Last Updated 2017/8/19
日刊リウイチ
TUNAGATTEIRUNOYO
「1998-1999年lain日記」

リウイチとは誰だ?
リウイチとは奴だ!

薄い髪に伸びた髭
趣味はアニメと女子サッカー

日刊リウイチとは
そんな胡乱な野郎の日々を
無限に綴ったページなのだ

ワーニングワーニング

(ホントはただの日記です)

◎積み上げた本の数が這々の体で1700冊に達した『積ん読パラダイス』だけど記念事業もなく、これからも地味に静かに増量方針。ライブドアブログの方で『積ん読パラダイスinBlog』なんてのも作ってみたけど誰が見ているのやら。
落ち行く世界で孤独な少女がロボットと出逢い、つかの間の交流を経てそれぞれの道を選ぶ。切なくも哀しく、そして愛おしい狩野典洋の短編アニメーション『ノアのハコ庭』に全人類よ、涙せよ。
こうの史代の漫画を片渕須直が監督した長編アニメーション映画『この世界の片隅に』が2016年11月12日に全国公開。観れば覚える圧倒的な感動を味わいに行けよ劇場へ。この辺りに個人的な感想が。
【8月19日】 エンディングの山下達郎さんによる「僕らの夏の夢」をカットするとか信じられないんだけれど、「時をかける少女」でもそれがあって1本の映画になるははずの奥華子さんによる「ガーネット」をカットしたりしているからテレビっていう奴は本編だけ見せておけばオッケーだという、映画をどこか軽んじた扱いをするところだということは分かっているから残念だけれど呆れはするけど怒らない。怒ったって仕方がない。そして本編に関して言えば細田守監督の「サマーウォーズ」は割とちゃんと放送されていて、最初から最後までを違和感なく観ることができた。

 ナツキ先輩の声が桜庭ななみさんで聞いてこれって「打ち上げ花火、下から見るか? 横から見るか?」の広瀬すずさんと比べてどうよって思わないでもなかったけれど、今が旬なのを叩きたいから叩くネットの論調から外れると存在すらしていなかの如くに扱われるから無反応。個人的にはどっちも好きだから気にしないんだけれど、でもやっぱり世間の理不尽で不公平な態度っていう奴はきにかかる。メディアスクラムならぬ小言スクラムによる不評がもたらす不幸を思うと、やっぱり流れに乗っての根拠のないバッシングは倫理的に取り締まるなりしないと世の中がどんどん薄暗くなっていくと思うのだった。

 本編についてはやっぱり細田守監督が「時をかける少女」から作り続けてきた長編アニメーション映画では1番好きかもしれない。まとまっているしカタルシスはあるし大事件はあるし得られるメッセージもあるし。田舎の大家族による圧力めいた結束が嫌いという人もいるけれど、そうやって見知った人たちがつながって何かを成し遂げるのって悪い話じゃないし、決して血縁だけではない過去の繋がりも活かして事態の収拾に当たるシーンもあるから、真面目に生きてコミュニケーションは欠かさずそして道を踏み外さないことの大切さってやつを、感じ取ってもらえれば十分なんじゃなかろーか。決戦のその先にもう1つ山を持ってきた展開も抜群。奥寺佐渡子さんの脚本があっての細田守監督作品なんだと改めて思った次第。次の細田守監督作品って何なんだろう? やっぱり気になる。

 数学者だった祖父に憧れ数学に嗜み中学生の頃にはおっぱいと乳首を関数グラフにして描く式を提示してみせたナオキだけれど祖父が死に遺産相続で揉めている間に大学を出てしまい職なくアルバイトしていたそんあ矢先、異世界へ。長田信織さん「数字で救う!! 弱小国家 電卓で戦争する方法を求めよ。ただし敵は剣と火薬で武装しているものとする」(電撃文庫))はそんな感じで始まる物語。ナオキが手にしていたのは電卓くらい。そして出現した部屋に並んでいた地図とかデータから異世界のそこが周辺国家から責め立てられている弱小国家であることを感じ取り、ナオキは埋まっていなかったデータを計算によって埋め尽くす。そこに現れた部屋の主。正体は?

 何と 小国ファヴェールの王女さま。病床の父王に変わりデータを元にした合理主義で執政に取り組むも騎士だの司教だのといった旧勢力が邪魔をし改革できない。そこに現れたのがナオキ。彼の数学や数字の知識を借りて王女は改革を進め攻めてきた強国と対峙するが、父王は娘を認めず騎士は名誉のために無謀を通し司教は宗教の名を借りて何かを企む。四面楚歌。でもどうにか戦ったナオキと王女ソアラにとてつもない危機が訪れる。国を滅ぼしかねないほどの。そこで起こるか大逆転? 起こらない。でも起こる。どうやって?

 そこが「数字で救う! 弱小国家」の読みどころ。軍師が才能を発揮し将軍が勇猛に戦い敵を撃退する戦記物なら割とあっったりするけれど、ここでは戦術的勝利など不可能で戦略的にも追い詰められながら国家として存立し生き延び栄えたりもしそうになる。なぜ? 数字で未来を見通したから。 隣国がどうこうしているときに軍備をどうこうすべきといった論調が世界で蔓延る中、プライドではなく実利をもって存立し反映していく道があることを教えてくれるライトノベルだ。ゲーム理論だとか囚人のジレンマとかいろいろ出てくる例題。解けないなあ、やっぱり数学は苦手だ自分。おっぱい関数から入ればもっと興味が持てたかなあ。

 帝国というらしい異星人によって地球が蹂躙されて500年、滅びはしなかったものの支配下に置かれた人類たちを押さえ込み進歩を促すために帝国は神話を題材にしたさまざまなギミックを仕掛け、それが長い年月の中で一種の伝統となる習俗となりつつも反発を呼んで変質を遂げつつあるといったのが、白井弓子さんによる「イワとニキの新婚旅行」(秋田書店)におけるおおまかな設定と言ったところ。例えば表題作ではコノハナサクヤヒメとイワナガヒメを娶らされようとしたニニギノミコトが美しいコノハナサクヤヒメだけを娶り醜いイワナガヒメを追い返してしまったことで人類の寿命が短くなってしまったといった神話を題材に、巨大な岩のような存在のイワナガヒメのところに族長の第一皇子が出向いて遺伝子を捧げることになっていたけど、その代では第一皇子が死んで第二皇子がイワナガヒメのところに赴いた。

 そう説明して納得を得られた第二皇子はイワナガヒメに拓いたハッチの中にある肉に身を浸し、美しいコノハナサクヤヒメに包まれるようにして遺伝子を提供するものの、なぜかずっとその中に身を置き続けることをせず、外に出てイワナガヒメと共に歩んで遺伝子を届ける場所へと向かう。けれども途中で露見した第一皇子の策略に、第三皇子の反乱で2人は傷つく。どうにか生き延びた2人の間に芽生えた感情は支配するもによる支配のための儀式でしかなかった出会いに意味を持たせ変化の可能性を示す。「神託と灰色の少年」では帝国による支配はあらゆる芸術活動に及んでアクロポリスの後に作られたムセイオンなる場所でしか彫刻に絵画に舞踏に諸々は認められていなかった。

 なおかつ彫刻も絵画も舞踏も帝国のAIめいたものが即座に解析して人間よりも素晴らしいものを作ってしまうからすぐにお役御免となってしまう。他の場所では芸術活動は認められて折らず未来に希望の持てなくなった一行にいた少年が、定期的に芸術を見せろと迫る神託の場に呼ばれてダンスを披露したところ未来が変わった。面白いのはそのダンス事態はAIだけあって解析もして月並みと感じた一方で、それを観ていた人たちが抱いた感動なり感情がてんでばらばらで、そうした影響の多様性をAIは受け止められずに壊れてしまう。作り手の創造性も大事だけれど受け手の想像力もまた芸術にとっては大事の要素ってこと。一括して管理したがく帝国には理解不能は人間の凄さってのがそこに出た。

 人類を宇宙へと誘うアンドロメダとプロメテウスたちを描いた「アンドロメダ号で女子会を」は定められた運命に従いつつも逆らいながら最善の時間を楽しもうとする人間の女子たちのしたたかさって奴が感じられる。ただ逃げずに留まり運命を受け入れ続けるところは人類の進化を促すための礎として自らを任じている現れか。そういう風に作られたことを受け入れながらもそういうことならと最善を尽くしつつ楽もする。それもまたしたたかな人間の有り様ってことかもしれない。「さよなら私の兵馬俑」「海の女神と旅立つ船」では電子化された人間の情報が役目に逆らい逃げて逃げ延びるまでが連続しえ描かれる。そうやって得られた自由の先で人類は帝国の頸城を逃れて新たな文明を築けるのか。神話という人間たちに特有の心の拠り所を軸にして、抑圧から逃れ羽ばたく人類を描いたSF短編たちをお楽しみあれ。


【8月18日】 「緋色の肉球」「四つの鳴き声」「ボス猫の醜聞」「三毛組合」「黒猫失踪事件」というのがとある書籍に収録されている各章のタイトル。勘のいい人ならこれdけでもうアーサー・コナン・ドイルによるシャーロック・ホームズの短編をもじったタイトルだと気づくだろう。書籍の名前は「黒猫シャーロック 〜緋色の肉球〜」で作者は和泉弐式さん。その名前のとおりにシャーロックという名の黒猫が事件を解決するという話だ。もっぱら猫の。そして人間も絡んでいたりする。

 大学生になってひとり暮らしを始めた綿貫には子供の頃から猫の話す声が聞こえる能力があった。生まれた時から暮らしてきた猫とも会話をして親しんでいたけれど、死んでしまってしばらく落ち込んで、それもあってひとり暮らしを始めた綿貫が入学式に行こうとした途中で足を引きずっているぶち猫を見かけたけれど、助けようとする気が起きず見捨ててしまって、けれども忘れられずにとって返したらもう猫はいなかった。どうなった? 不安になって探していたところに現れたのが尻尾の先が曲がった黒猫。そして綿貫を見て大学生で左足に大怪我をしたことがあって、そして三毛猫を飼っていると言った。

 すべて当たっていた。どうして分かった。綿貫は黒猫に話しかける。黒猫は驚く。綿貫は自分が猫の言葉が分かると説明して、そして黒猫が観察によって言い当てたと知ってぶち猫がどうなってしまったかを聞いて、それも見事に言い当てた黒猫と組むようになっていろいろな事件に挑むようになる。大学にある猫サークルに入った新入生の周囲で猫の声が聞こえたけれども姿が見えないという事件では、人間の恋情がもたらした妄念めいたものが浮かび上がる。周囲を支配下に置いたボス猫が見初めたメス猫の行方が分からなくなった事件では、流離う猫が見つけた居場所への思いが見えてくる。

 三毛猫だけを探し求める不思議な人物が何者かを探り撃退した事件の後、行方をくらました黒猫を今度は黒猫に世話になった猫たちの力を借り、綿貫の行動も加わってどうにかこうにか見つけ出す。観察によって答えを見つけて解決へと到るところは本家のシャーロック・ホームズにも似た展開。そしてそれぞれの短編が元ネタとなっている短編とも重なるところを持っていて、ホームズファンを楽しませつつ猫好きたちも喜ばせる。ホームズとくればライバルとして登場するモリアーティ教授に匹敵する存在が未だ現れていないところを考えると、続けばそうした対決めいたものも行われるおんかもしれない。でも悪事を働く猫って何だろう? そんな興味も抱きつつ続きを待とう。まずはこれが売れる必要があるけれど。

 「スクール水着、下から見るか? 前から見るか?」という映画を見た気がした。あるいは「絶対領域、下から見るか? 横から見るか?」だったかも。そんな気持ちにさせられた長編アニメーション映画「打ち上げ花火、下から見るか? 横から見るか?」で大切なのは、あの世界線で三浦先生の胸はどうなっているかということ、それだけだ。なんて前置きはそれとして、岩井俊二監督による古い映像作品を、「モテキ」の大根仁監督が脚本を書き、「魔法少女まどか☆マギカ」の新房昭之総監督の下、プロダクションデザインを多く手掛けてきた武内宣之さんが初めて監督を務めて作り上げたのが長編アニメーション映画「打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?」が公開された。

 やっぱり初日の初回を見たいってことで、帰省中の名古屋へと出向いていっては新しく作られていたミッドランドスクエアシネマの第2劇場へと足を運んで鑑賞。思ったのは、夏の1日、ここから先に進みたくないと迷っている子供たちに、最善を選び続けることへの安楽さを悟らせつつも、それで良いんだろうかとふと気付かせるような、柔らかい出っ張りを持った映画だっってことだった。予告編とかだと、時が戻り、間違いが正される。そんな設定を持ったストーリーなんかが仄めかされる。そこから真っ先に浮かぶのが、2016年の大ヒット映画「君の名は。」であることは間違いない。

 決定的にして絶対的な災厄から逃れるために足掻こうとして行き詰まる。そんな展開に緊張感が生まれ、そしてすべてが終わった時に良かったといった安心が浮かんだ。「君の名は。」そこでのやり直しはたった1度のチャンスしかなく、そこを東京と山奥でずっと離れて生きて来た少年と少女の2人の意識が重なることで突破した。そうやって得られた緊張感と解放感を、「打ち上げ花火、下から見るか? 横から見るか?」にも期待すると少し外されるかもしれない。ループということで桜坂洋のライトノベルを原作にした「オール・ユー・ニード・イズ・キル」のような、果てしない失敗を重ねながら、狭い狭い突破口を探り見つけて潜り抜けた果てに得られる歓喜を期待しても間違う。

 「打ち上げ花火、下から見るか? 横から見るか?」はそうした、到達点での解放をあまり目指してないような気がする。というより、果たして何が変わったのかすら明示されない。三浦先生の揺れ跳ねるおっぱいですら守られたかどうかが描かれない。そんなことはどっちでもいい。それはヒロインのなずなであり、ヒーロー役の典道にも言えること。家にいろいろあって心が沈んだ先で浮かんだ家出、もとい駆け落ちのアイデアをなずなは実行しようとする。それにつきあ合わされて典道も引っ張られて旅路へと足を踏み出す。

 けれども、そんな中学生の思いつきに過ぎない冒険が成功するはずはないことぐらい、なずなもわかっているし典道だって感じている。だからと言って抵抗もせずに親たち、大人たちの横暴に引きずられるのは嫌だという、思春期にある反抗と反発の気持ちを、少しでも出して少しでも分かってもらい、少しでもその状況に浸っていたいというモラトリアムを、見せて同世代の観客の共感を誘う。 それで十分。あとは、散りばめられた現実的とか非現実的とか様々な可能性に想いを馳せつつ、可能な範囲での最善を選び取る努力をする。その意思を周りに分かってもらう。周りもその想いを分かってあげる。そして、明日からの歩みを良きものにしていこう。そんな感慨を、決意をもたらしてくれる映画だと言えるかもしれない。

 ループということで、細田守監督の長編アニメーション映画「時をかける少女」もやっぱり比較に出されそうだけれど、救われる命があって引き換えにされる永遠の離別があってといった切なさに、見た人を涙ぐませる物語的な強さもまた、「打ち上げ花火、下から見るか? 横から見るか?」からはあまり漂ってこない。ただ、だからと言って感動が薄いということもない。 人生は都合よく変わらない。運命は簡単には変えられない。日常は積み重なっていくけれど、その中にちょっとした決断を入れ、冒険を混ぜ込むことで生まれる楽しさを、この映画から感じ取れば良いのだ。

 アニメーションとして見た場合に、映像には申し分ない。シャフトの西尾維新を原作にした<物語>シリーズとかを見慣れた目には、そこでのやや構築的で記号的な背景をリアルに戻しつつ、人物のとりわけ女性の生々しさと艶かしさを残しつつ、全体は普通のジブリで新海誠監督で長井龍雪監督でといったところに整えたって感じに映る。一般の人でもこれならついて行けるだろう。とはいえ、そこはシャフトだからなのか新房昭之総監督だからなのか、フェティッシュとしての人体のクローズアップがいっぱいあって、オトコノコ的には嬉しいけれどさて、中高生の女子はどう思うのかが気になった。彼女たちはいったいこの映画の誰に身を重ねて見るんだろう。なずなの境遇?  典道からの第三者的視線?  サブに過ぎない宮野真守さん演じる裕介に気を向けたって本筋には絡めない。そんなつかみどころのつかみづらさが気になった。

 声についても申し分なく、広瀬すずのなずなは顔立ちは大人びていても、心はまだまだ子供の中学女子を演じていて、菅田将暉も同様に、優柔不断で気弱そうな典道をしっかりと演じきっていて、見ている間で何にの違和感も覚えなかった。シャフト渾身の女子中学生が旧型のスクール水着で横たわってその声が広瀬すずさんでコケティッシュに誘ってくる映画を見ない理由なんて何もない。何もないのだ。他のメンバーはベテランに精鋭で隙はない。祐介は高校生っぽかったけど、大人びた中学生だっているから。祐介の父親は声的に不穏さが漂っていた。ドラッグの密売人か密造酒のバイヤーかダークヒーローでもやっていそうな声だった。巧いなあやっぱり。

 展開について最後に言うなら、何か起こるまでが長くて導入でやや気がダレる。そこに至るまでの関係性の提示、感情の明示が必要って感じでもないだけに、テンポよく何か起こしてなずなや典道といった登場する面々を飲み込ませ、ラストにもう何枚かのクライシスを置いて引っ張り回した方がエンターテイメントにはなったかもしれない。けれども、基本そういう映画ではないってことは先述したとおり。中学時代に浮かぶ未来への迷いと可能性への憧憬、そして選び取る自分の道を描く青春ストーリーなのだから、これでいいのだろう。ということにしておこう。

 名古屋駅前のレジャックビルにあるあんかけ屋であんかけパスタをかきこんでから、あおなみ線に乗って金城ふ頭まで行ってレゴランドの入り口へと到達したけれど、手荷物検査とかしていて正面まではたどり着けそうもなかったし、入るには大金が必要なんで諦めて退散。お盆の前後とはいえ平日で蒸し暑い昼間でもちゃんとお客さんが入っていったからそれなりに繁盛しているんじゃなかろうか。いったんネガティブなレッテルが貼られると、その文脈でしか語りたくなるなるものだから、ネットもメディアも。でも行く人には関係ないってことで。規模が大きくなって値頃感も出てくれば大丈夫なんかないかなあ。分からないけれど。


【8月17日】 絶滅、って言葉にああそうなんだやっぱりと納得したの本放送時の「けものフレンズ」第4話「さばくちほー」で、そこへと到る途中で砂に埋もれた舗装された道路があって、そこから巨大迷路のような場所へと入って途中が壊れ道がふさがれおまけに周囲は砂漠といった状況に、この世界に何かが起こっているんだとはうっすら感づいていたけれど、そこに決定打となるカバンちゃんに対するツチノコの「絶滅してなかったんだ」というひと言。つまりはザ・デイ・アフターな世界に暮らす動物たちのフレンズの中に突如現れた動物と言って良いか分からない存在が、過去にいったいどうなっていて、そしてかばんちゃんだけどうしてといった展開が来るんだろうって想像がついた。

 ただし、そうした予測は最終回で明かされるんじゃなく、次のこはんから続いたへいげんでハシビロコウによって仄めかされ、そして先に行った図書館でもって博士と助手から明らかにされてひとつの問題として解決する。そして、だからこそやっぱり旅を続けなくちゃいけないって動機も生まれて前へと進み始める。通して自分探しをやらせるとダレるところを2段ロケットのように新たな目的を与えて物語に緊張感と期待感をもたらした。やっぱり巧い構成だよなあ、これを考えた人はやっぱり天才かもしれない。でも未だにエンディングの脚本はずっと最初の人になっているんだよなあ。書き換えるのはBlu−ray付きのガイドブックの記述から? 今は名誉になったとしても、ちゃんと名前が掲げられ続けるのはそこに気持ちを込めているってことだと思う。喧嘩別れして揉めて作品の持つ幸せ感が損なわれるのは嫌だから。

 コミケをすっ飛ばして先週末から帰省するつもりが月曜日に仕事が入って帰省を延ばした件について記事が出たようでまずは善哉。押井守監督と田中敦子さんへのインタビューでありました。ハリウッド映画「ゴースト・イン・ザ・シェル」のパッケージがもうすぐ出るってんでその宣伝のために映画でスカーレット・ヨハンソンさん演じた少佐の声を演じた、そして押井守監督によるアニメーション映画「GHOST IN THE SHELL/攻殻機動隊」で少佐こと草薙素子の声を演じた田中敦子さんと、そしてアニメ版を監督して田中敦子さんを草薙素子に起用した押井守監督が揃って登場するって聞けば、これはもう行って話を聞くしかない。聞けば絶対に受けると確信したんだけれど、映画の興行が全体に振るわず世間の関心も薄れているからって、あんまり記事を欲しそうな感じじゃなかったのはやっぱりオシイストとしての訓練が足りていないからだろーか。

 押井守監督が何かを喋ったとあれば必ず読む人はいる。そして広まる。ましてや田中敦子さんとおそらくは2008年の「GHOST IN THE SHELL/攻殻機動隊2.0」で並んで登壇して舞台挨拶をした時以来のすれ違い系ではないツーショットなら、後の記録にもなると思い取材して話を聞いて記事にしたら案の定、とてつもない閲覧があってツイッターの紹介にはリツイートが溜まり、Facebookへのいいねも200を超えた。押井監督なら、そして田中敦子さんならこうなるってことを、古手のオシイストなら感じ取れるんだけれど一方で、そうでない若い層も増えているのも実際のところ。そうしたギャップを解消するためにも、押井守監督には若い層でも観たくなる映画を1本、出来ればアニメーションで撮って欲しいなあ。「スカイ・クロラ」は傑作だったし、絶対作れると思うんだ。

 そんなインタビューでは、押井守監督の声がまずはそれほど大きくなくて、なおかつぼそっとしたトーンでもあって対面でも聞き取りづらくてこれは録音されているかなあと不安になって、テープ起こしをする気力がなかなか湧かなかったけれど、いざICレコーダーのデータを回してみたらちゃんと細部まで録れていたんでホッと一息。いつもはiPadの録音アプリだけを使うんだけれど、予備のために12年前に買ったオリンパスのヴォイストレックV−50って奴を引っ張り出して、ステレオマイクをピンプラグに差して卓上に置いておいたらぼそっとした声も割としっかり入っていた。マイクってやっぱり本体内蔵じゃあダメだなあ。

 問題はもうひとつあって、話していることがどこか唐突でふわっとしていてあっちこっちに飛んでいて、これで記事を書けるのかって取材している間は不安になったけれど、、聞き直すと要点は押さえてあって、つなげば何となく言いたいことは分かってくるといった感じだった。その意味では天才なのかもしれない押井守監督。ただしやっぱり整えるのは大変で、長く押井守監督を観て言いそうなことを了解しつつ並べていく必要がある。押井守監督と言えばな犬とか銃の話は、あるいは本筋と関わりのないノイズとして知らない人だと切っちゃいそうだけれど、それがあってああやっぱり押井守監督なんだと了解するのがオシイスト。そんな人たちに向けてタームを交ぜて興味を引きつつ、哲学的な言動をロジックの上に置いて筋を通し、なおかつ田中敦子さんとの対談めいたニュアンスもつけていくは大変だった。どうにかまとめて取材翌日に出したのがあの記事。罵倒されず押井守監督が言いそうなことだと喜んでもらえたのもまた僥倖といったところだろー。ちゃんとあの口調、出てたかな。出ていたと思おう。

 この時期に帰省したのは豊橋総合動植物公園ことのんほいパークに行って「けものフレンズ」とのコラボを観るのともうひとつ、豊田市美術館で開かれている奈良美智さんの展覧会を観るという理由もあってその後者の方を果たしに朝から豊田市へ。到着した豊田市美術館には会館と同時にチケット売り場に行列が出来て、あんな僻地(ごめん)の美術館で、おまけにお盆休みの所もありつつ一応は平日に結構な数の人を集めるくらい、奈良美智さんのファンは大勢居るんだってことが確認できた。これが村上隆さんの展覧会だったらいったい……とは言わない。どっちいしたって僕は行くから。そんな奈良美智さんの展覧会は、だいたいにおいて目つきの悪い三戸なつめさんのような前髪ぱっつんで下ぶくれの子供たちがカンバスに大きく描かれた作品がならんでいて、ああいつもの奈良美智さんだなあとは思ったものの、時代の流れの中でペインティングがドローイングになりミクストメディアにもなってまたカンバスに戻って来るといった変遷の中で、放たれるような鋭さが達観のような静寂へと移っていって今があるなんてことも感じられたりした。

 あれは1997年だったかに奈良美智さんが出した画集を、週刊SPAで担当していた書評コーナーで紹介したことがあって、可愛いイラストレーションに見えつつも子供たちが単に慈しまれるものでも労られるものでもない、その体内において反攻の気構えを宿し鋭い眼光から世間をにらみつけているといった解釈を覚えたような記憶がある。そうした描き手の意思が込められているからこそ見た目のキャッチーなキャラクター性を持ったイラストレーション的なモチーフなりタッチが、ちゃんとしたアートの文脈で語られ受け入れられて世界で人気となっている理由なのかもしれない。どうなんだろう。入ると最初の方は混みがちになるけれど、奥へと進めば人も減って2階に上がるともうあんまり人は居ない中を大きなカンバスに描かれた子供と思いっきりにらめっこできるんで、行くなら平日の午前を狙おう。土日はやっぱり混みそうだし。

 そんな2階から豊田スタジアムの方を観て相変わらずバッフクランの重機動メカのような形をしているなあと感じつつ、愛知環状鉄道に乗って八草まで生きそこから乗り換えて愛・地球博記念公園へ。今は万博のキャラクターから名前を取られてモリコロパークとも呼ばれているけれど、聞く所によると愛知県知事がジブリパークにしたがっているようで、いつまたモリゾーとキッコロがお役御免になるかもしれないんで、今のうちに見ておこうと思った次第。そして今はまだ各所に鎮座しているモリゾーとキッコロに安心したけれど、かつて愛知青少年公園時代に存在した、1970年の大阪万博から移設されたフジパンロボット館で演奏を見せていたロボット達(手塚治虫さんがプロデュース!)が追い出され、そして愛知県児童総合センターの一角にわずかに残っている状況もあるだけに、いずれそこにモリゾーとキッコロも並んで司会業でも始めるのかもしれない。モリゾーとキッコロに運命や如何に。

 そんな愛・地球博記念公園にあった愛・地球博記念館の中でのぞいたらひとつ気になる展示が。動物の顔なんだけれど甲胄をまとっていたりして、どこかガルム・ウオーズの世界観に重なる佇まいがあってなおかつ犬に甲胄って押井守監督っぽいなあと考えて、そうだった愛・地球博には押井守監督が総合演出を手掛けた「めざめの方舟」という作品が展開されていたんだと思い出した。当時からやっぱり好みは変わってないんだなあ。並んでいたのは六将と名付けられた狗奴、百禽、魚皇の3つの頭部で、説明書きによればこうして3つが揃っているのは珍しいこととか。いい時に立ち寄った。これもジブリパークになって愛・地球博食を薄めようとなって記念館が廃止にされたらやっぱりどこかへ散逸してしまうんだろうか。それともジブリだからと鈴木敏夫さんが出てきて押井守監督が絡んでいるならと無理矢理にジブリ作品に仕立てて展示を続けるんだろうか。興味津々。でも騒ぐほどのことでもないか。


【8月16日】 片渕須直監督が登壇した舞台挨拶も終わって「この世界の片隅に」を観た新宿ピカデリーからとって返して家について日付が変わってすぐ。NHKで始まったのが「この世界の世界の片隅に」で音楽を手掛けたコトリンゴさんのライブを追ったりスタジオでライブをやってもらったりする番組で、渋谷のマウントレーニアホールでとりあえず生を観てはいてもやっぱり変幻自在に奏でられるピアノに乗って跳ねるコトリンゴさんの歌声の美しさに惹かれ、耳に強く残る楽曲を作ってのけた才能に惹かれる。

 似た雰囲気に矢野顕子さんもいるけれども、矢野さんが即興の曲球を豪腕でねじ伏せるのとはまた違って、定型の上を揺れ動きながら全体をまとめあげていく柔らかさがあるように感じた。そんな素晴らしい演奏の合間には、音楽をつけた映画「この世界の片隅に」のシーンが流れ監督をした片渕須直さんのインタビューも流れて世界は優しさと慈しみに満ちたものとなる。それはやっぱりああいった厳しい境遇の中でも助け合い寄り添い合って生きてくことの大切さを描いた監督だからこそ醸し出せる雰囲気って奴だろー。

 ちょうど裏番組あたるTOKYO MXでは、血が飛び散り硝煙がたなびく中でRPGがぶっ放される無法で野蛮な世界に生きる奴らの自分勝手で我が侭放題が描かれた「BLACK LAGOONってアニメーションが放送されていた。アニメーションにも色々あるってことで、あとはやっぱり監督にも優しい世界を描く人、バイオレンスを突きつめる人といった両極がいるんだろうなあと……えっ、同じ人がやっているって? まさかぁ……本当に? ってちょっとカマトトぶってみる。それを描くに必要な表現だからこその一方の優しさであり一方の野蛮さってだけのことなのだ、クリエイターにとって、って思いたいけどしかし根底は似ていても表層はまるで毛色が違う作品を、よくもまあ作れたものだなあ、片渕須直監督は。そこがやっぱり才能って奴なんだろう。

 本当だったら先週末から夏休みに入る予定を、飛び込んで来た珍しい人への取材という仕事のために後にずらして今日から週末までを夏休みにすることにして、とりあえず早起きをして「けものフレンズ」の第3話を観ないで家を出て新幹線に飛び乗り豊橋まで。豊橋総合動植物公園ことのんほいパークで開かれている「けものフレンズ」とのコラボレーションを見物に行ってとりあえずコラボレーションの缶バッジを購入する。アクリルキーホルダーはPPPのフルルが残っていただけなんで買うのを見送り、園内を歩いてサーバルチャンがどこにいるかを探したけれど気づかない。

 マンドリルがいてカバがいてといった感じで続いたアフリカ園を抜け、フルルとイワビーのパネルがおいてあるペンギンとかがいる極地の生物を集めた建物を舐めたもののサーバルはおらず。サルを観てシマウマを観てフラミンゴを観て入ったところから反対の西門までたどり着いて、さてサーバルはどこかと調べたら、最初に寄ったアフリカ園の中にある夜行性の動物を集めた建物にいるって分かってああそうだたんだと折り返す。損をしたってことはなく先でも後でも動物を見て回るのが動物園の楽しみ方。まずはいろいろと動物を見て、そして真打ち登場とばかりにたどりついた建物では早速フェネックが動き回っていた。

 「けものフレンズ」だと泰然自若として落ち着きのあるキャラに描かれているけれど、本物はちょこまかと動くものらしー。そういうものなんだなあ、それが知れたのも「けものフレンズ」で動物たちを観て実物を観に行ったから。そういう意味では伝播力と吸引力のある作品。ここで得た動物への理解と関心が将来、どんな革新的なビジョンとなって現れるか。ちょっと気になる。そしてサーバル。名前がステルっていうのは夜行性のステルスな動物だから? 理由はちょっとわかんないや。

 でもって暗くしていある部屋の中でフェネックみたいに歩き回ってサーバルジャンプでも見せているかと思いきや、木の上に乗ってずっと動かなかった.何だろう、夜に見えていても野生の勘が今は昼間だから動かないって決めさせていたんだろうか。それともお昼前でまだ眠かったとか。多摩動物園だと昼間は外から見える檻の中に出して自由に歩かせていて写真も撮りづらいくらいに動き回っていたから、決して日光が苦手な訳ではないんだろう。そこは色々な飼育条件を試しているってことなのかな、のんほいパークは広めの土地に雰囲気を再現して自由に動き回らせている感じだったから。名古屋の東山動植物園ではどうなっているか時間があったら観てきたい。

 二川駅から豊橋へと戻って知らないうちに豊橋名物になっていたらしい豊橋かれーうどんでも食べようかと思ったけれども昼時で混んでそうだったんで今回もパスする。美味しいのかなあ、ご飯の上にとろろでカレーうどんを持ってうずらの卵を入れるって、そうなる理屈がよく分からないところがあって悩ましい。鴨川のおらが丼は“おらが”というだけあって鴨川産の食材が使われていればあとはおのおのの創意工夫でやって良しとなっているから店によって違うものが食べられる。それもまた名物性を薄れさせるけれど、選べる自由さはあるよなあ。豊橋カレーうどんもレギュレーションの中で差異性は持たせているみたいなんで、通って食べ歩くのが良いのかも知れない。B級グルメとして登場して関東で食べられる機会が出来れば良いんだけれど。帰省中にまた行くか。

 名古屋へと戻ったら何か名古屋市博物館でゴジラの展覧会がやっているってんで立ち寄ることにする。昔だったら鶴舞線が出来てようやく御器所からバスで行けたけれども今は桜通線の桜山から歩いて行けるから便利になった。陸の孤島めいてあんまり活用あれていなかったのがこうしてサブカルチャーの展覧会でも利用されるようになったんだから出世したなあ。そんな「ゴジラ展」は歴代のゴジラ映画のポスターが並び設定画が並んでファンなら食い入るように見たい感じ。

 「特撮博物館」のようにプロップが並べられて撮影の現場に近づけるって感じではなく、資料からゴジラ映画がどのように企画され造形され撮影されていったかを確かめていくって感じの展覧会になっている。もちろん着ぐるみも幾つか着ていて「ゴジラ FINAL WARS」のガイガンとか凶悪そう。あと平成ゴジラのキングギドラとかゴジラとか。あれって中に誰かはいったんだろうか。デカくて重そうだった。中島春雄さんが入っていた時とは違って重量感とディテールのために造形も進化している感じで、それに人間が対応できなくなっていった先、「シン・ゴジラ」がCGになったのも分かるような気がする。

 そんな「ゴジラ展」でもっとも感動したのが生ョ範義さんによる「ゴジラ」「ゴジラvsビオランテ」「ゴジラvsモスラ」「ゴジラ FINAL WARS」のポスターのそれも原画が展示してあったこと。絶妙な構成と圧倒的な筆致による迫力のビジュアルが、筆先の細かなタッチまで分かる距離で展示してあって目を近づけて見てしまった。モスラのあの羽根のふわふさとしてふさふさとしていそうなニュアンスは、細かく筆先を走らせて描いてあった。「FINAL WARS」は的を描かずただゴジラの迫力のディテールを中心に据えて王者感を出してあった。もし、存命な中に「シン・ゴジラ」のポスターを描いたらどんな感じになったかなあ。そこが残念。あと原画が意外と大きかったのに気がついた。上野の森美術館で開催される生ョ範義さんの展覧会には来てくれるかなあ。手掛けたゴジラポスター、全部まとめて観たいなあ。


【8月15日】 まさかこの日まで上映しているとはというのが本音のところで、2016年の11月12日に劇場公開されてから9カ月と少し。普通の映画だったら1カ月で上映は終わりとなり客入りが悪ければ2週間で打ち切られる映画だってある中で、スタート時の小規模公開から一気に上映館数を100館以上に広げて数カ月を上映し続け、数々の賞を受賞することによってもっと上映したいという映画館を獲得して冬を越え春を迎えて夏にまで到達。そして映画に描かれた6月22日であり、8月6日であり、8月15日といったエピソード的に厳しくも重たく、そして大切な日に映画館で映画を観ることを実現させた。これはやっぱり快挙だろうし、何より映画の力って奴だろう、「この世界の片隅に」。新宿ピカデリーにてスクリーン1で上映。ほぼ満席となった会場に片渕須直監督が登壇して舞台挨拶を行った。

 それはなるほど区切りの日ではあるけれど、でもこれですぐに何かが終わった訳でもなければ状況が劇的に改善した訳でもない。新宿ピカデリーでの上映後の舞台挨拶によれば、この後に本当に食べるものがなくなり配給による代用品の石鹸なども使用が続けられてすずさんが戦前の、あるいは普通の生活に戻れたのは1950年ごろなんじゃないかといった話が出た。節目の日はたしかにそうであっても、続く日々の中で当時を生きた人たちは何を思い何を見て暮らしていったのかを、追い続けるためにもこの日の上映を区切りにしないで、まだまだ続くすずさんの日々に沿うように映画の上映も続いてそして、見た人に日々を生きているという確信を、与えていってほしいもの。さすがに9月にパッケージも出るからそれ以降の上映となると厳しいかもしれないけれど、公開1年を次の目標として映画を大勢の目にとまる場所に置き続けてあげて欲しい。可能な限り観に行くから。

 それにしても改めて見て、本当に空襲が激化する1945年の春頃までは一般市民の戦争への関心はそれほど濃くはなく、そして権力によって雁字搦めにされているという意識も、だんだんと進んでいった中でそれが当然のことといった感覚に到らされていて大きく反発を生むといったことはなかったのかもしれないなあと思った。ちょっと前に新進気鋭の美人とか言われているらしい政治学者が終戦前の2年間だけが日本が大々的に統制を行い弾圧もして非道な全体主義的国家になていたと言って袋だたきに遭っていたけれど、こと一般市民の目線で言うならそうした感覚ってのももしかしたらあったのかもしれない。

 憲兵さんが怖いといったところで憲兵さんに気にされるようなことをしている市民なんて地方にどれほどもいないなら、やっぱり監視と弾圧といった感覚は抱かなかったとしても仕方が無い。ただし美人かどうかは判断に任せるところにしたい政治学者の言うように、学徒動員めいたことが起こって本格的に全体主義が過剰になったのは終戦前の2年くらいだと限定して、それ以前は平穏な日々で誰もが陽気に暮らしていたといった意見にはあんまり与したくないのは、極めて先鋭的な部分ではやっぱり激しい弾圧があって検挙も日常茶飯事で、すさまじい統制が行われていたことがあるからだったりする。

 そうした、一面ではあっても歴史的な事実から目をそらさせるような言動は、謹むなり行うならば注意を求めることが必要だろう。あとはじわじじわと物がなくなり徴兵が行われ日常が不便になっていった終戦前のそれこそ10年くらいのスパンを考えるならば、終戦前の2年はいきなりやって来た訳ではなく、それ以前の飼い慣らされるように不便と弾圧が暮らしの中に浸透し、それが当たり前だと思わされるようになっていっただけのこと。そうした経過も含めていったい何が行われていたのかを、考えることによって今行われているかもしれない締め付けと洗脳めいた操作について、問い直すことができるんじゃなかろーか。なんて声を出しても安倍ちゃんのメシ友らしい美人っぽい政治学者に言葉が届くわけでもないし、向こうが考えを改める訳でもないからなあ。まあ良い、現す馬脚を引っ張られて足踏みをしてくれれば幸いってことで。でも一部に持ち上げ褒めそやすところも出てきそうだしなあ、櫻井某の後釜として。やれやれ。

 そして第2話の「じゃんぐるちほー」が放送された「けものフレンズ」は冒頭の「おえかき動物図鑑」が第1話のサーバルから虎になっていて、アニメーションには登場しなかったけれどもしっかりとキャラクターは存在する虎を出しつつこどもたちが本物の虎を描く様子を映し出してた。あとの展開はだいたい同じ。Furuのくじで当たるパペットなんかをいっぱい出しててちょっと欲しい気がしたけれど、南砂町のSUNAMOで試した時はステッカーしか当たらなかったんだよなあ。それでもPET製だからしっかりと貼れて見ずにも強そうだし、台紙のままで持っていても下敷き程度の雰囲気は出せるからこれはこれで集めたいかも。ラストワン賞のかばんはちょっと無理だ。残り少なくなった所で一気に買い占めるか。それよりワンセットをまとめ買いするか。出来るのかそれ?

 ストーリー的には第2話は、冒頭からボスがかばんちゃんだけにしか喋らず何か含みがありそうだし、記録されていた地図とはまるで地形が変わって橋とか流されて廃墟みたいになっていたりして、その世界があるいは人類滅亡後の状態なんじゃないかってことをある程度確信させた。もちろん第1話の「さばんなちほー」の段階で、ジャパリパークを案内するボードが古くなっていたりして、それからセルリアンが陣取っていたゲートも古びた感じがあってテーマパーク的なものが衰退した後かもってことを予感させていた。だから第1話を見て展開に不安を抱いたことをツイートして、これが1番かもしれないと書いたんだけれど当時はここまで評判になって、夏に再放送まで行われるとは予想が付かなかった。今はもう再放送どころか映画化だてされても不思議は無い。日本SF大賞は確実だな。って夢ばかり膨らむけれど本当のところはどうなんだろう。見守りたい。支えつつ。

 ははははは。どこかの新聞に関する暴露本が出ているとかでネットメディアが取り上げていたけれど、それを読んでなんだこんなことになっているのかって驚いている人たちにそれなりにメディアで活躍している人たちもいて、いったい何を見てたんだと思わないでもなかったけれどもそれだけ世間的な影響力が乏しくて、一部への影響力だけを夜郎自大的に増幅して大きく見せていたのかもしれないなあと考える。まっとうなメディアが本気で暴き叩いて告発したらあっと言うまに化けの皮も剥がれそうなんだけれど、そこまでして潰す相手でもないって判断なのかも。だからお目こぼし的に生きていられる。ただそれに乗っかって騒ぎを外に広げようとしているだけに、いつ虎の尾を踏まないとも限らなさそう。そうなった時に何が起こるかを、想定しておくのが良いのかもしれないなあ。売れそうな物、部屋の中に何かあったかな。


【8月14日】 行けなかったけれどもなでしこリーグカップでジェフユナイテッド市原・千葉レディースが浦和レッドダイヤモンズレディースを破って初のタイトルを得た様子。過去に2012年の皇后杯で決勝まで進出しながらもINAC神戸レオネッサに負け、去年のリーグカップでも決勝を浦和レッズレディースに4点を奪われ敗れてタイトルに手が届かなかっただけに、今一度のチャンスにしっかりと守り抜いてそして後半のアディショナルタイムにミドルを決めて勝利とはまた感動もひとしおだろう。山根恵里奈選手という日本代表のなでしこジャパンにも入っているゴールキーパーが途中で抜け、そしてシーズン前にはエースの菅澤優衣香選手を浦和レディースに持って行かれて厳しい状況ではあったけれど、守り抜いて勝てたことはとても大きい。この勢いでリーグの方の残り試合も勝ちを重ねて残留を、そして優勝を目指して欲しいなあ。頑張れジェフ。兄貴もついでに。

 8月6日に阿佐ヶ谷ロフトで開かれた山賀博之さんと貞本義行さんを招いての「王立宇宙軍 オネアミスノ翼」のトークイベントで、山賀さんが松本零士さんの漫画表現そのままのアニメーションって今まであんまりないので作りたいとかどうとかいったことを話していた。松本アニメといえば原作の流麗な部分を抜き出して小松原一男さんがキャラクターをデザインした雰囲気がやっぱりパッと浮かぶ。でもそれはやっぱり松本零士さんの漫画の一面でしかなく、例えば漫画版の「宇宙戦艦ヤマト」の冒頭で、沖田十三艦長が降伏を勧告してきたガミラスを相手に「バカめと言ってやれ」と言って、通信手が「バカメバカメ」と打電したらガミラスが怒ってきて「うわあ怒った」と慌てふためくといった感じに、デフォルメされたキャラがあたふたするギャグっぽい絵になったりする。

 そんな漫画のニュアンスをアニメーションで再現してこそ、真の松本零士アニメと言えるのではないか、なんてことだろーけれど漫画だからこそ一瞬の息抜きでもって面白がれるものであって、ずっと世界観が続くアニメーションの中で一瞬のギャグを入れてしまうとどこかがちぐはぐになってしまう。安彦良和さんの漫画版「機動戦士ガンダム THE ORIGIN」を、富野由悠季監督の「機動戦士ガンダム」のリメイクとして作るということは、たぶんそういったことであってつまりは時としてギャグ的漫画的表現がシリアスな展開であっても入ってしまう安彦さんのタッチが、そのまんまアニメーション化され得るってことになる。

 すでにしてそうした傾向は「機動戦士ガンダム THE ORIGIN」でも顕著になっていて、ドズル・サビの頭から血がピューと噴き出したり、ネコの動きがドタバタしてたりと漫画だったら片隅を賑やかす表現が、リニアな映像の中に挟み込まれて雰囲気を不思議な感じにしてしまっている。最新作となる「機動戦士ガンダム THE ORIGIN 激突 ルウム会戦」ではそうした演出がさらにいっぱい盛り込まれていて、「機動戦士ガンダム」では強面ながらも純粋で熱情的で死に際とか格好良かったドズル・ザビが、面白さを時に漂わせ可愛いと思わせるようなキャラクターになってしまっている。そんな演出プランがソロモンの会戦に取り入れられた時、ミネバとの別れでどんなギャグを見せるのか、なんて思いが浮かんでしまうとやっぱり安彦さんによる「機動戦士ガンダム」のリブートに、いろいろと悩ましい思いを抱えて仕舞わざるを得ないのだった。せめて演出にプロが入って統一感を出せばなあ。でもやっぱり安彦さんで押していってしまうんだろうなあ。

 建前ではあっても自由の国で平等が重んじられ、差別は許されないことになっていたりするアメリカが州谷で差別的な思想を持った人たちと、それに反対する人たちが激突して死者まで出る一大事となっている。言論はもちろん自由でお互いが主張をぶつけ合うことはたぶん憲法に保障されているんだろうけれど、行き過ぎた差別の意識は忌避され嫌悪されるというのもまた常態。にも関わらずヴァージニア州シャーロッツビルに集まった白人至上主義者たちは、それに反対する人たちの列に車を突っ込ませて1人の命を奪い大勢の身に傷を負わせた。主義主張がぶつかり合ってけが人がでることはあっても、反対者を抹殺するような言動は……ない訳ではなくキング牧師はだから暗殺されたんだけれど、この21世紀になってそうした事態に到るとはアメリカ人でも思っていなかっただろう、1年前くらいまでは。

 でも状況は変わって、差別を正しいと認識し排除を必要と認識している人たちがその思いを煽られて吹き上がってしまった。顕在化された差別的な感情は方向性を持って物理的な攻撃へと転化し、人を傷つけ命まで奪ってしまった。そうした事態にさすがの“責任者“でアルトランプ大統領の懸念を表明したみたいだけれど、あからさまな白人主義者ではなくどっちもどっちに気をつけようぜといた態度だったことからまたしても炎上が怒っていたりする。とはいえそれはトランプ大統領と側近レベルの話であって、まっとうな大人達は真っ当な言語を紡いで異常事態を非難する。中でもヴァージニア州知事テリー・マコーリフのスピーチが凄まじく妥当で素晴らしい。

 それは「ャーロッツビルに集まった、すべての白人至上主義者とネオナチに伝えたいことがある。私たちのメッセージはごく単純なものだ。帰れ」といったシンプルで明確で力強いもの。「君たちはこの偉大な州に必要ない。恥を知れ。君たちは愛国者を気取っているようだが、愛国者なんかではまったくない」と真正面から糾弾している。そこに貧困故の視野狭窄だとか移民の増大による不安といったものへの同情はまるでない。悪いことは悪い。だから糾弾する。それだけ。本当はこうしたシンプルさこそが尊ばれるべきなのに、我らが日本の総理大臣は差別的な言動を振り回して養護施設を襲い多くの人の命を奪った事件にすぐさま会見を開いてメッセージを発するなんてことをしなかった。

 誰に配慮しているのか。何を守ろうとしているのか。そんな勘ぐりを生むこの国とは違って、悪いことには党派を超えて結束するアメリカの、自由を守らずんば成り立たない国の根幹への理解がしっかりなされている。それ故の行動にもブレがない。今は揺れ動いているけれど、気づいてきっと遠からず収まるだろうと信じたい。一方でこの国では弱者を見つけて非難し追い込むことによって優越感を覚え苦境を忘れようとする人たちが溢れている。「君たちが成功することなどない。ここに君たちのいる場所はない。アメリカに君たちの場所などないのだ」だなんて明言をして、人権無視とか非難されるのが怖いのか? でも、もはや相対論で語れる状況ではない。現実に気概が及び戦火が広がりつつある中で、何が正しいのかを見極め惑わず引きずられないで生きる力を誰もが持たなければ、遠からずこの国も分断と闘争の果てに来る長い衰退へと向かうだろう。どうなるか。トップが率先して哀悼と非難を行うなんて格好いいことをできる政権でもないんだよなあ。そこが中途半端。保身が根底にあるからなのかなあ。

 おお、ジャパリバスのタイヤが回っている。そして冒頭に「おえかき動物図鑑」なんてものが放送されている。14日から夏休み中の子供たちが観るだろうってことで放送ガスターとした「けものフレンズ」だけれど、ただ放送されたものを流すだけじゃなくって子供が観て飛びつきそうな企画を冒頭に添えて自分もそこに混じりたいと思わせ、そして中身はブルーレイ向けにリテイクされたものを持ってきて放送では間に合わなかった部分を補い見せたかった絵を見せようとしている。作品を愛する人たちによるアイデアが詰まった再放送を、もはや再放送と呼ぶのも間違っているような気がしてきた。リブートキャスト? そんな英語が正しいかは知らないけれど、何か画期的なことが起こっているとだけは断言したい。明日は「じゃんぐるちほー」だけれど、オープニングがちゃんと付く話数で「おえかき図鑑」でオープニングを重ねられるんだろうか。ちょっと謎。子供にはジャガーの「わからん」が口癖として伝わって欲しいなあ。それともやっぱりコツメカワウソの「たーのしー」だろうか。


【8月13日】 アルタイル強すぎるだろう、ってのが率直な感想でメジャーな場所で大人数が気持ちを入れて作り上げられた人気キャラクターの最強の技を、ネットの中だけでひっそりと盛り立てられているキャラクターが防ぎ跳ね返すなんていったいどうやったら出来るのか。それこそ「Re:CREATORS」というシリーズにおける神様によって創造されたキャラクターがファンの思いを乗せて顕現しては力を発揮するといった設定を、崩しているようにしか思えない.

 けれどもそこはまた別の理由めいたものがあってアルタイルを未だ最強に祭り上げているんだろう。作り手の命を賭けた思いのつよさって奴? もそれままた難しいところで、「Code Babylon」の原作者の駿河駿馬がブリッツ・トーカーと対話していた時みたいに命そのものは賭けてないにしても命を削るような思いをして物語を考え、キャラクターを動かしながら世界を創り上げていたりする。それが読者に対する責任であって、だから非道なことも出来るし銃だって向けられたって動じない。

 そんな覚悟を持って筆を取っている神様が、たかだか被造物の恨み言なんて聞いていられるか? っていうところでそんなプロフェッショナルの強さが入れ込まれた世界が、ネットの同人から派生したフリー素材のキャラクターにどうして負けることが信じられない。そこがやっぱり気になるけれど、そうでなくては物語が転がらないというのが外側から見ての思い。逆転があってきっとまた大逆転もあるんだろう中、揺れるセレジア・ユピティリティの気持ちと蚊帳の外にいる水篠颯太の役割が、展開に何か影響を与えてくれると思いながら観ていこう。築城院真?がどんな暴れっぷりを見せてくれるかも。

 今日も今日とてコミックマーケットへと出かけていっては西館(にし・やかた)の企業ブースをさっと見る。初日のような大混雑がなかったのは既に売り切れてしまったアイテムが多いからなのか。それとも初日に企業ブースを回った人たちが今日は東館(ひがし・やかた)の同人誌を買うと決めてそっちに回ったからなのか。分からないけれどもスムースに回ってなぜか出展していたボールのミカサのブースでガチャを回して缶バッジを2つ取り、そして冊子をもらって帰ってながめたら壁井ユカコさんが短編を寄せていた。そういえばバレーボールの小説をずっと書いていたんだった。城崎広告とのコラボもやっているしミカサもちょっとは目立とうとしているのかも。モルテンはどうするんだろう。

 東館(ひがし・やかた)へと回って氷川竜介さんの卓にたどり着く前に森川嘉一郎さんのところで東京国際マンガミュージアムの現時点での取得目録を購入。末尾にプレイステーションVRとニンテンドースイッチという、ともに店頭ではとんと見かけないアイテムが並んでいていったいどうやって手に入れたんだろうと不思議に思う。やっぱり朝から並んだんだろうか、それとも僕みたいにスイッチは店頭でのくじ引きでゲットしたんだろうか。って思ったらご本人からネットのリアルタイム在庫情報から購入したとの報。そうかそういう手があるのか。それで気になるのはやっぱりソフトで配信なんかが多くなっているタイトルを保存するのって大変そう。フローとして流され消えていくのかなあ、そんな時代のソフトって。

 氷川竜介さんを周りそしてふらっと見つけた小山田いくさんの追悼同人誌を購入し、かつて熱中した時代を思い出しながら涙ぐむ。超人ロックの50周年を記念した同人誌も出ていたけれどこっちはおめでた、小山田さんの方は……。流れる時の長さを噛みしめつつ最前線に立ち続けられるクリエイターの凄みといったものを改めて思い知る。そこから東7ホールへと行くのに難儀をしたものの、人混みをどうにかかきわけ行列に続いて東5ホールの外に出て、外周を回って東7まで行って長谷敏司さんのところで1冊と、そして「人間噂八百」の頃から気になっていた足立淳さんの最近の大ヒット作「日高屋のアライさん」の新旧2冊を購入する。

 アライさんの方は「けものフレンズ」のアライグマとフェネックが日高屋に行って食べる話でしかないんだけれど、どのメニューを食べたら良いか、それがどれだけ凄いかがアライさんとフェネックの会話から伝わってきて、自分で生きたくなってきた。っていうか行ってW餃子定食を食べたんだけれど。やっぱり12個はすごいボリュームだ。読み込んで次に食べるメニューを考えよう。船橋にも日高屋、あるみたいだし。せっかくなんでビッグサイトから南砂町へと回ってSUNAMOってショッピングセンターでタイアップしている「けものフレンズ」のパネルなんかを見てくる。結構大きかった。サインも入っていてなかなか可愛い。これで明日から再放送が始まれば、見た子どもたちがどったんばったん大騒ぎすることになるんだろー。コミケに来ていた外国人が泊まったホテルで朝見て帰りたくなくなったりして。2週間滞在が延びたらインバウンドも拡大。「けものフレンズ」特需だ。あるかな?

 せっかくだからと錦糸町へと回ってTOHOシネマズ錦糸町で「ノーゲーム・ノーライフ ゼロ」を観る。2回目。夕方からという良い時間帯なのと日曜日なのとで満席になっていて、公開からもう4週目だか5週目に入っていながらの人気ぶりに改めて映画そのものの出来の良さが反映しているんだなあといった思いを確かにする。だってテレビじゃもうアニメーションは放送していない訳で、ライトノベルが「魔法科高校の劣等生」とか「ソードアート・オンライン」ほど売れているといったものでもない作品の映画が、こんなに長く支持されるのやっぱり出来そのものに理由があると考えるのが道理だろう。

 観れば泣けるしまた観たくなる。そんな映画。改めてみてシュヴィの無念、リクの残念が痛いほど伝わってきて、それがちゃんと繋がっていったことを嬉しく思えた。泣けてそして笑って終われる。あとは6000年の後の未来で空と白とが世界をちゃんと丸く収め続けることを願い、そんな物語が映像になることを願って映画を応援し続けよう。いしづかあつこ監督の凄さってのも感じるんだけれどどこがどう凄いのかを言語化するだけの力がない。ヒントもない。誰か本格的ないしづかあつこ論とか書かないかなあ。僕じゃあ無理だよ教養ないし。

 これはいけない。随分といけないのだけれど、そういった自覚があるかどうかが見えないところになおいっそうのいけなさが渦巻いていたりする。とある全国紙を標榜するメディアのサイトに掲載された「記事」で、沖縄本島におけるメディア状況が旧来からある2紙に占められていて“真実”とやら伝わらないけれど、新しく参入した1紙はちゃんと“真実”を伝えているのだといった主張がなされている様子。問題はそうした主張をしているのが誰か第3者ではなく、また記事を掲載しているメディアの記者でもなくって、自分のところは正しいと言っている新しく参入した1紙の編集担当者だったりすること。つまりは自画自賛でしかない宣伝の言葉が、「記事」としてニュースサイトに掲載されてしまっている。これはちょっと芳しくない。

 そういった論調が取材の結果として出て来たというならまだしも、当事者がそうだといった認識の元に書いたものだから単なる自画自賛でしかない。金をもらって載せているんじゃない、その主張に共感して寄稿してもらったんだからステルスマーケティングとは違うといった意見も出てきそうだけれど、一般的な主義主張ではなくて自分のところの“商品”の良さを訴えつつ、他のところのはよくないとこき下ろす、極めて利己的な言葉に過ぎない。そこには第三者的な目から見た公平性も公共性もない。そんなものを「記事」として載せていいのか否かを第三者に判断させたら、いったいどんな見解が出るのか。

 朝日新聞が似たようなことをやったら大騒ぎをする人たちが、まるで黙っているのは相手が朝日じゃなければ騒いでも反響が薄いってことなのか、それとももはやメディアとしての埒外にあるので、何をやろうが知ったことではないと思っているのだろうか。そんな形式の問題とは別に、書かれている言葉がまた医事法にでも引っかかりそうなくらいに支離滅裂で、はた目には苦笑しか生まない。既にある主要2紙から新しく参入した1紙に切り換えた読者が語って曰く、「ドクターから胃潰瘍を手術しないといけないといわれたが、県紙の購読を止めると3カ月で完治した」。なんだこりゃ?

 ある種の冗談として語っているんだろうことは分からないでもないけれど、内輪で盛り上がるために言うならまだしも、公器たる場でそうした“効能”があるかのごとくに綴ってしまっているところに事態の危なさがあり、またそうした言葉が平気で綴られている文章を「記事」として載っけてしまうところに思考の危うさが感じ取れる。言いたいことのためにはファクトをねじ曲げようと平気ってのは前々からの傾向ではったけれど、それが常態化しつつやがて本気でこうしたフェイクをリアルと勘違いして掲げ出さないかが気になって仕方が無い。嘘は100回言おうと嘘だけれど、嘘を100回言われて本当と思った人たちばかりの空間では、嘘もリアルとして通じてしまうとうのが厄介な話で。やれやれ。


【8月12日】 公開も始まってアメリカでの「この世界の片隅に」評をネットで漁る日々。批評を集めて白黒具合を評価するRotten Tomatoesではレビューが35個まで来て、rotten評価がサンフランシスコクロニクルの1紙だけで、それも聞くと長いし日本のことなんてよく分からないという、映画のそれもまあ本質ではあるけれども内容を吟味する嗜好からは外れた評価によるものだから、作品性そのものが否定されたってことでもなさそう。ニューヨーク・タイムズにロサンゼルス・タイムズと来たら次はワシントン・ポストと来て欲しいところだけれど、商都のニューヨークや娯楽の街ロサンゼルスとは違った政治の街では映画すら観る場もないのかな、そこはちょっと不明。

 個人で見たといった人のブログとかツイートなんかが出始めていて、泣いたって人も結構いたりして洋の東西を問わずに人の営みがあってそれらが理不尽な状況によって途切れることへの怒りと悲しみは共通なんだと教えられる。あとはアメリカなんで公開がどこでもって訳じゃなく、車で何時間もかけて見に行かないといけないんだと投げている声もあった。まあそれは日本も同様で、スタート時期はやってない県とか市とかもあったのが、だんだんと増えて行って、そして今は巡回のように各地を回っている。そういったじわじわと広がる動きをアメリカでも見せてくれれば面白いんだけれど、より興行にシビアな国だけにまずは先行の大都市と、続く地方都市での評判が少しの延長を呼び、賞レースに乗ってメキシコみたいな再上映となれば御の字か。歌広場淳さんもたくジャスティ・ビーバーが観て何度も観に行って泣けば一気に広まる? それはさすがにないかなあ。

 週末から来週央にかけて規制するつもりが週明けに仕事が1本入ったんで帰れなくなったんで、間に入っていたイベントの取材とか、面白そーなトークの見物へと出かけていく。まずは銀座三越で始まったパックマンのイベント。「PAC−STORE」っていう若い人向けにアメリカンテイストのレトロなデザインのパックマンを展開する新しいブランドが、去年にアソビシステムとかの企画でスタートしていて、それのグッズを主に展示して銀座に集まるスタイリッシュな層にアピールしようといった感じ。発表会の時にゲームゲームさせないっていったデザイナーの発言があったように、絵柄なんかもモロにゲームて感じではなくワンポイント的なものが多かったけれど、今回は分かりやすさも狙ってかゲームの盤面をあしらったTシャツもあった。まあその高度に洗練されたデザインはもはやトラディショナルだから、ゲームかどうかなんて関係ないのかもしれない。

 イベントには原宿のカリスマ店員らしいぺえさんと、その家に同居しているぱあさん、じゃないへえせんが訪れて2人で仲良くトーク。でも途中でアイスクリームショップで働くへえさんが死にたくなって家を出て連絡がとれなくなってしまった話になって、聞くと親とかがいる大阪に帰っていろいろ会ってから死のうと思ったものの死にきれなかったってヘヴィーな話をしてくれた。それがパックマンと何の関係があるかっていうと関係はないんだろうけれど、食べられてもまた復活してくるゲームのような生き方をしていこうて話に繋がるのかも知れない。繋がらないのかも知れない。イベントではあとぺえさんとへえさんに加えて子どもがパックマンに挑戦するコーナーもあって、大きな盤面を持ったパックマンに挑んで見事にクリアしていた。巧いなあ、僕なんてタブレットに入れてあるパックマンの1面ですら滅多にクリアできないんだから。そういうものだよ大人って。

 イベントを見終わって原稿にして叩き込んでから、下北沢にある本屋のB&Bで開かれた、「キッズファイヤー・ドットコム」の刊行を記念しての海猫沢めろんさんと表紙絵を描いた漫画家の鳥飼茜さん、そして「キッズファイヤー・ドットコム」にも似たような人間が登場していたりする荻上チキさんが並んで最近の子育てをめぐる状況を、そして旧態依然とした考え方がなかなか変えられない状況への不安めいた思いなんかを話し合っていた。

 朝に父親が満員電車に子どもを保育園へと送り届けるために乗ろうとする、そのシチュエーションそのものがギョッとされてしまうというマインドは、果たして代わり得るのか。離婚して片親だけで育てること、無痛分娩を選ぶこと、シェアハウスでみんなで子育てすること、そして「キッズファイヤー・ドットコム」に描かれたクラウドファンディングでウェーイな子育てを選ぶこと等々、常識からは外れているけどその常識っていったい何だといった問いかけを、していかないと将来において雁字搦めの国になってしまう気がした。とはいえ子育てなんて当面どころか一生縁がなさそうだからなあ、自分。せめてだから理解をし、邪魔をしないような言動を心がけよう。

 海猫沢めろんさんからサインをもらってB&Bを出て、下北沢からは京王井の頭線に乗って渋谷まで出てそこで山村浩二さんの作品を集めた上映会「山村浩二 右目と左目で見る夢」を観る。ちょっと前にイントゥ・アニメーション7の会場でも観た「サティの『パラード』」のほかに山村さんが2011年の「マイブリッジの糸」以降、作り続けていた作品をまとめて上映。トークイベントもついて近況などが聞けて、帰省できなかったことが悪い話ではなくなった。

 これはイントゥ・アニメーション7で「サティの『パラード』」を観て思ったことで、「頭山」から「カフカ 田舎医者」と来て「マイブリッジの糸」へと続くストーリーを持った重厚な作品が、「サティの『パラード』」では一転して軽快になって動くパーツが集まったような作品になっていでどうしたんだろうと思ったけれど、2013年の「古事記 日向篇」でこれはストーリーを持ちながらも描かれる断片が重なり合って連なっていく感じになっていて、余白がありながらもしっかりとアニメーションしているところに何かを開眼したみたい。少しずつ変化していく絵を何千枚も重ねていくのもアニメーションではあるけれど、何かが動く、それも音楽に合わせて動く楽しさをまずは見せ、そこに物語性を宿らせることで作品として成り立たせることができるのでは。そんなことに気づいたのかもしれない。

 そんな合間にカナダの重鎮、ノーマン・マクラーレンの追悼にも絡んだ企画を手掛けて改めて、音と動きのシンクロがもたらす画面の躍動感を感じ取り、「サティの『パラード』」によってバレエ音楽として作られた楽曲にバレエとして演じられたものとはまた違う、音楽から浮かんだビジョンを浮かべて置いて重ねてつないでいくことで、音だけの空間に色を与え絵を与えてみせた。そこで掴んだ感触に、文字を載せる意味も察して「怪物学抄」などを手掛けそしてキャサリング・ベルヘイストの音楽に乗せた「水の夢」へと到ったと行ったところかも。

 とはいえご本人はもう絵を描くのがしんどいとかおっしゃりつつ、あの内面が形となって表されるビジョンを決して捨ててしまった訳ではなさそうで、「サティの『パラード』」でのエリック・サティらしき人物の動きにそんな仕草が現れている。いつかまた重厚で物語性を持った大作を作って欲しいけれど、そうなるにはやっぱりアニメーション作家が作品を作れる場を用意し,資金を用意してあげる必要があるんだろうなあ。Netflixとかには期待出来ない分野だけに、国が今一度システムを立て直して世界に誇れるインディペンデントなアニメーション作家を育成して送り出して欲しいなあ。海外のアニメーション映画際にノミネートされて受賞する日本人の作家がここんとこ、ぐんぐんと減っている気がしてならないだけに。


【8月11日】 アメリカでの公開がいよいよ始まる片渕須直監督の長編アニメーション映画「この世界の片隅に」に関する評がアメリカの主要紙にも一斉に載り始めた様子。中でもやっぱり世界的に影響もあるだろうニューヨーク・タイムズとそしてロサンゼルス・タイムズにネットだからか結構な分量で紹介されていて、それらが批評サイトのRotten Tomatoes的に言うならFRESH、すなわちポジティブ評価だという状況にああ、片渕須直監督があの映画に込めようとしたこと、それは元よりこうの史代さんの原作に込められていたことが、しっかりと伝わっているんだと感じられて嬉しくなった。他のどの国でもないアメリカで、つまりはすずさんたちの上に爆弾を振らせた国への批判ともとられかねない内容を、戦火にある誰にとっても普遍のことだと解釈して理解するのはやっぱり相当に冷静な思考と判断が必要となるだろうから。  

 そこはやっぱり世界に冠たるハイクオリティな2紙だけあって丁寧に描かれた戦前戦中の庶民の暮らしぶりについてしっかりと理解を示し、そんな庶民の暮らしぶりを描き出すために片渕須直監督がとてつもない年月をかけ、そして多くの証言を得て資料を集めていったことにも理解を及ぼしているところに、単なるイデオロギーではない映画といったものを見る目の確かさって奴を感じる。原爆については遠く呉から見た光景として退いているところもあるいはアメリカ人の中にある諸々の感覚を刺激しなかったのかもしれないけれど、事実として大勢がなくなった悲劇が淡々と続きつつ段々と悪化していった日常の延長にフッと起こってしまったことをこれで感じ、今もどこかで段々と悪化していく日々の果てに起こる災厄への思いを育もうとしているのかもしれない。

 かつて起こった悲劇は誰かのものだったけれど、今度起こる悲劇は自分たちのものかもしれないという想像力。そこへと到る道を示してくれる映画として、受け止めてもられればこんなに嬉しいことはない。どうなんだろう。公開の規模がどれくらいか分からないし、PG−13がアメリカの興行においてどういった影響を持つのかもちょっと分からないけれど、これだけの高評価によって迎えられているのだからあるいは後半の賞レースにおいて何らかの栄誉を勝ち取るって可能性は高まったかも。とはいえRotten Tomatoesで94%という効率の認定FRESHを得た原恵一監督の「百日紅〜Miss HOKUSAI〜」は賞レースにはまるで絡んでこず、98%という凄まじい効率の認定FRESHを受けた新海誠監督の「君の名は。」もアカデミー賞には残れなかった。そんな2作品と比べ遜色はないけれど、かといって派手さにも書ける「この世界の片隅に」が残れる可能性はあるんだろうか、内容と描き方への評価で行けるか、そんな想像を巡らせながら眺めていこう。

 ようやくやっとノイタミナで放送されている森絵都さんの小説を原作にしたアニメーション「DIVE!!」を第6話まで一気に見て、とりあえず麻木夏用子コーチのハイレグと尻にヤられない中学生なんて信じられるかと思ったというか、高校生だってヨロめいたって不思議はなさそうなのにそうした関心をあんまり見せずに健全な男子高校生が日々、飛び込みの練習に励んだり仲間内で嫉妬に燃えたりしているのが不思議でならない。主人公の坂井知季なんて中学生のくせして彼女がいて、それが飛び込みの練習に忙しくて構ってやれないうちに年子の弟に取られて落ち込んで2週間も引きこもっているとか、まるで理解できない。

 目の前にあんなにすごい美人がいるのに。そして家まで尋ねて来てミニスカから伸びる脚と巨大な胸の谷間を間近に見せつけてくれているのに。どうして靡かない? どうしてベッドに引きずり込まない? これだから中学生って子供過ぎて嫌になるけど中学生の14歳15歳といったあたりにとって、夏陽子コーチがたとえば28歳くらいだったとしたらやっぱりもうとてつもなく年上のオバさんに見えてしまうものなのか。まあ実際、14歳だった僕にとっての28歳だったあべ静恵さんや今陽子さんが萌える対象だったかというと微妙だからなあ。それは仕方が無いとはいえ、でもやっぱり目の前にいつもチラつくあのハイレグでありあの尻であり、突き出た胸はもっと堪能した方が良いと思うのだった。少なくとも視聴者としてはそれを目当てに最後まで見ていこう。ブルーレイボックスすら買ってしまいたくなって来た。お話は……飛び込みをよくもまあ緻密にアニメーション化しているなあ、戯画化せず止めにもしないでちゃんと描いている。すごいなあ。

 せっかくだからとコミックマーケットへ。珍しくりんかい線の国際展示場駅の前から列整理が始まっていたけれど、ちょっと行った先の広場に行列を作っている感じはなくって、そこでの整理をするにはもう時間が過ぎていたからなのか、少しさばき方が変わったのかと想像したけれどもとりあえず行列にくっついて中にはスムースに入れたので、明日以降に行くことがあればどういう差配になっているかを眺めてみよう。とりあえずは西館(にし・やかた)へと回って1階の企業ブースを眺めてKADOKAWAのブースに並ぶ長蛇の列を確認。とてもじゃないけれど参加は出来そうもないんで、日本郵便のブースへと行って「けものフレンズ」のフレーム切手の先行販売を買って退散する。たぶん普通に市場には出るだろうけれど、そこで買うとなると探すのも頼むのも苦労するからやっぱりはやい内、見つけた時に買うのが吉ってことで。

 そして東館(ひがし・やかた)へと回って人手不足が懸念されている「マンガ論争」のブースで新刊を1冊求めて、さあいった「けものフレンズ」のたつき監督が率いるirodoriと、そしてファビュラスな叶姉妹がいるというブースがどうなっているかを確認に言ったらとんでもなかった。irodoriの方はシャッターの外に列途中の看板が出ていて、それならと見たら割と近くに最後尾の札があったんだけれどそこからはるか前方へと列が伸び、そして折り返してきてといった感じでいったいどれだけの人数になるのか、想像するのも恐ろしかったんで看板は取らずに通り過ぎる。去年の今ごろにこんなことになるなんて、誰も想像してなかっただろうなあ。コミティアで普通に寄れてた時代が懐かしい。

 そしてファビュラスな叶姉妹のブースはといえばこれまた東京ビッグサイトではもっとも隅っこに配置されていたとはいってもそこにそれだけの行列できるスペースがあるからといった配慮のもと。そんな配慮を真正面から受け止めるように長蛇の列がグルグルと回っていて、なおかつすでに商品は完売となっているにも関わらず、お二方から名刺を受け取るためだけに並んでいると知ってその人気ぶりに驚嘆しつつここも今からでは名刺すら頂けそうもないと分かって眺めるだけにする。すごいなあ、前回は普通に一般参加、今回はサークル参加ですっかりコミケの顔になってしまった。

 芸能界からホされていた感じの小林幸子さんがニコニコ動画で注目を集め、ニコニコ超会議で観客を集め、コミックマーケットで大行列を得て人気を再燃させて紅白歌合戦への正式ではないとはいえ出場を果たして復活を遂げた時みたい。でも叶姉妹はここから芸能へと復活する必要もないゴージャスなユニットであって、テレビへとカムバックするような目的も持ってはいなさそう。紅白に出られる訳でもないし。だったら目的はといえばやっぱり自分たちを表現することで、それが叶うのがテレビではなくコミックマーケットのような公衆が集まり衆目を集められ、喧伝への波及もある場へと変わっていることを、しっかりと認識しているんだろう。だからしっかりと場をリスペクトして慣習に倣い騒がせず粛々と頒布を行った。とはいえここで目的を果たしたとか飽きたとか言って次回から出るのを止めたら反発も出そうなんで、どこまで続けるか、どうやって抜けるかといったあたりが今後の動静の鍵になるのかな。


【8月10日】 タイトル戦に登場すれば昇段は出来るけれど、どんなタイトルよりも象徴的な意味合いとして大きな名人の位に就くには、まずはA級へと上がってそこで順位戦を繰り広げて1位となって名人に挑戦する権利を得ることが絶対に不可欠で、そんなステップの入り口にあたるC級2組での順位戦をまずは突破することが、ほかの棋戦で勝つよりも重要とするなら藤井聡太四段が10日の順位戦を勝って3連勝としたことは、とても大きいと言えそう。神童と崇められて3段リーグを抜けて4段となってプロ棋士となり、臨んだC級2組の順位戦で足踏みをして、そのまま普通の棋士となってしまうことも少なくない。まあたいていの天才は何期かで抜けていくんだけれど、今度はC級1組で足踏みとかもあるだけに藤井四段にはそのあたりを1年で抜けていって早くA級1組に到達してほしいもの。その頃までに1つ2つ、タイトルを取っていたらなお結構かなあ、叡王戦って次、いつあるんだろう。

 今日から池袋で始まった「ドラゴンボール 天下一武道祭2017」はなかなか盛況なようで、全世界的な「ドラゴンボール」人気なんかを改めて感じ取ってみたりする。僕にとってはどこかの段階で敵のインフレーションがすごくなりすぎ、やや興ざめの中で作者も感じ取ってかとりあえず抑え、ふんわかとした中に大団円を迎えさせた漫画版でひとつ終わってはいるんだけれど、その人気に頼りたい人たちからGTだの超だのといった耳慣れない企画を載せられて、キャラクターシステム的な延命を図られている感じ。そこから知ってファンとなっていった人も若い世代にいるから良いってことで、世代を超えて支持され続けている作品の代表格としてこれからも盛り上がり続けるんだろう。

 そんな天下一武道祭の会場には修行できるコーナーがあって、背中に甲羅を背負って牛乳瓶が入った箱を手に持って走り回ったり、反復横跳びをしながら界王さまのペットのバブルスをタッチしていくようなアトラクションがあって試してなかなかのしんどさに息をつく。赤いランプが点滅したら押していくといった、反射神経と反復横跳びを強いるアトラクションが重なっているのも疲れる理由だけれど、そんな中で悟飯とトランクスの看板に体を曲げて指先を合わせて「フュージョン」と言えばOKなアトラクションもあって、楽かなあと思ったら子供向けなんで体を相当曲げなくてはならずこれが結構腰に来た。走り回れても柔軟性は落ちているというアラフィフの現実を噛みしめさせられた空間。でも楽しかったから良いってことで。子どもはどんな楽しみ方をしているだろう。見てくるかなあ1度くらい。

 普通に新作のショートエピソードだと思ったJRA×けものフレンズの映像「けいばじょう」。ジャパリバスに乗って旅をするサーバルとかばんちゃんとそしてボスがたどり着いた巨大な廃墟めいた場所が競馬場で、そこには3人のウマのフレンズたちがいてターフを走ったり障害の練習をしたり食べたりしているという状況。競馬場っていうある意味で彼らにとっての聖地を廃墟にしてしまうことにJRAがよく許可を出したなあとは思わないでもないけれど、完全にボロボロって訳ではなくかつての賑わいを感じさせるように未だまだ中はきちんと整えられ、そして何よりもターフはしっかりと整備されている。残ったフレンズがやっているんだとしたらそのアイデンティティに忠実なんだろうなあ。職業意識の高さというか。そう感じさせつつ競争という最大のアイデンティティに挑ませるあたりが展開の妙。そこでタイトルを出してエピローグ的にほんわかとした展開を差し挟む巧さが「けものフレンズ」を見て安心、考えて奥深い作品にしているんだろう。たつきを信じて良かった。そしてこれからも信じ続ける。

 ビーズログ文庫アリスからは初登場になるのかな、主に薬屋探偵のシリーズで知られている高里椎奈さんの新作が「デュラララ!!」のヤスダスズヒトさんの絵で登場。その名も「幻想風紀委員会」は高校に新月の夜起こる異界との行き来と歪みの発生に1年生の3人が挑み、物語に生じた歪みを正していく物語になっている。3人の1人で、火野弥嵩という少年はどうにも喧嘩っ早くて学校に馴染めなかったけれど、そんなある日、帰ろうとした時に生じた不思議な現象に巻き込まれ、そこで歪みを正す幻想風紀委員会の入会試験を受けていた1年生と巡り会う。

 眼鏡で生真面目そうな稲葉健と短いスカートが可愛い倉岡美行。そんな2人から学校では新月の日に歪みが起こって、それを正していく活動があるんだと教えられた火野弥嵩。なおかつ2人が試験に落ちる可能性への配慮もあり、また周囲で歪みが発生し続けたこともあって、すぐに抜けたいとは思いながらもそのまま幻想風紀委員会の活動を続ける羽目になる、そして直面したぺたぺたと付く足跡の元になった物語を正して足跡を返し、体育館に現れる巨大な狼と戦ってはリセットされる物語の本来のストーリーに沿って進めてこちらもクリア。いわゆる学校退魔物にも似た雰囲気があるけれど、全員がヒーローではなくて火野弥嵩だけが他の風紀委員とは違った所があると分かってくる。

 異界で負った怪我は戻れば治るはずなのに、火野弥嵩はそのまま持ち出す。もしかしたら異界の歪みが化けている? そんな疑いも掛かる中で弥嵩は理由に思い当たり、そして決まり事を変えようとする、破天荒さ故の実直さがもたらした不思議を弥嵩は。受け入れ、そして周囲にも納得させて少し変わった立場での幻想風紀陰火委としての活動が始まる、ひとつの出会いがあって試練があって成長があってといった感じ。ここからが本番になるとして、異界との繋がりを持った不思議な立場で火野弥嵩が関わっていくことで、歪みをただ浄化していく勧善懲悪的な物語とは違った揺れがあって、それが迷いを呼びつつ突破する楽しさも与えてくれると期待しよう。物語が歪みのベースにあるという設定と繰り出されるヒントから何が問題でどう解決すべきかを探るあたりがミステリ。そして伝奇的でありなおかつ青春。面白い。倉岡美行もとっても可愛い。ちなみにここは男子校だ。え?

 ミサイルなんかをぶち込んだリアクションでミサイルをぶち込み返されそれで自分が死んでしまうと思えば口では勇ましいことはいっても実際にはやらないものってのがコンセンサスではあるんだけれど、そういった相対化ができないくらいに自分のやることに酔っているか、あるいはそうすることしか見えていなかったりする視野狭窄が進んでいると、とりあえずミサイルをぶち込むという目的が果たされば、あとは周囲がどうなろうとそれでオッケーというか、そもそもが周囲がどうなるといった発想すら湧かない野かも知れ名だけに、起こるかも知れないミサイルによるグアム攻撃。受けてこっちはさすがに国会が承認しない可能性もあるけれど、先制攻撃による壊滅なんてことを議会をすっ飛ばしてやるかもしれないところに両陣営の現体制の怖さがある。

 どうしてこんな人たちが、って言うけど韓国の悪口が書けるなら、東京五輪が酷いことになっていたって平昌の五輪が韓国で人気がないと書いたり、あるいは渋谷でパートナー条例が発効されたことを批判した一方で中国でLGBTが弾圧されていると書いたりするメディアなんてものもあったりするから状況は同じか。言いたいことが言えさえすれば、それで一部の支持者が喜んでいると思えれば今は良いといった心境が、世界に蔓延しているといったところ。まあメディアが夜郎自大に陥ろうとそれは手前の経営が傾くだけなんで知ったことではないけれど、国家が夜郎自大の牽強付会で暴発すれば人が死んで世界が傾く。そのあたりを誰かちゃんと分からせてあげられれば良いんだけれど、そんな人がいないからこそのこの顛末。今いったい終末時計は何時何分を刺しているんだろうなあ。0時を回っていたりして。


【8月9日】 この時期が来ると思い出すのが、亡くなられた将棋棋士の村山聖九段のことであり、漫画家のかがみあきらさんのこと。村山九段については去年に「聖の青春」が映画化もされて生涯について幾度となく追悼されているけれど、かがみあきらさんについては20年かもう少し前くらいに追悼の本が出て以降、どこかで誰かによって偲ばれているといった感じがあまりなく、ただ時折ふわっと誰かの口に上ってそんな漫画家が1980年代前半にいたんだよってことが振り返られるくらい。もしも存命ならばアニメーションのメカニックは変わっていたとか。あるいはラブコメディのキャラクターにひとつの潮流を与えたとか。

 メカニックについて言うなら、劇場版「超時空要塞マクロス 愛、覚えてますか」の中に幾つか使われていたらしく、それが具体的にはどんなものかは分からないけれども出渕裕さんの後を追ってカトキハジメさん永野護さんのようなガンダム系のスタイリッシュなものとは違った、ダンバインのように有機的で生命感のあるメカってのを生み出してくれたような気がしてならない。あるいはキャラクターだったら、平面的でシンプルな中に愛らしさを持った顔立ちの美少女とか、ドジな少年といったキャラクターが溢れていったように思える。そんな予感をさせながら1984年の8月に死去。20日だったか25日だったかの発売日に出た最新号を読んでそこに大塚英志さんによる死去を伝える文章ががあって驚いた。

 それより1カ月くらい遡ったおそらくは7月に、かがみあきらさんからイラスト入りの暑中見舞いが届いていた。徳間書店から出た「鏡の国のリトル」っていう単行本の巻末にあったプレゼントか何かに応募して、当たりはしなかったけれども応募した人のおそらくは全員に1枚1枚、印刷された葉書にサインを入れて住所を書いて送り出していたように思う。届いた葉書のサインだけでなく宛名書きもまたあの独特の字だった記憶。手元にない訳じゃないけれども本の入ったダンボールの向こうに埋もれた押し入れの天袋に放り込んであって、すぐには取り出せないのだった。

 そんな葉書が届いてクリエイターからのものだったので喜んで、ますますの活躍を期待していた矢先の訃報から受けた衝撃は、後にも先にもクリエイターの死去に感じたものとしては最大級だったんじゃなかろーか。比べるとしたら手塚治虫さんか、その死去は昭和天皇のある程度は予感していた訃報を超えて、昭和の終わりって奴を強く感じさせてくれたから。かがみあきらさんにちては、富野由悠季さんが寄せた追悼の言葉に漂っていた節制に関する話とかも読みつつ、それだけの言葉を投げるくらいに期待していたんだといった思いに心が痛んだ。あれから33年。存命ならば10月に還暦というその存在しなかった生涯で、いったいどれだけのことを成し遂げたのだろう。そんな想像を感じさせてくれる特集なり追悼なりを、いつか改めて読んでみたい。

 「BLACK LAGOON」はロベルタがターミネーターの如くに燃えるイエローフラッグから現れてはダッチたちが乗る車にしがみついてガルシアくんを取り戻そうとするエピソード。そこでダッチの銃弾を除けようとして車の天井の上で体を跳ね上げたシーンでチラリとガーターベルトで止められたニーソックスと生足の奥にあるものが見えたけれどもとりあえず黒だったのはそういう規制って奴があったからだと思いたい。あのメイド服にあのガーターベルトとか手袋とかの色からするにアンダーウェアが黒ってのはないだろうから。本来は白だけれど媒体の都合上黒く影みたいしたと、そう思いたいけれども果たして。日本アカデミー賞監督の片渕須直さんに聞く訳にはいかないもおなあ、白なのか黒なのかを。

 今日も今日とてアーツ千代田3331で開かれているアニメイク・キッズサマージャンボリー2017を見物。子供だちにアニメーション作りを体験してもらうプログラムが旧から始まって、見ていたらまつはトトロを描いてそれからラスカルをトレスしてといった具合に絵を描くことから始めていた。でもこのあとで観察とかやった上で絵コンテを切ってストーリーを作りそしてキャラクターも設定しつつ動かしてアニメーションにしていくらしい。どんな作品が出来上がるんだろうなあ。気になったのは参加者のうちの7割くらいが女子だったこと。アニメーションって男子のものだってのがもはや変わっているのかな、今も女性クリエイターは大活躍しているけれどいずれ過半数を超えてスーパーアニメーターもスーパーキャラクターデザイナーもスーパー監督も女性になっていくのかな。気になった。

 上映会の方では16ミリフィルムによる「未来少年コナン」の上映を見物しようとしたら、リールから伸びたフィルムが絡まったか何かして映写機から抜き出し巻き取って再上映するような感じでちょっとトラブっていた。これでフィルムの状態が気になって明日以降に「未来少年コナン」の16ミリフィルムが外れてしまっては残念なので、是非に続いて欲しいと願おう。そしてたぶん相当に久々に見たかもしれない第1話はやっぱり面白いなあ。動きがすごいし流れがすごいしレイアウトもすごい。小高い場所に立つ宇宙船を利用した住まいから海へと降りていく風景が高さと同時に奥行きを感じさせ、そこを走って行っては海で鮫を相手に戦うコナンが並々ならぬ運動神経の持ち主だってすぐに感じさせる。

 そしてラナと出会い通じ合いつつさらわれてしまったその後に、コナンが取ると分かっている行動は初めて出会った少女への興味、おじいの死去に伴って否応なしに選び取らなくてはならなかった新しい道の結果だってことをちゃんと示してくれている。だから入って行けたし見続けられた。そういった第1話に必要なことが全部詰まってなおかつ面白いから「未来少年コナン」は今もなお傑作と呼ばれ続けるんだろう。宮崎駿監督がいて大塚康生さんが作画監督を務めていて、音響監督は斯波重治さんで高畑勲さんも演出で後に参加する。これってジブリじゃん、だから「未来少年コナン」はジブリ作品と呼ぶべきだってジブリ大好きな読売新聞の偉い人は日本アニメーションに向かって言うんだろうか。言ったりして。ジブリ至上主義者みたいだし。

 池袋・サンシャインシティで10日から始まる「ドラゴンボール天下一武道祭2017」の内覧会を見に行って、会場の前に掲げられた巨大なパネルの敵キャラ編に美人がいてこれって誰だったっけとしばし考える。ストレートなロングヘアを持って軍服を着たスレンダーな美人。出てたなあ、と振り返って「ドラゴンボール」の初期も初期、まだサイヤ人とか天下一武道会といったものすら見えない状況で、ブルマのドラゴンボール集めに絡んで登場したピラフ一味の中にいたマイって女性キャラクターだったと理解する。ようやく始まった新連載で、敵役の中に入れた渾身の女性キャラってことで当時の鳥山明さんの美人イメージが詰まっているのかもしれない。だから綺麗だという。

 でも連載が続くに連れてキャラクターが増える一方で初期のキャラクターは味方でなければ忘れられてしまう。幾つか再登場はしているみたいだけれど、当初のあの佇まいってのはもうなさそう。「ドラゴンボール」の女性のキャラでは雰囲気も強さも心根も好きな人造人間18号のように、いろいろとフィギュアが作られることもなさそうだしなあ、あまりに初期のキャラクター過ぎて。その意味では不幸だけれど、こうしてイベントの巨大なパネルの中にしっかりと描かれているということは、まだまだ存在感は保っているってことなんだろう。改めてどこかぜフィギュア化を。原型師さんたちが戦う造形天下一武道会の中で採用されたりしないだろうか。願ってる。

 東洋経済オンラインはPV至上主義だといった批判を誌面に載せた週刊文春に対して東洋経済新報社がそんあことはないとネット上で反論しているけれど、そこに並べられている高PV記事の一覧を見てるにつけ、こうした記事を書くなり書かせるなりして会社の中での評価が上がり下がりするなら、週刊東洋経済であり会社四季報といった出版物の本質にあっただろう脚を使って企業を周って情報を集め、頭も使ってまとめあげる地味だけれど意味のある企業と経済の記事を書く仕事なんかやってられっかって思ったりしちゃったりしてるんだろうか。そういうのってネットでPVは稼げないけれど、読む人にとってはとても重要だから。

 高PVのネット記事で稼いだ収益で、地味だけれど意味のある企業周りをやらせ記事を書かせているんだと言われる可能性もあるけれど、でもそうした意味のある地味な仕事よりも高PVの記事の方を尊ぶ風潮があったら、やっぱり本質であるべき企業記事や経済記事は廃れていくような気がして鳴らない。そのあたり、どういう判断があるんだろうか。ちょっと知りたかった。それにしても、そうした週刊文春と東洋経済オンラインとの一件をくるりとまとめて取材とかしないで記事にして、サイトのトップにおいてのける某メジャーなメディアのまとめサイトっぷりがどうにも眩しくて目が開けられないというか、目も当てられないというか。高PVに阿る態度を批判しているっていう記事とそれに絡んだ話なのに、PV稼ぎのまとめ記事を直接当てもしないで書いて載せてたりする訳で。それがまた評価されるような風潮があれば、足を使って地味な記事を書く木鐸っぷりは失われていくだけだぞ、ってすでに失われて久しいか。やれやれ。


【8月8日】 問題意識が下らなすぎて読んで目眩がした記事。スタジオジブリで「借りぐらしのアリエッティ」や「思い出のマーニー」を作った米林宏昌監督が、やっぱりスタジオジブリでプロデューサーを務めていた西村義明さんをプロデューサーにしてスタジオポノックで作った映画「メアリと魔女の花」について、読売新聞のとても偉い人が「どうしてこれがジブリ映画ではないのか。ジブリの名前で出せなかったんですか?」と聞いている。西村プロデューサーは答えて「出せなかったでしょうね」。それも当然の話で、スタジオジブリ作品でもないのにジブリの名前で出せるはずはない。問題はそうした物言いではなく、この西村プロデューサーへのインタビュー記事全般に、聞き手のスタジオジブリという存在、あるいはスタジオジブリ作品といったものへの偏狭に近い思い込みがあって、読んでいて辟易とさせられる。

 だいたいがジブリっていってもどのジブリなのかを極めて狭く観ている感じ。だって高畑勲監督の「かぐや姫の物語」とか「となりの山田くん」とか「平成狸合戦ぽんぽこ」とか「おもひでぽろぽろ」だってスタジオジブリ作品で、そして「メアリと魔女の花」の雰囲気とはまるで違っているにも関わらず、読売の人は「メアリと魔女の花」はジブリ作品として出すべきだったとかいったニュアンスのことを訴え続けている。つまりはこのこの記者の頭の中には宮崎駿監督が繰り出す世界観なり、その影響下にあるクリエイターが作り出す雰囲気なりこそがスタジオジブリだっていった観念しかない。これってとても狭い了見で、スタジオジブリの看板を背負って作ってきた高畑勲監督にも失礼な話。でも聞いている側にそういいった意識も配慮も感じられない。

 新しいスタジオを立ちあげ、てそこでカラーを出そうとしている米林宏昌監督にも失礼な話。宣伝のためであり客寄せのためにジブリの看板、トトロのマークを使ったらどうだろう、なんて話は僕たちだってよくしていた。「虹色ほたる〜永遠の夏休み〜や「星を追う子ども」や「マイマイ新子と千年の魔法」にトトロマークが入っていれば興行収入は10倍になったかもしれいないと思っていた。けれど、「思い出のマーニー」の興行収入あたりからジブリのブランドだからといって客が入るとは限らないと分かったし、細田守監督が独自に積み上げてきた作風でも客が入ることが分かった。片渕須直監督の「この世界の片隅に」にも新海誠監督の「君の名は。」にも山田尚子監督の「映画 聲の形」にも伊藤智彦監督の「ソードアート・オンライン−オーディナル・スケール−』にもジブリマークは入ってなかった。けれども大ヒットした。面白かったから。素晴らしかったから。そういう時代がやっと来た。

 だから米林宏昌監督は、あるいはスタジオポノックはそのカラーを前面に押し出していけば良いだけのこと。そういう前向きさに竿を差すような「ジブリの名前で出せなかったんですか?」なんて設問はナンセンス過ぎる。もちろん宮さんパクさんが作り上げてきた雰囲気を「ジブリ風」と呼んで、それに倣ったアニメーションが出てくることは悪い話ではない。そういったものをジブリテイストと言って世間にそういうものかといった分かりやすさを提示する手ももちろんある。でもそこまで。違うスタジオでこれからのクリエイターが作っていく作品を過去のレッテルに縛り付けてはいけない。そのことを声を大にして言いたい。

 そして記者には、自分の筆でもってそうした新しい作品、新しい才能、新しい傾向を見つけて拾い上げ、媒体を通じて世に広めて次なるジブリに育てていくことをやって欲しい。世界最大の部数だと誇っている大新聞で、「ジブリ映画を取材してきた記者が西村義明プロデューサーに疑問をぶつけました」って堂々言えるくらいに影響力も持っている記者がやるべきなのは、そういった新たな価値付けであるにも関わらず、自分が好きなジブリがずっと続いて欲しいみたいな態度を見せて、それっぽさを未だ漂わせているスタジオポノック作品を責め立てるのはやっぱり違う。あまつさえそれをジブリ映画と名乗れば良いじゃんっていうのは了見が違いすぎる。自分の言葉で価値を作れ。そう言ってやりたいけれど、お殿様な会社の偉い記者様に泡沫のライターの声なんて届くはずもなし。やれやれだぜ。

 「異世界食堂」はアレッタがまあ異世界では仕事を見つけられないでいるものの、どうにか食べてはいける状況にあることが判明。それでもダンシャクというらしいジャガイモを生で囓っている感じで、あんまり良い思いがないところをねこやの店主がふかし芋にして出して上げることで、食材へのトラウマを解消して上げた感じ。生をスライスして食べても食べられないことはないジャガイモだけれどやぱりふかすか煮るかした方が美味しいものなあ。でもってテーブルでは登場人物が一堂に会するようにしてサンドイッチにはメンチカツかエビフライかトンカツか照り焼きチキンかクリームかといった議論が始まったものの、そこはお互いに試すということでまずは落着。どれも美味いのにどれかにこだわるのはやっぱり自己主張があっての異世界での暮らしだからかなあ。カツ丼とオムライスはさすがにサンドイッチには出来ないから参戦はなしか。

 そしてコンビニでメンチカツサンドを買って食べてアーツ千代田3331に行ってアニメイク・キッズサマージャンボリー2017ってイベントを見物。日本動画協会が初めて子どもを対象にしあアニメーションのワークショップめいたことを開くってことで、行くと子どもではなく大人の先生とかが集まって講義を受けていた。これはアニメーションを使った教育の方法を伝授するといったもの。伝えやすさという特長を持ったアニメーションを使うことで興味を引けて教える効果も増すといったことらしい。なるほどなあ。子ども向けのワークショップではただ絵を描いて動かすだけじゃなく、観察をして自ら演技もして動くということはどういうことか、動かすということは何をすることなのかを理解させるという。昔はアニメーション作りの現場でも行われいたことだけれど、今は動いた絵を見て動かしたいという人が業界の大半。改めて基礎から教え込むことは子どもたちの将来にとっても教える側の再認識にも役に経ちそう。

 そんなアニメイク・キッズサマージャンボリー2017には「くるみ割り人形」を作った人形アニメーターの真賀里文子さんが来ていて子どもたちにつきっきりで人形アニメーションを教えていた。なんて贅沢な。大人だって教わりたいけど小学生が対象では断念するしかないのだった。アニメーションの小さな学校に入って学ぶしかないのかなあ。そして別室の上映会では何と16ミリフィルムでの「未来少年コナン」「母をたずねて三千里」「赤毛のアン」「ロミオの青い空」の上映が。初日は「母をたずねて三千里」がかかったけれど、クレジットに場面設計で宮崎駿さんの名前があり、キャラクターデザインと作画監督で小田部洋一さんの名前があり音響監督で浦上靖夫さんの名前があり美術で椋尾篁さんの名前があって監督で高畑勲さんの名前という、ゴージャスすぎるメンバーに良い時代だったんだなあと思い知らされる。これこそジブリ作品じゃないか、なんて言いたくなるくらい。つまりはそうした原点があって通過点のジブリなんだってこと。だからずっとジブリじゃなくても良いのに。歴史を知ろうよジャーナリストは。


【8月7日】 「都民ファーストの会」ならまだ意味は通じた。東京都民が選ぶ都民のために何かをしようと考えている東京都議会議員たちの集まりが、東京都民をとりあえず第一に考えているのは不思議ではなく、そうした意識を党名に持って来るのはある意味で当然だとも言える。世界に冠たる日本の首都が都民のことだけ考えていて良いのか、もうちょっと大所高所から日本全体の顔として立つことを考えてくれないとって意見もあるだろうけれど、それは国がやることであって東京都議会議員は都民の幸福を目的に活動していけばいい。だから都民ファースト。そこにズレはない。

 でもこれが国政へと出た時に「国民ファーストの会」ではなくて「日本ファーストの会」を名乗ろうとしているのはどうだろう。それだと国民とか移民とか旅行者とかを含めた日本という国土に暮らし活動する人間たちよりも先に日本という国体が来て、そちらをまずは尊び讃えるべきであってその下では国民だとか移民だとかいった人間たちは抑圧されても構わないといったニュアンスがどうにも透けて見えてならない。そんなつもりはないと言ったとこころで、ファーストに位置づけるのは日本という確かなようで曖昧な概念。その中心に据えられるのは党首であったり取り巻きの一党であったりしそう。

 まずは党があって日本があって国民がある。そんな感じが漂ってしまうと突っ込まれるのは分かりきっていながら、あえてこうした名称を据えてしまうところにどこか驕慢さがあるようでもあり、言葉の重みに対する軽過ぎる認識ってのがある。「日本を取り戻す」とか言ってたどこかの総理大臣といっしょで、軽口を言っては非難されてもそれがどうして非難されるのかが分からなず、失言暴言を繰り返しながらもヘラヘラと逃げて責任をとらないような将来が浮かんでしまう。それともちゃんと国民すなわち人間をこそ第一と考えその幸福のために活動してくれるのか、やっぱり党の存続と拡大こそが大事と考え国民を蔑ろにしていくのか。そこが目下の関心どころ。どうなるかなあ。さすがにここは叩かれ炎上するかなあ。

 僕くらいの世代のアニメファンにとって吉川晃司さんというアイドルでありシンガーでありミュージシャンであり俳優はなぜか気になって仕方が無い存在だろう。理由は明快で東京湾をバタフライで泳いで岸壁へと上陸し、そこからスター街道をばく進していったから。あの強烈な展開にこれは何だと驚いた人も少なくないだろう。もちろん脳の大半は「責任とってね」と諸星あたるに向かって言うラムちゃんをラストに擁した押井守監督による「うる星やつら2 ビューティフルドリーマー」の衝撃的な展開に締められてはいただろうけれど、一部を確実に民川裕司であるところの吉川晃司さんに乗っ取られ、気にせざるを得なくさせられた。

 そして30年ちょっとが経った今、衰えずテレビで活躍する吉川晃司さんをついつい見てしまうんだけれどそこにさらにアニメファンの気持ちをギュッとつかむような要素が加わった。片渕須直監督の「この世界の片隅に」で冒頭にすずさんが海苔を届けに行った中島本町の賑わいの、その中に吉川晃司さんの父親が生まれ育ち祖父母が構えた割烹旅館吉川があった。そして1945年8月6日の広島への原爆投下で吹き飛ばされて跡形もなくなった。幸いにして吉川晃司さんのお父さんや祖父母は旅館を手放して疎開していて無事でいて、だから吉川晃司さんも生まれたけれどもただお父さんは8月15日の終戦後に広島市内へと入って被爆した。吉川晃司さんはだから被爆二世ということになる。

 「この世界の片隅に」に描かれたあの世界、あの空間のどこかに吉川晃司さんのお父さんやお祖父さんやお祖母さんがいたかもしれないといった想像力が、吉川晃司さんを「この世界の片隅に」を見た人の気持ちにグッと近づける。そんな吉川晃司さんが今まであまり語ってこなかった故郷、そして中島町の割烹旅館吉川があった場所を尋ねて歩くNNN度キュネンタリー「4400人が暮らした町〜吉川晃司の原点・ヒロシマ平和公園〜」は「この世界の片隅に」でアニメーションとして蘇ったあの光景を、証言と発掘によって想像することができる興味深い番組になっていた。

 そこに写真で映し出された割烹旅館吉川は、広島県産業奨励館とは川を挟んで真向かいに立っていて3階建ての威容を誇っていた。場所的には「この世界の片隅に」のラストで幼い娘を連れた母親が川を挟んで産業奨励館を眺めている真後ろあたり。もしかしたら何度も通ったその場所で、後に吉川晃司さんのお父さんが遊んでいたかもしれない。そして割烹旅館吉川に留まらずあの一体には4400人もの人たちが暮らしていて、広島市でも1番の繁華街としていつも賑わっていた。きっとあの朝も戦中とは言えそれなりな活気もあったんだんだろう。そこに落ちた1発の原子爆弾がすべてを消した。今その場所は平和記念公園となって、大勢の人が慰霊に訪れ観光にやってきて心を落ち着ける。

 そんな公園の下に、原子爆弾が炸裂した痕跡、そして大勢が暮らしていた息づかいが埋まっている。掘ると平坦にするために埋められた瓦礫があり、その下に何かが燃えたような黒い筋が走っている。刻まれたその瞬間。戦争の記憶が遠く彼方に過ぎ去って、恐怖を覚えることなく勇ましい言葉を口にする人たちが大勢でて来ているけれど、その地層を見て熱線で歪んだ牛乳瓶を見ることで、今一度戦争というものがもたらした戦慄を感じとって繰り返すまいと思うことになれば良いんだけれど。それすらもテレビの向こうの出来事だと思ってしまうのかなあ。だから吉川晃司さんだ、今も存在感を示すシンガーであり俳優が、自分に関わりの深いものとして広島の原爆を見つめ、語ることによってファンもまた自分のことのように原爆と戦争の怖さを認識するこができるのだ。その意味ではとても意義のあったドキュメンタリー。バク転もシンバルキックも見せない吉川晃司さんが言動によって大勢の心を掴んだ瞬間だったかもしれない。地上波で再放送しないかなあ。

 Maker Faire Tokyo 2017とか真夏のデザインフェスタとかを見物に行っていたため寄れなかった国立新美術館での「イントゥ・アニメーション7」を会員による近作を上映するプログラムAだけ見物。山村浩二さんによる「サティの『パラード』」が入っていて、前にあいちトリエンナーレで見てはいたけれども初見だったため要点をつかむ間もなく過ぎてしまってあまり印象に残っていなかた。改めて見て1枚の画面の中で細かい絵がそこかしこにあってそれらがそれぞれに動いていて、そんな動きがサティの音楽とも重なってタペストリーのような不思議な画面を作り上げているなあと感じた。

 絵の方も繰り返しによる手抜きめいたところはなくって、中国の奇術師からいろいろなものが突き出てくる場面とかは3回の展開が2回あって全部が違った絵になっていたように見えた。それだけちゃんと描いてつないだアニメーション。アメリカの少女とかはいわゆるアニメ絵とは対極にあるのに仕草も表情も愛らしくて可愛らしい。そんな動きがそこかしこで行われ、そしてつながれていった中に繰り出されるモノローグがあり、鳴り響く音楽があって総体として浮かび上がる「サティの『パラード』」というバレエの舞台であり、エリック・サティという音楽家の感性や生涯。アニメーションで見るバレエともサティの音楽につけられたミュージックビデオとも言えそうで、何度でも見たくなって来た。今ユーロスペースの方で山村浩二さんの特集上映が開かれていて、そこに入っているみたいなんで時間を作って見に行こう。

 「イントゥ・アニメーション7」では日本アニメーション協会の会員が15秒のアニメーションを作って競い合うプログラムみたいなのもあって、それを見た観客が投票して1番を決めるってイベントも開かれていて最終日のエンディングで発表と表彰式が行われたけれど、プログラムディレクターの池田爆発郎さんから池田爆発郎さん手製のトロフィーを受け取ったのが池田爆発郎さんだったという笑えば良いのか喜べば良いのか分からないシチュエーションになって面白かった。コンクリートの土台に「15」の文字を立体化させて載せた重そうなトロフィーを、嫌がらせのように作り持ってきたら自分が持って帰る羽目になる.身を挺してのギャグとも言えそうな爆発的な展開は、その名前に相応しいとも言えるかも。「PiNMeN」の頃から気になっていたクリエイターが今も活躍していることをとりあえず喜ぼう。


【8月6日】 ウサイン・ボルトがロンドンの世界陸上で男子100メートル決勝を走って3位に終わったニュースを流しつつ、広島で行われている原爆投下に関する平和式典が中継されていたNHKで、爆心地となった中島本町の在りし日の姿が映像として描かれた「この世界の片隅に」が流されて、公開から9カ月近くが経ってなおこうして口に上る映画になっていたんだなあといった感慨を抱く。あれで1カ月くらいで公開が終わって10億円に届くかどうかといった興行収入に留まっていたら、果たしてこうまで語られただろうか。やっぱり「火垂るの墓」や「はだしのゲン」が先に来たんだろうか。

 なんてことも考えたけれど、あの完成度を保った映画が1カ月やそこらで終わるはずもなければ、賞のひとつも受賞しないで過ぎることもない。そんな当然を必然に変えたからこそ今なお公開が続き、片渕須直監督は広島で映画について語る機会を得ている。ちゃんと作ればちゃんと見られてちゃんと語られる。そんな当たり前をこの映画から改めて思い知らされた。来年の8月6日も10年後の8月6日も、「この世界の片隅に」は語られそして見返される映画になっていることだろう。そう信じている。もちろん「火垂るの墓」も「はだしのゲン」も「桜の国 夕凪の街」も。

 今日も今日とて東京ビッグサイトへと出かけていっては、Maker Faire Tokyo 2017をまずは見物、といっても見渡してかはんちゃんを担いだ野尻抱介さんを探したくらいだけれど、まだ来ていないのかどこにも見つからなかった。ちょっと残念。非接触のセンシングと2台のカメラでもって指の動きをリアルタイムに把握し、それをロボットの指に伝える装置を出していたところがあって、動きがすぐに反映されるセンシングの技術、そしてメカニカルな技術がすごかった。ペットボトルくらいなら持てるそう。ワイヤーで引っ張ったり曲げを察知したりする方式もあるけれど、装着するのに手間暇もかかる。これならパッと使えそう。問題はどこに使うか、そして使えるかか。考えるのはこれからだ。

 同じ東京ビッグサイトでの真夏のデザインフェスタでは、東京工芸大の卒業制作で「EMIGRE」ってアニメーション作品を作ったwabokuさんが出展しているってんでブースを訪ねてDVDとイラスト集を購入する。独特の絵柄で世界観もあってこれからが期待されるクリエイターなんだけれど、個人の資質を生かしつつ商業の枠組みで作っていけるかが今後のテーマになるのかな。久野瑤子さんだって「Airy Me」が評価されてもそのまんまは作れず、岩井俊二監督の映画を手伝ったり漫画を書いたりしている訳で。かといって個人制作ではお金も時間も大変だし。そんなあたりを乗り越えて、商業性を持ちながらもインディペンデントな雰囲気を持った作品を作り上げてくれると信じて待とう。人材、募集していたみたいだし。

 気になったブースでは、アイコンクッキーラボってのが面白そうだった。いわゆる正方形のクッキーの表面に文字とかイラストとか写真なんかもプリントしますよといったサービス。割とサイズ感があって色味もくっきり出ているんで、そのまま以前だったら四角かったTwitterのアイコンに使えたかもしれない。ああ、だからアイコンクッキーなのか。今だとイベントのお土産用にとチョコマシュマロにキャラ絵を載せて売られていたりするけれど、あれってしわしわなマシュマロの上だからイラストがよく見えなかったりすることもある。クッキーなら平面で大きいからキャラ絵だってばっちり。ノベルティに使いたいって企業も出てくるかもしれないなあ。リアルな分、食べるにためらう? 自分の血肉にする? どっちもありか。

 やれやれだぜ。TBSの番組「ひるおび」の内容が酷いからといった抗議が7月あたりに繰り広げられていたそうだけれど、そんな「ひるおび」のスポンサーから再春館製薬が降りたって話がパッと出回って、どうやら本当らしいと分かって「ひるおび」に対する抗議なんかが成果を上げたぜヤッホーといった快哉を上げている人がいるらしい。でもってそうした抗議が実ったって話をとあるメディアが取り上げているけれど、実際に再春館製薬が「ひるおび」のスポンサーを降りたのは3月のことで、昨今の抗議とはまるで関係ないことが明らかになっている。にも関わらず、そうした真っ向の否定をしないで抗議が大成功して再春館製薬は「ひるおび」のスポンサーを降りたんだから、みんな気に入らない内容の番組からスポンサーを降りるよう働きかけようぜってなニュアンスを遺し漂わせた記事になっている。

 そうでないにもかかわらず、そうだと印象づけ誘導する手法の厄介さはどうしようもなく、それをそう報じることによって再春館製薬は番組内容に対する抗議を受け入れてスポンサーを降りる企業なんだといった印象を、周囲に与えてしまうことも問題。こうした印象を再春館製薬としては持たれて構わないのか。それは違うだろう。色がつくことも嫌だしそもそもがそうではない話を取り沙汰されるのも迷惑千万。普通にタイミングを見計らってドモホルンリンクルのお試し版を、違う層にも売りたかったから半年で提供先を切り換えた。それが事実なのだとしたら他に類推するのも失礼で、あるいは業務内容に対する侮辱にもあたる。名誉毀損なり業務妨害で訴えたって構わないかもしれない。

 そんな危険性をはらんだストーリーを平気で繰り出してしまえるのは、このメディアの書き手がTBSの反日偏向を批判することこそが正義だという、唯一絶対の基準ですべてを収めようとしているから。だから降りた再春館製薬は降りた理由は反日偏向への抗議でなくてはならず、3月に降りていたとしてもそれは7月の抗議を受けてのものだといった時間的に坂の張らなくちゃいけないタイムマシン的理由がつけられる。

 もうひとつ、テレビ番組はスポンサーへの抗議によって屈服させられるという、ある意味で言論の自由への多大なる挑戦であり半ばテロリズムでもある行為をメディアの側が推奨しているようにもとれる。これも愛国無罪的に反日偏向への抗議は正義なんだと言った認識をのみ中央に据えて考えているから問題を問題として認識できずに書いてしまうんだろう。それとも問題とすら思ってないか。思ってないかもなあ。まったくやれやれだぜ。

 阿佐ヶ谷へと回ってサーバルちゃんの張りぼてを見てやっぱり良い出来だと確認してから阿佐ヶ谷ロフトで開かれた「王立宇宙軍 オネアミスの翼」の公開30周年を記念した山賀博之さん、貞本義行さんが登壇するトークイベントを聞く。まだ20数歳の山賀さんが脚本を拠り所にコンテとか切らず作画に話しをして作っていく在り方が、小黒裕一郎さんにはやっぱり気になるところがあったのか、しつこく尋ねていたけれども山賀さんは実写映画じゃ脚本があって現場で撮影監督がフレームを決めて、あとは役者におまかせといった感じで撮っていく訳だからアニメーションもそれと一緒ってことを訴え続けてこかすれ違っていた。

 なるほどそういう手法もあるけれど、それだと現場は大変そう。でも山賀さんはアニメーターがどういう構図でどう動かしたいか、どう演技をつけるかを考えが方が良いんだからといった主張で、それにも一理はあるけれど演技プランを思い浮かべてそれを絵に表せるアニメーターってどれだけいるんだろう、って疑問も同時に浮かぶ。昔ならいたけれど今はそうはいないような気がするなあ。レイアウトもばっちりのキャラまでくっきり描かれたコンテをもとに第一原画ざあたりをつけて第二原画が清書めいた原画を描いて動画が中を割って。それは効率が良いのと同時にそうでなければ描けない、あるいはそう描くことしか学んできていない若手がコンテなしのお任せ監督に対応できるのか。出来たら素晴らしいとは分かっていてもそうはいかないアニメの現場。山賀さんが寡作な訳も何と無く分かった。

 とはいえ、山賀さんだってコンテを切る時は切るらしくそれは作品によるとも。そして「王立宇宙軍 オネアミスの翼」でも作画監督によるコンテやレイアウトめいたものはったみたいで、半ば韜晦気味に狷介な雰囲気を漂わせる山賀さんならではの言説によて煙に巻かれたような感じだったのかもしれない。あれから30年、「蒼きウル」の話も動いているようだけれどとりあえずは目先に「クイーンエメラルダス」が待っているのかな。そんな仕事に期待をしつつGAINAXがちゃんと立ち直っていってくてることを今は願おう。ってどのGAINAXだろう、東京か京都か鳥取か福島か。どこが何を持っていて何を作っているのか。ちょっと見えないんだよなあ。イベントではPLUMが出しているプラモデルの「オネアミス王国空軍機 第3スチラドゥ(単座)」が山賀さん貞本さんのサイン入りで売られていたんで購入。作る時は来るか。外に出るとサーバルちゃんを見守るかばんちゃんが出現していた。日々進化。最終日にはジャパリバスとか登場したりして。が


【8月5日】 放送時に録画もして、そして予約限定で発売されたブルーレイボックスも持っていたりする「ゼーガペイン」がけれどサッとは見つつもほとんど内容をおぼえていなかったりする。でもって舞浜サーバーを県下に持つチバテレビでもって再放送がスタートして、現実がどうやら現実じゃなかったりすることを伺わせる第1話を見て、そのSF濃度の濃さにこれがどうして日本SF大賞だとか、星雲賞を受賞しなかったんだって今、改めて思ったけれども「電脳コイル」ほど世間に話題を振りまかなかったことがやっぱり印象として薄かったのかもしれない。今、改めて再放送されてこれで評価が高まって、リブートとかってなったらあるいは。花澤香菜さんも当時の初々し過ぎる演技とはまた違った声を聞かせてくれるかもしれないし。

 バンダイの超合金魂から映画「マジンガーZ対暗黒大将軍」に登場したボロボロになったマジンガーZが出るという話を見て、大昔に西沢信孝監督にインタビューした話を思い出す。当時としては人気絶頂のアニメーション。そして誰からも支持を集めているヒーローメカをボロボロにするなんて展開に、テレビ局とかスポンサーから反対されなかったのかって話に西沢監督は、そんな反対はなかったし来ていても自分の所には届かなかったし、もし来たって聞かなかったって答えてた。なぜならそれは必要な展開であって主役メカを交代させ、グレートマジンガーを圧倒的に見せるにはそうせざるを得なかった。

 物語においての必然を歪めるような演出はしない。商売に媚びないクリエイターの矜持って奴が伺えたし、それを認める空気がちゃんとあったんだろう。これが今だと誰かが忖度して敬遠した果てに穏便に治めようとする。イニシアティブを誰がとらずともそういう風に収まっていってしまう空気の怖さって奴は、政治でも経済でも文化でもいっしょ。誰かがそりゃ違うだろうって止めれば良いんだけれど、止めるだけの意見を放てる人がいなくなってしまったんだよなあ、もう富野由悠季監督か宮崎駿監督くらいしか残っていないかも。「マジンガーZ対暗黒大将軍」ではあとは兜甲児と弓さやかにキスをさせなかった話が。真剣な戦いに臨むのにロマンスは不要。それもまた矜持って奴だったなあ。強い芯を持ってドラマを紡げるアニメーションの演出家は今もいるのかなあ、いても潰されないで貫き通せているのかなあ。

 夏にもデザインフェスタが出来たんで見物に行く。去年一昨年も開かれてはいたけれど、どこかおまけっぽかったのが本格的に立ち上がったみたいで会場も東京ビッグサイトの東館(ひがし・やかた)のホール3つを使ってた。まあギチギチではなかったけれども結構な出店者数で、見て回って買うにはちょうど良い感じかもしれない。そんな中ではかものはし造形ってところが出していたハシビロコウのリアルなマスクがなかなか。人間がかぶれるサイズだけれども造形はリアルで、伸びたくちばしと表情を持たない眼が本物そっくり感を醸し出していた。これを被って上野動物園のハシビロコウを見続けたら相手も根負けしてくれるかな。

 あとはデザイン事務所を運営する中で、自分でオリジナルのプラモデルを作ってしまった人がいて驚いた。金型はどうしているのか訪ねたら、静岡が地元でプラモデルメーカーで金型を作っていた人が独立して作ったところに頼んでいるとか。それでも小さいもので数十万円はする金型を使っても大丈夫くらいには売れているのかな。それともデザインの仕事とのバーターなのかな。最近はメッキ版も出てきたりしてなかなかにゴージャス。ワンフェスにも出ていたそうだけれど見かけなかったのはやっぱりキャラクターもの全盛の中でオリジナルはたとえ模型でも目立たないってことなのか。そもそもが完成品のフィギュアばかりが人気で組み立てキットが売れない時代でもあるからなあ。ワンダーショウケースとか大変そう。どうするんだろうあさのまさひこさん。

 千葉工業大学が企業なんかと組んで出している、金属板にレーザー加工で切れ目をいれて、それを持ち上げ折り曲げていくと動物なんかができるというスタイリッシュでクールなアイテムが今回も出ていてなかなかの出来だった。去年も見て思ったけれどもロボットとかを作ったら、何かの企業なり作品のノベルティとして機能するんじゃなかろーか。どこだっけ大分にあるダンボールで動物の立体物を作っていた会社はその後にディズニーキャラクターなんかを作るようになったから。ダンボールを差し込んで作るからスキマも多い造形なのに、ミッキーマウスだと分かる造形力と技術力がキャラクターに厳しいディズニーを納得させた。それと同じようなことをこの金属パズルでも出来そうな気がするんだけれど、どうだろう?

 「紙兎ロペ」とか「野良スコ」といった作品に関わっていた河村康平さんが2013年ごろからアニメーションなどで展開してきた「ノンティ」のグッズが並んでいたり、ヤンキーに見えない和服にすら見えるクールなジャージを扱っているところが春のデザインフェスタに続いて登場していたりと充実の内容。個人的には「メアリと魔女の花」でメアリが使っていたようなショルダータイプのがま口を扱っていたところが引かれた。革製で頑丈そうで口がねもパッチリと閉まる。映画を上映しているところとかでグッズとして売られているかばんは口がねがすぐに壊れそうだし頑丈さに足りず底が抜けそうなんだよなあ。スタジオポノックはむしろこっちと組んで上製品を出せば良いのに。それだけの認知度が映画にはまだない? それはいかんともしがたいなあ。どれくらい行くんだろう興行収入。

 そして同じ東京ビッグサイトで始まった「Meker Faire Tokyo 2017」もぐるっと一回り。去年は来日がキャンセルになったメイカー・ムーブメントの生みの親、デイル・ダハティーさんが講演を行ったんでまず聞いて、中国なんかと日本とのメイカーとしての気構えの差異なんかに興味を持つ。中国ではアントレプレナーだとかイノベーターといったものがメイカーだって考え方があるみたいだけれど、デイル・ダハティーさんはそういった成功だとか勝利だとかお金儲けだとかいったものが必ずしもメイカーの目的ではないって話してた。楽しいこと。誰かを喜ばせること。そうした思いがあってそして何かを自分で作りたいという思いがある。だから作る。それが役立たずでも儲からなくてもとにかく作る。そこにメイカーとしての神髄がある。そんな話。

 もちろん儲かるに越したことはないし成功があって初めて自分の立脚点を得られる中国って国と、何と話に食べて行けてそこにユニークな発明発見を趣味で加えられる日本との立ち位置の差って奴もあるかもしれないけれど、バカバカしいガジェットを目一杯の技術力で作りだしてしまう無謀さが、やっぱり発明発見のベースにあった方が世界はいがいな法へと転がっていくもの、なんじゃないのかなあ、わかりきった成功は延長線上もわかりきっているってことだから。そんな意味では「ようこそジャパリパークへ」のサウンドに乗ってジャパリバスを動かしガチョウを踏んづけると横に吊り下がったガチョウの首が絞まってぎゃあとなくゲーム機が面白かった。役には立たないけれども面白い。そして面白いってことが重要なんだよ。ダッチ案外良いこと言うなあ。

 もうポン酢過ぎ。とある新聞が前に韓国で大統領をでまかせで誹謗中傷して逮捕され、それはさすがに横暴だからと無罪にはされたけれどでまかせであることは満天下に知られてしまった元特派員が、韓国に行って不法侵入と器物損壊を行った人物を、それには理由があるから逮捕は行き過ぎだってな感じの論を展開している。「容疑は天安市の国立墓地にある石碑の上に新たな石板を張り付けたことによる公用物損壊と、無断で墓地に立ち入った不法侵入だ。奥氏は行為については自ら行ったと認めた上で、処罰に当たらないと主張している」。当人がそうは主張しようと法律の乗っ取れば罪は罪。そんな当たり前のことも認めないで“愛国無罪”を主張するのは、そう主張する人たちがそんなことをよくやっていると非難する国といっしょじゃないか。相手は悪くて自分たちはオッケーってまた身勝手な。でもそこがだから“愛国無罪”ってことなんだろう。端から見れば一緒だってばれていても自分とその仲間達さえ納得させられば大丈夫ってことなんだろうなあ。やれやれ。


【8月4日】 今時のキャラクター事情を確かめようと阿佐ヶ谷へと出向いて七夕まつりの飾りなんかをざっと見物。毎年凝ったアニメーション関係の張りぼてを出してくるところが今回は「けものフレンズ」からサーバルちゃんとセルリアンを作って飾っていて、これがもう完璧なまでのサーバルちゃんで見上げて巧さに感嘆する。後をセルリアンが追いかけている感じで、その上を「JAPARIPARK」っていう文字が掠れて描かれたゲートがかかっていて、アニメの1場面を抜き出してきたかのような雰囲気を出していた。これがこのお祭り限りっていうのはもったいない話だけれど、でもワンダーフェスティバルといっしょで1夏限りの見世物だから認められているんだろうなあ。トトロめいたもとかカリブの海賊っぽいものとかいたけれど、これとか突きつめるとちょっと大変なことになりそうだし。

 作品としてはミニオンが幾つかあって海外発のアニメーションとして今の旬であり中心だってことを感じさせる。連続しているのもいいのかな。これがディズニーとかピクサーだと毎年とか公開はしてくれないから。あとはジャイアントパンダと赤ちゃんパンダのセットが3つくらいいた。上野動物園で赤ちゃんが生まれたことを祝ってか。でもまだ1カ月とかそんなものでここまで作り上げるとは。そういうライブ感もまたお祭りって奴なんだろう。阿佐ヶ谷ってことでアニメーションスタジオもいくつかあって、そんな1つのサテライトで働く河森正治さんが生み出したバルキリーも1つ登場。ガウォーク体型ってところが通だねえ。あとはワンフェスなんかでも見かけるロボットのメカトロウィーブがあってなかなかの渋さ。阿佐ヶ谷なら分かる人もいるだろうけれど、七夕まつりに集まる人の大半は何だろって思うだろうなあ。サーバルちゃんは……知られてきてはいるかな。来年は他のフレンズが増えると良いな。

 Kamatymoonこと鎌田光司さんがデザインを手掛けた神風動画のアニメーション「COCOLORS」がカナダで開催されたファンタジア国際映画祭で最優秀アニメーション賞の短編部門で最優秀賞を受賞したとか。かつて今敏監督の最初の映画監督作品「PERFECTBLUE」を上映した縁から、最優秀賞を「今敏賞」と名付けているらしいその賞を日本からの作品が受賞とはまた奇縁というか良縁というか。でもどこの映画祭でも出せばその技術力と作品性で普通に受賞できてしまうから、これに続く栄誉ってやつもまだまだありそう。そうやって世界を席巻した後、実績をひっさげてまた生演奏生アフレコ版の上演をやってくれたら嬉しいなあ。あれは1つの奇跡だったから。

 うさぎやすぽんさんの「死にたがりビバップ −Take The Curry Time−」(スニーカー文庫)が金曜日にうってつけの内容だった。つまりはカレーを食べれば全てが平和に丸く収まるっていった感じの。読めば自殺しようだなんて気も収まるし、列車を爆破しようとする気持ちも、麻薬の運搬を阻止しようとする活動もだいたい解決。そして男女の仲も深まるって具合。ほぼほぼそんな話。本当だって。内容はといえば、大学時代の同級生が久々に再会した豪華列車の中で起こる騒動あれこれ。拳銃を持った美少女にダイナマイトを巻いた美女、そして個室に暮らす幽霊が現れ撃ち合い再会を喜びカレーを食べ回想もする。

 そこで繰り出されるのがカレーの話。本格洋風のボンディにカツカレーがビッグなキッチン南海にスパイスを振る回数を表す辛さは45倍が良いらしいえちおぴあ。それってもしかして神田神保町の話なの? って思われそうだけれど違います。まったくの外国風な舞台でギャングとマフィアが牛耳る世界のお話。そこで文学部を出た青年と、医学部を出た青年とが死にたいを願って列車に乗って出会って潜入していた女捜査官のウエイトレスが絡んで列車が進んで少女による爆破の時間が迫る時、自殺志願だった男たちは立ち上がり列車を爆破しようとしていた少女を救おうとする。チャイを飲んで。入れ替わる語り手でいったい誰が喋っていて、そして時間も行ったり来たりしてやこしいけど、咀嚼しつつ読んでいけば何となく分かる。そしてカレーがすべてを導いてくれる。読み終えたらとりあえず神保町に行きたくなるかも。キッチン南海かなあ、そしてカツカレーを頼んでトンカツにマヨネーズをドバドバかけると。それ良いの?

 移籍金に300億円近くを支払っても、元がとれると思っているからこそ支払うんだろうなあ、パリサンジェルマンがネイマール選手の移籍を実現するためバルセロナにそれだけのお金を払ったとか。誰が出せるかといった感じに設定された天文学的な金額だったけれど、カタールの石油王たちには関係がなかったってことなんだろう。いったいどれだけ金持ちなんだ。楽天なんかじゃ引き留められる訳もないか。でも石油なら売れば収入になるけれど、パリサンジェルマンがフランスのリーグアンで首位となってもチャンピオンズリーグでビッグイヤーを獲得しても、それだけのお金が稼げるとはちょっと思えない。だったら何度もそんな栄冠い輝いているバルセロナはもっと儲けている訳で、活躍のために支払う選手への年俸なんかを鑑みるならギリギリがマイナスが精一杯。だったらパリサンジェルマンは、あるいはお金を出したカタール財団はどこで稼ぐのか、ってところが今後のポイントになるんだろう。2022年のカタールでのワールドカップかなあ。

 内閣改造とやらも一段落してあまりパッとしない閣僚たちの顔ぶれに、民進党もここから巻き返せるかと思いきや、自分の思い通りにいかないからと細野豪志議員が離党を表明したとかでちょっと混乱気味。過去に代表選に出たり蓮舫議員の代表選出を応援したりして、中枢部に影響力を持とうとしていたからまだまだ我慢して党を掌握し、そこから自分の思うような施策を打ち出していけば良いのに、一気に離党してしまうなんて政党といったものの在り方を理解しているようにはあんまり思えない。政党なんて様々な意見の集まりな訳で、全部が自分の思い通りにいくものではないし、憲法改正の問題なんてどこに行ったって通るものでもない。だから最小限、かなう部分を叶えつつ自己主張をして風向きを変えるのが筋なのに、離れて新党を立ちあげすべてを自分の思うがままだなんて通ると思っているのかな。もっと冴えた人だと思っていたけれど。それとも保守系のメンバーがこぞって参加してくれるといった目算でもあるのかな。前にやめた長島昭久議員とかとの絡みも含めて関心をもって見ていこう。

 題字とかマークをボかしつつも体裁はだいたい同じで、そこにまったくの虚偽の見出しと写真を貼り付けて、安倍総理夫妻を誹謗するような号外をでっちあげられた時に怒るのはまずは安倍総理の方であって、続いて真似をされて題字を傷つけられたということで新聞社も怒って当然。それはそれとしてパロディだったら題字を変えるなり本文もいじるなりして完璧なまでに読んで皮肉が効いた物にすれば良かったのに、本文は前に出た号外そのまんまじゃあ読んですぐにこれはインチキだって分かってしまうし、何の笑いも生み出さない。批判する側の批判できればオッケーっていうのが受け入れられないから、1990年代末期にレフティーな勢力は情動に訴えたライティーな勢力にのみ込まれて敗れ去った。その繰り返しを20年経ってやり続けて勝てるはずもない。もっと利口に。そして真摯に。でないと逃げられるから。そしてとんでもない所に連れて行かれるから。


【8月3日】 明けてスポーツ紙とかを検索しても、湯浅政明監督による「DEVILMAN crybaby」の新情報とそして声優に内山昂輝さん、村瀬歩さんとう当代トップクラスの2人が決まったといったビッグニュースを伝えているところはまるでなし。あのアヌシー国際アニメーション映画際2017で「夜明け告げるルーのうた」がいつかの宮崎駿監督や高畑勲監督に次ぐもので、世界的に注目を集めているクリエイターの新しい情報だったら文化面をでっかく使って報じたって不思議はないのに、ベタですら扱っている感じがないところにスポーツ紙界隈のアニメーションに対する感度の低さ、あるいは温さって奴が伺える。

 これが例えばスタジオジブリで修行をしたクリエイターが手掛ける作品で、そして声優に人気俳優なりアイドルなりが起用されたとしたら大きく扱って写真だって載せるだろう。彼らにとって自分たちが狭い井戸の中で見知っている範囲だけが価値のあるものであって、そこから外れた大海で世界を席巻しているクリエイターでありコンテンツについては、分からないからと無視を決め込むか、あるいは情報を知ってすらいなさそう。そんな頭でメディアの先陣を切っているつもりでいるうちに、世間からは取り残され若い人たちからは見捨てられていくんだろー。勝手にしてくれとしか言いようがないけれど、それだと個人的には困るんだよなあ。どうしたものかなあ。

 そんな湯浅監督の「DEVILMAN crybaby」に関する発表があったネットフリックスのプレゼンテーションでは、コナミが世界に誇るゲーム「悪魔城ドラキュラ」を原作にしたアニメーションの紹介もあって、声で出演している置鮎龍太郎さんが登壇してはいろいろと打ち明け話をしてくれた。何でも前に「悪魔城ドラキュラX 月下の夜想曲」でアルカードっていう主人公の声を担当したことがあったという置鮎さん。それが新作アニメーションではトレバー・ベルモンドという男の声を担当することになった。

 でもって台本を見たらアルカードは三木眞一郎さんが演じることになっていて、前に何かで三木さんがベルモンドを演じていたことがあって、シャッフルした感じが面白いってことを置鮎さんが話してくれた。そのタイトルをゲームだったかのように話していた置鮎さんだったけれど、調べてたら「月下の夜想曲」に合わせて作られたドラマCDか何かの中で三木さんがベルモンドの一族を演じていたみたい。近いじゃん。まあ格好いい系の声はだいたい決まっているからそういうシャッフルもあるのかも。アニメーションが出来が良いんで日本でもテレビ放送されないかなあ。ネットフリックスだとやっぱりキツいんだ通信環境的に。

 そういえばやっとアルチンボルト展を見たんだけれども当初は例えば春夏秋冬なりのテーマにマッチした草木なり動物を集めて描いていたんだなあといったことが分かった。ある意味で博物学的な見地を持った絵図であって、それをより際立たせるために肖像の中に組み入れた、って感じもしたけれど、だんだんと異形をどうやって描くかにシフトしていって何でもありになっていった感じ。人体が集まって顔だなんてそりゃあ不気味だけれど面白くないものなあ。そんな中ではソムリエと司書っていう職業の人物を、関連する品々で構成したものが面白かった。どこかシュールレアリスム的でもあってキュビスム的。こうした遊び心が300年くらい経って画家たちの中に受け継がれ蘇っていったのかも。その意味では幻想と構築の原点でもあるかもしれない。見て置いて損はなしの展覧会。

 ヘパリーゼに続いてお菓子を3点セットで買うと「けものフレンズ」のキラキラチャームがもらえるプレゼントが始まって、せっかくだからとチョコあ〜んぱんとプリングルスとクランチチョコを買ってギンギツネのチャームをもらう。サーバルちゃんは人気だったからかすでになかった。残念だけれどギンギツネも温泉の湯本で見せた迫るセルリアンに諦めた感じを見せる雰囲気がとても良かったので好きなのだった。次はキタキツネをもらってセットにしよう。あとはコウテイペンギンとツチノコがあったっけ、もう1つは何だたかなあ、まあ良いあるうちに確保、絶対。

 これはさすがに拙いと思うんだけれど官邸は知らん顔して突破していくんだろうなあ、人づくり革命担当大臣。以前から「人づくり革命」を政権の柱に据えるとか言っていたからワードとしてはそれを継承した形になるんだろうけれど、ただ内閣における国務大臣が「革命」という肩書きを持つことが適切かっていうと、開けば「天命が革まる」という言葉になって時の王朝が倒れて別の王朝が立ち上がることを意味している言葉なだけに、国務大臣として天皇陛下から認証を受ける場に、立って果たして大丈夫なのかといった重いが浮かぶ。

 象徴であっても国を導く皇室の中心におわす方に向かって「革命」という、その地位を途絶えさせる意味を持った言葉を突きつけていいのか。本当の保守だったら頭をかきむしって不敬と訴え止めさせるんだけれど、安倍ちゃんを讃えることが最大にして唯一の目的という保守らしき人たちにとって、その決定は絶対だから何も言わないでスルーだろうなあ。果たして人づくり革命担当大臣が国務大事なのかは不明で、行政大臣でしかないのかもしれないけれど、これを兼務した茂木敏光議員は経済最再生担当大臣で、内閣府の特命担当大臣として国務大臣になっているはずだから、その名前でもって別に「革命」の文字を背負って天皇陛下の前に立ったとしたらやっぱり度胸のある話。本人は何を思っているんだろう。何も思っていないかなあ。いずれにせよ言葉がどこまでも軽すぎる安倍ちゃんたち。これで退位からの改元となった時、どれだけ不敬で不勉強な言葉を引っ張り出して来るか分からないぞ。

 北海道の富良野でメロン農家のハウスに除草剤が撒かれてメロンが枯れて収穫できなくなってしまうといった事件が発生。草や蔓が枯れた先に丸々としたメロンがまだ残っているのを見て、これが収穫できていたらいったいどれだけの数になったのかと思い、だからこそ寸前でもって息の根を止めた誰かの行為に対する理由が知りたくなってきた。それこそ“殺人”にも匹敵するだけの行為をやれてしまえる心理には、怨みがあるのかただの嫌がらせなのか。その農家のメロンが出荷できなければ自分のメロンが売れると言うほど甘くはないし、それで喜べば犯人だとばれてしまう訳で、それでもやってしまえる心理があるとしたら何なのか、怨みだったとしたら何の怨みか、犯人逮捕の目処もついたようなので、そのあたりがキッチリと明らかとなり、そして二度と同じ事が起こらないようしっかりと対処がとられて欲しい。

 ふらりと日本橋三越に寄ったら、前にファッションワールド東京って展示会にブースを構えて新進気鋭のファッションデザイナーとして登場していた柳澤陽司さんが、IROHUSIというブランドを立ちあげ期間限定の店を構えていた。前に観た時は墨汁で染め上げて黒は黒でも墨染めの衣のような風合いを持ったファッションだ男性女性ともあったけれど、今のシーズンのコレクションは淡いグレーをナチュラルな素材に染めたものでぞろりとした雰囲気はコムデギャルソンっぽさがありヨーガンレールっぽさもあって、なおかつ和風の侘び寂びな感じが漂っていた。ワイズも含めたカラス族とはまた違った用法手法のファッション。秋冬にはもうちょっと黒が戻って来るみたいだけれど、前に見たメンズはしばらくはなさそう。でもその雰囲気でこれからグッと出て行ってくれるとちょっと楽しいかも。世界にも是非に。


【8月2日】 翅田大輔さんの「桜色のレプリカ」(1、2 HJ文庫)がすごいのでSF読みは気にするように。夢から覚めるとベッドの上に下着姿の少女がいて迫ってくる。生徒の1人でもちろん拒絶し叩き出した六方カザネは、朝食をとって授業へと向かい生徒たちに文学を語る。それで問題にならない? 大丈夫、なぜならそこは特別な環境。生徒が先生に迫ることも許容されていて、六方カザネはそんな生徒たちに人間らしさを教えようと授業に勤しんでいる。

 そんな学園ラブコメのような日常がある事情で一変し、先生たちは退避し生徒たちは手に武器を取って立ち向かう。何に? 人類の敵に。少女たちはいったい何者? そこが驚きの最初のポイント。そして世界が置かれた環境が明らかになって、迫る滅びの時を感じさせられつつ六方カザネは立ち向かうために必要な、少女たちに人間らしさを教える授業に取り組む。そんな彼に理事長から依頼。人間を探してくれと言う。どうして人間を? それは……。

 とにかく驚きのストーリー。第1巻の終わりに来るサプライズはその場で第2巻を手に取らずにおられなくする。そうした展開の果てに示されるのは、世界とそして人類が次へと向かう可能性。考えること、愛すること、自分を犠牲にすることのどれが人間だけが持ち得る行動か? その問いにひとつの答えが出される。幾重にも仕掛けられた罠のような謎のような設定の先、いったい世界はどうなっているのかといった興味が浮かぶ。さらに人類という種はどうなっていくのかも。そして人類とは何かといった問いかけにも。

 SFとしての王道とも言える主題を投げかけられるストーリーであり、文学とは、哲学とは何かも考えさせられる教養に溢れたストーリー。人類にとってのある種のビジョンは、アニメーション映画の「楽園追放 Expelled from Paradise」にも重なるところがあるかもしれない。人間の存在が単なる知識と記憶だけなら転移は可能だけれど、それでは追いつかない何があるとしたらそれは何? 考えさせられる。敵となった存在の強大さとしつこさを考えると、物語の先に来るだろう人類の未来は暗そうだけれど、愛があれば大丈夫、なのかもしれないと信じて待とう、その復活を。可能なら他の少女たちにも未来を与えて欲しいなあ。健気だったものなあ、彼女たち。

 乃木坂48の楽曲「月曜の朝、スカートを切られた」について、そういった思い出がある人が嫌な記憶がフラッシュバックするんで止めて欲しいといった声を上げているとか。トラウマを刺激される辛さは分かるから、そうした意見には納得する。でも「【月曜日の〜】は、「目立たないように息を止め」ることで抑圧を受け入れよとの文脈を持つ。その文脈で、切り裂き被害に遭った曲中の主人公が「私は悲鳴なんか上げない」と言う。これは、犯罪被害者側に沈黙を強いていると受け止められても仕方がないのではないだろうか」って分析したライターにはちょっと違うだろうと言いたい。

 尾崎豊さんの「15の夜」なんかとも比較して、あっちは解放があるけれど、こっちには抑圧に甘んじるだけだっていった指摘がされていたりする。でも、この歌詞ってそうした逃避とはまるで逆な意味を持っているんじゃないのか。ストレス発散でほくそ笑んでる奴ら挑発に乗って悲鳴を上げて喜ばせてなんかやるものか、って決然としたニュアンスがあって、決して抑圧を受け入れようとしたものではないと思うんだけど。普通に読めばそうなるはずなんだけれど、乃木坂48の楽曲の歌詞であり、その書き手である秋元康さんを批判するという目的のためには、そうネガティブに解釈するしかないんだろう。最近のメディアに割と見る手法。それを牽強付会と指摘し諌めるデスク的な存在が不足しているんだろう。炎上狙いと指摘する炎上狙いの記事で稼ぐアクセス。やれやれだ。

 秋葉原に寄ってUDXにあるアニメショップに立ち寄ったら「けものフレンズ」のグッズが増えていたんで幾つか購入。16種類あるというクリアファイルは買ったらサーバルチャンとアミメキリンでメインどころが入っていたのでオッケー。次はやっぱりヒグマが欲しいかも知れない。その強さに対して妙にコロコロとして可愛いんだよヒグマ。もう1つはクリアキーホルダーでスキーを履かせた桶の上にサーバルちゃんとカバンちゃんとキタキツネとギンギツネが乗って滑っていこうとしている柄。アニメのまんまじゃいけれど、吉崎観音さんのイラストとも違うアニメがあってこそのキャラは今後増えてくるのかな。次はアライさんとフェネックで欲しいかも。

 そんな秋葉原から有楽町へと出て東京国際フォーラムでネットフリックスによるアニメーションの戦略発表会を見る。「シドニアの騎士」とか「BLAME!」なんかでアニメに力を入れていることは分かっていたけれど、改めて見てオリジナルの新作をいっぱい投入してくるみたいで見られるものなら見たいと持った。ネットの環境がナローなんでちょっと映像のストリーミング配信には手が出ないんだよなあ、niconico画質が精一杯。さて新作ではやっぱり「DEVILMAN crybaby」が注目の1作。あの「夜明け告げるルーのうた」の湯浅政明さんが監督を務めていて、声も不動明に内山昂輝さん、飛鳥了に村瀬歩さんが決定した。

 そして公開された新しいPVを見るとデーモン族が蠢いているだけだったものから進んで人間世界の日常と、そして人間をやっている不動明なんかも登場していて風にアニメの感じが見えてきた。それがもう湯浅監督そのもので、「カイバ」だとか「マインド・ゲーム」といった作品での溶け合って混ざり合うようなビジョンが立ち上がっては「デビルマン」という情念の作品と違った方向から照らし出す。本編がもっと長くなると感じるだろう永井豪さんの絵柄との乖離だけれど、そこは湯浅監督ならではの雰囲気とテンポ、そして音楽によって見てグッと来る作品に仕立て上げてくるだろう。しかし内山さんがオーディションを飛鳥了で受けて村瀬歩さんと激突していたとは知らなかった。それでデビルマンをやらせてみたいと思った湯浅監督の期待にどれだけ応えているかに今は注目。

 あらぬ誹謗中傷めいた言葉を公開されたネットで綴って訴えられ、先に民事訴訟で敗訴となったとあるメディアの偉い記者が、今度は刑事でも相手に刑事告訴されていたのが受理されていたいみたいで、検察に書類送致されたという。他の事件だったら「容疑者」って肩書きになっていたりするところだけれど、名前が報じられることもないからそうした言葉は観たことがない。でもこれで起訴となったらもはや被告とつけざるを得なくなる。それが他の犯罪者報道との整合性って奴だけれど、そうした身内については“報道しない自由”を貫きそうなんで、肩書き付きで見ることはないんじゃなかろーか。もちろん不起訴となる可能性もある訳で、推定無罪の原則からすれば未だ前科も何もない状態ではあるけれど、民事訴訟での完敗具合を見ると敗訴の可能性もなきにしもあらずな状況で、なおも看板記者として使い続けることの面倒くささを思うと、どうにもこうにも謎めくのであった。


【8月1日】 相変わらずに洋食なりデザートを食って束の間の息抜きをする展開だけでつないでいるけれど、そんな息抜きに食う洋食なりデザートが実に美味しそうに見えるからやっぱりついつい見入ってしまうテレビアニメーションの「異世界食堂」。今回はコロッセオの闘士で元奴隷の獣人が、勝利の印とも言えるカツ丼をかき込みに来る話で、勝ち続けて金貨100枚を1年経たずに稼いでしまいたくなるくらい、その食堂で食うカツ丼は美味しかったってことみたいだけれど、そうやって借金を返してもなお闘士を続けているのは、異世界へと開く扉が奴隷を捕らえておく牢屋にしか開かないから、なのかなやっぱり。そこを出て行ってはもう食べられないならずっと奴隷で居続けたい。そう思うくらいにやっぱりカツ丼は美味いってことで。

 って訳でカツ丼が食べたくなったんでかつやに行って竹をかっくらったあとで、池袋の東武百貨店で開かれていたタツノコプロの55周年記念展へと行って展示物をざっと見る。「科学忍者隊ガッチャマン」の白鳥のジュンが見せる純白の三角はやっぱり子供心をガッチリと捉えて今に到るまで、アニメのヒロインのトップクラスに居続けさせているんだなあということを改めて思い知らされる。1996年ごろに作られたビデオのパッケージに描かれた、ジュンが見せる純白を見た瞬間も、過去の記憶が蘇って来たものなあ。そんなパッケージイラストの元絵なんかもあって、近寄ってまじまじと見てしまった純白の三角部分。最近は「賭ケグルイ」なんかで出まくっていてありがたみが薄れているけど、過去も出まくりながらそれでいてキュンとさせられたのはやっぱりヒロインに強さがあったからなのかも。蹴られたいなあいつか、あのすらりと伸びた脚で。

 ヒロインでは「タイムボカン」のマージョ様を描いた原画だかラフスケッチだかがあって、それこそディズニーのプリンセスが描かれた原画を見るようなラインと表情にタツノコプロってのが東映動画以上に日本のディズニーとして君臨していた時代があったんじゃないかってことをふと思う。そしてオリジナル作品の多さにも驚くというか、「宇宙エース」からしてオリジナルだったし「マッハGO!GO!GO!」だって「宇宙の騎士テッカマン」だって「ゴワッパー5ゴーダム」だって「科学忍者隊ガッチャマン」だって「新造人間キャシャーン」だって「破裏拳ポリマー」だって「みなしごハッチ」だって「ハクション大魔王」だて「タイムボカン」から続くシリーズだって全部がタツノコプロのオリジナルだったりする。

 すごいのは、そのどれもが記憶に強く残るくらいの作品としてヒットしたってことで、今と違ったアニメーションが独立したエンターテインメントだった時代が存在し、それがどうして今のように原作ものばかりになってしまったのかを、改めて考えて観たくなった。スポンサーがつかない? でもかつてはついていた訳で、子供がそれを見て提供の商品を買っていた。けれどもいつしかテレビ離れが進み、一方で少子化も進んで玩具メーカーのマーチャンダイジングとしても機能する範囲が減って「プリキュア」シリーズや「プリパラ」シリーズのようなものだけが残ったという、そんな時代が今ってことか。パッケージとして売らなきゃいけないとなると、オリジナルで冒険は出来ないものなあ。だからこそ今もオリジナルをしっかり作っているサンジゲンとかトリガーには感心するし応援したい。ってパッケージ買ってないけれど。お金が……。

 そんな展覧会のラストに展示されていたのが「インフィニティ フォース」で、オリジナルかって言えば過去に活躍したガッチャマンでありテッカマンであり破裏拳ポリマーでありキャシャーンといったタツノコヒーローたちがアベンジャーズするみたいな作品で、新たなキャラクターを生み出したって訳ではないけれども、マーベルだってDCだって過去のそうしたキャラクターを使ってリブートをかけて、新しい作品を生み出し収益につなげているなら、そんなマーベルやDCに匹敵するだけのキャラクターを持つタツノコプロが、ヒーローのくんずほぐれつを作っていけないはずがない。アレンジもされたフォルムが今の時代に沿っていてクールに格好良く、そして中の人たちも今風にイケメン揃いで人気が出そう。ヒロインにも界堂笑って不思議な雰囲気の少女がいて、どんな活躍を見せてくれるかに期待もかかる。守られるだけのヒロインではないよなあ、その面構えからするなら。まあそれも含めて10月からのスタートに期待だ。

 隣でやっていた田宮模型のコーナーも見てティレルではないタイレル・P34の勇姿に観劇。日本にF1がやって来た頃に走っていたから印象にも残ったその6輪というマシンは、よく異形の変化球扱いされるけれども初年度はポールポジションもとればワンツーフィニッシュだって決めてそれなりな実績は残した。2年目はあんまり活躍はしなかったけれども突きつめれば新しい可能性だって生まれたかもしれない。ただやっぱりタイヤが特殊で前4輪を作るのも揃えるのもタイヤメーカーにとっては大変そうで、そんなこともあって廃れていったのかもしれない。今はタイヤは4輪と決まっているから復活の目もなさそうだけれど、いつかまたサーキットを走る勇姿を見たいもの。というか展示してあったあれは動態保存されているのかなあ。

 銀座へと回って松屋銀座で「西尾維新大辞展」なんかも見る。西尾維新さんが好きな人なら隅々までびっちりながめては、作品のあれやこれやを知って確かめ埋めていくのが楽しい展覧会かもしれないけれど、キャラに萌えるくらいしかできない人にとっては壁一面に飾られたヒロインの一覧を眺めて楽しむことが1番かもしれない。それにしてもいったデビューからこれまで何冊の本を出しているんだろう。そしてどれくらい稼いだんだろう。そんな作家が掟上今日子くらいしかメインストリーム(つまりは民放プライムタイム)には来てなくって、小中高生の間で超絶的な人気を誇っている断絶を続けているのは何なんだろう。とか思った。それともあと10年経つと西尾維新で育った世代がテレビ局の中堅に来て変わるんだろうか。気になります。

 国会で予定されている閉会中審査に防衛大臣を辞めたばかりの稲田朋美代議士が出席しないというか出席させないといった話が出回り始めた。だって稲田代議士がいったい自衛隊のPKOにおける日報の隠蔽問題にどう関わっていたかを問いただす審査じゃないか、そこに当事者がいなくていったい何を誰に聞くと言うんだ。出さない理由がもう意味不明で、大臣を辞めたからそれで責任をとっただろうという考え。でも大臣としての責任をとることと、真相の究明に協力することは別の話で、何も疚しいところがないなら出席して答弁すればいいだけのこと。そうやって省内を納得させたのなら同じことを繰り返せばいいだけなのに、出たら何か違うことが露見してしまうとでも言うんだろうか。だとしたら、混乱させたことを監督不行き届きとして大臣を辞めたこと、それ事態も責任をとったことにはなっていない訳で、改めてその処遇について検討する必要がある。それなのに。これで支持率が上がると思っていたらもはや末期だけれど、出たらさらに下がる可能性があると考えたってことなのかもしれないなあ。やれやれ。



(ACCESS COUNTER '96.07.20)


縮刷版一覧へ行く
リウイチのホームページへ戻る
riuichi@can.bekkoame.ne.jpが不安定でメールがリジェクトされる様ならwf9r-tngc@asahi-net.or.jpまたはkha02604@nifty.comまで。