縮刷版2001年8月中旬号


【8月20日】 「第40回日本SF大会」の2日目企画「ガイナックス新世紀アニメ宣言」で思い出したこと幾つか。脚本ともども「アベノ橋魔法☆商店街」のノベライズも担当するあかほりさとるさんが「あかほりさとるとうジャンル」からの脱却を宣言、擬音とか抜いて字を詰めた「小説ってのを書く」って割かし強めに語ってた口調にモノ書きとしての自意識の高さを見る。「本の雑誌」での指摘、よほど気にしてたのかなあ。

 あと「マガジンZ」に掲載の出口竜正さん描くコミック版に登場する「ねねねの越智さん」とゆーキャラには「月刊アフタヌーン」で連載する鶴田謙二さんも駄洒落の帝王あかほりさんも驚いたらしー。「れれれのおじさん」の「おでかけですかー」に対となる「ねねねの越智さん」の決めゼリフが一体何かをワクワクしながら読んで出てきた文句がアレだもん、そりゃ驚くわ。ガイナックスにはないセンスを期待されながらも擬音駄洒落を禁じ手にされてもがいていたあかほりさんも、きっと競い合って爆裂し「アベノ橋魔法☆商店街」をとてつもない作品に仕立て上げていってくれるでしょー。

 卑怯にも夜の企画に出ず家に帰ってちゃんと寝たんで結果的には無駄になってしまった感もあるけれど、とりあえずは体力の回復用にとっておいた休みを使って恵比寿ガーデンシネマまで映画「テルミン」を見に行く。佐々木倫子さんの最初期の単行本に収録されている傑作ホラー(なのか?)「食卓の魔術師」(花とゆめコミックス)に登場するアイティムで、くっついてたりして歯でこそぎ落とそうとして食べると口の周りが桃色になるお菓子「いちごカルミン」とは全然まったく関係ない、コイルにつながれたアンテナの周囲に手をかざしたりするとミョーンとかムオーンとかピヨピヨピヨピヨとかいった音が出てくる不思議な楽器テルミンを発明した、レフ・セルゲイヴィッチ・テルミン博士の業績と生涯にスポットを当てたドキュメンタリー映画、です。

 テルミン自体は「ビーチボーイズ」とか「レッド・ツェペリン」の演奏に使われていて古手のロックファンにとっては結構有名な楽器だそーで、昔のSF映画やサスペンス映画にも恐怖とか未来とかを表現する効果音に使われていたりして映画ファンにもお馴染みらしーんだけど、近年だと「コーネリアス」とかがライブやアルバムで使ったせいもあって、若い人の間で一気に関心が高まったみたい。そんなにメジャーな作品でもないのに、夏休み中とはいえ一応は平日の午前中にはるばる恵比寿まで見に来ている若い人が結構な数いて、流行ってのは何がきっかけになるか分からないものだなあ、なんて感想を抱く。もしかして前日の「第40回日本SF大会」の会場で開かれた演奏会を見て関心を抱いて映画を見に来たって人もいたのかな、11時20分の回だけど、大会で演奏会を見た人は今日あたり死んでそーなんで、影響が出るのは明日以降かも。

 そうそうアニメ版「ブギーポップは笑わない」でも、東京に受験に来た折に発生したブギーポップが宮下藤花に神保町のどこかの楽器屋で1つ買わせて、地下道だったかガード下に置かせて残留思念らしー漂っていたり集まって来たりするモノに反応させていたっけ。アンテナの周りの電磁場に干渉するものだったら肉体を持った人間じゃなくてもオッケーなんだろーけれど、本当にそーゆーモノに反応するのかは実験したことないんで分からない。持っている人には青山墓地とかで是非とも検証して頂きたいところ。「幕張メッセ」で誰も演奏していないテルミンがいきなり鳴り出すなんて現象は起こらなかったのかな、名作コミック「DAIHONYA」でテロの巻き添えになった人々の想いとかに反応して、作者も主催者も近くにいたことだし。

 映画は冒頭に登場のクララ・ロックモアが据え付けられたテルミンに近寄っていきなり始めた演奏にまず驚愕、何となく知ってはいてもどちらかといえば電子的な効果音が出せるくらいにしか考えていなかったテルミンから、ああも豊かな音階と音量でもってバイオリンにもピアノにも似てバイオリンでもピアノでも出せない音が発せられるとは、正直いって予感しておらずのっけから度肝を抜かれ、テルミンとゆー楽器の偉大さ、ポテンシャルの高さに感嘆する。後に登場するテルミン博士自身の演奏もなかなかなものだったけど、腕の向きや手の平の位置なんてものじゃなく、それこそ指先まで神経を行き届かせて動かして空間から音を引っぱり出すクララの演奏は、やはりナンバー1でありオンリー1であったと言うより他になさそー。現在の第一人者とゆーリディア・カヴィナは、顔立ちこそクララ級に美しいものの演奏に関してはどーなんだろ。

 見ていて思ったのは、テルミンとゆー楽器は果たして音楽を空間から拾い上げているものなのか、それとも肉体から放っているものなのかとゆー点。演奏している様を傍目に見ている限りにおいて、垂直に立った音階のアンテナと水平にのびた音量のアンテナの周囲で手とか指を動かすことで、空間にある音をつまみ上げ、メロディを作り上げ、総体としての音楽を刻み込んでいくよーな雰囲気を受けたけど、実際に演奏する立場になった場合、空間の上で手を動かし指を曲げ伸ばしすることで音楽を描き上げていく感覚を、演奏者は味わっているんだろーってな想像も出来る。たいして違いはないのかもしれないけれど、そーした想像が出来てしまうだけでもテルミンが、普通一般のただ音階を連ね重ねていくだけの楽器とは違う、人間存在そのものと密接に関わる楽器なんだってことが伺えて、改めてテルミン博士の発想の凄さに感服する。人間性とはもっとも遠そうな電子楽器の元祖がかくも人間性と結びついたものになっているとは。アナログとデジタル、リアルとバーチャルなんて対立概念が実は一面しか現していない証明か。

 予告編で映し出されたショッキングな光景に、これは是非とも見て置かねばと銀座に周り「シネスイッチ銀座」で「蝶の舌」を見る。「ちょうしたのさんまのかばやき」が如何にして発明されたか、とゆー映画ではもちろんなく、内戦が勃発してフランコが独裁政権を敷く直前のスペインを舞台にした、ひとりの少年が良い先生と出会いろいろと教えられつつも最後は別れなければならなくなるとゆードラマの中に、身に迫る危険に直面した時に人間たちが見せる弱さや卑屈さを描き、そーした弱さや卑屈さを否応なしに引き出させる権力の恐さをほのめかそーとした映画で、信じていたものに裏切られる無念さ、信じていたものを裏切らなくてはいけない哀しさが一気に噴出するラストに、激しく感情を揺さぶられて目頭に熱い痛みが走る。

 良くない方向に流れていく空気の中で、人が何かに縛られてはいないか、今は正しく見えてもそれは本当に正しい道なのか、1世紀前から半世紀前にたどった道につながってはいないのかを、声高でも居丈高でもヒステリックでもなく、たぶん世界のあちらこちらで実際に見られただろードラマの中で描いている分、心に伝わる強さは何倍にも何十倍にもなっている。マジで泣け、マジで怒れる作品。言説が党派制の呪縛にからめ取られてストレートに伝わりにくになっている、ってゆーか伝えよーとする努力すら希薄になっている時代だけに、正しいことを分かりやすく伝えられる映画とゆー表現手法が持つパワーを、今さらながらに感じさせられた。もっとも予告編で見たショッキングな場面ってのは、そんなラストでは全然なくって、夏休みに主人公が好意を寄せている女の子が友だちといっしょに川で水遊びをしているシーンだったりするんだけどね。これを見るためだけに僕はDVDを買うだろー。つるぺたつるぺた。


【8月19日】 「モーニング娘。」のライブDVDに登場する松浦亜弥ちゃんに突如燃え萌えになって、体にピタピタな赤い衣装で「ドッキドキLOVEメール」を唄うスレンダーな姿態とシャープな顔立ちに目尻を緩ませつつも次第に意識が遠のき、気付くと午前7時が到来していたんでいそいそと着替えて再び「幕張メッセ」へと向かう。この日のために購入しておいた、訳でもあんまりないんだけど手持ちのコマの中では比較的パワーがあると思われるちくわぶ謹製「しずかちゃん入浴シーン(推定Bカップ)Tシャツ」を取り出して着込んだものの、市中はさすがにマズいとシャツを1枚羽織って出発、ちょっとこの辺軟弱かもしれない。

できあがり"  午前9時前には「第40回日本SF大会」の会場となっている「幕張メッセ」へと到着。さっそくシャンブレーのシャツを脱いでTシャツだけになり(下はジーパンはいてはいてるよ)、以降終了時間までまんまムキ出しにして歩いていたけど、何しろSF大会だけあって半分お尻が出ていてそーなコスプレの人とか、どー見ても原作にはほど遠いんだけど本人的には完結している某キャラのコスプレの人とか、軍服の人とか宇宙人の人とか小松左京さんとかが平気で歩いている環境では、少々の”主張”では気付いてもらえたところで気にされるものではないよーで、咎められもしなかったけど驚かれもされずちょっとガッカリ。これを反省の糧として来年こそはもーちょっと”主張”のある露出の激しい格好をして頑張ろー。永瀬ゆい(唯)さんくらいの受けがとれるよーに。

 会議室でのパネル企画がスタートするまで随分と間があったんで、大広間に敷かれた畳とかカーペットの上で鮪状になって転がる徹夜人(てつや・びと)たちを見物しつつ、朝っぱらから「はいからさんが通る」だの「北斗の拳」だのを吠えたてるアニカラの一派を眺めつつ、メイド服を着たカフェの女給さんを遠巻きにしつつ場内を行ったり来たり。例の名刺のコンプリート交換会もカーペットとか畳の通路側に面した場所で始まっていて、穴あき状態に並べた名刺を見せて開いてる場所があったら交換しましょー、なければ誰か持っている人を教えて下さいコールに答えて僕の絵柄がブランクだった数人と交換。そーこーしているうちに1番種類を集めていた1人が遂にコンプリートに成功して万歳三唱、は朝なんでせず。それでも完成した「SFマガジン」表紙シリーズの2枚にオリジナルの寄せ描き1枚が、壮観にも並んだ様を写真に撮って記録する。

 藤沢とおるさんのキャラとかが皆さん最後まで苦心されていたよーで、僕自身も交換してもらった中に1枚もなく、よほど珍しい人とかに行き渡ってるのかもと想像してはみたけれど、実際のところどーゆー切り分け方になってたんだろ。頑張ってコンプリートしたからといって事務局から何か良いことがあった様子もなく、ネタとしてちょっともったいなかった気が。まあ純粋に声をかけあうきっかけになるコミュニケーションツールと割り切って、いたずらにコンプリート狙いに走るよーな真似を牽制していたのかもしれないから、事務局云々は当方の勝手な妄想です。コンプリートできたこと自体が最大にして最高の賞だったってことで、誰だか知らない成功者には心からの賛辞をおくろう。あんたはエラい!

 クイズ大会は2問目くらいでことごとく外して景品は1つもゲットできず。宣伝なのか在庫処分なのかテーブルの上に何故か山積みにされていて、最初はともかく途中から欲しがるどころかもらってかさばるんでもらいたくない人続出で大変だったらしー「でじこの人生ゲーム」すら獲得できない体たらくで、これではとてもじゃないがSF関係とは名乗れないと改めて我が身の薄さに嘆息する。しかし知人関係を含めても5、6人は当選者がいたくらい、実に大勢の人が「でじこの人生ゲーム」を抱えて歩いていていて、あれだけ持って歩き回ってもらえれば良い宣伝にはなったでしょー、かさばる荷物に渋い顔してたSF関係者以外には。まあ「暗黒星雲賞」でも1位こそとれなかったけど3番目くらいに入っていたとかで(理由は「かさばる」、ってダメじゃんやっぱ)、まあそれなりな評判はとれたってことにしておこー。悪評って可能性もあるか。

「瀬名くん『虚無回廊』は君が書け」とは言わず  夜中に体力を使い果たしていまう関係からか、実質的には2コマしかない2日目の授業の1時限目は小松左京さんをメインに据えた「小松左京 SFのビジョンを問う」を見物。SF作家の中でもビジョンを提示することにかけては随一な小松さんを迎えてのパネルだけに、さぞや白熱した「SF論」が戦わされるのかもと思ったけれど、そこは御大だけあって、パネル参加者の小谷真理さん瀬名秀明さん平谷美樹さんあさりよしとおさんたちにいろいろと質問を投げかけながらも、自分の知識の開陳へとすぐに話を引っ張っていってしまって収集がつかなくなりかかってしまって、しきりに青山智樹さんが軌道修正を入れてもやっぱり自分の話が主軸になって大変だった。まあそれがあっての小松さんなんで仕方がない。

 そんな合間でも瀬名秀明さんから科学者の側から文学的な物語を作り出す必要が有るってな提案がなされたり、あさりさんから大人が読んで面白い少年誌連載の漫画が増えているのはしめつけがゆるまってるだけのことで、広がり過ぎた状況をもう1回戻せないかと「なつのロケット」のよーな話を描いたってな話が出たりして、混沌の時代で且つ何でもありのSFであっても、とゆーかそーゆ状況だからこそ、書き手の立ち位置の再確認めいたものが必要になっているってな雰囲気を感じる。エロは出さないのって質問で教えている生徒がいる平谷さんは生徒が読む可能性がある以上描けないと言っていて、矜持であるけれどもったいない気も。しかし「エンデュミオン・エンデュミオン」やら「エリ・エリ」を朝の読書で読む中学生(高校生?)って、それはそれで凄いかも。

 戻ったホール会場で上映中だった「Z.O.E Dorores,i」を熱く見る人の姿を遠巻きに見つめる脚本の松崎健一さんの姿を確認しつつ、再び会議室へととって返して「ガイナックス新世紀アニメ宣言」を見物する。秋から何やらいっぱい作品を繰り出して来るガイナックス、常に先鋭的な作品でもって世間をアッと言わせ続けて来た会社ってことに加えて、若くして「王立宇宙軍 オネアミスの翼」を監督したあの山賀博之さんが久々に監督とかを務めることになっていて、動物的に萌え要素を叩き込むだけ叩き込んだ作品がもてはやされる状況に対して、さぞやいろいろと苦言提言が発せられるかと思いきや、秋から始まる新番組「まほろまてぃっく」の最大の特色を山賀さん本人が「まほろさんが可愛いこと」だと話して瞬間呆然、すぐさま沸き上がる歓喜にむせび泣く。そーだそそーなんだよ。

 論理とか批評とかいったモノサシでもってアニメをカイボーしちゃおうって人が続々と生まれては、あれやこれやと言葉を浴びせかけて来る関係で、作り手側もいろいろと理論武装しないとやっていけなさそーな時代なのに、そんな外野の声をあっけらかんと切り捨て、純粋無垢な欲望でもって「今こそ可愛いメイドさんの話を作るのだ」的意志でもってアニメ作りに乗り出すそのスタンスたるや良し。かつて知性と理性が支配するSFのフィールドの中心的なイベント「日本SF大会」において、ランドセル背負った美少女が空を飛ぶアニメを作って披露してしまった集団が母体になっているだけのことはある。あと世界的なアニメ監督を素顔でウルトラマンに変身させたりとか。

 ガイナックスって言えばパネルににも参加していた「フリクリ」の鶴巻和哉さんのよーに、ばりばりハードな物語を思いっきり捻って見せるよーな作品を作るし作らなきゃ許さない雰囲気が受けての側にややもすれば生まれつつあったけど、「まほろまてぃっく」に関しては山賀さんによれば、ひねってひねったら帰って来てしまった感じで願望一直線系なガイナックスの原点に立ち帰った作品だってことになる。もちろん予告編みたくまったりのんびりって感じでずっと行く分けじゃなく、作者の人とかから聞いた裏設定なんかを叩き込んだ結果、相当にSF的な深い話も入って来るそーで、可能性としては未定ながらもあれば2部あたりで、そーゆーハードな展開も期待できそー。でもまほろさんはやっぱり可愛いんだけど。ホント久々の作品にインタビューとかも山ほど入っていそーだけど、「可愛いからってこと以外に言うことがないから『まほろまてぃっく』については断ってます」と山賀さん。とは言えそーゆーストレートな主張が閉塞感漂うアニメの世界を次世代へと引っ張る原動力になるもの、出ましょうそして喋りましょう、萌えのパワーを、メイドのエナジーを、それがたとえ工業新聞であっても。

 妹が12人出てくる話とかもちゃんと見ているところが素晴らしい山賀さん、あの妙な間について、尺の足りない脚本をコンテの人が一所懸命伸ばしてるんじゃないかと推察してたけど、果たして当たっているのかいないのか。あと「にいや」って口真似してたところを見ると、12人の中でもやっぱり亞里亞ちゃんが気になるらしー、まあ男だったら当然だね。ほかにもいろいろ願望のパターンがあるみたいで、それらが「まほろまてぃっく」とは別の形で注ぎ込まれたのが「アベノ橋魔法☆商店街」ってことになるんだとか。「月刊アフタヌーン」に掲載の鶴田謙二さんのコミックを読んだ人ならもう理解してるだろーその要素とは? そう、「眼鏡」&「巨乳」だ。

 もっとも長年アニメ業界で美少女たちを生み出しては来ていても、あまりに直裁的な願望で経験が足りなかったと見えて、「眼鏡」と「巨乳」にかけてはアニメ業界で右にも上にも出る人の皆無なあかほりさとるさんに白羽の矢を立て、かくして「ガイナックスから1番遠いところにいると思われているらしく、誰に行っても『嘘っ!』といわれた」あかほりさんとガイナックスとの奇跡の企画はスタートした。これアニメ史のテストに出るからチェックね。

 トークによると最初山賀さんは「眼鏡」と「巨乳」は別キャラで考えていたらしーんだけど、そこは先駆者あかほりさん、「眼鏡」に「巨乳」で且つ「ロング」(髪の毛前揃え系)の女性でなくてはならんのだと押し通し、かくしておそらくはアニメ21世紀史に残り「アニメージュ」の21世紀アニメグランプリで女性キャラナンバー1投票で強敵「千尋」を押さえてトップに輝くだろー夢音ちゃんが誕生した。困ったのがキャラクターを担当した鶴田謙二さん。これまで眼鏡っ娘を描いたことがないらしく、しばしの葛藤があったそーだけど、それでも巨乳の眼鏡をかけた女の子を描けば良いと納得して描いてどーにか事なきを得たみたい。懸案だった漫画もとりあえず8月売りにも掲載されるそーで、2カ月連続で原稿が掲載されるとゆー記録を達成した鶴田さんが、果たしてこれからどこまで記録をのばすのかに注目したいところ。「マガジンZ」で出口竜正さんが描くこちらはあかほりテイスト炸裂の漫画も、内容先取りな部分が結構あって楽しみたのしみ。

 もっとも何につけてもこだわり抜くのはガイナックスらしーところで、人によっては「眼鏡をかけた女の子」と「眼鏡っ娘」とは別の生き物ってことらしく、原点は松本零士さんの「ワダチ」に出てきた多分浅野さんって眼鏡の女性のセリフにグッと来たことで、最近では気に入った人に眼鏡をかけされることに力を注いでるあかほりさんと、気になるナオ太の前だからこそ眼鏡をかけた自分を見せたニナモリを「フリクリ」で描いた鶴巻さんあたりを巻き込んで、しばし「眼鏡っ娘」話に花が咲く。今でこそ偉大な監督に数えらる監督が、パンツが見えるの見えないので論議していた逸話なんかも挙がってたし(会場にいた当の監督から声が上がった時にはちょっと吃驚)。ともかくも徹底したこだわりの上に、あのあかほりさんが叫びに逃げず駄洒落を封印して、持ち味のギャグを3倍密で注ぎ込んだ「アベノ橋魔法☆商店街」は今秋ではなく来春放映開始の予定。ああ待ち遠しい。

 ほかにも大変な企画が幾つもあがっているとかで、例のゲームのアニメ版とか例のオリジナルビデオ作品の続編とか(「おたくのビデオ」ではない)が着々と企画進行中。そーしたあまりにも大量の企画進行が、可能性として原点中の原点「王立宇宙軍」の続編「蒼きウル」の企画終了に重なっているのでは? とゆー見方もされているそーだけど「この状況を見て準備が進んでいると見るのが玄人」と山賀さんは話していたから、仕事を通じて道をつけた暁に、一気に企画完了へと持ち込む可能性が期待できそー、っちゅーか期待します。かくして赤井孝美さん言うところの「山賀が働く宣言」(見える場所で、と山賀さんが注釈)は豊富な情報でもって終了、もしかしたら今「SF大会」中でもっとも情報的にも内容的にも充実してたかも。21世紀もまだまだアニメは安心だぁ。


【8月18日】 早起きしなくっちゃいけないと午後の10時には床に就いたのに、普段の不摂生が祟って寝入ってもすぐに目が覚めてしまって、それからがなかなか寝付かれず悩む。そーこーしているうちに金曜深夜の定時番組の時間が到来、仕方なくテレビを付けて例のアニメにチャンネルを合わせて「レイジー」の吠え声で始まる番組を見てしまう。言わずもがなの「Z.O.E Dorores,i」、ですね。いきなり列車の屋根にうずくまって泣きじゃくるドロレスって展開に一体何があったかと見ていると、ドロレスの前世(みたいなもの)が判明してそーゆーいきさつがあったのかをちょっと動転、でもってドロレスが敵対する火星の顔にちょい傷跡のある子安さん演じる眼鏡の正体までもが明らかになって、これはえらいことになったと仰天する。

 もしかすると「プレイステーション2」用に出たゲームか、あるいはすでに発売になっているOVAともキャラクターが繋がっているのかもしれないけれど、やっていないから分からないんで置いておくとして、少なくとも今回のエピソードに到るまでにあっただろーミリタリー設定の中で繰り広げられた愛と死をめぐる超シリアスなドラマが果たして、桑島声な巨大股間ロボットなんてものが登場する摩訶不可思議な設定の中で繰り広げられる家族の絆ドラマにどー絡んでいくのか興味津々ではあるけれど、どんなシリアスさであっても陽気で明るく前向きで脳天気な玄田声のリンクス親父の汗と感動のドラマに収斂させてしまうだろーって可能性が高そーで、復活した火星のエースパイロットに火星の超兵器の脅威にもいけしゃあしゃあと勝利してしまいそー。まさか脳天気さでは絶対に解決できない政治的・経済的な地球と火星とのいさかいすらも解消させてしまうとは思えないけど、でもやりかねないからなー、ドロレスとおじさまのコンビは。ともかくも少なくなって来た残り話数での展開に注視したいところ。ここまで注目のアニメになるとは、始まった時には予想もできなかったよ。これだからアニメって1話、2話じゃあ判断できない。

 とか考えてたらいつの間にか眠っていたよーで、目覚ましに起こされていそいそと支度をして「幕張メッセ」へと向かう。もち「第40回日本SF大会」に出るためで、去年の横浜に比べればかかる時間で3分の1以下ってのは嬉しいんだけど、それでも”遠足の日には早く起きてしまうの法則”ってのが働いたらしく、ほとんど数時間の睡眠しかとれなかったのはちょっと痛かったかも、だって偉いSFの人がいっぱいいる前で企画の途中に眠ってしまう訳にはいかないし。とりあえず買い込んだ「モカ」をいざとなったら飲めば良いとは思っていたけど、あれってドーピングみたいなもので(ドーピングです)、その時は良いんだけど後になって疲れが出るんであんまり飲みたくない。まあ別にSF界隈で成り上がろうって気も実力もないんで単なる無礼なファンがいるって程度で捨て置いてもらえれば良いってことで、極力地力で頑張るものの、僕を眠らせない企画をやればいいんだよってことにして、無理なら開き直ってさっさと眠ってしまおー

SFは論争だ  とか思いながらも、結論から言えばどの企画でも眠ることはなかったと正直に告白しておこー。何故かと言えばどの企画も興味深くて眠る暇がなかったってことで、例えば冒頭に聞いた「日本SF論争史パネル「『宇宙の戦士』からオタク文化まで」の場合、半分くらいまでは石川喬司さんに始まって永瀬唯さん(自称コスプレ挑戦中とかで「ながせ・ゆい」を名乗ってた)菊池誠さん東浩紀さん石堂藍さんが半ば所信表明を順繰りにしていく感じがあって概説的俯瞰的雰囲気があったけど、最後に来て東さんが提起した当初の政治的経済的に理想を追い求める雰囲気が強かったSFとかオタク文化的なものが、虚構化を経て最近は刺激を求めるだけの動物的なものになってるんじゃないかとゆー説に、永瀬さんが例えば真摯な内容を持った「人狼」のよーな作品や、細田守さんのよーな人の登場を挙げて再び理想的なものへと回帰しているんじゃないかと意見を提示して、ちょっとした討論が始まる。

 そこに再び東さんが似てはいるけど質はやっぱり変わっているんじゃないかと反駁を加えて、「SF論争史」とゆーよりは昨今のオタク文化ない文化全般さらには政治経済社会も含めた状況論にまで踏み込んでいけるだけの切り口を持ったディベート的な空気が生まれて、これは楽しめそーになったと思った所で”ちょーど時間となりました”の刑に合ってしまって残念至極。くるりと世代や文化が回帰して着地した場所が前と同じなのかそれともメビウスの輪よろしく裏側になってしまっているのか、2人の対論を糸口に考えてみたい気がした。どちらかと言えばクリエーター的な永瀬さん東さんの意見交換に対して菊池さん石堂さんは消費射的な立場から、虚構の積み重ねではなく政治的経済的社会的な部分でシリアスに考える人が生まれて欲しいって希望を言ったのが印象的だった。

 もっとも身にに迫る切実さでもって今のこの不況やらこの政治的状況を考える10代後半や20代前半がいるのか否か、いたとしてその切実さってのがそれこそ70年安保当時のシリアスさと同じかそれとも似て非なる、半ば形式化したシリアスさである可能性はないのか、といった懐疑もこれありで、やっぱりさらなる突っ込んだ議論が欲しかった。できれば本当、9月16日の「網状言論F」で、是非とも突っ込み詳しく意見交換をして欲しいもの、永瀬さんも現れて議論に乱入すれば楽しいのに。パネルの人はちょっと大変かもしれないけれど。

 抜け出して展示ホールの方で企画なんかを見物。本当に畳を敷いたスペース、カーペットを敷いたスペースが「幕張メッセ」の展示ホールに作られていて、畳の上では升目に仕切って4方向でそれぞれに講師なりを迎えていろいろな企画が同時進行していて、戦火で教室が焼けてしまった学校で、生徒が校庭でそれぞれにそれぞれのクラスだか学年で違った授業をしている様を思い浮かべてしまった、って別に戦中派なんかじゃないけれど。見物していたのは「少女革命ウテナ」の監督だった幾原邦彦さんと原作のさいとうちほさんが、90年代を案外と「新世紀エヴァンゲリオン」以上に代表しているかもしれない驚異のアニメ、でもって1話2話どころか半分見た時点ですら判断不能だった「少女革命ウテナ」の誕生の秘密について話してくれるパネル。外面の実に小室哲哉系な幾原さんが喋ると何ともベタベタだったりする辺りに、天が2物を与えない理不尽さを見たのは秘密だ。

 それにしても大爆笑なトークイベント。とにかく自分の企画を通さなくっちゃと考えた幾原さん、さいとうちほさんを引っぱり出す時に「セーラームーン」みたいなものだと言って小学館を納得させたそーだけど、「プロデューサー的な立場がディレクター的な立場に切り替わった」段階で、エポックメイキングなものをやりたいとゆー欲求が心の中にわき上がってしまったらしく、セーラー服がナースでウエディングドレスになるってなバリエーションではなく、当然ロボット物でもない画期的な作品にしよーと、あれこれ模索したらしー。その過程で「保育園の先生が闘う話」ってのが挙がったらしーんだけど幸いとゆーか残念とゆーかそーはならず、とりあえずは宝塚的セーラームーンになって「ウテナ」の世界にグッと近づいた。かといってやっぱり単なる「セーラームーン」にしたくなかった幾原さん、J・A・シーザーさんの「絶対運命黙示録」とゆー曲を使うことになって、浮かんだイメージが寺山修二さんのアングラ劇と重なって、挙げ句出来上がったのがあの薔薇が回り男たちの胸ははだけ林檎はうさぎに刻まれた、誰もが知っているあの「ウテナ」ってことになったらしー。

 当然とゆーか最初は大変だったそーで、周囲の誰もが「絶対運命黙示録」を使うことに反対したとか。すでにあちらこちらで話題になっているウテナのコスチュームの色の違い、すなわち先行していたコミックスがピンクなのにアニメでは黒になったことについて、幾原さん自身最初はピンクでも良いと思ったけれど、途中で世界観的に考えて黒がいーんじゃないかと着想。かといって今さらさいとうちほさんに「黒が良い」とは言い切れず、だったらさいとうさんの口から「やっぱり黒が良いね」と言わせてしまおーと画策して、綺麗に塗った黒の衣装を来たウテナの絵に、赤い衣装のウテナの絵を持って、既にピンクで絵を描いているさいとうちほさんに「赤と黒じゃあどっちが良いの」と尋ねたとゆー。

 期待したのは「黒ですね」とゆー言葉。ところが返って来たのが「赤ですね」とゆー言葉で思惑を外してしまった幾原さん、がっかりして帰ったんだろーけれど、そこは頑固にやっぱり黒にしてしまって、わざわざ聞いて確かめたにも関わらずピンクでも赤でもなく黒になった「ウテナ」を見たさいとうさんは、「いやがらせなのかなあ、と思っていた」らしー。まあ人間、自分がこれと思いこむと誰でもそー思うと考えるから仕方がないんだけど。まあ幸いにして「ウテナ」の企画が通って誰もが絶句した「絶対運命黙示録」もヒットしたのは周知の事実だったりする訳で、途中にいろいろあろーとも、当たる作品は当たるんだってゆーアニメのヒットのツボの複雑さを、改めて思い知った次第。途中で抜けだしたんで次回作についての話は聞かなかったけど、もはや薔薇が回ろうと胸がはだけよーと驚かなくなったアニメファンに、幾原さんが次はどんな意表をついた作品で勝負をかけてくるのか興味津々。いつ見られるのかすら知らないけれど、今はとにかく期待しまくってまーす。

名刺柄"  合間にはいろんな人を名刺交換、っても仕事用じゃなく「SF大会」のために大会側で用意した名刺で、名前の裏がいろんな絵になっていて集めると3枚の大きな絵が出来上がるよーになっている。いったい何枚に分割しているのかが分からず、とりあえず40人くらいと交換してはみたものの、「SFマガジン」の鶴田謙二さんの表紙絵ばかりを集めて大きな絵にした2種類については別にして、著名なイラストレーターや漫画家の人が寄せ描きした大きなポスターを作りたいと頑張ったけれど、今日の時点では半分にも届かなかった。1日目で完成させた人っているんだろーか。明日あたり「トレカ」コーナーで名刺トレーディングが始まってそー。今井ひづるさん描く「マージョ」の膝ならココにありまーす。赤井孝美さん描く「DAICON3少女」の顔はどっかにありまんせかー?

 それいしても罪作りな名刺交換。「トレーディングカード」や「ガシャポン」と同様で集めれば集めるほど足りない絵が少なくなって、同じ絵柄がいっぱい集まってしまう。僕の「マージョさま」の膝部分は実は東浩紀さんも同じ絵柄で、会場で交換して頂いたけど役立たず(コンプリートには、って意味)だったのが残念。野阿梓さんと尾之上俊彦さんが同じだったり平谷美樹さんとパイアールさんと喜多真理さんが同じだったり巽孝之さんと星敬さんが同じだったりで、頂けて心から嬉しいんだけどコンプリート狙い的にはちょっとってな、実にフクザツな心境に陥ってしまう辺り、初対面の人どーしが話のきっかけにする「コミュニケーションツール」として導入した実行委員の狙い目の良さに感嘆はしながらも、それと裏腹の見通しの甘さなんかも感じてしまう。まあお互い顔を見合わせて溜息をつきつつも苦笑し合う状況も含めて、確実に話題になっているから良いのかも。明日も頑張るぞー。


【8月17日】 「第40回日本SF大会」も目前に迫って企画チェック。パンピー参加者は受付も手間取るんでたぶん9時前頃には幕張に出没予定で、1時間くらい寝ぼけ眼でボーッとしてからオープニング&「教養ライブ」。以後はウオッチャーなんで東浩紀さん出席の「日本SF論争史パネル」を見物して庵野秀明さん企画と幾原邦彦さん企画を天秤にかけて顔で幾原さんを選びつつ側の「まるいち開発室」もチェック。3時限目は「瀬名vs野尻」かあるいは「異世界ファンタジーパネル」のどっちか或いは本業よろしく「雪風記者会見」をホールで見物し、4時限目は東さんが「やおいパネル」で何を喋るかに興味を抱きつつも「秋山&古橋」の生やおい(違う)に萌える予定。けど金原瑞人さん来場の「児童文学未来型」も面白そーだなあ、迷う迷う。

 夜は未定。帰宅するって手もあるけれど佐藤竜雄さん企画もあさのまさひこさん宮脇秀一さん東海村源八さん登場の模型企画にも興味があるし、商売柄「ブロッコリー」の新作上映会にもそそられる。明けて0時から2時までは半分おやすみタイムで「フランスファイブvs愛国戦隊大日本」と「2001年ナイアガラの旅」(内容不明、何だろナイアガラって? 大滝泳一?)をまたにかけ、明け方は「DAICONフィルム」を鑑賞しつつSFタタミで遊んでいるのか遊ばれているのか興味津々な堺三保さんを遠巻きに眺めている可能性が大。でも寝てるかも。2日目は「電撃の部屋」も良いけどメンバー去年とほぼ一緒だし、小松御左京大も見てみたい気がして悩む所、2時限目はガイナックスかなあ、沢城みゆきかなあ。これと言って決めてにかけるけど、まあダラダラしているでしょー。

 エンディングを2部まで見るかそれとも半ドンですっ飛ばして帰るかは体力次第ってとこ。総じて振り返って我ながらハードコアなSF成分が不足してるってことがまる分かりなのが恥ずかしい、「宇宙」もゼロだし。こんなんで「SF大会に行ったんだよ」と言って回って良いのかって悩むけど、こんなんも含めて許容するフトコロの広さがあっての普及であり繁栄なんだと認めてもらえればこれ幸い。胸こそ張りはしないけど、狭い肩身でふらふらと2日間の幕張通いもしくは幕張沈没に勤しむとしよー。それにしても近所でマリリン・マンソンとか演ってる中での「SF大会」ってのもちょっと凄いかも。向こうにSFがいるかはともかくSFでロックファンってゆー趣味の人もいない訳ではないけれど、明らかに異なる人種の人もいたりするる訳で、ひとつ場所に集まって果たして無事に終わるのかって当たりにも興味がわく。けどまあ多様な価値観を相対化できるのがSFの強み、宇宙人とのコンタクトだってシミュレーションできる人たちもいるんで大丈夫だと信じよー。

 刊行へとこぎ着けたのが「ハリポタ」効果かそれとも実力かどーかは不明だけど、7月に1刷が出て8月にはや2刷が出回ってるってことは多分それなりに評判なんだろー児童ファンタジーの新刊「崖の国物語1 深森をこえて」(ポプラ社、1600円)をペラペラと途中まで。鼻みたく出っ張った崖の上の平地に奥から深森があって薄明の森が来て泥地になって地上町を抜けて岩の園を通り過ぎるとそこは水がどうどうと流れ落ちる大地の果て。見上げると神聖都市サンクタフラクスが浮かんでいるとゆー設定の世界を舞台にした異世界ファンタジーらしーけれど、とりあえず1巻では一番奥地の深森を舞台に貴種流離譚よろしく捨てられていた種族の違う少年が、自分の正体を探す旅に出るとゆーストーリーが展開されるみたい。読み切ってないから知らないけれど。

 ありがちっちゃーありがちな展開だけど、繰り出される深森の生き物たちが動物も植物もグロテスクで迫力物で、それがだいたい絵を担当のクリス・リデルって人によって緻密に描かれていて楽しめる。豚みたいなデカマンマといーキノコを食べる巨大なチチムシといー宮崎駿さんの「風の谷のナウシカ」に出てきた腐海の虫たちとはまた違った不気味さ、醜悪さにあふれていてこんなん子供に読ませてひきつけ起こさないかと心配になる。あるいは富沢ひとしさんの「ミルククローゼット」に出てくる生き物たちに雰囲気近いかも。可愛い動物もいて仲間になったオオハグレグマなんかその代表格だけど、ちょっと悲惨な最後をとげてしまうのが残念とゆーか可哀想とゆーか。読んでトラウマにならないかなーとこれまた余計な心配をしてしまう。まあ「ミルククローゼット」とか「エイリアン9」の方が可愛いキャラで残酷なことさせる分、衝撃もでかいけど。

 作者はポール・スチュワートって人で銀座なんかに大きめのブティックを構えた世界的なトラッド・ブランドのデザイナー、とは当然ながら別人物。なんでも絵と物語は対等でポール・スチュワートとクリス・リデルの2人が相互に影響しあい刺激しあいながら作品を生み出していってるとかで、視覚的に優れた物語は実際に視覚的な部分から紡ぎ出されているみたい。すでにシリーズ化も果たされているそーで、1巻で冒険の旅に出たトゥイッグがおそらくは謎めいた自分の本当の居場所を探しながら、崖の上のいろんな場所から空に浮かぶ都市までも含めた「崖の国」を歩き回ることになるんだろー。何でもこの世界には不思議な法則があって、それが2巻以降に明かされるとかで楽しみ。世界そのものの成り立ちに説明がつけられてたらSFにもなるんだろーけれど、それはともかく挿し絵が豊富でビジュアル的って意味で流行りの海外ファンタジーの中でもちょっと注目したいシリーズです。ちゃんと出し続けてよ、流行が終わっても売れなくっても。


【8月16日】 まだそれほど世間一般的に知られていなかった人が、みるみるうちに有名になっていく様をウオッチするのってなかなかに感情的に複雑なものがあって、やっとここまで来たのか良かった良かったと嬉しさに頬ほころばせる一方で、先物買的な目の付け所の自分って案外に良いんじゃない、ってな自己満足に浸って悦に入る俗な感情も捨てきれず、我に返って下手な鉄砲を数撃った中の1つ2つに当たっただけに過ぎないんだってことに気が付いて、恥ずかしさに顔赤らめる。

 良いね良いねと口で話すだけならリスクなんてまるでゼロ。本なら1冊1000円が関の山だしギャラリーでの個展だったら費用は交通費くらい、ミュージシャンならCD1枚3000円って程度の出費でもって”育ててやった”面されちゃーアーティストの人も作家の人も勿論のこと、編集の人もディレクターの人もキュレーターの人もたまんないだろー。それでもこの4、5年の間、関心を持って動向を見守っていた村上隆さん奈良美智さんってゆー2人のアーティストが、相次いで国内の画廊じゃない美術館で個展を開催するまでになって、且つ「BLUTUS」なんて雑誌で大特集を組まれるまでになった姿を見るにつて、よーやくここまで来たんだなーとゆー感慨が浮かんで来る。

 当然ながら2人がこうも超メジャーになった過程で当方がが果たした役割なんてものはカケラもなく、良いね良いね頑張れ頑張れと一人ぶつぶつと呟いていただけ。メディアを使ってのバックアップをした訳でも情報を仲介した訳でもなく、根本には当人たちの才能があってそれを目のある人が見つけギャラリーで個展を開かせ、言説に力を持つ人が紹介し媒介力のあるメディアが伝えたからこその今日だとは承知しつつも、やっぱり良かったなあとゆー思いを抱く。

 記事を読んで改めてその海外での評価のされぶりに驚くことしきり。世界のあちらこちらに有名無名を問わないコレクターがいては、大きいものから小さいものまで村上奈良の作品をゲシゲシを買い付けては部屋に、居間に、ギャラリーに飾って堪能している。シンディ・シャーマンを買いアンゼルム・キーファーを買いデミアン・ハーストを買いポール・マッカーシーを買うコレクターがその鑑識眼でもって村上隆を買う姿。香水の世界でワールドフェイマスなゲラン一族の人が「誘いかけるようなポーズがいい」とオタク的な説明なんぞ無視して「Project Ko2」の小さいバージョンを買う姿。こうまで人気なら前に個展に出ていた時に、ちょい奮発してでも(といってもパソコン1台分)買っておけば良かったかなあ、なんて後悔も瞬間浮かんだけれど、記事に登場するセレブリティな人々が、将来値段が上がるかも、なんて下卑た考えなんかなしに純粋に作品として認めて買っている様子を知るにつけ、自分の出る幕なんかじゃなかったってことを教えられて逆にホッとする。

 世界での人気がいよいよ日本での評価となって帰って来て、雑誌にもどんどんと取りあげられるよーになった以上はもはや、誰が何をどう言おうと誰も何も言わなかろうともメジャー街道を大驀進していくことは確実。重ねて言うけどこれまで一切の役割を果たしてなかった自分が、それでも頑張れとゆー声援を心の中で贈っていた2人だったけど、こーなった以上はもはや先物買的な感情を満足させる対象からもはずれてしまった訳で、当人たちにとっては無関心な所で勝手に燃えてた奴が燃え尽きただけとは承知しつつも、そろそろ”卒業”させて頂こうって気になった。「東京都現代美術館」での村上さんの個展は自己中心的に卒展な気持ちで見させて頂きます。

 もちろん活動の推移はずっと見守っていくし、ファンとしての応援も続けていくつもり。あるいは50年くらい経った将来、どちらかが例えば「世界文化賞」獲得なんてことになった暁には、その昔2人にもあんまり売れてない時期があって、その時から知ってたんだって自慢を胸の中で転がして悦に入ることにしよー。我ながら卑小な野郎だなあ、けど何らリスクを負わず、メジャーな人たちの間に混じって堂々と交流を図れるだけの資格を得よーとする努力をしない自分には、そーした態度がやっぱり相応しいってことで。”向こう側”は果てしなく遠い。

 こちらも僭越にも抱いていたパトロン的心情をそろそろ”卒業”させて頂いて良いのかな。なんだかんだありながらも作家にとってフロックでは絶対に出せない3冊目の単行本を上梓した米田淳一さんの頑張りぶりを書店の平積みの新刊から感じるにつけ、これまでもだったけどこれからも当方なんぞの応援なんぞあってもなくても立派にしっかり物書きとしてやっていくんだろーって気になって来る。中味の方でも新刊の「スーパー防空巡洋艦『綾瀬』」(白石書店、857円)はいわゆる「架空戦記」と呼ばれそーなパッケージをして立派に「架空戦記」として楽しめる(んだと思うけどあんまり「架空戦記」知らないんでその辺は想像)内容を持ちながらも、恥辱の過去の否定を通じた快楽の現在の称揚といった”逃げ”に走らず、一方で多世界解釈を使って過酷な”現在”への疑義を提示し、それでもやっぱり”現在”を選び取ろうとする心意気の気持ちよさを描き出していて好ましく感じられる。

 ともすれば一時の歴史改編が際限ない歴史の見直しとしてふくらみ無数の可能性へと拡散していく懸念がシミュレーション小説にはあって、それが僕のシミュレーション小説に対する苦手意識につながっていたりする。「スーパー防空巡洋艦『綾瀬』」の場合も、多世界解釈とゆー打ち出の小槌を振り下ろして無限の可能性を示唆し、その快楽へと登場人物たちを、さらには読者を誘いなってはいるものの、そこでカチッと手綱を引き締め、SF的に合理的な説明でもって現実の世界がたどった現実の歴史へと物語を帰結させよーとするスタンスが個人的には嬉しい。

 あくまでも迂回路として戦国時代に巨大兵器とゆー要素を入れ混ぜながら、結果としての歴史に変革を起こさせなかった高瀬彼方さんの「天魔の羅刹兵」とはニュアンスも手法も違うけど、宇宙規模次元規模のSF的ガジェットを混ぜ込み膨らませた堕落へとつながる可能性を、理性でもって克服させる展開に人間性の勝利を見た気がして嬉しくなった。過去は変えられない。けれども未来は変えられる。鍵を握るのは現在に生きる僕たちだ。責任を負うのも僕たちなんだ。とまあ、そんなことを教えられたりもする小説。こーゆー内容でSFなら王道まっしぐらなんだけどシミュレーション小説としては相当に異色で異例なんだろー。よく出したなー白石書店。

 世界の可能性と心との関係が多世界解釈の中で示唆される「スーパー防空巡洋艦『綾瀬』」と期を同じくして刊行された上遠野浩平さんの新刊「わたしは虚夢を月に聴く」(徳間書店、590円)でも、バーチャルな世界と現実世界の交錯する未来を舞台に心が見せる真実の大切さが訴えられていて、シンクロニシティーなんかを感じてみたり。不安だらけの世の中だけに、今に対する不安が可能性としての”ここではない別の場所”を夢見せたり、自分に対する不安が可能性としての”ほんとうの自分”を見せたりするんだろー。

 小説は「ぼくらは虚空に夜を視る」と同じ世界観を持った作品で、こっちでは少女が現実と夢のはざまで自分とゆー存在を確かめよーとあがく話になっている。練り込んでメタ設定にメタ言語を駆使すれば神林長平さん級に難解ながらも深淵な作品になる可能性を持ちながら、パッケージの関係もあって割と分かりやすそーな(分かってはないけど)所に落とし込んでいるのが有り難い。イラストは前作と同様にアニメーターとしても活躍してる中澤一登さん。セーラー服の美少女の白い両脚の隙間にのぞくのは、位置から類推するにスカートの後ろの下の端なんだろーけれど、弧を描いた形状に瞬間だけ妄想してしまった。うつだしのう。


【8月15日】 関係者の人には地獄の進行の結果としてもたらされるお盆前後の出版物の刊行休みとゆー福音も、活字中毒者であり情報中毒者な身にはまさに地獄の状況で、キオスクをのぞいては旧刊ばかりの雑誌の山にこれから電車で過ごす30分を何やって潰そうかと悩む毎日。仕方なく普段は買わないよーな雑誌が棚に残っているのを引っぱり出しては、どんな記事が載ってるんだろーコラムは誰が書いてるんだろーと思いながら読んでみたりするんだけど、特別号の「フラッシュ」みたく、白がたくさん載ってるってゆーから買ってみたのは良いものの、ほとんど誰も知らないよーなマイナーグループのデパート屋上っぽい場所でのチラリ写真ばっかりで、愕然としながそれでもやっぱり食い入るよーに見てしまう我が身の情けなさに、自己嫌悪に陥ったりしてる。早く終わらないかなあ、お盆。

 今日も今日とて新刊雑誌が出ない中をスタンドに残っていた「POPEYE」を久々に購入。16歳から22歳当たりの、アイビーからアメカジからDCブランド全盛へと急激にファッション傾向が移り変わった時代に結構食い入るよーに読んでた雑誌だけど、この10何年かはとんとご無沙汰だったりして、今時の世間のファッション状況はいったいどんな感じになってるんだろーと確かめることが出来るって点では、期待はずれに終わった(けどシモネタ的な満足はしてしまった)「フラッシュ」よりは楽しめるんじゃないかって思いが買う時にちょっと働いた。

 じっさい「新モノ新流行スクープ」って内容は、可処分所得で「POPEYE」に掲載程度のモノだったら割と簡単に買えてしまう(ベンツはちょっと……)おっさんの身だと歯がみせずとも読めたりして、時間つぶし以上のものが得られたんだけど、ただし可処分所得で購入できることと、購入して身にまとえるかってゆーのとは別問題で、掲載されている副が体系的に着られた時にはお金がなくて買えず、買えるよーになった時には肉襦袢が重なって着られなくなっているとゆー、哀しい現実に直面させられたりして「フラッシュ」とは違った自己嫌悪を味わったことも事実。世の中とはかようにままならないものだと、今さらながらに認識させられジッと手を見てソーセージのよーに膨らんだ指をながめ、やっぱりお盆よ早く開けろ我が身に相応しい「週刊文春」「コミックバンチ」を読ませろと、天空に向かって心の中で強く叫ぶ。若いっていいなあ、金持ってさえいれば。金持ちって楽しいなあ、若ければなお。

 それはさておき久々に読んだ「POPEYE」で妙に”スタイリスト”と肩書きに書かれた人たちのやたらと大勢フィーチャーされていることにはちょっと吃驚。もちろん昔もスタイリストっていたし誌面にも出て多けれど(伴淳の息子だったっけ? スタイリストとして活躍してたよーな気がする。あと空間プロデューサーとかゆーのも)、今時の「POPEYE」はそれに輪をかけてメインのハイエンドなパーソンとしてピックアップしてる感じがあって、ちょい前だったら美容師だったカリスマの称号が案外遠くない将来、あるいはもう既にかもしれないけれどスタイリストにも付けられ持ち上げられ囃されるよーになるんじゃないかと思ってしまった。それほどまでに大勢いるんだよ、スタイリストが世の中には。

 最新号の「POPEYE」だと秋葉原を回って電脳グッズを買いまくる高木康行さんって人がTKKとあだ名されるスタイリストでディレクターらしく、なるほど黒いTシャツの袖から白いアンダーシャツをちょいのぞかせる(端切れが最初からついてるのかもしれないけれど)テクを見せてたりするあたりに、今時なファッションの先端が伺える。同じ号の夏バテを乗り切るためのスタミナ料理を紹介するコーナーにもスタイリストが商売らしい梶雄太さんて人が登場してはアツアツのラーメンをすすってたりするし、別のページでは堂々3ページも使ってスタイリストをメインにデザイナーとしても活躍中、らしーけど年寄りなんで知らなかった熊谷隆志さんって人を紹介している。

 すぐ次のページもやっぱり”人気”スタイリストらしー坂崎タケシさんんて人が登場してはDJよろしくファッションアイティムの最先端をピックアップして紹介してたりするし、さらに後ろのページの「ファッション巌流島」ってコーナーでは、編集さんがアイティムの着こなしテクを人気スタイリストに聞くってこーなーらしく、「ハセガワ」なるスタイリストが登場しては編集の質問に答えてる。スタイリングを担当している長谷川昭雄さんって人が「ハセガワ」なのかな。この号が異例なだけかもしれないけれど、それにしてもなスタイリストのフィーチャーされぶりを見るにつけ、裏方さんだったのにメインに登場して脚光を浴びる構図が、単なるお皿回しが音楽選びのセンスの良さでもって脚光を浴びたDJなんかに通じてる、よーに思ったけどさてはて若い人たちの間でスタイリストって仕事、どんな感じで受け止められてるんだろー、DJの次くらいにやりたい仕事? 美容師とどっちが上? 後の号でも似た扱いになっているのかも含めて、スタイリストなる人たちの人気っぷりを観察して行こー。

 サッカーは日本が圧勝な感じ。あれだけ押し込みの少ない豪州が相手だったらもっと点だって取れたかもしれないけれど、いつものよーに消極的に見えても決める場面では前に出て行く潔さが見えたってことで日本代表の奮闘ぶりを強く讃えたい。中村俊輔を出さなかったおとに”悲劇のヒーロー”好きな日本のメディアがちょい前の廣山望以上に騒いでトルシェの非道ぶりを非難して行きそーだけど、ポジションの被る服部が完璧に近い働きを見せているところに、どーして本調子に近づきつつはあると行ってもトルシェ的にはまだまだらしー俊輔を入れなきゃいけないんだ? って合理的効率的な答えが出てくるだろーことは至極当然。それでもなおかつ「可哀想」「せっかくベンチ入りさせたんだから」ってゆーんだったら、結局それは俊輔を見下してることになる訳で、かえって俊輔を傷つけてしまう。まあそーゆーことに気付いていたら、現状の調子なんかを見定めて「使うな」と報じるメディアがもっと増えるはず。そーならない辺りに日本の新聞業界、スポーツメディア業界の抱える問題の根深さが伺える。さてどんな記事が出てくるか、セル爺は何って怒っているか、怖いけと楽しみ。


【8月14日】 ちょい呼び水が差されたからかそれとも企画した側に艱難辛苦を乗り越え企画を実現する体力余力ができたからなのか、東浩紀さんのサイトでスタートしてから1年以上が経過して、議論がストップしてからも約10カ月が経ってもなお動きのなかった「網状言論」が、いささか装いを異にしながらメンバーはほぼ被りで再スタートする兆し。タイトルとかちょい違うけど「網状言論F」なる名称で、9月16日に池袋でシンポジウムって言うのかな、それともパネルディスカッションか、うーんやっぱり「網状言論」と言うのが正しいんだろー集団でのトークセッションを開くってんで早速参加を申し込む。このメンバーでこの値段、安いぞ。

 それぞれに一家言あるメンバーが集まってしまった関係で、時間が自在なネットだと考えすぎるのかそれとも考え込んでしまうからなのか、あるいはリアルタイムでの説得納得が成立しないからなのか、それぞれが意見を開陳しつつも沈思黙考の構えが見えて進まなかった議論がさてはて、リアルな場だとどんな展開を見せるのかがちょっと楽しみ。まあ喋らせてもやっぱりそれなりにまとめる人たちなんで、結論が出る出ないはともかく眺めて楽しい一夜にはなりそー。そもそもが1つ対象にまとまらず分散傾向が見られるサブカルの状況を、2時間とかでまとめられるはずもないんで、とりあえずは現状がどーなっているかについての指摘と、それが何によるものなのかとゆー分析、でもって将来どーなっていくんだろーかってな見通しを、いったんでも垣間見せてくれたら仕事にも暮らしに役だって嬉しいかも。講師はともかくどんな観客が来るのかも含めてコッソリ観察していよー。

 日比谷スカラ座で「千と千尋の神隠し」を見る、まだ3回目。某プロデューサーによれば、試写でやってみた時に、フィルムじゃない関係でピクリともガタつかない画面に結構目が疲れたってゆーDLP方式の特徴が、果たしてどこまで一般の人も分かるだろーかとゆーことを確かめる意味も込めての観賞なんで、混んでそーだったけど東京では確かここだけの日比谷スカラ座に行くしか他にない。懸念どーり到着した日比谷スカラ座は、平日で最終の上映にも関わらず劇場は満席らしく、指定席もさっさと売り切れてしまってたみたいで陣取れた場所は後段の左方とゆー決して良好ではない座席。それでもさらに端とか前なり後ろって人もいた訳で、今さらながらにすさまじいばかりの客入りだってことを実感する。

 この数字が厳然としてある以上、いろいろな人が作品へのいろいろな疑問を口にして批判したところで、「だったらどーしてこんなに大勢の人が見るんだ?」とゆー疑問にも合わせて答えてくれないと、どこか欠けた納得しか得られない。これは「ハリー・ポッター」シリーズなんかにも通じる気持ちで、どーしてそんなに売れるのか? 売れるからには何かがあるんじゃないのか? ってな市場性を前提にした思考から入ってしまうことの問題でもあるんだけど、市場性を完全に無視して作品性だけて語られてもやっぱり釈然とせず判断に困るから仕方がない。まあ売れるものは理由なく売れたりする時代なんで、案外と理由なんてないのかもしれないなー。作品性そのものを語る口コミ評価が増えるこれからの動員動向なんかを見てから、市場性と作品性の整合性とか乖離の様とかを判断しよー。

 さてDLP、言われるほどクッキリ鮮やかでガタがなく目に厳しいって印象はなく、まああらかじめ聞いていたんで意識し過ぎて気付かなかったからなのかもしれないし、場所が広いんで気にするだけの鮮やかさが得られなかったのかもしれないし、普段からの不摂生で頭とか目とかが震えて自然にフィルム的なガタ付きを脳に見せていたからなのかもしれないけれど、とりあえずクオリティには問題無いってことが分かった。2年ほど前の出始めの頃は大変だったからなー、ハードディスクがクラッシュだかフリーズだかして。明るさに関しても無問題、気になったのはやっぱり色で、案外と気にし過ぎた挙げ句の幻なのかもしれないけれど、全体に黒くくすんでいるよーな気がして仕方がなかった。赤もドス黒かったりするしなあ、幻かなあ、今度また最初に見た場末の劇場に行って見て来よー。

 音声は最高、細かい効果音までバッチリ聞こえて場末との違いが際だつ。水の音とか虫の声なんかも水音、虫声として聞こえて来て、5・1ch化が可能ながらもスペースの関係でステレオで聞いている我が家のオーディオ・ビジュアル環境に鉄槌を加えたくなって来た、って自業自得なんだけど。これは幻聴な可能性もあるけれど、ラスト近くで後ろを振り向こうとした千尋が我慢して目を正面に戻す場面でちゃんと目ガグリンと動く音が聞こえたのにはちょっと関心。これまでも聞こえてたかもしれないけれど耳に届かなかったからなー。絵だと途中でもらった千尋の髪留めが最後にキラリと輝く場面もちゃんと目に映って、ありがちな「夢落ち」なんかでは決してないんだって主張が込められていることを確認できたのが収穫だった。

 まあ「夢落ち」が「夢落ち」じゃないからといって構築された世界観の辻褄の合ってなさが許される訳ではなく、むしろだったらもっとちゃん辻褄を合わせろってことになるんだけど、結論から言えば「だいたいでいいじゃないby吉本隆明」。見終わってお話しが楽しかった景色が綺麗だったと思いつつ、親切って良いな挨拶って気持ちいいな頑張るって嬉しいなと感じられれば万事オッケーなのが宮崎アニメの半ば伝統なんで、気にせず突っ込まずガニ股でジタバタしながら慌てたり両手を左右に広げて驚く千尋の滑稽な可愛さなんかを場面場面で堪能しに、機会を見つけてまた劇場へを足を運ぶことにしよー。ところで大事な大事な坊をなぜ、湯婆婆はひとりで油屋に置いて家へと帰ってしまうんだろー。気に……しない。


【8月13日】 買うなら本家でと委託先とかじゃなく「風虎通信」でちゃんと買った「ガンパレ本。」をペラペラ、過去現在未来において「ガンパレード・マーチ」なるゲームをプレイしたことのない不逞の輩に果たしてどこまで楽しめるのか分からなかったけど、「ソフマップ11号店」が必至こいて売りまくった話をリポートした加野瀬未友さんのインタビューなんかは、ただ来た物を知名度とかツールの数とかでランク付けして惰性で流すんじゃなく、独自の視点で物を売ってそれがちゃんとムーブメントになるんだとゆー実例を現したものとして、ゲームメーカーと小売店のあるべき関係なんかを示唆しているよーで勉強になる。本来もっとマスのメディアが取りあげてしかるべき話なんだけど、なかなか頭が回らないんだよなー。取次とゆー巨大流通におんぶで抱っこな書店といっしょで、主体性を持って行動したくっても出来ない事情があるのは小売に共通の悩みと言えそーで、そこいら辺りを打破する糸口が見つかるきっかけになれば面白いかも。

 興味深かったのは妹尾ゆふ子さんと榊源一郎さんがともに取りあげていた「ガンパレ」制作者による公式情報がもたらした波紋。「リカちゃん人形」の双子の妹の名前をめぐるエピソードで、自分が着けた自分にとっての本物の名前が、メーカーによる”公式”の名前の登場で”嘘”にされてしまった瞬間に浮かび上がった何とも言えない衝撃を引き合いに、「ガンパレ」の公式設定の登場が少なからずユーザーにショックを与えたってことを妹尾さんは書いていて、情報も出すタイミングや量を誤ると、人気を持続させるどころかかえって人気の衰退につながる可能性があるんだってことが分かって面白かった。榊さんはネット上で繰り広げられた制作者とユーザーとの対話を一種のメタフィクションとして捉えていて、未だプレイしていないゲームの仕掛けの奥深さを感じさせてくれたけど、同時に行き過ぎた感すらある対話がユーザーと制作者との間で気持ちのズレを引き起こし、”萎え”を招いてしまったことを指摘していて、妹尾さんの文章と同様に情報提供の難しさ、ユーザー心理の複雑さに気付かせてくれる。なにしろ「ガンパレ」ブームが”萎え”てることすら知らなかった身なんで、現状が把握できて楽しめました。

 まあ今から仮に「ガンパレ」を始めたとして、すでにある公式なる設定を土台にすべてを考えられる新参者には、初期からのファンが相次ぐ公式情報に感じた”萎え”の気持ちは多分味わえないと思うけど、似た話で言うなら個人的には今の設定に解釈が行き届き過ぎて百科事典まで出来てしまった「ガンダム」シリーズに、ちょっとした”萎え”を感じていたりする。どこそこの会社がどーゆー経緯でこのモビルスーツを作ったとかいった解釈が、おそらくほとんどのモビルスーツに現在はなされていると思うけど、「ファースト」を見ていた当時はザクもグフもドムもギャンだって全部が単なるジオン軍の兵器だし、ガンダムもガンガンクもガンキャノンも言ってしまえば玩具的なバリエーションから作られた違いに過ぎず、メーカーとか開発された経緯とかは一切不明だったはず。にも関わらず単純に物語の面白さで楽しんでいられたものが、事細かく開発の経緯だとかメーカーの違いだとかが語られるよーになった今、そーした「だいたいでいいんじゃない」って態度でいると肩身が狭いよーな気がして、だったら見ねーよ「ファースト」だけで十分だと思えてしまう。「Z」に登場のハマーン様は除いて。

 熱心な人たちへの半ば嫉妬心が反転して”萎え”につながった「ガンダム」の例は、抱いていたイメージとの乖離が生んだ「ガンパレ」の”萎え”とはニュアンスがちょっと違うけど、ともかくも初期の団塊で非公式ながらも合理性のある解釈が行き渡りやすくなったネット時代だけに、”萎え”を起こさせず飽きもダレも生じさせずに情報をコントロールしながら話題を盛り上げ持続させていくことには、結構な難しさがあるんだってことが見えて来た。熱中し過ぎることが可能なコンテンツであり想像できる謎の奥深さもなかなかだったとゆー前提がたぶん「ガンパレ」の場合にはあったんだろーけど、そーした特殊性も含めて人気って何? ブームって何? ってなあたりを検証する事例としてマーケやってる辺りの人が研究してみると楽しいかも。同人誌は残りわずかだそーで「日本SF大会」でも頒布するとかしないとか。築地の人も田町の人もとりあえず読んでおけ。

 こちらは観察しまくってその風体は良く知っているけど、向こうは全然こちらを知らない枡野浩一さんがプロデュースした女子高生歌人の加藤千恵さんが、今時使うのは恥ずかしいらしー「処女」とピンクで染め抜いた副題を持つ短歌集「ハッピーアイスクリーム」(マーブルトロン発行、中央公論新社、1700円)を刊行して、その記念のトークショーが恒例の「ロフトプラスワン」で開かれたんで出没する。「ついてないびっくりするほどついてないほんとにあるの?あたしにあした」なんて有名過ぎる作品から、部屋に閉じこもってメソメソしてるっぽい鬱々とした女性ってイメージを勝手に抱いていたけれど、壇上に上がって来たのは、テレビ番組「電脳短歌の世界へようこそ」に登場していた時ですら仏頂面に思えるくらいによく喋りよく笑う女の子で、ハキが良く回転も速い言葉と最初に思いついた「歌集ナッツ」とゆータイトルへの愛着、好きだとゆー福山雅治さんへの心酔ぶりを目の当たりにして、とてもじゃないが「月並みなことを言うけど幸せは過ぎ去ってから気がつくものだ」なんて悲痛さに諦観めいたものをにじませた言葉を綴る人には見えず驚いた。

 普段の生活の鬱屈を言葉にぶつけて書きました、ってんならこのストレートぶりも納得できてしまうんだけど、見た目の明るさハキの良さと作品の暗さ辛さ痛さとのギャップを果たしてどう理解したものかと悩む。月並みだったらイメージが違うってことになるんだけれど、今は陽気でも次の瞬間フツーの女子高生になってフツーになって悩みもだえているのかもしれず、それがストレートに言葉になっただけなんだと見るとするなら、多感な世代に付き物のの起伏の激しさをそのままうつしただけでギャップなんかないと理解できる。あるいは根っからの陽気物で、短歌はそんな自分をコントロールして哀しく辛い気持ちになって書いたんだと見てとれないこともなく、だとしたらその”鉄面皮”ぶりに頭が下がる。

 ゲストに登壇した寮美千子さんは加藤さんの短歌は等身大の加藤さんがそのまま現れているから良いと見ていたし、枡野さんは高校生になるとすでに頭先行で書けなくなっているストレートな言葉が出ているところが凄いと言っていて、だとするなら自分を完全にコントロールしているっゆーよりは、自分をありのままストレートに出すとゆー簡単なよーでいてその実難しいことをやってのけた結果が、プロの物書きたちをして惹き付ける味となって現れたってことになるんだろー。何せ大好きな福山雅治さんにちなでミニコミに「ハッピー(福)マウンテン(山)」と付けてしまえるスーパーにストレートな思考。怖い物なしに突き進むからこそ目立つ才能が、いろいろと体験とかして妙に小利口になってしまった果てにどーなるんだろーと心配にもなるけれど、そんなん大きなお世話とばかりに突き進んでは枡野さんすら突き抜けて、偉才を世に見せつけることになるのかも。未来の強敵を自ら世に送り出した枡野さん、やっぱり偉いなー。

 寮さん絡みで枡野さんが最近改名したヒラマドさん家を知っていることが判明、もともとは川島誠さんのことを知りたくて検索したとか。世の中って狭い。会場には短歌の人俳句の人が大勢来ていたよーで有名人度も結構高かったみたいだけど、短歌も俳句もとんと無縁の身の上では誰が誰やらさっぱり不明、まあ枡野さんが1人突出して顔が知られているだけなのかもしれないけれど、特徴ありまくりだし。ゲストで登壇したNHKディレクターで「電脳短歌の世界へようこそ」を作った足立美樹さんがとてつもない美人でこれまた仰天、最前列からマジマジと眺めていたけど、下手したら下手なアナウンサーより見栄えも喋りも上かもしれない。今はどこの放送局にいるんだろ? いずれ東京でとてつもない人気物になったりするのかも。サインもらっておけば良かった。


【8月12日】 「コミケ」帰りに寄った秋葉原の「ボークス」で購入した26日に開催の”夏の模型イベント第3幕”、「シー・スリー・プレ」のガイドブックをペラペラと見る、「ガンダム」ばっかじゃん、あと「あずまんが大王」。まあサンライズが協力に入っててバンダイとメディアワークスが後援してたりするイベントだから当然と言えば当然なんだけど、「ガンダム」と言えばなイベントが前にあっただけに、膨らむキャラクター市場に対する権利抑えの壮絶なバトルの様が背後に見えて商売の厳しさに身震いする。抜かれたイベントも行ったけど確かに模型のイベントとしての寂しさがほの見えて来てたからなー、代わりにカードなイベントとして再生してくってことなんだろーか、どーなる「JAF−CON」、いっそ合併?

 巷で噂の等身大、な訳はないけど「ミニモニ」参加オッケーな1メール47センチ「ザク」の広告も載っていて、スペックを読むほどに商品としてのすさまじさを感じる。重量30キロはちょい痩せ過ぎな「ミニモニ」だけど総パーツ数で150、ボルト&ナット&ワッシャー267ピースってのをえんやこらどっこいしょと組み上げなくったいけないって考えると、結構な大工仕事が予想されて、買う人は財力よりも体力を鍛えておいた方が良いかもって思えて来る。我が家の6畳1間は当然、2DKクラスじゃとてもじゃないか置場所に困るだろーことは必至で、あるいは洗濯機か冷蔵庫をどかして置いておくってことも可能だけど、やっぱり近場において愛でていたいのがファン気質ってもんだ。だとしたらせめてリビングが20畳ある家ってことにななりそーで、買える人もやっぱり限られて来るんだろー。鎧兜や武者人形はもう古いですこれからはモビルスーツですって、端午の節句に五月人形の代わりに売るとかって出来るかな。

 ブース紹介は企業出展も一般ディーラーもガンダム物にはあんまり興味がないんで見ても心躍らないけど、ときどき見かける「ハマーン・カーン」の字には胸沸き立つものがあって夏も最後の休日なのにやっぱり行ってしまいそー。「ボークス」からはフィギュアが出るみたいだし一般ディーラーからも何点かキットが出るよーで、作れはしないけど見て眺めるだけでハマーン物にはこれ至福の時間なのです。コールドキャスト彩色済みとか出ないもんかなー。ハマーン様と言えばバンダイ謹製HG「キュベレイ」が発売中で、4000円とプラモデルにしてはなかなかなお値段だけどやっぱり買うのは義務、なんだろーなー、小さいけどハマーン様も入っているみたいだし。ブースだとほかは「ちよ。」の文字が光る「F−Face」に注目、前に「電撃大王」で売ったソフビキットでも出るのかな。

 いつの間かやっぱり椅子の上で気を失って気付くと朝。そそくさと支度をして僕的に2日目で一般的には3日目の「コミケ」へと乗り込む。到着11時ちょい前で入場が11時40分頃だからまずまずの流れで、いったん動き出したら立ち止まらなくて済む行列のさばきっぷりは見事とゆーより他にない。ちょっぴり雨混じりだったけどその分昨日よりも涼しくって汗も流れず肉襦袢には嬉しい天候、もっとも流れる汗が少なかった分、ダイエットにもならなかったって言えるけど。今回はさすがにいきなりの企業ブースにはならず、とりあえず東館へ行って岡田斗司夫さんの所の新刊を購入、両A面で方や「30独身女、どうよ!?」と女性の結婚願望を木っ端微塵にする特集、こなた「恋愛の取説(仮)」とそれならせめて恋愛くらいはと目論む女性に最適な道を指南する、1冊で2冊分美味しい同人誌なっているけど、どっちも商業出版される単行本のプレ特集になってるあたりが商売人、やっぱり全部読んでみたくなるからね。

 「30独身女、どうよ!?」は女性が抱く男性への理想、すなわち「余裕のある」「話顔も白い」「才能のある」「安心感のある」「セクシー」な男といった条件に対してことごとく反論を加え内実を説明しては「そーゆー見方は正しくない」と諭していく内容で、例えば女性が男に感じる「余裕」ってのはつまり女性に無関心か女性を舐めてるかのどっちかであって愛情の対極から出る態度なんだと言っていて、愛情自体も「欲」と「責任」がそう見えるに過ぎず女性が考える「愛情」とは似て非なるものだと訴えている。男が女性に対して抱く好意のベクトルから「欲」と「責任」を抽出して見せた分析するど過ぎ。男ってそーゆーもんなんだよと分かって果たしてもらえるか、もらえねーよなやっぱ。

 結論の明解さもなかなかだけど、これってつまりは結婚願望のある男にとっても結構シビアな結論ってことになるのかな。まあ「男の責任」ってものが例えば幻想だったとするならば、それを前提にした家族家庭結婚その他の関係ってのも紡ぎなおす必要が出てくる訳で、「フロン」なんかとも一脈通じる家庭内なり男女関係の見直しの果てに、恋愛なり結婚なりの概念も変わらざるを得ない、そのプロセスを「結婚したいけど結婚できない30女の戸惑い」を切り口に解き明かそーとした本と言えそー。30独身女の異論反論があるかあるならどんなものかにも注目したい。同人誌自体ですべてに通じる結論まで言っちゃってるけど本編ではもうちょっと間口を広げて語ってるみたい。現代書林から10月刊行。

 「恋愛の取説(仮)」も女性向けなんで役にはそれほど立たないけれど、とりあえずやってみた心理テストだと「学者タイプ」の「恋愛アレルギー」で例えるなら「空の食欲魔人」の一橋みすずに分類されて、性格は「もっとも『人嫌い』な傾向が強い」そーで「彼氏どころか同性に対しても、ごく少数の人としか、関わらないで平気」で「淡々としていて、とっつきにくい印象を持たれがち」で何か当たってる。結論から言えば「恋愛なんかしなくても、幸せに生きていけ」るそーで、それはそれで何かちょっぴり哀しいけれど、言われてみればそーなんで仕方がない。「恋愛はまさに鬼門」で「相手に『好き』と言われたらどうしていいのかわからなくパニックになる」そーなんで、当方をパニクらせたかったら「好き」と言ってみてはいかが。きっと泡吹いて逃げ出します。

 「コミケ」ではほかにロトさん氷川竜介氏の個人誌第7号「新世紀のアニメを考える アリーテ姫 片渕須直監督インタビュー」を購入、3回もオーディションやってその度に残ってくる桑島法子さんってエピソードに桑島声の偉大さを改めて感じる、真夜中に「おじさまー」なんてやってる人とは思えないもんなー、あのブスったれて賢しらで生きるのに真摯なアリーテ姫を当てている時の桑島さんって。氷川さん自身による長めの評論文の最後近くに出てくる43歳になって会社を辞めたことと映画の内容を絡めた話が興味深いし身に染みる。「個」を窒息させる組織への反発、って辺りが退職の理由とするなら、「世間的には手堅」い上にそれなりな時流にも乗っているよーに見える会社も人によっては息詰まる所が出てるってことなのか。まあ似た話は別に辞めた人からも聞いてたりするから、世間の評判と内実にはそれなりのズレがあるのかも。「SF」としての「アリーテ姫」評もあって値段を超えて読みごたえのある1冊、「SF大会」でも売れば良いのに。


【8月11日】 「アメリカ・コラムニスト全集」は版元在庫切れ、まあそんなものだろー、古書店ゾッキ本屋をこまめに探すことにしよー。暑さのせいか疲れのせいかベッドの上に積み上げた本の篭をどかす元気もなく椅子(というか積み上がった本の上に座布団3枚重ねたもの)の上で寝たり起きたり寝たり寝たり。真夜中過ぎに目を覚まして久々に「Z.O.E.dorores,i」を見るといよいよな親子体面シーン、なのに殴り合い2発で溜まりに溜まっていたはずの愛憎にケリがついてしまうあたりのお手軽さは、親子関係に悩みまくる主人公の多かった近年のアニメ的な傾向の中ではやっぱり異色なのかも。

 まあ単に一家が脳天気なだけで、代わりにレベッカちゃんがあっけなく負けた挙げ句にグスグスやってるからバランスは取れてるってことで。電脳ワールドのドロレス、ドレス姿に一瞬理想の顔で現れるかと思ったらやっぱりメカなまんまでの登場でガッカリ。けどまああれで自分が綺麗だと思ってるんだから仕方がない。膨らんだスカートからコクピットは突き出てなかったよーに見えたけど、これが乙女の恥じらいって奴? 次回は結構派手なバトルがありそーで楽しみ、けど「SF大会」前で起きていられるか。見て行くのが「SF者」なんだが(違う)。

 ちょっとだけ寝て起きて有明へ。11時ちょい過ぎに到着すると正面通路に行列のカタマリが何列も出来ていてなかなかな活況ぶり、けど走る人もなく暴れる人もなく並んだ数百人規模のカタマリが順ぐりに粛々と入場していく様は、さすがに大量動員イベントの入場列さばきに関する主催者の英知を感じさせる。いったん動き始めたら最後まで一気にすんなりって辺りもイライラを起こさせずなかなか。最後の階段直前でボトルネックを作ってしまったからか、入場までに1時間近い時間がかかってイラついたからなー、「ワンダーフェスティバル」は。まあ権利ビジネスの複雑怪奇な音楽業界的にあれやこれやなジャパン・アミューズメント・エージェンシーじゃあ、版権はさばけても入場列はさばけないってことで。

 入場していきなり右手の西館屋上へと続く階段を上がり、コスプレ広場をぐるりと回って企業ブースの立ち並ぶフロアへと入り、企業モノをながめて買ってそのまま帰る自分はやっぱりコミケな人じゃないんだろー。けど「東京キャラクターショー」でもないのに企業ブースに長蛇の列が出来ている様を見ると、最初から企業モノを目当てに「コミケ」に来る人が結構いることが分かって、自分のことは棚に上げてもちょっぴり複雑な気分になる。好きだから作るんじゃなく好きだから作るって人が多くなってるってことなんだろーけれど、そーゆー風潮が作り手と受け手の分業化をよりくっきりとさせてしまいはしないか、とか。とはいっても普通の会場にもワンサと人は来ている訳で、企業モノの増加自体も好きだから作る人がアマチュアとビジネスの壁を超えて増殖している現れだと言えそーで、心配しなくってもコミケなスピリッツは日本全体に蔓延してるってことなのかも。

 企業コーナーでは、なぜこんな場所にって感じで「ゆめ太カンパニー」がブースを出してて大地丙太郎監督の傑作ながらすでに幻になりかかっていたオリジナル・ビデオ・アニメの「アニメーション制作進行 くろみちゃん」を大量入荷の大量販売してたんで有無をいわずに買う。とてつもない枚数を使ったとてつもない作品って前にあれは何時だったっけ、何かのイベントに大地監督が出て来た時に喋っていたのを聞いて買おうと思ってはいたんだけど、ショップとかではあんまり見かけず品切れになっていたのかと諦めてたから凄く嬉しい。企業ブース万歳。おまけに大地監督と主役の大黒みき子(略して「黒み」、ってどこが略なんだ)を演じた麻生かほ理さんのサイン入りクリアファイルをもらってラッキー、本当は安原麗子さんのサインが欲しかったんだけど口には出さない。

 帰って早速観賞、やあ面白い、これは面白い。お話しは新入社員ながらもいきなりテレビシリーズの制作デスクにさせられてしまった大黒みき子ことくろみちゃんが、頑張りと先輩の励ましによって癖のある原画マンたちを相手に原画を取って回って走るって内容。アニメの制作の仕事ってあんまり知らないんだけど、残り1週間になってて全部で300カット近くある原画のほとんど全部が残ってしまっているのって、やっぱり地獄の進行なんだろーか。雰囲気は伝わるんだけど詳しい人が見たらもっともっと楽しめるかも。知り過ぎた人だと過去の苦労あるいは現在進行形の地獄が胃の穴を広げる可能性もあるから注意が必要だったり。ちょこまかした動きは大地流で謎の生物が解説風に突っ込む展開も大地流。飽きずに最後まで楽しめます。作画監督の四本松浜子を演じる気怠い雰囲気の安原麗子さんがなかなか。続編とか見たいけど……売れてるのかなあ、買って上げて下さいな。


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