縮刷版2004年2月上旬号


【2月10日】 星飛雄馬に矢吹ジョーのペアは講談社の看板だから許せるし、三平三平こと釣りキチ三平はその趣味にファンも多いんで抜き出されて取り上げられても読む人とかは多そうだけど、これが島耕作ってなるといったい誰が買って読むのが見えて来ない。いや見えない訳じゃなくって島耕作さんみたく、華麗にビジネスと色濃いの世界を泳ぎ切っている人に憧れたいビジネスマンがいない訳じゃないことは、単行本の売れ行きからも分かるけどでもそれをあえて月2回とかの雑誌でこってり読まされるのは、ちょっと適わないって気がしないでもないし、読んでいるこってりした人を見るのもちょっと気味が悪い。いけいけドンドンな時だったら売れたんだろーけどこの不景気に華麗なサラリーマンを見せられても、ねえ。とか言ってる脇から「CLAMPパートワーク」が9月下旬に創刊。これは売れるかな。「週刊CLAMP」じゃないのがつまらないけど。

   スタートの日付が1996年2月10日だからつまりこれでまる8年が経ったってことで、よくもまあ続いたなと我ながら感心すると同時にまるまる8年、テーマもなければ蘊蓄もない無指向な戯れ言を、飽きもせず休みもしないでだらだらと書き連ねて来た間に、インターネットへの注目が集まりそこから輝く才能が見出され、文壇論壇に続々と華々しくデビュウなんぞしていく姿を、無関心なふりして横目やら上目遣いに見ては羨ましさに拳骨を口にくわえたまま布団に潜り込んでむせび泣き、今も悔しさにギリギリと歯ぎしりをしていたりするのは恥ずかしいから内緒だ。まあそれでもいろいろとお仕事をさせて頂いているのは有り難いことで、今は精一杯にそーしたお仕事をこなしつつ本も読みつつ目の前に近づく締め切りを、守って原稿を上げることを考えよー。

 それにしても8年間は短いよーで長いとゆーか、この間に起こったことといったら数々あるけれど大きいのは元になってる某新聞社が不況続きの世相に違わずともに身代を傾けて、明日死ぬか明後日逝くかの瀬戸際に経たされた挙げ句に遂に題字を「フジサンケイビジネスアイ」とやらに代えて3月1日から再出発を果たすことになった事件で、「まるごと経済紙」ってゆーキャッチフレーズなんかもつけて(だったら今までは経済紙じゃなかったのか? って突っ込みは僕の知ったことではない、決めた人がそう思ってたかまでは知らない)経済から金融から芸能音楽美術スポーツファッションにアニメ玩具ゲームといったナンパ分野までを網羅して、ビジネスっぽい切り口でもって紹介してくそーだけど、かかる状況下にあって当方、そーした新しい紙面でやれって押しつけられたのが、どれだけだってアイディアが沸いてくるナンパな分野ではなくって流通だとか食品だとか、一部に経営としてのエンターテインメントといった分野だったりする。吉野家の会見に出ているのはそーゆー理由。

 なんで新しい紙面に頓珍漢なオタクの記事とかが載っても、それは僕の知ったことではないんで悪しからず。常日頃から関心を持って見たり聞いたり買ったり遊んだり行ったり着たりしている美術音楽アニメスポーツファッション等々の知識であったり体験であったり感想は、新しい新聞なんぞには出さずに(そっちで使わないってことは欲しくないってゆーことだろーから)、これまでどーりにここで存分にお伝えしていくことにするんで、そーゆー方面が気になる人はこれからもご愛顧を。書かせてくれる所があれば何なりと。雇ってくれる所……それは無理だろーなー、歳も歳だし。歳ってゆーならすでにしてからがここに書かれている感想なんかにも、年寄りの冷や水を地で行く頓珍漢な解釈とかが混じっているって指摘もあるだろーけど、それは一重に僕の勉強不足なんで生暖かく冷笑するか、激して示唆して頂ければ幸いです。せめて毎週秋葉原に行って「週刊わたしのおにいちゃん」を買うくらいには頑張ります。でも「ラジオ会館」ではあんまり火事に遭いたくないなあ。「焼けても『週刊わたしのおにいちゃん』を離しませんでした」じゃあ親が泣く。

牛丼はこれでおしまいです。ここから牛丼なしの世界が始まるのです、とエアは告げた  そんな訳で昼前に有楽町にある「吉野家」へと行って最期が迫った牛丼の模様を取材、するんじゃなくってまだ余裕のある店内へと入って大盛り玉付きを頼んで貪り食う、ほらやっぱり最期って聞くと食べておかなきゃって気持ちになるんだよね。出ると待ち受けている社会部っぽい取材の人とかもいたけど抜け出して、しばらく置いて昼過ぎにもー1度同じ店へと行ったら今度は店の前に長蛇の列が出来ていて、最期と聞いてここは1つ食べておかなきゃって思った日本人が大勢いて、その一端がここに覗いたらしーことを知る。テレビカメラも何台か来ていて出てくる人にインタビューなんかをしていて以前から想像していたとーりの光景に、日本のメディアのやっぱりな一線ぶりを見る。明日はいよいよ”最期の一杯”が出る日。3人の親子が1杯の並盛を頼んで分け合って食べる姿に世界がむせび泣くんだ(それは話が違ってます)。

 折角だからと近所の「吉野家」なんかもチェック。銀座の電通ビルのそばにあったと記憶を頼っていったらそこにすでに「吉野家」はなく、仕方がないんで新橋まで歩いて2軒あるうちの1軒へと行ったら何人かの記者が前に張っている姿を発見。さすがは大手マスコミ、読者の「知りたい」ニーズに応えるべく、大勢を動員して「牛丼最期の日」をルポしよーと頑張っている姿に感動する。僕は1人だ。それで「まるごと経済紙」だ。不思議だなあ。ちなみにその店には「明日から牛丼販売中止」の張り紙があって見る人の心の涙を誘ってた。明後日から何を食べればいいの? それならお菓子を食べればいいじゃない。「吉野家」でか。

 さらに2軒を回ってそこそこの混み具合に駆け込み需要の大きさを確認。これは確実に明日にはどの店でも牛丼の販売が止まりそー。そー思うとなおのこと寂しいと思って今度は恵比寿で「アイトーイ・プレイ」の前夜祭をのぞいてKONISHIKIさんの巨体ぶりとか根本はるみさんの巨大ぶり(何がだ?)を確認し、ラモス瑠偉さんがどこかの美少女と遊んでいる姿を目に納め、野々村真さんと奥さんと愛娘が仲むつまじく歩いている姿に家族のありがたみを感じ、これで結構「アイトーイ・プレイ」って面白いんじゃないかと思った後で恵比寿駅前にある「吉野家」へと入って今日2杯目の大盛り玉付きを書き込む僕はただの野次馬です。いったい明日から何を食べれば良いんだろう?? 「らんぷ亭」の牛丼を食べればいいじゃない。玉葱が芯まで煮込まれてなくたって牛丼だ。味付けが辛目だって牛丼なんだ。たぶん。


【2月9日】 嘘ニュース。感染力の高いヒトインフルエンザが×日、東京都内で発見されたことを受けて千葉県は、東京都からのヒトの流入を事実上禁止する措置を行うと発表し、即日実施に移した。地下鉄東西線は葛西駅と浦安駅の間を土嚢で塞ぎ運行を遮断。総武線、京成戦でも同様の措置を講じて、ヒトインフルエンザを持った人が入り込み、千葉県民の間に蔓延させることがないようにした。これに対して東京都でも、神奈川県でやはりヒトインフルエンザが発生して学級閉鎖が出るほど蔓延している時代を受け、都民の健康を守るためという理由で神奈川県からの人の流入を止める施策を実施に移した。

 なんてことがもしも現実に起こったなら、いったいどれだけの影響が出るんだろーかと考えたけれど現実的にはいくら感染力が強くっても、人の動きを妨げるよーな施策を打ち出すことなんて不可能で、結果マスクくらいはしていてもインフルエンザのウイルスを持った人が西に東に自在に移動しては人にウイルスを移しまくっている。これを思うと危険な部位が取り除かれた牛肉を輸入することなんて、安全過ぎるくらいに安全じゃないかって気になるけれど、全頭検査を絶対的な防衛戦に位置づけている日本側の立場に未だ揺らぎがない状況で、牛肉の米国からの輸入が再会される目処はまるで立っておらず、遂に業界老舗で最大手の「吉野家」が、11日をもって牛丼の販売を休止する事態となってしまった。

 ひとつの外食メニューが消えるってだけと言えば言える会見に、集まったメディアの数は目分量で50人とかそんなもん。並んだカメラの数も10台近くあって世間の耳目の高さを示してはいたけれど、果たしてそこまでのマンパワーを投入してメディアがいっせいに横並びで報じる意味があるかどーかって所になると、ちょっと首を傾げたくなるところもあったりする。まあ他のチェーンではなく100年を超える歴史を持つ吉野家が、長くキャッチフレーズにしていた”牛丼ひとすじ”の看板を下ろすことになる歴史的な意味はあるから、やっぱりこれくらいの注目が集まって不思議はないのかも。”牛丼”が消える瞬間はさらに多くのメディアが1人の牛丼客を囲む光景が見られそー。世も末か。ところで池袋パルコ前地下にあるスナックの甘くて量もたっぷりな牛丼はまだメニューにあるのかな、無くなるんなら今のうちに食べにいかなきゃ。

 牛丼が食べられないのならカレーを食べればよろしいのではなくて。とマリー・アントワネットが生きていたら言うかどーかは分からないけどカレーだったらここん家のを毎日でも食べたい「CoCo壱番屋」が、ハウス食品と組んで大陸雄飛を決めたとか。カレーったって印度で生まれた食品とはまるで異なり英国で発達したものとも微妙に異なる”に本食”。それが3000年とか4億年とかの料理の歴史を持つ中国で果たしてどれだけ受け入れられるんだろう、って心配もあるけど味の素だかハウス食品だかが向こうでククレによく似たレトルトパウチのカレーを出して人気になってるって話もあって、案外に日本風のカレーを受け入れる下地が整っていたりするのかもしれない。2004年度中には上海に店ができるそーであの黄色い看板を見かけたら頼んでみたいもの、「1300グラム」の大盛りを。日本じゃ絶滅したけど4000年の胃袋を持つ中国人に日本のパワーを見せつける意味で、是非に復活させて欲しいなあ。

 ツクヨミが出てくる森岡浩之さんの「光と闇の戦記3 神様はしらんぷり」(角川スニーカー文庫)を読んだ流れで手に取った倉本由布さん「ツクヨミの末裔」(475円)は去年に出ていた「アマテラスの封印」(コバルト文庫、495円)の続きみたいで慌ててそっちも買ってまとめて一気よみ。森岡さんの描く神様が時として人間界に絡め取られてしまう存在に描かれているのに対して、倉本さんの2作品に出てくる神様は自分勝手なところがあってそのためには人間が困っても関係ないって感じの、ある意味で気まぐれに祟り雷を落とす神様らしーところを見せてくれる。人間界を見守っている桑島由一さん「神様家族」の神様とは大違い、だなあ。

 前作ではアマテラスの後継をめぐって1人の少女が神様たちの思惑に巻き込まれて最後はどーにか落ち着く所にいったけど、「ツクヨミの末裔」ではまたしても1人の少女が神様たちの手前勝手な思惑に巻き込まれて右へ左へ黄泉へと引っ張り回される。出て来た結論はまさしく神の論理で少女のひっそりとした願いなんて鼻で粉砕されてしまって、ちょっぴり可愛そーに思えたけれどそーいった事がなくても別々の学校に分かれた男女が、それぞれの学校でそれぞれの友達を得て恋人も出来たりして、離れていくのは良くあること。そーしたセーシュンの通過儀礼を神様の話に絡めて見せてくれたって面で、良くできた浅春小説だって言えそー。既にスサノオは出ているんで3部作にはならないのかな。けどクシナダのイジワルっぷりをまだまだ読んでみたい気もするし。先にちょっぴり期待。

 1984年10月からの放映スタートってことは既に大学生だった訳で、なるほどだから僕はそれほど「スクール★ウォーズ」にハマらなかった訳だけど、これを高校生なり中学生の身で見た今だいたい30歳前半から半ばにかけての世代の人だと、「この物語は、ある学園の荒廃に戦いを挑んだ1人の教師の記録である」って芥川隆行さんのナレーションが流れてきただけで、きっと目に涙がわじわじっと滲んで来るんだろー。あるいはバイクで教室を走り回ってガラスを割りまくりたくなるとか。バックはもちろん「ヒーロー」だ。

 山中伊知郎さんの「『スクール★ウォーズ』を作った男」は日本にラグビーブームすら巻き起こした人気ドラマを仕掛けた名プロデューサー、春日千春さんの経歴を振り返った評伝。もっぱら「スクール★ウォーズ」にページが割かれていて、イソップって役柄がどーして生まれたか、梅宮辰夫さんが最初はどんな想いでドラマに参加したか、なんて話があって当時見ていた人にさまざまな思いを抱かせそー。個人的には学校から帰って再放送をよく見ていた、岡崎友紀さん3部作の「おくさまは18歳」「なんたって18歳」「ママはライバル」に関する話に興味。今はワカメすきすきチー坊な雀頭の石立鉄男さんが当時はコメディーの「おくさまは18歳」に出るのを逡巡したって話は俳優が時代によって変わるものだってことを教えてくれる。でも「赤い迷路」で出番が減ってさっさと殺してくれと訴えた松田優作さんは当時も最後もやっぱり松田さん、だったんだなあ。どんな役で出てたかまるで記憶にないけれど。

 東京商工会議所と野林水産省に出ずっぱりになってしばらくぶりに会社に上がろうとする途中で本屋に寄って出たての「ファウスト」第2号を買って会社に行ったら講談社からから「ファウスト」の第2号が届いてて1100円で2冊買えた勘定に大喜び、して良いのかそれともしない方が良いのか。1冊は若い人にあげて頂いた方を(中身は同じだけど)開いて真っ先に滝本竜彦さん待望の小説「ECCO」を読んで御免おじさん何が何だかサッパリ分かりませんと地面に頭をすりつけ涙を流しながらガクガクブルブルと震える。これは凄い小説だよ。アクタガワだよカフカだよ。例えは適当。

 ちょっとだけ妙な男の子がとてつもなく妙な女の子の出現によって我に返ってヒーローとなって女の子を救ういつもの滝本パターンかと思ったらこれがどーした、女の子も男の子も電波まる出しに世界の陰謀を叫人民は豚だと嘲り自らの高踏さにすがって世間に背を向ける。客観的にはまるで救われていないにも関わらず主観的に救われた気でいるエンディングの、より高みから醒めた目で見つめ突き放す振る舞いの何とゆー怖ろしさよ。救いをこそ求められるエンターテインメント青春小説の枠組みを取っ払われた自在な環境を与えられた時に、こうも凄まじい呪詛と怨念にあふれた物語をものするとはやっぱり滝本竜彦、ただのエンターティナーではなくエンターテインメント小説の書き手でもなかった。

 言うなればアクタガワでありダザイでありカフカでありカミュであったりする狂気と妄念と不条理と虚無がキメラの如くに合わさった、純粋文学の発信者だったってこと。講談社ノベルズ系で固められた作家陣にあって乙一さんと並ぶ”外様”だけど、この1本で「ファウスト」のどーしても付きまとう内輪な雰囲気を粉砕したに違いない。起用した太田克史編集長も偉いけど応えて書いた滝本さんも偉い。今月はあと「野生時代」の小説も読めそーで、絶望に溢れた「僕のエア」、狂気が満ちた「ECCO」に並ぶインパクトをいったい、どんな技でもって見せつけてくれているかに注目しつつ発売を待とー。絶望に狂気とくれば鬱か。それとも虚をついて萌えか。


【2月8日】 いそいそと久々に「東京都現代美術館」へと出向いて「球体関節人形展」を見物する。人形って言えばハンス・ベルメールに四谷シモンさんの昔っから人気の芸術で、後継も事故死してなお絶大な人気を誇る天野可淡さんから最近だと恋月姫さんの写真集が人気になったり、タイプは違うけどボースの「スーパードルフィー」が10万円とか目茶高価だったりするにも関わらず、女性ばかりか男性にまで人気になってイベントが開かれれば作家さんの作った特製のドルフィーを手に入れよーと、早朝から行列したり何十万円にも競り上がったオークションに入札したりと恐ろしいばかりの賑わいを見せている。

 にも関わらずそーした世の中の動きを美術館がひとつの現象と捉え、自ら独自に企画した展覧会とは違って、3月公開の押井守監督によるアニメーション映画「イノセンス」の関連イベントってことで開催されることになったのが、ある意味美術館業界の腰の重さみたいなものを現しているよーに見えて苛立ちみたいな感情がわき上がる。あるいはかねてから企画していた所に球体関節人形が登場する「イノセンス」の製作が進んでいたことを知って、これに絡めればお互いに良いプロモーションが出来るからとタッグを組んだ可能性も想像できないことはないけれど、カタログなんかを読んでも「イノセンス」の劇場公開記念企画としか書かれてないんでやっぱり持ち込まれた企画を美術館側でまとめたって考えるのが良いのかも。

 もっとも美術館側が独自に企画したとして球体関節人形が持つ、とゆーより「球体関節人形」に欠かせないある種の淫靡で猥雑なイメージは、美術館側がアートの権威で押さえつけてよーとしても漏れ出て美術館側の立ち位置を揺さぶりかねないパワーを持っているから難しいところ。つまりは「球体関節人形」の少なくない作品が少女をモチーフにしていて必然的に薄く盛り上がった胸とそして、縦にはいった筋を持っていてそーした方面への関心を強く抱いている夢多き人たちを惹き付け、そーした方面を敵視している野暮で無粋な面々の逆鱗を刺激しかねないってことで、ここに1本アニメーション映画の関連イベントってフィルターを差し挟むことで、サブカルチャー的な何でもありのジャンルへと「球体関節人形展」を繰り入れて、未だ美術の権威を健全さと統合で結びたがる方面からの異論をかわすことが出来るのかもしれない。

 もちろん見に来る大勢の人たちも作っている作家の人たちも、球体関節人形をことさらに愛玩の対象として見たり作っている訳ではなくって純粋に、死んでいるよーで生きてもいる境目の不思議な存在感を持つヒトガタへの興味から愛でたり作っている訳で、とっかかりはどこか淫靡で猥雑なものへの好奇心でも、あるいはサブカルチャーのプロモーションとしての興味でも、行ってみればそこにこめられた作り手側の意図なり情念を全身に浴びて球体関節人形なる存在が持つ深遠さと幅広さに、アートとしての価値なり可能性を感じることになるだろー。その意味で球体関節人形の世界に大きな転換点をもたらす展覧会にこの「球体関節人形展」はなりそーだしなって欲しいもの。でも僕はやっぱりいつまでも薄い胸と縦の筋にばかり目を向けてしまうんだろーなー。煩悩は100歳まで。

 さて作品は顔の綺麗さでやっぱり恋月姫さんが抜けた感じで衣装の華麗さともあいまって、館内でもひときわ輝いていたよーな印象を持った。対称的に隣の三浦悦子さんはハンス・ベルメールをよりエスカレーションさせたよーに球体関節人形が持つグロテスクな感じをパワーアップさせた作品で、切り刻まれたボディを金具で縫い止められたり縛られたり、棘を生やされたりして人形でありながらもにじみでる”痛み”のよーなもので、見る人の心を刺激していた。淫靡で猥雑な感じでは山本じんさんが目立っていたよーな。切れ込みに加えて盛り上がりが本物っぽさを醸し出してて本物なんて絶対にお目にかかれない目に代替物としての官能を与えてくれてた。でも5分とか前に立って見ているとさすがに周囲の視線が気になるなあ。でもカタログだとあの立体感が減殺されてしまうんだよなー。人の少ない平日にまた行って見入ろう。

 四谷シモンさんは大御所の貫禄。けど顔に関していうと活躍していた時代が時代だったこともあってバービー系ってゆーか金子國義系ってゆーか大人な感じがあって好みの中央線からちょっと外れる。お尻のふくらみ具合はそれでなかなかに官能的だけど。そして天野可淡さん。写真集が出始めて注目が集まりかかったところで亡くなって伝説になってしまった関係で一頭抜けた存在感を持つよーになってしまって、真正面からの評価をし辛くなっていたけれど改めて見るとその顔立ちはやっぱり飛び抜けて強烈で、白人の子供だけが持ち得る可愛さと残酷さを兼ね備えた美麗さが、その目その鼻筋その口元からあふれ出て来て目を釘付けにされる。カタログに入ってないのは急遽出展が決まったからなのかな。「球体関節人形展」で「KATAN DOLL」が外れたらやっぱりマズいよね。

 球体関節人形を工夫によって人間をモデルに作ってそれを写真に撮ったマリオ・Aさんの作品も飾られていてニンマリ。ほかは所詮は人形につけられた刻み目でしかない縦の筋だけど、マリオさんの写真はつまりはホンモノで、それが堂々を飾られている訳なんだけどヌードの女性の関節部分を糸で縛った写真は、見れば見るほど人形にしか見えなくなってそれが、縦の筋も作り物にしか見えなくて人間とヒトガタの間にある、違いの実に小さくって大きいことを改めて感じさせる。これを収録した写真集が欲しかったけど売っていたのは人間を人間として、とゆーか女をゲイシャとして撮った「F THE GEISHA」だけ。これはこれでオンナの生々しさに溢れた作品で目に幸せな内容で、おまけにサイン入りだったんで1つ購入してしまう。もしかしたら前に買っていたかなあ。まあ良いや昔からファンだし。

 若手を集めた「MOTアニュアル2004」もついでに除いて奥井ゆみ子さんって人の質素なヒロ・ヤマガタ的な雰囲気を持った作品に優しさと面白さを感じて心に要注目とチェックしてから秋葉原へと回って「海洋堂ホビーロビー」で「週刊わたしのおにいちゃん」の第4号を仕入れよーとしたら完売だった。これまで1週間は余っていたのにどーしてなんだろー、そんなに特別なフィギュアだったんだろーかと首をかしげる。スクール水着でもないのに。幸いにして2フロア上のボークスに売れ残りがあったんでやっぱり2つ所望。これで残る来週を間違いなく買えばコンプリート完了。プレ作品を組み立ててしまった「電撃萌王」ももーひとつ買っておくか。

五輪とは言え代表の試合で「SAITAMA」の文字がくっきり浮かぶとは。これで内容まで寒かったら凍死者が出るところだったぞ  大量に時間は余っていたけど現地で潰せば良いと決めてJRやら地下鉄を乗り継いではるばる「浦和美園」から「埼玉スタジアム2002」へと回ってサッカー「日本代表U−23対イラン代表U−23」の試合へと駆け付ける。500円でボリュームたっぷりなキャベツたっぷり(肉皆無)なお好み焼きを貪ってから入ったスタジアムはカテゴリー1の癖にメイン側のアッパーのそれも30段とかいった上の方で、向かいのバックスタンドのロワーに山ほどの空席があるにもかかわらずここをカテゴリー1として最高の値段で売った奴らの商売人根性に心の奥で「巫山戯るな!」と罵声を浴びせる。

 2万人は入ったってゆーけど6万人から入る「埼玉スタジアム2002」は昨日の「鹿島スタジアム」以上の閑散ぶり。あの平山相太が国内でオリンピック代表としてデビューする貴重な試合にしては寂しいものがある。高校サッカーの決勝戦より客の入らないオリンピック代表ってのものなあ、やっぱり日本代表が商売にならなくなっているってことなのかなあ。これでマレーシア戦まで空席があるよーだといよいよ日本代表ビジネスにもかげりが出てきたってことになりそーで、その意味で当日はやっぱり現地へと出向いて状況を観察したいところ。どーやって仕事を抜け出すか、理由を今から考えておこー。風邪をひく。祖父母に死んでもらう。会社を辞めてしまう。最後のが1番簡単で確実かな。頃合いでもあるし。

 上だからって訳でもないけど底冷えする寒さに震えながら見た試合は前半の途中までは果敢な攻めを繰り広げた果てに平山相太選手が後ずさりながらもヘッドで決める流石なところを披露してくれて、これはゴールラッシュかと期待したものの前半も後の方へといくと攻め手がないのか中盤からボールをディフェンスラインへと戻してふたたび組み立てよーとして果たせずやっぱりディフェンスラインへと戻す繰り返しが見られて退屈さに大あくび。寒さもつのって途中で帰りたくなってくる。それでも我慢して見た後半もボールを持った周囲での動きがあまりなく、足元のパスをつなごーとしてカットされては反撃を許すストレスの溜まる展開に、市原へと行って走って走りまくってつなぐサッカーをオシム監督に教わって来いよと毒づきたくなって来る。

 そー言えば練習の時の鬼ごっこも、中央に1人を置いて周囲を囲む4人だか5人だはさほど動かず足元でパスをつなぎまくるだけ、だったりするからなあ。これがレアル・マドリッドだと、全員がボールをもらいに走って開いたスペースを別の誰かが埋めてつなぎまくっていたからなあ。それでも後半の最後の方で坂田大輔選手が入ると攪乱するためだったりもらうためだったりする走りが出始め動きに活気が出て浮かんだ眠気も雲散霧消。これに例えばジュビロ磐田の藤田俊哉選手が加われば、中盤からの押し上げ2列目からの飛び出しが加わって攻撃に厚みが増すよーな気がして来た。オーバーエージを使うんだったら藤田選手を入れたいところ。トップは平山選手に坂田選手田中選手。大久保嘉人選手はあげますフル代表(のサブ)に。


【2月7日】 「日経現役エース記者が株主総会に鶴田相談役退陣要求」とゆー「週刊文春」2004年2月12日号に掲載された記事にある「経済部の日銀クラブや証券部に在籍し、ロンドンやニューヨークなど海外勤務も経験」していて「一九九一年、四大証券が大企業など特定投資家向けに損失補てんをしていた問題で、損失補てん先リストをスクープし、二〇代の若さで新聞協会賞を受賞した」人が誰だか分かって驚き。あの当時にいっしょに東京証券取引所の記者クラブにてその仕事ぶりを見ていたけど本当に「バランス感覚に優れた温厚な人柄」な人で、五〇代六〇代の頑張って働き抜いて役員までたどり着いた企業の人っちを学校出たての若造の癖してそっけなく扱う何様の多い証券記者業界にあって珍しい真っ当な人だったからなあ。だからこその退陣要求ってことなのかなあ。いずれにしても気になります。

 気力とか勇気とか意志とかを言う時に使う「ガッツ」がもともとは「腸」だということは知っていて、だったら「大腸」と見目麗しい女子サッカー選手が壁に巨大な筆で「大腸」と書いている姿はやっぱり、今は世間の見る目も寂しいけれど決してプレーでは負けてない女子サッカー選手を叱咤激励しよーとしたものなんだろーと、思って読み始めた「週刊サッカーマガジン」2004年2月17日号の望月三起也さんのコラム「図々SEE」。突拍子もない構図だけどその気持ちは分かるなあ、それよりちゃんと望月さんが「全日本女子サッカー選手権」を見てくれていて嬉しいなあ、と感心しながら読み進んで彼女が壁に描いている時が「大腸」じゃなく「大胆」だと知って後ろのめりにひっくり返る。まーそーだよな。

 つまりはサイドチェンジをしないかパワーが足りずできないかはともかくダイナミックな展開が少ないことに対して「もっと大胆に」って言ってる内容で、大きなグラウンドのほとんど6分の1くらいのスペースにキーパーをのぞく20人が密集しがちなプレスの厳しい試合で、それこそ「大胆」なサイドチェンジを仕掛けられたらとてつもなく有効に試合を運べるんじゃないかと常々考えていただけに、その指摘の正しさに時々不思議な意見も開陳するけどやっぱり望月さん、サッカーを愛しているんだなって嬉しくなる。その意見を入れて春のアテネ五輪予選ではスタンドにでっかく「大胆」の文字を入れた弾幕を貼りたいなあ。「大腸」でもいいかもなあ。

 望月さんのコラムでは、描かれている後ろ姿の長身でスリムながらもどっしりとしたヒップを持った選手の見目麗しさ(顔は見えないけど)にも感心。ポニーテールな感じも女子サッカー選手っぽさをあらわしていて結構望月さん、見てたりするんだなってことを伺わせる。ミハ・ハム選手あたりかな、あるいはスウェーデンとかのブロンディな長身選手たち。日本だと宮本ともみ選手がちょっと近い。こーゆーイラストみたいな選手が山と居れば日本の女子サッカーに集まる注目も増えるんだけどなあ。いくら人気ものだからって辻加護あたりがサッカーやったって知名度はともかくスリムさで近賀ゆかり選手山口麻美選手に及んでないもんなあ。顔もか?

 発売日ってことでのぞいたお台場にある「グランドーム」は壁に真新しいサッカー日本代表の新ユニフォームが飾られて壮観。もっとも「FCバルセロナ」のショップがオープンした時みたいに100人とかそれ以上の大行列が出来て我も我もと新しいユニフォームを買っている大群衆の姿どころか、日本代表ショップに入っている客の姿がまるでない。日本中の店とゆー店からユニフォームが消えた2002年6月の喧噪から1年半でサッカーそのものは「バルセロナ」のショップに行列ができ、「レアル・マドリッド」の新ユニフォームに予約が殺到するくらいまで広まった一方で、日本代表そのものへの関心は下がる一方ってことなのか。夜に放映された「キリンチャレンジカップ日本代表vsマレーシア代表」でも映し出された「カシマスタジアム」の上の席なんかまるで人が入ってなかったし。

 まあ親善試合で場所は鹿島と遠く気温も最低、試合内容もそのものの意味でテストだったってことを考えると観客の数はこれで正常って言えるのかも。後半途中でディフェンスライン4人をまるごととっかえるなんてまさにレギュラー組とサブ組とで戦わせたり近所の大学とかJのサテライトを相手に読んで前半レギュラー後半サブで行う練習時代と変わらず、別に高いお金を取って見せなくっても西ヶ丘とかで無料で公開すればいーじゃん、なんて思った人も多そー。ベンチ入りした選手は人数制限なしで交替可能だなんてルールじゃあ、選手の経験は増やせても、ギリギリの状態で限定されたルールの中で局面を打開するためにリスクを負いつつ選手を交代するってゆー監督の経験はまるで増やせないんだし。こんなルールを提案したのか受け入れたのかはしらないけれど、この間際まで来て監督としての”采配”ってゆー能力を試す数少ない機会を、捨てていったい何を考えているんだろー。選手は頑張ってただけに何かちぐはぐ。

 「別冊文藝春秋」2004年3月号で滝本竜彦さん「僕のエア」第2回。鬱。鬱鬱鬱鬱鬱鬱って来るラストに、これから繰り広げられるドラマの果てにはいったいどんな寂寥たる地平が、あるいは無間にひろがる虚無が待っているのかと次を読むのが恐くなる。「ごごご、ごめんがありませんでした」なんて頓狂なセリフをバラまきながらも田中翔の脳をスタンドよろしくイジくり倒して、焦がれていた山田スミレさんの夢を見させよーとした幻の少女エアによって与えられた至福の時。それが胡蝶の夢よろしく雲散霧消して、立ち現れた現実を田中に押しつけエアは言う。

 「ここで砂漠はおしまいです。そしてこれからは、死ぬまで続く本物人生ドラマが始まります。ではでは失礼いたしました。あなたのエアでした。そろそろ陰に隠れます」。何と恐ろしい場面だろー。「残されているのは、俺の人生だけだった。逃げたくても逃げられない大迫力の人生苦悩が俺の前に広がっていた。確かにここはもう砂漠ではなかった。色鮮やかな地獄だった」なんて文章、人生の壁とか絶望とかに悩んでいる奴が読んだら絶対死にたくなる。ここから滝本竜彦は田中翔にいったいどんな現実を過ごさせるのか。でもって読む奴らにどんな絶望を与えるのか。それとも希望が見えるのか。希望を見させてくれるのか。1500円もする雑誌だけどこれを読むためだけに買っても損なしの1編。もう目が離せません。


【2月6日】 「転校生」ブームかよ、ってまあ「とりかえばや」の昔からその手の話は絶えることなく発表されてはいるんだけど、沖田雅さん「先輩とぼく」(電撃文庫、550円)を読んだ直後に手に取ると、何か因果めいたものを覚えてしまう。あるいはそーゆージャンルに自然と目が行く性格なのか。柳原望さんの新刊「とりかえ風花伝」(白泉社、390円)は戦国あたりの日本を舞台に、異人の血でも入っているのか鬼のよーなプラチナブロンド赤眼で腕っ節も目茶強い青年と、お城のお姫様の心がふとした弾みで入れ替わるよーになってしまうストーリー。入れ替わりっぱなしじゃなくって戻ってはまた必要な時なんかに変わったりするよーになっていて、攻められ滅びかけてる国を守らなくてはいけないお姫様がその白鬼丸って青年と中身を局面に応じて時々取り替えては、事態に対処していく。

 こーゆー話によくある常日頃から憧れてはいてもいざ自分のものとなるとさすがに戸惑って、おっかなびっくりあれこれイジってその意外な感触に慄然とするよーな描写がまるでないのはある意味健康的かもしれないけれど、そーゆー描写があってこその「とりかえばや」だとするとちょっぴり物足りないかも。逆に置かれた性的なものに起因した立場の違いを入れ替えることによってクローズアップさせるよーな描写もあまりないんで運動好きな人にとってもあんまり参考にはならない。それでも日常”鬼”と呼ばれ疎まれ嫌われて来た人物になってみてそーした先入観から出る感情がいかに愚かしいものか、ってゆー描写はあってその点で取り替える設定が生きているとは言えそー。舞台が尾張ってあって理由を「自転車で見に行けるから」ってしていることはつまり柳原さんは尾張人? ならば無条件で応援せねば。そーでなくても面白いから応援はしてるんだけど。

 朝の東西線で浦安駅から乗ってきた人がいきなり柳下毅一郎さんの「興行師たちの映画史」(青土社、2400円)を取り出して読み始めて、ああなるほどもー出てたんだと気付く。せっかくだからと有楽町駅前の交通会館にある本屋に寄って買おうかと探したら置いてなく、ああなるほど売れているんだと思ったけれどそれは果たしてあっているのかそれとも間違っているのか。「映画は見世物だ」って多分書かれている主張を例えばアニメに置き換えた時に果たしてどんな論へと展開できるのかなって、昨今のアニメを日本の文化を代表するコンテンツとして持ち上げようとしている動きも見据えて考えたくなったけどそんな政府とか財界とかの思惑なんてそっちのけで、テレビでは特定の観客をあてこんでキャラやら声優やら設定やらをギチッと固めた”萌えアニメ”ばかりが横行している現状を見れば、「興行師たちのアニメ史」は今まさに歴史を記述している最中ってことになるのかも。とりあえず早く手に入れねば。2刷とか出る前に。

 「興行師たちのサッカー史」なんて言葉があるかは分からないけどどうも売れ行きの鈍っているサッカー日本代表の試合チケットの話なんかを聞くと、義理人情とか思い入れとかをとっとと除いて興行的に正しい形へと早く持っていかないとせっかく集まった注目が離れてしまうんじゃないかと思えてくる。この1年余で見せられたパフォーマンスからもはや”黄金の4人”とかいったものじゃー客を呼べなくなっている訳で、今なおそれにこだわる監督の下でこのまま衰退していく様を見守るか、それとも興行的に正しいチームを組める監督を呼ぶか、今月に繰り広げられる代表戦の状況なんかを見据えていよいよ決断ってことになるのかも。まあそのおかげで何故かオマーン戦のカテゴリー2のチケットが当たってしまったんだけど。カテ5の2枚はどーしよー。

 あわてて森岡浩之さん「月と闇の戦記」の完結編「神様はしらんぷり」(角川スニーカー文庫、495円)をぺらりぺらり。すでに第1巻「退魔師はがけっぷち」を忘れてしまって思い出しつつ読んだんで最初はよく分からなかったけど、どーやら退魔師の兄ちゃんがツクヨミとかその妹役な女神様の下っ端どころか世界の成り立ちに深く変わる人物らしーってことが明らかになって、ただの人間界に墜ちた神様たちのドタバタ劇かと思っていた話が、重なる次元を畳み込んだ重層的な世界観を持った作品だって分かってちょっと驚く。ただのジャパネスクファンタジーじゃなかったんだなあ。

 兎の化け物ツユネブリがいよいよ正体を現して人語を話すよーになって見せる投げやりっぽい性格がなかなか。そのダイヤローグの面白さに作者の人の性格の細やかさ(なのか)を感じる。あと妹な神様の伊勢楓ちゃんの頑張りぶりに感動。対して兄貴な神様の伊勢滋也のしらんぷりぶりは草河遊也さん描くキャラクターのニヤケっぷりとも相まって、森岡さんの数ある……あまりない作品の中でも希有の存在感を見せてくれている。これで完結で退魔師・菊名隆生はお役ご免となっても滋也に楓にそして口の悪いツユネブリの2人と1匹には、またしても登場願ってやる気があるのかないのか分からないトリオ漫才を見せて欲しいもの。それより何なより「星界」シリーズを……今世紀中に……出せるかな。


【2月5日】 仲良し家族(偽物だけど)のお出かけホリデー、ってな息抜きホンワカストーリーかと思ったけれどそこは杉並の偉大なアニメ演出家・大地丙太郎さん、風雲急を告げる展開に我らが菜の花自由を追い込み立派な太股をはじめ全身を擦り傷だらけ痣だらけにして、見ている人に心配と感銘を与えて最後は滂沱で次へとつなげる圧巻無比な第5話に、中だるみなんて言葉はこの作品にはなかったんだってことを今改めて思い知らされました「十兵衛ちゃん2 シベリア柳生の逆襲」。

 んで2月1日に開かれた「3rdアニメーションフェスティバル2004in杉並」でのトークショーではこの次、第6話がさらにとてつもないことになってるって大地さんから宣言があって来週が今からもはや楽しみで仕方がなくって、仕事のウザさらにキレそーになる日々を乗り越え踏みとどまって来週を迎えようって勇気が湧く。何が凄いかってそれは何でも今再びの映画スタア・目黒祐紀さんにVシネマの帝王・竹内力さんの2大巨頭をさらに上回り、2人をすら萎縮させる超大物の登場だそーで一体どーゆー絵でそのおなじみの声を轟かせてくれるのかがこれも楽しみで来週木曜早朝が待ち遠しい。必殺技はやっぱりあれか、「ドォオーーーン!」 か?

 ねねねってば、強情っぱり。4年越しのお仕事かなったリーさんの成果として拉致られた菫川ねねねが受けるゴーモンには個性があってこその作家を相手に意味あるものなの? なんて疑問も浮かんだけれど電流バチバチっと流れる感じで身もだえするねねねの左右にぶんぶんと揺れる意外に大きかった双房の動画に作り手の熱情を感じ、これを見せるためだったら意味があろーとゴーモンは必要と納得する。それにしても「R.O.D The TV」初登場時はやさぐれて腑抜けな感じだったねねねが意思を外に露わにするよーになるまでに快復するとは。紙使い三姉妹、良い仕事してます。

 本業の方でも紙使い三姉妹、1話を超えるハードでスピーディーなアクションを披露してくれていて、この日に全勢力を注ぎ込むのためにこれまでを甘い日常描写に抑えたのか、なんて想像も浮かぶ。ミシェールさん、アーチェリー良い腕です。マギーちゃん、傀儡がかつてないほどパワフルです。アニタちゃん、跳んでます走ってます、ちっちゃいけど。バトルは次回も続いて現れた巨大な敵をぶちやぶれるかに興味津々、あと怪しげな動きを見せるジョーカーにも要注目。見逃せないけどこの番組、ときどき飛ぶからなあ、来週って放映されたっけ、「TVブロス」勝って確かめよう。

 「鈴宮ハルヒの転校生」を読む。じゃない電撃ゲーム小説大賞銀賞受賞の沖田雅さん「先輩とぼく」(電撃文庫、550円)を読む。でもやっぱり「鈴宮ハルヒの”ボクの初体験”」を読んでいるよーな気にさせらてしまうのは、登場して来る超絶美貌を誇りながらも性格にいささか難ありで宇宙人を捜したり未確認静物を追い掛けたり心霊現象を呼び起こしたりする部を率いては、付き合っているいたいけな少年を混乱させるとゆー構図がやっっぱり「ハルヒ」と重なってしまうから。応募の時期とかから想像すればただの偶然なんだろーけど先行して「ハルヒ」があれだけ話題になってしまうと(続き過ぎって気もするけれど)やっぱり比べられてしまいそー。

 けれども言えば傍若無人で傲岸不遜で猪突猛進な鈴宮ハルヒを半ば一方通行で観察して楽しむ「鈴宮ハルヒ」と違って「先輩とぼく」は、奇天烈な美人の先輩こと平賀つばさと彼女に恋する山城一との間が一方通行じゃなくってちゃんとお互いに心が通いあっているところが特徴でもありウリでもあって、それは宇宙人によって2人が脳味噌を交換されてしまって「俺があいつであいつが俺で」状態になってからも、とゆーよりなったからこそなおいっそう双方向に通う心がクローズアップされて、読んでる人の気持ちに働きかけて来る。続きとかもっていけそーだけどそれをやると後はただのドタバタ性転換ラブコメディーになってしまいそーなんで、これはこのまま留めて欲しい気が。と言いつつでもやっぱりいたいけな一(の脳がはいったつばさボディ)がつばさ(の脳を持つ一ボディ)にイジワルされている所も読みたいし。「ハルヒ」だって続いているからまあ良いか。

 最初のエピソードを読んだ感じで言うなら大原まり子さんの初期短編作品って印象を覚えた「電撃ゲーム小説大賞」の最高峰、大賞を受賞した有川浩さんの「塩の街」(電撃文庫、550円)だったけど、エピソードが重なるに連れて話がミニマムなシチュエーションでのラブストーリーから人類的なテーマを持ったバトルへと進んで行って感心半分呆然半分。個人的には最初のエピソードだけを短編として読んで、滅び行く人類たちが今際に見せる切なく哀しく、けれども美しい愛の心を感じて終わりたかったけど、長編である以上はやっぱり何か帰結を設けてそこへと至るドラマを盛り上げないと話にならないからこれはこれで良いのかも。

 ある日突然一変した世界は、塩におおわれる「塩害」に見舞われていて、日本も例に漏れず交通も経済も政治もほとんど役に立たない状況に置かれてしまった。それでも日本人は地方レベルで最低限の秩序は維持し、電気ガス水道といった生活設備も保ちながら命脈を保っていた。そんな中、どういう関係からか2人で暮らす少女と青年のもとに現れた1人の少年。背中に巨大な荷物を背負ったままはるばる海を目指して歩いていたものの力尽き、立ち往生していた所を少女に助けられ、青年も交えて海を目指すことになった。

 背中に負っている荷物が何か、ってのは読んでいるうちにだんだんと分かってだから世界が沈黙へと向かっているのかも分かって慄然とさせられる。例えば大原まり子さん「薄幸の街で」や神林長平さん「抱いて、熱く」あたりが思い浮かぶ展開で、それぞれに滅び行く中で人類のミニマムなユニットである恋人たちが、最後の時間に何を思いどう過ごすのかが描かれ果たしてこーゆー風に去っていけるものなのかと考えさせられた記憶が、読んでから20年近く経った今も鮮明に残っている。「塩の街」もそれに続く話になるかならないか、ってゆーと長編になってしまった現時点で既に違って来ているんだけど、逆に未来に可能性を抱かせていることで、SF的な諦観ではなく青春小説的な希望をそこに感じる読者を生み出すことに繋がるかもしれない。続きがあるのかないかも気になるところ。「大賞」に相応しいかはそれを見極め判断しよー。

 六條華、って言われてピンと来る人はグラビア好きか「噂の眞相」的なゴシップマニアか赤門を出入りするエリート学生諸君か。東大法学部在学中でありながら週刊誌のグラビアとかいろいろ活躍をしてい彼女が見られるってんでタカラの関連会社、ドリームズ・カム・トゥルーの発表会見をのぞく。雑貨とか玩具菓子を扱っていた会社だけど今度新しいジャンルとして美容製品を手がけることになって、そのイメージキャラクターに六條さんが起用されたんだけどなるほど美用製品だけあって、登場した六條さんは肩もあらわなドレスで登場してはなかなかな谷間ぶりを見せてくれて、なるほどこれなら効果あるかもって思わせてくれた。

 売るのは英国のモンターニュ・ジュネスって会社が作っている、パック入りで使い切りタイプの美用製品「モンターニュ・ジュネス」。死海の泥とか天然塩をか、グレープフルーツとか海藻とかいった天然素材を使った製品で体に優しい上にそれぞれが使い切りのパックに入って売られているため、使いたいときに500円とかそれ以下の値段で買ってつけて効果を試すことができるとか。果たして需要があるのかどーかはユーザーじゃないんで分からないけど死海の泥とか聞くになにやら効果のありそーな成分に、使ってみたいって気も起こって来る。3月下旬あたりから雑貨屋とかドラッグストアに派手なパッケージで並ぶ予定。見たら試してみてはどう。頭が東大法学部並みになれるかはともかく顔は六條華さんクラスになれる、かどうかはやっぱり土台次第。頑張れ。


【2月4日】 とゆー訳で「かえってきた! たまごっちプラス」を育てる日々。前のを実は遊んでなかったりするんで遊び自体のどこが変わったかは「たまぴっち」との比較になるんだけど、世話して遊んでご飯をあげてトイレを流す機能自体は特に変わらず。キャラクターの絵柄も同じでそこに「昔見た懐かしさ」をそこはかとなく喚起され、誰からの救援も受けられず消えていった数多の「たまぴっち」たちを思い出しながら今度はちゃんと育ててやるぞ、とゆー気にさせられる。遊び自体の攻撃力なお健在っていったところか。

 そもそもが日本で2000万個欧米で2000万個なんて驚異的な数に達したのも、「たまごっち」が持っていた”ゲーム性”が強力だったからで、それが2年ともたない間に雲散霧消してしまったのは出す側のコントロールがうまくいかずに暴走気味になった挙げ句、世間に流行り物廃り物の印象を与えてしまったから。聞くと当時はさまざまある部門がめいめい勝手に「たまごっち」関連のグッズを企画しては投入して、勝ち馬に乗ろうとしたことで馬が「オージンジオージンジ」の新入社員みたく背中にたくさんの騎手を乗せて突っ走る羽目となり、挙げ句に途中でバテてしまったらしー。

 そこでバンダイ考えた。今回は「チーフ・タマゴッチ・オフィサー(CTamaO?)」なる役職をでっち上げ、じゃなくマジに作ってそこに「たまごっち」プロパティーのコントロール権を集約させ、市場を見ながら生産や出荷にゴー&ストップをかけたりどのようにキャラクター展開をしていくかを全部任せることにした。これで「CTamaO」が間違えるとまたバンダイに在庫がつみあがって何10億円もの損を出させることになるんだけど散々っぱら苦い経験をして来た会社だけに、2度は同じ間違いはしないだろーと思いたい。売れないと思ったら例え大々的に発表したものでもさっさと引っ込めることだってありそー。その場合は初期ロットはレア化の可能性大。もしも売れないと思った人はプレミア狙いに買いに走れ。結果売れまくって大ヒットしてプレミアが消えたら、売り切れで買えない人に売れば良い。つまりはどっちにしても売れるってこと? 3月20日は行列だ。

 マイザーにチェスに生き残りの錬金術師たちと出てくる奴らは大時代的だし、舞台もどこか知らない山奥の近代ってよりは近世に近い暮らしをしている人たちが住む村で、これの一体どこが「2001」なんだろーかとタイトルに不思議な気持ちを感じた成田良悟さん「バッカーノ! 2001 The Children Of Bottle」(電撃文庫、610円)だけど、逆に言うなら21世紀になっても変わらぬ風貌とそして変わらぬ心根を持ち続ける不死者たちの交歓が、死から逃れ得ない人間とは違って生き続けなければならない身の上で生をどう楽しむかって指針を見せてくれて、どうせ1度の人生なんだからこっちはこっちで精一杯に楽しく生きようぜって気にさせてくれる。

 仲間を喰った錬金術師のセラード・クエーツが滅び去って70年ばかり。21世紀になっても生き残ってたマイザーに「鈍行編」「特急編」で加わったチェスとあと、セラードの魔手から逃げ延びた錬金術師たちが東に仲間が逃げていたとしたら行って「セラードはもういないよ」と言ってやる旅を続けてその先に、たどり着いたのが仲間でも一風変わった性格の持ち主だったエルマー・C・アルバトロスの居場所と見られる村。とにかく何でも笑ってハッピーエンドにしないと気の住まない道化のような男だったエルマーは、けれども村では悪魔と恐れられていてたどり着いた一行もその仲間を見られて攻撃を受ける。

 そこを抜けだしエルマーと再会した一行は、エルマーの変わってなさに旧交を温めつつも彼を世話していた4人の同じ顔をした娘の不思議なところに気付き、何かが起こっていることを知る。不死者たちとはちょっと違った運命を持って生まれた者たちが織りなす、生きることに立ち向かう勇気とは何かを考える物語が、隠されていた意外な仕掛けへの驚きとも相まってなかなかの読み応え感を与えてくれる。それにしても不思議な輩の多すぎる錬金術師ども。10代の眼鏡っ娘時代に不死者になっていて欲しかったと個人的には思ったけれど華も盛りになる時を待ったシルヴィとか面を被りっぱなしのナイルとか。生き延びることに執着したセラードが”人間”としては1番まともに見えて来る。今回は本編には未登場ながら口絵ではアイザックとミリアがないすの掛け合いをやって暮れているんで要注目。次は彼と彼女がバリバリ出てくる奴を是非。ゴージャスだね。

 生ける伝説、とゆー人にこれまでもこれからもそうそう会う機会はなさそーで、過去で言うなら小説界だったら中学生時代から憧れ熱中した作家だった小松左京さんがその1人になるんだろーけど、そんな小松さんですら霞みそーなオーラを持った生ける伝説に見える機会に恵まれる僥倖に、初めてと言って良いくらいの興奮を味わう。小林利雄さん、って言われても分かる人は若い人はあんまりいなさそーだけど、ちょっと年輩の人が子供の頃にテレビで熱中した「月光仮面」や「怪傑ハリマオ」「光速エスパー」「隠密剣士」といったいわゆる変身ヒーローものを、宣弘社って広告会社にいて一手に企画した人がこの小林さん。今もって特撮ヒーロー物がテレビで見られる一旦は、この人がいたからって言えそーでそーした番組に育てられた見としてはまさに生ける神、手を合わせて拝みたい気持ちに激しく駆られる。

 テレビ黎明期の超大物ってことになる小林さんだけど、それよりネオン広告で銀座の夜を変え、日本の夜を変えた偉業を鑑みれば広告界でもこの人を上回る存在感を持つ人はもういなさそーな伝説の男。そんな小林利雄・サン宣弘社顧問が目の前に現れ、動き喋り食べてる姿を目に見られて、これはちょっと凄いことかもしれないとその様を目に焼き付ける。高城剛さん率いるフューチャー・パイレーツがアイディアこそ超先鋭的だったものの出てくる時代が早すぎたのか、今はとんと評判を聞かなくなった「フランキーオンライン」のパーティーで、何故かやって来た勝新太郎さんを見たときもこれほどは興奮しなかったなあ。

 そんな凄い人がどーして現れたかっていうと加藤文さんって作家の人が、終戦直後の銀座をネオンサインで埋め尽くし、奇想天外なアイディアでもって斬新な広告を続々と生み出し一世を風靡したものの大手による足の引っ張りと、自身の驕慢さが徒となって躓き崩れた男を主人公に書いた小説「電光の男」(文藝春秋、2200円)のモデルがこの小林さんで、今日開催された加藤さんの出版記念パーティーに、招かれ加藤さんを激励にやって来たとゆーもの。それほど喋らず会を見守っていただけだったけど、醸し出す雰囲気にとにかく前へ前へと進み続けた「電光の男」の島寛太の持っていた、しぶとさしたたかさねばり強さ明るさが感じられて、遠巻きにしながら伝説の男はやっぱり違うと身震いする。

 この人がいなかったら銀座が有楽町があんな華やかになったあろーか。そしてこの人がいなかったら僕たちは特撮ヒーロー物を見て育ってアニメや特撮ヒーローを楽しみ心豊かな気持ちになっだろーか。前者はともかく後者については、アニメや特撮を見て育った影響をそのまま作り手へと回って発揮して、今や世界に誇る日本の文化であり産業となったアニメや特撮やゲームを生み出す事態が生まれただろーかと、思うと相当に偉大な業績だったと言えそー。広告業界はもとよりテレビ業界も特撮マニアもアニメファンも、政府も経済界も杉並区も感謝し足元に額づいてその偉績を讃えるべきだろー。「電光の男」がちょっとだけ火を着けた小林利雄大評価へのステップを、嗣いで今こそ「知ってるつもり」でも「プロジェクトX」でも何でも良いから、マスなメディアで小林利雄に熱い視線を贈るのだ。まだ間に合う。


【2月3日】 恵方巻の日。庚申なので東北東の方角を向いて太巻きを一気に丸かぶりする。去年はどこかの渦潮巻って1200円だかする超絶無比に巨大な太巻きを5分強で食べきって見事大手町サンケイビル太巻き丸かぶり王選手権のチャンピオンに輝いた僕だけど(2位以下は不明、参加してたかも不明)、今年は一昨日辺りから湧き出してきた風邪っぽい症状に内蔵が追いつかず超絶太巻きは断念する。

 それでもよくあるコンビニの寿司ロールじゃあ太巻きとは言えないんで一応は握って「細いのねえ」とは言われないくらいの太さのある京樽の「ジャンボ巻」1000円也を買って東北東の東京から見たらつくばあたりの方角を向いて今年こそは給料が下がりませんように(下がり続けてるんだよマジに)と健勝を祈る。無理だろーなー。超大手経済紙はもとより一般紙でも陣容で最弱に入る僚紙が4人置いてるジャンルに1人しか張り付けないような配置で10倍の量を作ろうってんだから。明日はどっちだ。

   それはそれとしてやることはやっとこーと早朝より農水省の廊下を行ったり来たり。コミケとか行きそーな人もアニメとか見てそーな人もいない、頭脳明晰な方々のぎっしりとつまった役所の空気が、融けかかった頭を握りつぶそーとギリギリ絞めて息詰まる中を会見室へとたどり着いては大臣な人が山口県の養鶏場に鳥インフルエンザ発生の影響で出荷停止になってる卵があるならその損害を半分持ちますよ、保管しているなら管理費用の半分を出しますよって内容に、不測の事態で深刻な状況とは言え面倒をみてもらえる羨ましさを覚える他産業の人とかいそーに思う。韓国タイフーンが吹いたってエレクトロニクス業界、助成なんてしてもらえないからね。構造不況になれば税制面で配慮とかあるだろーけどそれは半ば末期の水だし。

 なんて感じにちょっぴり世の中の仕組みをベンキョーしたあとも引き続いて卵の話を見物に行く。こっちの卵は1年2年じゃ絶対に腐らないけどそれだけ旬を逃して売れ残り、大量処分が必要になって60億円ばかりの大穴をあける結果を招いただけにそれと同じ轍を踏むかもしれない懸念を振り払って、よくぞ再び世に出したものだと驚きつつもその決断に何か確信めいたものがあるのかもと類推する。何の話? 卵です。「たまごっち」。いや正確には「かえってきた! たまごっちプラス」か。

 前に出たのが1996年の11月だから実に7年ぶりの”復活”。当時よく遊んでいた中高生が今では20歳を越えて社会人になってたりなりかかってたりするし、当時生まれた子供は小学校に進学する歳になっている、そんな年月をおいてどーして今更の復活かと言えばまさにその年月がひとつの鍵で、ブームの中で鮮烈な印象を「たまごっち」に持った世代が上へとズレて身の回りのものを自分で選べるよーになって、ふと見渡した時にかつて遊んだ「たまごっち」があれば他を差し置いて目を向けてもらえる可能性が高かったりする。

 もっとも単に懐かしいだけじゃあ目は向けられても手には持ってもらえない。ってことで「かえってきた! たまごっちプラス」には「コミュニケーション」って新しい機能が盛り込まれていて前のとは違う楽しみを与えてくれる。2つの「たまごっち」を向かい合わせてボタンを押すと、間をキャラクターが行ったり来たりして交歓を楽しみ時には交接だってしちゃうのがここで言うコミュニケーション。「デジタルモンスターじゃん」って言われそーだけど「デジモン」はデジタルペットってジャンルの先駆け「たまごっち」があって生まれた商品だから、先祖の利点を受け継ぎ生まれた正統の跡継ぎってことになりそー。通信による他の「たまごっち」とのコミュニケーション機能は「たまぴっち」からの移植か。懐かしーなー。持ってたし。

 病気になった時に誰か別の人からの通信がないと死んでしまったのが「たまぴっち」の持ってて哀しいところだってけど「かえってきた! たまごっちプラス」はとりあえず飼育はスタンドアロンで出来そーなんで友達がいない人でも安心。他とのコミュニケーションが必要でもその時は2つ3つ買って1人で向かい合わせて交歓すれば良いし。PHSを3つ持つのは大変だから。でも1人で3つ4つぶら下げ出先で両手に持った「かえってきた! たまごっちプラス」を向かい合わせているおっさんがいたら不気味だろーなー、僕のことか、そりゃ不気味だ。

 あと通信機能は「たまごっち」どうしのデータ交換をするだけのものじゃなくって、店頭なんかに設置予定の「でたかまごっち」とデータをやりとりして経験を増やすことができるのが新しいところ。とりあえずは「ロッテリア」の店頭に置かれるそーで、「ロッテリア」らしくハンバーガーをモデルにしたばーがーっちだか何とかゆーキャラクターからばーがーっちみたいなあれこれデータをもらえるらしー。「吉野屋」に置かれるんだったらぎゅーどんっちから牛丼並盛をもらえるのかな。それともひっそりとBSEか。ダウンロードすると「たまごっち」が震え出すとゆー。焼き鳥チェーンだったら当然鳥インフルエンザ、だね。

 ってか通信が出来るってことはウィルスが通信機能を通して「たまごっち」から「でかたまごっち」から蔓延する、なんてことも起こり得るのかどーなのか。「東京都で発生したたまごっちインフルエンザは懸命の防疫にも衰える兆しを見せず全国へと広がり、出回っているたまごっちの約6割が感染した模様。このため政府は、発生が確認された1都1府23県でたまごっちの移動を禁止して、たまごっちインフルエンザの爆発的な蔓延を防止する措置を講じ、即座に実行に移した」なんてニュースが鳥インフルエンザのニュースに続いて流れたら笑えるのに。嘘でも良いからやらないかなあ、「ワールドビジネスサテライト」あたりで、4月1日とかに。


【2月2日】 「MEZZO」をチラっとだけ見て時代の見えないディスコのシーンにこれは一体何だろーと脳がバーストしてその場で睡眠。開けて「MEZZO」を見返すことなく「超重神グラヴィオン ツヴァイ」の山と出てくるナイスなバディのメイドさんやらグランナイツの皆さんに、重苦しい月曜日の気持ちを解きほぐされて1週間を生き抜く気力を沸き立たせる。日曜深夜に「グラヴィオン」が放映されている幸せ。これがもしも「光と水のダフネ」だったら……それはそれで肩の力を抜いて生きる惰力を得られるんだけど。

 「牛丼が食べられなければキャビア丼を食べれば良いじゃない」とかのマリー・アントワネットが言ったか言わなかったかは定かじゃないけど、日頃からそれほど意識して牛丼を食べていない身にとってBSEで米国から牛肉の輸入がなくなって、牛丼が食べられなくなる事態がそろそろ出始めていても、そんなに深刻には思えて来ない。いくつかある牛丼チェーンの先陣を切らされる形で2日から「なか卯」が牛丼の販売を中止したけど、松屋にすき屋吉野家らんぷ亭と続く見かければ入る牛丼店のランクの下に位置する店だけに、内心への影響もまるでなかったりする。

 とはゆーもののここの所農林水産省へと出入りしては廊下をうろちょろしている身(すれ違ったても笑わないでねお役人様)、お仕事としてはひとつ消えまたひとつ消えてていく”牛丼の灯”を取り上げなくてはならないのが何とも面倒くさいところで、今はまだマイナー(ごめんよ「なか卯」)なチェーンでもやがて訪れるだろー最大手、吉野家から牛丼が消える「Xデー」にはどこかの店舗へと出向いては、「最後の授業」ならぬ「最後の牛丼」を噛みしめるサラリーマンだかOLだかを取材して、「味はどうですか」「これから何を食べるんですか」と聞かなくっちゃならないんだろー。つらいなあ。

 新聞よりもむしろテレビなんかが熱心に取り上げそーで、現に未だ牛丼が健在な吉野家の前で今日も今日とてテレビカメラと女性レポーターがカメラとマイクを抱えて待ち受け、「あたなの牛丼への思い」を聞いて回っているんだから平和とゆーか熱心とゆーか。願わくば訪れる「Xデー」に、遠くイラクで誰かが死んでいるのを差し置いて、全国紙が1面トップで「今日、牛丼消滅」って見出しで報じNHKが午後7時のニュースのトップで「牛丼が食べられなくなる日が遂にやって来ました」と悲惨な声で告げるなんて事態だけは、世界のメディアに顔向けができなくなるくらいに恥ずかしいからやめて欲しいもの。CBSがイブニングニュースのトップでダン・ラザーが「ジャパンでビジネスマンにフェイバリットなランチメニューのビーフボールがロストしてショック」とか言うくらいのニュースだったら別だけど。

 それにしてもブッシュ大統領はいつテレビカメラの前で牛丼をおいしそうに食べて「アメリカ産の牛肉は安全です」ってやるんだろー。菅直人さんが厚生大臣だか何かだった頃に貝割れ大根をおいしそうに食べて「O−157」による汚染が皆無なことをアピールして依頼、危険と言われがちな食材を大臣が食べて国民に安全なことを示そーとする動きが前回のBSE騒動の時なんかも含めて相次いだけど、見た目ダンディな菅さんが必死に食べるからこその効果であってこれを油ぎってる日本的オヤジ顔な大臣が、牛肉をもりもりと食べたって、世の人はやっかむだけで食材の安全性なんて考えない。インパクトがないんだよね。

 けれども物が牛丼で食べるのがブッシュ大統領だったら世界に与えるインパクトは決して小さくない。ハンバーガーも食いローストチキンも丸ごと平らげ健啖家ぶりを満天下に示しつつ、アメリカは牛肉も鶏肉も安全だし美味しいってことをアピールすれば、ロジカルじゃなくイメージでもってコロリと転ぶ日本人は例え全頭検査がされていなくたって「アメリカは頑張ってるんだ」って印象を持つだろー。ブッシュなんて言うことすること全部が先天性プリオン脳気味、食べたって平気な人間が食べても説得力はないって意見はさておいて、「日本は毅然とした態度を」ってかき立てて米国追従を権勢する報道に対して、それを偏狭なナショナリズムととらえて唾棄する方向へと世論を誘導できるんじゃなびくんじゃなかろーか。牛肉の輸入停止で参った米国の畜産業者や飼料用の穀物業者が大統領に泣きつき大統領から小泉総理大臣へと輸入再開の誘いかけが行われたなら、官邸は即座にブッシュに「牛丼を食って見せてくれ」と言ってやってはいかが。おすすめしたい銘柄は個人的にはすき屋のハーブチーズ牛丼だけど伝統では吉野家か。

 何を考えているんだろー名古屋グランパスエイト。若いフォワードとして期待の原竜太選手を京都パープルサンガだかに出したかと思ったらベテランのフォワードとして活動限界が見えて来ている森山泰行選手を戻すとゆー、人間的な温情が感じられつつも将来への布石って意味ではまるで目的の見えない補強に明け暮れてる。あまつさえ海の物とも山の物ともしれないウェズレイ選手の弟とやらをゲット。もしかすると凄い選手なのかもしれないけれど、どーせだったら柏レイソルみたくワールドユース選手権で活躍した選手をとって来て欲しかった。ともあれ駒ばかりはぎっしりなグランパスエイトがどんな混乱を今年も見せてくれるのか。次のユニフォームのデザインともども注目しておこー。


【2月1日】 風邪っぽい間接の痛みと喉のヒリつきに耐えかねて早朝に目覚めたのをこれ幸いと今日から始まった「ふたりはプリキュア」を見る。偽タトゥー? って感じに漂う百合っぽさはまあ流行りだから気にはしないとして、変身シーンの裸体がメタル化してしまうシーンに早朝から怒髪が天を衝き、内心で「なんてことしやがる」と激しく毒づく。

 別にキューティーなハニーみたく(もちろん旧作。Fは論外)すっぽんぽんにしてくれってお願いしている訳じゃない、それとはなしに凸凹っとした若いボディが拝めれな嬉しいって程度の願望なのに、「プリキュア」の場合は全身が「ターミネーター」のT2000みたくメタルコーティングされて凸凹も目立たなくされていてまるで背筋に電撃が走らない。話はどーでもそのシーンを楽しみにして毎週とりあえず見ているうちに、知らず作品全体のファンになるってゆー、過去に数多あった変身ヒロイン物のアニメーションがヒットするセオリーを、無視してヒットがあると思うなとここに寂寥感も込めて強く宣言しておこー。ますます実写版「美少女戦士セーラームーン」が欠かせなくなって来た。

 今日もきょうとて「3rdアニメーションフェスティバル2004in杉並」へと遠征、する途中で秋葉原に余って「週刊わたしのおにいちゃん」を海洋堂ホビーロビーで2つ、ちゃんとゲットしてしまっている自分が来年前厄だとゆーこの現実を、客観的にどー受け止めれば良いのかと迷う。還暦じゃないから別に良いのかとすぐに立ち直る。籤をひいたら1番で「タイムスリップグリコ」をくれた。前は「アリスのパーティーEX」だった。サービス? 在庫処分?

 末広町から地下鉄を乗り継いで到着した「セシオン杉並」ではまず5・1chの再現ルームで既に始まっていた「戦闘妖精雪風」のOVA1巻を視聴。すでに前に発売記念イベントで見ているけれど買ってなかったんで改めて見て戦闘シーンのスピード感と格好良さに感激。前日やっぱり空中戦がある「マクロスゼロ」も流れていたんだけど同じCGでドッグファイトを描く手法なのに「雪風」の方が何とはなしに迫力を感じたのは「マクロスゼロ」がどちらかと言えばカメラを引き気味にして空戦を全体から描いているからかそれとも「雪風」が峡谷ってゆーサイズや速度を比べる背景が前後にあるからか。ストーリーは改めて見ても薔薇っぽい。尻を向けて機体を整備するブッカーを見る零の目……潤んでるね、実写なら。

 続いて懐かしくも素晴らしい「セロ弾きのゴーシュ」を見物。実はこれが初見とゆーアニメファンにあるまじき状況なんだけど宮崎駿の子であって高畑勲の子じゃないと、そこまで頑張って見ようって気にはならないもの、だから。もっとも最近の宮崎駿監督作品が以前のギャグありアクションありで最後まで強引に引っ張っていく感じから全体に”良い話”系へとシフトしている中で、そっちだったら昔っからやって来てお家芸って感じだけに高畑監督の「セロ弾きのゴーシュ」は、”良い話”をベースにして周囲に楽しい場面を散りばめて見る人を大人から子供まで飽きさせずについて来させる。

 たぶん宮沢賢治の原作も読んだことがなければ過去に「パンダ・コパンダ」も「火垂るの墓」も「ホーホケキョ となりの山田くん」すらも見たことのない、「アンパンマン」とか「しまじろう」って慣れ親しんだキャラクターくらいしか楽しみがなさそーな子供たちが、猫を相手にゴーシュが「印度の虎狩り」を弾いて猫を混乱させたり、カッコウを相手にカッコウカッコウと弾いたり狸を相手に弾いたり鼠の母子を相手に弾いたりしていく展開に釘付けになっている姿を見るにつけ、アニメは人気キャラクターを出さなければ受けないなんって絶対に嘘、物語とそしてアニメならではの動きによって大人も子供も惹き付けられるんだってことを強く感じる。こーゆー場面を映像ソフト会社とか広告代理店とか商社とかでお金を持ってアニメの企画を探している人たちに見て欲しかったなあ。アニメで喰ってるんなら見に来いよなあ。

 そのまま大ホールへと流れてこっちは宮崎監督の”最高傑作”と誰もが思っているし僕も「未来少年コナン」がなければ最高と打ちたい「ルパン三世 カリオストロの城」の上映を見物。もう25年も昔の作品なのに、やっぱり凄いなあ、素晴らしいなあ。もう冒頭からセリフもシーンも全部頭に入っているのに、見ていていったい次になにが起こるんだろうってわくわくさせられ繰り出されるギャグに笑わされてしまうのは、作品自体が持つリズムとかテンポといったものが見る人の気持ちを掴んで離さないからなんだろー。この生理的な感性が果たして最新作の「ハウルと動く城」にも引き継がれているのかいないのか。やっぱりただの”良い話”になって名前だけで大勢のお客さんを呼んで”大宮崎”の名のみを欲しいままにするのか。要注目。その前に”大大友”の名の健在ぶりを確かめる作業があるけれど。

 さてまだ出たばかりのOVA「アニメーション制作進行くろみちゃん 日本のアニメは私が作る!2」の字幕つき無料上映ってゆー、昔だったら作品を見る機会に植えているアニメファンが十重二十重にホールを囲んで大盛況だったかもしれない僥倖に見えたあとで始まった大地丙太郎さんのトークはいきなり大地さんが4月から始まる作品の絵コンテ作業にかかって遅刻して来るハプニングで、どんなにヒット作を出しても次から次へと作品にかからないと食べていけないアニメ人ってゆー実状を、当人が体現して見せてくれる。

 それでも杉並在住できっと杉並区内のアニメスタジオで仕事をしていたんだろー大地さん、程なくしてかけつけてはアニメーション作家の片山雅博さんとトークを始めて「くろみちゃん2」の内容は業界の人たちにとっては結構イタいものがあるけれど、それでも大勢の人が面白い作品になりそーだってことで参加してくれたってことを話してくれて、作品の中だけじゃない情熱を持った人たちがこの業界にはまだまだたくさんいるんです、たぶん、って所を感じさせてくれる。

 この「くろみちゃん2」に限らず大地さんの周辺には熱情のカタマリみたいな人が集まるよーで、現在好評放映中の「十兵衛ちゃん2 シベリア柳生の逆襲」でも第一話の殺陣の場面の迫力に光る刀の質感を実現させたスタッフの頑張り、声をあててくれる大物俳優に世界的アニメーション作家といった人たちのノリがあのとてつもなさにつながっているって言えそー。ユーリ・ノルシュエテインをアフレコに引っ張って行って声を充てさせたら本人ノリノリだったって話、聞いてて涙が出ます。アニメ同志って感じ?

 タイトルこそ「日本のアニメは私がつくる!!2 大地丙太郎が吠える」って割には苦言罵倒の類はあんまり出さなかったけど大地さん、それでも時々は現場でやりたいことができないまま腐ってしまっているアニメ業界の人が多すぎるって言って、好きで入った業界なんだから好きなことやろーよ腐ってないでやりたいことをやってみよーよと呼びかけ奮起を促す。

 だってやらせてくれないでしょ、ってのは大地さんの前では禁句。だって大地さん、やって来たもん「赤ずきんチャチャ」でも「子供のおもちゃ」でも「十兵衛ちゃん」でも何でもかんでもやりたいことを、やりたいよーに。それをやったら干される? あの宮崎監督だって「カリオストロの城」でやりたいことをやっちまった挙げ句に5年、次の「ナウシカ」まで真っ当な作品がなかったんだから大丈夫。30代後半から40代前半の企業だったら中堅バリバリな時代をそれで無為に過ごしても、再起は可能だし果てはアカデミー賞だって取れるんだから。

 そんな「カリオストロの城」とそして、50歳に迫っているのに元気いっぱいな大地丙太郎さんを目の当たりにして、ちょっぴりおちこんでいたけれどわたしはげんきです、って気分にさせらたトークショー。これだけで十二分の価値があるって言える「3rdアニメーションフェスティバル2004in杉並」だけど、最後の最後のゴージャス極まりない出し物があって超歓喜。レイコこと安原麗子さんとそして復活成ったらしーチーコこと市川三恵子さんの「少女隊」オリジナルメンバー2人が登壇しては歌を唄ってくれて、その大昔にタダ券だったし既に引田智子さんになっていたけど金山にある「名古屋市民会館中ホール」で開催された「少女隊」のコンサートに行き、歌の上手さに感激した身として懐かしさに打ち震える。ソウル五輪関連のイメージソングが入ったCDとか聞いたなあ。関係ないけどポスト「少女隊」と思い込んでた「Lip’s」も好きだったなあ。

 安原さんたちが入ってきた時に大地さんが彼女たちを「ニセ少女隊」って三人揃ってないことを理由に紹介したのがマズかったのか片山さんが「ニセとは言いながらもホンモノの少女隊よりおきれいです」ってお世辞を言ったのには爆笑。「おいおいニセでも3分の2はホンモノだよ」って突っ込みたくなったけど、それは僕なんかよりもっとファンだったらしー司会のショッカーO野さんが正して(糺して)くれたみたいで再登場した片山さんが安原さん市川さんに多謝して無事和解。それはそれとして「妖精姫レーン」の元気いっぱいなエンディングを唄った「ニセ少女隊」の依然として変わらぬ歌の確かさ、ローライズのジーンズに細い足を包んだ安原さんの可愛さに、このメンバーで良いから復活してコンサートをやってくれないかって強く願う。残る1人が誰? って人で大地さんが言うには本当に単なる杉並区民の少女らしー関美奈子(だったっけ?)さんも顔立ちは他の2人とひけをとってなかったからそのままメンバーに加えちゃえ。しかし本当に誰だったんだろ?


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