縮刷版2000年2月上旬号


【2月10日】 昔とった杵柄はむしり取った衣笠とばかりに、「増刊サンデー」時代に大好きだったみず谷なおきさんの『みず谷なおき追悼原画展』を京橋まで見に行く。平日の朝11時だってのに結構な数の人が見に来ていて、どーゆー職業の人なのかって考えたけど振り返って我が身を見れば同じ時間にいる訳で、つまりはそーゆー人たちなんだと納得する、好きなんだよみず谷なおきが仕事よりも。中心は「ブラッディ・エンジェル」や「Hello!あんくる」や「バーバリアンズ」といった作品の原画&絵コンテで、とくに「Hello!あんくる」は未刊に終わって描かれなかった最終話の絵コンテだったか構想だかが展示されてて、こーゆーエンディングを迎えたかったんだなって、原稿用紙にそこだけくっきりと描かれた、眼鏡っ娘な主人公のシリアスな表情を見ながら、無駄で詮無いことだと知りつつもやっぱり残念に思えて来る。

 構想だけに終わった死神と天使だかが出て来て主人公にまとわり付く作品は、構想のスケッチと絵コンテの両方が描かれていて冒頭部分のキャラクターが絡む場面に至る展開のタメに違いがあってこんな具合に練られていくのかと感心する。絵コンテの段階で4駆がみっちり描かれているのは作者の性格なんだろーけど、その分の気の遣い様も結構なものだったんだろーな。「あんくる」「ばーばりあんず」あたりの個人的にはリアルタイムではなかった作品が、どことなく大人っぽさを入れようとしつつも漫画な絵柄が出てしまって気分にズレを感じさせたのと比べると、構想にあった作品はキャラの等身なんかが例えとしては正しくないかもしれないけれど「コロコロ」にあるような”子供漫画”っぽいテイストがあって、今の進化と変化の著しい青年少年な漫画の世界では決して目立ってはいなくても、子供をメインに大人の気も時に引きつけるジャンルでの活躍があったのかな、とも考えてみる。眼の曇った人間の勘違いかもしれないからファンな人は容赦を。最近はキャラ物の進出著しいパチンコの画面に向けたキャラも手がけていたのは発見でした、見たかったなあ。

 なんとか読み終えた五代ゆうさんの大著「<骨牌使い>の鏡」(富士見書房、2300円)は5年くらい出版社の倉庫だか引き出しだかに貯蔵されてただけあって熟成が効いてまろやかなお味に、ってなことにはならないのがワインでもチーズでもない小説で、むしろ5年の間に世間が変わってしまってテイストに合わなくなる可能性の方が大きいんだけど、もとより筆力構築力のある人らしく、またジャンルがハードなハイ・ファンタジーってこともあって古びてもなければ廃れてもおらず、「言葉」が力を持って人々を支配している異世界を舞台に、その勢力に逆らおうとする闇の勢力の跳梁や、特別な能力をめぐる名誉とは裏返しの超越者故に直面する哀しみなど、迫真のドラマを存分に堪能することが出来た。

 「骨牌使い」すなわち一種のカードに象徴された物や者に合致した能力なり特性を身につける人たちどうしの戦いってあたりに、何となく「ジョジョの奇妙な冒険」の第3部が重なる。能力を身につけるとどうしてもそれを悪しき方向へと使いたがる人が出るのも同様。違いとえいば「ジョジョ」が荒木なドドドドド迫力の絵でバトルを楽しめるのと違って、五代さんの方は文字だから、蔓草を放ち合ったりエメラルドスプラッシュが飛んだり「おらおらおらおら」なんて殴り合ったりもしないから派手さはないけれど、分厚いだけじゃなく2段組みになったその長大な描写が醸すビジョンを瞼に浮かべることで想像力が鍛えられる。

 「言葉」が1つのキーワードになっている割には、「言葉」が持つ力が世界の構成にどこまで関わって来るのかって点での突っ込みが、神林長平さんの「言葉使い師」とか「我語りて世界在り」とかってな言語と存在の関係についてあれこれ考えさせられるメタな作品に比べると弱いけど、それが本質ではなくむしろ「呪文」的な扱いだと理解した上で、魔法合戦を楽しみつつ間に繰り広げられる兄と妹のイケナイ関係、兄と弟のけなげな関係等々、人間のドラマを楽しめるから良しとしよー。しかし10歳にも満たないまんまの体に止め置かれて「誰が愛してくれる」と叫んだ美少女の言葉に「自分が」と頷いた人のきっと山ほどいただろーことは、ここに強く指摘しておきたい、ちょっち時期が悪くアブナイい思想なんで口には出して言えないけどね(言ってるじゃん)。

 富士見書房から一緒に出ていた加門七海さんの「死弦琴妖変」(2000円)も読了、こっちは雰囲気的には江戸時代と明治時代という時代の違いこそあるものの、小野不由美さんの「東京異聞」に似ていて、江戸の町に人間の暮らす合間を跋扈する妖怪たちの存在が描かれる。ただし、小野さんの方が人間によって押さえ込まれて来た闇の力が噴出する話だったのに対して、加門さんの方は割と人間とも共存していて、めっぽう暗かった「東京異聞」とは違って読み終えて明るい気持ちを味わえる。

 手始めは謎の四大琴という持つと願いが何でもかなう琴を探して恋いを将軍様に銘じられたお庭番の男が、吉原にあるという話を聞いたものの根が生真面目で融通がきかない性格ためなかなか本質へと迫れない。そうこうしているうちに知り合った、どこか不思議な雰囲気を漂わせる幇間の男に手助けされつつ、夢見の能力を持つ花魁に世話されつつ実は弾くと死ぬ琴だったその琴のありかにだんだんと近づき、やがて江戸の町を火事などの災害から鎮撫するために京都から連れて来た、強い呪術的な能力を持つ古(いにしえ)の一族の姉と弟が引き離されて、姉は人柱じゃないけれど江戸の安定のために封じ込められ、そんな姉を探して弟が江戸を疾駆していたことに気づく。

 同じ琴を追う、音曲が専門だった家系から出た公家で、言葉こそおじゃる丸なのに姿形は「仁王の化け物でも、塗り壁でも、新手の細見売りとでも」呼ばれるごっつさで、剣を振るっては柳生十兵衛を脅かした成田三樹夫演じた公家さんすらも及ばないくらいの腕前を持つ死生麿が現れて、お庭番主人公との大立ち回りが演じらながら、やがて琴の正体、江戸を鎮めている「イヒカ」なる姉弟の正体、そして不思議な幇間一八の正体が明かされて、物語りはクライマックスを迎える。剣術や妖術がいっぱいのバトルシーンの描写は、風水とか陰陽師とかが山と出てきた過去の加門さんの著作にはない、スピード感と迫力があって呼んでいてなかなかに楽しめる。キャラクターではとにかく死性麿が圧巻、続編とかあったら是非とも活躍させて欲しいけど、ないだろーから番外編でもいーから書いて登場させて欲しいなー、「死生麿全国漫遊記」とか。行かれた方は迷惑だろーなー。

 ソニー・コンピュータエンタテインメントの突然の会見は、雑誌で風雪が流布されたDVD再生機能への疑問にお答えします的内容で、会場には超高級なDVDプレーヤーをズラリと並べてとなりにプレイステーション2を置いて、一緒に再生させては実は最上位機種並に凄い力を持っていたプレステ2のDVD再生機能を見せつけてくれた。単純にモニターの問題かもしれないけれど、DVDに特徴的な黒い部分が全体にベタッとつぶれてしまう「黒つぶれ」がPS2で再生したものだとあんまり見られず、単純に明るめに設定してあったのか、それともソフト的にコントラストをベターに調整していたのか興味を引かれる。音声に関しては本体から直説テレビにつなぐと専用プレーヤーにはかなわないことを認めていたけれど、AVアンプにつなげば条件はイーブン、実際にDVDプレーヤーもdtsなんかを楽しむ時にはアンプにつないでいる訳だから、そーいった家庭内シアターの核として、PS2は十分以上の高いポテンシャルを持っていることになる。

 驚くべきことはそーっいった性能面の優位性だけではなく、PS2のDVD再生機能が一種のファームウェアとして供給されて、将来のプログレッシブ再生機能なんかをソフトをバージョンアップすることでPS2に与えることが出来る点。買い換えなくってもアップグレードできるってハードウェアという例では、コンピュータでOSを書き換えアップグレードするって手段があったけど家電だとこれが初、ってゆーか前代未聞で買い換え需要を促し資本を回転させて稼いで来た家電マーケットの概念をも、根っこから覆す大英断ともいえそー。

 そんな思想を実現するために、噂にあった「PS2のDVD機能はソフトに不具合があって本体に組み込めず、メモリーカードに入れて配る」ってな話の中を抜いた部分が正解になっていて、DVDのドライバーをインストールしたメモリーカードを本体に差し込まないとDVDは見られないよーになっている。それが最初から考えていたことなのか、それとも最初はチップで組み込むかメモリーに焼き付けるかして内蔵する予定だったものを、メモリーカード方式に途中で切り替えたのかってな邪推も飛び出すけれど、最初から一枚のカードを同梱すると発表した秋の時点で、あるいはすでに決まっていたのかもしれない、どっちにしたって英断武断なこってす。

 久多良木社長自身も「サーバー」という単語を口に出して語ったよーに、メモリーカードにブロードバンドのコンテンツ流通を見据えつつ、DVDやらCDといったメディアを統合しつつ、テレビモニターをメインの情報の出力先にして、CATVもインターネットもDVDビデオも将来的にはCS放送、BS放送といった「テレビ番組」さえも、1台のPS2を核にして組み上がっていくことになるのかも。アップグレードして行く端末ってあたりが、作って売ってしまったら後は性能なり機能の変化に応じて買い換えるしかなかった従来のハードウエアに対して、大きなアドバンテージになっている。ソニーにそんなビジネスが出来ないからね、たぶん。

 同じ意味ではDVDプレーヤーとして基本的な性能のみならず拡張性も与えてしまったことで、本家ソニーのDVDプレーヤーをも駆逐しかねない可能性がある訳で、そこいらあたりを口では「PS2が普及してソフトが増えれば他のハードにも市場が広がる」とは言うものの、内心「ソニーのDVDプレーヤーにトドメ」なんて思っているのかもしれない。持ってない人はやっぱ買い、ですね、あたしゃ持ってるんで細かな仕様が改められてから買うつもり、でも初日に取材にいったらついでにやっぱり買っちゃうんだろーなー「ドリームキャスト」みたく。


【2月9日】 イデオロギーとか絡む話題だと、その商業性と思想性の巧妙な結託ぶりに何故か 腹が立つ「大朝日」だけど、文化な特集とかだと、その対象へのこだわりぶりとか取材での金のかけぶりは、羨ましさを抱きつつも関心してしまう。で「アサヒグラフ」の2月18日号はメインが京極夏彦さんの特集でサブが異端な画家ってーか執念の夢想家っぽさ溢れるヘンリー・ダーガーとゆー猟期と怪奇の2本立て。そのお互いを知る人はそれほど決して多いとは思えないけど、京極の日本とゆー場所を舞台にした怪奇のビジョン見たさに手にとって、ダーガーの想念とゆー世界を舞台にした猟期のビジョンに当てられて、ファンになる人も出て来そーで、かみ合わせとしては決して悪くない、まあダーガー知ってて京極知らない人はそれほどいないだろーから、多くは京極さんが当て馬になってしまうんだけど。

 いつもどおりに眉間にしわ寄せ唇結んで美形な(でもまだちょっと「どすこい(仮)」気味)顔立ち体躯であちらこちらに出没する京極さんのグラビアもさることながら、和物な雰囲気をいい感じで表す写真の色使いなんかにまずは関心、近代的なオーディオ機器が並び和書から近刊、たぶん漫画なんかも並んでいそーな本棚が、セピアなトーンの写真の中だととたんに100年の叡智がつまった古い図書館のよーに見えてしまうからちょっと不思議。行や段落がページを跨がない京極さんのスタイルも、ワープロあってのものだとゆー意見は一方でワープロ批判を井上ひさしさんなんかを立てて親爺記者の怨念も絡めて書かれた「週刊朝日」の記事とは対象的で、ここいらあたりにも「週刊朝日」の叩く時には一方的な「中立公正」なんぞどこ吹く風的スタンスが伺える、っても「アサヒグラフ」が別にワープロ批判やってる訳じゃないから、総対としてバランスがとれてるってことなのかな

 ダーガーについてはしばらく前だかにえっと資生堂・ザ・ギンザ? だかで作品を見た記憶があって可愛い少女たちが内蔵ぶちまけてたりペニス生やしたりしてるその「気ハズレ」ぶりに感嘆しつつも震撼した記憶がある。同じ猟奇な雰囲気漂うトレヴァー・ブラウンよりも少女の少女らしさ(ぷよぷよした体系とか性的な未分化っぽさとか)で気に入ってるダーガーを、今時分に「アサヒグラフ」がフィーチャーしのは、3月に刊行らしー作品社の「ヘンリー・ダーガー 非現実の王国で」(ジョン・マグレガー著、小出由紀子訳)の前触れらしーからまずは僥倖。しょせんは膨大な量の一部分に過ぎない展覧会での作品や、「アサヒグラフ」掲載分を遙かに越えて、「ダーガー」の脳内で咲き乱れたおグロテスクにも美しい「戦う少女ヴィヴィアンガールズ」の世界にハマらせてくれればありがたい。

 筆者の四方田犬彦さんが「セーラームーン」と比較してるし四方田さんが有った美術担当記者は「プリンセス・モノノケ」を「ダーガー的」と表する辺りにアニメファンの気分を引きつける何かがあるのかも。まあ進んだ日本の「オタク文化」はダーガーなんぞをとっくに越えているから、四方田がシカゴの分野以上にダーガーを楽しく微笑ましく迎えることになるんだろー。心配なのは昨今の小学6年生がワイセツなことされた、んじゃなくワイセツなことをして捕まったエピソードに女児監禁野郎に小学生首切り野郎の登場が、世間一般の常識ではゆがんだと見なされる精神の際限を越えて迸る想像力&創造力を否定しかねない懸念があるのが目下最大の不安で、この余りに悪い時期にさてはてどーゆー受け止められ方をダーガーがするのか、とりあえず讃えて紹介している「アサヒグラフ」とのバランスをとって、「週刊朝日」が叩いて来る可能性なんてのも心配しておこー、それもまーバランスって訳なんだろーけれど。

 アニメ雑誌の早売りを購入、「アニメージュ」は表紙のネーヤさんもなかなかだけと特集のネーヤさんの「だっちゅーの」(死語)ポーズで両脇から挟んだバストのはみ出た球体の柔らかそーな雰囲気に、メタルスーツでたぶん質感テラテラなんだろーと思うけど胸を埋めてみたいと強く思う、脱がせられないんだよなーこれが。OVA批評の「勇者王ガオガイガーFINAL」に対する評の他が星4つとか5つなのに1人あさりよしとおさんだけが1つとゆー、このバキ別れぶりにかえってどんな作品なのかってな興味がわく。「作っている側はさぞ楽しいだろうな」とゆーコメントは、おそらくは作ってる側に感情を転嫁して見る今時なアニメ見巧者たちの立場では星たくさんな作品になっていることの裏返し、なんだろー。とすれば僕にはちと荷が思いか、「ガガガ」にハマって見てなかったし。

 講談社の作品なのに何故かメディアワークスの「電撃アニメーションマガジン」が特集を組むなどして大宣伝。成瀬川なるの声が堀江由依さんで素子ちゃんの声が「ミト」でシン、「バブルガムクライシス2022」でプリスを演ってた浅川悠さんってあたりに納得しつつ特集を読む。で最大の謎なんですけどこの表紙、いったい「誰」なんでしょーか(爆)。正面からってあんまり見たことがないからドギマギしてしまって「なる」だとちょっと気づきませんでしたがや。「ブギー」もを組んでて、商売下手って声も挙がっている割にはメディアワークス、メディアミックスは淡々とやってるって感じでしょーか。「六門天外モンコレナイト」はニュータイプの緒方絵六奈もアダルティーで捨てがたいけど、「電撃アニマガ」のデメキン&激怒な顔も捨てがたい、よくぞ拾ってくれました。

 藤野千夜づくし。「夏の約束」(講談社、1200円)を読んだんで「少年と少女のポルカ」(ベネッセ、1100円)との間にあった「おしゃべり怪談」(講談社、1600円)と「恋の休日」(講談社、1500円)もまとめて勝って読む。「おしゃべり怪談」に収録の「ラブリープラネット」が女性になってしまったトランスセクシャルの兄が登場するってあたりで「夏約」「少ポル」(少女ポルノっぽいから略すの止めるか)のトーンや著者の属性に割とフィットして先入観から理解しやすい話だったけど、そこで語られているのもトランスセクシャルの特殊性ってよりはそんな兄(姉)を持ってしまった妹の、普通に接しているようでもどこかに残っている鬱屈や屈託で、それが自宅への留守電とゆー形に噴出している様がクライマックスに描かれていて、人間のなかなかに複雑な心の模様が浮かび上がる。

 「恋の休日」に収録の「秘密の熱帯魚」は漫画家の主人公が結婚後にホモセクシャルだったと分った旦那と別れた後のどこか抜けた気持ちを描きつつ、仲間や仕事相手との交流をはさみつつ1つの悲劇も織り交ぜつつ、やっぱり淡々と進んでいってしまう日常の空気が出ていて1番のお気に入り。昨日まで一緒にいた人の突然の死にも驚くよりはポカンとし、それもいつしか日常に埋没していってしまう様子の今っぽさから、逆にそんな自分たちの姿を見せつけられる気がしてちょっと悩む。「おしゃべり怪談」はシチュエーションとして風刺っぽさがある「文学」な作品、1時間ドラマとかにすると見た目は派手になるけれど、麻雀卓を囲むOL4人がストーリー中でほとんど喋らないからそれはそれは奇異な絵になるだろーなー。買った2冊がともに初版だったけど、別の本屋だと帯が付いて2刷になってたから「芥川賞」の偉大さがあらためて分かる、「このミス」「文春」とはやっぱ比べ物にならないケンイがあるんだなー。

 電通テックって会社の広報の人たちと交歓会、主にCM業界の話とかを聞きつつもテンションの上がって来た1人の女性広報の炸裂する様に次第に耳が朝顔になる。目の前の上司に堂々と意見も言えば超偉い人への意見も言うそのフランクぶりは会社の風通しの良さの現れでもあるけれど、それにしても年輩なオジサンたちに愛用の多いレース(紐)のついていない、かといってローファーともタッスルとも違う柔らかい素材でトゥがシワシワに縫ってある靴を称して「ギョーザ靴」と言い切るこのガラっぱちさは、今読んでる「どすこい(仮)」(京極夏彦、集英社、1900円)に山と登場する編集者の弓塚さんともC嬢とも千津野さんとも結構競ってるかも。仮にK原さんとしておくこの広報な人の前に出るときは、たとえマレリーがバリーであっても「ギョーザ靴」は止めてカチッとした靴を履いていくなりして下さい。浅葉克己さんの赤い運動靴はどー思って見てるのかな?


【2月8日】 先週号で山形浩生さんにインタビューして今週号で永瀬唯さんと対談している「SPA!」での森山和道さんの八面六臂な活躍ぶりに敬服しつつ、電撃ゲーム小説大賞受賞作から金賞の「ダブルブリッド」(中村恵里加、イラスト藤倉和音、550円)を読む。怪(あやかし)と呼ばれる一種の妖怪変化の類が人間社会に存在している状況を背景にして、人間に敵対する原始的な化け物的な怪を、割と人間っぽさの見える利口な怪が退治するシステムが整った日本を舞台に、怪と人間とそして混血の「ダブルブリッド」の3者が織りなす相剋を描く。

 主人公の少女・優樹は見かけは10代ながら実は25歳の女性で甲種の怪として政府に登録されていて、乙種なんかの怪が暴れ出したら捉えに行く役割を与えられている。ところが見かけの美少女っぽさとは違って戦う場面のそれはもう激しいこと、生命力のそれはもう強いこと。怪の為に作られた警察の部隊の猛者も最初は排除し最近は脅えて声もかけない中を、理解ある隊長がいてその部下を彼女の配下に送り込んで怪と人間との融和を図ろうと努力する。

 けれども少女を恨んで付けねらう優樹と同じ甲種の怪がいて、少女の生命力に関心を示すマッドな科学者がいて、怪を欲しがる某国がいてとあれやこれやの大混戦。合間に圧倒的なパワーを誇る怪は人間にはそれほど関心がなく、逆に弱いからこそ人間が怪に関心を示すんだってな論旨が繰り広げられて、怪物を廃しようとする人間の臆病さのようなものが浮き彫りされる。優樹とゆーみかけは少女だけど中身は女性な怪の飄々として抜けているようで実は凄いんです的描写がなかなかで、仲間が消えた後も1人健気に仕事をし続ける姿にきっと誰もが涙するだろー、一緒に渋谷の事務所に泊まって上げたい、とか。

 最初は頑固で最後は優樹にトロトロな若い警官の山崎の描き方が、ともすればハッピーエンド過ぎる嫌いもないではないけれど、結局は分かり合えないなんてな残酷な最後よりもやっぱり通じ合う所があるんだよ的なエンディングの方が気持ち良いからこれで良しとしよー。人間界に関心のない圧倒的な強さを誇る怪の癖して日本を背後から操ろうとしているのは何故? ってのが1つ疑問だけど、ありそーな次巻以降でそこいら辺りも追々と明らかになっていくでしょー、とりあえずは期待を表明、優樹ちゃんフィギュア(ソファーで飲んだくれてるバージョン)が欲しいなー。

 いーかげん流行もピークを迎えて競馬なオッサンが大半な西船橋の駅でも朝っぱらから「キックボード」(俗称けりんこ他様々)を抱えた兄ちゃん姉ちゃんを見かけるようになると、さすがに流行モノには目がなく「ファービー」でも「ビーニー・ベイビーズ」でも2時間3時間ならんで平気な 人間でも、手に入れ乗り回そうとゆー気が失せて、代わりに何かしらネタにして遊べやしないかとあれこれ考える。手っ取り早いのが段ボールの紙をかパイプで似た形のを作って持ってあるく「アクセサリー」としてのキックボードだけど、日比野克彦級な工作の腕前もないとこれはなかなか難しい。あるいは2台を買ってそれぞれにスキーだかスノボだかのビンディングを取り付けて、両足に履いてスケートよろしく乗り回ってことだけど、これも技術がいりそーでなかなに面倒臭い。荷物を運ぶ時に使う4輪の台車で走るのってのは、アリかなー、でも取っ手側とは確か反対の車輪が左右に動くよーになってるから乗りこなすのは難しそーだしなー。

 本当だったら今時な「キックボード」隆昌の中で、我々の(つまりは30歳台前後の)記憶にマザマザと残る「ローラースルーゴーゴー」を取り出して、渋谷原宿六本木、栄今池上前津な繁華街をスーイスイと乗り回し、若い人にはあれは何だと言わせ、同世代には懐かしさに涙を流させたいものだけど、何せ流行から20年は経って未だに完品を持っている人なんていそーもないし、あっても相当に高そーなんで、ここは家の物置なり納屋から壊れてても錆びてても構わないから、発掘し故障を直し全塗装して売り出せば結構な商売になりそーだと思ってみたりする。「お宅の物置拝見」とかって全国回るか。「ローラースルーゴーゴー」って乗ってたの「少年探偵団」だったっけ? 何か子供番組の宣伝にぎょーさん出ていたよーな記憶があるんだが、うーん。

 何故かグループだからって訳っぽくカタログの「ディノス」が届く。こーゆーの見るのって結構楽しく便利品とか普段変えない珍しい品物とかの機能やら値段を見てはバカだね高いね珍しいね欲しいねなんて考えてると時間がどんどんと経っていく。今回のカタログで目に入ったのがチェロのセット59800円也。サイレントチェロなんて便利だけど20万円からしてとてもじゃないが手を出せない身にとって、うるさいし安いだろーけと手軽に人目を気にせず手に入れられて教則本まで付いてくるセット物の通信販売って魅力的に映るんですよ、空手の通信教育よりはまだ身に付きそーだし。

 新潟な某監禁者の部屋より西葛西のアメコミな人より綺麗とは言っても程度問題でしかなく、練習する防音室どころか下の尖った部分を立てる場所もなければ、弓を握って左右に振るスペースすらない狭くて汚いマイホーム。ゴルフバックや自転車を超えて邪魔物扱いになって行くのが目に見えているから、やっぱりチェロは買えないなー。あるいは買うだけ買ってケースに入れて「京フェス」なんかに持って行き、帰りに竜安寺へ寄って石庭の見える縁側でヨー・ヨー・マよろしく弾く真似だけして帰ってくるか、参拝客への迷惑も顧みず。気分的には1人じゃさすがに気が引けるんで、そーだな10人くらいで通販でチェロかって背広にタートルにめがねにオールバックなアーティストっぽい格好で合わせて集団で竜安寺に行ってチェロを取り出し一斉に弾き始める、なんてやってみたいんだけどどーでしょー、もちろん楽曲は「インドの虎刈り」を。


【2月7日】 業界に広がるどころか二階堂黎人さんと茶木則雄さんの激しいバトルは、「二階堂黎人の黒犬黒猫館」のトップに謝罪のコメントが出て、怒りの噴出ぶりに読む目も熱く燃えだした「『座談会 隔離解放戦線』の嘘を暴く!」へのリンクも切れて今は読むこともかなわず、遅れて来た人には何がどーしてどーなったのかが分からなくなってしまったまま、急速に沈静化の方向へと進み始めてしまった。誤解がとけてまずは良かったねってことなんだろーけど、「嘘を暴く!」で二階堂さんが示した怒りに紛れて漏れたホンネっぽさの垣間見える書評家へのスタンスは、作家と書評家との関係を作家側の希望も含めて示す上で大いに参考になったから、出来れば形を変えてでも公開し続けて頂きたかった。

 あと確か記憶では「書庫」に置いてあった、本格のファンや作家から馬鹿にされていても業界には暗然とした力を持つ評論家の狼藉ぶりを描き、実名でご登場の笠井潔さんとの執筆交渉権を、その評論家のプライドを擽るよーな仕掛けを施し高額で獲得させては、スキーをやらない評論家編集者とはつき合わないとの理由でたたき出させて溜飲を下げるオチまで付けた未発表の短編までもが、消えてしまっているのは残念なことこの上ない。講談社のノベルズの新刊を闇で仕入れて客に読ませる「ミステリ喫茶」とか、主語だけ並べて間はミステリ用”スクリーントーン”で埋めて小説を仕上げる量産作家とか、料理の鉄人ならぬ「プローズボウル」風なライティングバトルとか、島田荘司さんの新刊を1カ月早くそれもお値打ち価格で、ヘルスメーターと新刊がもう1セット余計に付いて購入できるテレビショッピングとか、モデルのあるなしに関わらず、ミステリー業界の妙に商業主義っぽくなった将来像が、筒井康隆さんの短編のよーに描かれていて、それはそれでとても面白かったのに、ってちゃっかりノートに落として「T−Time」で読んでたりするんだけどね。

 もう笑うなんて気分を通り越して暗澹とするってゆーか唖然とするってゆーか。先の余りの権威へのおもねりぶりに、どう続くのかと好奇心いっぱい胸ドキドキで読んだ「週刊朝日」のキャンペーン「山崎豊子『沈まぬ太陽』大ベストセラーのカラクリ」、その「下」は電車の中吊り広告にあった見出し「読者が一番泣いた『御巣鷹山篇』こそ『許せない』」なんて書いてあったから、あるいは書かれた遺族あたりがプライバシーを侵されたなんて非難の声でも上げているのかと思いきや、小説だと主人公の恩地って人がジャンボ機墜落事故のあった山に登っているのに、モデルと言われる小倉さんって人は登ってないのはヘンじゃないかってな主張が中心で、それがどーして「許せない」とまで批判されるのかがサッパリ分からず、脳味噌が海胆になる。

 あるいは1人をヒーローに祭り上げよーとする余りに、他の世話係の人たちが理不尽に冷たい人たちにでも描かれているなら怒るのも分かるけど、世話係の取りまとめ役だった人は小説でもちゃんと善玉に描かれているにも関わらず、「ああいう人物がいたと書かれると、けがされた気持ちがする」なんてコメントを出して非難する。自分たちの手柄でも横取りされた気分になったんだろーか。「ふつうじゃない経験をともにし、みんなが遺族のためという一つの目的で動いた」ってこの人は言うし、別の世話係の人も「あの経験は、そこにかかわった人間じゃないとわからない」なんて言ってる。

 たとえ恩地に小倉さんってモデルが大きな部分重なっているとしても、それは決してイコールじゃなく、航空会社が抱えていた問題の場所に絡ませては、それを告発する立場を取らせる役回りを演じさせている、一種の観察者なんだと思えばいいし、さまざまな思いを凝縮させたシンボルなんだと思えばいい。小説の「恩地」には自分たちの思いも幾ばくか入っているんだと考えれば、他の多くの世話係の人たちは、たっぷりとお世話した遺族の姿にきっと思ったに違いない、あの悲劇を現出させた企業への、社会への怒りを「恩地」なる主人公に仮託して発現できたと喜んでしかるべきじゃなかろーか。にも関わらずの怒りぶりは、「恩地」がすなわち「小倉」であるとの混同した上で、その「小倉」ばかりが英雄と讃えられるのは釈然としないという、半ば嫉妬めいた気分でが裏にあるから、なんだろーか。

 よしんばモデルとされる小倉さんが現場にいなかったからといって、それが世間にいったいどんな誤解を与えるというのか。小倉さんがそう思わせるように振る舞ったという事実でもあるなら別だけど、そんなことがあったとは聞いていない。元群馬県警本部長の「事実と錯誤され、それが定説となって事実が薄くなる可能性がある」という言葉は、なるほどフィクションの持つネガティブな部分を指摘してはいるけれど、果たして「恩地」なる架空の人物が「御巣鷹山」にいたと書くことが、「事故を風化」させたり「歴史をゆがめる結果になりかね」ないほどの「倫理上の大罪」なのか。個人的にはフィクションが世界をいくら改変しようと構わないという認識があって、それこそが作家的想像力だと思っているけど、1歩引いて現実を歪めるフィクションには問題があるとしても、「沈まぬ太陽」が歪める現実が問題から目をそらしたり、事故を風化させる方向に働いているとはとてもじゃないが思えない。「倫理上の大罪」? なにそれ。

 巻末に「事実に基づき」と書いてあるから「一つの事実を担保に、その他は無限に広げていくことが自由だとするなら、『沈まぬ太陽』そのものも、このイエロージャーナリズムと同じ」と切る中条省平さんは事実をもとに作家的妄想力を加味して出来上がった私小説などのよーなジャンルをどう見るのか。「どんなに批判的に書いても、書かれた人も納得できるかどうかが、書き手の力量の境界線」なんて吉岡忍さんは言うけれど、批判した相手にお説ごもっともなんて言わせる告発にどれだけの力があると言うのか。何かを批判しようとするならば、批判された相手が激怒しようと訴えて来ようとも、信念を貫き通して非難し続けるのがジャーナリズムじゃないのか。

 ほかにも佐高信さんまで動員してバッシングしているこの記事を、普通真っ当な人間が読んで果たして「山崎豊子バッシング」になっているのかってのが最大の疑問で、あまりの企業側、官僚側、政治家側の自己弁護ぶりを見るにつけ、かえってモデルとなった航空会社やそこで働く人たちの、気持ちの歪みぶりがクローズアップされているよーに思えてくる。ってことはなるほど流石は「週刊朝日」、見方しているよーでその実「ホメ殺し」でもって航空会社や政治家や官僚や作家や評論家たちの不見識ぶりをさらけ出しているに違いない、いやお見事な腕前です。かつてカポーティらを輩した「ニュージャナリズム」すら超える、これは新しいジャーナリズムの手法として今年の流行になるでしょー、俺も真似してみよーかな、「コナミさんはマイナーな会社のソフトをかき集めて自社流通網で自社ブランドで売ってさし上げ、営業や宣伝までしてさし上げる素晴らしい会社です」、とか。

 1月31日に続いて今週もダラダラと大量に書いてしまった。決して山崎豊子さんとゆー作家の見方って訳じゃなく、過去に何かの雑誌とかでスタンスなり「大地の子」への盗用疑惑なりを批判されていた時にはこれほどまでの憤りは覚えなかったのに、今回の「週刊朝日」の記事にこーもお腹が茶を沸かすのは、商業的であってもスキャンダリズムであっても「ジャーナリズム」が絶対に向かってはいけない方向に、矛先が向けられたから、なのかなあ、まあ「朝日」って組織体への憧れつつも非難したいドロドロした怨念があるのも事実なんだけど。それにしても「大朝日」の「大キャンペーン」にどーして他のメディアは相乗りなり反発なりしないのかが不思議、あの「朝日」にしては珍しい企業へのおもねりぶりはニュースだし、今週号が定期したフィクションとノンフィクションのあり方は、およそすべての作家やジャーナリストに疑問をつきつけてると思うけど。まあ先週の今週で反応が出るはずもないから、しばらく様子を見ていこー。


【2月6日】 そーかちゃんと来ていたのか。AMDことデジタルメディア協会の一等賞授賞式&パーティーで小林弘人@サイゾー編集長は人遁の術で我が目より逃れて密かに当方を観察していたとか、これではステルス・ジャーナリストの名が廃る。金髪でもなければ着グルミも来てなかったんで分からなかったのかな、それとも江並@デジタローグ&萩野@ボイジャーの偉大すぎるが故にキラキラと後光が指してとても正視できない人たちと話していたんで眩んでしまったのかな、当方も混ぜればリビナヤマギワだって霞みそーだし。ワイアード時代にプレゼンターを務めたのは1度しかなかったとかで誤認を訂正ときます、まあ何せここん家でも紹介されてる「本」に登場しておられるビットバレーな若くてお金持ちでエラい面々のほとんど1人もお近づきになれない(ならない)(なりたくない)ヌル記者なんでお許し願えれば幸いである。

 事実誤認と言えば、先に1月15日付産経新聞の「斜断機」で、評論家の山崎行太郎さんが作家の大西巨人さんの故・江藤淳氏に対する評価を不当と見て行った批判の中で、幾つかの間違いがあると当の大西さん自身が産経新聞2月6日付に寄稿している。要点から言えば文学博士になった江藤さんが自分を「偉くなった」「批評家はだめだ、まだランクが下だ」と言ったか言わないかについて、山崎さんが証拠を見せろといったことに大西さんが新潮社から刊行されている「なつかしい本の話」所収のエッセイ「日記から」を良く読めと言い、「現役だった頃に、堂々と言ってやればいいことだろう」との山崎の問いにも、何本ものエッセイを挙げてやっぱり良く読めと言っている。

 江藤さんと大西さんが同じ海軍軍人の家系だから、大西さんがライバル意識をむき出しにして罵 倒したんだ、との指摘は大西さん本人が「私の家系には、海軍軍人も陸軍軍人も、一人もいない」と言っているからやっぱり間違いなんだろー。前2つの反論については、ニュアンスの違いとか解釈の温度差とかがあるから掲げられた文献に当たってからでないと良く分からないけど、俗物ぶりの前提として「ライバル意識」云々を掲げて人格を攻撃していった「斜断機」での山崎さんによるの批判が、そうした拠り所を無くす可能性がある以上は、純粋に発表された文章での事実があった かなかったかを互いに検証し合った上で、「江藤淳」について考えて行ってもらいたい、喧嘩は面白いけど人格攻撃はやっぱ見ていて辛いし。とは言え、大西さんも「文学的=批判的な能力の欠落・人間的な品性の低劣」なんて言っちゃってるから泥沼な展開になりそーな気もしてるんだけど。

 「斜断機」だと1月29日付でも高澤秀次さんが「大西巨人の江藤淳論の珍妙さ」とゆータイトルで文章を寄せていて、こちらは江藤さんが故・中野重治氏に対して行った批評の根っこに中野さんから揶揄された江藤さんの復讐があったと推理した大西さんへを、「下司の勘ぐり」と指摘している。「批評空間」新年号の論文が未読な現時点でどーゆー文脈から江藤批判を行っているのかが分からず「下司の勘ぐり」なのか否かは判断出来ないけれど、文末の「こうした下司ぶりを『俗情との結託』として唾棄した硬骨の作家は、かくして恍惚の人となり果てた」とまで言われている以上は、俗情などとは結託してなかったことをやっぱり大西さんには示して頂きたいもの。2対1な上に舞台が江藤淳ライクな産経だとウヤムヤにされそーなんで、ここは衆人環視の中でのどつきあいが可能なホームページの世界で戦って頂けたら、このメディアの面白さってのも一気に広まるよーな気もするけれど。二階堂さんvs茶木さんでは業界には広がっても権威好きなメディアは動きそーもないからなー。

 とは言え、「俗情との結託」し過ぎてメディアが文学者の喧嘩ばかりを取りあげるのも考え物で、その隙にもっと大切なことが見過ごされる、あるいは意図的に見過ごす事態が起こらないとも限らないから注意が必要。盗聴法に日の丸・君が代法に国民総背番号制がパタパタと通った1999年のあの夏に、メディアは「俗情に徹底的におもねり、俗念を押し売りするやり方」(「私たちはどのように時代を生きているのか」104ページ、辺見庸×高橋哲哉、角川書店、980円)でもって、猟奇的な犯罪やスポーツのヒーローの誕生や芸能界のスキャンダルの報道に大きな勢力を注ぎ、「国会の重大性を”無化”した」(同)からね。

 この文章が収められているのは、辺見×高橋の対談ではなくって、対談では言えなかったこととして辺見さんが書いた文章で、タイトルからして「新しい『ペン部隊』について」などと、単に刺激的という度合いを超えて、現行ジャーナリズムの根元的な様相と、それへの徹底的な批判を含んでいて、読みながら愕然とし、呆然とし唖然としつつ、だからこそ毅然とせねばという強い思いに駆られる。もはや「ペン部隊」自体の記憶が失われつつあるのかもしれないから説明すれば、日中戦争の折に時の文壇の大御所たちがこぞって戦地へと赴き、ペンでもって国威の発揚を行ったのがすなわち「ペン部隊」であり、後付けで言うなら軍国主義のお先棒を担ぎ、日本を悲惨な道へと引っ張っていった、軍人より以上に罪深い存在、ということになるのだろう。

 ここで「当時だったら、それが正しく、普通だったんじゃない」という言葉も用意できるし、ひるがえって自分だったらやっぱり同じことを「名誉」と感じ、実行しただろうという想像は十分に可能だけど、辺見さんの文章は「ペン部隊は実時間にあっても、現時点においても、未来にあっても、変わらずに醜悪なのであり、犯罪的であり、屈辱であり、愚劣でえあり、滑稽である」と断じている。たぶんそれは、環境によって時代によって視座が変化することを認めれば、現時点にあって何かしらに反対することもまた、将来からの視座に照らして果たして正しいだろうかという反問を招き、思考を停止しかねない懸念をはらんでいるからなのだろう。

 ひるがえって今、辺見さんが「新ペン部隊」と呼ぶ「俗情におもねり、俗念を押し売りする」すべてのマスコミが、戦時下の「ペン部隊」以上にやっかいなのは、「部隊を領導する強力な個人」はおらず「国策におおむね忠実」で、「ときにたてついているかに見せかけても、最終的には忠実」な点(「たてついているように見せかけているところが『新ペン部隊』の”芸”なのである」とは至言)。かつ成員も「新ペン部隊の隊員であるという自覚すらない」ため、攻撃する司令部もなければオルグする細胞もないとゆー、まことやっかいきわまりない状況になっている。何故そうなってしまったかと言えば、それはマスコミが「市場と資本にのみ領導されている」からで、つまり人間は豊かな生活安定した未来そして擽られるプライドはやはり捨てがたい、ということなのだろう。

 撃つべき急所がない「ヌエ」のような「新ペン部隊」にさてどうやって挑むのか、辺見さんは「ならば、成員に内部からの反乱を呼びかけるしかない」と説く。自覚がないんだから反乱なんて、と思うのはこれまたストレートな反応だけれど、目覚めるなり現況への懐疑を確固たるものへと変える人が、本書を読んで登場する可能性は皆無ではない。「新ペン部隊」をすぐさま壊滅は出来なくとも、蟻の一穴蜂の一刺し、堤防を崩し強固な免疫を崩壊させるその先触れになればと思って、ここに辺見さんのアジテーションを引用して締める。「顔を取り戻せ、言葉を取り戻せ、文体を取り戻せ、恥を取り戻せ。反乱の勇気がないのなら、その場で静かに穿孔せよ。情報市場に細かな穴を開けてしまえ。帰属する組織にたくさんの私的な孔を穿て。深く密やかに穿孔せよ」(110ページ)。国立なガッコでアカデミズムに孔あけまくって水浸しにしてしまってる先生(暫定サイトで好評営業中)はまだしも、あたしなんぞは「新ペン部隊」と呼ばれるのも烏滸がましいほど影響力の乏しい弱小メディアの成員なんで、穿孔したって患部ごと全体が切り取られてオシマイなんだけど、あー辛い。


【2月5日】 寝とぼけて朝になってしまい慌てて書き上げた当欄をアップしてからテケテケと東京都現代美術館へ向かう。スポールさんがセレファイスな展覧会が開かれてるって聞いていたけどそんなオタク&クトルフ入った展覧会では全くなくって(当たり前だ)、おフランスの前衛なアートが集う「シュポール/シュルファスの時代 ニース〜パリ絵画の革命1966〜1979」って名前の真面目な展覧会だったんでちょっとガッカリ。いや別に最初から名前も内容もおおよその見当は付けていったから「スポールさんがいねえ!」なんて暴れはしなかったけど、展示してある「シュポール/シュルファス」と呼ばれる運動の中から出てきたアート作品の、なるほど綺麗だけれどまとまり過ぎてる感じがあって迫力をそれほど感じなかった、何だか訳わかなんあいけど熱っぽい毒まみれな作品を見すぎて来た罰が当たったかな。

 詳しくは知らないけれどこの「シュポール(支持体)/シュルファス(表面)」って運動は絵画から描かれているもののイメージも物語性も排除して、「画布、木枠、色彩といった根元的な構成要素による絵画の本質の探求」するってことらしく、展示してある作品も障子の桟みたいな薄い格子をロールにしたものとか、網とか紐とか線上に塗り分けられただけの巨大なタペストリーとか木枠とか繰り返される模様とかいったものが中心になっている。それらはなるほど”純粋絵画”とでも呼べる抽出された絵画の構成因子かもしれないけれど、小説でも何より「物語性」に重きを置く古くさい人間にとってそーいった純粋性は、決して支持しない訳じゃないけれど共感はあんまり出来ない。小説でも評論でも哲学でも、なかなかに”脱構築”とは食い合わせの悪い人間らしー、僕ってば。

 見た目にインパクトのあるポップ・アートも行動に目を凝らせるコンセプチュアル・アートも、それが好きか嫌いかは別にして人間の煩悩を刺激する物がそこあって何かを感じることが出来るし、作家自身に関する情報も結構あってそこに手がかりを得て作品への感情を盛り上げることが出来る。「シュポール/シュルファス」の作品群は、フランスのアーティストとゆー個人的に何ら情報を持たない人たちによる理詰めっぽい作品ってこともあって、結果でしか見るしかなく容易に感情移入を許さないのがちょっと辛い。しかし、それこそが一切の「情」を排除し「理」でもって絵画の本質を見極めようとした運動を見るに相応しい条件だとしたら、むしろ何に反発しているのかを組み上げて、既存の絵画への感情と比べて自分がアートに求めているものは何かを探るってのも1つの手なのかも。巡らない頭にはちょっとキツいけどしばし想像をめぐらしてみるか。

 分かりやすさで言うなら日本の若手アーティストを集めた「低温火傷」の方が格段に分かりやすい。マクドナルドの「M」の黄色い看板が円状に並べられたり「ローソン」「ファミリーマート」「セブン−イレブン・ジャパン」「am/pm」を象徴するカラーリングの看板を並べたりして消費文化を支えるイコンを目の当たりに見せてくれる中村政人さんにしても、郊外を撮ったホンマタカシさんにしても、属人的な理由から”脱構築”との食い合わせの悪さを発揮してしまった「オルタカルチャー日本版」の表紙にも使われていた、ティディベアにヘッドホンの小さなスピーカーを山と付けた作品で、勝手な音声を流す安心を不安、静寂と喧噪の直中で暮らす僕たちの姿を垣間見せてくれる中村太陽さんにしても、何らかの物語りを組立られる作品ってあたりが「分かりやすさ」につながっているのかもしれない。勝手で方向性の違った理解かもしれないけれど。

 双子の森雅章と森喜章が組んだユニット「森章」の作品に、双子ってことで興味をちょっと惹かれたけれど、「身体の特徴や成育環境の類似から思考、思想までもがお互いに共通することの再認識を木に、2人の間でどこまでが固有でどこまでが共有なものなのかを探る」ってな作品を作る上での衝動に、二卵性とは言え同じ家の中で同じ情報を得て育ったにも関わらず小学校に入る前に性格でも興味でも相当の差異が出ていた自身の経験から共感が出来ず、2人が裸で背中合わせで座ったり立ったりする映像を見て、双子は外見の相似性もさることながら精神の同一性も持ち得るといった外部の”期待”に答えよーとしているんじゃないかと勘ぐってしまう。当人たちに意図があるかないかは知らないけれど、そーいった仕掛けも含めて、似た者似た部分を結合し融合し共生して生きたいとゆー人間の気持ちを顕現させる作品ってことなのかな。作品と連動するページもあるそーなんでのぞいて考えてみよー。

 仕事が重なってちょっと行けそーもない「ワンダーフェスティバル2000冬」だけど資料的な意味もあるから買いのがせない公式ガイドブックを秋葉原の「海洋堂ホビーロビー」で購入する。裏面に「ワンダーショウケース」の第2弾が掲載されているんで行って発表を聞かなくってもこれ見て適当に記事をでっちあげるかな。冒頭の「かい・ようどう」のアクション・フィギュア賛に「ガレージ・キット」とゆーカルチャーの諸相に変化が起きて来ているってことが改めて示されてけれおd、これをして「ガレキの終焉」とは見ずに、ギミックも造形も優れたリアルなフィギュアが、ユーザーを総体としての「ガレージ・キット」に引きつけると見る辺りがいかにもガレキ総本山に君臨する「かい・ようどう」らしー。

 単に見た目が「似ている」程度のアクション・フィギュアではガレキどころか玩具の市場までをも縮小へと追い込むのは確実で、だからこそ「かい・ようどう」もアクション・フィギュアを称揚しつつも原型師の力なりスピリッツが必要だと訴えているんだろー。そんな海洋堂が送り出すアクション・フィギュアは、有言実行を地で行かざるを得ない訳で、ワンフェスで販売される浅井真紀さん渾身の「ヴァッシュ・ザ・スタンピード」が果たしてガレキな人も玩具な人も満足させられる出来になっているのかには、今からちょっと注目してる。何故か珍しく送られて来た招待状で10時に入って素知らぬ顔してブース前に並び、限定品のカード付き「ヴァッシュ」だけ買ってから仕事って必殺技は、寒空に早朝から並ぶ人たちを思えばっても使えないから明日の購入は諦めて、カードは入ってないけど「ホビー・ロビー」に出てから買おう。秋葉原デパートで「ピュアガール」の最新号を立ち読みして新連載を始めた人の名前に「年内」は付いていないことを確認しつつ帰宅、サッカーは何故地上波で放映しない! と怒るものの負けたみたいなんでいーや。


【2月4日】 ネットゲーとか「iモード」とかが流行の兆しなんで、人形焼きと親子丼の町、人形町にあるドワンゴって名前の、ドリームキャストで遊べるセガのネットゲー「セガラリー」とか「オラタン」なんかのシステムを担当した会社に話を聞きに行く。金髪な社長は前にコンピュータ・エンターテインメントソフトウェア協会(CESA)の賀詞交換会に来ていた時は背広だったから、まるでビットバレーなベンチャくん、って雰囲気だったけどセーター姿になったら普通の若い人だった。何か安心。背広姿でシャツ黒い金髪兄ちゃん(でも日本人顔)ってどーも好きくないんだよなー、偏見かもしれないけれど。

 聞いた話で面白かったのは、「世界の誰とでも」「何時でも対戦できまーす」ってな文句で語られるネットゲーの本当の魅力はそんなところになくって、知り合い同志がネット上で対話する感覚で遊ぶ”チャット”みたいな楽しみ方が主流になるって言ってたことで、だとしたら家とゲーセンで呼び合って、同じ時間をシェアして「ヨーイどん!」でスタートするプロモビデオを見せられた「ファイナルファンタジー11」も、最初の印象では「それで楽しいの?」って思ったけど、あながち的外れなシロモノではなかったみたい。もっともゴールを目指してイベントこなし進んでいくタイプのゲームが「世界を作ったから後はご自由に」なネットワークのRPGに向くかって疑問は未だに消えてないんだけど。さてもどーなることやら。

 ドワンゴで現在好評売り出し中なのが「iモード」で楽しむ釣りのゲームを船で貿易をするゲーム。繋ぎっぱなしで釣りなんてやったらお金がかかって仕方がないって思う人が大半だけど、ここん家の面白いところは釣り竿をたらす操作を送ったら後は切って魚が針にかかるまでを待つ「時間経過」の概念が入っているところ。魚が針にかかると電話機にメールが届いて知らせてくれて、アクセスすると何が釣れたかが解るって寸法で、詳しくは知らないけれどここでまた針を垂らして電話を切ると、次のメールで新しい魚が釣れるってことになってるみたい。船の方も港で交易を行ったら後は電話を切って次の港に到着するのをひたすら待つ。長いと18時間くらいかかる港もあるそーで、50くらいの港が用意されているからかかった時間をプレイヤーどうしで公表しあって、マップを作るなんて楽しみ方も出来るかも。常時接続したってたいした料金にはならない外国だと生まれない、料金問題を遊び方で切り抜けた日本ならではのゲームってことになるのかな。「iモード」も買うしかないのか。

 しかしよくよく突っ込まれ易い人なのか、「二階堂黎人の黒犬黒猫館」(掲示板まで出来てるぞ)で「蘭子シリーズ」の二階堂黎人さんが、書評家の茶木則雄さんや関口苑生さんが池上冬樹さんも交えて登場した「ミステリマガジン」3月号の座談「隔離解放戦線」を激しく攻撃してる。面識もなく作風と近影で判断すると割と穏やかそうに見える二階堂さんの怒り心頭ぶりには、逆鱗虎の尾口内炎通風虫歯等の、激高を招く何からを、座談会が踏んだり触れたり噛んだり正露丸を詰めたりしたってことになるんだろー。

 抜粋もあるから二階堂さんがこれほどまでに激高する対象が何であるかはページを読めば解かるとして、ここへの更なる反論をさて茶木さんはどこで行うか。現在はネットは巡回出来ても自分のページはない茶木さんだけど、当の「隔離解放戦線」を読むとパソコンデビューなエッセイを刊行する予定もあるよーなんで、ここは論争に対応するためにページをたてて反論をアップして動画も取り込んで肉声肉映像も流して最後は”しーゆーしーみー”(死語)ライクな中継までしてしまうまでを、盛り込んでみるってのも一興かもしれません。火事と喧嘩は江戸の花。火の粉が飛んで来るはずもないから行く末をしばし注目して見ていきます。

 書評なんてことをネットであっても公開している身としてあれこれ考えを巡らす事とは別に、思うのはやっぱりネットとゆーメディアの敷居の低さで、最初に伝わる範囲は狭いかもしれないけれど、非難されればこーして「オープン」な場で立ち所に反撃できてしまう軽快さはあなどれない。話題になればなったで、リンクなんかで一気に広がる可能性もるし。逆にネットならではの目新しさ(今時だけどオヤジな人は目新しい、官公庁ハッカー問題の騒ぎぶり見れば解るよね)が麻雀のドラみたく倍増しくらいにバリューを押し上げるからシメたもの。どこかのメディアが「作家VS評論家 ネットで大激突!!」とかってな感じで記事にしないとも限らない、二階堂さんと茶木さんなら芥川直木な人ではないけどそれなりに知名度はあるし。

 とは言え、軽快さが逆に議論の果てしない応酬を生んで、雑誌上での論争だったら載らなくなったら「終わったこと」になってしまうものが、ネット上でだと延々と繰り広げられる可能性もある訳で、かつリアルタイムな反応もあって外野の応援反論も加わって一気呵成に燃え広がれば、当事者の体力知力毛髪力の消耗は避けられない。人格に関わるニュースの応酬は、スポーツ新聞のトップ記事が野球選手の結婚話だったりすることが示しているよーに、スポーツだったり著作物といった本業の部分を超えて人間の関心を引きつけるからやっかいで、巻き込まれて二階堂さんが作品を書く時間を奪われたり、茶木さんが「以前よりミステリー業界において様々な問題を起こしている問題児」(「座談会 隔離解放戦線」の嘘を暴く! 」前書きより)とされながらも仕事をし続けて来られた事実が示す何かしらの取り柄までをも否定されることがないように、落ちつくべき場所へと落ちついていって頂きたい。どちらも喧嘩好きなら構わないんだけど。

 「あずまんが大王」(あずまきよひこ、メディアワークス、680円)届く。佐藤辰夫さんなんて普通の人は誰も知らないおっさんが帯で「これは面白い。いや、とても面白い」と誉めたって効果はあるんかいな? と思ってどーせ社長な人が登場するんだったら発売元になる角川書店の角川歴彦社長を引っぱり出せば面白いのにと外野席から思う、2巻では是非。キャラクターの設定があって流れる時間軸があるなかでの4コマ漫画で、1号分の雑誌に掲載される何本かを通してストーリーになっていることもあるから、1話1話を抜き出して読んでも面白い起承転結の決まった4コマ漫画と比較は出来ないけれど、世界を受け入れ理解した上で読めば、それはもー無茶苦茶に面白くオチもある4コマの集合体ってことが解る。

 小学生なのにいきなり高校生に編入して来るガキがいれば、先生なのに授業が面倒で車の運転が恐怖な人がいたりと不思議な設定を持たせたキャラクターの調子外れっぷりで見せる学園コメディ、ってことになるのかな。お気に入りは姉御っぽい雰囲気があって大人びた外見の不良っぽさも漂う無口で暗いナイスバディ、なのに動物が大好きで可愛い物が大好きでそれを言い出せない葛藤が面白い榊さん。撫でようとしたネコに噛まれたり、エサを上げようとしたネコに逃げられたりする悲惨な人生にはもー涙するしかない、笑いとともに。何で高校教師になったかを聞かれ「女子高生が好きだから」と答え体操着の裾はブルマの中にたくし込むのが正しく水泳部の模擬店の売り子はスクール水着でなけれなならないと激しく主張する古文の木村先生には近親憎悪を覚えます。さすがに模擬店で「君たちのはいったプールの水を飲ませなさ」とは言わないけどね、お風呂のお湯ならまだしも(をいをい)。


【2月3日】 「週刊SPA!」の後ろの方にある半分パブリシティーな本紹介で「コスプレーヤ」&「ヴァーチャルLOVE」について書いている奴はどーでも良いとして上の写真でキンキラキンな王子様な格好をしている奴ぁいったい誰だ? 女子プロレスの入場シーンみたいな格好のお姫さまはもっと凄いが、ってなことはさておいて、どんな選評が出るんだろーかと思っていた「夏の約束」(講談社、1200円)について、作者の藤野千夜さんご本人が登場して「週刊文春」で阿川佐和子さんと対談してて、中身について書いた意味とか内容とかを本人の口から話してていろいろと参考になる。

 トランスセクシャルにホモセクシャルな人たちの暮らしぶりにばかり注目されるんじゃなくって、もっと書きたかったことがあると言ってて、うまく答えられないところを阿川さんが「登場する人たちが何となく寄り添ってて『明日も元気で行こうかな』みたいになってる『空気』……。」と分析して、昨日の自分の印象に近いなーと思っていたら、当の藤野さんが「そうです。それ、私が行こうと思ってたことです」と答えていたんで、当方の読み方もあながち外れてはないかと安心する。やっぱ通読すると浮かび上がる「空気」があるんだよねー、この話。選考委員が「社会性」とかって言ってたらそれはそれで興味深いんで選評の掲載が重ねて楽しみになって来た。載るのは「文学界」かな今月発売くらいの。

 トッパン・フォームズって会社が何を考えてかキャラクター・ビジネスを手がけるってんで発表会に行く。たいていのキャラクターなら面識がある身ながら、用意されたプレスキットに掲載してあるのがまったく記憶にないキャラクターだったんで、聞くとオリジナルで立ち上げたものだとかとか。鹿児島に本拠を置いてショップとか企画なんかをやってるキッズマインドって会社が、アメリカ人でゲーム「クレイマン」を手がけてるんで知ってる人も多いダグラス・テンネーペルさんがデザインした「Goodie Bear」ってキャラクターは、身長1インチで森に住んでててんとう虫の友達がいるとかってなプロフィールが決定済み。そこまではいわゆるキャラクター・ビジネスでも当たり前だけど、それとフォームって定型の印刷物を手がけるトッパン・フォームズが使うってあたりに不思議マークが頭をよぎる。

 聞くと最近ではダイレクトメールでも顧客向けお知らせでも、キャラクターを使ったコミュニケーションの方が何も使わないより親密になるって状況があって、ならば自前で使えるキャラクターをそこに付けることで、ダイレクトメールや明細表なんかの受注を何も付いてない奴より有利に運べるんじゃないかってな発想があったらしい。うちのフォームを使えばキャラクターが付いてきますって奴? もちろんそればっかりじゃなく文具に玩具にデジタルってな方向への展開もしたいそーだけど、そっちは何しろ不慣れな会社で何をどーしたら良いのかをこれから決めてくってな模索ぶり。アニメも漫画もゲームもない、核となるコンテンツを持たずキャラクター1本で押してヒットするなんてものはここ最近だと「たれぱんだ」くらいしか知らないから、さてはてどーゆー展開をしていくのかって辺りに興味と懸念の両方を抱く。

 肝心のキャラクターはと言えば、「バルセロナオリンピック」の時にスペインのデザイナー、マリスカルが描いた「コビー」に雰囲気の似た「くまのプーさん」ってな感じで案外と可愛く真っ当。表情も結構豊かで根がクレイなデザイナーなんで立体物としての展開も全然オッケー、何しろ1インチなんで等身大(をを!)のストラップ用マスコットが作れてしまうから使い勝手は良さそう。何かのコンテンツのキャラクターとして派手にドカンと押し出して、コンテンツが廃れると同時に引っ込んでしまう他の山ほどのキャラクターとは一線を画して、サイトに行くとあるスクリーンセーバーや絵本といったパッと見マイナーな世界からジワジワと火がついて行けば、ピークまでは長いけどその分良きの長いキャラクターに育ってくれるだろーから、焦らずじっくり、でもしっかりやって下さいとキャラクター好きとして担当の人たちにお願いする。お客さんもまー気長に、どっかで見かけたら気にして差し上げて下さいな。

 会社に返っると急な会見の案内が来ていて20分で原稿を叩いて赤坂プリンスホテルへ。ソニー・コンピュータエンタテインメントを筆頭にゲーム会社はコナミナムコカプコンスクウェアエニックシコーエーバンダイの7社、流通関連はセブン−イレブン・ジャパンカルチュア・コンビニエンス・クラブハピネットデジキューブの4社のトップがズラリと居並ぶ壮絶にして壮大な会見が開かれて、「プレイステーション・ドッココム・ジャパン」ってSCEIがやろーとしている電子商取引への強力なパートナーを仰いでの事業計画が披露される。見れば瞭然、ネットでコナミナムコ以下略なソフトを注文して、コンビニ「TSUTAYA」で「プレイステーション2」とか関連機器にソフトを受け取れるよーな仕組みを作るってことで、将来はコナミナムコ以下略な会社のコンテンツをネットからダウンロードできることも決まったみたい。

 これが意味するものは何をどー取り繕っても流通の”中抜き”であって、ゼロサムではなく別に新しいマーケットが生まれる可能性があるとは言え、これまでの既存流通のパーセンテージは解らないけど一部がネットなりコンビニへと移って既存流通に影響が出てくることは避けられない。会見だとその辺りはエニックスの福嶋社長が「流通のバランスを踏まえて供給していく」とかってな具合に、既存流通への配慮を意識するコメントを出していたけど、各人の多くが一方で「客の利便性」を口にするってことはつまり、便利ならばネットが使われコンビニが使われるってことで、そのあたりへの釘を無視してやっぱり既存の流通は「大丈夫なんだ」とは胸をなでおろせないだろー。ならば何をすべきなのか? ってあたりでやっぱり専門性なりショーウィンドー性なりコミュニティ性なり付帯サービスといった部分を強めて、”肉の交わり”(イヤらしー言葉)をユーザーと確立できる店が残っていくのかな。

 問題はショップばかりじゃなくってソフト会社にも降りそーで、記者会見にズラリ揃った会社の大きさ知名度はなるほど「パブリッシャー」としてソフトを集め、市場に送り出していける力を持った会社ばかりで、ネットを運営するソニーにとっては三顧の礼を持ってでも迎えたい会社ってことになるんだろー。裏を返せばここに入れてもらえなかった会社は「デベロッパー」として良いソフトを開発していく方向に力を注いで下さいってなソニー側のメッセージが込められていると見るのは、穿ちすぎかもしれないけれど日頃の久多良木さんのコメントなんかを聞いていると、まったく間違っているとも思えない。現実問題、リソースの集中と選択を行わないと「PS2」向けソフトなんて作れないから、いくら多様性の良さを訴えても実が伴わない可能性が高いからなー。さても大手で老舗なのに姿の見えなかったハドソンあたりの対応スタンス、興味あるなー。

 戻って20分でやっぱり原稿を叩いて、青山ダイヤモンドホールで開かれたマルチメディア・タイトル制作者連盟から名前変わったデジタルメディア協会の優秀ソフト表彰式をのぞく。珍しく忙しい1日。1等賞の「郵政大臣賞」に選ばれたのがバンダイの「いつでもキャラっぱ!」だった辺りに時代のCD−ROMからネットへとコンテンツが移ってビジネスとして成功しつつある状況が解りそー。アイディア1発で70万人もの会員を集めてしまい儲かってしょうがないサービスが生まれてしまうからネット時代って解らない、まあキャラクターを集められたバンダイの力ってもがあってのサービスとも言えるけど。授賞式では服部桂さんと功労賞の杉山デジハリさんが並んで立って2人とも「マオな人」でビジュアルのインパクトにちょっとたじろぐ。日吉のえりりんちゃん(誰だ?)の大きく胸元が開いたフォーマルなドレスにも頭クラクラしたけど近寄ってはさすがに見れません。あとプレゼンターに何故か「ウテナ」の幾原邦彦さんが来ていて何故か「リナックス」相手の賞を与えてて人選に首を捻る。誰かの知り合いだったのかな。

 「ワイアード」の編集長時代に3回連続でプレゼンターを務めつつ去年は流浪の民で出席せず今年は「サイゾー」で復活したことだし来るかなーと思ったけど小林弘人「サイゾー」編集長は姿がなく、人間落ちると這いあがるのはなかなか難しいを知る、ハイパークラフトの安斎さんもシナジー幾何学の粟田さんも来てないし、って来るはずもないか。にしては相変わらず江並直美さんは元気で「CD−ROMは死なない」と強気を崩さず。例の「ミカヅキ」はクランクアップしたそーだけど窓が決まらず見られるのはさて何時になることか。角川歴彦社長も歩いていたんで巷で風説が流布されてる「エヴァ2」の話を聞こうと思ったけど流石に聞けなかったなー。横溝正史賞の1つがSFらしかったんで「今年はSFですね」と聞いたら「でもSFは『これはSFじゃない』って言う人がいるからなー」と言われて誰が言うんだとあれやこれやと思いをめぐらす。SFの背負った十字架はまだまだ重いぞ。


【2月2日】 藤野千夜さんの「夏の約束」(講談社、1200円)を風呂に入りながら一気読み、だからビニールカバーの付いてる本て好きです表紙が汗でふやけないから。とりたてて大きな展開はないけれど、どこか寂しげなトランスセクシャルの美容師さんが言い出したみんなでキャンプに行きましょうってな話を背骨に1本通しながら、マルオとヒカルの押したり引いたりする関係とか、マルオの階下に住んでいる女性の失恋話とか、漫画家の菊ちゃんが子供時代に知恵遅れを理由に虐められていた兄を助けられなかった悔恨の念とか、トランスセクシャルなたま代の犬への深すぎる情愛とかってな感じの、それぞれが抱えるそれぞれの悩みや苦しみなんかが絡まるように描かれて、人間ってなかなかに複雑な生き物なんだってことが見えてくる。

 でもって、ラストの1行に至ってのやっぱりキャンプにこだわる筋の通しぶりが美しく、みんな大変だけど大変なりに頑張ってるんだなってことが感じられて、頑張れよってな応援の気持ちを贈りたくなって来る。文学的な実験もなければドラマとしての派手さもなく、ともすればホモセクシャルにトランスセクシャルといった登場人物たちの性癖にばかり注目が集まるがちなのは、本編でもそーいった点がシチュエーションに絡んで来るから仕方がない。また、作者自身のプロフィールがプロフィールだから、そこをあげつらう人がいるのも仕方がないって気はするけれど、そこを抜いても人間どおしの慈しみ合う関係の気持ちよさ、みたいなものが感じられて、付き合いとゆーものとは無縁の身には一種ファンタジーにも見えるけど、このギスギスした世の中に光明を与えてくれているような気がして投げられない。選考委員もそーしたホコホコぶりに惹かれたのかな? 選評出たら読んでみよー。

 渋谷から延々と歩いて青葉台へ。かつて「加速」っぽい名前の某出版社があってドカンと売り出した割りには最近はとんと沈黙してしまっていて、新しい会社を立ち上げるには決して縁起の良さそーな場所じゃないけど、この人がいれば悪運もすべて吹き飛ぶだろー強運とバイタリティを持った廣瀬貞彦さんが社長を務めているから、風水だろーと回転寿司占いだろーと関係なしに大きくなって行きそーな、アットホーム・ジャパンってなCATVを使ったビジネスをやる会社の新社屋披露をのぞく。

 行くといた廣瀬さんは、もちろん亀仙人の格好はしておらず、スクエアなトゥをした流行の靴に、前立てが2重になっててボタンが表からだと隠れて代わりに小さな刺繍がしてあるデザインの利いたシャツを来た、お洒落バリバリな出で立ちとゆー相変わらずぶり。玉が4つあった眼鏡が普通の2つ玉になっていたのは残念だけど、銀色の社用ベストの派手さがカバーして余りある。インパクト10点。インテリアエクステリアの凝りぶりはビットバレーな会社(目黒だけどまあ渋谷だな)っぽく、犬は歩いてないし水槽もないけど明るくパソコンが並び自転車が置いてあったりする中を、若いスーツな兄ちゃん姉ちゃん金髪さんが歩いてて羨ましい。とはいえ実は何をやってる会社かよく知らなかったりするから、そのうち行って詳しい話を聞かなくちゃ。

 帰りがけに入り口を出ると、長髪にスーツ姿の駅前で立ってる似非ホスト、とまではいかないけれどセーネン実業家っぽい兄ちゃん3人組がすれ違いで入っていって、なるほどネットベンチャー時代は来たれりとか思ったけれど、おそらくは取引先な会社の新社屋お披露目に来た人間が、入り口でそれまで刷っていた煙草をもみ消し吸いがらを玄関脇の路上に捨てていったのには目が回る。傍若無人がパワーになるとかって話も無いわけじゃないけど、あたしゃ古い人間なんでそーゆー生き物として当然な礼儀がなってない人間には、無性に腹が立って仕方がないんです、コンビニの入り口で電話かけてて中に入れてくれない奴にも会ったばっかりだったし。しかし世はやっぱりネットベンチャーな時代なんで、そーゆー兄ちゃんたちの才能バイタリティーを我慢して引き出し使わなきゃオジサン食べられなくなっちゃうからなー、歳は取りたくねーなー。

 本気でSFを始めるらしー角川春樹事務所の人と情報交換、来年度中に続々と両手両足に近い数の「SF」が、ゲームのノベライズも含めてだけど続々と刊行されるらしー。えっあの人が、まああの人が、おやあの人も、あああの人までってくらいに衝撃のラインアップが予定されているそーだけど、詳しいことは知らないんで何でも春先にまとまるラインアップの告知を見て下さい。とはいえ読者の身はただ待つばかりで気楽なものだけど、実際に書かなくっちゃいけないあの人たちはこれからがきっと大変でしょー。いわゆる「ヤングアダルト」に特有のキャラ立てろ、SFにするな的縛りのはずれた中で何を出してくれるのか、ってな興味もあって同じことは三雲岳斗さんの日本SF小説新人賞受賞作にも抱いているけど、野尻抱介さんの「SFマガジン」や「SFオンライン」での仕事を見ればその力にはいささかの心配もいらなさそーなんで、後は首を長くして刊行が始まる秋あたりを待とう。動き始めたらしー小松御大に負けては駄目ですよ。

 一足早く文庫縛りから抜け出たよーに見える五代ゆうさんの「<骨牌使い>の鏡」(富士見書房、2300円)は、実は長い間塩漬けになっていた作品らしく、そのことからもジュニアノベルズな世界の不思議さが垣間見える。もっとも1200枚とも1400枚ともありそーな2段組みの大著だから、文庫の世界で出せば軽く3分冊になりそーで、おまけに「タロット」をベースにカードの持つ言霊的な力が存在する世界での勢力争いみたいな複雑な話だから、これまで出すに出せなかったってのも解らないでもない。塩漬けからの脱出は、ハードカバーの「ハイファンタジー」を読んでも良さげな気分が漂って来たからなのか、別に事情があるからなのかは知らないけれど、出だしのキャラ設定にしてもほの見える壮大な世界観にしても「読ませる」話であることは間違いなさそーで、何であれ刊行されたことを祝いつつ、自身「タロット」をときどきだけど触る者として、世界をたぐって行きたい。


【2月1日】 仕事絡みで「これでいいのだ。 赤塚不二夫対談集」(メディアファクトリー、1600円)を読む。デビュー時からタモリを知っている人間にとってタモリの恩人が赤塚不二夫や山下洋輔や筒井康隆だとゆー事は有名な話。面白い人間がいると評判を聞いた彼らが密室芸人「タモリ」を東京へと呼び寄せ世話したことが、深夜から夜からゴールデンからお昼まで、あらゆる時間を制覇し笑いとゆーより司会者として他を圧倒する今の地位へとつながったんだけど、始まってもーすぐ20年になる「笑っていいとも」を生まれた時から見ている若い人間には、赤塚不二夫とタモリがサシで腹を割って語り合う、毒と思い出のたっぷりな昔話にはきっと驚くだろーなー。もっとも当方だって「大魔人子」よりなお昔、「新春隠し芸大会」でイグアナの真似を色物っぽくやってたタモリくらいが関の山だからなー。かつてギャグの天才にジャズの俊英にSFの鬼才を驚かせたタモリの密室芸、「陶器の変遷」のパロディーでも4カ国語麻雀でもいいから再び見てみたい。赤塚さんも言っている「本気でやったら凄い」って。凄いタモリを見せてくれー。

 海燕賞を授賞した「午後の時間割」に表題作を含めた作品集の「少年と少女のポルカ」(ベネッセ、1100円)から4年近く経って、ついに芥川賞授賞作家になってしまった藤野千夜さんの受賞作「夏の約束」(講談社、1200円)を買う。間に何冊かあったけれど実は読んでいんたくって、いったいどんな風になっているんだろーと興味津々で開いたら、トランスセクシャルにホモセクシャルな人々が明るるいけれどちょっとだけ世間とのガサガサ感を感じながら生きている日常を描く、軽妙でホコホコとした筆遣いに進歩はあっても変化はなく、やって来たことがちゃんと認められたってことが解る。主役っぽいマルオの175センチで95キロとゆー体格がどんな風体になるのか、周辺を見渡して似た人間から相当な風体と認識し、そんな風体でも好かれたり言い寄られたりすることがあるのかと、相手の性別は無関係に不思議に思う。うーむだから人の好みって解らない。「ポルカ」が岡崎京子さんの表紙だったら今回は一部に松井雪子さんのイラストで、マンガとの相性が良い作風なのかな、マンガ版とか読んでみたいけど、175センチ95キロのマルオは活字で達観と自覚ができた好人物に見えても、ビジュアルではやっぱキツいかなー。

 藤木稟さんの新シリーズ「陰陽師 鬼一法眼」(光文社、8000円)を読む。いわゆる安倍晴明が筆頭人気な陰陽師物の中にあって、人気の平安時代ではなく、鎌倉時代に舞台を持って来たところは平井摩莉さん(平井和正さんの娘)の「火宵の月」(白泉社)とも同じだけど、平井さんのは漫画らしく美形の陰陽師と彼を慕う性的に未分化な少年とのラブラブだったりヒヤヒヤだったりする話なのに対して、藤木さんのは「鬼一」なんて名前がついているくらい、いやそれ以上に凶悪な面構えの陰陽師が、鎌倉幕府の開祖、源頼朝を相手に怨みを晴らそうとする輩の企みを阻止しよーとする話が描かれる。得体の知れない伴を連れ、凄腕なところを見せる辺りは夢枕獏さんの晴明物に通じる壮快感があってなかなか。もつれた糸をほどこうとした因果が結果として自らに返って来てしまう世の複雑さなんかも描かれて、超越的な能力も決して良いことばかりじゃないと教えてくれる。純朴な兵衛は「陰陽師」だと笛吹きな彼と同じ狂言回しにして安全ネットな存在か。鎌倉幕府を揺るがしかねないバトルを軸に、鬼子と疎まれサラリーマン的に辛い立場にいながらも、実力はナンバー1とゆー複雑な鬼一法眼がどう立ち回って行くのか、そこに兵衛らがどう絡んで行くのかを楽しみつつ見て行こー。

 なおも読書。「神無き十番目の夜」で山間部の村を舞台に起こった壮絶な事件を圧倒的な筆力で描き出した飯嶋和一さんが、今度も歴史の襞に埋もれたエピソードを掘り出して広げた「始祖鳥記」(小学館)を途中まで読む。江戸時代の岡山に登場した飛行機野郎の物語り、と聞けば思い出すのが筒井康隆さんだかの短編で確かタイトルは「空飛ぶ表具師」だったっけ? その主人公だったよーな記憶がうっすらとある幸助を飯嶋さんは岡山時代から所払いにあって静岡へと流れ着き、それでもやっぱり安倍川の河原を飛び回るまで描き尽くす。ようやく読み終わったヴォンダ・N・マッキンタイアのネビュラ賞受賞作「太陽の王と月の妖獣」(幹遥子訳)が絶対王政下のフランスで才能があってもままならない女性を描いていたけど、男でも才能が自由にふるえない時代があったってことが解って妙な感慨にひたる。どちらかと言えばマッキンタイアの描く女性が我侭に見えるのに幸吉が不屈の男と映るのは自分が男子だからなんだけど、女性が両作品を読んでどっちにシンパシーを覚えるのか、興味あるなー。


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