Last Updated 2019/5/19
日刊リウイチ
TUNAGATTEIRUNOYO
「1998-1999年lain日記」

リウイチとは誰だ?
リウイチとは奴だ!

薄い髪に伸びた髭
趣味はアニメと女子サッカー

日刊リウイチとは
そんな胡乱な野郎の日々を
無限に綴ったページなのだ

ワーニングワーニング

(ホントはただの日記です)

◎積み上げた本の数が這々の体で1800冊に達した『積ん読パラダイス』だけど記念事業もなく、これからも地味に静かに増量方針。ライブドアブログの方で『積ん読パラダイスinBlog』なんてのも作ってみたけど誰が見ているのやら。
落ち行く世界で孤独な少女がロボットと出逢い、つかの間の交流を経てそれぞれの道を選ぶ。切なくも哀しく、そして愛おしい狩野典洋の短編アニメーション『ノアのハコ庭』に全人類よ、涙せよ。
【5月19日】 30年ほど自分の後なり横なりで1日中、テレビがついている状態だったのが、今はまったくテレビを見なくなっていて、世情のインプットが減ってしまっていることにふと気付く。どこの国で何が起こっていようと、経済的に大変なことになっていようと気がつかない。ソニーとマイクロソフトがクラウドゲームで提携した? そういやあ流れて来た情報を見た記憶。ファーウェイをアメリカが排除に動いている? それがどういう意味を持つのか考える頭が働かない。点でしか届かない情報を咀嚼して知識に変えようとする気力が起こらない。

 これまでは職場や記者クラブでずっと点いてるテレビから流れてくる雑多なニュースや情報を、どういう広がりを持つのか、どういう意味合いを持つのかと考える必要があって、新聞とかのサイトで確認してそこから他の情報を拾い追って見聞を広めていくといった流れがあった。今はそうした情報が自分にとってどんな意味があるかと思い、探求する意欲が生まれない。だから使っているSNSとかに流れてくる大きな話題しか眼に入らなくなって、そこからの広がりも生まれない。そこから新聞サイトに行くこともない。

 アニメであるとかゲームであるとか、自分いとって興味のあることと、そして大きな動きしか知ろうとしなくなり、他のことが分からなくなる。それがたぶん普通の人たちの情報へのアクセスの仕方なのだとしたら、なるほど情報が網羅されて即座に必要とはされない情報も載ってる新聞だとか雑誌だとかに、人の関心が向かうはずもない。かつてはそうした雑多な情報でも得られれば得だと考えていたアタマが、今はそうした無関係な情報に向かうことを損だと思うようになっているのかもしれない。新聞や総合誌が売れなくなる訳だ。やれやれ。

 法政大学イベント研究会によるエヴァンゲリオン関係のライセンスを扱っているグラウンドワークス、神村靖宏代表の講演の続き。面白かったのは「負ける勝負はしない」といった指摘で、それはエヴァンゲリオンが必要とされているか、それとも他の何かと同列なり下位なりに置かれているかといった状況を考えるってこと。例えばエヴァンゲリオンが使われるコラボレーションがあったとして、それをガンダムじゃなくヴァでやる理由が分からず、同じじ事をガンダムでやっても成り立つのなら避けるようにしているらしい。

 逆にエヴァンゲリオンだから面白くなるなら飛びつく。そういう企画をだからライセンスを求める側は考え持っていく事が重要になりそう。もっとも、1990年代むしろ積極的にガンダムでありウルトラのポジションをトレースするように商品展開をしていたそうで、神村さんの先代が先人に追いつけとばかりにプラモデルを出し、フィギュアもいっぱい出してガンダムやウルトラが得ているポジションまで広げ高めることに成功した。ただ現在は、そうした先人がいない場所を狙っているとか。それは例えばハローキティでありドラえもんといったもののトレースになる。

 なぜそこにキティがと言われるような展開を、エヴァでもしていくことで格好良くで可愛いエヴァというキャラクターでありブランドのイメージが作られていく。範囲も広くなり手に取る人も増えていく。オタクな会社のオタクな人が作り送り出したエヴァンゲリオンだけれど、今はもう違うところにいるんだなあ。そんなひとつの例がRADIO EVAって展開。クールでスタイリッシュなファッションブランド、というか最初はファッションに限ってない一種のブランド内ブランド的、あるいはプロジェクト的雰囲気があったけれど、今はキャラクターをそのまま使わない、文字だけとかイメージだけとかパターン化され意匠化されたデザインとかカラーリングだけとかを用いながらもエヴァンゲリオンらりさが漂うアイテムを出して受けている。

 あと「A.T.FIELD」っていうワークブランドまであって、安全靴からドライバーからプライヤーから工具箱から様々な工具にツールがエヴァンゲリオン的カラーリングとロゴをまとって登場している。キャラクターは宣伝パネルに出てはいるけどキャラクター商品ではないそれらが成り立つのも、エヴァンゲリオンロボットやキャラクターでのみ広めず、イメージとして認知させてきたからなんだろう。ガンダムでそれが成り立つか。ガンダムで新幹線のラッピングが可能かを考えた時、エヴァンゲリオンが持つ意匠性のライセンス化の価値が見えて来る。ハローキティだってキャラがなければ成立しないんだから。

 ゴジラvsエヴァンゲリオンについての話しもあって、ゴジラで徹底的に情報を出さない戦略に出ようとしてまあ、何かあったか分からないけど何かやらなきゃって話を言われて、だったらエヴァンゲリオン使っていいかと尋ねて良いよと言われて打ち出したものが、映画の前宣伝にもなったしエヴァンゲリオンの宣伝にもなった。それで東宝なりゴジラファンが納得したかは分からないけれど、結果としてゴジラもクールでスタイリッシュなエヴァンゲリオンと“同化”できたんだから良しってことなのかも。とまあ、そんな話を2時間ほど。今の僕には何の意味も持たないお話なので、ここにまとめてライセンスビジネスな人のお役に立つならどうぞ。

 家にいたって沈むだけなので、久々になでしこリーグでも見ようと調べたら、何でも男子の試合とのダブルヘッダーになっていて、男子の試合分の値段でしか見られないようになっていたけど、そこはやっぱりトップに肉薄する試合を繰り広げているジェフユナイテッド市原・千葉レディースを見ておきたいと、フクダ電子アリーナへと駆けつけ強豪INAC神戸レオネッサとの試合を以前はシーズンシートを買ってたSAバック自由席で見る。ややレオネッサより。だから応援も入り交じってはいたけれど、男子と違って分けないと喧嘩が起こるころがないのがなでしこリーグって奴だからそこは安心、一喜一憂する姿をお互いに見せる感じになっていた。

 試合の方も一進一退といったところで、お互いに攻めてはゴールを割れないまま行ったり来たりするきっ抗した試合。ジェフレディースは守備が良くて神戸になかなかゴールを割らせない。大滝麻未選手っていう、オリンピック・リヨンをはじめフランスのチームを渡り歩きつつ浦和レッドダイヤモンズレディースにもいた選手が今季から加わって、トップから中盤へと動いて試合を組み立てたりしていて前線にもまとまりがあって、これに船田麻友選手の堅守も重なりなかなかの仕上がりを見せていた。

 試合は残念にも引き分けだったけれど、ワールドカップに4人も代表を出すチーム相手に引き分けなら十分以上。そして順位もとりあえず5位ではあるけれど、3チームが同じ勝ち点で並んでいてそして首位と2位には勝ち点3差と1試合の勝利分。着いていけば首位にだって迫れそう。崩れれば引き離されるから、そこを注意しつつ堅守でもって挑んでいけば、期末には良いことありそう。男子はなあ、どうしてこんなに弱くなってしまったのか。選手が揃ってない訳じゃないんだけれど。そこはだから堅守を徹底するべきなのかもしれない。今季はもう諦めたけれど来季こそは。その時には自分も笑って試合を見られる身になっていたいなあ。


【5月18日】 はぐれ者たちが実は一芸に秀でた当千の戦士たちで、エリート集団からは普段は小ばかにされ、虐げられいながらも、気にせず飄々と任務をこなしていたらエリート集団がより強大な相手に見えて危地に陥り、そこに駆けつけあっさりと敵を片付け見方を勝利に導くといったシチュエーションが、過去にまったくなかった訳じゃないしむしろ定番にすらなっていたりするけれど、それでもやっぱり面白いのは自分はエリートにはなれなくても、何者かにはなれそうだって期待を身に感じさせてくれるから、なんだろうか。エリートで居続けた方が絶対に得ではあるって最近は、身に染みて感じていたりするんだけれど。

 「対魔導学園35試験小隊」の柳実冬貴さんによる新シリーズ「コール・オブ・メディック」(ファンタジア文庫)も、まさしくそんな構図を持ったストーリー。王国には「星」と呼ばれるある種の異能を持った存在が突出していては、責めてくる鋼国を相手に戦い守り退けてもいたけれど、時に強大なパワーを持った敵が現れ「星」ですらかなわない状況が来た時、普段から貴重にして重大戦力の「星」を守っている部隊とは別に、あらゆる犠牲をはらっても「星」だけは生還させる部隊があった。通称ガルガンチュア。そのメンバーは、魔導士としては高い地位にはなかったものの、そぞれに突出した力があった。

 治療の力だけはすごいレヴィとか、強烈なドラッグを生成できるフローラとか、物体をとてつもない重さにできるレディとか、どれだけの攻撃も跳ね返すメディックとか。ただそれだけでもそれらが組み合わさり、また最適な時に使われれば最強となり得るらしく、ガルガンチュアの面々は危地にあった少女で新米の「星」、リリスを戦場から助けて連れ帰る。守っていた部隊は全滅し、心痛めるリリスだったけれど、メディックたちの中にいて自分を取り戻し、まだだった「星」としてのお披露目会に臨んだところ、そこに鋼国が襲ってきた。

 そんな戦いが幾度となく繰り返されるいちに、メディックが持つとてつもない力と、その代償も分かって万能だけれど万能ではない厳しさが見えてくる。そして最高戦力の「七星」たちを温存して戦おうとする王国の戦略の厳しさも。そこまでやって生き残れるか危うい鋼国との戦いの向こうに平和はあるのか。「星」のなりそこねと良いながらも圧倒的な防御力を誇るメディックは救世主になっていくのか。リリスがガルガンチュアに入って戦力としてより兄弟になった星守部隊の活躍を、続くなら見ていこう。

 ライトノベルの作家リストにはない名前に、いったいどこの新人かと思ってよくよく考え、そうだよ「劇場版 空の境界 矛盾螺旋」だとか「魔女っこ姉妹のヨヨとネネ」を作ったアニメーション監督の平尾隆之さんだと気付く。そういえばライトノベルを書くだの書いたといった話が前から漂っていたっけ。そんな平尾監督のライトノベル「のけもの王子とバケモノ姫」(ファンタジア文庫)は、人間が分厚い壁に守られた場所に王国を築き、そして外にバケモノとみなされている異形のモール族が、お互いに分離されつつ対立してる世界が舞台になっている。

 そんな王国にあって第三王子のシュウが放逐されてしまう。理由は不治の病に罹ったから。何でも体から種がはき出されるようになって、それが10個にたどり着くと命が失われてしまうといったもの。すでに3個4個とはき出されては、もう先がないシュウは伝染させる可能性もある病気だからと追い出され、メイドだけれど強い少女を伴い壁の外に出て、列車で走っていたらモール族に襲撃された。その中にひとりというか1匹というか、顔立ちが人間によく似た“異端”のモール族がいた。

 名をミサキという彼女はモール族の王女だったけれど、シュウたちを襲ってそこから移動している途中、人間に拉致されその先でシュウたちとも合流。連れだって逃げ出してはモール族のクラス場所へと行く。メイドにとっては“蛮族”とも見なしたい相手だけれどシュウはそうは思わず違いに理解を深めていく。それはミサキがいわゆるネコミミの少女のようにしか見えなかったから? 完全に動物のような姿だったらそこに交流が生まれたか、ってあたりがちょっと見えないところに、結局は顔立ちなのかといった思いも浮かぶ

 けど、相手にとっては人間なんて極悪な種族。それでもシュウに理解を見せるところにむしろ、出自も容姿も関係ない交流を見るのが良いのかも知れない。そんな交流からそしてどうして人間とモール族が対立しているのか、分厚い壁まで作って閉じこもっている人間たちに未来はあるのか、そしてシュウが罹っている病気の招待と、その治療法はといった疑問に対する答えも示され、世界が変革へと向かって動き出す。

 全体に柔らかくて読みやすい文体と、そして引っ張っていくストーリーテリングに優れた作品。壁は壊され融和は進んだものの、その先にはまだいろいろと乗りこえていかなくてはいけない課題がありそう。そこにシュウとミサキはどう挑む? 完治はしないシュウの病にいつか来る終わりはある? 気にしつつ続きがあれば読んで行きたいけれど、それだと平尾監督の新作は見られないってことなのかな。「GOD EATER」が大変だった後にしばらく作ってないからなあ。「桜の温度」をだからパッケージで出して欲しいけれど、作った会社が大変だからそれもしばらく無いかなあ。

  眠れば不安も及ばない夢の中へと入り込めると思っていたら、そんな夢の中でまで状況への切迫感を煽ったり、在職していた時の気楽さを感じさせたりするようなシチュエーションが出て来て、早々に目覚めて焦りと不安が身を苛んで目を閉じられなくなる感じがしてきて、これが行き過ぎると不眠症になったりするのかもしれないと思うと、やっぱりどこでも居場所を見つけて入り込むなり通うなりした方が良いんじゃないかと思えてきた。とはいえどこでも良いとは言えず、1年なら1年で何か知識かスキルを得られるところに身を置いて、学びつつ次につなげたいところ。そんな場所があるかといえば、心当たりがわい訳ではなく、5月中に何も動かないようなら置いてとお願いをしてみようかどうしようか。1時間半かかったって好きそうな現場だし。

 辛いからといって家で寝てたって脂肪が増えていくだけなんで、法政大学イベント研究会がグラウンドワークスという会社でエヴァンゲリオン関係のライセンスを手がけている神村靖宏さんていう、古いSFやアニメの人だとGAINAXで見かけた人が出て来て喋る「『エヴァンゲリオン広報補完計画』〜アニメをビジネスに! 革新的なライセンス事業を語る〜」ってのを開催したんで四谷三丁目まで見物に行く。基本的には学生さん向けなようだったけれど、でも案外に年配の人もいてマーケティングとかやっていたり映画の自主制作をやっていたりする がいて、お仕事だとかの役に立てようと話を聞いていた。

 エヴァンゲリオン関係のライセンスはなかなか構造が独特で、今時の製作委員会方式みたいにリスクが分散しているのと同時に権利も分散していて中心が見えず幹事会社がいたとしてもその独断では進まない。原作付きなら作者と版元も混じってくるからさらに構造が複雑化する。エヴァンゲリオンの場合は権利がカラーに集約されててなおかつ庵野秀明監督が決定権者として存在が認識されていて、その長い知人として「自分の中の庵野」と言える神村さんという人がいて、ある程度の庵野監督の趣味嗜好を理解して独自の判断で薦めていけるところがある。製作委員会に回して原作者に尋ねて戻してといった手間はない。

 今時の権利も復雑でまったくの新作とは展開の方法も違ってくるけれど、それを踏まえて聞くならば、ライセンスを求めてくる相手ではなくライセンスを出す会社側として、作品のパワーアップになり作品認知の拡大につながるか、というのがひとつの判断の基底にありそう。「作品を好きになるためのツール」とも。そう考えるならそれを出すことで作品を嫌いになられるようなライセンスは違うってことになる。とはいえ、何でそれやるのと言われそうでも、公開前に宣伝費を確保しておきたい時とかはやったりもする。そこには企画ごとに“勝利条件”というのを想定しているという判断が神村さんたちにはあるみたい。

 認知を向上させる、イメージを高める、ブランド価値を向上させる、ファンや制作者にサービスする、収益を確保する、等々。そうした条件を勘案しながらライセンスの可否を判断することで、数だとか金額ではない納得を得られるということなんだろうなあ。あと池袋にあるエヴァンゲリオンストアの意味がなかなかで、そこがあるから1種類20枚のTシャツだって作って売れるようになっているとか。これをユニクロの規模でやったら入るお金は膨大だけれど大量のキャラクターの中に埋没する。数点が何十枚かでも印象が高められるならOKする。ミニマムギャランティーをとらず個々に許可できることも強みなんだろう。その意味でも独特。もっといろいろ聞いたけれども、この話の続きはまた明日。


【5月17日】 夢にまで責め立てられているようで夜、寝るのも億劫になってきたけど眠くなれば寝てしまうからあとは野となれ大和なでしこ。それでも目覚めてしまうと寝付かれないんで適当な時間に家を出てスターバックスだなんてノマドの巣窟に行く甲斐性もないんでドトールでもって朝のセットをがっつきながら、懸案だったAIとSFの関係を指摘するレビューの必要とされている残りの4作品を一気に仕上げる。大型連休中に5作品まで挙げたけれどもその後、気鬱も激しくなって自分に出来るかって自信もしぼんで手を付けられなくなていた。でも5月下旬までには仕上げなくてはいけないからやるしかない。そういった切迫感も少しは気鬱の原因になっていたかも。

 慣れていない仕事をするときはたいていそうで、評論だって自分には書けるだろうかと不安でいっぱい。資料を読んでもメモ書きをつくってもまとまらないけど、それでも仕上げなくては締め切りが過ぎてしまうからえいやっと書き上げてはどうでしたかとおずおずと差し出す。そしてオッケーが出てホッと胸をなで下ろしても次にまた来る新しい仕事に一喜一憂。あるいはフリーっておうのはそういう緊張と安心の繰り返しなのかもしれない。永遠な。なるほど血管も神経も参る訳だ。でもすべてが自分だからなあ。止められないのもよく分かる。果たしてつとまるか、別に行くか。思案のしどころかもしれない。

 まさか社長の人が実売部数を出してほら、こんなに売れてない作家の本を頑張って出してあげたのにまた売れなくて、それでも出してあげてなおかつ文庫にまでしてあげようと言ったのに、向こうは恩義を感じず出している本を批判しては文庫の出版を引き上げたってニュアンスでツイートをしたら、さすがに世間もこれはヤバいとなりそう。おまけに1度は引っ込めたツイートに、さらに情報を載せてツイートしたんだからもう本気。これには付き合いのある作家もない作家も、こぞってちょっとどうなのといった言葉を出して、社長の人に苦言を呈していた。

 さすがにヤバいとなったのか、2度も出しながらもやっぱり引っ込めた実売部数のツイートだけど、こんなに担当編集者は頑張っているんだというのを見せたかったという理由の提示も、かばうのは編集者なのかといった話に行っていて、言葉は悪いけれども“商品”として取り扱って食べさせてもらっている作家の戸惑いを、まずは解消すべきなんじゃないのといたった気分も漂う。可愛がっているそんな部下のひとりがまた、引き受けて矜持をかけて出すといった他者の編集者に祈ってるだけじゃダメだとツッコミをかけて、どこに祈ってるなんて言葉があるんだと言われ、態度が祈っているようなものだとこれもズレた理由を話していた。

 そこは両方の編集者の知り合いから窘められて矛先を治めたみたいで、今後もし2人の編集者ががっちり組んだら面白いことおできそうだけれど言葉を繰り出しても届かないなら態度で、サロンめいたリアルな空間で届ける努力をしようとすることに長けた編集者と、言葉の力をパッケージに凝縮させつつそれへの支持者を募って盛り上げていく編集者がガチで組んだ時、それが融合に向かうかで相当な変化が起こりそう。そういうところは双方にノリが良いから共同キャンペーンとかやったりしちゃったいるすかもなあ。問題はだから上に立つ人が、作家への嫌悪を募らせそれを引き受けた版元にも憎しみを向けかねないってあたりか。そこはビジネスに長けた人だけに、下からそうじゃないといった言葉でもあればまとまるかな。でも上から横から諫言が飛んだら分からないか。どうなることか。

 「スレイヤーズ」の神坂一さんに「ロードス島戦記」の水野良さんに「伝説の勇者の伝説」「終わりのセラフ」の鏡貴也さんがそろい踏みして背広姿で写っているから何事かって思うかというと、一緒に写っているのがKADOKAWAグループを率いる角川歴彦さんだからそりゃあ当然。そんな4人による対談がネットにアップされていて、富士見書房系のライトノベルの成り立ちといったものに触れることができた。勃興期の話とかそこのボードゲームの「ダンジョン&ドラゴン」が絡んで来るとかいった話は同時代的なものだから感覚として分かるけど、今の若い人たちにはきっと目新しく映ったんじゃなかろーか。

 あと水野良さんが「〈ライトノベル〉という言葉は、作家の立場からすると、電撃文庫が登場して以降のパラダイムを示すものだという気がするんですよ」という言葉が印象的で、この頃はまだライトノベルは主流じゃなくってヤングアダルトとかジュブナイルとかがきっ抗もしていたけれど、質としてのシフトがあってそれが今のライトノベルブームにつながっているというならやっぱり電撃文庫とそして上遠野浩平さんによる「ブギーポップは笑わない」と時雨沢恵一さん「キノの旅」の登場をもって電撃文庫でありライトノベルの時代が本格化した、っていう印象は正しい。こういうあたりは角川歴彦さんよりは佐藤辰男さんが渦中にいたから詳しいんだろうけれど、今はKADOKAWAの方ではないからなあ。呼べないか。どこかで電撃作家と佐藤さんとでライトノベル談義をして欲しいもの。誰もネクタイしてこなさそうだけど。

 あと水野さんがいわゆる「なろう系」についてポジティブにとらえているのも印象的。「もともと文芸には、同人誌からデビューするという流れがありました。それの拡大バージョンではないかと思うんです」と水野さん。「好きで書いているうちに人気が出てきて、デビューする……実はこの流れは、一番まっとうなものかもしれない」とも。とはいえ、そうした方面ばかりに気が向かいすぎて新人賞よりも手っ取り早く、そしてコストもかけずに新人を集めては出して次へと行けてしまうところに見いだされ鍛えられた果てに強くなる作家と作品が生まれづらい状況もある気がしないでもない。なろう系だったらブギーポップってデビューできたかな。そこは不明だけれどでも、選択肢は広い方がやっぱりいいから新人賞は続けてね。下読みを僕に回してとお。最近やってないなあ、下読み。

 何もないと意識が飛ぶんで用事でも入れようと前に気になっていたトンコハウスでの細田守監督のトークイベントを見たら売り切れに。ちょっとしまったけど「LUPIN THE VRD 峰不二子の嘘」の新作公開を前に小池健監督の「VRD」シリーズ第1作「LUPIN THE VRD 次元大介の墓標」のリバイバルが新宿バルト9であったんで見に行く。ほら無職だし。でも割と浅めの時間で満員近いのはそれだけ世間に無職が溢れているからか。違うって。ヤエル奥崎と次元大介の死闘、その間で仕込まれるルパンの策謀はやっぱり鮮やかで格好良く、そして締めの2人のやりとりもクール。これがルパンだって感じをファーストルパンのそれもおおすみ正秋さんを知る人には与えてくれるねえ。小池健監督もそこを意識しているようだし。あと峰不二子がどこまでもエロい。要員としてエロ役だけれどそれが「峰不二子の嘘」では主体性を見せて動くから、過去にない姿を拝ませてくれる。こんな峰不二子がいたのかって。だから「次元大介の墓標」を見てから行くと違いが分かって良いと思うよ。本当だよ。


【5月16日】 無職で昼間が暇なら行くのはやっぱり図書館だろうと移転してからもう20年は経った船橋中央図書館に入って貸し出しカードを作って物色したものの、読みたい本がなかったからやっぱりここは暇に飽かせて移動だと、こちらも東日本大震災後の耐震補強が及ばず移転となった船橋西図書館に入ってサリエーリについて書かれた本を借りて読む。仲良かったんだなモーツァルトとサリエーリ。それはまた別の話として、今時の図書館は借りるときもカウンターとか患わせずに仕込まれたチップで貸出を認証するみたい。台に置いてスキャンさせればはいオッケーで、出る時もガードにひっかからない。勝手に持ち出せば仕込まれたチップが反応するんだろう。現代だなあ。省力化も図れるし。

 あとはパソコンを使える席ってのがあって申し込めばそこでコンセントを指していろいろと書き物も出来そう。使える時間が限られているだろうからコワーキングのスペースとして選挙するのは無理そうだけれど、30分ちょっとくらいを充電しながらメモ書きにだったら使えそう。ただし平日だから空いてるんであって土日はきっと混んでるんだろう。毎日が休日な身には関係ない? だんだんとそれも苦痛になって来たなあ。夢にまで仕事しろ定職に就け攻撃が来て睡眠すら安心できる場所でなくなって来た。早く落ち着き処を決めないと。1年で構わないから三鷹に置いてもらおうかなあ。

 なんだ、いちごアニメーションって、って100万人がきっと思った押井守監督による新作アニメーション制作に関するプレスリリース。「スカイ・クロラ」からこっち、アニメーションと呼ばれるジャンルの映像からは身を退いて、実写ばかり撮ってきた押井守監督が、久々にアニメーションを制作するということで世間が騒然となったものの、その拠点がいつものプロダクションI.Gではなくって、設立されて間もない資本金が10万円のスタジオだったから驚いた。資金源はどこかの不動産屋かそれとも何かなのか。調べてはないけれども、アニメーションとはあまり縁のなさそうな資金が動いて押井守監督をバックアップするってことになったと想像はできる。誰だってお金があれば押井守監督の新作アニメーションを観たいから。

 ただ、アニメーションは役者がいてカメラがあって監督がいて助監督が何人かいれば撮れる実写とは違って,絵を描いてそれを何千枚何万枚と描いて動かすだけの人出が必要。コンピューターグラフィックスのアニメーションだってモデリングをしてモーションをつけて表情を変えて動きを細工してエフェクトをかけるスタッフがやっぱり相当数必要になる。作画にしても3DCGにしてもそれだけのスタッフを、まったく見知らぬいちごアニメーションが揃えて集めて押井守監督の手足として提供できるのか、っていったあがりがやっぱり謎めく。

 あくまでもプロデュースを行う会社で資金は提供するけど現場はアニメーション制作会社に置くって感じになるのかどうか。ただそうした下請けをプロダクションI.Gが受けるとは思えないからなあ、自分たちで権利を持ってハンドリングできる作品をいっぱい持ってこそのアニメーション会社だといった自負があるから。なのでやっぱり現場はこれから作ってそこで押井守監督の作品をしこしこと作るのかも知れない。2020年の公開なりはだからそれだけの作業を見越してのことか。あとはいったい何が出てくるか、だけれどすでに話に上がっていた夢枕獏さんの「キマイラ」ではないだろうなあ、あれはあくまで「映像化」って話だから。それともこれがスライドするのか? 本人でないと分からないか。

 ってことでご本人登場、はしたけれども基本はお姉さんの最上和子さんが原初舞踏を見せたドーム映像作品「HIRUKO」の上映に関するトークイベントに登壇した押井守監督に、質疑応答でもストレートにいちごアニメーションって何ですかってとてもじゃないけど聞けないし、どんなアニメを作るかってのも聞くに聞きづらい。終わりの挨拶でもこれからのご予定は、って定番の質問がなかったら、アニメーションについて何を考ているかはちょっと分からなかった。まあでも普段は聞けない押井監督のトークが聞けたから面白かったドーム映像「HIRUKO」のトークイベント。

 見たのは試写に続いて2回目だそうだけれど、感想として「打ちのめされた。ショックを受けている」となかなかの絶賛ぶり。人を誉めない印象があるだけにちょっと驚いた。「実を言うとかなり期待していなかった。舐めてかかってた。僕自身も最上の舞踏を撮ったことがあって、バレエや芸者の踊りは形があるけど形が無い。映像的に距離感が生まれてどうしても劣化する。見たようには再現できないと思っていた」。そう感じて至らし。それが、ドームにどんと魚が出て来てぎょっとしたという。

 「立体的に見えた。どうしてそう見えるのか考えた」。づやらドーム映像のフレームのなさ、映画でも絵画でもついて回るフレームの存在してないことが「窓から乗り出して見ている」ような感じを醸し出したらしい。「目の前で起こっている出来事を1対1で目撃している。映像だから再現はできるけど、それでも体験としての1回性がある」。そんなことを話してた。映画というものが、最初は魔術的だったものがエンターテインメントになってその魔術性を失っていく。そんな初源の魔術がドーム映像にはあったみたい。「自分の仕事を考える機会になった」。

 だったらいちごアニメーションではドーム映像をやるかというとそれは違うだろうけれど。これは押井監督から飯田将茂監督への質問で、途中、人がいっぱいでてきて木の枝を捧げる場面があって、あそこに違和感があったのでどういう意図かと尋ねて、飯田監督は死をそこで祭って終盤の最上和子さんの生と死を引き受けるような舞踏へと持っていこうとしたと説明。押井監督はそこで挟むよりも、「出来事としての映像の力が圧倒的に強い」からと、魚や魚男や舞踏にのみ絞った映像にした方が良かったかもといったことを伝えていた。物語性は失われるけど体験としての映像の色は増すかもしれない。

 あと、これはドーム映像だったからでもあり、他の映像にも言えることかもしれないけれども「ものを見るとは見ちゃだめってこと」だと押井監督。「1点に意識を集中させてはだめ」。ドームに投影された最上さんの舞踏の1点を見ても全体はつかめない。そこはだから体験として感じることが大事ってことなんだろう。「全体のリズムや空気感、時間と空間を共有する。空間に自分を馴染ませる」。テレビがあって絵画もあって人間はフレームに切り取られたシーンを観ることになれてしまった。それでしか外部の状況を見られないようになっているかもしれないけれど、それは「人生を規定する」。そうじゃない見方、あるいは感じ方をドーム映像はもたらしてくれるのかもしれない。いつかご自身でも試すかな。VRに言ってしまうかな。

 Yoshiki、ではないビジュアルと言動がぶっ飛んだミュージシャンの予測不能なパフォーマンスに振り回されながらもちょっとだけ、大規模フェスのステージに立ったキャロルとチューズデイの2人組。臆さずまっすぐに歌っていたことが評価されたか、楽曲自体も認められたかフェスに来ていた大物ミュージシャンたちから声をかけられ誉められるあたりもやっぱり“成り上がり”なストーリーの定番だけれど、そうした展開の合間合間にそれぞれのミュージシャンたちがしっかりと自分たちの音楽を聞かせてくれるから言葉にも説得力が出て、そしてストーリーにも重みが出る。歌がなんで英語になるかはまあそこはそれ、日本語吹き替えはせずとも分かるだろうって配慮だし、海外に持っていってもそのままセリフだけ吹き替えれば済むからコストもかからないって話かな。

 引きがなかったらとりあえず、大物たちに誉められてて次への可能性がふくらんだって展開の「キャロル&チューズデイ」。例の元子役が全然出てこなくって、キャロルとチューズデイが少しとはいえフェスのステージに立った話を耳にして発憤するかとうと、まだお互いの存在を知らなかったりするからそういう絡みはなさそう。あるいは歌っている2人を見て声を聞いてAI作曲家がそちらに靡き、投資家もお金をもっと出すと言い出して火が着くような展開があったりするのかな。それもまたパターンではあるけれど紆余曲折のサクセスストーリーとしては分かりやすい。とにかく奇跡の7日間に誰が参加し何が起こるのか。そこへと至る道程は着々と埋められている。あとはそこで起こされた奇跡とは何かってこと。星が滅びるのを2人が歌で止めたとか? 一気にSF味が増すなあ。それもありかも。どうだろう。


【5月15日】 持ち株会社のカドカワが参加にある出版社のKADOKAWAから事業を引き受けつつ名称もKADOKAWAに変えると発表。これまで出版社のKADOKAWA傘下にあった会社群は新生KADOKAWAにぶら下がる形となって、そこにドワンゴも並ぶ。持ち株会社のカドカワから孫会社だったのが子会社にはなってもその上に出版社のKADOKAWAが来る形には変わりが無く、KADOKAWAとドワンゴで並列だった状況はもはや復活しないといった状況が見えてきた。世紀の合併と呼ばれながらも吸収されたか売られてしまったワーナーとAOLの合併を思い出すなあ。

 ドワンゴと経営統合をした時は、ホールディングス的な会社だった角川グループホールディングスをKADOKAWA・DWANGOという名称に変えて下にKADOKAWAとドワンゴが並ぶ形にして対等ぶりを世に見せていた。時価総額だけならドワンゴの方が上だったんじゃなかったっけ。それだけ勢いがネットの側にあったんだけれど、すぐさま名称がカドカワと変わってそこにドワンゴがないって話題になった。いやいやドとワはドワンゴからですよっていた説明があっても、納得した人が果たしてどれだけいたか。その頃から今を見越していたって訳ではなくても、どこか統合の先に見えるものがあったんだろう。

 音楽なり映像の配信といったプラットフォームを持って世間に存在感を示していたドワンゴだったけれど、オリジナルで何かを生み出すというよりはそこに集まっている人たちからコンテンツを借りて盛り上げる手法を提供していただけ。やがてより広範囲からアクセス可能なプラットフォームが出て来たら、そっちへと移ってしまってプラットフォームは伽藍堂になってしまった。ユーザー・ジェネレイテッド・コンテンツとはつまりユーザーにおんぶにだっこの他力本願。そこで切り替え自前のコンテンツを提供するプラットフォームになっていければ良かったんだけれど、KADOKAWA側でそういう用意があったかどうか。お互いに歩み寄る姿が見られたかどうか。そんあ当りがすれ違ってシナジー効果が得られなかったように見受けられる。

 VTuberにシフトしたくてもVTuberだってアクセスが多いYouTubeに流れてなかなか来てくれない。簡単にできる仕組みを提供してもなかなか増えない状況で未だ利益が出ないまま、VTuber人気が廃れていったらこれは目も当てられない。そんな未来も見越したのかどうなのか。ドワンゴを傘下に入れて減価償却も行って、大きな損益を出しつつ一気に精算まで持っていった。あとはドワンゴが収益を生み出す体質になれるかどうかだけれど、それがかなわない時は売却ってこともありえるのかなあ、いつかのアスミック・エースみたいに。

 期待するとしたら本格化するだろうデジタル化のプラットフォームなり技術の収奪。はてなと組んでるカクヨムとは別に、ユーザーをまとめ人気作を送り出す仕組みを作れれば、どうにか生き残っていけるんだけれど、元電撃さんがLINEで大々的に初めてしまったからなあ。そっちに乗り換えドワンゴは……。20年ほど前に人形町で初めて会った金髪兄さんの川上量生さんの最近までの栄光の、その未来やいかに。いったんの棚上げから返り咲いて当初の期待どおりの座に就くか。やっぱり元アニメックにして角川のエンターテインメント分野を象徴する井上伸一郎さんが頂点をつかみ取るのか。そんな興味を向けても多い世界のことだなあ、今の僕には。まずは自分の居場所をどこかに作らないと。

 津原泰水さんの書籍の文庫化をめぐって版元だったところが別の本に対する意見が受け入れがたいといって、営業が動いてくれなくなって文庫が出せなくなったといった話がだんだんと広がって、花村萬月さんだなんて大物が出て来て過去からのその版元へのけんかいなんかを綴っていたりして、ずいぶんと昔からいろいろあったんだなあと改めて考える。とはいえ一方でそこから良い本を出してもらった人たちも多く、頑張ってくれよと激励する声もあったりする。「鹿男あをによし」を出した万城目学さんなんかもそのひとりだし、日本SF作家クラブの理事をしている太田忠司さんもそれはそれとして自分は出すけどなんとかしてといった苦言は呈している。さらに広がればやっぱり代表の人としても言葉を発しなくちゃいけなくなるんだろうか、それとも今の旬の人を守っていくんだろうか。気になる。

 津原さんの本については早川書房が引き受けたみたいできっとハヤカワ文庫JAから登場することになるんだろう。すでに依頼していた解説だとかもそのままくっついてくるのかな。そうだとしたら結構な侠気。判断した編集者の人というか塩澤さんは、帯にこれが売れなければ編集者を辞めるとまで書くそうな。それが煽りではなく心底からの言葉だということは、これまでの態度なんかからも伺える。作品としても結構なものらしいから人気は出るし、騒動からの関心もあって評判は呼びそう。これで早川へと津原さんへのプレッシャー側の矛先が向いたところで、元からそうした方面とは付き合いの少ない版元だから影響も少なそう。逆に頼って移籍する作家も出たりするのかな。報道がどれくらい乗っかってくるかも含めて見ていこう。

 4年の命とはまた短いと見るべきか、それとも日進月歩なネットの世界では保った方だととらえるべきか。ポップカルチャーの情報を集めて配信してくれるDeNAのニュースアプリ「ハッカドール」が8月をもってサービス停止。経済ニュースに強いニューズピックスのオタク版とでも言えそうなコンテンツ特化型のアプリだから、ファンもきっと多かっただろうしキャラクターまで作られアニメにもなったりして、それ自体がコンテンツとして回り始めていたようにも思うけれど、そうした情報配信サービスをマネタイズする部分で行き詰まったのか、もっと別の理由か。ニュースの元を締められるってことはないだろうから、単体でのサービスがなかなか儲からないってことかなあ。広告を混ぜるとか課金するとかいったことが必要だった? そこは不明。DeNA自体の経営問題? そこも分からないけれど、でもやっぱり気になるその行き先。サービスごと売れば引き取るところも出そうだけれど。どうなることか。


【5月14日】 「アニメ界の秋元康」と言われて浮かぶのはやっぱりあかほりさとるさんで、1990年代に山ほどの原作を送り出しては小説にアニメーションにイベントにと八面六臂の大活躍。メディアに対する影響力もきっと絶大だったろうそのクリエイティブの広さをもって秋元康さんと比べておかしくはなかったと思うけど、現代においてそういった人がアニメ界にいるかというとプロデューサーでもクリエイターでも見当たらないのが実情。移ろいやすい趣味の世界で1人がずっと権勢を誇っていられるはずもない。そんな時代に文春あたりが「アニメ界の秋元康」だなんてキャッチフレーズを持ち出して来たから、いったい誰だと思って記事を読んで噴き出した。

 梶浦由記さんのことか? いやいや確かに作曲家でありコンポーザーとして人気アニメーションの楽曲を多く手がけ、Kalafinaというユニットのプロデュースも引き受けては来たけれどもそれだけと言えばそれだけで、常にメディアの中心になって楽曲のリリースが話題になる訳でもない。NHKの連続テレビ小説「花子とアン」の音楽を手がけた時だって、別に広く話題になった訳でもなく一部のメディアがとりあげて話題にし、そして1回だけのライブが東京国際フォーラムで開かれて終わり。その後もNHKに絶大な影響を及ぼしているってことはない。そういえば「歴史秘話ヒストリア」の楽曲って今、どうなっているんだろう。

 だからやっぱりアニメを知っている大勢は吹いたみたいだけれども、そんな記事でKalafinaの行く末が書かれていたことには興味も浮かぶ。Keikoが抜けてHikaruも抜けてしまって今、事務所に残っているのはWakanaが1人。それもいずれ合流したいっていうのが記事の趣旨ではあるけれど、騒動のあともひとり残ってソロライブを行いツアーも展開してCDやアルバムも出してとしっかりひとり、音楽活動を続けているところを見ると特段に困っているといった感じはない。Kalafinaの曲が歌えない訳でもなくてライブでは「空の境界」の楽曲なんかも歌ってた。だからすぐの合流はないだろう。いずれ合流して欲しいという気持はあるけれど。

 看板アーティストだったKalafinaが抜けて困っているといった話から、上坂すみれさんへの影響なんかも出ていたけれど、そんなに音楽部門って重要だったんだろうか。元々は女優とモデルの事務所に音楽と声優もくっついていた感じだったから、抜けて影響がどれだけかってのは図りにくい。あったとするならそれは残念で、原因を求めて欲しいものだけれど話に上がっていたプロデューサーの人は今はバンダイナムコグループでランティスと関わりがありそうな会社に所属。そこには梶浦由記さんも業務委託をしていてコンビが“復活”している。だからもう戻りそうもないならそっちはそっち、あっちはあっちでしばらく走っていくんだろう。それを見守るのがファンで、騒動なんか望んでないのに煽って騒ぐところが週刊誌の業ってことか。騒いでもらえるうちが華でもあるか。

 噂になっていた徳島県徳島市で開かれているマチ★アソビの立ち上げを担い運営の中心にもなっていたユーフォーテーブルの一件で、社長の人がマチ★アソビの実行委員会を退いたことが分かったそうで、秋からの開催がいったいどうなってしまうかがちょっと心配になって来た。会社の経営やイベントの運営にあたっていろいろあったことは承知しているけれど、一方で立ち上げの時からほとんど独力で出展者を募り頼んで掻き集め、徳島という地にそれまであまり縁のなかったアニメーションとかコミックといったポップカルチャーのイベントを作り上げた。徳島にはスタジオも開き映画館も開いて雇用と育成と紹介を行って来た。そうした貢献は貢献として認めたい。と同時にそれらが騒動からの撤退ですべてなくなってしまうのは勿体ない。

 大型連休のマチ★アソビでユーフォーテーブルが参加を辞退した影響がどれくらい出たかはちょっと分からない。ユーフォーテーブルシネマでのイベントとか上映はどうだったんだろう。関連の作品に関するイベントはあったんだろうか。既にブッキングが終わっていたなら遂行されたと思うけれども秋以降、それがゴソッと消えてしまうとマチ★アソビから核が消え求心力も失われて営利の感覚が入り込み、熱より功利のイベントへと移行してしまわないかと不安になる。すでに功利と化しているかは知らないけれど、そこから熱まで失われてしまったら全国から見に行こうとする気も削がれてしまいそう。いったいどうなるんだろう。続けたい意思はあっても1人に頼っていた影響は避けられそうにないからなあ。関心を持って見ていこう。その時までにこっちの状況が片付いていたら行きたいなあ。

 渡辺歩監督による、五十嵐大介さんの漫画原作を長編アニメーション映画にした「海獣の子供」がド作画アニメーション映画で驚いた。あのSTUDIO 4℃が手がけているんだから、「鉄コン筋クリート」なんかを手がけた森本晃司監督の映像だとか、映画やテレビアニメで展開された「ベルセルク」みたいに人物も含めて3DCGバリバリな映像かと思っていたらまるで違った。人物なんかは多分作画で、独特なタッチで描かれていながら超絶動くし表情も多彩。背景も江ノ島あたりの風景だとか南の方の島だとかがちゃんと隅々までしっかりと描かれていてい、どれも濃密で自分がそこにいる気になれた。

 「ホーホケキョ となりの山田くん」とか「かぐや姫の物語」で超絶作画をデジタルに乗っけて違和感なく見せた小西賢一さんが総作画監督で演出もやっていたからか、そうした作画や背景にCGIの海だとか魚だとかが混ざり合って、ハイブリッドな世界が作りあげられてていた。違和感なくぶつかり合いもしないで自然に見られるその世界は、あの独特な五十嵐大介さんのタッチをスクリーンの上に醸し出していた。ビジュアルとして凄い映画。そして深淵なお話にもちゃんと引きつけられるから最後まで目を離さず眠りもしないで見てられた。隅々までいろいろと描かれているから、見るなら前目で見て魚と街並みとキャラクターの表情を味わいたい。目の中に対面しているキャラクターが描き込まれているんだから驚きだよ。

 声もいわゆるプロの声優を起用しないで、芦田愛菜さんとか森崎ウィンさんといった女優さん俳優さんがキャスティングされているけれど、映像の中で自然に動いて表情も変えながら繰り広げられるキャラクターの演技にマッチして、111分という時間の中で一体化してこれもまったく違和感がなかった。20数分のインパクトを重視するテレビシリーズとは違って、長い時間が釘付けになる映画は見ているうちにだんだんと物語世界とキャラクターと声と音楽が一体化してくる。そこに俳優さんたちによるシチュエーションを意識した演技が溶け込んでいく。そうした映画ならではの特徴であり効能をにらんでアニメーション映画を作る監督さんたちは、いわゆる声優さんではなく俳優さん女優さんを起用しているのかも。とりあえず稲垣吾郎さんがナチュラルすぎて気付かなかったよ。富司純子さんは凄みがあったなあ。公開されたらまた行こう。それまでに自分の身が(以下略)。


【5月13日】 すでに1度、見てきてその際に図録もちゃんと手に入れた「シド・ミード展」では会期をまだ3分の2も残しながら図録が品切になってしまうという事態。この時代にシド・ミードなんてといった声もあってどれだけ入るか予想をしていなかったけれど、驚くことに1万7000人もの動員が開幕から2週間であって、入場待ちの行列もできる状況にもなって図録も売れに売れたみたい。だったらすぐに刷り増せばってことになるんだろうけれど、展覧会の図録ということで契約もしていて刷り部数なんかも決められているだろう状況では、会期中に増刷して出すってことは多分できないみたい。印刷所とか紙の問題というのではなく。

 そして普通だったら再版すらもあり得ないものだったのを、主催社が頑張ってくれたみたいで会期が終わってから、中身は同じではあっても新装版という形で、表紙も買えて違うものとして出すことになったとか。その会期も延びて6月2日まで延長というから、10連休でも来られなかった人がこれで行けるようになったんじゃなかろーか。図録の新装版は会期の終了後から通販という形での提供だそうだから、注文するタイミングも延びたし刊行も7月くらいになるとのこと。それでも今、シド・ミードが見られて図録も手に入るのなら、これはやっぱり喜ばしいと言っておこう。これで全国への巡回があればなお最高なんだけれど、それはやっぱり無理かなあ。

 「彩雲国物語」シリーズの雪乃紗衣さんが気がつくと出していた「エンド オブ スカイ」(講談社、1700円)がマジにまっすぐなSFだったけれど、果たしてSF方面に気付かれているかどうなのか。22XX年の世界はゲノム編集をしまくって、病気だの知性だのに影響するような遺伝子をすべて「正常」にした人たちが暮らすようになっていた。ゲノム編集が始まってもう3世代目くらいになっていて、病気もしなければ老いもそれほど見せない人たちが繁栄を謳歌していた。

 そんな時代の香港島に、まったくセンサーに引っかからない少年が現れ「幽霊少年」と呼ばれ始めた。そして、遺伝子工学の権威というヒナコ・神崎博士が、暮らしていた研究施設を抜け出してネオ香港へと舞いよい込んだ時、その「幽霊少年」と出会う。普通に暮らしている香港島の人たちが、食べればすぐにでも死んでしまいそうな“汚染”された海の魚も焼いて平気で食べる少年を調べると、まったく遺伝子の改変が見られないことが分かった。遡ってもそれは行われていないようだった。もはや世界にそんな人間など存在していないはず。だったら少年はどこから来た? どうして香港島に出現した? そんな謎がまずは浮かぶ。

 さらにもうひとつ、香港に限らず世界で発生し始めていた“霧の病”と呼ばれる、まったく正常に見えた人が突然に倒れて半日と保たずに死んでしまう現象が、急速に広がり始めていた。珍しい奇病だったものが、次々と発生するようになってあらゆる人たちを飲み込んでいく。その“霧の病”の原因をつきとめ、打開するための道筋に、ハルと名付けられた幽霊少年と、ヒナコ・神崎との交流が関連してし、世界の行く末に大きな役割を果たすことになる。

 人は人としての遺伝子を持って生まれ受け継ぎ人を繋いでいく。それが途中で遺伝子操作によって変えられても、それはやはり人なのかといった疑義がある。人が人として遺伝子を受け継ぎながら世界と適応してきたのなら、それはもはや切り離せないものではないのかといった見解もある。つまりは……。そんな科学が放つ表と裏の様相を突きつけられる物語。“霧の病”の真相から、人は科学を責めるかもしれないけれど、それでも必要だった時代はあたっち人もいた。それなら……。

 いろいろと投げかけられる問いに、科学を進化させる人類はこれから答えていかなくてはならない。この小説「エンド オブ スカイ」を手本にして。あと、まったく改変されなかったハルの遺伝子の謎であるとか、ヒナコ・神崎の出生とその身心への驚きであるとか、最後にいたっても驚かせてくれる部分が多々。本編が終わったあとのエピローグ的な掌編の中に描かれたそれらの答えは、本編から漂う頽廃と絶望の香りをとばしてある種の幸福感をもたらしてくれるだろう。読まなくても人類の滅亡への物語として楽しめるからそれはそれで。

 映画「シン・ゴジラの異世界モンスター襲来版とも言えそうな鷲宮だいじんさん「東京×異世界戦争 自衛隊、異界生物を迎撃せよ」 (電撃文庫)は、東京湾岸に開いた穴からファンタジー世界に蠢くようなモンスターたちが現代の東京に現れては押し寄せ起こる大騒動。人が襲われ喰われる中、政府は自衛隊に防衛出動を命じるか、米軍に災害支援を要請するかの外交的判断を迫られる。どちらを選ぶのが日本にとって正解か。迷う答えに若い防衛相の女性キャリアが道を示す。

 そんな外交的な問題と国内的な官僚の上昇志向と母親の情愛が入り交じる状況を盛り込んで、東京に異世界からモンスターが押し寄せたら何が起こるかを描いている点が、「シン・ゴジラ」と重なるところか。逆に最近割とあったりする、自衛隊のた銃火器や兵器が異世界のモンスターに通じるかと判断するミリタリー的な要素はあまりない。政治と社会を描こうとしている感じ。それは巻末に添えられた参考文献の膨大なリストからも分かる。ルビほどの小さいフォントで6ページに及び書き連ねられていて凄まじい分量。それだけの調査と確信の上に築かれた勇敢で子思いの自衛官と若くて真面目な防衛省の女性キャリアの交流というドラマを味わいたい。

 何が驚いたって「まず、400作近くの作品をプロ作家の皆様からご応募いただいたことを感謝いたします」と言われているように、プロの作家が行き場を失って悶々としていたことで、つまりはプロの作家が重複はしていたとしても数百人はいて、リデビューという企画に乗ったということはそれだけ“現役”として作品を書いては出し続けていく困難さがあるってことの現れなんだろう。講談社が実施した、プロの作家に限定して作品を募る新人賞に、結構な数の応募があってそこにプロデビューしていた作家も選ばれた。

 「放課後の帰宅部探偵 学校のジンクスと六色の謎」の如月新一さんで、デビューといっても小説投稿サイトを経てそれらが集うレーベルからのデビューだから決してメジャーな場所から出て来た訳ではない。それ1作で後が続かない可能性もあった中、プロはプロだといった自意識から書いて送って見事に受賞は、やっぱり実力があったってことなんだろう。確か「週刊少年ジャンプ」で募った小説の公募でも受賞していたし。だから勢いがあって当然。だったら他の人はと見たけど、即座にそれと気づける名前はない。ってことは超大御所の再デビューってのはなかったか? 別名義かもしれないし、調べてみないと分からないかなあ。

 それにしても、400人とか作品とかが応募されるって、それだけ元の居場所に行き詰まっているって現れでもあって、なるほど書いて人気になってもしばらくしたら書けなくなるか、書いたものが時代からズレていってしまうものなのかも。長いシリーズでもそれを修正していくことで時代といっしょに転がっていける人もいれば、ジャンルが違いすぎて修正が利かない人もいる。そうしたズレでもって漏れた作品が、場所を変えてら集まったのかもしれないけれど、そういった“発掘”される作品があったか、それともやっぱり今という時代にそぐう作品を選んだのか。選評とそして刊行される作品から想像してみよう。ともあれ如月新一さんにはお目出度うございますと言っておこう。「放課後の帰宅部探偵」をあちこちでプッシュした甲斐があったよ。


【5月12日】 せめてひとつくらいは遡らないといけないと、AmazonPrimeVideoでレンタルする形で「アベンジャーズ/インフィニティ・ウォー」をつらつらと見る。ロキは分かったもののその前でサノスに蹂躙されていたアイパッチの短髪が、「エンドゲーム」で長髪にひげ面になるソーだったと気付くのにしばらくかかったのは、過去のMCUを見ていたいからなんだけれどそれでも分かればそれは良いのだ。「ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー」もしっかり1作目2作目を見ておけば、クイルとガモーラの関係なんかにもいろいろと思いを馳せるところもあっただろうなあ。

 あとちょっとでサノスのガントレットと外せそうな場面で、ガモーラのことで頭に血が上ったのを間抜けと誹らないためにも必要なことかも。「エンドゲーム」の終わりにクイルが浮かべる感傷の重さとかへの理解にも。他にもヌけているなあといった部分はパワーストーンの護持にこだわりすぎて、それを破壊しないままサノスに渡して宇宙の半分の生命を消滅させてしまったことだけれど、それもドクター・ストレンジがタイム・ストーンの確保こだわり、ヴィジョンというかワンダがマインド・ストーンの維持にこだわったことが後々どうなったか、って考えた時にどうして早くと思わないでもなかったりする。

 とはいえそれも「エンドゲーム」を見ることで、とてつもない可能性の中にたった1つの正解が存在し得たことが分かるから、それを見てきたドクター・ストレンジの判断として、あそこでサノスに譲るのがその道に至るために外せない行為だったのかもしれない。結果、ちょこちょこと失われはしても半分近くは取り戻せたから。それも残酷だけれど仕方が無いのかなあ。そこにもハッピーな解とか用意してあったりして。だからこそ自作「スパイダーマン:ファー・フロム・ホーム」が重要になってきそう。そっちへと誘導させる意味でも「エンドゲーム」が話題になったのは大きいかもしれない。「ガルパン」の最終章だって「これが本当のアンツィオ戦です」から入って遡って下って結果、見に行くわけだし。

 決まった訳ではないけれど、史学科上がりの人間にとってとても意義深いお仕事ではあって、興味を持たざるを得ないアニメーションのアーカイブについて書かれた「アニメーションアーカイブから見る資料を取り巻く権利とその問題点」というプロダクションI.Gでアーカイブ事業を手がける山川道子さんと金木利紀さんによる共著論文を福井健策さん監修、数藤雅彦さん責任編集による「デジタルアーカイブ・ベーシックス1 権利処理と方の実務」(勉誠出版)という専門書から読んでみる。

 興味深かったのは、ボツ企画に関する資料の扱いで、有名な監督であるとかアニメーターであるとかプロデューサーであるとかが参加しては語り合い、形作った企画はたとえ実現はしなくても、制作の過程と創作の過程をうかがわせる貴重な資料であって保管しておいて損はない。誰が権利を持っているかを判定しづらい孤児著作物になっていると同時に、未発表作品であるため、プロダクションI.Gでは会社の歴史であってスタッフの記録でもあるからと、保管する用意はしているらしい。とはいえ、外には出せない話も当然あって何が行われたかは口外できない秘密文書ってことになる。

 これが公文書なら一定期間が経てば公開せざるを得ないけど、民間では支障があるうちは公開は不可能。せいぜいが監督が自分のキャリアを振り返る際に、こういう企画に参加してここまで練り上げたんだといった“お蔵だし”をしたいと自分のPCから引っ張り出しては口外無用といってトークイベントなどで見せるくらい。そこに確実に過去から今へと繋がる企画の色があり、制作する側にとってもこの時にこうした傾向の作品に挑もうとしていた記録と言えて死蔵しミッシングリンクにしてしまうのはもったいない気もしないでもない。

 それがボツ企画の運命なのだと割り切ってしまうことも可能だけれど、可能なら支障を剥がして世に問いクリエイターの思考の過程に触れてもらいたいって思いもアーカイブ側にはあるだろう。そのために必要なのは法整備か、スポンサー側の理解か、クリエイターの納得か。ってことをひとつひとつ考えていくと、1年2年で終わる仕事ではないよなあ。プロダクションI.Gに限らずすべてのアニメーション会社にあって欲しい機能であり知識でもあるだけに、ここで道を探れるならという気もしないでもないけれど、いかんせん歳だしなあ。頑張って人づてを得て増えていくだろうアーカイブ施設の手伝いだとか、地元は愛知県の長久手に出来るジブリパークの管理人とかになれればラッキーなんだけれど。さてはて。

 ちょっと曖昧ながらもデザインフェスタが、パーツや素材の出展はダメだといって騒動になった件についてメッセージを出していて、昨今の混乱について謝罪めいたことを書いて来た。とはいえ具体的に何を当初は問題として、それについてどういう見解に至ったのかが書かれていない段階の声明は、余計に疑心を招いて批判めいたものを誘っている感じ。パーツといってもそれが単体でデザインであり表現であることは以前にも指摘したとおり。モールだって手作りのものを持ってきて、それを並べて単体の表現として見て見られないことはないし、ガレージキットだって組み立てる工程は必要であっても、そこへと至る道が示されているなら単体で立派に表現といえる。

 そうしたものをパーツや素材に含めてしまった言動が、批判を浴びたのが昨今の情勢、だったら大丈夫と言いたいんだろうけれど、純然たるパーツや素材、それこそ角材やネジ釘やレザーとの区別をつけられない状況でどう言おうか迷っている感じがある。だからそこは出展者の良識と良心に従ってってことになるんだけれど、某マンガ家のエロ同人誌NGというコメントに対して、表現の自由といった部分を感じつつ相手の心情も理解しつつお目こぼしの範囲であったり著作権による引用の範囲であったりを勘案しながらそろそろと進む技に挑まず、これはどうだと白黒つけて安心しないと進めないのと同様に、これは良くてこれはダメといった判断を付けづらいのかもしれない。まあお伺いを立てず自己判断で出したらダメだと言われる心配もあるから、事前に確認はしておきたいだろうなあ。しばらく尾を引く問題になりそう。どういう状況になっているか見に行くのが良いのかな。


【5月11日】 存在していない、自分で創造した神学者の意見を参考にした論文が優れたものだったのだとしたら、創造した人の論文が優れていることになるんじゃないのと思わないでもないけれど、論文というのは過去の研究なり言及への賛意なり否定が土台になるものでもあるなら自分の結論なり見解にそぐわない架空の神学者を創造しては、やっぱり拙いってことになる。これが文学なら架空の神学者のぶっとんだ意見を採り上げ敷衍して論文の形で世に問い惑わせるなんて事態もあって良かった。そうじゃないから怒られたし学園の院長を解雇もされた。ずっと指摘もされながら今まで来てしまったことに、権威のある人が出した論文を簡単には指弾できないって業界のしがらみめいたものも見えたりする。似たような話は他にもいっぱいあるのかも。

 やっぱり吾妻サラも只者ではなかった「さらざんまい」。さらったサラを久慈悠が閉じ込めようとしても、隙間からすると抜けて出て来てしまうその姿は妖怪変化かバケモノか。名前から考えるならサラで皿だから河童の類かもしれないけれど、そこは明かさずとりあえず不思議な存在ながらも世間には露見していないご当地アイドルとして、矢逆一稀たち3人とそれから河童のケッピあたりと絡んできそう。カッパ王国と関係があるならケッピはきっと正体とか知っているんだろうな。

 欲望の回収に失敗したみたいで河童から元に戻れなかったりする状況、そしてサラに一稀が化けていたことが弟の春河にバレてしまい、なおかつ2人が本当の意味での兄弟ではなかった家族状況も明らかになってと、いつもの事件が起こって警官たちが暗躍し、それを3人が解決してしまうパターンからズラしてきた感じ。そして進化して深化していくのはこうした連続アニメーションでは当然だけど、どこへと連れて行かれるのかが分からないのが幾原邦彦監督の作品が特異とするところ。結末すら見えないオリジナル展開だけに次に何が起こるかをまずは見極め、そしてどこへと進んでいくかと追っていくしかなさそう。録画失敗品用にHDDレコーダーを空けないと。

 以前は1週間でも劇場で上映してくれたから見に行くことも出来た「アニメミライ」だったけれど「あにめたまご」に変わってからは劇場での上映がアワードなんかの際の1回くらいになってしまい、テレビ放送も東京では地上波ではなかったりして上映に当たらないと見る機会がグッと減ってしまっていた。去年のあにめたまご2018なんてかろうじて、ネットで配信されたものをチラッとみたくらい。全部を見通す気力もなくって見逃したものもあったっけ。今回も24時間の限定配信があったものの見たのは2本、WIT STUDIOが手がけたウィーゴってロボットのフィギュアを取り入れた「ハローウィーゴ」と、それから宇宙を飛ぶ船のアテンダントが頑張る「斗え! スペースアテンダントアオイ」の2本。「ハローウィーゴ」はあれはたぶん3DCGだろうけれど、フォルムも動きも作画っぽさがちゃんとあって見ていてあまりに気にならなかった。

 内容としては、クラスの人気者の少年と、はぐれ者ではあっても幼馴染みに好かれている主人公少年の対立めいた軸があって、乗り切れない主人公の少年が途中で改心をして頑張るストーリーが手堅く描かれていた。ウィーゴ自体がそれこそベアブリックめいてひとつのシリーズとなっていて、それのPRのために作られたのかとも思ったけれども特に説明はないから、見た人は新しい人間が登場できるタイプのパワードスーツと思ったかも。それが地方の小学校にまで普及している世界って、どれだけのテクノロジーが世界を覆っているんだろう。ちょっと気になった。

 「斗え! スペースアテンダントアオイ」も3DCGで、こちらは「リッジレーサー」なんかのオープニングを確か手がけた由水圭さんが監督を務めていただけあって動きはなかなか。視線とか表情もちゃんと付けてあったから2Dのルックを思わせる3DCGのアニメーションとしてはまずまずの出来たったんじゃなかろうか。宇宙で歌が響くのかとか重力があるかどうかわからない場所でカンフーって使えるんだろうかとか、思うところはあってもそこは落ちこぼれアテンダントが持てる能力とコミュニケーション力で頑張る話だったから楽しく見ていられた。ここから15分ものでシリーズ化、なんて可能性があるかといえばそれはないかなあ。

 「あにめたまご」が若手アニメーターの育成事業として行われているとするならば、アニメーターはやっぱり作画の人にして総作画監督の下、そして監督も近くにいるなかで描いては指摘されて直しそして成長していくようなプロセスを体験して欲しい気がしないでもない。そうした層の不足が日本のアニメーションの将来を不安にさせているという名目があった訳だから。これだ3DCGのアニメーターの場合、原画を描いて直してもらうということはなく、モデリングをして動かして修正してく作業が中心となっていそう。そこに技能の継承があるとするなら、モーションであったり表情といった部分をどれだけ自然に、かつ楽しく描いて見せられるかって部分で旧来からの兄メータの力が必要となる。そこで技能が継承できているか、ってあたりが検証のポイントになるのかな。3Dと2D問題は今後も議論されそう。次も行われるならそこの部分での成長の軌跡を教えて欲しい。

 安全ネットを張りつつそれを1年かけて分厚くすることで将来につなげる可能性について考えつつ、それでもまだ下がってくるかもしれない糸を待ちつつ過ごす日々もやっぱり落ち着かないので、MCUの22本とかを1本も見たことない身で「アベンジャーズ/エンドゲーム」を見る、それも字幕で応援上映を見るとう無茶とTOHOシネマズ日本橋で体験。あまり騒がず声援が飛ぶくらいだったので映画にはしっかりのめり込めたし、ストーリーもおよその状況とだいたいのキャラクターを知っていれば、敗れてその後の再起から復活へと向けた物語だと分かって、その段取りをどうやってとっていくかを追えばいいだけなんで分かりやすかった。

 ヤサぐれているのや血気盛んなのや迷っているのや身を落としているのやいろいろ。でも最後はまとまってレッツゴーとなるところがマーベルヒーローだねえ。誰がどうなるって言うとまだ困る人もいそうだから言わないけれど、すべてが元通りのハッピーエンドって訳じゃあないんだ。それでもってサノスはやっぱり真っ当には倒せない相手ってことになるのかな、それじゃないと倒せないのかな、気になった。小さいのにアントマンがなかなかやるのとキャプテン・アメリカはやっぱりアメリカだけあって中心にいるんだなあという印象。何よりアイアンマンが大フィーチャーされているのが今のマーベルの傾向なのか、MCUという世界観でのことなのか。超能力者じゃないけど大金持ちならヒーローになれるというアメリカン・ドリームの体現者だから? そうしたことも含めてここから遡って調べていこう。


【5月10日】 何を狙っているかが掴みづらい「さらざんまい」とは違ってフジテレビの同じ深夜枠でも+Ultraの「キャロル&チューズデイ」は無名のユニットが有名になっていく過程を分かりやすく、というか割とありがちなパターンをなぞりながらも絵で見せキャラクターで見せ声で聞かせて音楽で引きつけて関心を引きつけ続けている。最新エピソードではAIじゃない音楽を聞かせる数少ないライブハウスの偏屈なオーナーを相手に頼んでどうにか獲得した前座の1曲をしっかり演奏したら次が、といった展開。偶然が重なるわらしべ長者じゃなく、実績を積み上げ少しずつでも這い上がっている感じが見えて感じが良い。

 一方の子役あがりのシンガーも厳し鍛錬を経て声が出せるようになっていたのか、ヘッジファンドの大物投資家の前でアカペラで歌って聞かせてどうにか合格。大金を引き出すことに成功した。ここから楽曲を得て大々的なプロモーションも行って一気に駆け上がっていくドラマがキャロルとチューズデイの成り上がりストーリーをいつまで並行して描かれるか、それとも重なり合ってくるかが残る話数での興味のポイント。追いつ追われつ抜いて誰かが勝利を掴むのか、それとも共に歴史をかえた7分間に関わるのか。そもそも奇跡の7分間って何なんだ。そこで驚かせてくれたらパターンを分だシンデレラストーリーから大きく抜けだせるんだけれど。

 原初舞踏家の最上和子さんがプラネタリウムのドーム型スクリーンで舞踏する「HIRUKO」の上映後のトークで最上さんが、若い人たちがあまり危険な方を選ぼうとしない傾向があるかと聞かれて答えていたのが、若い人たちに自信がないこと、それでいてネットでは他人を攻撃するようになっていることを指摘していた。これはとっても裏腹な関係で、自信があったら誰がなにをしたって気にせず自分を保てるけれど、自信がないと他の自信満々な人たちがどうにも気になって仕方が無く、そこでつい攻撃を向けてしまうといったところななんだろう。攻撃に向かう自信すら無い身ではあっても趣旨は分かって心に刺さる。とはいえ失っている自信を取り戻す術すら見つからない今、何をどうしたら良いものか。舞踏に行けば何かが変わるといっても永久に舞踏を続ける訳にはいかないし。迷う5月。

 始まった「甲鉄城のカバネリ 海門決戦」を金曜日だけれど見に行く。見に行けてしまえる身がどうにももの悲しいけど、それでも劇場にいっぱいの人が来ていて世界にはこんなに金曜日の昼に映画を見られる人がいるんだと驚く。一応はテレビシリーズからそのまま繋がるストーリーってことで、実はよく見ていなかったテレビシリーズでは物語が完結といったところまでは届いていなかったことになるのかな。故郷へと戻る甲鉄城が日本海側でさしかかった海門には、城があってカバネたちが巣くって人々を通さない。ならばと奪還に乗り出した連合軍だかに協力する形で甲鉄城も戦線に加わるんだけれど、どうもカバネたちの動きがおかしい。というか統率がとれている。

 何かある、と感じた生駒が調べに出ようとするけれど、そんな生駒にプレゼントを渡したい乙女な無名への配慮がくて関係がちょっとギクシャク。挙げ句にカバネ化して独房に閉じ込められたりもして身動きがとれなくなる中、攻略の計画は着々とす進み、一方でカバネたちを操る存在も見えてきて決戦のその向こう側が心配になってくる。このままでは背後をとられ敗れ去る、とか。それを防ごうとする甲鉄城の面々の、とりわけ無名が頑張りそこに生駒も追いついて生まれる友情というか愛情パワーが強敵を粉砕するのかどうなのか、ってあたりざざっと振り返ったストーリーになるのかな。

 ビジュアル的には冒頭で長い銃を振り回しながら体術も使ってカバネを倒して行く無名のアクションが見どころ。むちっとした脚をしっかりのぞかせ時に蹴り上げるポーズも見せてくれて、それがスクリーンに結構なサイズで映し出されるから無名ファンには嬉しい劇場版ってことになる。途中の巨体のカバネ相手にも披露され、最後には敵の親玉に対してバーサーカー然としたモードも見せてくれる無名の活躍ぶりをまずはたっぷり味わいたい。あとは乗務員で危険な制動を見事に成し遂げた侑那の決断ぶりか。巣刈を使って計算をしてそれに合わせてピタリと甲鉄城を止めてみせる。その腕がなければスイッチバックに突っ込んで大破だったから。そうした個々人のスキルの上に無明の力も乗り繰り広げられて来た冒険の物語があるのなら、これは見返してみるしかないかなあ。劇場版からテレビに入って全体を好きになるケース、最近割と多いかも。ガルパン、サイコパス、ユーフォニアム……その意味でさっとアクセスできる劇場版って重要かも。

 「我が国固有の領土」であって「日本に帰属する」と言い続けてきたはずの北方領土についての記述が、最近の外交に関する発言を元にしたペーパーでもって消えてしまったことに与党の国会議員の人たちもこれは何だと起こっているとか。そりゃ当然で、長くそれは鉄則であって変えてはいけない主張であって、それがあったから日本が大好きな人たちは自民党を支持してきた。同様に竹島であり尖閣諸島に対しても実効支配の部分、歴史的経緯の部分から主権を主張していられたけれど、大元に近い北方領土で主権も帰属も主張しないとなった時、同様に実効支配されている竹島についてどれだけの強気のことが言えるのか、って問題が浮かぶ。

 言えるのならなぜロシアには言えない、って話になった場合は状況は同じでも相手によって主張を変えるのかって話になる。経済的な問題が云々という理由もあるかもしれないけれど、それでどれだけの経済拡大が見込めるのか。むしろだったら中国との関係を深めて相手の資本を導入した方がよほど経済にプラスだろう。でもやらないのはそれが金科玉条になっているから。ならロシアへの金科玉条はどうして変えたかって話でブレる政権の立場への会議が浮かぶ。いやすでにそういう政権だってことは知れ渡っているから、ああまたかとスルーされるだけかも。そして実効支配は主権としての支配もロシアに渡してしまうのだ。そうした国を売る行為ですら今の政権なら許す空気があるのがどうにも怖い。どうなってしまうんだろうなあ、この国は。

 「孔雀王」よりは「夜叉鴉」の方を割と読んでいた荻野誠さんが死去。病気を患いながらも回復をして描き続けてはいたようだけれど、痛めた内臓が復活するということはなかった模様。これからそうした年齢へと突入していく身だけに健康には留意したいけれど、健康診断とかない状況で食生活も細りがちな中、どこまで自分を管理できるかでこれからの5年10年の生き方も変わっていきそう。真っ当に就職できればそこで立て直しはできるだろうけれど、フリーが続けばやっぱりツケは溜まりそう。目先にフリーな立場ではあっても有意義そうな仕事があってそれを頑張れば1年は続けられそうな空気があって、そちらに乗って規則正しい生活を送ることで健康だけは厳守できそうな気もする一方、1年後にどうなるか分からないのと手取りの問題があってちょっと迷ってる。せっかく得た機会とお金はそういうところにぶっ込むんだって言えば言えるかもしれないし。どうしたものかなあ。


【5月9日】 線引きができるかというとボーダーなところがあって、今回、話題になっているドール用のグラスアイの場合については、眼球という繊細な作業によって生まれるひとつひとつが違ったグラスアイは、それぞれが作品であって後の世に至高の芸術として伝わる可能性を持ちつつ、けれどもそれはドールの眼として使って表情を作るためのパーツでもあって、そうだろうと言われてそうではないとはなかなか言えない。そこはだから判断であって、グラスアイにしてもドールヘッドにしても手漉きの和紙にしても独創的なテキスタイルにしても、それぞれは素材であると同時に職人なりアーティストの手から生まれたひとつのデザインの形であって、表現者が集まるデザインフェスタという場所に出すに相応しい気がする。

 手漉きの和紙なら便せんに使うかクラフトに用いるか、テキスタイルならそのままタペストリーとして使うか服に仕立て直すか、それとももっと違った使い方を考えるかといった新たなデザインの源泉となって、次のクリエイターを生み出す土壌になるならそれもまたデザインフェスタという空間に歓迎すべき出展者たちのような気がする。とはいえ、どんどんと出展者がが増え抽選で参加の可否を決定する状況にも陥っている中で、より完成品に近いものを出したい人たちがいるなら、そちらに席を譲ってという声も分からないではない。難しいジャッジを運営も迫られているのかもしれない。その過程でつい、口調が激しくなってボーダーにあるものにまで及び今回の騒動に至った、なんてことはあるのかな。

 ジャッジを下す側がどういう意図でどこまで状況を見渡して答えたか、分からないだけに真意を判断するのは難しいけれど、日本ホビーショーというクラフト向けの展示会があってそちらにいっぱいでてくるような、ホビーやクラフトのための材料ではないそれぞれが手作りで、独創性があって単体で表現と認められるものならパーツに見えても素材であっても、出すのは認めつつあとは抽選でもって公平に判断するのが、この状況をデザインフェスタ側が乗り切る上で必要なことかもしれない。それこそ20年近く通っているけれど、ブースで機械をつかって音楽を流すことはやかましいからと止めても、それぞれの表現の形を運営側がジャッジしたことはない気もする。何でもあって楽しいのがデザインフェスタの心情なら、今回も一応は釘を刺しつつそれも表現なんだと認めてスルーして欲しい。見に行くかなあ。もうメディアじゃないけど最初もメディアじゃなかったし。

 ブロックチェーンがどういう仕組みか分からないけれども、ネット上にあるコンテンツの所有を自分に限定するといった仕組みを使ってAniqueという会社が「進撃の巨人」のデジタルイメージの販売をスタートさせた。アニメーション版からの名場面なのか描き下ろしの版権イラストになるのか、さまざまなキャラクターが登場するイラストが結構な点数用意されているけれど、それを所有できるのはたった1人で、所有した人はそれを元にしたセル画調のアートワークを購入する権利を持つという。そうした権利が貴重かどうかというと作品そのものに関わるアーカイブ的なものとしての価値は小さいけれど、そのキャラクターが描かれた世界にひとつのアートワークと考えると、ファンにとっては嬉しいものなのかもしれない。

 もうひとつは、こうした権利は譲渡が可能ってことでつまりは人気があるキャラクターなら、自分が欲しいという人が現れ申し込んで対価に持ち主が納得すれば、次のオーナーに所有権とか複製セル画の購入権も引き継がれていく。ある意味でのセカンダリーマーケットが成立しているってことで、例えばリヴァイとか大受けしそうなキャラクターなら最初に1万円の売り出し価格で購入しておけば、世界での人気の高まりによって結構な値段で転売できるかも、って思惑も浮かぶ。ということは、今回の売り出しでもそうした騰貴を狙っての購入申し込みも結構ありそうだし、自分でもちょっと入れてみたくなった。

 買って即転売なんてことが可能なのか、それがどこまではねるのか、まるで見えないけれども絵を媒介にした仮想通貨の売買が、ここから始まるって考えることもできるのかも。それだとクリエイターはまったく蚊帳の外じゃないかという意見については、こうしたオーナーの移動を伴う売買ではクリエイターへの還元が行われるとか。そうした“名目”があるなら所有し続けて塩漬けにするより、世界に解き放って動かしてもらいながらクリエイターへの還元を多く得るってことも堂々、やって恥じない行為となる。そこは巧いと思った。Aniqueという会社自体がブロックチェーンなり仮想通貨でどこまでの信頼ご技術を持っているかは不明だけれど、儲け話に良い話も混ぜてファンの納得を誘うのはいい手かも。今後別のキャラクターでも始まるなら、様子を見て幾つか入れてみるか。世界でハネそうっていったら誰だろう、サーバルちゃんかなあ。

 「ケムリクサ」の第6話に登場して、いなくなったはずのりくが現れわかばと対面して触覚があることを喜ぶ場面に登場した大阪は梅田の地下街にある噴水がリニューアルにともなう撤去に向けて閉鎖されたとの報。あの光景自体が廃墟となった噴水だから現実に見られることはないと分かっていたけど、これで廃墟になる可能性すら消えてしまって現地に立って雰囲気にひたることもできなくなてしまった。『ケムリクサ』ファンにはなかなか寂しい話だし、梅田の地下で待ち合わせとかに使っていた人たちにも感傷を刺激される話だろうなあ。街ってそうやって変わっていくんだ。名古屋の地下街にあった日産ギャラリーもクリスタル広場も確かもうないし、新幹線西口の壁画も消えてしまったし。残る『ケムリクサ』の聖地だと富士山頂の山小屋か? それとも近場で新宿バスタか? バスタは当分あるだろうからそのうち行っておこう。

 押井守監督とお姉さんで原初舞踏家の最上和子さんは顔がとてもよく似ているというのはさておいて、プラネタリウムのドーム型スクリーンに投影して見せる映像作品として作られた飯田将茂監督による「HIRUKO」はなるほどドームとを見上げるようにして眺める映像ということで、視界いっぱいにひろがる魚であったり、むこうから釣り下がってくるような巨大な顔であったり、迫ってくるような人々であったりその人々が置く木々であったりが投影されて、ドームという空間で見上げて眺める意味をもった作品だった。

 舞踏という言葉から受ける絢爛たる舞のようなものはなく、最上和子という原初舞踏家が横たわったような姿でで身じろぎをする姿を捉え続けたような映像部分がクライマックスに投影されるけれど、そこに内面を無にして身体の言葉を聞こうとする舞踏家の探求めいたものがあると感じられればどそれはそれで理解に近づけそう。初見では苦しそうに蠢いているだけに見えてしまったけれど、上映後に登壇した最上さんと飯田監督のトークなどから、そこに肉体なり身体を突き詰めようとした舞踏家の探求があって、たどり着いた時には恍惚とした感覚もあると教わって、そうした域に今近づいているのか、そして到達したのかといった関心から眺めていられそう。

 最上さんによれば人間にとって身体ほど危険なものはなくって、だから押し込めよう統御しようとしたってことで、それを解き放とうとする舞踏なんてものはだから危険極まりない行為ってことになる。でもやってしまうのは危険の向こう側にたどり着いた時に得られる感覚がたまらないからなんだろう。最上さんですら最初は何度もたどり着けるものではなかったけれど、それを潔しとせず自分でどうすればたどり着けるかを探求し、言葉で誘うメソッドも学んだそうで稽古場ではそうした言葉に導かれることもあるって飯田監督が話してた。

 クライマックスの舞踏のシーンを撮るには自信も舞踏でもって身体を高めていなくてはいけなかったとかで、30分かけて起き上がり、そして20分だかかけて動き出すという鍛錬をしたとのこと。体から一切の力をぬいて横たわっている状態から、さあ起き上がるとしてどこをどう動かしていけば良いのか、どうやって起き上がるところまでもっていくのかってのを本当に考えることになるそう。その過程で身体とは亡いかを突き詰めることになるらしい。家でやってやれるものではないから試してみるしかないのかなあ。そういうビデオを見てもきっとやっぱり分からないんだろうなあ。

 最上和子さんは身体とか舞踏とかについて何か書きたいそうだったけれど、とてつもない話なので書けるかどうかも分からないみたい。でも書こうとする気はあるみたいなのでそこは時間と導くパッションがあればってことなのかな。16日には押井監督との対談があるみたいだけれど無事完売。とりあえず買ったので時間があったらのぞく。14日の分があまり売れてないようなので、これから見たい人はそっちを買おう。


【5月8日】 大童澄瞳さんが「月刊!スピリッツ」で連載している「映像研には手を出すな!」が、いよいよもってテレビアニメーション化で、それも新作映画の「きみと、波にのれたら」を仕上げて公開を待つばかりとなっている湯浅政明監督が、間髪を入れずに監督を務める「ピンポン the Animation」以来のテレビシリーズというから、これは話題性も抜群。原作漫画はマンガ大賞2018で最終候補にノミネートされたことがあって、アニメを作る女子高生たちを描いたポップカルチャーの真ん中を行く作品だったけに受賞なんて考えたけれど、その時は受賞とはならなかった。マンガ大賞2019はノミネートもされなかったけれども連載は続いて巻数も重なる中、ついにテレビアニメ化にまでたどり着いた。

 面白いのは、これがNHK総合テレビでの放送ってことで、湯浅監督が拠点にするサイエンスSARUだったら関係が深いフジテレビのノイタミナなり+Ultraあたりが枠として適当な気もしたけれど、深夜の深い時間に放送されても今時のアニメってあまりバズらず、それならむしろNetflixなりを挟んで世界で一挙配信を行い上がりがもらえる範囲を広げる方へと向かっている。とはいえ、日本の学生たちがアニメーション制作に燃える女子高生たちを描いた作品が、Netflixによる世界配信向きかというと迷うところで、それなら国内で目いっぱい、届く範囲にまずは伝えようとしてNHKを選び、そしてNHKも若いアニメ好きを引きつけたいと依頼したのかも。そのあたりはいつかどこかに載るかな。

 キャラクターデザインは「おそ松さん」の浅野直之さんという人で、デフォルメされても動きや表情が分かるキャラクターをきっと見せてくれることだろう。元より「映像研には手を出すな!」の雰囲気が湯浅監督の描く世界とマッチしている気もするだけに、途中でシュールな展開とかにいかなければスタイリッシュな中にアニメ制作という濃い部分も描かれた作品になるんじゃかなろうか。単行本も2巻までしか読んでないけど近く出る4巻も含めて読み返すか。来年のマンガ大賞2020入りにも期待がかかるかな。それにしても美術設定とかなかなか凄まじい。キャラクターデザインよりも注目はむしろそちらかもしれないなあ。

 身が底へと沈んでいたりする状況で、底辺に彷徨うかトップを掴むかといったサバイバルなゲームが舞台となった小説はあまり読みたくないんだけれどもそっちはそっちで何とかするしかないだろうから、とりあえずフィクションはフィクションと割り切って七切聖虎さんという人の「Abyss 1 賞金2600億円のVRMMO」(レジェンドノベルス)を読む。手術費800万円で治ると思った妹の病気が余命幾ばくもなくそして治療には3億円かかると分かって絶望状況の兄、小鳥遊夕人だったけれどもそこに勝てば2600億円もの賞金が転がり込んでくるゲームがあると知り、エントリー料が300万円するにもかかわらず妹のためならと払ってゲームに乗り込む。
BR>  そこで無双ができるようにはなっていないこのゲーム。それでも魅了の力はあったみたいで、それを使って仲間を得てチームでまずは攻略に乗り出していくところが流行りの異世界転生俺TEEEとはちょっと違っている感じ。仲間といっても目的は賞金の訳でそれを得て独り占めするのが狙いだったら仲間なんかはいらないはず。とはいえそれで勝てる訳がないなら今のうちだけは仲間になったふりをしているのか、それとも賞金は山分けでいいから信じた友と難題に挑むことに燃えていたのか。はっきりと掴みづらい状況の中、それでも戦い続けた4人組の1人が敗れ別のプレイヤーに隷属されそうになった時、すぐに反攻できないようレベルが下がるのも構わず自分をキルしたあたりに、打算ではない真意が見えてメンバーたちを驚かせる。

 そんな仲間を引きずり込んだ強大な敵を相手に小鳥遊たちは勝てるのか、ってあたりが第1巻のクライマックス。そしてまだまだ続くだろうゲームの先にはどんな敵が待っているのか。2600億円もの賞金を出して惜しみないゲームの真意とは何なのか。そんなあたりが続刊でもって語られそう。こういうのってたいていは裏があるからなあ、何かの開発か政治的な謀略か。ただのお金持ちの道楽ってことはないだろうね。レジェンドノベルスでは6月に「幼女とスコップを魔王眼1」ってのが出るみたいだけれどスコップで何をするんだろう。すでに「スコップ無双」というスコップで波動砲を発射するようなとんでもない莫迦ラノベが出てたりするけど、こちらは大人しく幼女がスコップで魔王をたおすだけなのかな。だけじゃないじゃんそれだと。確かに。

 シド・ミード展から告知が出ていて、展覧会のキュレーターを務めていてコレクターでもある松井博司さんが展覧会の解説をしてくれるナイトツアーが展覧会の会場で開かれるとか。まさにナイトミュージアムだけれどそれでシド・ミードの車が出現して走る訳でも、ターンエーガンダムが立ち上がって歩く訳でもない。とはいえ天下のオーソリティがその場で作品を見ながらあれやこれやと解説してくれるのは貴重にして今後また同じ規模の展覧会が開かれないとしたら奇跡のようなツアー。ファンなら行って損はないし、こうしたポップカルチャーの展覧会が今は芸術とはかけ離れていてもこれからの世にどれだけの価値を持つかを当事者から、オーラルヒストリーとして聞いておけるという意味で、世のキュレーターにとっても大いに意味のありそうなツアー。行きたいけれども無職の身ではやっぱり気が重いなあ。かといって残っていたら行ける時間でもなかったか。そこが微妙。決まっていれば気楽に行けるんだけれど来週月曜日では。それでも未来への投資と思いのぞいておくか。

 元の職場が宛がってくれた転職支援サービス会社で利用だとか活動のガイダンスをいろいろと受ける。履歴書の書き方とか面接の時の態度とか受け答えの仕方とか、この歳になって教えてもらうとは思わなかったけれどもとりあえず、自分のこれからだとか自分のこれまでだとかを考える上で役にはたった。とはいえ今さらそうした表面的な言葉のやりとりをしなければ、いけないというのはつまりやってきたことの中身なんてまるで関係ないってことで、そういう蓄積が通じない世界に飛び込んでいってどれだけのことが出来るかって考えると、なかなかしんどい気もしないでもない。とはいえそれだけのことをやって来ながら、中ではあまり関心をもたれなかったのだから仕方が無い。関心をもってくれた外を相手に勝負するのが良いのかなあ。それも茨の道だけど。やれやれ。


【5月7日】 入間人間さんの映像化というと、デビュー作の「嘘つきみーくんと壊れたまーちゃん」が染谷将太さん主演で大政絢さんが出演した実写映画が公開されたほかは、「電波男と青春女」がテレビアニメーション化されたくらいであまり記憶にないのは、長くシリーズが続いてアニメ化に耐えるものがないってことでもあるんだけれど、そんな中で珍しく続いている「安達としまむら」がいよいよテレビアニメ化ってことみたい。5月10日に8巻も出て「嘘つきみーくん」シリーズの10巻、そして「電波男と青春女」の8巻に続き並ぶシリーズとなるからこれは選ばれたも当然だけれど、ライトノベルシーンで話題になっているかというと、それほど知られているとはあまり思えない。

 深く読み込んで追いかけている訳ではないので、青春なのか百合なのかギャグなのかシリアスなのかもちょっと図りかねているけれど、そこは捻った作品が多い入間人間さんなので、単純な2人の女子高生の関係に寄らない不思議な設定なんかがあるんだろう。それとも純粋に百合でSFなんかで起こっている百合ムーブメントが波及してこれだと企画が浮上した? それはないか、そういうのって何年も前から企画化が進むものだから。いずれにしても岐阜県岐阜市とか各務原市とか大垣市とか愛知県名古屋市なんかが出てくるみたいなで、それがちゃんとアニメでも再現されれば聖地となって愛知県から「アニメ聖地88」に初めて登録されたりするかもしれない。どうだろう。「やっとかめ探偵団」はいつまで経っても続きが出ないからなあ、「八十亀ちゃんかんさつにっき」が先に入るかな。

 大型連休も明けてとりあえず、再就職にしろフリーで活動するにしろ今後の展開に繋がるきっかけをもらいに行こうと、都心まで出て宛がわれていた再就職支援会社でいろいろと状況を説明する。はいそれならここがピッタリですだなんて答えが出るはずもなく、サービスを使うための手続きをしたそうだけれども転職情報サイトが基本的に若年層向きで、そこからいくら応募したって途中でハネられるのが当然の扱いを受けてきたから、間に担当者が入って直接企業にコンタクトをとってもらえるのは有り難いと思うのが良いのだけれど、見知らぬどこを紹介される状況にやっぱり不安も感じて気分は上下左右に振れ動く。

 どこにトバされたって冷や飯ぐらいにされたって、見知った人が周囲には大勢居るだろう環境でしばらくでもしがみつき、そこそこの給料を頂いていた方がそれなら良かったかというと、それが2年3年続くなら良いけれど、それを2年3年も続けられるほど足腰も強くない状況だっただけに一緒に倒れるか、切り離されていただろうことを考えるとやっぱり離れて次を探って正解だったとここは思いたいし、思わないとちょっとやっていられない。2年先に迷う路頭なら今から彷徨った方が目端もつくと言えなくもないし。ただやっぱり決まるまでは決まるんだろうかという不安が先に立って、これまでどおりに寝られても起き上がれない日々が続くんだろうなあ。参ったなあ。

 企業人とかサービスとかを取材して、記事にしてそれを企業内サイトのブランドアップにつなげようとする動きも出てくる中で、そうした記事を専門に書くライターめいた仕事ってのもこれからはきっと増えてきて、そうした時に企業とかサービスを取材して特集とかにしてきた産業専門紙上がりの記者ってのは多分、それなりに使えるだろうといった考えに沿って、フリーでそうした仕事を請けて動いて頑張るって道もあったりしそうで、それは嬉しいしすぐにでも飛びつきたいところではあるものの、ずっとフリーで行く覚悟がまだ決まってない身だけに、即答できないのがちょっと恥ずかしい。自分のことであっても決められないのは、自分のことだからなんだろうなあ。明日のためには動きたいけど、10年後にどうにかなるかというとそれもまた。あるいは1年でも修行できる仕事をしつつ、合間があるならそうしたフリー仕事も請け負って、時間を埋め財布を満たしたいものだけれど。やっぱりまだまだいろいろ話を聞かないと。

 つまりはおっぱいが最強であって、揺れれば目を奪われ、触れれば心を奪われるくらいに凄まじい威力を発揮するおっぱいを持った峰不二子の最強ぶりを存分に味わう映画かと「LUPIN THE VRD 峰不二子の嘘」のことを言えば良いかというと、言えば良いのだけれどもそれだけではない峰不二子の素晴らしさが、全編にわたって描かれている映画だというのがこの場合はピッタリかもしれないと試写で観て思った。父親が5億ドルを横領して逃げている一家にメイドとして入り込み、父親に追っ手が迫る中で5億円の在処を記憶しているジーンという心臓病を抱えた息子とともに逃走。父親はビンカムという人に言うことを聞かせる呪術めいた技を繰り出す殺し屋に迫られ爆弾を爆発させるが、ビンカムは平気で逃げた不二子とジーンを追い始める。

 待ち合わせ場所に父親が現れず、やはり死んだのではとジーンに告げる峰不二子。だったら2人で5億ドルを持ってそれで心臓病を治し、逃亡しようと誘うもののそこにルパン三世と次元大介が絡む。不二子が手練手管でジーンから貸金庫の在処と暗証番号を聞き出して、5億ドルを独り占めしようとしていると思って横取りなりしようと企むものの、ジーンは父親が死んだと憤って復讐するまで暗証番号を言いそうにない。女性の色気も詐欺的な話術も通用しない子供相手に峰不二子もタジタジ? それとも本気でジーンのことを考えている? そこはやっぱり峰不二子だけあって目当てはただ金、そのためには嘘だって平気でついて子供を騙すことだってするんじゃないかという感性が一方にありつつ、ジーンを狙うビンカムという殺し屋を相手に単身で挑むような格好良さも見せたりして峰不二子という存在の真意を掴ませない。

 それもやっぱり自分のため? 金が手に入ったから行きがけの駄賃? 何を言っても嘘に聞こえるが、その美貌その肢体からどこかに本当も混じっていたらと思わせて止まない峰不二子という存在の魅力と怖さを、存分に感じさせられる映画になっている。映画といってもテレビシリーズ2本分くらいの長さだけど。そんな峰不二子の前にジーンも落ちたかどうか。あるいはランディも? 分からないけど目の前にあのおっぱいが見えてそして触れさせられたらもうきっと何かが変わるくらいの衝撃を受けるんだろう。アニメは絵なのにそう思わせられるくらいの柔らかさが感じられぷにぷに感も現れている。巧い作画。そしてモーション。描いた原画の人は描いて楽しかっただろうなあ。

 小池健監督の「VRD」シリーズらしくクールでスタイリッシュでシビアでシニカル。ただ峰不二子が全面に出て子供相手の母性めいたものを見せたりもするから全体にソフトな感じも今回は漂う。ただし後半はそんな不二子が殺し屋相手に圧巻の体術を見せてくれるからもう驚き。そんなに強いならルパン三世だってかなわないんじゃないかな。次元大介を演じた小林清志さんの声が今回は良かった気が。最初から雰囲気完璧。若いとはいわないけれども歳を感じさせない声を聞かせてくれている。そしてルパン三世。おっちょこちょいの三枚目より栗田貫一さんは小池ルパンのニヒルでクールな感じがやっぱり良く似合うよ。ランディ役の宮野真守さんもふざけたところがなかった。そりゃそうだ。そんな感じに声も良く絵も良くおっぱいもいっぱい。こりゃあ劇場で見るしかない。最前列で見上げてその柔らかさに押しつぶされそうになるしかない。


【5月6日】 帰省中にハードディスクレコーダーが本体、外付けともに満杯になっていて、撮れていなかったものもあってちょっと困ったけれど、今、アニメを見る気もあまり起きなくって撮っても溜め込んでいるだけだったりして、これじゃあ1日を自由に使える時間があっても、しばらく暮らせるお金があってもまるで意味がない感じ。長く働くことを日課として、その上で生きてくると人間なかなかボーッとはできないものらしい。あとはやっぱりしばらく暮らした後のことも考えてしまうし。

 だったらそんなボーッとしている時間を勉強にでもあてられれば良いんだけれど、そういう気にすらなかなか至らないのは長い時間を船に乗り、揺られてきたその影響が今も頭を揺らしているからなのかもしれない。しばらく強制的に自分を社会から切り離し、情報からも隔離してみた方がいいのかなあ。それでも溜まっている分から幾つか見ようと、「キラッとプリ☆チャン」のセカンドシーンのここ数話分をまとめて見たら、主役がすっかり桃山みらいたちMiracle Kiratsから金森まりあに変わってた。

 何でも可愛い可愛いとウザいくらいにつきまとってくるけど悪意がなく、て純粋にすべてを可愛いとポジティブに讃える気持が分かるから拒絶できないといった感じ。そんな声を真中らぁらと同じ茜屋日海夏さんが、まったく違う感じに演じているんだから声優としてもやっぱり力があったんだ。それは萌黄えもの久保田未夢さんも同じか、ツンとした北条そふぃから騒がしいえもえと演技をまったく変えてきたから。そんな金森まりあが引っ張る感じで進んでいくストーリーでは、Miracle Kiratsからだいたいみらいがピックアップされて次のジュエルオーディションにエントリーされていく。3人がいっしょにやっているのにどうしてみらいばかり? って感じるけれどもそこはやっぱり主役だから? ってことなのか。

 そんな展開に絡んで来るのが前髪目隠れ美少女の虹ノ咲だいあ。ときどき目が見えるところがポイントだけれど引っ込み思案でみらいたちといるとまるで喋れないのに、Miracle Kiratsが、自分たちのPVをどう作ろうか悩んでいる場面で一緒にいたのがふっと消えたと思ったら、バーチャルアイドルのだいあがMiracle Kiratsのことを取りあげて、3者3様の良さがあると言ったことでみらいたちは気付いた。つまりは虹ノ咲だいあは……ってあたりはまだ秘密。分かっているけど分からないふりをして進んだ展開の先で、驚く皆をみて楽しむ時が来るだろう。そのときはアニメを笑顔で見ていられるといいな、自分的に。今はやっぱり落ち着かないのだどうにもやっぱり。とりあえずどこかに落ち着きたい。1年でも良いから。

 「なんでここに先生が!?」は松風真由編へと入って強面の鈴木凛との関係が綴られることに。鈴木一郎が去ってひとりで弁当を食べ散るところに現れた真由だったけれどもじたばたしているうちに池に落ちてスカートが脱げたり、いっしょに満員電車に乗っているところで真由のシャツのボタンが外れたりしていろいろと大変。もちろんテレビではそうした場面では何かが被さって見えなくなっているけれど、これが外れたパッケージ版ではいろいろと見えたりするんだろう。パッケージ版の発売がぐんと遅くなるのもよく分かる。この内容ならAnimeJapan2019の会場でボディタッチが可能な等身大パネルが並んだことも分かるか。それに対して子供に見せるものではないといった意見が出たのも分からないでもないけれど。最近にしては珍しくストレートだものああ、描写が。パッケージ版どうするかなあ。

 無職だからといって沈んでいては出没者の名も廃ると、気合いを入れ直して文学フリマへと向かう。いつもの東京流通センターだけれど会場が、前に確か1度くらい使ったことがある第一展示場へと移って会場も広くなった感じ。コミケによく発生する霧で向こうが見えないほどではなかったものの、なかなかの熱気で隅から隅までずずっと本が並んで人もいっぱいいて、マンガの同人誌とか評論の同人誌だけじゃなく、小説も写真集も自分で書いて自分で作って自分で出すことがもう普通になってきていることをうかがわせる。っていうか文芸の同人誌っていうのはもともと自分たちで書いて作って出すものだったんだけれど、それが資本によって事業化されてそこから出すのがステイタスめいた状況になってしまった。

 でも、そうした商業からの出版が不興なのかだんだんと縮小気味になる中で、例えば自分で電子書籍化して売ってそれなりに稼ぐ人たちが出て来たり、小説投稿サイトで連載をして好評を得てから紙の出版電子の出版へと向かう人が出て来たりで、出版社という資本であり機能を第一義としない状況が生まれてきた。渋って出してくれないなら、出しても部数が少ないのなら自分で書いて自分で作って自分で売ったら良い、ってことになったのがこの5年とか10年とか。もともとは既存の文学だとか評論が今ひとつなら自分たちで出そうって感じで始まった文学フリマだった記憶があるけど、今やこっちが出版の主流になりつつあるのかも。それはまだか。でも自由だし、反応もダイレクトだし。ここでそれこそ壁サーが出て何百冊も売る同人作家が出て来たら……すぐ商業出版されるか。そこは漫画とは違ってここだけの作品ってのが生まれにくいからなあ、二次創作とかも含めて。

 とりあえず柿崎俊道さんがやってる「聖地会議」へとお邪魔して「ケムリクサ」の全12話に関する論考をまとめたコピー誌を買い、そして本シリーズとなる「聖地会議」の静岡新聞で「ラブライブ!サンシャイン!!」を追い続けた記者へのインタビュー本を購入。橋爪記者ってそうかインデックス・マザジンズで柿崎さんといっしょに仕事をしていたのか。そこから静岡新聞社に転職。地方紙て割と地域のエリートが入る印象があったんで、意外な感じがした。今はそういう人もいっぱい採っているのかな。だったら僕も……って歳はやっぱり考えなくちゃ。

 沼津方面を担当してていもう4年もそこにいて、1つの事象を長く追いかけ続けて記録に出来るのが羨ましいというか。それが新聞と言う媒体の良いところで、だからこそ長く資料であり史料として利用されるんだけれど、最近は一過性の情報を掲載して、それもオリジナルの取材ではなく通信社の配信も含めて載せてまとめて一丁上がりなところもあって、後になって記録をサルベージして時系列でまとめるのが難しくなっている。かといってネットもまた発表の羅列で事象そのものを追っている訳ではない。

 事件や事象の現場で何が起こっているか、それを現場まで足を運んで見て記録しておけた新聞というメディアがそうした役割を果たさなくなった時、歴史から多くの記録が消えてそして記憶とともに埋もれていくことになるのだろう。寂しいけれどそれが現実。ならばこうしてネットに個人が記録していけば良いかっていうと、それも範囲が限られて内容として散漫だし、気まぐれだったりして一次史料としてはあまり役に経たない。なおかつネットが死んだらまとめて消える。ジオシティーズみたいに。ここはやっぱり紙にまとめておくかなあ、23年分の日記を、なんてことも考えたけど、たぶんやらないかなあ。

 会場を回っていたら、原田まりるさんが「ぴぷる」というAIが登場する作品を販売していたので購入してサインも頂く。とてつもなく大昔にブシロードの広報となって「ヴァイスシュヴァルツ」のイベントなんかに登壇していたのがその後、アイドルユニットに入っていろいろと活躍もしていたけれども辞めてそして哲学を解説する人になったと思ったら、小説まで書いてと活躍の幅を広げている。どこかの芸能事務所が強烈にプッシュしてマルチな才能を世にひけらかしているって感じはかけらもなく、やりたいことをやってやり遂げているといった印象。

 そもそもが文学フリマに大手芸能事務所のお抱えタレントだったら出てこないよね。そうした活動が可能なのも今が自分で道を選らんで活動し、そこで表現していける道があるからなんだろう。守ってくれず引っ張ってもれないという苦労はあるけど、進んで行けて破っていけるなら生きやすい時代。そういう時代に適応できるよう、自分を変えていけるかな、いかなくちゃ。でないと生きられないから、80歳まで。


【5月5日】 寝しなにバーボンをショットグラスで1杯半くらい飲んだら気分がスッと楽になって、将来の不安とかも現状への不満とかも吹っ飛んで、こりゃあいいやと思ったもののこれに味をしめて酔っ払ってさえいれば気楽になれると、酒量が増えていきかねないだけに自省が必要。不安だからといってのべつまくなし飲むようになったら、すぐに少しの量ではきかなくなるから。必要なのはだからやっぱり落ち着き先ってことで、大型連休が明けていろいろと話を聞きに回ることになりそうで、どこかにひとつ落ち着ければそのまま気持も楽になれそうな気がする。気のせいかもしれない。1年でも良いから毎日通って何かをさせてくれる場所、見つけたいなあ。

 毛布に潜っていても何も解決しないんで、起き出して東京スカイツリーが建つ東京ソラマチで開かれている「幾原邦彦展〜僕たちをつなげる欲望と革命の生存戦略〜」を見に行く。2200円もする割に展示物が多いかというとそれほどでもないけれど、「美少女戦士セーラームーンR」から始まって「少女革命ウテナ」に「輪るピングドラム」に「ユリ熊嵐」に「さらざんまい」といった、幾原監督が手がけたアニメーション作品に関する選りすぐりの原画や絵コンテが並んで、それがセル画になたり映像になったりした場面を添えることで、原画がどういう風に目に見られる形になるかを分からせてくれる展示になっていた。

 そのセレクトがなかなかに絶妙で、セーラームーンだとキャラクターの豊かな表情を選んで世のセーラー戦士好きを満足させ、「少女革命ウテナ」だと天上ウテナに姫宮アンシーに生徒会の面々の姿をとらえてスタイリッシュでクールなキャラクターを目の当たりにできる。「輪るピングダラム」だと躍動していたり熱情しているようなポーズや表情が多かったかなあ。あとは陽毬がプリンセス・オブ・クリスタルになっている時の、ちょっぴりエロティックな服だとかポーズとかを抜いて見せてくれるから目にも嬉しい。なおかつそんなポーズが描かれた原画が実に絶妙。巧いけど誰が描いているかといった指定がないのは、それを見せて原画マンすげえと喜ばせるアニメファン向けの展示ではなく、作品でありキャラクターのファンに来て見て喜んでもらうことが一義だからか。

 もちろん記録はちゃんとしてあるんだろうけれど、それを出す出さないの判断をしつつ展覧会を構成しつつ、欲しい原画なりスチルなりを選んで並べて飾れるのもきっとちゃんと保管がされているからだろう。作品によって制作会社も違っているはずなのに、しっかりと連携が取れて展覧会に合わせて持ってこられるのは幾原邦彦監督の作品なら、ちゃんと保管しておけばこうやって展覧会が開かれビジネスチャンスになるからって感じているからなのか。文化的側面から保管したいという声があるのも分かるけれど、それだってタダではできない訳で、一方で商業的側面からも必要といった声を高めることが、アーカイブ事業では重要になるってプロダクションI.G.のアーカイブ部門が主張している。「幾原邦彦展」のようなケースも含めてそうしたイベントが増えていけば、アーカイブの必要性も高まり予算もつくし要員も求められるのかもしれない。そんな地平に向かって今から勉強して間に合うか。ちょっと考えたい。いや割と真剣にか。

 浅草まで歩いてそこから地下鉄銀座線で末広町まで出て「シド・ミード展。大型連休中だからなのか内容が評判だからか来場者も多くいて、20分ほど外で並んでから中に入ったらそこは案外と空いていた。ギュウギュウ詰めにして見えなくなるより適当に絞って入れることで見やすくするって配慮が行き届いていた感じ。そんな展示ではやっぱり気分は奥にある「ターンエーガンダム」に向かってしまって、行くと壁面にターンエーとかターンXとかが大きく引き延ばされて描かれていて、スタイリッシュな格好良さに改めてミードガンダムが持つフォルムの強さって奴を感じる。

 過去に誰が描いたガンダムも基本は大河原邦男さんのものになる。そこから完全に外れた唯一のガンダムは、同じくヤマト2520のデザインともども、日本のアニメ史の上に特異な足跡を刻んだことだろー。もちろんシド・ミードはガンダムのメカニックデザインだけではないしヤマトのデザイナーでもない。ずっと前から都市を描きメカを描き映画の中の世界を描いて未来って奴を目の当たりに見せてくれてきた。ルイジ・コラーニのように独特すぎて人が扱うことを拒絶するようなメカではなく、人が将来において使っていて不思議のないものを予想して創造するのはインダストリアルデザイナーだからだろうか。

 車にしたって船にしたっていつか登場して来るような形をしているし、もしかしたら登場したかもしれないけれど、そうしたシド・ミードが描いた自由なデザインが蔓延る世界とは違って、生産と燃費の効率からデザインされたようなメカでいっぱいの現在。街並みも代わり映えせずポストモダンから先を見いだせないでいる中、こうしてシド・ミードの未来感が改めて展示されることで、刺激されたデザイナーが10年後なり20年後に今と違った世界を見せてくれるかもしれない。そういう種まきになれば最高だよなあ、主催者もシド・ミードも。その時を待てるとも思えないけど、見てみたい、2019年4月から5月に開かれた「シド・ミード展」が変えた世界の、日本の有り様を。

 ちょうど20年前のゴールデンウイーク前後に渋谷のパルコで開かれた村上隆さんの展覧会で、内覧会に来ていた姿を見ていた記憶というか記録がウエブ日記にあって、それがたぶん本人を見た最初だったりする大塚ギチさん。アンダーセルを設立したかするかといったたりでここから西島大介さんやコヤマシゲトさんあたりを引っ張り込み、クールでスタイリッシュな編集とか作品なんかを送り出していった。それより以前、ゲームライターとして世間を熱くさせていた「バーチャファイター」をめぐる四天王たちの言葉を引いて物語にした「東京ヘッド」なんかも出して、ゲームを文学にして語れる人だともいった印象を抱いていた。

 後、「東京ヘッド」が再刊された時に「週刊SPA!」で書評なんかもして興味を持ったものの、当人と喋ったのは随分とたった2012年、成田で開かれた真夏の炎天下でゲームをするというとんでもないイベント「ゲームサマーフェスティバル2012」の会場で、ブースを出して「TheEND OF ARCADIA」という新作を売り出したのを見に行った時。連絡があって会って喋ってぶらついて、これから「バーチャファイター」の歴史を追いかける本を書くとか言っていたんだけれどそれは叶ったんだろうか。以後もあちらこちらに顔を出し、言葉を繰り出していた大塚ギチさんが階段から落ちて脳に大変な重傷を負って意識不明となってしばらく。回復して自分から言葉を発し始めてとりあえず安心していたら5月1日に亡くなったという方が伝わってきた。

 いっしょに飲んだことはなく、会ったのも成田での1度くらいで接点はほとんどなかったけれど、とりあえず面識はあったし相互にツイートもきっと見ていただろう人、なにより業務用ゲームの世界を熱く語って、eスポーツだなんて言葉でお上からも脚光を浴びる以前のその世界を盛り上げ持ち上げた人がさあこれからという時にいなくなってしまった。こんなに残念なことはなく、そして悔しいことはない。まだ45歳くらいならどれだけだって書けたし話せた。でもそれもかなわなくなった障害を負って、なお何かしようとしていた気概はネット上の言葉から伝わってきた。それももうかなわない。カクヨムに連載されていた物語の続きも読めない。これが居なくなるということなんだなあと、感じつつ自分にはどれだけ残せたものがあるのかと振り替えて手を見る。何もないなあ。でも生きているなら何かできるはずだと思おう。それが生きている者の務めだから。合掌。


【5月4日】 沈んではいてもやらなくてはいけないことなんで、帰省中にミステリマガジン向けのライトノベルレビューを仕上げ、AIが出てくるSFについて予定の半分までを埋め、懸案の書記業務もとりあえず形だけは付けたので、目先の課題は再就職なり仕事探しだけになったのだけれど、これがまた難物で難物で暗中模索にすら届かない状況で、目の前に差し出された巧い儲け話にコロリと言ってしまいそうな気がしないでもない。totoBIGとか。いやそれはずっと買っているけど。そこを耐えて待てば海路の日和ありと思えるかというと、なかなか切り替えられないところに気の弱さが自覚されるのだった。とりあえずだから散髪だ。坊主にしよう。

 「スター・ウォーズ」の最初から出ていたチューバッカ役のピーター・メイヒューが死去。あの中に入ってずっと顔なんか出さなかったからどういう顔かなんて知らなかったけれど、訃報が回ってきて普通に俳優さんだった。そりゃそうだ。中までチューバッカってことはないから。「スター・ウォーズ」だとプリンセスレイア役のキャリー・フィシャーが亡くなりR2−D2役のケニー・ベイカーも亡くなってとオリジンから鬼籍に入る人が出始めている。当時からレジェンドだったアレック・ギネスは仕方が無いとして、ダースベイダー役のデビッド・プラウズもC−3PO役のアンソニー・ダニエルズもそれなりに高齢。出続けられているのもアンソニー・ダニエルズくらいになっているのか。いよいよ公開が年末に迫った「スター・ウォーズ/ザ・ライズ・オブ・スカイウォーカ」でもその勇姿を見せて完走を果たして欲しいとお願い。

 やったよやった、ホリエモンこと堀江貴文さんが中心となって仲間を募り、作ったインターステラテクノロジズって民間企業が宇宙へとロケットを飛ばすプロジェクトが遂に成功。北海道の十勝は大樹町から上空113キロメートルという、まがう事なき宇宙へと「MOMO3号機」ロケットを打ち上げた。無事に着水まで成し遂げたから大成功の上に大成功が重なる大々成功。これまでの打ち上げ失敗から時には炎上したような事態ををいろいろ揶揄して、成功なんてあり得ないしあったところで意味がないと見ていたスノッブたちも、これで少しは黙ると良いけどやっぱり何の意味があるって声は出るだろう。衛星の1つだって今は軌道に乗せられないロケットが宇宙に届いたところで金にはならないとかどうとか。

 でも良いんだよ、“意味”なんて。民間の有志が技術を集めて人も募り作ったロケットが宇宙に届いた。それが今回の“意味”なんだよ。遠くに投げた石が水面を切って対岸に届いたら嬉しい。速く走ろうと頑張ったら100メートルで10秒を切って嬉しい。それぞれに果たしてどんな“意味”があるかと問われて、語る言葉があるならそれを宇宙に届いたロケットに当てはめれば良いだけのことだ。嬉しい。誇らしい。そんな気持を作り手たちが感じて、それを見て嬉しがれる気持を抱く人がいればそこにちゃんとした“意味”が浮かび上がる。今は。

 もちろんここから事業を立ててロケットを宇宙に届かせることで、何か宣伝したり何か置いてきたり何か実験したりするビジネスが生まれることも夢ではない。ただ、あまりに成果を急ぎすぎると、失敗する不安が重くなって気持も萎えてしまう。だから今は宇宙に民間でロケットを届かせるという、そこに存在する意味があるのだと思えば良いのだ。技術的にどうして今回は成功したのかは詳しい分析で出てくるだろうから後日。回収されたロケットからいろいろなデータもとれて、より高く上げること、さらには衛星軌道に乗せることといったミッションが生まれてくるだろう。それも前例があるから無意味と言われれば、世界から意味なんて消えてしまう。やること。やり遂げること。それを意味だと受け止めつつ、自分もやるべき意味を見つけよう。こちらは真面目に稼げないと生死に関わるけれど。

 ようやくやっと「キャロル&チューズデイ」の最新話。1台のカメラロボットが撮影から編集までやってくれるとか、そんなロボットを配達するのがドローンとか、未来的なシチュエーションがしっかり取り込まれているところが分かってるって感じ。でもそんなカメラロボットが安いだけあってインチキだったりする展開とかはまあある感じ。そうやって騙されて撮られたミュージックビデオは見切れていたりピンぼけだったりオフショットが入っていたりと無茶苦茶だけれど、逆に斬新な感じもあってこれが本当に人気のアーティストだったら、そのまま出しても大受けしたような気がしないでもない。無理な気もするけれど。

 遠い未来の火星の話でもマイケル・ジャクソンとかやっぱり伝えられてて人気だし、「ボディーガード」の映像なんかもしっかり知られている感じ。問題はそうした1980年代的な洋楽シーンを言われて果たして平成生まれで「キャロル&チューズデイ」を見ている20代が分かるのかってあたりで、きっとそういう音楽シーンを引っ張り出して解説するムックとかが出てくるんだろうなあ。それかパッケージ化の時にブックレットにつくとか。とは言え今ってそうしたムックにしてもパッケージにしても昔ほど作られない時代。雰囲気だけ感じて印象だけ分かれば伝わるって言えば伝わるし、製作側も無理してそういう深掘りにはいかないかなあ。いっそだから洋楽レコード会社がお金を出して、コンピュレーションを出せば良いんだけれどこれ、フライングドッグだからなあ、そしてマイケル・ジャクソンは確かソニー。うまく合致するかな。

 アメリカ版の「ソニック・ザ・ムービー」に登場するソニック・ザ・ヘッジホッグのキャラクターデザインがあまりに不評なため変更されることが決まったとか。まあそりゃそうだろうなあ、毛がフサフサな点もやっぱり奇妙だけれど手足もあんなに長いとちっちゃくて素早いソニックのイメージからまるでかけ離れてしまうから。目だってもっとキツくしてにらんでいる感じじゃないとソニックらしくないし。でも描きかえるったてあのサイズでもって計算されている画面もあったりするし、動きだってある訳で小さくして同じスピード感で動いたらもっさりしそうな感じもすれば、背景に対して小さすぎるような気もする。そうした調整をしていったら完成だって遅れそうだけれど、公開日はフィックスみたいだからいじれない。単にモデルを差し替えれば終わりじゃないのになあ。でもやるんだろうなあ。どうなることか。「名探偵ピカチュウ」が割と評判良いだけに、比較されないかがちょっと心配。


【5月3日】 第25回メディアワーク文庫賞を受賞した村谷由香里さんという人の「ふしぎ荘で夕食を 〜幽霊、ときどき、カレーライス〜」(KADOKAWA)をつらつら。古いアパートか民家をシェアハウス的に使っていて、そこに入居している青年がいて新しく入ってきた女生徒のことを気にしていたら、夜中に部屋の外に幽霊みたいなのが現れた。どうも以前も同様にそんな現象が起こっていたそうで、やっぱり住み着いているのかと調べたら何と幽体離脱、ってそれも凄いことだけれど、遠く離れて寂しい新入生の心理めいたものが伺えてほろっとした。それをほぐす家庭料理を提供したことも。

 玄関に紙人形が落ちていたって話も近隣にある神社のお祭りを盛り上げて呉って言った神様からのお願いめいたものだったあたり、割と不思議が起こる世界観ってことを感じさせる。それでいて猟奇だのには向かわずちょっとだけ不思議だなといった範囲で収めているところに、そうした不思議が普通に起こる日常の楽しさってものを想起する。あったらいいなあ。でもやっぱり現実にはないものだから残念。でもちょっとした出来事に神様とかの配慮を感じて盛り上がって生きていこうって気にはなれそう。以前の幽霊騒ぎとかはまた違う理由だったりして、不思議の裏にある人の言動にも振れさせてくれる物語。途中で本が消えてしまってカレーライス話が読めないのだった。買い直すか。

 皇居あたりをドローンが飛んだといって大騒ぎに。官邸の上にドローンが落ちていた事件以来、あまりむやみにドローンが飛ばせなくなってはいたけれど、一方でメーカーの方もドローンの制御に地図からの入力を使う場合は指定した地域をドローンが飛べないようにする仕組みを投入していたはず。皇居あたりなんてその最たるものだから、飛ばそうにも始動しないはずなんだけれどそうした地図による制御じゃなく、普通に無線で飛ばせるドローンだったら飛ばしちゃいけない法律を無視さえすれば簡単に飛ばせてしまうってことになる。

 テロとか犯罪を起こそうとする勢力に法律とか関係ないからこれはやっぱり危険。だからドローンを掴めるなり落とすなりが必要になるけれど、飛んでるドローンなんて打ち落とせないからなあ。なのでやっぱりドローンをカウンターでぶつけて落とすしかなさそう。そのためのドローンアタック舞台ってのが警視庁とか各地の県警本部に作られたりしたら面白いけど。日ごろからドローンを飛ばしては別のドローンに体当たりをかませて落とす訓練とかしてたりして。それもお金がかかるから訓練はシミュレーターで行うのかな。いやだからそういう部隊が出来たわけじゃないって。でもだったらどう守る? 明日の一般参賀に現れた時の行動に注目だ。

 家から出たのは両親と双子の弟の一家といっしょに昼ご飯の中華料理を食べに行った時くらいで、今日も今日とて1日中、家から出ないで滞在部屋に引きこもって今のこととか将来のことをあれやこれやと考える。もしも普段どおりの帰省だったらさっさと家を出て、脚を伸ばして栄町くらいを歩いてゴジラの展示を見たり、頑張って半田コロナワールドまで行って上映中の「この世界の片隅に」を見たりしたかもしれないけれど、見えない将来を考えるとそんなことをしている場合なのかという不安がぶわっと浮かんで来て、会食すら億劫に思えてしまってとてもじゃないけど外を出歩ける気分にはなれなかった。長く会社員をやっていると、組織から外れただけでこうなってしまうんだなあ、人間って。皆様も要注意。

 とは言えそんな不安も例えば60歳を超えて70歳まで生きていけるのかってもので、これなんて残ってずっと同じ会社にいたって、65歳まで雇用を延長できる状況にはちょっとない中、60歳で放り出された可能性もあったりして居残ったところで同じ悩みはついてまわったはず。それでも日々にちゃんと居場所があって、そこに居さえすれば生きていけるという安心が、仕事の中身が慣れないものであったとしても心を落ち着けたんだろう。だったらおなじ事で、ちゃんとした居場所さえ見つかれば今のこのフワフワと夢の中を彷徨っているような気分も晴れるかといえば、晴れそうだけれど問題はそんな居場所が未だ定まっていないことだったりする。

 声もかけて頂いてはいるけれど、諸条件とか含めてこの大型連休明けになってようやく分かってくるかなといったところで、それがあるというだけで安心できるかというとやっぱり不安に苛まれてしまうという弱さ。「そのうちなんとかなるだろう」だなんて名セリフも、会社はどんどんと成長して文化もどんどんと広まっていった昭和30年代、サラリーマン社会の中にどっぷりとハマっていたから言えることで、ロスジェネ世代が例えば同じ台詞を10年前に聞いて、そんなはずはあるかと憤ったに違いない。というか未だにどうにもなってない訳だから。そんな世代に比べれば、手持ち資金もまだあるこちらの方が気持を大きく持てて不思議は内けどそうはならないこの気弱さを、とりあえず持ち上げることで残る大型連休を乗り切り、挑戦と検討のフェイズへと入れるように身心を整えよう。出来るかな?

 とはいえやることもあって不安がってもいられないんで、とりあえずミステリマガジン用のライトノベルミステリの評なんかをいろいろと選んで書いて送ったり、日本SF作家クラブが始めたAIとSFの関係について考える作業で幾つかAIが出て来そうなライトノベルを挙げてそこに出てくるAIの何がAIなのかを考える。山口優さんの「アルブ・レズル」とかアニメミライで短編アニメーションにもなった作品だけれど、AIというにはなかなかに複雑な手順が踏まれていたりして読み返してそうだったんだと思うことしきり。

 アニメはいずれ映画化なりテレビシリーズでも模索していたのかもしれないけれど、一部を抜き出した断片に止まっていて真相には迫っていなかった。でも今となってはそこからテレビシリーズ化ってこともないだろうなあ。最近はアニメたまごとなって東京アニメアワードフェスティバルで上映はされても劇場上映はなし。ネット配信はあるけど期間が短すぎて見る機会もない。なので何が作られているかすら覚えられないのに新作なんてないよなあ。勿体ない。まあ当時はDVDも出てたんで買ってあるんで探せば見られるかな。問題はだからやっぱり部屋のどこにあるか分からないという。本格的に掃除しなくちゃ、真っ当に朝起きて通勤する仕事に就いたら部屋が乱雑だと服を探すのにだって時間がかかって遅刻してしまうから。


【5月2日】 原恵一監督の「バースデー・ワンダーランド」の感想とか批評とかをあれこれ読んだり見たりして、やっぱり全体に平板というか上杉アカネの異世界に行くのにもそこで行動するのにも動機が薄く、最後にちょっとだけ王子に向かって積極的になっても離別が深いわけではないから感涙に至らないといった感じで、ロードムービーであり異世界観光ではあっても心を揺さぶる映画とは違ってるといった感じの声が多かった。それには同感。実際にそう思ったし。チィさんはしゃぎすぎとも。

 ただし、それらは原恵一監督がすべて意図して狙ってやったことであって、力量として情動が描けなくなっている訳ではない。やろうと覆えば「オトナ帝国の逆襲」だって「戦国大合戦」だって描ける原恵一監督が、本気で泣かせに来たら泣かずにはいられない映画になったものをそうはしなかった理由をまずは考える必要はありそう。この時代、感動だ何だと煽って誘って泣かせてはい次といくよりは、ふわっとして楽しくてさらっと流れたけれどちょろっとは残った、その残った部分をグッと握りしめてもらえれば十分と考えたのかもしれない。

 イリヤ・クブシノブさんによるシンプルで、ちょっとだけ今敏監督のキャラクターも思い出させるけれどもうちょっと整っていて、表情が優しい感じのデザインのキャラクターたちも、そうした雰囲気にマッチして美麗だけれど強烈ではない。それでいて所々で見せる仕草やポーズは楽しげなのも良い。原恵一監督の作品の歴史においてきっと他の傑作名作と呼ばれる作品に比べると、実写ん「はじまりのみち」ほどではなくてもスッと忘れ去られていくんだろう。でも僕はこれを好きな1作として記憶に強く止めたい。手足が長くてデフォルメ感が少ない上杉アカネをあれだけしっかり動かして、ポーズも固めた作画は凄いとやっぱり思うのだ。

 昔の日記をまとめるために掘り返して、1999年9月25日に東京都写真美術館で「新世代フィルムメーカーズ〜The Animation」というイベントが開かれていたことを思い出した。「人狼」の沖浦啓之監督に「青の6号」の前田真宏監督に「おジャ魔女どれみ」「魔法使いTai」の佐藤順一監督に「機動戦士ガンダム/第08MS小隊」「おいら宇宙の炭鉱夫」の飯田馬之助監督、そして『PERFECT BLUE」「千年女優」の今敏監督とおそろしく凄まじい面子が揃ったみたい。今なら数千円のチケットで満席になりそうな気がする。

 言っていたことはそのうちに、昔の日記をまとめた連載に掲載されるし今だって縮刷版に行けば読めるからここでは紹介しないけれど、こうした凄まじい弁との記録がネットを掘っても出てくるのが僕の日記くらいしか出てこないあたりに、時代がまだネットから少し遠かったことを実感する。今ならそれこそネット系オタクメディアがわんさかと来て講演録をまとめているだろうから。そういう部分で僕の日記にも少しは価値があるかもしれないなあ。最近は出不精だし行ってもどうでメディアが書くからとあまり紹介はしなくなってしまったのだった。そして今監督飯田監督がここから鬼籍に。時は流れる。

 映画化されるセガのゲーム「ソニック・ザ・ヘッジホッグ」の映像が公表されてソニックになぜかフサフサの毛が生えていることが分かって、おいおいハリネズミにどうして毛がフサフサと生えているんだというツッコミがひとつと、そして動物であったとしてもキャラクターなんだからそこは柔らかい感じの質感にするのが普通じゃないのかと思ったことがひとつ。なるほど名探偵のピカチュウは毛も生えいるけどそれが薄汚れてやさぐれた感じになって雰囲気にマッチしている。でもソニックはクールで格好いい存在。なのにフサフサの毛ってこれはさすがに違うんじゃなかろーか。でもライセンス元のセガは認めた訳だよなあ。誰も止めないところにIPへの愛のなさがみえる。ってかソニックはもともと不遇だもんなあ、セガサターンでソニックが来ていれば。永久に言われる戦略ミス。

 そして1日、実家から外出ず、滞在している部屋からもほとんど出ないでベッドの上か、椅子の上にいたままで、日記をまとめたり書評を書いたりAIとSFの関係について調べていたら日が暮れてしまって、これで体は休まっても心はさっぱりまるで安まらないことが分かったので、毎日でも向かえる場所を早くに得るか、やらなくてはいけないことを得るかしないといけないと思った。30年間をサラリーマンのリズムで活動してくると、生き場所がないのはとても不安になるのだった。フリーってのも同様かなあ。仕事部屋借りるかなあ。

 令和になって世間が連休で賑わっていても、それで仕事がないと嘆く山谷で暮らす人たちの話が新聞に載り、大学院を出て博士課程を持っていながら文系の大学で常勤の講師職を得るのはまず不可能で、非常勤講師を週に4コマ6コマと受け持つか、地方の大学で働くかするしかないといった高学歴のポスドクな人たちの話がネットに載ってと、生きづらさを伝える記事の多さに自分もいったいこれから先を、どうやって生きていくかをいろいろと考え込んでしまう令和2日目。

 まあ何もしなくても60歳くらいまでは、手持ちの資産を食いつぶしていけば生きられそうだけれど、人生はそこからまださらに20年以上もある訳で、そして普通だったらそこで得られる退職金などない身になっている今、手持ちの資産を食いつぶさないで60歳までを生き延びる術を考えることがやっぱり先決になって来る。というか、60歳まで勤め上げたとしても得られた額はとてもじゃないけど一般企業には及んでいなかった訳で、そこから先をサテと考え始めるよりは、今からやっぱり足下を固めておく必要があったと思うならばこれを好機ととらえ、前のめりになるのが一番だったりする。論理的には。

 でも感情的にはやっぱりいろいろと考えてしまうこれからの6年であり、60歳からの20年。その頃はきっと景気も今より悪くなって、それでいて物価も上がって福祉は切られて困窮する人が続出しているに違いない。バブル世代ってことで就職している人も多くいて、それらがいっせいに会社から外に出て行ったらもう労働市場は大混乱。そんな中に割って入るのは無理だと思うと余計に気持もささくれてくる。向こう20年とは言わないけれど、10年は戦えるスキルをこの1年なり3年かけて身につけられるかとなった時、誘って頂いている分野から何を選ぶか、あるいは紹介を得られる分野からどこを選ぶかが大切そう。大型連休が明けていろいろ考えよう。とりあえず禿げ頭にマッチする髪型に散髪しよう。


【5月1日】 渋谷のスクランブル交差点が人で溢れたとか、道頓堀の人がいっぱい飛び込んだとか令和への改元を本当に大勢がポジティブにとらえて騒いでいるのがやっぱりどうにも不思議に思える。これで次の改元が従来どおりの崩御なりで行われたとしたら、とてもじゃないけど同じ様には騒げない。昭和天皇の時のように日々刻々と変化する体調をほじられ、その日を待ったような状況はもう御免だと、平成を治めた先代の陛下が早い退位を決意されたからこその浮かれ騒ぎをことさらにお祝いしては、次もまた同じ様な生前での退位を求めているようで気が引ける。今上陛下にもお考えはあるのだから、それを縛らず自由に決められるようにしておいて差し上げたいなあ。次代との年齢差を考えるとなおのこと、ワンポイントにならざるを得ない状況を避けようと無理をしかねないから。

 それにしても元号が令和となっても心はまったく目出度くはなれず、どんよりと沈んでいたりする今、こんな心境になっているのかグルグルと思考を巡らせて考える。それは、平成から令和へと変わるのを記念した番組で、よっぴーこと吉田尚記アナウンサーがメイン司会を張って看板アナとしてフィーチャーされていたのを見知ったからで、かれこれ15年近く昔、当時はお台場に移転していたニッポン放送のブロードバンド放送で、パーソナリティをしていたよっぴーこと吉田尚記アナウンサーに呼ばれて行って何か喋ったかして、そこからしばらくは同じようにオタクな情報をどんどんと発信していたんだけれど、次第にメジャーなシーンで吉田アナが大活躍し、今回の状況へと至った一方で、こちらは媒体を外れ書く場所を狭められ、遂には居場所さえなくしてしまったことに、半ば嫉妬めいた感情を浮かべつつもう同じ場所にはいられないのかと寂しさに歯がみしたからかなんだろー。

 もっとも、廊下のような場所からだんだんと自分の居場所を広げていって、主張もして努力もして研鑽も積んで今のところへとたどり着いた人間と、与えられた場所でそれなりには頑張っても大きく世に何かを問えず、世間に名前も知られないまま時間だけを無為に過ごした人間が、いつまでも同じベクトルで併走できる訳もないのも事実。媒体そのものの影響力の差ってのもなるほどあったとしても、やりようによっては名は広めるチャンスはあったのにやらなかった怠慢が、当方の今という境遇を招いたのだとしか言い様がない。そのことを今さら悔やんでも仕方が無いのは分かっているし、居残っていたところでチャンスが与えられた可能性が薄いのは、もうずっと壁際で塩漬けにされていたことからも明か。だったらそこからの復活はもうないと知り、別の方面から頑張って近づくか、応援に回るかするしかない。なんてスッパリと思えれば気持も楽になれるんだけれど。そうもいかないなあ。令和もしばらくは悶々とした日が続きそう。

 沈んでいても仕方が無いので、実家から歩いて行ける映画館ということでTOHOシネマズ赤池に行って原恵一監督の最新作となる長編アニメーション映画「バースデー・ワンダーランド」を観る。なるほど、オスのネコには金玉があって、仰向けになれば見えるしそんなお尻を顔に押し当てられれば丸くてゴロゴロとしたものが2つ感じられて、それは当たり前のことだけれど、敢えて描くかとなると描く必要があるのかが迷われる描写をしっかりと入れることで、物語世界の空気感がちょっぴりコミカルなものが混じっても構わず、クスッと笑えて楽しくなれるものだと思わせたい映画なんだと感じた。

 山あり谷ありの起伏はいらないし、泣いたり笑ったり怒ったりといった激しい情動の変化も必要ない。淡々としながらも時折混じるそうしたクスッとできる描写が、観る気持を楽にしつつ、退屈にさせないでスクリーンから目を離させないようにさせる。それが意図した工夫なのか、原作が元から持っている空気感なのかは分からないけれど、異世界に連れられて行って大冒険をする少女の物語と言われ、身構えつつまたかと思いつつ観て、すっと抜ける感覚にさせてくれるところは今の、何でも派手にして激しくしがちな傾向から外れて逆にお気楽な気分を誘う。それを肩すかしととるかは人によって判断が分かれるところではあるけれど。

 小学校で起こったいじめの前哨のような出来事に、荷担したことが心を咎めたのか学校に行きたくなくて仮病を使い、家で寝ていた上杉アカネ。そんな気持を見透かされたのか、飼っているオスのネコに金玉を押しつけられて尻尾を引っ張り怯えさせ、そして起き出して食事をとろうとしたら、仮病と知ってか母親が近所で古道具屋を営んでいる叔母の上杉チイの所にお遣いに出される。自分の誕生日プレゼントをもらってこいという。でも到着した古道具やでチイは聞いていないと良い、そして置いてあった手形にアカネが手を置いたらハマってしまってそして、床下から髭を生やした紳士が現れ錬金術師のヒポクラテスだと名乗ってアカネを自分たちの世界で起こっている水不足からの滅亡を止める存在だと行って連れて行こうとする。

 嫌がっていたアカネに対してチイは好奇心旺盛。呼ばれもしないのにリュックを背負ってついていく、というあたりにすでに少女が1人で異世界を冒険するという真摯さからズレた妙なおかしみが漂う。トリックスターとかコメディリリーフとかまではいかなくても、ユルさを体現する存在としてチイがとても光っていたなあ。旅路に寄り添っては落下してきた鳥の卵をスカートをまくって受け止めたり、助けた村長の家で酒を飲んだり聞きづらいことを聞いたりしてピリピリとした雰囲気へと持っていかない。世界は滅亡しそうでスラム街のような街もあって、それらがグッと前面に出てくるとリアルな辛さが漂って、今の辛い身を苛んだかもしれないけれど、ふかふかの羊で遊んだり車を転がして楽しんだり、骨董を買いあさったりする行動で旅路を楽しませ世界を和ませる。

 そんなチイの存在感が、ヒロインであるはずのアカネを背景においやりかねなかったりするところが悩ましいといえばいえる部分か。ただ主張を前面に出して異世界にくるのを嫌がっていたと叫べば途端に空気は冷えて固まる。それをやって救いをもたらすドラマがあればあったで感動も出来ただろうけれど、この物語でたぶん大切なのは前のめりになること、その1点。下がりそうになっても前を向いて歩き出す。それをヒロインが自分からやろうとし、水源の確保をしなくてはらないのに臆している少年の王子を促し前を向かせるクライマックスを浮かび上がらせる。

 そこへと至るプロセスとして、ほんわかとしてちょっぴりコミカルで楽しげで優しくてピンチというピンチがない旅路にはそれとしての意味があり、血で血を争うような強敵との激しいバトルがない対決にもそれだからこその意味がある。「千と千尋の神隠し」だとか「ホッタラケの島」だとか「星を追う子ども」といった少女や少年が異世界を旅して対決もして自分を得て戻り成長するという、過去に割とあってそれなりに楽しませてくれるストーリーを受けつつ過去にあまりなかった空気感を与えてくれる。面白かったなあ。小学生の割には肢体が育っているとか声がやや年嵩いっていることは気にしない。少なくとも見ているうちはランドセルも背負っていないアカネをそうと感じることなどないのだから。



(ACCESS COUNTER '96.07.20)


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