いつもの空を飛びまわり

 これがファンタジーなものか。

 スーザン・パルウィックという耳慣れない作家の、「いつもの空を飛びまわり」(安野玲訳、筑摩書房、1545円)を読み終えた時、世の中で起こっている理不尽な出来事の数々に、思いを巡らせ、怒りで叫びだしたくなった。悲しみで泣き出したくなった。そして、事実、泣いた。

 「勇気をもって現実に立ち向かった少女の、感動的ファンタジー」だって? つらく厳しい現実を、ふっと忘れるために読むファンタジーが、こんなに悲しくて良いはずがないじゃないか。こんなに残酷で良いはずがないじゃないか。

 今はもう少し冷静になって、これもファンタジーなのだと思えるようになった。いや、ファンタジーという架空の話、夢の中でしか起こる話、現実には絶対に不可能な話にしてしまわなくてはいけないと思うようになった。そうでなければ、現実はあまりにも厳し過ぎる。そして悲し過ぎる。

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 ウフィスコンシン州の小さな町に住んでいる12歳の少女エマは、優秀な外科医の父親と、英語教師で詩をこよなく愛する母親の3人で暮らしている。父母はともに町の名士。エマ自身もちょっぴり太めの体型で、体育だけは苦手だが、その他の学科には(母親がひいきと思われないためにBを付ける英語以外は)、すべて優秀な成績を修めている。

 絵に描いたような幸せな家庭も、裏に回れば欺瞞と苦悩と暴力に満ちた家庭だった。夜ともなると娘の部屋に忍び込んできては、性的な虐待を加え続ける父親、そんな父親の素行に気づかず、12年前に病気で死んだ娘ジニーのことだけを、今も強く愛してその思い出に浸っている。父からは暴力を受け、母親には気づいてもらえないエマが、苦しみに満ちた生活から逃れるために覚えたのは、精神だけを体から抜き出すことだった。

 その日も、体の上であえぎ声をあげる父親の声を聞きながら、幽体離脱をしていたエマのところに、隣の部屋から壁を抜けて、側転しながら1人の少女が入って来た。着ていたスヌーピーがついたパジャマを見て、エマはその少女が12年前に死んだジニーだとすぐに気づく。エマは聞く。「ねえ、こんなところでなにをしているの?」。ジニーは答える「側転」。

 サーカス好きだったジニーが、12年経った今、側転をしながら部屋に現れた理由をエマは考える。そして「この子は、あの息づかいからわたしの注意をそらすためにやってきたのだ」と理解し、その後体を抜け出すたびに、エマとジニーは天井裏や森や池の上を飛び回り、いろいろな話をするようになる。

 父親による虐待と母親の無関心をよそに、エマは1人考え続ける。エマのそぶりに微妙な変化を感じとった隣人で養護教諭のマーナが、救いの手を差し伸べようとあれこれと世話をやくが、母親を愛し、父親を罪に陥れたくないジニーは、家の中で自分に何が行われているかを、決して口外しようとせず、母親のことも「でもわたしのおかあさんだもの!」とかばい続ける。

 しかしやがて破局はおとずれる。「幸な家庭」に満ちた嘘や欺瞞が一身に向けて飛んでくるのを、エマはジニーとともに受けとめ、ジニーの支えで跳ね返そうと心に決める。ジニーが教えてくれた一編の詩編を母親に見せ、自分と、そしてジニーの身に起きていたことを解ってもらおうと懸命になる。そして・・・・。

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 ジニーは本当に現れたのだろうか。現実から逃げ出したいと強く願ったエマの見た妄想ではなかったのだろうか。そう考えるとこの作品は、確かにファンタジーなどではなくなってしまう。アメリカで(そして日本で、世界中で)起こっている、憎むべき性的虐待を告発する、社会派のフィクションになってしまう。そしてそう読むだけでも、小説が書かれた意義は充分に果たされると思う

 けれども信じたい。ジニーはいた。そして現れた。エマを助けるために。そして母親を助けるために。救われたエマ。救われなかったジニー。エマはジニーに当てて手紙を書こうと決心する。夫のこと、子どものこと、楽しいこと、悲しいこと。「わたしのしていることがなにもかもわかってもらえるように、どれほどそのすべてを一緒にしたいのかがわかってもらえるように」

 「いつもの空を飛びまわり」を読んだすべての人は、是非とも考えて欲しい。そして行動して欲しい。厳しい現実を、悲しい現実を、そして憎むべき現実を、永遠のファンタジーへと変えしまうために、何をすべきかということを。何かをしなくてはいけないということを。現実の私たちは、空を飛びまわることなどできはしないのだから。


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