くうしき
空色カンバス

 「色即是空 空即是色」

 「般若心経」という有名な仏教のお経に出てくる言葉だから、どこかで聞いたことがあるかもしれないけれど、その言葉の意味を突き詰めて考えると、結構難しかったりする。

 「色」とはつまり現世の形あるもろもろで、それは同じ「空」から生まれたものだとかどうとか。そこから、この世にあるものは平等なんだと理解することもできそうだし、すべては壊れ元の「空」へと還っていくんだからと、諦めの心境に至らされることもありそうだ。

 たぶんそれは当たっているし、だからといってすべてを言い表してもいない。真意はもっと深いところにあって、それは自分を平等に慈しんでもらう自己中心的な考えではなく、未来を空虚を思って諦めるのでもなくて、すべてを自分と同様に慈しもうとする精神だったり、現在を幸福と感じて精一杯に生きることだったりと、前向きな意味合いを持ったものだったりするらしい。

 お釈迦様でもないし、修行を経た僧侶でもないから、本当の意味はやっぱりよくは分からないけれど、それでも、自分を愛してくれない世を拗ねたり、どうせ死ぬんだからと諦めたりするような生き方をするのはもったいない、だからもっと穏やかに、そして楽しく世の中を過ごしていこうよと、そう諭してくれる言葉なんだと受け止めた方が、心も体も楽になる。

 靖子靖史の「空色(くうしき)カンバス」(講談社、1500円)という本からは、そんな、「色即是空 空即是色」という言葉のニュアンスが、物語を通して漂ってきて、諦めと絶望にどんよりとしていた心を光明で照らし出す。

 高校生の日比野ゆかりは瑞空寺というお寺の娘で、前の住職だった父親が亡くなった後は、隆道という29歳になる兄が住職となって2人でお寺を切り盛りしていた。美術部に入っていて絵が得意で、学校からも世間からもそれなりの評価もされているけれど、そんな家庭の事情が気持ちを縛って、先生から美大行きを勧められても乗り気になれないでいた。

 兄を置いて街を離れられないというのも理由だし、兄が若くして住職に就かざるを得なかった身内の不幸に関わる心理的な理由もあったりする。だからそうした気持ちと真正面から向き合うことを避け、今のまま兄と妹の2人でそれなりにやっていければと受け止めていた生活に激震が走る。とてつもない美女がお寺に転がり込んで来たのだった。

 ゆかりを学校に送りだした後、隆道が1人残ってお勤めをしていたお寺にやってきた女性は、着の身着のままといった感じでお金も持たず、食事もとらなかったのかお腹をクルクルと鳴らしながら、お寺の前に倒れていたところを隆道によって助けられる。泣きぼくろがあるとてつもない美人。小早川千尋と名乗った彼女が言うには、どうやら夫から虐げられていて逃げ出して来たらしい。

 身元も分からない人間を、夫に追われているからといって置いておくのは難しい。昔ならそんなことを認める駆け込み寺もあったけれど、今は法律なり警察といったものがあるし、お寺だって余裕を持って生活している訳ではない。お寺の支出と個人の支出をきっちり分けなければ、税務署がうるさく言ってくる世知辛さ。とはいえすぐさま叩き出す訳にもいかない兄は、彼女をしばらくお寺に置いて、仕事を手伝ってもらうことにする。

 驚いたのはゆかりで、見ず知らずの他人に対して優しすぎるという非難もあり、また自分の居場所を奪われてしまうような切実感にとらわれたこともあって反対し、千尋さんをを置くと決めた隆道に対して不満を募らせる。それでもしばらくは巧くやっていたはずの3人の関係が大きく動き、謎めいた事件も起こってゆかりと隆道を迷わせる。

 いったい千尋さんは何者なのか。何をしにこの街までにやって来たのか。本当に夫から逃げてきたのか。瑞空寺の前に倒れていたのは偶然か。さまざまな謎が明らかになった時、自分自身を前へと進ませようとした千尋さんの頑張りが見えてくる。同時に迷っていたゆかりも自分の本当の気持ちを前に出そうと決意する。

 鍵になっているのは、優しい割に鈍感なところがある隆道和尚。料理もできないぼんくらだけれど、そこはさすがに修行を積んだ住職といったところで、仏教の知識を持ちだして諭しては千尋さんとゆかりの心を導く。

 「色即是空 空即是色」。すべてはつながり生まれて流れ、壊れてまた生まれ。だから投げやりにならず、未来に後悔を残すことなく今を考えて生きていこう。そんなことを諭されるようなストーリー。だからタイトルも「空色(そらいろ)」ではなく「空色(くうしき)カンバス」なのだ。

 「そよかぜキャットナップ」(講談社、1400円)で田舎を舞台にほんわかとした学生たちの日常を描き、そして「ハイライトブルーと少女」(講談社、1360円)で孫娘を思う老婆の心根と美少女を思う青年の心情を描いた靖子靖史だけあって、のんびりとした風景の中に暖かさや優しさが浮かび上がる。それだけでなく、過去に意図せず犯した罪のようなものを、長じて改めて考えさせる描写もあって、立ち止まり自分を見つめ直すきっかけもくれる。

 講談社BOXという、ライトノベル寄りのレーベルから出た前2作とは違って、一般の人も手に取る「小説現代」に連載された作品だけあって、ターゲットは広く少年少女から青年から大人まで、読んで人生の今と昔とこれからを考えてみたくなるだろう。そしてちょっとだけ近づけるだろう。「色即是空 空即是色」の真理へと。


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