縮刷版2002年2月中旬号


【2月20日】 早川書房の「SFが読みたい2002年版」を買ったその日に同じ物が届いていた悲劇を味わっただけにちょい、躊躇したけどこちらはまずもっては確実にダブらない自信もあったんで徳間デュアル文庫から出た「日本SF新人賞」の吉川良太郎さんによる新作「シガレット・ヴァルキリー」(徳間書店、505円)と同じくデュアルから出た東野司さん「青の妖精」(徳間書店、562円)、エンターブレインから出た「ファミ通えんため大賞」受賞者の野村美月さん「フォーマイダーリン! 月夜は無邪気に竜退治」(エンターブレイン、640円)、飛田甲さん「スターダスト・イレギュラーズ」(エンターブレイン、640円)、本橋ビンゴさん「刀京始末網」(エンターブレイン、640円)なんかをドガドガと買って貪り読もーと思ったけど、とりあえずは読み易そーだった野村さん「フォーマイダーリン!」から読む。大当たり。いや面白い。

 幼なじみで超絶美貌の持ち主で、王都に上って騎士になったらたちまち城とか城下にいる女性たちのアイドルになってしまったユリウスに、会いに行ったリリカだったけど、ユーリのファンクラブとかゆーお姉さま方に行く手を阻まれ、あげくは「化けそこないのタヌキみたいなコロコロとしたお顔を、田舎のお山で作り直しで出直していらっしゃい」とまで言われてしまって大ショック。それがほとんど事実だっただけに怒りの持って行き場がなく、王都の大通りを泣きわめきながら突っ走っている冒頭のシーンからして目に見えるよーなおかしさがあって、その語り口の軽妙さとともにさてはてこれから一体、何が起こるんだろーかと興味を惹き付けられる。

 城からは退散したもののそこは生来の気の強さでもって彼女たちを見返してやろーと、魔法美容でもって美人に生まれ変わろーとしたものの先立つ物がなく、こんにゃくダイエットセットしか買えず。おまけに降り出した雨で「こんにゃくが水を吸って、くらげみたいに溶けちゃうかも」って心配して、飛び込んだ白い建物でリリカが出会ったのが、見かけは10歳くらいの少女でおかめに眼鏡っ娘、その実態は年齢不詳だったりする魔法美容師のティファニーで、これ幸いとリリカはティファニーの弟子になって、自分を綺麗にするための魔法美容の術を勉強することにした。

 とまあ、そんな感じで始まったリリカの王都での修行生活は、流す汗が美容に良いからと竜退治に行こーとしたり夜毎現れては女性から「美」を奪う犯人を捕まえよーと暗躍したりと大騒動の連続。それぞれの話がテンポよく盛り上げられてはしっかりと落ち、そんな中で心をワクワクさせられたりウルウルさせられたりする筆の運びにまず感嘆。軽妙さと話の突飛さとハーとウォーミングな展開がちょいスレ違ってる感もあった「赤城山卓球城に歌声は響く」よりもしっかり、娯楽してて小説してて楽しめる。ティファニー師匠のどーして10歳眼鏡つ娘姿なのか(読者サービス、って訳でもない)、どーしてユーリはクールな朴念仁なのか、ってなキャラへの興味もいろいろあって、3話じゃ全然物足りない。

 シリーズ化の現時点では決まっている風はないけれど、これは是非とも是非にでも、半熟リリカの猪突猛進修行日記を描いて頂ければ有り難い。しかし来月も「天使のベースボール」(エンターブレイン、640円)だなんて、またまたタイプ違いの話を出して来る野村さんってちょっと凄いかも。どんな顔してたっけなあ。ほかは未読。野蛮な女戦士と富士見の日本刀使いのバトル話らしー「シガレット・ヴァルキリー」と日本刀を持った始末人たちがわんさか登場しては鎬を削る「刀京始末網」との”カタナバトル”はどちらも面白そー。イラストの趣味が両極端、だけど。あと東野司さんの「青の妖精」は表紙の少女のバストもなかなかに立派だけど、帯をはずせばこっちはこっちで目にも鮮やか。見れば、買うね、人間だったら。

 10代の恋が盲目なら、30代の恋は臆病、なのかな。課題図書なんで選んで買った訳じゃないけど「ベストセラー作家が贈る話題の30代恋愛小説」って帯に書かれたマリアン・キーズさんお「土壇場で賢く男を選ぶには キャサリン・ケイシーの場合」(扶桑社、1143円)は、30代になってどうもてんぱってしまったと思って焦ってはいるんだけど、そんな焦りを相手に悟られる恥ずかしさとか、焦って突っ込んだ挙げ句に嫌われてしまう恐怖とかから、なかなかリリカのよーには猪突猛進になれないキャリア女性たちの姿を描いて世界の女性から大絶賛を受けている、らしー。

 てんぱってる女性の日常とかをリアルにコミカルに描いたとかで話題になって、ちょっと前に映画も公開された「ブリジット・ジョーンズの日記」の系譜に連なる「30独身女、元気だせよ」本って言えば言えるのかな、帯にもそんな文句があるけれど、だからといって全然、便乗本じゃなくってちゃんんと小説として読んで楽しめるから素晴らしい。広告代理店の経理主任のキャサリンは、浮ついた業界にあって誰からの誘いも受け付けない性格から「アイスクイーン」と呼ばれている。その友人のタラはトーマスという男性と同居しているけれど、食べては食べてはふくらみ続けるタラの姿が気に入らず、タラに精神的肉体的なプレッシャーをかけつづける。

 だったら別れればいいところを、これがラストかも、ってな頭もあってタラから別れたいなんて言うことはできず、かといって結婚を迫ると逃げられるんじゃないか、って恐怖もあってどっちつかずの中途半端な状態が続いている。キャサリンもキャサリンで、同じ会社で働くジョーって男が現れ、「アイスクイーン」に興味を持ったのかしきりにモーションをかけて来るど、そこは「アイスクイーン」だけあってなかなか容易に陥落しない。だったらジョーが嫌いかってゆーと、実は内心嬉しいんだけどそこがやっぱりプライドなのか、それとも迫って逃げられるのが怖いのか、あるいは過去にいろいろあったのか、本音をさらけだせずにいる。

 振られ女が真夜中のロイ・オービソンの「イッツ・オーバー」を29回リプレイしてはサビの部分でうめきながら「イッツ・オーーーーバーーーー」とオクタブーを上げて歌っては近隣に騒音被害をもたらし、会社に行ったら行ったで仕事のシステム開発でバグを出しまくってロンドンじゅうのシステムをダウンさせ、ってな大袈裟っぽいけど嘘っぽくはない比喩的エピソードの間合いの良さとか、読んでいて結構すとすととツボにはまって楽しめる。語り口の軽妙洒脱さはさすがにまだ新人な野村美月さんよりは上手か。部谷真奈実さんの翻訳も上手いのかな。

 キャサリンたちの物語の合間に挟まれる、アイルランドではスターだったけどハリウッドでは端役もつかめずロンドンで自称・俳優の日々を贈るローカンって男のど外道ぶり、だめんずぶりもなかなか。キャサリンたちの日常とどう絡むんだろー、って思ったらこれがしっかりと絡んできて、なるほどやっぱり10代の恋は盲目で、猪突猛進なんだって分からせてくれる。読んでさてはて30代の臆病さが払拭されて猪突猛進さを取り戻せるのか、それとも本は本として日常はやっぱりびくびくとした日々が続くのかは分からないけれど、とりあえずは読んでからどっちなんだと考えよー。考えれば考えるほどドツボにハマルのもまた30代、なんだけど。


【2月19日】 1966年、「全英オープン」での初優勝を果たした帰途、まだ冷戦下にあったドイツは西ベルリンへと訪れた、当時世界最高のゴルファーと讃えられていたジャック・ニクラウスは、周囲を社会主義下にあった東ドイツに囲まれ、いつ攻め込まれるとも知れない不安の中で日々を送っている市民たちが、せめて楽しい時間を過ごせるよーにと映画祭を開催することを提案して、「全英オープン」の優勝賞金を全額寄付。これを基金にして生まれたのが「ベルリン映画祭」で、1番市民を楽しませた映画作品には、ニクラウスのトレードマークだった「ゴールデンベアー」を型取った像「金熊賞」が贈られることとなった。そんなニクラウスの行動をスタンドプレーとやっかんだのが、彼より少し世代の古いアーノルド・パーマーで、対抗して分断国家だった南ベトナムのサイゴンに「サイゴン映画祭」と立ち揚げ最優秀作品には「金傘賞」を贈ろーとしたが、70年のサイゴン陥落とともに映画祭も消滅してしまったそーな。

 むろん大嘘だけど、じっさいのところ「ベルリン映画祭」の一等賞がどーして金色の熊でなければいけないってのは知りたい所で、その「金熊賞」がはるばる海を渡って日本にやって来たってんで、「帝国ホテル」まで「千と千尋の神隠し」の「金熊賞」受賞報告記者会見を見に行く。詰めかけるプレスの中を登場した宮崎駿監督に手渡された金熊のトロフィーは、鉈で刻んだよーな荒い木彫りの鮭を加えた熊を金色のラッカーで塗装したものなんかでは全然なく、重量感のある台座に両脚で立った熊が乗っている、なかなかに高級感のあるものだった。確認した訳ではなさそーだけど、「ベネチア映画祭」の「金獅子賞」の獅子が都市国家ベネチアの紋章らしーってことで「金熊賞」の金熊もあるいはベルリンの紋章なのかもしれない。東京都はだったら東京国際映画祭に「金銀杏賞」って銀杏の葉っぱを金色に塗ったものを渡すのかな。渡してねーよ。

 しかし凄かった記者会見。最初は普通に、ってもいつもながらも宮崎節で賞を取ったのはなるほど大勢の人に持て貰えるきっかけになるから嬉しいけれど、別に賞を取るために作ってた訳じゃなくってむしろこれまでにたくさんの人に見て貰えたことが嬉しいんだ、ってなこと話してた。それがどこかで何かスイッチがはいってしまったか、話している言葉にちょっぴり怒気が漂ったかと思うと急に、アニメばかりを見ていてマンガばかり読んでいてゲームばかりをやっている、今時の子供たちと元子供たちの多いことに対して激しい非難の言葉を繰り出し初めて、「苦節何年、アニメが認められて本当に嬉しいですこれからも頑張ります」なんて、フレームにはめ込みやすい言葉を期待していた報道陣をビクつかせる。

 「昔はマンガを読んでいる奴は莫迦で、中学を出ると読まなくなったし、子供たちに悪影響を与えるものに大人が提供していた。今では電車の中でマンガを読んでいるしテレビの悪影響を誰も論じない。ゲームを理解しない奴は時代遅れだ、なんていう風潮があって、大新聞がゲームの売れ行きを大喜びで書いている」って感じにダダダダダッと出てきた言葉は、字面だけ追えば賢人・宮崎駿監督による雑多なエンターテインメント批判ととられかねず、聞いていてメディアから余計な反発を招きかねないなあ、困ったなあ、って気になったし横に座っている鈴木敏夫プロデューサーも顔が真剣になってて怖かった。「バットで人を殴るような子供が出るんです」なんて言葉、聞きよーによっては(よらなくたって)マンガアニメゲームテレビメディア等々への批判と受け取られそーだし。

 ただ、それなりに長く言動なんかを聞いてきた身として今日の爆発を忖度するなら多分それは、マンガやアニメやゲームは日本を代表する産業なんだ良いものなんだ素晴らしいんだ、ってな産業的視点から中身も考えずに持ち上げよーとする世の風潮に対して、使いよーによっては毒にも薬にもなるエンターテインメント本来の持ち味切れ味を訴えて、無批判に全面肯定するんじゃなく、非難すべきは非難し取り入れるべきは取り入れる自意識を、受け手も送り手ももっと持つべきだって訴えていた、よーな気がして聞いてて背筋がピンと立った。

 「『トトロ』を子供が大好きで1日に3回も見てるんです、なんて言って来る親がいるけどそれは間違い。4時間も5時間もテレビの前にいる訳で、その間にいったいどれだけの体験が出来るのか。ブラウン管に抱きついたって何も生まれない」とゆー言葉は、ある面で自分のやっている仕事と反する部分もあるよーにとれるけど、おそらくは良いアニメとなったらそれにばかり耽溺して、他の体験を拒絶してしまいがちな風潮への批判、良いアニメを見せておけば子供は育つだろーと言って放ったらかしておく無責任な親への批判を込めたもの、なんだろー。だから、本来だったらブレーキをかけるべき親がその役割を果たさず「ますます現実感のないままで子供たちが育っていく」ことを嘆くんだろー。

 もちろん「親がだらしない」と非難する一方で、「一軒の家庭でやろうとしてもムリ」と言ってより広く高いレベルでの改善を訴えていて、先の刺激的な言葉よりもむしろそーしたコミュニティなり国なりのレベルでの教育状況の改善を求めた言葉をメディアは、広い伝えるべきなんだろーと思ったけれど、そこはやっぱりメディアだけに「ゲームのやり過ぎで子供が歪む」だなんて短絡的で一面的な言葉だけを拾ってしまうんだろーなー。かくしてますます日本は、ってことだ。うーん、やっぱり誤解は怖いんで、会場に来ていて挨拶した、今般晴れてか曇ってかは分からないけど「月刊アニメージュ」の編集長に就任した大野修一さんには宮崎監督の真意に迫るインタビューとかやって頂きたいもの。聞くと「SFJapan」の追い込みにもかかっているよーで、忙しいかもしれないけれど、火が広がらないうちに是非。しかしただでさえ眠らない編集者と評判の大野さん、またしても積み重なる仕事に体とか大丈夫なんだろーか。いつ開かれるかどこで開かれるか知らないけれど近くあるらしー「日本SF大賞」の会場に、ブンヤをかたって(ブンヤだけど)潜り込んで顔色とか見て来るか。

 「日本のアニメはどんづまりに来ていて、庵野監督がコピー世代の最初であとはコピーのコピーかコピーのコピーのコピーばかり。これをどう突破していくかがその人たち(庵野さん?)に課せられた課題だ」って会見で宮崎駿さんは言っていたけど、若い世代に入るかはちょっと微妙ながらも新作とゆー意味ではいよいよ公開も間近に迫った「PATLABOR THE MOVIE3」は見るほどに王道で最先端で突破した果てに天へと突き抜けそーな出来で、見ていて日本のアニメもきっとまだまだ安心だって思えて見ていて幸せな気分になる。例えるならば素っ裸の幼女に追いかけ回され抱きつかれ食べられそーになる位の幸せ度って感じ? まあ実際にそんな場面が眼前で繰り広げられてたりするんだけど。

 家のどこかに潰れている「廃棄物13号」を探せば比べられるんだけど、掘るにはきっと3日3晩はかかるんで、記憶を頼りに比べるならば基本線は同じでも登場人物その他は違う話になってる感じ。そもそもが特車2課の連中はほとんど本編に絡まず、綿引勝彦さんが充てる刑事の久住武史と平田広明さん声の若い刑事の秦真一郎とが湾岸で起こる謎のレイバー襲撃事件を追ううちに、背後でうごめくバイオハザードな自体へと行き当たって最後は埋立地を舞台に怪獣と、レイバーとのバトルへと至るってストーリー。特車2課第2小隊が活躍するのはこの最後のバトルだけってんだから、野明ちゃんの明るい声だけを聞きたいって人はだったらOVA版を見ていることをお勧めします、一生の損を覚悟して。

 損は嫌だってんなら、だったら素直に「3」も見ること。見れば納得のストーリー、見れば驚嘆のビジュアルにきっと、21世紀の映画の歴史の一端を見出す僥倖を得られるから。なるほど基本線は「廃棄物13号」といっしょでも、事件の真相へと迫る刑事2人の仲が良さそうに見えてもときどきは女がらみで諍いをおこす、刑事ものにときどきあるパターンも交えつつ、それでもそこは情に流れず安易に走らず、リアルな線でかっちりとまとめる筆のさじ加減がすばらしい。捜査本部でのやりとり、久住刑事のアナログレコードの趣味が後で意味を持つ伏線、おそらくは分かっていたけどラストに改めて提示される科学がもたらした悲喜劇のグロテスクな様、子を想うがあまりに自分を見失い、真っ当そうに見えてその実じわじわと狂気に犯されていくヒロインの描写と、挙げればきりがないほどにシナリオのそこかしこに感心させられる。ラストをまさかああするとは。リアルだしベストシナリオなんだけど、その容赦なさにちょっと驚いた。

 絵も最高。もとよりリアル系の絵だったけど、デジタルの力もあったし恐らくは綿密なロケハンなんかも行われたんだろーか、開発がそこかしこで進みながらもところどころには木造二階建ての家が軒を連ねる都会の街の風景と、そこに住む人たちの暮らしぶりを1990年代っぽく描いて、中央区の新川とか佃島とか月島とかを歩いていたりした時に、見たことのあるよーな風景に記憶が刺激されて心が沸き立つ。そしてメーンイベント「ロボットVS怪獣」のシーン。これを実写でやれば迫力はあっても造型にチープさを感じてしまうそれがあるし、人が潰れたり喰われたりするシーンは別に実写でもシリアスにやってやれないこともないけれど、怪獣映画の伝統に伴うある種の作法との絡みもあってどシリアスを通すのが結構難しいところを、アニメとゆー作法とは無関係な表現形式でもって徹底してシリアスにやっていて、見ていて興奮させられる。

 これまでの話を知らないと難しい”劇場版アニメ”が多い中で、後藤隊長の存在感とか特車2課の役目とかをとりあえずおさえておけば、あとはミステリー調の刑事物として楽しめること確実。「レイバー」が何かを知りたければ「ミニパト」第2話での千葉繁さん爆発なシバシゲオ登場の「ああ 栄光の98式AV」とカップリングの日を選んで行けば理解の度合いも深まりそー。個人的には本編ではまったく活躍しない榊原良子さん演じる南雲隊長のひとり芝居爆発な「ミニパト」第3話「特車二課の秘密!」がうまく組み合わされた日が当たれば、21世紀のアニメは大方が語り尽くされるんじゃないかと思うんで、劇場に問い合わせてうまく日を選ぼー。それにしてもこんなアニメを1年以上も眠らせておくとは、アニメがジャック・ニクラウスに認められた(違うって)とは言ったって、しょせんは浅薄な理解に基づくもので、すべてを認められたとはとても言いがたい。宮崎さんじゃないけどホント、怒鳴り出したくなるよなー。次は「千年女優」を早く見せろ、ってな感じで。


【2月18日】 なんかそのまま「ホワイトハートX文庫」とか「富士見ミステリ文庫」ってなヤングアダルトの文庫から出ていても違和感のないくらい、ライトでポップでエンターテインメントで、おまけにしっかりキャラクターの立ってる話だったりするマーティン・スコットの「魔術探偵スラクサス」(ハヤカワFT文庫、680円)だったりするけれど、ただ1点問題が、それも致命的な問題があるとしたら主人公の魔術探偵スラクサスが中年でデブで大食いの大酒のみでおまけに博打が大好きとゆー、およそヤングなアダルトには向かない設定だってことで、この辺りがなるほど無茶じゃない設定(小学生が探偵やってるとか)を土台に話を転がすことを当然と考える、物書き&物読みの矜持が確立されている、海外ならではの産物だって言えるのかも。

 まあそれはそれとしてこの「魔術探偵スラクサス」は「世界幻想文学大賞」を受賞しただけあって面白い面白い面白すぎるの3言で、魔法の世界を舞台に起こるさまざまな事件に前述のデブで大酒のみ他悪行多数な魔術探偵が、圧倒的な頭脳は全然駆使せず体力と気力でもって立ち向かって行く様がオモシロおかしく描かれる。まずは王女さまから外交官に当てた恋文を回収してくれと頼まれて、行ったら仰天その外交官は虫の息で犯人にされかかったもののとりあえずは無罪放免となってさて、何が起こったのかと思ったところに今度は当の王女さまが別の事件に巻き込まれ、ついでに法務大臣の息子も王子様もさらに別の事件に巻き込まれってなとんだもない状況になって行く。

 中心にあるのはどーやらエルフの宝とかゆー魔法の赤い布の紛失事件で、借金に首をちょんぎられそーになってるスラクサスはあちらこちらの依頼を受けつつ赤い布探しに向かうことになり、そこに別のさまざまな勢力の思惑が絡んでこれまたとんでもない状況へと陥って行く。次から次へと起こる事件に出てくる人物たちの悪い奴は悪く怪しい奴は怪しく弱い奴は弱く頼りない奴は頼りなく、ってな具合にしっかりと描き分けられている様が目に鮮やかで、似た名前で多少こんがらがる所はあるけれど、そんな際だったキャラクターたちが織りなす戦闘に駆け引きに騙し合いに揉まれつつ、一気にラストまで読み通せる。醜い種族の血を引く者への差別の問題も語られたり、虐げられている女性たちが一致団結しよーとする動きを見せたりと現在の社会にある問題が投影されていて、それも決して説教臭くなく流れの中で巧みに、そしてだからこそリアルに描かれていて読んであれこれ考えさせられる。

 おやじ探偵のぐうたらぶりもなかなかだけど、キャラではやっぱりエルフとオルクの混血で奴隷剣士として闘いに明け暮れていた生活から逃げだし、今は酒場でウェイトレスみたいなことをしているナイスバディなんだけど剣を取れば近隣の勇猛果敢な剣士であってもちょいかなわない、マクリって女性キャラに人気が集まりそー。剣の腕はそれとして、向学心が強くて学校に進みたいって希望を持ってて勉強も欠かさない真面目さもなかなかにキュート。その魅力は解説で小谷真理さんも熱く語っているんで、その辺り読んで興味を持ったらもう買うっきゃない、読むっきゃない。大本海図さんの描く表紙のマクリはちょい、筋骨隆々系であんまし萌えないけれど、強いんだからやっぱこれくらいあって当然なんだろーなー。抱きしめられたい。

 傲岸不遜さがここに来て一気に噴出している米帝の別に傀儡なんかじゃないんだけど、星条旗を背負った会社ってことで手を組むことを避けたんだろーかそれとも眼中から単に逸れてしまったからなんだろーか、インフォバーンが発行とそして発売までをも自前でやってる(とっくにやってたって)「サイゾー」が、数あった(過去形)ネット書店でも一応は日の丸な「bk1」と連携して販売をスタート。これでネット企業のワルクチが書けなくなるかってゆーと、そんなことは全然気にせず突っ走る雑誌だろーから、ジャージ美少女が表紙から消えたこれからもそのイジリっぷりを楽しみに読み継いで行こー。まずは「オンライン書店」の使い勝手ランキングとか。1番重たいのは、どこ?

 さても今3月号の「サイゾー」は読み所がたくさん。「インパク」の閉会式で堺屋太一さんがADSLの普及はインパクのお陰と自慢していた話をちゃんと拾っているのはそれとして、大特集の方では善と悪、正義とテロリストに世界のすべてが分類されたことを受けて、って訳ではないけど対立する2つの項目を並べて「どっちの勝利ショー」って聞いたことのあるタイトルで、中国野菜と国産野菜から小池栄子と乙葉、パワーライフとスッポンパワーエキス、こくまろカレーととろける彼、カールとくるりんコーン、ラガービールとファインラガーについて比較検討を行ってる、って食品医薬品ばっか? すいません食品医薬品は特集内特集「ザ・そっくり商品ショー」からの抜粋でした。ちなみに小池栄子と乙葉は独立した項目ですのであしからず、食べたいのは山々だけど。

 「どっちが狂言界のプリンスでショー」はともに今をときめく野村萬斎さんと和泉元彌さんを並べて比べて、その芸の確かさから野村萬斎さんに軍配を上げていて、とりあえずは納得の内容。とは言えけれどもだったら、同じ和泉流野村野村家に属して確か従兄弟どうしだかになる野村万之丞さんと萬斎さんとではどっちに軍配が上がるのかが気にかかる所で、なるほど大河ドラマに朝の連ドラに活躍している萬斎さん、顔もそれなりで女性の人気も高そーな萬斎さんが上に来そーな気もするけれど、ここに来て万之丞さんの方も年頭にNHKで伎楽を復活させる旅をたどったスペシャル番組に登場し、最近では「ウッチャンナンチャン」の番組で狂言部の顧問みたいな役割で、優しそうな顔ながらも思いっきり芸に厳しい所を見せて、やるなあって思わせている。

 芸のどっちが上でショー、となると専門家じゃないんで判断がつかないんだけど、雰囲気はタイプこそ違うけどそれぞれにあるし、萬斎さんが英国に留学して演劇を学んで帰ってこれば、万之丞さんもかつて「インターネット・エクスポジション」ってイベントで大日本印刷に請われて仮面に関するコンテンツをネット上で展開したことがあるよーに、面を使う劇の研究については一家言を持っている、らしー。そうそうNHKの妙なドラマにも出演しては、仮面へのハマりっぷりを見せてくれていたっけ。普通のファミリー風ドラマの途中でいきなり仮面を取りだして着用して、独白を始めるってシュールな番組だったなー。

 つまりはともに舞台なり、演技なり芸なりといった分野で日々研鑽を積んでいる上に、万之丞さんは一門を確か合議制だかに移行して、閉鎖的なイメージを払拭して新しい舞台を作ろーと頑張ってる。宗家と名乗りながら一門から宗家と認められていなかったりするのとは、もう全然フェーズが違う。と、考えてみればみるほど勝ち負けをつけづらくなるんだけど、一般的な知名度ではやっぱり萬斎さんの方がちょっとだけ、先を言ってるのも事実なんでそっちにシーソーは傾きそー。ただし「ウンナン」への出演は結構インパクトがありそーなんで、今年後半にかけて万之丞さん人気も高まって来そー。とりあえずは羽野亜希さんとの入籍でワイドショー人気は確保したけど、元彌さんもうかうかとしてられないかも。大蔵流にはプリンス、いないのかな。

 祝「あずまんが大王」アニメ化、ってことで銀座で開かれたアニメ化発表会をのぞく。エレベーターで妙にキャピッとした、女子社員には絶対に見えない少女軍団と乗り合わせてもしかしたらと持ったら、あとで登場した声優陣といっしょだったんで、しまったもっと良く見ておくんだったとちょっと悔やむ。アニメの方は冬の劇場版と同じ監督さんで作られるみたいで、あのまったりとした中にちょろっとおかずっぽくギャグを混ぜる展開で、きっと進んで行くんだろー。違うかもしれないけれど。4人並んだ声優陣はちよちゃん役に榊さん役に智役におーさか役の各人で、見るとなかなかにそれぞれがアニメのキャラに近い雰囲気を持っていて、実写でだって出来そーな印象を受ける。ってことは浅川悠さんが猫にガブリとやられるんだ。4月から確か月曜の夜中にテレビ東京系で放映。地上波で良かったよ。


【2月17日】 良い話。あまりに良い話なんで1ダースといわず段ボール100箱分くらいに詰め込んで、現在来日中のブッシュ大統領が泊まっている迎賓館かどこかに送り届けてやりたくなった渡瀬草一郎さんの「陰陽ノ京 巻之二」(メディアワークス、510円)だけど、天上天下唯我独尊でオリンピックの金メダルさえも意のままに出来ると信じてるし、事実そーなってしまっているアメリカには、馬耳東風馬の耳に念仏猫に小判ミニにタコ、読んでもきっとそこに書かれている思想のカケラも理解できないんだろー。だったら日本人に理解できるかってゆーと、理解は可能かもしれないけれどいざ実践となるとあきらめが先に立ってしまいそーで、理想を語る物語の持つパワーのなかなかに発揮されない世界に、ちょっぴり暗澹たる想いをいだく。

 なにがそこまでの話かってゆーとつまりは貴族がいて、こいつが結構悪い奴でいろいろ恨みを買ってて今回もそんな恨みのひとつに当てられ意識不明の状況に。とはいえそんな貴族でも可愛がっているひとり娘がいて父親が死にそうになている姿を見て、どうにかしてほしいと陰陽師の安倍晴明たちの所に頼んできた。まずは父親に先がけてと貴族を襲った犯人を探して居場所にどーにかたどり着いた晴明の息子の安倍吉平だったけど、相手がなかなかに上手で貴族と同様な姿にされてしまい、さらに別の1人も捕まってしまった。貴族を見捨てれば他の2人の魂魄のうちの捕らえてある魄は返すと言う犯人に、これまでの所業を考えれば仕方がないと思い始めた晴明たちに対して、陰陽師の親玉の賀茂保憲の弟で仏道の方向に何故かひとり向かっている慶滋保胤は、どちらもともに助けるための道を犯人にも、見方にも諭していく。貴族も民も同じ人、それをどうして悲しませることができるのか、ってな感じで。

 なるほど耳にとても触りの良い言葉でうなづきたくなるけれど、現実のこの世界ではどうも西洋人をアジア人、アメリカ人とアフガニスタン人といった具合に同じ人でもその値段に格差があるよーで、「同じ人」とゆー言葉が机上の空論めいて響いてしまうことがある。そんなシニカルさに溢れた世界に向かって、真正面から命の平等を説く小説の、どれほど読んでいて虚しいことかと思ったけれど、すれてしまった大人の目にはそー映っても、ヤングアダルトってゆーレーベルが本来ターゲットにしている中高生層に、理想を理想として訴え未来に向かってそーした理想を実現させる心の支えになれば良いって考え方も一方にあって、一概に理想論だと斬って捨てられない。

 あるいは大人よりよほど中高生のほうがスレて絶望に震えてるって言えないこともないけれど、だったらなおのこと身に迫る問題として絶望を希望に変える糧として、「陰陽ノ京 巻の二」からにじみ出るメッセージを受け止め血肉にし、その手で未来を作っていって欲しいもの。こちらにできることはどれほどもないけれど、少なくとも邪魔すぐ側には回らず、他からの邪魔も入らないよー楯になるべく頑張って行きたい。弱い弱ーい楯だけど。

 蘭花さんの爆走ぶりを堪能しつつミントたんの蟹っぷりにゲンナリしつつ家を出て「ロフトプラスワン」で開かれたエロマンガ規制法案をぶっとばせ系イベントへ。宮台真司さんが来ない中を始まった第1部は山本夜羽さんと伊藤剛さんを両脇にして竹熊健太郎さん八的暁さん東浩紀さんが間に入って例の「連絡網AMI」の活動について現状と将来の方向性を話していくって内容だったけど、ゆるやかな連帯の中からひとつ目的に向かって力を呼び起こしていきたいってな考え方がある一方で、中心がなく責任の所在が曖昧なゆるやかな連帯では説得力にかけるんでもっと運動化していけ、運動部を作れってゆー考え方もあって、なかなかに白熱した議論が戦わされた、ってゆーか見た目には東さんの飛ばしっぷりがとにかく目立ったんだけど。

 つまりは東さん自身、こーゆー場にも出てくるくらいにAMIが目的としている児童ポルノ法改悪の阻止には関心があるんだろーけれど、決してAMIのメンバーでもない東さんをはじめ、宮台さんに斎藤環さんと言った人たちが、駆り出され意見の代弁者的な役割を担わされているってことに釈然としない思いでもあったんだろー。それが目先のロビー活動には有効であっても、将来にわたって活動していく上ではやっぱり主体となるべき実作者なり周辺の人が、自身の危機意識のもとに活動をしていく必要があって、そーした動きにアカデミズムもジャーナリズムも政治も経済も、共感を覚えて連帯してくよーにならないと、運動として長持ちしないなじゃにか、ってな考えもあったよーに感じられた。そーした指摘はなるほどもっともで、AMIの人たちも重々に理解しているよーで遠からず具体的な活動も行うことになりそーで、あるいはそーした前向きの議論を引き出すために、青鬼となって悪役っぽく振る舞ったのかを東さんのことを思ったけれど、うーんやっぱり地だろーか。顔は無精髭がぼうぼうで、ちょっと鬼っぽかったけど。

 格好で言ううならもっとすごかったのが伊藤剛さんて、はじめミニスカートで髪型ボブな細身の女の子がいるから誰かと思って見たらこれが伊藤さん。さらによく見ると鼻の下あたりに夜だからなのかうっすらと髭の筋っぽい物が見え、喋るとなおのこと低音の声でパッと見とのギャップにもだえ苦しんだけれど、顔とかしっかりと作り込めば結構な線を行ってたりしたんで、出来れば今度はただ座って司会するよーな場所じゃなく、そのスタイルをもっと見てもらえるよーな場での女装にチャレンジ、頂ければこれ幸いと写真に撮って壁紙にして楽しむんだけど。女性用下着のさらに下にトランクスっぽいのを着けてたよーに見えたけどこれは反則、寒くても1枚で通そう。スネ毛のまるでない白い足をどーやって作ったのかに興味津々、良い脱毛剤でもあったのかな。

 相変わらずの出没璧で緑すっぽ挨拶もせずに第1部だけで早々に退散、議論自体はどーしてロリコンなのか、ってな部分とかに第2部以降踏み込んでいったとは思うけど、そーした内面的な問題はそれとして、目先やっぱり必要なのはやっぱりどーやって法律の改悪を阻止し、その他ネット規制に言論規制といった勢力とどー戦うかってあたりの戦略で、この辺について政治に向かってどーコミットしていくか、それから経済の部分でどー権益を確保していくかって意見は聞かれたんだけど、個人的には世論に働きかける上で有効で、もしかすると政治を動かす上でも重要な、メディアに対してどーコミットしていくのか、って部分を聴けなかったのが個人的には心残り。去年の12月に横浜で開催された世界会議の中で、マンガは児童を搾取するよーな表現物ではないってな主張をしたって言ってるし事実したんだけど、そのことも含めてマンガ家たちが表現の自由の為に今立ち上がったんだ、ってことをどれほどのメディアが報じたのか、ってことを深刻に考える必要がある。

 政治の人たちは頭が良いし票とかの動向に敏感なんで、ロビー活動を受けてそれがどれだけ自分たちにとって不利なことかを知れば、改悪なんてやめようかと功利的に考えてくれる、こともある。けどメディアは違う。ただでさえ独善的な上に、こうと決めたらテコでも動かない頑固さを持っていて、なおかつ新しいことを理解しよーとゆー気概のかけらもなく、ただ漫然と過去の類例なりから方向を打ち出し、それに沿った報道ばかりを繰り返す。情緒的で短絡的で「児童ポルノ=悪」とゆー図式がいちど固まれば、何があってもそーゆー図式に物事を当てはめ思考し記事にする。もちろん一部の有識者はそーした図式を無茶だとは気付いているんだけど、紙面なり番組なりを作り流す権限を持つ中堅から幹部といった連中が、これまた頑固で独善的で下からのいっさいの抗弁を認めず、己が理解の範疇の中でのみすべてを定義付け、処理しよーとする。

 たとえAMIの有志が経済のレベルで何とかしよーと頑張っていたところで、また仲間たちで意見交換を行い危機意識を共有化したところで、悲しいかな今の世の中には何がいったい起こっていて、それがどーゆー図式なのかは一切伝わらない。メディアが報じないとはなかったことにされてしまう世の中で、メディアにどー取りあえげもらうのか、ってあたりを少しでも考えて、取りあげられやすい図式なり話題なりを与えてくれないと、取りあげたいと思っているメディアもなかなかの乗りづらいだろー。それをメディアの堕落と言われればたしかに堕落で恥ずかしいことだけど、堕落し切っている現状を踏まえてやっぱり何らかの手を打たないと、幾ら素晴らしい活動をして、イベントも大盛況だったとして、それは”なかったこと”にされてしまう。

 現時点もごくごく普通の人たちの間の認識では、児童ポルノ法改悪の問題なんて存在すら認知されてないだろーし、多少は人より敏感であるべきメディアの人間ですらが、個人情報保護法案の問題すら認識していなかったり実状を鑑みると、AMIの活動も横浜会議でのワークショップでの頑張りも、やっぱり”なかったこと”になっている。だったらどーすれば良い、って点で妙案が湧かないのが一切の世の中に対する影響力を持たない弱小マイナーメディアに所属する者ならではの哀しい性だけど、そこはそれとして運動の主体となっている人たちには、メディアに対しても自分たちの正統性をプレゼンテーションするよーな活動を、続けて欲しいし続けるべきだと思う。老人の論説委員とかロートルの論説委員とかを啓蒙するのは難しいけどせめて現場からの声を紙の上なり電波の中に選び定着させることのできる立場にある人くらいに対しては、やはりアクションが非宇超のよーな気がする。凄く難しいことだけど、やっておかないと後々厳しい状況になりかねないんで、皆さんには頑張って下さいとエールを贈ろう。微力だけどうまい切り口があれば紹介するに吝かないんで、偉い人をスルーして紙面化、映像化されるに値する、画期的なプレゼンをメディアに対しても行って頂ければ有り難い。


【2月16日】 そうそう、宮崎駿監督と言えば、「新世紀東京国際アニメフェア21」の中で開催された「コンペティション」で「千と千尋の神隠し」がグランプリに選ばれた時、壇上には鈴木敏夫プロデューサーだけ上がってたんで上から司会の人が「宮崎監督も上がって来て下さい」と呼ぶと、立ち上がって壇上に向かおうとしたついでに、隣にいた柊留美さんにも上がるよーに促して、そこはやっぱり遠慮する柊さんをぐいぐいと引っ張って、階段を上がっていった姿もなかなかに微笑ましかった。

 もしあそこで、宮さんが無理矢理にでも手を引っ張っていかなかったら、表彰式からそのまま続いた最後の記念撮影の場に、柊さんは入ってなかったことになったから、あのタイミングでのあの振る舞いは実にベストだったってことになる。作品作りにはそれこそ鬼みたいになるけど、それは良い物を作るだめであって、完成した作品に与えられる名誉とかを独り占めにすることはなくって、ちゃんと周りに気配りして栄誉だったらともに浴しようって思考が、どんな場にあっても反射的に出てきて行動にも移せてしまう辺りに、大勢の人たちを感動させる作品を常に送り出し続けられるヒミツがあるんだろー。

 ちなみに会場でも売られたパンフレットに寄せられた宮崎監督の「アニメーション産業の振興に必要なもの」ってコメントも、「産業の振興には、会社をいくら支援しても効果は薄い」「問題というのは、作り手側の人材の涸渇」って内容でやっぱり現場志向。この涸渇がアニメの現場で報酬の問題なのか、それとも作り手のイマジネーションがスポイルされかねない環境が出て来ているのかは知らないけれど、とりあえずはアニメの世界に憧れを抱けるよーなスターの登場が、今はてっとり早いよーな気もする。宮さんも言ってるし。「庵野は『実写なんか早くやめて、アニメーションの世界に帰ってこい』とこの場を借りて言っておく」って。

 むくむくと起き出して銀座の「ギャラリー小柳」へ花代さんの写真展を見に行く。極彩色のモチーフをピンボケっぽく撮って目に鮮やかなものを見せてくれる割にはちょっぴりデザイン的な部分もあって、ちょいあざといかなって勝手に印象なんかを抱いていた花代さんだけど、今回の展覧会は自分の娘さんだか近所の子供さんだかを撮影した、柊留美さんを間近に眺められたことに匹敵すするくらいに目に楽しい写真が大半で、短い時間だったけどたっぷりの至福を味わえた、ってちょい目的がズレてる気が。まあそれはそれとして、展示の仕方も家族の写真をフレームに入れて隙間に綺麗な景色とかオブジェの写真も入れて棚とかクローゼットの上とかに飾る、西洋の家庭によくある光景が再現されていて、家族とゆー単位で得られる至福を垣間見せられた感じがして、楽しくそしてちょっぴり羨ましくなった。

 これがまるっきり架空のファミリーで、ある種のアート的な行為として家族の胡散臭さを表現した、ってなんあら話はまったく違ってくるけど、実際にはそんなことはなさそーだし、また作られ並べられている作品も、家族を皮相的に見てるってよりは、日常的な生活のベクトルと方向を同じにしたリアル感があって、着飾った西洋人顔の子供(可愛いんだよけれが)にしても街にしても風景にしても、見ていて全然違和感がない。皮相的、相対的に見る癖が植え付けられてしまって、何を見てもその裏側にあるものを、たとえなくても無理矢理に探ろうって考えがすぐに浮かんでしまう不純さが、これですぐに直るをは思えないけれど、いわゆるガーリー系な写真家ブームの渦中からとっとと抜けだし、地に足のついた活動をちゃんとしていた花代さんの作品を見て、ちょっとはものの見方を改めて見よー。だから「実は嘘写真でした」なんてことにはならないでね。

 「9月11日」以降に山と出た言説の中で、本質を見極めよーとする部分では他になかなか追随を許さず、故に孤高を極めてしまった感もある辺見庸さんと、後でいろいろ言われるだろーことを覚悟して(現にいろいろ言われたし今も言われてる)、敢えて「非戦」とゆースタンスを打ち出し且つ、それを今に至るまで変えていない坂本龍一さんの対談「反定義 新たな想像力へ」(朝日新聞社、1200円)を買う。内容自体は2人の思想、辺見さんだったら奢るアメリカへの生理的な反発を語り、「プロレスの世界チャンピオン対死にかかったホームレス」(52ページ)のよーな戦いを平気でやって勝ったと喜び死んだ相手からDNA鑑定のために指を切り取る”非道”を糾弾しつつ、それを”非道”と思わなくなっている感性の麻痺、ってゆーかほとんど脳死的な状況を嘆いている。坂本さんも言葉の人じゃないけれど感覚として得られる状況のまずさを語ってる。

 自戒の意味もあって気に掛かったのは辺見さんが「共同通信」の外信部デスクだった時代、バングラデシュでフェリーが事故を起こして40人ぐらいが死んだ時、その外電を「このくらいの数じゃ大したことはないと判断して、ベタ記事用に15行ほど翻訳するよう記者に指示した」(37−38ページ)エピソード。「これがハドソン川やセーヌで起きて、白人が40人以上死んだら、むろん、えらい騒ぎです。バングラと同じ用に15行せ済ませたら、ぼくはデスクの資格がないといわれるでしょう」って言葉は、オリンピックもあってテロで亡くなった人の家族の今があれこれ伝えられる一方で、アフガニスタンで今も寒さと飢えに苦しんでいる人たちの今はまるで伝わって来ない現状にも重なる。

 だからといって「逆にバングラのそのフェリーの事故の詳報を米国内の事故と同等のあつかいで出稿したら、やはり、デスクとしての見識を問われたでしょうね。ここにも、報道というものの根元的問題がある」(同)って言葉も未だに現役だったりして、なかなかに暗澹たる思いにさせられる。ご当地米国のメディアならまだしも、それをアジアのメディアがやっている、ってだけになおのこと闇は深い。もちろん、そーした情報の非対称を当たり前のよーに受け入れ、そーでないと逆に怒り出すよーな思考回路を持ってしまっている情報の受け手の心の闇も同様に深いんだけど。

 それでも辺見さんは「いまの情勢に多少いいところがあるとすれば、そういうことに気がつきはじめて、それに異を唱える人たちがごく少数ですけれども、若い人の間に出てきた」(43ページ)って言っていて、未来への希望も抱かせてくれる。「想像力の涸渇した年寄りはもうどうしようもないけれど、若い人たちは、まだ報じられていない、語られていない、分類されていない人の悩みや苦しみに新たな想像力を向けていったり、深い関心を払ってほしい」(同)と呼びかけている。問題は既存のメディアのほとんどが、想像力の涸渇した、金儲けと立身出世と地位保全にしか関心のない輩が、経営陣だけじゃなく現場のトップレベル辺りまで占めてる状況で、あと10年は、ことによったら20年は変わらない可能性が高い。規制がなく障壁の低いネットのメディアに、だから期待もするんだけどそこにもヒタヒタと規制の陰が忍び寄ってたりするからなー。未来はやっぱり暗いのか。

 しかし「反定義」の中で非道さを糾弾されているアメリカとゆー国も、こと国民のレベルになると実に福祉とか、ボランティアといったものに対して前向きだったりするから不思議とゆーか何とゆーか。「NHKスペシャル」で紹介されていた、フロリダにある難病の子供たちが親といっしょに1週間、滞在して目一杯楽しむことができる施設の有りようを見るにつけ、アメリカとゆー国を”非道”とか”野蛮”とか言えない、ある種の凄み暖かみ凄を感じてしまう。聞くとこの施設、作ったのはフロリダで幾つものホテルを経営していた実業家が、ホテルを売ってまで作ったものだとか。経営していたホテルへの宿泊をキャンセルして来た家族連れがいて、その理由を確かめたら、実は難病の子供があって、具合が悪くなって行くことが不可能になってしまったからだと分かって、だったらそんな家族でも、心置きなく来られて思い出を作ってもらえる場を作ろーと即断したらしー。

 凄いのは、そんな老人の願望にすぐさま周囲にあるテーマパークやレストランや企業が応えて人もお金も資財も提供したことで、今でも専属のスタッフは50人くらいしかおらず後はすべてボランティアで、近隣の学生から子供向け番組を作っている会社の副社長からリタイアメントしてフロリダには避寒に来る老夫婦から、あらゆる人たちが無償で時間と労働力を提供している。食材はすべて近隣のレストランからの無償提供で調理人もボランティア。寄付もフロリダ近隣のテーマパークや一般企業から毎年贈られ、宿泊している家族が行けば入場も無料ならアトラクションに乗る時間もノータイムといった措置がとられている。

 おまけに施設の1カ所に、寄付してくれた企業の名前を刻んだ星型のプレートがある以外は、施設のどこにも企業のアピールなんかが入っていない。社会貢献を宣伝したがる企業がいて、社会貢献を宣伝と考えたがる人がいる国とは違ってあの国では、社会貢献はやって当たり前、だから宣伝にもならないって思考がきっと行き渡っているんだろー。ボランティアはする側の自己充実”自己満足”って思考も染みていて、ボランティアを受ける側に劣等感を覚えさせ、自分を卑下するよーな感覚を味わわせないよーになってるみたいだし。

 驚いたのはあと、難病に苦しむ子供たちの実に7割が「ミッキーマウス」に会いたがっているってことで、日本のキャラクターが山と海外へと出て話題になっているとはいっても、何十年の歴史を積み上げて来た「ミッキーマウス」の凄みを改めて感じさせられる。キャラクターはなるほどビジネスにはなるけれど、それを主眼とした途端に流行とゆーものに取り込まれ、売れた売れないってな卑俗なサイクルに絡み取られてしまう。その辺「ミッキー」は、とゆーよりウォルト・ディズニーはキャラクターを売ることより以前に人を楽しませることを主眼において、結果としてキャラクターが人気となったが故に、息長く愛され続けるんだろー。

 番組では言及されていなかったけど、滞在している間に難病の子供たちには多分「ミッキーマウス」に会う機会が与えられているよーで、「ミッキー」と一緒に撮った記念写真が2つの家族でそれぞれ紹介されていた。子供が「ミッキー」を訪ねるなんて絶好のシーンを映さなかったのが、特定のキャラクターに偏らないNHK的な判断があったからなのか、子供たちと「ミッキー」が出会う場面を撮らせるよーなあざとさをディズニー側で忌避したからなのかは分からなかったけれど、望まれていることに対してちゃんと答えよーとするディズニーのスタンスはちゃんと伝わって来て、かつそれを喧伝しない奥ゆかしさもほの見えて、かえってポイントが上がってしまった。こーゆー真似、日本企業にはなかなか出来ないし、政治や社会といった環境にやらせてももらえないんだよなー。アメリカって、やっぱ凄い国だなー。


【2月15日】 なるほど確かに生まれは星の子小松の子筒井の子ではあったけど、それ以上に実は平井の信者だったりする関係で買ってしまった、駿台曜曜社ってところから限定って感じで発売された、平井和正さんの「幻魔大戦DNA」の第1集が届いたんで開けてみる。イラストがカラーでちょっと豪華、平井さんのサインも入っているし、あと卓上カレンダーにポスターに絵はがきに確かこれが初めての書籍化だったかもしれない「BLUE HIGHWAYS」って冊子が入ってて、箱から出すと散らばってしまいそーなんでしばらくはそのまま置いておくことにする。そもそもが「月光魔術團」をまだ完全に全部読み切ってないんで(それで信者か?)、いきなり第3部の「幻魔大戦DNA」を読んだって話、通じないんでまずは予習から行くことにしよー。

 それにしても一時は日本中が「幻魔大戦」が燃えに燃え、りんたろうさんの監督で劇場版アニメーションにまでなって大ブームを巻き起こした平井和正さんが、あれから19年が経った今ではこーして注文販売みたいなやりかたで本を出すよーになってるってのは、時の流れとはいえなかかなに複雑な感情を覚える。もちろん今でも集英社文庫とかから現役バリバリに新刊が出てたりするんで、決して昔の人にはなってはいないんだろーけれど、「幻魔大戦」以上に若者層を熱中させた「ウルフガイ」の系譜を引いてかつ、「幻魔大戦」の名前ももつダブルネームな作品をしてこーゆー出版形態にならざるを得なかった、ってあたりにこれが時代なんだと感じてみたりする。

 そーいえば角川春樹事務所から出てたウルフガイのシリーズとかってちゃんと完結してたっけ、ってどこま出せば完結と言うのかが難しいけど、文庫での再刊なんかをきっかけに、人気も一気に再燃なんて抱いていたヒライスト的希望がちょっと、しぼみかかっているのが往年のヒライストとしては寂しい限り。せめてもの後押しになればとゆーことで、やっぱり頑張って前の2シリーズを読んで「幻魔大戦DNA」へと流れてその中身について喧伝し、今一度のヒライストの結集を目指そー。全国に10人くらいはいそーだから(300人はいるかも)。

 劇場アニメの「幻魔大戦」が83年3月公開でかれこれ19年ってパッと分かったのは、今日から「東京ビッグサイト」でスタートした「新世紀東京国際アニメフェア21」ってイベントのために”アニメ様”なスタジオ雄の小黒祐一郎さんが編集と構成を担当して「日本のアニメ100」をピックアップしたガイドブックが手元あったから。「アトム」とか「鉄人」とか、「マジンガー」とか「ヤマト」とか「ガンダム」とか「宮崎」とか、およそ日本を代表するアニメはしっかりとおさえつつ、メジャーとマイナーの間にあって突出はしていないんだけど皆さんちゃんと見ていたアニメとかが入っていて、なかなかにバランスの良いベスト100になっている。

 言い出せば例えば「YAT! 安心・宇宙旅行」が入ってないとか「きんぎょ注意報」が入ってないとかあって、何より「幻魔大戦」なんかを遥かに凌駕する社会現象までをも引き起こした「美少女戦士セーラームーン」が入っていなくって、セレクトにあたってどーゆー覚悟があったんだろーかと不思議になったけど、「serial experiment lain」が入っていたからすべてオッケー、「少女革命ウテナ」も入っていればなおオッケーだったけど、あんまりヒネり過ぎると「アニメフェア」本来のお客さん、すなわちマニアじゃなくって広く一般に普及しそーなアニメ作品を買い付けに来たい海外のお客さんに向けたプレゼンテーション資料的なニュアンスから、ちょい外れてしまうから仕方がない。とか言いつつ「Aika」に「ナジカ」が入れば妙な具合に日本の伝統芸「パンチラ」が伝わってそれはそれで面白かったかも、あとポストモンダンを動物化させて世界の哲学史に金字塔を打ち立てた「でじこ」とかも(ちょっと羊頭狗肉)。

 もっとも今回の「アニメフェア21」、どちらかと言えばスケジュール先で動き始めたっぽいところがあって、アニメーション作品をズラリそろ得て海外から買い付けに来る人をわんさと集めて「日本のアニメは世界いちぃぃぃぃ」とアピールする場にしたかったって割には、海外から来ている人の数はそれほどでもなかったみたいで、ニューヨークで「トイショー」が開かれてアジアは旧正月な時期に酔狂に寒風吹きすさぶ東京へと出向こーってなバイヤーが、あんまりいなかったのがどうも響いたらしー。海外の企業がアニメ大国・日本でアピールする場としての意味でも、出展していた海外企業がほとんど韓国の会社だったのはちょっと寂しい。「国際」って名がちょっと泣いていた、よーな気がした。

 イベントの方向性も、スケジュール的な関係で海外からのお客さんが期待できないって分かっていても、やらざるを得なかった関係で、ちょっとまとまりのない物になってしまった感じ。開催する以上はそれなりな形のものにしなければ、つまりは出展する企業にとって意味のあるものにしいなければいけないってことだったんだろーか、自社の作品をトレードショー的にアピールする作りにしてある、見かけ「東京国際ブックフェア」のブースに近い雰囲気の「ゴンゾ・ディジメーション」とか「スタジオ4C」とか「プロダクション・アイジー」とか「ガイナックス」とかあった一方で、「キャラクターショー」的に物販でもって明日からの一般客に期待するブースもあったりして、あるいは「キャラクターショー」が当初はライセンスの見本市的な性格を狙いつつも、今では物販中心のイベントになってしまった、その轍を踏む可能性もあるかも、ってなことを考える。

 だとしたら今でさえ飽和状態な物販イベントがまたひとつ、増えるだけじゃないかって思えないこともないけれど、そこはそれ、鶴の一声じゃないけれど、石原慎太郎都知事の号令一下、短いスケジュールの中でもそれなりな形にイベントを仕上げ、アニメ雑誌とかはともかく普段はあんまり表には出てこない、日本のこれからを担うアニメスタジオに自社をアピールする場を作ったって実行力をもってすれば、現場の今回のイベントに対する声を組み上げつつ、何万人集まったとかいって見かけの華やかさを競うんじゃなく、どれだけの売買契約が成立したってな本当の意味でのトレードショー的なニュアンスを持つイベントとして、来年以降はちゃんと仕上げて来ると信じたい、けどなあ、3月とかに開催じゃあ、「おもちゃショー」と重なってしまうんだよなー。お役所仕事のさてはて今後やいかに。

 「アカデミー賞」っぽくアニメ作品を表彰する「コンペティション」なんてものが開かれたのも悪くはないんだけどちょっと意味不明。あるいは賞の話題をショーの認知度向上へとつなげて相乗効果的に盛り上げていこうって考えもあったのかもしれないけれど、その栄えある第1回目のグランプリを宮崎駿監督の「千と千尋の神隠し」が受賞してしまったせいもあって、メディアも一般の人もそちらの方にばかり目が向いてしまって、挙げ句にショーの性格がそちらへと引っ張られそーな感じがしないでもない。アニメの賞だったら過去にも「大藤賞」(「日本のアニメ100」の中にメダルの展示あり、この辺の気配りが”アニメ様”)とか、「アニメーション神戸」のよーなものがあったりして、評価すべき作品にはちゃんと評価を与えていたりするんだけど、ただでさえメディアが集中している東京で、”あの”石原都知事の号令で開かれたってことで、唯一絶対の賞として祭り上げられていく可能性も見えたりなんかして、なかなかなに複雑な思いにとらわれる。

 それでも普段はなかなか表立って表彰される機会の少ないアニメの人たちにとっては、賞はやっぱり嬉しいものみたいで、次々と壇上に上がってトロフィーを受け取る人たちの多くが、喜んでいるっぽい表情を浮かべていたから、やっぱり開かれて正解だったんだろー。驚きだったのは会場に宮崎駿監督が来ていたこと。なるほど「千と千尋」はグランプリを受賞したけど、壇上に呼ばれるのは鈴木敏夫プロデューサーで監督じゃなく、それもそれで不思議な感じではあるんだけど、アカデミー賞だって作品賞は確かプロデューサーが受け取るんだったから仕方がない。

 だったら宮崎さんは何で来てたかって言えば、柊留美さんともども映画部門の「ベストキャラクター賞」を受賞したからみたいで、2人そろって壇上に上がってトロフィーを受け取っている姿は、孫の晴れ舞台に付きそう爺ちゃん、って感じでまあ、それはそれで羨ましい……じゃない微笑ましかった。にしてもそんな2人の何故か柊さんにだけ、話を聞いてそれもアニメな声優に対していかにもな「千尋の声で喜びを」なんて質問をしやがる式次第は、次回以降何とかして頂きたいもの。アカデミー賞で壇上に上がった俳優に、何々の作品の誰それの演技で喜びを、なんて普通聞かないだろー。その辺にアニメってものに持たれている普通とは違った印象が、滲んでるよーな感じを受けた。

 とか言いつつ「ハム太郎」でTV部門のベストキャラクター賞を受賞した間宮くるみさんが、ちゃんと「ハム太郎」の声で喋ってくれて妙に嬉しかった辺りに、こーゆーのもありかなー、なんて日和ってしまうから困ったもの。アニメがそーゆーものならそーゆーものとして、妙に気取らずありのまんまで、賞の権威とか都知事のお墨付きとかと無関係に認められるよーな風潮が生まれてくれば、本当の意味で「基幹産業」として日本の中にアニメがどっかと位置付けられ、国が予算をつけ経済産業省に「アニメ課」なんてものができ(「ゲーム係」ってのはあるんだよね、確か)、外務省がパッケージを全世界の大使館に揃えて来る人に見せて売り込む、なんて時代が来そーな気が……やっぱりしないなあ。


【2月14日】 SF的には星の子小松の子筒井の子で、ロボット的にはアトムの子とゆーよりはマジンガーの子コンバトラーの子ガンダムの子だったりと、王道を行っているのか脇道にそれているのか分からないリスペクトの対象物だけど、これが音楽になるとYMOの子山下達郎の子溝口肇の子だったりするからもうさっぱり分からない。いやまあ、当人的にはきわめて筋の通ったいずれもセレクトで、時代背景に生い立ちに生育環境から語れる理由もちゃんとあるから良いんだけど、億分の1とかの確率で有名になって好きな作家は、好きな音楽はと聞かれてこれらをぞろぞろを挙げた時、いったいどんな反応が出るのかちょっと楽しみでちょっと怖い。好きなロボットは、とは聞かれないだろーからこれはこれで安心。バルディオスの子ゴッドマーズの子ゴーショーグンの子、とか言ってみたい誘惑もあるけれど。

 さてもそんな訳で達郎の子として店頭にズラリ並んでいるジャケットを見て、その場で右から左まで7枚全部を下さいと、言って購入してしまいましたよ山下達郎さんの「RCA/AIR」時代のアルバムのリマスター盤を。何せLPレコードで最初に買ったのがアカペラを吹き込んだ「オン・ザ・ストリート・コーナー」で、以後「メロディーズ」までのアルバムを全部LPで揃えてたりするんで、正直言えば重複になるしおまけにLPレコードが実家に置いてある関係で、聞き直せないのが寂しかったんで名作「フォー・ユー」とライブ盤「イッツ・ア・ポッピン・タイム」はCDでも買いなおして、今もよく聞いてたりするんで重複どころの話じゃない。

 CDは持っていなくても、ほとんどが聴けば思い出す曲ばかりで、もしも達郎しばりのカラオケ大会があったら、この辺に限定すればベスト10くらいには入れるんじゃないかと思うくらい、どれも耳にちゃんと入ってる。まあ、上手さでは億分の1もいかないんで、それはそれは悲惨なカラオケ大会になりそーな気もするけれど。本人だって出なくなってるくらい、昔の達郎さんって声、高かったんだよねー。

 リマスターといってもしょせんは手直し盤、どーして買い直すのか不思議と言われる可能性もあるけれど、そこはそれ、日本でも有数のマスタリングに関してこだわりまくるミュージシャン、その昔に初めてCDとして発売された「ポケット・ミュージック」を、その後に新しい機材で気に入るよーにリマスターして出したくらいの人なんで、さらにデジタル技術とかの進んだ今、わざわざ直す以上はそれが単なる手直しに終わっているはずはない。まあそこは音楽家にとことん向いていない我が耳では、どれほどの違いも感じられはしないんだけど、それでも銀座にある「山野楽器」の店頭にズラリと並べられた試聴機に、旧盤とリマスター盤が並べて入れられていて、自在に聞きくらべられるよーになっていて、試してみるとなるほど何となく音の粒立ちってゆーか抜けが違うよーな気がする。

 「スペイシー」の冒頭に入っている超絶ハイトーンな「ラブ・スペース」は、古さもあってかモタッとしたイントロの音がそれはそれで時代っぽさを感じさせてくれていた、よーにシロウトなりに思っていたけど、これがリマスター盤ではひとつひとつの音が何かクリアで、耳にギンギンと響いてくる。そして「フォー・ユー」。冒頭の「スパークル」でイントロになるテレキャスターの音といい、唄にむかってドカーンと来る洪水のよーなホーンの音といー、鮮明で迫力があってヘッドホンだと左から右に、右から左に音が針となって抜けて行くよーな感じを受ける、ってちょっと大袈裟か。

 まあ所詮は達郎の子が言う全肯定的な意見なんで、聞いてたいしたことないと思われるのも覚悟しているし、そもそもが達郎なんて聴かないと言われても構わない。ただ、改めて今になって聴いても今と遜色ないどころか、今よりはるかにアンサンブルとして練り上げられた音の重ね具合には驚くばかりで、およそ20歳代から30歳代だった今の僕よりはるかに若い人間が、よくもここまでの仕事をしたものだと改めてその才に感じ入る。むろん当時も納得の結婚だと竹内まりやさんとの結婚については思ったけれど、これだけの音楽的な才能を前にすればアイドルともてはやされた竹内さんでもなるほど、納得で説得されるはずだとこれまた改めて気付く。ああまた誉め言葉オンリーになって来た。けどどこまで誉めても誉めたりないくらい、山下達郎さんは素晴らしい。ボーナストラックも山と入って永久保存に買って損なしのリマスター盤。LP盤のボックスも欲しいなあ。

 とてつもなく大昔のことのよーに思っていたけど、5年もたぶん経ってない前に「英雄降臨」ってゆーゲームを発売して、固いイメージのあった富士通系の企業の中にあって「エーベルージュ」あたりを仕掛けた人たちと並んで、柔らかい人たちも結構いるんだってことを教えてくれたアルファ・オメガソフトって会社があったけど、今にして思えばその辺あたりが柔らかい富士通のピークだったみたいで、今ではかつてあの「ガメラ2」に出資とかしていた会社とは思えないくらい、テレビのCMは別にして固く真面目なイメージになってしまっている。アルファ・オメガオソフト自体もその後はあんまりゲームとかはやらなくて、例えばイスラエル製の嘘発見ソフトとか、ハンズフリーで使える電話とか、パソコンの失われてしまったデータをサルベージするソフトいったものを作ったり撃ったりしていて、エンターテインメントな感じからはちょっと逸れていた。

 それが何とどー転換したのか再びエンターテインメント・コンテンツを手がけるよーになったみたいで、韓国にあるネット向けコンテンツ配信を行っている会社と提携して、ネットで韓国映画を流すって発表を行ったんでブッシュが来日するからなのか、近所に警察官がワンサと立ってて安全性だけならピカイチな「ホテルオークラ」へと出向く。内容はまあ、ネットで映画を流しますってゆー他でも結構あったりする話だけど、流す映画が「ユリョン」とかいった、日本でも劇場公開されたりDVDが発売されててそれなりに有名な韓国映画だったりして、どーゆー伝で流すことになったのか、って不思議に思う。まあそこはイスラエルから嘘発見ソフトを持って来るだけの伝がある会社、より近い韓国にはもっと太い伝があったって不思議はない。

 最近でも「ソウル」なんかが公開されて話題になってたりする韓国映画だけに、数ある映画配信ビジネスの中でもそれなりな注目は集めそー。あと記者会見に「シュリ」に出ていたらしーキム・ユンジンさんとかゆー女優さんを連れてきて、注目を集めさせたのも作戦としてはなかなか。真面目ぶってるとちょっと怖い雰囲気のあったキムさんだけど笑うと可愛さ爆発だったりするあたりは流石に韓国のトップ女優、流暢な英語で挨拶をし、スレンダーなのに出るところは出たボディで立って微笑む姿を見せられれば、メディアとて紹介しない訳にはいかないだろー。帰りがけにはキムさんの直筆サインが入ったポートレートまで配布してくれて、さてはて日本人の女優に例えれば誰級のインパクトがあるのか、田中麗奈さん級かそれとも紫咲コウさん級か分からないけどともかく有り難いことには変わりがない。肝心の「シュリ」が配信されれば嬉しいんだけど、今のところは未定みたいなんで、あのスマイルあのボディがどんな演技を見せているのかを知るために、近く「シュリ」とか見てみよー。まさか脱いでたりするのかな。


【2月13日】 さらに「電撃ゲーム小説大賞」受賞作から銀賞を受賞した有沢まみずさんの「インフィニティ・ゼロ」(メディアワークス、550円)を読む、どこかで見た光景。妹を亡くした少年がいてどこか不思議な所のある少女とめぐりあって彼女は退魔師で敵と戦っているんだけど力を使えば使うほど破滅も近づくとゆー展開自体に、今さら目新しさを求めるのは難しいとは思うんだけど、ちょい前に終わったばかりの「最終兵器彼女」の衝撃が今まだ醒めやらない時期だけに、いっぱいなお腹にはちょっと甘かった。優しいんだけど筋は通った主人公の少年と、天然な所のある少女の組み合わせってのもやぱりデ・ジャヴュ、探せば過去に類例は結構ありそーで、なかなかにしっくりとは胃袋に収まらない。

 とはいえ感動の入るお腹は別腹だったりすのもまた事実で、半分は分かってはいるんだけどやっぱり到来する悲しいクライマックスなんかを読むともう滂沱、たとえ構造は同じでも感動のドラマがいつの時代にも再生産される理由なんかも合わせて見えて来る。あとヒロインの天然さの突き抜けぶりと、その突き抜けぶりを表現するダイアローグの心地よさなんかも筆者に独特で、死んでいる猫との電波入ってんじゃないかと思わせる奇妙な会話(ふり回さない辺りがホラーに行かない境目なのかも)とか、力の源になっている神様に対する態度とか、「おもしろうてやがて悲しき」な感じが良く出ていて、作者の才を感じさせる。男の方の言うことを気かなさは逆にちょっとウザくって、鬱陶しくって眉を顰めたくなるけれど、まあ年頃の男の子っていつだってピンピンでなかなか萎れないもの。それもひとつのキャラ造型の冴えだと認識しておこー。続編とかあるタイプの内容じゃないんで、次は持ち前の語り口とキャラ造型を新しい器の上で見せてもらえればちょっと嬉しい。感動と滂沱のシチュエーションの拡大再生産でもそれはそれで良いんだけど。

 代々木で開催された「鬼武者2」の完成披露記者会見でドラ焼きをもらって食べる。ドラ焼きはまあ、いわゆるノベルティって奴なんでどーでも良いとして、肝心の「鬼武者2」の方はといえば、あの松田優作さんをコンピューターグラフィックスで甦らせたって話題性で前評判も高かったんだけど、前の製作発表の時に見た勇作の表情が、「野獣死すべし」だか何かで見せた無表情ぶりをそのまま再現したかのよーに、口とか曲げず歪ませないものになっていて、ちょっと退いた記憶があって、さてはて完成したものではもーちょっと、せめて「鬼武者」の金城武さんくらいは目とか口とかに表情がついているんだろーと思ったけれど、改めて見た完成版のムービーとか、ゲーム画面の優作さんは、やっぱり目とか口とかに表情がなくって、なのに喋りは晩期の淡々調じゃない初期絶叫調(なんじゃこりゃあ)で、そのギャップがちょっと引っかかった。

 まあ、見せてもらったムービーもゲーム画面もごくごく一部で、本編とかちゃんと表情もあるんだろーし、喋りとのマッチングもきっととれてるんだろーと思うから、その辺りはやっぱり実物で確かめることいしよー。けどもしもずーっと無表情だったらどーしよー、夢み見るかもしれないなー。オープニングCGについては騎馬集団による襲撃しーんも悪くはないけれど、十兵衛に才賀孫市に安国寺恵瓊にお邑といったキャラクターを紹介する映像の、回り舞台のよーに名面が変わっていく演出の気連味たっぷりな感じが実に最高で、邑の下から煽った映像なんかもあったよーな記憶もあってこれはやっぱり買って確かめないといけないなーと決心する。クリーチャーは「ゼイラム」に「タオの月」で和風な怪物を山と見せてくれた雨宮慶太さんの才気爆発で一見の価値有り。やっぱり自転車のベルのチンコンで吹っ飛ぶのかな。

 タイトルに特徴があるのは俳句をたしなんで短い中にインパクトを込める術に長けているからなんだろーか、ってなことを考えながら長嶋有さんの芥川賞受賞作「猛スピードで母は」(文藝春秋社、1238円)を買う。併録の「サイドカーに犬」といー、パッと見でいったいどんな話がそこに描かれているんだろーかと思わせ、目に勝手なシーンが浮かんでしまう巧妙で絶妙なタイトルって言えそそー。ただあまりにパワフル過ぎるからなのか、タイトルに引っ張られてどーも本編から受ける感じと違うビジュアルが浮かんでしまいがちになるよーで、表紙の佐野洋子さんが描く自動車の屋根にドスンと腰掛け走ろーとしている母の表紙絵は、なるほど猪突猛進な感じもあってタイトルに相応しいよーに思えるんだけど、本編に描かれた母のイメージとちょっと違うし、猛スピードぶりもやっぱり違う感じがあって、タイトル買い、表紙買いした人は後で戸惑うよーな気がする。

 まあ表紙なんてカバーをかければ見えなくなるから無関係として、あくまでタイトルとそして本編との関係で言うならこれは絶妙、なるほど確かに母は猛スピードだった。離婚して実家に帰って来てから近所に公団住宅を得て息子と2人で暮らしている母がいて、息子の目からそんな母親の車をなおしたり男とつきあったり仕事を頑張ったりする姿が小説の方では描かれている。暮らしている環境のいわゆる標準とは外れてしまっていることが、虐めなんかを呼んで結構暗い雰囲気が漂って来たりするけれど、そこを活発で強い意志を持つ母の猛スピードぶりで回収していく展開に、村上龍さんの言う「家族の求心力を与えてくれる重要な作品」との評価も出てくるんだろー。

 ただ、いわゆる標準とは違った境遇をして、それを何か特殊なことのよーに扱って読む人の居住まいを糺させる物語を文学として扱うことには、微妙にザラザラとした感情を覚えてしまう。標準から外れていることが突出したことだを認識して、そーでなくては勇気も救済も得られないってな感じで評価する態度の、その実特殊な境遇のことを見下しているよーな空気が感じられて迷う。こーゆー空気を感じる性根こそが差別的だと白髪のニュースキャスターには怒られそーだけど、平凡な過程の平凡過ぎる日常をリアルに切り取っても誰も誉めてくれないのに、普遍とは差異のある境遇をリアルに描くとそれが文学になってしまう、ってのはやっぱりそこに格差があるからなんじゃなかろか。

 なるほど確かに勇気も救済も得られる小説ではあるけれど、そーした勇気や救済を血肉のレベルで理解し欲しがる人たちに、さてはてこのパッケージが届くのか、ってのも悩ましいところで、欲しい人に届かないメッセージであるにもかかわらず、そーした場違い感とかは一切無視して讃え表彰してしまうブンガクな人たちのブンガクを見るスタンスにも、やっぱり釈然としないものを感じる。届くパッケージで、届く物語の中にメッセージを込めることこそが、文学の上でよほど大切なことのよーに思うんだけど、これってやっぱり商業主義に毒された人間の文学の何たるかを理解しない戯れ言なのかなー。「サイドカーに犬」も読んで不幸な境遇にある人の我が身を眺めたり振り返る話は「猛スピードで母は」と一緒なんだと認識、だから芥川賞な人に受けたんだなー、ブンガクのこれが業って奴なんだなー。


【2月12日】 目覚めたのが午後の6時でそれから午後のだいたい10時頃までかけて原稿を書こうとしたけどイマイチ乗れず、しつっこく「NINTENDO64」の「マリオゴルフ」を遊んだり「ココロ図書館」のサウンドトラックを聞いたりして気持ちをなだめすかし落ち着かせよーとしても、やっぱりなかなか言葉が湧いてこない。そーこーしているうちに時計は回り午前零時を過ぎてそれから午前1時、午前2時と進んで行き、そろそろヤバいかなって思ったものの、だからといって締切を伸ばしてちょーよと言って頼めるベテランでもなく、どーにかこーにか辺りを付けてえいやっと何とかかんとか形をつける。午前5時。それから日記を更新して、午前6時を過ぎたあたりで支度を始めて電車に飛び乗り、津田沼駅へと向かう。午前7時ちょっと前。

 さあゲームの始まりだ、って別に全然ゲームじゃないけど、人生がゲームだとしたらこれもあるいは「台風で家を吹き飛ばされる、10万ドル払う」「エベレスト登頂に成功する、10万ドルもらえる」といった「人生ゲーム」のひとコマかもしれない、「自分の所属している会社でもない『産経新聞』が新聞休刊日明けに朝刊を駅の売店とかに限っては販売にすることにしたんでそれを大宣伝するためのティッシュを津田沼駅で150個配る」を実行。あるいはいかに快適に相手にティッシュを受け取ってもらえるかを競うスポーツとゆー意味でもゲームをこなす。愛社精神? だから自分の会社じゃないってば。親会社ではあるけれど。

 何せ平生は慇懃無礼で横柄で高飛車で傍若無人で人外魔境で口外無用な新聞記者。そんな日常業務によって培われた、背骨を伸ばすどころかやや後ろへとそっくり返った格好で、渡して進ずる的な感じで差し出したところで誰ひとりとして受け取らない。もっともそこはマイナーなメディアで、初めて取材するよーな相手に題字と内容を説明する所から始めてどーにかこーにか資料くらいを送ってもらうよーにするステップをひとつふたつは踏んで来た身。しだいに平身低頭なスタイルで、歩く相手が受け取りやすいよーな手元へとピタリ来るよーにティッシュを差し出すよーになり、それが奏功しておおよその人に受け取ってもらえるよーになって、10分ほどで150個のティッシュを配り終えることができた。

 見渡すと時間は午前7時を過ぎているのに誰も蛍光イエローの目立つユニフォームを着た人がおらず、おかしいなあと駅に上がると、指定された配布場所ではないコンコースへと続く歩道橋ってゆーか中空の通路に7、8人の蛍光イエロージャンパー軍団がいて、いま始めたばかりな感じで配っていたのが見えて、しまったここで一緒に配ればもっと早くハケたかもと思ったけれど、大人数でかかられると萎縮してしまいがちになる心理も人間にはあるから、下で地道にしこしこと配って正解だったとひとり納得。視察かそれとも出席確認か何かに来ていた偉っぽい人に「終わったんで帰るぜ」と言い残して、昼間のパパ(朝だけど)の頑張る姿にそっと目頭をおさえつつ、電車に乗ってとっとと家へととって返して寝る。いや、寝てはいなくってそのまま支度をして会社に行く。ゲームオーバー。得点は? 欲しくねえ。

 しかし何とゆーか夕刊廃止ではどこも追随しないどころか徒党を組んでパージにかかった他のとてつもなく巨大で給料も倍くらいはある新聞社が、こぞって休刊日明け発行に乗り出して来たのにはちょっと仰天、そこまでして新聞をいらないと言った犬を水へと落として上から棒で叩きたいのかと思ったけれど、それもまあ商売だから仕方がないと言えば言えないこともない。気になったのはひとつは休刊日明け発行の新聞を駅の売店で売りながら、その同じ駅で見本紙とかを配っていた行動の是非で、なるほど犬は読まない100円新聞の抜け駆け発行をそれで妨害できることはできるけど、自分のところの新聞も含めて普段から深いおつきあいをしている駅の売店の売り上げに、多少なりとも影響を与えたって可能性もあるわけで(駅の外でタダで新聞もらって売店では買わないよね)、キオスクなんかを仕切る会社が果たしてどー思ったのかを知りたいところ。

 あとオリンピックが開幕中でその速報を掲載すれば読者は喜ぶってな論法が、今回の休刊日明け朝刊発行にはあるけれど、だったらこれまで頑なに休刊日を護って来たのは一体何だったんだ、新聞専売店の安息日ってことで設けたはずの休刊日は金銀パールなメダル祭りに負けるくらいのものだったのか、って疑問が巻きおこる。「産経新聞」に限って言うなら宅配はしていなくって駅売りだけなんで、名目としての新聞休刊日の意義はちゃんと守ったってことになる。

 けれども宅配をやってしまったって話があって、あまつさえ普段は配達しない家に住居不法侵入の可能性も考慮されるなかを見本紙を配って歩いた大手の会社の果たして行動の論拠はなんだったんだろー。オリンピックはつまりそれだけ凄いニュースなんだ、なんて言うんだろーなー。それでもせいぜいが午前1時の締切で、テレビのニュースにはもちろん刷りだしの遅いスポーツ新聞にすらも時間帯的に負けるニュースを載せてるんだからやっぱり妙。それでも出す、不遜な輩をやっつける、って体面なんだろーな、ワンマンマンの。

 欧米ではそれが普通になっているけど、日本だとまだ希な出版エージェントの人が抱えている作家の人を連れて書店にあいさつ回りに行くってんで、どーゆー段取りで仕事をしているのかを取材半分で見物にいく。って本当は動いている滝本竜彦さんを見たかっただけなんだけど、あらかじめ連絡が行っていたよーで到着する前から池袋の「ジュンク堂」の文芸書コーナーには、「NHKにようこそ!」(角川書店、1700円)が山に積まれて今や遅しと到着を待ち受けていて、作家側の気の入れよーもさることながら、書店側の気合いの入れよーも感じられて、この出版不況に皆さん色々頑張っているんだなー、って感慨に浸る。

 さて到着した滝本さんは「ニュータイプ」とか「ダ・ヴィンチ」に載ったインタビューの写真とかと当たり前だけど同じ人で、積まれた「NHKにようこそ!」と、それからデビュー作の「ネガティブハッピー・チェーンソーエッヂ」(角川書店、1500円)に真面目な書体でせっせとサインをしている姿は全然普通の若い人。あの頭のどこから「怒張」「怒張」「怒張」なんて言葉が紡ぎ出されて来るんだろーかと、明けて見てみたい気になった。字で書いてあったりして。サインをし終わって池袋近隣の書店を回るとゆー一行を案内して地下へと降りてカオリンにも会ってもらって売って下さいお願いしますとティッシュを、差し出しはしなかったけど低頭はする。

 聞くと「NHKにようこそ!」はそれなりに快調なよーで、初版がどれだけだったかにもよるけど早くも増刷がかかったよーで、「bk1」の文芸総合ランキングでも前週の7位だか3位にランクアップしてたりして、そんなに安くもないのに皆さん買っていただいてありがとうと手を合わせる。とはいえネット書店でいくら売れてもサイン本を置いていただく「ジュンク堂」には何の関係もない話なんで、せっかくだからと1冊、サイン入り「NHKにようこそ!」を買い求めてほかにおかざき真里さんの「セックスのあと男の子の汗はハチミツのにおいがする」(祥伝社、933円)なんかを買って帰る。サイン本は数がそんなにある訳じゃないんで(「ネガティブ」は数冊)、欲しかったら急げ池袋「ジュンク堂」へ。

 ストーリーは妙に不条理だったりブンガク的だったりして感じ吉野朔実さんに通じる部分もあるんだけど、シンプルな線で記号っぽく描く最近の吉野さんの絵柄とおかざきさんのそれは対局にあって、同じよーににへらっと笑ったりぴゃぴゃっと喜んだりする少女でも、持っている肉感のみずみずしさが目に入って、より官能へと働きかける。とはいえエロエロって訳でも淫靡って感じでもないのが不思議ってゆーかおかざきさんならではってゆーか、つっかーんと抜けるよーな爽快さが読後に感じられて気持ちがいい。もちろん性的な快感とは全然違う意味で。

 付き合っている相手とセックスして帰った日、転がり込んでいた高校生の従姉妹に「異物のにおいがする」と言われて以降、どうにも相手と仲がきくしゃくしてしまう女性の、心理は容易には理解しがたいところがあってあるいは内心、そのいとこに嫌われたくないって思っているんだろーかとも考えるけど、やっぱりよく分からない表題作は読んでなかなかに深淵だし、犬の散歩で踏み込んだ草原で、地面から生えていた草子って名の少女と出会い親好を深めたものの、草子の隣りに男の子が生えて来て、2人仲良く並んでいる姿にやっぱり複雑な心境を抱く女性の心の機微が絶妙な「草子のこと」も不条理なんだけど面白い。ともかく全編、友人とか、男の子とかに対していろいろ抱く女性の複雑怪奇な感情を表す作品で、読んでオンナゴコロの理解にちょっとは訳だったかもしれないけれど、試す相手もいないんでやっぱり無駄か。まあいいや。 


【2月11日】 たぶん7年目。縮刷版なんかを読み返して、よくもまあ書いて来たもんだとは思うけど、これだけ長くそしてたくさん書いて来ても、世間的にはどれほども知られていなかったりするのが哀しくもあり楽しくもあり。何か1つのベクトルでもってまとめあげた内容だったら、紙で読んでも存分に耐えられるし商売にもなるんだろーけど、毎日が行き当たりばったりの連続で、内容にいっさいの指向性がない文章は、紙にまとめるどころかウェブであっても全然役立たずだったりするよーで、せめてその日の天気とか、食べたご飯とか出会った美人とかでも拾っておけば良かったと、今になって思ってもどーにもならないんでこれからもしない。相変わらず日々にあったこともなかったことも適当に、書いたり書かなかったりするのでよろしゅうに。適当万歳。

 杉並のアニメ祭りに行こーかと思ったけど、迫っている締め切りに頭がまったく働かない状態が続いてたりするんで、ここはせめて家にいるのが殊勝な態度とパスする。が、家にいたって働かない頭が動き出すはずもなく、仕方がないのでひたすらに眠った後で、届いた電撃文庫の中から続いて円山夢久さんの「リビスの翼」(メディアワークス590円)を読む。うーん、面白い。面白いんだけどどこかで見た記憶のある展開。それは言ってしまえばとっても幸せモトちゃんなんだけど(意味不明)、詰めるとネタが割れてしまうんで、読んだ人がそれぞれに考えてくれればまずは善哉。ただしネタにデジャヴュがあっても楽しめる1冊であることには間違いないし、この民族紛争な時代にあれこれ考えさせれくれる話なんで、手に取っておいて損はない。得するかどーかは知らないけれど。

 鉄を支配して権勢を保っている一族があって、その跡継ぎの座を捨てて逃げ出した男の息子の少年が、晴れてか嫌々かは別にして、一族の跡継ぎとして迎えられることになった。行ってみるとそこには息子が逃げ出したくなるくらいに厳格な婦人、迎えられた少年にとっては祖母にあたる女性がいて、少年を一人前にしよーと教育に躾に厳しく当たる。そうこうしている間に、裏では権勢を握る一族を失脚させよーとする陰謀がめぐらされ、少年は権勢の象徴ともいえる鉄で覆われた塔の地下へと閉じこめられ、そこで人間たちがやって来る前から住んでいた、頭が羽毛になって骨も軽いウィールズという一族たちに出会い、父親とウィールズの女性との間に生まれたあるロマンスを知る。

 人間によるウィールズへの差別意識は昔も今も替わらない民族差別、人種差別に重なって、どうして差別が生まれるのか、どうやったら差別をなくせるんだろーかと考えさせられる。と同時に、ウィールズたちが聖地とあがめた塔を人間が支配し、鉄で覆って以降ウィールズたちがすっかり投げ遣りになってしまった歴史の裏に隠された、割と壮大な秘密が浮かび上がって来る。鉄の支配者といってもたかだか入植して来た人間の特定の一族の権勢と引き替えに、かつて大陸全土を支配していたある種がまるまる貶められていて、その一族が権勢を失うのと同時に、ある種が甦るとゆー設定のバランスの不思議さにはちょっと戸惑うけれど、特定の地域にのみ棲息していて、けれども入植していた人たちによって滅ぼされた人に限らず種はいくらもあったりするから構わないのか。主語が章の語り手によってコロコロ変わる難しさにも迷ったけれど、章に掲げられた見出から、誰が何を語っているのかを理解しながら読み進めば理解も出来るから良しとしよー。

 さらに「電撃ゲーム小説大賞」で銀賞を受賞したうえお久光さんの「悪魔のミカタ 魔法カメラ」(メディアワークス、570円)を読む。短いスカートの制服で体育座りした美少女の表紙がなかなかに凶悪だけど、当然ながら斜めにしよーと下から煽ろと見えないものは見えないんで悪しからず、三次元ホログラム表紙、ってのが出来ればありがたいんだけどなー、けど中まで作り込んでないって可能性もあるし……って妄想はさておき、これはなかなかに扱いづらい小説で、読んでいる間も読み終わってからもどう位置付けて良いものか戸惑った。主人公は美少年で「みすてりぃサークル」ってとこに所属していてミステリーなんかを研究している。で、ある日家にいると誰かが玄関の戸を叩くんで、のぞいてみたらそこにいたのが全身をボンデージルックで固めた少女ってゆーかほとんど幼女。聞くと悪魔で少年が念願をかなえたその代償として、魂を取りにやって来たらしー。

 覚えがないと突っぱねる少年と、そんなはずはないと泣く悪魔幼女の、いわゆるおしかけ同居物みたいな展開になるのかと思ったら、事態は悪魔幼女が使われたと主張する魔法カメラがからんだ殺人事件の犯人探しへと発展し、おまけにヒロイン役かと思われた少女が物語から退場していまう驚天動地の展開に、何を背骨にして物語を読めば良いのかが見えにくくなってくる。失踪したと思われる、けれども少年は宇宙人に連れ去られたと信じている妹の思い出がひとつ軸にはなっているけれど、それをよりどころにシリアスな展開で進むのかと思ったら、少女が好きだという少女がいたり、法律すら曲げてしまえる力を持った家に生まれた双子の美少女がいたり、見かけは弱々しいけれど戦うと強い少年がいたりと、突出したキャラクターによって演じられる不条理な展開が挟まって、気持ちがなかなか入れられない。

 離れたと思ったらまた重なったりする、少年と悪魔幼女との関係も結構ダイナミックで、それでもリリカルにまとまったと思った次の瞬間、どうにもオカルティックな設定がスタートしたりして、妙に余韻を残す終わり方になってしまってやっぱり悩む。もしかして、続きとか意識しているのかもしれないけれど、その場合結構血みどろで壮絶な話になりそー。それはそれで興味津々なんだけど。お話しはそれとして藤田香さんのイラストは徹底的に可愛くって好き。口絵のボンデージ悪魔の幼女の見えそうで見えない所も良いし、本編のイラストに少年と少女のキスシーンが3枚、それも別々の少女とのキスシーンがそれぞれの風情で描かれていて、シチュエーションとかを想像して胸躍り、味なんか妄想して心沸き立つ。できれば今度は味付きのインクでイラストをプリントして欲しいけど、本屋で立ち読みならぬ立ちキスなんかされてたりするケースもあるからなあ。その際には文庫でもパックで出荷もやむなし。コスト増も甘んじて受け入れます。


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