縮刷版2002年11月下旬号


【11月30日】 夢枕獏さん原作で絵を岡野玲子さんが描いているコミック版「陰陽師」の11巻を本屋さんでレジまで運ぼーと持ったら手首が折れた、よーな気がした、いや分厚い、マジで分厚い、こんなに分厚いとさぞや中身も面白いんだろーかと思ったけど、いよいよ晴明の(霊的)天下統一に拍車がかかって来たよーな展開で博雅との軽妙なやりとりとか、魔物相手のバトルとかってな初期にあったアクティブな雰囲気が薄くなっていて、スピリチュアルな展開が延々と続いて圧倒はされるけどあんまりカタルシスは得られない。ある意味大長編の宿命とも言えるラス前の息を潜めるよーな展開がオーラスでどこまで爆発してくれるのか、それこそ蘇我毛人と厩戸との地面にひびが入った劇的なシーンの再来なんかもあるのか、期待しつつもこれで打ち止めとゆー12巻を待とう。映画はどっちでもいいや、どうせ見ないし。

 本当は柏レイソルがガンバ大阪相手にJ1残留を確実なものとするために激しくぶつかる場面を柏まで見に行きたかったんだけど、給料日直後にしてすでに赤字財政なんで諦めて同じ最終戦は最終戦でも女子の方、「Lリーグ」の上位リーグ最終戦って奴を「西が丘サッカー場」まで見物に行く。入場料が無料でおまけに上位リーグの3位4位決定戦と1位2位決定戦を2試合見られるダブルヘッダーとゆー大盤振る舞いで1試合しか当然ながら見られないJリーグに比べて単純なコストパフォーマンスでは上を行くけど問題なのは内容の方。世界にも通用するプロフェッショナルのサッカー選手がガチンコでぶつかる男子のJリーグとプロっぽけどアマチュアな人もいれば学生も混じっている女子のリーグとでは技能に当然ながら差があって、その意味で言えばJリーグの試合1試合の方が”価値”があるしあって当然だろー。でなきゃプロなんて名乗っていられないだろーし。

 とはいえ女子とはいってもトップの人たちはやっぱりトップ、そこいらのアマチュア草サッカーチームとはまるで違う。その昔、日興証券が「ドリームレディース」って女子サッカーチームを当時の岩崎琢弥社長の肝いりで作ったことがあって後の日本代表とか結構混じったなかなかに強いチームではあったんだけど、発足に前後してスポーツ新聞の記者とかで作るチームと試合をやったらしくて、当然ながらコテンパンにしたって話を発足時の記者発表とパーティーの席上で聞いた記憶がある。餅は餅屋ってことでしょー。実際に始まった3位と4位の試合「浦和レイナスvs伊賀くノ一」との試合も1時間半とかずっと走り回ってるしがっつんがっつんとぶつかり合う本格的な(本格だけど)もの。とりわけ持久力に関してはボールに寄せ合うプレスってゆーか群がるサッカーをしている関係で試合中は走りっぱなしになって、それが延々と続けられるくらいのものは皆さん持っておられるみたい。いや凄い。

 それでもやっぱり3位と4位を争うチームだけあってどこかにワイワイガヤガヤした所が見られたけれど、次に出てきた1位と2位を争う「日テレ・ベレーザvs田崎ペルーレ」 の試合は前半開始早々にパスがつながりセンタリングからシュート、ゴールとゆー鮮やかなベレーザの速攻が決まるとゆー、男子も吃驚のスピード&テクニックな内容でまず吃驚。以後は得点が入らず膠着状態になったけど、走るスピードはあるし高さもあってないのは強いて上げれば逆サイドへとつながるよーなロングパスくらいで、ボールを奪い合っては見方につないで前へと攻める綺麗なサッカーを見られて面白かった。

 これだけ巧ければ得点だってガンガン入って不思議はないんだけど、パスにスピードがないのと正確性がややないことからか、コースに出てきた足にカットされたり寄せられタックルで奪われたりするケースがJ1より多かったのが、速攻から得点ラッシュへとつながらない理由かも。ただやっぱり最後までスピードは落ちないし当たりも激しくまるでダラけた所がないのには好感。これで昔みたいに外国の代表クラスが入っていたらいったいどんな激しく楽しい試合が繰り広げられていたんだろーかと、全盛だった日興証券とか見に行かなかったことを今更ながらに悔やむ。リンダ・メダレン選手とかいたんだよなー、ノルウェー代表の。

 今は何か日本人ばっかりになっていたけどそれもトップの2チームだけあって巧い人日本代表の人もそれなりに混じっていた模様。中でも日テレ・ベレーザで5番をつけたあれは中盤の底だったのかに位置した酒井與惠さんて選手が、グラウンドのどこの場所にも顔を出しては、巧みなポジション取りでボールを受け取ると柔らかいパスで前線に送ったりサイドへと流す役割を果たしていて目に付く。スタミナもあるよーで前半から後半の最後まで右に左に前に後ろに走り回っては守備に攻撃に貢献していて、ある意味ベレーザの中心的な存在になっていた。日本代表にも入っていて先だって開かれた釜山でのアジア大会にも出ていたよーだけど、女子の試合ってテレビでやらないからどんな活躍をしていたかまるで分からないんだよね。ともあれ今日の試合ぶりでファンになったんで次にどっかで試合がある時は近郊だったら頑張って見物に行こー。24歳かあ、守備範囲。(何のだ?)


【11月29日】 2話連続とは大盤振る舞いだねえ、なんてことを思いつつ録画してあった「灰羽連盟」をつらつら。先週あたりからちょい、挙動にあやしいところの見えたクウを中心に物語が大きく動く展開で、灰羽たちが暮らす世界の不思議さが一段と際だってきてそれがどんな感じに解き明かされるのか、結末に向かってどう転がっていくのかが楽しくもあり恐ろしくもある。身内が突然消えてしまって、いなくなることの悲しみはあるけどそれを人類的な物理法則にのっとって不思議なことだとは誰も、あの世界の奴らは思わないんだから不思議。つまりは世界の法則にこの現世との決定的な違いがある訳で、それがどういう事情によるものかが分かった時、見えてくる世界がどうもハッピーなもののようには思えない。

 灰羽たちが暮らす世界をどうとらえるかには諸説紛々あるよーで、どこかを通ってやって来たあたりに終点としての冥土の類を見る人もいるけど、だとしたら灰羽たちがいる一方で普通の人たちがいるのがよく分からないし、通過点にあたる中有の類だとしても灰羽たちが”特別”扱いになってしまうのは同様。区別された人がいていずれどこかに行くことが決まっているって設定から紬出される状況に、寓意を見いだす類のドラマとも思えないんで、やっぱり世界の何たるかくらいは白黒つけてくれるんだろー。それを知るのが怖いんだけど、我が身の行く末なんかも重なって。しばらく2話分放映が続くみたいでテンポアップが図られ見る側としては嬉しいんだけど、いろいろ考えながら1話づつ見たかった気もするなあ。物が超良質なだけに変則での放映でおまけに超深夜とゆー悪条件で埋もれてしまっては勿体ない。どっかでもういっぺん、放映しないかな、いやなに2話の録画に失敗しちゃったもんで。

 「ワールドカップ」の「トルコvsセネガル戦」を見た翌日に京都に寄って見物した、音楽プロダクションのアミューズが始めたアートアーティストのオーディションで目を付けられた12人が、東京へと乗り込むなり凱旋して「有楽町マリオン」で作品を披露する展覧会がスタートしたんで見物に行く。早朝(午前11時)なのに会長の人が入り口で文章をしたため展示の配置に竜門をつけ集まったクリエーターの人に激励をしつつ社員を叱咤する姿に、1代で結構な規模の会社を作り上げて今なお拡大を思考する前向きさ貪欲さを感じる。クリエーターの人アーティストの人ってやっぱ、こーゆー人に信頼を抱くものなんだろーか、手前の商売っ気が先に見えてしまうよーな人はやっぱ苦手にされるんだろーか。うーん学ばねば(学んで何する訳でもないけれど)。

 入り口から伸びる赤い絨毯のたどりついた最奥で見せられる笑激とかも悪くないけど、京都の時とは違っていったん選ばれた人たちが何点が作品をまとめて出して来てるってこともあって、それぞれの傾向と力量の雰囲気が見える点が良かった今回の展覧会。福江太郎さんって人はまったく別の作品を何点か出してきていて、日本画の技法と画材でどこかプリミティブなモチーフを描いた感じが気になったし、京都では大賞をとったISSEIさんって人の殴り書き風イラストレーションは数が増えてややちょっと、発展途上な感じが見えて首をかしげながらも将来への期待を感じさせてくれた。「日展」なんかでも思うんだけど哲学っぽさを含むアートじゃなくって美を追い求める美術としてのアートだと、洋画よりも日本画なり日本の工芸品に可能性を感じてしまうことが最近結構あったりして、そんな中でも目立つポジションへと福江さんは出て行きそーな感じ。ほかのモチーフも見てみたいところ。

 ほかだとエゴン・シーレっぽい塗り&表情のSUUGOさんとかクリムトっぽい金使い2D絵画の野口琢郎さんとか、っぽさはともかくとして独自のタッチを存分に自分のものにしていてすぐにでもまとまった個展とか開けそー。SUUGOさんなんて本の表紙とかになっても全然格好良い。絵本になった人の作品もあってパンフレットに使われている永福佳代さんの作品は確か魔もなく絵本になって刊行されるとか。アートばりばりがいてイラストばりばりもいてアンデパンダンがいて原宿ホコテンがいてもう文脈とか無視した選びっぷりが見ていて爽快。これまたこだわりとかしがらみとかと戦い続けて事務所を大きくした人ならではの”審美眼”って言えそー。もしかしたらここから桑田福山なスタアが出るのかもしれないなー。

 賞は確かとらなかったんだけど実力可能性の類を認められて声をかけられたって人も何人かいたみたいで造形の世界ではすでに名の知れた人ながらも音楽プロダクションで桑田が福山な会社とはちょい、接点のなかったっぽい寒河江弘さんも造形作品で参加していて、京都で見た屋上から飛び立とうとしている灰羽、ではないけど天使とも悪魔ともつかない少女の造形に加えて過去に手がけた咲夜ちゃんとかリアル版(吉野版)ブギーポップとかアンジェリーナ・ジョリーのララ・クロフトとか並べてあって趣味炸裂っていった感じ。それでも実写モデルのフィギュアが中心だから来ていた人でも理解が及んだみたいで、こんなあたりアニメのデフォルメされたキャラなりロボットのフィギュアに慣れ切った目には、一般の人がフィギュアに接する時の感覚なりリアクションが伺えて勉強になった。寒河江さんはさらに別の企画とかも動いているみたいなんでしっちにも期待。福山フィギュアは欲しくないけど。

 早売りの「ヤングキングアワーズ」2002年1月号を読む。インターミッションが終わってそろりと動き始めた感もある「ジオブリーダーズ」だけどその動き方にこれまでのどこまで行っても脳天気神楽ってイメージからはずれる部分があって、モラトリアムからの脱出によるドラマチックな展開に期待とそしてやっぱり不安が浮かぶ。高見ちゃん何やってんだろ。どんな伏線なんだろ。去年聞いた話だと相当にダイナミックでアバンギャルドでエキサイティングな展開になるらしーんで、期待と不安を裏腹に感じつつ注意して先を見ていこー。作者の人の健康を今は記念、ここで止められたら「コミックマスターJ」だって何だって雇っちゃうぞ、金はないけど。「ヘルシング」はますますヤバげな展開でどう収集をつけるのかが見物。幼い頃でもインテグラは居丈高だったんだなあ、踏まれたい罵られたいペンウッド卿みたく。


【11月28日】 久々の(2月22日の「Xbox」祭り以来かな)早起き秋葉原ラオックス詣で行列作り。「ゼルダの伝説 風のタクト」の予約をしにいくためだけど、それだけで行列をつくる程のゼルダ力(ぜるだ・ちから)は我が身になく、予約するとその場でもらえる「ゼルダの伝説 時のオカリナ」の「ゲームキューブ」用ディスクと、同じく「ゼルダ」の”裏”版とかゆーディスクをゲットするのが原動力になっての吟行だったりする。記事にするための取材ってのはついでだな、いやまあ半分くらいは取材ってことにしておくか。

 とはいえ去年9月の「ゲームキューブ」発売で、販売開始時刻1時間前で30人程度しか行列ができていなかった事情を鑑みるに、新ハードでもなく「ドラクエ」でもないソフトにいかな特典付きとはいえどれほど並ぶのか興味があったけど、予約開始時刻の1時間前になる午前8時半で出来ていた行列は約30人。開店した時点で100人くらいでハードの時と同じくらいの動員があった感じ。会員カードがないと予約させないって理不尽な要求から逃げた人とかもいただろーし、9時から開けた店もあったなかでのこれだけの動員は、冬商戦に向けてなかなかなのスタートダッシュを切れたってことになるだろー。

 告白すれば「ニンテンドー64」向けの「ゼルダの伝説 時のオカリナ」はしっかり買ってあってちょっとだけプレーもしたんだけど、最初の森からまるで出られず1週間ばかりうだうだした挙げ句に封印、ってことになっていて、まるで同じゲームのが例え「ゲームキューブ」向けになったからといって、サクサクと進むはずもないのは明々白々。12月13日の「風のタクト」発売までの2週間でプレイし終えることなんぜ120%不可能だったりする訳で、これに”裏ゼルダ”とそして最新作「風のタクト」が上積みになった我が家の今年度第4四半期、ひょっとすると来年度第一四半期も加えた半年はどっぷりと「ゼルダ」漬けになる可能性が高そう。とか言いつつ来年1月にはちゃっかり「水着ビーチバレー」にモニターを(ハードも)切り替えてたりするんだ。男の子って単純ねえ。

 例えば。「聖教新聞」が1面トップに創価学会の池田大作名誉会長が会員を集めた大会のような場所でスピーチを行い世界平和を訴えた、といった記事が載って違和感を持つ人はいないだろう。新聞とはついても「日本新聞協会」に加盟して”報道”をメインに行っている媒体とは違って、「聖教新聞」はもともと創価学会の機関紙と刊行されて今もニュースは掲載しているけれども機関紙としての色合いが濃い。世界に散らばる会員たちに学会の情報を伝達するメディアとしての役割を担っている関係から、名誉会長の動静なり言動は彼らにとっての最大の情報として位置づけられる。トップに載るのは当然中の当然と言って間違いない。

 ならば。「朝日新聞」が1面トップで箱島信一・朝日新聞社社長の専売店組織を対象にした大会での挨拶を載せることは是だろうか非だろうか。というか是非を問う以前にそういった、会社を代表する人物が主語となる記事が1面トップに掲載される事態が生じるだろうか。これがいわゆる主筆的な立場で1本、原稿をしたためて掲載されるそのリードとして、「箱島社長かく語りき」といった文章が載ることはあるかもしれない。けれども販売店なり広告主に対して述べた所感を、「朝日新聞」が1面トップで主語・社長で掲載する可能性についてはなかなかに微妙な問題だと思う。

 天下のワンマンマンこと渡邊恒雄・読売新聞社社長ならありえそうな気もしないでもない。けれどもおそらくはありえない。「読売巨人軍オーナー」としての立場を背負って主語として登場する可能性はあっても、「読売新聞主筆」として署名記事を書く可能性はあっても、「読売新聞社社長」として登場して、集まった取引先の人たちに向かって語った経営施策なり、心境なりが1面トップで「ナベツネかく語りき」といったトーンでストレートに報道される可能性を想像するには、内心に著しい心理的葛藤を要求される。金正日が北朝鮮の新聞のトップニュースになる可能性、これはあり過ぎる。理由も同様にあり過ぎる。国の代表者なのだから。日本の新聞が小泉総理の言動を1面トップで書いておかしくないように、伝え方のトーンは違うだろうが。

 だからどうしたといえば、別にどうということでもなく、万がひとつが億にひとつの可能性としてあるかもしれない事柄について、思考してみたくなったというだけのことで、だから何故に思考してみたくなったかといえば、いろいろあったということになるが、ともかくも既において過ぎ去った過去について考えるのは胃に悪い。ので今は新聞に対して与えられている“公器”といった称号、その責任はどういった部分にまで及びどういった形で果たすことを要求されるのかを考え、それが満たされなかった場合においてどういったリアクションが生じるのかを考えていきたい。考えたところで伝わるものでもないけれど。伝わったからといって変化が生じる可能性が高いか低いか判然としないけど。

 まるで話題になっていないコナミの携帯ゲーム機向けソフト「ボクらの太陽」。あの「メタルギアソリッド」の小島秀夫監督がゲーム好きな子供を家から叩き出すために、って訳では決してないけど自然の動きを身近なものとして想像できるような力を育ませるために、太陽の光の具合がゲームの進行におおいに影響するゲームを作って来年の初夏とかに発売しよーとしてるんだけど、これがアイディアといーゲーム性といいなかなかの優れもの。「ゲームボーイアドバンス」用のROMカートリッジの先っちょに、自然光を関知するセンサーを取り付けてそこから入る光の量をゲーム内で「エネルギー」として認識させて、そのエネルギーを使って城の地下奥深くに眠るドラキュラを日の光の下へと引っ張り出して、退治するとゆーのが主な内容。どんな光でもって訳ではなく、例えば晴天の直射日光と日陰とガラス越しの室内と部屋の薄暗がりとではまるで得られる「エネルギー」が違ってて、それこそセンサーの傾き具合で変化することもあるそーで、プレーヤーは常に最適の日差しを求めて奥から窓際へ、部屋から外へと歩き回らなくてはいけない。

 だったら赤道直下の砂漠で昼間にプレーすれば圧倒的かといえばそうでもないのが微妙にして絶妙なゲーム性。プレーする中でプレーの状態に最適な環境を自分で見つけ出し、あるいは最適な環境を予測してプレーの進行に手加減を加えるよーな頭の使い方をしなくてはならず、そんなこんなでプレーをしているうちにプレーヤーは知らず「お天気博士」になっていたりする、かもしれない。小島さんによれば、分かりやすいってことで太陽光をドラキュラ相手の武器にしたゲームを最初に作ったそーだけど、別に武器じゃなくっても例えば野菜とか作ったり、車とかロボットとか動かしたり三角塔を発動させて「ギガント」と浮上させたりソーーラーレイ・システムを機動させてレビル将軍とデギン・ザビ公の会談を焼き尽くしたり、っていった使い方も可能。これに加速度センサーも合わせて太陽を求め走り回る超健康的なスポーツ性たっぷりのゲームを作ったりも出来る。とりあえずは「ボクらの太陽」がどんなゲームかを見た上で、クリエーターの人から楽しいアイディアが出てきてくれることを期待しよー。


【11月27日】 よーやくやっとこさ小説版「ギャラクシーエンジェル1」(水野良、富士見ファンタジア文庫、560円)を読んで今頃になって蘭花・フランボワーズの乗る紋章機の名前が「カンフーファイター」だったことに気付く。強い訳だよ。無敵だもんな「カンフーファイター」。それはさておきテレビ版はますます快調に壊れまくってる「ギャラクシーエンジェル」だけど、先に2巻まで出ているかなんさんのコミック版の方は、タクト・マイヤーズってお天気な艦長の指揮の下、シヴァ王子をクーデター勢力から逃そーとする展開にエンジェル隊が絡んでいく割に真面目な展開で、テレビに慣れかかった目には最初ちょっぴり違和感があったけど、実直でシリアスで時にほのぼのとした感じで進んでいくコミック版のストーリーも決して悪いものではなく、今ではむしろテレビアニメを一種の番外編として、世界観の中で物語として「ギャラクシーエンジェル」がどう進んでいくのかに強い興味を抱いている。

 その意味でコミック版と世界やキャラクターの置かれた立場を共通にして、ゲーム版に近い感じでシリアスに物語を運ぼーとしている小説版も興味の範疇に入っていて、1巻を読み終えてなお大きくは進んでいない展開に、これからどーなっていくんだろー、ってな想像が頭をいっぱいにして次の刊行を待ち遠しく思わせている。書き込める小説だけあってアニメ版では突出したキャラが突飛なシチュエーションをものともせずに突っ走るよーになっているだけなのが、小説版ではどーしてそーいったキャラクターになっているのかを描き込み、なおかつそれを巧みに物語の中に織り込んであって読んでいて強く納得させられる。着ぐるみマニアで言葉遣いが莫迦丁寧なミント・ブラマンシュのキャラクターが育った家庭に持って生まれた能力故の仮面だってな設定、アニメ版じゃあ終ぞお目にかかったことないもんなー。そっちはそっちで感覚として楽しめはするんだけど、やっぱり折角のキャラ設定が活かされている方が読んでいて心地良いからね。

 もしかしたらオーブントースターとか何かと勘違いして使っているんじゃないのか、「オープンソース」って奴をマイクロソフトは、なんて思った「日本の官庁ネットワークのコンピューターなどに採用されるウィンドウズで、ソースコードを公開するオープンソース化を進める」ってマイクロソフトの発表。なるほど直訳でもすれば「ソース公開」ってなるからあながち的はずれではないのかもしれないけれど、一般的に聞く「オープンソース化」ってのは誰でも自由に手に入れられて誰にも自由に配れるものを指してた記憶があって、けれどもマイクロソフトがウィンドウズでそれをやっているとは思えず、どこまで「オープンソースの定義」にそぐう「ソース公開」になっているのかよく分からない。

 中身が見えないから不安だって声が挙がるのは仕方がないとして、だからって中身を見せたから安全って分かっただろう、って果たしてなるのかどーか。それに見ちまった以上は1年間はウィンドウズ以外のOSの開発には携わらないよーにって条件が課せられるってことは、不安があったからって言って他に乗り換えられないってことになるのかならないのか。本当の意味での「オープンソース」なOSに乗り換えが進みそーななかで、対抗策として打ち出したんだろーけれど、まるで体をなしていないあたりがいかにもマイクロソフトっぽい。政府もメディアも言葉に釣られ権威に傾いて讃える可能性があるけれど、「オープンソース」な人たちにはその辺でどんな陥穽があるのかを問いつめてやって頂きたいところ。「オープンソースではないソースオープンだ」とでも言い訳するのかな。

 秋葉原の「ゲーマーズ」で「ウィッチハンターロビン」の第1巻を購入。テレビでの放映は飛ばし飛ばしどころか3回くらいしか見たことがないけれど、異様なまでの絵の綺麗さとそれほどな動いてなさ、ストーリーの見えなさに逆に惹かれてしまって一体、どんな話になるのかと期待して最初から見通す意味で買ってしまった次第。とはいえ期待しまくった挙げ句に最終回がポン酢でDVDのラスト何枚かを買うのが億劫になってしまった作品も少なからずあるんで、ここは最後までテレビの放映を見ず、一種のOVAとしてピュアな気持ち(げらげら)で毎月2話づつ、見ていくことにしよー。今冬はあと「灰羽連盟」も買わなきゃいけなさそーで散在確実。「オーバーマン キングゲイナー」も見たいしなあ。しばらくサッカー通いを止めるか。

 そのサッカー、名古屋グランパスエイトでいっきにベテラン3人が戦力外になりそーで、とりわけ山口泰弘選手への戦力外通告は、後期にずるずると負け続ける中でそれほど責任があったよーには思えないだけに意外な印象を受ける。歳は歳だけど言うほど歳でもないんだよね。むしろディフェンスからボランチにかけての後列と、ウェズレイ&バスティッチの最前線をつなぐ部分がいまひとつだったよーな記憶があるだけに、その辺りで改善の糸口を見いだそーとする動きが依然見えない方が心配ちゃー心配。黄金の中盤ってのは名古屋にはあてはらまないなあ、ストイコビッチが長く頑張り過ぎてしまったのが今に響いているのかな。負けが込んできた時でもリーダーになり得る好人物を出してしまって、今後どーやってチームの結束を固めていくのか。生え抜きどまんなかのリーダーを作らないと地元からも見放されて客足も落ちて選手も逃げるデフレスパイラルにはまってしまうぞ。バッジョとか来ないかなー。


【11月26日】 恵比寿で小島監督からちょっと楽しいゲームのアイディアを見せられて面白がって原稿を打っていた最中に電話連絡。スクウェアとエニックスが合併するなんて話があって記者会見なんかも開かれるってんで、大急ぎで電車を乗り継ぎ会社へと戻って届いていたプレスリリースとか見ながら取り急ぎ適当なことを書き殴る。なるほど話としては”あの”がつく2つのソフト「ドラゴンクエスト」と「ファイナルファンタジー」の会社がひとつになるってのは大きいかもしれず、それぞれのファンにとっては期待もあれば不安もあっていろいろ妄想も働くニュースだったかもしれないけれど、どっちにもさほど思い入れのない身としては単に2本のビッグヒットタイトルを持った会社ができるだけ、それでも「マリオ」に「ゼルダ」に「ポケモン」がある任天堂には看板が何枚も及んでないんじゃないの、って考えが先に立ってあんまりワクワクしなかった、正直なところ。

 むしろ思い入れがあったってことではあれは一体何年前のことだっただろーバンダイとセガの唐突な合併の発表の方が、かたやキャラクター玩具の老舗のバンダイ、こなた先鋭的なゲームで世界を席巻するセガってゆー2つの異なるカテゴリーの会社がひとつになって、相互補完の上に新しいエンターテインメントの王国を築き上げる、かもしれないってことで成立するかどーかって問題は別にして、とっても興味をそそられた。結局成立しなかった訳で、その後のそれぞれの歩んだ道を見ても結果として良かったとは思うけど、任天堂ともソニーとも違うしもちろんマイクロソフトとも違う、アトムからビットまでを包含して提供可能なエンターテインメント会社が世界に打って出ていた可能性なんかを、今もときどきは空想する、ちょっと妄想も入ってるけど。

 なのでいくら「ドラクエ」が「FF」だからって、一緒になって何かとてつもないシナジー効果が出るんだろーか、ってのが興味の対象だったけど、午後もまったりとした時間に始まった記者会見ではスクウェアの偉い人もエニックスの偉い人もともに「相互補完」ってことを口にしていたのがまずは強く印象に残った。例えば開発体制でもスクウェアは内製重視だしエニックスは外注が主流。スクウェアは海外でも欧米が主力でエニックスはアジアが中心といった具合に、ことゲームソフト事業の中で戦略にも特性にも違いがあって、それがひとつになることで例えばエニックスのアイディアを人月かけてスクウェアの開発部隊が作るとか、スクウェアのキャラクターを「少年ガンガン」で連載するとかいった”シナジー効果”は十分に期待できるらしー。ふむふむなるほど。

 確かに言われてみればそれもひとつの相互補完ではあるけれど、遠目に見ればやっぱり同じ柱をたてに2本立てただけ、それをつないだ横の梁が果たしてあるのかそれともないのか、2階はその上に作れるのかといった部分での”相互補完”が歴然とした形では見えなくて、どこまで期待して良いのかどーか悩む。まあ既存の持ち駒でのシナジーよりも、企画力と開発力がぶつかり合って新しいものが生まれることの方を重視している観もあるんで、今はともかくどんな玉を両社が手を携えて繰り出してくるかに注目しつつ、どこかの二の舞にはならないことを(別になっても構わないんだけど)祈ろー。ちなみに「ドラゴンファンタジー」とか「ファイナルクエスト」とかいったパチもん臭い名前の新RPGは出ません。「ファイナルセーラークエスト」だったら出して欲しいけど。

 「SFマガジン」1月号はディック特集。「マイノリティ・リポート」の映画公開にも合わせた企画なんだろーけれど、だからといって表紙がトム・クルーズにはならずキャンベル缶のディック仕様だったりする当たりに世間の関心の波に乗りつつもどこかで矜持は保ちたい複雑な心理状態なんかを見てしまう。トム・クルーズが表紙だからってその号が飛ぶよーに売れるとも思わないけど、エマ・ワトソンちゃんだったら別だけど。特集もディックってよりはディック原作の映画に関する記事が多いみたいで例えば「ユービック」の脚本が載ったり添野知生さんの映画コラムが載ったりしている。壮観なのは座談会で大森望さんを司会に渡辺麻紀さん中原昌也さん柳下毅一郎さんと映画専門誌でだって文芸誌でだって起用して不思議のないメンバーが並んでる。これ読むために映画ファンが買っても良さそー。でもきっと気付かずに過ぎてゆくんだろーなー、だから表紙はハーマイオニーちゃんにしておけば……。

 ゲームの原作とかゲームのノベライズとかよくやってる人だからって情報に引きずられたからか、妙にゲームっぽいなーなんて思ってしまった清水マリコさんの「嘘つきは妹にしておく」(MF文庫、580円)。拾った本に書かれていたのは何人もいる登場人物のひとりぶん。残る登場人物のセリフを集めないと現れた”本の精”な女の子が消えてしまうとあって、少年は残るセリフとその持ち主を捜して歩き回る。いろいろなキャラクターが出てきては見せ場をつくって交錯しつつ終局へと向かって進んでいく構成はなるほどゲームにありがちなものだけど、探求のドラマなんてエンターテインメントの常道なんだから、無理にゲームと関連づける必要もないし、演劇に関わっているにんってことで、むしろ演劇的だったりするのかも。妹が出てくることがゲームだって言われたらそれには反論できないけど。ラストはなあ、ハッピーだけど唐突。このあたりでもーちょい、説得力が欲しかった気が。イラスト最高。


【11月25日】 女性週刊誌が火を着けて人気が一般的になりつつある部分ももちろんあって、マニアックなものには目をそれほど向けないテレビも動いたんだろーけれど、サッカーマニアにとってまさしく旬なトルコのサッカーを紹介する番組が、セルジオ越後さんをホストに真夜中のフジテレビジョンで放映されていたんで、セリエAの試合の経過なんかをネットでチェックしながら横目で観察。サッカーそのものの紹介ってよりは、サッカーを取り巻く環境についての考察が中心で、凄いプレーが繰り出される様を期待していた目にはちょっと残念ではあったけど、これからの日本が歩むべき道が示唆されているって意味では、とてつもなく貴重な番組だった。「ワールドカップ」ではタレント大活躍な非スポーツ的特番が幅を利かせた民放にしてはな内容。ビデオ撮っておけば良かったな。

 トルコの子供たちに混じった路上サッカーでのセルジオ越後さんの元コリンチャンスらしー妙技にはうなったけれど、そんなキャリアを経て日系移民として日本にやって来て日本リーグで活躍したセルジオさんが自分の境遇を振り返りながら、ドイツに移民したトルコ人の子息がドイツの育成システムの中で成長してはトルコに戻って代表に入り、世界に互した力を発揮するよーになった状況を語った場面なんかを見るにつけ、今まさにブラジルでブラジル的なサッカー漬けの日々を送っている日本人移民の子息を日本に連れてきて日本代表なりにしてしまう術ってのがないのかな、なんてことを考えてしまう。けどまあサントスコリンチャンスといった向こうの名門チームで日系人が大活躍してるって話をあんまり聞かない所を見ると、バストゥルクにイルハンを見いだしたよーなことはブラジルではちょっと不可能なのかもしれない。セルジオ越後ネルソン吉村ジョージ与那城の夢も昔か。日系移民の子息ってスポーツとかブラジルではしてないのかな。

 しかしいよいよ本物っぽくなって来たトルコの強さ。「週刊ワールドサッカーダイジェストエクストラ」の12月9日号に載ってるフレンドリーマッチの「イタリアvsトルコ」の記事とか読むと、トッティにネスタを欠いていたとはいえヴィエリにデル・ピエロをトップに構えたイタリア代表を相手に1対1で引き分けていたよーで、それなりな位置に付けていたと記憶している「ユーロ2004」での大躍進にも期待が持てそー。来年が「日本におけるトルコ年」ってことで親善試合で代表チームの来日も可能性がありそーなんでイルハン様人気から来るチケット争奪戦をかわして何とかゲットして見に行きたいもの、だけどすでにアルゼンチン戦と「トヨタカップ」で運を先取りして消化してるっぽいからなー。大リーグの開幕戦もこりゃ無理そーだ。

 そんな「トヨタカップ」も来週に迫って着ていくユニフォームを調達。席がアウェーってこともあるけど誰もが着ているユニフォームが嫌いな天の邪鬼ってこともあってオリンピアの白いユニフォームを購入して、値段がレアル・マドリッドのよりも高いのにちょっと驚く。出てる数が違うからコストにもはねかえっているのかな。「TOPPER」ってメーカーのパラグアイ製ユニフォームはメッシュ仕様で真冬の横浜では凍死すること確実だろーけど、クラブ創設100周年を記念するマークがすその部分にプリントされて胸にはエンブレムと金色の星が刺繍された白いユニフォームはマドリーほどではなくてもシンプルで格好良いんで、できれば上にコートなんか着込まず見せて応援したいもの。下に着るフリースも調達してくるか。座る場所はコーナーっぽいんで来日してくれると信じたいフィーゴにコーナーキックの時に投げる豚の首もついでに調達してこよー。それとも日本らしくマグロの兜煮でも投げるか。

 「A/Bエクストリーム」はお休みなのかそれとも幅を広げる意気込みなのか、高橋弥七郎さんが送り出して来た「灼眼のシャナ(電撃文庫、590円)を読んで、「A/Bエクストリーム」の宇宙活劇とはちょっと違った伝奇風バトル萌え付きストーリーを堪能する。のっけから主人公らしー少年が存在として微妙を越えた立場に追い込まれてしまう展開があって、今ある自分って存在への大いなる不安をかきたてられるけど、それはそれとしてお話の方も世界を陥れようとする物と、それを防ごうとする物との双方に事情を抱えたバトルがなかなかの迫力で、クライマックスまでをしっかりと楽しませてくれる。いかにも続きそーな雰囲気だけど一方で儚さへの憐憫が後退してしまう可能性もあるんで難しいところ。人気があれば続編ってゆーヤングアダルト・レーベルの商売っ気も良し悪し、なのかも。イラストは白がいっぱい。目に麗しいっす。

 課題図書で「『明星』50年 601枚の表紙」(明星編集部編、集英社、1000円)をペラペラ。文字通りにアイドル誌「明星」の50年分の表紙をオールカラーですべて並べた貴重にして重要な本で、読めば日本におけるトップアイドルの変遷がまるまる分かる。1950年代が津島恵子さん原節子さん美空ひばりさんといった雲の上的ムービースターの時代なら60年代は吉永小百合さんに浅丘ルリ子さんといったほのかな憧れ的スターの時代。いずれにしても女性スターが女性にとっても男性にとっても憧れの存在に見られていたよーだけど、これが60年代後半から70年代に入ると御三家があって新御三家があってグループサウンズがあってってな具合に男性アイドルも続々と表紙に登場するよーになって、女性がキャーキャーと男性に群がって眉を顰められない時代の到来があっったのかな、ってことが見えてくる。

 これが1990年代後半から2000年代に入ると女性アイドルは年に2人も出れば良い方で、ほとんどがジャニーズ事務所の男の子アイドルで占められるよーになっていて、アイドル誌を欲しがる読者にとってのアイドルの意味合いが、極端に偏って来ていることが伺える。松田聖子さん中森明菜さんに「おにゃん子クラブ」なんかを見たくて男性が「明星」を買っていた時代も確かにあったのに、どーしてここまで極端になってしまったのか、雑誌の読者層の変化なり雑誌の役割の細分化といった状況分析も含めて知りたい。この親書1冊あれば論文も書けそー。それにしても「ジャニーズ事務所」に依存しているはずの「明星」編集部が作った本に元「SMAP」の森且行さんが元「SMAP」として堂々と登場しているのはある種の痛快事。まさか抜くわけにもいかないし写真を塗り潰すわけにもいかないからなー。してやったり、ってとこかも。


【11月24日】 今日までの「デザインフェスタ」は昨日言ってたんで今日は抜け。「ちくわぶ」で「オバQ」に似たデザインの鱈子みたいな口が納豆になってるTシャツとか、ジョーイも買ってどう運ぶか悩んでるらしい「ジンジャー(旧名)」が描かれたTシャツとか見かけて欲しかったけどすでに着ていないTシャツが山積みとなってる状況から断念。前回は見かけた岡田斗司夫さんもスイッチを売ってる感じじゃなく、特に何も買わないで1時間程で会場を後にする。毎回見かけるアーティストのヒサクニコさんは今回も高いところに登ってた。「デザインフェスタ」以外だと見たことがないんだけど普段はどこが拠点なんだろー。遠目には綺麗に見えるんでいつか間近で見てみたいもの。見たからといってどーなるものでもないけれど。

 途中、隅に出ていた屋台で「フレンチドッグ」とゆー名の、フランスパンのバゲットに切れ目を入れるんじゃなく白い部分を縦にくり抜いて中にソーセージのぶっとい奴をインサートする、見ていて健やかな魂を著しく刺激される食べ物を食べたけど、これって本当にフランスで一般的な食べ物なんだろーか。ソースはタルタルソースかサルサソースを選べるんだけど、ホットドッグみたく上からかけるんだったらまだしもくり抜いたバゲットの穴にソーセージをインサートする前に注入するもんだから、刺した時にチョロリとはみ出る部分とかがあってこれがまたなかなかに健やかな魂を揺り動かす。方や粘性のある白い液体。こなた真っ赤な液体。白をソーセージが出した訳でも赤がバゲットから出た訳でもないけれど、見ていると背筋がムズムズして来る。こんなにあからさまな食べ物なんてある意味とってもフレンチ。終了後みたく(何のだ?)白と赤を混ぜてもらうことも可能なのかな。

 姫宮アンシーみたいなショタコンビのビジュアルに朝の微睡みを完璧に醒まされつつ支度して渋谷へと出向いて「ブックファースト」でローレンス・レッシグさんの新刊「コモンズ ネット上の所有権強化は技術革新を殺す」(山形浩生訳、翔泳社、2800円)を買う。前回の「青山ブックセンター」での混雑ぶりからとっとと無くなって無理かもと思っていた、先着40人にもらえるとゆー12月8日のレッシグ教授と山形さんのトークショーのチケットが、午前11時20分の段階でちゃんともらえてしかも10番だったのを、朝も早い時間からすでに9人も取りに来たと考えるべきなのか、それともまだ10人しか来ていないのか悩む。まあ80分で10人なら40枚なんて5時間ちょっとでなくなる勘定、それはそれで良いペースなのかも。即日完売といったかどーかは不明。サイン会だけってチケットもあるから講演は別にって人はそっちをもらっても良いでしょー、似顔絵とか描いてくれるかも(くれません)

 すべては幻、虚構の出来事だったんだってオチは論外として、現実世界の過酷さから虚構の世界に避難してそこを現実と思いこむ展開も過去に山ほどの前例があって、そんな展開を繰り出してくる作者は非難はされないまでも逃げてるんじゃないかと言われ思われてしまうもの。あんまりポジティブには見てもらえない。だから魔王軍と人間軍との血みどろの戦いが大々的に繰り広げられてさあこれからとゆー時に、そんな世界は誰かの虚構、小説世界の出来事だったんだなんて展開のもとに、これまで出てきたキャラクターたちが雰囲気もそのままに登場して、ラブラブな関係を見せてくれる話かもしれないって感じた瞬間、それまでが素晴らしかっただけに豪屋大介さんの「A君(17)の戦争4 かがやけるまぼろし」(富士見ファンタジア文庫、620円)への印象が、ガクッと下がりそーになった。

 もちろんすべてが虚構、でもって主人公は学生作家として活躍する一方で学園祭の実行委員長として八面六臂の活躍をしてました、って導入部がそのまま固定化される訳じゃなく、いずれは元の世界に戻るだろーとは思っていて、全体のトーンが大きく変わるよーな心配はしてなかったけど、あまりにあまりな展開にどこか読者の願望を満たしてやろうって「学園ゲリオン」的な戯れが感じられて、うーんと首をひんりそーになった。だが。しかし。読み終えた今ははっきりと分かった。戯れなんかじゃなく、行き詰まったからでもなく、必然として「学園ゲリオン」をやっていたことに気が付いて、改めて凄い作品なんだなー、ってことを認識した。すげえ作家だよ、豪屋大介さんは、どこの誰だか知らないけれど。

 なるほど魔族のグラマーな吸血鬼が現実世界でどんな振る舞いを見せてくれるかに興味はない訳じゃなく、それが実に完璧な形で具現化されていることを嬉しく思いもするけれど、そーした表面的な戯れの向こう側で、正義のための正義が持つ窮屈さ、危うさをだんだんと浮かび上がらせていくストーリーテリングの妙に触れると、上っ面の喜びは深刻な思索へと代わって探求を迫る。加えて何故今になってこーした戯れ的、「学園ゲリオン」的世界が主人公のA君こと小野寺剛士に与えられたのかを考えた時、前作で示唆された魔族と人間との戦いを操る得体の知れない存在がこれまた大きな意味を持って迫ってきて、かくも大がかりな虚構を繰り出せる相手に小野寺剛士がどう挑むのか、その姿を通して運命とかって奴に作者がどんな答えを示してくるのか、一段の興味が引き起こされる。もちろんやっぱりすべてが虚構でしたとオトされる可能性も消えた訳じゃないから注意は必要だけど、これだけのことをしでかした作者がそのプライドと、力量でもって圧倒的なクライマックスを打ち出してくれると信じて、残る話数に付き合って行こう。イラストはアーシュラさんをいっぱいに。

 諸般の事情って奴はつまりは資本主義って奴なのかと「魔魚戦記」の続きが出ない説明が書かれた後書きに肩を落としつつ(ふかしいもー)、それでも新刊が出てその作品が読める喜びに浸りながら吉村夜さん「借金だらけの魔法使い」(富士見ファンタジア文庫、620円)を一気読み。才能はたっぷりとありながら金はなくコネもない召還魔法使いの調和術師(ハーモナイザー)、エリオンが師匠のもとを卒業して出た都会で一発逆転をかけて呼び出した火の魔神。圧倒的な力を持ちしかも美少女ってゆーその魔神・ランドラと契約をしよーとしたところ、相手が出して来たのが月々金貨100枚に一仕事ごとで1万枚の報酬とゆー契約条件。無理も無理過ぎる条件なのに、ここで無理だと断れば折角の相手が消えてしまうと焦ったエリオンはランドラと契約してしまい、かくして金策に追われながら金貨1万100枚分の仕事を探して街を走り回る羽目となる。

これでアートも安泰だあ、ビルは安泰じゃないんだけど  無理だ無理だと言われながらも最後には何とか金策を追え事件も解決して一安心、ってな展開が延々と続く中でいつしかエリオンとランドラの間にラブラブが芽生える、なんてこれからの流れも想像できそーだけど、ラストに示唆された陰謀から想像するに、ラブラブの可能性はあるとして単なるドタバタ腐れ縁関係の繰り返しには陥らなさそーで先に楽しみが残る。だから資本主義に負けることなく資本主義に乗って後まで続いてね。資本主義の話を書いても資本主義から見放されたら冗談にもならないし。表紙とイラストはことぶきつかささん。こーゆータッチの絵柄だったっけ? 頬とかぜんぜん膨らんでないぞ。

 江東区佐賀町の「食糧ビル」で開かれている展覧会が最終日だったんで見納めに見物。12時過ぎに入った時はまだ3人ぐらいが列を作ってただけだったのに、出てくると入り口から出て角を曲がって四角いビルの一辺をなぞる長い行列ができていて仰天する。現代アートが好きな人なのかそれとも「食糧ビル」が好きな人なのかは分からないけどどっちにしても相当数の感心を持っている人がいて集まって来ることに、東京って街の人の多さを改めて思う。有明では「デザインフェスタ」に何万って人が行ったりしてる訳だし。明日から一気に取り壊して訳ではなく12月8日に近隣の人とか集まってお祭りめいたことも行われる予定とか。屋台も出るみたいだし「レッシグ&山形ショー」の前に寄って今度こその見納めをしてこよー。柱の1本でも頂いて来るか。


【11月23日】 八重洲出版から出ていた「サイクルスポーツ」を買ってたのはえっと何年頃だったっけ、中野浩一選手が「世界スプリント選手権」で3連勝した記事には記憶があるから1979年あたりから5年くらいだったと思うけど、当時得た知識のいったいどれくらいが今も使えているかとゆーのを確かめたいって思いもあって行った「東京国際自転車展2002」の会場の、どこにも「サンツアー」のブースがなくって今や”世界の”と枕詞が付く「シマノ」がこれまた”世界の”「カンパニョロ」と揃ってブースを出しているのとは対照的に、かつてシマノと国産変速機の人気を二分していた(と認識している)「サンツアー」が今、いったいどーなっているんだろーと調べてみたらとうの昔に無くなっていて、もっぱらマウンテンバイク系のパーツを作っている台湾の「SRサンツアー」が残っているだけだった。これぞ隔世の感って奴か。

 熱心に「サイクルスポーツ」を読んでた時期はパーツがみるみると進化していく時代だったのかも、って思ったのが会場に展示してあったシマノとカンパニョロのパーツを見た時で、例えば今だとシマノもカンパも使っているカセット式のスプロケットが付くフリーハブってのも当時の雑誌で出始めの頃を見た記憶があって、曖昧だけど確かシマノが始めたんじゃないかと思うけど、それが一般化しているのを見ると実は偉大な発明だっただってことに気付く。あと平たいペダルとかも。それにしても昔は7枚付いた「ウルトラ7」ってスプロケットで驚いていたのに今じゃあシマノは9枚でカンパは10枚だもんなあ、これも隔世の感だなあ。20年後は15枚くらいに増えているのかなあ(いませんって)。

 もらったシマノとカンパのカタログを読んでて気が付いたのはどちらにも「変速レバー」ってのが載ってないこと。といってもこの10年くらいの間でおそらくは死滅してしまったものだから「変速レバー」と言って分からない人も多いかも知れない。今でこそロードでもマウンテンバイクでもブレーキレバーにくっつく形になっている変速機を操作するレバーが昔は三角形の自転車の前フレームの斜めに走るダウンチューブってパイプの両脇に付いていたのだよ、ガスの元栓を横に傾けたよーな感じで(ちょっと違うかな)。わけてもカンパの変速レバーの形状は美しくってこれをつまんでクイクイってやるのがある種の夢だったのに、それも今ではかなわぬ夢、ブレーキレバーを握りつつ中指だかでパドルをツンツンやるだけなんて、便利だけどなんか美しくないんだよなあ。それを言うなら少年向けの自転車のATレバーみたいな変速機に子どもの頃は憧れたなあ。リヤのフラッシャーにも。そうそうリトラクタブルヘッドランプなんてのもあったなあ、自転車なのに。妙な時代だったなあ

 丸石自転車のブースに「エンペラー」は並んでないしブリジストンに「ロードマン」はないしミヤタに「ルマン」はないしナショナル自転車に「たむたむろーど」はなく、「オリンピック」の富士自転車も「グランプリ」のツノダも出ていないのも残念。それでも「コルナゴ」はフェラーリ仕様のマシンも含めて例のクローバー型のエンブレムも誇らしげに新作を飾っていたし「デ・ローザ」も未だこだわりの菱形チェーンスティっぽいものを使った完成車やフレームが飾ってあって大人心に羨望を浮かばせる。かつて自転車が変えず雑誌を読んでその美しさに感嘆し、神保くんの峠リポートにいつか自分も真似したいなんて思っていたあの頃の自転車への熱がぶり返して来たけど、先立つものがないのは当時も今も同じ。だいたい1台それなりのを持っているのに玄関に埋もれさせているんだから買うとかゆーのは本末転倒、熱なら手近なところで醒ませば言いんだけど、そう簡単にいかないのが物欲って奴なのです。買いまくってる高千穂遙さんの気持ちが改めてよく分かる。

  「ロケット乳? Hカップ? 百センチだとっ? そんな物に動揺するとは、貴様らは物質主義の奴隷になって、物事の本質を見失っているのだ! 胸はデカければ良いという物ではない、美しい胸とは両手におさめた時にこうフタッと過不足無く持て余さない、それこそが美しい胸なのだ!」(198ページ)とゆー言葉を吐く人間に激しく共感してしまえる貴方を「フェッグ」と呼んで差し上げよう、ってことは僕は「フェッグ」なんだろーか、いや違う、ロケットもHも百もロボ娘もそして見事な洗濯板もオールオッケーだから、ただの「フェッグ」なんかじゃない、筋金入りの「フェッグ」だな。ちなみに「フェッグ」が何かを知りたい人は夏緑さん「葉緑宇宙艦テラリウム 真珠色の機甲天使」(MJ文庫、580円)を読もう、好例でもって「フェッグ」の全てが明かされる。でもって自分がどれだけ「フェッグ」なのかもよく分かる。見てみてーよーロケットでHで百なつるぺた。

 しかし何でまた前回の宇宙英雄の葛藤から一転してロケットがHで百だなんて話になったかと言えばふとした弾みで火星軍と宇宙軍との間で戦争が始まってしまったからで、だからどうして微乳の主張なのかといえばそれが世界を滅亡から救うきっかけになったからで、結局南極ますます訳が分からない。いやとにかく圧倒的に面白い続編なんで前編まだの人も買って読んでロケットぶりに勃たせ2人1組による両側からのぐりぐりサンドイッチの妄想図に胸高鳴らせよー。表紙のロケット乳&ロボット娘のイラストはそれ単体でも激しく感情に働きかける要素を持っているけど、見た目で迷わすサービスカットではなく、本編はもっといろいろ凄いんで、何がどう凄いかは買って呼んで確かめよー。ヒースしかし主人公なのにまるで活躍してないな。

 レッシグ&山形のライツフリー漫才(古今の漫才のネタをオープンソース的に組み合わせて喋る他人の褌的出し物)、ではなくサイン会&トークショーのチケットを狩りに渋谷に行って1日間違えてたことに気付きつつ折角だからと荒木経惟さんが大昔に撮ったSF作家で作家でライターでいろいろな鈴木いずみさんの写真集「IZUMI,this bad girl」(文遊社、5800円)を購入、なるほどこつはロケットだHだメロンだ西瓜だ冬瓜だってな裸体が表しから中身からふんだんに使われていて、その圧倒的な迫力から鈴木いづみさんって人が文筆だけじゃなくパフォーマティブな存在としても当時突出して希有な存在だったんだなあ、なんてことが伝わって来る。

 これまでに見たことのある写真もあればこれが始めて見る写真もあって、眼の下を黒くして部屋で「ラッキーストライク」を吸うアバズレ風の割に有名な写真もあれば乙女っぽい表情にしぐさをした写真もあって、そのいろいろぶりに作品のいろいろぶりとは違った感慨を抱く。小説を書きルポも書きアラーキーを相手に裸にもなり、ってゆータレントを今に例えると誰になるんだろうって、やっぱり飯島愛さんかな、でも飯島さん今はTすら見せてくれないし、やっぱり他に類を見ない人だったのかな、って思いつつ当時鈴木さんが持ってただろー存在感に思いを馳せる。写真のアラーキーは今とまるで変わっていない撮り方だけど、だからこそその天才性が当時から如何に発揮されていたんだったってことも見えて来る。高いけどなかなかの逸品。折角なんでこれも含めてアラーキーの書誌コーナーを一気更新。2年で出した本の数の凄まじさにもその天才性が見える。何かとエロへの不寛容さが増してきている世の中だけど、アラーキーには来年も再来年も頑張って頂きあちらこちらとぶつかって頂き、日本の不寛容性が持つ奇矯さを浮かび上がらせよくない方向に進む国を諫めてやって欲しいもの。昔はともかく今は”世界の”アラーキー、何だって出来ますって。


【11月22日】 「おもいで」「さすらい」「かりそめ」と来た梶尾真治さんの「エマノン」シリーズ最新刊はその名も「さびおらエマノン」、ではなく「りけるめエマノン」、でもなく「りばうどエマノン」、だったらちょっと読みたい気がするけどこれも違うし当然「ろなうどエマノン」でも「ろべかるエマノン」でもない「まろうどエマノン」(徳間デュエル文庫、533円)で、相変わらずも可憐にたくましく永劫の記憶を受け継ぐ少女と関わることになった少年の、切なくも優しい出会いと別れの物語が繰り広げられる。「まろうど」ってのは遠くから来た人、ってこと。アルゼンチンとかブラジルのサッカー選手ではありません。もしかしたらいたりして。

 アポロ11号が月に着陸した日ってゆーから1969年7月20日だったっけ、生まれてはいたけど記憶にはまったくないその日に主人公の直樹は町に祭られている比丘尼の彫り物とそっくりな女性に出会い彼女が手をさしのべている不思議な生き物に出会い不思議な生き物の代わりになってあることをしなければならなくなる。もはやエマノンの永劫としての存在は設定となって後退し、その上で演じられる人間たちのドラマが話の主題になりつつあるよーな気がするけれど、エマノンの永劫が対極にあればこそ、普通の人間たちの一瞬の重さ、強さ、激しさも浮かび上がって来る。ラストの手紙の段なんて何気に泣けるし。

 八百比丘尼の伝説をほんのサワリと絡めただけなのはもったいない気もしたけれど、それを立てるとエマノンが出しゃばり過ぎて人間のドラマが見えなくなるからちょうど良いのかも。ただあんまり設定だけなのもジーンズでロングヘアで煙草くわえた少女ってゆーとてつもない魅力(どんな魅力だ)の主が単なる狂言回しにしかなっていないのも残念なんで、あれば次はもうちょっとだけエマノンに主体を持たせた話なんかも読みたいところ。かといって「ミライザーバン」みたいに話が未来へと飛びすぎて訳分からなくなるのも困るしなあ。何でも良いから期待してます。鶴田謙二さんの表紙もね。

  続く秋口ぎぐるさん「バレッツ&バンデッツ 楽園の棺」(富士見ファンタジア文庫、580円)はステラって女の情報屋から仕事を回している盗賊2人組のバンデッツとミゲルが行く先々で出会ったり巻き込まれたりする事件を持ち前の技と知恵で乗り切り最強の敵と戦いしつつ、見事事件を解決したりしなかったりするストーリー。方や全身に電流を帯び見境を失うと誰もかなわないくらいの圧倒的な強さを発揮する男、こなた邪眼を操り拳法も得意な男が最後に技を見せて一言、「ユメはみれたかよ」。

 ってこれは「ゲットバッカーズ」だった、「バレッツ&バンデッツ」は武器使いのミゲルと錬金術師の拳銃使いのバレッツが盗みに向かった船から頂いてきた棺桶を開けたところが中に入っていたのがお宝ならぬ10歳の少女で吃驚仰天。おまけにとんでもない出自と知って手元においておけなくなり、近所の教会へと売り飛ばしたもののそこに少女の保護者で圧倒的な強さを誇る大男が現れ、2人組が襲おうとした船を一足早く襲っては撃退され、お宝も奪われさらには傷も付けられた獣人の美少女(?)を頭にする一派が訪れ、人間を細切れにして売り飛ばしては恐れられている人肉屋の少年リーダーが絡むとゆー、もうくんずほぐれつな展開の中でドタバタとした鉢合わせやバトルめまぐるしく繰り広げられる。

 その魅力をあとがき(偽)を書いた榊一郎さんの言葉を借りれば「幾つもの出来事が絡み合って動く物語のスピード感が最高」で、「凶悪な悪役さえもどこか憎めない感じに描かれているのは流石」でなお且つ「ディタ萌えー」だったりして、一言一句変える必要もなければさらに注ぎ足す必要もなさそーだけど、あえて言うならいくつかに分かれた勢力がそれぞれを騙しだまされ勘違いし勘違いさせられては玉突きのよーに行ったり来たりをする様のおかしさと、そーしたすれ違いがだんだんと収れんしては最後のクライマックスへとつながっていく盛り上がりぶりが小説として並じゃなく、憎めない悪漢たちのキャラクター造形も含めて作者の力量の高さに今さらながらに感心する。どーせ続きとかありそーなんでそっちにも期待。10歳のレベッカちゃんも悪くはないけどやっぱ肉食ってる姿をみられて恥ずかしがるディタちゃん萌え、だよね、「けも」入ってるし。

 でもって平谷美樹さん「ノルンの永い夢」(早川書房、1800円)。10月の終わりのシンポジウムでは野尻抱介さん小林泰三さん林譲二さんら「ハードSF」系な人の列に混じっていた平谷さんだったけど、なるほど読むと「ノルンの永い夢」も宇宙ってか世界を「高次元多泡体」ととらえてそれを意識してどーにかすると自在に時空を移動できるんだってゆー理論を立てた男が実際に過去から未来から行き来してみせ、そこに相対論とか量子論とかいったハードっぽいネタがくっついて、同じ系譜かな、って思えなくもなかったりする。

 もっともそれが機本伸司さんの「神様のパズル」(角川春樹事務所、1700円)で繰り広げられる宇宙創造へと至る過程での宇宙を認識する理論ほどに厳密で裏付けのあるもかと言われると、分からないなりに表面的とゆーか設定的に見える気がしてハードな計算好きの人たちからはありゃこりゃ言われそーな予感もする。けどそこはしっかりとあとがきで「物語が先にあり、設定は後からついてくる。物語を面白くするためであれば、設定に銀河を上回るほどの穴が空いていても構うことはない」と宣言してるい実際、現在と過去が自在に行き来しつつ歴史も微妙に変化しつつ、現実にはありえなかった「ゲルマニア」とかいった場所なり事件なりを見せて畳みかけて来る後半部分のスピード感とめくるめく変化するビジョンはなかなかに圧巻で、「まず物語」とゆースタンスの意義とそのメリットの一端が伝わって来る。

 前半ちょい、モタつく感じがあったのは「小松左京賞」をモジったよーな新人文学賞の授賞パーティーの様子とか、公安調査庁第三部なんて非合法活動を受け持つ部署の設定のあからさまぶりとかに読んでやれやれと思ったからかもしれないけれど、科学者の卵の本間鐵太郎がゲーリングとかに奨励された学術都市のノルンシュタットに行って思うまま思わされるままに動き出して以降はテンポも上がり、ヒトラーの為とはいいつつ記憶の奥底の命じるままに発明をし、歴史を変えてみせるエピソードの連続もあって読んでいて読む手が早くなる。結局のところ「高次元多泡体」での振る舞い方が分からなかったんだけど、読んでいてドラマに面白がれるんだったら設定にはそう縛られなくても良いのかも。しかし良く書くなあ、平谷さん、カテゴリーもバラバラだし。どこからアイディアとストーリーが湧いて来るんだろ。もしかして未来から著書をかっぱらって来てるのかな。


【11月21日】 試合を終えて朝を迎えたベロンやサビオラやオルテガが、「ワールドカップ」の時には寄れなかった秋葉原でニッポンのビデオとか買いあさりに来てるかも、ってことは特に考えずに行った「ゲーマーズ」の秋葉原2号店。ベロンがガシャポン回してなかった。ちょっと残念。エスカレーターで2階に上がって前回買い逃していた「あずまんが大王」のDVDの一年生編の再プレス版に出たばかりの2年生編を合わせて大枚をはたいて財政的に死にかける、ってかフロー的にはすでに死んでて確か出ているはずの「少林サッカー」とか「ウィッチハンターロビン」とかにはちょっとしばらく手が届きそーもなく、一時の情動に流されて買いまくった「日米野球」の高額チケットの半券を見て溜息をつく。10年後に「大リーグMVPの松井の日本でのラストを見たんだぞ」と自慢することにしよー。

 1年生編がボックスなら2年生編はあずまきよひこさんのイラストレーション集がおまけについててそっちの面を向けて置いて合った山を見た時はあら新しい画集でも発売したのかな、と思って2年生編のDVDと一緒に手にとってひっくり返して同じものだと気づく。両表紙の同人誌を違うと思って手に取るよーなものか。ちよに智に大阪によみに神楽に榊の6人がピラミッド状に配置されたイラストレーション集の表紙に神楽ってのがしっかりとレギュラーしていたことを改めて知る。かおりんじゃないってのは初期から出ているキャラクターとしては不思議な気もするけれど、対榊なり対木村先生といったシチュエーションで威力が発揮されるかおりんの魅力でもあり限界でもあったってことなんだろー。神楽も最初は対榊で活きられていたのが智に大阪を得てトリオ漫才が結成できたのが最終的にレギュラーに入れた要因か。生きる教訓。仲間は選ぼう。立ち位置は見よう。

 ベロンがいたら黙祷では内心からジーコ監督の母親の死を悼んだのかって聞きたかったけどいなかったし大体がアルゼンチン語(スペイン語?)なんて喋れないから思っただけ。伝え聞くことによると欧州では試合会場の周辺で大事故とか起こった時に競技場で黙祷が行われるそーで、それ時代は別い珍しいことではないらしー。会場周囲での事故ならスタンドの人も双方のチームの人も共通の事項として悼めるし、去年の9・11直後に開かれていた新体操「イオンカップ」での選手たちによる追悼の舞いは世界が悼んでいることへの反応だから理解も早いけど、監督なり、選手の身内の不幸とゆー割にパーソナルな哀しみでもこーした儀式ってのが頻繁に行われるのかって部分で今回の件はまだやっぱり理解できずにいる。まあ、ジーコ監督への不信感がジーコ特別視な風に見えて嫌気が射している可能性も大なんで、だからこそブラジルを仇敵と認めるアルゼンチンの人に聞いてみたかった。秋葉原にはやっぱり行かなかったのかな。(と考えている所に更に指摘。黙祷は逆にアルゼンチン側からの提案で行われた模様。ゲームではライバルでも同じサッカー人としての敬意は充分ということ、でしょうか)。

西が丘ではオランダ代表にドイツ代表と握手。彼らも遠く自国で思い出してくれているでしょう  もし行われたらこれは納得できるだろー「トヨタカップ」での高円宮さまの逝去を悼む黙祷。日本サッカー協会で確か名誉総裁のタイトルを持っていた方でサッカーの普及に多大な尽力をして来た、その功績にサッカーを愛する人として、マドリーもオリンピアも納得して黙祷してくれるって思うけどどーだろー。思い出すのは「ワールドカップ」の喧噪が終わった8月に「もうひとつのワールドカップ」として開催された知的障害者の人たちによるサッカー大会の、あれは「西が丘サッカー場」で開催された「ドイツ対オランダ」の試合に高円宮さまが来場されて、最初の選手たちへの激励から最後のホイッスルがなるまでずっと、見物していたその姿。「国立」とか「横浜」みたく座り心地の良い貴賓席がある訳でもない「西が丘」の試合をわざわざ見に来たって出来事で、この方のサッカーなりスポーツへのシンパシーが伺えた。スポーツをプレイしている間に倒れたってことは果たして皮肉なのかそれとも本望なのか。謹んで哀悼の念を捧げます。

 表紙だけ見ればちょっとキツい表情の女の子ののほんとした感じの男の子が描かれていて、帯には「宇宙の作り方、分かりますか?」なんて書かれた本を遠目に見るに、もしかしたらちょっぴりエッチなラブコメかもなんて想像して手に取る人があるいはいたりするのかもしれないけれど、そー思い込んで手に取った人が果たしてどんな感想を持つのか、これも知りたい所だったりする第3回小松左京賞受賞作の「神様のパズル」(機本伸司、1700円)。もっともテーマには意外に思ってもお話し自体の展開を「騙した」と意識する人も少ないんではなかろーか。なるほど授賞式なんかで聞いていたよーに、宇宙の作り方に関して延々と学生が議論する話ではあったけど、小難しく思える相対論に素粒子論に量子論の議論も超天才の少女とどちらかといえば劣等生の少年を配置して会話をさせる形式でもって、かみくだいて説明してくれているんで読んでいて大きく悩むことはない。

 なおかつそーした議論が議論のための議論に留まらず、ひとつ「ゼミの課題で宇宙を作る」とゆー目的に向かっているため読む必然が読んでいる人間には与えられるし、その必然を駆動する理由の部分でもしっかりとした動機(天才少女の悩みみたいなもの)があって、読み進んでいて軸がぶれて戸惑うってことがあまりない。動機そのものがだったら凄いのかと言えばむしろ普遍的過ぎる観もあって、導き出される結論も量子だ粒子だと言う割には妙に哲学的だったりするけれど、そーした妄想なり想像が入り込む余地も含めて科学なり物理の可能性と影響力を探る内容だったりするから気にならない。最大の問題は「SFか」ってとこだけど、ミスターSF・小松左京御大がSFと認めているものに「これはSFじゃない」と言う自信は僕にはありません。それはそれとして想像と妄想の紙一重な理論でもって新しい”世界”を創造し、想像してみせた上で影響や反応を提示して見せてる部分はやっぱり「SF」と言えるだろー。異色作と見るか直球と見るか。世界への意識と同時にSFへの意識も試される1冊。とにもかくにも面白い。


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