縮刷版2001年2月上旬号


【2月10日】 「モーニング娘。」のベストをガン鳴らしながら堀江敏幸さんの「熊の敷石」(講談社、1600円)を読む自分がちょっと寂しい、けどこれが日本文化の多様性ってことでご容赦戴くとして、それにしても「モー娘。」、福田明日香の脱退騒動前後と「LOVEマシーン」の大ブレイク辺りくらいしか真面目に(「モー娘。」相手に真面目もないけど)聴いてないのに、収録されているおよそほとんどの曲のとりわけ「LOVEマシーン」以降が、ほとんど耳に記憶されているのは驚いた、それもしっかりサビの 部分が。

 テレビ局のイベントとかスポーツ大会のキャンペーンソングに使われて番組の合間とかにガンガンと流されるから、って理由もあるけれど何といっても決める所がガキッと決めてそのまま締め落とすアナコンダ殺法マーク・ルーインも吃驚なつんくの曲作りの巧みさ「ダンス☆マン」のアレンジの凄まじさに、知らずハめられているんだろー。今も耳の奥では「超超超いい感じ」「愛レボリューション21」「ほいっ」と鳴っている、でもって眼前には活字で繰り広げられる雲のたれ込めたノルマンディーの世界。強烈なすり込みによって関連づけられてしまった将来、ノルマンディーの地に経ったとき、頭に鳴り響くのは「地上最大の作戦」のテーマじゃなくって「超超超いい感じ」、なんだろーなー。

 「噂の眞相」3月号は中森明夫さんが敗北宣言。かつてテレビでバリバリと、新人類の旗手なんて言われて騒がれていた中森さんに向かって「新人類は阿対談やコメントばかりで、何も書かないじゃないですか」と痛い所を付いて来た男がいて、後に岡田有希子さんの本を書きライターとして大活躍して「SPA!」なんかでもアンカーを張って今週号の「SPA!」でもしっかり対談(?)原稿のアンカーをしている偉大なるフリーライター、田村章さんまたの名を重松清さんの「直木賞」受賞に対して、心からのおめでとうを連発している。

 初対面の時に面と向かって「新人類は文壇を恐れている」と当時の重松さんから言われて激怒し近年も小説を書いていた重松さんを挑発していたらしー中森さんけど、権威だけはオンリー・ワンな「直木賞」を取られてしまったらもう勝てない、ってことでの敗北宣言になったみたい。ここで気になるのは、数年前から結構な人気と評価を得ていた重松さんに対してではなく、「直木賞」とゆー看板を受賞して「おめでとう」と言ったのかってことだけど、そこは業界の「黒幕」中森さんが「直木賞」の権威を素直に偉大な文学賞だと認識しているってことはないだろー。

 どちらかと言えば世間一般が「直木賞」に対して抱いている権威めいた感情を理解し半ば嘲弄しつ、ギョーカイ力関係マトリックスの上で「重松清」と「直木賞」を位置づけた上で、権威しか信じない奴らもこれで重松清を使わざるを得なくなるぞ、どうだと言いたかったよーな気がする。そこで1歩引きつつも全体を俯瞰して全部分かってるんだ感を漂わせてみせるあたりが業界の「黒幕」たる所以なんだろーけれど。しかしサブカル部門からメインカルチャー部門まで幅広く目配りしてチェックしてそこから新種な才能を引き吊り上げる腕前はやっぱり流石は「黒幕」ナカモリ。「最近東浩紀さんが取り上げた大塚ギチさんは前から知ってて言及してた」的な新鋭文化人早押し選手権の、「知ってる」と言う目利き側でも「知られてた」と言われる目利かれ側でもいーから入りたいものです。

 とは言え誉めれば下げる「噂の眞相」、文壇事情のコーナーでは誉めてるようであんまり誉めてない記事を乗せて「あの重松清ってどんな人?」的野次馬の興味をグググッと引きつけている。「1日300枚書いてキーボードは1カ月ですり減る」仕事ぶりはともかく、幻冬舎の見城徹社長が編集者時代にスカウトに動いた時も、その稼ぎっぷりから年収で見城さんを上回っていて見城さんのプライドを傷つけたってあるのは何か嫌味っぽい。さらには胡蝶蘭の順番を気にしているだの値段が気になるだのと、そのスタンスをこれは決して誉めてるんじゃなしに完全に揶揄っている。

 けどまあ「SPA!」の対談、じゃなく自作自演な「エッジな人々」の脚註に「今回の取材で開口一番『そういえば「SPA!」からの花が届いていないね』と……」言ったらしー旨書いてあって、なんだ事実なんだと思いつつも本人がチェックを入れただろー原稿だけに半ば自虐的、露悪的な気持を含めて残したんだと考えると、出版社に対する原稿の胡蝶蘭速度値段入札制度も案外、自嘲自笑の裏返しになる繊細さが言わせた照れみたいなもののよーな気もするけれど、本当の所は知らない。しかし同時受賞の誰よりも前に出る、それも「SPA!」から「噂の眞相」からメディアを問わず気にされる存在だったんだなあ重松清さん、そんなライターに果たしてなれる日は来るんだろーか。


 ライター仕事と言えば「噂の眞相」3月号だと「ミシン」(小学館、1000円)が売れ売れで新刊も近い嶽本野ばらさんにインタビューしている永江朗さんが新著「消える本、残る本」(編書房、1600円)の中で1項を当てて「フリーライターという仕事」について書いていて、収入とかはともかく人づきあいの悪さがかえって他人への興味につながってるってな話があって大いに共感する。まあ僕の場合は相手の事情が気になって電話をかけるのも相手に迷惑なんじゃないか、ってな理由をつけつつも単純に自分が臆病で自意識過剰なだけで永江さんとは違うだろーけれど、会うまでは億劫でも会ってしまえば人に話を聞くのは嫌いじゃなく、もうちょっとだけ前向きになれば、田村さん永江さんの域は遠くてもケツにくらいは付いていけそーな気がして来た、けど知らない人に話しかけるのは苦手だなあ、それでブンヤがよく務まるって? だから務まってないじゃん。


【2月9日】 「SPA!」の2月14日号ににインタビューも掲載されている、「熊の敷石」(講談社、1600円)で芥川賞を受賞した堀江敏幸さんが鹿島茂さんと対談しているってんで「文學界」の3月号を買ってみる。同じフランス文学者だから昔からの知り合いなのかなあ、とか思ったけれど15歳の年齢差だと同窓でもないしかといって師匠と弟子って訳でもなさそーで、読むと堀江さんが「ふらんす」にエッセイ、だと当時は認識していた文章を連載していたのを鹿島さんが「トイレの中で読んで(笑)」気に入って、これがまとまって「郊外へ」ってゆー本が出た時に書評を書いて以来の関係みたい。

 同じ「フランス屋」として鹿島さん、「ふらんす」にエッセイとも小説ともつかない一連の文章が連載されていた当時から堀江さんの「小説書き」としての資質に気づいて小説を書かせろとあちらこちらで言っていたらしく、それが周り回って「群像」とか「新潮」とかいった「純文学誌」への作品発表へとつながり、さらには評論も取る「三島由紀夫賞」とは違って純然な小説の賞の「芥川賞」への受賞に至ったことになる。ってことは賞の金時計の短針は鹿島さんのものってことになるのかも。金時計がもらえるかどーかは知らないけれど。

 さすがに「ふらんす」は読んでなかったけど、須賀敦子さんに私淑していた関係で帯に須賀さんの推薦文があった単行本の「郊外へ」は出てすぐに買っていて、読んでこれはいったい個人の体験記なんだろうか、それにしては文学的だなあと思いつつもエッセーだろうと考えていたけれど、インタビューしたらしい読売新聞の文化部だったか横浜支局だったかの人から当時は健在だった「ヨミネット」経由で教えてもらった所によると、5割だか8割はフィクションで経験も少し混じってるらしっては話で、なるほどこれは珍しいタイプの文学者だなあ、と思った記憶がある。創作なのかもしれないしノンフィクションかもしれないとゆー状況が生む、境界のはっきりとしない曖昧さが堀江さんの作品に微妙なゆらぎを与えていたんだろーか、本当なんだと驚くことはできずかといって嘘だと切り捨てられない、緊張感と解放感の相半ばする不思議な雰囲気が堀江さんの作品にはあって、以来ずっと気になっていた。

 これを新しいと見るかどっちつかうずと見るかは人それぞれだろーけれど、ジャンルの枠組みの中でさらに細かくジャンルを規定して閉じこもろうとしている節がある日本のメインでもサブでも同様なカルチャーの世界。「文学界」の対談にも、いったいどっちなんだろうってな感じで言われている事への堀江さんなりのコメントがあって、つまりは自分は自分であってどこに書いても違いはなく、むしろ見る側の方で「SD」に掲載されたらエッセイで「群像」だったら小説、ってな感じで規定してしまっている、役所で言うところの縦割り行政的な状況が堀江さんの「創作」をもてあましてたってことが分かる。

 もっとも「小説家」の賞としてあまりに高い権威と広い認知度を持っている「芥川賞」を受賞してしまった以上は、今後は「小説家」としての枠組みに本人の意図は別にしてパッケージする側の方が引き寄せてしまい受け手もその枠組みで認識してしまうことになるんだろー。そーなった時でも今までのようなゆらぎを感じていられるか、ジャンルに縛られない感性の持続に努めなくっちゃと誓う。同時に堀江さんにもそう感じさせ続けて下さいとお願いしておこー。多分堀江さんは堀江さんなんだろーけれど。

 それにしても堀江さん、「郊外へ」が出てしばらく名前を聞かなくなってしまった時期もあったけど、と心配していたら「おぱらばん」が出て「子午線を求めて」が出て「書かれる手」が出てとここ数年で一気にブレイク。文学業界的に言うならその極限とも言える「芥川賞」にまで来てしまってその急激な出世魚ぶりに、「郊外へ」の感想を書いた時以上のあせりが生まれて布団の中で身もだえる。同じ時間を経過して方や文壇のホープであってこなた未だしがない5流業界紙のヤクザ記者。才能の差も努力の違いも当然ながらあって比べるのがそもそも烏滸がまし過ぎることなんだけど、やっぱり羨ましいしちょっぴり妬ましい。もちろんポトラッチ的と坪内祐三さんには批判されることは覚悟の上で、早くから堀江さんには目をつけてたんだぜぇ、ってな感じに自分を慰めることだって出来るからそれはそれで悪くはない。

 須賀さんの推薦がなければ手に取るのは遅れていただろーから感謝は須賀さんにすべきだろうと言われるかもしれないけれど、須賀さんを読んだきっかけが表紙の舟越桂さんの彫刻で舟越さんを知ったのが「小説新潮」のグラビア、でもって「小説新潮」を買ったのは酒見賢一さんが作品を掲載していたからで、その酒見さんを知ったのは通っていた学校が同じでクラスも一緒だったから、ってことは同じ学校に行った自分の選択がめぐりめぐって堀江さんの”発見”につながったってことになる。つまりは自分の力のわらしべ長者的伸張が堀江さんにたどり着いたって訳で、なんだやっぱり自分が偉いんだと、言ってたらいつまで経っても追いつけないどころか光速でもって引き離されていくのは自明。奢らず妬まずミリでもミクロンでも堀江さんに近づけるよう頑張ろう。でも何すりゃ良いんだろう。

 「脂鬼」は別にして(作者が違う)「屍鬼」からしばらく作品を見ないなあ、と思っていたらこんな作品を書いていたんだ小野不由美さん、祥伝社から発売の書き下ろし長編「黒祠の島」(886円)は孤島に探偵が出向いて因習の絡んだ事件に挑むってな筋書きで往年の横溝正史さんなんかを思い出させてくれたけど、オマージュにもならなければパロディでもなく、メタでもなくちゃんとした物語の上で事件を起こして謎を示してそれを鮮やかに解いて見せてくれる。どうやら島の実力者が絡んでいるらしい事件をよそ者の探偵が調査しているのにも関わらず、命を狙われるとか徹底して邪魔が入るとかいったことがなく、最初のうちこそ苦労があっても途中からは意外とポンポンと調査が進んでいく当たりが横溝さんとは違うところ。あと最後の大ネタの部分もドライというか現代風の味付けで、恐ろしいけれども納得できないこともない、あれやこれやと考えさせられるテーマを示してくれる。先が気になって読み止めることの出来ないあたりの小説巧者ぶりは「屍鬼」と変わらず。楽しませてくれます。


【2月8日】 腕に覚えのあるアニメ野郎は神田駿河台を目指すのだ、って訳かどーかは知らないけれど「電撃アニメーションマガジン」が「アニメ誌ライター」を大々々募集中、とか。立ち読みじゃなく早売りで買った3月号を読んでいたら51ページの募集のお知らせが掲載してあって、原稿書きましょうアニメに愛がある限り的な誘い文句でフリーながらも原稿を書いてくれるライターさんを集めてる。読むと「声優さんとお話できたりアニメの情報が早く手に入ったりという役得もあるしね。いいコトいろいろでお金ももらえる。なんて素敵な商売かしら」なんて背が伸びる体操より次が巧くなる「エーカン」より夜がぐっすり眠れる「デンピュール枕(略称にゃも枕)」よりも美味しくアヤしい誘い文句が書いてあって、経済系のライター稼業は長くても声優さんとお話しなんてしたこともなければ一緒に写真を撮って貰ったり「アニメ紅白歌合戦」にも行ったりしたことのない身からすれば、何て羨ましい仕事なんだアニメライターはと思わず履歴書を買いに走りたくなる。

 応募は4月末必着とかで世間を騒がすエコアニメ「地球少女アルジュナ」が果たして日本人の精神と子供の教育明日の天気にとって良いものかどうか、じゃなくって昨年以降のアニメ作品の魅力を見出し20字以内本文800字以内で書いて履歴書とかといっしょに送るんだとか。編集部まで1時間以内にいける、ってのが条件らしーけど東京でも真ん中あたりのお茶の水が本社だから新幹線を使えば大宮とか横浜とかヘリコプターを使えばもうちょっと遠くて小田原とかあたりでも十分に応募できる、訳はないよなあ、まさか自家用ヘリコプターを持ってる大富豪のぼっちゃまでアニメライター志望者がいるとは思えないし。東京の中心部に住んでるアニメの好きな高貴な方だと車で10分だから大丈夫か、担当編集の人は精神が激しく緊張しそーだけど。詳しくは本誌を買って読もう。阿智さんはやっぱり立ち読みか。

 やっと出た「ひめくりあずまんが」(メディアワークス、1500円)大王だけどビニールカバーをもったいなくって開けられない僕は弱虫でしょうか、やっぱり3つ買わなきゃいかなかったかなあ、普段用保存用冷凍用の3つを。ISBNコードがついてるってことは書籍だかと同じ扱いになるんだろーけれど、サイズこそ文庫と同じながらも厚さが京極夏彦さん2冊分は楽にあるから書店なんかだと積み上げるのに困りそうー。だから予約限定にしたのかな。日めくりだから当然向こう1年分の日付が書かれた紙がある訳で、だとしたら片隅に穴をあけて紐でも通して首からぶらさげて、ダイアリー手帳代わりに使うって人でも出てきたらちょっと面白いかも、何月何日に何々するって決めたらその日を開いて書き込むって寸法、人前でやれば目立つことだけは請け負い、相手にどう思われるか、そんなことは知らん。

 火浦功さんの「未来放浪ガルディーン」シリーズ最新刊に清水良英さんの「激突カンフーファイター」に阿智太郎さんの「住めば都のコスモス荘SP」と続いた悶絶ギャグSF小説刊行ラッシュの真打ち、になるかならないかは人によってそれぞれだけど掉尾を飾ることだけは間違いない田中啓文さんの「銀河帝国の弘法も筆の誤り」(ハヤカワJA文庫、580円)が登場、豪華5編の短編に超豪華5人の解説がついて後書きも2本つくという、早川書房への貢献度もあってか懐かしの銀背と同じ体裁で短編集を出した御大・栗本薫さんともタメを張り合い土俵上でどつき合っても死なない程度に生きていられそうな文庫編集部の厚遇ぶりを見るにつけ、田中啓文さんの上に「早川書房」を乗せて「早川書房」の上に「SFマガジン」乗せて「SFマガジン」の上にその他大勢の執筆者を乗せて田中啓文さんコケたら皆こける、くらいの期待がかかってるんだなーってことを実感する、福島正実さんが遠くから「悲しそうな目」をして見ているかもしれないけれど。

 駄洒落とボケとオチとズッコケがのべつまくなし渦巻きのよーに襲いかかって来る「激突カンフーファイター」を読んでしまった後だけに、繰り出される駄洒落の切れ味も展開の突き抜けぶりも衝撃が和らげられてしまっている感じがしたけれど、徹底して外しによって埋め尽くされた「カンフーファイター」に比べて1つひとつの物語が醸し出す「センス・オブ・ワンダー」すなわちSF的な驚きについては、流石ベテランにして奇才異才な田中啓文さん、「脳光速」のぐるりと回って戻る空しい戦いにしても「銀河帝国の弘法も筆の誤り」のファーストコンタクトの結末にしても「銀河を駆ける呪詛」のどうして呪詛なのかという説明の理路整然ぶりにしても見事なことこの上なく、圧倒的な驚きと圧倒的な呆然を読む人にもたらしてくれる。呪いはそうか、そうなのか。

 「火星のナンシー・ゴードン」は希望するなら最後の太ゴシックで書かれた説明的な文章は袋綴じか何かにして、ほのめかしていある部分だけで「そうかそうなのかそうだったのか」と口あんぐりさせてもらいたかったけど、「兵六餅」とか「ボンタンアメ」とか「かるかん」とか「五代」とか「天文館」とか「磯庭園」とかに興味があったり関心があったりする人じゃないと、ちょっと分からないかもしれないからやっぱり添付は仕方がないんだろー。にしても大阪生まれで学校も神戸な人が何故に「ナンシー・S・ゴードン」の物語を書いたのか、ファンだったのか知り合いだったのかそれとも単純に語呂が良かっただけなのか。まさか思いついた駄洒落があまりにも内向けにウククククだったんで1人話を膨らませた結果あーなった、なんてことはないよなあ。

 突然代表取締役が代わるってんでスクウェアの会見に行く。とは言え発表の案内が「社長交代」じゃなく「代表取締役の交代」ってなっていたからあるいは社長じゃない別の誰かに関する何かかもと当たりを付けて行ったら実際そうで、まだいた元社長な会長の人と取締役の人、そして天下に轟く世界最高金額を投入したフルCG映画を製作中の「ファイナル・ファンタジー」プロデューサー、我らが坂口博信副社長も代表取締役から辞任するってな内容だったんでまずは一安心、今頃社長の人に変わられてしまうと一体何があったんだってことで夜も徹して仕事しなくちゃならなくなるからね。実際発表の内容も元社長な会長の人の退任は赤字と無配の責任を取ったものって説明があったんで、むしろ経営の中心がどこにあるかが明確化されてスッキリして、後に引いてバタバタすることもなかったし。

 「FF」立て役者の坂口副社長が経営から外れて契約のエグゼクティブプロデューサーとして今後はゲーム作りに携わる、って人事が一安心かい、ゲームファンには他にないくらいのインパクトがあるんじゃないかい、と聞かれてもクリエーターじゃなければ熱烈な「FF」信者でもない僕にはちょっと判断不能。それでも聞くと経営責任を取って辞任した会長と同じく経営責任で減俸となった社長に取締役とは理由が違って、あくまでもクリエーター業務に専念するって理由からの代表取締役辞任らしー。赤字で無配になった原因の1つに例の大枚はたいて作ってる映画があるんじゃないの、なのにどーして坂口さんに責任が及ばないのと思ったけれど、そこはスクウェアにとってドル箱にして看板の「FF」シリーズを作り育てた人ってことで、そんな人に対して経営責任なんかを云々するのは通俗的で賤しい仕儀、溢れんばかりの想像力と創造力を、ちゃんとヒットするソフト作りにだけ傾けて欲しいってな考えから、算盤勘定のテーブルを離れてもらうことになったんだろー、と好意的に解釈しておこー。方や身を切って実を取りトップの座を固め、こなた名を取りプライドを保った今回の人事が果たしてこれからどんな結果を呼ぶのか。ますますもって楽しみな会社になりました。


【2月7日】 経団連と日経連が合併して発足する新しい経済団体「日本経済団体連合会」の略称について、日経連の奥田会長が「日経連とも経団連とも呼ばない、JBF(ジェービーエフ)と読んで欲しい」と発言したことについて、日本食肉消費総合センターが「JBFは私たちのブランド『Jビーフ』と混同される恐れがあるので仕様は差し控えて欲しい」と奥田氏に申し入れをしたことが7日明らかにならなかった、なる訳ないよね。まあ合併した団体が「日経連」とも「経団連」とも略せる名前だってのがそもそもの問題で、かといってどちらを取る訳にもいかないのは、合併した銀行で実力なんかじゃなくどちらの出身かでもって襷掛け人事が繰り替えされる日本的な風土ならではのもの。そこで英語名の頭文字を取って「JBF」ってこといしませんかってな発言になったんだろーけど、日本の経済界を代表する団体をどーして英語読みなんぞせにゃならんのかが分からない。

 別に愛国心とかから日本語を使おうって言ってるんじゃなく、たとえ略称であっても、ってゆーか略称だからこそ元ネタがいったい何に関連したものなのかをパッとイメージさせなきゃ意味がないって言いたいだけ。外国人だっていきなり「JBF」と言われたって分からないだろーし、ましてや日本人が「JBF」と聞いて一体どんなものを連想言葉からまったく連想できず、やっぱり「Jビーフ」をイメージしてしまう。せめて字面でも「経済連合」とか「経団」とかにしてくれれば経済絡みの何かかなってことくらいは連想が働くんだけど、そーゆー気の回しようなぞいっさいなしに、中庸とは名ばかりの凡庸さをさも名案のよーに吹聴する、そんな人と21世紀の名経営者に仰ぎ見なければならない日本の先もますます暗いってものだよなー。それを言うなら「JR」だって「JT」だって「NTT」だって酷い名前なんだけど。結局日本ってダメになり続けてたんだよなあ。

 だったら誰がダメにしたんだってことになるけれど、やっぱり「団塊の世代」がダメにしたんじゃないのかって意見が、決して若い人でも逆に老人でもなく当の「団塊の世代」から飛び出したのが「沈黙の艦隊」やら「ジパング」やらで日本人とか国家とかについて意欲的に取りあげて来た漫画家のかわぐちかいじさんが、珍しく文章でもって綴った自伝的団塊解剖論、ってゆーか団塊解剖論的自伝な本の「沈黙の団塊へ」(ワニブックス)。ほとんど大半が「私はいかにして漫画家になって苦労して成功したか」に費やされているあたりが「団塊解剖論的自伝」と揶揄った所以だけど、冒頭の北九州バスジャック事件でとっとと逃げ出した男性が同じ歳だったってことへの幻滅感の表明と、巻末のだったらどーして「団塊の世代」はダメなのかの説明に関しては、それなりに「自伝的団塊解剖論」になっている。

 端的に言うなら「権威」を壊すだけ壊し否定するだけ否定したにも関わらず、それに変わって果たすべき「責任」を取らなかった関係でぽっかりと穴があいてしまい、結果守られるべき「モラル」の崩壊へと至ってしまったってのがかわぐちさんの論。それがすべてに置いて正しいのかどうかはやっぱり人によるんだろーとしか言えないけれど、戦時下のナチスであったり日本で起こった「全体主義」への戦後の全面的な、もう一切合切認めよーとしない体質が結果として戦時下とは裏腹な「自由礼賛」とゆー名の「全体主義」へと変わってしまって異質なもの、突拍子のないものを認めない悪平等を生みだし、才能や意欲をスポイルしたってな可能性は決して否定できないだけに、そんな精神的風土を作り出す上で、「団塊の世代」がどんな役割を果たしたのかを検証る必要はある。

 もちろんすべて「団塊の世代」のメンタリティーに帰結するのは無理な話だろー。老人に「今時の若いもんは」と言われるのはあらゆる時代において伝統的なものだから、決して「団塊の世代」だけが突出して精神的な風土の破壊に荷担した訳ではない。冷戦だとかベトナム戦争だとかいった当時の世界的な流れの中からやっぱり日本人云々じゃなく人間の心がどう変節していったのかを考えてみなければならないよーな気がする。

 日本が政治もメディアも「無責任」になってしまったその原因が、果たして「団塊の世代」より派生するものなのかあるいはもう少し上の戦中派戦後闇市焼け跡派の喪失感によるものなのか下って僕たちのよーな狭間の世代の虚無感によるものなのかさらに下って飽食世代のより派手な刺激を求めてやまない衝動によるものなのか。これらすべてが複合的に絡み合ってる可能性もある訳で、かわぐちさんにも単純な世代論に帰結して自らを奮起させよーとするんじゃなく、今の日本のどこがどう間違っているのかをとき解し、だったら老人は、中年は、若者は、少年はいったい何をすれば良いのかを説いていって欲しい。もっともそれで人々が言うことを聞くならすでに世の中健全に向かってるんだろーけれど。結局日本はダメになる?

 久々に新宿「ロフトプラスワン」。唐沢俊一さんと眠田直さんがアメリカの「カートゥーン」について喋るってんで聞きに行く。あれやこれやと話を聞いていく中で感じたのは、中年よさらば若者よこんにちわと世代間闘争をしかけて成り上がろうとしても、亀の甲より歳の功ってゆーかやっぱり長年1つのことを求道して来た人の持つ知識の量はハンパじゃないってことで、昭和で言うなら40年代にたくさん放映された「ハンナ&バーベラ」や「フィルメーション」といったアメリカのアニメスタジオの作品に関連する日本での放映時、そして本国での状況なんかを実際に見てきた者としての感想も含めて立て板に水と紹介できる強みには、それこそ「エヴァ」以降「パワパフ」以降な人ではちょっと太刀打ちできない、もちろん「カートゥーン」について語る、って意味でだけど。

 もっともアニメ全般を語る上でも歴史を把握している人に利があるのは当然で、ギャグの表現方法にしてもリミテッドとかフルアニメーションとかいった違いの本当の意味にしても、歴史を押さえた人ならではの説得力の高い言葉を、長いコレクター生活で培ったコレクションとセットで繰り出された日にはやっぱり納得せざるを得ない。古くは「スーパーマン」が日本で破壊工作をしていた話とか日独伊三国同盟を叩き潰したいアメリカが戦時公債の募集を兼ねて珍妙な、けれども真に迫っているアニメを作っていた話とかになると、これはもーリアルタイムで見てきたってことじゃなく、そこを起点にどこまで遡って研究したのかって部分での競争になる訳で、年齢的にアニメに目覚めたのが早い両名の遡り度の深さには、昨日今日の目覚めではやっぱり追いつけない。「漫画の国のアリス」なんて知らないもんなあ。もっともこれから訪れる未来に目を向けて今をしっかり認識しておく意味もある訳で、かなわないやと諦めるんじゃなく、過去は先達の偉績を借りつつ未来に向けて今を調べ語ることは続けて行きたい。で「アルジュナ」なんだけど……どうなのよ、あれは。


【2月6日】 向かい合わせで角付き合わせている状況でもないのかアミューズメント施設を同じお台場の「デックス東京ビーチ」で運営しているセガとナムコがガッチリと握手。何でもセガの「東京ジョイポリス」の入場券を持ってナムコの「東京皮蛋城」に行くとアトラクションが半額になるそーで、逆に「東京皮蛋城」のアトラクションのパスポート券を持っていくと「東京ジョイポリス」の入場料がタダになるとか。せっかく近くまで来てるんだから相互に人を融通し合えば少しは売上も増えるだろうってな算盤勘定もあってのことだろーけれど、家庭用でも業務用でも一応はライバルの会社が人を融通し合わなければならないくらいに運営が厳しくなっているんだろうかってな勘ぐりも生まれて来る。

 まあ既に業務用ゲーム機のロジスティックの部分なんかを共通化していたりするから、こと家庭用ゲームの上ではそれぞれにタイトルを出し合い競争していても、こーしたゲームセンターとかアミューズメント施設の部分ではそれぞれの力を寄せ合った方が、細分化された挙げ句に消滅してしまうより遙かにマシって判断が働いての共同キャンペーンになったのかも。だったらいっそ2つの会社を1つにしてしまって、セガのクールさナムコの熱さをコンテンツ的に併せ持ち、かつCGの技術力でもゲームの開発力でも格段な両社のリソースを併せ持った会社にすれば、結構な存在感を得られるよーな気がするんだけどどーだろー。

 本体どーしだけでも今ん所トップのコナミを上回る「ソフトメーカー」になってしまう訳だし、周囲のセガトイズとかトムス・エンタテインメントとか日活をかギャガ・コミュニケーションズとかも含めれば、ゲームに限らず日本のエンターテインメント業界にかつてない大きな勢力を築けると思うんだけど。それともあるいは既に動いていたりして。仮にそーなった時、問題は社名ってことになるけれど、前科のある「セガバンダイ」が格好悪さから破談になったよーに(違います)、セガナムコがナムコセガでも同様に世間が反発しそー。いっそソニックをパックマンを合わせてパニックマンってのはどーだ、何縁起が悪い、やっぱり合併は無理かなあ。

 「ダブルブリッド」の第5巻は趣向を変えて京都名所巡りの回、山崎太一朗に失恋した片倉優樹は1人新幹線に乗って京都へと向かいたどり着いたのは大原三千院、桜は咲いいなかった。なんて話では全然なくって、前巻でとりあえず決着がついたかに見えた太一郎との関係が、山高ければ谷深しってゆーか可愛さ余って憎さ1万倍ってゆーか、ともかく何やら不穏な余韻を残しつつ、さにズルズルと引きずったまま進んで行きそうな感じになっている。

 もっとも5巻のうちでは直接の接触はなくって、片方の眼をどうにかされた優樹が日本を支配するあやかしの命令でもって京都で起こったあやかし殺しの犯人を捜しに若いあやかしを連れて京都へと乗り込むのがメインストーリー。東京以外の場所であやかしがどんな生活を送っているかが分かったり、空木の得体の知れなさが際だったり、「主」が何かよからぬことを企んでいたことが明るみに出たりして「ダブルブリッド」の世界がグンと広がって来る。不思議な技を使ってあやかし以上の強さを発揮する少年たちの力の源と空木、そしれ「主」との関係っていったい何なんだろー。

 日本をすでに政治的に支配しているあやかしが今さら何をやろーとしているのか、だいたいが長命のあやかしがどーして人間ごときにちょっかいを出すのか、といった1巻から続いている疑問にはまだ明確な回答は見えて来ないけど、目先で言うなら最強のあやかしどうしの全面対決、その狭間で揺れ動くダブルブリッドの優樹のもしかしたら薄幸なのかもしれない生涯といった部分への関心はますます高まっていて、新人でこれがデビュー作だった作家とは思えないくらい、1年で5冊という異例のハイペースすらももどかしい位に先の展開が楽しみ。優樹が中心にいるのは分かっても明確な敵の姿が分からなくなっている中でどんな展開へと持っていくのか、太一朗との愛憎入り混じった関係が日本をめぐるあやかしvsあやかしの全面戦争かあやかしvs人類の最終戦争か。わくわくしながら続きを待とう。


【2月5日】 マスコミに節度を求めるのは猫に鰹節を取るなと言うよりも困難を伴う作業だろーし、そもそもが野次馬瓦版の延長がマスコミであって、正義感とか「報道の自由」とかいったお為ごかしなんか最初から言わず、相手の迷惑も承知でやって来ているなら、取材される側もそーゆーもんだと割り切って、最初から敵として対応が出来るんだろーけれど、なまじ「報道の自由」とか持ち出して、それが相手に迷惑だなんて想像力を働かせることもなくやって来るから、現場での対応にも親切にしたいし応じたいんだけど配慮が足りなかったり後で裏切られて哀しい想いをする、ってな事態が起こるんだろー、なんてことを京都で怒った児童殺害事件に関連してマスコミが取った行動を記録した本「マスコミがやって来た!」(人権と報道関西の会編、現代人文社、1700円)を読みながら考える。

 亡くなった人の顔写真を指して使う「雁首」って言った内部的な隠語が当の遺族にどんな印象を持って受け止められるのか、といった今さらだけど今だからこそ問われなければならない取材する側の意識の問題もあるけれど、そーいったベーシックな議論は議論として、こと京都の事件に対するマスコミの行動が示している、横並び一線の中で抜け出さなければいけないという資本主義的な競争が背後に見え隠れする報道の傍若無人ぶりを踏まえて、今現在も別の場所で似たようなことが起こりかねない(実は起こってるんだけど)ことも考慮の上で、やっぱり何かしらの対応が必要なんじゃなかろーか、ってな考えが浮かんで来る。

 もっとも実際自分が同じ現場に叩き込まれたら、やっぱり同じことをやりそーで怖い。亡くなった子供のお棺にクリスマスプレゼントを入れるだろうシーンを「撮影させてくれ」と言ったレポーターみたく。もちろんそういった非道な事をやらざるを得ないのが今の報道のシステムだから、ってな言い訳は言い訳にしか過ぎず、どこかで止めなければ変わらず再び三度幾たびも同じことを繰り返すのが実態。一方で議論されている公権力によるマスコミへの監視に反対しつつも、一方で報道被害の発生を防げるよーな仕組みを作らなきゃいえkない必要性を云々する声が、この本をきっかけにしてマスコミの内部外部から起こって来ることを期して願おう。

 指令の電波が飛んで来たんで、物は試しと「モーニング娘。」が大フィーチャーされている「プレイステーション2」対応ソフトの「スペースヴィーナス」とやらを買ってみる。やってみる。泣く。それが「モーニング娘。」をいじくり倒せる嬉しさなんかから来る歓喜の涙では決してなく、また「DANCEするのだ」の映像で足を上げる場面でパッとフラッシュが光りやがる場面への悔し涙だけでもないことを、既にプレイした世界3億人の「モー娘。」ファンの人なら分かっているだろーからくどくどとは説明しない。しないけれども、健全な日本人に希少な非「モー娘。」ファン、非「スペースヴィーナス」ユーザーのために少しだけ言及しておくとしたら、見過ぎていた”夢”に対していささか及ばなかった部分があったという事に落涙の理由は集約されるのではなかろーか。

 まあ当然ながら「モー娘。」が出演しているとゆー、その事実を前にすればいかなる”夢”もなく全面降伏白旗パタパタでもって「スペースヴィーナス」に賛意を示すのが筋なんだろーけれど、寛容なる「モー娘。」ファンな方々の慈悲にすがって申し開きをするならば、単なる分岐があるとかマルチアングルとかいった「DVDビデオ」のタイトルなんかじゃない、エモーションを駆動するよーなエンジンを搭載して華麗なグラフィックを具現化するチップを搭載して迫力のサウンドでもってスピーカーを鳴動させる技術を搭載している「プレイステーション2」に対応したソフトである以上、繰り出される技も例えば「デビット・ボウイ」とか、あるいは「ピーター・ガブリエル」とか、はたまた「布袋寅泰」といった過去に例のある音楽を題材としたCD−ROMにも増してユーザーの”夢”をかなえてくれる仕掛けが飛びだすものだと期待しても決して不思議はないのではなかろーか。

 なるほど「モー娘。」の列の中に混じってステージの上から前列のメンバーの背中越しに観客席を見られるのは何か嬉しいし、冬眠カプセルから目覚めるかのごとく登場するメンバーの普段は見られないよーな一発ギャグを見られるのも珍しい。横一列に並んで唄うワイド画面のメンバーの中から飯田圭織さま(後藤真希が石川梨華でもいーけれど)だけを抜き出して眺めていられるのも嬉しいっちゃー嬉しい。が、背中が見られても近寄って下からのぞける訳でもないし、そもそも視点の高さは変えられず、横の移動だって不可能で横から見たい前に回り込みたいそーして圭織様の姿を眺めていたいってな”夢”はもろくも崩れ去る。1発芸の後に続くカメラマン的遊びも10分見れば十分。ワイド画面は5分で結構。そこから先に期待していた”夢”へと続く扉は閉ざされたままになっている。ってゆーかそもそも扉なんて存在しない。

 プロモーションビデオをタイミングよく切ってつなげてエフェクトをかけたりして遊ぶ唯一ゲームっぽい遊びも、聞き返して見てもオリジナルバージョンより良くなることは恐らく多分決してなくって判断不能。そもそも既に完成されているプロモをいじって遊ぶのって「モー娘。」ファン的に嬉しいことなんだろーか謎。マシンの不具合なのかそれともこれが標準なのかDVDとか言う割にはザラリとした感触の映像も今ひとつ。唯一フラッシュこそ光るものの「DANCEするのだ」の視点移動の技は素晴らしく、カオリンさまゴマキさまの顔だけをずっと見られて嬉しかったけど、これが他の楽曲でも試せてカメラの移動ももう少しだけ自在だったら(難しいことは承知、でもそれに挑んでこその新タイトル)嬉しさは歓喜となって涙を呼んだに違いない。

 とまあ散々書いたがこの「スペースヴィーナス」が「モー娘。」の出演しているソフトという1点においてあらゆるPS2タイトルにないアドバンテージを確立しているのは言うまでもなく(オイ)、並べた異論も大海の毛ミジンコ程度のささいな事でしかないんで(オイオイ)、日本国民はもとより世界に5億はいると見られる「モー娘。」のファンは既に購入済みなだから良いとして、残る50億人も即座にすぐさま「スペースヴィーナス」を購入して、見て遊んでみてその○○ゲーぶりに太平洋も水位を5メートルを増すほどの涙を流してのたうちまわって戴きたい。これが「DANCEするのだ」だけで1000円だったら間違いなく涙は歓喜だけになったんだがなあ。

 高瀬彼方さん家の掲示板とか、マイナーなんだけどメジャーにしたい作品を探しては推す「まいじゃー推進委員会!」のページとかに熱烈なファンが集っていたりする清水良英さんの「激突カンフーファイター」がナンセンスギャグの極北だとしたら、まったりギャグの極北は「電撃文庫」が誇るポストあかほりさとる、と言ったら文句がどちらからともなく出るかもしれないんでここはポスト火浦功、と言っておきたい阿智太郎さんの新刊「住めば都のコスモス荘SP」は、本編の肩の力の抜けっぷりもさることながら巻頭の矢上裕さんによるマンガもヒヤシンスの動物に対する情愛ぶりが見られてなかなか。バストもなかなか。

 後書きの阿智さん矢上さんの対談を読むと、阿智さん毎月10日に矢上さん絵のマンガ版「コスモス荘」が連載されている「電撃アニメーションマガジン」を立ち読みするために本屋さんに行くそーで、あれだけの執筆量から推定するに相当な収入が見込めるにも関わらず倹約家なんだなあ、と感心するのはちょっと筋が違うかも。その「アニマガ」、来月は20世紀末に発売なった元祖・火浦功さんの「大出世」も含めてギャグの良いのが揃ったんでまとめて紹介しよーかな。マンガも選ぶとしたらやっぱり「濃爆おたく先生」になるんだろーかそれとも「屈折リーベ」が良いんだろーか。迷うまよう。


【2月4日】 ふらり、と秋葉原を抜けて「損保会館」で開催中の「アワーズアワーズ2」って「ヤングキングアワーズ」オンリーイベントを見物、エクセルが受付やってたり売り子やってたり歩いていたり落とし穴に落ちたりしていてちょっと嬉しい。人気の順なのか出ている本は「ヘルシング」に「エクセル・サーガ」に「トライガン」が大半で「ジオブリーダーズ」はパッと見確認できなかったけど、銃器とか貸し出すコーナーがあったらかコスプレでは関係の人がいたのかも。入り口付近にあった「アワーズ」関連作家の単行本コーナーに平野耕太さんの成人向け単行本があって珍しさに驚く。お客よりも出展者の方が多いとさすがに気圧されてゆっくりと見て歩くことができず知り合いもいないんで長居せず風のよーに退散。エクセルの写真撮りたかったなあ。

 いや面白い。電撃ゲーム小説大賞だと銀賞で金賞ではなかった訳だけど改稿の結果出てきた作品は金賞の2作に負けず劣らず深淵にして重厚な物語に仕上がっていて、賞なんてものは作家にとってきっかけに過ぎず、後は作家がどう精進するか、でもって周囲がどうアドバイスするかってことにかかってるんだと、三枝零一さんって人の「ウィザーズ・ブレイン」(電撃文庫、610円)を読みながら思う。世界が天候までをも制して一気に繁栄への道を進もうとした矢先に起こった何かしらの妨害工作が、世界を一転して地獄の縁へと追いやってしまった未来。零下40度になった地上で人類のうち一部は世界に幾つかあるドーム都市に住んで文明的な生活を営み、残る人類は打ち捨てられた発電プラントや食料プラントの周囲にあつまりかろうじて命脈を保っていいる。

 10数年前の崩壊に前後して、人類は1つの力を手に入れていて、それは超高速に演算を行うコンピューターが作り出す情報の世界が現実と大差ないものとなったことと裏腹に、だったら現実の世界も情報の集合と見なせるんじゃないかという意見が出て、それを突き詰めた結果人間が世界のあらゆる事象を、特殊な脳内の演算でもって現実に出来るよーになったとゆーもの。結果人類の中に存在の情報を操り書き換えることすら可能な「魔法士」が誕生して、その「魔法士」が世界を滅亡へと追いやる原因となり、一方では世界を救う力にもなって今に至っている。

 物語は神戸のシティを護る仕事についていた魔法士と、神戸のシティに運ばれる途中だった培養槽に入った謎の少女を助けたシティの外に住んでいる魔法士の少年との戦いを主軸に展開されて、大勢の命を救うために1人が犠牲になることは正しいのか、せいぜいが10年命脈を伸ばしただけに過ぎない対策など無意味なのか、ってな人類が生き伸びる上で直面するさまざまな困難への1つの解答が示される。そこら辺りに徹底した葛藤と荘厳な理屈を付ければ物語の重さは増しただろーし、魔法を物理的に実体化させよーとした力業を突き詰めればSFとしての凄みも出ただろーけれど、そこは「電撃文庫」なだけあって、分かりやすいキャラクターたちが演じる恋愛と魔法バトルの話を中心に仕上げられている。

 世界を滅亡の縁に追いやろうとした存在とか、残ったシティごとこのエピソードとか、地球が回復する可能性とかいろいろと前後左右に展開できそーな設定で、作者にもいろいろと腹案があるみたいなんでここは是非とも続きを書いていただきたいもの。一方でキャラクター縛りの厳しい世界をちょっと離れて設定の妙で驚かせつつ読ませる話も読んでみたいところで、今後のさらなる精進の結果が気になる。でもまあとりあえずは第1作で大学院修で物理学を専攻している人ならではの”御託”によって生まれた魔法世界の面白さなんかに触れてもらうのが先。期して待とう。


【2月3日】 予告編が日本人だと撮れない感じに東京のとりわけ湾岸あたりを格好良く撮影していた映像で固められていたんできっと面白いに違いないと思って試写で「東京攻略」を見る、うーんちょっと印象とズレている部分もあったけれど東京の撮り方は日本映画がどちらかと言えば古くって汚い街並みに流れるのに対して青山でも新宿西口でも湾岸でも月島辺りでも、近代的な建物が立ち並ぶ中でスピーディーでコミカルで型にはまったカンフーバトルを繰り広げて見せてくれていて、向こうの映画っぽさを感じる。まあ見た目重視の弊害か有楽町の「東京国際フォーラム」で始まった追跡劇がそのまま新宿西口の都庁前へと流れる地理無視なシーンもあって知ってる日本人はちょと眉にツバだったけど、日本人でも東京を知らなければ条件は同じ、むしろいかに楽しく見せてくれるかって方が大切になるから、これはこれで良いんだろー。「ジオブリーダーズ」だって名古屋ならぬ綾金飛び回りまくってるみたいだし。

 「非情城市」の押し黙ってオドオドとした感じから一転、っゆーかこちらが本領なのかトニー・レオンが冒頭から剽軽な割に結構強い”探偵”の演技を見せてくれていて、これが予告編で感じたハードボイルドなイメージをひっくり返しちゃってくれたけど、慣れればこれがなかなかに良い味。ジャン・ポール・ベルモンドって言ったら言い過ぎかもしれないけれど、アダルト版「ウルフガイ」の犬神明くらいには軽薄で強靭な所を見せてくれる。あと行方不明になったフィアンセを探しに日本まで来た少女を演じてるケリー・チャンは美人だし、ケリー・チャンのフィアンセに貸した金を取り戻すと言って付いてきたイーキン・チェンも2枚目で、決める場所ではちゃんと決めてくれるから見ていて気持ちがちゃんと落ちる。ときどきズルッと落ちすぎるけど。

 トニー・レオンが周囲に侍らしている助手たちの中になぜか日本だと3の線が多い遠藤久美子通称エンクミ(そのまんま)がいたけどこれがなかなかにキュートで先入観なく役者を使うとこーなるものかと感心。日本のヤクザで登場した阿部寛は「トリック」とは違って凄みのある役を茶化した部分なしに演じていてこれまた良い味。物語や設定上の無茶無理(ティッシュ配りの秘密とか)があるのは承知の上で、正体不明な野郎どものかけひきに香港流の殺陣の楽しさ型にはまった展開の面白さに浸っていれば、ケリー・チャンのどこか常盤貴子似な美しさもあって見ている間は楽しめます。日本だと3月に公開予定。

 シリーズ最新刊「ブギーポップ・パラドックス ハートレス・レッド」(上遠野浩平、メディアワークス、530円)は前作「エンブリオ侵食・炎生」で顕著になった「ジョジョ化」進展の影響が残っているのか、少年たち少女たちによる超能力合戦めいた展開の中で騙し騙されっってなドラマがあって、ハラハラとした抑揚のある物語を楽しむには申し分のない仕上がりになっている。ミセス・ロビンソンとかゆー統和機構の手下が見つけて一緒に暮らすことになった超能力者っぽい少女、九連内朱巳の周囲で起こり始めた生徒の昏睡事件。その犯人を捜すうちに別の誰かも事件を追っているのを知る。その誰かとはクラスの中でも浮いた存在だった霧間凪とゆー少女で、さらにもう1人、凪と朱巳が事件を追うその後ろをついて”世界の敵”に迫ろうとする「ブギーポップ」が絡んで事件の真相へと迫っていく。

 ってな縦糸に対して横軸になっているのが家族ってゆーか誰かから信頼されることの嬉しさって感じなエピソード。朱巳は自分を気持ち悪がって逃げた両親に捨てられたところをミセス・ロビンソンに拾われ育てられた訳だけど、相手がワルモノと知りつつも長く暮らしていたせいか情が芽生えたのか反発しているよーで時々親子っぽい所をのぞかせるし、逆にミセス・ロビンソンの方も”娘”への情愛が仇となって自らを危機にさらす。朱巳と凪との友情めいたやりとりや朱巳の恋心なんかも含めて、中立公正ってゆーよりは善意からも悪意からも距離をおいて生きて来た人々が、いろいろなことがきっかけになって全身を覆った無関心の鎧をはぎ取り他人に関心を抱くプロセスが描かれていて、深くドロドロとはしていないけれど読んでフッと感じさせるものがあある。

 誰かを何に見返りもなく助ける人がいるんだってことで驚く朱巳の”目覚め”なんかを読んでそのタイムリーさに驚きつつ、ストレートに親切を語るそのあからさまぶりに赤面しつつ、それでも「ジョジョ」を含めた「少年ジャンプ」みたく真正面から努力・友情・勝利の方程式を見せるよーな真似はしていないんで、読んで布団の上でみもだえはしなくてすむ。どちらかと言えば虚無っぽい雰囲気の中で辛辣なやりとりが描かれているよーな感じを抱いていた上遠野さんだけど、こーしてだんだんと広がって来た「ブギーポップ」の世界を眺めると、真正面から友情を語ることへの衒いはあっても決してニヒリストなんかじゃなくむしろヒューマニストなのかもしれないと思えて来る。けどこれも1面であるいは次には一切の妥協を廃した残酷な世界を見せるかもしれないんで、まあその辺りも含めて書く物を観察していこー。

 東京ビッグサイトに「国際つり博2001」を見に行く。オタク系イベントばかりに出没している訳じゃないぞって所を別に見せたいからじゃなく、むしろ自分たちとは違っていわゆるサブカル系じゃないものに熱中している人たちの「オタクぶり」を見て果たして自分たちと自意識の部分客観的な面でどう違うのかってなことを研究しに行ったもの。針だとかルアーだとかロッドだとかリールだとか餌だとか、細かい品物がズラリと並べられてその前に大勢の人が群がっていて、釣りを知っている人から見れば別に珍しくない群がって当たり前の光景なのかもしれないけれど、釣りをやらない人間にとってはどーしてこの釣り竿に人が騒ぐのか、どーしてこのルアーに人が驚くのかってことは分からない。何とか名人なんて人がいたって有り難みも何もないんだけど、集まっている人にとっては神様級の人で講演には大勢の人垣が出来る。何がそんなに凄いんだろう。

 もっとも考えてみるとこれって、イベントで限定グッズに長蛇の列が出来る理由が分からないと言うのと裏腹な関係で、何とかって声優のイベントを見るために徹夜さえ辞さないアニメとかコミックとかゲームといったいったジャンルが好き好き大好きな典型としての「オタク」と、対象こそ違え対象に向かうベクトルに於いて大きな違いがあるとは思えない。むしろ例えば湖沼の生態系への配慮を言うと怒り出すバス釣り好きな人の方が、声優の悪口を言われて口ごもるいたいけな声優好きよりよほど過激な訳で、なのに世間的な良い趣味してますランキングで言うと、どうも釣り好きの方がアニメ好きゲーム好きよりはるかに言い趣味で、声優追っかけやってますと比べるならそれこそマリアナ海溝とエベレスト山頂くらいの差でもって語られる可能性が大だろー。

 決して若い綺麗な女の子たちが釣りに熱中している訳じゃなく、確率で言うなら40万人とか集まる「コミケ」の方がそれなりに綺麗な女の子の姿を見かける可能性の方が高い、若干衣装に奇天烈さがつきまとうこともあるけれど。なのに釣りが好きですと名乗る方がアニメやコミックやゲームが命ですと名乗ることより簡単でお洒落でカッコ良く見えてしまう状況を考えると、文化というものが勃興して伝統となり普遍化していくためには、相当な意識のパラダイムシフトと相当な時間を要するんだろーってことが分かる。流行は移ろいやすくても人の心は案外とガチガチなんだなー。「東京キャラクターショー」あたりが「国際つり博」と人の気持の中で同じよーなニュアンスで浮けとめられる日は果たして来るのか。別に来なくたってどちらも困りはしないけど、これが来た時に日本は自分たちのアイデンティティーを1つ、確立出来るよーな気がする。なってくれるかなー。


【2月2日】 なおも電撃ゲーム小説大賞金賞のもう1人、佐藤ケイさんの「天国に涙はいらない」(メディアワークス、510円)をペラペラ、主人公の名前が賀茂是雄で占いが出来る霊能力を持った高校生だって設定に「陰陽ノ京」(メディアワークス、610円)と対で流行りの陰陽師物が受賞したのかと思って読み進んで行ったけど、ドーマンセーマンを駆使した霊能バトルがある訳でもなく、どーやら陰陽師物として選んだ感じはなさそーで、むしろ純粋にユーモア小説として選んだんだろーってことが、帯を書いているのが「陰陽ノ京」が深沢美潮さん上遠野浩平さんなのに対して「天国に涙はいらない」が広井王子さん、阿智太郎さんだってことからも分かる、つまりは”お笑い”担当ってことか。

 自分の魔力に無自覚で知らない間に何万人、何十万人も不幸にしてしまったプニ系女子高生を何とか更正させよーと賀茂って少年が頑張る話って設定のブッ飛び度はなるほど凄い。「私ダメな悪魔なんですぅ」とか言って1人の魂も奪えない新米悪魔の話が結構ある中でこれは逆転の発想かもしれない。ただあまりに膨大な”悪行”を「なあんだ」と笑い飛ばすのはちょっと胸が痛むし、かといってシリアスに考えれば成り立たない難しさがあって、その間でユーモアとシリアス、コメディとペーソスのバランスを取るのにちょっと苦労しているよーな気がする。脇で絡むロリコンで無茶苦茶な性格の天使にしても、口が悪くこれまたちょっぴり妙な性格をした賀茂と同級の女子高生にしても、味はあってもそれが染み渡る前に話がストンと終わってしまってもったいない。

 表紙裏のさがのあおいさん描く体育座りした無自覚なS級悪魔の「桂たま」ちゃんの可愛さで、まあ全てまあるくオッケーなビジュアル系読者(見た目重視の読書家って意味)だったりするけれど、徹底して突き抜けた設定とはんなりとした日常のギャップにクスリってな笑いやジンとくる哀しさを引き起こそうと頑張ってる「天国に涙はいらない」の路線を引き継ぐ小説だけじゃなくって、爆裂した徹底を縦横無尽に生かしまくって世界をシニカルでシュールな姿に変えるよーな話も読んでみたい。著者はどっかの大学にいる修士サマ、珍しく載ってる著者近影はなかなかです、特にデコフェチには。

 高邁な「朝日新聞」扇情の「読売新聞」とベクトルは違っても極端へと流れる新聞業界にあって、最も肝心な良識は今や「毎日新聞」にしか残っていないらしー、もっとも世界が求めているのが高邁だったり扇情だったりする関係で、良識はどんどんと後退してお陰で「毎日」もキツい状態に陥ってる訳だけど。2月2日の朝刊に掲載されていた「記者の目」は毎日のバランス感覚を改めて見せてくれた記事で、「純粋に行為をたたえよう」とゆー見出しで例の山手線新大久保駅で発生した韓国人留学生の事故死に関連した日本のメディアによる大報道、政治家による追悼合戦への違和感を、当の韓国ではどう見ているのかってな話をソウル支局の大澤文護記者が書いている。

 「歴史上の恨みを理由に、日本人の危惧の現場に立ち会った韓国人が救助にあたらないと日本の方々が思っていたのなら、韓国人の道徳心もずいぶん低くみられたものだと、我々は憤慨しなくてはなりませんね」とゆー「月刊朝鮮」編集長のコメントは、もちろん純粋に亡くなった韓国人男性の勇気を死を悼んだ一般の人たちに向かって発せられたものじゃなくって、記事中の言葉で言うなら「不幸な歴史」を背景に意外性を浮かび上がらせるよーな雰囲気で大報道を繰り返した日本のメディアと、どこか政治的なニュアンスが見えた政治家たちの立ち居振る舞いへの疑念から出たものだろー。つまりはしっかり見透かされてるって訳、マスコミ報道の裏にある心理も政治家の行為の裏にある下心も。

 高邁なジャーナリズムから出た筑紫哲也さんがテレビで青筋立てて「日本人の報道が少ないと言う奴等は差別主義者だ」と怒鳴ったけど、当の韓国で「『首相は線路に飛び降りたもう一人の日本人の葬儀に出席しなかった。事件を日韓関係進展に利用しようとの政治的意図があまりにも露骨だ』という韓国の日韓関係研究者の批判」が起こってる訳で、果たしてこれでも筑紫さんは「差別主義者」だと言えるのか。言ったらそれはそれで信念だけど、決して染まりたくない信念だ。

 2月1日になって森総理も亡くなった日本人カメラマンの家に弔問に訪れたよーだけど、神奈川県で別にあった小学校の授業視察のどうにもついでのよーな感じがあったし、報道の方だって小学校への訪問は大々的につたえても弔問に関しては「首相動静」の中で触れた程度が圧倒的、むしろ全国のあちらこちらで次々を起こる線路に飛び込んで人を助けた行為を讃えまくる報道の羅列で、線路に飛び込むことの危険性を訴えてもいなければ、線路に人が落ちないよーにする工夫への提言もない。そーこーしているうちに世の中はニアミス事故の大洪水で横一線。旬を伝えるのがニュースだから仕方がないこととは言え、後ろを振り向かないでひたすらに突き進み何度も同じことを繰り返すんだろー。困ったものです。


【2月1日】 田中康夫さんを知事へと押し上げたあの革命的とも言える長野県の熱気を感じとりつつ自分にゃあ縁遠い話だよなあ、とか思っていたら「週刊文春」の椎名誠さんの連載を読んで地元の千葉県でも間もなく知事選挙なんかがあって、椎名さんが立候補しませんかなんて打診を受けていたことが判明、もしも受けていたら長野県以上に身近でかつ面白そーな選挙になったかもしれないけれど、椎名さんは器じゃなと立候補を断ったみたいでちょっと残念、まあいきなり「毎週金曜日は焚き火の日だ」なんて言われて庭とかでもくもくを煙が上がり始めるのはちょっと煙たいから断念してくれてよかったんだけど。ビールの日とかなら大歓迎。

 もっとも千葉県が長野県に優るとも劣らないくらいの開発工事みで山河が荒らしまくられた県だってことは有名で、かつ管理教育の面でも結構厳しいらしーから自然とか教育ってな争点が立てば立候補者によっては一悶着ありそーな予感。ただし長野と違って経済は割と東京におんぶでだっこだったりして、県民にも企業にもおそらくは長野ほどの切迫感がなく、地元の経済界の偉いさんが知事側から見れば寝返って田中さんについて風向きが激変したよーな、ダイナミズムはちょっと期待できそーもない。文化にしたってほとんと東京と一体化していて、自立よりは寄生的な気分の多い千葉県の人たちにとって知事選は、例えば文化人あるいは財界人ひいては真っ当な(それが天然記念物的存在だとは承知しつつ)政治家が立候補した位ではインパクトが少ないんで、もしも勝ちに来るんだったら本当に凄い人を連れてきて目も耳も楽しませて頂いたいものです。田中さんに匹敵するそんな前向きな人材の少なさも日本の大きな課題なんだろーけれど。

 「AMD」ってところが年に1回やってる素晴らしいマルチメディアタイトルの制作者を表彰するイベントをのぞく。去年まではマルチメディア・タイトル制作者連盟って名前だったのがデジタル・メディア協会って変わって多分初の表彰式。6回目を迎えるまでには中身にも結構な変遷があって、CD−ROMタイトルが表彰の中心だったのがだんだんとウェブが入りゲームが入り始めたんで除外したけどネットワークゲームとか、インタラクティブムービーとかが可能なマシンが登場したお陰で復帰して、あと去年からは携帯電話の「iモード」系なコンテンツもじゃかじゃか入り始めたお陰でもう何が何だか分からない。

 つまりはデジタル絡みなら何でもオッケーってことになって、だったらライバル経済産業省所管のマルチメディア・コンテンツ振興協会がやってる「マルチメディアグランプリ」と変わらないじゃん、とか思ったけどそこはCD−ROMでマルチメディアの面白さ、凄さみたいなのを伝えようと頑張ってた人たちがその頑張りに反してなかなか認知されないクリエーターたちにスポットを当てようとして作った表彰制度。かつて「ミック・ジャガー」に賞を贈って当然ながら「ご都合により」式には欠席となったけど場内を湧かせたイベントだけに、今回も意外性プラス話題性、でもって実質も伴った人たちに賞を贈ってて面白かった。

 挙げるなら「ナップスター」を作った人とか「プレイステーション2」の岡本伸一さんとか「ASIMO」の人。ロボット系は「AIBO」だったかにも以前に賞が渡った記憶があるから一種のトレンドなんだろうけれど、確かに技術的には凄いものがあってもどこか実験製品的な赴きが姿形や値段的な部分でつきまとっていた「P−3」から大発展、ご近所をワシワシとロボットが歩いてそーな時代がすぐにでも来そうだと思わせてくれた「ASIMO」の登場は、「AIBO」の登場に匹敵する衝撃があったから、トレンドを越えてやっぱり表彰されてしかるべき物だったと言えそー。でも表彰式に「ACIMO」が来てくれなくて残念。今年の「日本SF大会」には是非ぜひ、「星雲賞」を取ってもらって会場をわしわしと歩いてもらおう。

 マルチメディアコンテンツの発展に寄与した人に授与する「功労賞」は糸井重里さんで、忙しそーな人だから表彰式はいないかも、とか思ったらちゃんと登壇して去年の「功労賞」のデジハリ杉山さんから賞を授与されて、式後のパーティーにも登壇してあれやこれやと言われているけど言われることでちょっとづつ進んでいくのです風挨拶をしていた、たぶん「インパク」の事でしょー。多忙の理由の1つだった「インパク」編集長の仕事が1月で終わって、ネットの上に結構な数のファンがいて「インパク」への呼び込み口になっていた糸井さんが編集長じゃなくなったことで、これからどれだけネットな人の気持ちをくすぐる企画が出てくるのかが注目だけど、内にか外にかは知らないけれどしばらくは「インパクご意見番」的なこともやっていくみたいで、直接的な立場から離れた今後、どんな変則攻撃でもって「インパク」をイジって来るのかとりあえず注目、って人ごとじゃなさそーだけど。

 電撃ゲーム小説大賞金賞の渡瀬草一郎さん「陰陽ノ京」(メディアワークス、610円)は最近日販が積極的にフェアをやってる「陰陽師物」にも入ってしかるべき内容だけど、ブームの中核を担っている安倍晴明をサブキャラにして晴明の師匠、賀茂忠行の息子だけれど跡継ぎとして登場した保憲じゃなくって陰陽師にはならなかった保胤を主役にしている点が異色。とは言ってもしっかり力は持っていて、それがいつ爆発するかってな興味を抱かせながら、或いは自分にもそんな秘められた力があるのかも、若しくは自分には力はないけどその分お前ガンバレ的に読者を引っ張って行く。

 言葉の並べ方の雰囲気は夢枕獏さんに近くって、家柄は良く見目も麗しいのに言葉は乱暴、腕も立つ美少女の時継ちゃんは岡野玲子さん版「陰陽師」の真葛ともちょっと重なるところがある。もっとも割と現代風に馴れ馴れしくなっている文章は夢枕さんとは決定的に違うところだし、内容的にもどこか説話的な雰囲気のある夢枕さんたちの「晴明」物とは違って、自分の中に棲む何かと戦いつつ、正義って何だろうと悩みまくる少年・保胤の姿は、加門七海さんの「晴明。」「鬼哭。−続・晴明。−」に出てくる自分の中の悪に悩む少年&青年の姿を描く話の方に雰囲気が近いかも。

 まあ懊悩の部分はそれほど濃くはなくって、むしろ時継とか隻腕ながら鞭の達人の美女・無明とか剣術の達人・義仲とかいった武闘派に保胤、晴明、晴明の子吉平といった陰陽師たちがくんずほぐれつバトルする合間に漂う少年たち少女たちの頬も赤らむ恋の物語の方を楽しみながら読む方が楽しそー。文章は達者で会話のテンポ(天狗の黒白爺さんの対になった会話が巧い!)、心根がにじみ出て来る場景描写のなかなか。これに圧倒的な物語力が加われば相当に相当な書き手になるでしょー。表紙は田島昭宇さんで時継ちゃんのはだけた胸元にグッと来ます。下手にむしゃぶり付こーものなら殴られ蹴られるのがオチなんだけど、それもまた良しってことで。


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