縮刷版2005年11月下旬号


【11月30日】 全国25局ネットって言えば聴取者数はきっと一千万とかに上ってて不思議はなく、その中には数少ないとはいえ知人も含まれていておかしくないはずなんだけどそんなラジオ番組で正味30分は喋っていたとゆーのにまるで反響がないのは自覚している以上に知人の数が少なかったとゆーことか、それとも知人の大半がネット経由でそーゆー人たちはラジオをまるで聴かなくなっているとゆーことか、考えてしまったけど後者だったらネットとラジオの親和性はあるとかいった某ホリエモンの言葉も案外に当てにならなかったりするのかも。単に番組がマイナーなだけ? でも午後10時から12時までの番組だぜ。それがマイナーならラジオなんて全部マイナーだよなあ。どうなっているんだろう、ラジオって。

 日記の更新は来年で10年になるけどインターネットへの接続はそれよりやや早く95年の年明けには「インターネットマガジン」の付録CD−ROMに入っていたソフトを使い自力でマッキントッシュの「LC575」でアクセスに成功。んでもっていろんなページを見渡す中でどうやら「マジック・ザ・ギャザリング」なるカードゲームが周辺で大流行していることに気が付いた。93年に米国で登場したゲームらしーけど当時は確かまだ日本語版もないなかを、わずか2年から3年で日本にも入り込んではファンを広げていることに驚きを覚えた記憶がある。でも始めなかったけど、お金なかったし。今もないか。

 周辺といっても当時はネットで気にして見ていた情報ってSFとかの関係ばかり。ファンタジーとかRPGとかに親和性の高い人たちだからファンタジー調のゲームにもすぐさま関心を示したんだろー。やがてその関心はさらに広い範囲へと広がり97年8年頃にはカードゲームを扱うショップも続々オープン。日本製のカードゲームも登場してちょっぴり供給過剰になるなかを、「マジック」は孤高の存在としてファンを引きつけそして99年の世界選手権日本初開催を迎えたのであった。あれから6年。

 当時の日本大会にも取材をかこつけ潜り込んだけど今回、11月30日から再び「パシフィコ横浜」を会場に始まった世界選手権は集まるプレスの数も前回に及ばず規模もとんとん。歴史とともに盛り上がりが持続している米国とかとは違っていささか衰退気味だった日本の「マジック」事情をあらわす状況になっていて、ひとつのホビーを長く続けることの難しさって奴を痛感させられる。とはいえ取り扱いがタカラへと変わり低年齢向け「マジック」ともいえる「デュエルマスターズ」を糸口にした新しいファンの取り込みも活発化。パソコンで楽しめるデモ版の供給を行ったこともあってかつてのあのウズウズした気持ちを蘇らせている人とか、新しく始めてみようって人が新しいスターターキットを購入して上向き傾向にあるらしー。

 世界大会には「マジック」の生みの親にしてあらゆるトレーディングカードゲームの始祖とも言えるリチャード・ガーフィールドさんも来場。見るからにどこにでもいる今はおっさんて感じだけど、元よりいろんなゲームで遊ぶのが好きだった所に新しく、何かを作ってみようと生み出したカードゲームがここまでの長きに渉って支持され世界大会も行われていることに喜んでいる様子だった。最近はついにモスクワにまで進出。中国インドといった人口超大国での本格普及なんかが始まれば売上もどんどんと伸びていくんだろー。問題は言語とコピーか。インドなんて何語を使えば良いんだろう?

 心配なのはこれから本格化するネットとの競合だけどそこは「マジック・オンライン」でもって対応しているそーでガーフィールドさんも「紙は大丈夫。ネットをこれからどう伸ばしていくかに力を入れたい」と話してた。もっともこれから続々登場してくるオンライン対応のコンソール型ゲーム機に対しては、サーバーを自社で取り扱えずマイクロソフトに預ける形になり「Xbox360」のよーな戦略にはやや腰を引いてる感じ。自前でサーバーを立ててサービスを行えるよーなシステムだったら、普及台数もパソコンより多いコンソール型ゲーム機に対するサービスの提供を始めたい感じがあったんでその辺をゲーム機メーカーがどう案配し、強力なコンテンツである「マジック」の取り込みに来るのかもちょっとした注目ポイントかも。同じシアトルにあるんでマイクロソフトが強くプッシュをしてくるのかなあ。いやシアトルだったらニンテンドーもあるなあ。さて。

 反対側の名古屋グランパスエイトのゴール裏で見ていたから流れ聞こえてくる応援はひとつの総体になっていたけど近くで聞いた選手たちには左右の分かれた所から、タイミングをずらして響いてくる応援にやっぱり不思議な感じを受けたんだろーか。Jリーグで2部落ちが決まった東京ヴェルディ1969に関して「週刊サッカーダイジェストが12月13日づけで2つの記事でもって大特集。そのうちのカラーのページで記者は、23日に開かれたホーム「味の素スタジアム」での応援がその後に及んで分裂していたことを「敢えて、書く」と厳しく咎めている。「その前の左右に分裂して応援した名古屋戦は悲しくなるほど最低だったと思う。長きに渡って紆余曲折があり、それぞれが血を流したのだろうが、話を聞いたり情報を集める限り、どっちの言い分にも肩入れする気になれなかった」。

 こいつは手厳しい。けどでも事実なんだろう。ヴェルディの妹分の日テレ・ベレーザを見に行っていつも気になるのがゴール裏でJリーグよろしく声を出して応援している面々とは別に、スタンドに陣取りサンバを奏でる集団がいることで、歴史を辿るならヴェルディサポーターの流れを汲んだサンバ隊の方が古いらしーんだけど、ゴール裏の一派もこの2年くらいは毎試合に来ては声を出し、自分たちのマッチデープログラムを配りアマチュアなんだからヤジは止めようと呼びかけて「ナデシコ」ブームで応援に来た新しいファン達の共感を得ている。

 そうした新しいファンの目からは彼らとは別に、ただひたすらに太鼓を叩く面々が果たしてどう映っているんだろうか? やっぱり奇異に映っているんだろーなー。国立で後座でベレーザの試合が行われる時なんか、サンバ隊メインスタンドに陣取って耳元でガンならすんだよなあ。声出しサポはちゃんとゴール裏に陣取るのに。それぞれにやっぱり事情はあるんだろうけれど、いずれ大きく女子サッカーを盛り上げたいなら解決した方が良い問題。それが出来ないって状況が、あのクラブがすべてをなあなあにしたままで立ち直れず衰退の一途を辿るひとつの理由をあらわしているのかも。落ちて果たして直るかそれとも一層開くか。長く2部に留まった果てに愛想を尽かされ対立も自然解消? あり得ない話でもないよなあ。


【11月29日】 をを。ちゃんと2006年1月25日発売の予定になっている「ヤングキングアワーズ」の2006年1月号。ってことはすでにしばらく前にはもう、間に合わないってことが分かっていたんだろーなー。それでOVAの披露試写を遂行してしまったところに未完成版を見せてもそこから完成版を買わなくちゃって思ってもらえるだろー自身が、スタッフに備わっていたって現れか。巻頭で展開されているOVA版「ヘルシング」の特集には声優さんたちの情報も紹介。アンデルセン=若本規夫がやっぱり今回のキモかなあ。嬌笑の目立った開放形の狂気といった感じの野沢那智さんとは違う、執着する狂気を見せつつ突き進む若本さんのアンデルセンは一見の価値あり。それで畏れないアーカードにはちよ父みたいになってゴゴゴゴゴゴッと迫ると面白いんだけど、そればっかりは無理だろーなー、原作版だし。

 んで「ジオブリーダーズ」は復活まやが前のまやと並んで大活躍途上。逃げ切れないと理解してボートを護衛艦へと向けて吶喊を始めたけれど何しろ護衛艦、積んでる火器も豊富なら使っている人たちも優秀とあって果たして間隙を縫って突破できるのか。次回の展開に注目だ。運転している姫萩夕の格好がまたしてもあからさまだけど、いったいどーゆー服を着ているんだろう。護衛艦へと乗り込んでいったあの人とこ菊島由佳の姉こと菊島雄麻はどんなむちゃくちゃをしてくれるんだろう。何しろ昔は由佳より派手な扮装で暴れていた御仁。横に入江も従えた面子は小隊どころか中隊だって撃滅しちゃいそー。そーなるか果たして。そちらも期待。

 巷では菊池誠さんも登場しては「水からの伝言」に関して鋭く激しくツッコミを入れている「AERA」が評判だけど、その真っ当さに比べて僚誌ともいえる「週刊朝日」の最新号は読むと苦笑の漏れる内容。編集後記なんかが書かれている記事の最終ページに掲載されている、スカイマークエアラインの社長が国土交通省の記者クラブともめたって内容の短い記事だけど、読むと業績修正かなにかの発表を1時間後に外でやろうとしたら記者クラブが、原則48時間前に申し込みで緊急でも2時間前に連絡しろと記者クラブの記者が言って、それに社長は「それはお前が決めたルールだろう」と怒鳴り返したという。

 これは社長が真っ当だ。業績に関わる話は適宜開示すれば宜しくそれは上場会社なら東京証券取引所がやるし報道機関への開示はそこにあるクラブに資料を入れれば足りる。ほとんど同時にネット上にもアップされるから投資家はそれを見て自分たちで判断すれば良い。そこから先、詰めている報道機関からいろいろ聞かれてひとつひとつに答える手間を省く意味から、記者会見を行う場合もあるけれどそれは会社と報道機関がお互いのメリットを追求してのことで、必ずしも会見を開かなくてはならないという筋のものではない。ようはディスクローズする姿勢があるか、ないかだ。

 だから国土交通省の記者クラブに詰めている記者たちが、概念的には親睦団体でしかない記者クラブのルールに企業を従わせることなんて出来ない。それが出来ると錯覚されているのは、過去から営々と慣習として積み上げられて来たからで、他にネットのような手段を持たない発表者が、報道機関を通じて自社の主張を伝えたいと認識して”下手”に出て来ただけのこと。これまではそれでこれまではお互いに巧く回って来た。

 48時間ルールを守れ、2時間前には連絡しろと強要するのはいってしまえば記者クラブが多数の発表申し込みを整理する上での都合みたいなもので、言葉を換えれば一種のカルテルを結んでいることでもあって、それをタテにしてスカイマークの社長を非難したのだとしたら、私たちはカルテルを結んでいますってことを満天下にさらしたに等しい。恥ずかしがってしかべるき話なのに、それを堂々と「週刊朝日」に、さもスカイマーク側の態度に非があるように書いて紹介してしまうところに、新聞社が持つ傲慢さが伺え今どうして新聞も含めた報道が信頼されなくなっているかを未だ理解していないことが伺える。

 もちろん普段はそーしたルールを有効活用する癖に、いざとなると自分たちの都合で行動する企業がない訳でもない。けどそれが嫌なら記者クラブは発表をさせないようにすれば良く、企業は以後はすべて外で発表すれば良い。それが重要な内容だったらクラブにいようといまいとかけつけ聞いて報道するのが報道の使命って奴だろー。来なくたってネットがあれば情報だけは行き渡る。既存の報道に穴をあけようと虎視眈々狙っている新興メディアも少なくない。既得権益をタテにすればするほど旧態依然ぶりを周囲にさらけだして付け入る隙を与えてしまう。

 それが分からないメディアでもないんだろーけど現実にこーゆー記事が載ってしまうって所にやっぱり旧態依然とした体質に、どっぷりと浸って乱れてしまったメディアの思考があるんだろー。困ったなあ。それにしても編集長の変わった「週刊朝日」は、記事のセレクトも中吊りの作り方も「週刊ポスト」とか「週刊現代」あたりと区別つかなくなって来た感じ。「週刊文春」や「週刊新潮」の方がより硬派に見えてしまうんだけどこれってやっぱり新編集長の趣味ななろーか、それとも週刊誌メディアが扇情的な題材に傾くのは雑誌が売れない時代に必然なんだろーか。いずれあるいはヘアヌードと綴じ込みグラビアも掲載される日が来るかもなあ。扇谷正造は草葉の陰で何を思う? 天晴れ? それとも……。

 会社の都合で引っ張り出されて午後10時からのニッポン放送のラジオ番組で「機動戦士ガンダム」について適当に喋る。上野でやってる「GUNDAM展 来たるべき未来のために」の主催が産経新聞だからってことはあんまり関係ないみたいだけどまあ一応のフックってことで文化に与えた影響だとか、経済効果はどれくらいだってことを正味で30分とかそんなもん、記憶を探りながらでっち上げたんだけど何しろものが「ガンダム」なんて間違ったことを言うと突っ込みも激しいだろーからその辺はネットに集まるガンダマーに投げて分かる範囲で喋って喋って喋り疲れた。あんなんで良かったんだろーか。つか午後10時台11時台のニッポン放送なんてガンダムファンの人は聴いているんだろーか。アニメのファンは普通は裏を聴くよなあ。文化放送。

 1人じゃ心許ないってことで版権やってる創通エージェンシーの人にも登場願って市場についてひとしきり。そこで出たのが例の12分の1ザクをまたしても限定で売り出す可能性があるってことで今度は誰もがほしがるシャアのタイプを、限定でもって出すってことだけどそんなニュースはバンダイからまだ聴いていなかったからちょっとびっくり。いつか「C3」で見て以来、欲しいほしいと思いつつも家にはおけない飾れないと諦めていたけれど、ここに来てちょっぴり欲しい気も浮かんでいたところへの投入とあって心が揺れる。なおかつボーナスが出た直後。うーんうーんとうなる日々がしばらく続きそう。同じうなり声が全国から聞こえてくるぜ。しかし本当にホントの情報なんだろーか。ウォッチだ。

 番組は東八郎さんの子息でコメディアンの東貴博さんだったっけ、その人とアナウンサーの魚住りえさんがコンビで式ってたんだけど東さんはまあそれとなくは知ってるって程度だったのに対して魚住さんは相当なガンダムファンらしく、富野由悠季さんが前に「海のトリトン」なんかをやって深いドラマを創り上げることに長けてたことも知っていて、だから1作目2作目以降に果たして関わっていたのかを最初に聴いてくる程に深い造詣を敬愛を持っていたのが面白かった。資料として持ち込んだ「ガンダム語録」を放映の合間に眺めては、数々の名セリフに強い関心も示していたほど。その意外な通ぶりをいつか別のガンダム関係のイベントで発揮して頂きたいもの。その当たりガンダムなイベントの関係者な方々には是非にお願い申し上げます。ところで魚住さんって何歳くらいの人なんだ?


【11月28日】 遅ればせながら見た「銀盤カレイドスコープ」のアニメーションはトリノ五輪の候補に内定しかかった桜野タズサを記者たちが、スケート協会の副理事長とつるみ彼の差し金で攻撃するエピソード。権威を借りて国民の代表面をしつつも私怨を晴らそうとタズサを言葉で追いつめるものの、そこは100万ドルの美貌と強靱な精神力を誇る桜野タズサ。ちょっとばかり折れかかったものの折良く好意的なジャーナリストの合いの手もあって落ち着くと、当然至極の言葉でもって記者たちの攻撃をしのぎかわして逆に攻め込み圧倒的な悪口でもって完膚無きまでに叩きのめす。ああ痛快。

 けどでもこれって日常的に記者会見の席なんかで行われていたりすることで、本業のスポーツとは無縁のことを聞いたり国民のためにメダルを取れとプレッシャーをかけたりしては選手を潰してしまった過去に多々ある現実が、いかに日本のジャーナリズムが崩壊の瀬戸際にあるかってことを示してる。そのことを如実に語った過去にないアニメが真夜中にしか放映されずスポーツ報道に携わる者の誰も見ない悲しきギャップ。やっぱりこれ、続編も作って朝とかに放映しなおそーよ。勿体なさ過ぎるよ。

 絵の何ともいえない微妙さは相変わらずながらもテンポ良いセリフのやりとりでもって耳を釘付けにするのもやっぱり相変わらず。加えて開き直るタズサが揃えていた足の1本を組む場面で上にすっくと足を伸ばしてすとんと下ろすシーンの描き方が、じじじっとした動きも含めてコミカルで目にも楽しく何度も見返してしまった。こーゆー所があるから毎回、アニメ版の「銀盤カレイドスコープ」は見逃せない。さてもいよいよスタートするトリノ五輪編ではどれだけのドラマが語られるのか。リア・ガーネットの本格登場も含めてますます目が離せません。やっぱり続編作ろーよ。

 そしてこっちはリアルタイムで見た「ぱにぽにだっしゅ」はオープニングが何故かまたまた「黄色いバカンス」だった。新しい「少女Q」だったっけ? まだ1回も見てないよ。ちなみに「ルーレット☆ルーレット」も2回くらいしか見なかったかも。いったいどうなっておるのだろう。お話のほうは上方斜めから見下ろすゲームのスタイルでもって語られるシーンがなかなかの出来。まさかデジタルで作ってはいないだろーな。けどでもそのほうが絵で描くより簡単なのかな? DVDだとまだ美麗なところのある一条さんが本放送だともうずっとジト目なのはちょっと可愛そう。美しくも妖しい一条さんカンバック。

 公共事業としてとなりにある町どうしが戦争をするよーになった世界を描いて決まったらテコでも動かない公共事業の不思議さをえぐり、そんな不思議な事態であっても諾々と従う市民の不気味さを描いた「となり町戦争」に続いて三崎亜記があらわしたのはやっpりちょっぴり奇妙なことが普通になってる社会の物語。例えば「バスジャック」とゆータイトルの本の表題作になってる「バスジャック」は、バスジャックがどこかエンターテインメントになっててバスジャックに遭遇するために人はバスに乗るよーになってて、そんな期待に応えるためにバスジャックは頑張り乗客もバスジャックを見破り倒す算段を取って、ルールのもとに対峙し合う世界が舞台になっている。

 ある意味で疑似イベント的ではあるけれど現実離れしている点は筒井康隆さんとはやや違った風味。でもってそこからバスジャックが娯楽化した果てに低劣になっていく様を糾そうとする動きも浮かび上がって来る展開から、受けるのは何もかもがネタと化した世界に生きる息苦しさ。なんだけどかといってそこから抜け出ようとする突飛な行動までもがネタとして消化される状況は、どことなく気持ち悪くって、安心や快楽と引き替えにして生きる楽しさを圧迫する。ほかには二階に扉を作ることが義務化された街で新しい住民となった男のうろたえぶりを描いた短編とか、死別してしまっただろう人のマネキンとともに暮らしながら寂しさを埋めようとする人々が暮らす街を描いた 短編とかを収録。奇妙な風習を通して当たり前だった風景にさざ波を立てて感情を揺り動かす。

 個人的に好きなのは動物園を舞台に、全身全霊を傾け自分を動物に見せる力を持った人たちが仕事をする短編。シマウマならシマウマ、カンガルーならカンガルーの仕草形を頭にいれてそれを心に念じることで周辺の空気を変えて自分を周囲からシマウマなりカンガルーに見せられるって能力の、それ事態も興味深いけどそーした能力者を雇い動物園が空っぽの動物の檻に幻想の動物を見せるよーになっていて、それを古くからいる飼育係はあんまり良くは思わず、けれどもそーした仕事を一所懸命する女性には胸襟を開いていくって展開は、何であっても真面目に取り組む健全さ、気持ちよさってやつを教えてくれる。他の教訓めいた話とは違ったファンタジー。これも含めて三崎亜記さんの新作短編集、なかなかSFしています。

 そしてえっちらおっちら山を登って「フォーシーズンズホテル椿山荘」で開かれた「集英社スーパーダッシュ文庫」と「集英社コバルト文庫」の新人賞の合同表彰式を見学。始まる前にセーラー服姿の女の子がいてあるいはコスプレかと思ったら違ってちゃんとした受賞者で、名を真朝ユヅキさんと言って16歳で高校生でソックスが黒で文芸部で図書委員とゆー絵に描いたよーな文学少女でそんな存在がライトノベルの中以外にもいるとかと、驚きつつもながめて頑張れと心の中で応援する。いくら現役高校生でもすぐに卒業してしまえば現役大学生が現役浪人生となって気持ちも一段下がってしまう。真朝さんの場合は少なくともあと2年は現役高校生作家な訳でそれだけでも価値は高い。なおかつ小説も面白かったら完璧だけど受賞作は未読なんでそっちについてはこれから検証しよう。とりあえずおめでとうごさいます。

 あと「戦う司書と恋する爆弾」の山形石雄さんが来ていたんでどういう着想で描いたのかを聞いたらまず爆弾青年と本の中の少女の話だったとか。それがどーしてあんな暴力司書のおねいさんが出てきて大バトルを演じ世界が危機に陥る話になったのかと感心。恋の物語という最初の意識を超えて世界を構築し物語を組み立てたいってゆー、作家ならではの意識の強さを山形さんがきっと持っていた現れなんだろー。まだ23歳にしてこの力量。近く出るらしー続刊も含めてこれからが楽しみ。

 会場には「銀盤カレイドスコープ」の海原零さんに「双色の瞳」の霜越かほるさんにしろはた本田透さんに「トゥー・ザ・キャッスル」の桑島由一さんに砂裏俊一さんに何故か花村萬月さんに他多数の著名人の方がいて、そこらここらを歩いておられたのを観察。コバルトの人もいっぱいおられたけれど読んではいてもおそれ多い人が多くてこれまた観察。大岡玲さんの講評が延々と続く間も、阿部和重さんの淡々とした講評が続く間も観察をして認知に努めたけれど、小説は別に姿形で読んでいる訳ではないので皆様におかれましては楽しい話をこれからも、描いて読ませて頂きたいと伏してお願いいたします。やたらとフリヒラな格好をしておられた白いドレスの女性はいったい誰だったんだろー? それだけが今も謎だ。


【11月27日】 やっぱ「DAYS」でしょう。これが鳴れば「交響詩篇エウレカセブン」も途端に退屈をもてあましていた少年が手にした可能性を引き寄せ艱難辛苦を乗り越えながらも成長していく物語の、香気が画面から漂って早朝にまどろむ頭をすかっと爽やかにしてくれる。途中にあった人殺しに手を染めてしまった絶望感も優しくしてくれた男女を結果として危めてしまった罪悪感も記憶の彼方へと忘れ去られて、後に続く巨大な敵に立ち向かってはこれを討ち果たす物語が、身に迫って期待を膨らませてくれる。

 それが狙っての原点回帰だとしたら過去何ヶ月間かの鬱々とした展開も忘れて今はひたすらにこれからの展開を期待したいところ。できるならばそーした明るさと楽しさとちょっぴりの悲しさを見せつつこれまでも薦めて欲しかったけれど、そんなお子さまランチが通じる時代でもないのが昨今のアニメーション事情。人の命にまつわるドラマも混ぜておく必要があったと理解しよー。しかしかっこよすぎるよなあ、じっちゃん。前にも逃げ出したベルフォレストをまたしても逃げなきゃいけなくなったのに顔を隠すだけってのは官憲を莫迦にし過ぎじゃないだろか。

 あとレントンの同級生たちだった女の子たちも冬服でもこもことして小憎らしげ。3人のうちの2人が眼鏡ってのは正しく女の子の魅力を理解していると讃えよう。ツンとして正義感ぶった感じがオタっぽくて良いねえ。臨海線の国際展示場駅で僕に新聞を網棚に載せたまま降りるなと追いかけてきて新聞を突きつけてきた、おそらくは「コミックシティ」へと向かおうとしていた女子みたいだ。そーやって「シティ」で買う本やきっとアレがコレしてそーするやおいな本なんだ。女の子っていろんな成分で出来てます。

 そんな僕は「シティ」へとは向かわずに「デザインフェスタ」をうろうろ。毎年出ているよーな見せばかりって感じでとりたてて買うものもなく、変わったTシャツはないか良い雰囲気のイラストレーターはいないかと目を左右に振りながら場内を散策する。目にも麗しかったのがロビーでドーランの展示販売をしていたブースで行われていたボディペインティングでボディペインティングとゆーからには当然ながらすっぽんぽんの女の子が、流石に下ははいていたけれど上は露わにしてそこに筆でもって様々な紋様を描かれていて、眺めるにぷるんぷるんとした質感が網膜を刺激してしばし目を釘付けにされた。始めは引っ込んでいたのが先端を筆で彩色されると突き出てきたのが見所か。それが何かは恥ずかしいから言わない。

 パンクな女の子が叫ぶ声を後ろに聞きつつ会場を出て近所の「VELOCHE」でひとしきり仕事をした後に新宿へと出て「PENTAX istD」をサービスセンターに放り込み、それから近所にある「東郷青児美術館」で「池谷史子展」を見る。これまであまり気にしていなかった画家の人で去年の「東郷青児賞」を受賞したらしー人だけど新聞の展覧館案内に掲載されてた、赤いセーターの女性が窓辺にたたずむ絵の大きく開いた胸元にくっきりと刻まれた谷間が目について、これは実物を見て置かなくっちゃとまかり越した次第。そーゆーもんだよ切っ掛けってのは。

 しかし意外にも凄い画家だった池谷さん。人物像も確かに綺麗でフォルムは東郷青児さんっぽくって窓辺で光を浴びた姿はフェルメールっぽくって見ていると吸い込まれそーになる。色も形もしっかりしていて流石は東京芸大出身と感心。けどそんあ人物像以上に気に入ったのがどこかアメリカかカナダの郊外にある駅だか街並みを描いた作品で、シンプルなフォルムにアメリカっぽい建物が描かれた作品は、雑多な都会とは違った寂寥感漂う町の様子を赤茶けた色彩ともども表現していて引き込まれる。アンドリュー・ワイエスともエドワード・ホッパーとも言えそーな、アメリカの風景画家の伝統を何故か日本人の池口さんが引き継いでいるのが面白い。いったいどんな経歴の人かと略歴を読んだらびっくり、ご主人が池口小太郎さんだった。誰それ? 本名でペンネームは堺屋太一。そうあの堺屋さんのゆかりの人だったのだ。けどそんなことはお構いなしに素晴らしい画家。そーゆー人を今さらながらに発見できる東京って都市はさっぱり日本の文化の中心地、なんだろー。12月11日まで開催中。

 そして小田急線で下北沢へと出てまもなく発売、のはずだったオリジナルビデオアニメーション「ヘルシング」の第1話の完成披露試写会に出たのに間ってもなかなか始まらない。予定の7時を過ぎて数分が立ってそこに1人の男性が手にどーみても業務用のビデオカセットか何かが入ったパッケージを持って段々になった会場を上映室に向かって走っていく。これはあるいはもしかするとと思ったら案の定、司会に登場したアニメライターの小林治さんから実はOVA版の発売が来年の1月25日に延期になりましたって話があって、あまつさえこれから上映されるもの完成版ではないって話があって一体どんなものかと不安に期待がない交ぜとなりながら見た映像は……「ガンドレス」でありました。

 否、「ガンドレス」の場合は崩れてぐちゃぐちゃになった絵もあれば色が適当にしか塗っていない絵もあったりして、それが公の場で料金を取って公開されたってゆー前代未聞さがあったけど、今回の「ヘルシング」の場合は予定していた35分がこれは切れないあれは抜けないって監督の意向もあって何と50分まで延びてしまった結果、12月の発売に完成が間に合わなかったとゆーだけのこと。だから発売日にはしっかりとした完成版にお目にかかれる訳だし、それに上映された未完成版の映像だってのっけからコンテ撮だか原画撮だかが飛び出て吹き出したけれど、でも絵はしっかりとしているし動く場面は完璧以上。そして音声もしっかりと入って音楽もちゃんとつながっていて、見ているとそれが白いとか動いていないとか背景がコンテのままだとか崩れがギャグの絵がいまいちだとか色がパカパカしていて妙だとかいったことがまるでほとんどぜんぜん気にならなくなった。なったんだ。

 何より原作版、と言ったのは「ヤングキングアワーズ」の筆谷編集長らしく制作側ではそーした断言はしていないけれどともかくより原作のテイストに近い「ヘルシング」はなるほど確実に原作的。ストーリーもそうだし絵もあの太い線がしっかりと描かれキャラクターの雰囲気も実に平野耕太さん風味。なおかつ声優さんが当てるセリフも平野さんの漫画を読みながら脳内に浮かぶアーカードでありインテグラでありセラスでありウォルターの声で、聞いているだけでも十分に作品世界にのめりこめるのに、これに完璧な絵が加わった暁にはいたいどんな「ヘルシング」世界が広がるのかと今から期待が湧いてくる。その楽しみを思えば1カ月半の延期なんて短い短い。ちゃんと出るんだから逆に喜べ、人間ども。

 ここでおやっ? と思った人はなかなかの通。あの人はどーなってるの? アンデルセンはいったい誰が声を当ててるの? それは誰もが気になるところで見ていて一体誰なんだろーと耳そばだてていたら響いてきた声が! 最初の一声で分かってしまったよ。ちよ父だ。メカ沢だ。つまりはその人なんだけど聞くとなるほど野沢那智さん的なえぐみを持ちつつも神父らしー威厳もあってピッタリ。最初こそ個人のリズムで喋るからちょっとひっかかるところもあったけど、セラスやアーカードを相手に戦う場面での居丈だかな態度や嬌笑は、絵の中からアンデルセンが音付きで抜け出して来たかのよーな印象を誰もが絶対に抱くことだろー。そして少佐。セリフままだ少ししかないけれど実に少佐していて彼があの、長大な演説をする話が来る時が今から待ち遠しくて仕方がない。それが一体いつになるかは上田プロデューサーのみぞ知る。10年以内には見たいなあ。

 他にもちっこいインテグラの叔父上に攻められベッキー宮本の如くにふるふると怯えている表情なんが実に可愛らしくって、転げ回ってスカートの奥なんかがあるいは見えるかもしれないと期待させてくれるところとか、やっぱり短いスタート姿で闊歩する婦警のその奥なんかが見えるかもしれないって思わせてくれるところとかあって、これは絶対に完成版を買わなくちゃと思うこと仕切り。豪華版には浅井真紀さんによるレリーフも付くそーで、なおかつ奇数巻にはシリーズでレリーフが付くそーなんで例のガチャポンの胸像にハマった人は絶対に買いだ。偶数感には映像とかサントラが付くそー。だったらいっそそれに今回上映された未完成版を収録して欲しいなあ。「ガンドレス」だってその未完成版が収録されたからあんなにDVDが売れた訳だし。ともかく期待。絶対期待の「ヘルシング」OVAをみんなで買おう。ってこれくらい宣伝すれば未完成版上映を見せられた変わりに修正原画のコピーをプレゼントされたお礼も十分に果たせるかな。


【11月26日】 んでもって見たDVDの「ぱにぽにだっしゅ」第1巻はエンディングがノンクレジットで1話から4話までに使われた4パターンが、別々に収録されててよくも毎回作ってるなあと感心。ってかあれってやっぱり何かプログラムがあってそこにキャラクターを当てはめていくだけなんだろーか。C組だけとか伊藤さんだけとか宇宙人だけとかいろんなパターンを毎回描いていたらとっても大変。これとこれを使うって指示してスイッチを押せば自動的に出来上がるよーになっているんだろー。エンジンとちびキャラのデータが入って自分で自在にエンディングを作れるプログラムを収録したCD−ROMとかおまけにつかないかなあ。ぜんぶ橘玲で作るのになあ。

 目覚め起きたら昼だった。寝過ぎ。用意して柏へと向かう途中でコバルト文庫から出た久藤冬貴さんって人の「シークレット・ガーデン 声を聞かせて」(集英社、495円)って新人さんではないけどベテランではない人の新刊を読んだら面白くって面白くって読む手が止まらず柏駅から日立柏サッカー場へと歩く途中も読んでしまって、いつもだったら長くて苦しい道のりが、知らないうちに埋まってしまった。霊になってしまった人の声が聞こえる少女・ノエが主人公。親どうしが知り合いらしー少女が死んでしまってそのお葬式に行ってもいれてもらえない。戸惑っているところに現れたのが1人の美青年。ノエの祖父が経営する警備会社から覇権されていた警備員で、職務には反するもののノエの出自そ知りってか中へと招き入れて、無くなった友人へと対面させる。

 電車に轢かれて無くなってしまった関係で棺の中はのぞけないままの対面だったけど、ノエには亡くなった友人の声が聞こえてしまった。そしてノエは友人が通っていたお嬢様学校へと転校して、自殺らしかった少女の死の原因を調べ始める。そこにやって来たのがお葬式で出会った青年で、ノエをガードするためといってお嬢様学校にやってくる。当然ながら男子禁制のお嬢様学校。なので青年は女の子の格好をしてボーイッシュな少女とゆー雰囲気で入り込んでは少女のガードを始める。

 いきなりの転校。そして何やらよくない噂にまみれていた死んだ友人にこだわるノエに学友たちの反発の眼が向かい虐めも起こる。けれどもノエはあきらめないで友人の知人で学校の屋上から転落して今は意識不明になって入院している少女を訪ねては、真相へと次第に近づいていく。その展開はミステリーを読んでいるよーでもあり、また少女たちのさまざまな心理が渦巻く学園のドラマは少女小説を読んでいるよーでもあって楽しめる。お嬢様なのに一本気なノエの強さに、そんなノエを幼い頃から知って今も見守る栄青年の性格はちょっぴり軽薄でけれども見目は麗しくって戦えば強い万能ぶり。正義感が強くそれが仇となってしまって死んだ友人の友香も含めてキャラクターの造型も深くて、それぞれの立場に身をなぞらえて物語をさまざまな角度から読んでいける。泣けてドキドキ出来て微笑める秀作。これだけ描ける人ならきっと他の話も面白いんだろーなー。探して読もう。

 そして到着した日立柏サッカー場でひとつのドラマを目の当たりにする。Jリーグの「柏レイソルvs東京ヴェルディ1969」の試合は負けるか引き分ければヴェルディは即座にJ2降格が決まるとゆー天王山。一方の柏も負けて次節に連敗し、そしてヴェルディが勝つとJ2に降格となる試合でともに負けられないって意気込みで、臨んでいるんだと思ったんだけどレイソルがラモスコーチをピッチに押し立てピリピリとした雰囲気の中でウォーミングアップをしているのに対して、ヴェルディは練習の風景にさほどいつもと違った感じはなく、顔に笑みを浮かべて練習している選手もいたりして、それがリラックスだったら良いんだけどそーでもなさそーで、切迫感が漂っていないのがちょっと気になった。

 それでも試合に入れば目覚めて一気呵成に攻め立てるんだろーと思ったけれど球際での競り合いに負けるケースが多くパスミスも多発。サイドに開いてもそこをフォローする動きに乏しかったりと本気で得点をしに行く雰囲気が見えてこない。一方のレイソルはディフェンスの禿頭・土屋選手が最終ラインで獅子奮迅の大活躍でワシントン選手を狙い放り込まれるボールのことどとくを跳ね返す。鋭い読みでつながれるボールを奪い攻撃へと繋げる動きも見せれば、そのまま最前線へと攻め上がる動きも見せて得点すら上げる活躍ぶりで、個人的にはこの試合のマン・オブ・ザ・マッチを上げたくなった。元いたヴィッセル神戸はJ2へと降格。ディフェンスの重要さってのが分かります。

 彼のよーな強烈なディフェンスリーダーがいなかったからこそヴェルディは、連続7失点なんで無様な戦いをシーズン中に演じ肝心な試合でも5失点なんてしてしまったんだろー。都並に柱谷に中村守に石川康にペレイラに加藤久にエトセトラ、テクニックでも魂での強力無比を誇ったディフェンス陣がどーしてここまで衰退してしまったのか。あの中澤だってかつてヴェルディに所属していたんだぜ。そんな分厚い選手層が気が付くとすっかり薄くなってしまっている。かといってどこかから取ってくることもしない。そんな許してしまったところに落ちるべくして落ちる遠因があったんだろーか。

呆然としかしていないのは何故だ何故なんだ?  試合が終わっても崩れ落ちて動かず地面を叩く選手はおらず、内心の悔しさを秘めて立ち歩いてゴール裏に挨拶に行くヴェルディの選手たち。それはなるほど次につなげる強さの現れかもしれないし、その原動力となるプライドの現れなのかもしれないけれど、でももはやそんな外見をしている場合ではない。来期に始まるJ2の戦いは長くそして厳しいもので、深みにはまると湘南ベルマーレやアビスパ福岡やコンサドーレ札幌のよーに何期もJ1へと戻れないままとなる。本気で戻る気なら選手層を予算に合わせて削るどころか今よりも強くして、最初から突っ走り夏過ぎには昇格を決めるくらいの意気込みを見せないと泥沼にはまる恐れがある。それを果たして選手たちは自覚しているか。そしてフロントは分かっているか。選手は分かってもフロントに期待出来そーもないのが何とも悩ましい。

 分かっていたらここまで落ちる間に何らかの手を打っていただろー。けど何もしなかったフロントは、J2とゆー舞台になおいっそうの縮小策を取って来そーな嫌な予感。読売クラブ時代は他に類をみないクラブチームってことで子どもたちの憧れを集め、プロ化以降はスーパースターを多数輩出したチームってことでやっぱり子どもたちの憧れであり続けて、ユースやジュニアユースが若い世代を集めて育てる場として機能し収益源にもなっていた。けれども上がJ2のチームになってしまった今、子どもたちが夢を抱くに不足だってことで、同じ地域に根付いて来ているFC東京へと、人材とそれから収入源を奪われかねない懸念が浮かぶ。

 ヒトもカネも細っていけば起こるのは縮小均衡。あおりで兄貴と違い優勝を成し遂げた日テレ・ベレーザの運営にも影響が出かねない。そーならないためにもフロントには来年に何としてでも上に上がるってゆー意識を、人材面でも金銭面でも見せることなんだろーけれど、さてはて今のフロントにそれが可能なんだろーか。あんまりスポーツを愛してなさそーだしなー。愛していたら親会社でミソつけた人材をクラブの社長に送り込んでは来ませんってば。歴史への敬意もなければ未来への希望も抱けない人たちが仕切るチームでは明日はない。そこに気づいて立て直して来るのかそれとも。ベレーザのファンとしてもその行く末から目が離せない。


【11月25日】 茶木則雄店長去りし後も著名作家のサイン本を並べミステリーの文庫を充実させて繁盛続きの「ときわ書房本店」は、2階のコミック売り場ライトノベル売り場も充実著しくって、アニメ化されてWOWOWでの来年1月からのノンスクランブル放映も決まった橋本紡さん「半分の月がのぼる空」やら、今まさに絶賛放映中の「灼眼のシャナ」といったシリーズの全巻きを、平台に面で並べて関連のコミックなんかも添えてあまつさえ、放映中のアニメも流してそれ面白いだろうと背中にささやきかける。見ればなるほどこいつは流行っているのかもしれないと、手に取りそのままレジへと向かい購入へと相成る次第。本屋の店頭プロモーション力って奴はなるほど凄い威力だなあ。

 んでもってその「ときわ書房」が夏頃よりめいっぱい力を入れてプッシュしているのが氷川へきるさんの「ぱにぽに」を原作とする「ぱにぽにだっしゅ」でコミック売り場のレジに近い場所に特別にしつらえられた平台に、単行本のすべてを並べレジの横には「黄色いバカンス」「ルーレット☆ルーレット」「ガールッピ!」といった、週変わりになりかかった時期もままあったオープニングにエンディングのCDまでをも並べて一大アピール。放映された番組も流されては店内に「黄色いバカンス」が響き渡って、頭は日曜深夜から月曜早朝にかけて眼に入り耳に聞こえるあの不可思議な世界へと引きずり戻されついつい一緒に「きいろいばかんすよ〜」などと口ずさんで……はいないけれども気持ちはちょっぴりハイになる。

 あまつさえ遂に発売となったアニメのDVDまでをも店頭のレジ横で販売する事態に。限定版で7000円とかするアイテムをレジ横に置いて目を離した好きにガメられたら損もデカいだろーと心配になるけど、それはそれとしてコミック売り場では他に扱っていないDVDを「ぱにぽにだっしゅ」だけ置くってのはやっぱり謎が深い。なにゆえにここまで重点的に「ぱにぽに」とそして「ぱにぽにだっしゅ」を「ときわ書房」がプッシュするんだろー。半年近く経つけど未だに分からない。分からないけどでもしっかりと買いましたよDVD。ベッキーの表情がなかかないい味出してます。

 居住地がご近所らしー日日日さんの単行本とか文庫本を並べサインも添えて展示するのは何とはなしに分かるけど、とりたててご当地とも思えない作家の作品をアニメのアイテムも含め書店で売りまくろうとする意識は、あるいは本屋は本だけって常態に変革が訪れている現れか。それは例えるならメディアが渾然一体となる中で場の力を活かして、さまざなあメディア商品を展開してはなおいっそうの集客へとつなげる、ポータルサイトをリアルな店舗でも実現してみせたってことでコミックなりライトノベルとゆー、強力なコンテンツを扱う書店の売り場だからこそ使えて効果も出せる手法なのかもしれない。

 だったら別に「ARIA」でもいーじゃん、って言われて答えるなら「ぱにぽにだっしゅ」の強烈なマニアが売り場作りの責任者にいるからってことなのか。でも最近は「ARIA」に「灼眼のシャナ」の強化もさらに進んでいるよーで、メディアミックスポータルとしての存在感も日々増しているって言えそう。これで「NHKにようこそ」がアニメ化されて「銀盤カレイドスコープ」のコミックとかDVDが出回りはじめてその他、多々のライトノベルのアニメ化が実現された暁には店頭はいったいどーなってしまうのか。DVDならDVD、書籍なら書籍を別々のフロアで売るよりまとめて関連のアイテムを並べ売るレイアウトへと変わっていくのかなあ。便利だけどそれだと非アニメ化の作品がシュリンクしていくって事態も起こりかねないだけに悩ましい。

 買ったばかりの「ぱにぽにだっしゅ」のDVDは後回しにして放映された「舞−乙HiME」を見たら深優とアリッサちゃんが出てたけどアリッサちゃんは鳥なんでみやむーの声は聞けず。当てているかは知らないけれど。かつて存在した時代に中のよかった乙女どうしがマスター間の争いの中で戦わされて死んでいったとゆー、残酷な歴史が明かされ今は脳天気な娘たちの学園コメディになってる物語が、向かうダークな展開への想像を引き起こす。思い人とともに消えてしまった前作「舞−HiME」の消し合いに匹敵する暗いドラマをどう描いてみせるのかに興味。またぶちキレしずるを見られるのかなあ。楽しみだなあ。

 スレンダーな少女たちの痛々しくも可憐な様を描かせたらokamaさんと並んで当代筆頭だと思ってる鬼頭莫宏さんの「殻歳の夢」(太田出版、650円)にはやっぱりスレンダー美少女たちがさまざまな形で虐げられつつも精一杯に生きて幸せをつうかもうとする様が描かれていて堪能。都市に都市を積み重ねてできたために奥へと向かえば廃墟に近づくその都市で、うち捨てられて餓死寸前だった少女がひとりの青年に助けられる。3年の余命という病にかかっていた青年は病を少女へとうつしともに限られた時間を過ごすことを選ぶ。

 けれども少女が青年を恨むことはない。まさに死の淵にいた彼女を助けたのは彼。あと3時間も保たなかっただろう命をつないだのは彼。その彼が3年の伴侶に選んでくれた喜びを胸に少女は先に逝った彼を追う道を心から喜んで受け入れる。それは青年のエゴなのかもしれないけれど、そのエゴこそが少女にとっては喜びの糧。与えられた時間は3年でも、その3年に得られた濃密な時間はただ助けられ与えられる何十年よりも貴重なものとして永遠に少女を満たしたのだとしたら、青年のエゴとは言い切れない。時間は誰にも等しく流れるものではないのだ。

 娘のクローンを作っては殺す男の話。死んでも半ばゾンビとなって妻のもとへと還る男の話。街の倒壊を予知できる少女の話といずれも滅びかかった都市、消えかかった命の中で精いっぱいの幸せを探ろうとする人たちの物語。切々として心を刺激させる。マンションにキャラクターたを適時適宜に投入してはその住人たちが生活を営んでいく様を眺めるゲームの開発者が、リアルに外から眺められるマンションみたいな構造体を作ってはそこにさらってきた少女たちを放り込み、生活を営んでいく様を眺めていた青年の話は、結末に男の幻想って奴がぶっこわされる場面が描かれてなかなかの衝撃。3次元はだから怖いと男は2次元に待避し閉じこもる。


【11月24日】 危険だ何だと言われている船橋市のマンションの実に多くが我が家から徒歩なら10分以内の場所に建っていて、たぶん建設された際に広告とかも見たよーな記憶がしているけれどそれでもまるで被害に遭っていないのは、100平方メートルで4800万円とかって価格が市況からすれば例えとてつもなく安くても、それを支払うだけの財力も甲斐性も僕にはなくって最初から購入の対象の埒外にあったからに他ならない。

 ってゆーか3LDKだの4LDKだのを買って1人でどうしろってゆーのか。リビングダイニングキッチンにそれなりの広さがあれば、別に2部屋あれば寝る場所と本とか服を置く場所ができて人間らしー暮らしへと復帰できる。価格で言うなら高くても2800万円とか。4800万円も出すなら中古でも良いから戸建てを探して住むってば。それよか4800万円が出せるならその頭金だけで5年は食えると信じて実家に引きこもる。

 だから場所は同じ船橋であっても、まるで事件への関心が湧いてこないんだけどもしも普通な会社で普通の給料をもらって普通に家族を作り暮らしていたとしたら、1000万円くらいは安くてそれでいて広い物件に飛びついた可能性はない訳じゃない。これからマンション価格が上がるかもしれないという不安。持ち直してきた景気に期待できそうな将来の収入。そんな状況下で出てきた良さげな物件に飛びつく心理って何となく分かる。そこにつけ込んだんだとしたら騙した輩は相当な策士。だけどそれでドロンと出来なかった訳だからやっぱりただの間抜けか。そんな間抜けに縄がかかるのは明日か明後日か。

 中心に近づくに連れて勢いを増す暴風も、そのさらに中心へと至ればぴたりと止んで夜なら星空がそこに広がる。最初は小さかった桜野タズサ台風は周辺に近づく者たちを刺激しささくれだたせて惑わせた。ドミニク・ミラーは侮辱されたと感じて怒り、至堂響子は夢にまで見ていただろう五輪行きを阻止された。そして勢いを増した桜野タズサ台風はさらに大勢のライバルたちを暴風圏へと引っ張り込んでは様々な影響を与え遂には、世界の誰もが女王と認めるリア・ガーネットまでをも引きつけずにはおかなかった。

 けれども巨大に成りすぎてしまった台風は、荒れ狂ったり燃え上がったりする周辺ばかりが目立つよーになって、中心にいるはずの桜野タズサの存在がどこか後ろへと追いやられてしまった。例えるならそんな感じで海原零さんの「銀盤カレイドスコープ」は、第4巻ではタズサの妹のヨーコがどうやって姉の存在とゆープレッシャーに壊れず自分の道を選ぶかが描かれ、第5巻ではジュニアの新星、キャンドル・アカデミアがジュニアとしては優れていてもシニアには未だ届かない実力を思い知る物語が描かれた。そのいずれにも桜野タズサは深く関わっていたけれど、ストーリーのメインはヨーコでありキャンドルの挫折と成長。タズサは台風の目のごとくに中心に鎮座して、周辺に強い風を送り続けている。

 そして買ったばかりの最新刊、「銀盤カレイドスコープ vol.6 ダブル・プログラム:A long,wrong time ago」(集英社スーパーダッシュ文庫、629円)はますます巨大化して吹き荒れる桜野タズサ台風の暴風圏で、至堂響子が過去にどんな思いをしながらスケートを続け、そして最初の五輪を病気で失い次の五輪をタズサに奪われ今は最後のチャンスとなる2010年、カナダのバンクーバーで開かれる五輪を目指して精いっぱいに自分をアピールしている姿を描き、敬虔なクリスチャンの家に生まれて抑圧されて育つ中で見たスケートにすべてを賭けようとしたものの、才能で先を行く桜野タズサに嫉妬心を燃やし憎しみすら抱いたまま、同じよーにバンクーバーを目指すゴミニク・ミラーの葛藤の日々を描いている。

 中心にいるのは間違いなく桜野タズサなんだけど、でも話には桜野タズサがお得意の悪口雑言でメディアをなじる場面もなければ、自分の弱さを吐露する場面もない。語られる視点は至堂響子でありドミニク・ミラー。その眼を通してドミニクであり響子でありリアであり他のライバルたちの動静が紡がれその中で、自らを開放してはますます勢いをます桜野タズサの凄さが問わず語りに示される。もしもこの何巻かをあくまでもタズサの視点で語っていたら、高慢なキャラクターがひたすらに暴走していくだけの物語になったかもしれないけれど、背後にしのばせ見えない台風の眼とすることで、かえってタズサの存在感を強めることに成功している。考えてやっていたんだとしたら海原零さん、相当な手練れの作家になったって言えそー。

 続くおそらくは最終巻のバンクーバー五輪編。桜野タズサが物語の中心へと復活しては、一気に爆発しては周囲のすべてを巻き込み吹き飛ばして爆発する物語になるのかそれとも見えない影響力を放ち続ける存在として描かれるのか。分からないけれど可能性として考えられるとしたらそこはバンクーバー、あのピート・パンプスの故郷であるカナダの地での大会だ。恋をできない身となってひたすらにスケートにのめりこんでるタズサを襲う強く激しいプレッシャー。そこに4年の時間を経て再び降りて来たピート・パンプスがタズサに滑る喜びを思い出させて感動のフィナーレを、向かわせるんだとしたらきっと素晴らしい読後感を得られるんじゃなかろーか。果たしてどーなるか。それよりいったいいつ出るのか。期待しつつ待とう。至堂響子のバンパイアファッション、可愛いなあ。
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【11月23日】 柏レイソルが勝ったら嫌でも勝たないと降格が決まってしまう東京ヴェルディ1969の試合を「味の素スタジアム」で見物。ここんところ沈んでは沈みちょっとだけ浮いてまた沈む名古屋グランパスエイトが復帰のスパーリング相手にするかどーかって期待もあったけど、ここが瀬戸際ってところで守備陣が頑張ってグランパスに責めさせない。またグランパスも左右に開いてもフォローがなくってそこから適当に放り込むくらいしか出来ず守られ跳ね返されてチャンスを作れない。角田誠が攻めてはボールを相手に渡す雑なプレーを見せていたりして、そんな雑さが今の中位にグランパスを甘んじさせているんだろー。

 それでも時々は攻めるものの決定機を外して得点できず。逆に相手に決定機を幾度も作られるもののそこな楢崎正剛選手が流石な守備を見せてゴールラインを割らせず膠着状態に。ワシントン選手の怖さもかろーじてしのいで無得点のままドローを迎えて気になった柏レイソルもスコアレスドローで5点の勝ち点差は縮まらず、次の試合にまたしても瀬戸際の勝負をヴェルディはかけることになりそー。妹の日テレ・ベレーザがリーグ優勝を果たして女子選手権も連覇が期待されているのに兄はこの体たらく。せめて天皇杯くらいは再びの優勝を成し遂げ元日にアベックで華やかな所を見せて欲しいけど、その時には既にJ2落ちが決まっていたら意味がない。ってか妹の運営にも影響が出るんじゃないかと心配なんでここは頑張りせめてプレーオフには逃げ切って、都並監督率いるベガルタ仙台を相手にのるかそるかの戦いを繰り広げて欲しいなあ。ヴェルディに都並が引導を渡すってのもまたドラマ、だねえ。

すべての道は小泉に通ず、参ったねえ  昨日の「自由民主党立冬50年党大会」で1番興味深かったのは、「新高輪プリンスホテル」の大広間にしつらえられた会場のレイアウト。体育館みたく長方形の短い一辺が前になるんじゃなくって、横の長い辺を前にして、中央にステージを作るのは後方が遠くなって前がよく見えなくなることへの配慮として普通に行われることだけど、その場合だと左右の両翼がステージを見づらくなるため、普通は両翼にとって正面となる場所にスクリーンを設置して、中央で上映される映像も見られるように配慮する。

 けどそれだと両翼に来た人たちが中央のメインステージを見て喋っている人に敬意をはらうべきなのか、それとも正面のスクリーンに映し出される像を見ればいいのか迷ったはてに、場内に妙なバラつきが出てしまう。それを憂慮したのか自民党の党大会は中央のステージに向かって椅子を扇状に並べてみせた。だから通路は放射状に切られてる。そしてそんな通路が集合する1点、つまりは扇の要の部分にスピーチ用の演台を、ちょっと高い位置に設置して誰もがそこに眼を向けて、スピーチする小泉純一郎総裁を見られるよーなレイアウトにしてみせた。

 テレビなんかで頻繁に流されていた、話題の杉村太蔵議員が「立党50年宣言」を読み上げたステージは実はその演台よりも後ろに配置されている。もしもそのステージで普通に演説をしたら、遠目にしか見えなかった杉村議員と同程度の大きさにしか小泉首相も見えず、後から来て後列に立っていた人はがっかりしたかもしれない。けれども工夫されたレイアウトのお陰で、最後列に近い場所に座っても、小泉総裁が割りに近い位置に見えた。否が応でも中央に目を向けざるを得ないレイアウトは、自然と場内に一体感を醸し出して場の空気を高揚させたんだろー。トリを飾って杉村議員が登壇した時も、場内の空気はちゃんと引き締まっていた。

 1時間半程度ってゆー短さの間に段取りよく進めたのも善かったのかもしれない。普通だったら県連なりの重鎮が来賓として喋り始めて収集のつかなくなりそーなところを、首相と英国駐日大使と日本経団連会長と宮本亜門さんだけにして、それぞれが完結に数分間でスピーチをユーモアを交えくすぐりも交えて喋って切り上げてみせた所も、伝統があり格式、ってゆーよりは因習を重んじそーな党大会にあっては異例の簡潔さって言えそー。お陰で会の途中に立ち上がり手洗いに行く人とかそんなにおらず、人の激しい移動で空気が緩むこともなかった。

 あるいはホールのような場所で5000人からが座れる椅子を前に、ステージから喋るって手法もあっただろー。過去の映像を見る限り、自民党の党大会ってゆーのはそーゆー公会堂とかホールみたいな場所で行われている。けどそれだと壇上と壇の下に必ず断絶が生まれてしまう。暗い照明の会場から明るいステージを見下げる構造のホールでは、コンサートとか演劇のように観衆がステージに集中しようって意欲を生み出しやすいイベントでもない限り、なかなか一体感を創り出しにくい気がする。レイアウトを自在にできて、且つ上から集まった人たちに注目させる設定は、ホテルが会場に使われたからこそ出来たんだとも言えそーだ。

 そしてそんな仕掛けの裏側に登場するのが、やっぱりこの人、世耕弘成自民党後方本部長代理だ。ブロガーやメールマガジンの主宰者との懇談を実現し、今回の党大会にも彼らの何名かを招待して招かれた人たちが「自民党公認ブロガー」を衒いながらも自称するよーになった切っ掛けを作った人だけど、この「立党50年記念党大会」でも中心メンバーとして仕切りに当たった模様。そして従来型の随意発注ではなく企画に対するコンペを行って、その中から最善のものを選んで実施したってことを自分のブログに書いている。手柄を自慢しているよーに見えるのは何ともくぐったいけど、でもまあそーゆープロセスを垣間見せることによって変化しているってことを満天下に、党の内側も含めて知らしめるって意義を担ってのことなんだろー。でまきゃただの自慢しい野郎だ。

 コンペがどのレベルのものだったのか興味のあるところで、会場選びからレイアウト、そしてプログラムの内容まで含めて提案させたんだとしたら、昨日の党大会を創り上げた企画のチームは相当に優秀だったと言えそう。杉村議員なんて”爆弾”をしっかりと使いこなすことによって、カタい政治の話なんて取り上げそーもないスポーツ新聞とかワイドショーがしっかりと、彼の演説の場面を映しつつ韜晦のことを報じてた。

 従来型の堅いメディア向けには憲法改正って大ネタを見せて世論にアピール。そんなメディア戦略までをも含めて硬軟取り混ぜたプログラムを提案したんだとしたらこれは相当に手練れのチームだろー。気を付けないとすぐに世論をもって行かれそー。どこの代理店の誰が仕切っただろー? サッカーの応援をまねてみせては若者の受けをとろうとして滑り、一方でおっさんたちの眉をひそめさせた某政党なんかが繰り出した、バブルの残滓のよーな企画に比べて遙かに洗練されている。それとも同じ会社の違う部署だったのかなあ。

 あるいは党内からプログラムなり会場なりの指定があったのかもしれず、そこで杉村議員を乗りこなす案も挙がっていたんだとしたらなおのこと、注意してこれからの施策を見ていく必要がありそー。その裏には何があるのか。何を狙いとしているのか。それらを含めて見ていかないと、知らないうちに連れて来られている場所はかつての地平、ってことになりかねない。とはいえそんな考えを抱く人にはまた別の、対話により説得して納得させるプロセスを用意して来るのが昨今の自民党。結果世間は一体となってひとつの道を突き進む、と。過去のそーした政治的なプロパガンダを研究している人は、今がまさにそれが執り行われている時だと知って動静を注視しよう。そんな外野も含めて取り込み動かせるとしたら……脱帽するしかないね、まったく。

 こんな時代にもしも三島由紀夫が存命だったら何を思うか。自衛隊を政権政党が挙げて”自衛軍”にしようと憲法改正を目指す時代に、嬉々としてパレードに向かい手を振ったか。その存在を知る人たちには今の強権でもって押さえつけるやり方を無粋と誹るだろうって声もあるよーだけど、それが三島由紀夫の本意なのかそれとも彼の名を借りつつ自分の見解を言おうとしただけなのか、他人には確かめよーのないことなんだけど、少なくとも理念よりは評判を気にして動く政治家芸人の類を見るにつけて、無粋の極みと談じただろーと、堂本正樹さんが書いた「回想 回転扉の三島由紀夫」(文春新書、710円)なんかを読むと思えてくる。お茶目だけど審美に厳しい人だったみたいだから。

 書いた堂本さんは後に劇作や劇評をやる人だけどまだ旧制中学の4年の時に、銀座にある今でいうところのゲイバーで、当時は喫茶店に若い綺麗な少年たちがボーイを勤めていたって場所に出入りしていた時に、歌舞伎役者の女形で後の中村歌右衛門、当時の中村芝翫の評論をそこで見せられ貪るよーに読んだところ、常連だった筆者の三島由紀夫に紹介されてそれから親交を深めたとゆー。互いに「あに・おとうと」といった関係を続けたそーでその後に三島が「仮面の告白」で一世を風靡してから、右傾してもなお切腹の美を描く「憂国」の演出なんかを担当したりと、ほとんどの時代をともに過ごして来た。

 筆致にはだから右傾してた三島を非難する口調はなく文学論演劇論を戦わせることもなく、淡々とつき合っていた時代が綴られる。奥野建男さんが書いた三島由紀夫の評伝に比べれば濃密さでも激しさでも弱いけど、その分だけ普段着のよーな三島の雰囲気が分かって面白い。匿名の小説で三島の筆と言われつつも分からないまま「アポロ」という詳説しに掲載され、後に「クィア・ジャパン」にも掲載された榊山保名義の「愛の処刑」は本当に三島の筆で、それを堂本さんが三島の家に行って三島の筆跡が出ないように書き写させられたってエピソードも紹介されているけど、これって有名な話なんだろーか。

 それと映画「憂国」のフィルムを堂本さんも持っているってのが明らかになっててこれは驚き。三島由紀夫の自決後に瑤子夫人がすべて回収して消却したって話がまずあって、けれども婦人が1本だけ保管していたって話が後に明らかになったってニュースが流れて評判を呼んだけど、演出を勤めた堂本さんも1本持ってて夫人からの回収以来にもこれは自分も関わった共同制作の品だからって拠出を拒否して保管しておいたらしー。でも表には出さなかったところがなるほど友人であり弟でもあった人の矜持って奴か。ともあれ茶眼っ気のあった人っぽい三島由紀夫が今の状況を見たら、喜ぶよりは何か別のタクラミでもって僕たちを面白がらせてくれただろーか、それとも嘆いて嘆きまくったんだろーか。どっちにしたって80歳の爺さんになっている訳で、それが耄碌っぷりを発揮してくれていたら世界も楽しかっただろーなー。合唱。11月25日は35年目の憂国忌。


【11月22日】 よく分からないけどブロガーと自民党幹部との懇談に2回続けて出た人に、昨今の党勢を見てもらって世論の喚起に繋げてもらいたいってゆー、相変わらずに聡い世耕弘成・自民党広報本部長代理の企みもあって招待状が届いた「自由民主党立党50年記念党大会」を、折角だからと「新高輪プリンスホテル」まで見物に行く。過去にもいろんなところに出没して来たけれど日本で1番偉い人の現れる場所ってゆーのはちょっと記憶にない。今回を逃すと次は50年後で90歳くらいになってて生きているかも分からないからこれはやっぱり行くしかない。

 前に「プレイステーションアワード」なんかをやってた巨大な宴会場に敷かれた椅子はいったいどれくらい? 各地から招かれた党の支部の代表者、おそらくは県会議員とか市会議員といった偉い人たちや、一般から招かれた企業の偉い人たちが埋め尽くす中にあってどこの誰だって野郎が紛れ込んでて良いのかって思ったけれど、何しろ党の国会議員にあんた誰的な若造が当選してしまっては、世間をお騒がせしているんだからたとえ馬の骨であっても、不惑に手の届いた人間が混じっていたって良いんじゃないかって一人納得して末席に陣取り進行を見守る。

壁に映る四季の映像、そして文字、やるなあ演出、まねるねどこか  長方形の長い辺に向かって広がり座る観客の前に、まずは繰り広げられたのが横に長い壁面を使った映像の上映。そして文字の投影。スクリーンを使わなくてもこれだけの、巨大な映像的演出が出来たのかって眼を見晴らされる。考えた人は誰なんだろう、ちょっと凄い。んでもって登壇して来た司会の案内でオペラの人が国歌を歌いそれから自民党の党歌を唄って披露。「君が代」は分かっても党歌の「われら」は知らないんで歌えず、状況を見守っていたら2番と3番の間奏で間合いを勘違いした参加者が続きを歌い始めてしまって、遅れて入るに入れずオペラ歌手の人がまごついていたのがちょっと面白かった。それでも伴奏を捕まえちゃんと歌いきったのは偉い。それぞプロ。これがあややだったら一体どーなったことやら。来年の党大会にはどーですあやや。

 んでもって登場した小泉純一郎・第20代自由民主党総裁は、演説台に向かってひとしきり改革の意義ってものを訴える。以下演説抜粋。「総選挙で大きな国民の支持を自民党は獲得できた。50年続けてきた過去の実績と、これからの改革意欲に期待する国民の声だということで、責任を感じている。日本の近代政治史において、優れた、また奇跡とも言える大きな改革は、まず明治維新の改革だった。そして60年前の敗戦もそう。灰燼に帰した日本がここまで発展してきたのは、奇跡ではないかと外国の人も言っている」

 「明治維新の改革も敗戦後の改革も、いずれも国民に大きな犠牲を強いた上での改革であった。多くの尊い命を失わざるを得なかった、戦いの連続の上で得た改革だった。これからの世界情勢の変化、激動の時代に、いかに平和のうちに世界の変化に対応できる改悪をしなければならないかが、政権政党である我々の責務である」

 「日本は何度も危機を体験してきた。30年前、中東の戦争に端を発した石油危機で、多くの専門家も日本人も、一番エネルギー源を石油を海外に依存してきた日本だけに、経済成長が止まるだろうと覚悟した。しかし、石油危機から30年が経ち、もっとも打撃を受けたはずの日本が、世界でもっともうまく、あの危機を克服してきた。私が初めて衆議院議員に当選した昭和47年、いかに物価を抑えるか、インフレを抑えるかが政治の大きな課題でもあった。私が現役の国会議員であるときに、デフレが到来するとは思ってもいなかった」

生で見るのはインパクの表彰式以来? 相変わらず見栄えは良いねえ小泉さん  「現在、あの石油危機の学習効果もあって、1バレル20ドル前後の油が3倍になっても国民にパニックはない。インフレもない。石油危機をいかに克服しなくてはならないか、また石油危機ならどうすればいいのかを考え、政府として、党として手を打っていったし、国民が協力してくれたからこそ、海外に依存している日本がこうして、パニックもなく、新しい時代に多央出来る体制を整えることが出来た。自信を持ち、新たな改革を進めることが出来る」

 「これは、やればできるという意欲をもって進んでいるからに他ならない。これからの50年もこれまでの50年に匹敵する困難に直面するだろう。だが先人たちはへこたれなかったし、絶望しなかった。危機こそチャンスだという新たな挑戦意欲をもって、新しい事態に対応してきた。自民党も50年間、政権を失ったこともあったが、対立相手と手を結び政権を担当するしたたかさと柔軟さで、国民の支持を受けて今も政権を担当している。この自民党への期待と信頼をこれからも胸に受け止め、国民の総意と工夫を発揮できるような、持てる力を発揮できる環境を整えることが、政権政党である自民党の役割だ」

 なるほど改革こそが政権の命脈であり何かをやっていることを見せ続けることで支持を集め続けてきた小泉政権の特徴を、自ら語って見せたっていえそーな演説。ただし改革が実行されていなかったら単なる嘘つきで、その点小泉内閣はそれが妥当か否かは後の状況に委ねられる部分が多いとはいえ、目に見える結果とゆーものを示し続けられたからこそ今日まで命脈を保って来られたんだろー。そしてこれから先を期待させる術にも長けている。例えば今回の党大会でゲストに招かれたのが、経団連の会長とそして演出家の宮本亜門さん。何で呼ばれたの? って当人も迷っていたけどそれでもしっかり演説をしてみせた。

 「私は政治家にはならないと言っている。だから国民の1人として呼ばれたのだなと思っている。国民の代表ということではないけれど、この美しい日本で生まれた国民として喋ります。演出家はセリフを読み、人と人の関係を作っていく。首相官邸におじゃましたときに、小泉さんはラブロマンスが好きだってっていた。じゃあラブロマンスを例に取る。国王と恋人。どんなイメージが浮かぶ? 国王は高貴で威厳のある人で恋人はロマンチックな人といった感じ。でもこれはレッテルです。2人のラブロマンスならこういう風になるっていうと、演劇は成り立たない。人はもっと複雑で、どう考えるか想像力を働かせることがアーティストであり演出家の仕事なのです」

 「アインシュタインは言いました。想像力は知識よりより大切。想像力は世界を包む。すべての世界をどうやってみていくか。それが政治家の仕事でしょう。ラブロマンスはテロリストにもある。年金生活者にもある。生きている人がラブロマンスを経験している。どんな生活をしているのか、痛みを持っているのか、全員は考えられないけれどそれを考えていただきたい。時代は貧富の差が激しくなっている。これはとても嘆きたいこと。世の中は善か悪かではない。みなさんだって当然知っているでしょうけど、言いたいことは善か悪ではないということ。勝ちか負けでもないということ。この差を取って頂き、本当に理解し合える世界を、日本を作っていただきたい。1000年、幸せになれる日本を創り上げて欲しい」

 善か悪か。とゆーより改革を支持したか否かで処断を行った小泉総裁を前にして、なかなかな果断な言葉だけど宮本さんの演説はそれに留まらずまだ走る。「沖縄の住民の1人として、私は沖縄の基地問題は理解ができない。美しい自然がなくなっていく。もう一度みなさんの中で考えて欲しい。改革という言葉は大好きです。前の改革では犠牲者が出たと小泉さんは言いました。今回改革をしていくことで、改革に追いつかず違うところで生きている人にも、想像力を働かせて欲しいと思います」。眼前で日米同盟のために沖縄をあれこれ弄っている人たちを前に反対意見はっきりと言う。そんな宮本さんのスピーチを許してみせることで、傍目に自民党の懐の広さを見せつけたんだとしたらこれはやっぱり自民党、相当にしたたかだって言えそー。

問題児も一転して寵児。これが小泉・世耕マジックか?  したたかさはそれに留まらない。今年の9月11日に行われた衆院の総選挙で当選した自民党の新人議員83人を代表して「立党50年宣言」を行ったのは何とあの杉村太蔵議員。そのあまりにも軽い言動で小泉総裁の若手起用外部起用の戦略の失敗を象徴する存在だと思われている彼を、晴れがましい場に代表として引っ張り出しては「立党50年宣言」を言わせてみせる。それに答えて杉村議員も文言を暗記した上に半身に構え腕に力を入れつつ言葉をゆっくりと振り絞る。見れば心を入れ替えた若手の議員が頑張っているぞって気持ちになる人もいるだろー。当の杉村議員もこーゆー場で起用されることで、無茶はできないしくじれば迷惑をかける人が山ほどいるんだって自覚を持つよーになる。一石二鳥。効果はでかい。

 そうでなくても世間が注目している若手議員を起用してみせることで、普通だったら小泉総裁の演説と、せいぜいが森前首相による憲法改正案の公表に留まっていた党大会の紹介に、杉村議員の宣言とゆー絵的に美味しい場面が加わって、一般ニュースに限らずワイドショーでも紹介される機会が増す。見れば初々しい杉村議員がそれほど悪くはないルックスで言葉を振り絞る場面がそこに。なるほどこれなら応援しなくちゃいけないって思う有権者も出てくるだろー。

 もしも演説をしなかったとしたらワイドショー、借りてきた猫みたいな姿で壇上に立っていた杉村議員を映しつつ当然ながら党大会に姿を見せていた大仁田厚議員との確執を、おもしろおかしく紹介したに違いない。だったら機先を制して杉村議員に役を与えて好感を持ってもらう。考え出した演出家がいたとしたらちょっと凄い。ちなみに大仁田議員、新人議員による「宣言」が終わった直後に席を立ち部屋を出ていった。僕の横を通ったけど背が高くて格好良い挑発の兄さんがいるなったと思ったらそれが大仁田議員だった。痩せてて一瞬誰か分からなかったよ。杉村議員の晴れ舞台に、これでちょっかいを出そうって気も失せたのかなあ。

 もっとも一方で憲法改正が党是となって来たことが鮮明になったり、学生部なんてものを設置して学生と政治の架け橋をさせようって計画を表明したりとスルーするにはちょっぴり引っかかることも結構あって、小泉総裁の高らかな演説や杉村議員の若々しい宣言の影に紛れてそれが一切の討論なく進んだ暁には、あるいはやばいことも起きるかもって気も浮かんできた。中央大学と南山大学だったっけ、それぞれの学校から来ていた2人の学生部の若い人たちの言葉を聞いても、共産党とか公明党とかいった政党ではない政権政党の学生部って奴が、いったいこれから何をするのかが見えて来ない。

 オルグ? 折伏? でもオルグされたり折伏されて党員になるプレミアム感ってのが自民党にはあまりない。そーゆー支持を必要としなくても自民党は経済界や商業界の支持を集めてこれまでやって来た。敢えて学生部を取り込む意味って何だろう、もしかしてとてつもない強権を発動させるための下地作り? 憲法改正に”自衛軍”の創設ってゆーこれまでの郵政改革年金改革以上の抵抗を受けそーな事案が山積みなだけに、そこへと向かうための道筋を作る準備が始まったって見て見られないこともない。まさかドイツのユーゲントみたく、老いも若きも女性も誰でも、自民党の党員にあらずば人にあらず的な世界が遠からず生まれ出てくる胎動だとは思わないけれど、可能性としてゼロではない以上、気をつけて行方を見守って行く必要がありそー。それが分かっただけでも党大会、出た意味があったかな。杉村議員の後ろでちょこねんとしている片山さつきさんの生姿も見られたし。


【11月21日】 コットコットコットコット、コットンクラブで。このネタ2回目。アメリカはニューヨークのハーレムにあった伝説のナイトクラブ「コットンクラブ」が東京駅のそばに出来た「TOKIA」ってビルの2階に22日にオープンするってんで、そのレセプションがあって見物に。といっても中はセレブな方々でいっぱいで入れず寒空の入り口で待ち受けて招かれたセレブリティな方々を観察。まずは「モーニング娘。」からソロになって以降、とんと噂を聞かないってゆーか評判が気にならなくなったかおりん飯田香織さんがゴージャスな衣装で現れ中に。その大人っぷりに驚いたけれど直後に本家ゴージャスな叶姉妹の妹さんの叶美香さんが現れまるで西瓜が2つ張り付いたよーなそのゴージャスなビジュアルに火花が飛んで寒空に震えた体を火照らせる。

 姉の叶恭子さんとペアかと思ったらさにあらず。1人でこの迫力なら2人だといったいどれくらいのものになるのか、想像するだけで脳内で花火も舞うけど今回は1人でのご登場。あるいは後で入っていったのかもしれない。もっとも200席あっても「コットンクラブ」、ステージまでの距離が近くで音楽を聴くには最高だけどシートはゆったりって感じじゃなくてスキンシップも図れそうな感じなだけに、叶姉妹の2人が入ったら放たれるエナジーに音楽が聞こえなくなってしまうかもしれなかったんで1人が適切だったかも。横とか前に座った人がうらやましいなあ。見下ろせばそこには深い谷。落ちたらはい上がること2度とかなわず。

 あとはえっと誰が来たっけ、ニューヨークに今もある「コットンクラブ」のオーナーさんに堀内孝雄さんにつんくさんに三木谷浩史・楽天社長! っておいおいサッカーの「ヴィッセル神戸」が2部に落ちて大変だって時、且つTBSが縁談お断りなスタンスをなお強めているって時に音楽なんて聴いてる場合なんだろーか。それともTBSの関係者も招かれていて中で歓談とか相成ったんだろーか。歴史は夜作られる。そんなかつての赤坂「ラテンクォーター」みたいな場所に「コットンクラブ」がなったら凄いなあ。1度ライブとか見に行くかなあ。でもきっと高いんだろーなー。1人掛けのカウンター席ならそんなに高くなかなー。

 そんな取材が夕方に始まる前に腹ごしらえと寄った地下1階にあるカレーの「インディアンカレー 丸の内店」が仰天、午後の4時から5時半までは休業だって。そんな時間帯、大阪や神戸に沢山ある「インディアンカレー」にも存在しているのかなあ、ってかスタンドのカレーショップで夕方の一時閉店なんて聞いたことがないよ。重たい食事の前にちょっぴり腹ごしらえしたくなる時間帯だし、学校帰りの学生なんかが寄りたくなる時間帯じゃん、地下街とかだったらそんな時間に閉店してたら、とんでもない数の客を逃すことになる。けどここは東京のゴージャスビル。周囲にあるレストランなんかが夕方の再開を待ち準備中の中で1軒開けていたら店の風格も落ちるって考えたのかなあ。だとしたらヤだなあ。ちなみに隣りのコンビニエンスストアは当然ながら営業中。やっぱり妙だなあ「インディアンカレー」。

 戦う司書ってーとすでにして山形石雄さんに「戦う司書と恋する爆弾」(集英社スーパー奪取文庫)に登場した30前後にがさつっぽいんだけど戦うと凄いハミュッツ・メセタが有名で、そんな彼女たちが守っているのが人間の記憶が記録された形としての本でなおかつそれを独り占めしようとする司書を相手に宗教的な勢力が、立ち上がっては人間を爆弾に変えて送り込んで来るてゆー凄まじい設定ともどもライトノベルの読者を驚かせた。まもなく発売の「このライトノベルがすごい2006」でも来年来るだろー作家に何人もから挙げられてる。それだけ印象が強烈だったってことだろー。

 あるいは大英図書館のエージェント、読子リードマンの活躍を描いた「R.O.D」があり、マガイモノたちが集い謎の本をめぐる争いに巻き込まれながらも図書館を建て直そうと懸命になる「イレギュラーズ・パラダイス」もあって図書館物は結構な激戦区。そんな場所に普段は図書館の司書で本を偏愛している感じを見せつつ、その実態は妖しい力を秘めた謎の書物を管理し狙う的を倒す任務を負った「異界司書」の少年と、本の力を解放しようと企む敵との戦いを描いた十月ユウさんの「戒書封殺記 その本、持ち出しを禁ず」(富士見ファンタジア文庫)はいささかストレート過ぎる気もしないでもない。手にした武器が分厚い本ってのもなあ、マージョリー・ドーみたいだなあ。

 けれどもだけど、本を好きになった10代も早々の少年少女が、本を探して入り込んだ場所で仮にこの本を手に取ったとしたら、本好きの気持ちを捉えた内容だって人気になるのかも。「富士見ファンタジア文庫」ってライトノベルのレーベルが、そーゆー”最初の本”としての役目を担っているってことも含めれば、ストレート過ぎる内容もそれだけ読者の気持ちに響くってことなんだろー。そんな読者の感覚まで考えてこの話を選びセレクトして刊行したかまでは知らないけれど。とりあえず図書館で喋るな本を粗末にするなしたら部長が泣かせるぞ、って所は大いに共感。と言いつつ部屋に溢れた本の上を踏んで歩く僕。天国には行けそうもないなあ。

 100歩譲ってスポーツのスターには広告的な価値があって各方面からスポンサーになりたいって話が持ち込まれてうはうはになるってゆー話は、経済活動の一側面を現していないとは言えず経済系のメディアのニュース記事として掲載される意味はある。もちろん活躍した選手の活躍した部分をすっとばして、やれ広告価値が上がっただの下がっただのといった下世話な話ばかりを取り合える下衆っぷりは気持ち悪いけど。でもなあ、長く休養していたマラソンランナーが脚の怪我を押して走ったことにビジネスの極意を見出そうってする記事が、経済系の新聞の1面トップを飾ることってどーなんだろー。

 なるほど1人の経営者として所属ランナーを食べさせないといけないって意味から無理を押して走ったって言えば言える。でもそれはそのランナーの事情であって企業が無理を押して冒険に出て良いかってゆーと決してそんなことはない。ってゆーかそうなる前にリスクを排除し万全を尽くすのが社員を抱え顧客を抱える企業のあり方であって、無謀きわまりないマラソンランナーの博打に感動して真似したいなんって企業があったら、それは企業として失格だろう。けどでもある世代の人たちはスポーツの感動を企業活動になぞらえ応用することをやめはしない。経営に哲学がないからスポーツの感動に縋りたがる。世の中はスポーツはスポーツとして楽しみ感動し、企業経営は経営として万全を就くし挑むよーになっているにも関わらず、両者の間に関連を持たせて「スポーツの感動、経営の指針に」とかってな間抜けな記事を作って悦に入る。そんなスポーツ的でもなければビジネス的でもないメディアに果たして未来はあるのかどうなのか。考えるとまた暗くなっちゃう。厄年は本当に厄年となりそーだなー。


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