縮刷版2001年11月上旬号


【11月10日】 低血圧に風邪薬も加わって頭ボンヤリな上に雨がしとぴっちゃん(そろそろ通じなくなって来た擬音)でダウな身体を奮起させるべく身体についてのシンポジウム「ルネッサンスジェネレーション’01」に行く。金沢工業大学が主催する形でカリフォルニア工科大学の下條信輔さんとアーティストのタナカノリユキさんがコーディネーションをして、毎年いろいろな分野の人たちを読んで講演とか対談をしてもらうってイベント。選ぶテーマの秀逸さとゲストに来る人のネームバリュー、そして肝心な中身の充実度によってリピーターが結構な数来ているらしく毎回毎回盛況なのが特徴で、不況とかITバブルの崩壊とかいった荒波を乗り越えて晴れて5回目を迎えられたってあたりにイベントとしての筋の良さを感じる。土砂降りな雨の中をとりあえず申し込んだけど行くの止めようどーせタダだし、って人がほとんどおらずほぼ満員だったって辺りからもそのことが伺える。

 「変身願望」ってテーマで行われた今回の人選もなかなかに秀逸で、1時間目は生命学者でSF作家と紹介された瀬名秀明さんがやっぱりなミトコンドリアに関する話も含めて細胞レベル遺伝子レベルでの「変身」についてあれこれ解説。ミトコンドリアは本来人間が持っていたものじゃなく大昔によそから入って来て寄生したんじゃないかってな話とか、胚性幹細胞(ES細胞)の研究が招く倫理的な問題とかいった話を通じて、化粧とか整形とかいったレベルじゃない、人間の体の中で現実におこっている変化の仕組みについて、例のミトコンドリアは緑色じゃなくって赤い点々だってことを表す例のパワーポイント画像とかを交えて話してくれた。喋りは鮮やかで快活で、説明は専門的過ぎずかといって甘くもなく刺激的。講義馴れしてるってゆーか講演馴れしてる感じは「SFセミナー」で見たとき以上で、かつての小松左京さんみたく、こーゆー人がスポークスマンになってSFの楽しさをSF以外の場で話してくれれば世の中にSFも広まるんだなー、とか考えたけど本人的にはどーなんだろー、いや勉強になりました。

 2時間目は天下に轟くモードと哲学の第一人者、鷲田清一さんが登場して人間の案外と自分の身体に対する自信のなさなんかについて話してくれて、服を着る理由それも着ていないよーな軽くて薄い服なんかじゃない、手足がこすれて包まれている感じがちゃんとある服を今でも着続けている理由なんかについて解説してくれた。見るからにモードな人で着ているものは永江朗さんの本によると多分「Y’s」のそれも高い奴。眼鏡はアンダーフレームとゆー伊達ぶりは、太って眼鏡で禿頭とゆー成人男子の3重苦を逆に3重楽へと変えていて、似た境遇にある者として非常なまでに参考になる。問題は金なんだけど、でも「ナディア」と「アキラ」と「トリトン」を買う金でスーツの1着も買えたんだよなー。人間あきらめが肝心か。

 対論の中で話が出てきた、裸が「恥ずかしい」という概念自体が生来のものかそれとも文化によるものなのかが当方それほど理解できていないんで、身体への脅迫的な不安が服を着る着ないに繋がっているってことについての議論は鷲田さんの著書を読んでこれから勉強するとして、ふと合わせられた相手の視線がふっと逸れた時に感じる不安、会う人会う人が全員自分の顔を見た時に覚える不安から紐解く目線の凄み、見るという行為の強さについての話は、単なる自意識過剰を超えて人に共通してそーな現象で、あれこれ考えてみたくなった。そのためにはまず人を見ることから始めよう、さあほら、向かいに座っているあの頬に山手線が走っている坊主頭の巨漢をジッと見て御覧……ボカン……気絶……人をジッと見るのは止めましょう。

 3時間目が意外といっては失礼だけど今回最大の収穫。東京大学大学院の情報学環講師を務めている前田太郎さんが登場した対論で、実はそれほど前田さん本人のことも、やってる研究のことも知らなかったけど、登場して喋り始めた姿は下條さんの紹介にもあったよーに筋金入りの「ロボットおたく」。何しろ作りたかったロボットが「鉄腕アトム」とか「鉄人28号」とかいった月並みなものじゃなく、人間の体の動きをそのままトレースして動き敵と戦う「ジャンボーグA」ってんだからちょっと珍しい。

 珍しいけれど個人的には納得の意見で、テレビ番組で見たってよりは学年誌だかに連載されていた漫画で読んだ、手足とかにケーブルが付けられた主人公が手足をえいやっと動かすだけて鮮やかにロボットを操縦してみせる、あの実に便利そーな操縦方法は当時から画期的だって思っていただけに、それに着目した人がいて、おまけにアカデミズムの場で堂々とやってしまっているって話に心からの共感を覚えた。歳もタメなんで見て来た番組とか漫画も同じだったんだなー、きっと。けど向こうは東大でこっちは5流記者。運命とは残酷なものよ。

 やっていることはどーやら一種の「パワードスーツ」作りみたいで、紹介するスライドもいきなり「宇宙の戦士」に登場した例の「スタジオぬえ」版「パワードスーツ」。小説が書かれた前後に米軍とかでも実際に実験されて失敗して(転ぶと大変なことになったらしい)、それでも着々と研究が進んで行った様を紹介した上で、現在の前田さんが取り組んでいる研究についての話へとつながっていく。人間の全身をくるむスーツのそこかしこにセンサーを付けて、人間の動きを読み込み記憶し分析した上で推論までさせるよーにするって実験で、前田さんに言わせるとこれも立派な二足歩行ロボットってことらしー。筋肉も骨格も知能も持たない二足歩行ロボット、ってことですね。

 それのどこがロボットなんだって最初は思ったけれど、軽くて強力なアクチュエーターの開発とか骨格の設計とか動きの制御ってのは金もかかるし時間も必要、けど二足歩行ロボットに肝心な人間の動きの研究は、とても大切なことでなおかつ人間がいれば出来ること。さまざまな条件下で人間が見せる動きを最初は学習し、次に予測させるよーにしてズレがあったらまた学習し予測へとフィードバックさせ、最終的には人間以上に人間らしい動きをはじき出せるよーにすれば、工学的に完璧な二足歩行ロボットが出来た時、それを動かすソフト的な部分に役立つって意味で、立派に二足歩行ロボットの研究なんだなってことを想像する、合ってるかどーかは知らないけれど。

 休憩をはさんでタナカノリユキさん演出のパフォーマンスを観劇、影絵みたくスクリーンの向こうで人が動くパフォーマンスで、虫みたいだったりロボットみたいな構築的な衣装をつけたダンサーが丸まったり広がったりして「変身」「変態」を表現する内容で、大きくなるのは奥のプロジェクターに近づいているからかなー、なんてことを想像。一瞬「ワハハ本舗」の「平成モンド兄弟」の「パンチングボール」の芸なんかを思い出す。影絵なんで踊っている人の顔が見えなかったのが残念だったけど、後のパーティーで登場してくれたダンサーのとりわけ女性の関根えりかさんがなかなかの美人で、今度は顔を見せる場面で踊っている姿が見たいと切望する。どこかの劇団にいる人なんだろーか。

 パーティーでは瀬名さんの近く80センチ当たりにまで近づいたけど囲んでいる若い人たちを超えて近づく甲斐性もなく、ひたすらに背後霊に務める。「ドラえもんの作者が無くなってもドラえもんは続いているんです、だから教祖とかのクローンがいっぱい生まれて来てもそれを信じる人とか出てくるんでしょ」ってな話が瀬名さんらしくって面白い。けど瀬名さん自身はクローンには反対らしく、それは実験がどうのといったレベルじゃなくって自分と同じ遺伝子のものが自分とは関係なしに存在しちているとゆーことへの不安とゆー、根本的な部分からの畏怖から来るものらしー。

 遺伝子が同じものが100人いよーが1000人いよーが俺は俺、ってゆー自意識過剰な割には唯我独尊な当方のいい加減なスタンスと違っていて興味が湧いた。まあそれは二卵性双生児で遺伝子はちょい違っているかもしれないけれど、同じ境遇で育った「もうひとりの自分」に近い存在を見つづけて来た経験に根ざした考え方なのかもしれないんで、より遺伝子レベルで同一な存在を持つ一卵性双生児の人たちの考え方なんかも踏まえつつ、瀬名さんにも機会があれば詳しく話を聞いてみたいと思ったけれど、その折角な機会を背後霊やって潰してるんだから何をか況や。人と話せる勇気が欲しい(それが自意識過剰って奴なんだが)。


【11月9日】 「アニメージュ」がオタク雑誌になっちゃった、ってもともとがアニメ雑誌なんだからオタク雑誌なんだろーけれど、ここんとこ世界絶賛な幼女重労働アニメを引っ提げた東小金井の見かけ純朴路線に引っ張られて、子供だって読んで明朗健全な雰囲気もあったんで、もう1年は昔になるだったっけ、何を血迷ったかのパンチラアニメ大特集に続く感じで12月号に晴れがましくも掲載なった「第1回眼鏡っ娘会議」の大特集を、我々は(我は、か?)諸手を挙げてジーク眼鏡っ娘、ハイル眼鏡っ娘、ブラボー眼鏡っ娘、眼鏡っ娘万歳、眼鏡っ娘マンセー、メガネッコ・ブレス・ユーとか言いつつ歓待しよー。「私は眼鏡っ娘が好きだ……」は面倒臭いから誰かやって。

 その平野耕太さんも登場の特集、「僕の精神世界で一番上にある人間が『ラピュタ』のムスカなんです」っていきなり眼鏡っ男の名前なんか出してしまって萌え心もちょい萎むけど、ここでムスカを出せるあたりが眼鏡にかける熱情と、その眼鏡がはらむ怜悧の象徴としてのパワーを平野さんが血肉として理解しているって現れだとも言えそーで、なるほど自らが描く眼鏡っ娘(娘か?)キャラなインテグラにそのエッセンスが結実している感じがしないでもない。それと今「ヤングキングアワーズ」で佳境になってる「ヘルシング」の銃女(女?)。その割にはセラス嬢ちゃんとかあんまり眼鏡ってイメージがないのはやっぱり夜目が効く吸血鬼だからだろーか、けどアーカードはサングラスとかかけてるし、でもサングラスじゃ眼鏡っ娘とは言えないし……いかん語り始めちまったぜ、自重自嘲。

 特集には当然の如く「屈折リーベ」の西川魯介さんにニナモリの「伊達よ」に世界が哭いた「フリクリ」の鶴巻和哉監督そして、「第40回日本SF大会 SF2001」で繰り広げられた「ガイナックス新世紀アニメ宣言」の席上だったかで、親しくなった女性をほとんど必ずや行き着けの眼鏡店へと連れていっては眼鏡をプレゼントする、すなわち眼鏡っ娘へと変えてしまうフェチならではの徹底ぶりを発揮することを明らかにされて集まったやっぱりフェチな面々の賞賛を浴びた、我らがあかほりさとる大先生も大登場。そのマニアぶりをいかんなく発揮してくれている。

 なにしろ対談のほとんど初っぱなから「AV女優で眼鏡かけた人がいるんだけど」とゆー話を振る飛ばしっぷり。多少なりともタガが緩んだとはいえそこはやっぱり健康増進なアニメ誌のこと、「……それはNGです」とダメ出しを食らって「なぜ俺は眼鏡を性的に結びつけてしまうんだ?」と叫び、本好きにして巨乳にして眼鏡つ娘(歳はそれなりだけど)な読子・リードマンを創造して、これまた世界から喝采を浴びている「R.O.D」な倉田英之さんから、「やっぱりフェチだから」と断じられている辺りが実にあかほりさんしてる、流石は自他ともに認める”外道”だ。

 今後の眼鏡っ娘的野望ってゆーか単なる仕事の豊富だと倉田さんの飛びっぷりがなかなか。「最終的にやりたいのは、月面に藤原はづき(「おジャ魔女ドレミ」のはづきちゃん)の顔を彫って宇宙ステーションで眼鏡をつけて未来永劫見守られるという眼鏡ドリームだな……。」ってあなたはレンズ・ラルクですか魔王子の。いやまーやってもらえるんなら是非ともお願いしたいところなんで、倉田さんには黒田洋介さんともども張り切って稼いで頂きたい。裏側には「まほろまてぃっく」と「アベノ橋魔法商店街」で稼ぐだろーガイナックスに眼鏡バージョンのニナモリを是非、ムネムネでもオッケー、頑張って見に行きますんで。

 それにしても「木谷語録」とは遂にとゆーかいよいよとゆーか「オタク業界の孫正義」的露出度かもしれな木谷高明・ブロッコリー社長。扱っているアニメーションの紹介すべてに社長自らのコメントを付けるなんて企画した「アニメージュ」編集部もエライけど受けた木谷社長もすっげーエライ。クリエーターの人たちのオタク心をくすぐるコメントとは違ってどこかビジネスライクにならざるを得ない立場上、あるいは反発を買う可能性だってあったしもしかしたらこれからだってあるかもしれないけれど、そこは店頭公開企業だけあって説明責任を果たしてすべてをディスクローズする方針を貫こうとしているのは立派とゆーより他にない。

 まあオタクだから、ってゆーかオタクだからこそ好きな作品を供給してくれる会社が胸襟を開いて話をして来れば居住まいをただして聞くってのが筋。その意味で対話が開けるいいきっかけになるのかも。株価もここんところ結構いいみたいだし、この調子でビジネス的にもオッケーで、クリエイティブ的にもファンに感性にあざといほどハマる作品を作っていって頂ければ、サンリオの「ハローキティ」に届くのは遥か先でもそのちょい前までは「でじこ」なり「ちっちゃな雪使いシュガー」なりをたどり着かせられるかもしれない。ちなみにワタクシ「ちっちゃな雪使いシュガー」をまだ見たことが御座いません、低血圧気味で夜、眠いんだよねー、午前零時の「ナジカ電撃作戦」見るのが精一杯。

 って訳でパンツだ、じゃなかった「ナジカ電撃作戦」の折り込みポスターだ、やっぱり今月号はオタク雑誌だなあ「アニメージュ」。戻って「でじこ」絡みだと12月16日の日曜日とかに冬の真冬な癖して寒い海へと漕ぎ出すとゆー何とも「でじこ」的なイベント「デ・ジ・キャラット クルージングディナーショー」が実施されるとかで心揺れ揺れ。サンセットクルーズは午後の4時半から2時間でディナークルーズは午後7時10分から2時間半とゆー決して長くはない時間を昼2万5000円、夜3万円も出して参加して果たして妥当か否かって躊躇してしまうけど、真田アサミさん氷上恭子さんにいいなお姉ちゃんorミント・ブラマンシュな沢城みゆきさんとひとつ船の上でどんぶらこ出来る訳だしなあ、うーん葛藤懊悩。誰か、行く?


【11月8日】 「最終兵器彼女」と「永久帰還装置」くらい違う。どう違う? あんまり大差ないよーな気がして来たけれど、それはともかく神林長平さん久々の大長編「永久帰還装置」(朝日ソノラマ、1800円)は、前にも何かに出てきたよーな記憶がある「永久追跡刑事」なる存在と、次元時空を超えて逃げる犯罪者との戦いを基軸に、その戦いに巻き込まれた人たちの戸惑う姿を描いたストーリーの中で、確固とした自己を保っているよーで、その実高次元から見ればいかよーにもなる不安定な存在でしかない人間の曖昧さを描く、神林的なテーマが絡む話になっていて、相変わらず身の置き所に困らせてくれる。

 とは言え、私って何? 俺ってどうよ? 的な相変わらずの理屈っぽい主題ばかりが前面に出て、読む人の頭をギリギリと絞るよーな感じはあんまりなくって、アクションありラブロマンスありのエンターテインメントとして楽しめるのが今回の作品の特徴。なるほど高次の存在に操られて戸惑いはするんだけど、そのことすらも自分の身に起きたことと理解した上で、なすべきことをしよーとする人間たちの意志の力が全編を通じて描かれていて、人間のダメさ加減に辟易させられることなく、読んで結構勇気づけられる。バカが出てきてバカなふるまいをしている姿に自分のバカさを感じてウンザリするストレスがなくって気持ち良い。

 たぶんそれは、右へ習え的な軍隊とか上意下達的にしか動かない官僚やら企業といった組織とか空気に流されやすい民衆とかいった人たちじゃなく、強靭過ぎる意志を保って状況とか空気とかに流されることなく、最善の目的に向かって手段を選ばず時には上司にすら疑いを抱いて事にあたる、心と体の訓練が出来ている情報機関の面々を主人公たちに選んだことが奏功しているんだろー。もちろんいきなりの事態に迷いはするんだけれど、いったん理解しさえすれば納得してしまう合理的な判断ぶりは、見ていてなかなかに心地良い。

 まあ世の中、あんまり合理的過ぎても堅苦しいし、アホな命令でも従って動く人たちがいてこそ回る社会ってのもある訳で、諸手を挙げて歓迎ばかりもしていられないんだろーけれど、無思考の上意下達ぶりが巻き起こす混乱を、身近な場所でこのところ連日のよーに見せられていると、人間やっぱり意志だけはしっかりと持って、物事にあたって頂きたいものって思いも強くなる。とりわけ世の中に多少なりとも影響力を行使しているメディアの世界で、公共の利益に資するってゆー大前提をスッ飛ばして、一個人の思い込みでもって伝える情報を左右し、それに途中の誰も異論を挟まないって状況は、巻き起こす結果を考えるとてつもなく恐ろしい。

 これは、あくまでも例えばだけど、「人民日報」が中国での国会にあたる全人代の3日目あたりに開かれた、地方で行われた農作業効率化がもたらした作物の生産性向上に関する報告を、”大成果”とかゆー見出しで1面トップで報じて果たして妥当かって命題、あるいは「朝日新聞」が夏の甲子園大会3日目第3試合の岩手代表対島根代表の誰もあんまり注目していない対戦で、投手戦でもなければ打撃戦でもなく5対3くらいで島根代表が買った結果をこれまた”名勝負”とかゆー見出で1面トップで報じるかってゆー命題が、命題なんかじゃなく事実として起こってしまっていることを、どう考えるかってゆー問題と絡んでくる。

 あるいは、ラジオ局とかが主催してたり後援してたりして連日のよーに開かれている事業で、これまた連日のよーに行われている懇親パーティーの模様を、公共の電波でかならず報じてついでにパーティーとか事業そのものの場で挨拶したお偉方のコメントを、事業の中身そのものよりも大きく扱わなければならないってゆー洒落にもならない事態が、形こそ違え現実に起こってしまっていることをどう捉えるかって問題とも。そんな摩訶不思議なことが本当に現実に起こっているの? って問いには目立たないけどどこかで起こっているらしーとだけ答えておこー。

 なるほど一個人の思いこみじゃなく、世間とゆー空気の同調圧力に流されて論調が決まっていってしまう大多数のメディアの状況も恐ろしいけれど、空気ってゆー容易に掴み難く逆らいにくい対象ではなしに、課題とすべきはっきりとしたポイントが見えているにも関わらず、甘んじてそれを受け入れてしまって省みない状況さってのはさらに恐ろしくまた虚しい。世界は神林長平さんが描く以上に不条理さに満ち、また病んでいるのです。「永久帰還装置」で意志の力でもって火星の危機をひっくり返したオーキー・タスクフォースの面々の降臨を、マジメに望む今日この頃。


【11月7日】 キャラクター観察家としてはやっぱりのぞくのが義務ってことで、「東京ドーム」そばの「プリズムホール」で開幕した「ラインセスフェア2001」ってのをのぞく。最近何かと話題のキャラクタービジネスに関連するイベントで、あちらこちらのキャラクターライセンス会社が集まっては手持ちのキャラクターを展示して、ライセンスを受けていろんな商品を作りたい企業に見てもらうって内容の完全なトレードショーで、さすがは経済とビジネスの日本経済新聞社が主催しているイベントって印象を持つ。

 確か当初はニッポン放送主催の「東京キャラクターショー」も、キャラクターライセンスのトレードショー的な位置づけを睨んで立ち上がったよーに記憶しているけれど、今ではすっかりアニメやゲームの新作キャラクターグッズを先行だったり限定で買えるイベントになっていて、ビジネスの方は餅屋っぽく日経に持って行かれたって感じもしないでもない。けどまあ、「キャラショー」はそれで根強いファンに支えられて年々拡大の一途を辿っているから良いのかな。トレードショーな割には物販もあってどっちつかずなイメージの「東京国際ブックフェア」みたくなってしまうよりは、コンシューマー向けとサプライヤー向けって感じで分けてあった方が出す方も見る方も分かりやすいってことで。

 バンダイともどもキャラクターと言えばな角川書店にブロッコリー、アニメだったら東映アニメーションにサンライズって当たりが見えなかったのは、「キャラショー」とかへの配慮かあるいは未だ認知のらち外にあるとの判断か。それでも集まってた会社には、玩具だとタカラがいたしゲームだとセガにナムコに電通扱いで任天堂の「星のカービィ」なんかも登場。ほかにもソニー系のグローバルライツに「たれぱんだ」関連でサンエックス、グリーンキャメル、イングラムが揃い踏み(サンエックスの新キャラ「さんしょううおのようないきもの」はいいぞ)。ぴえろプロジェクトに東北新社に東宝にタイムワーナーと有名所も出展してて、こぢんまりとしていた割には1時間とか2時間とか、見て回って話を聞いて過ごすだけの中身があった。でかくなり過ぎて回りきれなくなるよりは、小さくても濃いイベントで、使えるキャラクターが幾つかちゃんと見つかる方が見る方にとっても便利なんで、個人的には来年もこれくらいかやや広がるくらいの規模でやって戴けたら有り難い、って大きなお世話か。

 見て目立ってたキャラでは先だってタカラが日本でのライセンス展開を発表した韓国生まれの「猟奇ウサギ」こと「マシマロ」がそれなりな注目を集めていた模様。見かけはウサギのキャラクターなんだけど、眠そうな顔もさることながら裏に回るとなぜかそこには犬の顔。性格の悪さも一流で、ネットのアニメなんか見てると下品ないたずらをしまくって、良識ある大人たちの眉をひそませ若い人たちの気持ちをスッとさせている。持っている雰囲気で言うなら、犬のくせして哲学的なことをやっては読む人を感心させてた「ピーナッツ」辺りをちょいひねった感じ。作者の人も「スヌーピー」とか好きらしーんで、何かしらの影響はあるのかもしれない。

 グッズはどれもなかなかの出来で、キーホルダーっぽいグッズは色々な種類が別々のブリスターパックに入っていたりして、集めて飾ると楽しそー。裏側がちゃんと犬になった平べったいぬいぐるみは、リバーシブルのリュックにして気分によって取っ手の向きを変えて使えるよーにすれば面白いかも。タカラ的にはネットで話題になってそれからグッズもバカ売れしているキャラって触れ込みで、日本での爆発的なブーム化にも期待しているよーだけど、今のところは「韓国で話題」とか「ネットで大人気」といった惹句が先行してイベント的な人気になっている節があって、ブームが過ぎれば一過性で終わってしまう可能性もなきにあらず。奥深いキャラなんでそーした魅力を伝えつつ、どこまで継続的に展開していけるかってあたりに、韓国初っぽい世界キャラの誕生へとつなげるための課題がありそー。やっぱ新聞での漫画連載かな、「ミスター某」とかの代わりに。

 どーゆー経緯からかフォーム印刷のトッパン・フォームズが扱うよーになった「グッディ・ベア」ってキャラクターも出品されてて久しぶり。ゲームソフトでヒットした粘土細工がグニョグニョと動く「クレイマン」って作品のキャラクターを手がけたダグラス・テンネーペルって人が作った熊のキャラクターで、見て分かりやすいキャッチィさが個人的には気に入っている。それほどあんまりメジャー化はしてないけれど、ソニー・マガジンズで本が出るとか原宿に専門ショップの「グッディ・ショップ」がオープンするとか着々とあちらこちらに浸透中。原宿の店のオープン前後にテンネーペルも来るらしーんで、その当たりをきっかけにブレイクしてくれると面白いかも。

 あと面白かったのはオーエルエーって会社が出していた「SFパルプマガジンカバー集」。SFファンならすでに聞けばピンと来る、「アスタウンディング」に「アナログ」とゆー全米ってよりは世界が誇るSF雑誌のカバーアートをライセンスしますよどーですかって内容で、誰が描いているかはファンじゃないからそれほど詳しくは知らないけれど、流線型のロケットに鉄のカタマリのよーなロボット、グチャグチャぬとぬとしているBEMといった、SFにお馴染みのイラストが描かれた、今見ると実に懐かしくも新しい表紙がいっぱい並んでる。

 夏の「第40回日本SF大会」では「SFマガジン」の鶴田謙二さん描いた表紙が名刺の裏絵としてトレーディングカードになったし、「アニメージュ」の表紙トレカってのも結構話題になったから、これもそのままトレカになったら集める人とか出て来そー。野田昌宏さんは本物持っているからいらないか。ってゆーか「マクドナルド」や「クアーズ」のポスターだってトレカにしている国なのに、SF雑誌の表紙は今までなっていなかったそーで、版権が面倒だったのかアメリカ人のトレカを集めるエスタブリッシュな人はパルプ雑誌は不人気だったのか、いろいろと考えてしまった。実際にトレカになるかは分からないけれど、1枚だけをTシャツにプリントしてもレトロフューチャーなイメージが格好良く見えたりしそー。やってくんないかなー、どっか。

興味深かったのはハニカって会社。大川由美子さんてキャラクター作家の人が、会社なんかにキャラクターをあずけたのは良いものの、商業主義的な仕組みの中でもまれて疲弊してしまうのが苦手だってことで、大川さんのキャラクターだけをプロデュースするために作ったのがこの会社ってことみたい。クリエーターの主義主張を存分に入れて世界観を大事にしながら、それでもキャラクターとして展開させていく手法って点では、当たっているかは分からないけど「アランジアロンゾ」似てるかな。

 なるほど確かに大川さんの描くキャラクターには作家性がたっぷりと込められているよーで、例えばメインの「アジアンキディ」ってキャラには「スポーツ万能、健康で明るく元気なスーパーチャイルド」ってプロフィールが付けられていて、サッカーにテニスにスキーといったあらゆるスポーツをしている絵がちゃんと用意されている。「ミテルウサギ」は目と口に特徴があって、何かをジッと見て口をキュッと結んだ表情を、ジッと見られてメッと言われたらイヤかもって場で使われたら効果ありそー。興味深いのは「ベビブー」って赤ん坊みたいなキャラクター。聞くと豚と人間を組み合わせて作ったキャラクターだそーで、移植用の臓器を取るために人の遺伝子を組み込まれた豚が大きくなったらこんな格好になるのかもしれない。その意味では科学の最先端をいってるキャラクターってことで注目されそー。もっともあんまり流行ると臓器移植用のヒトクローン豚が使いにくくなるからなー。愛護団体が起用したりして。

 しかし休刊かー、新聞社だってご多分に漏れず経営が厳しいから仕方ないんだよなー、それにしても早かったなー、朝日新聞「7」の休刊、って話題が違う。いや確かに「7」も休刊なんだけど、それ以上に業界的には「産経新聞」の首都圏に限ってだけど夕刊の廃止ってのはインパクトが大きいよーで、記者会見には結構な人数が集まってあれやこれや質問が浴びせかけられたみたい。夕刊なんて見なくても情報がとれるよーになったこともあって、いつかはどこかが踏み切るとは思っていたけど、どこが先にやっても経営の問題とリンクされることは確実だったってこともあって、なかなかどこも踏み切れなかった。産経が先陣を切ったってのは、ひとつにはやっぱり経営面への影響をひとつに考慮してのことになるんだろー。

 それはそれとして、日本の新聞には伝統でも欧米ではなかった夕刊を廃止することで、欧米並みのクオリティペーパーを目指そう、それで収益をまかなえるだけの部数を挙げようって意志は分かるし、そーなってくれれば嬉しいことこの上ない。問題はテレビが登場しても50年間代わらず速報性と解説性の両輪を唄って来た日本の新聞が、一気に解説性の部分にシフトできるかって点で、その辺りしっかりと深みと重みのある記事を書ける資質を持った人の養成と、編集する人のどーゆー記事が必要なのかって部分での意識の改革が必要になって来るんだろー。もっともマスコミの中でプライドの高さと伝統への依拠では群を抜いてる新聞が、一朝一夕に変われるとはなかなか思えないだけに、成果が出て来るのはやっぱり5年とか10年とかの時間が必要になるのかもしれない。それまで保つか、保ってもらわないと困るだけど、うーん。


【11月6日】 ジプシー、ってのが使うにあんまりよろしくない言葉ってことで今はロマ族だったっけ、そんな言い方にネイティブ・アメリカンなり、アフロ・アメリカンといった言い方と同じ様になってたりする話は、映画「ガッジョ・ディーロ」を観て前後に読んだ「ジプシー」に関連する本で知ってたりするから、昔ながらの”漂泊の民””流浪の民”的ニュアンスで安易に果たして、使ってしまって良いのかな、ってことを渡瀬草一郎さんのシリーズ3作目「パラサイトムーン3 百年画廊」(電撃文庫、570円)を読んでふと思う。

 まあ言い方自体は蔑称としてなんかじゃなく、半ばロマンチックなニュアンスを込めて使ってあるんで良いのかもしれないけれど、出てくる「ジプシーの娘」ってのが本文で「藤色の髪の、美しい娘」って描写されてて、且つ表紙のイラストでは美少女コミックチックに、しかもメイド服っぽい姿で描かれてあるのを見ると、確かロマ族ってのは源流がインド辺りにあってどちらかといえば色黒で、エキゾチックではあるんだけど極東的な雰囲気とは絶対的に違ってたんじゃないかって記憶と齟齬が出て、あれやこれや考える。

 綺麗に描いてる訳だから、表紙とか見て「これがジプシー?」って怒る人もあんまりいないんだろーけど、描写からロマンチックなタームとして刷り込まれてしまった言葉を、実はいろいろ歴史的な経緯のあるものだってことに気付かず使ってしまって、肝心な時にしこりが出ないとも限らない訳で、好意的なら良いのかって問題なんかも含めて、言葉を使う時の扱いの難しさを深く感じる。お話しの方は1作目の主人公で世界が色で見える少年、希崎心弥の能力の源流が明らかにされるなかで、異能者どうしのバトルからさらに広がって、迷宮神群どうしのやりとりも描かれるよーになって複雑化して来ている。

 対人間では明らかに超越者的な立場にある迷宮神群が、人間っぽい意志とか持って割と自在に跳梁している世界で、その影響を受けただけの、迷宮神群から見ればチンケな能力した持っていない異能者どうしのバトルもないもんだとか、思えないでもないけれど、立場だけなら人間なんかを超越していかカーズやエシディシだって人間ごときにあっさり破れ、存在感でも自分たちが結果的に作り出した吸血鬼のディオに及ばなかったりした訳だから別に良いのか。ただ絶対的な力を持った迷宮神群のインフレ的な投入は、ちょい人と違った力を得てしまったばかりに戸惑い悩み、時には狂ったりする人間の脆さ、儚さ、健気さを描く話を神対人の超能力バトルにしてしまいかねないんで、あんまり飛ばさずに行って頂きたいところ。次作は「パラサイト」じゃない続編とかでそちらも楽しみ。「アレ」ってば「アレ」か?

 健康診断で体重が前年同比6キロ減になっていて5年前と同水準になっていて善哉。週末ごとのドカ食い(冷凍ピラフ2人前プラスコロッケ2枚&缶ビールもしくはパスタ250gプラスミートソース1缶&ビール)を改め毎夜のビールも止めて半年、どーにか成果が上がってきたってところかも、昼も野菜サラダとか食べてるし。15年前とかに買ったパンツとかまたはけるよーになってワードローブの回転が良くなったことでもあるし、リバウンドとかにならないよー注意をはらいつつ、今はとにかく保つことを考えて頑張ろー。血圧の上が100なかったのは、単なる体調だと思うけど、担当してくれた美人ってよりは可愛い女医さんが、隣の人に「トイレ行きたいから代わってーっ」って話しているのを聞いてなおかつの低血圧だったりして、己の枯れっぷりに不安が募る。歳かなー。

 トイレと言えば、健康診断では検尿がコップで持ち歩きじゃなく細い試験管状の容器に入れる方式に変わっていて、横に穴はあいているけど全体に細い容器に狙って入れるのに苦労する。狙える男子でこう大変ならスプリンクラーライクな女子はどれほど大変か、ってふと思ったけど見た訳じゃないんで実は狙いが竿先のズレにともなってそれやすい男子に比べて案外楽なのかもしれない。トイレに駆けてった女医さんに聞いてみたかったけど、やっぱり聞けませんでした。ああ小心者。


【11月5日】 感動したっ、って一言あればもういらないくらいに感動できた「サイボーグ009」の第4話。原作漫画だと見かけはそれなりに強かったものの割とあっさり倒されてしまった「0010」との戦いを、アニメだと何段階にもどんでん返しを用意して、サイボーグたちの心理描写も絡めてテーマに奥深さを出している。倒れた「009」を休ませながら、一致団結一転突破とばかりに「0010」を追いつめる他のゼロゼロナンバーサイボーグたち。やったかと思われた瞬間、「じつはこんなこともあろうかと」って訳じゃないけど希望を一気に絶望へと変える展開が提示されて、当のサイボーグたちをヒヤヒヤとさせ、見ている人をドキドキとさせる。

 そこに現れた我らが主役の「009」。おそらくはそーなるんだろーと予想はしていても、月をバックにマフラーをなびかせた「絵」の持つパワーが月並みな展開を月並みだからこその感動へと変えて、気持ちを一気に高ぶらせる。手を触れ合って倒れた「0010」にかける「009」の言葉が醸し出すサイボーグ戦士の運命の過酷さに身震い。そしてその過酷さがさらに一段と重たいものになって出てくる次回への期待にも武者震い。「003」の数奇な生い立ちとかいった、加えられた新しい設定が今後、どーゆー意味を持ってくるのかにも注目しつつ、これからの展開を見ていきたい。だから絵、崩さないでね、もう2度と。

 「イリヤの夏、UFOの空」(秋山瑞人、メディアワークス)の「その2」を読む。浅羽直之を殴ろうと決意する。あの伊里野がだよ、可愛くっていじらしくって強くって健気な伊理野加奈ちゃんが、「学園祭」とやらにつきものの「ファイヤーストーム」で一緒に「フォークダンス」をする唯一絶対の相手として選んだのが浅羽直之。これをどうして殴らずに済ませよう、ああ羨ましい。加えて更に同級生で同じ新聞部員の須藤晶穂までもが萌え萌えで、素直じゃないけど実はフォークダンスを踊ってもいいかなって思って素直じゃない方法で秋波を贈った相手が浅羽直之。でもってあろうことかその誘いを伊里野からの関心を理由に断ったのも浅羽直之。うーん殴るだけじゃー足りない、撃とう、吊そう、埋めよう、刻もう、呪おう。でもそんなことをしたら伊里野が反撃に来るんだよなー、刺されるなあ、撃たれるなあ、怖いなあ、でもちょっと嬉しいかも。

 「十八時四十七分三十二秒」は前編での引きが後編での感動的なラストに重なり広がる組立方の鮮やかさにとくかく脱帽。そこまでやってしまって良いのかって首をかしげたくなる部分もあるけれど、積み上げられたエピソードによって盛り上げられた気持ちが、普通だったら赤面してしまうよーなシチュエーションを許すどころか涙混じりに読んで感動してしまった。晶穂の直之に対する想いのフクザツさを、直之の両親との体面シーンで直之父が発した何気ない言葉に対する反応から描いてしまう筆の冴えにも溜息が出る。巧いなあ。

 見た目は相変わらずのラブコメチックな学園ドラマが続いているけれど、あちらこちらに散りばめられたさまざまなキーワードなり登場人物の言動なりが、その世界がおかれているシビアで過酷な状況と、伊里野がおかれている過激で残酷な状況を「その1」以上に感じさせる展開になっていて、「その1」でちらりと見せられた時以上の身震いを覚える。「北」とやらがいったいどこでどんな相手なのかも未だ判然とはしていなくって、少々もどかしい気持ちも起こっているけれど、そういった興味を喚起させつつ、世界を垣間見せていく筆さばきへの興味もあって悩ましいところ。まあ、散々悩んだ果てに明らかになった世界がさらに意外なものだった方が感動も大きいんで、焦らずじっくりと腰を据えて観察していくことにしよー。とりあえず次はまだか、その次はいつだ(焦ってるじゃん)。

 宙野ルカはいるかの曲芸? って「究極超人あーる」をパクった洒落にもなっていない洒落のひとつもかましてみたくなったのは、宙野ルカって美少女が登場する、あらいりゅうじさんの新刊小説「銀河刊行旅館 宙の湯でいらっしゃーい」(電撃文庫、530円)を読んだから。遠く光の速度で50年は離れた場所にあるらしー星系から地球へとやって来た宙野ルカの目的は、地球を観光地にして温泉宿を経営することだった。ただし、宇宙人とは無縁の地球でいきなり宇宙人でございと宿をあける訳にはいかない。そこでルカが採った方法が、地球人の熱海三助という少年の幼なじみだと主張し地球人も洗脳して、地球に入り込むことだった。

 ところが。洗脳したはずの三助になぜかルカの洗脳がきいておらず、学校で幼なじみだと言って来たルカに疑問を抱き、突如駅前に出来たにも関わらず、町の誰もそれを不思議に思わない「宙の湯旅館」に忍び込む。そこで三助が見たものは、宇宙から集まって温泉につかり地球を観光する宇宙人の饗宴の様子だった。ってこれのどこが「イルカの曲芸」なのかと言われそーだけど、それは読んで頂けば一読瞭然、ただの美少女ではなかった宙野ルカの正体ともども判明するからお楽しみに。美少女は見かけによらないってことなのかな。もっとも見かけ以上に大事なものはないんで、頭から水を吹き上げよーがヒレが背中に生えていよーが全然オッケー。綴じ込みのミニポスターでの白たっぷりな姿が今後もたっぷりと見られることを期待しつつ、続刊を待とう。今度は曲芸、してくれるかな。


【11月4日】 そうそう、「ほぼ日ブックス」の創刊を記念するイベントで、執筆者の代表として「個人的なユニクロ主義」(朝日出版社、700円)を糸井重里さんとの対談とゆー形で書いたファーストリテイリングの柳井正さんに、「『ほぼ日ブックス』を『ユニクロ』で売らないんですか?」とゆー質問があって、壇上からも「売りませんか」とゆー投げかけがあったんだけど、お目出たい場だからといって軽々しく乗らない所が柳井さん、「利益率が低い商品ですし、役員会に図って考えます」と言ってかわしたあたりはなるほどアンテナショップめいた採算度外視の店を認めないカルチャーにある人らしー対応だと感じ入る。

 「『個人的ユニクロ主義』は値上がりするかもしれませんよ、何しろ最後に書いてある私の名前が違うんだから」と言った言葉は口調こそ笑っていたものの、込められている意味は結構ありそーな気が。中国で作られているからといって、ってゆーか中国で作られているからこそ、縫製のミスひとつ針の太さの間違いひとつまで許さない、完璧なまでにクオリティを求めることによって、「安かろう良かろう」のブランドイメージを作り上げ、今なおその維持に全社を挙げて取り組んでいる「ユニクロ」に、奥付の著者名だなんて最も注意しなければいけない部分でのミスがある品物を置くことが果たして妥当か? って問いを発しているよーに聞こえた。

 柳井社長の発言がそこまでの意図を込めてのものだったのかは知らないし、言葉を向けられた壇上の人たちがどーゆー受け止め方をしたのかも分からない。洋服と本とは違うものだし、そもそもが、そーゆーユルさが「ほぼ日ブックス」の良さでもあるんだって見方も出来ない訳じゃないけれど、使われる言葉のユルさなり、取りあげられる話題のユルさなり、メディアの位置づけとしてのユルさはありでも間違えてはいけない部分での間違いをユルさと笑って受け入れては、やっぱりマズいのかもしれない。もしも「ユニクロ」に「ほぼ日ブックス」が置かれることになったなら、とりあえずは「個人的ユニクロ主義」の奥付がちゃんとクオリティ的に納得のいくものになっているのかを、「ユニクロ」とゆー会社のクオリティに対する拘りを図るって意味でも、チェックしてみよー。

 親子連れとか老若男女があわんさと詰めかけて大賑わいだった「横浜トリエンナーレ」を「日展」みたいだと言った以上は当の「日展」も見ておくのが義務かと思い上野の「東京都美術館」で「第33回日展」を見に行く。すいません「横浜トリエンナーレ」は「日展」の足下にも及びませんでした、その来場者のワシワシ度で、あと出品作品の数とかも。広いギャラリーを縦横に仕切って並べられた山ほどの絵画作品彫刻作品工芸作品書道作品の数たるや、日本にかくも多数の芸術家がいたのかと思うほどで、それを見て回る人もベレー帽のアーティストっぽい人から動物園の方が似合いそうな親子連れ、脇でやってた「聖徳太子展」から流れて来たよーな老夫婦、とりあえず来てみた若いカップルほか種々雑多。おしくらまんじゅうとはいかないまでも、日本にかくも大勢の美術愛好家がいたものだと感心してしまった。

 絵画作品についてはまあ、それなりに上手い人とかいたみたいだけどモチーフにおいて実験性なり時代性があるなーと感じる作品は正直皆無。日本画のコーナーにたまさか偶然だろーとは思うけど、ニューヨークの「ワールドトレードセンター」を描いた作品があって、別の意味で注目されそーだなーとか思った程度で、会田誠さん的なモチーフで批評性を出してみた絵も描き方で実験性を出してみた絵も、ざっと見た程度ではまったくなくって、常に冒険と実験が繰り返される現代アートな場面を見てきた目には、はたして同じ「アート」なんだろーかとゆー疑問が巻き起こる。「日展はアートじゃないよ、芸術だよ」ってことのか、だとしたら芸術って何なのか。

 それでもまだ絵画作品には工夫の跡とか変化の兆しとかは見えたんだけど、呆然としたのが彫刻の部で、ほとんどどの作品を見ても少女に婦人の裸像に着衣像に男性の裸像に着衣像、服装だってホットパンツにブラウスの裾を前で縛ったお下げ髪の少女とゆー、今時いったいどこに行ったら見られるのか分からないよーなモデルを刻んでいるかと思えば、「ピーチ・ジョン」のカタログでは絶対にお目にかかれないよーな古式ゆかしいスリップ姿の女性をこねていたりといった具合に、時代性とはほど遠く、だったら時代性を超えて見る人の目を釘付けにする色っぽさを発しているかとゆーとそーでもない、なかなかに独特の基準でもって選ばれた作品ばかりが並んでいる。

 古色蒼然ぶりはフォルムにモチーフだけじゃない。作品に付けられているタイトルたるや「稟として」「よそおい」「風薫り聴く」「はるか」「天をめざせ!」「秋風」「朝日」「浜辺」「家路」「月光」「風の音」「夢の扉」「旅立ち」「陽光」「コンチェルト」「こころ」「響」「やさしい風」「月の光」「夏の日」「明日へ」風の道」「森の天使」「父の姿」「風の誘い」「若き日の夢」等々々。白樺派の小説か石坂洋二郎かと思わずつぶやきたくなる。こーしたタイトルが、また実にピッタリと作品にあっているから、その雰囲気はおして知るべし。あるいは受けそーなタイトルを先に決めて、それから彫ったりこねたりしているのかしら、とも思えて来る。

 「ヤバくない?」なんてタイトルで耳に形態をあてたルーズソックス姿でミニスカートで下にジャージとか履いてやがる女子高生の像とかあったら見て笑えるんだけど、そーゆー同時代性を感じさせる作品は1点もなし。せめてジョージ・シーガル的な今をリアルに定着させた作品があるかと思ったのに、そーゆーのは「日展」的な「美」としては認められないんだろー。ましてやガレージキットに見られるデフォルメされ切った作品なんて、存在すら許されないのかもしれない。不思議な世界。けれども権威として存在している世界。外国の現代アートに通じた人とかに見せたらいったい何ってゆーんだろ。「横浜トリエンナーレ」に来た外国人を上野に運んで見せて何か言わせる企画、どっかの美術誌とかでやんねーかな(やんねーよ)。

 ものはついでと「聖徳太子展」も見物、こっちも彫刻は山とあるけど、さすがに歴史を刻んだ像だけあってどれもが立派に美術していて見るほどに目が洗われる。中宮寺にある弥勒菩薩像が来ていたのが最大っぽい目玉で、安置された像のまわりを何度もぐるぐると回って、隙のないフォルムの美しさ、前に垂れた雲みたいなパーツの彫りの麗しさなんかを堪能する。色だけ見ると鋳造されたもののよーにも見えてたんだけど、実はれっきとした木彫で頭の部分なんかはいろいろなパーツを寄せて作ってあるよーで、ちょっぴり開いた隙間にパテ入れて削ってなめらかにしてあげたくなった、ってことはありません。

 ほかに目玉は聖徳太子3歳の時の髑髏とか8歳の時の髑髏……ってものでは当然なくって、聖徳太子が信仰の対象になって以降、あちらこちらで建立された童子の時の木像とか、摂政になってからの木像があちらこちらから集められていたもので、信仰の広がりの様とか信じられていた深さなんかが分かって、改めて人の信仰の凄みを感じた次第。どーせだったら赤瀬川源平さんの描いた1万円冊の聖徳太子とか、山岸涼子さんが描いた「日出る処の天子」に描かれた厩戸皇子の原画も並べてあったら現代での受容のされ方も分かって面白かったんだけど、そーゆーチャレンジは場所が場所だけに不可能だったんだろー。お土産コーナーで売られているテラコッタのペンダントとか聖徳太子の像が下についたクリップとか、「聖徳太子」と書かれているだけの線香とかいったベタベタな商品に比べれば、赤瀬川さんの方がまだ対象に裏返しの敬意が感じられるんだけど。やっぱり「美」って難しい。


【11月3日】 われおもふゆへにわれあり。人間考えてこそ何とかって訳で、あれこれ考えなしにSF読みとして生きてきた四半世紀を反省しつつ未来への糧にすべく、どーゆー文脈かは知らないけれど突如発足した「SFファン交流を考える会」とやらをのぞく。「渋谷区立勤労会館」での初会合、全国から名うてのSFファン活動のエキスパートたちが集まって、1万人収容の大ホール(あるかどーかは知らない)が満杯になった、その壇上に現れた「SFファングループ連合会議議長」が、「私はSFが好きだ(繰り返し3回)、私はSFが大好きだ(以下略)」とやって最後に「もっとSFを!」と大声で叫んで、老SFファンたちの「SF!」「SF!」「SF!」とゆーコールを浴び、土曜日の渋谷はSFの暗雲に包まれた。

 なんてこと当然ながら皆無。意外とこじんまりした会議室に三々五々やって来たどちらかと言えばファン活動に通じた方々と、それから星敬さんが教えている学生さんといった世代的にも幅広い20数人が、過去のSFファン活動がどんな風に進んで来て、昨今のSFファン活動がどんな課題に直面しているか、ってなことについて、先達の方々の話を聞いたり話し合ったりする、静かで真面目な会合になっていて、後ろの方で隠れて野次馬よろしく観察してはモノも言わずに去る「背後霊の術」が使えず、小心者としてちょっと焦る。自己紹介、苦手なんだよねー。

 さて会合の方はといえば前ファングループ連合会議議長の武田康廣さんを迎えて、武田さんが関わって来た「DAICON3」「同4」「MINCON」に先だっての「SF2001」といった数々の「日本SF大会」の運営裏話的な話を中心に進行。裏話といっても別に暴露話とかじゃなくって、スタッフ集めの苦労とか、会場抑えの難しさとか、上がり続ける参加費の問題に解決方法はあるかとか、増え続けるゲストへの対応をどうすべきかといったシビアでシリアスな課題についての具体的な対処方が中心で、過去現代そしておそらくはしばらくの未来、SFのイベントにスタッフとして関わる可能性のあんまりな身ではありながら、裏方さんとして動く人たちの苦労が伺えて、イベントに参加する上でのひとつの心構えを得られた。

 8月の「SF2001」でゲストの受付を日本推理作家協会賞受賞作家で同大会での星雲賞も受賞した菅浩江さんが担当して、来場した人たちを当惑させた背景なんかはなるほどと思ったけれど、ガイナックスが仕切った「SF2001」だからこその対応で常に踏襲できる仕組みでもなく、すでに400人くらいの参加が決まっててもしかすると早めに申し込まないと締め切られてしまう可能性も大な来年の「第41回日本SF大会」で、果たしてどーいったシステムが構築されるのかに興味が移る。契機にはなるんだろーけれど、先達の英断がなかなか理解され得ない状況は何事も同じなんで、主催する人たちも悩ましいところだろー。明解な主張を掲げ、言葉を駆使して説明を行って、共感と理解を求めていくしかないんだろー。一般人には取り急ぎ関係はない話だけど。

 ってな具合に、リアルなイベントを1つの表出先としつつ「ファンジン」のよーな形のあるものを作る活動を仮に”正統的”なSFファン活動と考えるとするならば、こーやって集まって過去の活動で得たノウハウなり、直面している問題点なんかを話し合い情報として共有化していくのってとても有用だとは思う。その意味で、今回立ち上がった「SFファン交流を考える会」の役割は結構大きいだろー。イベントのスタッフなり、ファンジンのスタッフとして得たノウハウが横に広がり下へとつながって広がっていけば、イベントもファンジンもより充実するもんだろうから。

 けど、SFは好きで読んで来て、今だって読む本の9割がSFかあるいはSFだと決め込んで読んでいるにも関わらず、他に同好の士を知らないスタンドアロンの「SFファン」、せいぜいがネットで1人、SFを読んで感想なんかを書きなぐっている”引きこもり系”な「SFファン」をどう位置付けるか、って部分が今のところあんまり見えて来なくって、どちらかと言えばスタンドアロンな身として居場所の難しさを覚える。別に交流しなくたって好き勝手にやって行けばいーじゃんと言われてしまえばそれまでなんだけど、ファンジンにも参加していなければイベントのスタッフにもなっていない人は「SFファン」じゃないのかな、なんて自虐思考を喚起させてしまってはもったいない。ここでもやっぱりファン活動は何が楽しいのか、イベントのスタッフになるとどんなに面白いことがあるのか、といった話をいっぱい出して、共感と理解がわき起こるよーな雰囲気を作っていってもらいたい気がする。

 それとやっぱり「SFファン」ってゆー概念が持つイメージの転換も、「SFファン交流を考える会」なんかを通じてやっていってもらえたらちょっと嬉しい。「ファンダム」だなんて言葉が作られるほどに、少数精鋭の「SFファン」の人たちが熱く濃くつながっていた時代もあったんだろーけれど、そーした言葉が年月の経過とともに帯びていったイメージの”重さ”が、ここに来てやっぱり問題になっている。あらゆるメディアに「SF」的なものが浸透し拡散しているにも関わらず、「幕張メッセ」なんて絶好のロケーションで開催された「SF2001」に、10万人とかじゃなくたったの2500人くらいしか人が集まらなかった状況を考えつつ、「SF」って言葉、「SFファン」って概念についてしまったイメージへの挑戦をしていってくれたら、”引きこもり系”な「SFファン」として有り難い。「SFファン交流を考える会」は12月も開催とか。期待してます。

 流れていく人たちを横目に新宿は「紀伊国屋ホール」で開催された「ほぼ日刊イトイ新聞」主催「ほぼ日ブックス」創刊記念イベントへと回り、世にも珍しいらしースーツ姿の糸井重里さんが一生のうちで最初で最後に使ったらしー「お足元の悪い中をお集まり頂き」なんて時候の挨拶を聞き得した気分になる。あと生きている吉本隆明さんを見られたことも嬉しかったひとつ。前に生きている柄谷行人さんも見たし喋っている浅田彰さんも見られた「紀伊国屋ホール」は、20世紀知性遺産のある種の殿堂になりつつあるのかも、って皆さんまだまだ現役だから遺産はないか。

 もっとも登場した吉本さんは、僕らより遥か上の世代が熱狂したのが何故? って思わせるよーな好々爺ぶりで、人間性への興味はわいても思想家としての凄みは舞台の上ではあんまり見られなくって、うーんと思ったのも事実。まあ語れば面白そーな爺さんが、書くとどれだけ凄いかを確かめるべく本を取る、その糸口になったと思えば「姉」とゆー言葉を言語学的に追究しよーとする話が積み重なってしまった対談も、それはそれで意味があったのかもしれない。それが何事であっても徹底してこだわり考え抜くことへの情熱ってのも伺えた訳だし。

 八木亜希子さんとの対談はどーゆーセレクトだったのかが正直謎で今もあんまり理解し切った訳じゃないけれど、相槌とかしか言わず、相手をとにかく喋る気にさせるアナウンサーってのは別に言葉のプロとして失格なんじゃなく、むしろ相手の言葉を引き出す言葉のプロとして優秀なんじゃないか、ってな辺りを見せよーとしたのが目的だったのかな、なんてことをとりあえず感じる。うなずきトリオがいてこその漫才ブームだった訳だし。面白かったのが橋爪大三郎さんの講演で、あらかじめ時間が押すだろーことを予想してさまざまなバージョンの喋る内容を用意して来ましたと言うパフォーマンス的な面白さもさることながら、内容の面でも学ぶべきことが多かった。

 やっぱり「言葉」についての講演だったけど、結論として「言葉は”みんな”もの」だとゆーことで、それも「言葉を共有するからみんなができるんだ」とゆーことで、そのためには共有できる言葉を作り持つことが必要なんだと訴える。「わらかない言葉には警戒しよう。わからない言葉は”みんな”を分断する」、「わからない言葉をふりかざす人は警戒しよう。それは権力になる」、「わからないことばを追いつめて感嘆にしよう。そのことがみんなを強固にする」とゆー橋爪さんの3点の主張は、タコツボ化するアカデミズムに真実から遊離しているジャーナリズムを”みんな”のものにする上で大切なこと、なんだろー。「SF」とゆー言葉が持ってしまった”重さ”を解消する方法としも、ひとつの指針になりそー。ジャーゴンまみれの選民意識が漂う言葉じゃ「みんな」は作れない、ってことなんだよね、やっぱ。


【11月2日】 忠告、ってゆーか警告。11月下旬、書店、安倍吉俊さん描くナイフを手にしたセーラー服姿の美少女が表紙の、もしかすると「第5回角川学園小説大賞特別賞受賞作」なんて帯に書かれた、「ネガティブハッピー・チェーンソーエッヂ」だなんて不思議だけど青春のザラ付き感にあふれたタイトルの本が本屋に並んでいたら四の五のいわずに買え。読め。笑え。泣け。でないと大袈裟じゃなく21世紀の青春な文学の歴史が作られた瞬間を、踏まずに通り過ぎてしまうことになるから。滝本竜彦さんとゆー、これが紙媒体ではデビュー作になる小説が放つパワーはそれぐらいにすさまじい。いやマジに。安倍さんの表紙絵が放つパワーも相当にすさまじいけれど。もうクラクラしちゃうくらいに。

 テストが迫り友人がバイクの事故で死んだ憂鬱なある日、オレこと山本は獣道のけやきの根本に体育座りして何かを待っている女子高生に出会う。「……待ってるのよ」といった彼女、雪崎絵理科の言葉どおりに間をおかず聞こえてきたのが「ドルルルルルン」と響くエンジン音。その正体は、真っ黒いロングコートを着た、背の高い男が手にもって振り回しているチェーンソーだった。迫る男に手に木刀を持って絵理は挑み、ナイフを投げてチェーンソー男をしとめる。けれどもチェーンソー男は死なずナイフを抜いて立ち上がり、夜の闇へと消えてしまった。チェーンソー男は不死身なのか。そもそも一体何者なのか。絵理はいわゆる正義の見方って奴なのか。あれこれ交錯する疑問はともかく脇へとうっちゃって、オレは絵理といっしょにチェーンソー男を倒そうと決心する。

 始まりは一種の戦闘美少女ものっぽい雰囲気があって、戦う少女を見守るダメな僕って感じの小説なんだろーかとゆー印象を持ったけれど、「学園小説大賞」とはいってもいわゆる「ヤングアダルト文庫」の賞の文脈からはちょっぴり外れてるって意味での「特別賞」の受賞作、でもって他が文庫で刊行された中で安倍さんを表紙に四六版での発行とゆー待遇が半ば表しているよーに、いわゆる異世界ファンタジーとか、伝奇とかSFとかいったカテゴリーからは微妙に遊離していて、青春の思いこみがもたらすさまざまなできごとを、半ばメタファーとして取り込んだよーな内容になっていて、読んでいくうちにかつて経験した青春の甘さに痛さが思い出されてきて胸がチクチクとしてくる。起こる出来事は実に不条理なんだけど、そんな不条理を青春の1ページとして飲み込み、噛みしめた挙げ句に希望という、青春にお似合いの言葉をつけて吐き出してみせる主旋律の巧みさに圧倒される。

 そこにくわえて文体の軽やかさといったら。キャラクターの魅力といったら。エピソードの楽しさといったら。独白と妄想をまじえつつ状況を畳み込むように説明していく文体の切れ味は読んでいてグイグイと頭に迫ってくるし、万引きはするタバコは吸う食い逃げは平気テストは赤点とゆー平均的(?)な高校生活を漫然と送っている中に芽生えたちょっとした疑問から刺激のある日々へとちょっぴりの下心も持って踏み出したオレは言うに及ばず、義務感も悲壮感も漂わせずに戦わなければいけないから戦うんだと言わんばかりに当たり前な顔でチェンソー男と戦う絵理、1人の女性を取り合った決着をつけるべく集まった公園で「これからも友だちでいよう」なんてフヌケたことをいった男2人に友だちでもないのに「根性無しが!」と突っかかる熱い能登、といった平均から大きく逸脱しているよーに見えつつも、その実案外と今時のティーンの仮面を被った下にある、熱かったり激しかったりする想いを体言しているよーなキャラクターたちの言動に、覚える共感も山とある。

 誘われたファミレスでネギトロ丼にコーラを頼んだオレを「最悪」と貶しつつ、トンカツ膳とオレンジジュースにご飯大盛りを頼む絵理のエピソードなんかは、大袈裟っぽいのに不思議とリアルな感じを醸し出しているし、女子大を出たばかりで下宿のおばちゃんにされてしまった女性が、門限破りをしたオレをなかなか怒れず逡巡するエピソードも、「そこ笑う所です」的におかしいことはおかしいんだけど、ある意味今どきのコミュニケーションスキルが乏しい若者の姿を表しているよーで、笑い飛ばして終わりにできない。何よりクライマックスで繰り広げられる、スリルにスピードにサスペンスあふれる展開の読んで胸躍ることといったら。なおかつ悲しい現実を乗り越え明るい未来に向かって進めと告げるメッセージの強さといったら。映画でもないのに、読み終えた瞬間拍手をしたくなった。心の中で、だけど。

 どこまで正確かは分からないけど、例えて言うなら古橋秀之さんの饒舌で軽やかで卓越した語り口に、秋山瑞人さんの泣かせも混ぜ込んで、そこに上遠野浩平さんのドライさをかけあわせたよーな肌触り、っていった感じ? ってゆーとますます訳が分からなくなりそーだけど、とにかくイケてるってことは確か。気持ち的には映画で映像で見てみたい気があって、だったら絵理はいったい誰がピッタリはまるだろー、「ミカヅキ」に出てた原史奈さんと奈良紗緒理さんと足して2で割るとタイプ的に丁度よくなるんだけどなー、セーラー服姿でアクションする場面とか楽しそーだなー、山本はまー若手の3枚目系なら誰でもいっか、なんてことを妄想してる。大赤字なんで実現云々となるとちょい厳しいかもしれないけれど、せっかくの「アニメ・コミック事業部」が仕切って安倍さんまで表紙に起用して送る青春小説の新デファクトスタンダードにして新メルクマール(意味分からん)。お得意のメディアミックスでがんがん盛り上げてやってくれい。

 段ボール箱にいっぱいの「サイボーグ009」を読む日々。人によっては初期だとか中期だとか末期だとかいろいろ好みが別れる「003」の顔だけど、自分の場合は昔の「003」も終わり頃の「003」もともに可愛かったことに気付く、つまりは「003」ならオール・オブ・オッケーだったってことですね、この助平。それはともかく改めて読んだ「少年サンデー」連載以降の「009」は、初期の冒険に次ぐ冒険、アクションに次ぐアクションの楽しさが存分にあった内容が、エピソードによって語られる、心とか人間とかいったものの意味を問うメッセージを伝える内容へと変化していっていて、今でこそ冷静に読めるけど、高校生とか大学生の頃だったら辛気くさいとか鬱陶しいとか説教臭いとかいって投げてたかもしれないなーと考える。実際「サンデー」以降をほとんど読まなかったのは、そんな空気を肌に感じてしまっていたからなのかもしれない。

 24巻の「コスモチャイルド編」なんてメッセージ性ありありのエピソードで、心理的な歯止めがかかっている関係で、たとえ自分たちを滅ぼそうとする侵略者であっても、戦うことができず滅びようとしている種族が、サイボーグ戦士の説得によって目覚め戦い敵を倒すって話のラストに提示される、フランソワーズの「これで終わった……のかしら? これから始まるのじゃないかしら!?」とゆークエスチョンが投げかける、戦いが戦いを生み憎しみが憎しみを招く連鎖の向かう暗闇の深さに、今とゆー時代も重なってちょっと身震いさせられる。ほかにも似たよーなエピソードがあって、「サイボーグ009」がつくづく反戦平和のメッセージにあふれた作品だったってことが見えて来る。せっかくのアニメ化でのブーム再燃、これを利用しないって手もないんで、反戦な勢力は「009」の単行本を揃えてメッセージを抜いてムックとかでも仕立ててみれば、赤い旗とかよりも人に伝わり易くって良いかも。


【11月1日】 発売日。なんで新宿は「紀伊国屋書店」まで「ほぼ日ブックス」のワゴンセールを見に行く、っていきなりワゴンセールだなんて大売り出しっぽいけどスーパーの特売なんかと意味は違うんで悪しからず。じっさいバーゲンなんかだと時間前から人が行列を作って待っていたりするものだけど、ネットでは評判になっていはいても一般のメディアでそれほど取りあげられたって感じじゃなく、ワンサと押し掛けて奪い合うよーに買っていくなんて光景は見られず、午前10時の開店時で手に取って本を見ている人はほとんどいない、静かな滑り出しになっていた。

 それにしても思っていた以上に壮観だった第1期で登場してきた本たち。HIROMIXさんが写真を撮った「胸から伝わるっ」(野口美佳+佐藤友代×糸井重里、朝日出版社、700円)のブレボケだけど健康的に色っぽいブラジャー姿の女の子の写真を筆頭に、ティラノザウルスだかとトリケラトプスだかが噛み合っているのが何故だか不明だけど何故だかマッチしている「経済はミステリー」(末永徹、しりあがり寿、朝日出版社、700円)にお馴染みの吊されたフリースが写ったタナカノリユキさんディレクションの「個人的なユニクロ主義」(柳井正×糸井重里、朝日出版社、700円)ほか、平台にずらりと並んだ綺麗だったり格好良かったりエッチっぽかったりする表紙が朝日を浴びて光ってて、見るほどに目が眩む。新書系で創刊されたばかりだと光文社新書なんかがあるけれど、こと表紙に関しては過去の新書に比べて突出している部分は皆無で、余計に「ほぼ日ブックス」の凝り様が分かる。

 それぞれに個性があって、それがいっぱい並べられて輝いている様も創刊だけど、1冊づつ眺めて題名なんかが書かれた部分をよくよく見ると、「ユニクロ」本だと「柳井正180g、独走・独創70g、なるほどねぇ85g」ほかで「全520g」、枡野浩一さんの石川啄木短歌改変本「石川くん」(朝日出版社、700円)だと「遊び92g、文学85g、バカ90g、セクシー40g」なんかで「全477g」となっていたりと、伝えようとしているさまざまなニュアンスを1つのコピー、1つのジャンルに押し込めるんじゃなく、それぞれのニュアンスをグラム表示で併記して、立体的に雰囲気を伝えようとしている節があって、相変わらずあれこれ考えてるなってことに感心した。ともすれば遊び半分で適当に付けてるよーに見られるかもしれないけれど、やっぱり相当に悩んでイメージのセレクトも重さの配分も決めてるんだろーなー。

 その辺りどーゆー風に決まるのか聞いてみたいところだけど、今んところ「創刊の辞」めいた記事とか載ったの見たことないのが不思議と言えばちょっと不思議。僕が本業の方でネタがなかったんで拾った話として「ほぼ日ブックス」創刊の話を書いたのはさておき、世論に影響のあるメジャーなメディアが「糸井重里さんまた妙なことしまっせ」的な記事を掲載したのをこれまであんまり目にしていなくって、正直意外な感じを受けている。大メディア的にもバリューは充分で新しいことに挑戦するってゆーお題目も格好。揃っている本には今注目の「ユニクロ」の柳井正さんと糸井さんとの対談本も入っていて、これを話題にしなくって何を話題にするんだろー? 的な印象を受けたんだけど、新聞といえどもフットワークが重いのか、積極的に取りあげてるっぽい印象を受けない。11月3日に開催の記者会見なんかを待っての扱いにするのかもしれないけれど、月イチの雑誌なんかじゃない、毎日出してる新聞にしては、フットワークがちょい重いよーな気がする。

 そーした既存メディアにありがちな重さが時には権威として有り難がられたり、逆に世論とズレてるってことで批判の対象になったりするんだけど、どっちにしたって1カ月遅れだってウン百万部のメディアが読書面とかメディア面とかでホンの10行、書いた方が超絶マイナーな我が本業で60行、大々的に書いた時よりインパクトがデカいってのが哀しいやら悔しいやら。部数の差、世間的な認知度の差と言ってしまえばそれまでなんだけど、あれこれ目を配らせて目敏くやってあれこれ小技を出しても、まるで砂に水を撒くよーな作業の積み重ねにしかならなくって、いー加減神経も細って来た。けど10行でインパクトを与えられるだけの場所って、いくら希望したって全然お呼びじゃなさそーでこれまた悔しいところ。未来も含めてそろそろ考え時かもなー。ボーナスの支給も迫ってるし。

 とりあえず紹介した4冊に「ダーリンコラム」(糸井重里、朝日出版社、700円)を入れた5冊を購入、しおりが3種類もあるとは朝日出版社も豪気なことよ。「90分を、わたしに下さい。」とゆーコピーがあるけど流せばかかる時間は正味30分で、値段分と見合うかって最初はちょい迷う。けど他に幾らだってある本の中でどーしてこーゆー感じの本になったんだろー、例えば「個人的なユニクロ主義」みたくビジネス話を一切排除して組み立ててしまった理由はどこらへんにあって、対談からどのくらい読みとれるんだろーと考えて2度、3度と読めばなるほど30分の3杯で90分は本に捧げることになる。

 「胸から伝わるっ」なんかも一種のビジネス・サクセス・ストーリーなんだけど合いの手入れながらの楽しい対談から読んで力になる部分、心になる部分なんかを探そうとすると、やっぱり2度3度と立ち止まり、振り返ってみたくなる。実用書とかビジネス書に多い、書いてあることを単純に「情報」として得るんじゃなく、何かの「糧」にしよーとしたくなる作りにしたってあたりに、既存の新書なんかとは違うものを目指そうってゆー作り手のコダワリがあったんだろー。

 それにしても「ほぼ日刊イトイ新聞」に連載されて山ほどの人の目に触れられたことに加えて、旧世代的な感性ではやっぱり頂点っぽい印象を受ける「本」にまでなってしまった”表現”をした人の、何と羨ましいことか。それだけのものがあったんだろーけれど、本業では砂に水を撒き、裏業も未だ派手には実らない身にとって、ズラリ並んだ「ほぼ日ブックス」は眩し過ぎる。日々ダラダラと益体もない情報をただ媒介するんじゃなく、”手に職”的な指向性のある言葉をやっぱり、紡がなくっちゃいけない時期に来てるのかなあ、紡がせてくれる場所探し付きで。

 ドーンと届くとやっぱり段ボールひと箱にギッシリだったメディアファクトリー版「サイボーグ009」全えっと28冊くらいだったけ? 記憶をたどってちょぼちょぼと最初とか、半ばとか最期の方とか読んでたりするけれど、個人的にはやっぱり初期のクライマックスだった「地下帝国ヨミ編」の面白さと切なさが圧倒的に記憶に残ってて、今読み返しても胸にジンと来る。昔の仲間として再会したはずの3人組が改造されたサイボーグの暗殺者だったって展開の、獣型ボディに改造されてしまったメリーって女の子の、醜さと美しさが同居しているボディのデザインといい、元へと戻れない悲しい運命といい、人智を越えたものへの憧れと畏怖を同時に思い起こさせてくれて、シンミリとして来る。

 激しい戦闘シーンとか、サイボーグが背負った過酷な運命の明示とか、愛と死のドラマなんかをこなしながらクライマックスへと向かう、シリーズでも屈指の盛り上がり様を経て、あの感動の「きみはどこにおちたい?」へと至って気持ちはもう最高潮。もしもここで終わっていたら、未完の部分へのモヤモヤを抱くこともなかったんだろーけれど、ここで終わっていなかったからこそ、今日まで一線で注目を集め続ける作品になったとも言えるわけで気分は複雑なところ。ともあれ「少年サンデー」連載以降はウォッチの対象から外れて未読の多かった「009」が、ドサッとここにやって来たってことで、週末とかにかけて一気読みして、鬱々とした気持ちをスカッとさせてそれからいろいろと考えよー。いろいろって何?


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