縮刷版2002年1月上旬号


【1月10日】 けど、しかし、本当に林真理子さんて女性とかから圧倒的な支持を受けているんだろーか、受けているんだとしたらどーゆー部分がなんだろーかと、真剣に考えてみたくなったのは「週刊文春」2002年1月17日号に掲載の連載コラム「今夜も思い出し笑い」のナンバー808を読んだから。なるほど河豚が食べたくなって、ご飯を食べよーとかかって来た編集者の電話に「フグがいいなあ」と言いつつも、「今日び出版社に対して、十万円のフグをおごれ、っていうのはやっぱり、道義的に許されないような気がする」と自省っぽいセリフを吐いた辺りはまだ良い。接待するのは出版社の自由だし接待されるのも作家の勝手。そこにどんなやりとりがあったって、お互いの信頼関係と打算に基づくものだから他人があれこれ言う筋合いはない。

 気になったのは次のセリフ。「だから割りカンで食べて、領収書をそれぞれ貰いましょうよ」って一体どーゆーことなんだろー、編集者は自分の食べた分について払う訳で接待に使った分じゃないから領収書なんてもらったって経費でそれを落とすのってどっか違うよーな気がするし、林さんは林さんで接待された訳でもない単なる外食の食費で領収書をもらって、それをどーするつもりだったんだろーって疑問が浮かんで仕方がない。まあ、現にこーしてコラムに書いてネタにしたってことで、取材費だったと経費に繰り入れてできないこともなさそーだけど、だいたいが何千万円とか何億円とか稼ぐ人気作家がだよ、たかだか五万円の食費に領主書をもらおうって考え提案する了見と、それを何の自省も抱かずとうとうと書いてしまえる弛緩した神経が分からない。こーしたスタンスをそれとも高級だと思って共感できる、ファンがいっぱいいるってことなんだろーか。

 あるいはもらった領収書はそれぞれが相手の接待費として支払った分だと主張すれば、通りそーな気もしないでもないから良いとして、コラムの後半、由布院から車で1時間半くらいの所にある臼杵って場所でフグの肝を食べた話を、「あんまり大っぴらにされるのは困るみたいだから、ハヤシさんも絶対に書かないでね」と案内してくれた人に言われていたにも関わらず、「あの丸ごと出された肝のことを、どうして忘れることが出来ようか」と言って堂々と、全国で何十万部も出ていて書いてしまえる神経を、さてはてどー判断したら良いものか。書いて相手に喜ばれると思ったのかな。「また近いうちに行こうと思っているくらいだ」なんて言っているけど、手入れが入って食べられなくなってしまい、紹介してくれた相手の信頼を仇で返しかねない可能性を考えれば、場所も含めて軽々しく書ける話じゃない。やっぱりどっか緩んでる。それともファンはその唯我独尊ぶりに憧れ何時かは自分も唯我独尊ぶれる日を、夢見て慕っているのかな。

 もしかすると、その唯我独尊なアタクシ様ぶりを一切の制約なしに披露してもらうことによって、笑える存在として読者にアピールしていこうって編集部の深慮遠謀とかあったりするんだろーか、いわゆる「晒しアゲ」って奴なんだろーか、とも考えたし、某「編集会議」でまるごと1冊の大特集を組んだのもやっぱり、タガの緩んだその様を見て、嘲笑の気持ちを読者に抱いてもらおーとする編集部の陰謀が働いているんだろーか、とも思ったけれど、800回以上もコラムを続けてもらっている実状からは、晒すとかアゲるなんて気持ちは全然伺えず、やっぱりマジにファンから慕われ憧れられる存在として、林真理子さんを見ているだろーとも思える。大衆の感性で世間を切ってナンボの雑誌の世界も、その感性に変化が生じて来ているのかな。だとしたら未来はあんまり明るくないなー。

 いやいやちゃんと、硬派辛口でもって屹立している雑誌もあると、「噂の眞相」2月号を読みながら考える。そのタイトルも「林真理子の娘が青山学院幼稚園合格! 有名人ジュニアの『お受験』事情」って記事なんかを筆頭に、世の権威と呼ばれる方々の行状にツッコミを入れまくってて、妬み嫉みでいっぱいの胸のつっかえがちょっとだけ取れる。しかし山ほどの有名人の話が出てるのにタイトルにまで持ってこられてしまう林真理子さんが不思議。よっぽど「ウワシン」的に苦手な人なんだろーか。それにしても幼稚園から「お受験」だなんて、名古屋の高校までは公立がごくごく一般的な進学事情とかから見ると不思議なことこの上ない。楽して上まで上がれるのはまあ、悪いことじゃないけれど、普通にやることさえやっていれば、それなりな学校に行けるんだから血まなこになってオシメも取れないガキに挨拶だとかを教え込む必要もなさそーだけど。やっぱり働くのかなー、プライドって奴が。それを煽るのもまた雑誌とかのマスコミだったりするケースもあるからなー。難しいなー。


【1月9日】 でっけえ。のはご本人の身長もだけど、謝罪文の方も負けじと巨大なフォントになった山形浩生さん。これで部分部分の色が変わっていたり、テカテカと点滅してたりしたら見にくいこと、読みづらいことこの上なかったんだろーけれど、そこまでの派手なデコレーションをかけると、その意図に対してまたいらぬ推測とか入ったりするから、気持ちの大きさをフォントの大きさでもって現したんだと言って言える、このくらいの表現が、妥当穏当だったと果たして言えるかそれとも言えないか。反響がぞっくりと復活している辺りにさてはて、再びの反響はあるやなしや。「判決の要旨」で上げられている3つのポイントの「2」あたりなんか、ちょい気になってた部分だけに、反響とか待ちたいところ。

 とりあえず山形さん側から「謝罪文」が出たってことはつまり、控訴とかなくって決着がついたってことなのかな。だったら一体メディアワークスの方ではどんな真摯なスタンス「謝罪文」を掲載しているのかな、って見に行って早速トップページのそれも冒頭に「お詫び」を発見、手早いねえ、なになにえーと「12月13日に発売を予定しておりました『シスター・プリンセス 〜ピュア・ストーリーズ〜プレミアム トレーティングカード』ですが、印刷工程のトラブルから、カードのイラスト面に汚れが印刷されたものが発見されました」だって? 違うじゃん。けどカードに汚れなんてマニアにとっては激怒は必死で泣きたくなる気持ちもギガトン級。詫びてもどこまで許してもらえるかって事件だろーから、トップページのトップでの謝罪も当然至極のこと、だろー。肝心の謝罪文は「シスプリ」ファンへの詫び状を越えるか。

 吉原とか屋形船とか江戸の風情を今に伝えるスポットを回る「はとバスツアー」があったり、シリコンバレーとかシアトルを回ってハイテク企業、IT企業の実態をつぶさに見て来る視察ミッションがあったりするのは知っているけれど、京葉あたりの、それも安売り関係のお店ばかりを回って今時なデフレ時代の実態に触れてもらう「視察セミナー」なんてものが月末に挙行されるって案内をもらって、こーゆーものでも成立する経済環境、経営環境に今はなってるんだなーとため息をつきジッと手を見る。我が暮らし、楽にならないハズだよね。

 回る場所ってのが船橋在住の我が身に何ともくすぐったいこの「視察ツアー」、まずは原木中山あたりか西船橋あたりにある、らしー(行ったことがないからハッキリとは不明)の「ドン・キホーテ原木西船橋店」。僕ん家から自転車で30分もあればたどり着けそーなこの店に立ち寄った次に訪れるのが、こちらは徒歩で3分とゆー100円ショップ「ダイソー」がまるまる1棟を使って展開している「ザ・百円館ダイソー・ギガ船橋店」で、そこから今度は自転車だったらやっぱり30分くらいの、総武線沿線に在住のドール職人さんとかコスプレーヤーさんには御用達らしい「ユザワヤ津田沼店」を回るとゆーコースだったりするだけに、東京からバスを仕立てて行くまでのこともないんじゃないか、って思ってしまったけど、いろんな場所から集まって来る、ビジネスのヒント探しにかけたい経営者たちにとって、まとめて見られて専門家の講義も付くツアーってのは、やっぱり貴重なものなんだろー。

 それにしても、こーして提示されて改めて気づいた船橋周辺のデフレ事情。今はもうなくなってしまったけど、船橋には「ショッカー」の黄色いビルがあって向かいには長崎屋の「Big Off」があって、ディスカウント店が街に溶け込んでいるっぽい所があったけど、親会社の経営難で相次いで撤退してしまった、その遺髪を引き継ぐかのごとく次代のハイパー・ディスカウントな店が出てきて、それなりに成功しているっぽい状況を見るにつけ、地元・名古屋に勝るとも劣らない財布のヒモの硬さを、船橋辺りの人たちは持っているよーに思えて来た。一方で中山には中央競馬の競馬場があり、南船橋にはオートレース場があって公営競馬の競馬場もあったりするギャンブルエリアだったりするから不思議なもの。生活費は極力切りつめたっぷり貯めて、一攫千金を狙う傾向でもあるのかな。意識調査とかしてみてくれたら楽しいかも。

  中村恵理加さん「ダブルブリッド7」(メディアワークス、550円)を読む。アヤカシをぶっ殺したくなる力を得てしまった人間の警官の山崎太一郎が、アヤカシ仲間を脅かす存在にならないよー、片倉優樹の仲間のまるで巨大な熊さんみたいな八牧が挑むとゆー、いよいよ始まったらしー最終決戦へと繋がるプロローグのよーな内容で、ちょっと古いけど望月三起也さん「ワイルド7」の最終章「魔像の十字路」に近い雰囲気があるよーな気がした。つまりはラストに向けてひとり、またひとりってな結構哀しく悲惨な展開が想像できてしまったってことだけど、長く続いてキャラへの愛着もひとしおな人の多いシリーズだし、ハードな「ワイルド7」とは内容も読者層も傾向が違うだけに、天から神さまとかやって来て、ハッピーなクライマックスに変えるおまじないでも出してくれる可能性もあって 不思議ではなさそー。さてどーなるか。虎司にお見舞いに来てもらった安藤希ちゃんの、鯖の押し寿司のプレゼント(それも食べかけ)に嬉しさ激減な情景描写がちょっと好き。ちゃんと食べたのかな。


【1月8日】 「大河ドラマ」で思い出したことあれこれ。いっちゃん最初に通して見た記憶のある大河ドラマは加藤剛さんが平将門を演じた「風と雲と虹と」で、その時の印象があまりに強烈だったからなんだろーか、もとよりお話し自体がトップレベルだったんだろーか、今に至るまで個人的な大河ドラマのベストワンにずっと座り続けている。もっとも、続く「花神」に「黄金の日々」辺りがやっぱりベストランキングの上位に座り続けていることを考えると、刷り込みって現象がたぶん相当に働いているんだろー、将門は加藤剛さんじゃないと落ちつきが悪いし豊臣秀吉はサルって感じじゃないけど壮絶に悶絶して死ぬ緒方拳さんの方が、客観的な人気ではトップレベルにあるらしー「おんな太閤記」の西田敏行さんより個人的には気に入ってる。まあ西田さんだって孫悟空ってよりは猪八戒なんで感じじゃなさではどっこいどっこい。この辺、人気俳優を無茶して使う大河ドラマの”らしさ”の萌芽がほの見えるかも。

 とはいえ実力って意味では揃いも揃ったりって感じがやっぱりする過去の大河。それが一体いつ頃から、人気のある俳優と話題の女優を使って使い倒すよーになったんだろーかって、ちょっと研究してみたくなった。「風と雲と虹と」には草刈正雄さんが出てたし「花神」は高杉晋作役で中村雅俊さん、「黄金の日々」は石川五右衛門が根津甚八さんだったから、当時のトレンディなニュアンスを存分に組んだキャスティングと言って言えないこともないけれど、それを言うなら当時はトレンディであってもそれなりに、演技が出来る人でなければ出ていられなかったってこともあったりする訳で、今の人気だけで並べたキャスティングとは質がやっぱり違うんだろー。そー考えると真田広之さんに高島政伸さんに柄本明さん陣内孝則さんといった芸達者が揃ってた「太平記」は最近だけど凄かったなー。もう無理なのかなー、こーゆー真っ当なキャスティングは。

 他人様が頑張って立ち上げようとしているイベントなんであれやこれやと外野が茶々入れる筋合いのものでもないんだろーけど、この10月に第0回目が信濃町で開催されて、作家に編集者が寄り集まって興味深い話しをしてくれたって意味で、内容面での可能性を見た「ティーンズノベル・フェスティバル」が、3月だかの栄えある第1回開催を目前にして、「ライトノベル・フェスティバル<」へとやらに名称を変更したとかで、なかなかに不思議な気分にとらわれる。

 いわゆる絵つきのティーンが中心になって読んでいる文庫とか時に新書のシリーズのことを差して、人によっては「ライトノベル」と呼び人によっては「ヤングアダルト」と呼んでたりして、中には「ジュニアノベル」という人もあったりして固まっていない、そんな状況だからこそ、どれにも依らない「ティーンズノベル」ってゆー名称を考え使い広めよーとしていた節があっただけに、ここに来ての名称変更には、いったいどーゆー理由があったんだろーかって考えてみたくなる。まさか第0回目のイベントにティーンがほとんどいなかったんで、「ティーンズノベル」の名称はちょっとそぐわないって思ったのかな。

連絡網なんかを読むとどーやら編集者の人たちから、すでに「ライトノベル」ってゆー名称が定着してるんだからそっちを使った方がいいよってアドバイスがあったそーで、なるほど編集者的にはすでに「ライトノベル」がデファクトなのかって思ったけれど、これってホント? ってゆーか、編集者的の意見もさることながら、書いている作家的に「ライト」な「ノベル」ってゆー言い方を、してくれて良い人もいるけどあんまり前向きにとらえていない気もして、後々どーゆー反響が出て来るんだろーかってヤジウマ的な興味がモコモコとわき出して来る。

まあ、別にジャンルの名前で「ヤングアダルト」派と「ライトノベル」派が激しいバトルを繰り広げているって話もそんなに聞かないし、呼び方云々よりもむしろジャンルとしてぐんぐんと広まっていって読者が増えて作家の数も多くなって、素晴らしい作品がそから生まれてくれれば読者的にはオッケーなんで、釈然とするしないは脇に置いて、とりあえず開催も近い第1回目の会合が、どれくらいの規模と内容を持って開催されて、「ライトノベル」なるもののパワーを見せてくれるか、って方に期待をかけて告知を待とう。13日に開かれる「SFファン活動を考える会」の会合に「ライトノベル・フェスティバル」の事務方の偉い人とか来るみたいなんで、変更の訳とか知りたい人は行ってその辺、小一時間ばかり問い詰めよう、出席者1人につき小一時間なんで10人 続けば小十時間になるけどね。

 そうそう、もともとは「ライトノベル」でも「ヤングアダルト」でも「ティーンズノベル」でもあったけど、今や定説として1人でジャンルを背負って立っていることになっているらしー「あかほりさとる」さんの新刊が、レーベルとしてのヤングアダルトでもライトノベルでもない光文社の「カッパ・ノベルズ」から刊行される予定とかでちょっと吃驚。「日販週報」に出ていた広告によると、そのタイトルも「霊都清掃★『こいまげ。』」ってゆー小説は、霊的な事件を”清掃”する部局が「東京都清掃局」に作られているって設定で、それはそれでヤングアダルトの退魔師的な赴きがあるけれど、そこは自らを”外道”と呼んではばからないあかほりさん。霊の「清掃」には事件に巻き込まれた女性の霊的浄化が必要で、その方法は……ってな感じの、ティーンズ向けではできない描写を見せてくれている、らしー。

 広告に掲載されているイラストは担当しているのが佐野浩敏さんって人だけど、描かれている男はどーでも良いとして、女性の方はもちろん巨乳で且つ眼鏡っ娘とゆー「あかほり」調。つぶらな瞳が今時現実世界では貴重なものになってしまったまんまる眼鏡から透けて見えるその表情、量感もたっぷりな形のよい乳房がこんもりと盛り上がり、分厚い布地なのにも関わらず乳頭がツンと尽きだしたそのバストの描写は、根っからのジャンル「あかほりさとる」のファンに限らず、ハードボイルドに官能にビジネスに時刻表に小京都に三毛猫といった、大人向けノベルズの本線を楽しんでいるオジサンたちまで、きっと魅了して止まない、と思うけどどーだろー。 ともかくも「ヤング」の取れた「アダルト」の世界でどこまでジャンル「あかほり」を確立できるか。期待しつつ売れ行き反響を見守ろー。

 日販の文庫新刊予定から見繕う。をを、「ソノラマ文庫」からは神野オキナさんの「南国戦隊シュレイオー」に待望の続編「ダマスカス・ハート」(朝日ソノラマ、495円)が登場だ、って何が「ダマスカス」? 「角川スニーカー文庫」からは「竜が飛ばない日曜日」(角川書店、514円)の咲田哲宏さんに待望の新刊「水の牢獄」(角川書店、500円)がリリースの予定でこれも楽しみ。稲生平太郎さん「アクアリウムの夜」(角川書店、500円)はイラストが緒方剛志さんでどんな絵になるのか楽しみってゆーか面白そうってゆーか。「電撃文庫」からは渡瀬草一郎さん「陰陽ノ京」に待望の続編が。けどイラストが酒乃渉さんって人になっているのは何故? あと新人なのに齢50歳とか噂されている田村登正さんの「電撃ゲーム小説大賞」受賞作「大唐風雲記 落葉の少女」(メディアワークス、510円)もいよいよ登場。どれだけの筆の持ち主なのか、乞うご期待。まさか旧仮名遣い、じゃあないよね?


【1月7日】 子供はしばらく見ないうちに大きくなるとは知ってたし、女性も変わる生き物だってそれはもう強く認識していたけれど、鼻でも垂らしてたって不思議のないガキのお子さまの少女が5分だか10分後にはまるでおきゃんな女性に変身してしまうとは、人間の想像なんてたかが知れていると、NHKのトレンディ大河ドラマ「利家とまつ」のまつの方の成長ぶりを見せられ深く反省させられました、ってそれはちょっと違う? うーん時間がポンポンと飛ぶドラマの中のこととは言っても、それでもあまりに育ちすぎのよーな気がするんだよなー。せめて間に加護ちゃん辻ちゃんレベルが挟まってれば。松島菜々子さんとちょい顔、違い過ぎるけど。

 戦国時代なら信長、鎌倉時代なら義経、元禄なら赤穂浪士で明治維新なら官軍幕府軍のうじゃらうじゃらいる英傑元勲の誰かを出しておけば話がグググッと引き締まるし、見る人の興味もたっぷりとそそられるのが大河ドラマの常。なかでも信長の存在感には、今の小泉首相が信長に例えられてまんざらでもないよーに、人の心を引きつけて止まない圧倒的なものがあるよーで、「利家とまつ」でも信長の”おおうつけ”ぶりが画面に映し出される度ごとに、その破天荒ぶりへの憧憬が沸き、将来の暴君ぶりへの驚嘆が目に浮かんで気持ちを引きつけられる……と言いたいところなんだけど、反町隆史さん演じる信長にはちょっと困ったところがあって、興味より先に立つ心配があある。

 なるほど立ち居振る舞い見目形こそは、若さほとばしる信長に見えないことはない。けれども声が、あのくぐもった声が凄みより前に聞きづらさを耳に感じさせて気が萎える。せめて甲高く叫ぶなり、腹から太く吠えるなりしてくれていれば良いんだけど、妙に演技しようとしているのが悪いのか、ゴニョゴニョとしてしまって何を言っているのかが耳へと届いて来ない。唐沢寿明が持ってる軽さを出してまずまずで、柴田勝家の松平健は暴れん坊将軍で菅原文太は釜爺なだけに、肝心要の役所の信長の浮きっぷりってゆーか沈みっぷりが目と耳についてしまう。耳に慣れてくればそれでも聴けるよーになるのかな。あるいは天下のNHKがここからしっかり鍛えてくれるのかな。どっちでも良いけどとりあえず何とかなってくれないと、松島菜々子のひたむきさを才能と取り違えているかのよーな、突っ込み過ぎて滑りまくってる演技ばかりが、突出して目立って目に痛いよ。

よく知らないけどアメリカだと、医療でホントに「リラクゼーション、ヨガ、音楽療法、アロマテラピー、気功や手かざしのヒーリングなどが有名医大の医師の処方にも加わ」(81ページ)ってるんだろーか。エリコ・ロウって何だか占星術師みたいなペンネームだけどれっきとした日本人のルポライターさんの「聖なる旅の教え」(扶桑社、1714円)に書いてあることなんだけど、他にも「鉱泉地などでは、マッサージや様々なセラピーが受けられ、スポーツやアートも楽しめるスパ・リゾートが人気を呼んで」(同)て「人の心身と環境を統合的に考え、根本からの癒しを図るホリスティック医療を率先して取り 入れだした」(同)とも書いてあって、オカルトとまでは言わないけれど科学ともやっぱり言いにくいものでも、前向きに取り入れてるっぽいアメリカの実状が伺えるし、あのアメリカが取り入れるんだったらヒーリングだってヨガだって、根拠のない気分だけのものじゃないんだってことも裏付けられたよーな気がしてしまう。まあ病はもとより気から来るものなんだけど。

 まあ、エーゲ海にケルトの地にネイティブ・アメリカンの住む地を訪ねて、人間が長い歴史の中で大事にして敬い崇め奉って来た、神とか精霊と自然とかいったもののを見直そうってゆー主張の本なんで、”スピリチュアル万歳”な主張でもってアメリカでの本当のところはごくごく一部の動きであっても、それを我田引水気味ってゆーか牽強付会気味に引っ張り出して、「アメリカではそうなってる」って権威をつけて自説を補強しよーとしている可能性は皆無じゃないけれど、実際問題、病気の源は痛めつけるけどいっしょに人も痛めつける場合もある現代医療、医師とか看護婦とかの過誤によって無体にも命を失ってしまう人の大勢出ている現代医療のこれもやっぱりごくごく一部ではあっても現に出ている様を見てしまうと、”癒し”とゆー耳障りのよい言葉にも後押しされてスピリチュアルなものが目に優しく見えてしまう。でもってついつい信じてしまう。

 最先端の医療技術なり薬の技術があって初めて延びる命も山とあったりする訳だし、ほどよい自然ならまだしも、毎日が超ハードなヨガ的状況の連続で、頭からは太陽の神が照りつけ家の中にまで風の精霊が吹き荒れているよーな、超ヒーリングな暮らしをしている人たちにとって、スピリチュアルなものなんて生きる上での敵でしかなく、現代医療こそが命を救ってくれるものとして映ったりするもの、だろー。その辺、踏み間違えると単なる文明人のエゴになりかねないだけに、扱いに難しいところだけど、少なくとも現代の都会の忙しく世知辛い社会に生きるものにとって、正午を過ぎればどこの店も窓を綴じ扉を閉め、誰もが夕方までのお昼寝に入るエーゲ海の暮らしはそれで楽しそうだし、自然の中で精霊の声に耳そばだててみるのも悪くはない。”スピリチュアル万歳”な主張はそれとして、綺麗な写真と丹念な現地ルポを読みつつ奢りを奢りと意識しながらも癒される気持ちに浸ってみては、どーでしょー。「ストーンヘンジ」見に行きてーなー。

 とりあえずは単なる”狂言”なんだと思うけど、世が世だけにあるいは国際謀略なりが絡んでたりするんだろーかと妄想してしまった「江ノ島からスパイが上陸した事件」。考えれば真っ暗な状況で崖をよじのぼる工作員のジャンパーにまで着替えた姿が分かるはずもないんだけど、そーゆー状況を知ってか知らずか折しも近くを通りかかった北朝鮮の貨物船に立入検査を敢行してしまう海上保安庁なり警察の様子を見ていると、可能性としてもしかして、ニセでもいいから情報を通報してもらってそれを理由にアヤシゲな船の本当に怪しい証拠でも上げて点数を稼ごうとしたんじゃないか、なんて思えてくる。つまりはヤラセって奴ですね。も

 もっともそこまでのあからさまなヤラセでは後でバレた時のリアクションのすさまじさったらない筈で、流石にやらなかっただろーと解釈するのが普通の思考。むしろ誰かに依頼された”狂言”に踊らされ、不審船の事件もあって浮き足立っていた官憲が、何故かタイミング良く沖合いを航行していた船に臨検をかけてしまって後で”狂言”だと分かって平謝りに来る、それでカードを得ようとしたのかも、なんて妄想も浮かんでしまう。まあトーシロが考えて考え付ける謀略が、謀略になんてなる筈もないからやっぱり奥さんと喧嘩して怒り心頭の男の全くの”狂言”だと考えるのが普通なんだろーけれど、そー考えるだろー裏の裏を狙った、なんてこともなきにしもあらず、だったりする更にその裏をかかれてたりする可能性とかを考えながら、大人の社会って複雑だなーと溜息をつく冬の空。平和だねえ。


【1月6日】 しなければならなさそーな事があってもあんまり、やる気が沸かないんで1日を寝て過ごす。ちょっとシアワセ。とはいえしなければならない事の準備も少しはしておかないと間際になってジタバタすると思い直して、栗府二郎さんの発売自体はもう2年くらい前になるんだけど分厚さになかなか手が出せなかった「創星の樹」(電撃文庫)を1巻から3巻までザザザザザッと読み通す、面白いじゃん。時代とか不明。場所も地球なのか分からないけど想像するに人間が進化して文明を発達させた果てに便利なテクノロジーを生みだしたものの、お約束ってゆーかやっぱりってゆーか最終戦争めいたものを起こしたかして文明を衰退させ、今は機械なんかに頼らない暮らしをしている。

 いっぽうで機械は機械で自らを進化させて知能も得て、情報を集めそれを守る仕事なんかをしつつ、コミュニティを作り世界の秩序を守るっぽい仕事もしていて時にはワルダクミなんかもして人間と、そして人間に良く似ているけれどどこか違ってるんだろー亜人たちなんかにちょっかい出しつつ時を送っている。亜人はといええば人間とは離れてコミュニティを作り、「夢姫」ってゆー夢だかテレパシーだかでつながった女性たちの一段に支持を受けながら暮らしてる。そんな感じにおおまかに、人間と亜人と機械人との3つの勢力があって、他にも独立心旺盛な機械の一群とかもいるってゆー世界が、どーやら大きく変わろーとしてるってことを「創星の樹」では描こーとしているらしー。

 人間の少年がいて夢使い候補の亜人の少女がいて、ボーイ・ミーツ・ガールして運命を授けられる1巻から続く2巻では、偶然にも大きな使命を追わされてしまった少年がその使命を果たさせられるべく機械の都っぽい場所に連れてこられていろいろ事件に巻き込まれる話が描かれる。いっぽう亜人の夢使い候補の少女の”その後”が第3巻で描かれて、結構奥深く幅広い世界観なんかが飽かされた果てに、少女のこっちはこっちで少年に勝るとも劣らない使命ってゆーか運命が明るみに出て、なかなかにシビアな展開が示される。

 1巻で登場した2人の主要キャラクターの立場が2巻、3巻で解説されたってことで続く4巻では大きく物語りが動くだろーことが予想されるけど、肝心の世界の成り立ち自体についてはまだまだ断片的な情報しか与えられていなくって、さても彼ら彼女らの住む世界ってのはどんな場所なのか、どんな秘密があるのかってことの解明も含めて、早の刊行が待ち遠しい。造語の手触りとそこから類推される疑似世界っぽい雰囲気がとてつもないドンデン返しを見せてくれそーな予感。期待するけど、登場はさて何時になることやら。「NANIWA捜神記」(メディアワークス、587円)以降、その軽やかな筆さばきと重厚で人間ドラマに溢れた物語力を注目したものの、上遠野秋山古橋三雲阿智等々のマニア受けして一般受けもしつつある”電撃ライターズ”の活躍ぶりにちょっぴり霞んでたっぽい栗府さんだけど、落ち込まずふてくされず隠れず消えず文句も言わず、しっかりと、そしてどっしりと足場を固めて来ています。ブレイクも近い(と思いたい)。

 こちらは来月回しなんで急ぐ必要はないんだけど、読み始めたら面白さに一気にラストまで読んでしまった三枝零一さん「ウィザーズ・ブレイン2 楽園の子供たち」(電撃文庫、690円)。事故だか陰謀だかで地球全土が冷え切った状況におかれた中、2000余りのドームに移り住んで命脈を保っていた人類だったけど、またしても起こしてしまった戦争によってたった7つのドーム都市しか残っていなかった、そんな世界を背景に日本に残っていた神戸のドームの命運を描いた第1巻「ウィザーズ・ブレイン」(メディアワークス、610円)から舞台を一転、高度2万メートルに浮かぶ研究施設で日々訓練に明け暮れる4人の少年少女の過酷な運命が第2巻では描かれる。

 圧倒的な戦闘能力を持ちながら底抜けに明るい性格の言動がとにかくおかしくて、彼女を取りまく環境のすさまじいばかりの厳しさとの対比に知らず涙がにじむ。人に拠っては「最終兵器彼女」っぽさとか例によっての”アヤナミ”っぽさを言うかもしれないけれど、そんなものを越えて心に痛みと切なさが迫り、それでも前へと足を踏み出す勇気を与えられる。つくりもののよーなほのぼのとした日常が一転、過酷な日々へと転じるあたりのどうにも言いようがない哀しさに胸が痛み、どーしてそっとしておいてやらなかったんだ、ってな憤りを作者についつい向けたくなる。クライマックスへと連なる場面にいたっては号泣もの。最近の「電撃文庫」はデビュー後に立て続けに本を出す人が多くって、一人沈黙してた三枝さん、もしかしてこのまま消えてしまうんじゃないか、なんて心配もしたけれど、沈黙の果てにかくも楽しく悲しく美しい物語を送り出して来るとは、さすが”実力派”続々登場のレーベル出身だけのことはある。でも次巻はもうちょっと早く。

 DVDを見て小説も読んだ、ものはついでとコミック版の「怪童丸」(古結あかね、角川書店、540円)も読んでみる、なんかこれが1番分かりやすいし面白い。まあ少女漫画っぽい絵で美少女として描かれている怪鬼丸こと坂田公時を見られることが面白さの1番の要素になってはいるんだけど、物語自体も京の都に迫る謎の姫君とその公達がいったい何者で、どーゆー理由からそーゆー行為に出たのかって辺りがちゃんと説明されていて、押しつけられた呪いから逃れられない運命の悲しみみたいなものが感じられて、読んで胸にジンと来た。どーして怪童丸が男のなりをしていたか、ってあたりの説明を小説版から借りて来れば、なお深み厚みが出るんだけど。やっぱり映画とかTVシリーズとかでちゃんと描き込んで欲しいなー。同時収録の外伝ってゆーか前日譚っぽい「夢霞」は怪童丸のスッポンポンが見られてなお目にグッド。けど源頼光、最初に出会った時から結構時間が立ったこの時まで、怪童丸の真実に気付かなかったのかな。


【1月5日】 エアコンつけっぱなしで電気代がウナギ上りに上がっていく音が、フトコロの奥へと響き始めたんで節約のために散歩に出る。何か良い番組でもやっていたらと思って本八幡にある行き着けの場末な映画館に行ったらこれが何と。去年の10月で4つだかある劇場が全て閉館になっていてちょっと驚く。夏に「千と千尋の神隠し」の封切りを見て以来、しばらく立ち寄ってなかったんだけど、こんなことなら秋の何本かは見ておくんだったと後悔する。1番くらいに大きな劇場にあった「中国ファンドは山一証券」と書かれた緞帳とかどこに行ってしまったんだろー。映画に付属するアイティムとしても、また20世紀に栄え滅びた会社の遺物としても結構貴重な品物だったんで、全部は無理でもそー刺繍だかしてある部分だけでも切り取って保存しておいて欲しかった。館内とかにまだ下がっているのかな、山一OBの人たちには是非、救出を願いたいところだけど、それどころじゃない人の方が多そーだし、メリルリンチも個人営業撤退とか言ってるし。

 なるほどシートはボロボロだったし音響とかは適当だったしスクリーンだって暗めで観客に決して優しいとはいえない劇場だったけど、設備はどーでも作品そのものを見ることに関しては別に支障があった訳でもないんで、むしろ近所にある豪奢な「バージンシネマズ市川」なんかよりも個人的には好きだった。家から電車で3駅でたどり着ける場所にあるってことで朝、目が覚めてそれこそサンダル掃きで行ける劇場として重宝してたし、大劇場は人が少なくっていつも良い席で見られるって点も良かった。ウナギの寝床みたいな小さくてタテに長い劇場もそれはそれで味があった。「クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶモーレツ」も「ホーホケキョ となりの山田くん」も見たのはそのウナギの寝床劇場。今日日の試写室よりも劣る設備だったけど、見たくて見に来る子供たちでいっぱいの空気が娯楽としてちゃんと映画を見ているんだなあ、って気分にさせてくれた。もう味わえないんだなあ、あのゴチャ付いた雰囲気は。

 場末感漂うって意味でフッと思い出したのは名古屋の川原通りにあった「宮裏太陽」って劇場で、鉄骨をトタン張りでもしたんじゃないかと思わせるよーな、プレハブの小屋を大きくした建物が、昭和20年代とか30年代の映画全盛期の遺物って感じを出していた。昭和の40年代辺りとかは、前の通りをバスで通る度に看板とかが代わってて、それなりな賑わいがあったよーに記憶しているけれど、高校時代、家からケッタ(自転車)を漕いでリバイバルとかされてた「ルパン三世 カリオストロの城」を見に行った時は、観客席に人はまばらで、まあ番組が番組だってこともあって少ないのかと思ったけれど、その後「ナゴヤ・プレイガイド・ジャーナル」のプレゼントで当たったタダ券を使って何本か見に行った時も、観客の数にそれほど差はなく斜陽っぽい感じを醸し出していた。ここも気が付いた時には閉館になっていて、最後を見取れずちょっと悔いが残ったっけ。シネコンの対極を行く映画館だと浅草とか、名古屋でも栄の東映会館とかに今でも残っているけれど(「サクラ大戦」見た劇場、古かったねえ)、このご時世、どうにかなるんだろー可能性は決して小さくないんで、そーなる暁には行って”昭和最大の娯楽”の残り香を、堪能して来るとしよー。”昭和村”とかにでも移築されれば良いんだけど。

 仕方がなく神保町で本など見物。立ち寄った「三省堂書店」でアニメムック界隈とかアニメDVDのライナー界隈とかで偉くなりつつある人が本を買い込んでいる姿に遭遇する。けど偉くなる渦中にある人だけあって名古屋の言葉で言うところのエラさ、すなわち疲れもピークに来ていたよーで、正月明けだってのに「こげぱん」みたいにドンヨリしていてアニメライター界隈で仕事することの厳しさを垣間見る。でもやってて楽しいアニメの仕事で疲れるんだったらそれは本文、モノカキのプライドもジャーナリズムの矜持もかなぐり捨てて、ひたすらに金儲けとポジションアップに明け暮れる人たちの中で徐々に落ちこぼれていく苛立ちに、開き直った明るさで対抗しつつも果たせず、骨まですり切れかけてる見には、それはそれで羨ましく映る。勤続10余年でも”獣の数字”でしかなかったメディア業界にあるまじき1999年の年収から諭吉で10人分すら増えてなかった2001年。潮時かなあ、やさぐれてえなあ。

 とゆー訳で明日のために読書。紹介は保守本流の人にとられてしまったけれど、やっぱり読んでおかないと2002年の「SFシーン」について行けなくなるってことで、名古屋に帰った時に買ったんだけど読む心のゆとりがなく棚上げしていた古橋秀之さんの「ハラキリ・レンズマン」……じゃなかった「サムライ・レンズマン」(徳間デュアル文庫)を読む。座って向かい合うことで強さを競うシーンとか、責任を感じたらハラキリして詫びる態度とか、なるほど「007は二度死ぬ」なんかに出て来てそーな、日本的、武士道的な要素を色眼鏡で解釈した描写が山ほどあって、「んなわけねーだろ」と「爆笑問題」田中調のツッコミを入れながら読みたくなる気持ちを、持つ人がいっぱいいて不思議はないとは思ったけど、はるか未来って舞台設定を考えると、案外にそーなってたりする可能性もあるんじゃないかとも思えて来て、カリカチュアライズされているにも関わらず、妙に腑に落ちてしまった。

 もとより「スペースオペラ」自体が大袈裟さ、荒唐無稽さと親和性の高いジャンルなんで、日本刀でもって銃とか持った相手と戦って勝ってしまう描写があってもそれほど違和感を覚えない。主人公の”サムライ”レンズマン、確かに強いことは強いんだけど、刀ではかなわない相手もいるんだってことになってるし、ましてや喝して星を落とすとか、刀の先から光線を出して惑星を輪切りにするとかいった描写もない。ヒーロー者、超人者をパロディにして荒唐無稽さ、大袈裟さをエスカレート気味に書いて笑いを誘う作品なんかが蔓延るやさぐれた時代にあって、「サムライ・レンズマン」は「レンズマン」のパロディとしてなんかじゃなく、純粋に世界を引き継いでちょっとだけ拡張して、現代に甦らせようとしたポジティブなスタンスの作品として、諸手を挙げて受け止めてあげたいけれど実際のところはどーなんだろー、やっぱり笑いながら読む作品なんだろーか。英訳とかされて向こうで発売されたとしたら、どーゆー受け止め方をされるのかも知りたいところ。案外と大袈裟とも荒唐無稽とも思わなかったりして。


【1月4日】 まいりました。御免なさい。許して下さい。と、心の中でおよそ198デシベルくらいの声で叫んだ後、ネクタイをハチマキにして靴を左右逆にはき、「ええじゃないか」と踊りながらそこいらへんを30分ほど、駆けずり回りたくなったのが、僕だけだったのかそれとも日本全国に1万人はいたのかはっきりしたことは知らないけれど、まだ見てない人のためにあらかじめ忠告しておくなら、本屋にいっても雑誌のおそらくはビジネス関係の月刊誌が並んでいる棚に近づく時には、心の中で十字を切って首からはニンニクのネックレスを提げ、手に写経した般若心境を持ち全身にリグ・ヴェーダを書き記しておくことをお勧めしたい。瞼の裏にもちゃんと書いておくこと。でないと見たその目から神経を辿って影響が脳髄へと及ぶことは必至だろーから。

 そのキャッチフレーズも「林真理子全1巻」とか何とかいった宣伝会議刊「編集会議」の最新号。背後に担当編集者をずらり並べて悦にいる作家の何とも味わい深い表紙がもともと話題の雑誌で、登場する作家さんたちの実に微妙に蒸し暑い感じが手に取る人に汗の吹き出る夏の賑やかな感じを与えてくれたけど、そんな微妙な位置取りをした貴重な作家がそー何人もいるはずもなかったのか、今、店頭に並んでいる号では前にも背後に担当編集者を侍らした林真理子さんを大フィーチャーして大特集していてまず吃驚。雑誌が1人の作家にスポットを当てて雑誌の半分とかを使って大特集するケースは過去に幾らもあって別に珍しいことではないんだけれど、この「編集会議」、1つの実用的な就職情報関連の連載と逸品を紹介する連載を除いて一切のコラムも連載漫画も外されていて(それともすでに終了してたとか)、林さんの近況なり林さんの担当編集者の紹介なり、林さんの過去のコラムの名作なり林さんの著作一覧といった具合に徹頭徹尾、それこそ表紙から裏表紙までが”ハヤシマリコ”一色で埋め尽くされている。”早くも才能のキラメキが! 「小中高校時代の詩と作文」”って中身もだけどタイトルもちょっと凄い。

 「編集会議」で真っ先に読む西原理恵子さんの連載までもが林真理子さんへの賞賛に溢れた漫画に……なっていたらちょっとは心に涼やかな風が吹いたかもしれないけれど、そこは雑誌づくりにかけては妥協を許さず、常に意表を突くことで風雲児の名を恣にした花田紀凱編集長。西原さんの連載なんてものにスペースを割くよーなヌルいことはせず、「文藝」とか「小説新潮」の別冊みたく、1人の作家なり評論家なりを取りあげたムックっぽいものを作るなんてこともせず、レギュラーの雑誌にしては多分、過去にもないし未来に果たしてあるんだろーかと悩み悶えたくなる雑誌を作ってしまった作りやがった。表紙を見ても林さん。ページをめくっても林さん。コラムを読んでも記事を読んでもすべてが”ハヤシマリコ”色に染め上げられていて、近寄るだけであの熱さとゆーよりは熱さを感じさせて病まない声、あの自分の素晴らしい所を一切のてらいも持たずに語り倒している素直で純粋な文章が皮膚を経て体の深い所へと迫って来る。まいったなあ。

 雑誌の常識を破るって意味ではなるほど、この試みの凄さは凄さとして認識しなくっちゃいけないんだろーし、林さんに1冊の雑誌を支えるだけのいろいろな面があって、そんな雑誌を買ってもらえそーな読者がいるってことも認めよー。けどねえ、”ハヤシマリコ”にまるで興味のない人間にとってこの号は正直手が伸びない。バックナンバーとして数そろえて来た人がそーだったらどーだろー、半分以上の大特集を組む雑誌でも連載コラムや連載漫画はちゃんと残してそーゆー連載を楽しみにしている人にも、まあ買っておくかって気にさせたんけど、この号ばかりはちょっと厳しい気持ちになるんじゃなかろーか。

 雑誌づくりのウルトラなプロがやったこと故、雑誌は読むだけで作り手として携わったことのない人間がどーしたこーした言える筋合いのものじゃないんだろーけれど、それを承知で言うなら破って良いセオリーと破っていけなかったセオリーの、後者により比重がかかってるよーに思うんだけど、どーだろー、雑誌読みのプロの人たちはどー思ったのかな。これから「編集会議」が同じフォーマットで行くのかどーかは知らないけれど、行くんだったらやっぱり過去の表紙に登場した人たちが、どかどかどんどんと出てきては中学校の時の作文とか、小学校の時のラブレターとか幼稚園の時の髑髏とか、披露して見せてくれるのかな。椎名誠さんかしりあがり寿さんだったら買ってもいーけど。柳美里さんだったら林さんとは正反対の清涼感が読んで漂うんだろーなー。怖いなー。

 まいった、驚いた、感動した。と、テレビを見ながらこちらは声に出して突っ込んでしまった小泉純一郎首相の年頭記者会見。だってねえ、和服だよ、紋付き袴だよ、やってくれるよまったくもう。和服で国会に行く会とか何とかあって確か森前首相なんかもはいってたから小泉さんもその片棒を担いでたのかもしれないけれど、そーゆーイベント性のある場じゃなくって毎年恒例の極めてオフィシャルな、それもおそらくは世界中に中継されるだろー年頭の記者会見で和服を着て登場した首相の姿を見れば、やっぱり驚かずにはいられない。イスラムの人がイスラムな格好しててもおかしくないのは最近のニュースを見れば明かだけど、一応は先進国と呼ばれる国を代表する総理大臣が、先進国の誰もオフィシャルな場には着て来ない”民族衣装”で登場するんだろー。

 中国の江沢民主席だって最近は公の場に人民服を着て出てくることはなくなったし、天皇陛下だって一般参賀には着物じゃなくってスーツ姿で登場したってゆーのに、敢えて和服を選んで着てくる所に意表を突き、且つそれが案外とサマになってしまう小泉首相のキャラクターの特異性と優位性を見た思いがした。どーせだったら正月に限らずすべての国際会議に紋付き羽織袴で出かければ、主張に一本筋が通って良いんだけど。来年もまだ小泉さんが首相をやっていて、年頭の記者会見を受けるんだったら首相官邸詰めの記者連中の男子は同じく紋付き袴、女子は振り袖でも留め袖でも着て首にはフワフワの毛のアレを巻いて、一問一答なんてしてみてはいかが。中継された映像を見て海外のメディアもきっと日本の素晴らしさをそこに見出し、歓喜にうち震えるだろーから。「オー、カブキ、ゲイシャ、タイコモチ」とかって叫びながら。


【1月3日】 「ブリッジストーン、サーーウンドハイウェィ!」ってかけ声で頭が80年代になる。叫んでいるのは勿論小林克也。「MTV」がまだ世に出ていなかった1981年にスタートして、「ビートルズ」でも「ボブ・ディラン」でも「レッド・ツェッペリン」でもない(どーゆー並びだ、こりゃ)”洋楽”ってものがあるんだってことを、音楽に疎かった僕に教えてくれた名洋楽番組「ベスト・ヒット・USA」が、どーゆー理由からかこの2001年に復活。81年から89年までのチャートの紹介とか、登場したアーティストの紹介とかを見ながら名古屋で何曜日だったか忘れたけれど割と深夜、寝静まった親が起きてこないようボリュームを絞って聞いていたことを思い出して懐かしさに咽び、当時抱いていた夢の未だかなわない悲しさに涙を流す。あの頃は(ハッ)。

 「ON・AIR」って看板が光るセットも当時のままなら、「チャート」があって「ピック・アップ・アーティスト」があって「タイムマシーン」があるとゆー構成も当時のまんま。そもそもがちゃんとブリジストンのスポンサーになってるって辺りが最高で、だからこそオープニングのかけ声も昔懐かしい「ブリッジストーン云々」になった訳で、米国でいろいろあって経営的には厳しくっても、当時の若かった洋楽ファンに「ブリジストン」のブランドネームを植え付け多大な貢献をした、かもしれない番組への恩義を忘れないブリジストンに心からの拍手を贈ろー。どーせだったらCMも当時流行った「ポテンザ」に「レグノ」だったら良かったんだけど、さすがに商品までは当時のまんまとはいかないか。「タモリの今夜は最高」が復活したってCMが「プライベート」にはならないよーに(ちょっと記憶曖昧)。

 10代から20代にかけた陳腐な言葉で言うなら”セーシュン”のど真ん中を見事に貫いている番組だけあって、出てくる曲、流れる曲が何もかもみな懐かしい。「ジェイ・ガイルズ・バンド」に「シーナ・イーストン」に「オリビア・ニュートン・ジョン」に「ダリル・ホール・アンド・ジョン・オーツ」、「プリンス」「ポリス」「フォリナー」「クリストファー・クロス」「キム・カーン」「レイ・カーカー・ジュニア」「ライオネル・リッチー」「ジョーン・ジェット・アンド・ブラックハーツ」「ワム」「リック・アストリー」エトセトラetc。今もちゃんと残っているアーティストもれいば今はとんと名前を聞かない(「メン・アット・ワーク」なんて当時もすぐさま名前を聞かなくなったし)アーティストもいるけれど、聞けば適当な英語の歌詞が音で持って脳裏に甦ってくるくらい、よく見たし良く聞いてたってことを改めて思い出す。ポリスの「見つめていたい」なんて何言ってるか分からないけど何となく音だけはたどれるんだよねー、あとリック・アストリーの一発屋ヒット曲とかも。

 それにしても偉大なのはやっぱり「マドンナ」とそして「マイケル・ジャクソン」の2人。80年代の中盤から出てきてかれこれ15年経った今現在、2人とも消えるどころか立派に世界の2大アーティストとなって音楽業界に君臨してる。マイケルについては「ジャクソン5」の頃からもちろん立派に活動していたけれど、ミュージックビデオ全盛の80年代中盤以降、その派手なダンスを前面の押し立てて一気にスターダムにのし上がったって感じがあって、その意味で番組でも言っていたけど、80年代に特徴的な”ビデオジェニック”なアーティストだったと言えそー。美人のマドンナは説明無用。個人的には「ライク・ア・バージン」って曲がどーにも好きになれなかったんだけど、レオタードでイメチェンして81年のトップに立ったオリビア・ニュートン・ジョンがその後あんまり出てこなかったことと比べると、顔とかスタイルだけじゃない何かがマドンナにはあったし今もあるってことなんだろー。久々に同朋舎から出た写真集「SEX」、読み返して見るか。

 頭が80年代へと戻って懐かしさに咽び泣くついでに、80年代も中期の84年に公開された「うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー」のDVDを見返す。DVDをフロリダに行ったときに買ってきた米国製でラムがおばちゃん声で喋るってなかなかに楽しい盤だけど、アメリカおたく向けに日本語音声だって入っているから、ちゃんと平野文さんの「だっちゃ」声で聞けるのです。見て思ったのはなるほど懐かしいことは懐かしいけれど、今見ても立派にストーリーとして楽しめる映画になっていて、口うるさいアニメのマニアから今をときめく哲学者までがハマったのもよく分かる。無論探せば矛盾もあるし、キャラクターの配置とかにある程度予備知識がなければ理解するのは難しいけれど、ある程度決まったキャラに決まった世界観の中で紡がれるストーリーだと限定すればやっぱり最高レベルに楽しめる。

 感じたのは、キャラだけ出しておけば物語なんか無関係に勝手に萌えていられるかってゆーと、「うる星やつら」はそーじゃなかったなあ、ってことで、原作でもラムは確かにヒロインだけど、むしろ周囲のキャラが織りなすドタバタの楽しさを喜んでいたところがあって、アニメでもラムちゃんが出ていればオッケーとか、サクラさんが巫女さんしてればバンザイとか、竜之介がサラシ巻いてばラッキーとかって当時も思わなかったし今もあんまり意識しない。これが最近だとナジカがパンツ見せてくれればサイコーだとか、こころが「にこにこりん」してくれればハッピーとかって言って喜んでしまう辺りに、意識的なのか無意識的なのか動物的なのかは不明だけど、後世に刷り込まれた”アニメの見方”ってものが伺える。初心に帰るべきか否か。陽春のアニメを見て考えよー。「ギャラクシーエンジェル」とか(無理だって)。

 起き出して「ライスボウル」へ行く。江戸時代、奇跡的な豊作に喜んだ東北の某蕃が、その収穫を感謝するためにとれた米を炊いてボール状、つまりは”おにぎり”にして東西に別れてぶつけあった「米合戦」に起源を持った日本に伝統的な行事で……ってが冗談だとゆーことは周知で、だから「ライスボウル」が雪上で戦う雪合戦よろしく一面に炊いたご飯を敷き詰めた上で戦うんじゃないってことも知っているだろーから、ここは素直に言っておこー。「甲子園ボウル」を戦って勝った大学生日本一と、「トーキョースーパーボウル」を戦って勝った社会人の日本一とが「東京ドーム」で真の日本一をかけて戦うアメリカンフットボールの試合が「ライスボウル」。地域なんかのナンバーワンを決める試合と特産品にかけて「オレンジボウル」「ローズボウル」「コットンボウル」「シュガーボウル」「ソルトボウル」「ペッパーボウル」と呼ぶ米国になぞらえた予備か勝ってことになる、って「ソルト」に「ペッパー」ってのは何だ?

 試合はチアリーダーを比べるなら説明無用に若さも良も関西学院大学の圧倒的な勝利で、社会人チームだけあって「アサヒ飲料チャレンジャーズ」の方はパッと見なかなかに重力面での地球との親和性の高さを誇る人たちがいて、3塁側に席をとったのはマズたかなー、って思ったけれど試合が始まってみるとこれがなかなかに踊る跳ねる飛ぶ叫ぶ。少ない人数ながらもオフェンスにはオフェンスの、ディフェンスにはディフェンスのダンスを披露して、応戦席に集まった観客を盛り上げてスタンドに良い雰囲気を作り出す。その健気さに、重力的な観点とか美学的な観点といったものを排して心底から、応援してあげたい気持ちにさせられた。たぶん関学の方で見てたらそっちを応援しただろーと思うけど、近しい方に親近感を覚える、これが一期一会って奴だろー。2度と会うこともないんだけどね。寂しいなあ。

 試合は第2Qにアサヒ飲料がファンブルだとかしまくった上に相手のパス攻撃、ラン攻撃を許し過ぎて大量27点を奪われたのが最後まで響いて、第1Qにタッチダウンで6点、第2Qに7点、第4Qに14点を挙げて追い上げたものの、第3Qにフィールドゴールの3点を追加した関学には追いつけず2連覇の夢かなわず、逆に関学は「ライスボウル」が社会人対大学の戦いになってから5度目の出場で、初の制覇を果たした。27点一挙に取られた時にはこれでオシマイかと思ったけれど、第2Qのタッチダウン&トライフォーポイントで17点差となって一息。第3Qに3点を追加されて差を広げられたものの、第4Qにフォースダウンでギャンブルしまくる連続攻撃でもって3点差まで追いついた迫力に席を立てず、残りが確か数分ってところで、キックオフをちょん蹴りして自分たちで取ってそのまま突っ込もうとする前向きなプレイに、もしかしたらとゆー気もして応援したい気持ちがグワッと膨れ上がった。

 テレビで見ていても多分そー思っただろーけど、会場にいてそれも負けてるアサヒ飲料側のスタンドにいて覚えられる、これが現場の空気って奴なんだろー。残念にも攻撃権が相手に移ってしまって万事休す。インターセプトから一気にタッチダウンへと持ち込むだなんて「トーキョースーパーボウル」の再来が、そー簡単に起こるはずもない。とはいえ圧倒的な大差から盛り返して試合を面白くしてくれたって意味で、負けたけどその健闘はやっぱり凄い。実はナマを見るのはこれが始めてだったアメフトだけど、こーゆー試合をしてくれるんだったら来年もまた来よー。今度は関学側にいたいけどね。

 チアリーダーの動作で気付いたことひとつ。攻撃の時も守備の時も大声で足振り上げて応援してるんだけど、フィールドで誰か倒れて担架で運ばれよーとしている時は両チームとも会わせたよーに片膝をついて片足は立てて腰に手をあて黙って成り行きを見ているのが決まりみたい。立てた足の先を内側に曲げてバレーっぽいポーズをつける辺りはさすがに見目を気にするチアリーダーっぽかったけど。あとハーフタイムの時に中央で他の大学とかの4つのチームが派手に演技をしている姿を、関学のチアリーダーたちが疲れを取るって意味もあったんだろー、壁際にたまってしゃがんで見てたんだけど、遠くから双眼鏡で観察すると、幾人か鏡を見ながら化粧をなおしている人がいたのが面白かった。眼前の素晴らしい演技より、自分の見栄えが大事ってあたりがなるほど、プライドいっぱいなチアリーダーらしい振る舞いです。

 そうそう「ライスボウル」が始まる前に腰につけた旗のよーなものを取ることでタックルとかの代わりにする「フラッグフットボール」の日本選手権ってのが開催されてて、カブスカウトだった時に遊んだチーフを腰につけて取り合う「キツネ狩り」を思い出して懐かしくなった。クオーターバックがランできず必ずパスするか誰かに渡さなければいけない辺りが普通のアメフトとは違うけど、どこに走ってパスをもらうか、誰に渡して走らせるかといったアメフトならではの楽しみがちゃんと再現されていて、見ていて結構興奮させられた。高校とかの授業でやってもこれなら安全で且つ、疲れ方の激しいバスケットボールよりもジャンプ力の無さがつまらなさを招くバレーボールよりも人数の多過ぎるサッカーよりも楽しめるかも。

 レディースの部で対戦した「中野バグース・レインボーナイツ」ってチームとこちらはアサヒ飲料の関係チームっぽい「チャレンディーズ」ってチームのゲームは、途中の得点経過が不明で相手のラストパスを邪魔して勝ったと思われたチャレンディーズ」が実は負けてたって結果になって、知ってたら途中も息とか抜かずに頑張ったかもしれないのにと思うと、ちょっと可哀想になった。遠目では「レインボーナイツ」で他が黒いパンツの中を1人白いトランクス姿で駆け回って目立ってた39番の「五味(?)」って選手が気になった。遠すぎて顔とか確認できなかったんで、アメフトの専門誌なんかに載ったら見てみよー。しかしどーして1人だけ白パンなんだろ、スケるのに(これまた遠すぎて見えなかったけど)。


【1月2日】 本を読もうとベッドに入ったのが元旦の午後の9時。気付くとすでに翌朝の午前9時とゆーのは何ともはや、贅沢な時間の使いっぷりだと呆れてしまったけれど、だからと言って別に使う時間もない訳で、残る正月三が日の半分も、きっとそのさらに半分くらいは眠って過ごすことになるんだろー。独り者のこれが気軽さであり、切なさでもある。家にいてもエアコンの電気代がもったいないんで、ちょっとだけ身支度を整えて近所の「西武百貨店」へ。午前10時の開店とほとんど同時に飛び込んだのに、初売りの福袋を求めるお客さんで店内はどこも人だかりができていて、見る間に5000円1万円といった福袋が売れていく様を見るにつけ、不景気ニッポンのどこが本当に不景気なんだろーかと思えて来る。福袋しか売れないってのが不景気なのかもしれないけれど。

 それにしてもあらゆるフロアのあらゆる売場に福袋が出ているのには吃驚。8階の「無印良品」にまで福袋があったのにはちょっと唖然としたけれど、正月ってゆーハレの時間での福袋ってゆーイベント性に、惹かれて買ってしまう人がいる以上はやらなきゃ損ってことなんだろー。思うんだけど20年前ってこれほどまでに福袋が正月の名物だったけ? って疑問が実はあって、確かにちょろちょろとあったかもしれないけれど、バブルの頃にやれ数億円の福袋だなんて騒がれていた辺りから何でもかんでも福袋ってイメージが定着して来たよーな気がするんだけど、その辺り本当のところどーなんだろー。もしかしてお菓子屋さんの半ば陰謀めいた「バレンタインデー」みたく、どこかのデパートの売場主任さんあたりが、考えに考え抜いた挙げ句に作り出した昭和発祥の風物詩だったりするのかな。そーだとしたらその成り立ち、「プロジェクトX 福袋編」とかに出来そーな気もするんだけど。「彼は考えた。袋に入れて福とつければ売れるはずだと思った。やってみた。3つ売れた。嬉しかった」とかって田口トモロヲさんのナレーション入りで。

 折角なんで9階のアウトドア売場に並んでいた福袋を物色。「Fox Fire」とか「コロンビア」とかは残っていたけど、アウトドアで名高い「ノース・フェイス」は品切れ気味。そんな中にあって足跡マークで有名な「Jack Wolfskin」がまだ数もサイズも残ってて、1万円の値段に対して相当に良いものが入ってるとゆー店員さんの声に背中を押されて、ついつい買ってしまう辺りがなるほどお祭り好きってゆーか影響されやすい性格ってゆーか愛に飢えてるってゆーか。愛はあんまり関係ないか。それでも実際のところ買って帰ってのぞいた袋の中身は、アウターの赤いフーデッドパーカーにアウター向けのジップフロントの雪柄のフリースジャケットと、こちらはインナー向けのジップフロントのフリースで、足すとこれだけでも4万円は軽く行ってそー。

 さらにニットのマフラーとペットボトルのさせるウエストバッグも付くとゆー大盤振舞で、店員さんの言うことに嘘はなかったと過去数々の福袋に敗戦して来た身として喜びにうち震える。問題は根がインドアなイベント野郎にとって、アウトドアな服なんて着ていく場所も機会もあんまりないってことくらいだけど、それはそれ、ガシャポンと一緒で買って中身は何かを確認するまでが楽しいんであって、後のことなんか考えないのが大人ってもんだ。もしかすると1度も着ずに埋もれて4年、気付いた時には太って着れなくなってたなんてこともあるかもしれないけれど(ってゆーか過去にあったけど)、その時はその時、痩せるなり、痩せた人にあげるなりすることにしよー。フリースの流行が過ぎ去ってて、着てると恥ずかしい思いをするよーになってるって可能性も多々あるけれど。

 暇だったんで近所でOVAの「怪童丸」(SME・ビジュアルワークス)を買ってきて見る。その丸まると太って髪は切らず爪も伸ばし放題の異様な風貌に加えて、天才・羽生善治さんすら時に窮地へと陥れる圧倒的な強さから”怪童丸”と綽名された棋士、故・村山聖9段を主人公にしたアニメかとは、田島昭宇さん描くあの独特なタッチと色使いと風貌をした、少年だか少女だかが描かれたジャケットを見て全然思わなかったけど、かといって何の話かは分からず、裏側のあらすじ紹介を読んで、時は平安、場所も平安の都を舞台に源頼光を主を定めて戦う四天王の独り、マサカリ担いだ金太郎が長じて名前も変えた坂田金時を主人公に据えた話なんだと認識。「男のなりして戦う少女がいた」って説明と、プロダクションI・Gの制作ってあたりに面白くないはずがないと勝手に納得して、買って帰って見て吃驚。うーんこれは。

 なるほどあの独特なタッチを色使いと風貌の田島キャラが動くって意味ではとてもとても素晴らしいアニメって気がするし、平安京の屋敷や大路の建物をすべて3Dで制作して自在に回したり高さを変えて俯瞰したり出来るよーにしたって点での、スタッフの挑戦的な態度にも拍手を送りたい。福岡ユタカさんの遠吠え系オープニングも最高。けどねえ、話がちょっと見えなさ過ぎ。そして端折り過ぎ。足柄山で叔父によって殺されそーになっていた金時が、頼光によって助けられてから話は一気に飛んで、都に迫る陰謀と戦う場面へと至る、その間の金時の成長のドラマは一切無し。どーして「怪童丸」なんて呼ばれ恐れられ、叔父によって狙われるよーになったのか、って辺りは不明のままだし、都に現れて人々を恐怖に陥れる、金時とは因縁浅からぬものがありそーな怪しい姫君と過去にどーゆー経緯があったのかも判然としない。

 頼光の金時への恋慕があり、それを意識しない金時の頼光への思慕が基本としてある中で、過去に金時いろいろあった姫君が絡んでドロドロぬとぬとの三角関係が繰り広げられている、って辺りは何となく伺えたりするけれど、そーした三角関係が主軸になって、人の心の浅ましさなり素晴らしさが描き切られているかってゆーとそーでもなく、感情を準える先のないまま淡々と繰り広げられる展開を、漫然と見ていくより他にない辺りに、見ていてモヤモヤが残る。クライマックスの多分悲劇的な場面を、描かず思いっきり端折っている辺りを例えば省略の美学と見て見られないことはないけれど、それとて謎の美女の正体と金時との過去の経緯が分かって始めて悲劇と理解できるもの。子犬よろしく主君に忠義だてするために目の前の障害を排除しただけ、ってあれでは思われたって仕方がない。

 少年のなりをした少女の、少女らしいスタイルが見られるシーンとかあれば目には楽しかったかもしれないけれど、設定集にそれはあっても画面にはまったく登場せず、萌え心の持って行き場がなく戸惑う。「幻想魔伝 西遊記」よろしく、美形の四天王たちの際だつ強さ、格好良さが描かれていればそれはそれで楽しかったかもしれないけれど、実際はなかなかなに普通の活躍ぶりで燃える対象にするにはちょっと、役者が不足している感じ。操られて京の街を灰燼に帰す双子の見目麗しさはそれとして、唐突な登場に不明な立場がやっぱり見ていて感情の移入を妨げる。「みちざね」って何? 菅公とどーゆー関係があるの?

 あまりの話の見えなさに、永井泰宇さんが書いた小説版「怪童丸」(富士見書房、1900円)を読んだらこれがまた微妙な本で、なるほどアニメに登場した姫君と金時との過去の因縁は見えたけど、金時が少年のよーに育った理由も含めて別の設定が加えられ、別のストーリーで進んでしまっていて、それはそれで納得の行く設定だったりするだけに、アニメ観賞の参考にして良いのか悩む。2時間とは言わないけれど、90分とかの長編にして過去の経緯、感情の機微まで説明した上で、愛憎のたぎったラストのバトル、そして悲劇の後の救いまでをも描いたら、見て納得の感動ストーリーになったよーな気がするんだけど。いずれにしても折角の「怪童丸」ってキャラをここで埋もれさせるのは勿体ないんで、どーゆー成り行きで立ち上がった企画かは知らないけれど、単なる2D&3Dアニメの実験に終わらせないで、TVシリーズでも映画でもいーから、別の企画なんかに展開していってもらえたら嬉しいかも。その時には金時のポロリとか(何がだ)、ちゃんと描いてね。


【1月1日】 やあ新年。ってことでたった1人本と捨てられなかったポリ袋を洗えなかった医療に埋もれた部屋で、ゴム止めされるほどの枚数がない年賀状(中学高校がゼロなのはもとより大学の同期のも1人しか届かなくなった)を10秒で見つつ、下らないと口では言いつつも実は結構楽しかったりする「ダウンタウン」登場の「HEY! HEY! HEY!」対決シリーズとサッカー「天皇杯」をザッピングしつつ、「イトーヨーカ堂」で買ってきた安売りの伊達巻にかぶりつきつつ、買ってきた新聞の資源ムダ使い度120%な特集ページに辟易しつつ、「ココロ図書館」のサウンドトラックにちょっとだけ心和ませつつ、そんな状況に誠に相応しい本を読む。しりあがり寿さんの「ア○ス」(ソフトマジック、1600円)ね。

 「さびしさ」にもだえ苦しむ「脳ミソ」のためと言い訳して「トモダチ探し」の旅に出た少女が、コンビニで「トモダチ」になって欲しい人に向かって「そのシャンプーには毒が入っています」と親切に教えて上げて無視され笑われ遁走し、同窓会へと出かけて土砂降りの中で行われていたパーティーの中自分の知らない思い出を語り合い、自分には見えないアルバムを見せ合う彼らが崩れていく様を目にしてひとり雨中で授業を受け、「トモダチ横丁」へと出かけて45分だけの「トモダチ」を得てその”センパイ”の目玉を潰そうとして時間切れで逃げられ、「トモダチ」作りのセミナーへ出かけて上辺だけの誉め言葉でも涙してしまう醜悪な巨人の姿に戸惑うとゆー、そんな話が「弥次喜多in DEEP」よりも「方舟」よりもさらにシンプルな線で描かれていて、進んでいるよーで逃げている、頑張っているよーで無理してる少女の決して成就しない行為の狂おしさに、読んで正月から気が滅入る。だったら読まなきゃいーんだけど、でもやっぱり読んでしまうんだよなー、そのあまりの切実さに。

 誕生パーティーに招かれて毒の料理が出されても断れず帰れず食べたフリをしてひとりずっと居残ってしまう心理、パーティーに出かけて知り合いが誰ひとりとしておらず、来なければ良かったとテーブルの陰で泣いていたところに差し出されたビンゴのカード、その絶対に揃うはずのない穴を嘘をついて揃ったと言って「ビンゴ」と叫び、皆が嘘だと知っている中を司会者の所に賞品を取りに行く心理の実に醜く、けれどもとことん真摯なことか。エンディングで示される、ひとつの出口のそれは1面でシアワセなのかもしれないけれど、代わりに過剰さ故にもてあまし気味だった自意識を切り刻まれた少女は果たして前と同じ少女だったと言えるのか? ってな疑問も起こって、読み終えて悶々とさせられる、元旦なのに。

 不条理なよーでいてその実、身に覚えのある人間にとってはこれほどまでに理にかなった展開はないし、ズレているよーに見えるけれどもそんなズレの中に身を置いている人間にとっては真っ直ぐなシチュエーションばかり。問題は、真っ当なサラリーマン生活を経て専業のマンガ家となって大活躍を続けているしりあがり寿さんに、どーしてこんなに”リアル”な世界が描けるのかってことで、一度その頭をのぞきその思考の一端に触れて、その発想の根元にあるものを探ってみたい気になる。ラクガキみたいな線で描かれているにも関わらず、主人公の”ナオミ”がちゃんと美人に見えてしまう絵の凄さも相変わらず。「方舟」「徘徊老人ドン・キホーテ」と続いた”しりあがり寿イヤー”は今年も炸裂しまくってくれそー。乱丁よろしく活字を重ねたり途中1話だけ紙質を変えたりページのフォントをてんでばらばらにしたりする祖父江慎さんの装丁もキレまくってます。チョコレートのインキは使ってないけどね。

 「CINE OKAMAX」ってどこにあるの? って最終ページに掲載された「OKAMA初監督作品『はちうえのたね』陽春ロードショー」の広告を見て思わず探してしまった、のは嘘だけど冗談じゃなくってどんな話か見てみたい気がしたのも事実。その独特な画風、独特な色使い、独特なスタイリングでもって人気とてつもなく爆発中、だったら良いなと思っている漫画家でイラストレーターOKAMAさんの画集「OKAMAX」(ワニマガジン社、1500円)にはそんなニセ広告が入っていて、雑誌みたいな雰囲気を出している。箱に入ったハードカバーの画集って方が保存しておくには有難みもあるんだけど、雑誌っぽい作りだからこそ1500円なんて値段で買えたりするんで、これはこれで全然オッケー、色の出なんかも素人の自分にはグッドなレベルに見えるし。「WANI PIX 001」ってことはシリーズ化されるのかな。次は誰の画集かな。

 「椿」って収録されている短編での、竹薮で少女が貫かれて女へと変化する展開のエロさもさることながら、少女の絵のその少女っぷり、女になった絵のその女っぷりは目にも鮮やかで、少女の好奇心に溢れたあどけない表情と、女の官能に震える悩ましい表情の対比も含めて、改めて絵の巧みさに感動する。98年に読んだ「めぐりくるはる」(ワニマガジン社、505円)で気付いてファンになった身には、収録されている絵柄の変化がなかなかに興味深くって、人間常に進歩しているんだってことを教えられる。97年の「快楽天星組VOL.1」の表紙と2000年の「快楽天星組VOL.10」が見開きで並んでいて、絵柄のあまりの違い様にはちょいのけぞったけど、当時に今みたいな感じへと変わって行くんだと感じて表紙に起用したってことで、その目利きぶりにも感心する。良い画集。漫画ももっともっと読みたいよー。

 怠惰さが血管に染みいって本が読めなくなっている今日この頃。まあモノがリチャード・パワーズの「ガラティア2.2」(若島正訳、みすず書房、3200円)なんてヤングアダルトでも漫画でも画集でも新聞でもない真っ当さど真ん中の”小説”なんで仕方がないところだけど、回想と現在の描写とがちょっとした間隙だけで書き連ねていく展開が、最初から終わりまで一直線のストーリーに馴れ切ってしまった目にはなかなかに難物で、噛みしめるよーにしか読めないため2日でまだ80ページくらいしか進んでいない。どーやら人工知能をパソコンだかネットだかに作る話っぽいけれど、完全な空想の世界なのかそれとも川端裕人さんの「The S.O.U.P.」(角川書店、1800円)あたりの現実の技術をちょい延長させれば可能な技術の可能性を示唆するものなのかまでは現時点では不明。まあ外に出かける用事もないんでこの三が日、リハビリかてら頑張って最後まで読みとおそー。しかし高いなあ。みすずって。


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