縮刷版2002年2月上旬号


【2月10日】 率先垂範、って言葉があって故事成語なんか単なる熟語なのかは知らないけれど、ともかくも何事であっても天辺にいる人が先頭に立てば何事も丸くおさまるし、それが誰しも苦手とすること、躊躇することであればあるほど天辺にいる人の最前線への進出が望まれる。逆に誰しも苦手で実行に躊躇するよーなことに、天辺にいる人が出れば意外性も含めて「そこまでやるのか」って感嘆が起こり、下に付く人の意気も高くなる。ここで肝心なのは天辺にいる人ではなくって、天辺に近い人たちが出ても全然意味がないってことで、なるほど遥か上にいる人のわざわざのお出ましを凄いことだと持ち上げる人もいるだろーけど、これを率先垂範とゆーにはちょっと難しい。

 つまりは天辺より下に人が率先垂範を主張したところで、いくら天辺に近いといっても上に天辺を仰ぎ見る人である限り、決して下への範を垂れているんだと下にいる人は思わない。天辺が企業のトップだったとして、その企業の子会社のトップがやってもこれも率先垂範とは言い難い。子会社のトップも身分は天辺に見えても上がある以上は天辺の周囲と条件は一緒。より上を見ての忠誠心を現すアピールではないかと勘ぐってしまうのが可能性としては高く、下の意気を高めるどころか返って意欲を減衰させてしまう。あるいは少しづつ上に近づいた時に自らを襲うだろー序列への迎合に、ゲンナリとさせられることもあるのかもしれない。

 ここに希にみる歴史的なプロジェクトが実行されるとして、現場ではなかなかに釈然としない気持ちを抱えている人が大勢いたりしたとして、けれどもは天辺にいる人の率先垂範ではなくその下にいる人の行動だけだった場合、起こるのはなおいっそうの意欲の減退と人心の離散、だろー。現実にこーゆー状況が起こるかどーかは知らないけれど、仮に起こった場合、率先垂範を理解できない暗愚な天辺を狡猾な周囲が仰ぐ構造を持った組織に、華々しい将来があるとはなかなか思えない。そんな組織があったら現場は早々に組織を抜けるに限るだろー。もちろんここに紹介したのはあくまでも仮定の妄想であって、現実に歴史を揺るがすプロジェクトがあった場合、もちろん天辺が周囲も含めて率先垂範に勤め、周囲の称揚を得て組織の発展へとつなげていくことだろー、と思うんだけど、さてはて如何に。そんな事態にいつかまみえる機会があったら、注意して天辺の動きに注目したい。重ねて言うけど子会社の天辺は決して真の天辺じゃない。感心は、しない、絶対に。

 またしても意味不明のことを書き連ねつつ先週は見逃していた「ギャラクシー・エンジェル」を見る。見終わって服を着替えて電車に飛び乗り秋葉原へと行って「ゲーマーズ」で「ぷちことミントのバレンタインパック」を買う、ってちょっと行動が歪んでいるのかな、いやいやそれほどまでに感動したってことです「エンジェル隊」のあまりにおポンチな言動と、そんなおポンチさを完璧な形で映像にしてみせたスタッフの人たちに。DVDは高千穂遥さんといっしょで衛星放送版の1巻をボックス付きでフィギュアも付いたバージョンで持っててそれは一応見たんだけど、どこか間延びした雰囲気でギャグも気持ちの筋に合わなくって、続きを買うのをちょっと躊躇していた。それがどーだろー、今朝放映のバージョンは、2話あったうちのどちらも傑作。もう大傑作。これほどまでに傑作なアニメを「ココロ図書館」以来見たことがなかったよ、ってつい先日か。

 ミントは腹黒だしミルフィーユは天然だしバニラはまるで腹話術だしフォルテは凶暴。蘭花さんが目立たないのには言いたいこともあるけれど、それはともかくキャラクターの突出した性格を巧みに折り込んで話を走らせ膨らませまとめあげる、多人数が登場するアニメーションに王道な展開が心のツボにはまりまくりで、見ていた間じゅう笑い転げる、まだ朝なのに。比べるとしたらミントのコスプレ好きが招く災難をオーバードライブ気味に描いた最初の話もオチがなかなかに効いて面白かったけど、後半のミルフィーユのうすらボケぶりが周囲も巻き込んでバカばっかな状況へと至らしめたエピソードの、「バーンしたいバーンしたい」(何をだ?)と駄々をこねるミルフィーユの言動仕草、そしてそーミルフィーユに演技させたシナリオ演出に激しく感動し感嘆し感涙にむせぶ。

 衛星版がすべてこのクオリティーならもう明日にでも、全巻揃えてティッシュ配りの暇も惜しんで見るところなんだけど、さてはて実際の所どーなんだろー。折も折、発売なった「アニメージュ」の3月号がでじこにミルフィーユとゆー、ポストモダンが動物化している状況においてとてつもなく凶悪な表紙になっていたんで動物的に買ってしまったけど、そこに掲載されていた浅香守生さんと大橋誉志光さんの対談なんかを読むと、やっぱり1話、2話あたりまでフラストレーションがあったものが、7話とか、9話あたりからはじけてはじけまくったみたいで、少なくともそこまでは見よーと心に決める。たぶんそこまで来たら最後まで見よーってことになるんだけど、ってことはやっぱり火曜日の朝のティッシュ配りはパス? まー出なくたって鬼界ケ島とかに流されるってことはない……だろー……けど……種子島ならいつでも流されるよ。

 ポストモンダンが動物化すると言えば「わるものオーバードライブ」で大森望さんが東浩紀さんの「動物化するポストモンダン」(講談社現代新書)に異論反論オブジェクション。主張としては萌え要素にしか反応しなくなって作家性がどーでも良いって思ってるのが第三世代ってゆーけどでも、第三世代だって作家性とか作品性を尊んでるでしょ? ってことで例として「演出はヘボいけど声優的にはOK」「TVアニメ版はダメでもフィギュアの出来はいいよね」って発言を挙げて「非情に細かい部分で『作家主義』だったり『作品主義』だったりするのが第三世代の特徴なのでは」と言っている。

 なるほどそーゆー部分も確かにあるけれど、一方にはそーした作家の名前、作品の傾向といった情報に動物的に反応してしまった上で、後付け的に(当人にはそれが後付けとゆー意識もなかったりする)作家性作品性を紡ぐ言語を構築していったりする傾向もあるよーな気がして悩ましい。その辺どーいった反論を東さん的には用意しているのか、聞いてみたいけど17日の「ロフトプラスワン」はエロマンガ集会だから筋がちょっと違うしなー。「あにメージュ」に是非とも登場したい、って前に見たときに言っていたからそこは次の編集長の人には是非、東浩紀が語るミントたんはあはあ、じゃない動物化とは何かを10ページくらい使って語らせて差し上げて下さいな。ツチノコ原人のコスプレくらいは、してくれるかな。

 まだ忘れられていなかったよーで「電撃文庫」の新刊がバレンタインより早く届けられていたんで早速、四捨五入すると100歳になるんじゃないかと巷では言われているヤングアダルト界では異例の新人にして「電撃ゲーム小説大賞」受賞作の「大唐風雲記 洛陽の少女」(メディアワークス、510円)を読む、面白ぇ。皇帝を仰ぐ漢字の人々が暴れ回ったりするチャイナ風ファンタジーが氾濫するなかで、久々に真っ当に現実の、っても唐の時代だからもう1000年以上も昔の話ではあるだけど史実に残る中国を舞台に史実に現れる人たちが登場してはいろいろと活躍をする話ってだけでも中国史好き的には嬉しいのに、そこで繰り広げられる物語がまた歴史と向かい合おうって意志に満ちていて、ご都合主義に陥ってしまう例もある歴史改変物とは一線を画したスタンスに好感を抱く。

 もちろん歴史を改変したくなるのはそれが面白いから、好奇心を満たしてくれるからであって実際に読んで面白いものが多いんだけど、この「大唐風運記」は仮に歴史を買えられないんだとしても、出来ることはあってそれはどーゆーことなんだ、ってことに想像を至らせてくれて読んで親しみが湧く。舞台は755年の長安。よごとに現れる謎の光の正体を確かめよーとした少年とその師の前に現れたのは、姿こそ少女だた中身は50年前に死去した則天武后。聞くと安禄山の反乱で陥落した洛陽で殺された少女の姿に憤りを覚え、復活して今の皇帝に争いをやめさせよーと働きかけに来たのだった。10歳くらいの美少女で復活してどーして復活したのかって証拠を示すためにすぐ脱ぐって描写があって、絵で見たいって気もあったけど、証拠ってのはつまり兵士に切られてお腹がパックリ開いてるってことだか、ちょっと絵にはしづらかったみたい。

 則天武后って今だと女傑ってことしか伝わってないけど、小説だとなかなかに英明な人に描かれていて意外性たっぷり。傾城の美女の誉れも高い楊貴妃の描き方も実にユニークで、ほかに玄宗皇帝や李白といった当時の人々が実名で(当たり前だ)登場し、歴史上起こったことの復習もしながら進んでいく物語は読んで歴史の勉強になる。加えて時間と空間の移動を巧みに使った設定も面白く、パズルみたいな展開にどんな結果が待ち受けるのかをはらハラハラドキドキさせられる。ラストのオチも実に綺麗。あっそーかと吃驚仰天させられる。まー気付く人はすぐにも気付くんだろーけど。

 今時の小説には珍しく「ですます」調で進む語り口と、これはヤングアダルトの文庫には珍しくビッチリと詰まった文字数に、手にとってぱらぱらとめくってちょい引く人もいそーだけど、登場するキャラの個性、とりわけ復活した則天武后や居酒屋の看板娘の安麗華やかつてないユニークさを持つ楊貴妃といった女性キャラの生き生きとして力強い姿に触れるうちに、知らず物語りへと引き込まれ最後へと連れていかれる。主人公自身が未だに成長しきっていないことと、主人公の師匠の方士の謎めいた氏素性あたりを切り口にして続編なんかもあるんだろー。綺麗にオチ過ぎてるだけに、どんな話になるのか不安な所もあるけれど、書ける人っぽいんで期待してもきっと大丈夫だろー、ってことで期待してます。


【2月9日】 なるほど人数を広く薄くまいて大勢の人の目に止まらせなにがしかの試みを行っているんだとゆー印象を植え付けるってのも確かにひとつの戦略ではあったけど、1人が150個といったティッシュがそれだと2人ペアで1カ所について300個しか配れず、早朝のラッシュに押し寄せる大人数の通勤客の中では大河の一滴大海の目薬に等しく、駅の売店の新聞の売れ行きを大きく左右するには至らないって心配もない訳じゃない。

 だったらいっそ配る場所を絞って人数もそこに4人8人と集めて、配るティッシュの数も2倍4倍にすることで当該の駅についてある程度の効果を狙おうって戦略に、切り替えたのかもって想像したんだけど真偽は不明。ともあれ2月12日の朝に蛍光イエローのジャンパーを着てティッシュを配る社会の木鐸な人々を見られる場所は、首都圏近郊でも結構なターミナル駅になりそーで、快速とかあんまり止まらないよーな駅の人には、新聞業界や新聞記者や内定者を震撼させるプロジェクトの観察には、家を早めに出てターミナル駅で途中下車してみることをお勧めします。横浜なんて結構な人がでばってるのかな。

 もちろん下準備に長い期間を費やしただろージャーナリズム史に残る一大プロジェクト「『産経新聞』は休刊日も駅では売ってるんだ告知ティッシュ配布キャンペーン」だけに、たとえ予定どーりに面的な戦略を採用したとしてもきちんと、すべての地点について許可をもらい人員の手当も済んであとはゴーを出すばかりになってはいたんだろーけれど、これからも毎月のよーに行われるだろーキャンペーン、一回で全部を押さえるんじゃなくって重点地域を占拠しつつズラしつつ進んでいくってやり方でも、効果は決して得られない訳じゃないってことで、今回のよーな点的な戦略の採用に至ったんだろー。

 だったらいっそ朝刊の代わりにティッシュをお届けする、なんて手もありそーで、本来だったら何も得られないところななのに、風邪の季節に役立つ品物がバレンタインデーにはちょっと早いけど届けられたら喜ぶ人とか結構いるかも。これも街頭での配布と同様に、いろいろ微妙な問題をはらんでいるんだけど、言論活動の推進ってゆー意味で法解釈的にバックアップしてくれそーな文章もあることだし、点へと至る線をつくる活動として取り入れられる可能性なんかもありそー。さてどんな反響が出て来ることやら。週明けに刮目。

 電話番のために出勤して「ソルトレークシティ冬季五輪」の開会式を見る。サウスダコタ州までは行ったことがあるけどユタ州はその筋の人でもないんで飛行機の中継地として飛行場に降りた以外は地面に降り立ったことはなく、1月末のサウスダコタが例年よりは暖かいとは言いながらも氷点下を前後する寒さで、隣の州にあるミネアポリスがマイナス20度だったことを考えると、さらに北にあるユタの2月はきっととてつもなく寒いんだろーなーと想像はできたんだけど、夜の屋外にある競技場を歩く選手たちを包む防寒着にはきっと最先端の技術でも使われているんだろーか、3時間とかに及ばんとする式の間も別に凍死する人とか出なかったみたいで、さすがはオリンピック、いろいろなところにいろいろな工夫がされているんだろー。半ズボンとかで歩いていたどっかの選手もいたけど、さすがにあれは寒かっただろーな。

 一昨年のオーストリアはメルボルンで開催された夏季五輪の開会式でもやっぱり、征服されたアボリジニーの先住民たちが登場したけど、今回の五輪でも蹂躙されたって意味では世界史的にも南米のインカとか中米のアステカあたりと並んで知られているネイティブアメリカンな人たちが登場して、踊りとか音楽とかを見せてくれた。この流れでいくなら2008年だったっけ、中国は北京で開催される五輪にはきっと北京原人が登場して火で焼いた肉を食べる踊りなんかを見せてくれるのかな、なんてことを考える。今いないじゃん北京原人、って言われるだろーけどそこは神秘の国太極拳の国「先行者」の国。丹波哲郎さんでも長谷川初範さんでも緒形直人さんでも片岡礼子さんでもない正真正銘の大科学者が秘術つくしてクローンでもって北京原人を甦らせて、開会式当日に家族ともどもその姿を披露してくれるだろー。もちろん中身は(中身なんてないっ!)本田博太郎さん小松みゆきさんなんかじゃないぞ。

 ネイティブアメリカンな人たちによるダンスとかが終わった後を受けて登場した開拓者たちの一群が、あるいはウィンチェスターとか振り回しながらネイティブアメリカンの人たちを場外へと追いやるシーンを歴史に忠実に再現するのかな、なんて妄想は妄想に終わったみたいでインガルス一家みたいな人たちが続々と登場しては、歌に踊りに大活躍を見せてくれて、アーリーなアメリカの厳しかったんだろーけど夢もあった時代を想像させてくれた。そこに向かって矢をかいかけるネイティブアメリカン、なんて演出も当然なかったし。

 歴史を振り返って次はだったら船でたどりついたネイティブアフリカンな人たちが綿花の中を足に鉄球をぶらさげながら走る場面も歴史に忠実に再現するんだろーかと思ったけど、アトランタならいざしらずそこはユタ州寒い土地。関係が薄かったのか南部な感じの演出はなく、聖火リレーへと至って一応の幕引きを見た。モハメド・アリの意外性には及ばなかったけど、アメリカの冬季五輪史上に輝くソビエト連邦を破ったアイスホッケーチームはまさにアンカーにどんぴしゃり。シナリオはさておき見た目にじわじわと感動を巻き起こさせる開会式のアトラクションの演出といー、細かい部分への気配りといー、アメリカのショーにかける底力と、人の偉績を評価する姿勢のある意味フェアさを存分に感じさせられる開会式だった、って言えそー。最後はやっぱり正義の鉄槌「ディジーカッター」を中央で破裂させて国威を見せて欲しかったなー。

 全然やおいじゃないぞ角川ビーンズ文庫の「サンクトゥスは歌えない 名前のない少女」(角川書店、457円)は転職の果てに借金がかさんだ挙げ句に警察の業務をサポートする警察代行エージェントに叩き込まれた青年が、そこでトップクラスの成績をあげながらも過去の記憶がなく謎めいたところのある少女と絡みながら、九十九里浜の沖合いに出来た人工のシティを舞台に起こる犯罪組織の謀略に立ち向かっていくってストーリー。事件そのものが割に単純な構造の上に、記憶を失っているパピヨンって少女がそれほど過去に拘っているって感じを見せなくて、自分探し的な楽しみを読んであんまり受けないあたりが、全体から受ける印象の弱さにつながっているのかも。徹底的に描写しまくるんじゃなく、カットを積み上げていくよーな文体が情報の伝わり方を断片的にして感情をあまり入り込ませないよーにしていることも。青年の上司になった男とか、そのちょっぴり抜けた感じのある秘書とかキャラクター的な配置は面白いんで、これを顔見せにパピヨンの本格的な活躍がもし出るんだとしたら続編なんかに折り込まれていたら読んで楽しめるかも。しかしやっぱりよく分からないキャラだよなー、敵のボス。


【2月8日】 理念と算盤の両方を満たせればそれはもう言うことはないんだけど、世の中は往々にして理念よりも算盤が勝つよーになっているのは状況を見れば明かで、例えばここに中立公正を旨として社会の木鐸たらんとしている存在があったとして、その理念を全うさせるためには、算盤の珠を弾かせるだけの資金力とか、権力とかを持った存在を向こうに回して戦う必要がある。そして以前はそんな理念を強く支持して、資金力や権力に及ばないまでもそれなりな算盤を成立させていたものだったけれど、悪貨は良貨を駆逐するってゆーか、水は高い所から流れて低い所に溜まって腐ってボウフラが湧くってゆーか、人心もいつしか理念とは別の尺度でもって算盤を弾くよーに教育されてしまったよーで、理念を前面に頑張ったところで、もはやまったく算盤へと結びつかない。

 そこで何が起こるかとゆーと、理念はこの際脇において目先の算盤に飛びつくって現象で、中立公正を表には上げても裏では情実がはびこり恫喝がほのめかされ、社会の木鐸なんて名ばかりの向くは上ばかりなりな平目が一丁、出来上がる。平目が贅沢ってんなら鰈と言っても良いだろー。会社に対してではなく社会に対して正義を貫くべし、ってなお題目は棚上げされ、正義の砦の前面に立って理不尽を糾弾すべき役割の存在が、弾く算盤の珠をあつめるべく積極的に理不尽に荷担し、あるいは消極的でも理不尽に荷担せざるを得なくなり、およそ常識的には考えられなかった現象を現実に引き起こすことになる。

 いったん曲げられた理念は、低き算盤に流れた人心と同様に元の高潔さを取り戻すことはまず不可能。かくして中立公正のお題目は形ばかりのものとなり、たとえそう主張した所で鼻であしらわれるのがオチとなる。社会の木鐸なんて名乗るもおこがましい存在が、それでも社会の木鐸然とし居座り、けれども内実は算盤を奉る存在として、算盤勘定を尊ぶ風潮を垂れ流しては人心をさらに算盤づくに買えていく。そんな果てに訪れるのは一体どんな世界か。理念果つる先にある、どうどうと滝のよーに落ちていくだけの未来を暗示する現象が、まもなく堂々と衆人の眼前へとさらされる。瞠目せよ。畏怖せよ。嘲笑せよ。そして憤怒せよ、歪んだ未来に導く彼らの愚鈍な振る舞いを。

 などど意味不明のことを呟きつつ読書。どうやらやおいらしー角川ビーンズ文庫でもないエンターブレインの「A−NOVELSファンタジー」なんだけど星野ケイさんの「リューンサーガ」(エンターブレイン、840円)はちょっぴりやおいらしー、いや相当に、かな。CIAの諜報員、って今時なかなかない設定を持った割に顔立ちもよくって何より人なつっこさが飛び抜けている(人なつっこい諜報員ってのが矛盾するかどーかは別)フォウって青年が訪れたのは北海道の原野に暮らす物理学者の家。人里離れて空間物理学とゆー、世の中がいろいろな層から成っているってことを研究している氷浦教授の研究成果をゲットする目的で、助手として入り込んだは良いものの、その家には予期していなかった息子とやらがいて、おまけに正体に謎めいたところがあってフォウの仕事に支障がでかねないでいる。

 そうこうしているうちに、2人で買い出しに行った先の町で突然錯乱したよーになる男が出現。持ち前のキョンシー退治な技でもってその事件の真相を追ったフォウだったけど、霊とか妖怪問いか言った人間の常識の範囲をはるかに越えた事態がどーやら起こっていたよーで、フォウも氷浦教授の息子と名乗った和彦とゆー青年も、ちょっとした大きなスケールを持った戦いへと巻き込まれていく。そんなストーリーなんだけど、フォウが和彦とお近づきになりたいと欲求し、和彦も出自の関係で外部との接触を疎んじていたのが、あまりのアタックの強さにフォウに気心を許すよーになっていく。結果、起こるのはお定まりの絡み合いかってゆーとそーはならないのがそっちの専門レーベルではない「A−NOVELファンタジー」。著者いわく「UFOロボグレンダイザー」での兜甲二と宇門大介が見せてくれた「らぶらぶ」なんだけど肉体的な交接のない関係へと発展していく。あからさまじゃない分、かえって赤面しそーになるんだけどね。

 タイトルとも関連のある場所が世界を把握しその崩壊を促そーとする存在によって、実に1000年もの期間をかけた干渉を受け、結果人心が堕落し、最後の最後になって到来した攻撃に耐えられず滅んだってエピソードもあるんだけど、1000年もかけて周到に堕落させられた人心が、たとえ高潔さを旨とする支配層の一員であっても1人だけ高潔さを保っているとはちょっと思えないだけに、提示されているスパンと、その期間に起こる変化の幅のかみ合わせにちょっと戸惑う。そもそもが、1000年とか時間をかけて世界を滅ぼそうと企む首領の目的が最後まで不明だったりして、あるいはとてつもないスケールでのプロジェクトが動いていて、その一貫として星の長い時間をかけての滅亡が行われてるんじゃないか、ってな妄想も浮かぶけど実際の所はどーなんだろー。続刊の予定は未定みたいだけど、喉元に何かひっかかってる感じは是非とも解消させて頂きたいところ、なんで星野さんにはどーやってでも続きをエンターブレインに売り込んで、本として僕たちの目の前に謎の解決ともども提示してやって頂きたい。やおいが一段のスケールアップを図られていたら……それもそれでそれなりかも。

 理念で言うなら例えば出版が衰退の危機にあるなかで、出版取次会社を核とした旧態依然としたシステムを打破し、出版社が連携して市場に確たる地歩を築いていけるよーな仕組みを作ろーとゆーことで始まった動きがあったけど、5年連続マイナス成長ってゆー未曾有の出版不況の中で、理念はもろくも崩れさって、算盤が前面の出よーとしていて、なかなかに複雑な思いにかられる。角川書店が主婦の友社とアシェット婦人画報社から受けていた物流とか販売といった部門の委託関係を解消すると発表。出版社が活動を行う上で編集とは別に必要な部門として抱えていかざるを得ない物流とか営業とかいった部分を、角川書店が構築するロジスティックなんかの部門へと集約して、スケールメリットを出しつつ効率化を図りつつ、出版社は出版社で本質的な仕事でもある編集・出版に専念してもらおうってゆー、理念がなかなかに魅力的に映っていただけに、算盤が合わないからとゆー理由であっさりとひっくり返してしまった角川書店のスタンスに、ちょっと釈然としない気持ちを覚える。

 むろん算盤あっての会社経営ってことは重々承知していしる、ましてや株式公開企業として株主への説明とかが求められる角川書店にとって、この未曾有の不況を乗り切るためには不可欠な判断だったと言える。おそらくは物流とか販売の代行を行うコストに見合った適性な額のマージンを取りたいって主張して、主婦の友側なりアシェット婦人画報社側の算盤と噛み合わず、双方納得の上で提携解消に至ったんだとは思うけど、こと出版の未来をどーにかするんだってゆー崇高な理念が、算盤の下でもがいているよーにも見えないことがなく、どっちもどっちに我慢できなかったんだろーか、ってな思いにとらわれる。

 主婦の友社といえばお家騒動からメディアワークス設立へと至った経緯の中で、取次への口座となってメディアワークスの販売を担った会社で、それが例の「オルタカルチャー裁判」で被告になってしまった要因にもなった訳だけど、ともかく過去にいろいろといきさつのあった会社でも、情とかではなく算盤で見るスタンスを、パブリックカンパニーとしては当然の行為で、情実的な関係に縛られない、新しい体制を打ち立てよーとゆー理念に、沿いこそすれ反発なんてしないって言われれば確かに言える。誘いをかけて見方にして、物流とか販売といった掘割を埋めさせ出丸を壊させ裸の城に変えさせた挙げ句に、派遣していた警護の兵を引き上げ荒野に置き去りにした、なんて見方も一方には出来るだけに、判断に苦しむところだけど、幸いにしてどーやら主婦の友社、掘割も出丸も構築可能なみたいで、袂を分かっても当面は城を維持して行けそー。

 ともあれ角川書店には、算盤の前に果てかけた理念を今はともかく将来において、復活させ業界の主流として定着させていってくれるのを心から望むばかり。世間的にはマイナーなSF専門誌の1番目立たないレビュアーを相手に、ヤングアダルトの文庫の新刊を送って頂ける、角川春樹事務所と朝日ソノラマと並ぶ貴重な出版社だけに(「ゲーム小説大賞」受賞作とかもいよいよ買わなくっちゃいけなくなった模様)、出版点数の削減とか、「サイトでーた」に「少女帝国」の休刊とかいった効率化はそれとしても、新米レビュアーの算盤を助けてやって下さいな。もちろんそれが理念を真っ当できる内容も持っていることが不可欠なんだけど。


【2月7日】 とか言ってたらいよいよもって実行日も間近に迫った「休刊日に新聞が出なくたって犬は困らないけど人間はいちおー困るみたいなんで『産経新聞』は休刊日も駅で売っちゃいます記念ポケットティッシュ首都圏一斉配布プロジェクト」の全容がここに来て判明。決して間際になって慌てて警察署に道路使用許可とか取りに走ったんでは多分なさそーだけどそれはこの際置いておいて、総武線中央線東海道線埼京線京浜東北線等々、首都圏一円のそれなりな駅の駅頭に12日の朝早くから、っても午前7時くらいからだけど普段はなかなか見られない、日本新聞協会加盟の準全国紙のたぶん記者も含めた社員が立って「武富士」の青いティッシュとも、電話番号が書かれたテレクラのティッシュとも違う格調と主張にあふれたメッセージの書かれたポケットティッシュを配布することになりそー。

 1駅で1人当たり200個も配らないんで2人が配ったとしても500個には届かないティッシュなんで、これは貴重だこれは珍しいと思いジャーナリズム史的な資料として集めたいともくろんでいる人は、午前7時にはそれなりな駅に行っておくに限る。誰が消費者金融で誰がテレクラか分からないよ、って人もいるかもしれないけれどそこは世紀のプロジェクトに挑む意欲に満々だけあって、アルバイトを雇う費用は無駄でも揃いのスタッフジャンパーを揃えるだけの余力はあったみたい。それも驚きの蛍光イエローなんてブッシュマンとかモンゴル人だったら10キロメートル先からだって見つけてしまいそーなド派手な色のジャンパーを着た、頭脳労働者だけあって肉体的に若干の余裕を持った人たちが慣れない早朝故にあるいは目覚める途中みたいな声でもって宣伝文句を並べながらティッシュを配っていたら、それが目標の「産経新聞」のティッシュ配り隊だろーから近寄って目的のティッシュをもらおー。2個でも3個でももらってくれたらすぐハケるんで配ってる人的には嬉しいかも。袋ごとかっぱらって逃げたらそれって、犯罪になるのかな?

 しかし本当に派手な色だぞ蛍光イエロー。これをたとえばロングヘアーのスレンダーな女性が着たらいかにもキャンペーンギャルって感じで微笑ましいく美しく見えるんだろーけれど、そこは年齢的には結構なレベルに達してて、ために胴回りにも人生の収穫がどっぷりとついて貫禄が出ていて、顎とかは取材相手に親しみを持ってもらえるよーな感じに、柔らかく丸みを帯びた福々しい2重顎とかになっていたりする新聞社の従業員、蛍光イエローのジャンパーは正直身に余るよーな気がしないでもない。着てもちろん着られないことはないけれど、そのあまりにパワフルでエキサイティングな色使いに、文明の発達の恩恵をもろ受けた豊満な肉体が重なって醸し出される雰囲気に、歩いている人の目とか仰天しそーな気がしてる。どーやったらそのあたり、うまく衝撃をオブラートにくるんで歩いている人に提示できるんだろーか。残る4日間あたりでワードロープを掘り起こしていまい感じになるよーちょっと研究してみよー。蛍光イエローのリーボック「エアポンプフューリー」を買ってコーディネートしてみるかな。

 それなりな腕前の悪党と美少女ってゆーか幼女が組んでさらに悪い奴等を相手に戦い勝つ、ってな話はライアン・オニールにティータム・オニールの親子コンビによる「ペーパームーン」あたりからこっち物語の定番として、それも楽しめる物語の定番としてさままなシーンに展開されているよーな気がするし、稀代のテロリストたちを相手に1人の男が敢然と立ち向かい勝利する、って展開も「ダイ・ハード」を筆頭に結構いっぱいあったりして、知恵を巡らせ体力を駆使して圧倒的な敵を倒していくカタルシスに酔わせてくれるとこれまたけっっくな人気になっている。で、そんな2つの”定番”要素が、がっぷりと右四つに組みながら解け合ってしまった都築由浩さんの新刊「密航者、月へ行く。」(角川スニーカー文庫、514円)は、おっさんと美幼女のカップルの怒鳴り合い助け合う展開の楽しさがあり、また敵を工夫と努力で倒す快感があって、読んでいてなかなかなに萌えて燃えられる。

 スパイから泥棒から暗殺から、頼まれればとりあえずのことはやる始末人(スカベンジャー)って職業をパン屋の仕事のかたわら手がけているガイ・グリフィン・ガドフリー。その日も木星の第三衛星上で暗殺の仕事を一本こなそーとしたものの、宿敵の警護員レイチェルに邪魔され果たせず、すごすごと月へと帰ろーとして潜り込んだ船の中で、ガイはとんでもない事態に巻き込まれてしまう。謎の一群によって船がハイジャックされてしまったのだった。政治犯とは名乗りながらもいろいろ背後のあいろーなハイジャック犯たちの言動が気になっていた所に、同じ船に密航者として乗り込んでいた少女、マティジュと出会いマティジュが別の要件で言葉を交わしていた巨大企業の重鎮の娘を助けて欲しいと頼まれ、行動を開始する。

 そもそもが質量計算とかもバッチリやってて密航者なんて絶対に不可能だろーと思わせる未来の宇宙船に2人も密航者が乗り込んでいた、なんて設定の根本に及ぶ問題についていろいろと考えてみたくなったけど、それでなくっちゃ話が始まらないと言われてしまえばそれももっともなんで、ここは追究せずに、「ダイ・ハード」的シチュエーションへと至った展開の中で、ガイの秘められた実力を爆発させるかのごとき活躍と、マティジュの普段は役立たずなんかけどときどきちゃんと役立つ様なんかを楽しみむことにしよー。ガイは月に戻って隠れ蓑のパン屋を続けているけどそんな狭い世界で「ビッグになるんだ」が口癖のマティジュが我慢できるとも思えない。そんなあたりの爆発ぶりなんかも織りまぜながら、続編とか続々編とか書いていってもらえたら、とりあえずは読んでしまうことになりそー。もちろんこれで完結でも読んでわくわくどきどきほのぼのと、楽しんでいられる1冊でしょー。

 名前的にはメジャーな人だけど他にあんまり読んだ記憶なかった冴木忍さんの「遊々パラダイス おツキさまにお願い1」(角川スニーカー文庫、457円)は戸部淑さんのイラストも表紙から口絵から造本もほのぼのちっくで目に良い感じだけど、お話しの方もそれに輪をかけてほのぼのちっくで読んでいて世知辛い空気に冷えた心がほぐれて来る。だからといってティッシュも笑って配れるかってゆーと別だけど。憑き物落としが仕事の呪禁師の少女が仕事を以来されて行った屋敷で見たものは、頭に兎の耳をつけた美少年。聞くとその国の王子さまで、買っていたペットの兎が死んだ形見みたいに残していったのがその耳で、以来王子は父母の不興も省みず、耳をつけ辺り近所を飛び跳ねて回ってお付きの家来をハラハラさせていたそーな。

 だいたいが兎ってゆーのに結構とんでもない生き物だったみたいで、そんな兎を平気で兎として飼って、耳がついてもそれを可愛いといって取らず、いろいろ不思議な力が耳から与えられてもそれを天与と言って平気で使ってしまう、天然なのかそれとも心底の部分では用意周到なのか判然としない王子のキャラクターがなかなかに出色。家来と呪禁師といっしょに妖精の世界に飛ばされて、そこで白妖精に頼まれ黒妖精のライラックを倒しに向かう道中記に話はなって行くけど、そこで出会うどんな困難も飄々とかわし進んでいく展開が、とかくハードな冒険悲惨なドラマをくぐり抜けた果てに感動を浴びせかける異世界ファンタジーの対極を行っているよーで肩の凝りがほぐれる。

 道中出会うキャラクターもさまざまで、時に悪辣だったり時に軽薄だったり時に嫉妬深かったりするキャラクターたちとのやりとりの中で、そーした性格の良さ悪さなんかを浮かび上がらせつつ、人間の持っている優しさみたいなものをちゃんと分からせてあげよーとする展開は、ヤングアダルト文庫よりはむしろ童話とか児童ファンタジーの方に持っていったら子供たちに大うけしたかも。スレてる今時のヤングアダルト読者じゃなかなか、受け入れ難いかもしれないけれど、そこはポストモダンが動物化している昨今、シニカルさをかっこいいと思う心理のデータベースが素直な感動を有り難うと感じるデータベースに置き換わっていけば、あるいはこーゆーほのぼのちっくな話も受けるよーになるのかも。タイプは違うけど悪くっても妙にほのぼのとしているキャラクターの多い坂田靖子さんのマンガにどっか似てる。不思議じゃ聞かないくらいに奇妙な力を持った兎の耳の秘密が知りたいんで、冴木さんには続きを早く。


【2月6日】 「『産経新聞って休刊日も駅の売店だと買えちゃうんですかっ、キャー素敵っ、正論サイコーっ』計画周知徹底プロジェクト第一弾、駅のそばでティッシュ配っちゃいますヒャッホー」の実施を12日に控えて考えてみました(ちょっと鉄拳風)、こんなティッシュ配りがいたら新聞社のプロジェクトっぽいと話題になるかも。社旗を立てた黒塗りのハイヤーからティッシュを配る。早朝と深夜に訊ねてきてティッシュを渡す。ティッシュを渡した相手を取り囲んで「今のお気持ちは」と聞く。ティッシュを手渡した相手に向かって「靖国神社には公人として行くんですね」といちいち念を押す。

 ティッシュをいっしょに駅前でくばっている人たちを組織してクラブを作ってクラブ員以外は配るのを遠慮してもらう。そのうちに日本新聞ティッシュ配り協会が設立されて加盟していない会社はやっぱり配るのを遠慮しなくちゃいけなくなる。10人ぐらいでひとりを囲んでICレコーダーかマイクロカセットレコーダーをかざし歩きながらティッシュを渡す。ただし渡せるのはその日の幹事社だけで他の社は事前に幹事社にティッシュを集めておく。渡す相手は小泉総理大臣だったりする。よく配ってくれた感動したと受け取って貰える。真紀子前外相にも渡そうとする。これまでこれまでだったんでやっぱり受け取りを拒否される。外務省がひきとってくれる。

 西洋ずれしたティッシュなんて言語道断と昔風の落とし紙を積み上げた山から適宜握って渡していく。よく見ると手でよく揉んだ古新聞だったりする。使うとお尻が黒くなる。「ティッシュもらってくれたら洗剤付けちゃうよ」と言ってティッシュを渡す。「6個でいいんだよ、いや3個でも」と言った言葉に差し出した相手の手に渡すのは12個だったりする。野球のチケットはつけられない。Jリーグのチケットもやっぱりつけられない。「南極物語」のチケットがつく。でももう終わってる。「子猫物語」のチケットがつく。やっぱり終わってる。「夢工場」のチケットもついたりする。もう誰も覚えてない。「スポーツフェア」の……(以下略)。等々。どれかひとつでも本当にあったら、それはそれでやっぱりジャーナリズム史に燦然と輝くかも。

 彫刻界の重鎮、舟越保武さん死去。といっても名前を知ったのは息子の舟越桂さんの方が先で、遠くを見つめるよーな不思議な眼差しと具象なのにどこか曖昧なフォルムを持った木彫りの人物像に惹かれたのが10年ほど前のこと。以来、気にして情報を集め展覧会とかに行くなかで、父親が実はとてつもなく有名な彫刻家で、長崎県にある平和を祈念する彫刻か何かを作った人だと分かってきて、折良く「世田谷美術館」なんかで展覧会も開かれたんで行って見てその作品を見て、なるほど言われるだけのことはある人なのかもしれいない、と思った。

 まあ、キリスト教に由来するさまざまな作品群の崇高さはそれと理解しつつも、惹かれたのはうろ覚えだけど少女の顔だかを掘った作品で、モデルがもともと美少女だったからってこともあるけれど、それが固い石の上に映されていても衰えないどころかさらに増して優しさと美しさを放っていて、真正面からじっと見入って見入り続けた。あと、脳の血管を患って半身が不自由になってからも制作意欲を途切れさせることなく、片手で作品作りに取り組み前の端正な作品とはまた違った、内面をそのまま浮き上がらせたよーな激しいフォルムの作品を作っていて、その頑張りに驚いた記憶がある。

 超一流のテクニックを持っていたにも関わらず、それが使えないよーになってしまい、のなかでしっかりと思い描かれている形になかなかならない苛立ちも多分、あったんだろーとは思うけど、そーした内面の葛藤も、巧成り名遂げた人がどーしてそこまでやるのってゆー外部の懐疑もうち払って、魂を形にしよーとあがいた姿には、やはり感嘆するより他にない。掘り返せばその展覧会のカタログも出てくるんだろーけれど、相変わらずとゆーか本の壁の向こうに埋もれてしまって出せず、その偉績を振り返れないのがちょっと残念。もっともしょせんは紙の上の平面な写真、放たれるパワーを浴びるには、やっぱり本物の作品を見なくっちゃいけないんだろー。どこに行けば見られるのかな。長崎もいつかは行きたいな。

 「マルチメディア・コンテンツ振興協会」が転じて「デジタル・メディア協会」になったけど略称は相変わらず「AMD」だったりする団体が年に1度開いている、優秀なデジタルコンテンツを表彰するイベント「AMD Aword」の表彰式をのぞく。今回が7回目で実は皆勤賞。今もまだある「マックワールド」なんかによく集まっていたCD−ROMタイトルの制作会社の人たちなんかが割と中心になって出来た、割とこぢんまりとした団体だったけど世のデジタル化の進展のスピードに乗ってみるみるうちに大きくなったみたいで、最初の頃は半分上段みたいだった「アメリカのアカデミー賞に追いつくぞ」的な意欲もこもった「受賞者と関係者は全員タキシード着用」の掟が、まあそれなりにマッチする格を備えて来たよーな気がする。当方は相変わらず適当な服装で潜入してたりするんだけど。

 それにしても世の変わり様はメディア(媒体)の変化にも如実に現れていて、今回の総務大臣賞を受賞したエイベックス制作の浜崎あゆみさんのコンサート中継を筆頭に、功労賞を「千と千尋の神隠し」なんかのプロデュースで受賞したスタジオジブリの鈴木敏夫さんを覗けばほとんどすべてがインターネット関連かモバイル関連のコンテンツだったのにはちょっと吃驚。いわゆるROMディスクを使ったコンテンツが「プレイステーション2」なんかのよーは日本に独特のとてつもない家庭用ゲーム機向けに収斂されていく一方で、かつてはパソコンがメインだったCD−ROMなりDVD−ROMのマルチメディアタイトルが、どんどんと少なくなっている状況が、見事に裏付けられた格好になってしまった。

 なるほどネットの普及は凄いしモバイルの進化も凄くって、その上で提供されているコンテンツもひと昔前だったら「夢」だったものばかりだけど、ただし考えよーによってはインターネットだから、携帯電話だから「夢」なだけであってコンサートなんかはテレビでだって中継できたし写真の転送サービスといったって遅れる写真は2次元で画質的にもとてつもないってものとはほど遠い。制約のあるプラットフォーム上でいかに頑張ったか、ってあたりの評価でもって受賞している節がある。それはそれで制約のあるプラットフォームの制約をいかに打破したか、って意義は否定しないけど、ことコンテンツ自体の独創性なりコンテンツが与えてくれる衝撃なり、コンテンツから伺える未来のコンテンツの可能性って意味では、マルチメディアとしてCD−ROMなんかが見せてくれた未来なり、ビジョンなり可能性なりとは同じ土俵で比べられないし、個人的には面白味っが減衰しているよーな気もする。

 「AMD Aword」が限定されたスペックをちょい突き抜けた部分を評価していく賞としてネットなり、モバイルなりの上で何が出来るのか、何をやったのかを軸に受賞者を選んで表彰していくんだと、覚悟したんならそう思って見ていくことにするんだけど、5、6年前の、CD−ROMなりマルチメディアが生む新しい表現なりがとてつもな可能性を持って語られていた時代を懐かしむ身として、単なる既存メディアの代替じゃない、何らかのパラダイムのシフトを感じさせるよーなコンテンツを、ネットであってもモバイル上であっても作り出してもらえたら、心から受賞を祝えるよーに思う。それが何か、ってゆーと全然見えないんだけど、でも何かあるはず。世界のクリエーターの人には是非是非、取り組んでいってもらいたい。

 浜野保樹さんに月尾嘉男さんに河口洋一郎さんって本郷だか駒場だかまでは知らないけれど、とりあえずは「赤門」を共通項にする人たちも来ていて相変わらずな感じ。あとやっぱり服部桂さんとか。まあ、今でこそそ皆さんそれなりなIT界の重鎮だけど5年くらい前ではまだまだ、未来を探る気鋭の方々だったんだよなー、その頃にちゃんとこまめに挨拶しておけば良かったと今になって悔やむことしきり。たぶんいるとんじゃないかと思ったらやっぱりいた(と向こうも多分思っている)三坂千絵子さんとかに挨拶。ドレス姿がせくしい、でした。樋口真嗣さんもプレゼンターとして来ていたけれど、当方とはとりたてて面識もないんで遠巻きに観察しつつ三坂さんと会話しているのを横で聞いている程度に留める。本当は樋口さんの仕事みたいなデジタルとアナログを駆使して未来的なビジョンをそこに作り出すよーなコンテンツなんかが受賞すると、個人的にも嬉しいし楽しいんだけど。

 重鎮の方々ではAMDで長く副理事長を務めている角川書店の角川歴彦社長とかAMD発足当時にはまだいなかったバンダイの高須武男社長とかにも挨拶。角川さんには例のことについて(どのことだ?)それとなくたずねてみたら、まだ話は現場からは上がってなかったみたいで、もしも届いた時にさてはてどんな事態が起こるんだろーかと考えてみたりする。なるほど確かに続き、楽しみににしている風な雰囲気が口調にはあったからなー。ついでに滝本竜彦さんの「ネガティブハッピー・チェーンソーエッヂ」を映画化して下さいともお願いする。何せチェーンソー男の正体が正体なんで、実写で描くのはちょっと難しいかもしれないけれど、もの言わず襲いかかってくるキャラは最近の布袋寅泰さんにも重なって、結構描けそーな気がしないでもない。いっそ布袋さんでやってみるってのも面白いかもしれないけれど、持っているのがチェーンソーじゃなくギターになりそーなんで、そこは布袋さんに我慢してもらうしかない。「フリクリ」のハル子さんのリッケンバッカーならチェーンソーみたいな音が出てたから、あんな感じの武器にすれば良いのかな。


【2月5日】 むろん周到な計画のもとに準備されただろー「産経新聞は休刊日だってキオスクで新聞売っちゃいます記念・社員総出でティッシュ配りだワショーイ」プロジェクトが、予定ではいよいよ来週に挙行だなんてスケジュール的な間際も間際になって、道路占有許可手続きが至ってないとか不埒な不良社員がぶう垂れるとか、かつてどの新聞社もやったことのないプロジェクトはつまり、やってはいけないプロジェクトだったからであって決して旧体制の打破とか、守旧派の妥当といった画期的革命的なことなんじゃかじゃないなんて、旧体制や守旧派のプロパガンダ的巻き返しにひるんでしまったなんて、そんなことがあるはずもないって前提で言うなら、残り1週間はすなわちプロジェクトに向けた最後の、そして大切な期間ってことになる訳で、休刊日発行の恩恵を、普段は奥の院にいてなかなか実態がつかめない新聞記者が表に出て、アピールするとゆーまさしく画期的革命的な瞬間をどーやったらより一段と効果のあるものに出来るのか、ってことを真剣に考える時期が来たよーな気がする。

 とゆーことで、どーやったらあまねく一般の皆々様にティッシュを配れるのかってことを、浅くとも広い知識を持ってはいてもさすがにティッシュ配りに関しては浅い知識すらももたない新聞社の人間として、やっぱり知っておく必要があるってことで、駅頭に立ってティッシュを配っているその筋のベテランたちの立ち居振る舞いを観察しよーと思ったけれど、残念なことに春の近づく跫音にも似た冷たい雨の降りしきる日中では、さしものベテランたちであってもなかなかに効果的な仕事を出来ないと踏んだよーで、姿をあんまり見かけることができず今日に限ってはその姿を見てのノウハウの吸収を断念する。まあ残り時間が刻一刻と少なくなっているとは言え、残る数日の間はティッシュに限らず新築マンションのパンフレットでもキャバクラのチラシでも美容室の割引券でも終末を予言する教祖の言葉でも、街頭で配っているものはまずもっておし頂きつつ、相手の手の差し出し方とかタイミングとかかける声の質とかを、調査し記憶し夜を徹して真似る努力をして、来るべき日に備えよー。ドスはきかしちゃいけないんだな。「靖国神社には参拝しますか」なんて実に記者らしーかけ声もティッシュ配りではNGだよな。

 「草川為」と書いて「くさわかため」、ってやっぱり読みたくなるけど正解は「くさかわなり」。それだけじゃー男性か女性かは分からないけど「花とゆめ」コミックスって少女漫画のレーベルで絵柄もどちらかとゆーと女性っぽいんでとりあえずは女性マンガ家だと思っておこー。その草川為さんの最初の単行本「ガートルードのレシピ」の第1巻が刊行されて随分と時間が経ったよーに思うけど、もしかして続きは出ないんだろーかなんて心配もちょっとだけ浮かんで来たところに待望の第2巻「ガートルードのレシピ2」(白泉社、390円)が登場、早速買って読んで相変わらずの絵の綺麗さにキャラクターの表情のユニークさ、そしてなにより描かれている物語の楽しさに大喜びしつつ、ああこれでまたさらなる楽しみを味わえる日までずいぶんと待たなきゃいけないんだってな寂しさも味わう。「パタリロ」みたく何だかのべつまくなしに出てるっぽいイメージがあってもそれはそれぜまずいんだけど。一体今何巻まで来てるんだろー「パタリロ」関連。

 本編はまあそれとして、同時収録のデビュー作より前に何か賞を受賞して掲載もされたらしー「逢瀬」って作品が、切なくって悲しいんだけどでも妙に心温まる作品で、今とさほど変わらない楽しくって可愛いキャラクターの絵柄とも相まって、その実力のほどを伺わせてくれる。口を描く線がねー、いーんだよねー。ある屋敷の主人がベッドで目覚めるとそこには美少女のメイドがいて、それは大昔に自分の屋敷で働いていたものの自分の結婚がきっかけになって屋敷を辞去してから幾星霜、老人になってメイドも執事も減ってしまった屋敷に、最後のご奉公とゆーことで戻ってきたかつての美少女メイドつまりは老メイドが、なぜか昔の姿に戻っていたものだった。どーしてそんなことになったかとゆーと、これまた老人になっていた屋敷の主人とメイドがまとめて運搬中のピアノの下敷きになって、意識不明の状況に陥った、その時に見ていた夢だか走馬燈だか中有の世界だったから、らしー。

 そして2人ともなぜかしっかりとその事故のことは記憶していて、もしかしたらかなりの確率で2人とも逝ってしまうだろーことを理解していて、いわゆる今際の状況であらためて人生を振り返りつつ、今こーして再会して言葉を交わして昔を懐かしみつつ過去の不幸を思い出しんでいる様が短いマンガで描かれる。思い出のピアノを再び2人で聞きながら、かつて手放してしまった可能性をあらためてたどりつつ迎えるその瞬間の、何とも幸福そーで自分もその瞬間にはそんな、選び損なった可能性に再び見えられたら良いなーとか思ってみたけど、考えてみたらそもそもが伴侶の二者択一みたいな状況に、生まれてこのかたおかれたことがなくだいたいが1人すら選べても選ばれてもなかったりする訳で、おそらくは目覚めてもひとりベッドに横たわり、その瞬間を動こうとしなかった自分を呪いながら迎えることになるんだろー。まあそれが自業自得って奴だ。アラムって名前のメイドさんの若い方の格好も表情も実にコケティッシュでキュートで、茅田砂胡さんの「レディ・ガンナー」シリーズに登場する年齢不詳で爬虫類が苦手なメイドのニーナにも増して好み。草川さんには是非とももっともっとメイドさんを描いてやって頂きたいもの。

 目の前でタブレットに向かってゲシゲシとペンを動かしみるみるうちに人間の美女の頭を描き上げていく寺田克也さんの腕前もそれはそれで凄いものだと関心した記憶があるけれど、しゃっしゃっと線を走らせ部分的にちょいぐりぐりっとさせただけで絶世の美女だったり可憐な美少女だったり世紀の美男子だったりを描き上げてしまうその腕前は、やっぱり凄いといか言い様がない。おまけにモデルのある絵はしっかり当のモデルに見えているんだから素晴らしい。東京は銀座の「ギンザ・グラフィック・ギャラリー」で始まったイラストレーター・宇野亜喜良さんの展覧会で、天才ってことばが陳腐に思えるくらいに圧倒的で絶対な画力を目の当たりにして、自分に全然絵とかの才能がなく、中途半端に絵の才があって徹底的な才能を見て挫折するよーなことにはならなかったことを内心喜ぶ。

 飾ってあるのは1階が本の装丁とか、雑誌の挿し絵とかに使われた映画俳優だったり時代劇のキャラクターだったりのイラストがデジタルプリンターの特殊な奴で大伸ばしにされたパネル作品で、絵は絵としてそのタッチまでをも立体感はともかくしっかりと再現してしまうプリンターの技術にちょっと感心する。地下1階の方には、宇野さんの知り合いらしーデザイン事務所だかが出した365まで通し番号がふってあるだけのポストカードに、イラストを描いたり雑誌の写真を張り付けたり文字をコラージュしたり立体物を乗せたりして、365枚のミクストメディアな作品に仕上げたシリーズが展示してあって、それぞれが立派に作品として通用するだけのテンションと、完成度をもっているにも関わらず、それが365枚以上(複数の作品がある日もあったんで)も並んでいて、見ながら目が至福に融けそうになる。

 写真を張って上からペンかコンテだかパステルだかでイラストを描いた作品があって、あるいはイラストだけが描かれた作品があって、それぞれのイラストの簡単な線なのにしっかりと人間の顔のそれも極めて美しい顔になっている凄さに驚く。上手い人だとは思っていたけどここまで上手い人だったとは。なかには写真をただ張っただけの作品もあるけど、写真の選び方にセンスがあってやっぱり感嘆する。308ってナンバーになぜかサリー・マンの写真が採用されていて、美少女ってゆーか美幼女の写った写真に宇野さんへの憧憬とは別にちょっと萌える。ジョック・スタージスも悪くはないけどサリー・マンの方が深淵な感じがして好きなんだよねー、って動機はどちらも不純だけど。会場には詩人の矢川澄子さんほか文化人がそれなりにいたみたいで、宇野さんって人の凄さをそんなところからも感じたり。タイプはずいぶんと違うけど同じイラストレーターの山藤章二さんも来ていて、今の阪神だったら鉄拳オッケーだとかいった、山藤さんらしー話をしていた。やっぱり聞きたくなるんだろーね、今年の阪神については誰もがどーなるかを。


【2月4日】 そうそうティッシュ配りといっても公共の往来を一時的に占有することになる訳で、それが社会の木鐸として世の中の悪を糺し正義を守る新聞とゆーメディアが、休刊日だって駅売りに限っては発行して、世の中の役にもっともっと立てるよーに頑張ったんだよ、ってゆーピーアールを行うためのものであっても、やっぱりルールは守らなくっちゃいけない。ルールってのはつまり、「武富士」とか「リンリンハウス」とかが街でティッシュを配る時に、ちゃんと所轄の警察署に行って、道路占有許可をもらっているのと同じことをするってこと。もちろん普段から社会正義の遂行に勤しんでいる新聞が、道路占有許可ももらわず、ましてやそんな許可がいるとも知らずに、記者も含めた社員を動員してティッシュ配りをしよーなんてことを考えるはずもないんだけど。

 従って、たとえ先週末、社員にそーゆーことをするって周知徹底も、どーゆー風にやるって説明も行き渡らないうちに、決定事項としてティッシュ配りが決まって人選も、一切の抗弁を受けないうちに終わっていたほどに、急に持ち上がりプロジェクトとして決まったからと言って、所轄の警察署に道路占有許可を未だもらっていないなんてことはないだろーし、よもや今頃になって慌てて取りに回ってる、なんてこともないと確信はしているんだけど、あるいは億にひとつの可能性として、見落としていた小さな駅とかでティッシュ配りを行うことになったとして、さてはて急に道路占有許可が必要だってことになっても、そこは全国の警察に深く食い込み悪辣な犯罪の情報を取り正義感をかざして報道する技に長けた新聞社。いわゆるサツ回りの人たちが、所轄に寄ったついでに許可申請ももらえば良かったりする訳で、なるほど日頃のネットワークがこーゆー場面で生きてくるのかと、今さらながらに足で稼ぎ地元に溶け込み仕事に勤しむ新聞記者の偉大さに気付く。

 もちろんサツ回りの人たちに、何より大切な紙面のクオリティ低下も甘受して、仕事で忙しい最中の記者にそんな作業をさせる、なんて可能性は億にひとつか兆にひとつだとは思うんで、すでにすべての場所で、それが何百地点になるのかは知らないけれど一応は終わって後は本番を待つばかり、って方にとりあえずは賭けておいて良いのかも。それにしても豪毅なのは、ひとつの道路占有許可の申請で2000円とか3000円とかかかるにも関わらず、何百とゆー地点でティッシュ配りを挙行する、思い切った策に打って出たこと。200カ所で40万円とか50万円、300カ所なら60万円とか90万円とか、もしかしたら100万円だって越えてるかもしれないお金が必要になる訳で、社員を動員するからアルバイト代はかからないとは言っても、この不景気にそれなりな支出になってしまう。けどまあ、そこは尊大とゆーイメージが長くつきまとっていた新聞社だけに、自腹を切り、澱のよーに溜まった下らない自尊心もかなぐりすてて記者も、営業も広告も整理も事業も何もかもが挙げてティッシュ配りに臨もうとしている姿勢を見せる必要があるんだろー。これまた戦後ジャーナリズム史の一大転機と言えるそーで、メディア学者はやっぱり見物、必要でっせ。

 ドッカーンと上がったロケットがバッカーンとゆー音とともに爆発四散する場面を期待していなかった、とゆーと嘘になるけどそれでも今回の「H2−A」の打ち上げに関しては、どこまでも青い空を下から白煙を吹き出し上っていくシーンの美しさもあって、ちゃんと打ち上がるってことの素晴らしさを存分に味わえたよーな気がする、ってテレビで見ていただけだけど。四角い画面だと最初は上に向かっていたロケットが途中から画面ではどんどんと下に落ちているよーな絵になって、何か気持ちを圧迫されたよーな感じがあったけど、そこはそれ、地平線に向かってどんどんと落ちていくからこそ、丸い地球をぐんぐんと回れるよーになるロケット&人工衛星。画面での落下はすなわち成功なんだと気持ちをエンコードすることで、喜びを喜びとして理解することができた。現場で見ていると同じ地平線に落ちていくシーンでも、やっぱりしっかり飛んでるって感じを味わえたんだろーなー、いーなー、夏とか見に行きたいなー。

 ロケットはロケットとして大成功したみたいで何よりだけど、2つある衛星のひとつがどーもうまく切り放せなかったよーで、それ単体で見ればやっぱり失敗した部分もあったってことになるんだろー。むろんひとつ条件が抜けてしまった、それも素晴らしい出来映えの竜の絵の最後に、とりあえずとして目を2ついれなくっちゃいけないうちの1つがちょいズレてしまったよーなことを挙げて、失敗だ失敗だと声高に騒ぎ立てるのもどーかって思う。中にはどんな意味あいであっても、失敗って言われること自体がどうにも許しがたいって人もいない訳じゃなさそーだけど、そこはそれ、荷物を運ぶ乗り物にとって何より大事な荷物を安全に確実に届けることが、実験であってもおまけであっても出来なかった事実を事実として受け入れ、失敗した部分も確かにあって、かといってそれは調査によって回復可能な失敗で、そのためには何をどーすべきかってことを、認めつつ諭しつつ訴えていこーとしている人の方が多いよーでホッとしてる。

 それでもやっぱり何であってもミソをつけたくなるのが悲しいけれど人間の性で、水といっしょで下司な方へ下司な方へと流れていってしまいがち。勘ぐってる感情にむかって知識のある正義の人たちが真っ向から正論をぶつけてこの物知らず、勉強不足と諭したところでかえって反感を買い、だからマニアは怖いと思われないとも限らない。下司を下司と内心では蔑みつつも、だから顔は大人で順々と何が問題じゃなくって何が問題で、だからどうすれば良いんだってことを面倒でも分かりやすく、丁寧に説明していってくれるとなおいっそうの相互理解が深まっていくよーな気がする。たとえメディアにはなかなか自説を曲げない頑固者の少なからずいて、それがカチンと来ても、そこで不毛な喧嘩に明け暮れるんじゃなくって、外にいる今は不信感を持っているけど、話せばちゃんと分かる人たちを相手に、ロケットな人たちは話をしていってもらえれば有り難い。

 ロケットと言えば時期も時期、1958年なんてゆー今は亡きソビエト連邦とこちらは未だ健在なアメリカ合衆国がロケット開発競争に明け暮れていた冷戦下の世界を舞台に、近く打ち上がる合衆国のロケット「エクスプローラー1」をめぐる熾烈なスパイ合戦を描いた小説がタイミング良く登場。スパイ小説の第一人者らしーケン・フォレットの「コード トゥ ゼロ」(小学館、2200円)には、成功続きで世界の宇宙開発を名実ともにリードしていたソビエトに対して、なぜか失敗ばかり続けていた米国のロケット開発の裏側に、とんでもない秘密が隠されていたことが判明する。主人公はルークとゆー男性。目覚めるとそこは公衆便所で、おまけに自分に関する記憶の一切を失っていて、仲間らしい男からルークとゆー名前と、自分はずっと浮浪者だったとゆー経歴を聞かされる。記憶を失ったのは酒の影響だろーと言われ、最初はそーかもしれないと納得するものの、ルークはどこかに違和感を覚えて、仲間だといった男を振り切り、街へと逃げ出す。

 記憶はなく、金も持たない身ながらなぜかロケットに関する知識はあって、おまけに人と格闘したり人を騙したりする能力もちゃんと身についている。もしかして自分はロケット工学の関係者かもしれない。街をさまよいながらもそうメドをつけ、だんだんと真相に迫っていくルーク。その果てに、前述したよーなロケットをめぐる陰謀と、そして大学時代の同級生や恋人たちとの友情に溢れているよーで、けれどもどこかぎくしゃくとした奇妙な関係が浮かび上がって来る。誰が嘘をついていて、誰が裏切り者で誰が正義の見方なのかが行ったり来たりする展開の圧倒的な読みごたえに感動。冷戦が生みだした残酷で悲しい人間関係に涙。今となっては描くことすら困難になりつつある大国間のスパイ合戦を、時計の針を戻した上でリアルに描きあげた佳編って言えそー。こちらのロケットは無事に上がるかな。


【2月3日】 とは言うものの、夜と昼が逆転しているよーな激務とか、抜きつ抜かれつでニュースを追いかけるストレスとかから顔色や体型に、若干の違いが昼間に仕事をしている普通一般のお父さんたちとは出ている可能性もある上に、社会部だったらコワモテの刑事を向こうに回して戦えるだけの筋金が、経済部だったら企業のトップに負けないだけの恰幅が、政治部だったら国政を取り仕切る政治家たちと並んで劣らない貫禄が、やっぱり顔とか体型に出ていたりする場合もあるだけに、そんな人たちが早朝から、駅に並んでただ普通にティッシュを配っていたところで、普通一般のお父さんたちOLさんたち学生さんたちが、もらってくれるかどーかが今のところちょっと心配。2月12日朝の「産経新聞は新聞休刊日の朝も駅売りはしますキャンペーン」での、社員を動員してのティッシュ配りのことね。

 もちろんそれは高邁な職業精神から溢れ出た筋金だったり恰幅だったり貫禄で、それをそのまま近所の人や子供に見せて何ら恥じ入るところはなんだけど、それはそれとして折角の前代未聞名キャンペーンを成功へと導くためにも、世間から誤解を招きかねない可能性は極力おさえておくに越したことはない。かといって、トップの人たちが詳しい説明をする間もないよーなスピーディーな決定で、くわえて実施まで1週間ちょっとしかないよーな状況で、顔色体型に筋金恰幅貫禄を減殺して世間に身を紛らせても分からないよーにするのは不可能。さてどうするか、って辺りでだったらいっそ目立たないよーにするんじゃなく、目立つよーにしてしまえば良いってことで、ティッシュ配りに当たる人の全員をコスプレさせたら、注目を集められる上に世間の理解も得られて一石二鳥、のよーな気がする。

 問題はどんなコスプレをするか、だけどそこは国民の教育が道徳で歴史な会社、加えてジャーナリズムの歴史に記録されるだろープロジェクトを果敢にも敢行するって意味で、その特攻精神を入れて全員が特攻隊の格好をして配る、ってのはどーだろー。あるいは世界に正義を貫き通すその姿勢を高く評価している紙面的な論調を反映させて、米国海兵隊の格好でもってティッシュを配るってのも目立つしワシントンからも注目を集めるかも。もっともそーしたミリタリーな感じを厭がる戦後民主教育の申し子たちも、今の世の中それなりな比率でいるだろーから、全員が全員ミリタリーってのもちょっとまずいんで、そこはポストモダンが動物化している昨今の風潮に会わせて、若者層の動物的な反応を引き出せるような”萌え萌え”な格好に扮して配るってのも悪くない。たとえ貫禄が恰幅で筋金入りのブンヤでも、猫耳にメイド服に首からは鈴さげて、「にょにょにょ」と言いながら配れば誰だって振り向くはず。1週間でどこまで揃えられるかが問題だけど、動物化した若者層の乗降が多そうな吉祥寺とか荻窪とか阿佐ヶ谷とか中野とかいった中央線沿線だけでも、やってみては如何。

 「ワンダーフェスティバル2002冬」到来。午前8時ちょい前くらいに行って2時間くらい並んで開場になってそれから50分くらい後にようやく入場、ってのが最近のパターンで今回もそれくらいは覚悟しなくちゃいけないかなー、なんて思いつつ床について目覚めたらすでに午前8時。雨も降ってるし気温も低いんで1時間だって並ぶのも面倒になってしまって、とりあえず行くには行くけど行列が混んでるよーだったら近所で珈琲でも飲んで時間を潰して、11時半くらいに入れれば良いか、ってな感じで到着した午前10時。見ると意外と行列が長くは伸びてなくって傘を指してて隙間が開いていることを考えたらあるいは前回よりも並んでいる人が少ないんじゃないか、って印象もあったんで時間は潰さず最後尾へと付く。付いたらすぐさま、それも結構なスピードで動き始めてすぐに止まるだろーと思ったら止まらず30分で会場内へ。2時間並んで50分歩いた前回までの苦労は一体何だったんだろーと虚空に向かって叫ぶ。行列の法則、並べば良いってもんじゃない。

 もちろん限定品とかを買うんだったら並んで開場と同時に入場ってのが鉄則なんだろーし、実際に30分後に入るとすでに戦車の食玩前にもグリコのおまけ前にも長蛇の列で近寄れず。まあ、それでも並べば買えたんだろーけど、そこまでして買ってもきっと家のなかでなくすか踏みつぶしてしまう可能性が高いんで、食玩系には手を出さずただでもらえた「チョコエッグ」とコナミのフィギュアをゲットし「ファイブスターストーリーズ」のブースで特別版の「テイルズ・オブ・ジョーカー」をもらってアンケートにこたえてバッヂを貰って、ってな具合にタダ物ゲットに勤しむ。あと「トライガン」の新作ガシャポンを2袋ばかり各1000円で購入とか。何千円とか1メートル成瀬川だったら29800円とか出して買って楽しむ人がいる一方で、キャンペーンの品を頂き安い食玩を買いカプセルトイを買いってな、チープでかつそれなりなクオリティも保てる楽しみ方も出来るよーになったってことはやっぱり、「チョコエッグ」なんかを始めとする玩具のガレージキット化ってゆーかガレージキットの玩具化なんてものが進んだ恩恵なんだろー。

 とか言っていたら何と。「海洋堂」のブースで配られていたチラシを見て吃驚仰天、「さらばチョコエッグ」と書かれたチラシには、「フルタ製菓と海洋堂、関係終了おお知らせとおわび」とゆー言葉につづいてこれから後、「チョコエッグクラシック」を最後にフルタ製菓の「チョコエッグ」には海洋堂のフィギュアが入ることはなくなるってことが理由も含めて綴られていて、ともにブームを作りだし蜜月にあったよーにも見えた2社の間にいろいろあって、それがいよいよもって爆発してしまったらしーことが分かる。きっかけはフルタ製菓で「チョコエッグフィギュアの開発管理を担当されてきた、フルタ製菓企画部部長であり常務取締役の古田豊彦氏が、フルタ製菓を退社、新会社(株)エフトイズコンフェクト(以下エフトイズ)を立ち上げ、これまでフルタ製菓内に会った企画部門担当の外部担当会社としてフルタ製菓と業務提携し、フルタ製菓商品の開発を行うことになったと連絡があ」(チラシより)ったこと。が、フルタ製菓側ではそーした会社が間に挟まることを良しとせず、取引は海洋堂とフルタ製菓が直で行うよーに求めてきたらしー。

 取りよーにとってはフルタ製菓に「チョコエッグ」って美味しい商材をめぐって分裂騒ぎがあって、そのどちらと商売するかが目先の問題で、どっちであってもすっきり道が付けば良いよーにも思えるけれど、そこは品物にこだわりぬく海洋堂、「企画開発力をまったく持たない現状のフルタ製菓だけでも、チョコエッグの商標を使うことができないエフトイズだけでも、現実的にはかなえることができ」(チラシより)ないって判断もあって、どちらも付かない判断をしたみたい。あと、これまでのコラボレーションの間にも起こったいろいろな行き違いが、ここに来て積み重なって結構な量になったこともあったんだろー。しかし本当にあったんだろーか、シークレットアイティムの事前流出とか、生産用原型がフルタ製菓がら流出してショップで販売された、なんてことが。

 加えて「何人かのフリー原型作家たちから、未だ交渉が続いていた1月初旬の時点で、既にフルタ製菓よりチョコエッグ等の原型制作発注の以来がなされていたことを聞くに及び、(チョコエッグに直接関わっていた企画部全員が抜けてエフトイズに移ってしまった)現状のフルタ製菓側には、海洋堂の存在など、簡単に換えがきく程度のものとした(あるいは下請けのくせに小うるさい邪魔者としか)写っていなかったのだと感じ」(チラシより)たことも大きかったんだろー。もちろんあくまでも海洋堂側の説明に過ぎないんだけど、そこで言われているのは決して銭ゲバな条件闘争の果てに折り合いがつかず決裂したってことじゃなく、チラシでも繰り返し使われているけれど、何度もテーブルについて話し合い、折り合いをつけれよーと頑張るなんて「海洋堂らしくない」ことをしてでも、ファンのために良いものを出したかった、にも関わらず、それが不可能になりかねない状況に至って、もはやコラボレーションは無理と判断して、関係終了に至った、ってことのよーに取れる。

 今の食玩ブームの立役者で且つ未だにフラッグシップ的な存在でもある「チョコエッグ」から、車の両輪の片方が抜けてさてはてどーいった影響が出るのかは今のところ不明で、それなりな原型作家をそろえてそれなりな商品を作り出して、フルタ製菓がシリーズを続けることだって出来ない訳じゃないし、それをどこが作っているか、なんてことは気にせず単に可愛いなつかしい、ってな感じで買っている「チョコエッグ」の多くのユーザーも、引き続き買い続ける可能性もそれなりにある。一方でブームの中で相当に知名度を高めた”あの”海洋堂が手を引いたってことで、ブームにあるいは終焉を迎える可能性だってゼロではないだけに、今後どーいった感じに情報が伝わって、それがどーいった感じに広まっていくかを注意して見て生きたい。

 フルタ製菓から手は引いても海洋堂は相変わらず元気で、森永製菓と組んでたとえば「チュッパチャップス」にチャッピーのフィギュアをつけた商品を作ったりと、いろいろ商材を揃えている模様。あと権利を確か押さえたまんまにしてある現行「チョコエッグ」向けに作った動物フィギュアをどこかに持って行きたい意思もあるよーで、「私たちとパートナーになってもらえる企業を広く募集します。小さなカプセルに入れる為に作った動物たちですから、できれば卵形チョコレートという形で復活させてやりたいと思っています。お菓子というカテゴリー以外でも、よりおもしろく生かしていただけるアイディアがあれば、お聞きしたいと思っています」(チラシより)なんてあるんでさあ、我と思わん企業は企画にアイディア、そして海洋堂とつきあえるだけの根性とスピリッツを持って門真市に出向いてみては、如何。月曜とか門前に市なしてたりして。

 「H.B.Company」で「イグナクロス零号駅」に登場の「尻子田にう子」のフィギュアを例によって購入して今回は「ワンファーフェスティバル」のカタログでは入れない「東京トイフェスティバル」に行って日三鋳造所のブースで限定販売とかゆー「太洋」に「阪急」がまだある12球団ベーゴマを2500円で買って「日本科学未来館」で開催されていた「ROBO−ONE」でロボットバトルを見物。リングを取り囲むよーに山ほどに見物客がいて、一応は勝ち抜いたロボットたちってことでバトルもそれなりにみられて、まあまあの興奮を味わえた。日曜日の「科学未来館」って人、結構いるじゃん。ロケットの打ち上げライブを見に来た人とかもいるのかな。

 決勝トーナメントの1回戦が終わった時に中国から来ていたあの「先行者」を作った中国・長沙国防科学技術大学の馬宏緒教授と周華平副教授が登壇して「先行者」について喋っている姿に、それほど「先行者」のマニアじゃないけどあるいは10年後に世界初の等身大(ミニモニサイズじゃないよ)「ザク」とか作ってるかもしれない人に見えられた幸運を喜ぶ。寸前まで来られるか不明で来られたのは1%の確率だったそーだから、やっぱりそれなりな僥倖だろー。イベントで優勝した人には展示してあるパネルに馬さんのサインが入れられ贈呈されるとかで、これまたそれなりな宝物になったりするのかも。オッペンハイマーみたいな存在には、ならないでいて頂きたいものだけど。始まったベスト8の戦いをちょっとだけ見て「Zeopp Tokyo」で開かれていた「バーチャファイター大会」に行ったらとてつもない人数でステージに近づくどころか入った扉前から数歩も動けず、10分いて帰る。「トウキョウヘッド」な「新宿ジャッキーvs池袋サラ」の戦いは見られたけれど、今でもこの2人の名前って今でもとてつもなく浸透してるんだろーか。「高橋名人」よりもやっぱり通ってるのかな。


【2月2日】 世間に向かってどこか斜に構えたところがあって、それが知らず世の中から思考なりを遊離させていた新聞記者の、21世紀的じゃない態度をグローバルな大競争時代に勝ち抜けるものへと変革させよーとするプロジェクトだとも言える、2月12日に首都圏近郊の駅頭で繰り広げられる現役記者も含めた「産経新聞」およびそのグループ会社による、「新聞休刊日でも駅売りはしますよ」キャンペーンのためのティッシュ配り。何しろ斜に構えているんで、ともすればどーしてこんんあことを不満に思う人もきっと出るだろーけど、考えよーによってはジャーナリズム史的に前代未聞なだけじゃなく、企業の歴史的にもひとつの転機になるのかも。

 朝は迎えのハイヤーで通い、夜は夜回りのハイヤーで帰る関係で、経済のまさに最先端を現しているラッシュ時の駅なんてしばらく見たことがなかっただろー現役記者に、世の中にはさまざまな人がいて、それぞれが家庭とか恋人たちとかいった血の通う人間関係を背負いながら、毎日頑張って会社に通ってるんだってことを、配るティッシュに触れた相手の手から感じてもらおう、なんて”親心”もあっての一大プロジェクトだとしたら、これが実行された暁には、紙面に載る居丈高な社会記事も上っ面だけの経済記事も、もーちょっと血肉の感じられるものになるんじゃなかろーか。あるいは不景気から生気のない表情をして連なって歩く背広姿の人々の背中を見ていると、どーしてこうも連日、線路にダイブする人がいるのかってことを身をもって知ることができるって効用も、あるよーな気がしないでもない。

 それともーひとつ、これは別に記者職の人に限った話じゃなくって、新聞社なんてなかなかに高踏で尊大そーなイメージを持っていて、ともすればそんなイメージに煽られる形で地域のコミュニティとちょっとばかり気持ちがズレてたりする、こともある社員の人たちが、最寄りの駅ってことはおそらくは子供の頃からの知り合いも奥さんどうしが付き合いのある近所の人のサラリーマンも子供の同級生も通るだろー場所で、父親が会社の新機軸をアピールするティッシュをにこやかな顔をして配ることで、なるほど新聞社の人っていっても全然普通のお父さんで、会社のために一所懸命なんだな、ってことを分かってもらえるって可能性もある。同じ駅を利用している自分の子供には、朝はちょい遅く夜は真夜中の帰宅で休日もほとんどないよーな、そんな暮らしで普段は滅多に見せられない、仕事をする父親の顔を見せられるって訳で、地域的にも家庭的にもコミュニケーションの促進につながるって寸法、いやなかなか考えてくれます。

 その意味でいうなら中堅社員になるくらいには長い年月を同じ場所に住んで同じ駅を利用しながらも、隣近所とはまったく付き合いのない独り暮らしのニア・ヒキコモラーには、そーした自分の働く姿を近所の人に見てもらったり、子供に喜んでもらったりなんてことが出来ないのが残念と言えば残念。まあそこはそれ、知り合いでなくてもティッシュを配る現役新聞記者、なんて過去においては前代未聞でも21世紀の大競争時代にはきっとガンガンと出て来そーな存在の、その先駆けを道行く人に見て貰えるだけでも心に感じることは大。このまま本当にプロジェクトが決行されるとしたら、その時は最高のパフォーマンスでもって華麗なティッシュさばきを道行く皆様は読者様にお見せすることにしよー。同時5つ配り、なんて技とか(反則だよ)。

 エンターテインメントなら通俗的だけど純文学なら画期的、なんて言い方があったとしたらそれはちょい、気分に引っかかる言い方のよーな気がしないでもなく、圧倒的なパフォーマンスの中に人間的なドラマも社会的経済的科学的な情報もきっちりと落とし込み哲学的なテーマもあって、読む人を堪能させるエンターテインメントが一方にあったとして、けれども文学な業界ではいわゆる「文芸誌」なんてものに発表された、パフォーマンスはそこそこで社会的経済的科学的な知識もまあまあで、とりあえず人間的なドラマはオッケー哲学的なテーマもなかなか、なんて小説があったとしたら、やっぱりそちらと尊んでしまいがちになるんだろーかならないんだろーか。なる、って考えた方がやっぱり良いのかな、だってそーゆー小説が書かれてしっかり単行本として刊行されてしまうくらいなんだから。

 文藝春秋社の「文学界」にしばらく連載されていた大岡玲さんの「ブラック・マジック」(文藝春秋、2000円)って本がまとまって、帯にある「猟奇殺人・遺伝子操作・新興宗教 殺戮の中でしか私は欲情できなかった 『幸福』を求めてもがきつづける怪物的人間たちを描く傑作長編小説)なんって言葉を読んで、とりあえず面白そーだと読んで読み始めて、なるほど面白いしすらすら読めるとは思ったんだけど、医療サスペンスとかサイコホラーとか経済小説とかいったエンターテインメントから受ける知識の啓蒙プラス圧倒的なカタルシスみたいなものにちょい、至っていないよーな気がして、ページを置いてちょっとばかり立ちすくむ。

 ある外資系医療ベンチャーの日本支社長がいて、過去に親の入信していた宗教団体で暮らした経験があったんだけど今は普通の生活をしていて、決行やり手だと言われている。部下には代理店業から転職した広報担当の女性がいて、天才的な能力でサンゴの遺伝子なんかを使って人間の癌細胞をやっつける研究をしている科学者がいて、親会社の期待も上がっていたんだけど何故かその支社長、突然会社を辞めて科学者も広報担当の女性も引き抜いて新会社を作ってしまう。出資したのは支社長が大昔にかかわっていた宗教団体。本当だったら忌み嫌ってしかるべきなのに組んだのは一体何故なのか。でもってその宗教団体が新会社の技術を狙うのはどうしてなのか。取材に行ったのがきっかけて支社長と懇意になり、新会社にアドバイザーとして迎えられ取り込まれてしまうノンフィクションライターの戸惑いなんかも絡めながら、事態は生命の尊厳、人間の倫理といったテーマをはらむ問題へと発展していく。

 天童荒太さんが「永遠の仔」なんかで描いた過去の傷めいたものとか、最近だと楡周平さんの「マリア・プロジェクト」とか関口哲平さんの「ハート・ビート」なんかで描かれた、欲望の赴くままに暴走する科学と科学者の問題とかいったテーマがあって、なるほどいろいろと考えさせられはするんだけど、巻き起こる事件はきわめて単純で展開も単調で、どんでん返しにアクションの末のカタルシスを求めるよーには作られてない、ってゆーかエンディングは決行身にキツい。宗教団体をめぐる権力闘争も単純だし、人心を魅了する能力を持った元支社長の能力の源なり能力がどう育まれたかなりも、あんまり描かれていなくって物足りない。その能力が過去においても現在においても相当に深い意味を持っているだけに、やっぱりもーちょっと説明が欲しかったよーな気がする。それこそ「永遠の仔」みたく子供時代の元支社長の宗教団体での生活を克明に描写する、とかいった感じで。

 それをやって加えてマッドな部分のある科学者の過去までやって、それが交錯し今へと至る展開を書いて、宗教団体の俗物な代表者の過去現在を描き取り込まれたノンフィクションライターの生い立ちと生活を描いたら、単行本の1巻じゃーとてもきかないんだろーけど、そこまでやって楽しめる物語って言えないこともないだけに、これはエンターテインメントじゃなくって純文学なんでエッセンス部分だけを抽出して良しとしたんじゃないか、ってな思考が浮かんで釈然としないものを感じてしまう。「マリア・プロジェクト」も「ハーと・ビート」も決して空前絶後のエンターテインメント性を備えた大傑作、って訳でもなかったけれど読んでいる間はいろいろ、楽しめたし勉強にもなったんだよね。

 とはいえそこは純文学な人だけあって、描かれる人間の底知れぬ深みにしても徹底した俗物ぶりにしても、キャラクター造型にかんしてはなかなかな冴え。常に傍観者でしかありえない、決して当事者になれないことへの葛藤から実業の世界に誘われはまりこんだ挙げ句に崩壊していくノンフィクションライターの独白は、やっぱり絶対に当事者になれない、情報を動かして糧を得るライターとして耳に答える。ただしやっぱり事を主役級の2人、原田って元支社長と森川って科学者をつなぐ関係を、もっともっと描き込んでくれていた方が読んでもっと身に迫るものがあったよなー気もする。面白い。面白いんだけど、それゆえに物足りない小説。新聞の「文芸時評」なんかで絶賛とかされた日にゃ、さてはてどーしたらいーものか。


【2月1日】 角川書店のアニメ・コミック事業部では何か盛大なパーティーがあったみたいだけどさてはて、例のあれ(って該当しそーなことがいろいろあったりしそー)について集まった人関わった人携わった人たちの間で、一体全体どんな会話とかが交わされたんだろーか。社長の人はともかく編集さん辺りとは縁のまったくない会社なんで、潜り込んで情報を集めるなんてかなわないんで、出ていそーな人たちのリポートとか報告が上がりそーな掲示板とかいろいろ眺めてみたけど現時点ではとくにあれこれあったよーでもなく、その辺はさすがに大人な人たちばかりなんだろーと想像する。くわばらくわばら、って言ったところか。

 個人的には角川書店から待望の第2作「NHKにようこそ!」(1700円)が刊行されて一部にすでに大うけしている滝本竜彦さんが、自ら謳っている「ひきこもり」の身を押して、角川のパーティーに出席していたかどーかが興味津々。書いてることはアレでも当人、「ニュータイプ」とかに載った写真を見る限りではそれなりにスタイリッシュな雰囲気だったんで、行ったことないから知らないけれどおそらくは光が燦々を降り注いていだらおー宴会場の、ひしめく作家漫画家編集者にコンパニオンの美女たちの間でも結構、目立ってたんじゃないかと思うんだけど。誰か見た人、いる? チェーンソー男と戦ったりしてなかった?

 滝本さんと言えば、31日は偶然たまたま「東京新聞」の夕刊にもコラムが出ていて「僕はうそつき」なんてタイトルで、ずっと嘘をついてたし、これからも嘘をつくんだって話をいつもながらの笑い泣ける文体で書いてて写真も載っていて、ますますもってメジャーなシーンへと踊り出そーな雰囲気。来年あたりになると取りまく編集者の壁に近寄れなくなったりしそーな感じもあるだけに、今年見ておけたらちょっとは自慢になったかも。人垣を間からでも構わないから来年、学園小説大賞に頑張って応募して賞を穫って、堂々その顔を見に行くか(無理だって)。

 パーティーは無理でもサイン会には出没の壁はないんで、新宿にある「青山ブックセンター ルミネ2店」で開かれた藤野千夜さんのサイン会に行く。もうすでに買って読んじゃったりしてる「ルート225」(理論社、1600円)へのサイン会だったりする訳だけど、せっかくの機会をむざむざ見過ごしては「出没家」の名が折れる。改めて1冊買い求めて順番をまち、行列に並んでいそいそと本にサインを頂く。たまたま偶然、2列に並んだ真横にπRさんがいて、やっぱり持ってるんだけど改めて買って並んでしまうサイン会マニアの業について言葉を交わす。3日だかには「ア○ス」(ソフトマジック、1600円)のしりあがり寿さんのサイン会もどこぞの「ABC」であるみたいなんだけど、さてはてどーしよーか悩むところ。「ワンダーフェスティバル」もあるしなあ。でもしりあがりさん見たいなあ。ちょっと悶々。

 たまには出没予定情報も。「ワンフェス」はまあそれとして、きっと朝から3時間ぐらい並んでたりすると思うんだけど、人数が山といるんでどこにいるかは多分わからないでしょー。代わりって訳ではないけど来る2月12日、連休も開けた火曜日の早朝にどこかの駅の駅頭でティッシュ配りをやってる可能性が高いんで、探せばもしかしたら見つかるかも。11日が新聞休刊日ってことで本当だったら12日の朝刊は出ないし配達もされないんだけど、それじゃー読者ニーズを満たせないってことで業界に先がけて「産経新聞」が、新聞休刊日明けの朝刊も、宅配はしないけれどスポーツ新聞と同様に駅とかでの即売は行うことを決定。2月12日はその初めての日ってことで、全社員から数百人を動員しての大PR活動を展開することになったとか。

 本紙「産経新聞」はもちろん「サンケイスポーツ」に「夕刊フジ」あたりからも社員が動員されて、朝の駅頭で休刊日発行の宣伝文句が多分書かれてるティッシュを、「武富士」の営業担当者とか「リンリンハウス」のアルバイトあたりと並んで配っている姿が当日は見られそー。実を言えば僕の勤務先は「夕刊フジ」とか「サンケイスポーツ」と違って法人格として「産業経済新聞社」とは別なんだけど、そこは子会社ってゆーか僚紙ってゆーか、自分のところの媒体ではないんだけど協力するのが筋ってことらしく、数百人いる社員のだいたい3割くらいを充てて、特に山手線外の主要駅の駅頭で、ティッシュを配ってもらうことにしたらしー、ってゆーかそーすることに決定して、その栄えあるメンバーに選ばれたって訳。

 一応は近所の駅ってことになっていて、希望者とか多いとバラけさせられるで或いは別の駅になるのかもしれないけれど、ともあれ現役の新聞記者が駅頭でティッシュを配るなんて、200年とか300年とかゆー新聞の歴史にもなかった場面を見られるってことになりそーで、ジャーナリズム史なんかを勉強している人にとってもある意味歴史的なトピックとして、観察しておくと為になりそー。忙しい本紙「産経新聞」とか、夕刊を出さなきゃいけないんで朝は忙しい「夕刊フジ」の記者はもしかして駅頭には立たないかもしれないけれど、僚紙のためにはすべてをなげうつ尊く美しい精神にあふれた当勤務先では、僕も含めてそれなりな人数の現役記者が駅頭に立って、それも自分の所属とは違う媒体のPRを華々しくも行うことになりそーなんで、やっぱりチェックしておいて損はない。

 普段は横柄だとか人を人とも思わないとか叩かれている新聞記者だけど、お家の一大事には一致団結して協力して、たとえ入社から10年以上が過ぎた中堅であっても、加えて直接は関係のない関連会社の社員であっても、駅頭に立って自らの体を張ってPRに務めた、なんて美談が将来どーゆー伝わり方をするのか興味のあるところ。ジャーナリズムの歴史から見ても貴重な出来事だけに、メディア研究の人もここはやっぱり実地調査に出向くべき、だろー。歴史が動いた瞬間に、自ら立ち会ってるって感動に浸っているだろー当日、そんあ場面に足を運んでディッシュをもらってやって頂けるよーな人がいたら、サインくらいして差し上げても構わないけど、問題はどこの駅頭に立つかが未定なこと。僕はともかく首都近郊の主要駅で当該のティッシュ配ってる人がいたら、記者かどーかを聞いて記者だったらこれは歴史に見えてるんだと認識して、記録に残してみたりしては、如何。


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