縮刷版2003年10月下旬号


【10月31日】 あの娘をチネリにしたくってコルナゴしたけどジャイアント、ってな感じに意味のまるで通っていない「日本自転車ショー歌」(自作)を勝手に口ずさみながら「東京ビッグサイト」で開幕した「2003東京国際自転車展」へと出向いて、タカラがヤマハ発動機といっしょになって作った電動ハイブリッド自転車の「ビープラス」を見物する。ヤマハの「パス」にオフロードバイク風の味付けをしたって奴で果たしてどれくらいの味が出ているのか確かめたらこれがなかかななもの。100台限定発売ってゆープロトタイプの「ビープラスDT」は元ネタになったベストセラーのオフロードバイク「DT200R」に独特の赤と白のカラーリングがちゃんとされていて、ヤマハから借りてきた「DT200R」と並んで置かれて懐かしいとバイクに群がる中高年の来場者の目をぐいっと引きつけていた。この勢いなら売れるのもきっとあっとゆー間だな。

 スタンダードタイプもカラーリングこそ単色でおとなし目だったけどペダルとかピラーとかは自転車なんで自分でいかよーにだっていじれるし、サドルも変えよーと思えばどんなタイプのにだって変更可能。ブレーキを強化しフロントフォークをサスペンション付きのに変えたりすればそれは立派なオフロード風電動ハイブリッド自転車に仕上がるって寸法で、100台限定のDTを買えなかった人でも1台求めていろいろ改造してみるって楽しみはありそー。ちなみにヤマハのブースでは「DT」アレンジのタカラバージョンとは別にヤマハがアレンジした「YZ」バージョンの「ビープラス」が展示してあって、市販とか考えてないだけあってカウルのデザインとかサスペンション入りのフロントフォークとかなかなかの凝りよーで、これをこのまま出してもファンが飛びつきそー。「DT」が売れればもしかしたら考えてくれるかな。

 全体を見渡して「ビアンキ」の姿が見られなかったのがファンとして残念なところ。一方で「ピナレロ」があちらこちらで見られたけれどもしかして人気なんだろーか。「デ・ローザ」に「コルナゴ」に「チネリ」のイタリア御三家もちゃんとマシンは出していたけど去年だったか一昨年見たく「フェラーリ」仕様のあれはコルナゴだったっけ、話題を集めそーなマシンが少なく全体に静かな印象を受けた。ディレーラーが並ぶ「シマノ」と「カンパニョーロ」のブースで「デュラエース」に「レコード」をながめて垂涎。自転車にはまるで乗らないけれどかつて「サイクルスポーツ」をながめていつか自転車に乗って颯爽を駆ける日を夢見た見にとって、両ブランドは瞼を閉じても浮かんで消えないスーパーアイティムだったんだよなー。ってか当時は「カンパ」が飛び抜けてたんだけど、今はこれが並び立つくらいになっているんだよなー、シマノ頑張ったなー、サンツアーは消えちゃったなー。

 じっくりと見ればいろいろ発見もあったんだろーけど時間もないのでぱっと見で退散。ザク仕様のマウンテンバイクとかもあったけど色だけザクじゃーなー、チューブを外とかに出さなきゃなー、赤で角つけなきゃなー、なんて妄想する。あとデザインは何の変哲もないんだけどロゴが「ストライカー・ジーコ」なんてなってる自転車を発見して思わず確認。どんな走りをするのか乗ってみたくなる。型にはめられるのが大嫌いで交通法規とか大の苦手で道路の右側を走ったり信号が青なのに直前止まってマルセイユターンとか披露して見せたりするのかな。

 プレス登録の時にもらった自転車店の経営リポート集みたいなムックに紹介されていた「神金自転車」ってところの記事にユーザーとして高千穂遙さんが紹介されていたのにちょっと吃驚。ご本人の日記では散々っぱら自転車への傾注ぶりが披露されて中で神金自転車も行きつけの店としてひんぱんに登場するんだけど、そーしたユーザーから見た自転車店とゆー構図が逆転しても店から見たユーザーとして、高千穂さんは大きな存在だってことが伺える。ちょっと羨ましい。代表作が「ダーティペア」でも「クラッシャージョウ」でもなく「神拳 李酔竜」ってのが微妙。古いファンだと前の2作が来るんだろーからきっと若い書き手なんだろーな。

 高千穂さんと言えば「クラッシャージョウ」のシリーズにいったい何年ぶりかってゆー新刊「ワームウッドの幻獣」(ソノラマ文庫、552円)が登場。ジョウにアルフィンにタロスにリッキーにドンゴのチームが今回挑むのは、銀河でも有数の資産家の2人が「ワームウッド」って星で幻の獣を狩るのをガードしろってゆー任務で、何でもそのワームウッドって星は発見されて以降、大量の人員が送り込まれたものの誰1人として生還したことがなく、そんな仕事を任されたクラッシャージョウのチームには一瞬の同様が走る。けれどもそこは主人公にしてヒーローのクラッシャージョウ、強い心でもってワームウッドなる怪物へと敢然と立ち向かっていく。

 冒頭の大虐殺のシーンがいったいどこへ行ってしまったのだ、って意見を最初は呼びそーだけど読み進むに連れ内容とのリンクが生まれおまけに本編の物語に大きな影を落とすよーになっていて、昔も今も変わらない筋立ての巧さに強く感心させられる。印象としてジョウの役所が記憶にある昔のよーな前へ前へと飛び出し突き進む主客的な立場じゃなく、何かが起こり周囲が動く様子を受けてリアクション的に動く超越的な立場になってしまっている感じがあるけれど、これって前からだったっけ、時間を見つけて読み返してみよー。新登場したジョウの幼なじみの3姉妹が構成するクラッシャーとのいろいろな関係もこれから起こりそーで楽しみ、とくに姉妹の1人のルーとジョウの関係とか。アルフィンのぶち切れる様が抱腹を呼びそーで今から新作に強い興味を抱く。けど果たして一体いつ頃出るんだろー、10年後? 生きてるかなー。

 よく分からないけど回状が来てたんで謹んでお受けして「京王プラザホテル」で開催された「日本SF作家クラブ創立40周年記念パーティー」を見物する。小松左京さんが挨拶に立ってさてはて一体何分くらいかかるのか、10月1日の「小松左京賞」の時はシンプルだったから話も短くなって来たのかな、なんて思ったらこれが大外し。「日本SF作家クラブ」を立ち上げた時代から始まり星新一さんより背の高い人は入れないって掟がかつてはあって、なのに田中光二さんが入って来たんで足を詰めろとかってことになったって話に行き、100億円の予算で作られ2年待って15分しか使えなかった20年だか昔のコンピュータの性能が今は格段に上がってそれも22万円だかで使えるよーになったって話をしては昔を振り返り今を語る、

 鬼籍に入った草創期のメンバーをいたこで呼び出しついでに行きつけの飲み屋のママさんだった人も呼び出そう、なんて話をあっち飛びこっちに戻りつつだいたい15分くらい喋っていたっけ。他にも筒井康隆さんは紫綬褒章を取ったけど、SFは直木賞を未だ取れないでいることとか話たりして、一向に帰着する場所の見えない話にもしかして倒れる人とか出るんじゃないかな、なんて心配したけどそれを言うなら話をしている小松さんの方が大変な訳で、舞台を見、会場をながめつつどこまで続くのかハラハラしながら戻ってこない話に耳を傾ける。それでもさすがにコンピュータ付きブルドーザ、聞く話は聞いたことのあるものも含めてどれも面白く、その場にいてその話を聞ける行幸に恵まれたことを感謝する。来年の「小松左京賞」でもお目にかかれることを祈念。


【10月30日】 陸続と今敏さんの長編第3作目となる監督作品「東京ゴッドファーザーズ」の試写鑑賞報告が今さんのページとかに上がってその絶賛の嵐に早く見たいよおおおと身もだえする今日この頃。「東京国際映画祭」でも上映するそーだけどどーせ、チケットとか取るのって手間かかりそーだし、待っても18日からは一般公開なんでそれまでは買ったばかりのムック「東京ゴッドファーザーズ」(宝島社、1100円)でも読んで情報をちくちくと仕入れてさて、演出のひとつひとつ背景のすべてに至るまで”意味”を持って描く今さんの意図を見過ごさないよー目と頭の準備をしておくことにしよー。

 ムックはコンパクトなサイズで値段も今時にしてはリーズナブルながらも中身はギッシリとゆー良心のカタマリのよーな本。声優として起用された江守徹さんに梅垣義明さんに岡本綾さんへのインタビューはもちろんシナリオ音楽背景といった主要なスタッフへのインタビュー、東京の街並みをリアリティを持たせて再現する際に必要となった東京の街並みを写した写真群、そして今さんと言えばレイアウトまでしっかりとられたそれ撮影したってアニメーションになりそーな絵コンテといったものをしっかりと抑えつつ、ラストに今監督の長いインタビューを持ってきて、これまでの2作と変わらない確固とした”意志”を隅々まで行き渡らせる作品作りのスタンスを余すところなく語らせていて作品を観る際にとっても参考になりそー。下の脚注も細かくって的確で情報量も豊富。作った人はきっと大変だったろーなーと想像する。

 その作った人はアニメーション評論にこの人ありの氷川竜介さんを筆頭にした強者揃い。「東京都が認めたアニメーション評論家」として広く世に知られ、近く本も出すらしー藤津亮太さんが「東京ゴッドファーザーズから連想するクリスマス映画と赤ちゃん映画」を並べつつ語る評論を寄せていてなるほどこんな映画もあったのかを勉強になる。そっちに寄ったためか公開前ってことを配慮したのか「東京ゴッドファーザーズ」の場面場面に対する細かい評論はされていないのが惜しいところ、だけどこれは公開された後にでもどこかの媒体できっと発表してくれるだろーと期待しておこー。っても「アニメ評論」を長く乗せる媒体なんってそんなにないからなあ。「CUT」とか「ロッキング・オン」系に進出しないかなあ。

 夫がリストラにあって失業保険も切れたのに仕事も探さず家で酒ばかり飲んでいる妻。娘は中学生の癖に携帯電話で月に何万円も使い息子は引きこもって家から1歩も出ない親。犬が好きで飼ってはいるけど本当は団地だから飼ってはいけないことになっていて散歩に連れ出す時もうるさいご近所に見つからないかとびくびくしている主婦。夫は愛人と駆け落ちした挙げ句に旅先で死にひとり息子は都会へと就職したものの気が付くと失踪して行方触れずになっている母。そして新居さえあれば悩みのすべてが解決すると信じて競売物件を落札したのにそこには主婦がひとり居座って出ていかず、主婦は主婦で出て行くにもお金がまったくないため出ていけないという、そんな状態にある人は小倉銀時の「マイ・ハウス」(産業編集センター、1500円)を読んではダメだ。

 哀しくなる。笑いたくなる。切なくなる。逃げたくなる。叫びたくなる。黙りたくなる。とにかくありとあらゆる感情が湧いて頭を破裂させ、気持ちを揺さぶり慟哭のなかに身を沈めたくなってしまうから。自信、投資の失敗で家も資産もすべてを失ってしまった作者がその時にふっと沸いて出た感情を、文字につづって話を作って応募した短編が「自由都市文学賞」を受賞して田辺聖子さんに認められ、そこより曲折を経て一段のボリュームアップを施されて登場。安らぎのある家庭を持ちたかったという2人の女のささやかな希望が不幸にも真正面からぶつかりあって起こる悲喜劇が、家庭のどこかにほころびの見えかけている虚ろな人、未来にそこはかとない不安をかかえている寂しい人の気持ちにじわりじわりと染み、やがて苦笑の中に絶望を、落涙のなかに懺悔の気持ちを巻き起こさせることだろう。だから読んではダメだ。けれども読まなくちゃダメになる。不安を自信に変え、怯懦を勇気へと変えるためにも意を決し、心を強くしてページを開け。大型新人。圧倒のデビュー。束芋さんの装丁、格好良いっす。

 「ホテルニューオータニ」で開催された発表会で、バンダイから11月に出る「新世紀エヴァンゲリオン2」ってゲームが決して過去に「NINTENDO64」向けにバンダイから出た訳わかんない系の「エヴァ」ゲームの続編じゃないってことを説明されてなるほどと思いつつ、2年ぶりくらいに実物を見た庵野秀明さんが髪型もすっきりとして髯もちゃんと当たられていて身綺麗になっていたのに”愛”の素晴らしさを感じる。それはそれとしてゲームはアルファシステムの芝村さんが手がけただけあって相当に面白そー。気分としてはすでにイジリの段階にはいってオモチャにされることに慣れきっていた「エヴァ」を、再びアニメーションのシリアスな世界へと引き戻されたことで、繰り広げられる真面目な展開にいささかの気恥ずかしさを覚えてしまったけど、家でひとりプレーすれば8年も昔のあの時代へと戻って、画面から叫ぶアスカの怒鳴り声なりささやくレイのつぶやきに、身も心もとろけさせてしまうんだろー。病の根は深い。

 30分で終わって質疑応答もなかった会見の後に徒歩でえっちらおっちら「全日空ホテル」へと向かい「CESA GAME AWARDS」を見物。去年に引き続いて今年も「GAME AWARDS FUTURE」なんてタイトルで、先だって開催された「東京ゲームショウ」に出展されていたた、これから発売になるゲームに対してユーザーから感想を募りつつ、評判の良かったものに授与する賞を実施していて、その性格の不可思議さに微妙な感じを抱く。端的に言えばどこの映画祭で予告編に賞を出しているんだ、ってことで完成品としてマーケットの判断を仰いでこそのコンテンツなのに、それを事前の評判が良かったからと賞をもらったって、果たしてクリエーターの人で嬉しいものなんだろーかどーなんだろーか。

 認められたってことで嬉しいのかもしれないけれど、それでもやっぱり事前のお墨付きでもって店頭でのセールスに色を付けようってコンタンが背後に伺えてしまって悩ましい。放っておいても売れそーなタイトルに期待賞を出すよりも、売れなさそーだけど実に画期的だったり意欲的なタイトルを探して業界があげてプッシュすることで、マーケットの幅を広げてそれが結果としてゲーム業界全体の活性化につながる、なんて構図を餡が得た方がより有意義な気もするんだけど。本賞の方は「太鼓の達人」の新作とそれから「ファイナルファンタジー11」が最優秀賞を獲得。分かりやすいけど市場を広げた「太鼓」に和製オンラインRPGのパワーを見せ杖kた「FF11」が受賞するのは当然だけど、ゲームシステムなりジャンルなりに新機軸を与えたってものでもないからなー。これもゲーム業界が揺れ動いててなりふりかまっていられなくなっている現れか。

 ぶらりと「電撃ゲーム3賞」の授賞式。今年の小説の大賞作品は神林長平さんっぽいゆるやかに滅び行く人類の姿を描いているっぽい作品みたいで期待。パーティーでは電撃系の作家さんの姿を遠巻きに眺めて観察。なるほどこの作者がこの人であの作者があの人なのかと理解する。最近は似顔絵とか子供の頃の写真とかを載せて顔を出さない人がいるからこーゆー機会って有りがたい。けど観ても3歩歩くと忘れるんで来年に再びながめて観察してそー。社長の人の挨拶だと多いときで「電撃文庫」は月間100万冊とか売れているらしく、いったい誰がそんなに売れているんだろーと考え、近くにいた知り合いと顔を見合わせ共に出た言葉が「ドクロちゃん……」。なるほどドクロちゃんは撲殺天子ならぬ電撃救世主だったってことなのだな。つまりはエスカリボルグの威力はやっぱり凄かったってことなのだな。ぴぴるぴるぴるぴぴるぴー。鳴らせば出版不況も裸足で逃げ出す。


【10月29日】 近所の「ローソン」でカルビーから復刻された「仮面ライダースナック」を買って何故か2枚も入っているカードを見たら「ガラガランダと戦う仮面ライダー」に「変身する本郷猛」のカードが出て嬉しいのかあんまり嬉しくないのか微妙。ってかどちらもその昔に出ていた時に食べた「仮面ライダースナック」で見たことある絵なんで目新しさを感じないんだよね。でもラッキーカードでもらえるアルバムは欲しいかも。

 青をバックにサイクロンで走るライダーの絵が描かれたデザインのアルバムも実物を見たことがあるけれど、同じ数だけ「ライダースナック」を食べて、生年月日の同じ弟は何枚もラッキーカードを出して今回復刻されたアルバムもゲットしてたのに、僕は1枚も「ラッキーカード」を出したことがなく、従って見たことがあるデザインでも自分の物ではなかったりする。その悔しさが今の欲望に繋がっているのかも。それにしてもガキの頃からラッキーの量に差があったってことで、それがあっちは妻あり子あり持ち家で車付き、こっちは独身で六畳一間に本に埋もれて寒さに震えながら命をつなぐ暮らしとなって今に現れていたりする。これはいったいどーゆーことだ。そっと手を見る。幸運線がない。今回もラッキーカードは出ないな絶対に。

 近所の本屋で角川書店から出た藤原カムイさん画による漫画版「ウルトラQ」(角川書店、800円)を買う。って「仮面ライダースナック」に「ウルトラQ」とはいったい今は1960年代なのか昭和40年代なのか。こーも昔の名前で出ています的な商品が巷に蔓延ってくると、過去のコンテンツを掘り起こしてはそれを見て育った世代の子供とは違ったそれなりに潤沢な懐からお金をごっちゃり奪おうってゆー戦略になんてハマるもんかいって反発心も起こってくるけど、そーした反発を超えてキモチがくすぐられ、ついつい買い込んでしまうところに育った時代の厳しさ故に醸成された飢餓感が、何十年経ってもしっかりと心の芯に巣くっている現実を強く思い知らされる。

 とはいえカードはリバイバルな「仮面ライダースナック」と違って藤原カムイさんの描く「ウルトラQ」は番組から受けたわくわくドキドキとした気持ちをちゃんと感じさせてくれるよーなドラマが漫画で描かれている上に、「ウルトラQ」ならではの巨大な怪獣なり宇宙人が天を覆って屹立している圧倒的なビジョンを、藤原さんならではの圧倒的な画力とシンプルなタッチで描き上げていて、映像とまったく一緒とゆー訳ではないけれど、それなりに「ウルトラQ」に独特だった”あの感じ”を抱かせてくれるよーな気がする。

 もちろんリアルタイムで見て映像なりストーリーを克明に記憶している人は、明らかな違和感を藤原さんの漫画に抱くかもしれない。こんな由利子さんは桜井浩子さんじゃない、ってゆー意見もたくさん出そー。自分の場合はその点に関して言うと年齢的に「ウルトラQ」はリアルタイムで完璧に見たって訳じゃなく、うろ覚えの記憶の中に残された思い出が後生に入ってきた情報によって膨らまされていたりするんで、藤原さん漫画を読んでもあんまり違和感を感じないどころか、藤原さんの漫画でさらに思い出が補強されてしまって、こっちがデフォルトだったりするのかも、なんて錯覚すら抱いてしまう。

 むしろここから逆にたどって映像の「ウルトラQ」を見てみたいところで、ペギラってあんな感じにデカかったのかな、ケムールってこんなにスピード感たっぷりに走っていたのかな、ってところを漫画と比べて確かめたい。発売が決まっているらしー第2巻では「バルンガ」「悪魔っ子」「ガラモン」が登場で一応はそれが打ち止めになりそーだけど、願うならドラマとして記憶に強く残っている「変身」とそして「あけてくれ」を是非に漫画化して欲しいもの。そこに至るまでにはまずは第1巻が売れなくてはならない、ってことで「ウルトラQ」じゃないって思う人も「ウルトラQ」なんて知らないって人も、レトロな時代が緻密な筆で再現された傑作漫画と思って本巻を是非に1冊、買って差し上げてくださいな。

 茶木さんがレジ横に立っている本屋で西条八十さんの「人食いバラ」と横山美智子さんの「紅ばらの夢」と水谷まさるさんの「愛の賛歌」ってゆー少女小説を買う。今度はいっきに1950年代へと時代が遡ったぞ。ってもここまで来ると単なるノスタルジーではなく、資料的な価値も込みで欲しくなるもので、復刻にあたった唐沢俊一さんにはよくぞやって頂きましたと感謝の気持ちを捧げておこー。ゆまに書房からシリーズとして観光される「少女小説傑作選 カラサワコレクション」は以下続刊の予定で、それぞれに唐沢さんの解説とソルボンヌK子さんツッコミ付きの少女漫画が収録される予定。帯にも表紙にも「トリビアの泉」って唐沢さんと一般人的な認知の範囲をつなげる文句が入っていないのは刊行物の体裁からすれば当然だけど有りがたい。版元よくぞ堪えた。


【10月28日】 いぶんかコミュニケーションの人に取材して燃焼系は7回までちゃんと回転していることを知りピラミッドは日本の高校生だってことを教えられて吃驚してから河岸を変えて今度は小石川で凸版印刷が中国の故宮博物院向けにつくった紫禁城のバーチャルリアリティー映像を鑑賞。冒頭からもうホンモノそっくりに描かれた天安門が飛び出して来て目を見張ったと思ったら、門をくぐって中へ、中へとぐんぐん進んで行ってもちゃんとすべてが3DCGで描かれてあって、大昔に自分で歩いた故宮の広大な空間の感じが割にちゃんと再現されていることに深く感心する。

 ただのムービーじゃないのはコントローラーで操作するとちゃんと左右にも上下にも視点が動くことで、太和殿だかの前に置いてある灯籠みたいな中にある、度量衡の量を規定する升へと近づきのぞくとその升だけが浮かび上がって背後に説明の文字が浮かび上がるよーな仕掛けもあって、作り込んである上に勉強もちゃんとしてあることを確認する、って中国の故宮博物院と組んでるんだから当たり前なんだけど。勉強ってことでは太和殿の屋根の舳先みたいな所に並んでいる10体の動物もちゃんと造型してあって、近寄ると体表の模様まで見られるよーになっているのにもちょっと吃驚。普段は絶対に近寄れないところでもバーチャルなら屋根の上に乗ってぐっと寄れるところにVRの意義なんてものを覚える。

 その意味だと中にある天子が座る場所なんてものも皇帝がいた時代だったら近寄ることなんて絶対に無理な場所だった訳で、それを近寄った上に上から見下ろし俯瞰する、なんてことまでしてしまえるんだから素晴らしい。惜しいのは建物に主要な文物を再現はしてあってもそこに居たはずの大勢の人間についてはまったく除外されているってことで、空間は把握できても人間を含めた空気までは体感できないのが当時を知りたい人間にとっては不満の出る部分かも。まあ建物だけなら2ギガバイトいらない容量も、動く人間まで付けると途端に膨らむだろーから仕方のないところ。あくまでもパースペクティブを感じるツールとして利用する、ってことでそこから先は頭の中で「新・三國無双」だか「決戦」だかのキャラをひっぺがして組み合わせるなり、「ラストエンペラー」のシーンを思い出して妄想するなりして、バーチャルの紫禁城を人でいっぱいにするしかないんだろー。ちなみに映像は北京の紫禁城の中に出来た研究所で見られるそーだけど一般には未公開。実物の紫禁城を見に行ってVRもないから別に良いんだろーけど。

 突然のファクシミリで12月だかに出る予定だった「タイタニック」の980円のDVDが発売中止になったって知って唖然。あれだけ大勢の人を集めて大々的に発表会までした上に、放映する予定のCMまで見せて気分を煽っていただけに一体何があったんだろーと首をかしげる。妄想すれば自分の晴れの姿が10ドルに満たない値段でバラ蒔かれることにディカプリオが反発したとかあまりの安さに嗅い溜めたレンタル洋のビデオが動かなくなるからとレンタルショップが文句を言ったとかいった理由も浮かぶけど、聞いたところではいったんは発表したもののやっぱりと考え直して価格戦争へと突入するより別の方法でも当初ミッションとしていたDVDの普及に資する道があるのでは、ってことになって一気の980円は見送ることにしたんだとか。

 どこまで真相に迫っているのかは分からないけど、膨大な労力が注ぎ込まれて出来たコンテンツが、作品としての価値ではなくって純粋な価格の高安でもって売れたりそーでなかったりするよーになってしまうってのも悩ましかっただけに、考え直し踏みとどまってくれた理由にそーした作品への”敬意”があるんだとしたら嬉しいところ。まあいろいろと憶測を呼びそーな事態ではあるけれど、ここは値段競争じゃない部分でDVDの普及に向けた勝負をするんだって意思表明をした20世紀フォックスのホームエンターテインメント部門が、だったらどんな戦略を見せてくれるのかに関心を向けつつことの成り行きを見守ろー。やっぱりフィギュアを付けるのかな。それとも法被とか。

 つー訳で「キル・ビル」をよーやくやっと鑑賞、お・も・し・ろ・い、って極太マジックでB紙に1文字づつ書いて張り出したいくらいの楽しい時間を過ごさせてくれて、流石は話題になっている監督の話題になりまくってる作品のことだけはあると納得する。知っている人が見ればあちらの映画こちらのドラマからちぎり撮ってきたシーンなりセリフのオン・パレードに浸り爆笑苦笑に転げられるんだろーけれど、知らない人が見てもどこかオマージュと言いつつパロってみせた紛い物っぽいノリが感じられて、その匂いに「やってるやってる」って感じを覚えて頬がニマニマとユルんで来る。

 得体の知れない日本の描写だって苦笑する人も多そうな沖縄以降の日本パートだけど、言われるほどに無茶苦茶な日本描写があっとは思えず、なるほどオーバーではあるけれどあってそんなにかけ離れてないんじゃないか、って考える。あくまでも監督のクエンティン・タランティーノが昔見て好きになった日本のヤクザ映画チャンバラ映画のシーンからの抜き書きってことで、それはつまり日本にだってそーゆー日本観があった訳で、現実には存在してそーもなかった日活無国籍映画なり、鈴木清順監督的なスタイリッシュさと珍奇さが背中合わせになっているよーな画面構成なりが許されるんだったら、タランティーノ監督的な日本があっても別にいーじゃん映画なんだし、ってことになるだろー。

 「映画秘宝」の別冊の「キル・ビル」特集でタランティーノ監督が千葉慎一の服部半蔵は「影の軍団」の服部半蔵なんだと言い切り、かつて見て楽しんだ作品の心寄せたキャラクターを総動員して出したんだって主張していることからも、この映画が整合性なり正確性を追求するためのものじゃない、夢を詰め込んだプライベート・ドリーム・ピクチャーなんだってことが伺える。刀を持って飛行機に乗ることが許される世界、現実にはありえない世界なんだとあらかじめ認識させておきさえすれば、日本は刀を持って歩いていい場所なんだって誤解は払拭できる。そもそもタランティーノ監督の映画を見に来る人には、誤解じゃなくってタランティーノの理解なんだってことくらい先刻承知、むしろそれが楽しみなんじゃなかろーか。

 仮に誤解されたところでダメージを被るよーな嘘大げさ紛らわしいって感じの日本風はそんなになかったよーにも思うしむしろ、「オースティン・パワーズ ゴールドメンバー」の相撲取りの描写の方がよっぽど誤解をばら巻きそーな気もするけれど、それだって別に怒り心頭になる程じゃない。もっと根本的なところで殺陣のシーンはもーちょっと、スピード感だけじゃなく腰のあたりの重量感も出して欲しかったけどそれが分かるのはチャンバラに見慣れた日本人くらいだろーから、世界を前提にした映画でカンフー的な動き剣劇的な殺陣が混じるのも仕方がないってことにしておこー。

 役柄ではやっぱり栗山”GOGO夕張”千明さんは最高、「はあーい(ハート)」って現れてはガンダムハンマー(違う)を振り回し、時々蹴り飛ばしてはユマ・サーマンへとぶつけるアクションは演じる栗山千明さんの神秘さ120%な顔立ちとも相まって、ソニー千葉とユマ・サーマンとの寿司屋での会話シーンを上回って映画の中で強い印象を与えてくれる。セリフだって可愛かったりドスが聞いていたりと変幻自在だけど、これも日本語が分かる人が聞いてこそ、なんでやっっぱりこの映画を見て日本風のおかしさに笑えることも含めて日本人であることを喜ぼー。GOGO夕張には是非に「キル・ビル・サーガ」の中での復活をお願いしたいなー、頭撃たれたブライドが生きてるんだったら栗山千明だってルーシー・リューだって生きてたって不思議じゃない、よね。


【10月27日】 恵比寿のウェウティンホテルに記者発表を聞きに行ったついでに三越の「Papas」をさらりと見物、したらヘリンボーンのツイードやらフエルトの良い帽子が出てたんで何点か見繕った上でネイビーの濃いのってゆーかチャコールグレーってゆーか、そんな色のスポーツハットを1つ買ってしまう。冬用には一昨年だかに買ったのが1つあったはずだけど既に部屋のどこかに埋もれて発見できず、そのさらに数年前に買った「エディバウアー」の黒いのもヨレが出始めてたんで1つあっても害はない。早速、週末のパーティに被っていくことにしよう。

 それにしても数年前はあんまり見かけなかったハットがこの何年かあちらこちらにわんさと出まくるよーになったのは、日本人に帽子を被る習慣が戻ってきた現れかそれとも帽子を被らなければならないくらいに頭に難のある人が増えたからなのか。大昔、っても昭和20年代とか30年代の映画やニュースに出てくるサラリーマンならソフト帽で夏場だったらパナマ帽、下手すると和服のおっさんだってカンカン帽とか被っていたりしたよーに記憶しているけれど、それがいつの間にやらすっかり習慣として廃れてしまった感がある。「POPEYE」だったか何かの雑誌でジョン・F・ケネディが公衆の前でも帽子を被らなくなった辺りを境に世界的に帽子を被る習慣が後退した、なんて話を読んだ記憶もあるけどそれが事実かどーかは別にして、傾向としては当たってるよーな気がする。

 それがこの数年、スタイリストの影響か若い人でもつばが廻りについたハットを被って闊歩するよーになったし、ちょっとしたブランドでもそーしたハットを作って売るよーになって来た。すでにして10余年の昔から頭髪への難をカバーすべく帽子を欠かさなかった身としては、選べるブランドが増えて(クリスティとか高いんだよ)嬉しい限り。これがこのまま習慣として拡大していけば、これもある時点からあんまり見かけなくなった応接室だったり居間だったりに必ずあった帽子掛けまで復活しては、部屋のインテリアとして定着していくことになるのかな、もっとも昨今のファッションとしての帽子スタイルは部屋でも帽子を脱がないのが普通だから帽子掛けは不要なのかな。ちなみに当方が部屋でも帽子を脱げない(脱がないのとはちょっと違う)理由はひとえに輝かしいから。ゆめゆめひっぺがそうなんて思ってはいけません、目ぇ眩むよ。

 勧善懲悪の物語なんて予定調和で面白くない、なんてことがないのは「水戸黄門」とか「桃太郎侍」っていった時代劇を見ていれば分かることだけど、翻って考えてどーして予定調和なのにちゃんと楽しめるんだと言えば、それは「わたしたち」を代表するような一般ピープルのピンチを救ってくれたとゆー謝意を覚えたり、あるいはすぐそこにいる一般ピープルを救ってあげたとゆー優越感を得たりするからで、これがひたすらに「神様」なんてものへの奉仕を前提に、「神様」からの絶対的な力を得て成し遂げる勧善懲悪だったら果たして、感動したり面白がれるのかとゆーとなかなかに悩ましいものがあるみたい。

 ってゆーのは牧野修さんの「乙女軍曹ピュセル・アン・フラジャーイル」(朝日ソノラマ、533円)を読んで感じたことで、人間によって作られた特殊な力を持った擬人種が力を持ち擬人種を束ねて人間を襲いはじめて幾年月、すっかり追いつめられた人類の中に生まれた1人の少女が「神様」の啓示を受けて人類の解放のために王となる1人の少年を見つけ救い出すんだとゆー使命を得る。少女はやがて危険いっぱいのなかをたった1人で旅に出ては危険をすべて避けるなり、向こうから引っ込めさせる感じで目的地へとたどりつき、試練もあっさりと神の力で乗り越えては与えられた使命を真っ当しよーとする。

 何しろ神様がバックにいるだけにやることなすことすべてがオールクリアなスーパーヒロイン。群がる敵はなぎ倒し、ピンチになっても奇蹟が起こって悪は滅び去っていく。その勧善懲悪ぶりは美少女戦士ってゆー要素と相まって読む人を喜ばせてしかるべきなのに、ただひたすらに神様の言うことを信じ神様の言うなりになって突き進んでは敵をなぎ倒していく猛進ぶり、救おうとした相手が敵に慈悲の気持ちを示してもそれへの理解は神から与えられた使命の埒外と否定する頑固ぶりが目について、気持ちを彼女へと入れられず、人類の危機が救われそうになってもあんまり感動できない。むしろ狂信めいた存在への恐怖心の方が浮かび上がってくる。

 物語としてなるほど勧善懲悪をなぞってはいても、感動とゆー結果を沸き起こすためには大きく欠落した要素があって、それが読後感にいびつな印象を与えているだってことを、あるいは作者の牧野修さんは意図してこの小説を書いたのかもしれず、構造だけ、要素だけでは生まれ得ない感動への意識を、構造だけ、要素だけを順繰りに積み重ねていく小説でもって、逆に浮かび上がらせよーとしたのかも、なんて考えたけれどきっと勘ぐりすぎだろー。むしろ素直に甲殻類だとか怪物だとかいったクリーチャーのビジュアルと、物語ることによって確定する未来ってゆーSF的な仕掛けの斬新さを楽しみながら、美少女が仲間を得て戦い勝利する、その勧善懲悪ぶりそのスーパーヒロインぶりに”感動”するのが清く正しい読み方なのかも。純真無垢な少年少女が純粋な信仰がもたらす奇蹟の存在に気付くことを願うとしよー。それもそれでなかかなにキモチワルイ状況だけど。

 「ピルグリム・イェーガー」(少年画報社、524円)の第3巻を買って早速カバーをひっぺがして画の伊藤真美さん描くおまけマンガを確認、なるほど眼鏡っ娘は度の強い眼鏡を外すと目が「3」の字になってしまうとゆーのは本当だったのか。銀貨の連中が揃いいよいよスタンドのお披露目もかねたバトルが勃発か、なんて思って以降も連載分を含めて話はインサイドへと向かうばかりで敵は誰で主役のアデールとカーリンが何を目的に進んでいるのかがあんまり見えて来ないあたりに、読んでいて手探りで進む不安な感じを覚えてしまう。予定調和もあれで先を予想してそれがそのとーりに落ちていく楽しみってのがあるからなー。まあそこは「ヤングキングアワーズ」のこと、「トライガン」「ヘルシング」「ジオブリーダーズ」「エクセルサーガ」の”4大先が見えない長期連載”に倣って焦らずじぐじぐと進む展開を見守っていくことにしよー。それにしても「マルドゥックスクランブル」でSF界の耳目を集めた冲方丁さん原作なのにSF界隈でそれほど知られているよーには見えない作品だことよ。SFじゃないからなのか早川じゃいないからなのか漫画だからか何なのか。どっちにしたって読んで損なしの漫画なんで「マルドゥック」でウブカタづいた人は是非に。


【10月26日】 「ブラックゲマゲマ団」が出てきて間合いが良くなったけどその分うさだの出番が減ったと思っている人の数、100万人とかそんなもん。ついでの面茶兄弟の出番も減り気味だったけどそこはさすがにやすし兄ぃは偉い、リク元帥を相手に理由もなしに超久々の巨大ロボットで挑みかかっては不毛な戦いに終始してそれでまるまる半分を保たせてしまう存在感を発揮していて、1カ月分の出番をこれで稼いだんだなかろーか。前半の何か屋でのアルバイト話も落ちを含めて程良いまとまり具合。にも関わらず全国で10月から見られなくなった人の数、1000万人とかそんなもん? 悔しかろう辛かろう。けれども怒らずDVDを買ってあげてやって下さいな、それが未来に新たなる幸福の種となるのだから(と信じてもう何年、と思っている人の数……)。

 吹き出る頭の蒸気が天使の輪っかになったりするテンコのキャラの良さとかもあって小説書きとしてなるほど、とか思って手に取った最新刊の「トゥー・ザ・キャッスル」(スーパーダッシュ文庫、533円)を読み終える。なるほど、それはそれとして(それだけかい)、ってのも何なんでちょっとだけ、ドラゴンにさらわれた少女がドラゴンの少女と饒舌だけど謎も多い執事に寡黙な少年を引き連れ実家の城へと戻るお約束的なドラマに命の大切さについての説教が絡んだりと見かけによらず濃い喉越し。明るいなかにさらりと心を動かすメッセージが伝わる話に慣れ切った身にはちょっぴり喧しって感じるかも。胸の貧弱な口絵のマユリにゴルゴのイラストはポスターで欲しい逸品です。

 対する神野オキナさんの「あそびにいくヨ!」(メディアファクトリー、580円)は当人曰く「おっちゃん今度は狙っていくからね」とゆーだけあって表紙からして爆乳猫耳美少女で服はメイドじゃないけどその分ぱっつんぱっつんな感じで眼への毒度はハイレベル。おまけにそんな猫耳美少女が突然どこからか現れては冴えない高校生と同居するって展開に、誰もが期待するところが多いだろー。そんな期待をまるで外さず神野さん、宇宙から来た無垢な彼女にあれやこれやなことをさせよーとしてみせて、そんないい目に自分の遭いたいってゆー全世界のオトコノコたちの若い欲望へと強く働きかける。

 あまつさえ幼なじみの女の子をそれも意外な役所で登場させるは、転校して来た無口な映画好きの美少女に驚天動地の役柄を割り振るわともう大変。次から次ぎへと繰り出される難度Eの大技に目はでんぐり返り心は沸き立って、知らずぐいぐいとページをめくらされる。そんなキャラクターたちの言動だけでも存分なサービスになり得るのに、妥協を許さないスタンスが神野さんをして小説になおいっそうの奥深さを与えてみせる。

 すなわち出身地であり在住地の沖縄が持つ呪術的な風土を作中へと取り入れ、習俗を繰り込み食文化を混ぜ入れては沖縄とゆー場所への興味と畏敬の念を読む人にかきたてさせる。キャラといー展開といー背景といー戦闘シーンの迫力といー、過去に数多ある共用の3人の名義の中でもトップクラスに位置する面白さ。これをもってしてシリーズ化が計られれば、おそらくは代表作として、それもメディアファクトリーの文庫を代表する作品として後生に残りそーな予感もしてる。猫耳宇宙人と敵対する存在へのほのめかしなんかもあるんでその辺りをふまえた展開を期待して待とう。「悪運紅葉」ちゃんの活躍を是非に。「星魔の砦」の続きもな。

 給料は出たけどボーナスが不安過ぎるんで週末のJリーグは見送って無料で観戦できる「Lリーグ」の試合に浦和の駒場へと出向いてさいたまレイナスとスペランツァF.C.高槻の試合を見物。初めてのぞいた駒場のスタジアムは、「味の素スタジアム」ほどではないけれど「市原臨海競技場」よりはスタンドがバックも含めて高く作られグラウンドを見下ろしている構造で、レッズの試合が行われる時にはこれが真っ赤に染まってきっととてつもない迫力になるんだろーと想像する。実は京もレッズのホームでの試合があったよーだけど、会場が「さいたまスタジアム2002」だったよーで駒場は応援フラッグもなければ人も少なく静かなもの。 場所を間違えて駒場に来てしまった人がいたらその静けさに戸惑ってしまったんじゃなかろーか、実際に手にチケットを持った人が入り口で戸惑っていたし。

 上位下位に分ける前のリーグでも見たさいたまレイナスはゴールキーパーに日本女子代表でワールドカップにも出た山郷のぞみ選手がいたりしてそれなりの戦力。対する高槻は西日本が本拠ってことでこれまで見る機会がなかったけれど、中盤の底にかつて読売ベレーザで活躍して日本代表にもなったと記憶している高倉麻子選手が大ベテランとして試合を組み立てていて、さいたま相手でも引かずになかなかの展開を見せてくれる。前半は蹴り合い奪い合いの繰り返しで陽気に眠気も浮かんできたけど後半はともに鋭い展開からゴールへと迫り決定的な場面を何度も見せる好試合になった。

 セットプレーからそれぞれが点を入れていよいよ終盤とゆーところで、高槻に入った20番のおそらくは庭田亜樹子選手が良い動きを見せてくれていて、世代別での代表への選ばれっぷりからも将来は代表の中軸になれる選手かもって感じる。要注目。サイドから切れ込んで何度もセンタリングを上げてた高槻の背番号を忘れてしまったけど選手も良かったなあ。全体に圧してたレイナスが引き分けにされたのがお気に召さなかったのか、田口貞則監督は試合終了とともにベンチを蹴りマーカーをけ飛ばしてベンチからロッカーへと引き上げる怒りっぷり。これでやっぱり日テレ・ベレーザが上に行くことになるのかな、それとも田崎ペルーレか。来週はその2チームが駒沢で激突。上位リーグ最初の天王山になりそーなんで是が非でもかけつけよー。


【10月25日】 「はてな」が内輪化していることより毎週土曜の朝7時30分に目覚めてしまうのが習慣化していることの方が自分的には気になる現象だったり。でもってやっぱり目覚めた今朝の実写版「美少女戦士セーラームーン」は全体にコスプレ……じゃなくって変身したシーンのアクションが少なかったりしてちょっぴり拍子抜け。チキンウイングでお尻をみせて走り去るセーラーVちゃんも登場せずと見所って意味では少なかったけど、仏頂面だった火野レイちゃんことセーラーマーズが微妙にひきつりながらも見せてくれた笑顔が世知辛いどころかお先真っ暗な日々に一服の清涼剤となった。

 セーラームーン1人だけだったのがマーキュリーにまーずと人数が増えて来た関係か、変身シーンが早回しだか短縮版だかになって来た感じがあってレオタードではあってもくっきりと見ることの出来たボディラインをじっくりと眺められなくなったのが寂しいところ。これでセーラージュピターにヴィーナスまでもが混じって一同変身になったら1人2秒とかで処理されちゃいそーで、まだそれなりに間尺のある今のうちに綺麗な画像で録画しておくか、って思ったものの買って8年になるビデオはノイズが混じりで厳しい画質。3週間ほど前からビデオのリモコンが行方不明で予約録画もままならない状態に、いっそHDD&DVDレコーダーでも買うかと思ったものの現時点すら全額支給に暗雲の冬のボーナスでは厳しさ炸裂なんでここは、死にかかっているけどその分値段も安い「S−VHS」を1台買って撮りおくことにしよーかな、D−VHSの方が良いのかな。

 仕事に向かう途中の秋葉原でDVDビデオなど購入。買い逃していた「サブマリン707R」はすでに試写を見ていてどうしようかと躊躇していた作品だけど後半に期待でとりあえず購入。続きを見てぶん投げる可能性は……あゆみ次第か。北村龍平監督作品の「ALIVE」は劇場公開版のディスクにディレクターズカット版のディスクが別についた上にサントラCDまで入って5800円と大盤振る舞い過ぎる1本。おまけを付けすぎるってのは逆に本編に自信がないの? って勘ぐられる要素になりかねないけどそこは常にポジティブな北村監督だから、どっちも面白いぜって自信が2枚のディスクを並べさせたんだろーと理解する。内容? 見ていないから不明。りょうさんに小雪さんに小田エリカさんと日本が誇る3大仏頂面女優を並べた映画に果たして華はあるのか?

 あとルーティンで「ウィッチハンターロビン」のラス前とボディにぴちぴちっとした飛行服がなめまかしいタチアナ・ヴィスラのジャケットが良い「LASTEXILE」の4枚目を購入。「ルパン」は売ってなかったけど売り切れか未発売かどっちだ。会社で見ていたテレビで「ホンジャマカ」の恵が「ルパン」関連の小特集をやっていたから売ってはいるのかな。番組だと宮崎駿監督作品の「カリオストロの城」が大ブレイクのきっかけになったっぽい言い方をしていたけれどそんな事実あったっけ、逆にこれで宮崎監督の命運も尽きかけたんじゃなかったっけ。パイロット版のルパンの声が野沢那智さんに広川太一郎さんだったりしちゃったりした話に触れていたけどだったら4人の声が総とっかえになった「風魔一族の陰謀」を出さないのは何故だ? 実は今まで1度も聴いたことがなかったりするんだけど自分。

 うつらうつらとJリーグ「ヴィッセル神戸vs鹿島アントラーズ」をBSで。カズまだ出来るじゃん、大久保とやらより使えそーじゃん。試合はそれとして黒と白のビアンコネロなヴィッセルのユニフォームの背中が実は真っ黒だったことに今さらながら気付いて、これなら背番号で苦労しないと黄色い背番号の見づらさに世間からいろいろ言われてて、それが高じてかチャンピオンズリーグではビアンコネロの背中の中央付近だけを四角く真っ黒にベタ塗りしたみっともないユニフォームで試合に出ているユヴェントスも真似したら、って教えてあげたくなる。実際まるで背中にいたずらで墨ぶっかけられたみたいだもんなー、ユヴェントス。インテルもCL仕様は背中黒ベタになってたっけ、ナイキってレプリカ売る気、ないのかねえ。

お江戸日本橋を出立したサンバ隊は参勤交代の先触れとして大名より少し前を歩いたのです(小学校3年社会科教科書より)  飛び出て三越日本橋本店で開催中の「水戸黄門展」の物販コーナーだけをさらりと見物、純金の印籠が輝いていた。アルフレックス謹製「風車の弥七」フィギュアはなかなかに立派で夫婦セットともども欲しかったけど今日も手元不如意で見送り。町娘&武家娘も並んでいたんで「ワンダーフェスティバル」で見逃した人は買いかも、だけど展覧会の会期は26日まで、走れ。前の日本橋通りでは「江戸開府400年」を記念したパレードが開かれていてボーイスカウトだかガールスカウトだかの鼓笛隊が通ったり、子供だけのよくわからないダンスチーム(なのかそれともよさこいか)が通ったりした後に浅草からきっとかけつけたサンバチームも登場。羽根をつけたビキニ姿のパシスタ(ダンサー)たちがぐっと冷え込んだ上に日も落ちて肌に厳しいなかを全身あらわな格好で、腰をふりふり踊ってみせてくれて朝に不満だった欲求を何とか満たすことができた。

 全身ブラジルって衣装のダンサーとか見てその出るとこ出っ張ったボディラインに感嘆。Vゾーンをブラジル国旗に使われている円の模様(地球?)が覆っていたけどこれってブラジル的にありなのかなー、太極旗の真ん中やら日の丸の真ん中をVゾーンに張り付けるみたいなものだしなあ。全身あらわ系のパシスタに1人、男性のパシスタも混じっていて背中のタンガをたなびかせ、ムキムキって感じじゃなくスレンダーに引き締まった体にお尻を見せていていて集まったおばちゃんたちにアピール、していたけれど届いたかな。


【10月24日】 横浜で開かれている「A&Vフェスタ」を見物に行こーと飛び乗った総武線快速の中で吉岡平さんの新刊「コスプレ温泉」(朝日ソノラマ、495円)を読み始めてむぐむぐ。満員電車の中で吹き出しそーになって笑いをこらえるのに苦労したけどそれでも腹の底からせりあがってくる笑いが塞がれた口で詰まってのどもとでぐびぐびと鳴っていたかもしれない。隣のOLには気味悪がられただろーなー、タイトルも「コスプレ温泉」だし。

 ってもそれは隣のOLが”コスプレ”なるものの意味とか形とかを知っていたらであってごくごく普通に生まれ普通に育って普通に就職した人にとって「コスプレ」って言葉から浮かぶイメージが、どーして笑いにつながるのかなんて想像も及ばないだろー。「コスプレ温泉」で主役を張る乾岬23歳もおそらくはそんな1人で、ある日勤め先の「そげな銀行」へと行ったら国有化にともない全員解雇の憂き目にあい、それだったらと巻き起こった支店内のティッシュ&貯金箱争奪戦にも敗れて1人、昔見ていたアニメのテーマソングをついつい口ずさみながら公園をにへらっと歩いていたその時、近寄ってきたのが同じ支店の後輩にあたる竹川頼子。支店では地味で目立たない眼鏡の行員として知られていた彼女が、なぜか岬に目を付けあるイベントへと誘うのだった。

 それが大田区産業プラザとやらで開催されているコスプレイベント。最初は何も知らず刀を3本持った男がどーして存在するのか、男物のテニスウェアを着てラケットを持った女性がどーしてたむろしているのかが分からなかった岬も、実はコスプレ界の重鎮だった頼子の仕切りで衣装を着せられカメラ小僧の前に立つと不思議と気持ちが高鳴って来る。もとより”制服美人”と呼ばれていた岬のこと、みるみるうちにイベントでも有名なコスプレイヤーとなり遂には”おたくの甲子園”でありまたレイヤーにとって越さなければならない高い壁、夏の有明西館屋上での三日連続の難行に挑み、なおかつイベント主催者の夫とともにコスプレ界を仕切る女帝、火巫女を相手に挑むのであった。

 とまあこんな感じで始まった話も実は全体の半分で、以後タイトルにもある「コスプレ温泉」へと進んでいくんだけどとにかく描かれるレイヤーへの言及が3年半を自腹でイベントへと通い、調べただけあって読んで納得の面白さ。もちろん本当のレイヤーの人から見れば心理なり、生態なりに異論が出る部分があるかもしれないけれど、ちょっとばかりコスプレって何かを見知っている人間にとってはそれなりに研究がされているなって思えて、レイヤーについてもカメラ小僧についてもなるほどそーゆーしきたりで動いているんだって分かってなかなか勉強になる。

 それより興味深いのはレイヤーの常識すら超えかねないSF一党の生態への言及なんだけど、本編では詳細には触れられておらずただ「SF大会」を受けた旅館が今後は2度と開催したくないとぼやく部分があることから、相当に凄まじいものなんだろーなって想像が沸き、そんなおそぎゃー(恐ろしいの意)ところには近づきたくないと……近づいちゃってたよすでに……そんなに恐ろしかったかな……まあいいや傍目にはそー思われかねないんだってことが認識できて楽しかった。夫人は有名コスプレイヤーで夫は世界にも通用するSFイラストレーター、なんてどこかにモデルがいそーな感じの組み合わせだったりと、レイヤーの人カメコの人はもちろんSFの人でも読んで差し障り…じゃないフックのありそーな話。ある意味今年読んだ面白さでは1番の話かも。SFじゃないけどSF絡みだからSFマガジンで紹介しても良いのかな、やっぱダメかな、でも紹介したいなあ。

 そんな本編もありだけどそれ以上に興味深かったのが後書きで、何しろ本編のことには微塵もふれずにひたすら「デジタル一眼レフ」の話ばかりを書いている。これまでに買ったデジ一眼の使い勝手からアスタリスクを並べての評価まで、読めばいったいこれはカメラ雑誌か「週刊アスキー」かってな感じで興味のない人にはまるでない、作者に関心があってもこれはあすがに引きおーな後書きになっている。けど最後まで読んでちょっぴりあれれ。カメラメーカーへの要望ってやつを書いているんだけどそれが「たったひとつ! 私は、人物しか撮らない! だから、フルサイズの撮像素子でなくていい! 今のサイズのままでいい! ただ、それを九〇度寝かせて、『縦』に配置してくれ! そうすれば『普通』に構えて縦位置になるから」ってもので、何でそこまで縦にこだわるのか、どうして人物しか撮らないのか、って考えて追記「この小説に、三年半の潜入取材を『自腹』で行いました。これからも潜入取材は続けます」も含めて、吉岡さんが何をそこまでデジ一眼で撮影しているのか、ってあたりになま暖かい想像が浮かぶ。つまり。なるほど。そうなのか。冬の有明で会えるかな。

 それはさておき写真機って縦ってあんまり考えられてないねー、撮る方も横が基本になってるし、なんて思って「A&Vフェスタ」の帰りがけに寄った「横浜美術館」で開催されてた中平卓馬さんの本格的な回顧展「原点復帰−横浜」を見物して最初の部屋で唖然、ぜんぶ縦位置でやんの。最近の横浜のあちらこちらに出没しては公園で寝ているホームレスさんの顔とかその辺に出てくる猫とか鳥とか畑で作業している人とか出会った女性とかを、ひねらずただあるがままにピントもバリバリにきかせてくっきりと、カラーなんで色も鮮やかに撮影した写真がずらりと並んでいて、そのモチーフの選び方その構図の切り取り方の平凡っぷりにどーしてこれがラディカルで鳴らした中平卓馬なんだと訝りたい気がわいて出て来る。

 続く「新たなる凝視」ってテーマの写真群が1975年以降ってゆーから僕が割に物を理解するよーになってから見た車とかバイクとは風俗とかがモロにそのまま切り取られた、それも鋭い構図とモチーフ選びによって切り取られている写真を見るにつけ、、77年に急性アルコール中毒でぶっ倒れて記憶を失って以降もそれなりに、変わらないスタンスで写真を撮っていたことが伺え、それがどーして今はこーまで平凡になってしまったんだろう? って不思議に思う。おまけに時間を遡る感じの配置になっている展覧会は部屋を進むごとに先鋭性が増し、フランスでのビエンナーレに出て撮った写真のパリの街をスパスパと鋭利なナイフで切り刻んでは並べてみせる手法の冴えっぷりに驚き、荒れたトーンで被写体の部分をトリミングしてみせるポートレートの強さに惹かれ、なおのこと今との違いに思いが及ぶ。

 そして大トリの「来るべき言葉のために」に収録されたり入ってないかもしれないけれど同じ頃に撮られた写真の、影の中に光が浮かぶ荒れたトーンで工場を、川を、都会を、歓楽街を写し取り印画紙の上にほの暗く浮かび上がらせた写真群の、モチーフの選び方といい構図の取り方といい、今見てもとてつもないほどに格好良い様に、これほどの才能がどーゆー経緯をたどって今の境地へと至ったのかを知りたくなる。そのあたり、会場でも売っているし書店にも並んでいる展覧会の図録で同志的な間柄の森山大道さんが、最新の作品と「来るべき言葉のために」の作品を並べて論じているのがあって、読むとともに極北であるって言い方がされていて、見て抱いた近作への平凡な印象とは違うものを森山さんが見ているんだな、ってことが伺える。

 それが何かは写真家である森山大道、あるいは中平さんの古い友人でずっとその活動を見てきた森山大道ならではのものだけに、俗人には預かりしらないものなんだけど、それでも想像できるのは、「来るべき言葉のために」の写真でそこにこめられた意図より先に、アレブレボケとゆー手法こそが凄いんだと解釈されて沈思黙考したってことも考えに入れつつ、写った結果としてのプリントをただながめるだけじゃなく、どーゆー意識でそれを撮ったのかも含めて理解する必要があるんだな、ってこと。そこまで親切に見る側がしてやる必要があるのか? 何であれ結果がすべてじゃないのか? ってのもひとつの意見だけど創作する人間あっての作品である以上、人間にも目を向ける必要は否定し切れない。結果としての平凡さはそれとして、そこに意図されている中平卓馬の思想なり思考を探る努力を出来るかどーかは別にして、ちょっとやってみよーかなって今はとりあえず思ってる。でもやっぱり平凡だよなー、吉岡さんの”作品”だったらきっと目もランランとして見られただろーに(本当にそーゆーモチーフを撮っているかは知らないけれど)。

 そうそう「A&Vフェスタ」は「DVDオーディオ」と「SACD」のブースが向かい合って新世代高品質音楽ソフトの覇権を争っていたけどどちらもそれほど大きな構えじゃなく、CDに比べて未だ目立たない次世代オーディオって地位を何だか如実に反映してたっぽい印象を受ける。コンパニオンではホットパンツ姿で目茶背が高くスレンダーな女性を並べた「DVDオーディオ」の圧勝なんだけど、機材を並べ視聴ルームも作って音楽を聴けるよーにした「SACD」の方がオーディオマニアの心をくすぐりそー。マイケル・マクドナルドが唄ったモータウンの楽曲が流れ出した時なんて足、止まっちまったもんなー、渋くって。

 会場でとりあえず見たかったのは「エニーミュージック」って規格でもってブロードバンドから楽曲をパソコンなんか間に挟まず、直接ダウンロードして聴けるオーディオ機器のデモンストレーションで、てっきりネットMDとか「iPOD」とか携帯電話に毛の生えた感じのものを想像してたらこれが案外にしっかりとしたデッキになってて、スピーカーの高質な感じとともに割に真っ当にネットからオーディオ機器へのネット配信を実現させようってしてるんだってことを感じる。とはいえ「パソコンを使えない人にも音楽配信が利用できるように」って担当が言う割には、イーサーネットでブロードバンドにつなぐ必要があって、つまりはそーしたブロードバンドを利用できる環境に家をしておかなくちゃいけないってことで、パソコンを扱いでもしなければ覚えられないことをしないといけない「エニーミュージック」が、果たして本当にネット初心者向けなのか? って気になって来る。

 それさえ目をつぶればこれでなかなか便利な装置で、落としてきた曲をハードディスクに溜めて聴くも良し、CDプレーヤーからHDDに音楽を移して聴くもよし、そーして取り込んだ曲を「メモリースティック」でもって携帯型音楽プレーヤーに移して聴くもよしってな使い方が出来そーで、音楽を楽しむスタイルにオンデマンドな魅力と気軽なクリッピングといった新しさを加えてくれそーな気がする。そーしたライフスタイルをうまく提案できるかってあたりが、楽曲数とかハードの値段なんかも含めつつ成否の鍵になりそー。

 同じことはam3って会社が始める「アドバンスムービー」にも言えそーで、スマートメディアに特殊なコーデックでもって圧縮してアニメなんかの映像を収録し、それを専用のアダプターを介して「ゲームボーイアドバンス」で見られるよーにするってビジネスモデルなんだけど、とりあえず最初に投入される「名探偵コナン」ってコンテンツが、メディア込みで1話2380円って値段なんかも勘案してどこまで市場にニーズがあるのか、って懸念があったけど、その辺り会社の人に尋ねると、とりあえずは「GBAで映像を見る」って行為の存在をこれで広く認知させた上で、ほかにどーゆー利用方法があってそれがどんなライフスタイルを作り出すのかを、コンテンツを持っている人なり企業なりが考えていくことで、広がる可能性があるんだってことらしー。単なる携帯型映像再生機だと、来年にも出る「PSP」に性能で負けてしまうけど、安価さと手軽さと先行メリットを活かせれば「PSP」とはまた違ったマーケットを作りそー。どんな展開があるのやら。お手並み拝見。


【10月23日】 火曜日の木曜日では週刊誌もさすがに取り上げてはいないけどだったら来週、どこかが取り上げてくれるかったゆーとやっぱりどこも取り上げてくれなさそーな予感を発表から2日経った現時点での反響なんかから想像してみたり。ここまで世間に認知もされてなければ関心も持たれていなかったのかと気も抜けたけど、関心が持たれてるんだったら異常が伺われ始めた先月時点ですでにいろいろ動きがあって不思議はなかった訳で、きっとこれからも世間的な無関心の中を右か下へと触れるか落ちていくんだろー。左? それはないね。上? お金もないのに?

 その週刊誌から「週刊新潮」の10月30日号に例の六本木ヒルズにある「森美術館」をイジる記事。現代美術の展覧会で「東京都現代美術館」の3カ月30万人が過去の最高記録だったと書いた上で年間100万人を見込む「森美術館」が深夜営業をしても果たして大丈夫? ってトーンにまとめられているけどなあに相手は天下の六本木ヒルズ、美術は脇に置いても地上52階からの眺望ってゆー最高の”展示物”がそこにあったりする訳で、その眺望を観光に来たお客を訳のわからないまま「まずは美術館にでも」と呼び込み”美術鑑賞”ならぬ”美術観光”させてしまえば年間100万人なんて確実じゃん、って初日の混雑ぶりから見たけど果たしてどーなんだろー。あるいは村上隆さんのフィギュアを買いに来た人も混じっていた可能性があるんで今週末にでももー1度行ってみますか、世界でここだけ、”美術観光”を楽しめる「森美術館」に”美術”を”観光”しに。

 「週刊文春」10月30日号の方はといえばキャンペーンしている「反ゲーム」記事の第3弾が今週号にも掲載。どーやら意地でも「ゲーム脳」って言葉を世間に定着させたいらしーけど、ゲーム脳なんてものに学術的な根拠が未だ認められていない現状すなわち、ゲームだけがそーいった脳の状態を作り出すのかって懐疑が漂っている状況で、ことさらにゲームを取り上げ非難する意味が理解しづらい。影響だったらユーザーの限定されるゲームよりも大勢が見るテレビの方がはるかに大きいのは自明なのに、そっちの方をキャンペーンまで張って大々的に批判したってことはしばらく聞かない。

 もちろんだからといってゲームが免責される訳では決してなく、ゲームが人間に何らかの影響を与えることは否定できない事実であってそもそもが人に影響をあたえずして何がエンターテインメントだ、って気もするけれどそれが善い影響ではなく悪い影響だった場合、問題となるのはゲームそのものよりも悪影響を与えるゲームをさせないための努力が行われているかどうかって部分。その点で今週号の記事は欧米でのレーティングの厳しさを評価した上で結語として「ゲームがもたらす子供への悪影響は、保護者の泥YKじゅによってかなりの部分防ぐことができる。だが、子供が熱中するゲームの詳細な内容を把握している保護者が、日本ではどれだけいるだろうか」と指摘して、行われているレーティングなりその家々のレーティングが遵守されていない実状を嘆いている。

 願うならここから記事をそーした「親子のコミュニケーション」の醸成には何が必要なのか、って方向へと持っていって欲しいんだけど、今更ながらに「ゲーム脳」って使ってはばからない編集方針の中で、そーした嘆きがどこまで容れられるのか、あるいは転んでゲームの悪影響ばかりを強調する論旨へと発展していくのでは、って懸念も浮かぶ。折も折り、米国で例の「グラン・セフト・オート」の影響で暴力事件に走ったのはゲームが悪い、ゲーム機メーカーが悪いって主張して事件の被害者が裁判を起こしたニュースが伝わってきて、なおいっそう「文春」のキャンペーンの後押しをしてしまいそー。事件を起こした少年は14歳と16歳でそもそも買える年齢でもないはずなのに、買ってプレーした彼らが事件を起こした責任を売った店なりプレーさせた親ではなく、作った側へと持っていく態度をこそ今週号の「文春」の論旨に沿えば見せるはずだろーけれど、そこはそれ、やっぱり鬼の首でもとったみたいに「だからゲームは」って論旨を繰り広げることになるんだろー。ちょっと憂鬱。でもそこはジャーナリズムの良心に期待。良心? それって旨いのか?

 カメラで読みとった人間の顔の動画を即座にCGに変換した上で顔の表情を読みとりCGに反映させる技術を開発したってんで虎ノ門にある沖電気のショールームに行く。なるほどカメラから入力された実写の顔の画像の眉とか口に点々がはいって位置を確認しては、その動きをCGのキャラクター画像に即座に伝えられるよーになっていて、実現すればチャットを実写の動画じゃなくってキャラクターを間に挟んで出来るよーになりそー。顔を見せたくない人とかには最適なシステム、ってことか。改造すれば喋る声の感情までをも読みとって表情を動かす仕組みとかできそー。今のところはテストってことでキャラクターのデザインがあんまり洗練されてないんで、その辺は導入するインターネット事業者なり、オンラインゲームの開発会社がうまいデザインのものを考え男でも美少女キャラになりかわって表情つけてしゃべれる仕組みを作ってくれるだろー。声は変えればすむことだし。

 戻って原稿入れて再び虎ノ門に行く用事があったんでついでに「パスタ・デ・ココ」であんかけスパを1杯。すでに午後も3時を回っていたんで客は食べ終わった2人がいた程度でその後は誰もはいって来ず、もしかして廃れ気味? なんて心配も浮かぶ。昼頃とかや未だにちゃんと行列できているのかな。手羽先以外は味噌煮込みうどんも甘口抹茶小倉スパも大餡巻もカレーうどんもあんまりメジャーになっていない関東だけにあんかけスパもあんまり受け入れられていないのかな。今回もスタンダードのソースに400グラムのLでトッピングはポークピカタにフィッシュフライとお洒落系。それなりに美味しいんだけどやっぱりどこか物足りないのは名古屋のフライパンでじゃーじゃー炒めた極太スパに煮詰めたソースをかけたヨコイあたりを知っている弊害か。ミラカンとかスペシャルとかバイキングとかくどいメニューにぎとぎとな油まみれの麺をかきこみてーなー。名古屋土産にもらった「ヨコイのソース」で1発、家で作ってやろうかな。


【10月22日】 反応のまるで乏しい状況に改めてそのバリューのなさを痛感してみたり。それはさておき読み終えた森博嗣さんの新刊「ZOKU」(光文社、1500円)はまるほどチラシの惹句にある「ベストセラー作家・森博嗣が軽やかに描く、まったく新しいコミック・ノベル、誕生!」って言葉にまるでピッタリな面白さで、読み始めるとホントに漫画を読んでいるよーな感覚でぐいぐいとページをめくらされてしまう。それはたぶん立ちまくりなキャラクターたちによる演技と会話の妙が目に心地よく心に楽しいのがひとつの理由で、いっそ本当に漫画かアニメーションで見てみたいって気にさせられる。

 夜の街を機関車が走り空を旅客機が飛ぶ割に暗いっぽい表紙絵だけど内容はとことん明るいのがこの「ZOKU」の特徴。描かれている列車はその名も「TAI」ってゆー団体が乗り込んではあちらこちらに向かい、そこかしこでわき起こる「ZOKU」って組織のいたずらを阻止しよーとする。率いるのは木曽川って愛知県民には馴染みの名字を持った老人で、研究員の揖斐ってこれも三重県民には馴染みの名字の青年と、永良って字は違うけどやっぱり岐阜県民にはおなじみの名字の木曽川にとっては孫にあたる少女をあわせた3人で、「ZOKU」の巻き起こす地中にこっそりスピーカを埋めて騒音を出したり美術展を開催しては出展物を置いて逃げたりくすくすって笑い声で人の心をささくれ立たせたり、って感じの取るに足らないけれども放ってはおけない悪戯に立ち向かう。

 一方で「ZOKU」は率いる黒古葉って老人の道楽心を満足させよーとする目的のもと、ロミ・品川って名前も名前なら格好も体の線が出ているレザースーツに身を包んだ自称30歳前後で本当は……な女性とその後輩で好青年で永良にちょっぴり心を寄せている青年のケン・十河、そして後から加わる長髪が顔にかかった饒舌な男、バーブ・斉藤といった切れ者なのかそうでないのか語るに微妙な面々が、知恵を絞っているのか行き当たりばったりなのか語るに曖昧な手段でもって、「TAI」に挑んでは粉砕されたり自滅したりする。そんなドタバタとした展開のおかしさに、ロミ・品川と永良が最初に出会った際に名乗ったロミの名前を聞いて即座に永良が「ぷっ」と吹き出す場面をはじめとした漫才ともコントともつかない会話やシチュエーションの面白さは、過去の森博嗣作品にあったとしたら犀川&萌絵の会話に近いけれど「ZOKU」はそれが小難しさの一切ないまま全編にわたって繰り広げられているって言えそー。読めば分かし読んだらハマる面白さ。あるいはやっぱり実写の映像で見てみたいなー。ロミ・品川は演るんなら誰が良いかなー。

 やっぱり凄い人だよ松井秀喜選手。アメリカ人の誰もがテレビに釘付けになって見入っている試合のそれも1番大事な場面でしっかりと、それも当たり損ねとかじゃないヒットをきっちりと打ってはランナーを2塁から帰す勝ち越しの打点をあげるなんて簡単に出来るものじゃない。ってかマーフィーじゃないけど期待をかければかけるほど、期待を裏切られるのがこーゆー場面での日本人選手ってのがサッカーとか、オリンピックとか世界選手権っていったスポーツの常套だった訳で、それを1人見事なまでに覆しては大活躍をしてみせる松井選手の素晴らしさは、そんな言葉ではやっぱり語りきれないくらいに凄いものがある。とはいえそこはそれ、MVPだって期待を抱かせて最後にポカやってニューヨーク・ヤンキースが負けてしまうって可能性もあったりするから、ここは過剰に期待を抱かず粛々と進む試合の流れを見守っていくことにしよー。あしたのラグビーのワールドカップでのフィジー代表戦でも同様に。

 表情に骨格といった土台のしっかりした絵で美少女がイケナイことをしている絵を描いたエロ漫画で目を見張った海野螢さんの「風の十二方位」( FOX出版、952円)に続く単行本が出ていることに気が付いたんで購入。その名も「少女の異常な愛情」(松文館、905円)はタイトルのまんまに可愛い少女たちが良識から見れば異常な愛情をあちらこちらで発散させては、男の子たちを心地良い気分にさせてくれる短編が収められてて読むほどに下半身がジンジンとして来る。ビンビンの間違いじゃないかって? いやもう歳が歳なんで朝でもないとそんな風には。ファンタジックな話がない訳でもないけど基本は分かりやすいボーイ・ミーツ・ガールかその逆って感じで悩まず楽しめるんで絵は好きだけど「風の十二方位」はうーん、だった人でも安心して使えます。「貧乳ショートカット娘万歳」な人は必買必読。


【10月21日】 本屋にふらり、と入って平台を見るとそこに「かもめが翔んだ日」とゆータイトルで「江副浩正」とゆー人が手記を書いているのを発見して手に取り観察。およそ内容は知れてたんで気になった出版社名を見るとそこには「朝日新聞社」とゆー字があってひっくり返る。だって仇敵じゃん、朝日って、江副さんにとって。次代の日本を担う若手経営者として注目を集め期待もされてた江副さんの命脈を断った「リクルート事件」をスクープしたのは朝日新聞で以後も、「朝日ジャーナル」とかで大キャンペーンを張り大スクープを飛ばしていったん終息しかけた事件に再び火を着けた、江副さんにとっては憎んでも憎みきれないだろー会社から何でまた本を出したんだろーって不思議に思えたし、朝日も朝日で自ら引導を渡してその”命”を奪った相手の本をどーして今ごろ出すのか、って疑問にか られる。

 もっともよくよく見ると「発売 朝日新聞社」ってゆー他の朝日の書籍には見えないクレジットが帯とかに書かれてあってこれはあるいはと思って奥付を見ると、手がけたクレジットに「朝日新聞出版サービス」って名前があってなるほど一種の自費出版だなってことに気づく。それならそれで江副さんの手記だったら内容次第でもっと真っ当なところからだって出せそーなのに、自費でそれも朝日から、ってところにやっぱり何かいろいろあったんだろーか、なんて想像も浮かぶけど真相は不明。まあきっとそのうちどこかの週刊誌でも取り上げ書くだろー。それにしても朝日新聞出版サービスの自費出版って200部で190万円なんってちょっと高過ぎな気が。そこまでして「朝日」から出したいってことなのかな。

 本屋ではばらっと見て森博嗣さんの新刊「ZOKU」(光文社、1500円)が出ているのを発見して購入。昔懐かしいインタラクティブムービー(死語)の「GADGET」みたいな列車がこちらに向かって走って来る佐久間真人さん描く表紙絵が格好良いけど、内容がSFチックなのかどーかは不明。「ジャーロ」に連載されていたのを読んでいた人なら内容も知っているんだろーけれど、とりあえずは「壮大なる悪戯のための組織『ZOKU』と、彼らの企みを阻止しようとする『TAI』。いったい何者? 何のために? ベストセラー作家・森博嗣が軽やかに描く、まったく新しいコミック・ノベル、誕生!」って言葉を信じてエンターテインメント性の高い内容と願い読むことにしよー。しかしいったい「コミック・ノベル」って何? ライトノベルってこと? 講談社ノベルズもライトな感じだし世の中総ライトノベル化ってことなのか?(とっくにって声もあり)

 こっちはSFって言えるのかな。あとがきによると「舞台は一九八五年のイギリス。と言っても、われわれの世界とはちがう時間線をたどる、過去であって過去ではない”もうひとつの別の現代イギリス”」だそーで、そんな世界を舞台に「文学刑事(リテラリック)」とやらが活躍するって内容は、聞くほどに本好き小説好きの心をくすぐりまくる。「文学が異様な力をもち、映画とプロスポーツとポピュラー音楽と合わせたくらいの人気がある」なんて世界、夢のよーじゃないですか。ある意味で映画がすべてを上回って高い地位を占めている世界を描いた筒井康隆さん「美藝公」に通じてそーなところがあるけれど、そーした高尚となった映画を描く話とは逆のもっと先鋭的に一般化して大衆化した文学にまつわる事件を解決していくエンターテインメントってことで、笑い楽しみながら読めることだろー。作者はジャスパー・フォードで訳者は田村源二さん。「文学刑事サーズデイ・ネクスト 1 ジェイン・エアを探せ!」はソニー・マガジンズから1900円で発売中。好評かは知らない。

 よくやった。素晴らしい。感動した。って言うのも僭越過ぎるけど、それでもよくぞやって頂けましたと「週刊サッカーマガジン」11月6日号に掲載された伊東武彦編集長によるコーナー「新蹴球列島を歩く」を読んで感激にうち震え感涙にむせぶ。今回のお題は「よみうりランド編」。それも取り上げられているのは男子の「東京ヴェルディ1969」じゃなく、先に女子のワールドカップに代表選手が出場して1勝をあげた女子サッカーのLリーグに所属する「日テレベレーザ」だったりするから、女子サッカー好きにはたまらない。終わったばかりのワールドカップについての詳報もなく会期中の日本女子代表の報も「週刊サッカーダイジェスト」に見劣りしていたこともこの記事でぜんぶ帳消しにしてお釣りを差し上げたくなって来る。ワールドカップで3点取った大谷未央さんまで別の記事で取り上げられているし。

 さらに言うなら伊東さんのルポはベレーザでも中心選手として人気者の小林弥生選手じゃなく酒井與恵選手を中心に取り上げてあって好感度240%。「日テレベレーザの中盤の底で奮闘するボランチ」って紹介からあと、ところどころに酒井さんのコメントをはさむ感じで進んでいく内容は、女子サッカーがおかれている厳しい環境を酒井さんの勤務の実状から詳細に紹介した上、そんな状況に屈託をもたずに日々の仕事に練習にはげむ酒井さんの前向きな態度を紹介して、女子サッカーへの関心と好感を倍増しするよーな効果を持っている。ワールドカップに付いて行った釜本邦茂さんの「彼女っちは気持ちがいいねぇ。素直だし、挨拶もきちんとするし、ボールをひたむきに蹴っている。日本代表が失ったものがあるよ」って言葉が伊東さんを夜のランドへと向かわせたそーだけど、現場を見て話を聞いた伊東さんがどんな思いになったか気になるところ。これからバンバンと誌面に酒井さんが、だけじゃなくって女子サッカーが出て来ることを願おー。日曜日は駒場でレイナスと高槻か。行くか。晴れたら(ちょっと軟弱)。

 有栖川、ってもきっと若い女性だったら有栖川有栖さんの方とお近づきなりたいんじゃないかって思うけど、ちょっとした小金持ちの人とか名前が知れ渡っても名誉には未だ縁遠い人とかにとってはやっぱり、権威を持った有栖川宮の方とお近づきになってちょっとは良い気分を味わいたかったんだろーと、結婚式を開いては祝儀として数千万円を集めた「有栖川宮結婚式事件」の顛末をみながらそのわかりやすさに苦笑が漏れる。十二単だか何だかの装束で身を固めて式にのぞんではそれっぽさを醸し出すあたりはするんだけど、よくよく考えればそれっぽいだけに過ぎなかったりするにも関わらず、心の中では本当であって欲しいと願う気持ちが、そうでなかったら意味がないって恐れる気持ちに裏打ちされて、間違いを認める気持ちに蓋をしてしまったんだろー。それにしても結婚式まで開いて数千万円しか集められないのは何とも無駄が多いとゆーか。これがカメハメハ大王の末裔にしえ英国王室とも遠戚のプリンス・ジョナ・クヒオ大佐だったら衣装と話術と雰囲気でもって女性から何千万円だって引っ張り出しただろーに。詐欺も美学が失われて来てるなー。


"裏"日本工業新聞へ戻る
リウイチのホームページへ戻る