縮刷版2002年1月中旬号


【1月20日】 「カウントダウンTV」に出演していた「m−flo」のボーカルで今度ソロでCDを出すか出したかしたLISAの、目鼻立ちくっきりな美貌とちょい膨らみかかった顎まわりとゴージャスな衣装と姉御肌の喋りっぷりに、田中啓文さん「UMAハンター馬子」(学研M文庫)の主人公で「おんびき祭文」の語り手で実はいろいろ訳ありな蘇我野家馬子を演らせてピッタリじゃないかって、思った人が自分一人だけかもしれないのはそれとして、エンターブレインが開いている「ファミ通えんため大賞」で去年最優秀賞を受賞した野村美月さんの「赤城山卓球場に歌声は響く」(エンターブレイン、640円)を読んだらホントに赤城山卓球城に歌声が響いてて吃驚する。そうきたか。

 何とはなしに仲間になった女子大生たちが作った歌声サークルのメンバーの1人が突然学校に来なくなって、不思議に思って探索したらどーやらやんごとない人でとんでもない目にあっていたってことが判明。勇んで駆けつけたは良いものの、とんでもない事態にさてはてどーたいしょするかって辺りでタイトルにもある卓球が登場することになる。今時な女子大生の歌声サークルって突飛さに、今さらな卓球ってゆー突飛さが重なって、さぞや爆裂したおかしさに溢れた小説なんだろーかと期待したんだけど、繰り出された意外性のあるガジェットなり、唐突過ぎるシチュエーションがその時点での意外性なり唐突さに留まっていて、それらが畳み掛けられ爆発し暴走する中でぐっちゃんぐっちゃんにされる愉快さがあんまりないのが気にかかる。「激突・カンフーファーター」「ショットガン刑事」とかと比べるのはタイプが違い過ぎるのは承知だけど、でもやっぱりもーちょっと、ニュアンスに不思議さ理不尽さを込めてくれたら読んでて脳味噌コネコネされたかも。

 運命的な出会いみたいなことをサラリと、それもまとめて流す面白味は瞬間確かにあるけれど、読んで気持ちをググッとさせられるのややっぱり山あり谷ありの中で次第に結束していくドラマ、だったりするから悩ましい。それをやったら正直、文庫1冊じゃあ収まりきらないんだろーけれど、やっぱり何かもったいない気がする。まあ来月も新刊「フォー・マイ・ダーリン」が刊行され再来月も「天使のベースボール」が刊行と、立て続けに新刊が出せるくらいに筆の速い人っぽいんで、書きまくる中からこーいったのもひとつのスタイルだってことを読む側に納得させてくれるんだろー。その意味で期待。3月20日刊行の伊東京一さん「クロスオーバー」には更に期待。

 もちろん去年のうちに買ってはあったんだけど、本が読めない読めても漫画暗いが関の山なサイクルのどっぷりとはまってしまってた関係で、なかなか手が出なかった古川日出男さんの「アラビアの夜の種族」(角川書店、2700円)をやった読む。読み始めたら何のことはない一両日の間に一気呵成に読んでしまったのには我ながら驚きだったけど、ページをめくる手を休めさせてくれないってゆーか、次から次へと繰り出されていく物語の先を知りたいとゆー欲求にモロ訴えかける展開力に引っ張られてしまって、夜も寝る間を惜しむくらいに没頭させられてしまった、って夜はしっかり眠ったけれどね。

 ”これは物語のための物語だ”とか冒頭に引っ張っておけば適当な書評だったらまとまってしまいそーな内容で、まあ、実際にそーだったりする部分が多いから仕方がないんだけど、さらにつけ加えるんだったらやっぱり”読書は1日1時間”ってことになるのかな、あんまり本ばっかり読んでると、本の世界から抜け出せなくなるよってゆー警告を、読子・リードマンを筆頭とする世の書痴な人たちに向かって放っている内容には、別に読書家でもないけれど(読書家だったらこの本を買ったらすぐ読んでるはず、その匂いに誘われて)、読んでいてどんどんとページが進んでいくそのペースの速さ、でもってラストに近づくに連れてもっともっとこの時間に浸っていたいと思い込まされてしまった内容に、読み終えて我に返ってやっぱりやばいと思ったから。

 中身的にはナポレオンが攻めて来るってんで戦々恐々としているエジプトが舞台。閣僚連中の上から3番目くらいのイスマーイール・ベイに使えているアイユーブって男が、ナポレオンを撃退するには読むと溺れて他のことが手につかなくなる「災厄の書」ってのを読ませてやれば言いって主人に進言して、けれども本当はそんな本はなくってしゃーないんで物語を代々の生業だかにしてきたらしー「夜の種族」を連れてきて、「災厄の書」をでっち上げるために語らせたのが一応の3部から成る本編ってことになる。その中身がまたファンタジックでホラーっぽくってミステリアスなんだけど、それは読んでもらうとして、気になるのはこの本すなわち古川日出男さん著とゆー「アラビアの夜の種族」の成り立ちそのもの、ってことになる。

 冒頭にどっかで引っ張ってきた翻訳書って明記があって末尾にあとがきっぽく「仕事場にて(西暦二〇〇一年十月)」なんて章が設けられているんだけど、正直言って何か怪しい。そもそもが、フランス語版「災厄の書」と作るんだなんて言ってその実まっさらの「災厄の書」をでっち上げ、その過程で1冊しか存在してはいけない本だから翻訳したら元本は破棄するのが習わしだ、なんてアイユーブに言わせてたりする辺りから漂う、胡乱な匂いをあるいはかぎわけていくことによって、本ってものが持つ永続性とか、物語ってものがはらむ魔性とかってものを説いた中身に、身をもって迫れるのかもしれない。その意味で、世の本読みにとって自覚と自虐を促す挑戦の書って言えそー。

 「夜の種族」が語る物語自体はまあ、読んでいるうちはジェットコースターとかトロッコとかに乗せられ猛スピードで突っ走らされている感じがあって、圧倒的に楽しいんだけど、後で振り返って残るロマンとか、感動とかがあるってゆーとちょっと違うんで、そーゆーのを期待する人にはあんまり向いていないかも。まあ、物語なんてものは一夜の感嘆を得られればそれで役目は果たすんで、読んでいるうちは面白い、ってことでも別にぜんぜん構わないのかも。高貴な出ながら泥棒盗人詐欺掏摸等々の一家に育てられた青年が途中、妙に純朴で無垢な性格に変わってしまったのがちょっと不思議。醜い魔王も白子の魔法使いもぜんぜん変わらないのに。


【1月19日】 「フェッセンデンの宇宙」ほどじゃないし「シム・アース」ほどでもないけど神の視座、みたいなところから惑星上での文明の進歩をあれこれやって促して、星を目指せるまでに育て上げるなんて役割を与えられたさてはて、どんな気持ちになるんだろーかやっぱり神様っぽく気まぐれから文明を洪水とかに溺れさせてみたくなるんだろーか、ってなことを小川一水さんの「導きの星1 目覚めの大地」(角川春樹事務所、800円)なんかを読みながら考える。もっともこの話の主人公は神様ってほど絶対者じゃなくって、いずれは進化するだろー文明をちょい、後押しする程度のことだから、雷を落としたりとか命を救ったりとかいった、神様気分はあんまり味わえていないのかもしれない。

 地球人だけがどうやら宇宙に出るまで文明を発達させることが出来たらしー未来、あちらこちらの星に行って文明を宇宙に出られるまで育てるのが地球人の使命となって、その使命をまっとうすることが仕事の「観察官」って役職が生まれたんだとか。で、主人公もそんな「観察官」の新米としてある星へと派遣されたんだけど、いっしょに仕事することになった3人のアンドロイドの美少女がどうにもとっちらかった性格で、おまけに何やら不穏な動きも背後にあって、ちょっと大変なことになりそーな予感。果たして新米「観察官」は無事に任務をまっとうできるか、って辺りがこれからの読み所になるみたい。

 神様的にあれこれいじくるんじゃなくって、既存のパラメータをちょいいじって、火を使えるようにして鉄を鍛えられるようにして大航海へと出られるまでに文明を育てる、ってあたりは「シム・アース」なんかよりむしろ「エイジ・オブ・エンパイア」に近いのかな。あんまり近くないか。進んで行くちょいペースがはやいのが気にかかるし、ゲーム感覚っぽい部分が垣間見えるのも意図的なんだろーけどやっぱりちょっと不遜な感じも。ただそんな不遜な感じを感じとして味わわせつつ、文明がどんな感じに発達していくのかを絵巻物のよーに見せて勉強させるって意味で、昔の学習まんが的な役割を果たす小説になるのかも。どこまで行くのか先に期待。村田蓮爾さんの女の子は相変わらず小憎らしくって可愛いなあ。

 改装なった竹橋の「国立近代美術館」へ。4階だかにあったコーヒースタンドの脇にある窓越しに科学技術館を正面に見ながら高速道路を流れる車を眺めるのが、東京へと出てきてこっち1番か2番にお気に入りのロケーションだったんだけど、改装の結果その窓はなくなってしまっていてちょっとがっかり。ただ同じ階の反対側の皇居を眺められる方角に大きな窓が作られて展望室になっていて、革製の椅子が並べられて日当たりもよくって本なんか読むのに絶好のロケーションだったのが嬉しいところ。タダでは入れないし飲食禁止なのが残念と言えば残念だけど、折角なんでこれからちょいちょい時間つぶしに使わせてもらうことにしよー。

 展覧会は近代の美術総まくりな内容で、古賀春江さんの潜水艦が描かれている例の有名な絵とかがまた見られて個人的には嬉しいところ。あとこの美術館に永久貸与って形で預けられてはいるものの大部分がお蔵入りになってしまっているらしー「戦争絵画」の一部が、ホンのちょっとだけどまとめて展示されているのが注目か。これは何時いっても見られたんだけど藤田嗣治さんのサイパン島玉砕を題材にした絵が飾ってある、その正面に鈴木誠さんって人の防空演習だかを題材にした絵が飾ってあって、比べてみると同じよーに戦争を称揚し戦意を鼓舞する「戦争絵画」だって言われていても、描く人の心根にずいぶんと差があったんじゃないかって思えてくる。

 改めて見た藤田さんの絵はとにかく凄い凄い凄すぎるの一言(三言じゃん)。バンザイしながら人がどんどんと飛び降りている断崖絶壁の脇に座ってある男はハラキリをしよーとしているし別の男はライフルの先端を口に充て引き金には伸ばした足の指先を入れて自決しよーとしている。その脇では男が日本刀だかを振りかざしていて下には倒れた女性がゴロゴロ。どんよりと曇った夜の空には機銃だかの曳光が幾重にも走り、遠く山の上には日の丸の旗が小さくひるがえっていはいるんだけど、その下の方では爆弾が落ちたばかりなのか光が輝いていて、今まさに落ちようとしているよーな印象を受ける。

 そんな絵から受けるのは自決の潔さなんかじゃ絶対にない。死に行く人の悲惨さ、そうしなくてはならない戦争の残酷さ、以外の何物でもない。今だからそう言えるんじゃなく、当時だってそう思うしかない絵だったんじゃなかろーか。ひるがえって鈴木さんを含めた他の人の絵の、描かれている人物の誰1人として汚れてもいなけっれば傷ついてもいないことか。女性は美しく男性は凛々しく仕事にはげみ奉仕に励んでいる姿しか描かれていないその絵には、欲しがりません勝つまでは的な国家総動員的ニュアンスが存分にあふれている。

 藤田さんがだから正しかった、って果たして言えるかどーかは分からなくって、他の絵だと同じよーに綺麗な日本人を描いているかもしれないんで、ここはやっぱり「国立近代美術館」は、椹木野衣さんたちの運動を受け入れて、収蔵しているすべての「戦争絵画」をまとめて展示する部屋を作って、そこに如実に描かれている当時の心性をつまびらかにして、今に明らかにすべきなんだと思うけど、戦争が悲惨なものだったとゆー事実が案外と忘れられてしまいかかってる現在、藤田さんのよーなあからさまな絵は別にして、戦争の悲惨さがカケラも出ていない、美しく凛々しい人たちの姿が描かれている絵をもって「日本人の美徳」なり「戦争の正直さ」めいたことを言い出し輩が出ないとも限らないんで難しいところ。あの戦争の記憶がまだかろうじて残っている今こそ、描かれているものとの齟齬を伝える最後のチャンスのよーな気がして来た。

 並べられた他の美術館のチラシを見て「東京都現代美術館」で森万里子さんの個展が始まったってことを知って木場へと回る。チケットを買おうとしたらパソコンでバーコード入りだかのチケットをプリントアウトする「現美」に独特の発券システムがダウンしてしまったらしく、3分待っても5分待ってもチケットが出てこない。おそらくはホストがダウンしてるんで受付にある端末レベルでこちょこちょやったって無駄だろー、ってなことを言ってやったのに現場で取り繕おーとして「もうしばらくお待ち下さい」「あと2、3分で直ります」なんてことを言い出したんで、ここは大人に待っていたけどやっぱり直らず、ちょっときれかかる。

 結局はどっかから前売りチケットだか招待券だかを持ってきて、それを現場で売るよーに変えたんだけど、そこに至るまでに15分近くを費やした辺りに、自分たちにとって都合のよいパソコンでのバーコード入りチケットの発券をまず第一に考えて、チケット売場の前で並んで待っている人が何を求めているのかを考えられない、マニュアル化され硬直化して融通のまったく聞かなくなってしまったシステムの問題点が見える。石原都知事が着任してスピーディーな行政がどうとかサービス精神が大事とかソフト面の充実が大切とか言ったところで、所詮は親方日の丸な行政の出先機関、こーゆー部分でボロが出る。高嶋哲夫さんの「都庁爆破!」に描かれる都知事のリーダーシップもやっぱり画餅に過ぎないんだろーなー。

 とは言えチケット売場で待っていたのも決して悪い事じゃなかったよーで、並んでいるうちに、あの浅田彰さんらしき人がやって来てはインビテーションで会場に入っていく姿を発見。よーやく買えたチケットを手に後を追い、3つ目くらいの部屋で追いついてよく見るとやっぱり浅田さんだった。後は美術館によくある見る速度に前後して抜いたり抜かれたりしながら、だいたいの展示を眺めていくことになって、例えば3D眼鏡をかけて立体映像を見る作品では同じ暗室に浅田さんと連れの編集者か誰かと僕との3人が入る、なかなに贅沢な体験をすることができた。

 作品自体は森さんが天女になってCGの脇侍だか如来たちだかを周囲に従え、歌を唄うキッチュにゴージャスな作品で、そのベタな感じに苦笑していたら、やっぱり浅田さんたちもおかしがっていてそうかなるほど別に現代アートだからって、笑える物なら笑っても良いんだと得心する。花びらが散る場面なんかは手前にちゃんと花びらが流れて来る感じが味わえて、3D映像を使った作品ならではの良さを感じる。あと3D映像だけあって森さんのふくよかなバストがちゃんとふくよかに見えたことにも感心。技術の有難みを強く感じる。

 今でこそ1000年以上もの時を経て渋くシックになてしまった飛鳥天平白鳳な美術品だけど、当時は金色銀色朱色等々がふんだんい使われ、相当にゴージャスだったってことは想像に難くなく、そんな当時の雰囲気を取り入れ今風な素材なりで見せた森さんの作品は、目にまぶしいくらいの色使いに加えて森さん自信のキッチュでゴージャスな雰囲気が加わって、俗っぽくってなのに神々しいとゆー、不思議な感じを体験させてくてる、もう笑うしかないってゆーか。アクリルとかの素材が使われた夢殿は、なるほどシンプルで清浄で綺麗なんだけど、どこか空虚で紛い物っぽい雰囲気があって苦笑がこぼれる。

 天上から光を採光して光ファイバーで中へと引っ張り蓮華みたいなドームの中を照らす作品も、モチーフの聖性と技術の無駄遣いっぽい俗さが入り交じった感じがやっぱりおかしい。石庭よろしく白い岩塩を敷き詰めアクリル製だかの飛び石を渡した大がかりな作品も、日本的なモチーフの今風な解釈だと喜びつつ、しょせんはフェイクに過ぎない現実にやれやれって感じも浮かんで、どっちつかずの曖昧な気持ちにさせられる。まあ、所詮はフェイクなのに昔風に似せよう似せようと背伸びする、戦火で焼けて再建された天守閣とか放火で燃えて再建された金閣寺よりはよほど潔さにあふれてはいるんだけど。

 新人っぽいアーティストを集めた「Motアニュアル2002」って展覧会へと流れて見ていたら浅田さん一行が登場、たぶんメインだった森万里子さんだけじゃなくってちゃんと他の展示も見ようとするところに熱心さを覚える、後で常設展の方ものぞいてたみたいだし。「Motアニュアル2002」では最初の部屋にあった今村哲さんって人の作品がなかなかで、キャンバスにアクリルで描いた上から蜜鑞で固めた作品の、森さんみたくバカスカお金はかけられないんだけど工夫して素材感を出しつつ、絵画作品としての特質もしっかり維持している手法に好感が持てた。

 今村さんの「最後の夢」シリーズには、ピカソが見た夢とかコンピューターが見た夢とかって絵があったんだけど、中に1点「金城哲夫が最後に見た夢」ってのがあって、それだけがコンクリートで固められたカンバスに、ボンヤリとウルトラマン的な色彩とフォルムが塗り込められている感じになっていて、ウルトラマンってゆーイコンに憧憬をくすぐられつつも、コンクリートに塗り固められたウルトラマンってゆーモチーフに、数々のヒット怪獣を生み出しつつも沖縄へと帰ってそこで亡くなった脚本家、金城哲夫さんの苦悩なんかが感じられて、見るほどにあれやこれや考えさせられる。浅田さん一行も何か気にかかってるっぽかったけど、どーゆー印象を持ったんだろー、どっかに展評とか出るのかな。


【1月18日】 いやなことがあったんで忘れてしまおう、って人間はよく思うし実際によくやってしまうらしーけど、それが行き過ぎるとどーしても周りの社会とのズレが出てきて困ったことになってしまう。自分では全然変わっていないよーに思っても(忘れてるんだから仕方がない)周りから見るとちょっとズレて映るとかそんな感じ。藤野千夜さんの芥川賞受賞第一作、ってゆーから随分と本を出してなかったんだと気付き、それが何でまた書き下ろしで理論社から出るんだろーかと考えてしまった「ルート225」(理論社、1500円)を読んで思ったのは、そんな人間の心の不思議とか、ズレてしまったからこそ浮かび上がって来る生きていくことの大変さ、みたいなものだ。

 姉と弟がいて帰ってこない弟を迎えにいった姉が公園のブランコに座っていた弟を見つけてひとしきり、学校でのいじめの話とかで盛り下がったあと、公園を出たらそこは大きな川の流れる知っているよーで知らない世界。出会ったのは弟の同級生だった、今はもう絶対に会うことの出来ない少女。もしかしてここは? と悩んだ挙げ句、とりあえず公園へととって返してもう一度、外へと出たらとりあえずそこは元いた世界と同じ世界だった、ように見えた。けれどもやっぱり違ってた。両親が消えていた。会えないはずの弟の同級生もちゃんといた。仲がちょっとだけ悪くなっていた親友を仲直りが出来ていた。

 と、書くとなんだかパラレルワールドへと迷い込んで悩む姉と弟の話っぽく見えるけど、考えようによっては例えば両親がいなくなってしまったとゆー姉と弟の主観的な事実は、両親をいなくしてしまった姉と弟の行為が背景にあったりして、それを忘れてしまいたいがために、記憶をねじまげ消去してしまったのかも、だから主観的な記憶と現実との間にズレが生まれてしまったのかも、なんて想像も浮かんでちょい、身震いしてしまう。そこまでいかなくっても、両親の失踪とかゆー重たい現実を受け止めきれずに自ら歪んでしまったとか。

 まあ、その辺りについては別に説明がある訳じゃなく、そんな想像を喚起させる描写もないんでちょっと穿ち過ぎ。むしろやっぱり本編では、パラレルワールドへと落ち込んだ姉と弟が直面するズレた世界での暮らしの中から浮かび上がる、友人との仲直りが出来てしまっていたことから感じる仲違いとゆー状況の他愛なさとか、逆に両親がいないことを除けば平穏無事な暮らしから感じる前にいた世界のキツさとか、そーいったものを改めて認識してはふりかえって代えられないこの現実、公園に行ってブランコに乗りさえすればどこか別の場所に帰れるだなんて妄想の抱きようのないこの現実を、どう受け止め自分が合わせるなり、自分に合わせるなりするかを考えた方が良いのかも。ピンクのカバーに緑の帯、カバーには穴があって下の黄色い地がのぞき、そこからさべあのまさんのイラストがちょっとだけ見える装丁が可愛くって好き。

 実践ぢうよう。アメリカのブッシュ大統領が食って喉を詰めたとかゆー「プレッツェル」なる食い物を「大手町ビル」の中にある明治屋で購入、貼ってあった「よく売れてます」ってPOPはもしかして、アメリカから伝わったニュースに近所からこぞって試し食いのために人が買いに来た現れだろーか、なんて想像したけど単に流行ってただけかもしれない。それはともかくこの「プレッツェル」、テレビの「ニュースステーション」だか何かだとグニャリを丸形になって、周囲にゴマだかがポチポチと突いた形状が喉に詰まった原因みたいなことを言っていたけど、実際に食べてどーも違うんじゃないかって思えてきた。

 そもそもがこの「プレッツェル」、まずバリッと噛むだろー普通一般的なモノの食べ方から考えると、丸のまんま飲み込む思えなかっただけに、それでも喉に詰めたってことは或いは、噛めないくらいに硬いんだろーかって想像がまず浮かんだ。で、袋から取り出して噛んだ印象は「別に硬くない」。むしろビスケットよりも柔らかいくらいで、どーしてこんなもん喉に詰めるんだろーと不思議に思ってモグモグやってた次の瞬間、「ああ、これなら喉に詰まるかも」ってゆー思いが浮かんできた。

 なるほど「プレッツェル」は柔らかかった。けど水気がまったくなくってパサパサだった。1つだって喉越しに引っかかって水が欲しくなって来たくらいで、もしも2つ3つ摘んで口中へと放り込んでムシャムシャやったら、誰だって喉に詰めてしまうだろー。榎木津だったらカケラを口にしただけで、絶対に激怒して弟子の1人2人ははり倒しても不思議じゃない。「ニュースステーション」だか何かで手に取り回りのツブツブを差してあーでもないこーでもないって言ってたけれど、1つでもいーから食べてみれば、どーしてこれが喉に詰まる食べ物なのかってことも分かっただろー。その意味でやっぱり実践はとっても重要だって言える。

 まあ、実際のところは単純に噛まずに飲み込んだ事が理由かもしれないんで、あんまり突っ込むことはしない。親から「ちゃんと噛め」と言われていたって話も伝わってるし、記者団に配った時にも「よく噛もう」って紙を貼ったらしーんで、あるいはそっちが本当の理由って可能性もあるけれど、ただ噛んで噛んで噛み込めば唾液も混じって飲み込みやすくなるみたいなんで、やっぱり適当に噛んで飲み込もーとしあっ時に起こったつっかえが原因だったのかもしれない。ともかくもここであーだこーだ言っても誰も信じてもらえそーもないんで、とりあえずは食べてみろ、んでもって喉に詰まりそーかどーかを経験してみろと言って置こう。水だけは手元にちゃんと用意しておくこと。


【1月17日】 「SPA!」の2002年1月21日号が届いたんで「なぜ、ボクらはいつのまにか泣ける(けどヌケない)エロゲーにハマってしまったのか!?」の中の斎藤環さん東浩紀さん伊藤剛さんによる対談「なぜエロよりも『泣き』が消費されるのか?」を読む。うーん記事がどーのこーのってことよりも、またゲームが泣けるかどーかよりも東さんは先にやっておくことがあるよーな気がするなー、気のせいかもしれないしうつむき加減ってポーズの問題かもしれないし撮り方の問題かもしれないけれど、ちょっとね、ホッペがね、マリネラ国王気味。伊藤さんはちょい白髪が目立つよー。年末年始の忙しさにやや疲れ気味ってことなのかな、もちろん白髪以前の無髪よりは全然良いんだけど。斎藤さんは最年長なのに一人で妙に若々しい。羨ましい。あやかりたい。そりゃ無理です。

 パソゲーもエロゲーももちろん泣きゲーも無縁な身には読んで興味深々の記事ではなかったけれど、掲載されてる絵的な面で「Kanon」の紹介分の下側の絵の、寝ている女の子がカエルの縫いぐるみだか枕を抱えているシチュエーションからムクムクとわき起こる”幼児的なモノへの情愛を引きずる少女の戸惑い”めいたストーリー(もちろん勝手な想像で実際のストーリーは違うんだろーけど)なんてものに先回りしてホロリと来てしまう。これは漫画でも読んでいたからある程度は分かるけど「たい焼きを食い逃げする少女」って設定に来るうぐぅな、じゃないジンとする感じもなかなか。「たい焼き」ってのがね、やっぱね、ポイントなんだろーね。

 戻って対談の方で斎藤さんが「常々『ひきこもりはオタクになったほうがいい』と言い続けているんですけれども」って言葉に引くならば、ずっとひきこもりな生活を続けていて、最近よーやく自活を始めて家庭教師や訪問活動や地域通貨に関する取組なんかをしながら自分の経験について語っている上山和樹さんって人の書いた「『ひきこもり』だった僕から」(講談社、1500円)って本の中に「オタク」と「ひきこもり」の違いについて書いてる一文があって、それによると「本人が安息感を得られるような快感の回路を、会得しているかどうか」(138ページ)って部分が両者を隔てる分水嶺になっているとか。

 たとえ趣味が多彩でも「自分の状況を『苦しい』と感じているなら、それは『ひきこもり』ということではないでしょうか」(139ページ)ってことらしー。「SPA!」の記事の欄外だと「物質や情報を消費する生活によってコミュニケーションが成り立つ『オタク』的な生活を送ることがある種、訓練になるとか」(51ページ)ってことになっているけれど、おそらくは快感の回路を見失ってしまった「ひきこもり」な人に、趣味に走れ消費い浸れオタクになれと言ってもなまなか、足を踏み出せないんじゃないかって印象も受ける。その辺り実際のところどーなんだろー。「ひきこもり」世代の俊英作家に聞いてみよっと。

 微に入り細を穿つというか、仔細漏らさず場面場面の目に見えるあらゆる事象を、綴ってその情景を立体的に見せたあと、ふっ、とした感じに登場人物たちが直面した出来事を現在と、過去とを織りまぜながら描いて空気に流れを作り、何か深淵なドラマをそこに、浮かび上がらせようとしているのかと思った瞬間、スパン、と流れを断ち切って読む人に戸惑いを与えつつ、残心のなかに何かを考えさせる、そんな小説が一種パターンとなってしまった感があるなあと、そう思いながら堀江敏幸さんの短編集「ゼラニウム」(朝日新聞社、1400円)を読む。なるほど確かに上手いんだけど、それはもうとてつもなく上手くってスラスラと読んでしまえるんだけど、パターンが生むしつこさやあざとさに、読んで気持ちにちょっとだけ抵抗感が生まれてしまう。

 たとえば冒頭の「薔薇のある墓地」なんか、駅を出て向かった路地から見える風景にひとしきり描写が割かれてから、仕事の上で交流のあった女性が事故で死んだ話へと移り、途中本を紹介するエッセイよろしくクリスチアン・オステールの「アルクイユの橋」とゆー小説について語られた後、女性の死んだ話へと戻って語り手の男が立ちすくみ戸惑った場面で締められる展開が、上手さに感動させる気持ちと同時に、ああやっぱりという気持ちを引き起こす。表題作の「ゼラニウム」も、詰まったアパートの下水を直そうと、主人公の男が奮闘した挙げ句に、出てきたのがタンパックス(これが何かはお母さんにでも聞いてね)で驚き、犯人は誰だと悩みあの人かもと推理したものの、それを言うにははばかられるシチュエーションとなり、ねっとりとした空気にからみ取られていく場面でこれまたストン、と話が終わっていて、なるほど余韻めいた雰囲気の中でいろいろと考えが浮かぶけど、それはそれとしてそうした終わりにしてしまう手に、乗せられている自分が見えて少しばかり興醒めする。

 よく比較される須賀敦子さんにもある種、パターンめいたものがあったけど、描かれる人間ドラマの作者と重なる部分が堀江さんより濃かった分、読んで感情移入が出来て、飽きず浸っていられたんだろー。まあ、徹底すればパターンも形となって読んで楽しめるよーになるもので、今はたまたまパターンに気持ちが慣れていく途中の、ちょっと浮気してみたい気分の時に当たっているだけなんだろーから、堀江さんには代わらず徹底してエッセイとも小説とも、説教とも蘊蓄ともつかないしどれとも取れる不思議な散文を、綴り続けていって頂きたい。堀江流散文術、なんてものが構成の文学者によって研究されるくらいの徹底ぶりで。


【1月16日】 「第126回芥川賞」とやらに長嶋有さんて人の「猛スピードで母は」が決定、おめでとうございます、誰でどんな話か知らないけど。「直木賞」のも山本一力さんの「あかね空」と唯川恵さんの「肩ごしの恋人」とゆーラインアップで、唯川さんは女性ファンなんかが多そーなそれなりに知られた作家だけど、別に今さら直木賞を取ったからってマーケットが広がるって感じの人でもないんで個人的にはインパクトが薄い。

 山本さんに至っては長嶋さんとどっこいどっこいに印象希薄で、講評するなら近年希に見る業界雀的話題の少ない「芥川賞」「直木賞」になったと言えるかも。まあ坊主が茶髪で夫婦だったりして値うち的に評価不能な人の受賞が相次いで、話題だけには事欠かなかっただけにここで作品本意とゆー原点に立ち返って、話題はなくとも中身のある賞だったとゆーことになって来れば、学歴経歴職歴その他で抽んでたものはないけれど、作品としては素晴らしいものを書いているんだと自負している作家の方々には大きな励みになるだろー。とゆーわけで次回の候補作受賞作に興味津々、そろそろ最年少記録の更新なんてのも良いんじゃない。

 半ば便乗本的なアフガニスタンを舞台にしたシミュレーション系小説の濫造にちょい、頭を悩ませていただけに、いちおーは「サントリーミステリー大賞」だなんて名のあるエンターテインメントの賞を受賞した人が書く、今時の情勢を取り込んだ作品に本気の面白さを期待しても罰は当たらないんじゃなかと思っていたけれど、ここに実際に登場した高嶋哲夫さんの「都庁爆破!」(宝島社、1429円)の、東京都庁にテロリストが侵入しては人質をとって立てこもり、しばらく前に起こっ地下鉄サリン事件の犯人だった新興宗教の教団のトップを釈放しろとかアフガニスタンに支援しろとかいった要求をつきつけてはみたものの、そこはリスク管理の意識が徹底して抜けている日本の政府に行政、右往左往しているうちに時は刻一刻を過ぎて行くとゆー内容の、あまりな形へのハマりぶりに頭を抱えたくなる。

 人命を優先してテロリストの要求に屈したら、後で世界から非難されるとゆー可能性から自縄自縛に陥ってしまう政府の体たらくなり、そんな政府のフヌケぶりを横目に立場を超えて警視総監とか自衛隊の指揮をとってテロリストを相手にしよーと張り切る元政治家の都知事のええカッコしいな様なりの、今時な日本の政治情勢社会情勢をそっくり取り出しカリカチュア気味にして見せる描写に正直言って新鮮味はない。オウム真理教を模したと明らかに思われる新興宗教の教団も同様に教義命的なスタンスでデフォルメされカリカチュアライズされた姿で描写されていてやれやれと思う。

 さらにはテロリストがテロに走った動機の国際謀略に対する憤り的なベタさも、読んで納得とゆーよりは読んで仰天って印象が強く浮かんで、なるほど疾走する展開をワクワクしながら読む楽しみはあるけれど、またこのご時世が市民に代わって揶揄されていて溜飲を下げさせられる喜びはあるけれど、それ以上の、日本が今このご時世にうつべき対応を見せてくれて気持ちを引き締められるとゆーことはなく、この国への不安は浮かんでもこの国をどうしよーといった意欲は湧かず、類型的なキャラクターへの憐れみは浮かんでも、似た状況へと陥った人間を救うための言葉は浮かばない。つまりは何の役にも立たないってこと。

 もっとも、右往左往の類型的な様に「それはなんでも行きすぎだろー」ってな、武士の情け的ニュアンスも含んでの反発が浮かんだとしても、実際に起こる事態はハワイ沖での潜水艦と訓練船との衝突事件の時と同様に単なる右往左往だったりする訳で、結果的には本での指摘と大差ない可能性が案外と高く、その意味では実に現実を言い当てているんだと言えるのかも。動機のあまりに上っ面的な部分も存外に今時の人間、精神の深いところから出る止むに止まれぬ気持ちとゆーよりはごくごく表層的な部分だったり、あるいは他人からの人目といったものだったりから、反射的に動いてしまうこともあったりするんで、社会学的経済学的な厚みもなければ哲学的文学的な深みにも乏しい行動理由も、案外と今時の状況をピタリと現していたりするのかも。だとしたらニッポン、ますますお先真っ暗だなー。

 「東京ゲームショウ春」が消滅したんで冬の「コミックマーケット」から夏の「東京キャラクターショー」までまるまる半年、オタクが好きそーなキャラクターグッズがまとまって見られるイベントがなくなってしまった訳で、間にひとつあったら結構イケるかも、なんて思ってたらそこはさすがに時流に敏感なブロッコリー、文化放送を主催に据えて3月30日に「東京ビッグサイト」で「キャラクターエンターテインメントコンベンション」とかゆーイベントを立ち上げて、4月から始まる新番組のキャラクターとか大々的に宣伝してもらう場を作って春休み中のオタクの眠る財布をかっぱぎに来た。夏は夏でニッポン放送を主催に仰いで「東京キャラクターショー」をやってるだけに、東京に根城を置く2大民放ラジオ局を相手にビジネスをする、そのバランス感覚の絶妙さには感嘆するより他にない。どれだけの出展社を集められるかがカギになりそーだけど、ニッポン放送以上にアニメとゲームの番組に長けた文化放送がやる以上は、それなりな内容になると信じて……良いのかな、すべてのブースいおたっきぃ佐々木が出没するとか。


【1月15日】 地に足のつき、現実を忘れず、そして正しく反骨であるとゆー今時にあって稀有な言葉を紡ぐことで、何か事あるごとにどんな言葉がその口から発せられるのかを注目してる辺見庸さんが、このところ急激に世知辛い方向へと傾く日本の政治環境、外交環境、社会環境、言論環境についてつづったり喋った言葉を集めた「単独発言」(角川書店、1100円)が出たんで買う。

 冒頭に、あの2001年9月11日に起こった「米国同時多発テロ」に対する米国の、正義が上滑りした状況に対する書き下ろしの一文「私はブッシュの敵である」が収録されていて、米国に対するテロそのものの犯罪性はそれとして、アフガニスタンに対する空爆のすさまじさを、使用された兵器のおそらくは西側諸国では使われないだろう残虐性の面から問い、一国のみが正義でそれに反するものはみな敵であるという認識でもって、これに異論を唱える他のあらゆる言説を無効化してしまう米国の傲慢さを衝いている。

 米国の軍事的な報復活動をのみ切り出して、これは米国に対するテロへの正統な反撃であって、他の軍事行動とは峻別すべきとゆー意見が幅を利かせているのは承知しているけれど、峻別すべきはむしろ米国に反旗を翻して挑んだ同時多発テロと、これに対する報復として行われたアフガニスタン空爆で、正義の戦いとゆー錦の御旗のもとに、何百人何千人とゆー無関係な人がただアフガニスタンに住んでいたとゆーだけで爆殺され、何万人何十万人とゆー人が住む場所を失い難民となって日々の糧にも困る暮らしへと追いやられている、その現実に慄然とすればおのずとアフガニスタンに対する軍事活動の「人間に対するこれ以上な犯罪行為」(38ページ)とゆー真相が見えて来るものだろー。

 にも関わらず、目をつぶって国の元首が発する居心地の良い言説に身を委ねる、政治とジャーナリズムの根腐れぶりを見るにつけ、辺見さんならずとも頭を抱えて土に顔を埋め、暗中へと沈み込みたくなる。なるほど大塚英志さんのよーに、「サブカルチャー反戦論」(角川書店、1100円)なんて本を早急にまとめ上げては、辺見庸さん言うところの「幕が切って落とされたこの果てしない長編劇の、おそらく、まだ、せいぜい第二幕目くらい」にいながらもそのことに気付いていない、多くの日本人に対して自覚を促している人もいることはいる。

 3年、4年で通り過ぎる嵐だからと布団を被って過ぎ去る日を待つよー処世術を解く柄谷行人さんへの苦言を綴り、ワイドショー政治がもたらす恐るべき事態への想像力が欠如してしまっている今時の人たちに自律を促す言葉を吐く大塚さんの実に現実的で且つ同時代的なことか。問題は、極めて重要な辺見さん大塚さんの言説が、言説の空間の中心で世のあらゆる言説を左右する影響力を持って発信されていないとゆー現実で、左翼的に反発しよーと右翼的に肯定しよーと、どこか政治をバックに背負った発言故にバイアスをかけて捉えざるを得ない言葉であるにも関わらず、それが世のメインストリームとして語られ受け止められている事態は、なかなかに未来への不安をかき立てる。

 真っ当な立場で机上の空論じゃない地に足のついた言説を、読む人の肉感レベルにまで伝えるスキルを持った2人の一方は市井のフリージャーナリストで、もう一方はマンガ原作者に過ぎず、言論空間の中心にあって世界に多大な影響を持つ人でも、政治世界の場にあってその言説を広い範囲に伝える回路を持つ人でもないってことが、この国においての言論の根腐れぶりを見事に現しているし、辺見さん大塚さんの2人の本がともに角川書店から刊行されていて、岩波書店でも中央公論新社でも朝日新聞出版局でもないってゆー事実が、言論空間を背負って立ってるんだと自認している勢力の腰の重さぶりを的確に示唆している。

 言論の府としては決してメジャーではなく、どちらかといえば”軽チャー”を得意とした会社だと思われている角川書店の、その実リアルタイムでの状況認識に優れ、即時性をもってそーした状況に対する言説を紡ぎ出せるフットワークの軽さは、讃えておいてしかるべきものだろー。むしろ”軽チャー路線”で世間の事情に詳しくなればなるほど、世間の認識とそれほど遊離していない、地に足のついた言説が生み出せるのかもしれない。言論人が象牙の塔にひきこもるよーに、権威のある出版社の権威あるメディアで右にも左にも受け入れがたい机上の空論をぶってる姿を横に見ながら、次代の言論を導き広める役割を、あるいは角川書店あたりが背負って立つことになるのかもしれないなー。

 とは言うものの、角川書店のやることなすことすべてオッケーじゃないのは世の常。大塚さん辺見さんの2冊の本にそれぞれ挟み込まれていた広告に載っていた、「角川エンタテインメントNext賞」募集ってゆー案内を読んで、その内容の非・文学賞的な様に激しく戸惑う。なるほど1年に1回しかないチャンスに向けて作品を書き溜め推敲に推敲を重ねていく新人賞の類も良いだろう。その目から見れば、内容のジャンルは別に一切問われることなく、締め切りの期日すらない「角川エンタテインメントNext賞」を、果たして賞と言って良いのかどーかに悩む。

 ちょっと前だったらただの持ち込みとして処理され、良ければデビューさせ悪ければ没にされただろー。そーした持ち込みをわざわざ「Next賞」とゆーひとつ同じブランド内にまとめてしまっては、年に1度とゆー緊張感にふるえながらも、その緊張感がもたらす意識の高揚でもって素晴らしいプレーの数々を披露した既存の作家さんたちには、ちょっと申し開きが立たないのかも。とはいえ一方には、純粋な投稿なり持ち込みから注目を集め大成した作家の少ないことが、何らかの特定の新人賞を出版社もメディアも読者も一様に尊ぶ風潮につながってないとも言えない訳で、新人賞とゆーバリューがあって始めて小説作品を紹介する、メディアの事大主義が単なる持ち込みに賞なんて作ってしまった姿を反面教師にしつつ、何が時代の未来をつかむのか、それはどのプラットフォーム上で成されるのか……なんて妄想に眠気も吹き飛ぶ。さてもどんな未来が開けていることやら。暗いのだけは勘弁して頂きたいんだけど。


【1月14日】 いよいよもって「ミニモニ」評論の分野にも進出しては着々と、その地歩をテレビメディアの中に固めつつある岡田斗司夫さんから、冬の「コミケ」で読むよーにと宿題にされていた「30独身女、どうよ!?」(現代書林、1400円)を買って読む。得心する。そーかなるほど30独身男女の集う孤島で、僕たちが「ノンキにキャンプファイヤーをして、とりあえずの女の子が来るまでアニメの上映会をやって待って」(220ページ)いたりしているうちに何と、当の30独身女たちは「浜辺で『実は結婚しなくてもいいかも』という秘密集会を開い」た挙げ句に「いいよ」と同意され開眼し、立派に「大人の女」として島を抜けだし世界へと足を踏み入れてしまっていたのか。一緒に見ようねって思って買った山ほどのアニメのDVD、どーしたら良いんだろ(ひとりで見なさい)。

 いちおーは女性のための恋愛相談本ってことになってるけどこの「30独身女、どうよ!?」、裏返して見ればちゃんと男性に向けた自覚を促す本にちなっていて、例えば「実は男には女を見る目はないんだ。今ぼく、大事なことを言ってるよ。『男には女を見る目がない』、ここにアンダーラインを惹いてね」(162ページ)が続く一文なんか、言い得て妙な言い回しでもって世の男性に己のダメさ加減を気付かせ悔い改めさせるインパクトを持っている。まあ、これで悔い改めて「顔が良くて、若くて、頭が悪い。あとナイスバディと『オレにベタ惚れ』」じゃない30独身女でも全然オッケーな人種に変わればいいんだけど、それでもやっぱりこの本が必要とされてしまうくらい、つまりは30独身女に「大人の女」として自立し屹立せよと呼びかけなくてはならないくらい、30独身男の30独身男ぶりの磐石さにはつける薬はないのかも。かくしてキャンプファイヤーは永遠に続く。

 いやあ、想像がつきません全然。「百七十センチはゆうに超えているだろう。年齢は四十代ぐらいと思われるが、濃い化粧のせいでよくわからない。目は大きく、睫毛が長く、鼻が高い、頬骨が突き出し、顎は槍頤である。外国人−どちらかというとラテン系の−と見まがうような彫りの深い顔立ちを、ブルーのアイシャドーや真っ赤のリップでこてこてに強調しているので、ぱっと見には化け物……いや、失礼、かなり派手に見える。(中略)デブ……いや、全体に太り肉ではあるが、胸はことに大きく、Fカップはあるだろう」(17ページ−18ページ)と描写される田中啓文さん「UMAハンター馬子1 湖の秘密」(学研文庫、680円)の主人公の女芸人、蘇我野家馬子っておばはんの具体的な風貌が。芸能人で言ったら例えば誰に似てるんだろー、キャシー中島? マギー・ミネンコ? 関西弁なら藤山直美さんなんだけどラテンにはほど遠いし。

 ともかくもそんな奇天烈な風貌の蘇我家馬子の言動がこれまた奇天烈だったりするこの連作集、「おんびき祭文」なる一種講談めいた語りを芸にする馬子とその弟子のイルカが全国を回り、各地で起こるネッシーだったりツチノコだったりといったUMAすなわち「未知生物」に出会っては、大騒動を繰り広げるエピソードが描かれているんだけど、単なる巻き込まれタイプの事件って訳じゃなく、むしろ積極的に「未知生物」の出る場へと訊ねていっている節があって、馬子がどーしてそんな行動を取るのか、ってな興味から謎めいた馬子の正体へと関心が移って行く。

 1巻ではまだ年齢不詳な馬子のどーやら○○○○(字数は適当)らしー可能性が示唆されているだけに留まっているけれど、あるいは「真夏の夜のユキオンナ」的な展開なんかも想像されて、やがて語られるだろー驚愕の事実へと興味をかき立てられる。爆笑また大爆笑の田中さんらしー小説なんだけど、ナンセンスとかバカとか行った種類の笑いじゃなく、シチュエーションのおかしさ言動の突飛さで笑わせつつ、ホロリとした部分で泣かせもするあたりが普段から伝奇とか読まない人にも受けそーな感じで、木曜9時とかの2時間ドラマになっても立派にそれなりに成立してしまいそー。木曜スペシャルだったら文句無し、って当たり前か、UMAだし。ドラマになるとしたらやっぱり主演を誰にしたら良いかが気になるところなんだけど、うーんやっぱり思い浮かばないなあ。吉本で言ったら誰なんだろー、松竹芸能にならいるのかな。

 相変わらずの身も蓋もなさ炸裂な桑田乃梨子さん「蛇神さまといっしょ1」(花とゆめコミックス、390円)。祭られている蛇神さまの碑に頭突きを喰らわし、罰として蛇神さまに憑依されてしまった幼なじみの少年・大将に翌日会って、主人公の千菜が放った言葉が「大将はそんなヘビみたいな目つきじゃないしニヤリとか笑わないし『どうした』というより『どうかした?』って言い回しを選ぶもの!!」って相手の正体を喝破するもの。そのプロセスに、ホラー的な物語には必然とも言える、変わってしまった幼なじみを心配するとか恐がるとかいった躊躇やドラマは一切ない。おまけに返す大将すなわち蛇神さまの言葉も「バレちゃしょうがないな」ってあっさりしたもの。でもって慌てる千菜に「とりあえずいつもみたいに学校行け」と言う平凡さで、蛇神さまのなす恐ろしい祟りの数々にスプラッタな展開を期待した身は肩すかしを喰らう、って桑田さんにそんなスプラッタな展開を期待なんてしてなかったんだけど。

 むしろいつもながらの桑田さんぶりを存分に堪能できる滑り出しで、これは期待できると読み進んでいったらこれが大正解。祟りと知って近寄って来てはゆで卵やら生卵を与える同級生も同級生なら、蛇神さまの憑依を受け入れた大将も大将で、のんびりまったりとしたキャラクターたちの織りなす微妙にズレた日常に、そこはかとないおかしさが湧いて心がユルユルととき解される。超美麗って訳じゃないのに見て目にほのぼのと来るキャラクターたちの絵も絵だし、憑依された大将に食べられそーになったうさぎの達観した表情とか、蛇に縛り上げられて連れて来られたイタチのアセアセっとした表情とかも可愛くって楽しくって、漫画って技巧的に巧いばかりが素晴らしい訳じゃなく、話に合ってさえいればどんな絵だって上手いんだってことを改めて教えられた。篭戸寅子ってライバルのネーミングの無茶苦茶さにも”らしさ”爆発。ちょいシリアスなエピソードとか出てきて身も蓋もなさが薄れかかってるのが気になるけれど、2巻とかでは元に戻っているのかな。とりあえず期待。


【1月13日】 結論から言えば「声優コース」では「雑誌のグラビアに登場」して「打ち上げで飲み過ぎ二日酔い」になって挙げ句に「音響監督に弟子入り」し、最終的には「紆余曲折あったが、田舎に帰った」ワタクシ。続く「クリエイターコース」でもやっぱり「打ち合わせで飲み過ぎ縁通い」になって、「始めて動画を描いて感動」したものの「キャラが上手く動かずリテークの嵐」を喰らい、それでも「アニメ雑誌の描きおろしを描く」栄誉を得てさあいよいよとゆー直前、「スランプに陥り再起不能」になってやっぱり「そして田舎に帰る」ことになって結局、アニメに出ることも作ることもかないませんでした。やっぱり僕って、向いてないのかな、アニメ業界。「月刊アニメージュ」2002年2月号の付録の「成り上がりアニメ人生すごろく」はこーして1人の血迷えるアニメおたくを立派な社会人へと更正させたのでした。とかいーつつ「アニメ雑誌編集になって声優やクリエーターをストーキング」してたりして。

 その「アニメージュ」2月号、すごろくみたいな付録はまあそれとして、記事の方の占いに「タイプ別彼氏攻略法」なんてのがあって、なるほど「アニメージュ」って決して20歳から40歳の不健康な男子ばかりが読んでる雑誌じゃないんだってことを理解、して果たして良いのかそれともやっぱり違うのか。ちなみに当方、試すとどーやら「ユニーク一芸タイプ」って奴で、理想の彼氏は「ONE PIECE」の「ルフィ」とこれは「最遊記」の方なのかな、「孫悟空」とそして多分「HUNTER×HUNTER」だかの「ゴン」ってことになってるんだけど、うーんちょっと暑苦しい気が。でも勝手に暴走してってくれるんで楽は楽か、ってそーゆーもんなんだろーか、その辺「一芸タイプ」の女子に是非とも彼らでオッケーなのか聞いてみたいところ。ちなみに「撃LOVEキャラクター・サイコ占い」では「Dタイプ」でお手本になるのは「機動戦艦ナデシコ」の「ルリ」。さらには「あなたの将来に関係する人も現れそうな予感!? その日まで女を磨け!」とのお告げも出てちょっとウキウキした気分。頑張って磨こう。でもどーやって磨けばいーんだろ?

 本文の方はインタビュー「この人に話を聞きたい」に今敏さんが登場して、もっぱら前半はアニメのレイアウトについて話してる。某「パトレイバー」の主にレイアウトなんかを特集したムックに「畝」名で登場もしてたりした今さんだけど(もちろん誤植)、「パーフェクト・ブルー」でも見せた、微妙に歪めたり遠近感を操作してあったりして、写真とかビデオじゃ絶対に撮れないんだけど、それでも見ると不思議とリアルな感じを受ける、部屋の中とか空間の構成の凄みって奴が、最新作の「千年女優」でどれだけ発揮されているのか速く見たいところ。「ウソで固めた真実というか。ウソを並べて出来上がっているんだけど、それを俯瞰して見ると一個の真実が浮かび上がるというイメージで作ったので、そういう部分を楽しんでもらえればいいなと思っているんですけどね」って言っていて、お話し自体も相当に面白そう。とにかくやっぱり速く見たい、けどいつ見られるんだろ?

 巻末の「ビデオレビュー」に「怪童丸」登場。注目のあさりよしとおさんはやっぱり星1つ、でした。曰く「スタイルの目新しさをアイディアの意外さはある。でもそれだけ」。言い得て妙。ちなみにぶるまほげろーさんも星2つ。「胸躍らせたのも束の間。専門学校性レベルの演出が続く本編は苦痛の極みです」。ある意味あさりさんよりキツいかも。不思議なの大仏三郎さんと渡辺麻紀さん。大仏さんは「これでお話しがもう少し整理されてたらなあ」ってつまりはお話しとしてダメじゃんて言ってるのに等しいにも関わらず星3つもつけてるし、渡辺さんも「何せ説明不足。が、一番の問題は演出で、これがそうもしまらない」ってやっぱり決定的な苦言を呈していながら星3つ。まあ「一見の価値あり」って星3つの基準は、「素晴らしいんで見ろ」って意味じゃなく、とりあえず見ておけば何か感じられるって意味かもしれないんで、あるいは当人的にも一般的にも妥当な星取りなのかも。実際思ったからなー、僕も「一見の価値はあります」って。

 むくむくと起き出して「池袋サンシャインワールドインポートマート」で開催された「新春デ・ジ・キャラットまつり」へ。想像してたよーに朝から長蛇の列が出来てたみたいで、中でもTBSのブースには「デ・ジ・キャラット」のセル画を求める人の列が会場から2時間経しても出来ていて、定着した人気の底堅さを改めて感じる。「ちっちゃな雪使いシュガー」関連のグッズもあったし。もっとも並んでた人の多くがそこと「キッド」って会社の商品が目的で、あとはステージ前の良い席を押さえたいと考えた人と別会場で開催された「ブロッコリーカードゲーム」の出場者。他のブースは「でじこ屋」も20分くらい並べば商品が買える程度の行列で、会場に入るだけなら行列なんかしなくても良かったし、グッズがもらえる夜店で遊んだりイベントを眺めて時間が過ごせたんで助かった。「キャラクターショー」とか「コミケ」の企業ブースって、物販が中心でとにかく行列に並ばないと何も出来ないから、こーゆー緩いファンが楽しめるよーな企画のあるイベントってとっても嬉しい。

 フラフラしながら「でじこグッズ」がもらえる夜店を幾つかプレイ。輪投げで前から欲しかった「ほっけみりん」のぬいぐるみをゲット出来て幸せになる。これで前に買った「ぷちこ」とセットで持ち歩けるぞ。風船釣りとスーパーボールすくいはともにくじ引きが出来る数をゲットできず残年賞。それでも「ぱにょぱにょデ・ジ・キャラット」の下敷きが貰えたんで良しとしよー。会場ではあと、歩いている「でじこ」「ぷちこ」「うさだ」「ぴよこ」の着ぐるみが歩いている姿を見たり、「ぷちこ」が「ぷちこ」で「うさだ」が「ラ・ビアン・ローズ」じゃなくってやっぱり「うさだ」と色紙にサインしている姿を眺めたり、「招きでじこ」が鎮座している「でじこ神社」に賽銭を投げたり、「リク・カイ・クウ」を演じてる「P・K・O」のステージを遠巻きにして見物しながら、1時間ちょっとをそれなりに充実して楽しめた。

 それでも夜店で1000円くらい使ったし、くじ引きで500円くらい使ってるん”客単価”的には2000円は越えてそー。それでゲットしたのは「ほっけみりん」1つくらいってんだから、結果的には「良いお客様」だったのかも。前に話を聞いたアミューズメント関連の会社の人も言っていたけど、「東京ディズニーシー」なんかが爆発的な人気になっている現在、商品を買ってもらったり、商品を購入させて対価を稼ぐビジネスモデルから、時間をいかに楽しく過ごしてもらえたか、って部分の工夫に対してお金を払ってもらう直消費型のビジネスに、アミューズメントも変わらないといけないんだとか。物をそれほど買わず、実際に手に入れた物は古めの半ば処分品だったけど、それでも楽しい時間を過ごせた今回の「デ・ジ・キャラットまつり」は、まさしく物販こそがビジネスの中心でありすべてでもあったキャラクターショップが変わっていく、その兆しなりきっかけなり萌芽が見られた歴史的なイベントだった、のかも。

 「SFファン交流を考える会」を見物、ゲストとして来ていた「ライトノベル・フェスティバル」のスタッフの人に、どーして「ティーンズノベル・フェスティバル」から名称を変更したのかと小一時間ほど問い詰める、ことはしないで説明を聞く。つまりは「ライトノベル」が編集者的にも、そして作家的にも定着してるし比較論でも「ティーンズ」よりは「ライト」の方がまだ相応しいってことで変更に至ったとか。他の話題としては、方法論的な部分で前回のよーなセミナーっぽい雰囲気のままずっと行くのか、それともメディアミックスイベントっぽく物販やらステージやらも含めつつ商業的な匂いも持ったイベントへと発展させていくのか、ってな話があったし目的の部分では「ライトノベル」を入り口にして中身的に近い部分のある「SF」へと人を送り込むための装置なのか、それとも「SF」にこだわらず「本を読む人」全体を育てて行くための入り口として位置付けているのか、ってな話があって黎明期にあるイベントならではの、未来に抱く希望願望の類が感じられてワクワクして来た。すでに定着し老成すらしてしまった感のある他のSF系イベントとは違う結果に至るかそれとも同じ道を辿るのか。3月31日に「日本青年館」で開催の栄えある「第1回ライトノベル・フェスティバル」を見て考えたい。


【1月12日】 一介の「さらりまん」に日帰り出張を伸ばして京都に滞在し、観光に歓談に勤しむ余裕も甲斐性もないんで最終の「のぞみ」のやっぱり700系とやらで空を飛びながら帰(東)京。途中、森奈津子さんの……じゃなかった西澤保彦さんの新刊「両性具有迷宮」(双葉社、1900円)を一気に読む、うーんやっぱり森奈津子さんが書いたって言いたくなるよんだなー。なるほど設定の珍奇にSFっぽい舞台でミステリーとして整合性の取れた話を繰り広げるって意味では、過去に数ある西澤さんの作品っぽさが炸裂してる。

 けれども両性具有になってしまった美女に美少女たちが繰り広げるこすったり掘ったり挿れたりくわえあったりな描写の実に官能的かつ積極的な様に、その道のプロフェッショナル、すなわちSMでもSFでも何でもござれの森奈津子さんが、自分の分身を主人公に据えて書いた話だって読んでいるうちに思えて来る。それだけパスティーシュって大袈裟なもんじゃないけれど、森さん的な雰囲気を咀嚼し盛り込む筆の才に西澤さんが溢れてるってことになるんだろー。いや凄い。よくぞここまで百合に薔薇、ソドムにゴモラの世界を研究し尽くしたもんだと拍手を贈ろー。これだけ書ければあとは実践、ですね。

 森奈津子さんが出て図子慧さんが出て倉坂鬼一郎さんが出て牧野修さんが出て柴田よしきさんが出てと、実在のSFにホラーにファンタジーな人たちがまんま実名で登場しては宴会したり莫迦話をしたりする展開の、何とも楽屋話めいた雰囲気が正直言って苦手で、森さんが美人ではあるけれどエロい話を平気でする人で、倉坂さんの本体はもしかしたらいつも連れて歩いている黒猫のミーコちゃんかもしれなくって、牧野さんは見かけは恐ろしそうな坊主ながらも喋るとギャグが止まらない人、ってゆー事実を知っていれば知っているほど、それこそご本人たちを間近に見たことのある人の方が読んでより楽しめるって感じがどーしてもあって、そーした感じを味わい尽くせないもどかしさにもどかしさが生まれヤッカミが募る。

 つまりは、お身内だけでお楽しみになって、さぞや面白いんでしょーね、ふん、って感じなんだけど、もっともそれは、イベントとかサイン会とかってな、仰げば見られる場所にあって当人たちの雰囲気なりを知っているからこそ生まれる、より詳しい人たちへの妬み嫉みの心理であって、作品と、名前でしかそーした作家を知らない人は、なるほどそーゆー人なのか、でもってそーゆーことを考えているのかってな理解をしていきながら、一種のキャラクターとして扱うだけに過ぎないないから別に良いのかも。

 実際、主役の「森奈津子」を始め猫使いなのか猫使われなのか不明な「倉坂鬼一郎」ほか出てくる作家の立ったキャラが繰り広げる痴態饗宴の面白いことこの上なく、また本筋部分のミステリー的な段取りも読んで1枚また1枚と謎が明らかになって真相へと迫っていく感じは面白く、立派に1冊のエンターテインメントとして、且つキャラクター小説として読んで楽しめる。シリーズととして描き継がれ積み重なって行けば、実在する当人たちとはさらに遊離した完全な架空のキャラクターとして、「森奈津子」ほかが立って来て、実在する当人たちとは無関係に読んで感情を注げる対照に育って来て、そんなキャラクター立ちが織りなす物語を純粋に楽しめるよーになるのかも。それにしてもホントに森奈津子さんってこんな感じな人、なんだろーか。

 「クルマ」強化月間、に勝手にしよーと「幕張メッセ」で開催中の「オートサロン2002」をのぞく、いわゆる”改造車”って奴のイベントなんだけど、趣味嗜好が多様化して、他人と同じ物よりは他人とちょっとでも違った物を欲しがる人が増え、カスタムメイドな商品が巷に溢れるよーになった昨今、マスプロな品物がすなわち正統で、カスタムな品物は異端だってな考え方自体が薄れたり消えたりしてるんだろーか、会場は別に正月の夜のハイウェイを珍走したり、峠でカメカメやったり(古いなあ)、ロータスヨーロッパをひっくり返して走ったり(古過ぎるなあ)する人ばかりで溢れ返ってるんじゃなく、まあ中にはそーした人もいるにはいたけど、大半が正統中の正統「東京モーターショー」にだって行きそーな普通のクルマ好きな人たちばかり。クルマの改造って行為が依然は醸し出したワイルドだったりヤンキッシュな雰囲気はなく、むしろホビー関連のイベントに近い雰囲気が漂っていた、よーな気がした。

 驚いたのは「トヨタ」「ニッサン」「ホンダ」「ミツビシ」「マツダ」ってな日本を代表するマスプロダクツの自動車メーカーもこぞってブースを出していたこと。前からずっと出ていたかもしれないけれど、結構なスペースを取ってしっかりを商品を展示していた、ってゆーかカスタムカーのイベントに展示できるだけの内容を持った商品を各社がちゃんと揃えて来ているって辺りに、多様化するニーズをどう掴もうか、ってことに強い意欲をメーカーであっても示さざるを得ない、今の消費者の志向が見て取れる。”不良”のやることだってことで決して推奨していなかったクルマの改造に、今はメーカー側がお墨付きを与える時代。それだけクルマ文化が進んだってことなのかな、単なる消費者の我侭への媚びなのかな。

 まあ「ポルシェ」とか「フェラーリ」とか「メルセデス・ベンツ」っていった、製品として送り出す決してラインアップ数の多くないクルマだけで、確固としたステータスを得ているメーカーが、わざわざカスタムを自社で用意して出すなんてことをしていないのを見ると、日本のメーカーが自分たちの主張に自信を持てないってことを表すよーに、様々なバリエーションを送り出しているよーにも思える。まあ、きめ細やかなサービスを低コストで提供出来るのが日本の強みでもあり美徳でもあった訳で、大きな体なのにしっかりと小回りを聞かせる技を知恵で繰り出して、この難局を乗り切って行くんだろー。「ミニ4駆」あたりで育った世代が大人になれば、改造は当たり前でパーツが少ないメーカーはそれだけでダメ、ってことになったりするのかな。

 メーカーの本気度はコンパニオンにも現れてて、天下の「トヨタ」のブースに立ってたコンパニオンの質の高さと言ったら、かつては主役だった他のカスタムメーカーのコンパニオンを遥かに凌駕していた感がある。目の肥えたカメラ小僧たちにもそー映ったのか、ブース内で愛想を振りまくコンパニオンを囲むカメラの数はおそらく全ブース最高で、場所を変えてポーズを取るたびにそれこそ数十人がゾロゾロと、後を着いて行ったり来たりする始末。誰も自動車なんか見ていないのはちょぴり困った自体だけど、今さら「トヨタ」がアピールすることもないんで、ここでコンパニオンの質でもって、将来のオーナーたちに好印象を与えて置くだけで目的は存分に果たしたってことになるのかも。個人的にはどっかののメーカーのショート着物にルーズソックスのコギャル風コンパニオンとか好きだったけど、「トヨタ」の王道の前にはやっぱり色物になってしまったなー。


【1月11日】 そうだ、京都へ行こう、と急に思い立った訳では別になくって、前から入ってた取材のためにほとんど1年ぶりに京都へ「ポケモン」を狩りに行く。流石は「700系」新幹線だけあって速いはやい、まるで空を飛んでるよーな速さでもしかしたらホントい飛んでたりしたのかもしれないけれど、昔だったら名古屋までかかってた時間にちょい、足したくらいで京都まで行けてしまうなんて日本の鉄道技術、やっぱりなかなかに世界の最先端を行ってると言えそー。これでこの速さだったら次の800系では新大阪まで2時間ちょっと、1200系あたりでは1時間、2400系列では30分になって28800系10分56K5分系64K系3分1M系10秒とモデムのよーテンポでどんどん新幹線も進化して、いく訳はないか。

 昼過ぎに到着。時間がちょいあったんでまず、お東さんこと「東本願寺」を見物、鳩に豆をやってるカップルの肩に頭に鳩が群がる光景に、お寺の鳩だけあって殺生されないと理解してるんだろーかと考え込む。京都駅から地下鉄を使おうかな、って感じで御所に向かってどちらかと言えば右よりにポジションを取ることが過去に多くって、あと四条河原町とか繁華街の方面へと向かいたい意識とかあったりすると、近いのはどーしても「東本願寺」ってことになってそっちが気持ち的にメインかな、って実は思っていたけれど、なおも時間があったんで東も見たなら西も見ておこうと地図を見て吃驚。「西本願寺」の場所に堂々の「世界遺産」って文字があって、無印の「東本願寺」とは違うのだ3倍偉いのだ、ってなオーラを放ってて、京都タワーの側にあってすぐ行けるってだけで東方に軍配を上げていた我が身をちょっとだけ反省する。西万歳、けど実家のある辺りの寺って西だったか、東だったか曖昧なんで、確かめるまでは水入りってことにしといてやろー。

 けど流石は世界遺産だけあって「西本願寺」、雨露から建物を守るため、中国の兵馬踊とか平泉の黄金堂みたく御影堂の上に立派な天蓋が作られて……いた訳ではないのね。「平成の大修復」ってことで1800年以来、200年ぶりとなる大修復が行われている真っ最中とかで、屋根瓦とか卸して修復する必要もあって巨大なお堂を覆うさらに巨大な天蓋が建設されていたみたい。河原だけで11万5000枚とかある巨大な御影堂の修復、3日とか3カ月とかで出来るはずもなく3年でだって全然足りず、実に10年とゆー長い時間が全行程に充てられているとかで、今年が平成14年だから平成20年まで残り6年、まあちょっとはそれより前になるだろーけど数年先までは行っても巨大な御影堂は見られないのかと思うと、今まで「お東さん」ばかりに寄って「西」に寄らなかったことが残念になる。

 もっとも修復中の今だからこそって楽しみもあるよーで、ひとつは修復中の瓦を皆さん、是非ともタワシでこすって綺麗にするお手伝いをしてやってちょうだいね、ってなコーナーが境内に作られていて、何百年も前の瓦をタワシでごしごしとやれる遊び(遊びじゃないよ奉仕だよ)を体験できる。力を入れすぎて割ってしまう人とか出ないかって心配はあるけれど、触れた感じ結構頑丈そーで、流石は巨大なお寺の瓦、ちょっとやそっとじゃ割れるもんじゃないのかと感心する。そんな頑丈な瓦を10万枚以上も支える建物の堅牢さにも驚くけれど。

 もうひとつは、ああらしく葺く瓦に自分の名前を書いておそらくは次ぎの修復がある200年後まで、良ければ1000年とかの先まで名前を残しておくことができる点。もちろん1筆に1万円とか寄進がかかるから気軽に出来る類のものではないけれど、テーマパークとかに行ってライドで騒いで30秒、後には興奮と思い出が残りました的アトラクションで騒ぐんだったら、1000年の期間に挑める「西本願寺アトラクション」に挑戦してみる方が、後々まで、それこそ死ぬ寸前まで楽しめそー。手持ち不如意で今回はパスしたけれど、平成17年から葺きが始まるみたいで、それまでだったらまだまだ間に合うのかもしれない。機会があったら挑戦、してみよー。ふと思いついたけどそこで「ビンラディン」とか書いておくとやっぱり、仏の加護がウサマ・ビンラディンに及んでイスラム教徒の彼をして寝覚めを悪くさせてしまって、世界平和の一助とかになったりするのかな。書いた途端にこっちに仏罰が下りそーなんでやらないけどね。

 寒いと聞いていたのに案外とポカポカした天気の中を南に下って今度もやっぱり「世界遺産」の指定を受けている、こちらはこちらで名所として名高い「東寺」まで歩いて行って見物する。拝観料を取るだけあって見所は多くって、まずは1635年に再建されて以来の古さを誇り当時のものとしては高さも最高らしー五重塔を見物、浅草のより値段的に高そーに見えて京都って街の伝統を改めて強く感じる、って比べる相手が違うか。名古屋の八事の興正寺の塔とかって何時くらいのだったかな。続いて来れまた国宝の金堂を見て中の国宝だか重要文化財だかの仏像を見て、それから講堂へと回ってこちらは国宝の十二神将の像とか眺めて土門拳的な、ってゆよりは「見仏ブラザーズ」的野次馬気分に浸る。上野の美術館とかで展覧会とかで見る国宝の仏像も悪くはないけれど、やっぱりいる場所にいるのを見る方が面白いし功徳もありそー。リアルな裏付けを持ってリアルな功徳もある”テーマパーク”京都。住んでたら毎日が楽しくって仕方なさそーなんだけど、住めばやっぱり違っちゃうんだろーなー。遠くにありて想い続けられるうちを花と思おう。

 十条まで「近鉄奈良線」をひと駅だけ乗って行った先で取材して京都駅へと戻って雑談して帰途へ。行く度にあの北から南へ吹き下ろして来るよーな悪い気を、ぜんぶせき止めて南へと逃がさない京都駅の威容に身震いする。名古屋駅が巨大なツインタワーを立てた結果、これまでもこれからも街の中心部であり続けるだろー栄と、岐阜や岡崎といった近隣都市から人を集めて新しい中心部として再びの繁栄を掴むだろー名駅の2カ所に人の集まりが分散して、良いバランスになっていたのと比べると、折角の巨大な建物が人を集める訳にまるでたってない(怪獣は集まったけど)現実に、都市づくりの難しさを感じる。

 もしもこれが安藤忠雄さんの設計だったら、どんな街になったんだろーかと想像するけれど、東京都庁が丹下建三さんじゃなくって磯崎新さんだったら、って想像しても難しいよーに、やっぱり現実に出来てそこで繰り広げられるだろー出来事を見た上じゃないと、地勢的なり気風的な部分への考察なんかも含めなくっちゃいけないこともあるんで、良し悪しは判断が難しい。ただ現実問題、問題がありそーなことはありそーで、その辺りどんな対処をするんだろーか、ってのは興味を抱きつつ見ておく必要がありそー。壊した途端に貯まっていた悪い気(不景気とも言う)が南へと下がって「ポケモン」なビルにも及んで業績に災いと成したりしたら困るんで。


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