縮刷版2006年4月上旬号


【4月10日】 午後の11時半から2時間の連続アニメアワー。前は間に「キャンバス2」とか見ないアニメが挟まり「よみがえる空」は良作ならがも趣味に合わずすっ飛ばしていたんだけど、okamaさんがデザインワークを担当した「ひまわりっ!」から「鈴宮ハルヒの憂鬱」と来て期がまたいでも続きなおかつ盛り上がってきた「Fate/stay night」、さらに新番組としてスタートした「ARIA The NATURAL」が重なっていては仕方がない。起きて起き続けて見るしかない。さらに「スクールランブル」の第2期って奴もあるんだけどこっちは原作への愛がなくなって来ているんで別にいいや。

 んで「ひまわりっ!」は……話がわからん。カプセルみたいなので培養されてた少女が墜落させられるところを忍者とやらに助けられたことをきっかけに、忍者の里で忍者になる修行を始めるんだけどよそ者ってことで虐められる毎日。そこにやって来たのが代用教師で少女は彼が自分を助けてくれた忍者じゃないかって思うんだけど当の教師はそれを否定。おまけにあんまりやる気もなくって村で学ぶ忍者の少女たちかに捕まり命すら狙われる。そこに飛び込んだのがひまわりで、教師を助け自分の命も差し出しつつ教師も自分も村で学べるようにと頼む。

 とまあ辿ればちゃんと辿れないこともないんだけど、ひまわりがどーしてそこまで邪険にされなきゃいけないんだとか、やる気のなさげな代用教師とひまわりを助けた忍者との関係がいまひとつ不明だったりとか、つかみ所のないままに設定がどかんと振って来るのが準備不足の心を潰して訳を分からなくしているのかも。まあ見ているうちにそれなりに馴染んで来るだろー。予告で聞いてこりゃダメかもって感じたヒロインの声も番組を見ているうちに慣れちゃった。最近はその変の融通が妙に利くよーになっている。これが処世術というやつか。それとも枯淡か。はたまた呆けか。

 んでもって「涼宮ハルヒの憂鬱」は動く動く動く動く。喋りもすごいけどハルヒがちゃんと動いててわき上がる感情を制御できないで突っ走る様がちゃんと出ていて、こいつ近寄るととんでもないことになりそうだって感じさせるオーラまで見てる。けどそんなハルヒに席が前後だからって話しかけたキョンはそのまま引っ張り込まれてSOS団を結成して、見るからに客寄せとなりそーな美少女を引っ張り込んできてさあいよいいよドタバタが始まるぞって展開に原作を知らない人だったらきっと、そのまま楽しくも騒がしい学園生活へと向かって行くんだろーなー、それだけだよなーって想い視聴を止めてしまうカタい人も出てしまうかも。

 けど原作はそれだけじゃないっていゆーかそんなことなんて脇も脇。それこそ宇宙がひっくり返るよーな設定が仕込まれているんだけど、第一話の「朝比奈みくるの冒険」では猫が喋ったりするシーンでチラっとのぞかせた程度で、第二話も文芸部の部室に入ってきたみくるがそこにいた長門有希を見て何か考えてそして、何故かSOS団に入ることを受けてしまう流れがしっかり描かれて、2人の間にある関係を仄めかしているんだけどアニメが初見の人にはただの知り合いどうしだったとしか思えないか、気付かずに素通りしてしまうかも。ただ一方で爆裂キャラと動きの良さで食いついたファンが、展開の中でそういえばって思いだしほくそ笑むポイントになる可能性もあったりするし、原作ファンにはちゃんと「涼宮ハルヒ」をやりますよってメッセージを送るポイントになっているから、出さないよりは出して正解って所か。キョンの一人語り展開は「フタコイ オルタナティブ」みたい。エンディングのダンスがぐりぐり動きまくっててやや不気味。

 ミリオンセラーの「東京タワー」が受賞してどうにも釈然としない気分をあちらこちらに蔓延させてた「第3回本屋大賞」だけど、そんな気分に答える記事が「AERA」の2006年4月17日号に掲載。広告の見出しなんかだと「ブーイング」って扇情的な言葉もあった記事だけど本文の方ではそこまで過激な声はない。ただ「『東京タワー」は受賞前の団塊で120万部。売れ行きはよくないが質のいい、力のある本に光を当てる賞だったのいん、大きく変質したという批判は免れない」と地の文で書くあたりには記者にどちらかといえば懐疑のニュアンスがあるんだって伺える。

 さらに出版社の社員の声を引いて「『本屋大賞は、作家にとって踏み台的な役割を果たしてきた。すでにミリオンセラー作家の称号を得たリリーさんは、本屋大賞がいらない人立ったんじゃないか』という疑問を口にした」と書き、書店員の「『他の本にスポットが当たっても良かったかな』」という声も引いて疑問を後押しする。でもなあ。記事によると「出版元の新潮社が『売れる実感のつかめない本だった』と評した『博士の愛した数式』は03年8月発行。授賞前に9万8千だった部数はいまや50万を数え、05年12月に出た文庫版は117万部のミリオンセラーを記録。授賞前に8万7千部だった『夜のピクニック』も、すでに25万部を数える」ってあって、過去2回の受賞作はいずれも受賞前に10万部近い部数があったことが分かる。

 それこそ数千部から始まり1万を越えれば御の字で3万5万なら万々歳な文芸書の世界で8万9万を売れた本は既に立派な”ベストセラー”。なおかつ「博士の愛した数式」の小川洋子さんは「妊娠カレンダー」で芥川賞を受賞したベテランだし、「夜のピクニック」の恩田陸さんも文学賞にノミネートも多い中堅の人気作家で、ただちょっとばかり文壇とやらのメーンストリームから外れて来ていたか、近寄っていなかったところを「本屋大賞」によって応援してあげた結果、3倍とか5倍の数字に嵩上げされたってことになる。1万も出ていないけどこれは絶対に売るべきだ、って書店員さんたちの目利きを働かせる賞って訳じゃ、最初からなかったんだね。ちょい人気を目茶人気にする賞。だからまるで埋もれた作品を掘り起こしてもり立てる賞を期待していた目には、第1回目からどこか不思議に映ったんだろー。

 そんな1回目2回目に比べると、むしろ「東京タワー」の方が、読者や書店員さんたちの支持はされてもあらゆる文芸賞から縁遠い位置にいるリリー・フランキーさんに、手作りの金メダルをかけてあげたんだって素直に見て取れる。「作家にとって踏み台」になるってことは、何も10万の本が50万に嵩上げされることだけじゃない。読者と書店員さんたちの熱い支持を賞という形にして現してあげることだって、立派に作家への「踏み台」となる。おまけに100万部が賞によって500万部まで伸びたら、10万が50万よりも売れる量が増えて本屋さんだって実入りが多くなるんじゃなかろーか。

 記者は「賞の存在価値という意味では冒険だ」なんて書くけれど、だったら「本屋大賞」ってどうあるべきなのかを示唆して欲しかったところ。「3年目の『変質』」だなんて見出しには書いているけれど、「変質」したのは選んでいる側でもなければ賞の性格なんかでもなく、「本屋大賞は売れる」と前の2回を見て感じ、数字的な側面だけから「踏み台」なんて言葉で本屋大賞をとらえる出版社の人たちの側じゃないかって気もしてくる。個人的には一方で1万2万の本を目利きによってクローズアップすることも、やって戴きたいものだけどそれが趣旨ではなく、ご褒美であり感謝であり一段のプッシュアップが趣旨なのだとするならば、「東京タワー」への授賞もその役割を存分に果たしている。だから作った人たちには別に「ブーイング」だとかは気にしないで、次もそのまた次も堂々と、ベストセラーを選びこれは私たちの気持ちなんだとアピールしていって下さいな。僕は僕で1万部とかの本を探して読んでプッシュしていく所存。


【4月9日】 日曜日の午前7時に目覚めても「交響詩篇エウレカセブン」の放映していない寂しさ……寂しさ……清々しさ……まあいいやとにかく1年ぶりに覚える感情にしんみりとしつつ、そのまま録画してあった「ブラック・ラグーン」を鑑賞。見たかったシーンが見たかった動きで映像化されてて大感動。クオリティはOVA並に高いし声もレヴィからダッチからベニーからバラライカから影山部長から傭兵の隊長から完璧。よくもまあこれだけの作り手と演じ手を集められたものだ。マッドハウスのご威光か、それとも作品が持つ魅力の賜か。

 カットジーンズに包まれたレヴィのヒップの丸みだけでなく弾力まで表現してしまっている絵は感動もの。原画を描いている人もきっと描いてて楽しくて仕方がないんだろーなー。銃だってディテールが細部まで完璧。こっちも大好きな人が描いているのかな。何より格好良い場面を原作以上に格好良く描いてくれているって点で、監督の人の作品への情愛が伝わってくる。その監督が「アリーテ姫」の片渕須直さんだってのが意外だけど、「月刊アニメージュ」の2006年5月号に掲載されてるインタビューによれば、当人的にはテーマ的な部分で連続性があるとのこと。原作にもないオリジナリティも混ぜるそーで、単に漫画が動くだけじゃない楽しみを、本編で存分に味わわせてくれると期待しよー。アニメだとどこまで行くのかな。日本編まで言ったら楽しいけど。

 さらにそのまま起き続けて午前9時半からの「おねがいマイメロディ くるくるシャッフル」を待つ。やがて始まった番組は柊恵一がマリーランドから持ち帰ってきた風呂敷包みの正体が判明。おそらくは誰もが想像していたとーりの展開だったんだけど、その登場シーンのど派手さとそして柊恵一の声を担当している置鮎龍太郎さん渾身の演技に、これをやってしまって、おまけに第1話で最凶キャラのマイメロ母まで繰り出して、後に続くものかって心配が浮かんで消えない。

 とはいえそこは常に裏切りと暴虐のエピソードを繰り返しては最初のファンシーアニメじゃんて印象をものの見事に覆し、子供から大人からおじいちゃんからおばあちゃんから誰をも驚かせ楽しませる神のアニメへと昇華した「マイメロディ」。強烈な2話を枕にファンを引っ張り込んで後を怠惰なお約束展開で飽きさせるなんてことはせず、意外で法外な展開でもって毎週を驚かせてくれると信じたい。とりあえずは置鮎さんがいつノリノリで心底よりの正義の叫びを上げてくれるかが注目か。残るカードにはいったいどんなお助けキャラが眠っているのかにも関心。ルミちゃんとか混じってそーだね。

 そのまま家を出て渋谷へ。「パルコミュージアム」で始まったタカノ綾さんの展覧会で西島大介さんとタカノ綾さんのトークショーが行われるってんで見物に行く。「SFマガジン」の読者的には2人が並んでいたって何の不思議もないんだけど、タカノさんのアートが好きな女の子と西島さんの漫画を好むサブカルっ子にとってこの2人の合体はちょっと不思議だったかも。とはいえその昔「ワンダーフェスティバル」で村上隆さんが等身大フィギュアを持ち寄り話題を集めた会場で、西島さんが影像を作って流していたこともあったんで、村上隆さんの弟子筋にあたるタカノさんとはアート的な集合から見てもそんなに外れてはいなさそー。そこで接点があったかは知らないけれど。

 さて始まったトークショーは司会の松井みどりさんが渋滞か何かで現れず、西島さんがマイクを持ってタカノさんに振るって展開でスタート。やがて松井さんもあらわれ話はSFとゆービジョンが作品にどんな感じに入り込んでいるかって部分に及んで西島さんは割とロジカルで意図的にSFのテイストを選びサンプリングして取り入れているのに対して、タカノさんは小説から得たビジョンの中から好みの部分を選びモチーフとして感覚的に表出させているって話になって、以前より感じてはいて「SFマガジン」に書いたタカノ綾さんに関する文章にも仄めかしてはいたけれど、当人たちの口から語られてなるほどやっぱりそうだったのかと納得する。

 SFが何で好きかって根源についての質問にタカノさんは、どうして人間が生まれてきたんだろうとか世界はどうしてあるんだろうとか、思春期の頃に考えていてそういったテーマに肉薄するのがSFしかなかったって回答。西島さんもほぼ同様で、だから思春期が終わっておじさんになってしまった今は実用書とか料理のレシピばっかり呼んでいるとか。一方で描き手としては思春期まっただ中にある中学生に向けて描いているそーで、SFのためのSFとゆーものにはまるで興味がなくって思春期の悩みに答える作品をSFの形で描いているってことになる。西島キャラが青いことを言うのはだから思春期の読者が自分を重ねられるキャラだから。それを大人が呼んで青いあのとゆーのは筋違いってことになるんだろー。

 まもなく登場の「アトモスフィア」の下巻についての話もあって、曰く「SFすら超越し、物語すら超越してしまう。そういうところまでいってしまっった。なんだかわかんない。かなり戻ってこれないとこまでいってしまった」とのこと。そりゃいったいどんなラストなんだって今から興味津々なんだけど、大言壮語するのが一種の西島節だから読んでなるほどふーんってことに落ち着くか、それともやっぱり言うだけのことはあると感嘆するか、それは出てのお楽しみってことにしておこー。終了後はサイン会もあって長々とした行列に改めて2人の渋谷における人気の程を実感。そんな2人が描いている「SFマガジン」はつまり渋谷系のオシャレな雑誌だって、言って言えたりしちゃったり。する?

 実はオープニングにも紛れ込んでアートな人たちに囲まれていたらしー塩澤快浩編集長からタカノさんの画集「TOKYO SPACE DIARY」が実はとんでもない突貫で編集されたことを知り吃驚。それであれだけ対訳も作ってゴージャスにして繊細な内容に仕立て上げられたとは、デザインを担当した人の凄さもあるけどどしゃっと未収録の作品リストを与えられて選び並べた塩澤さんの、アートな方面へのセンスは実は並大抵のものではないのかもしれない。村上隆さんのお眼鏡に挑むって構えて考えると普通は臆して手が震えるもの。けれども仕上がった本は満遍なく選ばれ過不足ない作りになっている。そんなセンスがあったからこそ2003年以降のベストな時期にタカノさんをセレクトして誌面に取り上げる決断が出来たんだろー。いや感心。そのセンスが次に選ぶのは誰だ?

 渋谷を抜けて神保町によって「VELOCE」で仕事。ついでに「コミック高岡」で早売りの「月刊アニメージュ」2006年5月号を買ったらokamaさんのインタビューが当人の写真入りで掲載されていた。しばらくファンをやっているけど当人の顔を見るのはこれが初。作品からヒョロくて繊細そーな人を勝手に想像していたけど、載っている写真の人は実にオシャレで格好良くって、そんな人からあの異様に異常な世界が生まれて来るかと思うとちょっと面白い。よくインタビューを取ったなあ「アニメージュ」。

 しかし関わっている作品の多いこと多いこと。新番組だけでも「ガラスの艦隊」があり「ひまわりっ!」があって新作OVAでは「トップをねらえ2」があって「リーンの翼」がある。ちょっと前の作品だと「創世紀アクエリオン」があり「ガン×ソード」があり「かみちゅ!」があり「コゼットの肖像」があって、それぞれでキャラクターの設定をやったりビジュアル全般を担当したりメカも描いたりと活躍の幅も実に広範囲。メカは得意とかキャラは任せてって人はいるけどメカも描けばキャラも描くし街並みも描けばファッションだって設定するって人は過去に誰かいただろーか。

 近いのはメカもキャラもデザインできる永野護さんだけど、関わったアニメの数はそんなにない。あるいはかがみあきらさんが存命だったら、似たポジションへと収まっていたのかもしれない。そんなかがみさんを起用しよーとしていた富野由悠季監督が、「リーンの翼」で直々にokamaさんを認識していて起用していたってのは何かの因縁か。若い才能を見出し引っ張り込むことにかけて、富野さんの右に出るアニメ関係者っていないのかも。逆が宮崎駿さん? 若い才能は集まるんだけどそこから名を挙げ卒業していく人がまるでいないってゆーか。なかなかに興味深い。


【4月8日】 まだまだ終わらない新作アニメラッシュに胃ももたれ気味。それでも目にファンタスティックな場面があればそれで心も晴れるってもので、GONZOでもちょっぴりアダルトでスタイリッシュな影像が特徴的な「スピードグラファー」のラインに近い「ウィッチブレイド」は、冒頭から重力の影響で下へと向かう胸部の丸みとそれからジーンズに包まれた背中より腰より下の部分の丸みがまずは素晴らしく、それがアニメのヒロインに過去を紐解いてもあまり記憶にない子持ちのシングルマザーであっても、拒絶するどころか進んで目が画面へと向かって視線を外せなくなってしまう。恐るべし。

 子育ても容易に出来ない母親から、子を取り上げ変わりに育てる児童福祉庁だか何だかが出来ていて、主人公の母親は性格は明るいけれど生活能力に欠ける所もあったよーで、住む家を追い出され児童福祉庁に娘を奪われそうになって街を抜けだし、向かった先は大災害か何かで破壊され復興の途上にある東京。けれども追って来た児童福祉庁に見つけられ娘を手放さざるを得なくなって、それでも諦められずパトカーを奪いカーチェイスした挙げ句に自損し捕まり留置場へ。娘の乗った車に体当たりをかませる辺りの無謀さにこいつ本当に母親か? って浮かぶ疑問もそんな母親を助けなくちゃと福祉庁の建物を抜けだし張っていたカメラマンを誘い留置場へとかけつける、行動力も判断力も生活力もありそーな娘に免じて引っ込める。

 そんな娘の冒険を知ってか知らずか留置場で泣きながらうずくまる母親に危機。わき上がる痛みかなにかにうめき声を上げる彼女と同じ留置場に入っていた男は逆に快楽から体を変化させて得体の知れないものになって、檻を突き破り看守たちをはじき飛ばして母親へと迫る。まさに危機一髪ってところで何故か母親の体が変化し生体スーツのよーなものを身に纏い、武器も帯びては向かってくる怪物を一瞬の間に切り伏せる。

 そんな彼女を見守る謎の男あり。企業か何かの回し者でその企業は児童福祉庁のバックについているって辺りから、この国を背後で動かす組織の存在と、その組織が追う「ウイッチブレイド」なる存在が浮かび上がって来る。6年前の大災害で娘を抱えたまま記憶を失った状態で生き残っていた所を発見された母親の、あるいは正体とも関わる謎の解明が進んでいく展開は面白そー。「ウィッチハンター・ロビン」のよーな絵の美麗さはないけれど、「スピードグラファー」並にはしっかりしていて動きも良いんで見ていてストレスは感じないで住む。なにより母のナイスバディさが目に潤いを与えてくれる。変身後があんまりエロくないのは残念だけどそこは普段着の時の強調される胸部に臀部でカバーできるから良しとしよー。視聴続行。

 サッカー成分が足りなくなって来たんで「フクダ電子アリーナ」でJリーグの「ジェフユナイテッド市原・千葉vsセレッソ大阪」で見よーと家を出て、千葉駅で昼食をとってふと見上げると空からは大粒の雨が。見る間に真っ暗となって雷も鳴り始めたんでこれはちょっとしんどいかもと、引き返す準備もしたけどそれだと折角買ったチケットが無駄になる、それより言って早めに屋根のある席をとろーと思い直して蘇我駅へと向かい「フクアリ」について着座して、しばらくするとみるみる青空が戻って陽光が射し始めてこいつは来て正解だったと日頃の行いの良さに自惚れる。

 そして始まった試合はたちどころに2点をジェフ千葉が奪って優勢へ。こいつは大量得点もあるかって思っていたところに再び暗雲が迫り雷も鳴り始めてもしかして雷雨につき中断から中止で順延となってせっかくの得点も無効になって「フクアリ」での今年のリーグ戦初勝利もお預けか、あんて懸念も黒雲同様にむくむくとわき上がったけど、雷はどこかへ行ってしまって雨も小降りになってこいつはジェフ千葉に勝ち点を献上しよーとする神の思し召しかと感謝しよーとした所に、折り返してきたボールを西澤明訓選手が変態的な姿勢からボレーしゴールを決めてしまって1点差。前半はまだ時間がたっぷりあるし後半にいたってはまるまる残った状態での1点差に、今度は敗戦を懸念する意味での黒雲が心中を覆って雷を鳴らす。

 マリオ・ハース選手は故障が癒えていないのか途中からあまり動かなくなり巻誠一郎選手も前線から常にチェックに行くいつもの姿勢があんまりなくって割に張り付いたまま。それでも中盤から両サイドが頑張ったお陰で下がらず攻め続けたジェフ千葉が最後まで押し切り2対1のままで逃げ切り今シーズンのリーグ戦での「フクアリ」初勝利をよーやくにしてゲットした。長かったなあ。巻選手は要田選手からのほとんどプレゼントに近いゴール前でのパスを受け取りあとはゴールキーパーを避けて蹴り混むだけってお膳立てをしてもらいながらも、ゴールキーパーどころかゴールを外すシュートを打って得点にならず。日本代表の最有力フォワードたちが頻繁に見せる外し癖が乗り移ったかのよーな外しっぷりで良くないものをもらって帰って来たのかと心配になる。阿部勇樹選手も守備こそ頑張っていたけど攻撃の起点にはあんまりなっていなかったからなあ。よくない病気でも流行っているのかなあ、代表。

 まあそれでも勝ちは勝ち。クルプニコビッチ選手が出すボールの多くが相手への献上パスだったり水野晃樹選手の鬼クロスがあんまり出なかったりマリオ・ハース選手が交代の支持が出る前に自らピッチを出てはスタジアムの中へと入って行ってしまったり巻選手が後半にお疲れ気味になっていたりしても勝ちは勝ちとして記録に残り勝ち点も付く。とりあえずはおめでとうと行っておこう。けど来週はちょっと困るかも。相手は調子を取り戻しつつあるFC東京で場所はアウェーの「味の素スタジアム」。去年の後半戦も負けている相手でハース選手がおらず巻選手も本調子じゃないとすると一体誰がトップに入る? そこで青木孝太選手ですよと言いたいけれどそこまでの決断はさしものオシム監督でも出来ないだろーなー。林丈統選手の移籍が返す返すも残念。ともあれアウェイも含めて2つ勝ち両目も明いたジェフにはこれで波に乗ってもらって連勝街道をばく進してもらー。

 もはやキャラも増えすぎて誰が誰ややらサッパリ分からず、こいつは新キャラなのか前にも出たことのあるキャラなのかを調べつつ状況がどーなっているかを断片に散りばめられた会話から探りつつ、読んでいたら読み切るまでに何時間も経ってしまって改めて、情報密度の濃さにうんざり……じゃなかった驚嘆する永野護さん「ファイブスター物語」の12巻。王女だったアルルがコーラス王家から何故抜けだしていてそれをコーラス王女が何で追いかけているのかを実は思い出せないんだけど、とりあえずいろいろあったんだろーと諸事情は棚上げしてひとまず理解。顔は好みだけど登場は唐突なマオリー・ハイアラキっていったい何者でどんな役割と果たすの? って疑問もあるけれど、そんな唐突さはいつものことだと諦めつつ、とりあえずはこのエピソードくらいは決着を付けて欲しいと願っているけどそれがかなうのはきっと北京五輪か南アフリカのワールドカップを見て後のことになるんだろーな。長生きしなきゃ。


【4月7日】 希にみる莫迦とゆーか。度し難い阿呆というか。日本新聞協会が4月6日を「新聞をヨム日」って勝手に決めてシンポジウムを開いたそーだけど、その「活字文化があぶない! メディアの役割と責任」ってシンポジウムで北村正任会長が、インターネットや携帯電話の普及で、ゆっくり文章を読み深く考える機会が奪われていると指摘したんだそーな。でもってこの間から公正取引委員会が打ち上げている、新聞の定価割引禁止を定めた特殊指定の見直しを理由に「日本の活字文化は極めて危ない状況にある」と問題提起したんだそーな。

 巫山戯るな。「インターネットや携帯電話の普及で、ゆっくり文章を読み深く考える機会が奪われている」訳なんかないだろー。ネットだって読むのは活字で携帯電話のメールも活字。読まなきゃコミュニケーションなんてとれやしないのに「活字文化が危機」だなんて言ってやがる。違うって。危機なのは「新聞」であって「活字文化」じゃないってば。「深く読み考える機会」をそもそも新聞が与えているの? 他と大差ない論調でもて当たり障りのないことを書いて「いかがなものか」とモノを言った気になって、その実まるで実効性を伴わない負け犬の遠吠え。深く読みよーもなければ考える価値もない記事ばかりを載せ続け、挙げ句に読まれなくなっているのにそーした自分を省みることはせず、「活字文化の危機」だと活字文化の代表然として「再販制度」の維持を呼びかける。実に阿呆らしい。

 会長も酷ければ応援団も惨い。作家の柳田邦男氏が基調講演でゲーム漬けの子供の心の未発達などをIT(情報技術)革命の負の側面だって行って「ネット社会では言葉は断片化して深まりがなく、人間の心のひだや生きがいなどを表せない。新聞には、こうした記号化にどうチャレンジするか考えてほしい」って話したんだそーな。冗談じゃない。新聞の事大主義で形式主義で横並びで、”断片化して深まりがなく人間の心のひだや生きがいなどを表せない”記事の横行こそが新聞から客を敬遠させる原因になったんじゃないか。そのことに気付いてないのか。そとも気付いていて敢えて言わないのか。

 けどみんな知っている。だから新聞からみんな離れていく。それなのにこの期におよんで新聞こそが活字文化の担い手であり、その立場を脅かす再販制度の廃止赦すまじと声高に叫ぶ。自分たちの商売に影響があるからと言わずに活字文化を半ば人質にとって守るべきだと訴える。何とゆー傲慢さ。何とゆーみっともなさ。こんなことを恥ずかしげもなく言うからますます新聞離れが起こるというスパイラルに、気づき改善しなければ例え再販制度が維持されたって新聞に未来はあり得ない。遠からず消滅への道をたどるだろー。とくに部数の出てない弱いとこころから。ってどこだよそれ。身辺整理を初めておいた方がいいかなー。

 三番町にあるゲーム雑誌の会社に行く用事があったんで直前にお弁当を買って千鳥ヶ淵で散り際の桜を観ながら一人で花見。一人で花見。一人で花見。連呼に特に意味はない。んでもって振り向くとちょっと前に騒がれたイタリア文化会館の赤く塗られたビルがあったんだけど、フェラーリみたく輝く赤ではなくって渋く落ち着いた朱泥に近い赤色で、おまけに窓枠の部分は緑色に塗られているものだから、手前にあった葉の赤い生け垣とそれから街路樹に生い茂る緑に溶け込んで、実に落ち着いた雰囲気を醸し出していた。

静かな赤が緑に融けて良い感じ。これをとやかく言うなら「東京タワー」にも何か言ってくれ  曇り空で陽光が直接ぶつかっていなかったってこともあるんだろーけれど、晴れていればそれだけ木々の緑も青空に映える訳で、そんな中に渋く立つ赤色の建物が言われるほどに調和を壊すとはちょっと思えない。仮にその建物がレンガ積みで造られたものだったら、周辺のグレーのビルにあってひときわ派手に目立つ建物になったことだろー。それでも果たして周辺の住民は文句を言ったのか。レンガの色より落ち着き窓の緑色とも相まって自然に調和している建物であっても、イタリアが作ったってことで千鳥ヶ淵なり皇居なりっていった”和”への関心が一段と濃くなる地域に、外国人が土足で踏み込んだってアングルをどこか心の奥底で組み立て抗議したんだろーなー、でもってそのアングルにのってメディアも非難してみせては、”和”に惹かれる読者層に媚びてみたと。

 それを言うなら赤白ダンダラに塗られた「東京タワー」の方がよっぽど景観を壊してるってーの。名古屋で長くテレビ塔を観てきた目にいわせると、空にそびえる塔は銀色に輝いているのが普通であって赤と白に塗られた塔なんて中京テレビの横にある偽テレビ塔とおんなじで、紛い物ってイメージがどこまでも付きまとう。工事現場のクレーンとか、屋上に立つ誘導灯といった業務用ってイメージも。そんなものを東京のシンボルとして長く崇めている感性がまずは信じられない。

 あれがもしも金色に輝いていたら、蒼天に突き上げる金色のパゴダとして世界がその足下にひれ伏しただろーし、売られている土産物との整合性もとれただろー。あるいは銀色だったら天空へと向かうロケットにも似た勇躍のイメージを与えてくれただろー。なのに赤白。航空法に指定されているならそれを改正してでも景観を守ろうってゆーのが筋なのに、誰も「東京タワーを金色に塗れ」とは言い出さない墨田区に出来る新タワーもきっと、赤白に塗られてその無惨な姿を関東平野にさらすんだろー。それでも平気か? 航空法だからと従うのか? イタリア文化会館に文句をつけている暇があったらそっちをまずは片づけてくれ。

 想像してみてごらん。上海のテレビ党がもしも赤白だったら、上海の近代化されているイメージは大きく削がれたに違いない。中国人民だってきっと大反対しただろー。エッフェル塔が明日から赤白に塗られるとしたら、パリっ子も就職差別へのデモをやめてシャンゼリゼに大集結して気勢を上げたことだろー。でも「東京タワー」には誰も反対しない。メディアも論陣を張らない。そんなもんだよつまりは日本人の感性なんて。慣れれば何だって平気になるよ。ほら例のあの、隅田川のほとりに浮かぶ金色の雲古にだって今さら文句を言う人はいないもんね。あれ、やっぱり変だよ。

 よーやくやっと「ひぐらしのなく頃に」を観たら冒頭からバットが唸って血しぶきが散っていた。ハードだねえ。地上波でもキー局じゃあちょっと放映できないだろーね、とくにテレビ東京じゃ。ほかにも普通に可愛い美少女が巨大な鉈を背負っていたりして、こいつは幻想性もたっぷりのホラーかサスペンスかと思いこんでいたら、始まった本編は冒頭からラブコメ展開。キャラのデフォルメも激しくってオープニングのシリアスさはもしかしてブラフ? って油断したところにチラリとのぞく暗い闇。何やら過去に起こったらしー事件の謎に迫るうちに少年が、真実を知り恐怖を味わっていく展開にこれからなっていくんだろー。ゲームとかやってないんで先入観なしに恐怖を味わっていこー。


【4月6日】 ヤバくない? アニメーション『プリンセス・プリンセス』のオープニング。男子校に転校してきた美少年が、学校に潤いを与えるために美少年を選んで女装させる「姫」の制度に従って、女装させられ大変な目にあったりするってゆーつだみきよさんの漫画を原作にした番組で、文字で読むなら脳内でいかようにも変換できる女装少年の声が、リアルに男性声優の声で当てられていて、聞いて目と耳の間にギャップが生まれて身もだえさせられるのは覚悟の上のことだったから良いんだけど、オープニングの歌声までは流石に注意を払っていなかっただけに驚いた。

 上擦っている。上滑っている。浮ついている。爽やかさで世にファンを増やしつつある宮澤篤司さんらしー歌声と言えば言えないこともないんだけど、それでも声の出てない楠瀬誠志郎さんていうか、爽やかさ風となって迫るとゆーより霞みとなって無消してしまい、聴いてて魂に響いて来ない。どーにも妙に無理矢理爽やかさを演じてみせているっぽいニュアンスが漂っていて、ひねくれた耽美さに溢れた設定のアニメの内容とも重なって、余計にわざとらしさを耳に感じさせてしまう。同じわざとらしさだったら新番組「朝比奈みくるの冒険」で朝比奈みくるが唄ったオープニングの方が、まだ、自主制作映画に素人の出演者がつけた歌って感じの下手さをわざとらしく出していて耳に馴染む。ってかそーゆーもんだと納得して聞ける。

 対して「プリンセス・プリンセス」のオープニングは、マジに爽やかさを醸し出そうとしてる節があって、その真剣さが歌声のわざとらしさとの間に乖離を招じさせて聞く側の居心地を悪くする。これだったらまだ出演声優たちが声を合わせて唄った方が、それらしくって聞いて違和感を抱かなかったかもしれないなあ。もちろんメーンの視聴者層だと予想される女性の方々が宮澤さんの歌声を爽やかで耳心地が良いって思う可能性は否定できない。そーゆー人たちの支持さえあれば番組は盛り上がるしDVDだってCDだって売れるだろー。果たしてどんな反響が出るのか。でもってCDの売上にどんな影響が出るのか。注意を払って観察しよー。「キミに出逢ってから」は5月25日発売予定。いかにもなタイトルだなあ。肝心のアニメはそのまんま「プリンセス・プリンセス」でした。いっぱい出ている可愛い子に、みぃんな付いてると思うと心が……痛い。

 正義のために戦うだとか言っちゃって、ムービーの場面で悲愴な表情なんか見せてるキャラが、ゲーム画面になると途端に剣だの槍だのを振り回したり、魔法を発動させては群がる敵をアリか虫かってな感じに吹き飛ばしなぎ倒す、その横では「200KILL」だの「500KILL」だのって感じに、殺した人数が積み上がっていく様を観るにつけ、このゲームを作った人はどこかに何か大切なものを置き忘れて来ているんじゃないかって、居心地の悪さを覚える今日このごろ。

 「スペースチャンネル5」とか「Rez」とか作った水口哲也さんがセガを辞めて開発している「ナインティナインナイツ」は、一騎当千の「新・三國無双」的アクションに美麗なキャラの織りなすドラマが重なった、面白さを予想させる「Xbox360」向けでも期待とタイトルで、実際にプレーしてみると楽しめそうな雰囲気は持っている。けど正義を訴えかけるよーなストーリーを体験させる一方で、敵兵を殺せば殺すほど数字が積み上がって”快感”が得られるよーにしているのは果たして真っ当なんだろーか。

 これが「真・三國無双」みたいなゲームだったら、一騎当千は最初っから快楽の手段として認識されているから、敵を相当するアクションも一種”作業”として理解し納得できる。けど、一方で正義を謳ったドラマを流しつつ、カウンターでもって何人殺しただのと教えて煽り、ゲーム内の殺しを”作業”にししてしまっているのがどーにも気持ち悪い。訴えていることとやらせていることの矛盾って奴を、作り手はちゃんと理解しているんだろーか、それとも殺せば殺すほど物理的ではなく精神的な何かが、操作するキャラクターに現れたりしてゲームのクリアが複雑で、且つ奥深くなって行くんだろーか。たぶんそんなドラマは想定されずに矛盾を投げかけながらもひたすら一騎当千を楽しむゲームとして売られ、そして買われていくんだろー。寒い時代だと思わずにいられない。

 そんな「ナインティナインナイツ」の最新情報も紹介されたマイクロソフトのメディアブリーフィングでは、バンダイナムコゲームスから新作「ゼーガペイン」のゲームも紹介。昨今のバンダイの得意技とも言えるゲームとアニメとあと漫画やら小説やらの媒体で並行拡散展開されるコンテンツって所だけど珍しいのはゲームが「Xbox360」オンリーって点。普通は「プレイステーション2」にあと「プレイステーションポータブル」とか「ニンテンドーDS」なんかでちょこまか出しては薄くお金を集めるのが、バンダイ的なアニメのゲーム展開だったけど、「ゼーガペイン」はアニメのスポンサーに「Xbox360」が入っているんでそれはなさそー。

 ってゆーか最初にマイクロソフトからゲームの話があって、それならとお金を頂戴しては、ゲームだけじゃなくアニメを1本作ってしまったって感じ? 億単位でお金はかかるだろーけれどゲーム1本の宣伝費だって今時何億とかかかる時代。だったらアニメとか漫画で関心を掴んだ方が早いですよとでも説得したのかな。それには肝心のアニメがしっかししていないといけないんだけど、放映が始まった「ゼーガペイン」は部員のいない水泳部で1人はりきる少年と、映画作りが趣味の女の子との腐れ縁的幼なじみ関係に割って入るクールな美少女ってラブコメチックな日常が、実は虚構か何かで人間は世界を脅かす敵と戦っていたとか何とかって設定に上遠野浩平さん「虚空牙シリーズ」をふと思い出す。

続々と売れていくタカノさんの新作画集。西島さんの「アトモスフィア」も売っているけど誰も……仕方ないよタカノさんの個展だから  今はまだ戦闘場面が虚構なのかそれとも学園生活も戦闘場面も含めてすべてが虚構でみんなどっかのカプセルで夢を見ているのか、判然としないけどそーした日常と非日常の狭間にあって、けれども曲がらない主人公の熱血(声まで往年の石丸博也さんに聞こえて来るくらいの熱血)ぶりが世界を引っ張り物語を引っ張っていくんだろー。人間が乗って動かすパワードスーツの光る部分が「Xbox」的なグリーンを基調としているのはやっぱりスポンサー様のご意向か。あれを毎週見せ続けることによって店頭の「Xbox360」への意識付けが自然と行われていくとゆー。でもなあ、こーゆー作品を平日の夕方にやられても、「Xbox360」を買うよーな世代は正直あんまり観ないんだよなー。真夜中だって観ないけど。とにかく多すぎ。今春の新番組。

 渋谷へと廻って8日から始まるタカノ綾さんの個展「都会犬」のプレビューを見学。すでに早川書房から出る「トーキョースペースダイアリー」が既に並んでいたんで1つ買う。メーンは基本的には画集で、間に「SFマガジン」で連載された「飛ばされていく、行き先」も入っているって体裁はまず早川書房的ではないし、それを編集したのが「SFマガジン」の塩澤快浩編集長だとゆーのもパッと聞いて信じられない本だけど、西島大介さんの「凹村戦争」やら」「アトモスフィア」といった漫画でもエッジの効いたところを編集・出版していること自体が信じられなかったりするんで、アートでもガールポップの先端を行く本を塩澤さんが手がけたって別に不思議はないのかも。ないと思う。けどでも。次は写真集でも編集したりして。

 単行本はタカノ綾の21世紀に入ってからの仕事がぎゅっと詰まっててなかなかの見物。「girls don’t cry」に展示されてた、埼玉っぽい田舎の路上を歩く細い女の子の絵も入ってて、SF的なアイディアも含めて頭のなかで混沌としていた虚構のビジョンに、現実の世界のビジョンが重なり融合していく段階の、タカノ綾さんの画業が垣間見えてなかなかに興味深い。「飛ばされていく、行き先」は24編あるうちの12編だけが抜粋ってのがSF的にはやや寂しい。コメントで残念がっていたからタカノさんの意向ってよりは「トーキョースペースダイアリー」って本の性格上、やむなく切ったって所か。いずれ完全版を読みたいなあ。言葉の英訳が付けられていたのは海外を意識したから? 海外のSF誌に転載とかされたら面白いかも。それでヒューゴー賞を獲得したらなお凄いかも。

 んで展覧会の方はさらに新しい感じの作品がわんさか。「GEISAI」で描いていた半分に躍動する少女、半分に鳥をくわえた白い犬とベロを出した黒い犬が描かれた作品も完成していて、巨大な人形の黒犬白犬に挟まれて鎮座ましましていた。大きいからって塗りが平板になる訳でもなく、モチーフがおおざっぱになる訳でもなく隅の方までそれなりにモチーフが詰まってて、それでいて鬱陶しくならずバランスよく配置されているのに感嘆。これを含めて大きな絵が結構増えていたのは、わき出すアイディアを目の前の紙やら何やらにぐにょぐにょと描きなぐっていった初期から徐々に全体を見通して画面を構成できる画家として、進化していったことの現れか。大きい画面に裸で鎧をつけた女の子が1人立つシンプルな構成の絵も見て別に冗漫じゃなくい、かといって威圧感もないのは絵として見せようってゆーバランス感が、しっかりと働いているからなのか。

 一方で小さい画面の絵もただワンポイントのモチーフを描くだけじゃなくって、しっかりと隅々までモチーフが描かれていてこちらも進化。「ギリシャ篇」とかって小さな作品はどっかの海辺の村だかにある家の中庭を描いた作品で、そんなユトリロみたいなちょっぴり歪んだ家とかバイクとかの風景に、しっかりとタカノ綾さん的なスリムで顔が丸くて目のくりっとしたキャラクターが佇んでいる複合感が素晴らしい。中庭から家屋と家屋の隙間を通して見えるあれは海? その方角に赤い服の少女が何故か浮かんでいる所が単なる風景画に留まらない、タカノ綾さん的なビジョンを見せてくれている。

 今回の展覧会で実は1番気になった作品がこれ。パチンコとかパルコとか都会のビジョンに少女が重なった作品も好みだけど、そんなモチーフをタカノさんならいかにも選びそうって思われている中にひょろりと何作か、あんまりタカノさんっぽくない田舎の風景を描いて見せそれでいてしっかりとタカノ綾の作品と感じさせる作品が混じっている。これも新たな進化の現れか。この路線が発展していた時にどんな光景が現れるのかに興味。そんなこんなでしばらくいたけど塩澤編集長は姿が見えず。SFのパーティーには違和感なく溶け込むけれどアートな場だとSFな面々はやっぱり雰囲気、浮くか沈むかしそーだもんなー、僕も含めて。日曜日のトークショーも行こう。


【4月5日】 最後まですれ違いから生まれる憎悪から抜けきれなかったみたいなホランドとデューイの兄弟関係とは違ってこっちは表向きでは反発しあっているよーで、でもしっかりと兄弟愛が働いていたみたいでちょっと安心。2カ月連続だなんて過去を振り向けばまるで考えられないペースで新刊の出た長谷敏司さん「円環少女」シリーズの最新刊「煉獄の虚神(下)」(角川スニーカー文庫)は「神に近い男」と評判のデューイ、ではなくグレン・アザレイが魔法の使えない煉獄すなわち現代を滅ぼそうと巡らせる企みに、魔法を打ち消す力の強い仁とそれから煉獄に落とされた魔法使いの鴉木メイゼルが挑むとゆーストーリー。

 決戦の舞台に何故か選ばれた南の島でメイゼルは白い腹を出して薄い胸を包んだビキニ姿で登場するし、前作で発見された天然物の魔法使いの蔵本きずなはたわわなバストを包んだビキニで登場。それから魔獣使いと評判の寡黙な美少女の魔術師もスレンダーな体をこちらはワンピースで包んで登場と、眼にも鮮やかなビジュアルを見せてくれたりとファンサービスは万全。加えて後半は日本を高波によって一瞬にして水没させてしまおうってゆーグレン・アザレイの破天荒な魔法との緊迫ある闘いが繰り広げられて、何がどーなっているのかを追って1行たりとも目が離せない。人形使いの魔法使いが辿る哀しい運命も見物でラストシーンに繰り広げられる闘いとの絡みもあってこれまた心を揺すられる。

 そんな人形使いの女魔法使いが願って止まなかった家族との絆は、そのままグレン・アザレイの双子の弟で早くに放逐されては犯罪に手を染め煉獄に落とされどん底を味わった浅利ケイツとグレン・アザレイとの関係にも重なってくる。正統な跡取りとして表舞台を歩き高い能力を持って「神」に迫ったグレン・アザレイへのケイツの嫉みは凄まじく、さらにグレン・アザレイが「相似形」という似ているものは同じだってゆー原理で動かす魔法によって、ケイツに同じ能力を与えてしまったものだから自分自身を否定された気になってなおいっそうの憎悪を膨らませる。そんな感情が2人を対立させるけど、世界が終わろうかとするその時になってグレン・アザレイの行動の奥底にある情愛の感情が明かされて、世界の命運にも関わって気持ちを安心させ涙に湿らせる。

 何しろ1人で何千人とかの魔法使いをたちどころに殺害できるだけの力をもったグレン・アザレイ。倒せばそれだけで100人の逃亡した魔法使いを狩るまで煉獄から抜け出せないとゆゆー罰を赦されることになっていて、それを鴉木メイゼルは成し遂げた訳でつまりはシリーズも一巻の終わりとなってしまうって心配したけど、どーやらそうはなってなくって小学校に仁はあっぱり偽教師として赴き勉強を教え、メイゼルもそこに通って減らず口をたたきながらも学んでるとゆー腐れ縁関係が続く模様。最強の敵の次だけに書く方も難しくなって来るんだろーけど、1巻で異常なテンションと卓抜したアイディアを見せたにも関わらず、続編でかくも凄まじい世界を描いた長谷さんだけに、きっと次も素晴らしい作品を描いてくれるだろー。年内にとか言ってないですぐ書こう。でもって出そう。1年6冊くらい行っちゃえ。

 双子の兄弟といったら「エル・ゴラッソ」の2006年4月5・6日号に掲載のとうこくりえさんの漫画に佐藤勇人選手佐藤寿人選手の双子が登場。曰く「関係ないけど佐藤兄弟の似てなさぶりが大変すばらしい 土台(骨格)がいきなり違う!」。それは見た誰もが感じていることで、ワイルドな風貌で千葉の湾岸をチョッパーにしたバイクで突っ走ってて不思議のない勇人選手と比べると、寿人選手は髪さらさらで表情もすっきり。髭を生やしたところで勇人選手みたいにはちょっとならない。同じサンフレッチェ広島に所属している森崎ブラザーズがまるで同じ顔をしているのと比べると、こうまで似てない双子ってゆーのも珍しい。

 けど確か2人は二卵性双生児で、二卵性ってのは似ていないことも結構あって例えば僕ん家なんかがその代表例。丸顔に対して卵顔だったりと骨格は違うし性格だってネクラなオタクと開放的なイケメン、家族だって独身と妻子有り、家だって6畳1間と持ち家車付きといった具合に全然違ってる、ってそれは双子と関係ない? まあともかくも二卵性の双子については顔が似ないことなんてごく普通。だから決して勇人選手は落花生畑で生まれて寿人選手はマザー牧場で生まれたなんてことはないだろー。けどあるいは。うーんん。ちなみに同じ「エル・ゴラッソ」には巻誠一郎選手の確か弟で駒沢大学にいる佑樹選手が写真で登場。背筋を伸ばし歯を食いしばって走る姿がこちらは兄貴に実にそっくり。ジェフユナイテッド市原・千葉に入ってツインでトップで頑張る姿を見たいなあ。でも同じタイプが2人いても意味ないか。

 耽美さを出そうとしてやや外してる感もあったりした「シムーン」に比べてこっちは明るさと淫靡さが同居して実に楽しげな「錬金3級 まじかる?ぽかーん」。全編は見られずオープニングと本編の冒頭しかまだ見ていないけどそこだけでアンダーなウェアは見えてるし女の子どーしのキスもあったりして目にも楽しく心にも嬉しい。お話は何かいきなり始まってるっぽいけれど過去にシリーズとかある風もないし、ちょっと謎。ゲームとか漫画とかに前段のエピソードがあってそれを前提にしているのかなあ。

 もっとも前提なんか知らなくたって、最高なビジュアルさえあればそれを眺めるだけでも十二分に堪能できるのが人間って奴だ。オープニングのクオリティが本編にも適用されているかは分からないけれど、少々崩れていたって溢れるお色気でもって楽しめた「タクティカルロア」の先例もあることだし、「タクロア」「舞−乙HiME」の消えてしまった今期を、目でもって楽しませてくれる作品の筆頭として、最終回まで毎週見続けその豊満だったりぷりぷりだったりぴちぴちだったりする姿を愛でていくことにしよー。「エウレカセブン」の再放送? もう十分だ。


【4月4日】 そして始まった「舞−乙HiME2」は、舞台も空中に浮かぶ要塞都市へと移り、オトメはローブではなくカタツムリみたいな格好をした飛行機「シムーン」を自在に操り、フォーメーションを組んで紋様の航跡を描いては、輝きを放って敵を破壊する技能を持ったパイロット「シムーン・シヴュラ」として皆から敬愛される存在に。エリート意識の発露からかそれともそういう仕組みで動く飛行機だからなのか、複座のコックピットに座る2人の美少女パイロットたちの間には情愛めいた感情が行き来していて、2人の交わす契約ならぬ接吻が飛行機の頭脳を駆動させてより高度な技を可能にする。

 そんな突出した科学力は周辺諸国の恐れをそして妬みを生んでいるようで、攻め入る国もあって最強であるはずのオトメたちにもやがて危機がしのびよる。そこに現れたのがアリカ・ユメミヤならぬ新しい美少女パイロット・アーエル。エリート然としたオトメならぬ「シムーン・シヴュラ」の中に入り、相方を失って心を閉ざすニナ・ウォンではなくネヴィリルとペアを組んではガルデローベではなくシムラークルム宮国へと迫る危機、そして科学技術が拡散することによって生じる危機から世界を護ろうと立ち上がる。

 とゆー話で宜しいか「シムーン」。女性しか生まれてこない世界で人は17歳で性別を選び直すとゆー設定はSFにもあったりして魅力的だし、どーしてシムラークルム宮国にだけ「シムーン」があって突出した科学力を誇っているのかって歴史的な経緯への謎もあったり、圧倒的なはずだった「シムーン」を物量でもって脅かす国が出てきて混乱する世界がどこへ向かうのかって興味もあって見続けたいって気持ちをかきたてる。どーして女性しか生まれてこなくなったのか、って部分の説明まであればなお世界観も深くなる。

 一方でふくよかな唇どうしがアップになって重なる官能的なシーンも1話に何度かあって、背中をぞくりとさせてくれるけどそーしたビジュアル的なフックが、突出して物語や世界設定から乖離していく懸念もあるだけに、その辺りのバランスをどう採りつつ、世界への興味とキャラへの感心を保ち続けられるのか。そのへんはベテラン西村純二監督の腕にかかっていそー。西田亜沙子さんのキャラクターはそれぞれに見れば美麗で可愛く凛として愛らしいんだけど全体として見渡すと、別の国とか別の作品とかから集めて来たような雰囲気も。アーエルも1人魔法少女みたいだし。まあネヴィリルとパライエッタが立っているから良いか。

 詰めている場所が有楽町の近くになっていたこともあって、有楽町から銀座一丁目へと向かった首都高の下のモールまで歩いて一部には有名なスパゲッティの「ジャポネ」に行く。大手町にある「リトル小岩井」と同じぶっとい系の麺をフライパンでじゃっじゃといためて野菜やら、肉やらをまぜるタイプのスパゲッティで名古屋でお馴染みの餡かけスパゲティと太いところとか炒めるところはやや共通。ただし餡はかけないで炒めた中に具を混ぜてあって見たところなかなに香ばしい。調整が良いのか油もあんまりギトギトしていない。ヨコイだと餡に油が浮くこともあるからなー。それはそーれでも共通か。サヴァランは不明。ユウゼンは潰れた? ってすごくローカル。

 ジャンボがあって横綱もメニューにあったけど昨今の胃腸では大盛り特盛りに挑むのは不可能とレギュラーのナポリタンに。ケチャップがどっぷりかかって甘いかって心配したら案外にスパイスが効いててベトベトもしていなくってするっと食べきることが出来た。これならジャンボだって大丈夫。横綱だって平気かな。ただしここん家は横綱より上の隠しメニューもあるそーで、例えば親方はレギュラーの3倍とも4倍とも言われる麺が皿にてんこ盛り。理事長になると4倍から5倍って感じになるそーで、それを食べるのは如何に胃腸の調子が良くても不可能に近い。けどでも人と生まれたからには1度は挑戦したいって気も。「CoCo壱番屋」の1300グラムカレーも消滅してしまった今、ジャンボな食べ物をリーズナブルに食べられる店ってあんまりないからなー。少し胃腸を鍛えるか。理事長より親方より多いとなると何だろー、横綱審議委員会? 麺10倍? あったとしたら本当の大関に挑戦してもらいたいところ。食い切れれば横綱推挙。

 出だしの部分でちょっぴりの”魔法”が働ききっかけを作った清水マリ子さん「侵略する少女と嘘の庭」(MF文庫J)と同じよーに、ちょっぴりの魔法がストーリーの進展や事件の解決に関わる話が藤村脩さん「黒き河を往け」(ジグザグノベルズ)。19世紀末のロンドンで、探偵事務所を営むラウディはおっとりとした商館の主人からなくした指輪を探して欲しいとの依頼を受ける。「術式」と呼ばれる魔法をちょっぴり使って指輪の在処を見つけたラウディだったけど、その場所に入れない主人に代わってラウディの家に居候している少女のシールズが潜入を試みる。そして見つけたのはロンドンを震撼させる物だった。

 事件そのものにもちょっぴりの魔法が絡んでいたりするけれど、それが前面へと出て来ることはなく、単なる科学とも技術とも言えそうな程度に収まっているのがこの本の特徴。次々と起こる娼婦の殺人事件に挑む主人公が犯人と戦う話でも、そこで派手な魔法バトルが繰り広げられることはないし、差分機械のチャールズ・バベッジが登場しては模型の差分機械を狙う誰かから護って欲しいと依頼する話でも、ラウディの「術式」は事件そのものには大きく絡まずやっぱり一種の「技術」として、潤滑油のように物語を先へと進める。

 その意味では魔法によって得られる奇想のビジョンを楽しむファンタジーにはちょっぴり遠いけど、科学のない時代において不可能を可能にする技術が登場 しているって意味ではあっぱりファンタジーって言えるのかも。バベッジの名前にバイロンの娘、エイダも登場するエピソードはウィリアム・ギブスン「ディファレンスエンジン」とか山田正紀「エイダ」の読者なんかに受けるかな。受けないか。けどそっちを呼んでいる人にとってはこういうほのぼのとしてちょっぴり哀しく、そして温かいベッジとエイダの関係ってのは逆に新鮮かも。ページが重複している落丁もあるけど本編とはあんまり絡まないから気にしない。


【4月3日】 行く(逝く)アニメーションあれば来るアニメーションあり。ってことで日曜日深夜から月曜早朝にかけて新作アニメをわんさと見る引きこもりなウィークエンダー。桜は各所で咲き乱れてはいるけれど、それを愛でる場所に引っ張り出されるような人徳も才覚もないんで仕方がない。って訳で確かローマ字だったと記憶している阿弥陀ドライブに出現する文字が、最終回では朝からテレビを見る小さい子供に配慮したのかカタカナになってて、1年という時間の長さを思い知ったアニメの後に放映されて、春眠に微睡みかけた日本中の目を見開かせた「おねがいマイメロディ くるくるシャッフル」をまず鑑賞。既に試写で見てたけれどやっぱり強烈。心にずきゅずきゅと突き刺さる言葉の矢に倒れ伏す人々の呻きが彼方より聞こえてくる。

 第1シリーズの最終回で地球の平和を救うと誰もが期待をかけた美紀のポエムが、「意味不明」だと斬って捨てられた時には、そのあまりにも手のひら替えしの度が過ぎる残酷な仕打ちに血の気も引いたけど、現実問題において意味不明なんだから仕方がないとここは理解。そんな逆境から美紀がまた這い上がっては、素晴らしくも電波的なポエムを聞かせてくれると信じることで、これからの展開を毎週楽しみに見ていける。シャッフルってことは毎回違うお助けキャラが出てくるってことで、その中にきっとポスターでは黒塗りされている謎のウサギ男なんかもいるんだろー。けどいったい誰なんだ、あれ?

 そして「タクティカルロア」が緊迫の対潜水艦の戦闘を描いてくれはしたものの、ラスボスを倒す場面は端折って半年後の再会からラブコメシーンへと向かい大団円。途中に出てきてあれ誰だったっけって記憶もうっすらとしか残っていない「相似形の悪魔」ことゴスっ娘の姉妹がよくわからない展開で狙撃とかして、その結果がまたどーなったのかが分からないけどとりあえずはボクっ娘の綿摘翼ちゃんが、未だフリーのまんまで悶々としている様が描かれそのまま次回へと繋がって行きそう。あればだけど。ないよなあ。

 そして始まった「朝比奈みくるの冒険 エピソード00」は……違う「涼宮ハルヒの憂鬱」は、とりあえず「ハルヒ」における基本的設定的な説明は一切抜きにして、涼宮ハルヒって元気いっぱいの「SOS団団長」とやらが部員を使って、得体の知れない自主映画を作ったってゆーシチュエーションで、豊満な朝比奈みくるがバニーガールの格好をしては商店街でバイトをし、それに長門有紀が挑むってゆー美少女戦士だかラブコメだかが繰り広げられるってゆー映画が、1話のほとんどと使って流される。一種の劇中劇って訳ですね。

 自主制作なんで出演している商店街の人はみんなセリフが棒読みだし、同級生は演技より先に笑いが来る始末。みくるが唄う映画のオープニングがまた凄くって頓狂に音を外しまくっていたりして、それがまた自主制作っぽさを醸し出す。よくぞ唄った後藤邑子さんそれがもしかしたら実力かもしれない可能性はおいといて。そんな展開がめいっぱいに続いたものだから、基本となるハルヒが何で周囲の人々が何者で、それがどういう状況で群れているのかって部分がまるでオミットされていたのは、ああいった裏の裏を衝いて喜ばせる話を影像によって描いて混乱させるより、まずは掴みで引きつけそれから徐々にっていった戦略か、それとも原作を読んですべてを知って見る人のための番外編的お遊びか。

 同じライトノベル原作の「吉永さん家のガーゴイル」が、割に本編に沿った形になっててあんまりぶっとんでおらず、かといって絵として動いている様を見て楽しいかとゆーとそーした部分もまだあまりなく、微妙の境界を左右に揺れ動いているのと比べると、アニメとしての独特さを出そうって意欲の高さは「ハルヒ」の場合は買えそう。「ガーゴイル」は若本規夫さんのガーゴイル喋りを楽しむ作品と思えばそれで思えないこともないけれど、今んとこその若本喋りに強力さがないのも気にかかる。かといってアンデルセンみたく独特の極北を行かれてもかえって浮いてしまうのが難しい。ともあれ「ハルヒ」は本当の本編が始まる次週以降にお手並み拝見。まさか長門有希の唄うオープニングで始まったりはしないだろーな。

 まさかこんなに早く再会の時が来るとは。年末まで放映されてからわずか3カ月の間をおいて、続編となる「ARIA The NATURAL」がスタート。だったら最初っから続ければって気もするけれど、それでクオリティが下がるってゆーのも勿体ない話。淡々と作りつつ粛々と放映しては着実に、人気を得てファンを獲得しつつ旬も維持して単行本の人気もしっかり保つってゆー形が見えて作品的にもビジネス的にも良い結果を生んでいる。放映が終わると途端に原作の人気も先細り、なんて作品も過去に結構あったから。しかしこの大量放映の最中によくちゃんと枠が取れたもの。日曜深夜ってのも気持ちを落ち着かせたい時に見られてタイミング的に最善かも。直後が「スクールランブル」ってドタバタなのはご愛敬、だけど。

 初っぱなからカサノヴァが出てくるカーニバルのエピソードとは泣かせる。単行本でも好みの物語。火星に新しく作られた街なんだけど、狭間があってそこから不思議な世界がのぞくってゆー設定がにじみ出ていて日曜の深夜に微睡む頭をさらに不思議な気持ちにさせてくれる。本編だと灯里がひとりで迷い込む幻想空間にアニメオリジナルのアイも加えているけれど、1人だとちょっぴり怖い雰囲気になるところが2人なんで楽しげな感じが出ていて安心。ほかにも好きなエピソードは沢山あるけれど、限られた話数なだけにまずはカサノヴァが見られたんであとはお好きに。前作にあったトンネルをくぐり過去に行ったよーなオリジナルの、それでいて「ARIA」の世界にぴったりと来るエピソードも見たいなあ。

 そして週明けからも続く新番組のラッシュにすでに頭は飽和状態。見る物を有る程度絞っていかないとこいつは大変なことになる。とりあえず確定は「ブラックラグーン」であとは「ガラスの艦隊」「夢使い」「ゼーガペイン」「シムーン」「錬金3級マジカルぽかーん」「ウィッチブレイド」「ひぐらしのなく頃に」「魔界戦記デスガイア」って辺り? 他にもわんさとあるけれど「いぬかみっ!」は本で読むのが筋だし「ひまわりっ!」はちょっと声がヤバそう。絵もあんまりokamaさんっぽくないしなあ。でも見るか。問題は春で特番があって時間帯が確定していない点か。調整しつつ予約を取りつつナイターの具合も見つつしていかないと、欠番が出て見続ける気力が萎えるんで注意。とりあえず月曜深夜は「シムーン」に「うたわれるもの」。「女子高生」はなあ、うーん、でもとりあえず見ておくか。


【4月2日】 犬に食べさせ犬のを囓る神父が出てくる映画を見て、聖職者への微妙な感じを抱きつつ読んだ清水マリ子さんの「侵略する少女と嘘の庭」(MF文庫J、580円)に、不埒な牧師が登場してますます聖職者への懐疑を増進させる春。まあ本来が高潔な方々だからこそ意外感を出すためにイジられる定めにあるんだと言えば言える。けどでもさすがに犬に囓られるのはなあ。痛いよなあ。「ゲルマニウムの夜」の石橋漣司さん。撮影でも本当に囓らせたんだろーか。どんな気持ちだったんだろー。犬に聞いてみたい。

 んで「侵略する少女と嘘の庭」。流行っている”運命の相手”探しに占いで早川牧生がたどり着いたのは、正直なのかあからさまなのか口が悪くて苦手にされている中山りあという少女。ふんってな面の彼女にこれからイジワルされ続けるのかと心配したら意外や彼女は牧生と裕貴と唯と琴美の幼なじみ4人組に加わり、さらには牧生の家へとおしかけ泊まっていったり、牧生を嘘の話で呼び出し二人っきりになろーとする。一体何が目的? いぶかりつつも攻められっぱなしは癪にさわると逆に彼女の家へといったらそこは教会で、彼女は学校では見せない顔を牧生に見せて来た。

 良い子でいてはいけない、悪い子でいなければいけない。それが中山りあにかけられた”呪い”。ためにりあは他人の傷をひろげる言動をとってはクラスの嫌われ者になる。そんな”呪い”に自分を縛るようになった理由の、歪んだ環境におかれ虐げられ続ける中で他人の干渉を親切も含めて拒み、自分を護り続けるためだったという痛ましさに胸が切なくなる。親の暴力に苛まれながら学校では強がってばかりいた桜庭一樹さんの「砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない」の海野藻屑とどこか重なる。

 けれど、そんな境遇をどこか許容し最後まで抜け出ようとはしなかった海野藻屑に比べると、心に刻まれた傷を”呪い”と認め庭を造ることで解こうとあがく前向きな姿が中山りあにはあって、「砂糖菓子」のよーな如何ともしがたい虚しさではなく、方法によっては救えるんだという希望が読後に湧いてくる。「砂糖菓子」が痛ましすぎたという人でも、こちらだったら読み通して安心。男の子にとってはかけがえのないものでも、女の子からは眉を潜められそうなプラモデル作りの趣味を、承認し讃えてくれる女の子ってシチュエーションも嬉しいかも。そんな子が実在するかは微妙極まりないけれど。

 ファンタジーと銘打たれつつ純文学に近い「侵略する少女と嘘の庭」に対して木村航さんの「ジャンクル!」(ファミ通文庫、620円)はジュブナイルと銘打たれつつも近いのはSFか。多分未来の地球。汚れた世界がなにかの理由で植物に覆われるようになって、そこで人は汚れた大地でも生きていけるようにと植物との共生を行うようになっていた。食べ物に含まれる毒素を中和し輩出するのが体に植えられた草花の役目。けれども人の体が弱ると植物は増殖して宿主を多い人を動かない植物へと変えてしまう。

 おまけに妙な病気が流行りだしていて、植物をひとつには枯らしてしまい宿主と一体化していた神経を狂わせてしまう病気で人が倒れ、もうひとつには逆に植物の勢いを活発化して宿主を急速に植物へと変えてしまっていた。そんな疫病をもたらしたという理由で、ソバグリの庄を追放されたのがハレタという少女。双子の弟のカゲリに身重の母親ユウヒも一緒に村を出て、頭に植物がなくても生きていける世界を目指し旅を続ける。

 楽天的なハレタやのんびりとしたユウヒの性格もあって、追放者たちの悲惨な道行きとゆーよりはどこか楽しげな道中記って感じで進んでいくけれど、設定された世界の状況は実にシビアだし、クライマックスに繰り広げられる光景もなかかなにシリアス。それを悲劇として描かないのは作者の性格なのかそれとも既に描かれた世界で人との別離は日常のこととなっているからなのか。話はとりあえず終わって悲しみを乗り越え進む少女ってエンドロールを味わうことも可能だけど、そんな世界で残ったハレタがこれからどんな道を歩むのか、魔女とはいったい何者なのかといった興味もあって、出来れば続きを望みたいところ。あるいは別のキャラクターによる世界へのアプローチって方法ででも。

 やりたかったのはラストシーン? そこからの逆算で作られた? だとしたらそれはそれで壮大にして遠大なコメディだったと讃えてアニメの記録に永遠に刻み込もう「交響詩篇エウレカセブン」。まさかチャイナさんだっとは。レンズ・ラルクだったとは。あんなものをこれから永遠に見せられる人たちってのもまあ悲惨だけど、個人的なメッセージでもなければ自分の願望を現そうとした訳でもない、世界を救おうとした結果だと解釈すればそのご褒美だと認めてあがても悪くないかも。だったらせめて相合い傘にして欲しかったなあ。ハートマークに2にの名前なんてあんまり使わないぜ。割れたらどーするんだ。

 そんな1時間スペシャルの最終回は絵としては最高。動きも良いしキャラクターの表情も崩れがなくって心地よさの中で見ることが出来た。戦闘艦であるにも関わらず戦闘機並の速度で動き回る月光号格好よ過ぎ。アネモネのすっかり憎悪の消えた表情もやさしげで可愛くってドミニクならずとも惹かれそー。Tシャツ姿も制服姿もどっちも良いねえ。展開的にもヒロインのピンチに1人挑む主人公が最後の場面に立ち上がり、バージョンアップした秘密兵器ともども特攻をかけるって話はそれだけで気持ちをかきたてられる。

 けど悩ましいのはどーしてそーゆー心理的な状況にレントンが至ったのかが、過去に積み上げられたエピソードの中で描き上げられて来ていたら、クライマックスに彼が屹立しては世界の破滅に立ち向かおうとする姿を、感慨をもって迎えられたよーな気もしないでもない。結局成長したのはゾーンに降りてからだって、迷い悩んでいた訳で、それが最後の最後に俺がやる、なんて言われてもなあ。せめてチャールズとレイの特攻あたりでひとつ、皮が剥けて欲しかった。

 デューイって存在も最後まで何をしたいのかがよく分からなかった。地球をコーラリアンの手から取り戻したい。その意志の源流は何に根ざしてて、そしてどーゆー段取りを経てあそこへと至ったのか。そんな内面への踏み込みがなくただ嫌悪感からコーラリアンに挑んでいるだけの狭量な野郎に見えて小物感が最後まで抜けなかった。そのあたりは小説の方で綿密に描き込んでくれると期待しよー。とりあえずは何だかんだ言っても1年を見続けさせた作り手たちの頑張りに拍手。そのパワーを今度は筋の通ったドラマの上で発揮してくれることを願い1年の締めくくりとしよう。ビッグバーグでも食いに行くか。


【4月1日】 春なのに4月なのに肌をチクチクと刺す寒さに早朝から眼がさめる。折角だからと機会を見ていつか行こうと思案していた映画「ゲルマニウムの夜」を観に、「東京国立博物館」がある上野へと向かう。映画で「国立博物館」とはこれ如何に? それはこの映画が博物館の一角に建てられた「一角座」でしか観られないようになっているから。日本中にシネマコンプレックスが生まれ単館系の劇場も続々とオープンしているこの時代に、専用劇場とはまた豪華極まりないって気もしないでもないけれど、それにはシネコンなり単館の劇場が抱えている問題が背景にあるらしい。

 「ツィゴイネルワイゼン」に「陽炎座」といった数々の異色作を劇場まで作って見せる荒技を、邦画界にあって散々っぱら見せて来た荒戸映画のまさに面目躍如というか、とにかくも演劇のように映画を映画館でもテレビでもDVDでも見られる影像商品としてではなく、その場において空間ともども味わうかけがえのない体験として人の暮らしの中に取り戻そうとする企みが、1本の作品だけを上映する映画館を「東京国立博物館」の片隅に現出せしめた。それが「一角座」。お花見の陣取り合戦に湧く上野公園を抜けてたどり着いた博物館の正面口から左へと折れて東京芸術大学の方へと向かい角を右に折れた入り口から、入った場所にそれは建っている。

見た目も内装も案外に真っ当。つーか上野のどの劇場より快適。  演劇の赤テントやら黒テントやらの仮設っぽさがもっとあるかと思いきや、庭のそれなりに良い場所に最初っから建っていたかのよーに鎮座していた「一角座」は、ロビーも綺麗だ館内も外の音が聞こえて来たりすきま風が入って来たりすることはまるでなし。ゆったりとした椅子に座り音響も抜群の中をちゃんと観ることができた。何でも地下鉄工事だかで使う音の漏れない囲いの素材を活用しての建物だとか。静かな訳だ。けれども既存の劇場を使えばそこまで自ら素材なんて考える必要はない。わざわざ自分たちで劇場を建てた理由はつまり、建てなければ公開できない、あるいは公開しづらいって状況が邦画のとりわけアートに寄った作品にはあるってことなんだろー。

 なるほどシネコンが増えてスクリーン数は増加の一途を辿っているけれど、そこで上映される作品は全国でどこも同じ。なおかつ確実に短期間で稼げる映画ばかりでロングランから評判を取るよーな映画はまずかからない。期待のプログラムピクチャーだって初動が悪ければ1日1回からレイトショーなりモーニングショー送りとなってすぐさまスクリーンから消えてしまう。過酷な商業ベースに乗りにくいアート系の映画はだからシネコンには最初っから乗りにくい。

 だったら単館系の劇場は? これは昨今の有象無象に増える配給会社のお陰でもって海外から買い付けられる作品のショーウィンドーと化している。1発当たればそれなりに儲かる海外作品。自ら作るよりも買い付け宣伝でもって盛り上げ客を呼ぶ方がリスクは小さくリターンが大きくなるってことなんだろー。海外の小品がわんさと入ってきてはスクリーンにかかる順番を待っていて、そこに新作の邦画が割り込む余地はどんどん小さくなっている。かくして撮られた映画が1年2年は公開されず果てに上映されないままお蔵入り。それが10本20本ってレベルじゃなく、100本を越えて存在しているらしー。それでも買い付けられて公開されない映画の比ではないんだろーけれど。

 公開されない映画なんて存在しないもの同然。だったらそこまで含めてやってやろうってプロデューサーの意欲の現れが、この「一角座」ってことになるんだろー。もっともだったら他の邦画でもやれば良いってことになるけど、プレハブの小屋で幻灯機を見せる訳でもなく、それなりの設備がやっぱり必要。過去にそーしたイベント性でもって映画を盛り上げたプロデューサーならではの行動力で、映画とまるで関係なさそーな「東京国立博物館」に劇場を建てる許可をもらい衆目を集めたからこそ、成り立っているって言えるんだろー。これで連日満席だったら言うことないんだけど、公開が始まってから暫く経ってるし、時間も日曜の午前10時からってこともあって観客は10人ほどだったのも仕方がないか。締めてみて果たしてどれだけの動員がありどんな収支になっているのか、仕掛け人に聞いてみたい気もするなあ。

 さて映画はといえば何とも静謐で、それでいてとてつもなく暴力的。東北だか北海道だかにある教会に舞い戻ってきた少年が、神に挑み冒涜の限りを尽くすってゆー物語だけど、それまで激しくも熱い物語を描いてきた花村萬月さんが、ぐっと筆を純文学の方向へと切って、静けさの中にわき上がって来る暴力の衝動を描いた作品だけあって、映画も冬の農場と教会での日々を映して淡々と進んでいく中に、人間の罪とは何か、神の赦しとは何なのかを問う描写が繰り広げられてる。

 雪の中を歩く牛をとらえた影像から始まった映画は、血にまみれた主人公の少年をまず描き、その少年が聖書の言葉を唱え続ける教会の院長の横に座りその股間へと手をのばしさする場面へと移る。かくも背徳的な場面から始まった映画は、教会の農場で働く主人公の少年が、周囲との軋轢に閉じこもることなく牙を剥いて挑みかかり、教会で学ぶ少女を手に入れるのか手に入れられるのかはともかく体を重ね、さらには純潔のシスターをもその若々しい肉体と神など信じない歪んだ、というよりむしろ純粋な心を向けて惑わせる姿を描く。

 上辺は高潔で徳にあふれた場所だと目されている教会が、道徳とは対極にある不道徳の蔓延する場所で、聖職者も信者も学生も甥も若きも歪み、腐り爛れていく。その様を果たして神は見ているのか、いるのだとしたら神とは罪を赦すのではなく、赦して罪を犯させる存在に他ならないのではないか。神とは何か。主人公の少年の言動がそんな根元的な懐疑を浮かび上がらせ、見る人が持つ善意や常識といったものの殻を壊して心に背徳の種を植え付ける。

 これほどまでに暗黒に溢れた映画が、「東京国立博物館」というパブリックな場所で、文化庁も支援して製作され上映されていることゆー状況もまた愉快。ある意味で「バトルロワイアル」以上に退廃的で背徳的な内容なんだけど、その裏側に人間の根源を深く問う強烈なメッセージがあるとお国も認めたってことなのか、それとも上映して肇でこーゆー映画だと知ったのか。2カ月くらい経った今なおそれほど騒がれていないところを見ると、メッセージのある文藝作品と認められているってことなのか。単に客があんまりいないってことなのか。

 出演者では石橋漣司に佐藤慶の神父ってキャスティングが何だか凄い。どっちもヤクザとかアウトローを演じさせればピカ一な役者を聖職者に据えてみせるこの転倒。信者を導く説得力を持ちながらも、内奥にはさまざまな感情が渦巻く1人の人間に過ぎない彼らをこれほどまでに絶妙に表現できる役者はなるほど他にいない。それから教会でシスターを目指して学ぶ少女・教子を演じた早良めぐみ。とにかく綺麗。そして淫靡。触れることも汚すことも不可能な美貌を誇っていながら、その心にはぽっかりと暗い穴が明いている少女を見事に演じている。広田レオナ。美貌のシスター。黒い衣装をまとい毅然とした振る舞いを見せていた彼女が、いつしたその下に懊悩を渦巻かせていく様が見る人の嗜虐心をそそる。多くないキャストのそれぞれに絶妙にして異様な面子を揃えてみせた配役の妙に拍手。あと雪の雪原や夜の降雪をとらえたカメラの腕前にも。もう1回くらい見に行くか。


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