にそこで取られた写真には誰も写らず映像にすら記録できないんだ、といった設定があっても興味深い話になったかもしれないけれど、それだと余りに残酷過ぎる。だからこれはこれで良い。

 空を飛ぶ鯨。空の海を泳ぐ鯨によってもたらされる前向きの心を、ここは大事にしたい。それにしても電撃文庫は時々こーゆー、ファンタジックでメルヘンチックな話があるから油断できない。この懐の深さがレーベルでもトップを行く存在感につながっているんだろーなー。キャラだ萌えだと叫んで狭いユーザー層にピンポイントで送り込もうとする余裕のなさは明日を妨げるぞ。どことは言わないけれど。っていうかどこでもか。

 それにしても人はどうして鯨が好き、なんだろう? 可愛いから? いやいや、あの巨大さを可愛いだなんて思うのは筋が違う。どうしてどうして、大きいからこそ可愛いんだって声もある。なるほどもしも像が馬くらいのサイズだったらあんなに動物園の人気者にはならなかっただろう。大きさは大事だ。でもってあんな大きなものが海を悠然として泳いでいる。そこに何だかロマンを感じるのかもしれない。昔は違った。とりわけ鯨を捕っている人たちに取ってあれは獣だ、猛獣だ。銛を打ち込んで暴れられれば船がひっくり返され乗組員は皆死んでしまう。怒った鯨の襲来によってつぶれた村の話もある。攻撃すれば反撃する。怒らせれば罰を食らう。畏るべき存在として鯨はみなされあがめられて来た。

 でも今は鯨を捕ることがなくなった。鯨を捕ってまで食べる必要がなくなった。頭がいいとか可愛いとか数が少ないから捕らなくなったんだ、なんて理由はどっちでもいい。ようするに捕らなくたって大丈夫なくらい僕たちの食糧事情が豊かになった。だから鯨と戦わなくてもよくなって、結果として鯨に殺される人もいなくなって鯨は畏敬すべき存在から、敬愛すべき存在へと変わっていった。それがだいたい30年くらい前? そうかもなあ、まだ10歳くらいの時には鯨の肉を普通に家で焼いて食べていたもんなあ。ともあれ鯨は敬愛の対象となった。もしもここで誰も見たことのない巨大な鯨が現れて、人間を襲い船を襲い世界を脅かすようになっても、人は鯨を愛し続けるんだろうか。それともどこかの人たちのように頭がいい、可愛いといって無抵抗を決め込むんだろうか。ちょっと興味深い。だから現れて欲しいよなあ、鯨の王に。

 メトロン星人とペガッサ星人とガッツ星人にどれがいちばん人気があるか。エレキングとウィンダムとギエロン星獣ではどれが1番人気者か。キングジョーとウルトラホーク1号とポインターではどれが1番メカとして格好良いか、なんて投票の結果を発表するイベントがあったんで世田谷の「東宝ビルト」まで猛暑の仲を成城学園駅からえっちらおっちら歩いてたどり着く。そうか砧の撮影所とは別の場所にあったのか。そこがウルトラシリーズとどーゆー謂われを持ったスタジオなのかは知らないけれども、丘に張り付くように立てられたスタジオはどれもがなかなかに伝統的。そのてっぺんにあるスタジオに入って待つことしばらく、現れた宇宙人や怪獣やメカの中から1番人気が発表されていく様を見て、なるほどやっぱりって感慨を抱く。どれも妥当にして納得の結果。7月末くらいに「ファミリー劇場」で番組として放送されるんで、どれがどうかはそれを見ろ。とりあえずスペル星人は入っていなかった。もはや誰も知らないよなあ、見られないんだから知りようがないし、知っていてもメトロンペガッサボークガッツチブル等々にはやっぱりかなわないよなあ。

 神保町へと回って「コミック高岡」で早売りの「ニュータイプ」と「アニメージュ」を買って両方とも付録の小冊子が「コードギアス 反逆のルルーシュ」だったけれども24話と25話の放映日については何か書いてあるって感じがしなかった。でももう7月だ。夏だ。いったい何時なんだ。9月も夏だと言い張るつもりか。うーむ。往復はがきはいつ返ってくるんだ? んでもって三省堂神田本店でアルフレッド・ベスター「ゴーレム100」のトークショー、だけど柳下毅一郎さんも滝本誠さんもとりあえず本には関わっていない人たちで若干謎。でもそれぞれがやっぱり詳しくって面白い。滝本さんが幻の雑誌で訳出していた何かとか、「クロワッサン」でSFのコラムを勝手に書いていた話とか。編集者の癖に電話をかけるのが苦手って気持ち、実に良く分かります。僕も苦手です。とっても苦手です。それで勤まるのかブンヤの仕事? だから辞めたいブンヤの仕事。ひきこもりで人見知りで自意識過剰なオタクにゃ向いてないんだよなあ、そもそもが人と会う仕事なんて。


【7月5日】 キングレコード系のアニメが流れている合間に出てくる「魔法少年ネギま!」のあれはたぶんCD版の方だったけれど3月くらいに「パシフィコ横浜」で行われたライブの収録盤を宣伝する映像で、ラインダンスよろしく並んだ出演声優たちが声をそろえ手を振り上げて唄う「ハッピー☆マテリアル」のシーンが妙に目に焼き付いていて、それを見るためだけに出たばかりのこっちはDVD盤の「ネギま!? PRINCESS FESTIVAL」を買って真っ先にやっぱり「ハピマテ」の部分だけを見る。そのまま「1000%SPARKING」も見てあとはそれを10回ばかり繰り返す。良いものだ。これはとてつもなく良いものだ。

 15秒くらいのCMでも目に焼き付いた、型こそ人それぞれながらもホワイトに統一された衣装でもって踊る出演声優たちの女の子らしいラインがムーブする様がまず凄い。でもってそれが26人ずらりと並んで繰り広げられるビジュアルが凄い、凄い、凄すぎる。とりわけグラビアでも活躍していたらしー井上ナオミさんが流石なところを見せてくれていて、大きく開いた襟ぐりからのぞくそれはもう立派にして深い起伏が真夜中に眠い目を軽く粉砕してくれる。最前列で見たらさらに凄かっただろーなー。お辞儀した時とか。

 アニメの方は最初のバージョンも夕方に移った次のバージョンのあんまり好みではなくって見ておらず、キャラは漫画で見知っていても声が誰とは知らなかったんだけれど、最後にラインで並んで自己紹介していくシーンにほっちゃん堀江由衣さんとか、赤ロリの小林ゆさんとか見目麗しさ飛び抜けていた野中藍さんとか垂直方向に飛び抜けていた渡辺明乃さんとかいった僕でも知ってる大きな名前が結構出ていて、それだけのバリューを本来的には持っていた作品だったんだってことを改めて知る。これで作品のクオリティさえ素晴らしかったらなあ。「ハルヒ」より先にムーブメントを広げられたかもしれないのになあ。

 まあ良いそれは次の実写版でムーブメントの再燃を狙おう、ってそれじゃあ声優ファンでアニメのファンには意味ないんだけど。でもちょっと凄い番組になるかも。12歳と24歳が同じクラスメートになるんだから。それにしてもエヴァンジェリン。この娘のどこがエヴァンジェリン。ほかにもいろいろ言いたいことがある人とかいそーだけれどもまあそこはそれ、「半分の月がのぼる空」だって石田未来さんで結構、秋庭里香な感じが味わえた訳だし。それはやっぱり生が持つ生ならではの生々しさが伝わってくるってことで。エヴァンジェリンもあの生々しさでアンダーウェアな姿を見せてくれたらもうクラクラ。見せてくれるかな。

 んで「アイドルマスター XENOGLOSSIA」はでこちゃんがネーブラを操り宇宙に行ったらそこでネーブラに取り付けられたダミーシステム(違う)が作動しそれを嫌がったネーブラが固まってしまう危機一髪。けどかつて見上げた空にそびえるネーブラにアイドルとなるんだって決めたでこちゃんはネーブラから記憶が消えることを許さず宇宙へと出てアイドルよろしく拳を振り上げダミーシステム(だから違うって)のエントリープラグ(でもない)を殴り吹き飛ばす。骨折れちゃった。次に出動があった時はどーするんだろー。根性? ありそーだし、彼女、デコ広いし。

 一方の前パイロットだった真琴はトゥリアビータに先週現れたんだけどその後はどーなったのやら。核を確保したヒエムスのパイロットに収まるのかそれとも。モンデンキントにも本部から良からぬちょっかいが入っていろいろと大変そう。だけどアイドルはアイドルマスターが操縦してなんぼって所はとりあえず見せつけてパイロットも決まりいよいよ奪い合いかそれとも消えたテンペスターズも含めた5体が揃って何かの扉を開くのか。って何の扉なんだろう? 地球防衛隊ではない組織の謎にアイドルの秘密を追って後半戦は進む。高槻やよいはいつまで着ぐるみアイドルを続けるんだろう?

まほろさん、って呼んで良いですか?  起き出して「東京国際ブックフェア」。いつもながらの壮絶な大人数によるテープカットを見た後中をうろうろ。角川グループのブースでとてもとても偉い人をお見かけして近寄り「コードギアス 反逆のルルーシュ」の先行上映会の入場権を私にもお与えを、跪いてお願いしたくなったけれども無礼打ちに会うと思い直して退散。んでボイジャーに入ったら「アンドロイドは電子活字の夢を見るか?」ってプリントされたTシャツを着ている人たちがいっぱいいた。ディックファンか。英文も入ってた。エレクトリック・シープじゃなくってエレクトリック・パブリッシング。なあるほど。そのまま学研のブースへと回ったら茶運び人形がいてその横にボークスによってティーポットをトレーで運ぶメイドさんやツインテールのお稚児さんっぽく魔改造されたバージョンも2体展示されててなかなかの可愛さ。仏頂面した人形よりもどうせ運んでもらえるならメイドさんの方が良いよねえ。改造キット売ってくれないかなあ。女性向けには執事バージョンとか作らないのかな。

 それより驚いたのがリニアモーターカーの登場。学研のブースの脇でなにやら動くものがあって見るとそれが磁石で浮いて電磁石で推進するれっきとしたリニアモーターカー。乗るとちゃんと浮かんだ感じになってて押されもしないですいーっと前へと進んでいく。下にタイヤなんて付いてないからご安心。それが証拠に外国人が2人乗ったら重くて前に進まなかった。指を挟んでみれば浮いていることがちゃんと分かる。すっげえなあ。何でも中部電力あたりの協力を得て作ったものらしくって、子供たちをあいてにしたワークショップなんかで出展してはコイルを巻いてもらいながら乗せていたりするとか。でも聞いたことがなかった。中部だから関東ではあんまりお披露目はしてなかったのかな。だとしたらなかなかに貴重な機会。土日は一般公開日で混みそうなんでメディア系の人はいくなら金曜日がチャンスだ。人文書の2割引セールとか外国の本の特価セールなんかもありまーす。あとサイン会とか。三浦しをんさんとか来場するみたいだけど、行けるかな? ああでもその時間は桜庭一樹さんのサイン会だ。残念。

 三浦さんに桜庭さんといえば去年の同じ時期の直木賞を三浦さんがとってそして今年は桜庭さんが「赤朽葉家の伝説」でノミネート。なおかつ三浦さんと同じボイルドエッグズからは万城目学さんが「鹿男あをによし」で2冊目にして初ノミネートと近年にない若返りっぷりを見せてて発表が今から楽しみ。まあ本命は北村薫さんであとは畑中恵さんに松井今朝子さんだろーけれど、読書好きな人からの評判の良さを考えると「鹿男」がいきななりの受賞、なんてことはやっぱりないか。畠中恵さんだろーなー。芥川賞は円城塔さんも入っているけどおとなしく”常連”の柴崎有香さんに松井雪子さんって当たりに収まるかな。円城塔さんはお膝元の「文学界」掲載って点がアドバンテージか。これで直木が万城目さんで芥川が円城さんならSF&伝奇&ファンタジーはいよいよ夏の到来ってことか。かといって別に仕事が増える訳じゃあねえけど。


【7月4日】 さらに続けて回しまくった「涼宮ハルヒの憂鬱」のガチャポンは朝倉涼子のナイフ付きが出てナイフなしも出て涼子コンプリート。あと長門有希も出たけどこっちは前にも見た眼鏡なしバージョンで未だコンプリートには至らず。そーこーしているうちに地下鉄半蔵門線大手町駅そばのガチャポン村の「ハルヒ」はそろそろ底を突きかけていて、機械の調子も今ひとつで明日はたぶん品切れていそー。日本の資本が集まる東京の大手町のど真ん中でもハルヒのファンって奴はしっかりいるってことが今回も改めて分かった感じ。だったらデモとかこっちでやれば良いじゃんか。資本主義の豚どもにSOS団の使命の崇高さを大演説により呼びかけ、そして資本主義の牙城から「ハレ晴れユカイ」に乗って隠れハルヒファンが腕章片腕に走り出しては列に加わりダンスを踊る。ああこれぞ権威の解体にしてオタクの普遍化って奴だ。婦女子向けには「コードギアス 反逆のルルーシュ」のコスでの参加をアピールだ。そして高らかに叫ぶ。「虐殺です」。いかん捕まる。

 赤い赤い朝日、じゃなかった仮面の「V3」が帰ってくるってんで「東京會舘」で行われた「仮面ライダー THE NEXT」の製作発表会に行ったらダブルタイフーンはちゃんと命のベルトだった。デザインだいたい前と一緒。ホッパーも横に付いていた。使いかどーかは不明。ただ個人的にはあの蛇腹のよーなものが前にびろびろーっと付いているデザインがふにゃっとしていて好きだし緑色も明るい方が好みなんだけれども前に公開された「仮面ライダー THE FIRST」が旧「仮面ライダー」の設定を盛り込みつつもより内容をハードにし、デザインなんかも硬派な感じにしなおして胸のコンバーターとかをプロテクターっぽくして硬質な感じにリファインしていた流れを「V3」も受け継いでいて、胸なんかも硬めな印象になっていたしスーツの色も緑が深くなってミリタリーっぽさが醸し出されていた。何か強そう。いや前も強そうだったけれども余計に。

 仮面は前の部分のギザギザっとしたパートが上から下までつながっている「V3」ならではの特徴を生かしつつ、サナギみたいなのっぺら感を改めちゃんと口っぽい感じに下の部分がリファインされててこれはこっちの方が前に比べて精悍な感じ。中の人を演じる加藤和樹さんはそんな「V3」に負けず精悍な面もちで、どこか初期の小林旭にも似た風貌の黄川田将也さん演じる本郷猛にこっちはやや優男風な一文字隼人の高野八誠さんと並んでも遜色のないイケメンぶりなんできっと「仮面ライダーカブト」の時以上にファンがついて盛り上がることだろー。テレビでファンになったお母様方とかお姉さま方も劇場に脚を運んでくれるかな。前の宮内洋さんに比べるとニヒル度がちょっと足りないけれどもまあそこは、アクションもストーリーもリアルでシリアスでバイオレンスな劇場版「仮面ライダー」(PG−12)ってことで、飄々としたキャラではなく己に降りかかった運命を見つめ先達の戦いぶりに引っ張られて正義へと向かう青年の姿って奴を、見せてくれると信じて待とう、公開を、って実は「THE FIRST」見てないんでどんな設定なのかが分からない。DVD見るか。

 サブではハサミジャガーならあぬシザースジャガーを演じる田口トモロヲささんが面白そう。あの冴えない表情をしつつもキレたら怖そうなキャラクターがどんな風にハサミ……じゃないシザースジャガーに変身するのかに注目だ。ポイントは眼鏡、だそーで。でもシザースジャガーって映画じゃショッカーの怪人みたい、なんだよな。「敵は地獄のデストロン」が「V3」のお約束だったのに。ドクトルGは出ないのかな。

 女性陣では橋本紡さんの原作を実写ドラマ化した「半分の月がのぼる空」で里香を演じた石田未来さんも出演するけどどんな役なのかは不明。テレビバエ? いやそんな怪人は出ませんって。つか怪人じゃないし。より色っぽくなっていた石田さんにも注目だ。気になったのはやっぱろ「V3」が乗るオートバイかなあ、つまりはタイフーンなんだけど、テレビシリーズで仰々しくも格好良く前面についてた風車がなく、それどころかカウルもなにもない普通のオフロードバイクになっていた。それだけがちょっと前年。この埋め合わせは「ライダーマン」を出すことでフォローしてくれ。って出たらちょっと泣いちゃうかも。幻の。ライダー。

 合間を見ながら富士見書房から出たソフトカバーの一般小説シリーズ「スタイルF」のうちの1冊、小林めぐみさんの「魔女を忘れてる」(富士見書房、1700円)を読んだら怖かった。こーゆー怖い話も書ける人だったんだ。小学生くらいの子供たち6人がかつて山へと遊びに行った時に出会った魔女ばあさん。数年経っての記憶では魔女の元から腕を切り落として逃げ出したものの仲間の1人がその魔女に捕まったままになり、奪還しに行ったその少年の母親によって魔女は刺されて灰になってしまったってことになっているけど現代において魔女が灰になるなんてことはない。どーゆーことかと戸惑いつつも話は少年や少女たちがそう確信しているって前提からスタートし、にわかに街で起こり始めた殺人事件の裏でその魔女が復活していつかの復讐をしようと企んでいるんだってことになって、生還した少年や少女たちを怯えさせる。

 中の1人は魔女の心臓を探してつぶそうとして捕まり4人目の連続殺人の犠牲者となってしまってそこからかつて魔女の所から逃げ出した面々にとってより身に迫った話へと  発展していくんだけれど、そんな面々とはやや離れた大人たちのフェーズでは魔女がいた当時に街で流行した健康に良いとゆーキノコを使ったマルチ取引とその破綻による感情のもつれが蘇って来て住民たちの心をささくれ立たせる。魔女とは単にそーしたマルチ取引の輪の中にいた人で排除されたのもその一環。オカルト的な要素とは無関係なんじゃないのかって印象を浮かばせつつも、一方では生還した少年や少女の周りで怪しげな少女が跋扈し、奇妙な出来事が頻出するからやっぱり魔女の呪いが実在しているのかもって恐怖を感じさせられる。

 展開のどこからどこまでを事実を受け止めどこからどこまでは空想の産物なのか。リアルとバーチャルが混然と溶け合った物語に幻惑されるけれども、芯として通っているのは子供の親への様々な感情、そして親の子に対する様々な感情の複雑さ。愛しているようで時に激しく憎んで子を虐待をする親がいて、そんな親を恐ろしく思い憎く思いながらも愛して欲しいと願う子がいる。子供を育てる義務なんてないと虐待の果てに捨てたはずなのに自分が弱くなると途端に子にすがる身勝手な親もいれば、親なんて殺してやりたいと憎んでいたはずなのに気が付くと老いさらばえたその姿に哀れみを覚える子がいる。

 人間として生を受けたからには絶対に切り離せない親との関係。あるいは家族との関係というものを幻惑的な物語の中に混ぜ入れ煮詰めては酸っぱい臭いとともに読む者に嗅がせて考えさせる。明快な解決編がないのがカタルシスを求める身には不満を与えそうだけど、残された者たちがこれからも憎悪と情愛の揺れ動く狭間で親と、子と対峙していかなくてはならない運命を改めて突きつけられる展開は、安易なカタルシスよりも大切な生きる覚悟って奴を教えてくれる。改めてこーゆー話も描けるんだ小林めぐみさん。それだけに器が用意されて嬉しかったに違いない。次もこの手の話を是非に。ビールも読みたいけど。


【7月3日】 大手町の半蔵門線駅側にあるガチャポンコーナーに「涼宮ハルヒの憂鬱」フィギュアの第2弾が入ったんで早速小銭を作って回す回す回して長門有気の眼鏡なしが出てハルヒのバニー姿の黒が出て朝比奈みくるのチアリーダーが出てハルヒのバニーの白が出てハルヒのバニーの黒がまた出たけれども「コードギアス 反逆のルルーシュ」のポスター自販機でスザクやルルーシュやスザク×ルルーシュが出まくった時と違って、あんまり悔しい気分にならずむしろ笑みすら浮かぶのはこれがハルヒだから、なんだろー。

 「コードギアス」のポスター自販機でも女子なら、ルルーシュにスザクのルルーシュ×スザクが連続して出まくっても、同じよーに悔しさよりも喜びが浮かんで部屋中に張りまくり、その眼差しに見つめられて過ごせるって勇んで持ち帰ったに違いない。商売ってのはユーザーに喜ばれてナンボ。そのユーザー層に未だ「コードギアス」の場合は男子が入っていないってことなんだろーな。はやくもっと人気になってくれ。そして男子が欲しがる商品をガンガンと出してくれ。C.C.とかミレイとかカレンとかシャーリーとかコーネリアとか。ナナリーは漫画版で是非に。

 「ハルヒ」フィギュアであと出ていないのは赤いバニーガールのハルヒに長門の眼鏡付きに朝倉涼子のノーマルとそれからナイフ付き。ってちょっとセレクト渋すぎる、ナイフを持って笑っている浅倉涼子のフィギュアを組み立ててほくそ笑んでる姿って、端から見たらやっぱり薄気味悪いだろーなー、ってそれはバニーのハルヒを3色並べていたり葡萄茶色のスコートをまる店しているチアリーダー姿のみくるを真剣でもニヤついていてもとにかく手にしていたりしても同様か。

 完成体は楚々としている長門だって分解された姿はスカートの下にしっかり白、身につけているからなあ。それを手にしていりゃあ。うーん何か不公平だこれからは女性向けガチャポンの男性キャラクターはズボンのパーツの下にちゃんとブリーフなり、トランクスをはかせてそれを手にしてニマつく女性ファンって図式を読み見せろ。美人がそれを手にしてニマついている姿はとても絵になる? ああ男オトタクは何をやっても報われない。

 気を取り直して読書。すでに誌名は消滅して「キャラの!」となった「ノベルジャパン」の第1回コンテストで優秀賞を獲得した鳥居羊さんなんてクローン羊みたいな名前の人による「SAS スペシャル・アナスタシア・サービス」(HJ文庫、619円)はリトアニアじゃなくってリヴォニアって国からやって来た3人の美少女たちが実は凄腕の警護官たちで、リヴォニアの王室の血を引く少女を守りにやって来たといって少女とは双子として育てられた少年とその父親が暮らす家に同居し、あまつさえ一緒に学校にも通い始める。

 そして起こる王女様を狙った攻撃に3人の美少女たちが銃器を操り格闘の腕前を見せては挑み撃退していくってストーリーは、銃器の詳細な描写はあっても某スーパーダッシュ文庫の新人みたくおまえそれが書きたかっただけちゃうんか的濃密さはなく、ストーリーの中にまあ許せる範囲で自然に織り込まれてあって読むとなんとなく勉強した気分になる。あと単純に王女様を守り抜くってんじゃなくて1段2段を仕掛けがあって裏返されさらにひっくり返される驚きもあってなかなかに楽しい。エピローグはそれで良いんかいって気にもあるけど、そーじゃなければ話が続かなくなってしまうんでこれはこれで。あとは再び始まるだろー守り守られるアクション&ラブラブストーリーを読ませて戴きたいと期待。

 さらにこれは受賞作ではない富永浩史さんの「螺旋の国の3ドリル」(HJ文庫、619円)はドリル最高を理念にドリルロボットを作りドリル付き建機を作って模型の展示即売会に出展していたモデラー少年2人と、そこに来合わせて頭をドリルならぬ縦ロールにしたゴシックロリータファッションに身を包み同じような格好のドールを抱えた姿を少年に見られた、実はモデラー少年2人を普段は罵倒していた生真面目な委員長の3人が、連れだっていった地下の工事現場で突発事故に巻き込まれて落ちた先がファンタジーな世界。樹木が生い茂り恐竜が襲ってくるその世界では、螺旋になったものを回転させると凄まじいパワーが起こり、恐竜でも怪物でも粉砕してしまう。

 手に模型づくりのためのドリルを持っていた少年は、螺旋の勇者と見なされ誘われ村に入って村を遅う存在との戦いを始めるけれども、すでにどこかの時代から落ちてきていた騎士とか、戦中の日本からやって来たライフル銃を使う曹長に比べてそれほど強いとは言えず居場所に悩む。それでも工作の才能を生かして武器を作ったりして村の役に立つようになり、そして凶悪さを増す敵にも挑んで元いた世界へと帰ろうと頑張る。ドリル最高、って昨今人気のアニメを見て燃えている人なら読んでドリルがいかに少年たちを熱中させるかを知る絶好の書。んでもって生真面目そうに見える少女がドールを愛で自らもドールと同じ扮装をして歩く趣味を持っているかもしれない可能性にほくそ笑める書。読み終えれば男子なら手にドリルを嵌めてすべてを貫きたくなること請負だ。でも現実世界じゃ何の役にも立たないけれど。それでも気にせずひたすらに燃えるのがドリル道、って奴なのか。深いなあ。


【7月2日】 泰然自若というか何があっても我関せずって顔をしていてお仕事の時になったらお仕事の運転だけを悠然とこなすのが姫萩夕ちゃんだったのにすごく久々な登場となった「ヤングキングアワーズ」の2007年8月号「ジオブリーダーズ」で夕ちゃんが出てくるどのカットも超真剣な顔になっているのが起こっている事態の重さを改めて感じさせる。蘭堂栄子ちゃんも何かいつもより表情怖いし。ここんところ昭和の神楽誕生譚を延々と続けてそれをいつもとは違う重いタッチで描いて来たのが現代(だよね、でもお話の時間が進んでないとするともう10年以上も昔のことになるのかな?)に戻っても抜けずに残っている感じ。田波なんてすっかりへろへろだあ。

 舞台の綾金もすっかりと様変わりしてツインタワーが立ったりミッドランドスクエアが立ったりと高層化が進んで壊し甲斐も増えた一方で前に描いていたとしたらあまりに様相が違ってしまって整合性に悩みそう。でも記憶だとあんまり駅前とか出てきてないから気にせずどばんと出してドカンと壊してやれば良いのか、世界最大級企業の実質本社が吹っ飛ぶ快楽。見たいなあ。しかし菊島社長は行方不明で桜木高見ちゃんも病院から消失、って最後に出てきた高見ちゃんってどんなシチュエーションだったけ? もう何年も昔のことだからまるで思い出せやしない。

 神楽vs化け猫ってシチュエーションでのドタバタだけだった物語の世界に日本政府が絡み米国が絡んで何が起こっているかも見えなくなって、どこに帰結させるかもまるで分からない中で一介の端末に過ぎない神楽総合警備の面々がいったい何を出来るのか。たとえあの面子であってもやっぱり所詮は一般人と前の神楽たちと同様に消され次代にすり替わるだけなのか。想定しづらいけれどもそれが物語を読む楽しみって奴で伊藤明弘さんにはぎりぎりと続きを描いてそしてしっかりと完結させてやって戴きたいと平にお願い。そーいやお話にまだ万博とかって出てきてないなあ、ってお話の時代からいったい何年後のことになあるんだ万博って。

 そして「朝霧の巫女」は完結。始まった時は朝霧って感じに爽やかラブコメって雰囲気だったのに、途中で巫女戦隊なんってドタバタになってアニメ化もあってそのまま突っ走るかと思っていたら、まさかこーゆー感じに壮絶にして荘厳な終わり方をするとは。最初っからの意図だったのかそれとも描き進んでいた間にいろいろと気持ちが変わっていったのか。作品って生き物なんだなあ。んでもって唐突に今市子さんの「夜と星のむこう」が登場。「アワーズガール」って聞くも懐かしい漫画誌に確か掲載されていたお話だから不思議はないんだけれどもそれにしても時間開きすぎ。単行本が出たタイミングで再開って感じにしたのかな、版型のやや小さい雑誌の行方が曖昧なだけにこっちでの活躍を是非に。こっちの行方は確か、だよね? でなきゃ困るよ「ジオブリーダーズ」も「ヘルシング」も良い所なんだから。

 数ある新人賞の多くで1番になった作品よりも佳作とか優秀賞とか審査員奨励賞といった脇に添えられた作品の方に好みが偏る性向はここでも健在なよーで「ノベルジャパン」(何かいきなり題字変更らしーけど、「キャラの!」ってのに)が募集していた「第1回ノベルジャパン大賞」で入賞した3冊が一挙刊行となったけれども読んでやっぱり大賞を獲得した冬樹忍さんの「たまなま 生物は、何故死なない?」(ホビージャパン、619円)よりも佳作となった翅田大介さん「カッティング Case of Mio」(ホビージャパン、619円)の方が個人的には好み。入学した学校で出会った西周ミオはとてつもない美少女ながらもとてつもなく鉄壁で無表情で無口で誰も寄せ付けようとしない。

 極めつけは手首に巻かれた血染めの包帯。つまりはリストカッター? ってことでむしろ誰も寄りたがらなかった彼女に1人だけ、相坂カズヤって少年は感心を持って話しかけて、いっしょに本を読む間柄にまでなる。そこから始まったつきあいは、やがてミオを変えリストカットの回数を減らし笑顔すら見せるよーになるが、そこに事件が起こりミオはカズヤの目の前で脇腹をえぐられ血を吹き出し、そして倒れる。死亡? ところが。って感じにメンタル系な少女と少年の邂逅から理解へと進む青春小説のよーに見えていたお話の構造が一気に転換。テクノロジーの進化をバックに人間の心とは、記憶とは、脳とは、肉体とはって問いかけられて迷わされる。

 たぶん3人目のあれはシンジに笑顔を見せたあれだったのかという命題。みかけは同じで想いも同じでも存在は果たして同じなのか。同じものとして見なせるのかそれとも。そのあたりを問い詰めていない点が気にかかるけれども示唆される問題に抱擁で答え導こうとするスタンスは決して悪いものじゃない。なによりあれだけ可愛かったら中身なんて、って下卑た考えも浮かぶけれどもともあれ表紙の雰囲気、あらすじの説明からは想像もつかないくらいにハードでシリアスな展開を見せてくれるサイエンティフィックでスペキュレイティブな物語。これが佳作なんだから大賞の「たまなま」は凄いに違いないって、拓いて読んでうーん。

 街に隕石が落ちて数百人が死んだ事件が起こってしばらくして、ひとりぐらしの少年の家に少女がやってきてつがいになれという。押し掛け女房。少女は隕石の落下に紛れて落ちてきた好物生命体のかけらが人間にとりついているもので、街にはそんな存在がほかにもいて互いを牽制しあっていた。少年は過去に家族を事件によって失っていて、けれども仇とも言える存在は平生と街を歩いていて少年の気持ちを揺さぶり苛立たせる。そんな仇にも鉱物らしきものがとりつき起こるバトル。絡む少年の同級生でやっぱり鉱物の力を得た少女。上っ面を見れば異世界の力を受けながらも立場が違う存在たちのバトルストーリーなんだけれど、背景に一家惨殺とか隕石落下による家族消滅って重い設定があるにも関わらず、それがさらりと流されてしまうのがどうにも気にかかる。美少女同居ラブコメ&異能力者バトルにシリアスな要素を持ち込もうとした点は評価。だけどどうにもうまく溶け合っていない印象。書ける人っぽいんで次はテーマをちゃんと描ける設定キャラ物語を是非に。「コードギアス 反逆のルルーシュ」の先行上映会の返信っていつ頃届くんだろう? 予定明けて待っているのに。


【7月1日】 いきなりクライマックス感ありありな「天元突破グレンラガン」は白色彗星もかくやといった感じに渦巻くシールドをはった敵本拠地へと乗り込もうとする大グレン団に四天王のうちの2人が立ちふさがってさあ大変。でもそこはもはや無敵のグレンラガンだ。世界中から巨大戦艦タイプのガンメンを横取りして来た人間たちが現れ艦砲射撃で援護し、且つ1つひとつがとてつもないはずの巨大戦艦タイプのガンメンを惜しげもなく竜巻へと突っ込ませるエスカレーションをあっけらかんとやっちまってもうこれで終わりだねって思わせておいて次に出てきた超巨大ガンメン。さてはていったいどーやって戦うか。ってゆーよりまだ1クールで残りのクールに出てくる敵はどれだけの規模になってしまうのか。見えないよう。とりあえずニアが調理主任で大グレン団の連中はよくも平気で生きてるなあと簡単。「ごきげんよう」って出会いの挨拶の言葉だったっけ? 次週こそはなニアの行く末。さてはていかに。

 「東京おもちゃショー」へと遊ぶ子供の姿を仕事用に撮りに行こうかとも思ったものの面倒になって六本木へ。「かつや」で最近お気に入りなネギおろしカツをむさぼり食ってから「東京ミッドタウン」をちょっとだけのぞくと、表から見たビル群の味気なさとは対称的に裏側とか脇に芝生の広場が広がっていて、セレブながらものどかな感じが「六本木ヒルズ」よりは好ましいって印象。でも男1人がいってごろごろできる雰囲気じゃあないけど。深澤直人さんが監修しているチョコレート展は建物それ事態が何やらおしゃれ。超おしゃれ。鋭角で細っこい建物の空間にスペースを作りスロープで降りて回遊する感じが秘密基地めいててちょっと楽しい。三島で見た「ヴァンジ美術館」にちょっと似ているかな、あっちの方が規模がケタ違いに大きいけれど。設計したのって誰だろー?

 チョコレートからインスパイアされた様々なオブジェがあっていたチョコからアポロチョコが生えている奴とか板チョコがマーブルチョコ色に塗られている奴とかいろいろあってどれもが愉快。あの色、あのフォルム、そしてあれだけの歴史的社会的文化的お菓子的蓄積があるチョコだからこそ浮かぶ様々なインスピレーションって奴を堪能させてくれる。自分だったらどんなチョコを作っただろー? ってなことを想起させてくれる企画を立てた深澤さんってやっぱり凄い。デザインが暮らしや使い方から遊離していない、かといって使い方にのみ奉仕している訳でもない数々のデザインを考案して来た人だけのことはあって、チョコって存在が持つ本質を追究しつつチョコって存在が醸し出す可能性を考えさせる展覧会になっている。インダストリアルデザインとは、アートディレクションとは何かを追求している人は見るべき展覧会、佐藤可士和さんにも行って欲しい、あと黒川紀章さんとか。

 だってすげえんだよ「国立新美術館」。そりゃあ「大モネ展」が明日で終了ってんで大勢が詰めかけていたのは分かるけれどもその大行列が、1階に何か無理っぽく作られたカフェの周りをめぐりぐるりとあのカボチャ型の硝子の壁の内縁にそって並んでいる様は正直言ってみっともない。並ばせ方があるだろう、行列のさばきかたを同人誌イベントなんかで修行してこいって主催者とか運営管理責任者に言って糺してやりたくなったけれどもそれはそれとしていくら美麗な器を作りセレブっぽくカフェとかレストランを置いたところで所詮は巨大な貸画廊。キュレーターたちの叡智と信念によって積み上げら得たコレクションから歴史と時間と世界って空間をかぎ取るなんて”美術鑑賞”の本来的な姿とは無縁に、お上りさん的な行動原理でモネなんて過去にもたびたび行われた展覧会にわんさと群がり大混雑の中でも美術を、美術館を堪能したって気になって帰って行くよーな人たちを相手にした、エンターテインメントイベント「美術館SHOW!」の場でしかないんだよなあ、だからこそ表面を飾る黒川さんの建築、見栄えを良くする佐藤さんのディレクションが相応しいんだろーけれど。

 同じ六本木にある「六本木ヒルズ」の中に作られた「森美術館」なんかは、同じフロアにある展望台とセットになってて美術なんて興味ないけど東京観光で展望台に登ったついで美術でも見て行こうかって人たちによる「美術観光」の場となっていたりして、どっちにしたって古典的な概念で括るところの美術的な雰囲気を持った場所ではないけれどもそーした既成概念を打ち壊し、象牙の塔とかサロンとかで分かっているふりをしている奴らだけが分かっているふりをし続けた美術の醍醐味を、観光化しエンターテインメントのショー化して一般大衆に解放し開放してみせたって考えればこれでなかなかにアナーキー。そこで「森美術館」のよーに草間彌生さんみたくエッジの利いたものを展開して見せるのが前衛の普遍化なら、「国立新美術館」のよーにモネなんて大古典を引っ張り出しては、見せ物小屋的な雰囲気におしこめるのも権威の大衆化って感じでともに愉快。東京のど真ん中で起こっているこれらの出来事が世界の美術史なり文化史の中でどう位置づけられるのかとこれからとくと見て行こう。20年後にも「森美術館」なんてあるのかなあ。

 1時間待ちって看板に「コードギアス 反逆のルルーシュ」にもクロヴィス殿下の作品として登場していた土手の上で日傘を差す女性の絵を見るのはあきらめ(見るつもりだったんかい!)イラストレーターの展覧会とモードの展覧会をそれぞれ見物。イラストの展覧会は古今の有名イラストレーターの作品が無造作に連ねられていてなかなかな満腹感。ペーター佐藤さんとか伊坂芳太郎さんとか大橋正さんとか真鍋博さんとかは数枚が展示してあって別格扱いだったんだけれどもその他の人は健石修志さんも土橋とし子さんもスージー甘金さんも原田治さんも松尾たいこさんも和田誠さんも新井苑子さんも宇野亜紀良さんも安斉肇さんも誰も彼も1人1枚ってところが潔いのか無茶なのか。

 それぞれにコメントの付けられたリーフレットが配られているから見ながら誰のどーゆー絵なのかを追うことはできるけれども、1人がそれぞれに個展だって出来る人たちをただ並べていっただけの、それらが描かれた背景とか技法の特徴とかをいっさい示さない展示会が展覧会として堂々と開かれてしまうのが「国立新美術館」の超豪華貸画廊たる所以って奴か。見て人はそこからいったい何を感じるのか。まあ権威と知識に偏ったキュレーションにまみれるよりも見た感じを大切にしなさいってイラストレーションならではの商業性、メッセージ性を勘案しての展示だって言って言えないこともない、かもしれない、ような気がする、と解釈。

 「SKIN+BONES 1980年代以降の建築とファッション」だって1人が個展くらい開けるファッションと建築の偉人たちが並べられた総合展ではあるけれどもとりあえず体を覆う衣装がどう構築されているかを示しつつ人間が暮らす空間を覆う建築の構築性なんかと並べてみせるあたりに思想があって楽しめる、って言えるだけの知識が当方にはないのがやや残念ながらも見ていてまるで建築のよーなファッションとか、逆に衣装のよーな建築なんかがあって人と暮らしを人工物で覆うファッションと建築が根底に持つ意識の共通性みたいなものがほのかながらも感じらるんじゃなかろーか。ファッションだとやっぱりコム・デ・ギャルソンの構築性は凄まじくって時代によってシンプルだったり背中や腰に瘤がついてて複雑だったりと様々だけれど人間と、覆う衣装とを対立させつつ融合させて相対として1つの存在をそこに現出させる川久保玲の試みって奴が目の当たりにできたのは大いなる喜悦。それを見るとジュンヤワタナベ コム・デ・ギャルソンは構築し過ぎで見た目の優先度がまだ高いなあ。

 プリーツとかを遣った三宅一生さんの試みの凄さは前に「東京都現代美術館」でも堪能させられたけれども改めて見てやっぱり飛び抜けている感じ。似た感じではナンニ・ストラーダの体に密着する布もなかなかセクシー。着てみたいけど男のメタボが着るとこれは大変なことに……。ヨーリー・テンって人のも面白かった。実は初耳。有名な人なんだ。アレキサンダー・マックイーンとかメゾン・マルタン・マルジェラとかドリス・ヴァン・ノッテンとかしばらく前に耳にしていたファッションデザイナーの生の作品を見られるのも嬉しい、ってどれがどれだと後で説明しろって言われても困るんだけど。

 昔だと「ファッション通信」って番組がパリやミラノやニューヨークのモードの最新事情をリアルタイムで伝えてくれて勉強できたんだけど今はそーゆー番組がまるでないからなあ。覚えられない。情報を仕入れられない。なのでどのメゾンがどんな作品を出しててどれだけ凄いのかが分からなくなってしまう。教養が育まれず見る目も養われない中で、デザイナーに心頭してそのファッションにこだわり続けるよーな投資をせず、安心感と同調感を求めて「エルメス」だの「プラダ」だのといったビッグブランドへと、ファッションの嗜好が集まるってのも分かるなあ。んでもって銀座の交差点の4つ角に高級ブランドが店を構えて向かい合うって世にも希な光景が現出する、と。つかドリス・ヴァン・ノッテンってどこに行けば買えるんだ? なになに日本じゃあ旗艦店閉鎖かよ。

 本を読みつつあちこち巡ってから来たくしてテレビをふと見たら内沢旬子さんって高木美保さんばりの美麗さでもって高木美保さんみたいながらっぱちなしゃべりをする人が出ていて誰だったっけと探って「世界屠畜紀行」を書いた人だって分かってこんな人だったんだと驚いていたらその先にさらなる驚きが。本にあふれた1LDKの奥で黙々と仕事をしているご主人って人がいてどこかで見たことがあるかもって思ったらやっぱり南蛇楼綾繁さんだった。うわあ。うわああああ。まだ「本とコンピュータ」って雑誌が出ていた時代に編集に携わっていた本名・河上進さんとそして今をときめく文藝評論の中俣暁生さんと市ヶ谷にあるトランスアートって会社で話を聞いた記憶がある。それからえっといったい何年だ。お二方とも大出世して仕事に生活になかなかの活況ぶりを呈している一方でこちらは明日をもしれぬ身。どこで道を踏み間違えたのかなあ。ちょっぴり沈み迎えるブルー・マンデー。寝よう。


日刊リウイチへ戻る
リウイチのホームページへ戻る