縮刷版2002年12月上旬号


【12月10日】 レッシグ教授はマジらしい。漏れ伝わってくるところによればすでに身体を「でじこ」のTシャツでくるんで月末に向けた心の準備を始めているそーで、当日はおそらくは一家総出で朝靄たなびく有明の地を踏み、その雑踏のすさまじさにニッポンのライツフリーな環境への羨望を覚えることだろー。コスプレを見て何を思うかはちょっと想像がつかないけど。いつ出向くか、朝から行くのかは知らないけれど、行列の並び方とかサークルの回り形とか書いたしおり「はじめてのコミケ」とか誰か、作って渡しておいてあげた方が迷い揉まれた挙げ句に「コミケ」に妙な印象を持たれないで良いのかも。講演会の時に近くの「ゲーマーズ」で買った「コミケカタログ」を持っていたんで献上すれば良かったかな。そうそう「でじこ」だったら「コミケ」にも企業ブースが出てるんでお好きならどーぞ。しかしどーして「でじこ」なんだろ。アメリカでもしかしてインテリ層に超人気? 次の著書の表紙に使われて米国の法曹界エンターテインメント界に広がったら面白いなあ。”murakamiはもう古い、これからはdejikoだ”とかって。

   見たかったなあ、「静岡スタジアム・エコパ」で開かれた「ジュビロ磐田vs日本代表2002」戦。ジュビロ磐田の完全優勝でチャンピオンシップが消えてしまって収益が減り栄誉もひとつ減じてしまった観があって、寂しい想いをしていた日本サッカー界に舞い込んできたフィリップ・トルシェからのロングディスタンスコール。ワールドカップの日本代表のスターティングメンバーにひとりも入ってなかったのに、磐田が年間優勝をしてしまうのはとっても奇妙だ、是非に”我が”日本代表と磐田を戦わせてみたいってゆー内容の電話だったそーで、これは面白いと乗った川淵三郎日本サッカー協会キャプテンと鈴木昌Jリーグチェアマンの尽力で、臨時にして最高の「2002チャンピオンシップ」が組まれて開かれたそーな。

 12月25日号「週刊サッカーマガジン」によると、日本代表にはW杯では招集されなかったレッジーナの中村俊輔も入っていたよーで、ほかに中田英寿選手稲本潤一選手小野伸二選手とカルテットは揃い踏み。フォワードには鈴木隆行選手とそれから我らがカズ選手も呼ばれていたらしく、トルシェ監督のもとで新旧のメンバーがひとつになって強敵・磐田に立ち向かい、2対2のスコアでドローの戦果を上げたらしー。ジャッジはピエルルイジ・コリーナさん。実は記事を読むまでこんな試合が開かれていたことを知らなかったし、トルシェが来日してたことも知らなかったんだけど、遙けき彼方の「エコパ」に5万人も集まったそーだから、きっと静岡ではこのニュースで持ちきりだったんだろー。詳細は「週刊サッカーマガジン」の108ページで。マジで見てみたいよなー、こんな試合。

 「アニメージュ」の2003年1月号は「種ガンダム」が表紙に特集に大活躍、なんだけどほとんど見ていないんで何が何やらサッパリ。「どっちがどっち」のパジャマりりかにドキドキしつつもちょろりと変えたチャンネルに映っていた、とてもじゃないけど「ハロ」には見えない小さくておまけにピンクの丸い何かをかかえた嬢ちゃんが、ラクス・クラインとゆー名前で「キーパーソン」とやらでララアみたいなフォウみたいなもんだろーと理解する。何か違うかな。3つのシーンを切り出した、足せば2メートル40センチにもなる「種ガンダムカレンダー」も付録についていたけど、反対側が1枚はでじこ一家でもう1枚は「シスプリRePure」で残る1枚が「ギャラクシーエンジェル」のミルフィーユ・桜葉が水着で寝そべっている姿。「種ガンダム」は裏側として壁とご対面する運命が速攻で決定いたしました。哀れよのう。

 大森望さんの「わるものオーバードライブ」は季節物の小説ベストテン話。読んで今年も去年に続いてSF系の投票をし損なったことを思い出して気が引ける。海外はともかくとして日本のだったら数はいちおー読んでいるしマンガも含めれば相当な量になるんだろーけど、毎度のことで始末の悪さが本の行方を地層の彼方へと押しやってしまい、どんな本を読んでどんな印象を受けたのかをたった1年後なのにまるで思い出せなかったりする。そんな時の日記なんだろーけど今年に限ってはサッカー話が大半を占めて小説の記録が少なく、感想文のページも月に3冊とか酷いことになっていてリストとしてまるで使えない。「A君(17)の戦争」シリーズって立ち上がったの今年だったっけ、とか完結したんだから「東方ウィッチクラフト」もありかなー、とか考えても何か他に大切なものを忘れているよーな気がして心配になってしまう。「ハヤカワSFシリーズJコレクション」もいっぱい出たし。2年続きの反省を踏まえて来年こそは「読書カード」を作りたいものだけど、カードケースを置く場所もなく、無理して置いもすぐに埋もれて出てこなくなるのがオチ、困ったものだと思いつつ、今日も本の上に座布団を敷いてベッドに脚だけ乗せて眠るのであった。宝くじあたんねえかな。


【12月9日】 エアコンの利かない部屋で寒さに震えながら夜中のフジテレビでサッカー「パルマvsレッジーナ」。前へと送ったりサイドに飛ばしたりする中村俊輔選手のキックの精度の高さと、それを得点に結びつけられないフォワードの至らなさに愕然。前に蹴り出せるってことはそれだけフォワード陣に詰めが出来てるってことなんだろーけれど、点が入ってナンボのサッカーじゃあいくら前にいて立派にパスを受けたって、まったく意味もないからね。中田英寿選手は縦横無尽の走りっぷりが壮絶。右の自陣にいたり左のゴール前にいたりともー、縦100メートルで横50メートルのフィールドを、フットサルコートのよーに走り回っている。ゾノがラーメン食ってる横で木にパラシュートで引っかかったまま節制してた、その成果があの肉体に現れているんだろーか。あれだけ活躍して話題になったのに、「ワールドカップ」が終わって以降は代表からあぶれチームでも監督と喧嘩して出られないモヒカン戸田選手、「どん兵衛」なんか食べてる場合じゃないぞ、忘れ去られて消えちゃうぞ。

 噂の「国内SFファン度調査 」は手にとって眺めて完全には読み終えていないものも含めて210冊とかそんなもん。篠田節子さんといとうせいこうさんを落としているのが痛い。小林泰三さんもあんまり読んでない割には結構入っててるし。これが中島らもさん「ガダラの豚」とか大石圭さんとか、小川一水さんの他のとか 上遠野浩平さんのぜんぶとか並んでいたらもーちょっとだけ読んだことがあるのが増えたかも。富樫倫太郎さんとか藤木稟さんもないし。かといってライトノベルの調査ではあれは何冊分だったっけ、ともかく半分ぐらいだった記憶があって、さらには海外SFはまるで全滅に近かったんで、属性として「日本・SF・者」を言うのが分類としては一番適合しているんだろー。せっかくなんで4冊が入ってる篠田節子さんを冬場の課題図書にして率の向上に努めるか。

 ビデオで「ギャラクシーエンジェル」。かぐや姫的な話はのっけから蘭花が説明もなしに戦争で危機に瀕した星の描写と赤ん坊を世話している描写とがあってその後に「かぐや姫」の説明があって育児にかまけるエンジェル隊を横目に星が酷い目会ってそれでも悔い改めないエンジェル隊があってと積み重なっていく展開がマル。オチも「GA」らしい一発芸で「いーかげんにしなさい」って声とか聞こえてきそー。朝の朝食後のティータイムにまったり見るならこんなところが良いのかも。猫霊の話も放り投げっ放し。「そいつぁあこんな顔かい」ってペロリと顔をなめるのっぺらぼうほどインパクトも怖さも可笑しさすらもないのが寂しいけど、朝で子供が見るものだから分かりやすいところで抑えたって理解しよー。ジャンケンには2連勝。これで今年の運も使い果たしたか。安い運だ。

 会社の近所の「大手町ビル」で鋭意開催中の中古レコードの店に新品なのに2000円のディスカウント価格で並んでいたDVDビデオの「からっ風野郎」を買ってしまう、「憂国忌」も終わったばっかりだし、って三島由紀夫さん主演の映画なんですね。増村保造さんの東芝デジタルフロンティアからリリースされてる監督作品シリーズの中の1本で、噂とかには聞いていたけどどんな内容か見たことなかった1本。「非常の世界を背景にしたアクション・ドラマの一方で、異色の青春映画の傑作としても評価を得た」って本当か? 1960年だからこの時三島は35歳くらい。今の僕より若い訳でたるんだ体を鏡に見ながら鍛え上げられていたのか鍛え上げられつつある三島の肉体をじっくりと観察しよー。ついでに「でんきくらげ」と「しびれくらげ」も購入。目的は三島じゃなくこっちだろ、って突っ込みはなし、図星なんで。「巨人と玩具」と「痴人の愛」と「卍」もそのうち買おう。

 「虫」よさらば。「週刊朝日」所収の「まっとうな本」で1年にわたって匿名批評を繰り広げていた「虫」子が12月20日号で「いい潮時だ。虫らしく、そろそろ冬眠の季節を迎えさせていただきたい。またお目にかかる日まで」の言葉を投げて撤退を宣言している。すでに出ている噂によると、今般の編集長交代の理由にもなったと言われている大江健三郎さん「憂い顔の童子」(講談社、2000円)への「虫」による大罵倒が、コラム終了の直接的な原因なんだろーけど、ボかして「誌面リニューアルによる打ち切り」とかやれば済むところを、「言論の不自由」だなんてタイトルでもって噂を肯定するよーな一文を書き、また掲載させてしまうところに筆者も編集部も共に抱く忸怩たる気持ちが表れている。もっともいくら言ったところでコラムは終わってしまうんだし、編集長も替わってしまうんだから、後足で砂をかける以上の効果もないんだけど。

 それにしても噂がひろまっている中で、それでもコラムを止めさせてしまうあたりに不自由も極まった言論の様も見て取れる。5日の池袋での講演で斎藤貴男さんが「個人情報保護法案」に関するコメントの中でメディアを適用除外にしよーとしまいと、もはやメディアに権力を批判する能力なんてないから関係ないんじゃない、って話していたけどそれにどんな反論が出よーとも、この一件が如実に言論の不自由さ、触れてはいけない事柄の多さを映し出す。「重箱の隅をつつくような読み方をしている自分に気付いて唖然とすることが何度かあった。検察官のような読み方は、ただただ誉めるところを捜して読むのと同様に、読む人間をダメにしていく」と弁じて責任を自分に向けているけどこれは韜晦、それが理由ならどうして「言論の不自由」をタイトルに掲げて論じるのか。ともあれ終わってしまっては仕方がない、あとはレギュラーの面々の、とりわけ斎藤美奈子さんあたりにオトコ社会を揶揄するだけじゃない読み口での、大御所文豪総まくりな批評を書いていって頂きたいもの。できるかな。


【12月8日】 着くといきなり琴とか運び出す人の波に遭遇して、子供を連れた母親たちの集団なんかもいて保育所にでも変わったかと思った外苑前の「ワタリウム美術館」だったけど、どーやら午前の一部の時間を特別な行事にあてていたみたいで、その撤収に遭遇しただけのよう。決して子供たちを集めてダーガー祭りを演っていたんじゃなと分かってガッカリ、じゃない安心する。ダーガー祭りってのはつまりヘンリー・ダーガーの絵に出てくる女の子たちのよーな目に子供たちをあわせるってことですね、ペニスを生やしたり首を絞めたり腹を切り裂いて臓物を取り出したり。

 そんな絵が満載の「ヘンリー・ダーガー展 『非現実の王国で』」を子供たちに見せたんだろーか、見たとしたらいったい何を思ったんだろーか、案外にもっとグロテスクな漫画とか、それこそ悲惨な現実の帝国主義を見慣れているからむしろほのぼのとしたものでも感じたりしたんだろーか、なんて考えつつながめたヘンリー・ダーガー。まとまった数を見るのは随分と以前に、銀座の「資生堂ギャラリー」が移転する前の会場で開かれた展覧会以来ってことになるけれど、間に出た画集なんかでじっくりと眺められはするものの、やっぱり生で紙に描かれ彩色された作品を見ると、それぞれが結構な大きさがあってそれに1枚1枚人物とか背景とかが描き込んである様に、ダーガーの作品に込めた思いの大きさも見えて感動しつつも空恐ろしくなった。ひとつ事に何十年も情熱を傾けるなんて飽きっぽい人間には想像もつかない。よほど他に楽しいこととか無かったんだろーか。

 いやいやだからこそのダーガーで、内にくすぶる思いを誰にうち明けることもなくひとり夜の部屋で文章に刻み絵に描き続けたからこそ「非現実」が「王国」として屹立した。そのモチーフやストーリーからいろいろと精神とかを分析したがる人も多いし、来年の1月11日の野田正彰さんを皮切りに開催される連続レクチャーも他に斎藤環さんが入ったりしてそっちはそっちで楽しい話も聞けそうだけど、内面に踏み込み過ぎることで今度は眼前に広がる幻想世界の一大絵巻のビジュアルとしての凄さが後退してしまう可能性もある。そっちはそっちで気にかけるとしてしばらくは、「ワタリウム美術館」に通ってモチーフや色彩や構成力といった部分でのダーガーの凄さに浸ることにしよー。

 浸るんだったら初夏に刊行された新しいダーガーの画集でも買えば良いんだろーけど、何しろ分厚くて値段も1万4000円と高額。DVDアニメ3枚分と言われればなるほどそーなんだけど、ブロックのよーな形と重さはさすがにお持ち帰りを躊躇させる。1メートルくらいから落とせば足だって潰れそーな形なんだよ。店員の人とかによると分厚いけれど絵とかは豊富だし色味も現物に近い良品だそーで、買って帰る剛の人も多いとか。文章の多さから日本語版は出ないそーだしネット書店でも物が物だけに扱っている所もそれほどはないそーで、だったらやっぱり「ワタリウム美術館」で買うしかないんだろーけどそれだと途中で腕が死ぬ。来月あたりの購入を目標に今からダンベル体操を始めるか。それか秋葉でカートを1台調達するとか。

 そのまま歩いて表参道の「NADiFF」で開催中の「東京ガールズブラボー2」だかを見物、かの村上隆さんがフィーチャーした”オンナノコアーティスト”を並べた展覧会、って言うとイメージも固定化されてしまう可能性があるけれど、ニュアンスはともかく崩した感じに描き殴った人物とかの絵が大半だったりして、それはそれで現代アートの一側面を現してはいるんだろーけれど、村上隆さんてゆービッグポータルな名前がそこに加わることで、妙にフレームアップされ過ぎて流行から雲散へと素早いサイクルで消費されてしまわないとも限らないなあ、なんて心配になる。それぞれを見ればそれぞれに熱情がこもっているしマインドが現れているんだけど、まとまると正直胃って喧(かまびす)しいのです。

 そんな中でどこかで見た記憶のある絵があって、記憶をとそれから名前を辿って夏に開かれた「GEISAI−2」に出ていた笠原梨絵子さんだと気付く。前にページのトップになっていた足をクの字に組んだパンツ少女の絵も出ていて、5000円とアートだと思えば割安な値段で出ていて欲しかったけど既に買われてしまっていて残念。「GEISAI−2」では特段に賞とか取ってた風ではなかったけど、そんな当たりにも目配せしてこーしてグループ展に混ぜてしまう当たりはやっぱり村上隆のプロデューサーとしての目配りの良さ、ってことなのかも。

 オタクが好きそーな妹風少女がノートにびっちゃり描かれたりしてた國方真秀未さんも出ていて、オタク風モチーフの現代アート化にご執心の村上さんらしーとも思ったけど、そーしたキュレーターの目線はそれとして、國方さん本人の創作意識が果たして純粋な熱なのかそれとも時流を見たものなのかに興味津々。絵柄は下手な同人誌って感じで、切り刻まれたりした少女の絵とが描かれていたり、顔に傷を入れられた人形とかがあったりして、同人なり漫画方面に関心のある人なら目には引っかかる。ただ、描かれている物、この場合は少女なんだけど、それへの愛(それが歪んだものであっても)があるのかが良く見えず、同じよーにアニメ風の少女を偏執的に描き続けるミスターとの一線をそこに見てしまう。

 ただ漫画にだって少女を虐めているものはあるし、ダーガーだって愛情を込めて戦い傷つく少女を描いたんだから、國方さんだってそうなのかもしれないし、単にそーしたモチーフが受けるからと描いているのかもいしれない。そのどっちでもなくって、内面を表現したい時にそれがオタク的同人誌的な絵柄モチーフでごくごく自然に表現される時代になって来たのかもしれない。それはそれで漫画大国日本の面目躍如といったところ、絵もデザインも思考様式も若い人からどんどんと漫画的、アニメ的になっていった果てに来る、キッチュな社会も面白い。ともあれ興味深いアーティスト、そのマジ度を測りつつ外部がどう煽りどう持ち上げていくかも含めて観察していこー。

 さらに渋谷の「ブックファースト」でローレンス・レッシグさん山形浩生さんのトークショウ。階段の一番下のスペースに机と椅子をおいて会場にしてしまう強引さには笑ったけど、そのままサイン会の場にも早変わりさせられるからある意味合理的なのかも。しかし”世界の”レッシグ教授を階段で講演させるとは「ブックファースト」も味な真似を。でもジャケットの左腕のボタンが1つ壊れていたからそういうことには無頓着な人なのかも。黒いジャケットに黒いシャツに黒いジーンズで、写真だとボサボサだった頭が綺麗になでつけられた姿はミュージシャン風。髭が伸びかけていた山形さんと並ぶととてもじゃないけど「ほーりつ」な話をする人たちには見えません。

 講演は主に本の中身についての話で著作権者と消費者との権利のどこでバランスを取るべきなのか、って辺りから広げて、今の権利者がゴリゴリとやる状況への苦言を呈していた感じ。CDがコピーされるっていうけど何十倍ものコピーが出回っているのに市場は5%位しか落ち込んじゃいないじゃないか、どうしてゼロにならないんだってな話もあって、思わずなるほどど納得してしまう部分もある。まあネットへのコピーは1部の人がやったのが増殖しまくったもので、ネット上のコピーを利用できない環境の人が圧倒的に多く、だから売上げにそれほど影響が出ていないだけなんだろーけれど。

 同人誌絡みの話も出て同人誌が出たからといって漫画の売れ行きが落ちる訳でもなくむしろ活性化につながっているだろ、もしも日本がアメリカに追従して権利権利と言い出すと同人マーケットだって大変なことになるよ、ってなことを言っててこれもこれで勇気づけられる。もちろん作り手の思いを超えてキャラクターなりに悪逆非道で破廉恥なことが加えれ続ければ、規制に走らざるを得ない作り手の意識も一方にあったりする訳で、その辺りのバランスがこれも大事になって来るんだろー。ちなみにレッシグ教授、「冬コミ」には出没する予定だそーです。後着けたい。サイン会には岡田斗司夫さんの所の柳瀬さんがいたりした他、あちらこちらで見かける顔数人。ニッポンの読書はこうした熱心な人たちが支えているのです。


【12月7日】 というわけでまずは、あるとちゃんよりナイスバディな美人市長に向けての「にこにこりん」が脳天に衝撃的だった第10話の「図書館がなくなる」から見た「ココロ図書館」のDVD。つり下がる人間てるてる坊主のシュールさとかに頬ひきつらせながらも、到来した民主的に当然な運命にどう立ち向かうのか有言実行三姉妹、ってな展開に1年ぶりのわくわく感を味わう。続く「ジョルディの日記」は飛ばしてテレビ放映では最終話だった第12話の「こころあるといいな」を鑑賞、訪れた奇跡の雪崩落としに胸を熱くして、気に入らない企業の野郎とか下がり続けるボーナスとかで殺伐とした気持ちを和まされる。アニメって本当に良いものだなあ。

 それにしてもテラスに唐突に現れるウサギのぬいぐるみは今見てもシュール。後で出てくる顔がどう見ても出来損ないのブラックジャックでおまけに地声はウォルコット中佐な野郎との関係を思うと、なおのことシュールさにも拍車がかかる。広場に集まった「カージー・エンジェル」の張りだした胸に第5話「ねらわれた図書館」も見返したくなって来た。DVD収録の「ココロ図書館の冬」はこいいな姉ちゃんの焦りまくる姿に気持ちがポッ。スタイルの良い眼鏡っ娘ことあるとちゃんとひとつ毛布にくるるのは本意じゃなかったんだろーけど、傍目に見るその弾力と弾力とのぶつかり合う様に、間にサンドイッチにされたい願望がわき上がる。放映が終わって丸1年、ページも更新されないくらいに過去のものになりかかってるけど、機会があったら続きがまた見てみたい作品かも、あれとかそれとか作ってる暇があったらこっちを作りやがれって。

  秋津でU−15だかのサッカーをやっていたけど雨とか降り出しそうだったんで断念して前に届いたダイレクトメールを頼りに東葉高速線の村上駅にあるとかゆー「エディー・バウアー」のアウトレットショップを見に行く。名古屋から豊田に向かう「名鉄豊田新線」を思わせる、畑と野原の中を突っ切っていく路線に妙な懐かしさを覚えつつ、到着した村上駅の「エディ・バウアー」は、想像していた海浜幕張とかにあるアウトレットモールとは違って、「イトーヨーカ堂」をベースに出来たショッピングセンターの1コーナーだったんでちょっと肩すかし。値段も思ったほど安くもなくってこれだったら「GAP」のバーゲン品を漁った方がやすいと見物するだけに止める。

 それにしても巨大なショッピングセンターで、専門店街の方は「タケオキクチ」の廉価版ショップがあり「赤ちゃん本舗」があり「ダイソー」があり他に巨大なスポーツショップにマクドナルドにあれやこれやが入ってなかなかのにぎわいぶり。「ヨーカ堂」も繁盛しているみたいで、これまた名古屋近郊の三好でも都心部から離れているのに巨大なショッピングセンターがあって賑わっていたりしたのを思い出した。もっともこちらた東京からはもとより千葉からだって結構離れた勝田台。そんな場所にも大勢の人たちが住んでいたりする、首都圏のマーケットの大きさを改めて思い知らされる。それなりなショップがあってビルとか少なくって車だって不自由なく転がせそーな環境に、東京に通う仕事さえなければ住んでみたくなった、SOHOな仕事でもあればなあ。

 もっともどーせSOHOな仕事だったネットショップの発達した今、らさらに奥地のこっちでも平気だったりするのかも、天下の笙野頼子さんだって「S倉」に猫たちと住んでるし、なんて思った千葉県佐倉市へと京成電鉄でたどり着き、「佐倉市立美術館」で22日まで開かれている展覧会「かたちの所以」を見る。千葉県に縁のある作家たちがフォルムに特徴のある作品を並べた展覧会で、とりわけ「速そう」なフォルムを具現化した、パッと見「F−ZERO X」に出てくるジェットカーにも思えるFRP製の不思議なオブジェを作って評判を取った、中村哲也さんの作品が見たかったんけど、前に「ギャラリー小柳」で見たものよりも気持ち巨大でなおかつ速そーになった作品が並んでいて、その速そーな感じに人の目に入るフォルムの持つ意味の重さを感じる。

 ほかに中村さんは先日まで江東区佐賀町の「食糧ビル」で開かれていた展覧会にも出していた「ドラゴン」を2種類並べていて、炎のうごめく模様の描かれた長い2組の棒の、スピードとエネルギーを固定化させたフォルムの純粋性なんかを感じる。略歴を見ると工芸の出身みたいで、人が使ってなんぼの工芸品のフォルムが持つ意味性を人が使わないものに転化することで剥奪し、工芸品の純粋性を追求したって感じで作ってきたらしく、飛ばず走らないレーシングマシンのフォルムとか、燃えずたなびかない熱とエネルギーが固まりとなった「ドラゴン」のフォルムとかに、そんな試行錯誤のひとつの到達点が現れているよーな感じを受ける。とはいえあまりに格好良いレーシングマシン、エンジン乗せるなりして飛ばすなりしてフォルムが機能に重なる姿を見てみたい気も。でなければ「F−ZERO」シリーズへの登場だ、デザインド・バイ・ナカムラとかって感じで。

 たぶん意識して見たのは始めての丸山富之さんの砂岩を切り出し削り挙げて薄いL字型の板にした作品群が醸し出す、形の美しさと素材の重さが重なり合ったフォルムに思いの外の感慨が浮かぶ。砂が澱重なった上に圧力がかかってできた砂岩を再び削ってひとつの形を作り出す、その時間を逆行させるようでもあり、進めるようでもある作業の持つ意味に想いが及んで、時間に触れているような感じになる。土屋公雄さんの新作インスタレーションは、燃えたガラス瓶を6000本とか集めて段々にぐるりと並べた作品で、人の作り出したものの強さと鬱陶しさを同時に感じて強すぎる人の営みがもたらすものへの想いに慄然とする。炉で燃えるガラスの音の美しく儚く厳しい様が眼前の燃え残ったガラスに重なり、生きて物を作り使うことへの受認と懐疑の相反する意識の中で立ちすくむ。

 スイッチのような配電盤のような壁にとりつける美しいフォルムの作品群が面白かった藤堂良吉、石膏を垂らし流して上に伸び踊る躍動感と静謐さが入り交じった不思議なフォルムの作品群が並んでいた鷲見和紀郎を合わせた5人の展覧会。具象彫刻とは違った、それぞれのかたちが何かを意味することなく何かを代替することもなく純粋にその存在感をアピールしていて、見ているうちに自分も何か「たかち」を作りたくなって来る。けどやっぱりそこに何かの意味を与えてしまうだろーなー、役に立たないものは不必要だなんて教育を受け染まってしまった身だけにきっと。カタログが欲しかったけど未刊行だったみたいで残念、次にいつ行くかは不明だけど、駅の周囲に広がる田圃や畑と山々の光景は嫌いじゃなく、仕事のSOHO化できれば住んでみたい場所でもあるし、かなえばその時でも購入しよう。でもせめて駅前に「松屋」くらいはあって欲しい気が。駅の改札口で「ヤフーBB」のモデムを配っていたけどホントに使えるんだろーか、ってかこんな場所まで出向いて宣伝する費用をかけて成果はちゃんとあるんだろーか。


【12月6日】 ボーナスが出たってことで買い揃え逃していた「ココロ図書館」のDVDを遅蒔き過ぎながら買ってこれぜ全巻コンプリートでにこにこりん、終末にじっくり見返そー、全巻購入特典には応募できないのがちょっと悔しいけど。思えば去年のだいだい今頃を、毎週賢明になって見ていた作品で、その後に見てDVDまで買い揃えたアニメがあんまりなかったことを考えると、自分の中のアニメ力(あにめ・ちから)がいかに落ちていたかが分かる。「ワールドカップ」とか「Jリーグ」に通いすぎてそっちにお金が回らなかったってこともあったけど、見たいって意欲も落ちてたんだよなー、あの「ラーゼフォン」だって1話たりとも見てないくらいだし。今だと「ウィッチハンターロビン」を揃えたい気がしてるし「灰羽連盟」は絶対に買う気だし「あずまんが大王」も3年生巻が控えてる。趣味に偏りがあるとはいえ、買いたい作品見たい作品が増えてきたってことはそれだけアニメ状況も風が変わって来た可能性もあるのかな。「ワールドカップ」もない来年は頑張ってDVD購入に勤しもう、それに耐えられる作品が増えることを期待して。

 知られず埋もれてしまう漫画の数ある中でシリーズを代え出版社も代えて出続けているのはもしかすると、人の誰しもの心に残っている「ティル・ナ・ノーグ」への郷愁と憧憬が、そんな話を欲しているからなのかも、ってなことを思いつつ紺野キタさん「ひみつの階段2」(ポプラ社、900円)を読む。その昔出た偕成社版の「ひみつの階段」だけを抜き出して新作も加えて編集し直した新装版で2巻にも2本、入ってるんだけどこのうちの1本がなかなかなインパクト。とりわけ夏っちゃんファンには感涙もので胸にさまざまな感情を浮かべるだろーこと請け負い。人は歳をとるのです。もう1本は杏堂みゆき誕生のエピソードから引く話題があって”ひみつの階段”の持つ不思議さ、暖かさが染みて来る。これで偕成社版のもすべて再刊されたことになるんだけど、続きはまだまだ出るのかな、出て欲しいな。

 「池袋ジュンク堂」での昨日の斎藤貴男さんのトークセッションで後半、質疑応答に移った時に普段は肉体労働をしながら演劇なんかもしているとゆー年配なんだけど若く見える人が、斎藤さんの以前書いたブックレットにある言葉を引いて、「このままでは暴動が起こるかもしれないというけれどそれはどこから起こるのか」と聞いていて、答えて斎藤さんは工場の労働者のような場所から起こるのではと返していたけど、一方で生きるのに精一杯な中で暴動を起こすエネルギーも乏しくなっている現状も見て、難しいかもしれない可能性も示唆していて、ど派手なことが起こりそーもない先行きに如何ともしがたさを覚え、ますますもって閉塞感が募る。

 もっとも旧来からある例えば労働者による暴動とか、ロサンゼルスなんかで起こる黒人による暴動のよーな集団が放棄し暴れ一斉に動き回るよーな文字通りの「暴動」は起こらなくても、大人の目に見えないところですでに若い人たちの社会に対する”暴動”はすでに起こってるんじゃないか、ってのがここの所の印象だったりする。つまりは例えば仕事に就かず結婚もせずに独身フリーターを30過ぎても続けるのって、結果として国の力を衰えさせるよーに働いているんじゃなかろーか。結婚できない甲斐性のなさはこのさい脇に置き、小子化に果てしなく”貢献”してるってことで、作為的ではないにしろ立派に権力への抵抗になってるし。

 あるいは親や先生や目上のものに対する敬意の念がどんどんと薄れ我が儘勝手になり法律だって破るのを辞さない小学生中学生が山となって来ているのもやっぱり、国なんてものを虫食いのスカスカにしてしまう不作為の”暴動”のよーな気がする。とはいえそんな無秩序で緩慢な”暴動”がもたらす社会の空虚さ、やるせなさを思うとこれはやっぱり堰き止めるしかない。ないんだけどかといって代わりに起こせるベクトルの定まった「暴動」もなかったりする訳で、うーんやっぱりこの国はグズグズと根腐れていくしかないのかな。巧成り名遂げた立派な経済人が周囲の目も気にせず「鉄屋」「鉄道屋」と誹り合う姿を見せられれば、そりゃあやる気も失せるわな。

 遅蒔きながら都築由浩さん「ベーカー・マティジュの繁盛記 学院衛星を救え!」(角川スニーカー文庫、533円)を読む。普段はパン屋を営みつつ以来があれば始末屋としてもめ事解決から場合によっては殺しも辞さない男がふとしたはずみで少女を預かる羽目となったのが前作「密航者、月へ行く。」。かといって殺しだってやる殺伐とした男の下でいつまでも育てる訳にもいかなかったのか、やっぱり前作で知り合った良いところのお嬢さんが通っている学校へと預けていたところが、飛び込んで来た仕事がその学校にも関わりのあることで、かくして空に浮かぶ学院衛星を舞台にした敵との激しいバトルが幕を開ける。

 誰にも負けない凄腕のスカベンジャー(始末屋)って割にはあんまり殺伐とした雰囲気を醸し出していない主人公、ガイ・グリフィンのキャラクターとしての中吊り具合はやっぱり気になるところで、人の生き死にを片手で左右する力を持ったシリアスでリアルなはずのガイと、どこまで言っても死とかとは結びつきそーもない幼い少女に純真な少女といった周囲のキャラクターたちとのマッチング具合も気になるところではあるけれど、2巻で少しだけ示された強大な敵との今後を考えると、今は浮いた感じのガイのリアルなシリアスさが周囲を染めて屹立し、宇宙を舞台にしたハードな活劇へと進んでいく可能性なんかにも期待が及ぶ。保証はないけど。衛星1個を操り最悪のピンチを脱せさせるハードSF的な部分もあって人によってはそこをもっとクローズアップしてくれよって意見も出そー。クライマックスのとっっかりで一瞬「魔女の世紀」を思い出したよ。懐かし過ぎ、だなあ。


【12月5日】 またもや大盤振舞の2話連続放映だった「灰羽連盟」が、なおいっそうに陰鬱なイメージを色濃くしていて真夜中に見ていたらきっと、布団に頭を入れて泣き出したくなったかもしれないけれど、幸いにして録画したビデオを朝方に見たんで差し込む日差しとことのほか暖かかった朝の気温に、とりあえずは落ち込まずに見ることができた。見た目の恐さでいうなら黒い部分が出始めた羽根に怯え震えるラッカが、烏に導かれるままに森の奥へと出向いて井戸にたどり着き出てくる貞子と、じゃなかった中に落ちていた死んだ烏と体面するシチュエーションだった前半の方が恐いんだろーけど、そこで繰り広げられた優しさと思いやりにあふれた行為が、シチュエーションの恐さを覆って気持ちを暖かくしてくれて、見かけはなるほど陰々滅々だけど意外にほのぼのとした話なんだな「灰羽連盟」って、なんてことを思ったら甘かった。

 井戸からいろいろあって出たラッカにおしよせるのはさまざまな人でありさまざまな情報で、そんな渦中に起こった出来事によってかつてない事態がラッカを襲うことになって、謎にあふれた世界がますます謎に満ちて頭を悩ませる。灰羽が特別な存在だとするなら親切にしてくれる街の人々ってのはいったい何だ、って疑問もこれありで壁の向こういすら行けない、超絶極悪人としての羽を持たない街の人々が閉ざされた輪廻の話の中で堂々巡りをしているんじゃないのか、なんて妄想すら浮かんでしまって、なのに壁がどーの罪がどーのと悩んで落ち込んでいるラッカがちょっぴり疎ましくなる。もちろん真相がどーなっているかは現時点では不明なんで、これからも続くダブルヘッダーを含めた残りの話数の中でどんな解明がなされ、ハッピーかアンハッピーかはともかくどんなエンディングが訪れるのかを見極めたい。生きていて良かったと思えるラスト希望。

 マーベラス。トレビアン。年末になってこれほどまでにすさまじくも愉快な漫画を読めて、去年よりも一昨年よりも下がったボーナスの明細を受け取って落ち込んでいた気持ちも明るくなって、良い年末を迎えられそーな気がして来た、気だけなんだけど。西炯子さんの「ひとりで生きるモン!」(徳間書店、657円)は「三番町萩原屋の女房」(で良かったっけ?)の巻末おまけ漫画とかで見るショート作品の爆裂ぶりがその爆裂さを発揮するに相応しい4コマ漫画に凝縮されて、ページをめくるたびに放たれるすさまじいばかりのギャグのコメディにユーモアの洪水に、押し流され吹き飛ばされて脳がクラクラになる。これほどまでに読んで楽しく素晴らしい4コマを読んだのって何時以来だろー、「あずまんが大王」以来か「マイペースゆずらん」以来か「こんな奴ぁいねえ」以来か「へなちょこ大作戦Z」以来か「ののちゃん」以来か「ああっ教祖さま」以来か「げまげま」以来ってとこ。何だいっぱいあるじゃん素晴らしい4コマ。

 しかし何より「ひとりで生きるもん」が素晴らしいのが美男美女を描かせては業界でもなかなかな西炯子さんのあの絵でもってシモネタエロネタ満載なことをやってしまう辺り。例えば眼鏡の委員長然とした美少女の森川さんは何があっても動せずむしろセクハラ的なシチュエーションを逆手に取って突っ込み返す攻撃的なキャラクターで、クラスメートが「夜になると毛と毛がくっつくものなーんだ」となぞかけごっこをして赤面している状況に、ひとり超然と「セックス」と良い抜け周囲の血を引かせたと思ったら、イタ電で「お○○こと言え」といわれて即座に言い返し足りないと言われると窓から大声で「お○○こ」と叫んで相手をこれまた引かせてみたりと大活躍。その超然ぶりに踏んでもらいたがる男性も出てきてそれを当然のごとく踏みつけよーとする姿に、とってもときめいてしまった。

 ほかにも私立高校の電機・機械課に編入して来て誉められても貶されても服を脱ぐ「はだ果ちゃん」がいたり、結婚して欲しいと告白した途端に泣き出して嬉しかったのかと思いきや米中首脳会談で核弾頭の照準を外すことが確認されたと喜んでうれし泣きしていることが分かる美女がいたりともう無茶苦茶。そのキャラクターの突き抜けっぷりたるや誰をとっても他に幾つもは類をみないくらいにすさまじく、これほどまでに特徴的なキャラクターを4コマの多くても連作で20に満たない話数で使って良いんだろーかと戸惑う一方、それだからこその凝縮された面白さなんだろーとひとり納得してしまう。冷徹な森川さんも良いけど夫を自転車事故で亡くし一人で育てている息子に普段は苛められている薄幸の日々を送っている若い母親もなかなか。男の愛のささやきを内心で莫迦にしまくりつつも顔には出さないしたたか女性にも世の中都合の良いことばっかじゃないんだってことを思い知らされる。シュールさ理不尽さエロティックさを持った内容は、絵柄はまるで違うけど喜国雅彦さん「日本一の男の魂」にどこか通じる部分も。そーゆーのが好きな人は読んでおいて間違いなし。

 「ジュンク堂」の池袋で斎藤貴男さんのトークセッションがあったんで見物に行く。最近、日本実業出版社から「起業家に会いにゆく」(1500円)って本を出したばかりで普段からどちらかといえば企業屋を貶しに行く方が多い斎藤さんにしては珍しいかも、って思ってはいたけどトークセッションのテーマが「メディアと閉塞状況なんとか」といったものだったんで、どちらかといえば「ダ・カーポ」の巻頭でやってるコラムみたいな、最近富みに増しつつあるメディアの右へ習え状況がこの国をとっちらかった方向へと持っていくことに荷担しかねない事態への提言めいた話が忠心になって、集まる人もそーいったことに感心のある人たちだろーか、なんて思っていたし実際そーいった人も多かったようだけど、登壇した斎藤さんがまず話し出したのは「起業家に会いにゆく」についてのコメントで、やっぱりいろいろと言われたよーで人によっては「日寄った」とまで言ったそーで、けれども書いた当人としては「起業家」であって「企業屋」ではない点への注意を喚起しつつ自分で何かをする人、組織に属していない人が生きにくいこの国でまさしく「ひとりで生きるモン」をやってる一国一城の主たちを取りあげることで、逆にこの国の成長を阻んでいる組織の壁、偏見の壁を浮かび上がらせることができるんじゃないかって、そんな意図もあったらしー。

 それと前職が前職で企業を回ることから仕事を始めた人ってこともあって決して企業に対して根っからの反発を持っている訳じゃないよーで、例えばフランチャイズのよーに画一的なものへとおしこめよーとする施策を前面でバリバリとやってる企業のよーな、斎藤さんが苦手とする業種であってもそこはそれ、起業家としてのスタンスと社会に対するアクティブさに関しては是として、「起業家に会いにゆく」ではグローバルダイニングの人とかサイゼイリヤの人とかもちゃんと取りあげているし、管理社会の実現とも関わりが皆無ではない関係でやっぱり苦手としているIT回りの会社でも、それなりの所は楽天なりインプレスなりサイボウズなりをしっかりと取りあげてあって、好き嫌いではない目くばりを感じるし、トークショーでもそんな取材にあってのスタンスを説明してた。説明しなきゃいけない辺りに「斎藤貴男」って名前が持つイメージの限定化が進みかけているんだってことも分かって興味深かったけど、「ゴルゴ13」しか描かないってゆー(それは違うし「サバイバル」だって面白かったぞ)。

 割に”戦ってる”イメージのあるジャーナリストだけに斎藤さん、どんな闘士的雰囲気を持った人なのか興味があったけど、喋っている姿は訥々として大人しく、視点も複眼的で記者クラブへの批判は批判としてそれを現状のクラブが持つ閉塞性に限定して、クラブがないことでもたらされる一部メディアのインナーサクール化への危惧も合わせて話す辺りに冷静さが見える。そんな人がこと「住基ネット」の問題では裁判の原告にまでなっているのは、ずっとやってきた成り行きもあったかもしれないけれど、権力によって情報を握られた時の取り返しのつかない、回復の不可能な恐さを身を持って知っていることもあった模様。かといって恨みなんてことではなく、そうならざるを得ない行政の仕組みがこの国に蔓延っている事実を事実として踏まえ、システムそのものよりもシステムを使い情報を扱う側のモラルに寄る部分が大きいことも理解した上で、そうした個々人のモラルが組織の中で埋没し、押し殺されてしまっている実状を鑑みるに、とんでもないことになりかねないと思い積極的に反対の論を張っていることが伺え、心強さを覚えた。反対のための反対のロジックが見透かされ通用しなくなっているだけに、経験と論理の積み上げによる言葉じゃないと説得力はないからね。

 世間を震撼させよー、世の中をひっくり返してやろーってゆー強い前向きな意欲でもって社会に切り込む本を書いているのかと聞かれてそうでもないって言っていたのに興味。韜晦かもしれないけれどむしろ自分の興味の範囲で仕事をして来たことが結果として社会の問題と重なって来て、時の人めいた存在になった模様、つまりは感心もつけどころのセンスが良かったってことなのかな。世の中の影響力に燃えていないのが世の中にまるで影響力を与えていなかった前職での経験に根ざしているって説明には強く納得。間違えた記事を書いてもその会社からしか文句が来ず、珍しい記事を書いても1カ月後に同じ記事を書いた日経の方に後追いが付いたって話を聞くに、昔も今も変わらない「機会不平等」さを覚える。前職での仕事内容についてのコメントは聞けば人々にすごい会社だったんだと思わせる効果はあったかもしれないけれど、ある種「古き良さ」なり「零細のペーソス」なんかも感じさせる部分があって逆に憧憬を感じてしまった。今はそれどころじゃないんですけどね。


【12月4日】 仕事が仕事なんで普段から、割にニュースには目を通してる方なんだけどそれでも遺漏するのが山とあったみたいで、「ホテルニュージャパン」の事故の時に蝶ネクタイ姿であれやこれや言ってたおっさんこと横井英樹が「エンパイア・ステート・ビル」を九〇年代に買っててそれから最近になって売っぱらってたことにはまるで気付かなかった。「ロックフェラーセンター」を三菱が買った時みたいな騒ぎになった記憶もないんだけど、単純に見落としていただけだとしたらよほど新聞を読む目、ニュースを聞く耳が衰えていたんだと反省しなくっちゃいけない。ブルックリン橋を日本人が買った話は81年頃に読んだんだけどね、「SFマガジン」で。

 去年の9月11日に同じニューヨークにある「世界貿易センタービル」に飛行機がぶつかった時点ではまだ、「エンパイア」はドナルド・トランプと横井英樹の遺族の共同所有だった訳で、不幸にもマンハッタン最高のビルになってしまった「エンパイア」に日本人のそれも横井英樹が関わってことになる。仮にぶつかったのがこっちのビルだったら、横井英樹の名前ももっと取りざたされたんだろーけど、米ウォール・ストリート・ジャーナルの記者が書いた「エンパイア」(ミッチェル・パーセル著、実川元子訳、文藝春秋、3000円)を読むとかつて1945年に「B−25」がぶつかっても倒れなかったビルだから、あそこまですさまじいことにはならなかったのかもしれない。

 で「エンパイア」だけど、メインは横井英樹が手を出したものの愛人との子らしー娘が「自分にプレゼントしてもらったんだ」と言い出して横井英樹と争いになり夫ともども収監されたり、横井本人も医療刑務所に収監されたりしててんやわんやの大騒動となった挙げ句、横井は亡くなり「エンパイア・ステート・ビル」も売られてしまった経緯をまとめたもの。「父にプレゼントしてもらったんだ」と娘が思いこんでいたのかそれとも、所有権をめぐる裁判の中で戦略上そう言わざるをえなかったのかは判然としないけど、契約が何にも勝る米国で、密室の口約束を根拠として堂々と主張してしまうあたりに、横井英樹の身内らしい強さを感じてしまった。あれだけのものをケーキよろしくプレゼントしてもらえるんだと思える神経のず太さも含めて。

 時代が変わって今は外国資本が日本の資産を買い漁ってる時代だけど、買われて困る日本の象徴なんてあるんだろーか。国宝史跡の類は別いして、「エンパイア」のよーに買われると気持ちが緩むビルなんて日本にあんまりないからなー、「霞ヶ関ビル」だって「池袋サンシャイン」だってどうぞって感じ、「サンシャイン」の場合は前身に別の意味がちょっとあるけど、そこまで思い至る日本人も少なくなっているし。賃借権がなく儲からない「エンパイア」を”持つ”ことにこだわる日本人の土地信仰ぶりを巻末で猪瀬直樹さんが指摘しているけれど、土地そのものを資産として持つ意味は認めても、上物が持つ歴史なりにはまるで敬意を払わないのが日本人。だからモダンだった丸ビルも日本工業倶楽部もどんどんと高層ビルに変わってる、それも2076年までは絶対に持ちそうもない感じのビルに。転じて所有権はこだわらないんだけど、使うことで生まれる価値に意味を見いだすアメリカ人。この差が何によるもので、社会にどんな違いをもたらしているのかを、「エンパイア」での横井と横井の娘とその夫のフランス人とドナルド・トランプと他の登場人物たちの思考行動から考えてみよー。

 「トヨタ ヨーロッパ/サウスアメリカ カップ」(通称・トヨタカップ)で思い出したことあれこれ。天気は良かったものの12月ってことで場内は結構な寒さだったにも関わらず、レアル・マドリッドのフィーゴ選手ひとりだけ半袖のユニフォームを着て最後までプレーしていてさすがはラテンな男、内にたぎる情熱と手足を覆った剛毛が冬の寒さからその身を守っているんだなって感じる。そんな訳はない。「ワールドカップ」でベッカム選手が初夏の好天下でも長袖を着続けていたよーにきっと、人それぞれの事情があるんだろー、見せるのが好きとか家に長袖を忘れて来たとか。

 それにしても今にして思い出す程に凄い先発だったことを強く実感。出るかどーかさえ分からなかったロナウドをはじめラウルにジダンにフィーゴにロベルト・カルロスと金色に輝く高給取りが左右中盤トップを固めた布陣はリーガやチャンピオンズリーグを合わせても今期2度目だそーで、それだけマドリーが「トヨタカップ」の獲得に燃えてたんだってことがうかがえる。調子のあんまり良くないって言われていたロナウドとか最近の試合を欠場していたジダンとか、前半だけで代えても不思議じゃなかったのにロナウドは後半37分まで、ジダンも後半41分までしっかり出てたからね。オリンピアの方では途中から出てきたバエスがなかなかな存在感。あんまり動き回って攪乱するタイプじゃなかったけど、入ってきたクロスを合わせてゴールを脅かしたりしてオリンピアの攻撃に高さの要素を加えてた。福岡時代はあんまり記憶にないけどまた来てもそれなりに活躍出来そー。問題は合わせられるクロスの精度だけど。

 精度って言えば「サッカーマガジン」12月18号の「日本vsアルゼンチン」、「韓国vsブラジル」のそれぞれの代表選を比較した記事で、クロスの本数では日本の25に対して韓国は21と少ないのに、成功率では日本の12%に対して韓国29%と圧倒している点を上げて、「歴然たる精度の差」があることを指摘している。枠内シュート率の日本36%対韓国63%って数字もあって、隣でピクシーが「日本も負けた。韓国も負けた。それだけだ。韓国がゴールを奪ったことなど、別に大して意味を持つわけではない」って言っているけど、得点力不足と言われて久しい日本の未だなかなか得点できない理由なんかが、得点をあげた韓国のデータからも伺える。

 「トヨタカップ」は左から右、右から左にサイドチェンジのボールがマドリーの選手の間でガンガンと飛んでいたけど、そのいずれもが立ってる場所にピタリとおさまるピンポイントぶりで、おまけに受けた選手の誰もがピタリと足下におさめる素晴らしさ。テクニシャンってイメージのある南米はオリンピアの選手たちよりも巧みで、「蹴る止める走る」がキチンと出来ることがこんなにも重要なんだってことを目の当たりにできた。敷衍するならそれができるよーになれば日本代表もさらに強くなれるってことだから、その当たりで今後どーいった対策が出てくるのかに期待しつつ、ジーコの手腕を見て行こー。クロス用の「キックターゲット」でも作るか。


【12月3日】 久美沙織さんの新刊「メモリーオブレイン 腐敗の帝王」(角川ビーンズ文庫、540円)が出てたんで買おーとしてよく見て目が点。「原案・子安武人」ってのはいったい何だ。そりゃ子安さんが声優のほかにいろいろとやっていることは聞いているけど、そんな一環としてやってるプロジェクトの小説部門を作家人生まっしぐら、すでにベテランの域に入ってる久美さんが手がけるなんてどーゆー風の吹き回しなんだろーかと悩んだけど、それを言うならあの神林長平さんだって「ラーゼフォン」のノベライズをやっちゃってるんだから、「ドラゴンクエスト」を小説にした久美さんが子安さん原案のノベライズをやってる方がまだ理にはかなっているのかも。神林さんはさすがにノベライズといっても思いっきりひねってあったけど。

 とか言って久美さんのノベライズが原案に素直かとゆーとこれがどーしたことか、なかなかにやっぱり癖はいりまくっているよーで、読み終えてこれはいったいどこまでが子安さんのアイディアで、どこからが久美さんのオリジナルなんだろーかと悩む。どーやら子安さん的なプロジェクトでは主人公らしい不死者でアンデッドハンターってゆーまるでアーカードな兄ちゃんの雨竜堂揚羽が冒頭でなにやら捕縛されてるシーンが出てくるんだけど、物語の方はそこから一転してどこぞの大金持ちのご令嬢にして揚羽を慕う少女が艱難辛苦に七難八苦を食らう話になっていて、揚羽の方はといえばあんまり動かず活躍もせず、どーゆー存在でどーゆー役回りなのかよく見えない。子安っぽい感じはするけれど。

 それから文体があんまり読んだことないけど久美節はいりまくりな印象で、直裁的で青臭いところ爽やかなところの多々ある新鋭のヤングアダルト小説とはどこか違った入り組んで構築的で癖があって美しい文体でもって描かれていて、惚けた頭ではなかなかに苦労する。あと未来社会を描写する道具立てなり社会情勢なりへのこだわりも多々あるよーで、そのあたりは後書きに詳しいけれど、そーした設定面への関与に文体のプロフェッショナル的なこだわりを勘案するに、相当な割合まで久美さんオリジナルの小説作品と言って言えるかも、子安さんの原案から派生した他の作品とか見てみた訳じゃないけど何となくそー思う。とりあえずは「オズの魔法使い」よろしく追われるドロシーが臆病なライオンみたいな犬人間を仲間にして、魔法使いならぬ揚羽を目指して旅する話に続いて行きそーで、どんな未来世界どんな強いキャラクターを見せてくれるのかに今から興味が及ぶ。次は来年2月とか。待ち遠しい。

ともに100周年。きんさんぎんさんがいれば旗の下に立たせて記念撮影したのに、「れあるはひゃくさい」「おりんぴあもひゃくさい」  間に知的障害者によるサッカー世界大会の決勝を挟んでいるから6月30日以来って訳じゃないけれど、国別代表の世界最高峰を決める試合に匹敵する重みと派手さを持つって意味では「ワールドカップ」の決勝戦以来の本格的なプロフェッショナルによる試合となる、クラブチームの世界最高峰を決める試合「トヨタ ヨーロッパ/サウスアメリカ カップ」(通称・トヨタカップ)を見物に「横浜国際総合競技場」へとはるばる出向く。「トヨタカップ」って言ったら「国立霞ヶ丘競技場」が定番になっていたから「ワールドカップ」をやったからってそっちに持って行かなくても、って思ったけれど会場に入って設備の立派さ収容人数の多さなんかに触れるにつけて、伝統よりもアメニティを取って正解だったと、器の伝統にあんまり敬意を抱けない身として思う。国立じゃあ前の席との間も隣の人との距離も狭くって、ビールを飲むのもトイレに立つのも苦労するからね。昔はそれが普通だったんだろーけど、埼玉に横浜に東スタにレコパを知ってしまうと、やっぱり不満が先に立ってしまう。人間って贅沢です。

 不安だったのが、セカンドチャンスで当てたカテゴリー3の席がいかなるものか、ってことであるいは柵とか人の動きとかがあって試合がろくすっぽ見えなかったりするんだろーかと心配しつつ到着した席に仰天。コーナーはコーナーで予想どおりではあったけど前から11列目ってのがそれはもうピッチから近くって、コーナーキックを蹴る選手がもうすぐ目の先にいたりする席で、肩さえ良ければ豚の首だってぶつけられそーで、下手すると「国立霞ヶ丘競技場」のA席なんかよりもロケーション的に良かったりして、これがどーしてセカンドチャンスに回ったんだろーかと不思議に思う。カテゴリー2だった「W杯決勝」が上の階層だったことに比べると、近さって点ではこっちの方が上かもしれない。ただ地面に近い分、でもって向こうのゴールから遠い分、試合の流れを俯瞰できないのがコーナーで1階席の宿命。全体を見渡せた「W杯」カテ2席が「カテ2」でもそれほど的はずれではないんだろー。4年に1回で日本じゃ100年に1回かもしれなかった訳だし。

 さて試合の方はといえばもう序盤から圧倒的にレアル・マドリッドのペースで、ジダンにフィーゴにラウルが絡んで、ロベルトカルロスまでサイドライン付近に控えていたりする華麗なパス回しからの攻めなんかをみると、巧いってことはこーゆーことなんだなってことを改めて思い知らされる。まるで練習でサークルになってボールの奪い合いをしているよーな感じで場所を入れ替わりダイレクトでパスを回して相手に触れる隙を与えず、逆に相手の隙を見つけて一気に中へと放り込んではシュートへとつなげる緩急の付け方の素晴らしいこと。がむしゃらではあるんだけど正確さを欠き得点につながらない、すなわち点を取ってナンボのスポーツでは意味のない攻撃しか見せられない、なのにそれを讃えるしかない国が強くなるための道のりの遠さを思う。

 もっとも普段の主戦場ともいえるリーガでの試合の模様に比べると、攻めのスピード感があまりなくパスのつなぎで間を持たせているよーな感じがあって、そーしたスピードのある攻めを必要としないくらいに相手となったオリンピアはレアル・マドリッドに見下されているんだろーかと、アウェーってこともあってオリンピアのユニフォームを買って着ていった身として可愛そうになる。もっともアクセルをいっぱいに踏み込んだところでオリンピアの守備をズタズタに出来たかとゆーと不明な部分もあるんで、緩急の中から隙を逃さず得点したロナウドとそれをスルーでアシストする形になったラウルの凄さをむしろ讃えるべきなのかも。オリンピアにも実際、惜し過ぎるシュートが何本もあってレアル・マドリッドのキーパーのカシリャスのセーブに3点くらいは救われてるんで、拮抗した中でのわずかな差が2対0ってスコアになっただけなのかもしれない。

 キーパーって点ではオリンピアのタバレッリも好セーブ連発でさすがは代表キーパーと感心する。南米ってイギータにカンポスにチラベルトって色物なんだけど実力も十分なキーパーが目白押しなんだけど、タバレッリもど派手なキーパー用のユニフォームを着ていたりして、その点では色物度もトップクラス。でもってロベルトカルロスの弾丸シュートをはじきとばし背中から落ちればすぐさま手を使わずに起きあがって見せたりと、プレーヤーとしてもなかなかにトップクラスなところを見せてくれていた。本人は日本への移籍でJリーグとかでポジションを掴みたいところあるよーなんで、今日の活躍を見れば少しは声をかけて来る人も増えるのかも。行くならどこだろ。伊藤裕二が抜けた「湘南ベルマーレ」なんて……いいかも、派手なキーパーユニも胸のキャラさえうさだかでじこかミルフィーユにしておけばスポンサーだって喜ぶし。


【12月2日】 セリエAの中継もない夜、買っておいたDVD「ウィッチハンターロビン」を見て過ごす。暗くなる。ってか話自体はとりたてて陰惨でもなく暗澹ともしておらず、むしろ救いの見えない展開では「灰羽連盟」の方が上を行ってそうだけど、迫力のちょーのーりき(超能力)バトルがある訳でもなく淡々と、捜査が進み犯人が追いつめられては捕縛されていく展開は、画面の美しさと流れる音楽の良さがかえって真夜中の疲れ淀んだ目に催眠術的な効果をもたらすみたいで、昼寝をしっかりとった日曜の夜は別にして、レギュラーの放映時なんかは心を落ち着けすぎてしまうんだよなー、つまり瞼が下がって暗くなるってことで。

 何度か見たリアルタイムの放映ではだから、どこまでの作品かつかみそこねていた所も多分にあったけど、第1話から改めて見直してみてなるほどこれは良質な作品になり得るもの(すでになっているのかな)だと理解する。作品なりの”魔女観”を土台にそれを扱う組織を構築し、そこで働く人々の複雑にして奇々怪々な関係を作り上げた上に瀬名ロビンってゆーファクターを混ぜて、起こる様々な反応を見せていく展開は、単純な妖怪ハンターものエクソシストもの調伏ものに止まらない、背景のなかなかな奥深さを想起させて展開に期待を持たせる。まあこのあたりも含めてテレビではずいぶんと話も進んで鋳るんだろーけれど、夜にあんまり元気じゃない身なんで昼間に見られるDVDでおいおいと話を追って行こー。最終回を見て愕然としてDVDを買わなくなっちゃうケースも過去に割にあったんで、それにも要注意。

 それにしても不思議な髪型のロビンちゃん。ベッドで寝ていたシーンを見るに普段から蒲腐博士(誰?)みたく揚力を発生させるよーな感じで横に尖らせている訳じゃなく、普段はちゃんと普通に流れる髪のよーなんだけど、縛って両側に突き出させた姿はまるでバイクのハンドルで、後ろから握って右手のアクセルをぐいぐいって回したくなってくる。あるい2筋下がった髪を引っ張ると目が光るとか。お高く止まってそーな仕事の人とか逆にガヤガヤとした子ギャル(死語?)孫ギャル(もうすぐ死語?)篠原ともえ(生きてる)あたりにいそーな髪型で、芯はあるんだけどつかみどころのない、高潔だけど高邁ではない15歳のロビンにどこまでハマっているのか悩む。つーかあれをリアルにやって太くならず長くならずのバランスに保つのって至難の業のよーな気もする、顔大きいとさらに大きくなるから、レッドバロンみたく。誰か真似してみないかな。真似して似合うタレントは誰かな。

 つつらつらつらと読書。「角川学園小説大賞」で大賞の栄誉に輝いた椎野美由貴さん「バイトでウィザード 流れよ光、と魔女は言った」(角川スニーカー文庫、514円)はウィッチハンターならぬ「矯正術者」として世のゆがみを直して歩く兄妹の2人組が登場してはドタバタの中にも術者として仕事に勤しんでいく話、ってまあこれも聞けばありそーな話だけど、大賞ってからにはきっとどこかに凄い読み所があるんだろー、僕がまだ気付いていないだけで。術者としての行動は割にシリアスさを求められるのに、徹底した独裁者志向の風紀院長がいてそんな彼を慕い持ち上げる部下がいて、ってな絡むキャラクターがコミカル過ぎて、場を引っかき回してはくれるんだけどどこかかみ合っていないような感じ。あるいは長谷敏司さんの超弩級にシリアスな話を読んだ後だけに、そー感じてしまうのかもしれず、気楽に読めばこーゆーのが楽しいって時もあるから良いのかも。続きに期待、しておこう。

 こちらは徹底してお気楽に。高瀬美恵さんの「ペルガモンズ・エンジェル!」(角川ビーンズ文庫、495円)はお金持ちん家のお嬢様どころか財閥の当主として活動しながらも激しく庶民的な結婚願望があって、洋裁学校に通っては卒業制作にウェディングドレスを作ること5回。見初めた相手に振られ続けて今年もやっぱりひとり身のまま過ぎそーだった絢子がある日、行きつけの喫茶店に現れた青年に一目惚れしてしまったことからひと騒動が持ち上がる。先代の当主から勘当された絢子の父親の企むリゾート開発に反対している青年を助けるべく、かつて屋敷に忍び込んで来たところを捕まえた美貌の女怪盗レイナ・ヴィオレッタと、天才的な発明家ってゆーかつまりはマッドサイエンティストの美女、円城寺美綱を配下に従えつつ、新たに京都より陰陽師の少女の立蔭雪乃を仲間に引き入れリゾート開発阻止に立ち上がる。

 キャラの立ちっぷりがとにかく圧巻で、泥棒としては天才とも言える能力を持ちながらもどこかに遺漏があって絢子とマッドサイエンティストの両方から良いように使われる女怪盗のマゾっ娘人生といー、女ばかりの手下を大量い従え超絶的な発明を次々とする円城寺美綱といー、立てばひまわり座ればラフレシア、華やかで毒々しいオーラでもって物語の中を縦横無尽にかけまわり、読む者にカタルシスを与えてくれる。そして絢子。一途過ぎる思いが時に空回りもするけれど、そんな彼女を助ける喫茶店のマスターだけどその実いろいろ背景のありそーな青年菱川嶺市なんかとの絡みの中で、人として成長していっているかもしれない姿を見せてくれる。後書きによればさらに2人ばかり異常だったり奇妙だったりするお仲間とか出てきそーで、ルパン一家もキャッツアイもエンジェル隊さえ顔負けの、世直し大騒動を見せてくれることに今は期待でいっぱい。新キャラはやっぱ普段はアイドルだったりする人なのかな。それとも外人助っ人かな。

 知ったことかよ民主党。牛の人権とか妙なことを昔っから言い続けて来た人を敢えてまた代表に選んで懲りない面々が今さら改革だ革命だって訴え、トップをすげ替えたところで、存在感で言うなら牛後ですらない鶏口がちょろちょろ変わるだけで、”せーきょく”とやらが好きな日本のニュースのネタにはなっても世の中が大きくグルリと変わるよーにはちょっと思えない。仮に自由党といっしょになって民主自由党が自由民主党(どっかで聞いた名前)になったところでやって来たことの何にもなさ、やってくれそうなことのやっぱり何にもなさに入れるのを誰もが躊躇してしまい、結果今のまんまがだらだらと続くことになるんだろー。変わったとゆー事実だけが欲しい時代ではもはやないのだよ。それでもかける可能性があるとしたら、野党大合同の上で小沢一郎がトップに立つことだろーけど、それが出来るんだったら太陽党が新進党の頃にやってたはず。しっちゃかめっちゃかになったこの後に及んで出られたってそれは”火事場泥棒”でしかない。ってことややっぱり小泉政権にかけるしかないんだけど……ないんだけど……ないのか、本当にないのか? 22世紀はないかもなあ。


【12月1日】 つーかあんな王様キャラじゃねえだろミント・ブラマンシュの父親は、って水野良さんの小説版「ギャラクシーエンジェル」(富士見ファンタジア文庫)を読んだばっかの目には、アニメ版「ギャラクシーエンジェル」に登場した名門名門とうざったい一家の描写が著しくも違和感たっぷりに写ったんだけど、そんな程度で目くじらたててたら見られないのがアニメ版「ギャラクシーエンジェル」、1回ごとの展開が次の回ではオールチャラにされるとゆーお約束にのっとれば、次回にミントの父親が商才に長けた実業家然として登場しよーとミント以上に着ぐるみ好きジャンクフード好きのナーヴな野郎として登場しよーと別に不思議はない。ので脚本家の皆さんには是非に今回の設定も珍キャラ「メーモン」の衝撃も越える「俺ミント」をどんどんとご披露してやって頂きたいもの。それでこそのアニメ版「ギャラクシーエンジェル」だ。

 なんて諦めと賞賛の相半ばする複雑な感情で放映を見終わった後で、折角だからと割に近所の習志野市は秋津って場所で開催されるサッカー「天皇杯」の、折しもJ1に昇格したばかりの大分トリニータが登場して国際武道大学と対戦する1回戦でも見に行こーかと家を出たものの、降り出した小雨にすぐさま行くのを断念した軟弱者、昨日の照りつける春のよーな日差しが一転しての寒空に、これが12月とゆーものかと嘆息しつつ、近所で食糧を買い込み出たばかりのヤングアダルト文庫群を買い込んでおこもりすることに決定する。酒井與恵さんも出てないし。

 とはいえ大分トリニータはともかく国際武道大学のサッカーがどんなかは興味のあるところで、それこそキーパーは太極拳の使い手でフォワードは黄金右脚の少林拳法達人とゆーどこかで聞いたメンバーにプラス、骨法柔道剣道テコンドーカポエラサンボプロレスリング合気道相撲の有段者にチャンピオンに横綱が選手となってさぞや肉体言語のとびかう凄まじい試合を見せてくれたんだろーと妄想したけど、後で確認した試合結果は平凡なスコアでトリニータの勝ちだったみたい。夏前に映画が流行って間もないこともあってまだまだ十分には武道がサッカーに活かされていないんだろーと理解する。きっと来年こそは「少林サッカーを我が脚で」って生徒が山と入って映画のよーにキーパーは吹き飛びゴールネットは摩擦で燃え去る「武道サッカー」を見せてくれることと期待しよー。「火山高サッカー部」との対戦希望。

 買い込んだ中からまずは長谷川敏司さん「天になき星々の群 フリーダの世界」(角川スニーカー文庫、514円)を一気読み。傑作との誉れも高い「戦略拠点32098 楽園」の作者がホント久々に送り出してきた本だけに抱く期待は大きかったけど、その期待に存分以上に応えた内容でその力量の高さに改めて関心する。相変わらず誉めまくってるなあ。時は「楽園」から1500年ばかり昔の同じ世界らしーけど忘れてしまってて共通点がまるで浮かばずおまけに1500年も時間が経ってて重なる描写もほとんどないそーなんで、気にせず独立した1本の話として読んだ本書は、僻地にある惑星に乗り込んで、仕事を果たそーとした凄腕の美少女スナイパーが、予想外の騒乱に巻き込まれ、潜入していた学校の同級生たちと行動する中で、自分の生きている意味を知る、ってまあ大雑把に言えばそんな内容。よくあるっぽい話ではある。

 ただし、そんな寂しい少女スナイパーの成長物語以上に読んで突き刺さるのは博愛主義無抵抗主義的なひとりの少女が貫く信念がすべてを覆い広まっていくとゆープロセス。猜疑心にあふれ憎しみ合う人間たちに我が身の卑しさを思い出させ、正義を口にするものにもその正義がエゴに根ざしたものである可能性に気づかせる”女神”の誕生とも言えそーな展開に、この荒んだ、憎しみと猜疑心にあふれた世界が向かうべき道筋なんかが伺える。とはいえ同時に”女神”に祭り上げられたものへの過度な依存が逆に正常な判断力を人から奪う可能性なんかも想起されるだけに悩ましいところ。あるいは書き継がれる物語の中でそういった人の持つさまざまな面を超越し得る新しい世界像につながるヒントをくれるかもしれない。そう思いつつ作者のこれからに付き合って行きたい。出来れば次はもう少し早く。

 少女の覚醒、って意味では重なる部分もあるよーな気がした岩井恭平さんの「消閑の挑戦者」(角川スニーカー文庫、533円)。世界を驚かせる発明を幾つもして若いながらも大金持ちとなった少年が故郷の日本で始めたあるゲーム。それはひとつの街をフィールドにして、自分に挑戦するものたちを世界から集めて競わせるとゆーもので、参加者たちは勝ち残るために少年が差し向けてくる殺人すら厭わない屈強な面々を倒し、同じ参加者をも退ける必要があった。天才数学者の親子や天才科学者、天才ピアニストといったたぐいまれなる才能の持ち主がそろった参加者に、ふとした弾みで混じってしまったのが鈴藤小槙とゆー名の少女。何を考えているのか分からないほどボーッとしている彼女は果たして敵の攻撃をかいくぐり、無事に幼なじみだったゲームの首謀者の下へとたどり着けるのか。

 ってな感じのストーリーだけど肝心なのは小槙が決して単なる阿呆ではないって部分。繰り広げられる生死をかけたバトルロワイヤルの中で発揮される小槙の潜在能力がやがて物語全体の背後に根ざす人類の将来すら左右するテーマへと発展していく。MITの才媛にして名うての武器使いとか天才数学者にして名うての拳法使いとか、天才作詞家にしてやっぱり名うての格闘美少女ってな感じに、突出し過ぎな個性の持ち主のオン・パレードなのにはなかなかに驚いたけど、目指す目的の影響だと思えばかくも文武に長けた人がいたって不思議はないし、スピード感あふれ内容の正確性にもこだわった格闘描写がすべての疑念を覆ってくれるんで、あまり深く考えずに楽しく読むことができた。しかし結局”ゼロ”の中身はどっちだったんだろ。「角川学園小説大賞優秀賞」受賞作。のほほんとした感じで大阪弁を喋るヒロインが「大阪」っぽい。関係あるのかないのかはともかく、そーゆーのがいて不思議はないって僕に思わせるよーになった「あずまんが大王」の偉大さに改めて敬服。


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