縮刷版2003年4月上旬号


【4月10日】 つーかむしろ最初の頃は心底より期待しているところがあって、例えオタクを食い物にしているよーに見えても村上隆さんって現代アートの方面に回路を開いている人の力を良い意味で利用して、僕たちの好きなアニメーションであったり漫画であったりフィギュアであったりゲームであったりといった日本に生まれて育ったコンテンツって奴に、もっといっぱいスポットが当たって評判になってお金も入ってきてそれがさらに素晴らしいコンテンツの誕生へと回れば嬉しいなって思っていたし、実際のところそーゆー動きも幾つか起こっていた。BOMEさんのフィギュアがまんまフィギュアとしてアメリカとかフランスのギャラリーに飾られたしフランスでは「デ・ジ・キャラット」だって展示されたし、他にアニメーションも日本のものがオリジナルのまんまで上映されて、僕たちの好きなそれらが僕たちの好きな形のまんまで大勢の人の目に触れるとゆー僥倖を得た。

 けれどもどーなんだろー、あの「ワンダーフェスティバル」での「プロジェクトKO2」のセカンドバージョン3形態展示を越えた辺りから、妙な感じに歪んで来たってゆーかこっちが願った方向からズレて来たってゆーか、アニメとか漫画とかゲームといった僕たちの好きなそれらから村上さんが好きなエッセンスだけが抜き取られ今度は悪い意味で利用されてるっぽい雰囲気が漂い始めているよーに感じて、うーん困ったなあと頭を捻る日々が続いていた。でもって最近になっていよいよその雰囲気が濃さを増して来たよーで、例の「ルイ・ヴィトン」とのコラボレーションに至っては、もはや完全なまでにオタクエッセンスの抽出と利用、それも妙にハイソでエグゼクティブな場所からの強奪っぽい利用な感じがあってもはや困ったと言うことすら手ぬるいくらいに、ピンチな状況になってしまっている。

 もちろん想像するに村上さん自信にそーした強奪とか横取りとかって意識はなく、純粋にお気に入りなエッセンスを採り入れそれを紹介することを通して原点へのリスペクトを証明したいと思っているんだろーけれど、リスペクトはあくまでリスペクトであって原点そのものを紹介している訳では決してなく、村上さんの作品しか見ないハイソでエグゼクティブな人は村上さんの作品とゆーある程度時流に載って権威も付けられた作品の上に現れている、エッセンスをそのまま「村上隆」として受け止めるに過ぎず、そこから遡って原点へと向かおうとゆー事態には絶対にならない気がする。あるいは既に村上さん自身にもリスペクトを超越したオリジナリティを自身に見出しているかもしれず、僕たちの好きなオタクがもはやそのままの形で世界を染め上げるなんてドリームは起こらなくなる。

 気づいていた人は早々に気づいていたことかもしれないけれど、「プロジェクトKo2」辺りまでの頑張りを同時代的に観察して来た身としてどこか信じたい気持ちがあってここまで来てしまった。今日発売になった「月刊ニュータイプ」の2003年5月号に掲載された、例の「ルイ・ヴィトン」でのアニメ製作に関連した見開きの記事で、ハイパーなメディアクリエーターのタカシロマンこと高城剛さんと会話している言葉はそんな期待を粉々に打ち砕いてくれた。「今までのアニメの常識みたいなのを僕がブルドーザーでガガガーって地ならしして壊したところに、細田さんが種を撒いて、村上さんが水をやって花を咲かす。その結果がうまくいったことだと思う」と高城さんが言えば「これはヨーロッパの知識階級にカルチャーショックを与えるでしょうね」と村上さんが答える。高城さんにぶち壊されてしまったことをアニメ業界がどう思っているかは別にして、少なくとも村上さんがプロデュースした例の「ルイ・ヴィトン」のアニメは、ぶち壊された常識の上に作られた、僕たちの常識の埒外にある作品だってことになる。なるほどだから違和感を覚えるんだな。

 願っていたのは僕たちの常識がそのまま世界にも常識として広がっていくことだったのに、アニメとは別世界の常識が入り込んではエッセンスを抽出して奪い作品を作ってそれを知識階級とやらにオーソライズする。「ガンダムがあって宮崎駿作品があって、それはそれでいいし好きなんだけど、まだまだ可能性が発揮されていない」って村上さんが言う「可能性」って一体何のことなんだろー。想像するにそれはアーティストとしての村上さんが面白いと感じたアニメーターが作り出す動きの妙さ、漫画の伝統から生まれたキャラクターやメカの形態の奇矯さといったアニメを形作る要素であって、決して今あるアニメ作品そのものの、偏見とか見ず嫌いによって埋もれている魅力ではないよーな気がする。

 なるほど細田守さんとゆー今まさに旬のアニメ監督を起用したって部分での目敏さは感じるけれど、その細田さんに奇矯なパンダを出会わせグロテスクな花を絡ませた作品を作らせて何が「アニメの可能性」なんだろー。少女が迷い惑う中から仲間を見つけ世界を自分に引き戻すストーリーの美しさを認めるに吝かではないけれど、そーしたストーリーを越えて「村上隆の色彩とフォルム」だけが引っ張られ注目されていくよーな気がしてならない。とはいえそーやって上っていく風船を指をくわえて眺めているのも癪なんで、ハイソでエグゼクティブなブランドによって興味を持たれました的プレゼンを、現代の子供たちにとってどれだけ人気があるのかといった事情も知らず昔人気だったからとゆーオジサン的な思考でもって「鉄腕アトム」に群がったよーな企業の人たち相手にカマして資金を引き出して、意あるアニメ会社の人や広告代理店に潜り込んでるオタクな人は好き勝手なことをやらかして僕たちの好きなアニメをしこたま作ってやって下さいな。向こうが利用するならこっちだって利用してやりましょー。そーやって活性化して生まれた成果はぜーんぶタカシロマンの物になるんだけど。

 知ってる人が新しく出来た会社の社長になったってんで取材に行くことになって、事前にやってる仕事とか調べていて発見、こんなものが出来ていたのか。その名も「毛利軍娘,」ってタイトルに一瞬は何て読むのかと迷いすぐさま「もうりぐんむすめ、もうにぐんむすめ、もうにんぐむすめ……をを」と気づいて拳をポン、でもってその名も「うしのこえ」ってどこかで聞いたことがあるよーなないよーなタイトルのフラッシュアニメをダウンロードして再生して、その内容の脱力1万パーセントな様にパソコンの前で声を出さずに背中で笑う。もしかすると泣いていたのかもしれない、いや後ろから見たら肩が上下してる運動が同じに見えるだろーから。

 想像するに同人誌なフィールドから生まれて来たキャラクターのよーな気がするけれど、すでに「コンプティーク」なんかで”メジャーデビュー”もしているみたいで、フラッシュアニメーションがその新しい会社のサービスを通して広まることにつれて、本家「モー娘」ほどは無理でも「平家みちよ」よりはメジャーになる可能性だってありそー。平家は奢って久しからざったけれど(日本語がヘン)こっちは3本の矢でもって戦国を生き延び幕末まで領土を安堵された毛利の名を引く「毛利軍娘,」、3本の矢の故事を拾って3人の娘が繰り広げる脱力ギャグを見れば誰だって世知辛い世に一服の清涼感を覚えてシアワセな気持ちになったと支持を表明することだろー。

 ってゆーか声優さんだけなら既にしてメジャー級だったりして、津村”鉄腕アトム”まことさんに氷上”うさだひかる”恭子さんに大谷”ピカチュウ”育江さんだなんて、テレビアニメでだって集めるのが難しい面子が揃って大馬鹿をやってくれてるこの作品が、「アストロボーイ」に親しみ「ポケモンカード」で遊び「でじこ」に征服される予定の世界の関心を集めないはずがない。検索しても現れるページの少なさから想像するに、決してそれほど知られていなかったりするコンテンツのよーだけど、「アトム」が始まり「でじこ」が表で君臨し始めたこれからは、きっとガンガンとアクセスが集まり連載も「コンプティーク」から「月刊ニュータイプ」へと広がりアニメも本数が増えクオリティ……は今のままでも味わいがあるから高まらなくても良いとして、キャラクターグッズが作られDVD化されアメリカにもフランスにも輸出されて、日本のアニメの上澄みではなく神髄として、もしくは多様性を許容する日本のアニメの数多くある可能性のひとつとして、大評判になることだろー。なるかもしれない。なるんじゃないかな。それは見た人が判断しよー。

 ビデオで「宇宙のあずまんが大王」。ちよちゃんは今日も失敗しちゃいました。じゃねえ「宇宙のステルヴィア」だった、発育しまくってる周囲の同級生たちを横目に自らの未発育ぶりを悩み焦る志麻のちよちゃんっぷりもさることながら、お調子者で声の大きなアリサの智ちゃんっぷりもなかなかで、寡黙で顔恐くってその実それなりにお茶目かもしれない榊さん的キャラもいたりして、そんないろいろなキャラクターたちに囲まれながらちよちゃん、じゃなかった志麻はきっと頑張って持てる才能を発揮していくことになるんだろー。生徒たちの着替えをのぞきスクール水着でのランニングを要求する宇宙の木村先生の登場まだーっ?


【4月9日】 「米M1戦車の砲弾はパレスティンホテルの報道陣を避けて通る米M1戦車の砲弾はパレスティンホテルの報道陣を避けて通る米M1戦車の砲弾はパレスティンホテルの報道陣を避けて通るっ!」と唱えてベランダの奥からそっとカメラを差し向けたい気分に多分、今イラクのバグダッドに踏みとどまって取材している人たちも思っているだろーけれど、「LASTEXILE」の銃兵モラン・シェトランドにそのお呪(まじな)いが効いたのはただの偶然でしかないのと同じよーに、メディアだろーと外交官だろーと敵かもしれないと思った瞬間に即反応せざるを得ない、それが自分たちの命を守る術になってる最前線の兵士が相手では効き目なんかある筈もない。

 メディアが撃たれないのは何も天から与えられた特権なんじゃなく、メディアを撃つことによって生じる例えば軍隊の残酷な部分を現す材料に使われ兼ねないとゆー懸念、言論を封殺する横暴さを指弾されかねないとゆー心配に配慮しているからであって、そーした心配を覆う理由、例えば敵が潜んでいたとか向こうから撃って来たとかいった条件がありさえすれば兵士はメディアだって市民だって撃つだろー。問題はだからそーした理由がひとつはパレスティンホテルを砲撃した戦車にあったかってことで、米軍曰くホテルの方から撃たれたんで打ち返したって言っていて、けれどもホテルにいるジャーナリストは撃ってないって言っていて、どっちかが正しくどっちかが間違っているのは明かだけどそれが正しくつまびらかにされる可能性が薄い以上、平行線を辿ることになりそー。

 仮に米軍が正しかったとすれば、ベランダからカメラを向けるカメラマンがスコープを向ける狙撃兵と勘違いされる可能性はない訳ではなく、砲撃を受けていたしかたないといった見方も成り立つ。結果としてジャーナリストが犠牲になったことが、結果として爆撃されてマンスール地区の民間人が犠牲になったことを上回って忌まれるべきではなく、むしろあまりにジャーナリストを不可侵の地位に収めよーとする言説が同じジャーナリストの同情と怒りから高まると、かえって一般の離反を招き撃った側の理由の正当性を補完しかねない。

 そのあたり分かっているジャーナリストも結構いたりして、新聞にそーコメントしている人現地からそーリポートしている人も多いんだけど、ワイドショーとかが朝っぱらから「ジャーナリストが撃たれたけしからん」的な分かりやすいトーンで番組を作って流すものだから悩ましい。正しさを貫くためにも慎重さを持つべき、なんだけどそれが出来ないのがワイドショーだったりするからなあ。今後の話の転がり方に注目しときたい。正当な理由があったかってことは、パレスティンホテルへの砲撃とは別に起こったアルジャジーラやアブダビテレビの支局への爆撃や砲撃についても言われているけれど、こちらに関しては向こうが撃ってきたって話は伝わっておらず、邪魔だからねらい打ちしたってイメージがむしろ強く漂っていて米軍側の旗色が悪い。

 もっともそこはそれ、報道によって自分たちの作戦が相手に筒抜けになるのは我慢ならないし命にだって関わってくるから、といった判断を土台に大勢の兵士と1人2人の支局員を天秤にかけたと説明される可能性もある訳で、日本とかアラブはともかく米国ではこれが納得でもって受け入れられかねないだけに難しい。そこまで米国も自惚れてないって言えるかとゆと言えないからなあ。情緒とか同情でもって反論するのはなるほど分かりやすいし、それだって充分に正当な反応なんだけど、米国も含んだ世界を納得させ圧倒させるだけの性的で論理的でな言葉を、メディアには紡ぎ伝えていって頂きたいもの。正直さ真っ当さが最後には勝つ、と信じたい。

 神保町で早売りの「月刊ニョータイプ」を買う、って違ってる? いえいえちゃんと「ニョータイプ」です。角川書店の「ニュータイプ」2003年5月号の別冊として付けられているリーフレットなんだけど、「デ・ジ・キャラット」を生みだした「フロムゲーマーズ」に連載された4コマ漫画の「げまげま」50話分が一挙に掲載されてるってゆー優れもので、ネット上で表示して見るとかいった手間をかけなくて済むって意味でマニアも「でじこ」初心者も買ってとっておいて損はない。「でじこ」関連の付録だとこれまでは「おしえて木谷さん」とか「でじこTシャツ」とかで徳間書店の「アニメージュ」が先行してた観があるんだけど、今月に限って言えばこの付録の「ニョータイプ」といい、本誌の方で始まった連載企画「で事故の最新情報DNN」といー、ここに来て物量でもって「アニメージュ」を畳み掛けようって感じがして来てる。

 本誌の「DNN」には「げまげま」の特別版まで掲載されてて中に「でじこニュータイプ仕様」ってのが登場していて大爆笑。「ニュータイプ」といえば「ファイブスター物語」。「ファイブスター物語」といえば「ファティマ」ってことでファティマな格好した「でじこ」の見目麗しさにこれをまんま本編「ファイブスター物語」に出して頂きたいものだと以前自ら「でじこ」を描いたこともある永野護さんにお願いしたいところ。モーターヘッド「げま」っのも見たいなあ。ともあれ「でじこ」が「ニュータイプ」にいっぱい取りあげられて裏番組の黒ブリーフくんの脚を引っ張り頭を地面にめり込ませてくれるのは有り難いことだけど、できれば「アニメージュ」にも頑張って頂いて、どっちがどっちではなく共に「でじこ」を盛り上げていって欲しいものだと、ここまで一人「でじこ」に傾注して来た人間として強く願う。あっちが「ニョータイプ」ならこっとは「アニメーニュ」。あと「アニゲマディア」ってのを学研にも。

 「月刊アニメージュ」2003年5月号はアカデミー賞記念ってことで表紙が今再びの「千と千尋の神隠し」に……は流石になってないけど冒頭から特集が組まれていて同じ会社だって感じを出している。でも鈴木敏夫さんへのロングインタビューが載ったのは「ニュータイプ」の方だからなあ、人間関係ってフクザツです。「でじこ」関連ではこっちでも「でじこランド」ってのがスタートしていて桜井弘明監督が「ダバダバ監督日記」って文章を寄せていて、最初の「ワンダフル」版からこっち、「でじこ」たちがどー変わってきたかを監督の目で書いている。何だ「アニメージュ」も頑張ってるじゃん。ってかどっちにも連載をスタートさせてしまうブロッコリーが凄いのか。それだけのキャラに「でじこ」がなったってこと、だよね。

 桜井監督に言われて気づいたけれど土台となったコゲどんぼさん描く「でじこ」にあった髪の真ん中の触覚が、新しいアニメのキャラクターではなくなっていてちょっと意外。描くのが面倒だったのかそろそろ触覚も飽きられて来ているのか。ポストモダンが動物化している現代においてこれはなかなかにエポックメイキングな出来事かもしれない。毎回描くのが面倒になって削っただけって可能性も……あるな、割と高い確率で。「ぷちこ」の服が変わったのは有名だけど、「うさだ」のサイコロが小さくなっていることには言われてよーやく気が付いた。テレビの方ではまだ出てないから分からないけどどんな感じになっているのか、今度の登場シーンでしっかりと確認しよー。


【4月8日】 どー頑張っても「スラムダンク」と比べられてしまって可哀想なバスケットボールのアニメは折角の八神ひろきさんキャラが頑なな規制ではきっと生々しさが薄れているだろーこともあって見ずに飛ばして、珍しく起きたまんまのリアルタイムで録画も忘れずにしながらこの春期待の(といっても「デ・ジ・キャラットにょ」よりは下がる)新作アニメ「LASTEXILE」を鑑賞、そのキャラクターの丸っこさ、そのCGの使われっぷりに思わずつぶやく。「『青の8号』か?」

 そんなアニメも漫画ももちろんこの世のどこにも存在してないのは自明のことで、「LASTEXILE」を作ったGONZOがかつて作った「青の6号」ってアニメで見せられた、2Dのアニメーションと3DのCGとが混然一体と……はせずそれぞれが主張し合いながらも面白く絡み合った不思議なビジョンとそれから、村田蓮爾さん描くところの丸顔で目がくりくりっとしたキャラクターに今一度触れられたってことが、そーいった妄想を頭に浮かべさせたに過ぎなかったりする。同感の人もきっと大勢いたんだじゃなかろーか、「青の6号」がいっぱい売れてたらって前提があるけれど。

 舞台自体は「青6」ってよりはゲームソフトの「バッケンローダー」っぽい異世界とも過去とも未来ともつかない、どちらかといえばレトロチックなテクノロジーが幅を利かせた世界で、空には飛行機ってゆーか巨大な船が行き交う例えるならば宮崎駿監督の「天空の城ラピュタ」に近い雰囲気がある。物語はそんな世界で起こったかつてない先頭に、ヴァンシップってゆーこちらは戦闘機に近い雰囲気の乗り物を駆る少年と少女が巻き込まれていくって話しだけど、多層的になっていそーな世界の構造が原因となって起こるだろーさまざまな出来事が、どーゆー帰結を迎えその中で少年と少女がどーなっていくのかに、興味の主眼は置かれそー。冒頭に出てきた嵐の中で偵察するパズーとシータ……じゃなかった女性パイロットが誰で彼女に支持を出してた眼鏡の美女が誰なのかも興味のある所。あと艦長の奥さんのコルセットからはみ出た真贋にも。

 CGについては2Dとのマッチング云々は意図的なものがあるから別にして、質感とか重量感は結構出ていて5年の間の進歩ぶりにとりあえず驚く。スピード感も出ていたけれど、逆に柔らかい動きなんかはちょっとあんまり出てなかったよーな気もする。世界観では銃兵を舷側にズラリと並べて縦列に向かい合った相手戦艦の銃兵と銃撃戦をやらせて先頭の端緒とする戦いぶりに驚愕。全体を見れば消耗具合によって勝敗を判断するって部分で正々堂々とした戦い方だと言えるけど、個々の銃兵レベルで見れば楯もなく真正面から打ち合って死ぬのが役目みたいになっていて、つまりは完全に駒でしかなくそんな人間を道具扱いした戦いを「騎士道精神」などと評して憚らない設定に、激しく違和感を覚える。

 あるいは銃兵でも死んだものには物理的か宗教的かはともかくとてつもない名誉が与えられるのかもしれないけれど、砲撃戦に移る場面で遺体が転げるのも構わず舷側を畳む動作を見ると、やっぱり物扱いしかされてないよーだしなー。そーした”差別”も含めて社会が、世界がどう成り立っているのかを破綻なく構築した上で、ドラマの方は繰り広げていって欲しい物。見た目の珍奇さを採ってあーした戦闘シーンを作ったってんならそれは決して誉められたものじゃないからね。

 「週刊サッカーマガジン」4月22日号面白すぎ。右に配された大住良之さんのコラム「ああいえば、こう蹴る」はテーマに「不安なジーコのチーム作り」を配して「『国内組』が浮き彫りにしたコンセプトと規律の必要性」って見出しで、欧州から戻ってきた6人の中盤とフォワードが、普段合わせていないことから「行き違いや判断のズレ」が生じていた上に、試合の中でそれを「合わせていこうという意志がほとんど感じられなかったことだ」と指摘している。中田英寿選手をのぞくと欧州帰国組は「ボールを持っては時間をかけて考え、パスの出しどころがなくなってドリブルを強要され、最後には苦し紛れのパスを出してウルグアイの守備網に引っ掛かった」と糾弾。「ジーコは、攻撃も、選手任せにせず、明確なチーム・コンセプトを打ち立て、しっかりとしたディシプリンを求めるべきだと思う」とまで言っている。

 対するにすぐ隣りの左側のページでは、牛木素吉郎さんがのっけから「『すばらしい』と、ぼくはおおいに関心した」と日本代表の対ウルグアイ戦の戦いぶりを評価。中盤の4人を挙げて「4人は、それぞれにすばらしかった。ボールを扱うテクニックもすばらしい。まわりをみて状況を判断するインテリジェンスもすばらしい」と大住さんとはまるで正反対のことを言っている。加えてさらに「臨時に寄せ集められても、その場その場で、個人の戦術能力を組み合わせて、みごとなチームプレーを組み立てることができる」とまで言っているから吃驚仰天、「十分なコミュニケーションもあう、見方がボールを離すタイミングが分からないから、周囲の選手は止まったままだった」と言っている大住さんと、とてもじゃないけど同じ試合を見ていたとは思えない。

 テレビで見た当方の所感はと言えば中田中村あたりはやっていたって感じだけど、詳しいところまで分析できる目も知識もない人間にとってはオーソリティーの意見ってのがまずは勉強の糧であって、にも関わらずそれが同じ見開きの右と左でまるで違ったものとなっているとさてはて、一体どっちを信じたら良いのか分からなくなって来る。とか言いつつもトルシェビキな人間にとってジーコのやることなすことすべてが疑問符な訳で、タレントを並べておけば良し、ってな戦術とゆーか無戦術ぶりをどちらかといえばネガティブに見た大住さんに見方したくなる。いずれにしても勝てなかったとゆー現実を前にすればどこかに瑕疵があったと考えるのが普通で、そーした瑕疵がどこまで修正されて来るのかを知る意味でも、メンバーが出そろった今後の日韓戦は重要な一戦となりそー。しかし何で久保を呼ぶ? 大久保と書き間違えたのか?


【4月7日】 新宿区役所で鉄腕アトムが「未来大使」に任命されるってゆーイベントがあったけどローカルな話でもあるんで取材には行かず、テレビでその模様を見て行けばよかったと悔やむ。だってだってアトムがだよ、肉襦袢だったんだよ、その体を表現する材料が。顔こそFRPか何かの「でじこ」とかと同じ素材でしっかりと造形してあったんだけど(似てないけど)、体の方は相撲取りの扮装をさせる時に着せるよーな、肉っとした感じを出す布製の襦袢で、動くと皺がよったりする感じが余りにも顔の素材とバラバラで思わず「アトムの中の人も大変だなあ」とテレビに向かってつぶやく。いくら細い人間の手足をまんま出せないとは言っても、せめてもーすこし硬質な感じを出すとか出来なかったんだろーか。こんなアトムに「アトム大使」の証書を授与してそれが全国に流れる日本の、実に平和な光景でありました。アトムがそのまま区役所通りから歌舞伎町へと消えたかは不明、午前中だってやってる店はやってるし。

 もたもたと周辺で足踏みして”長期戦”の可能性を伺わせておいて一気に首都バグダッドへと入り込んでは大統領宮殿を制圧してしまうとは、あれでなかなかに米英軍も人の裏をかくのが得意とゆーか情報戦を仕掛けているとゆーか。昼間に流れた「米軍が大統領宮殿を制圧」って速報が最初のうちは信じられず、またぞろ揺さぶりをかけているんだろーと思っていたら、チグリス川の堤防を続々と走る戦車とか、宮殿の車寄せに見事に駐車してみせる戦車とかの映像が放映されて、これは本当にバグダッドまで来てたんだってことを納得する。

 この期に及んでまだ「バグダッドは平穏。米軍の進入は嘘」って国営テレビに出て喋る情報相も仕事とは言え大変だろーなー。まさか本当に嘘なのか? アポロが月に行っていないのと同様に。こーなってしまうとテレビなんかで兵站がどーの泥沼化がどーのと言っていた人、ってゆーかそーゆー可能性を半ば信じていた僕自身も含めて裏をかかれてしまったことになる訳で、果たしてそれがあまりにもイラクを守る軍隊が弱かったことに依るものか、それともそーした事態を見越しつつ米英軍が相手を安心させよーとして足踏みを演出していたのかを知りたくなって来る。

 それにしてもここまで来ても未だ(夕方段階)でまるで掴めないフセイン大統領の行方。第二次世界大戦時のドイツはベルリンの攻防でヒトラー総統が地下壕で何日間持ちこたえたのかは調べてないけど、当時に比べて兵力差が圧倒的な米軍相手にイラクがあと何日も持ちこたえられるとは思えないだけに、遠からずどこかから引っ張り出されるとは思うもののこれがもし、ビンラディンと同様に結局行方不明のまま終わってしまったとしたら、今度はいったいどこに事態が飛び火していくのか想像もつかないだけに恐ろしい。モスクのドームを話って飛び上がるミサイルの先に立って「また会おう、米英軍の諸君」とかって高笑いしながら去っていく、なんて劇的な光景があるでもなく向ける先を定められないまま延々と続く恐怖の圧力に、怯え高まった戦意が向くのは中東かそれともアジアか。人ごとではなくなって来た。

 人ごとではないと言えば「SARS」もちょっぴりヤバげな感じ。国際労働機関(ILO)って組織の局長が北京で「SARS」のために死去したってニュースを聞くにつけ、国にとっては大事なお客様だってことで中国でもおそらくは最高クラスの医療設備で世界とそれほど引けをとらない医療スタッフが、漢方4000年の伝統も含めて目一杯のパワーを発揮して治療と看病に当たってもなお、直せないどころか死なせてしまうくらいに難しく激しい病気なのかもしれないってことが伺えて恐ろしくなる。慌ててマスクをしたところで、香港じゃあ病院のスタッフのうち26人が新たに感染したってことらしく、飛沫はおさえられても手荒い励行どころか全身防護くらいの対応をしないと、防げないんじゃないかとすら思えてくる。

 まあ病院にしろ移動の飛行機にしろ狭い場所に缶詰、ってのが伝染する場合のパターンみたいなんで、家に引き籠もりっきりか、出かけても広いサッカー場とかならまず安心、通勤だってラッシュの混雑時にはまず乗らず、ゆったりと座って来る身なんで大丈夫だとは思いたいけど、帰りは割に混雑した中で帰るから一緒のことか。直る人がいるって点で人間がほとんど全滅してしまった「復活の日」の「MM−88」の現実化とは違う、とは思いたいんだけどその辺りを御大・小松左京さんがどう思っているのか聞いてみたいところ、だけど流石にDVD「さよならジュピター」発売記念サイン会では聞けないか、無重力セックスの心地よさならまだしも。

 わじわじと読書。椎野美由貴さんの「バイトでウィザード 滅びよ魂、と獅子はほえた」(角川スニーカー文庫、533円)は前作で角川学園小説大賞の大賞を受賞した、割には妙にいつかどこかで見たビジョンで今ひとつ乗り切れないなー、と思った「バイトでウィザード 流れよ光、と魔女は言った」(角川スニーカー文庫、514円)に比べると段違いに読んで面白くなっていて、この面白さを見出した編集の人の眼力とそーした期待に応えた椎野さんの筆力に深く敬服したくなる。学生魔法使いのドタバタ学園日記、にしか見えなかった前作からガラリと代わって「滅びよ魂」は、主人公の双子の兄妹が使う矯正術の本家筋で起こっている暗闘に、兄妹のとりわけ兄の方が巻き込まれるストーリーを主軸にして、前作より引き続き登場の変態的に潔癖な風紀院長とその下僕な少女がふとしたはずみで配下に入れた獅子にも似た化け物を使って学園を乗っ取り支配しよーとするエスカレーション話とか、そんな彼らに持ち前の向こう気の強さだけで立ち向かう妹の猪突ぶりとかが重なって、メリハリありまくりな中を一気にラストまで連れて行ってくれる。

 注目は矯正術の「家長」に反旗を翻そーと企む本家のお嬢様の冷徹ぶりで、イラストに描かれる顔こそ可愛い美少女ながら巡らせる企みの腹黒さ、最後に見せる残忍さは1巻を読み始めた時に感じたお気楽学園妖怪調伏ストーリーの枠組みをはるか遠方へと蹴飛ばして、物語に果てしない広がりと底知れない深みをもたらしてくれる。風紀院長とその手下の成原博士的な爆裂ぶりとか妹の頓狂うりが浮いてる感じを覚える人もいそーだけど、こーした浮きがあってこそ逆の沈みも引き立つもの。面白くてやがて恐ろしき物語の行き着く先はどこなのか、自らの限界を感じ始めた京介に未来はあるのか、彼に打たれたナンバーの真相は、等々提示された謎の解決が果たされる時が今から楽しみで仕方がない。書いて書いて書きまくって下さい椎野さん。


【4月6日】 次のクールも終わって新年度入りしたアニメーション界で”一昨日的”な位置づけになってしまった観もある「灰羽連盟」だけどDVDはなお順調にリリース中。出たばっかり(でもないけど)の4巻目をよーやくやっと見て全体の中でラッカが鬱モードに入って脱出するここいら辺りが変わり目だったんだなあ、ってことを実感する。変わり目ってのはそう、物語の主役がラッカからレキへと切り替わっていったポイントのことで、自分を罪憑きだと悩み恐れていたラッカが烏さんの助けも借りつつどーにか解脱でき、羽根ももとどーりの無地の灰色に戻ったことにレキが気づいた瞬間なんかが、分水嶺になってるよーな気がする。

 本放送の時はサラリと見過ごしていたんだけど、ここに1カットだけレキの顔が抜かれてあって、表情自体はアニメなんで皺とか歪みとか描き込むのが難しいんで、1枚絵でみれば多分普通の顔なんだけど、前後のつながりもあって見る人に「あっ、妬んでる」ってな感じを思い起こさせる効果を出している。以後は羽根が軽くなったと喜ぶのと並行して存在感を観察者っぽい場所へと昇華させるラッカに代わって、例の壁画の部屋へと引き籠もって黙考したり、話師のところで「妬んでいる」とそのままズバリと指摘されて怒り焦ったりと、レキの葛藤を描く場面が多くなっていって、これがあの驚愕と快方のラストへとつながっていったんだと今さらながらに気づく。関西でも放送が始まったか始まるみたいで、見ている人はそんな辺りを気にしながら、割に明るめで楽しげな前半戦をしばらくは楽しんでくださいな。関係ないけどクラモリと読子・リードマンって親戚?

 ”一昨日的”って部分は同じでも本編をほとんど見てなかった関係でDVDのリリースが割にリアルタイムになってる「ウィッチハンターロビン」の5巻は、話し言葉が妙にナヨくってそっちの人かと思いこんでた「ハリーズ」のマスターに、しっかりと息子がいることが分かって人間見かけで判断してはいけないってことを改めて教えられる。そもそもがクールでニヒルな風体をしてるロビン自身が実はボケキャラだったりするからなー。見所は喫茶店でウェートレスのバイトをさせられている堂島のホットパンツ姿だけど一瞬しか映らないのが残念至極、止めてもDVDだからブレるんだよね。ロビンが長ズボンなのも残念だけどあのスレンダー過ぎる体型ではホットパンツに期待するムチっとした感じが出ないからなー、いっそだったらアンミラな格好を見たかった。それにしても2話づつ収録であと8本も出る予定なのはちょっと辛過ぎ。「L/R」みたくいきなり3話とか入れて8カ月くらいでケリつけて欲しかった。購入意欲保つかなあ。

 目覚めて午前の9時半はやっぱり昭和の男の子ってことで「アストロボーイ・鉄腕アトム」を……見ません、見るわけがない。見るのはもちろん我らが「デ・ジ・キャラットにょ」。すでに制作発表の席で前半部分を見ていたからどーゆー感じも桜井弘明監督な感じで得体のしれないせーぶつが、わんさと出てきて不条理なギャグをしまくる展開になるってことは知っていたけど、平日の深夜でも春休み夏休みのスペシャルでもなく日曜日の朝にこれがこれから毎週見られると思うと、とてつもなく感慨深いものがある。ってゆーかまさかこんな時間に「でじこ」が放映されることになるなんて、5年前は見当もつかなかったよ驚いた。

 思い起こせば幾星霜、萌え要素炸裂なあざといCMと悪辣さ爆裂な「フロムゲーマーズ」の4コマ漫画で「でじこ」に触れて今は亡き「ゲマ」型のCDを購入し、あちらこちらで「でじこ」の変さを吹聴してもなかなか届かず、そーこーしているうちに世の中に対して発言力を持つ最近助教授になった人が、着目して講演で題材にして本のネタにまでして一気にハイソな層にも広まることになった訳だけど、それでも早々にテレビシリーズにした挙げ句に瞬間の人気で終わってあとは風化する一方になることを避け、ここまでわしわしと引っ張ってきてよーやくにして作り上げたテレビシリーズ、だけに例え裏がすべての漫画ファン、アニメファンにとって”神”とされる手塚治虫さんの代表作「黒ブリーフロボ」であったとしても、「でじこ」を見ない訳にはいかないのです。

 後半も含めて見た感想は……「でじこ」だったなあ、ってことか。キャラ紹介をメインにしたって感じで事件も何もなくって割に淡々としたストーリーの合間をギャグと不条理でつないであって、やってるなあ、とは思ったけどやられたなあ、とはあんまり思わなかった。もっとも制作発表では見られなかったオープニングはちょっとやられた感じだし、エンディングは絵こそちょっぴり気にひっかかったけど「EQUALロマンス」はやっぱり良い曲で、次回予告でのうさだの扱いのぞんざいさから想像される来週の「うさだ大爆発」な物語にも期待が持てそーなんで、裏のまだ見てない「黒ブリーフくん」の2回目は実況にまかせて、信念としての「デ・ジ・キャラットにょ」視聴を通し続けよー、4月いっぱいはとりあえず。

 浦和レッズと名古屋グランパスエイトのチケットはとっとと売り切れになってたんで避けて国立霞ヶ丘競技場で開催された日本と韓国の大学生代表が戦う「デンソーカップサッカー」を見物に行く。大学生どうしの試合ったって日本の場合はどちらかと言えば「Jリーグ」に行けなかったか行かなかった人が集まるどちらかといえばサブ的なカテゴリーになっているのに比べて、韓国の場合は未だプロへ行く大半が大学経由だったりするし、小学校中学校高校とベスト4に常に入って来たよーなサッカーエリートの頂点を極めているのが大学生だったりすることもあって、将来の韓国代表がここから出てくる可能性も高く見て置いて損はなかったりする。

 実際、始まった試合を見てみると登場する選手のまずは大きさ頑丈さが全韓国選抜は全日本大学選抜に比べて圧倒的で、ディフェンスの選手をとってみても日本はどこかヒョロくて見かけも小さくボールの扱いにも危なっかしさが感じられるのに対して、韓国側は見るからに大きくって且つ太く、スピードもあってとてもなじゃいけど抜けそーな気がしない。その他の選手もフィジカルでは同じポジションの日本人選手をたいては圧倒していた。試合運びも球の扱いもプロ予備軍、って感じで最初の、とゆーかこの試合で唯一の得点もサイドから入れたボールを2枚いたフォワードの前がスルーし後ろが決める鮮やかさで、流石なものだと感嘆する。もっともそんな巨体で突進する韓国選手相手に1点で抑えたってことは、危なっかしく見えて日本のディフェンスもあれでなかなかに堅かったってことなのかな。

 実際のところ日本だって大学生からプロに入る選手が出ているよーに決してプロ未満な選手ばかりじゃなく、背番号10を背負った駒沢大学の中後雅喜選手なんかは中盤の底から右サイドの前線に張った選手に良いロングパスを何本も供給して、うまく折り返せれば得点ってシーンを演出してた。だたそれに頼ってばっかって所もあってマークされて攻められず、中を突破もできず結局無得点に終わったのはこの世代に限らずオリンピック代表でも、果てはフル代表でも課題なところなんだろー。ウルグアイ戦でフォルランが見せたよーな、Jリーグでも中山選手が時々やるよーな、ディフェンスラインを突破してディフェンダーの前に入り込んで頭を尽き出しゴールにボールを押し込むとか、クロスによってゴール前に転がり込んで来たボールを受けて即反転、1人2人とディフェンダーをかわして間髪入れずにシュートへと持ち込むとかかできる、強さと速さと巧さを兼ね備えたフォワードの育成が未来永劫、日本の課題ってことなんだろー。出よカマモト。釜本さん本人の復帰って意味じゃなくって。

 帰宅してテレビ東京で始まった新番組を何とはなしに見始めて狂喜乱舞。「スキにさせて」ってタイトルで15歳以下の少女がひな壇に何十人と制服姿で並んで最近興味を持ってることとか、学校での生活とかについて答えていく内容で、「さんま大先生」の子役っぽくスレてもなければ「10代しゃべり場」のよーに理屈っぽくもない、純情可憐で正直真面目な制服美少女たちがスカートから膝小僧をのぞかして画面狭しと映りまくる、その素晴らしくも華やかな画面にどーして録画しておかなかったのかと激しく悔やむ。来週はちゃんと録画しよー。これ撮るためDVDレコーダー買っても良いぞ。ちなにみ好みは橋本侑里映ちゃん11歳だ、眼鏡っ娘だ、本番中に何故か眼鏡を拭くんだ、つまりは本番中に眼鏡を外すんだ、素顔が見られるんだ、最高だ、そうだろ? そうだろう。


【4月5日】 ゲームのノベライズを実はあんまり好きではないのはキャラ萌えってるゲームがノベライズされた時はゲームでキャラ萌えっていればいるほど楽しめる反面、ゲームを触ってもない人間だといったいどこに感情を注いだら良いのか掴めず疎外感を覚えてしまうから、だったりするしファンタジーの場合もある程度世界観とかゲーム内のエピソードとか、知っていないと入り込めないケースがままあったりするからで、帯とか見返しに「人気ゲームをあの作家がノベライズ」と書いてあるだけで、申し訳ないとか思いつつもよほどのプッシュか気にとまるフックがない場合、あるいはエロゲーギャルゲー題材のノベライズの場合は最初っから、遠慮してしまうことが多かった。

 それでも読まなきゃ仕事にならないってこともあって、この所やたらと新刊づいてる冲方丁さんが、大宮ソフトの人気ゲーム「カルドセプト」をノベライズした「カルドセプト創伝 ストーム・ブリング・ワールド」(メディアファクトリー、580円)でまるでそーした感じを受けなかったのは、小説が「カルドセプト」の世界観とかキャラクターを使って何か新しいことをしよーとした、って感じではなく「カルドセプト」の持ってるカード対戦ゲームの雰囲気とか手順とか要素をまんま、小説の中で描写してるからで小説内では石版になっているカードに描かれたものが象徴する力を引っ張り出し、木火土金水じゃないけどそーした属性なんかも考慮に入れつつ使ってバトルが繰り広げられる描写なんかは、まんまゲームのマニュアルになりそー。

 とか言って実は「カルドセプト」をプレーしたことないから、どこまでがあの人気シリーズを再現しているのかは分からないけれど、監修を大宮ソフトがやっているってことは本家も納得する出来になっているんだろー。加えてそーしたカードゲームの設定の上で動くキャラクターの目立ちっぷりもなかんなかで、国を滅ぼされ1人生き残った王子な割にはクールなのかのんびり屋なのか分からなかったりするリェロンと、父に偉大なセプター(カード使いのことみたい)を持ち自分もそーなりたいと憧れつつ自分の能力に不安を覚えてて、にも関わらずそれを表に出さないで強気を通している少女のアーティミスを主役にして、実はアーティとも関わりのありそーな敵「黒のセプター」の迫る魔手と戦う様を通して、少年の悔恨と恢復に少女の葛藤と成長あたりが描かれていくことになりそー。

 これで今ふたたび「カルドセプト」の人気が盛り上がれば面白いんだけど、いつぞやにメディアファクトリーが販売を発表して以降、どーなっているのかちょっとチェックしていなかったからなー。生きてるんだとしたらネットゲーム隆昌のこのご時世に、是非にオンライン対応なんかで大ブレイクして頂きたいところ。メディアファクトリーから小説が出るって辺りも含めて期待しよー。

 降りしきる雨吹きすさぶ風の中を先週に続いて有明へ。何かと話題のセガが自前のソフトをズラリと勢揃いさせる「GameJam」ってイベントを去年に続いて開催するってことで駆けつけたんだけど、会場が去年の「東京国際フォーラム」から一転して有明にある「TFT有明ホール」に代わっている辺りから心配していたのが現場に到着してまさにドンピシャリ、広いホールを「せかいいちぃぃぃぃ」なセガのゲームが埋め尽くすって感じじゃなく、3つに分かれたホールに分かれて展示する形式になっていて、会場大盛り上がりってな一体感がまずはちょっぴり(たっぷり)減殺されている。おまけに各ホールがもっぱら壁際にゲーム機とか家庭用ゲームの試遊台を並べ、その上から看板を吊るすだけの業者向けAM機器展示会に劣るとも勝らない地味っぷりで、ブースがしっかりと作られて電飾も華やかだった去年とのとてつもないギャップが連続してのぞいた目にひどく気になる。

 「1社でゲームショーだって出来ちゃうぜ」的な前のめりのパワーが去年はあって、率いていた人もそーしたパワーを見せつけることで復活の狼煙を満天下に示そーとしていた節があるけれど、たったの1年でガラリと趣旨を変えてまずはあるものを並べました的な展示にしてしまったのは何故なんだろーかと訝る。仕切る人が変わったのか。なるほど経営が厳しいことは承知しているけれど、だからこそ張るべき見栄ってものがある訳で、もーちょっとだけでもいいから派手な感じを出して、来る人に「セガはやっぱりせかいいちぃぃぃぃぃ」な気持ちを抱かせて欲しかった。まあ行った時間が初日の午前で、激しい風雨ってこともあって人が少なかっただけで、「ワールドクラブチャンピオンフットボール」の大会とかは盛り上がったかもしれないから、後刻のどっかの報告を見てから「セガ健在」か否かを判断しよー。

 目についた所では春休み中ってこともあって小中学生っぽい人がいて、とりわけ女の子の姿が全体の少なさもあって目についたことで、そーした層が支持するゲームがあるいはあったりして、将来につながる可能性を秘めているのかもと創造する。同じく有明で先週開かれたコナミによる「テニスの王子様」関連イベントが、午前と午後で実に16000人もの婦女子を集めたよーな状況を、起こせる商材をつかむなり育てることがこの逼塞するゲームの世界で案外に必要だったりするのかも。

 それと「ソニック」関連のゲームが小学生の男の子とか女の子とかに遊ばれていた様も目に入って、エッジでハイティーンなイメージで売ってきたセガのブランド、ソニックのキャラクターもここに来て様相が変わって来ているのかもしれないと思ってみたり。その辺り、掘ってキッズブランドに強いセガってイメージなんかを立てていったりすると面白いんだけど、だとすると子供層とは無縁なサミーとの経営統合、ってのはいろいろ難しい側面もありそーだしなー。ってか今いったいどーなってるんだろ、経営統合委員会が出来たって話も聞かないし、やっぱり横やりが入っているのかな。

 「ゆりかもめ」を乗り継いで新橋から東京へと回り「東京駅ステーション」で始まった「安藤忠雄建築展2003 再生−環境と建築」を見物する。安藤さんて言えば大昔からコンクリートの打ちっ放しな建築物が有名だったりしたんだけど、今回展示されてる割に新しい作品はコンクリートを使いながらもガラスが割にふんだんに使われている作品が多くあって、前は隙間とか窓から取り入れていた光を今は、ひろく採り入れて内部と外部との隔絶を避けて、周囲にたっぷりとある自然のエネルギーめいたものを含めてひとつの”建築”にしよーとしているのかな、なんてことを思う。

 例えばメイン展示のひとつになってるフランスはスガン島に計画されている「ピノー美術館」は細長い中州の先っぽにぴったりとはまる三角形の建築物を提案していて、地下から地上を作り込んだ上でその上にピロティでもってガラスの壁に囲まれた三角形の建物を浮かべて、ギャラリーにするって案になっている。中が明るいのはもちろんだけど、運良く初日ってことで来場していてギャラリートークをしてくれた安藤さん本人によれば、セーヌ川の水面とガラスの壁面とが反射し合って生まれるビジョンなんかも構想に入れて、こーいった素材こーいった設計になったとか。会場には実際に使われるガラスの壁の一部も展示してあって、そのキラキラした感じに、巨大な河原みたいなガラスがセーヌ川の上に浮かんだ姿を、朝昼晩の光の中でながめてみたくなる。

 周囲との調和って意味では今進めている表参道の「道潤会青山アパート」立替計画なんかがまさに調和が考えに考え抜かれていて、まずは高さが前のケヤキ並木の高さを大きく上回ることがなく、代わりに地下を30メートル掘り下げて駐車場とか吹き抜けとかを作って床面積を広げる方式を採っている。通りに面した面にはガラスが貼られることになるのかな、これだと夏とか緑の並木が写って歩道を緑のトンネルにしてくれそー。でも夜とかガラスに向かって踊るダンサーとか出てきそーだな、それもあって良しだと思うけど表参道から露天商が消えてしまったよーに排除される可能性もあるから難しいところ。自然や風景と調和する建物も人心すべてとの調和を満たすのは難しいってことで。

 しかし喋れば喋るほど島田洋八さんの声に聞こえる安藤さん、前日に訪れた森喜朗前首相がパリに出来るはずの「ピノー美術館」の模型を見て「東京も良くなるねー」と言ったことを挙げつつ「説明とかよく見ようね」って話してくれて、いかにも森さんらしーと笑う。あと興味深かったのは、「雑誌を買え、現場を見に行け」って言っていたことで、「『新建築』でも『SD』でも建築雑誌を買いなが、らその時に思ったこととか気づいたことを書き込んでいけば、4年で48冊分、自分の知識になる。インターネットにつなげば情報はあふれているけれど、それはキミらの知識じゃない。自分で知識を持たないと建築家にはなれません」とゆー言葉には、独学で建築を学び、現場を踏んでそこからイメージを膨らませて「住吉の長屋」とか作った安藤さんならではの信念が伺える。

 サイン入りで売られてたカタログにも蜷川幸夫さんとの対談で、「事務所内でコンペをします。私も案を出すんですが、たいていは私が勝ちます」「というのも僕はクライアントにも会い敷地も見て、臨場感があります。スタッフにはそれがないんです。彼らは紙の上で考えるだけですから、燃えてこないんでしょう。こちらは燃えていますから、多くは勝ちますね」って言っていて、現場を見ないで設計図を引く人がいるんだなー、なんて思うのはそれとして、結構な立場になっても率先して現場を踏む安藤さんのフットワークの軽さに感嘆する。「世界貿易センタービル」の跡地に誰からの依頼もなく提案した円形のモニュメントを考える時も、あの現場に立っていろいろと考えたのかな。


【4月4日】 何かの日。でも休日じゃないのは差別よね。改めで読んだ少年画報社版「ゆめのかよいじ」(大野安之、少年画報社、480円)で最後の章が角川書店版ではまるまるカットされていることに気づく。少年画報社版の最後は、宇宙へと進出した主役の宮澤真理に連なる少女やその世代が地球の自然を大事には思いつつも依存からは脱却して、はるか彼方へと向かうエピソードになっているけれど、角川版ではこれがまるまるカットされていて、少女だった真理が老いた未来に孫娘を相手に見えなくなってしまったスピリチュアルな存在のことを教え諭す姿を通して、自然への慈しみを感じさせて終わっている。人間と移ろう自然や古いものとの関わりが主題になってる話として見れば、少年画報社版のラストは整合性に欠けるかもって思えないこともないけれど、過去をふり払い未来へ宇宙へ彼方へと進む勇気を伺わせてくれるって意味で、あって決して悪いラストでもないからなー。難しい。絵についてはやっぱ昔のバージョンの方が可愛くって好き。高くても救出して正解だったってことで。角川版を早く掘ってもっと詳しく比べてみよー。

 新年度入りして朝の電車とか昼のオフィス街が新入社員であふれかえって春休み中の学生と合わせて電車なんかは時に大変なことになっていたりするんだけど、ピンク色青色のナルミヤンな女子小学生の派手な割には流行に乗ってるだけの実は無個性だったりするのも去ることながら、新入社員連中の揃いも揃ってネイビー系のいかにもリクルートに使いました的スーツ姿の揃いっぷりも、突出を許さない空気をしっかと噛みしめ無個性に振る舞っておくのが吉と考え行動する、この国の住人の横並び意識ってゆーか長い物には巻かれておこうって意識の根深さを目の当たりにしているよーで頭が痛くなる。

 別にピンストライプのダブルを着ろとかピンクに裏地は緑のラメのを着て行けってんじゃなく、例えばグレーでもライトな色とか茶色の濃い色とか、スーツにはいろんな種類の色があって決して下品にも見えなければ気取っても見えない上にちょっぴりお洒落な感じを表現できるのに、そーした色を選ぶよりもとりあえずビール的な感覚でとりあえずネイビーなスーツを選んでしまうのは、プラスを狙うことよりもマイナスを恐れる気持ちの方が先に立ってしまうから、なんだろー、きっと。まあネイビーでもタイの色とか柄で遊んでみるとか、靴と鞄と勿論ベルトも茶で揃えてみるとかは可能だろーから、おいおい工夫をしていってもらいたいところ。でも髪の毛を茶色にしやがる奴は許しません、だって僕には不可能だから、ってつまりは私怨かい。

 没個性の極みといったら最近巷でファッショントレンドとして大流行しているマスクだけど(ファッションで流行している訳ではありません)、これがまた揃いも揃って白の長方形のガーゼマスクばかりで見ていてちょっと淋しい。例のSARSとかゆー謎の肺炎がひたひたと住民たちを脅かし始めていて、花粉症とか関係なしにマスクが必須アイティムとなっている香港なんか、身に迫る危機であるにも関わらず、かけるマスクは黒い色あり花柄あり、キティちゃんドラえもんのイラスト入りありヒョウ柄ありといった具合に多彩で多様。カップ型で通気孔の開いた「化学兵器防護マスク」っぽいものをスーツ姿に着用して会社とかへ通う七三分けのサラリーマンとかいたりする姿を見るにつけ、己が信じるものなら堂々と身につけて恥じることのない主張が感じられて痛快な気持ちになり、傾奇者として生まれたからにはこーしたマスクで丸の内大手町霞ヶ関を闊歩してみたいものだと憧憬に浸る。

 ならばとゆー訳で近所の薬局とか歩いてみたんだけどこれが恐ろしく没個性でどこい行っても長方形のガーゼマスクしか売っておらず、なるほどこれだったら誰もが同じ白いマスクを否応なくしてしまうのも分かるなあ、って気になる。かといってこれで諦められないのが人間って奴で、ここならと思って家の近所の「ロフト」に入るとおおこれは、「Dr.mask」ってゆーブランドの赤にピンクにネイビーにライトなブルーの派手なマスクが売っていて、おまけに裁断も立体形で着けた時にもずれない仕組みになっていたんで1枚1200円と高価だったけどネイビーの奴を買ってしまう。ここで赤を買えない自分の横並び意識にはちょっとだけ幻滅。

 もっともネイビーだからといってその他人との違いっぷりは鮮やかで、着けた上に防止を被って歩いていると誰もが暴走関係の人とか現金強奪関係の人といった目線でちやほやしてくれて、こっちもだったらそれならって気持ちになってついつい、サングラスを+して近所のコンビニとかに入って驚かせてやりたくなって来る。日本だったら驚くだけで済むけど(通報されます)アメリカだったら射殺されるな。とはいえ所詮は無地のミスターマスク、続々と入ってくる香港のニュースに出てくるキャラクターやら模様やらの派手に入りまくったマスクの足元にも及んでいないのが悔しいところで、ここは是非に日本の誇るあのキャラクター「アンパンマン」のキャラクターをデザインしたマスクを出して頂きたいところ。僕が買うのはもちろん「バイキンマン」入り、だけどね。

 ショタっぽいけど胸とちょっぴりながらる表紙にどっち系なんだろーと思いつつ、「風の十二方位」だなんてSFな人には耳ピンなタイトルにも気を惹かれて海野螢さんって人の漫画「風の十二方位」(フォックス出版、952円)を買ってしまう。つまるところはエロ漫画ではあるんだけど、絵が上手い上にお話の方もエロを見せまくるだけじゃなくって人間の存在意義とか他人をおしのけてまで生き残る意味だとかを考えさせてくれる話になってて、読んでいてジンとさせられる。フータって男の子が歩いていると少女が男と絡み合ってるシーンを見てしまい、そのまま観察していると少女相手にフィニッシュした瞬間に男が消えてしまった。何が起こったのか驚き慌てているフータに近づいてきた少女はパスカルと名乗り自分は吸血鬼で他人のDNAを吸収(だいたいの場合は精液になるけど)することで生きているんだと説明する。

 そんなこんなで知り合いになったフータとパスカルは、惹かれあうもヤってしまったらおしまいとゆー一線は超えずそれどころかフータの嫌がることはしたくないとパスカルはDNAの”食事”すら止めてしまう。当然ながら起こる体調の悪化。加えてどこからともなく現れたパスカルの妹らしー少女が人間を吸収するのは自分にとって当然とばかりに振る舞い、それが生きるためなら他人を奪っても良いのか、それとも多勢のためには1人が犠牲になるのもやむを得ないことなのか、ってな昨今の風潮とも重なる命題が打ち出される。絵の巧さ話の奥深さとそれからエロいシーンのエロさ(ロリ系ではあるけれど)が絡み合った、こーゆー漫画に馴れてない人でも読んで楽しめていろいろと感じ考えさせられる作品。タイトルのとーりにル・グィンの「風の十二方位」(ハヤカワSF文庫、800円)とは決して無関係ではないそーで、短編集に入っている「オメラスから歩み去る人々」とは当人的には裏腹な関係にあるとか。言われればなるほと通じる所もあったりするけど、その解釈が打倒かどーかは双方を読んだ人がそれぞれに考えよー。SFな人もとりあえずチェキ。


【4月3日】 どえりゃー(名古屋弁でとてつもなくの意)久しぶりに神保町の古書店「くだん書房」に寄ったら八百屋になっていた、訳じゃなくって以前から夕刻になると軒先に軽トラックで移動の八百屋が来ていたのが今日も店を開いていただけで、書店の方は軒を貸しても母屋は取られまいぞと頑張っているよーで、お客さんこそ1人もいなかったけどその分をゆったりと新しく入った本とか前から置いてある本を見ることが出来た、ってそれってお店屋さんにとってあんまり良いことじゃないじゃん。けどまあ古い漫画とかレアな漫画とかが通販でそれなりに掃けてるよーなんで店が大混雑していなくってもちゃんとやって行けてるのかな。しばらく前には見なかったエロ漫画系の肉筆原稿なんかも仕入れていたりするし。

 とりあえずババッと見てまず真っ先に「アニメージュコミック」が割に数あったのと、東城和実さん西炯子さんが結構揃っていたのが目に入って、ますますもって自分家の漫画の本棚に趣味として似てるっぽい所があるなー、なんてひとり思う。どーゆー趣味なのかは自分でも今ひとつ不明。超メジャーでもないけと超マイナーでもなく、かといって有象無象に埋もれて雲散霧消する程ヤワでもない独特にして孤高の漫画家さんたちにシンパシーを持ってるってことなのかな。加えるとあとは明智抄さんとかってなるんだけど明智さんは見えなかったよーな気が。始末人シリーズなんて今時読んでもひねくれ具合が面白いのになー。

 そんなラインアップからスラリと横に目をずらして飛び込んで来たのが前からちょっと気になっていた大野安之さんの「ゆめのかよいじ」(角川書店、1200円)の無修正版、って書くとイヤらいさ炸裂だけどそーではなくってほとんどのページを集成してしまったとゆー角川版が出るよりはるかに昔、少年画報社から刊行されてたオリジナル版って意味で、もちろん出た時に買ってはあるんだけど実家の方に置き忘れてあって掘り出すのは困難で、一体どこがどーゆー具合に修正されてるんだろーかと気になって、ブックオフとか探してたんだけど見つからなかった。よくぞ探してくれました、って所だけどそれだけにお値段も2000円と親書サイズのコミックスにしては良いお値段。でもまあ足じゃなく財布を使える大人な身でもあるんでこれくらいは出して当然、むしろ感謝すべきだと思ってる。ただなあ、どう変わっているかを比べよーとしたら今度は角川版の方が家のどこかに埋もれて出て来やしない。整理整頓は大事です。

 そうそう大野さんと言えば今となっては懐かしい「劇画村塾」って小池一夫さんが主宰していた塾の出身でその小池さんが確か自力で創刊した「劇画村塾」ってコミック誌にあの傑作「That’s イズミコ」を連載してたと記憶しているんだけど、実に多彩な才能を世に送り出しつつも惜しまれながら休止となったあの伝説の「劇画村塾」が、この6月に東北新社が運営しているワークショップ「映像テクノアカデミア」の1コースとして堂々の復活を遂げることになっていて、輩出されたメンバーの豪華さプロへの近さなんかを思い起こして、その後を襲いたいと入塾してみたい気に割とそれなりな強度でもってさせられている。

 年甲斐もなくとは思うけど、一応は年齢とか不問になっているんで応募は可能だしともすれば入塾の栄誉を得て学び晴れてデビュー、だなんて可能性もゼロに限りなく近いとは言え決してゼロじゃない。漫画家養成コースで40万円、作画家養成と原作者養成とゲーム作家養成が各30万円は子供にはちょっと出せない値段だけど大人買いしたって平気な世代にとってはボーナス1回分(はあるけど出したら他に何も変えないボーナスだから威張れない)にしか過ぎないんで、この不景気でお先真っ暗なご時勢に、一旗上げたい幼少の頃よりの夢を叶えたいっておじさんとその予備軍が、わんさと応募して競争率を上げてしまいそー。でも卒業できれば広がるプロへの可能性ってのにも尻尾引っ張られる気分だし。うーん躊躇。ってかそもそも努めながらで通えるものでもないんだろーから悩ましい。行くか留まるか。周囲を見回しつつ考えよー。

 それにしても新しい「劇画村塾」のチラシとか案内は、高橋留美子さんや堀井雄二さん、原哲夫さん、板垣恵介さん、さくまあきらさんといった面々は卒業生として紹介しているんだけど、今なお現役って意味では高橋さん原さんに引けをとらない(と思いたい)大野安之さんの名前が入っていないのが、かねてよりのファンとしては残念とゆーか勿体ないとゆーか。まあそれを言うなら大昔に「SFマガジン」に載った当人へのインタビューで「劇画村塾」出身だってことを話していた火浦功さんの名前もカケラも出ていなかったのは、本のあまり出ない火浦さんでは広告塔になりにくいって思ったから、なのかな。その辺を入学できたら小池さんに聞いてみよう。そもそも入学できる筈がないんだけど。

 ビデオ撮りしといた「宇宙のステルヴィア」の第1話。100年とか昔にどえりゃー事になった地球は今はそこそこ復興してて、でもってステルヴィアとかって所に何か学校があってそこに娘が旅立つって話しなんだけど、学校とはいってもどーしてそんな所に学校があって何を学ばせている所かが分からず気になる。そーした設定はおいおい明らかしていくことして、1話目では強気と不安、期待と迷いの交錯する子供の旅立ちを描いて見よーとしたんだとしたら、まあ成功してるって感じ。母親と罵倒し合った果てにお互い内心の悲しさを見せる場面、ギャグっぽ盛り上げておいてからホロリと行かせるのが常道なのに、バックのしんみりした音楽も含めて淡々と描いてあってあって、可否はともかく新しさを感じる。のほほんとしている割には30分が早いと感じたのは、「EUREKA」で青山真治監督が緩急を付けずに淡々と描写を積み重ねることで見ている人の時間を淡々としたペースに染めてしまい、3時間半を長く感じさせなかったのと同じ理由、なのかな。


【4月2日】 松井選手の活躍を知るために最近良く買う「東京スポーツ」に昨日の「豊田スタジアム」でのサッカーU−22日本代表対コスタリカ代表を観戦したフィリップ・トルシェ前監督が、自らをキャプテンと読んでくれと言っている川淵三郎日本サッカー協会会長と、それからジーコ現監督といっしょの写真に写って一緒に握手まで交わしていて、トルシェはともかく川淵キャプテンは内心どんな気持ちだったんだろーなー、と想像すると、その固い笑顔の理由も何とはなしに伺える。

 あれは「スポーツ・ヤア」だったっけ「スポルティーバ」だったっけ、ワールドカップが終わってトルシェ監督が退任した後、玉木正之さんと対談した川淵キャプテンが放ったトルシェへの批判の凄さといったらなかったから、もしもそれがトルシェへとチクられていて、誰かを骨折させた必殺のバストアタックでもって退治されるんじゃないかとビクビクしてたに違いない。もしかすると見えない足をトルシェに踏まれていたりするのかな。それで目線がジーコの方に向いているのかな。教訓、悪口は永遠に会わないと決めてから言おう。

 同じ「東京スポーツ」にしばらく前から「伝説系『激汁列伝』ジュースにラブ」って連載があって書いているのは清水りょうこさんって人なんだけど、今回取り上げている商品があのカゴメの「サイダー」だったから大笑い。何故笑うかといえばカゴメのサイダーを手に取ったことのある人には周知なんだけど、知らない人のために説明すればこの「サイダー」、缶に「サイ」のイラストが描かれているのです。サイダーだからサイ。サイだからサイダー。別に大っぴらに主張してもいなければ説明もしていない、実に自然体でいながらそこはかとない可笑しさを醸し出す商品になっていて、記事でもそーした可笑しさに惹かれた人がインターネットの個人ページで大勢言及しているらしー。

 その数およそ300ってことで、「カゴメ サイダー」でググってみたら本当に296サイトがひっかかった。人気です。ちなみに僕はカゴメの本社がある名古屋の出ながら名古屋で見たことはなく、知ったのは秋葉原のカゴメの営業所前だった記憶があるけれど、こないだ寄ったら「サイのサイダー」が入っていた自販機がなくなってしまっていて、ちょっぴり悲しい思いをした。他に見かける場所もなく、あるいは絶滅種入りしてしまったのかもしれないけれど、ここで評判になったことでカゴメにはもう一がんばりしてもらって、復活ののろしを上げて頂きたいところ。それでも宣伝とかせずひっそりと、こっそりと。それが「サイのサイダー」の可笑しさ面白さ愛おしさの原点なんだから。

 ここんとこ買ってるっていったらイラクの戦況に関する記事がさすがに詳しい「ニューズウィーク」もそのひとつ、なんだけど米国のメディアにしては「地上戦泥沼へ?」とかいった米軍をコケにしている風な見出しが載ったり、記事にも米国のジャイアンぶりラムズフェルドの直裁ぶりブッシュの純粋真っ直ぐ君ぶりを、揶揄ではないけど真実として紹介することによってやっぱりコケにしている風な内容のものが結構あって、イラクからワシントンからパリからロンドンから世界に張り巡らされたネットワークから上がってくる詳細で且つ深い内容も含めて”今”を理解するのに「AERA」よりも役に立つ、って当たり前か。

アシモ一家がジャクソン・ファイブを越える日も近い?  ただ気になるのはこーしたスタンスが日本版だから出来るのか、つまりは米国版は戦死した米兵英兵の遺体をまるで映さず戦況も詳細には紹介しない米国内のテレビと同様にそーした情報がスポイルされているんだろーか、ってことなんだけど米国版とか見ても見出しの意味も理解できなければ内容も分からないんで仕方がない。英語でもアジア向けと米国向けに違いがあって不思議じゃないメディアだから、その辺りどーなっているのかを誰か比較してくれたら楽しいかも。そうそう「ニューズウィーク」4月9日号は表紙をめくって4ページ目に「帝人」の「だけじゃないテイジン」ちゃんが全身にDVDを着けて登場していて、小間っしゃくれた感じが可愛いのはそれとして、やっぱりうっすらと眉毛が繋がっているよーに見えるのが実にキュート。抱き寄せて剃ってやりたくなる。そー思いませんか皆さん。

 「GEISAI−3」で3日前に行った「パシフィコ横浜」まで再びの遠征、今回は言わずと知れた「ROBODEX2003」を見るためで、到着すると報道受付にすでに長蛇の列が出来ていてイベントへの関心の高まりを目の当たりにする。すぐ前に見覚えのある人が並んでいて見ると瀬名秀明さんでした。挨拶しつつ中へと入って適当に見学、バンダイのブースには「ドラえもん」製造プロジェクトに向けた展示があったけど、ドラえもんを作るんだったまらまずは4次元ポケットとどこでもドアとタケコプターとそしてタイムマシンは欠かせないアイティム、なのにそーしたアイティムの実現に向けた具体的な提案がなかったのが気になった、ってそーゆープロジェクトではないってば。まあタケコプターくらいだったら大きささえ変えれば可能っぽいかもしれないけれど。

 大人数が詰めかけて賑やかだったデモンストレーションのスペースでは定番ともなっている本田技研工業のアシモが登場しては2体で障害物競走をしてくれたりして、なかなかに健気なところを見せていた。左右に分かれた手前の方の歩みがやたらとトロかったのは操縦していた人の責任かそれともプログラム上の性格みたいなものの違いか。ひとしきり2体で遊んだあとは原点ともいえる「P3」が颯爽と現れ2体のアシモを従え大名行列。さらには新型で2倍のスピードで歩くとゆー銀色の新型アシモも登場して、並んで観客に大アピールする場面もあって昔は足だけしかなかったホンダのロボットも、こーやって家族ぐるみで登場できるまでに育ったかと関係者でもないけど目頭を押さえる。2倍の速度で銀色だったら来年は3倍の速度で動く赤い奴が登場してくれると期待。もちろん作っているよねホンダさん。


【4月1日】 嘘の日。だけど今の出鱈目でいっぱいの世界で嘘を言っても虚しいだけなんでここは口をつぐんで嵐が通り過ぎるのを待つことにする。それにしても最近の甲子園は凄いことになっているなあと実感、だってあの名脇役、花沢徳衛さんがひとり甲子園のマウンドに立っては向かう相手をばったばったとなぎ倒し、ベスト8だかまでコマを進めるんだから驚くばかり。1911年生まれだってゆーから今年で92歳になるってゆーのに、16歳17歳の若い子供にまったく引けをとらず延長を戦いきって翌日の再戦へと持ち込む辺りはさすが気骨の明治男、鳶の頭の深川金太郎を地で行く江戸っ子ぶりだと恐れ入る。こんな男に勝てるとしたらそいつは「ひらり」で石田ひかりのおじいちゃんを演じて金太郎と丁々発止のやりとりを魅せた島田正吾さんしかいないんだけど、さすがに今年のセンバツには選ばれていなかったからなあ。来年は見たいぞ「花沢徳衛vs島田正吾」。勝負はどちらかが逝くまでだ。

 間違えた花咲徳栄だった。こんな名前の高校に通ってる生徒っていいたいどーゆー気持ちなんだろう。俳優学校って間違えられるのかな(られません)。まあそれを言うなら今でこそ耳に馴染みのあるPL学園が甲子園に出始めた頃、いったいどーゆー学校なんだろーかと子供ながらに頭を悩ませた記憶があって、もちろんPL法なんて言葉のなかった時代だからむしろLPガスとかいったものから連想する、ふつうとは違った学校なんだろーかと思ったよーな思わなかったよーな記憶があるよーなないよーな。もっともPLの名前を強く印象づけられた試合が確か桜美林を相手に決勝を戦った76年の甲子園で、その時はPLのパネル応援もさることながら桜美林の「イエスイエスイエスとーイエスイエスイエスとー」(オフ・コースとは関係ないです)といった普通の学校ではまず聞けない歌詞の校歌の方が強く印象に残って、世の中にはそーした宗教に依って立つ学校ってものがあるんだと理解するきっかけになったっけ。今の小学生が「花咲徳栄」って名前の学校を覚えて将来に何を思うのか、ちょっと興味があるところ。さよならを打たれマウンドに仁王立ちで燃え尽きた花沢徳衛さんの姿に男の浪漫を見た?(見ません)

 初打席でホームランでも打たれた日には広告業界担当には広告的な価値はどれだけ当たったとかホームランがぶち込まれた看板のスポンサーにはどれだけの影響があるのかとかいった記事を書けとの指令が飛び、映画担当にはこれで冬の新作「ゴジラ」の観客動員数がどれだけ増えるのか、家電担当にはこれで衛星放送を見たがる人がテレビとチューナーを買いに走るのか、ロボット担当には松井級のホームランを打てるロボットを作るにはあと何年かかるか、重機担当には地元で父親が昔努めていた小松製作所の株価がどれだけ上がるか、それぞれに取材して書けってな指令が下るのかと恐々としていたけれど、残念とゆーか良かったとゆーかニューヨーク・ヤンキースで晴れてメジャーリーガーとしてデビューした松井英喜選手は1打席目でヒットを放って打点を上げるに留まって、それだけでも存分に凄いことではあるんだけどまあ、それなりに大騒ぎはしないでも批判するには当たらない成績を残してホッと胸をなでおろす。だが安心はしていられない。最初の試合はダメでも第2、第3の試合はきっと訪れる。ゴジラが引退するまでメディアは戦い続けなくてはならないのだ。第1号とか日本企業の看板に当てないでね。

 上品とゆーかエレガントとゆーか、火曜日ってことで発売された「週刊サッカーマガジン」に「週刊サッカーダイジェスト」の2003年4月15日号は日本代表とウルグアイ代表との試合を総括はしていても、ジーコ監督に失格の烙印は押していないし正面切っての批判すらしていなくって、むしろ自在にやらせてもらっている中で選手が自分の役割を認識せず、他人と話し合うこともなく支持待ちでいることを中田英寿選手の激なんかを引きながら叱咤していて、どこかジーコ監督は評価のらち外に置かれているよーな印象が残る。だったらトルシェ監督がどれだけサッカー週刊誌に批判されてたかってゆーとその当時はあんまり読んでなかったから分からないけれど、3度やってベストメンバーで疲れた相手に結果を出せない監督への、正面切っての提言が行われていない現状はちょっぴり淋しいとゆーか欲求不満とゆーか。いっそだったら来日中のフィリップ・トルシェ前監督を捕まえて采配を聞けば下衆な面白さは出るんだろーけど、トルシェだってまだ滑り出したばかりの後任を批判するのはエチケットに反すると思っているだろーから諦めよー。それにしても本当にトルシェ氏、キャプテンを自分を呼ばせる日本サッカー協会の川淵三郎会長を表敬訪問するんだろーか。あれだけ散々コキ下ろした相手に真顔でお礼を言われてめいっぱい恥ずかしがれよ、なあキャプテン。

 相変わらず芝生が酷いなあ、とか思いながらテレビ越しに見た「豊田スタジアム」でのU−22日本代表vsコスタリカ代表は放送席にトルシェ前監督、別の場所にジーコ現監督と新旧の日本代表監督が居並ぶワールドカップ以降で初の顔合わせになった訳だけど、別に近寄って握手する訳でもなく試合開始前に握手があったかも分からずスポーツ新聞とかサッカー専門誌の報告が気になるところ。それと間に挟まる形となった山本昌邦U−22代表監督の行動とか。本で悪口言いまくってた山本さんだけどトルシェにこれまたどんな顔をして会ったのか(それとも会わなかったのか)に興味津々。試合の方は何てゆーか見ていて圧倒感もスピード感も浮かんでこない、前に見たアジア大会での試合ぶりと大差も成長も伺えない内容でこんな彼らが出てくる5月のバングラデシュ戦とか果たして、見に行くべきか迷う。まあ時間があったら当日にでも潜り込もう、きっと余っているだろーし。むしろ注目は土曜日に平塚で行われる湘南ベルマーレとサンフレッチェ広島の試合。トルシェ氏がサミア監督を激励に訪れるなんて話もあるんで見に行こーかな、「でじこ」マークの今は懐かしいプラクティスを着て。


"裏"日本工業新聞へ戻る
リウイチのホームページへ戻る