縮刷版2002年4月中旬号


【4月20日】 とゆー訳で唐突に「ママレイド・ラグ」の4曲入りマキシ「春雨道中」なんかを聴いてみる。「青春アドベンチャー」で放送された「ネガティブハッピー・チェーンソーエッヂ」を聴いって録音するために買ったラジカセをそれだけに使うのは勿体ないんで(当たり前だ)、久々にFMラジオとか聴いてた時に「はっぴいえんど」から影響を受けたらしーアーティスト特集ってのが流れて、中に妙に大瀧詠一さんっぽい声をした人が唄ってる、妙に「はっぴいえんど」っぽい歌があってメモった名前から辺りを付けて聴いてみたらこれが正解。何がどー「はっぴいえんど」かを説明するのは専門家じゃないんで今一つなんだけど、詞の妙にニッポンしてる部分(珈琲茶碗にコーヒーカップってルビを打つセンスとか)とそれからタイトルに、松本隆っぽさがあるし曲調もどこどなく大瀧詠一してて聴いてて懐かしい気分が起こって来た。ベースのアレンジがもっと細野晴臣してたら面白かったかも、って細野っぽいベースが何かを説明するのがこれまた難しいんだけど。

 ほかの曲もそーかってゆーと所々大昔の山下達郎さんっぽさもあって、つまりは70年代中盤から後半のテイストをまぜこぜにして今に甦らせたみたいな所がある。曲と詞の両方を全部の曲でやってる田中鉱邦さんはもちろん「はっぴいえんど」をリアルタイムで聴いた世代ではないし、かといって親が聴いてた世代ってゆーのも違うよーな気がして、どの辺りから影響を受けて来たのかちょっと聴いてみたいところ。「ママレイド・ラグ」を紹介してた番組では、他にも男性女性グループを問わず「はっぴいぇんど」の影響にある人たちがたくさん紹介されていたから、どこかに結節点があるんだろー。そーいえば当の「はっぴいぇんど」のCDは、新宿南口の「タワーレコード」だかに出ていた張り紙によるとほとんぞ絶版状態になってて、残っている分しかないってことでまたしても時空の彼方へと消えてしまう前に、おさらいしてみたい人はとりあえず買っておいた方が吉でしょー。もー間もなく「夏なんです」を地べたにペタンとしゃがみこんで、聞き込みたくなるシーズンが来るし。

 むくむくと起き出して「東京国際ブックフェア」へ。この6、7年くらいはずっと初日にかけつけて年々長くなる外国の大使館員出席による数十人規模のテープカットを眺めて大笑いしてたんだけど、今年は大きめの仕事にかかりっきりで朝から「東京ビッグサイト」へと出向けず今日の参観となってしまって、皆勤賞が途切れた小学生みたいな残念な気分にとらわれる。新庄だって連続安打が途切れて同じ気持ちを抱いたのかな(一緒にするなよ)。入ってまずはとりあえず毎年恒例の「ボイジャー」のブースに行って我らが萩野正昭御大に挨拶、かつてCD−ROMの業界団体を立ち上げた中心メンバーで今もデジタルな最前線を歩いているのはこのボイジャーと、あとは元オラシオンなハンズオン・エンタテインメントとそれからアダルト系DVDで成る九鬼くらいになてしまった観もあって、10年のマルチメディアの衰亡史をちょっとまとめてみたい気に駆られる。デジタローグの復活はあるのかなあ。シナジー幾何学で予定されてた「アンダーワールド」はどこに行ってしまったのかなあ。

 ふらついてたら何故か昨日見た映画「自殺サークル」の中でどつき漫才をやった挙げ句に輪っかに椅子け飛ばしてぶら下がってた三坂千絵子さんがいて驚く。本郷辺りのゼミからマルチメディアつながりで記録員としてお手伝いに来ていたよーで、昨日はえーが女優に今日はカメラマン、明日はCDの宣伝で来月には今度は舞台じょゆーと八面六臂な阿修羅かそれもと千手観音かってなお仕事ぶりに感嘆する、しかしいったい本業は何?(大学院生だろ)。新潮社のブースにはオンデマンド印刷された本なんかが並んでて割に欲し目のラインアップに昔っから夏は暑く冬は寒いだろープレハブ校舎で電子出版に勤しんで来ただけの蓄積があるとこちらもこちらで感嘆する。聞くと演劇が再演された時なんかにオンデマンド印刷された戯曲はそれこそ100部1000部の単位で出るんだとか。売れない戯曲でも過去にちゃんと出版してカタログとして持って来た出版社が、電子出版オンデマンド出版の時代にちょっとは報われた好例って言えそーだし、小ロットが得意な電子出版の活用例も合わせて見せられる。

 これらが出版の言うなれば未来への希望だとすれば、会場の他のブースには出版の現実の絶望ぶりも漂っていて浮いた気分もたちまち沈む。確かに2割引きとか3割引きとかで新刊が買えるのは本好きとしては嬉しい限りなんだけど、学術書みたいな買うになかなか厳しい本をお蔵だしめいて売っていたのが昔の「ブックフェア」だったとすれば、今回は大手の書店もこぞって安売りに撃って出ていてほとんどアウトレットモール状態。書店に今も並んでいる文庫とかコミックとか書籍が書店みたいな感じに並べられたその棚に、20%割引なんて張り紙が張られて売られてしまっている状況を、「ブックフェア」ってことで売ってあげたくなるよーな本があるかな、本屋に入れると便利な装置はあるかな、って見に来た書店の人はいったいどー思ったことだろー。

 断裁されて故紙になるより売られて読んでもらえれば幸いってんなら、同じくゴミで出されるよりは読まれた方が幸せって理論をかざす街の新古書店とどこにどれほどの違いがあるのか。バーゲンで出ているのはそれっきりの絶版予備軍で新古書店に並ぶベストセラーみたく増刷の可能性を阻害するものじゃない、って言われればそーゆー論理も成り立つけれど、2年も経っていないよーな本がどっさりと並んでいる様を見るにつけ、間もなく発売になるんだけど一足早く会場で売ってた佐野眞一さんの「だれが『本』を殺すのか 延長戦」(新潮社、1600円)の中で佐野さんと対談している永江朗さんが指摘する、「この業界は多少、速度を落とすことを考えていかないと」(261ページ)って主張に耳を傾けたくなって来る。

 とはいえ大量出版の中でデビューできる才能も一方にはある訳で、多様性があって育まれる新しい感性もあったりするから難しいところ。オンデマンドとか電子出版といったものへの価値を紙へのフェティシズムとは違った部分で見出せるような感覚が生まれ、それこそオンデマンドであってもウェブマガジンへの連載であっても「直木」「芥川」を獲得できるくらいに価値観がごちゃごちゃになった果てに、うまい状況が生まれて来たりするのかも。来ないかもしれないけれど。どっちやねん。分かるかい、佐野さんにも永江さんにも分からないことをこの僕が。

 会場であった井手隊員とウサギに角について話した後(ちょっと脚色)、河岸を買えて午後も4時なんてまるで朝寝坊なオタクのためとしか思えない時間から開場とゆー「エンタテインメントEXPO2002」なんてイベントをのぞく。正直言ってこんなイベントがあることを数日前まで知らず、ふと検索したイベントスケジュールのページに載ってたのを見てさてはてどれくらいの人間が集まるんだろーと冷やかし半分に行ったら逆に冷やされてしまった、いやちょっと閑散とし過ぎてて。よもやインターネット会場の方にほとんどの人が行ってたって訳ではないと思うけど、「ぷららネットワークス」と関係のある人にだけ開放された特別入場口に会場2分前で並んでいるのは数十名、優先的に入場できる権利を持った人の行列も100人が良いところで、まるで無関係に行ったフリーの僕でも開場から10分後には中に入ることができた。できたからって慌ててかけつけてならばいといけないブースがある訳でもなかったけど。

 とにかく意味不明な出展企業。なるほとエロゲーにビジュアルノベルに萌えゲーギャルゲーな会社が割にそれなりに出ていたみたいけど、売ってるものと言えば「おねがいティーチャー」がグッズセットに福袋、「HAPPY LESSON」ですら過去に出たCDといった具合でこれまたお蔵だし的な雰囲気に満ちていて、売り子のコスプレ姉ちゃんの姿に萌えたりはできたけれど、勇んで買ってどうこうしたいってほどのものは個人的にはそれほどない。不思議なことに「パンクラス」とか「ドリームステージエンターテインメント」とかいった、格闘技系のブースも出ていて他に「少林サッカー」の看板だけ掲げて前売り券だけ売ってたギャガ&クロックワークスのブースもあったりで、もう何が何だか分からない。どーゆー主体が何を狙って仕掛けたイベントなのか、責任者をつかまえて取材したくなった。「ぷららネットワークス」に好き者でもいたのかな。

 そんな中でも自主制作に近いプロアニメーション「アニメ制作進行くろみちゃん」を頑張って売ってた「ゆめ太カンパニー」には心で声援、DVDはもー持ってるんで買ってあげられなかったけど、まるまる上映された「くろみちゃん」を見てその面白さを今さらながらに納得。内心で売れて頂きたいとここに大声援を贈って皆様に購買を働きかけよー。ほかに何かと話題のこちらは正真正銘の自主制作アニメ「ほしのこえ」を買う。週末に引きこもって観賞しよー。

 あとは会場を流している時に見た、割にスタイルの良いコスプレっ娘が持って歩いていた「体験版配布」の案内につられてフロントウィングってブースで行列、見かけとは違ってえらく元気の良かったコスプレっ娘のフリヒラなスカートからのぞく脚を堪能しつつ、ジャンケン大会のすべてで初戦敗退とゆー辱めをうけつつ(恥辱プレイ?)、3本のエロゲーが1本になった「426」ってソフト(4月26日発売だから「426」)の体験版を頂いて返る。デモで流れていた主題歌のテンポがよくって画面も楽しそーだったのを見て、興味を惹かれた部分もちょっとはあったけど、今までのめりこむのが恐ろしくって手を出さなかったエロゲーにもしかして、この体験版をきっかけにハマってしまうかと思うと恐ろしくってCD−ROMドライブに入れられない。けどポスターに描かれていたしましまパンツにも惹かれるところ大さし……人生の岐路にさしかかってます。


【4月19日】 「『このごたごたの中で結局、敗者となったのは−』、あるコラムニストが私に言った。『我々新聞関係自身だったんじゃないか』」。ここで言うごたたとは、この言葉がでている「新聞ジャーナリズム」(ピート・ハミル、武田徹訳・解説、日経BP社、1600円)って本の著者が属していたアメリカの新聞界で数年前の紙面を著しく賑わせた、時の大統領ビル・クリントンとモニカ・ルインスキーとのセックススキャンダルを巡る報道合戦。下半身に及ぶ話であるにも関わらず、それを堂々と曲げずにむしろよりストレートに表現しては紙面を昔だったら誰もが目をそむける猥雑な単語で埋め尽くし、それを読者が臨んでいるははずだと別に根拠もないのに決めてかかって垂れ流した挙げ句に、結局は読者にもそっぽを向かれてしまって、かといってもとのよーに品位を取り戻すこともできず、宙ぶらりんの中で新聞が衰亡への道をはっきりと歩み始めた可能性があることを指摘している。

 果たして後戻りがきかないかどーかは、未だ新聞に対する敬意があって新聞の側にもジャーナリズムとしての矜持を取り戻そうとする意識が残っている米国だけに、あるいは時間をかければどーにか戻れるのかもしれないけれど、年がら年中「ごたごた」続きで1つ事件があれば何百人とゆー報道陣がわっと押し寄せては服の色から食事の内容までをただ、垂れ流し続ける愚を繰り返している日本では、もはや「敗者」であるとゆー意識すら抱かないのかもしれない。まるでもぐら叩きのよーに秘書給与の問題を掘り出しては、政争の具として追い落としたい側に謹呈して差し上げる新聞の、どこどどう見れば今さらながらに矜持なんてものが出てくるのか、大いに悩ましい。

 アメリカについては「新聞の質がこれほどに低下していることに関して、一番驚かされるのは、新聞をつくっている者たちがこの事実に気づいている」(44ページ)らしく、矜持を持って「私は自分が働いている会社のために謝り続けるのが嫌なの」(45ページ)と啖呵を木ってフリーランスに身を転じる女性記者がいたりして、自覚があるって事が伺えるけど、日本だとどーだろー。中学校の交換日記じゃあるまいし、同じ場所に毎日出勤している人間どうしてお手紙のやりとりをしては、一向に話が進まない現実を誰咎めることなく、ただ手紙が行き交う状況を報じているだけの新聞の、どこに「敗者」からの復活を臨む意識があるんだろうか。そんなものとうにない、って言われればそうなんだけど。

 売らんかな的紙面になるのはすなわち新聞もビジネスだからって言い方はされるけど、それは米国も同じとこ。問題は真の価値に対して適性なリターンが行われるかどーかてお国柄の差で、公明正大な新聞の広告を出す企業は同様に公明正大だと、読者に理解はされて企業自体もそう理解している米国だったらまだまだビジネスによってジャーナリズムを支えることは可能だけど、ビジネスばかりが前面へと出てジャーナリズムはその価値を裏書きするアリバイみたいな位置づけに貶められている日本、企業にもジャーナリズムを育てることで自分たちの価値を高めよーとする意識が皆無なこの日本で、真の意味での新聞をやっていくとは多分無理、なんだろー。誰がやったか、じゃなく何をやったか、でもって価値判断する「動詞型報道」、アイドルやタレントが笑顔を振りまいているだけの記事が芸能社会面のトップを飾り続けている日本で浸透するかは甚だ怪しいところだけど、現場で出来ることとして頑張って、「動詞」による記事を広い書いて行くことにしよー。まずは赤ん坊が犬を噛んだ話、からかな。

 先に本を読んでしまったことが果たしてどんな影響を及ぼすのか心配したけど、根が記憶力に乏しい身だったりするんで読んだ内容のほとんどがすっかり頭から抜けてしまってたんで、「新宿武蔵野館」で開かれている園子温監督作品「自殺サークル」を見た時も、しばらく前にゲラで読んだ監督自身による小説「自殺サークル 完全版」(河出書房新社、1000円)の内容がまるで頭から紡がれずに済んで、割にニュとラルな目で映画を見ることができた。感想を端的に言えば小説版は映画版と冒頭こそちょい似てはいるけど展開も表だって出ている主旋律も違ってて、あるいは別物のよーにすら思えてくる。ノベライズだと思って買った人はきっと、あまりな違いぶりに戸惑っただろーなー。

 「JR新宿駅」の中央線に54人の女子高生が「いっせーの」で飛び込んだ所から始まる自殺の連鎖。謎を追う刑事の努力を横目に日本全国では学校から、病院から、大阪城から人が飛び降り屋根から落ち自分で手首を削り取りレンジに頭を放り込む。新宿駅の事件からわずかに数日間を描いた映画は、電車にミンチにされていく女子高生の血塗れな描写なんかを始めに結構グログロなシーンがあって、そんな中に家族の作り笑顔に囲まれ安寧に浸っているつもりの男が家族を失う不幸に直面して、自分っていったい何なんだ、家族との関係にはまりこんだただのパーツなのか、ってな思考を多分巡らせた後に自分との関係を問い直したりする展開がなかなかに身に響く。まあ、あんまり他人と関係を持ってない身なんで響きか方もちょっぴり虚ろだったりするんだけど。

 世界の終わりの始まりめいた内容はなかなかに重く苦しいんだけど、平均年齢12・5歳の少女5人で構成された「デザート」ってグループが劇中に重要な役割で出てきて踊り唄う姿は目になかなかに福々しくって、圧倒的なグロさの中和剤めいて気持ちをスッキリさせてくれる。ただし後で中和剤どころか増幅剤的な存在だったってことが分かって気持ちがいっきにグッと来るんだけど。分からない部分も多々あるけれど、そこは映画の後日譚めいた位置づけな小説版に明かされている部分も結構あって、映画を見たらセットで読むのがやかりデフォルトってことになるのかな。監督自身はこれも映画化したいって言っていたから、鬱屈した姉妹に親父が出てくる豊川とか豊橋の様子をフィルムになるだろーことを期待しよー。「豊橋鉄道渥美線愛知大学駅前で54人の愛大生が飛び込んだけど電車が少ないんで全員擦り傷ひとつ追いませんでした」なんて話になったりして。そもそも駅に54人も並べないんだけど、狭くって。


【4月18日】 それとなく伝わって来てはいたけれど、何でもメルセデス・ベンツなんてゴージャスな車に乗って運転していたことろ事故に遭い、結構な怪我をしてしまったとかで、去年たくさん本を出して最近も「ミニモニ」評論を始めに仕事もバリバリやってる岡田斗司夫さんだけに、事故の時に乗っていたベンツというのは、デフォルトでCクラスで良くすればSクラスかも、とか思っていたらこれが大違い。発売された「モノ・マガジン」の「おたく日記」に掲載された事故時の写真に映っていたのは、「ミニモニ」ならぬ「ミニメルセデス」すなわちAクラスって奴で、あのコンパクトな車のボディに、結構なボリューム感を持つボディを押し込んで運転していたのかと思うと、その光景がまぶたに浮かんでちょっぴり笑みがこぼれる。まあAクラスとはいえそこはメルセデス、岡田さんでも楽々なくらいキャビンとか広いから、例えば「ヴィッツ」とか「マーチ」とかを運転しているよーな一杯いっぱい感はないんだろーけれど。

 似合う似合わないは別にして、それにしても凄いのはやっぱりメルセデスの頑丈さって奴で、日記を読むと確か4トントラックに側面衝突されて4メートルとか吹っ飛ばされたらしくって、もしもこれが「ヴィッツ」とか「マーチ」だったら岡田さん、今頃そーゆー話を日記に書いて自分の写真まで載せて稼いでなんかいられなかだろー。警察官によればこれがメルセデスじゃなかったら、確実に死んでたってことらしーし。それが包帯に全身のそこかしこをくるまれてはいるけれど、当日も翌日もしっかりと立って歩いておまけに生きているってんだから、いかにAクラスのミニ・メルセデスであろーとも、SクラスCクラスと同様に人命への配慮が隅々にまで行き渡っていて、どんな衝撃をうけてもキャビンが壊れないよーになっているかが伺える。各方面のとくにオタク層に譲歩伝播力を持つ人の生きた声が案外と、オタク方面でのメルセデスAクラスの売上アップに……つながらないかな、300万円とかあったらLDボックス100セットでも買い揃えるのが心意気って奴だから。

 気の弱い人間なんで表紙がジャージな美少女でなくなった今でも「怒るでー」なんて横山やっさんい言われてしまったらやっぱり買わざるを得ない「サイゾー」。頼まれてもいないのにさまざまな方面で問題化している事態の打開策・再生策を政府とか国とか政治家とか自治体とか諸々の責任者に変わって提言するってゆーメイン企画は量も範囲も抱負で多彩で、読み込めば結構ためになるけど見てその字数の多さに目も虚ろ。それでもイラクについて考えてみたり、高橋源一郎さんにつちえ考えてみたりするコーナーはイラクは官製ではない情報が得られて興味深かったし、高橋源一郎さんのあれこれについて書かれたコーナーはなるほど今の高橋さんの雰囲気を切り出して来ている感じがあって、そのもがきっぷりも伝わって来て気持ちにちょっとだけだけど同情も入る。

 「指輪物語」の映画の字幕のとてつもなさについて紹介した「『ロード・オブ・ザ・リング』の脚本が歪曲された」って文章は、作品が持つ流れや思想も踏まえた上でちゃんと訳された吹き替え番が天下にその名を轟かせる戸田奈津子さんの字幕スーパー版よりも正しいってゆー話を英語のセリフと字幕の対比から検証してあって、そのなかなかな改変ぶりにちょっぴり感心する。英語を字面だけじゃなくって前後の流れも踏まえた上で訳すのが正しいんだってことは変わるけど、「指輪物語」とか知らない人がみたらそれなりに辻褄が合ってしまう翻訳がされているってことだから、その意味においては戸田さんって人の、なるほどな仕事ぶりを強く感じる。

 しかしこーまであれこれ批判されて続けてもなお、字幕界のエンプレスとして闊歩できてるってことはさてはてつまり、英語の翻訳力とはまるで関係のない力がそこに働いていてるって現れ、なんだろーか。伊達に長く業界やってないって奴で、そんなことを露知らず、純粋真っ直ぐにその仕事ぶりを批判した挙げ句に、密かに業界へと伸ばし巡らせたその尾とか踏んでしまったりすると、新鋭なんかはちょっと辛いことになっていたかもしれない。政治経済力に優れた翻訳家だってことに、いち早く気付かせてくれて且つ、そーした才能を満天下に知らしめたっる役割を果たしたって意味で、戸田さんに「ロード・オブ・ザ・リング」のシナリオを頼んだ配給会社だか製作会社の人たちを、讃えるべきだったりするのかも


【4月17日】 届いたトイズワークス謹製「あずまんが大王ちよ父ぬいぐるみ(実物大)」。実物大、って生きて歩いているって意味での”実物”のちよ父がこの世にいるとは思えないんだけど、もしかしたらそのヘンな生き物は今もこの国のどこかにいたりして、雨の降る中で蕗の葉っぱの傘をさしてバスを待ってたり、木のウロで大いびきをかいて眠っていたりするかもしれないんで、真正面から嘘とはちょっと決められない。そんな「ちよ父」が待っているバスはもしかして「かみ猫バス」だったりするのかな、乗る時はもちろん頭からガブリとやられるんだ(それは乗る、じゃなくて呑まれる、じゃないのか)。箱に「業務用」って書いてあるけどいったい何の「業務」に使うんだろー。就職の面接官変わりに座らせて応募者に目を白黒してもらうとか、警察の取調室に刑事の変わりに座らせて、沈黙の眼差しでもって容疑者を耐え難い心境から自白へと追い込んでもらうとか。にらめっこ、強そーなんだよなー。

 「週刊少年マガジン」に「尾崎豊物語」の前編掲載。1992年4月25日の死去からそうか、10年が経とうとしているのか。自己自殺他殺をいろいろな死因が当時ささやかれたし今なおアポロが月に行っていないとゆー話と同じレベルのさまざまな憶測が漂っていたりするけれど、例えば今まだオザキが存命だったとして、実は同じ歳だったりする僕の気持ちに重なる歌を唄えていたりするんだろーか、って考えるとなかなかに悩ましい所があるだけに、あの瞬間を凍結したままで今へと至っておそらくは10年後の4月25日も同じよーな感じで大勢のファンの惜しむ声がざわめく中で迎えたりする人生を、なかなか否定しづらかったりする。爺になったジェームズ・ディーンが考えられない、ってのと同じ奴か。

 けど「若者のカリスマ」として定着したイメージからの脱却を果たそうとして果たしかけてもどこかに自分の意識と世間の認識とのズレが出てしまって、もがきあがいた状況を沈まず逃げずに乗り越えた果てに、当時から傑出していた等身大の視線でもって語り叫ぶその歌作りを、今の等身大の世代に向けて発してくれていたとしたら、このどうしようもない状況の最前線であがきつづける日々ばかりな30代にとって、どんなに心強い声援として聞こえただろーか、なんてことも考えてみたりもする。

 「サラリーマンは気楽な稼業」と唄って受けた時代も半世紀近く(は大袈裟か?)昔になって、大人になりさえすれば何とかなるとゆー希望がどこかにあった学生時代とは違ってどこまで行ってもどうしよーもない閉塞感に押しつぶされそーな大人世代に何からの「卒業」を呼びかけただろーか。イメージ崩れそーで怖いけど、でもちょっと聴いてみたい「36歳の地図」。ともあれ10年、夕日をながめてたって場所からは醜い焼却場の煙突が見え巨大なホテルが見えるよーになり、背後のビルは持ち主だった「東邦生命」が消滅してしまったけど、これから先のさらに激動が予想される10年20年を乗り越えて、再び三度「少年マガジン」に「尾崎豊物語」が載ってその偉績が広く知られるきっかけになることを願おう。

 聞いてはいたけど天下の「BT」こと「美術手帖」に何あろー当ページが紹介されていたりするのを見るのは面はゆいけどでも興味深い。各界で活躍しているいろいろな人たちに、それぞれのフィールドから見てアートに絡んた本とサイトを5つづつ挙げてもらうって企画にアートマネジメント代表って立場で「オフィス・マッチング・モウル」の内藤美和さんが登場。ギャラリストから今は展覧会とかセミナーとかの企画・運営を手がける人になっていて、その立場で例えば佐谷画廊の人が書いた「アート・マネージメント」(平凡社、2300円)って本とか、川俣正さんの「アートレス マイノリティとしての現代美術」(フィルムアート社、2400円)なんかを紹介している。

 ウェブサイトは1つは自身の「オフィス・マッチング・モウル」で、豊川よりははるかに都会だとは思うけど全世界的に見たらシアトルよりは田舎かもしれないし愛知県でも一宮市と比べるとどっこいな岡崎市を拠点に活動している関係から、メディアにそれほど取りあげられない状況にあることを憂いつつ、そこで溜まったエネルギーをサイトの充実にぶつけてるって話が添えてあって涙なくしては読めない。地方って、そーなのよ。

 当方の紹介は小さい4つの1つで何でも「他ジャンルからなされる現代美術への言及はいろいろな意味で興味深い」そーで、どれそれと指摘しにくいときに使う「いろいろ」に、バサリッと説明しづらいときに使う「興味深い」が並んでいたいるする部分に、指向性ゼロなんで本にまとめよーにもプロモーションのことをかを考えると不可能で、内容のレベルもゼロからマイナス1万くらいまでバラつきがあったりする当ページの特質を感じる。こう指摘された以上はアートとか勉強して当たり前のことし書けなくなるくらいだったら一切を気にせず徹底して部外者の傍若無人さで、興味深いいろいろを出していくことにしよー。とりあえず村上隆さんは今が正念場だ(その指摘は別に珍しくない)。


【4月16日】 2回目、だからなのかあるいはおーさか、だったからなのかアニメ版「あずまんが大王」は、第1回目の時に感じた間合いのズレがあんまり気にならなくって、ゆるゆると過ぎゆく深夜の時間にどっぷり浸って、分かってはいるけど何度見ても心にじんわりと来るエピソードにオチを堪能することが出来てしまった。想像するならあらかじめ、間延びした感じがあることを認識した上で体内のリズムをそれにシンクロさせていたんで、ズレを感じなくて済んだのかもしれないし、可愛いんだけどジタバタした所があるちよちゃんと違って間延びした言動が特徴のおーさか中心のエピソードが演出の間合いにピタリとハマっただけなのかもしれないけれど、途中にゴキブリ退治で爆発した智ちゃんも、ちゃんとシャキシャキ演技してたんでこれはやっぱり単純に、ちよちゃんの解釈の違いが間のズレになって現れたんだろーと理解しておく。気がむいたらもー1度、1回目を見直して考え直してみよー。初めて見たけどオープニング秀逸、木村がぁぁぁぁあ。

 これは単純に諦め気分が精神を動物化させてしまっただけだと思うけど、実写版「鋼鉄天使くるみPure」も割に普通の気分でのんべんだらりと見ることが出来て、人間のあらゆる環境に対する耐性の高さと柔軟性に我ながら驚く。重力的になかなかに厳しい体型の主役メカ、ってゆーかつまりは「くるみ」も慣れればなかなかに肉感的で樹齢で言うならスーパーモデルよりは1000年分は歳月を重ねている、よーに見える直径を誇る美脚もそれはそれで抱え甲斐がありそーで、テレビでは映し出されはしないけれど脳内でそーした場面を想像しながら見ればこれでなかなかに楽しんで行けそーな気がしてる。それにしても2話めまで見てまるでくるみが部屋から出ず誰とも戦わない展開に、どこが「鋼鉄天使」なんだと心の奥で100ぺんくらい突っ込んではみたけれど、オープニングとかに登場している他のメカっぽい奴等といずれは戦ったりするかもしれないんで、馴れたことでもあるしここは毎週の日曜深夜の「F1グランプリ」前後を、頑張ってそのふくよか過ぎる体型が醸し出す初夏のムレムレ感じに気持ちをハメていこー。僕は我慢強いんだ。

 ムレムレな空気の漂う神楽坂をのぼって出版会館だかにある会議室で開かれた「Books.or.jp」の発表会見に出る。97年頃からすでに動いていたサイトだけど新しくネット書店の大所とアフェリエイトプログラムだかの契約を結んで、検索で出てきたデータをもとに簡単に本を買えるよーになったんだとか。実は今日まで存在を失念していたこともあって使い勝手とかよく分からないんだけど、仕組みなんかに協力したマイクロソフトがわざわざ会見に臨席しては「.net」構想の勘所を紹介する死ぬほど長い映像を見せやがったりするデモンストレーションをやったりして、相当に気合いの入ったシステムになっていそーな感じを受ける。しかし「.net」のプレゼン映像に出てくるフリーの営業マンがやってたネットでショップを回ってサービスを引っぱり出したり情報を集めて顧客に提供する仕事、人間ポータルみたいだったけど将来出てくるんだろーか。

 会見に出ていた日本書籍出版協会の何とか委員の佐藤隆信さんって名前にピンと来て確認したらやっぱり新潮社の社長の人だった。顔だけ見るとまだまだ全然若くって彫りの深い顔立ちに日焼けした肌をした静観なヤングエグゼクティブって雰囲気で、なるほどこれなら巷間スポーツ好きと言われている意味もよく分かる。そんなスポーツ好きが依然は結構災いとしてとらえられてて、やれ中央公論社の二の舞だのと囁かれていたけれど、ここんところの鈴木宗男辻元清美のダブルスクープで急速に部数を持ち直しているよーに見える「週刊新潮」の印象が、会社全体に波及しているよーな感じもあってこのまま一気に持ち直してしまいそー。スクープ1発で立ち直るんだから雑誌って不思議。定期購読が旨の新聞じゃーこーもダイナミックには動かないんだよね、スクープなんかしたことがない僕の言うことじゃ全然ないけれど。

 あるいはそんな佐藤社長に見初められた、ってことは多分ないんだろーけど「週刊新潮」でなななななんと三浦しをんさんがエッセイの連載を始めるとかで仰天吃驚呆然唖然。「Boiled Eggs Online」の方に情報が出ているけれど、先のNHKラジオでの「ネガティブハッピー・チェーンソーエッヂ」のドラマ化に続いてメジャーなメディアへの契約作家の続々進出達成で、いよいよもって本格的に作家エージェントの時代が来るのかこないのか。それにしてもオヤジな印象の強い「週刊新潮」のどこで一体連載するのかもしかして「男と女の事件簿」(まだあったっけ?)を妄想炸裂な文体で担当するのか、なんてこれまた妄想してみたりもしたけれど、そこはそれ「女が作るページ」なんてのも確かあった週刊誌なんで、女性の読者獲得に向けた布石その1くらいの位置付けて、可憐なキモノコスプレ姿の写真もあでやかに巻頭のグラビアを飾ったり……しないよなあ。「週刊文春」の林真理子さんの連載回数を抜かすまで頑張って続けて下さい、その時でも年齢は22歳、とか主張してたりするのかな。


【4月15日】 結構知られたことだけと実は当方口先ばかりで、言うは言うけどこと実態となると案外に醒めたところがあったりして、だから「ミントたんぷちこちゃん」と天下の「SFマガジン」の近況欄で吠えて2人が揃ったバレンタイン限定グッズは買っていても、肝心の角川書店から出ているムック「ギャラクシーエンジェルキャラクターブック」(2000円)は買ってなくって当然ながら「ぱたぱたミントのみみ」も手に取っておらず、従って中に設定集がざっくり掲載されていることも知らずにいたんで、それがまんま「アニメージュ」の2002年5月号に掲載されていることを知らず呼びかけてしまって、熱烈なヴァニラさんのファンの方には「アニメージュ」を買わせてしまったことは半ば申し訳ないことだったかも。

 とか思ったものの、記事の方がこれはいささかフォルテさん寄りではあるものの、新番組の嵐の押されてなおざりにされることなくしっかりと掲載されていたんで、些少なりとも買って良かったと感じて頂けた可能性もあるかもしれないってことで、ここはこらえて設定画集ともども楽しんで頂ければこれ幸い。さらに言うならO野編集長には第3期の製作と放映を当然ながら地上波でもって促す意味でも、毎月の一定分量をちゃんと「ギャラクシーエンジェル」に割いて下さいと、臥してお願いすることにしよー。やってくれたら当方、期間限定ながら池袋にある「ゲーマーズ」で販売していた、本来だったら3月30日に開かれた「キャラクターエンターテインメントコンベンション」限定の「ミントのみみ」を頭につけて「SFセミナー」の会場で、「『アニメージュ』を読もう」と心の中で来ている皆さんに呼びかける覚悟であります。いやなかなかに良いものです「ミントのみみ」。禿頭にはとてもとっても奇妙です。

 某所のチャットにて。そうか来られるのかだったら今度こそはちゃんと「郵便的」(初版)にサインしてもらおーとか思ってみたり。もっとも、当日は可能だったら等身大(95センチ)の「ちよ父」ぬいぐるみか、だめなら等身大ではないけど結構な高さのある「ぷちこ」のぬいぐるみか、それも無理ならこれは等身大かもしれない「ほっけみりん」のぬいぐるみをディパックに仕込んでいかないといけない(義務?)んで運び切れない可能性もあるんで、ここは1番軽い「動物化」の方にして頂くことにするかなー。もしもコスプレして来るんだったら買った「ミントのみみ」は貸して差し上げますが、いかが。

 豊橋って町は市街地はまるで狭くってちょっとはずれると広がる畑に田圃に電照菊のハウスがあって、風おだやかに日差しも緩やかで気持ちがとってものほほんとして来て、仕事さえあればそこにずっと住んでいたいものだなー、と思わせるところが多分にある、部屋代なんて滅茶苦茶安いし。本がないと生きていけない人間でも、町まで出れば駅前に巨大な精文館書店があってだいたいの本が揃っているし、珈琲が飲みたければアーケードの中にある「鈴木珈琲店」にはいればとびっきりのストレートかあるいはブレンドを頂けるんで心配ない。ヤマサの竹輪に菜めし田楽と名物も多々あるんで安心。そんな居心地の良さが、中国関係の史料にかけては全国でも有数の図書館があるってことを考慮に入れても、中国関係の歴史小説で鳴り響く作家をして14年以上も豊橋い居着かせていて、今また学校を出たばかりの叙情的なミステリーで成る若手作家を居着かせている要因になっているのかも。

 だから条件で割に似たすぐお隣の豊川で生まれて暮らす女子高生が、閉塞感から家を飛び出して東京へと出て、謎めいた女性といっしょにレンタル家族の仕事をしながら生きていく展開が描かれた園子温さんの小説「自殺サークル」(河出書房新社)を読んでも、どーしてそんなに豊川豊橋あたりの暮らしに息苦しさを覚え、そこで地元紙の編集をしてちまちま生きている親に引け目を覚えなくっちゃならないんだろーかと悩んだけれど、豊川豊橋い比べれば都会の名古屋で生まれて安らぎを求めた異邦人、あるいは地方から学校いやって来て親とも地縁とも無関係な中で暮らしている異邦人にとっては住み良い場所でも、そこで生まれてそこで育ちそこに居続けなければならない身には、どこでも同様に豊橋豊川は出ていくべき地方、どうしようもない田舎だと感じられたのかもしれない。豊川市生まれと経歴に書いてある園監督の、偽らざる心境ってところか。

 山下定さんのエニックス・ノベルズ版を読んでなくって古屋兎丸さんの漫画版も手に取っておらず、もちろん園子温さんが撮った劇場版の「自殺サークル」も見ていない身にとってこれが初物だった園監督による小説版「自殺サークル」が、どこまで映画を反映したり原作やコミックをなぞったものかは分からないけれど、映画のトピックとして語られる54人の女子高生の電車ホームへのいっせい飛び込みとゆーショッキングな出だしはそれとして、本編の方では家族の絆のわずらわしさから逃れよーとした若者の、迷いと蹉跌の果てに至る胎内回帰、そして再誕生とゆー一種成長の物語が描かれていて、どこか詩的なところのある文章とあいまって、タイトルから浮かぶ血生臭さとは対照的な静謐な感じを与えてくれる。割に文学。青山真治さんの小説版「ユリイカ」とどっちがどれくらい面白いんだろー。「ユリイカ」も読んでみるかな。

 例えば朝日新聞社で、毎週月曜日の午後7時から、その日の午前中に開催された社長を囲む会議で発せられた社長の「お」言葉をあまねく社員へと伝えるために、あらゆる記者を集めた会合が開かれるとなったら果たしてどれくらいの出席者があるんだろーか。あまつさえ社長の話のなかで新聞が事業とかできるのも広告とか入るのも、良い紙面があってのものだとゆー指摘があったと言ったその口で、締め切りも迫った午後7時、役所立ったら中を回って役人から直接言葉を聞く絶好の機会の午後7時からの会合は絶対出席に近いもので、だから記者はなるたけその時間は取材とかいえれずに開けておくよーに、なんて言われたら果たして、どれくらいの人が上からの言葉を理解し納得の上で実践するだろーか。まあ余りに仮定の過ぎる絵空事なんで、考慮するに値しないと言われる可能性が高いんで、ここはとりあえず空想の力を醸成する意味からも、そーゆー新聞社が会った場合に果たして記者は何をすべきかを、考えてみてはいかがだろー。鳴り響くチャイコスフキー「弦楽セレナーデ」。


【4月14日】 とゆー訳で日曜の朝に絶対正しいアニメーションだとアニメ版「ぴたテン」を認定したので「ギャラクシーエンジェル」が終わってしまって哀しいとか、あまつさえ「コメットさん」が打ち切られて憎らしいとかいってメソメソしているいささか大きめの子供たちも、ここは素直に田原総一郎のどう見たって悪与力面にしか見えない顔を眺める直前の30分を萌え萌えな気持ちで過ごそーではないか、とか言ってみるテスト、いや未だひきずっている人とか多そーなんで。ともかくも本日朝の第2話に限っては、美紗がどちらかといえば他人の想いをかなえる橋渡し役を意図しているしていないに関わらずやっていて、小星ちゃんが湖太郎ちゃんに対する淡くて切なさぎっしりな気持ちをアップルパイにこめて送り届ける手伝いをしっかりしていて、見ていて気持ちがホコホコとして来た。

 デフォルメってゆーかギャグ顔を爆発させて驚きまくる小星ちゃんの演出も、繰り返しをこれ以上させれば鬱陶しくなるところを直前で寸止める微妙さでもって見る人をウンザリ……じゃないニンマリさせてくれたし何よりあの謎めいた小星ちゃんの猫耳がまだ、小さかった頃にもちゃんとついていたことが分かってあるはもとから頭につけて生まれて来たのかもしれない、なんてことは流石に想わなかったけど、生半可なアイティムではないことくらいは分かって勉強になった。勉強が何の役に立つ訳ではないけれど。ちなみにニセ猫耳の「でじこ」は夜、眠る時はちゃんと猫耳を外すんだけど小星ちゃんはどーしてるんだろ。帽子タイプの「でじこ」は簡単に脱げるんだろーけど、小星ちゃんの場合は頭蓋骨にネジで止めてるっぽいし(ちょっと痛そー)。

 試写では見たけど劇場ではまた見てないんで同時のシャッフル上映が何にあたるか一喜一憂する経験をできずにちょっと悔しい今日この頃、なんだけどその「機動警察パトレイバー」の新作と同時上映されているショートストーリー「ミニパト」が、当初は「人狼 JIN−ROH」で作が監督を務めた西尾鉄也さんによるイラストエッセイ「週刊少年ひとおおかみ」のアニメ化ってあたりで企画されてたらしい話があって、もちろん劇場版の「パトレイバー」と同時上映されることになった時点で企画も「ミニパト」に切り替わった可能性があるけれど、もしも当初の構想どーりに「ひとおおかみ」の映像化が進められて、それが「パトレイバー」と同時上映されることが決定して且つ、今と同じ時期に「パトレイバー」が上映されたとしたらちょっと世界的にいろいろ顰蹙を買う事態になったかも、って考えて世の中って案外にうまく出来ているものだと感心する。このご時世、健気に自分を吹き飛ばす少女が主役の「ジバクちゃん」なんてアニメはちょっと公開できないだろーから。「ジバクくん」なら良いのかな。

 陽気に誘われて外苑前の「ワタリウム美術館」へと出向いて「バックミンスター・フラー展」を見物する。バックミンスター・フラーとゆーのはえっと何国人だったっけ、バッフクランとは無関係? それは知ってる。仕事の方は結構有名で、正三角形を組み合わせて球形にした「ジオデシック・ドーム」こと通称フラー・ドームを提唱した建築家・デザイナー・アーティストってことで、今もその業績が広く伝えられている。展覧会にはそんなフラーが過去に手がけたり構想した仕事が模型や写真や映像なんかで展示してあって、何10階にもなったビルを巨大な球形で覆った仕事とか、SFなんかに出て来そーな建築物も中にあってレトロフューチャーなイメージをかき立てられた。階数こそ少なくはなったけど中に建物を置いたドームは1967年の「モントリオール・エキスポ」で「エキスポ・ドーム」として実現してるから、決して単なる夢ではなかったんだけど。その辺りがただ構想するだけの人とは違う、現実においてどれだけの成果を残せるかを考える建築の人、ってことになるのかな。

 未来的なイメージで言うなら「ウィチタ・ハウス」ってアルミの屋根で覆われた円形の建物があって、1946年なんて大戦後まもない時期に考えられたとはちょっと思えないくらいに先鋭的なフォルムをしているんだけど、工場であらかた作られたものを現場に運んで組み立てるってゆー、今のプレハブ住宅の仕組みが今のプレハブ住宅なんかよりよほど格好良いスタイルで、ほとんど実現可能なレベルで思考されてたって辺りもやっぱり凄い。それより昔の1929年に設計された「ダイマクション・ハウス」は、中央の柱からワイヤーで吊った6角形の床の上に部屋を作る構想がさらに先鋭的。中央の柱の強度やそこから下げるワイヤーの強度の維持が上に屋根とか壁とかを積み上げていく普通の建築よりも安価で簡単かは専門家じゃないんで、フラーの構想が広く受け入れられたかはちょっと分からないけど、実現していたら建築の風景もきっと今よりもっと面白味のあるものになったんじゃなかろーか。

 建築も凄いけどもっと凄かったのが「ダイマクション・カー」って奴。前2輪で後ろ1輪でエンジンは後ろにあって前輪を駆動させ、操縦はハンドルで後ろの1輪を左右に舵のよーに振って行う仕組みになっているんだけど、シャーシに被せた流線型のボディの「ダンガンレーサー」っぽさも去ることながら、ニュース映像として残っている運転の場面で車体のほとん先っぽを軸の中心にして1点をぐるぐると回ってみせる最小回転半径の小ささに仰天する。前輪を軸にバイクでやるスリックターンを自動車でいとも簡単にやってみせていて、これだとどんな狭いロータリーでも細い道でも簡単に方向転換して進んで行けそー。実際に本当に簡単にできるかどーかはこれまた自動車の専門家じゃないんで分からないけれど、これまた実現していたらやっぱり街の風景も、道路とか広場の設計に絡めてもーちょっと違うものになっていたかもしれない。そーならなかったのはやっぱりどこかに無理があったからなのかな。けど今に業績が伝えられるってことは単なるほら吹きではなさそーだし。今の技術で誰か作らないだろーか、タカラの電気自動車にならってタミヤが実物大「ダンガンレーサー」として作れば面白いんだけど。

 ラブコメ&ポップ「ヘルシング」? ってな感じを受ける人も案外といそーな「電撃ゲーム小説大賞」選考委員奨励賞受賞作の鈴木鈴さん「吸血鬼のおしごと」。日本に移り住んで数千年、今は昼間は棺桶で眠り夜な夜な起きて生き血は吸わずにバイトに出かけて血液パックを買う金を稼ぐ吸血鬼の月島亮史は使い魔の猫のツキと古い館で暮らしてる。ある日幽霊が現れて、見ると顔面無茶苦茶で痛そーにしてたんで、言ってシンパイナクテモイイと言ったかどーかは別にして、幽霊難だから願えば何にだってなれると諭すとこれがどーした、ネグリジェを来た綺麗な少女の幽霊になりました、おしまい……じゃないそこから物語りは本格スタート、遠くローマから送り込まれたシスターのレレナが迷った挙げ句に転がり込んで来ては、天敵どーしがひとつ屋根で同居するいかにもな構図へと向かっていく。

 どーやら亮史には因縁のある相手がいるよーで、クライマックスに示唆されたその天敵とのバトルがこの先繰り広げられそーな辺り、デビュー作なのにシリーズ物を担わされるヤングアダルト系作家の業を見る。受けて次がちゃんと出れば良いんだけど出ないと「あれは何だったんだー」って欲求不満も募るから。まあその意味で「吸血鬼のおしごと」は内容も楽しいしし引きも面白そーで先については期待できそー。引っかかるのは亮史の闘いぶりが何だか「クロムウェル術式拘束」(だったっけ)の限定解除を受けたヘルシングみたいな部分。原典にあったり他の吸血鬼物にある描写って可能性もあるけれど、目で見た衝撃のでかささは平野耕太さんがトップクラスなだけに、読んでもどこかそのイメージに引きずられてしまい、オリジナリティって部分にちょい抜ける。まあそーした効果は効果として、本筋でもってこれから先にどんな因業を描き上げてくれるかって楽しみ方もあるんで、とりあえずが次巻の展開を待つとしよー。


【4月13日】 抽象絵画、っていうと描かれているもののフォルムとか色彩とかさえ目に訴えかけて来るものならば、そこに意味なんでなくても良いんだし大抵は意味なんてないんだろーとこれまで思っていて、例えばカンディンスキーなんてその右代表のよーに捉えていたけど東京国立近代美術館で3月26日から始まっていた「カンディンスキー展」なんかを見ると、実は本来とゆーか本質的には具象っぽい人だったんだってことが分かって、自分の見る目のなさを恥じ入るとともに改めてカンディンスキーって人がかくも尊ばれいるのかを知らしめられる。

 モスクワ大学で法学とかやってたって人だからつまりは日本で言うと東大法学部を出た超エリート、国家を背負ってバリバリと働く人になってしかるべき人材だったのに、何故か遅く美術を初めて始めのうちは風景画を手がけていたのがだんだんと描かれているものの輪郭が崩れていって、つにはパッと見、何が描かれているのか判然としない具象の大家になったってのが経歴だけど、今回の展覧会は浅田彰さんが「WEB批評空間」に書いているよーに、具象から抽象へと進んでいったプロセスにまさに焦点を絞った展示内容になっていて、フロアこそ1階の半分くらいと小さいし、展示してある作品数も何百に及ぶものではないけれど、充実感を味わうことができた。

 たとえ何が描かれているのかは判然としなくても、それはカンディンスキーが目と頭で具体的にとらえた対象を、脳内でモーフィングをかけフィルターをかけた挙げ句に手から筆を通してカンバスに定着させていったものであって、決して脳内に溢れ出たドラッグが見せた架空の形象虚構の色彩なんかじゃなさそーだ、ってことが伺えた。それが証拠に時折は具象に戻ってロシアの娘の姿をジャガールっぽい色彩・フォルムで描いてみたり、モスクワ郊外とか近隣の風景をこれはしっかりと具体的に描いてみたりしていて、未だ具象を1枚も書いたことがないって聞いてるフランク・ステラみたいな現代アーティストとは、やっぱり違う存在だったのかな、ってなことを考える。

 1300円とはなかなかに豪快な値段だけど、具体的なモチーフを脳内でモーフした上でベタベタとカンバスに塗り付けていった感じがとても出ているよーに思う「コンポジションVI」「と「コンポジションVII」が並べて展示してある内容は貴重にして絶妙。これを逃すとおそらくは今世紀中は見られない光景だろーから、リニューアル以来とっても増えた若い女性のコンパニオンってゆーか監視員の姿を拝みに行く楽しみも含めて、見物してみてはいかが。新しい監視員のナッパ服が文字どおりのナッパ感に溢れてて地味過ぎるのだけはちょっと気に入らないけれど。綺麗な人が来ても全然綺麗に見えない服って初めて見たよ。

 近所の学校から出てくる女子中学生女子高校生の姿を目で追いつつ竹橋駅から大手町を経由して銀座へと抜けて、何やら人でごった返す「ホテル西洋銀座」の裏手の公園近くまで出向く。稀代の悪法といわれながらもその名称が持つ何やら正義の見方っぽい雰囲気が、なかなか一般的な人に成立した場合の危険性を感じさせるに至らない原因となっている「個人情報保護法案」。それがあろーことか近く国会で取りあげられて、もしかすると今国会で成立してしまうかも、なんてトンデモナイ事態になっていることに危機感を抱いたジャーナリストの人たちメディア関係者の人たちが、国会に向けてデモンストレーションを敢行するってんで見物に行く。

 主体になっているのは、「青少年社会環境対策基本法案」なんかも入れた「メディア規制3法案」を称して「悪の枢軸」と位置づけ、「悪の枢軸を撃て!」って名称で運動を繰り広げている人たちで、「マガジンハウス」に連絡先があるってことは去年の秋に日比谷野外音楽堂で開催されたシンポジウムから繋がる活動ってことになるのかな。「ロフトプラスワン」でお馴染み平野悠さんの姿も後尾にあったんで多分そーなんだろー。去年の日比谷から今回の銀座まで、外野にまで突き抜けた活動があんまりなかっただけにどーしちゃんだろーと思っていたけど、ここに来て動きが風雲急を告げてることもあって、しばらくは活発な活動が続きそー。

ギコ猫も応援、メディア規制3法案逝ってよし  さてパレード。東京に来ている沖縄出身の学生がたぶん中心になっているエイサーの太鼓と踊りを先頭に、続くは吉岡忍さんらをはじめとしたそれなりに有名なジャーナリストとか作家とかの人たちが、喪服に身を包み手に手に宮武骸骨桐生悠々鈴木東民等々の規制を戦ったジャーナリストの遺影を持って歩いて来て、ヘルメットに央段幕に赤い旗にシュプレヒコールが定番化している一般的なデモとはひと味違うところを見せてくれる。中に頭の上から垂れ幕を下げて胸をツンと付きだしながら歩く美女がいたけど一体誰だったんだろー、後で集まった日比谷公園では子供をあやしてたから誰かの奥さんなんだろーけど、うーん美人だったなあ。

 あと「青少年社会環境対策基本法案」の成立とそれから「児童ポルノ法」の改悪なんかをにらんで反対の活動を続けている漫画家さんたちが集まった「連絡網 AMI」から有志が何人か参加してて、手に漫画家さんらしーイラストの描かれたプラカードを持ってあるいている姿も発見。山本夜羽さん鎌やんさんほか8人くらいいたのかな、勢力としてはそれほど大きくはなかったけど、写真とかとられていたしテレビにもちゃんと映ってたんで、アピールだけはちゃんと出来たって言えるかも。

 ゾロゾロと続くパレードの中には頭を全員がアフロヘアに変えたダンスマン軍団もいたりし、「おジャ魔女どれみ」の多分コスプレをした幼女がいたりして目にも楽しいものに仕上がっていたけれど、後尾について歩く一派は労働組合だからだったのかそれとも学生運動の流れを汲む人たちだったからなのか、赤い旗に赤い横断幕、手にはメガホンを持って一斉にシュプレヒコールを上げるいかにもなデモンストレーションスタイルで、あるいは一種パロディ的なニュアンスでわざとそーゆースタイルをとっていたのかもしれないけれど、銀座を通りがかった人にはやっぱり旧態依然とした「何でも反対」的なデモに見えてしまった可能性もあって悩ましい。

 「個人情報保護法案」の危険性がもっと知られていたら見る人たちの応援する気持ちも盛り上がったんだろーけど、今もって「情報を守ってくれる良い法律」って印象がその字面から一般に伝わっているか、あるいはまるで知られていない法案だけに、目立って忌避感を与えるよーな雰囲気はやっぱり馴染まないって気もする。だったらどーすれば良いかってことになるけど、デモ事態がシラケ教育に染まった日本人のハートを引かせるところがあるから難しい。たとえば世間がえっ、と驚く有名人が参加するとかしていれば、見る目も変わるんだろーけど、そーゆー効果を持つ人は例えば「愛知万博」なんかには積極的に自分を売り込んでも、表現に関わる問題なのにこーゆー場所には絶対に姿を見せないからなー。

 作家もそれほどいた訳じゃないし漫画家だってエロ漫画の人たちくらい。ありもしない著作権を主張して吠えている海賊漫画家なんて権利を脅かされそーな事態に率先して立ち上がれば良いものだけど、多分姿を見せないだろー。そもそもこーゆー法案が出ていることすら知らないかも。猪瀬某田原某ってテレビじゃ威勢の良い人たちが、街頭で先頭に立って直アピールをすれば効果も絶大なんだろーけれど、そーゆーことをするには有名過ぎるからなのか、壇上で討論会はしても一般の目線に降りてアピールすることなんてない。そんな中にあってちゃんと見に来ている永江朗さんは流石っす。

 結局最終地点の日比谷公園まで付き合って、最近の権力による締め付けぶり、右旋回ぶりに危機感を抱いているシンガポールの女性ジャーナリストの手伝いをしてビデオカメラを持ってあげたりしたけれど、名前を聞くのを忘れてちょっと残念。なかなかにスレンダーな美女だっただけに、後悔の念が募る。そんな外国のメディアの絶大な関心をよそに、果たして日本のメディアがどこまで真剣に、法案潰しに取り組んでくれるのか、相手がお上だと腰が引けやしないか、適用除外を餌に分断され説得され離脱して行きやしないか、ってあたりも含めて事の成り行きを、とくに月末から来月にかけての動きを注視していこー。


【4月12日】 NHKのFM「青春アドベンチャー」で放送されたラジオドラマ版「ネガティブハッピー・チェンソーエッジ」が終了、エンディングに小説のタイトルの元にソラミミでなった「「boat」の「Thank You&Good−Bye」を持って来るあたりの小憎らしい演出に、ドラマを演出した人の滝本竜彦作品への愛を見る。名前を見ると岡本幸江さんてあるから多分女性の方なのかな? 小学館から発売中のおハイソな女性誌「Domani」に掲載されてる滝本竜彦さんへのインタビューも担当が確か女性でしかも、あの低年齢ベクトルなエロスが炸裂する描写満載な「NHKにようこそ!」を、引かずに気に入って読んだって言ってたりするし、「ひきこもり」なんて他人を引かせる主題を前面押し立てながらも中身の方で、落ち込んでる気持ちを高揚させるパワーでもって壁を打ち破り乗り越えながら頑張ってる女性たちに、アピールする部分があるのかもしれない。ちょっと羨ましい、かも。

 ラジオドラマを夜に毎日聞きこんだなんてあれはそう、盲腸で入院していた時だから1983年の9月1日以降だったと思うけど(入試を控えた年の夏休み明けだったから記憶も鮮明)、同じNHKのFMで新井素子さんの「二分割幽霊奇譚」が放送された時以来だからかれこれ19年ぶりってことになるのかな、そうそう緑魔子さんとか出てたんだったっけ、あと島津冴子さんとかも。それはさておきラジオドラマ版「ネガティブハッピー・チェーンソーエッヂ」は教育的に正しい表現なんかもあって冒頭ちょっと萎えたけど、そーしたセーシュンの倦怠めいたディティールを殺ぎ落として主人公の山本と絵理ちゃんとの押し合いへしあいを主軸に、目標をどこか見失ったまま突っ走った挙げ句に逝ってしまった能登の存在を鏡のよーに対比させ、間をつなぐクッションみたいな役として悩天気のように見えてその実揺らぐ心をなだめようと懸命な渡辺を位置付けて、全体をくっきりと見せよーとストーリーを整理して、前の話から物語を引きずりつつ次の話へと興味つなごうとする連続ドラマのフォーマットに落とし込むシナリオ面の配慮はなかなかに勉強になった。全話の冒頭を「たとえばそのころ、オレは……」で統一して日々の気持ちの変化を集約させた辺りも聞いてて楽しかった。

 原作を知ってる人なんで語られるシーンのほとんどにはすでに脳内でちゃんと絵ができていて、それと結末も知ってるんでどーゆーいささか不条理な展開も、すんなりと理解できたどころかむしろどう語られるかに興味を持って聞くことができたけど、ドラマが初物な人にとって「チェーンソー男」のなかなかに語られない正体とか、絵理ちゃんがおかれている境遇とかを知ってどんな感情を覚えたのか聞いてみたいところ。あと、ラジオドラマを聞いてから原作を読んだ人にとって山本とか、絵理ちゃんの声が頭にどう響くのかってことも。かつてやっぱりNHKのFMで、ミヒャエル・エンデの「モモ」がドラマ化されたのを聞いたのが最初の「モモ」だった身にとって、モモは宮城マリ子さんで神様は森繁久弥さんでペッポは橋爪功さんになってしまうんだよね。確かテープにとってあったけど、でもってこっちに持って来てた記憶があるんだけど、案の定見つからないのが困り者。部屋、ホント変わりたい。

 もっとも安倍吉俊さんの絵が先でそれから「……何がよ」と冷たいセリフを読んで、絵理ちゃんの声に抱いたイメージは最初、占部房子さんの声とは違ってたんだけどすべてを聞き終えた今は山本は原田篤さんだし絵理ちゃんは占部さんで固まりかけてるんで、音声の記憶へと届く強さには改めて感嘆するばかり。耳からの情報を脳が処理しよーと張り切った結果、想像以上に刷り込まれてしまうから、なんだろーか。これで例えば映画かテレビドラマになったら、どんな刷り込みがされてしまうんだろーかって考えるけど、目から入る情報ってのはどーも脳内にあらかじめ結ばれている像と相性があんまりよろしくないんで、ラジオドラマ以上に反発も起こりそー。「ブギーポップ」は未だに吉野紗香さんにはならないし。それでもやっぱり動く絵理ちゃんに動くチェーンソー男を見てみたい気持ちのタップリあるんでNHKでも民放でみ、角川書店でもブロッコリーでもどこでも良いから映像化を、是非に考えてくれて頂きたいもの。絵理ちゃん、誰がいーかなー。

 すでにして記者も含めた社員による早朝からのティッシュ配りとゆー、近代ジャーナリズム史に残る活動でもって満天下にその存在をアピールした「産経新聞」の「休刊日だけど駅の即売分だけは休刊日でくつろいでいる販売店さんを使わないから発行しちゃいますパフパフー」プロジェクト。ほかがどう取り繕っても休刊日の意義を上回ってその行為を正当化できず、かといってジャーナリズムの大義を押し立てて休刊日をなくすまでには至れず早々と”撤退”を決めたらしー中、その真価が問われる3回目の休刊日となる4月15日に向けて今度も、またまたジャーナリズム史に残りそーな作戦を打ち出して来て流石は「モノを言う新聞」、他では考えも及ばないことをやって来るものだと、前例慣例におもねらないその革命精神ぶりに心打ち震わせる。

 今度のアイティムは「大入袋」。休刊日にも発行してるから駅の売店とかコンビニエンスストアで是非に買って下さいってゆー文言が表面に書かれてあって、袋をもらって読んだ人は中のワンコインを持って売店なり、コンビニに行けば良いよーになっている。社員の人はだからこの袋を近隣でも、あるいは通りがかりでも構わないから人に渡して是非によろしくお願いしますとやれば良い訳で、花粉症のシーズンもそろそろ終わりにな今頃にもらってもそれほど嬉しくないティッシュに比べれば、より効果は発揮されそーなアイティムだとは思う。肝心の大入袋の方は週末に社員の人へと袋”だけ”が手渡された模様でもちろん、賢明で成る子会社の代表の人も親会社のプロジェクトに諸手を上げて賛成みたいで当方の手にも何枚かの大入袋”だけ”があるんでこれは日曜日にでも、出かけた先のイベントで会った人に手渡すことにしよー。中身の方は明日にでも自販機の下でも漁って調達して来るか。


【4月11日】 天下の「ニュータイプ」が2002年5月号でドカンと表紙に持ってくるくらいだからきっと、とてつもなく面白いに違いないと確信して見た「.hack//SHIGN」だけどご多分に漏れず第1話を見ずにいきなり第2話から見てしまった(録ってはあるけど暇なしって奴)関係もあって、どーゆー世界が舞台で誰がどーゆー属性のキャラなのかがさっぱり分からず話に入り込めないまま更ける夜に心惑う。一応は発表会でネットワークゲームに関連した話らしーとは聞いていて、6月だかに発売になるゲームソフトにOVAっぽいアニメもセットになるらしーけど、放映中のはそれとは基本こそ同じながらもまた違う話になってたりするんで、あるいは見通しの不透明さから関心を惹起させて本編のゲームなり、OVAなりへと引っ張ろうって腹があるのかも。いや無いかな。

 とは言え見続けるなら多少なりとも世界観は認知しておきたいと「ニュータイプ」ならぬ老舗「アニメージュ」の2002年5月号に付録として付いていた春番組の総ガイドでストーリーとか確認、なるほど登場人物は見かけがファンタジックでもそれはネットワークゲームに登場するアバターで、背後にはちゃんと人間がいるはずなのにも関わらず、一人「司」ってゆー名のキャラクターに関してはいささか事情があるみたいで、そんな事情の理由を追って電脳空間を舞台に虚々実々なキャラクターたちが追いつ追われつを繰り広げるストーリー、ってことになるらしー。キャラだととりあえずはエルフっぽい細腰で鳩胸で顔色の濃い少女の「ミミル」が人気集めそー。けど彼女を動かしているプレーヤーって一体どんなだろ? それを考えると素直に萌えられない。所詮は架空の2次元キャラなのにそこまで考えてしまうのがマニアって奴なんだよねー。

 「総ガイド」をめくってたら27日からスタートで「ワイルド7another」なんてのが掲載されてて心の暗雲もさらに濃さを増す。前に「バビル二世」なんて空前にして絶後とも言える独特な世界観とけた外れの技術を持ったリメイク作品が世に問われたことがあって、それと確か同じ「AT−X」辺りが仕切ってそーな感じがあって、されはてやっぱり「バビル二世」みたくなってしまうのかってな想像に息が詰まる。なるほどそーゆーリメイクもあるんだワッハッハと「バビル」だったら笑い飛ばせたけれど、「魔像の十字路」を揃え繰り返し読みひっくり返った車の座席で逆さのまま召された八百、トレードマークのハーレーの上で息絶えたヘボピー、格好良いところを見せまくった挙げ句にパイソンを手に蜂の巣にされて昇天のオヤブン等々、オリジナルメンバーの逝き様に涙した記憶が20年以上経った今でも頭に焼き付いて離れない身にとって、「バビル」の様な無様なリメイクはこのトトメスが許しません、ってトトメスだったのか自分?

 掲載されてるキャラ表のなるほどスタイルとか顔とかはどこか望月三起也ライクで雰囲気だけは出ているけれど、名前が「ハンペン」に「ダントツ」に「終電」ってのはどーしたものかと頭に鈍痛がは知る。もしかして刑事だって綽名で呼び合っていた70年代ライクな雰囲気をそのまま持ち込んでみただけなのかもしれず、実際「オヤブン」に「両国」に「八百」に「ヘボピー」に「世界」といった名前だって今にして思えば12分に恥ずかしいことを考えると、これらの恥ずかしくも赤面な綽名は実に時代性に溢れていると言って言えなくもないけれど、そーゆー時代の息吹きを吸って育って来てない若い人にはやっぱり、刑事が「マカロニ」と呼ばれる以上に不思議な印象・肌触りを番組から得ることになるのかも。まあ結局のところは本編のストーリーがどれだけ「ワイルド7」ライクかって方が肝心なんで、全13話だかをかけて1つの事件をじっくり描くって方針に従うなら、その昔にあった「エアガイツ」だかみたいな緊迫感のあるストーリーを、見せてもらえたら有り難い。CS、入らないんだけどね。

 何か超久しぶりに登場したって感じの「白泉社My文庫」から発売された新刊3冊のうち、不思議さでは一頭抜けていそーな感じの黒田研二さんの「嘘つきパズル」(白泉社、705円)を読む。冒頭に誰が嘘吐きなのかを探る「頭の体操」の設問が置かれて何だろー? と思ったらなるほど本編の方に大きく関わって来るものだったってことが判明。伊達に冒頭に「頭の体操」は掲げないだろーとは思っても、そこからだったらどーゆー話なのかを直観できない鈍い頭が恨めしい。結論はなかなかにあまりな感じがあって後で読み返して整合性を確かめたくなったけど、そこはおそらくはキッチリと組んでボロとか出ないよーになっているんだろー。作家ってだから尊敬しちゃいます。

 超絶美女の元モデルが何故か嫁いで来てくれた間男(はざま・おとこ)だったけど、やっぱりとゆーか超絶美女の顔に影がかかって早くも倦怠期。これはマズいよ捨てられちゃうよと一念発起したは良いものの、妻を連れて乗り込んだ客船に高波が押し寄せデッキだかにいた間男は海へ落ち波間を漂い無人島へ。やっぱり波にさらわれた6人の男女と合流して、助けを待とうとしているところに謎の一味が襲って来ては、彼らにとんでもない呪いを与えてしまう。7人いるなかの2人にしか呪いが及ばなかったって前提はそれとして、誰がどーゆータイミングで呪われたりしたのかを考えるのはなるほどまさしく「頭の対象」になっている。

 呪いをかけた側のあまりに現実離れした風貌とかがあるけれど、トリックの正体とか犯人とかいったものを推理するプロセスを楽しむ”推理小説”なんだから、現実離れした所があっても構わないのかも。魔夜峰央さんの表紙やイラストは「パタリロ」「ラシャーヌ」的。それを面白いと思う層がお話しを読んで面白がれるか、ってあたりのマッチングが微妙だけど、描かれたキャラの本編とのシンクロぶりは流石ってレベルで、魔夜さんをフィーチャーした編集部なり希望した黒木さんもきっとそのセレクトの妙技に酔っていることだろー。しかしやっぱり銭山をビジュアルの中心に据えてしまうのは如何なものか、って感じ。そこはそれ、ホームページに掲載のストーリーからの付き合いじゃー、しょうがないって言えばしょうがないけど、でもなあ、夢に出て来そーだなー、あのナイス過ぎるボディが汗の匂いとともに。


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