縮刷版2001年5月上旬号


【5月10日】 「BEKKOAME」のメールは回復した模様でトップの宛先も元に修正。山とカスタマーサポートにメールを出しても1日放っておかれて勤め先からFAX入れた途端に直るあたりの実に人間味あふれた対応ぶりがナイス、でもちょっと自己嫌悪。「噂の眞相」6月号は岡田斗司夫さんが久々のフィーチャーで、「若手文化人」かどーかはともかくとしてさぞや徹底した叩きぶりかを思って読んだら案外とこちらは素直な意味での人間っぽさを感じさせる言葉や考え方が紹介されていて、ご本人へのインタビューもしっかりとあって推測伝聞の類でイジめるウワシンにしては真っ当なアプローチって感じがする、まあ記事の端々には厳しさも結構あるけれど。「愛人といわれる女性の存在」ってのが指摘されてて「その女性、Wというライターなのだが」ってあって、まあ誰かは想像がつくけれど同時に「即座に否定」したのも分かるよーな気が。Wさんまたカラオケやりましょう。

 恒例の「ロフトプラスワン」スケジュールでは15日の「『ブンカザツロン』出版記念 唐沢俊一×鶴岡法斎」が近いところではオタク系とゆーセグメントを越えて世代論的に見ても面白そー。あと3月の回に続く「ねこぢる草 音と映像の世界」が22日に開催で、佐藤竜雄監督の他に今回は「ファンタスマゴリア」とか「クジラの跳躍」といったたむらしげる作品で奥深い音楽を聞かせてくれていて、もちろん「ねこぢる草」でも不思議なねこぢるの世界にマッチしてもの悲しくも神秘的でどことなくレトロな雰囲気の音楽を聞かせてくれる手使海ユトロさんが登場とか。その昔にCD−ROMの発表会とかでお顔を見た記憶があるけれど、滅多に人前には出ない人らしーんで貴重な機会かも。前日の21日には大地丙太郎さんが登場の「くろみちゃん、まだまだ宣伝続行&売れ行き好調感謝祭」ってのもあってさらに前日は眠田直さんサムシング吉松さん出演の「パワーパフガールズ大好き!」になっていて、アニメ好きな人は連日通いの週になりそー。全部見たいけど体力金力が保ちそうもないんで行けて1つ位かな。

 4年とか昔の立ち上げ時の記者会見にもしっかり出ていた「本とコンピュータ」が当初の予定では「噂の眞相」じゃないけど2001年くらいで終了だったのに、評判が良いのか状況が変わったのか2期目も続行なんてことになって、その節目ってこともあってシンポジウムを開催したんで紀伊国屋書店の中にあるホールに見物に行く。初めて入ったけど紀伊国屋ホール、前列の方だと舞台を見上げる目線になる感じになっているあたりがちょっと体育館っぽい、普請も結構年季入ってたし。一応は電子出版に絡んだイベントってことで若い人とかコンピューターに関係ありそーな人とか来ているのかと思ったけど、雰囲気で言うなら編集者系の人が結構いたみたいで、耳で聞く「でんししゅっぱん」なるものが果たしてどーゆー感じで進んでいるのかを、そーした分野では先駆者と目されている編集者の人たちが登壇することもあって、聞きに来ていたんだろーかと想像する。

 なるほど前説として登場した津野海太郎さんを筆頭に第1部だったら岩波書店、みすず書房、平凡社に文藝春秋と聞くも奮える就職活動中の学生にとっては天上を越えたかなたに位置するよーな会社の編集者たちが並んで電子出版について語っていたから、同業として聞き逃すまいと思ったのも当然か。実際に岩波書店から来ていた小島潔さんて編集者の人は、冒頭から例の人文系な出版社が集まって立ち上げたオンデマンド出版の共同企画「リキエスタ」について「おとなしすぎたかなあ」と自省の弁を放っていて、ほど良い所で落ちつきなんかしないぞってなチャンレジングなスピリッツを感じさせてくれていたし、みすず書房から来ていた尾方邦雄さんって人も著者が直接コンテンツをネットで流し始めるよーになった現状への危機感って訳じゃないけど、何かしらの意識を持っていることを示してくれた。

 集まっている編集の人はもとより壇上の編集の人も含めて編集者という仕事に誇りを持っている人の圧倒的に多い中にあって、もっともプライドが高そーな岩波の小島さんがなぜかもっとも先鋭的だったのが不思議だけれど、職業としての編集者が死滅する可能性なんかを想定しつつ、すでに名前のある人はおいて今現在名前のない人をどーやって売出していけるのか、ってな感じに「メディア」を背後に持つ「編集」の人がインターネットの登場とかマルチメディアの普及とか関係なしに大切なことを、ちゃんと理解し射程距離を長めにとって想像していたのには強く感心する。権威ある人の本を出すことで自らの権威を嵩上げしよーとする風潮になんか見向きもしないで、将来の権威を手がけることに満足を見出す小島さんのよーなスタンスが、どこか主流っぽく見えなくなってしまった所に出版が不況をかこっている一因があるよーな気がして来る。

 とは言え文化として鍛え上げられてしまった出版界の中枢にいる人たちだけに、著者編集者読者の間で権威を回して高めあっている構図から抜け出すのは多分容易じゃなく、だからこそプリント・オン・デマンドって仕組みの可能性は認めるとしても、現状揃えたラインアップのどれだけ読者が果たしてどこにいるのか今ひとつ浮かばない「リキエスタ」のよーな企画が真っ先に出て来て、それがさも素晴らしい出版事業のよーなニュアンスで受け止められてしまう状況が起こってしまうのかもしれない。権威の食物連鎖とも言えそーなコミュニティにあって電子出版を少部数とかを可能にするツールのよーに考えている人たちに、広く電子出版全体の将来を考えてもらうことを任せて良いのか否かってな疑問が、いわゆるベストセラーとも歴史的に画期的なマルチメディアともネット文化に親和性の高いサブカルとも縁遠そーな人たちの多く参加したシンポジウムを見て、払拭できなかったあたりが悩ましい。

 まあ第2部にも登壇して「本とコンピュータ」の2期では編集委員を務める永江朗さんあたりからは、ネットならではの「オープンソース」チックな発想が本の世界でも台頭して来るんじゃなかろーか、ってなニュアンスの半分は想像だけどあるいは本当かもしれない疑義が提示されていて、メディアの特色を活かした新しい「本」の、とゆーか「コンテンツ」の誕生の仕方なり流通の仕方が権威にすがる旧態依然とした体制じゃない所から起こって来る可能性を感じさせてくれた。同じよーなニュアンスは和光大学表現学部教授の松枝到さんからも提示されていて、拡散しつつあるメディアの中から情報を編み上げていくことになる、ってな感じの予言があって、権威のピルビン酸回路と化して知性を使い回しているだけの、ちょっぴりハイソな出版界の前途が決して洋々じゃないことを伺わせてくれた。

 その他の人のネットの可能性に対する認識には、分からないでもないけれど分かりたくない部分が結構ある。例を挙げるならネットには匿名性はあるけれど公共性が欠けている、ってなニュアンスの発言があって、それは既存のメディアだったら中傷がなされたら相手に反論の機会を与えようってスタンスがあったものが、言いっぱなしのネットに引っ張られて崩れて来ている、ってものだったけど、思い返せばテレビや新聞が冤罪被害者に最初の報道と同じだけのスペースを与えてフェアに反論させたケースなんてまるで聞いたことがなく、むしろネットの掲示板の方がちょっとばかり根性とスキルは必要だけど、逐次反論を行っていけるくらいでよほど”公共性”が高いよーな感じすらする。そう巧くはいかないのがネットでもあるけれど、やっぱり旧来からあるメディアの権威を信じたがる気分が感じられて悩む。

 「本」としてまとまっていよーと紙でプリントアウトされたものだろうと中味が同じなら価値に違いはない、といった学生に対してシングルCDは中古屋でも引き取ってくれるけどプリントアウトしたテキストを買ってくれる古本屋なんてなく、その意味で「本」としてまとまった形には価値があるんだってな感じのことを言っていた人もいたけれど、ネット上に情報があふれて誰もが自由に手に入れられるよーになって、同じ情報を「本」として買う人がいなくなった時に「本」であることの価値なんて、一種のフェティシズムの対象として、あるいは保有することの代償として中味とは無関係に発生するものになる。もちろん室謙二さんが言ったよーに紙メディアの利便性が電子メディアに優るっとゆー結論から「本」の価値を導き出せるんだけど、そーした思考の積み重ねを経ずして「本」にこだわってばかりいると、価値観を破壊することに長けた次の世代次の次の世代に蹴散らされてしまいかねない。おもねらずかといってこだわらず、射程の長い想像力を働かせながら第2期「本のコンピュータ」には「本」と「コンピュータ」のこれからを考えていって頂きたい。

 久々に眺めた永江さんはドットのシャツにストライプのパンツ、デザートブーツに水色のロングコートとゆーなかかなにアバンギャルドな出で立ち。「DASACONではどうも」と挨拶したけど果たして通じたかどーか。打ち上げめいた席は知性のインフレスパイラルな雰囲気で生きた心地がしなかったんで早々に退散。帰宅して第2回日本SF新人賞受賞作のうちの1本「ドッグファイと」(谷口裕貴、徳間書店、1600円)を一気に読んで感嘆する。植民惑星をめぐる住民と進駐軍とのバトルの結果起こる容赦ない殺戮は、残酷だけれど戦いが起これば当然の帰結。妥当性があって読む人に戦いの決して甘くはない悲惨さを感じさせてくれる。

 犬がゴロゴロと死んでいく描写も犬がそーゆー存在として成立しているんだってことを理解させた上でのものなんで納得、そしてやっぱり涙を誘う。ともすれば植民惑星が占領されなければなかなかったバックグラウンドとか、超能力者がぼこぼこと出て来るよーになった設定の説明が不足している点に、読んでいて隔靴掻痒の印象を受けるかもしれないけれど、断片的に語られた歴史とか状況とかから全体を見通す想像力を喚起させられる楽しさもあるからこれも妥当。ラストの展開の唐突にスケールアップしていく部分だけはちょっと驚いたし謎も結構残ったけれど、そーした遠大な宇宙史めいたものが後に順繰りに語られるんだと期待して、今はとりあえず新鋭にはとても思えない迫力と感動のSF巨編の登場を喜ぼう。しかし生頼範義さんの絵はいつ見ても生頼さんだなあ。


【5月9日】 見かけ12歳くらいのチャイナ服な美少女の、実は脳だけ50歳くらいは行ってそーな髭面で禿頭のホセ・ファーラーみたいな親父だったとして、果たして彼女(彼)を愛せるか、という真摯にパラドキシカルで形而上的な問題(意味不明)を突きつけられて激しく悩んだけれども、結論的には見かけが大事ってことに落ちつきそーな軽薄短小(短小は余計だ)者だったりする自分。けどまあ吉川博尉(よしかわひろやす)さんの単行本「瓦礫の楽園」(ラ・ポート、505円)に入っている「九龍遊記」とかの細くてちっこいんだけど病的な感じがしない美少女を見れば、そんな気持ちにもたぶん納得して頂けることだろー。

 弓月ひかるさんの「ボクの初体験」とかに見られるトランスジェンダー的なテーマなんか全然なく、メインはみかけと中味のギャップが醸し出す面白さを狙ったものでちょっとだけトランスな願望も充たしてくれる程度。三橋順子さんが「SFセミナー」のレジュメに並べたリストに入るかは微妙な所だけれど、リストに入っていた秋本治さんの「ミスター・クリス」だって美女の体に脳味噌入れられたプロのスパイにジェンダー的な戸惑いがあんまりないんで良いのかも。トップに入っている「怪盗花丸団」はそー言ったテーマとは全然関係なしに、ドロボウ稼業を続けている少女1人に少年2人が新しい仲間に出会う話でザンギリ頭(例えが古いねえ)の少女の勝ち気だったり脅えてみたり恥ずかしがったり、といった表情が何とも豊かで見ていて面白い、目の描き方が良いのかな。

 巻末の「レプリカ」は題名のよーに美少女アンドロイドの話で世間知らずのアンドロイドがカップラーメンを見て「なんちゃって」なポーズとして美味しそうに食べるシーンに何故かヨロめいてしまう。あと「ああこの下駄、鼻緒が緩くて走り難いわ!」と言いながら懸命に走るシーン部分とか。著者紹介には「耽美派の代表、キイカ改め吉川博慰」ってあって、ここで言う耽美がキイカって名前なのかな、同人誌とかそっち方面で描いてるボーイズラブ系の話から来るキャッチフレーズなのかは分からないけど、「瓦礫の少女」に入っているのは絵柄もお話しもそーゆー意味での耽美ではあんまりなくって、男の子女の子を問わず楽しめそー。とにかく好き系な絵なんでもっといろんな場所で見てみたい。

 「孤独な少年・サツキのもとに届いた奇妙なタロット画集『タブレット』。だが『絵の主人公(タブロウ)たち』は『家出』していた!? 消えた彼らを再び画集に封じるため、タブレットの主人レディが、サツキの前にあらわれる!」ってのが裏表紙の説明で、これだけ読めば100人中の53人くらいは「カードキャプターさくら」のパチもん、じゃない「さくら」カラインスパイアされて出来た話かも、なんて思って順当だろー鈴木理華さんの「タブロウ・ゲート」(角川書店、520円)だけど、サツキが別に派手な衣装に着替えて封印して歩く訳でもなく、どちらかと言えば美形なタブロウたちのバトルとかに目が行ってるんであんまり意識しなくて良さそー。

 タブレットの主人とかゆーレディの登場が唐突で、死神を操る一派の説明も1巻じゃなくって何がいったい起こっているのかがあんまり分からず、今のところ巻き込まれてしまっているよーいしか見えないサツキの立場も秘められているのかいないのか、その能力も含めて未知数な所が多いんで2巻以降の展開なんかを見ないと「お話し」としてどうなのかはちょっと判定不能。逃げ出して主人のいないまま殺人を犯し続けて来たタブロウを、「事故なのよ」「親のない赤ちゃんと同じ」「彼に罪はない」と言って許し仲間として受け入れてしまえる部分にも、設定が中世とかだったらともかくどーやら現代みたいなんでちょっと引っかかる、世間は殺人犯を簡単に許さないだろーから。絵とかは上々で男の美形に興味がなくても美女美少女美幼女いっぱいなんでお楽しみはたぷり。とりあえずは先を待とう。

 美空ひばりさんも堀江美都子さんもついに外資に落ちたか、なんて思った日本コロムビアの米リップルウッドによる救済劇。「DENON」ブランドが世界でも通用するオーディオ機器部門と前述の過去90年で営々と築き上げて来たソフト資産を持つミュージックエンターテインメント事業と分けて別々に再生を目指すってゆースキーム自体には妥当性を感じるけれど、それをするのに外国資本を導入しなければ出来なかったってあたりにガイアツ頼みな日本の嫌らしさが垣間見える、自分の手は汚したくないってゆーか。ともあれ外国人会長を招きたぶん日本人社長が就任して再建にあたるだろー”新生”コロムビアがどんな手を打って来るのかは見物で、ヒット1本で傾いた会社が立ち直るのは東芝EMIなんかの例もあるけれど、そんな起死回生の手を果たして打てるかどーか、お手並み拝見といきたいところ。「BEKKOAME」メール不調につき連絡は朝日ネットのアドレスへ。トップより。


【5月8日】 「エシディシ」が「AC/DC」だと今ごろになって気づいた俺って遅すぎ? なんていきなり脈絡がないよーだけど実はある。マイクロソフトのバルマーって人が来日していて記者会見なんか開いて次の「ウィンドウズCE」なんかを発表したそーで、その名前が「Talisker(タリスカー)」とか言って、「カイロ」とかいろんな地名をコードネームに採用して来たマイクロソフトなんできっとこれも地名かな、なんて思っていたらさにあらず。どーやらシングルモルトスコッチの名品として知られる「タリスカー」から取ったらしいってことが分かって来て、アメリカ人なんだから飲むのはビールかバーボンかコークくらいなビル・ゲイツでも歳くってスノビッシュな人たちが嗜むものに少しは興味も持てるよーになったんだろーかと想像する。あるいはバルマーがスコッチの熱狂的なファンだったとか。

 だからどーして「エシディシ」なの、と聞かれて言うのも恥ずかしいけどよく御覧、「トリッカー」が「トリッカーズ」で「カーズ」だから「ワムウ」で「エシディシ」。トリッカーにズがつくあたりでとてつもない飛躍があるよーだけど、せっかくの機会だからと不労所得を注ぎ込んで酒屋で手に入れた「トリッカー10年」の癖もたっぷりあるけれど喉を過ぎれば豊潤な香りにノックアウトされること必定なテイストに、すっかりヤられてしまった頭が大和田獏さんと壇ふみさんで壇さんからと言われて発せられた脈絡のない答え以上の飛躍をそこに生じさせてしまっているんでご勘弁、そもそも獏さん壇さんが古すぎるってば「連想ゲーム」。1分ゲームのあの達磨、どこに行ったのでしょうね。

 てっきりどこかの新聞が、中抜きへの恐怖感から危険性を煽って来るかとおもった小泉純一郎首相の「内閣メールマガジン」話だったけど、社説とか解説とかよんでも全然疑義が差し挟まれている様子がなく、もしかしたら直接対話がもたらす可能性を知っていながら自分たちメディアが持つバリューなり役割の方がずっと大きいから中抜きなんかされる訳がないと高をくくっているのか、あるいはむしろ良いことだと考えているのかちょっと分からなくなって来た。

 むろんメディアが「国益」でありまた「国民の知る権利」を最大限の拠り所にして首相取材にあたってくれれば直接対話もメールマガジンも主役になることはないんだけれど、番記者相手によく喋る小泉首相の態度に対して、「ニュースステーション」でお馴染みの築地にある態度がマッキンレーな新聞社の編集委員が「それが当然」ってな感じのコメントを発していたのを聞いて、どーして森前首相がああも頑なな態度になってしまったのかへの自省も想像力もなく、記者は会社の代表なんかじゃない、国民の代表なんだ的な硬直した考え方しか未だ持ち得ていないことが分かって、いかりや長介さんに思わずなってしまいました。「だめだこりゃ」。

 世界が決して自分たちの見ている人とか物ばかりではない、様々な価値観を持った人たちによって形作られているんだとゆーことへの想像力がないのかそれとも知ってて無視しているのかは知らないけれど、夜郎自大的とゆーか井の中の蛙的とゆーかジコチューな発言が目立って仕方がない態度が世界貿易センタービルな築地にある新聞社だけど、そーいえば日曜日の5月6日付にもちょっとばかし気になる記事があったことを思い出した。「対論」って2人の論客が1つのテーマについて語り合うコーナーで、その日は潰れてしまった「論争 東洋経済」の元編集長とこちらは健在な「世界」の編集長が「言論はいま不況なのか」ってテーマで対談していて、言論誌が結構厳しい状況にあることを2人で嘆いていた。

 それぞれの立場で売れ行きが芳しくないと言っていることは分からないでもないけれど、問題はリードの部分に書かれた「まじめな言論誌がなかなか売れない」とゆー言葉。なるほど「論争 東洋経済」は休刊の憂き目を見たし「世界」も厳しいらしーけど、聞くところによると産経新聞の「正論」は売れに売れていて学生なんかにも読まれていて、言論誌では今のところトップの部数をあげているらしー。まさに絶好調な訳だけど、それでも「なかなか売れない」と言い切ってしまう「朝日新聞」の記者の目には、「正論」はどーやら「まじめな言論誌」としては映っていないよーなニュアンスが感じられる。

 もちろん「まじめ」とゆー言葉にも基底となる思想があって、その基準に照らし合わせて判断した上で「正論」は「まじめ」ではないと言ったのかもしれないけれど、現実問題一般的なカテゴリー分けでは確実に言論誌の範疇にはいる「正論」が売れている事実がある訳で、それがどーして「まじめ」ではないのかを書いた記者も登場している対談者も載せたメディアも説明する必要があると思う。でないと買っている「正論」読者をも「ふまじめ」と断じたことになってしまうから。それと言論人がいとも簡単に「言論不況」なんて言葉を使っていることもちょっと怖い気がする。

 経済がいくら不況だろうと、ってゆーか不況だからこそ求められる言論とゆーものがあるはずで、にもかかわらず届かなかったとゆーならそれは発した言論そのものに世間とのズレがあったか、相手を説得するだけのパワーに乏しかったと思うのが常道だろー。分かる人だけには分かる知的なゲームとして言論を弄んでいられた時代が終わり、言論がより人々と密接に関わるよーになっている時代が来ている今こそ、思想の右より左よりに関係なく言論の送り手には、緻密な戦略と強い説得力が欲しいところ、なんだけど今ごろになってこーゆー記事を載せてひとりよがりな憂いを示して悦にいってるよーでは、やっぱり先が思いやられる。やっぱり言ってやらなきゃな、「次いこ次 。


【5月7日】 両A面からリニューアルした直後の週刊パソコン誌「週刊アスキー」で3カ月くらいでクビになった小さなコラムをやってたことがあって、何を書いたかもすでに記憶の彼方に飛んでしまっているけれど、おおまかに言うなら新聞に書かれたデジタルに関連するよーな記事の揚げ足を取って遊ぶって奴だったよーな記憶がある、っていー加減な。揚げ足を取るってことは記事が間違っていなきゃいけなかった訳で、その伝で言うならさすがに「日本経済新聞」は滅多なことでは間違えてなくって槍玉に上げることがあんまりできなかったけど、逆に例の築地にある日本で一番気位のチョモランマな新聞は、誤用あるいは紋切り型のデジタル悪玉論なんかをしょっちゅうぶってたんで、割と頻繁にネタにさせて頂いた。変わってねーなーお金持ちへの嫉妬心。

 今もってデジタルに限らず槍玉にあげ続けるのは半分はまあネタだけど、半分は高尚さが横滑りした挙げ句にとてつもなく時代を見失ってるよーな記事が多いからでもあって、今日も今日とて不可思議な記事を掲載しては読んでる僕らを笑わせて、じゃない深い思索の海へと叩き込んでくれました。5月7日付夕刊の小泉純一郎首相の所信表明演説を取りあげた記事。「一方、自民党総裁選で党員の直接の支持をバックに当選したことを踏まえ、国民との対話を重視する『小泉カラー』も打ち出した。関係閣僚が出席するタウンミーティングを半年以内に全都道府県で実施するほか、『小泉内閣メールマガジン」を発刊する考えを示した』って事実関係を伝えようとした部分にはいささかの疑問はないけれど、これは「いずれも、マスコミを通して国民に語ろうとせず、国民の信頼を失った森前首相の反省を踏まえた」上での施策なんだとゆー説明がしてあってウームと頭を捻った。何で?

 思うんだけど「タウンミーティング」ってのは国民との直接対話を行う機会を設けましょうって話で「小泉内閣メールマガジン」も以下同文、つまるところは揚げ足ばっかりとって(それはこっちも同じだけど)真意を伝えよーとしないマスコミに森善首相以上の不信感を抱いて間に入ってもらうことなんてない、対話とメールでもって直接真意を説明しましょうって主旨の施策じゃなかろーか。決して「マスコミを通して国民に語ろうとせず、国民の信頼を失った」ことへの反省で取る施策じゃなく、むしろ直接対話とメールを通じて何ら検証もなしに都合の良い言説ばかりを垂れ流されることへの警鐘を鳴らすべきではなかろーか。

 にも関わらず、「マスコミを小馬鹿にしてた森首相の路線は間違ってるんだ、マスコミはもっと大切なものなんだ」的なニュアンスの漂う説明を、わざわざ無理矢理つけてしまうところに、新しいメディアの台頭が持つ功罪両面への想像力の薄さがのぞく。まあそれだけ土台は安泰と思っている所があるんだろーし、事実他の新聞社に比べて安定性ではずば抜けているからこーゆースタンスも当然ちゃー当然か。もっともダイエーだってヤバくなるし銀行だってボロボロなご時世、加速化する中抜きの動きの中で「情報流通業」が果たしてどれだけの付加価値を発揮して来る22世紀を迎えられるのかを、生きている限りは観察していくことにしよー。

 口元に先を1本加えるだけで年齢を10歳20歳、簡単に動かせるのが漫画の強みとするならば、リアルな世界ではジワジワと進み見る人にもそこはかとなく感じさせる加齢の様子を、容易には描きづらいのがマンガの弱みでもあって、たとえばリアルな世界では、いくら「中学校の時と変わってないねー」と言ったことろで、口もとのちょっとしたしわとか肌の弾力目もとの緩みに歯の黒さといったものの微妙な変化から、相手の上に積み重なった年月をしっかりと感じているものだろー。けれどもマンガになってしまうと、「変わってない」ことを描写するなら本当に変わってないよーに描くしかないのが実状。だからこそギャグも成立するってものだけど、それ故にギャグにしかならないとゆーものでもあることが顕現して来て、「永遠の少女」を切望する気持ちをかえって萎えさせる。

 なんて大袈裟に考えるのがそもそもの間違いなんだろーけれど、竹本泉さんの新刊「てけてけマイハート1」(竹書房、648円)に登場する、中学生の時からまったく変わらない23歳の早坂のぞみの可愛さを見るにつけ、こーゆー娘がそばにいて欲しいとゆー気持ちが沸き起こってはこーゆー娘なんて現実にはいない、よく見ると口元に微妙な皺があるのが普通なんだ、指でホッペを押してもなかなか元には戻らないんだってことが逆に強く思い出されて胸が焦げる。現実だったら変わっていないといっても24歳の大人の女性に漂う風格は隠せないもので(稀に10代で貫禄たっぷりな娘もいるけれど)、いっしょに連れてあるいてホッペのゆるむ「永遠の少女」なんていないいるはずがないいたら天然記念物だつかまえて床の間だ。安達佑実さん? うーん実在するかもしれない。

 なるほどそう考えれば世界には一切の老いを感じさせない中学生風の24歳がいる可能性は皆無ではないし、彼女の中学校のクラブの後輩でしっかりと成長して今は中学校の先生をしている吉田しげるに何度も間違えられて補導されるのも致し方ないことなのかもしれない。でもってのぞみと一緒にいるところを生徒に見られたしげるが、自分の学校の女生徒からのぞみは「吸血鬼ですか」「冬眠してたんですか」と突っ込まれ、あまつさえデートの席にニンニクの束を持って来られることも起こり得るのかもしれない。それでのぞみが逃げ出したんなら逃げ出したで、話も一気にホラーの領域へと進展を見せるんだろー。

 実際のところは漫画なんで皺の1本も描かれることなく15歳とかのまんまな24歳がてけてけしては吉田しげるとの仲を深めていく、楽しいラブコメであってくれている。ボーっとしてそーでのぞみとのキスは「犯罪みたい」と思ってしまえる思考を持ったしげるがのぞみと良いこと出来るとは思えないけど、そーしたいたいけなシチュエーションへの妄想よりも、漫画だからこそ可能な表現でもって埋まらないけどちょっとづす狭まるのぞみとしげるの2人を軸に教え子らが絡む、愉快に楽しく心もジンワリと来るよーな展開になっていって頂きたい。安達佑実さん主演で果たして映像化は可能かな、あんまり嬉しい役ではないだろーけど。


【5月6日】 4時間くらい寝て起きて再びの渋谷へ。「ユーロスペース」でレイトショー中の映画「SELF AND OTHERS」がゴールデンウィーク中は午前にも1回上映されるってんで頑張って見に行く。タイトルから分かる人が写真好きの人には結構いるかもしれないけれど、実はその通りで同名のタイトルの写真集を自費出版してほかに何冊かの写真集とインクブロッットの画集なんかを残して83年、36歳でなくなった写真家の牛腸茂雄さんの軌跡を追った内容のドキュメンタリー映画になる。

 牛腸さんというのは脊椎カリエスを煩って決して丈夫ではない体を押して子供と街を撮り続けた写真家で、荒木経惟さんのエネルギッシュな感じとも森山大動さんの対象をつかみ取ろうとするパワフルさとも違う、時に優しく時に冷徹に世界を切り取って折り畳む手法が、病気に伴う目線の低さとも相まって一種独特の世界を作り上げている。92年にフォトプラネットから出ていた写真誌「デジャ・ヴュ」の第8号で特集されて再評価の気運が高まり、94年には代表作「SELF AND OTHERS」が未来社から復刊されて、比較的容易にその世界に触れられるよーになった。「日々」とか「見慣れた街の中で」も「デジャ・ヴュ」の号に載っているから、映画を見て気になった人は探してみると良いでしょー。

 もっともちょっとしたムーブメントを起こしたとは言ってもあれから5年以上が経った今、ブームも沈静化して再び幻になりつつある感じもあっただけに、今回のドキュメンタリー映画の公開はファンとしてもの凄く嬉しい。撮ったのは佐藤真さんとゆーどちらかと言えば社会派なドキュメンタリストでカメラは青山真治監督の「EUREKA」も担当した田村正毅さんとゆー布陣だけに、どんな映像で牛腸さんの独特な世界を映像で甦らせてくれるのかと思ったら、冒頭から家々に囲まれた空き地に立って枝葉を繁らせる絵が映って、死して認められた夭折の天才、といったステレオタイプではないやり方で紹介していそーな雰囲気を感じる。

 スタートした映像はたぶん新潟にある実家の部屋におかれた「SELF AND OTHERS」のラストを確か飾っていた、立ちこめる霞の向こうへと子供たちが消えていく不思議な雰囲気を持ったポートレートから引いて生活の残滓を映し出したあと、牛腸さんが歩いた軌跡を撮影した写真や映像なんかを挟みつつ、俳優の西島秀俊さんの牛腸さんが姉にあてた手紙を読むナレーションを被せつつ進んでいく。途中「SELF AND OTHERS」で撮られたあれはどこなんだろう、東京にある曲がりくねった坂道の今を映してその変わり様と変わってなさを描き、彼が生きた時代を今の僕たちが生きている時代との連続性と断絶をそこに浮かび上がらせる。

 同じ双子を撮影したとゆーことでダイアン・アーバスなんかと比べて考えた時もあって、どちらかと言えば社会からパージされたフリークスを頻繁にモチーフにした中で同じ顔が2つ並んでいる異形性を双子に見ていた印象を受けたアーバスの写真に対して、双子であっても普通の子供たちと同じモチーフとして撮っている雰囲気が牛腸さんの写真にはあって好感をずっと抱いたけれど、ドキュメンタリーの中で当時の思い出を語った双子の元少女が、撮影の時の緊張感とか、写真集に入った自分たちの写真のブスったれた表情に対する不満なんかを当時抱いていたこととかを話していて、自らのハンディキャップを逆手に取って穏やかに自然に子供たちの中へと入り込んで撮影していたんじゃ決してなかったんだってことが分かってちょっとしたショックを受けた。

 他の出演者からもどうしてこの写真を使ったか、といった当時抱いた反発の話が出ていて牛腸茂雄とゆー写真家の決してきれい事ばかりではない、時に冷徹に社会をみつめ未だ底辺であえぐ自分のポジションをみつめ、反感を買っても自分の思いを貫き通すクリエーターならではのたぎる魂が感じられて興味深かった。なるほど双子の少女たちがカメラを見る目は決して優しくなんかはないし、他の自然にふるまっているように見える子供たちもポーズを取ってその場所でフレームの中にパーツとして収まっている。フリークスを愛憎入り交じっても感情で撮ったダイアン・アーバスよりもむしろ冷徹なカメラマンだったんじゃないかと、そんな考え方にドキュメンタリー映画を見て変わって来た。

 内部と一体化して撮りまくる荒木さんと、同じ街撮りでも牛腸さんは大きく違っているのはそうした対象との距離感で、だからこそ「SELF AND OTHERS」なんて自他の関係性の決して越えられない境目を示唆するタイトルを写真集に付けたのかもしれない。むろんこーした考えの正当性はまったくもって保証できるものではないけれど、それでもカメラの向こうにある世界を懸命に切り取ろうとあがく一所懸命さだけは写真からも映画からも存分に伝わって来て、だからこそ自分は誰でどこに向かって発信しているのかを自問自答し続けた牛腸さんの生前にはかなえられなかった想いに対する悔しさが胸を痛める。

 一流であることは有名なこととは関係なしに存在してるんだとノートに書きつづる、そんな態度の清冽ぶりには感動するけれど、それだけ有名になることへの強い意識があったとも言えてどこかもの悲しい。空き地の木で始まった映画が再び同じ空き地の木で終わる、その意図が時間の長さと存在し続ける重さを表しているのかどうかは定かではないけれど、100年1000年と時を越えて立ち続ける木が本人は死んでも写真集として残り今また映画として残った牛腸茂雄とゆー写真家の象徴なのだとしたら、あの空き地にあの木が存在する限り、否すべての空き地にあらゆる木が存在し続ける限り牛腸茂雄とゆー写真家もまた語られ続けるんだとゆー理解はあながち外れてはいないだろー。その意志を継いで僕たちは10年後、20年後も語り続け100年、1000年先に語り継ごう、「牛腸茂雄という写真家がいた」ということを。

 感想文コーナーを激更新中、でもそろそろ力尽きたかも、認知度低いし反応鈍いし。ふらり買ってしまったおかざき真里さんの「やわらかい殻」(集英社、390円)はいろんな雑誌に時期も結構離れて掲載された短編を収録した奴で、絵柄なんかにも時代が見えたりするけれど、お話の方はどれもがストレートの面白くって、こーゆー人に早くから目を付け称揚し続けた枡野浩一さんはやっぱり稀代の「漫画好き」だったんだってことを認識する。シチュエーションから感情の機微を描くちょっぴり哲学的な漫画って点では吉野朔実さんにも通じる雰囲気があるし暴走する笑いの要素は松苗あけみさんもうっすらと重なって目に白地に緑のグリッドが浮かぶ、そう「ぶーけコミックス」の。

 まあ「ぶーけ」で仕事をしていたってことから逆算してそう思っただけなのかもしれないから実際は読んで頂くとして、個人的には広告代理店の熱血娘がぶち切れる「タフ」がお気に入り。歪んだ口の描き方とかちょっぴりオヤジ入った主人公の言動とかもあるけれど、時にピクっと心を動かすセリフの凄みが最高で、「チューがしたいなあ」と呟やかせて突っ張る彼女のたおやかさな部分を見せてみたり、別の漫画でタイミングよく優しくされた女の子に「ばくだん あんたの上にはおとさないでいてあげる」と言わせて喜びを表現してみたり、不思議だけど実にシチュエーションにマッチするセリフ選びがなされていて驚く。その編も吉野さんっぽさを感じた理由かも。

 遅蒔きながら読んだ「BX」(マーガレットコミックス、390円)の方も奔放な少女がボクシングに一途な男に惹かれていく様が、エピソードの重ね合わせと巧みな絵、そして絶妙のセリフでもって暑苦しくもなければ気取ってもいない、不思議だけど不自然じゃない展開で描かれていて面白い。海にデートに言ってランニングして筋トレする主人公なんて普通ギャグなのに、妙にシンミリとしてしまうからなー。

 男相手にケリとか平気で入れる少女のねのひと、彼女が一目惚れしたボクサーの”うさぎ”との関係が、吉野さんの「少年は荒野をめざす」の都と陸の関係に重なってしまうのは僕が根っからの吉野さんファンだからなんだけど、スポーツに一途な「BX」の”うさぎ”と違って陸は女の子にもまんべんなく優しいし、菅野に小林に日夏といった脇役の立ちっぷりと主役との絡みっぷりも「BX」に比べて濃いんで関係はなさそー。それでも機会があったらシチュエーション作りの巧みさを取り入れつつ、出たり入ったりするキャラたちの中で紆余曲折しながらも愛を貫き通す人たちの濃密で長い物語もいつか読んでみたい気が。いつまでも待ってます。


【5月5日】 あら死んじゃったドロレスちゃん。主役級メカなんでたぶん生き返るんだろーけれど、最初に感じた巨大ロボットに桑島法子声の違和感が回を重ねるごとに薄まって来たのかそれともロボットに萌えられるよー内的なデータベースが再フォーマットされたのか、ちょっとした仕草にも可愛いと思えるよーになってしまっていた関係で、ひびの入った体で宇宙を漂う姿に何とも言えない哀切を感じて泣けてきたよまったく。あんな痛々しい体で近寄って来られちゃー、例えデブリとかぶつからないよー厳重な警戒がなされているべき軌道エレベーターであっても、でもって無駄なんて許されないはずのシビアな構造物であっても、近寄らせ、誰もいなくって且つドロレスちゃんが横たわれるくらいの大きなスペースを用意して差し上げるのが、宇宙に暮らす人々の情けってもんだ。

 他にも妹が宇宙服に猫入れて宇宙遊泳している姿に抜け落ちた毛が鼻から入ったらカユいだろーなーとか思ったけれど、そーした悩みはおいても次から次へと襲いかかる危機に対処していく一家のバラバラなよーで結構団結していたりする姿の描き様は見ていて楽しく面白く、奥行きを増す謎なんかも含めてどこまで続くのか分からない先への期待がささやかだけれど確実に増して来ている。まあどう逆立ちしてもドロレスちゃん用の”柔肌”なんてものが発明されて巨大だけれども立派に人間な姿を見せてくれるなんてことにはなりそーもないけど(あのコックピットをどこにしまうかも問題、股に挟むのが常套だけど固いし太いし大きいんでちょっと無理)、とりあえずはドロレスちゃんが復活して前みたくアンテナぴこぴこしながらしな作ってくれる姿に頭の中で立派な”柔肌”を着せてあげられる日が来ることを祈って、眠いけど金曜の深夜ってゆーか土曜の早朝の放映を観察し続けることにしよー。エプロンくらいならつけられるかな。

 休みも残り少ないんで無理して起きて「青山スパイラルホール」で開催中の荒木経惟さんの展覧会「小説ソウル」を見物、キヤノンのプリンターで刷られた巨大なカラー写真が埋め尽くす中を歩き壁面に飾られた焼き肉とかその他の韓国に特徴的な料理を接写した巨大な写真をながめ、おそらくは80年代の半ばあたりからソウルオリンピックを経て大成長を遂げたものの景気は後退し、それでも今また復活への道を歩むソウルの街並みと女たちを撮った写真を見ているうちに、日本の韓国もなくただ”生きる”ことに強いエネルギーを放つ人々のパワーが伝わって来て胸躍る。

 出ている写真のほとんどはスイッチ・パブリッシングから刊行中の写真集「小説ソウル」(3400円)にも収録されているんだけど、3メールはありそーなサイズに引き延ばされたオールヌードの女性の写真の前へと立って、真正面から薄くモジャモジャのかかったソレを眺める恥ずかしさと楽しさは、展覧会場だからこそ味わえるもの。5月9日までと期間はちょっと短いけれど、近くにお立ち寄りの際にはながめてみてはいかがでしょう。それにしても東京が台湾で沖縄が上海でウィーンがタイでもやっぱりアラーキーはアラーキー。構図とかモチーフとかを芸術せずかとってジャーナルもせずに自分の目で切り口で味わい咀嚼し吐き出した写真だからこそ、荒木さんの持つエネルギーが印画紙を染め上げすべてに等しい雰囲気をそこに作り上げるんだろー。うーん格好良い。自分も60歳超えてあんな感じに貪欲に世界と切り結んでいられたら良いなー。頑張るしかない、か。

 その足で渋谷まで歩いて「パルコ・ギャラリー」で開催中の 「蜷川実花 新作写真展 まろやかな毒景色」を見る。木村伊兵衛賞を同じ女性で若くってセルフポートレートなんかも撮ってアレブレな雰囲気が良いといわれるHIROMIXさん長島有里枝さんと同時受賞した1人だけど、3人セットで受賞したってことでは決してなくって、花とか果物とか少女とかを本来持っている色以上の極彩色に撮ってプリントした写真は確実にオンリー・ワンなもので、立派に確実に受賞に値する人だろーと思う。それ故に3人セットの授賞とゆー”運動”っぽさが気になって仕方がないんだけど、「アサヒカメラ」の5月号に出ている3人のコメントなんかを見ると、HIROMIXさんの「平和でいいんじゃないですか。年上の方たちにも何かちょっと理解されたかなと思うし」なんてコメントもあって当人たちはあんまり気に病んでそーもないんで、外野がガヤガヤ言うのは止めよう。

 展覧会は「パルコ・ギャラリー」の床にカーペットを敷いて靴を脱いで上がって座ったり寝ころんだりしながら見て下さいって感じになっていて、入ると壁をぐるりと新作の花とか美少女とか豪華客船とかカジノとかを写した写真が埋め尽くしていて、それぞれが放つ極彩色が床の沈み込んだ赤と相まって場内にふしぎな空気を作り出していた。どちからと言えば暗くなった床から低い目線でやや見上げる感じにならぶ極彩色の写真は、引き籠もっているモノクロームな心が憧憬と畏怖の入り混じった複雑な感情で見ようとした外の世界か。毒々しいまでに美しいその世界に耽溺した後で、ギャラリーから出てスペイン坂からセンター街あたりを眺めて喧騒と混乱に満ちた現実の渋谷を目の当たりにすると、今ふたたびあの胎内にくるまれたよーなギャラリーの世界に引き返し、いつまでも籠もっていたくなった。1日あそこで寝転がっていたいけどメーワクかな。

 土曜日だし渋谷だし何より人気の写真家さんなんでもっと混んでるかと思ったら、場内は10人から15人程度がゴロゴロとしていた程度でちょっと拍子抜け、まあセルフヌードなんかで話題になった時からしばらく経って当時の若干のアイドル的な関心が薄まって来ていることもあるのかもしれない。それでもファンは圧倒的に女性が多いみたいでギャラリーにいる男は多くなっても4人くらいしかおらず、1人で座っていると写真じゃなくって来場している女性客を見に来た胡乱な奴だと思われそーでちょっとビクビク、かといってカップルで行く訳にもいかないしなー、物理的に。もっとも女性が多いのはたいていの文化的な催しに共通のことで、講演会なんかでも女性の数が半分以上だったりするケースが大半で、知的好奇心や知的向上心を満たし育もうとする意欲がそれだけ強いのかもしれない。3人の女性写真家がそれぞれの力でもって同時に賞を取り、飯島愛(写真家だよ)に花代といった後進も大勢いる理由もその辺りにありそー。

 同じ「パルコ」のこっちは「パート3」でルパン三世絡みの展示会「LIPIN THE THIRD EXHBITION」がやってたんでついでにのぞく。ルパンに次元に不二子に五右衛門の人形が立ち絵コンテが並び設定集が飾られているくらいでは別に喜びはしないけど、旧作のアニメ版が作られる以前のパイロット版(テレビ版の方)「ルパン三世」が上映されていたのにはちょっと吃驚。その昔にビデオで出た「ルパン三世シークレットファイル」には収録されてたらしーけど、実はまだ見たことがなかったんで実はこれが初見。ジャケットは赤で顔の造作とかはより原作に近いんだけど大隅正秋さんに大塚康生さんが手がけているだけあってテイストも動きもしっかり「旧ルパン」。サーチライトに照らされながら壁の前を走るルパンのニヤリと笑った表情に、それこそ「懐かしいー」と心の中で大声で叫んでしまった。

 何ってったってルパンの声が広川太一郎さん、「にょほほほーっ」とか叫ばず「モンティ・パイソン」的なアドリブを挟むことものなく、往事の美声でもってニヒルに甘く充ててたりするからちょっとした異空間がそこに出来上がって奇妙な印象を受ける、でも馴れれば案外と大丈夫かも、山田康雄さんにこだわるあまりに栗田貫一さんに無理を強い続けている今のスペシャルもそろそろ終わりにして、別の誰かを持って来たって良いよーな気がして来た、山寺宏一さんとか(それじゃスパイク)。次元大介はパイロット版でもしっかりと小林清志さんでバッチリだったんでこれは最初からハマり役だったのかな。不二子はパイロット版では増山江威子さんがやっていたのがテレビでは二階堂有希子さんに代わって「新ルパン」で増山さんに戻ったみたい。石川五右衛門が納谷悟郎さんで銭形警部が近石真介さんとゆーキャストも面白い。オープニング集なんかとまとめてDVDでまた出してくれないだろーか。出口付近ではグッズとかも販売中で、7月4日に出る「旧ルパン」のDVD−BOXの予約も受け付けていたけど、すでに石丸で予約してたんでこっちではパス。パイロット版バージョンのメディコムトイ製ルパンフィギュアはちょっと欲しかったかも。5月21日まで。


【5月4日】 (承前)日が変わって5月4日。去年のセミナーだったらまだ「バスジャック事件」には気付いていなかった時間を21世紀になって生まれ変わった”行動する”「日本SF作家クラブ」が主体となって編纂することになったらしー「SF入門」への考え方なんかを巽孝之さんから聞く。とはいえ単行本のセクションと進めていたところに不意打ちをくらったかの如くな「新・SF入門」の発行で、似て非なるものとはいっても非なりつつも似たガイドブックの刊行には物質的市場的精神的な支障もあって、年内の刊行がしばらく後へとずれていくことになりそー。

 あと以前だったらほとんどを小説に割き定義も割と軸があった「SF」を、アニメも漫画もゲームもあって軸も3次元的4次元的に広がり複雑に絡み合ったこのご時世に、どんな層に向けて何を「SF」なんだと言えば良いのか分からない部分も多くあって、絞るのか網羅するのか辞書的にするのかアカデミックに走るのか等々、山積する課題をどーこなしていくのかをこれまた外野からながめて行くことにしよー。

 ほとんと明け方になってシャツの色も鮮やかな徳間書店の大野修一さんを招いての「SFJapan」や「徳間デュアル文庫」に関するセッション、とはいえ最初は「苦節のサラリーマン生活、わたしはこうして好きなSFの仕事に尽きました」的な、大塚英志さんの「デュアル文庫」から出ている本のあとがきなんかにも詳しい大野さんの徳間書店での頑張りぶりについての話だったり、出版業界をめぐる構造的な問題だったりで、「デュアル文庫」についての話は夜も白み始めた時間になってから。去年だったらすでに「バスジャック事件」に気付いてテレビの生中継に釘付け担っていた時間かな。

 もっとも金正日の子供らしい人が「ディズニーランドに行きたい」なんて世界でも指折りのおたく一家の長男だったら実にありえる理由で入国しよーとして捕まった話は朝になるまで知らず、新聞を呼んでちょっと吃驚、「SFセミナーに行きたい」じゃなくって良かったよ。もっとも世界でも有数のおたく一家なんでSFには興味がなくてもきっとアニメには絶大な興味を持っているはずで、あの伝説のオープニングアニメを作った旧ダイコン・フィルムから流れるガイナックスが全面的に支援する「第40回日本SF大会」で流れるだろ、プロのスキルを存分に積んだ一同が作る宙最高水準のオープニングアニメを見に、今度は一家でやって来ないとも限らない。成田の入管は8月も要チェックやで。

 ラインアップ的には充実と多様化を進めていきたいそーで「デュアル文庫」、密かに期待する小中千昭さんの長編以外にも山田正紀さんとかいろいろな人たちの本がこれからガンガンと出てくる模様、ただし売れないと肩たたきも早まるそーなんで見かけたらSFの人は2冊は買うのが吉らしー。前に祥伝社がやった中編だけのラインアップもやりたいそーで、紙が比較的厚い「デュアル文庫」だったらそれなりな厚さに出来るらしく、200枚とか250枚程度の中編の書き下ろしを揃えて行きたいとか。明け方まで酒を飲まずに頑張った浅暮三文さんやミーコちゃんとご一緒の倉阪鬼一郎さんも含めてナルホドな人たちが、地蔵物(?)、倉阪物(?)を繰り出してくるその日まで頑張れ徳間書店、頑張れデュアル文庫、でも今さら「銀河英雄伝説」は買えないなあ。

 エンディングを経て近所の「ルノアール」で時間を潰した後で神田小川町へ。朝の喫茶店で話題にするには上品すぎる克・亜樹さんの「ふたりエッチ」を呼んでいるのは誰なんだ、とかどーしてあれが「成人指定」になならないんだ、とか言った話を半分眠りながら聞いていて、それほどまでに半身の上下を問わず読む人を熱くする「ふたりエッチ」のエロ度はどれくらいのものなのかを、古本屋の「ブックマーケット」で確認する、なるほどエッチなシーンは多いけど描写があんまり水っぽくないのが青少年にもオッケーなのかな。それにしてもデビュー作の決して上手とは言えなかった絵が10年とかの時間を経ればここまで上手になるものか。デビューして間もないなから圧倒的に巧かった細野不二彦さん安永航一郎さんにも負けないセールスをたたき出してるんだから、マンガ家って面白い。

 ざっと見渡すと吉野朔実さんの「いたいけな瞳」が全8巻そろって出ていて欲しかったけど眠いし思いんでとりあえずパス、また行ってあったら救出しとこー。あと潰れた光琳社出版が出していた写真集の類もゾッキっぽく山積みで、中に佐伯日菜子さんのポストカードもあったんで1冊拾っておく。長島有利枝さんの「家族」も安く出ていたけれどこれはパス、あとでやっぱり救出に行こう。都営新宿線で本八幡を経て帰って寝て起きたら夜の10時で貴重な4連休もほとんど半分が終了、結局どこにも行けそーもないしもとより行く相手もないんで、残りの2日はせいぜいが秋葉原に神田神保町の都市迷彩に埋もれる生活か、家でゴミと本に埋もれる生活をしながら残る連休を暮らすことにしよー。「ふたりエッチ」のマニュアルは今年も役立ちそうにない。


【5月3日】 「SFセミナー2001」へ。会場時間の1時間くらい前になると御茶ノ水駅のホームや駅前の本屋や近所の喫茶店にそれっぽい人が歩いていたりして面白いけど「コミックマーケット」の日の京葉線新木場駅あたりにたむろする人ほどには数がいないし、近所の秋葉原なり神保町なりに多い人々ともどこか重なる都市迷彩色のファッションなんで「SFだっ!」「SFが来たっ!」といった具合に指さされ石投げられ本ぶつけられて逃げまどう事態にならなかったのが救いか。

 「カレーの王様」で安いカレーを食べて「ヴェローチェ」でコーヒー飲んでから会場へ入って受付。横で「のうてんき」さんが受け付けを終わって同人誌なんかを売る「ディーラーズ」のコーナーでこの夏開催の「第40回日本SF大会」(愛称未定?)の参加受け付けをやっていた。後で案内があって何でも「幕張メッセ」に100畳分の畳を敷いて上で上映会でもカルタでも座談会でも双六でも柔道でもサブミッションでもオッケーな状況を作りだし、一方で会議場出は数々のイベントを推進する考えとかで去年の横浜にも負けないどころかかつてない空間がそこに現出することになりそー。とは言えちょっとばかり参加者の数が少ないってのが「のうてんき」武田康廣実行委員長の目下の懸案とかで、あの「DAICON3」の伝説に20年経った21世紀の今ふたたびに見えたい人はとっとと申し込んでは固唾を飲んで夏を待て。期待は裏切らないでね。

 始まった「SFセミナー」はトップから「レキオス」の池上永一さんが登場、いや良いキャラだ。沖縄の民俗に根付いた作品なんかを手がけて来た人で、且つ最近の主婦VS老人問題にJR携帯電話問題で「朝日新聞」とゆー場所ながらも「正論」をぶち上げ注目を集めた人だけあってマッチョなタイプの人物像を買ってに妄想していたら大ハズレ。現れたのは細身でファッションセンスもなかなかの好青年で、シャツの前をはだけて襟を紺ブレの上へど出す崩しぶりは都市迷彩化された場内にあって異文化の香りをステージの上からはなってた。

 もっともファッションを超えてすさまじかったのがご当人のキャラクターで、あのとてつもない「レキオス」が書かれていったプロセスを語る口調の時にギャグを挟み時に見栄を切り時に真摯さを見せて観衆を巻き込む話術の巧みさは、ファッションセンスの良さも含めてどこかで話術を活かした仕事でもしていたんじゃないかとすら思わせる。何でも「レキオス」、最初は前作の「風車祭 カジマヤー」に並んで「直木賞」を目指そうかなんて思って書いていたんだけど、暴走する右手が「くすくす」笑いが特徴の「歩くノーパン&コスプレ喫茶」なサマンサを登場させて物語のフェーズを変えてしまい、ロボトミーされ計算機となり削られた500枚では空を飛び「ガンタンク」みたくクローラーで地面を走り口から火を吐いてた「ろみひー」の登場で一般小説としてのフェーズも諦めざるを得なくなったとか。

 そのお陰でこーして「SFセミナー」の場で顔を見られるよーになったんだから「右手の暴走」もこちらにとっては「怪我の巧妙」。「本人もわらかないものは相手もわからないんだ」とゆー至言に基づいてほとんど自動書記的それとも半分脳内麻薬ジャンキーな状況で生み出された作品だからこそ、何でもありな世の中の許容範囲も広がった理解を超えて暴走しまくり読者を忘我の競技へと至らしめてくれたんだろー。予定しているらしー下水道が出てくる小説が再び右手の暴走によって「SFセミナー」すら超えて「ワールドコン」の場で讃えられる作品になることを願おう。

 それにしてもなキャラクターの立ちっぷり。当時の通産省へと取材に言ったら出てきた官僚の木で鼻を括ったよーな態度に切れて還り際に「お前たちは”ろみひー”の秘密をまだ知らない!」と捨てセリフを残して辞去したとかゆー話とか、赤坂にある女性下着の専門店に取材にいってお高くとまってヘンタイが来なんて目で見ている店員とバトルした話とか、出てくる話が作っているのかそれとも生来のエンターテイナーな感性が面白い人たちを招き寄せるのか圧倒的に面白く、小説だけじゃなくライフスタイルを切り売りするだけで相当なエッセイが書けそーな印象を受けた。

 じっさい「朝日新聞」紙上でのコラムは反発と同じくらいに圧倒的な支持を受けたほどで、もっとも同じ人は何回も出さないなんて妙なところで民主主義を発揮してしまう「朝日」の媒体特性上、あの圧倒的に面白いコラムがこの先読める可能性はちょっと低そう。どっか別の媒体、例えばガラリ転校して「正論」なんかで面白くおかしくそれでいて真っ当な「正論」を「20メートル四方のストライクゾーンなら立派にストライク」な165キロストレートでもって世間にぶつけてやって欲しいなー。

 執筆中に20回くらい連続して流して頭を空洞にする青木亜衣(あおきあい)さんの「アンドロメダの異星人」が流れちょっとやそっとじゃ動じない世の中を相対化する術に長けたSFな人たちを唖然呆然また騒然とさせる中を池上さん退場、最後の最後まで凄い人だったよ、またどっかで話聞きいな。2時限目のアンソロジー企画の後は今回の昼企画の中でちょっぴり異彩を放っていた「SFにおけるトランスジェンダー(性別越境)」のコーナーで、実際に異性装をして大学の講師なんかをしている女装家の三橋順子さんを招いてのトークに果たして会場のどれだけの人が興味を抱くんだろーか、いつものよーに中抜けしたSFのメジャーな人たちでロビーがごったがえすんじゃないかと思っていたけど、結構な数の人が会場内に残って居眠りもせずに三橋さんの話を聞いて、終わった後も「興味深かった」「今回で1番面白かった」なんて感想を残していてから、ミスマッチどころか大成功だったと言えそー。

 SFでジェンダー絡みの話となるとよくある運動としてのフェミニズムと連動したフェミニズムSFへの言及になって気迫に押されて見ている大半の男性を萎縮させるなり反発させるなりするんじゃないかって予想もあったけど、セクシャリティの問題は男か女か右か左かで切れるほと単純な話ではな。旧来からある概念としての美しくたおやかで麗しい女性の姿へと近づきたいと思って異姓装をするトランスセクシャルな人の立場が、そーした枠組みの中に留まることを潔しとせず男女の区別を排除しよーと頑張るノンセクシャルな立場の人と同じとはちょっと思えない、よくは分からないけれど。

 ともかくもそーした雰囲気を見せることによって一元的でも二元的でもない多元的なセクリャリティの存在を身を持って顕現して見せた意味は大きい。これまさに「センス・オブ・ワンダー」の具現化なり。女性がどうにかするとすぐに「フェミニズム云々」と畳んでしまう空気に動きを与えて、そうではない何かもっと多彩なフェーズがあるってことを知ってさて、書き方読み方にどんな変化が現れるのか、夜の合宿で立ち上がった(どちらかと言うと「フェミニズム」にまだ寄っている気がするけれど)「ジェンダーSF研究会」の活動も含めてちょっと注目して行こう、どんな活動するのか聞いてないけれど。しまったTシャツ買い忘れた。

 4時限目は瀬名秀明さんが登場しての「『SF』とのファースト・コンタクト」。2週間とかの時間をかけてアンケートを取り編集者いも聞きまくった結果を40枚に及ぶスライドにあらかじめまとめて持ち込みトークとともにスクリーンに映し出していく手際はまさに先生。とはいえ語る内容は「瀬名秀明はこうして作られた」的自嘲と韜晦にあふれたユニークなもので、よく言われる「真面目すぎる」印象よりもむしろ「真面目さ」を逆手に取って、あるいは「真面目さ」を天然のままに出すことによって不思議な親しみやすさを周囲に与えることに成功している、よーな気がする。

 それにしてもあれだけの数を売って今回ゲストで来場した人たちの誰よりも世間的に認知されている作家である瀬名さんが、どーして「SFファン」の間で「SF作品」として自分の作品が認識されないことにこれほどこだわるのか、ってな印象がつきまとった講演で、人によってそれぞれ定義も許容範囲も異なる「SF」の定義に一部の人が外れていると主張したところで、そうではないこれが「SF」なんだと開き直るくらいの態度を見せて欲しかったけれど、そこはなるほど「真面目さ」なのか、自分が「SF」として読み感銘影響の類を受けて来た眉村卓さん光瀬龍さんといった作家の作品に重ね合わせて見た時に自分の作品が「SF」でないはずがないと考えていて、なのに「SFじゃない」と言われる不思議さがあったのか、開き直るよりも悩む方向へと行ってしまったみたい。

 ただアンケートをしてまで傾向を分析した目的が、例えば「SF」とゆー狭いフィールドにも自分の作品を認めさせることだったのか、自分が好きだった「SF」とゆージャンルなりカテゴリーなり概念を他の一般的なジャンルにも認めさせる、そのために売れている自分の作品を「SF」として認知してもらうことだったのか、議論のベクトルがちょっと読めず、全体に印象のボけた感じになってしまったのが残念な所。森下一仁さんの著作の説を借りて「もしかりにSFの醍醐味がセンス・オブ・ワンダーにあるならば」とゆー論から「フレーム」と「スクリプト」の概念へと議論を進めていったけれど、言ってしまえばこれは受け売りで瀬名さん自身の「SFの定義」ではなく、そーした部分を抜きに「これはSFではない、と5年間言うな」と言われてもちょっと困ってしまう。

 すぐれたSF作品だとゆー自負、自分が親しんだSFに恩返ししたいとうー気持ちがSFの中枢にあるとゆー人たちに否定され、だったらそーゆー人たちの言うSFは自分のSFとは違うんだとゆー観点から、梅原克史さんは「だったらSFなんて言葉はいらない、自分はSF作家ではない」と反発して挙げ句にSF難けりゃ袈裟までも、ってなスタンスに至ってしまったけれど、瀬名さんは「だったらSFってなんだろう? 自分はSF作家なんだろうか?」とゆー部分で踏みとどまってくれている。そんな瀬名さんに「SFだ」と言うにも「SFじゃない」と言うにもお互いの立脚点をすり会わせる必要があり、また双方に尊重しあう寛容さが必要になって来る。今回はジャンル批評の意義とマーケティングの必要性が同じフェーズで議論されてしまった感じがあって、せっかくの機会だったのにちょっともったいなかっけど、突っ込める機会があればもっともっと話を聞かせて欲しい気がした。また来てくれないかなー。

 「デニーズ」でご飯を食べた後いつもの「ふたき旅館」へと移動し去年に続いて8時半からとゆー遅い時間のオープニングに企画のスタート、「ジェンダーSF研究会」は何でもアメリカにある「ジェイムズ・ティプトリー・ジュニア賞」にも匹敵するジェンダーに関連した本に賞を出すことを1つの目標にしているそーだけど、課題図書になったのがキャサリン・アサロの「スコーリア戦士シリーズ」だったりエイミー・トムスン「バーチャル・ガール」、ニコラ・グリフィス「スロー・リバー」岡本賢一「それゆけ薔薇姫様!」そして谷甲州「エリコ」だったあたりに一口に「ジェンダー」と言われてもフェミニズムなのかロリなのかショタにSMにトランスセクシャルといろいろあってあり過ぎて、これに両性具有とかボーイズ・ラブとか加わって来た日にはどれだけの本を対象にしてどういった議論を経て選ばれるのかが、面白そうでもあり怖くもある。賞の性格に関わってしまう名前(「鈴木いづみ賞」とか特定の個人名を冠するか否か)も含めてどんな議論がこれから重ねられていくのか、今んところ外野から観察していこー。次も同じ部屋で巽孝之さんを司会にした「こんなSF入門はイヤだ」を聞いているうちに(続く)


【5月2日】 大鳥居へとちょい出かけたついでに近所の本屋で手塚治虫さんの何回目あるいは10何回目かの刊行になる「メトロポリス」(角川書店、1800円)を買う。値段ちょっと高いけどハードカバーだし絵が全部黒と赤のカラー仕様になっているからむしろ安い方なのかもしれない。それにしても何で今さらの再刊はもちろん今だからこその再刊で、間もなくだったかの劇場版「メトロポリス」の公開に併せたもので帯には例のりんたろうさん監督によるアニメの摩天楼とそれからミッチィが描かれていて映画仕様っぽさを出している。帯をとると昔風の手塚さんのカラーのイラストが描かれていてこちらもいい感じ、ってゆーか帯に隠れてもったいない。まあ映画が終わっても帯がなくなっても今度はレトロな味で売れるから良いってことなのかも、角川考えたねえ。

 DVD−ROMにもなった全集を持ってる講談社じゃなく手塚治虫漫画賞なんて社風に似合わず展開している朝日新聞でもない角川書店からの刊行ってのがちょっと不思議、それとももしかして映画に角川も出資してたのかな、だったらメディアミックスだ。そーいえばその昔にハードカバーで「火の鳥」とか再刊したこともあったっけ、文庫でも「火の鳥」出してるし初期作品集の中には「メトロポリス」も入っているからそれを今回映画に併せて大きくして出したってだけのことなのかもしれない。

 ちなみに文庫の方はどーなってるかは知らないけれど今回刊行のハードカバーはやっぱり2色で1950年に刊行された「ふしぎ旅行記」も入っていて、冒頭の映画スタジオなんかを解説する絵が手塚さんの映画好きな面を表しているよーで興味深い。あと相当に初期なのにコマ割りもフキダシも凝っていて、今と違うのは描き文字の擬音が少ないことくらいで改めてその神様ぶりがしのばれる。50年前の漫画が懐かしさとか関係なしにちゃん読めちゃうんだから凄いよなあ、やっぱり。

 一方の「メトロポリス」も1949年とゆー戦後間もない混乱がまだ続いていただろー時期、科学なんてそれこそ省みられる暇もなかっただろー時期に堂々と「しかしいつかは人間もその発達しすぎた科学のためにかえって自分を滅ぼしてしまうのではないだろうか?」と警鐘を送っているあたりの、時流を捉えたかそれとも先見の明があったかはともかく、やっぱり凄いとしか言い様がない。

 ここで意識したに「人間を滅ぼす科学」とゆー考え方が、第二次世界大戦で発達した兵器の威力を見て出たのかそれとも別の空想小説から出たのかは不勉強なんで分からないけれど、ラストで再び、そして今度は「おそらくいつかは人間も発達しすぎた科学のために自分を滅ぼしてしまうのではないだろうか?」といった具合により「しかし」が「おそらく」へと代わって、肯定の気分をより強めて来ている辺りに、よほど科学に含む所があったんだろーと想像してしまう。そんな人が後に「鉄腕アトム」を描いて「科学の力」の礼賛者めいて語られる、この差は一体何なんだろー。やっぱり手塚さんは一筋縄ではいかないなー。DVD−ROM買ってつぶさに読み込むしかないのかなー。

 うんこれは凄い。複雑化する世の中の仕組みを描くのはそーした仕組みの内側で汗を流して来た人の方が巧いし深いんじゃないのか、ってなことが昨今の元サラリーマンなり現役サラリーマンといった人たちの書く経済小説の、意外な人気につながっているよーに見えるけど、政治の分野でもやっぱり餅は餅屋だったてことが分かる小説が出て、その情報量とリアルさと、加えて圧倒的な面白さでもって小泉政権の誕生なんかでにわかに増えつつある政治への関心を高められているだろー日本人の心をギュッと掴もーとしている。

 元秘書で野末陳平さん、アントニオ猪木さん、大前研一さん、舛添要一さんといったお歴々の選挙を手伝って猪木は当選させ舛添さんには負けはしたけど相当数の得票数を獲得させる手腕を震った選挙参謀、関口哲平さんが書いたその名もズバリな「選挙参謀」(角川書店)はとにかく面白い。そして奥深い。都知事戦の連敗続きでこの何年か仕事にあぶれていた選挙のプロが地元の市長選挙で再選をめざしながらも台頭して来た若手の候補者に敗れそうになっている現職市長に雇われ劣勢からの挽回をめざすストーリー、とゆーと聞こえは良いけど相手は若さの裏にしたたかさを持った候補者ではあるものの、それはあくまでイメージ作りといった部分であって政治家としての能力も行動力も抽んでたものがあって善悪で分けるなら多分「善」の位置に置かれる。

 対するに現職の市長は汚職はやっていなくても旧態依然としたシステムの上で安穏と市政を行い清新なイメージからはほど遠く、その分を別の要素すなわち相当に汚いことをやってでも当選しよーと企む善悪でいうなら圧倒的な「悪」。それをひっくり返そーとする時に参謀の主人公が繰り出す技も決して誉められる筋合いのものではなく、どちらかと言えばピカレスク小説のよーな雰囲気で相手をハメる仕掛けの楽しさを味わう展開になっている。

 選挙でのイメージ作りの手法については流石にプロだけあってリアルでかつ説得力にあふれていて、こーすれば自分でも選挙に当選しそーな気がしてくるけど、そんな手が使えるのはやっぱりそれなりな地位も金もある人だけだろーから庶民は真似するんじゃなしに、むしろ近づく参院選挙なりいずれあるだろー総選挙の中で、作品に使われているテクニックの果たしてどれだけが実際に繰り出され、それがどんな効果を有権者に、あるいは国民に与えているかを半歩下がって分析してみるのが正しい”使い方”なのかも。

 よく泣くからといってウグイスは選挙には役立たずと断じる言葉の実例を背景にした重みには頷かざるを得ないし、演説をする時間選びもその方法も単なるガナリ立てじゃなくまた通勤時間をねらい打ちすれば良いとゆーものではないことが分かって、身近なところだと先の千葉県知事選挙で堂本暁子さんが当選した時の選挙運動と、通じる所がありそーでいろいろと示唆されるところがある。逆転のスリルに映画「スティング」ばりの騙しの巧みさといったミステリーとしての楽しみもあるし、選挙の内幕をバラすノンフィクション的な面白さもあってなかなか。エンディングがまた選挙参謀の因果な様が如実に出ている展開で、そんな人たちがうごめき動かす選挙とゆーものへの興味を否が応でもかきたててくれる。圧巻のエンターテインメント小説。参院選前に売れそーだねー。


【5月1日】 諸行無常は世の常で行く年があるからこそ来る年もある。ゆうとぴあは言っている。止まってちゃだめなんですと。アントニオ猪木も言っている。行けば分かるさと。そうだよ、うんそうなんだそう思えば涙も止まると思いながらもやっぱりあの世界に留まっていて欲しかった「成恵の世界」(丸川トモヒロ、角川書店、540円)。今のほのぼのとして情感に溢れた世界はなるほど涙腺を刺激して止まないし、時々繰り広げられるコメディな展開も気持ちを心地よく解してくれる。鈴ちゃんの「鍋奉行ですっ」と身を呈して繰り出したギャグのおかしさと言ったら。工藤さんの見かけによらない(失礼)純情可憐な乙女さと言ったら。だけどだけど、代わりに失われたふんだんの白、もう見せて見せまくりだった白の世界の退潮をどーして哀しまずにはいられよう。3巻きなんて「お鼠様に花束を」くらいだよ、見られるの。もっともその分貴重さも増したってことで、期待に高まった注意力がかえって情感に溢れた世界の素晴らしさを発見させてくれる。なるほどそれも1つの効果かと認識して、哀しみを押さえてここは先へと進むことにしよー。でもせめてあと3カットは。

宇宙飛行士  玩具好きってゆーよりは珍しがりたがり新しがりたがりって奴で、「日本上陸」とか「新入荷」とかの文字を見るとついつい買ってしまっては、置場所に悩みやがて本の山に埋もれて3年は発見できなくなること確実なのに(「エピソード1」の時に買った電子チェス、どこに行ったんだろ)、それでも手を出さざるを得ない。とはいえ買いたい集めたいって琴線に触れる温度にも差があって、あれほどまでに大流行してしまった「チョコエッグ」は集めるのに今さら気分がのらず、同じ海洋堂モノってことで人気の「百鬼夜行」も「MIU」も「チョコラザウルス」も既にメジャーの仲間入りを果たしてしまってなんか波に乗り遅れた気分。もっとも「スターウォーズ」みたいなエバグリーンさがあれば(因果なエバーグリーンだ)メジャーマイナーは問わないあたりが、別にコレクター哲学なんかじゃなくって単なる見栄に左右されてるんだってことを表していたりする。

 ってことでフラリ立ち寄った「ソニー・プラザ」で見かけた「日本上陸」の看板にフラフラと惑わされて買ってしまった「Bendos」ってところのアクションフィギュアは、アクションフィギュアなんて名乗っていても海洋堂が誇る「北斗の拳」とか「トライガン」とか言った間接が自在に動かせるタイプのフィギュアなんかと違って、26カ所どころか腕でも足でも寸刻みに稼働可能な単なる針金入りのゴム人形。「宇宙飛行士」とか言っても来ているとゆーより塗られているのはピタピタのスーツで、ヘルメットにも背中に背負ったジェット推進装置にもリアルさはかけらもないけれど、色遣いとかデザインとかがいかにもアメリカーンな雰囲気で、愛敬ってよりはキッチュさにあふれていてついつい見惚れてしまった。「X−MEN」に「スポーン」を生んだ国とは思えない造形の「スーパーヒーロー」や「ロボット」なんてのもあって、アメリカ人のデザインセンスの幅広さに改めて感心する。

 ほかにも並んでいるだけで「インラインスケーター」から「サッカー選手」から「ダンクマン」から「新体操選手」から「チアリーダー」から「骨折男」から「木こり」から「ダイバー」から「スノーボーダー」までいろんな種類のフィギュアがあって、ホームページを見るとすでに何十種類も出ているよーで中には「リタイア」なんてものもあって、ああそうかこれって「ビーニー・ベイビーズ」と同じコンセプトなんだってことに気付く。山ほどの種類を出しては1つ1つに「誕生日」(宇宙飛行士は7月4日、なるほどアメリカの象徴って訳ね)を付けてユーザーの関心を引きつけ、適当に時期が来たら生産中止にしてコレクターの収集欲を誘う売り方はまさに「ビーニー」的。きっと中にはすごいプレミア価格がついてる奴もあるんだろー。もっとも世界的なコレクターアイティムの「ベア」がある「ビーニー」と違ってどこら辺が人気商品なのか今ひとつ分かりにくい。オークションサイトでもサルベージしてみるか。

 問題は日本に定着するかって辺りだけど、一昨年の夏に同じ「ソニー・プラザ」が鳴り物入りで売り出した「ビーニー・ベイビーズ」が大ブームの後で地道に販路を広げてそれなりに定着して来たよーに、うまいことブームを作って名前を売った後もちゃんとサポートして行けば、珍しがりたがりで新しがりたがりの人とかにとりあえず受け入れられる可能性はありそー。99年頃のスタートと歴史も浅いから既に篦棒(べらぼう)な値段が付いているものもある「ビーニー・ベイビーズ」と違って頑張ればコンプリートだって出来そーな感じだし。ただやっぱり普遍の人気を誇る縫いぐるみと違って愛敬はあるけど人形だしカッコ良くもないんで、デフォルメされた雰囲気が似た「メディコムトイ」の「キュービック」みたくキャラで売れる品物とは違って、別の付加価値とか付けて人気を盛り上げないと苦しいかも。とは言え何点か買うと当たるらしーマストアイティムな「キャプテンベンド」のデザインがこれでは意欲も翳るよなあ、まるでドロボウだもんそれも間抜けな。

 電撃文庫の「ゲッターロボ1」(570円)。200ページなくってこの価格設定は何だろうって気もしないでもないけれど、歴史と伝統の上に築き上げられた金字塔のごとき存在ともいえる永井豪&石川賢原作の元祖スーパー合体ロボットをノベライズする以上はこれくらいじゃないと釣り合わない。イラストは石川さんだしゲストイラストは村枝賢一さんって豪華さで、おまけにノベライズ担当が「スプリガン」のたかしげ宙さんと来た日にやあ、ファンだったらお布施よろしく買って当然の本だろー、ファンなら。

 中味の方も頭から尻尾まで「ゲッターロボ」でそれもOVAなんかで展開されている早乙女博士がグニョグニョしてる奴じゃないオリジナル。復活なった恐竜帝国に挑むべく作られた「ゲッターロボ」の操縦者を求めてさまよう早乙女たちの前に集う竜馬に隼人に武蔵そして弁慶。「共存の余地はないのか」と問う隼人に答えた帝王ゴールの「あるはずもなかろう。『種』として成立した存在そのものが違うのだ」とゆー分かったよーな分からなかったよーな即答とで火蓋が切っておとされた激闘の果たして行き着く先は? 解説に何故か登場の肩書きメディア・プロデューサーな筒井康隆さん関係の偉い人、幸森軍也さん言うところの21世紀的なぐにゃぐにゃ変形合体プロセスの解釈といー隼人のネット時代的な番長ぶりといー、読み所も満載な小説版「ゲッターロボ」をさあ、ゲットだ。


"裏"日本工業新聞へ戻る
リウイチのホームページへ戻る