JUMPER
ジャンパー−跳ぶ少年−


 どうもこの何年か、親による子供の虐待をテーマに折り込んだ本に行き当たることが多い。例えば、スーザン・パルウィックの「いつもの空を飛びまわり」(安野玲訳、筑摩書房、1545円)は、父親による性的虐待を受けた少女の心が、肉体を抜け出して野をさまよう話だった。ハドリー・アーウィンの「愛しのアビー」(桐山まり訳、新樹社、1000円)も、父親の性的虐待を誰にも言えずに悩む少女を助けようとした、優しい少年の話だった。

 性的な虐待ではないけれど、死刑になった兄、ゲイリー・ギルモアを描いたマイケル・ギルモアの「心臓を貫かれて」(村上春樹訳、文藝春秋、2900円)にも、兄の人格形成に父親の暴力が少なからず影響を与えていたことが描かれていた。ダニエル・キイスの「5番目のサリー」や「24人のビリーミリガン」が発端となって、いっとき大流行して今も続々と新しい作品が翻訳され続けている多重人格物も、つきつめれば幼児期の虐待が、多重人格障害の原因になっていたというケースが多かったように思う。

 決して多くない読書経験で、とりわけ読む量もジャンルも限られている欧米の作品で、これほどまでに高い確立で同じテーマに行き当たるということは、親による子供の虐待という現象が、欧米では極めて深刻な社会問題になっているということなのだろう。そしてそのことを、大勢の人たちが、ファンタジーに青春小説にノンフィクションと、多岐に渡るジャンルで描こうとしていることに、社会全体で親による子供の虐待を問題を考えていこう、そして糾弾していこうという姿勢が、強く現れているように感じられる。

 スティーヴン・グールドの「ジャンパー」(公手成幸訳、早川書房)もたぶん、こうした系譜に連なる作品と言って良いように思う。もちろん山岸真さんの解説にあるように「アメリカ大作エンターテインメント映画的」と思って手に取り、帯の文句もそのままに「痛快無比な冒険SF」であり「心躍る冒険SF」と読んでも一向に構わないし、実際それだけの面白さにあふれた小説なのだけれど、前出の作品群に触れた経験を持った人なら、脳天気な主人公の少年が、世界を股にかけて大活躍するその原因の部分に、やっぱり同じような深刻な問題を見いだして、心が痛むんじゃないだろうか。

 少年の名前はデイヴィー。ごくごく平凡な高校生だけど、家に帰ると飲んだくれの父親から体罰をくらう毎日が続いていて、結構精神的に追いつめられていた。その日も金属のバックルのついた太いベルトで打たれそうになり、身を縮めた次の瞬間、デイヴィーは近所の図書館にいる自分を見つけて驚いた。最初はあまりの恐怖に記憶が吹き飛んで、気がついたら図書館まで歩いて移動していたとも考えたけれど、何度も同じ経験をするうちに、自分にテレポーテーションの能力があることに気がついた。

 早速とばかりにデイヴィーは、父親の財布から金を抜き出してニューヨークへとひとっ飛び。ちょっとしたアクシデントですっからかんになったけど、今後は銀行の金庫室へと「ジャンプ」してガッポリを大金をせしめ、あとはアパートを借りて彼女を探してよろしくやっている幸せな日々。けれどもデイヴィーが父の元を去った母親に会いにフロリダまで出かけ、やがて連絡がついてニューヨークを案内した母親に外国の空港で未曾有の不幸が訪れたのをきっかけに、話はにわかに国家の安全とかテロリストとかいった巨大な存在を相手にした、デイヴィーの大活躍へと移って行く。

 なるほど思いっきりテレポートの能力を使って、ばったばったとハイジャック犯たちをなぎ倒し、自分たちのために利用しようとデイヴィーを追う政府の組織からは、いつも寸手のところでパッと消えてなくなるその主人公のカッコ良さに、スーパーマン願望、エスパー願望の人たちをひきつけてやまない魅力はある。けれども考えてみよう。彼が大活躍するに至るきっかけに、どうして母親を不幸な目に会わせなければなかったのか。そもそも彼がテレポートの能力を発見するに至ったのは何だったのか。

 その辺りをつきつめていくと、どうしても「心躍る」「痛快無比な」「冒険SF」と手放しで賞賛する気になれない。ちょっと哀しすぎるし、ちょっと恐ろしすぎるし。もしかすると本当に、彼が途中で考えたように、どこかの病院にスパゲティよろしくコードとチューブにつながれたまま、見た夢がこの話だったのかもしれない。それはそれで、やっぱり恐ろし過ぎる真相だ。

 それでも、自らの能力をバネにしてどんどんと成長していく少年の軌跡を見るのは楽しいし、追いかける政府機関をあっさり撒いて逃げていくデイヴィーの活躍にも、やっぱり胸躍るものがある。たとえ純粋なエスパー願望であれ、それとも虐待の果てに見る夢であれ、逃げ道を用意し逃げ方を示唆してあげるのが、SFというジャンルに大きく期待する部分で、「ジャンパー」はその部分において、十分に及第点をあげられる小説だと思う。

 現実への「逃走」か、未来への「跳躍」か、夢想への「逃避」か。人それぞれにいろいろな「ジャンプ」を想像しつつ、楽しむなり哀しむなりして欲しい。


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