武士道セブンティーン

 武道とスポーツは違うものだ。けれども昨今、武道がスポーツとして嗜まれ、競技として行われるようになって、両者の間に厳然として存在する差異がぶつかり合い、いろいろな悩みを引き起こしている。

 たとえば相撲。古来より日本に伝わる神事として親しまれ、尊ばれてきた武道だけれど、今では、というより江戸の頃から見せ物としてだったり、格闘技として行われるようになって来た。相手をうち倒せばそれが勝利。勝利することこそがすべてといった考え方がはびこるようになって、勝利よりも尊ばれるべき戦いを通して高められる精神性への敬意が、どこかへ置き去りにされていると嘆く人たちもいたりする。

 あるいは柔道。色付きの柔道着への異論をまず、柔道のスポーツ化がもたらした弊害と挙げる声もあるけれど、外見の色など極めて表面的な問題。頑健な相手の重心を崩し、技をかけて倒すという柔道ならではの勝負の機微が薄れ、技らしきものがかかったかに見えればそれでポイントとなってしまう、見てくれだけの競技へと変わってしまったことの方がより深い問題だ。見てくれよりも真意を重んじるよう教育され、身に刷り込んできた日本の柔道家たちの世界における凋落も、ここに起因している。

 ならば、武道は武道のままでいれば良いのか。精神性にこそ重きをおいたままで伝えられて行けば良いのか。それだと、オリンピックの競技に柔道がなるような全世界的な広まりは得られなかった。別に構わないと武道の側は言うかもしれないけれど、スポーツとして触れる機会が増えて、嗜む人が多くなるのは決して悪いことではない。

 武道であるか、スポーツであるかではなく武道でもあり、スポーツでもあること。武道ならではの精神性と、スポーツならではの競技性のどちらも加味しつつ、発展していくのが最善とまでは言えなくても、悪くはない道なのかもしれない。

 だか、それでも葛藤は起こる。武道として譲れない道があり、スポーツとして必須の理がある。どうすべきなのか。対立したままなのか。融和の術を探るのか。武道とスポーツの難しくも悩ましい関係に挑んでみせたのが、誉田哲也の「武士道セブンティーン」(文藝春秋社、1476円)。そこでは武道とは、剣道とは、スポーツとはいったい何なのかが探求されている。

 前作の「武士道シックスティーン」(文藝春秋、1476円)で描かれたのは、幼い頃からの天才剣士で、剣道は武士の戦いであり、相手を切り伏せ、叩き伏せて勝利することこそが至上と思い込んでいた“剛”の磯山香織が、中学から剣道を始めたという、あまり強くなかったはずの西荻早苗に小さな大会ながら敗れてしまい、どういうことかと訝ったところから始まった、2人の剣道少女の交流だった。

 やがてお互いがそれぞれに欠けていたもの、香織だったら負けを知り己を知る心の広さであり、早苗は剣道を通して得られる諦めないで進く執念をそれぞれに得て、補い合って剣道というものの深さと広さを共に理解する所へと向かっていく。そこに起こった残念な別離。香織は神奈川に残り、早苗は福岡へと旅立つ。

 離ればなれになった2人は、これからどうなってしまうのか。そんな寂しさを抱かせながら、それでも“柔”も“剛”もひとつ同じ剣道なんだとまとまった「武士道シックスティーン」。2人の再会までもがラストに示唆され綺麗に完結、といった雰囲気すらあった前作に、誉田哲也はより深刻で強力な命題を叩きつけた。香織と早苗がたどり着いた武道としての剣道の境地、武士道としての剣の道に、剣道はスポーツでしかないのだとといった風潮を掲げて2人の前に立ちふさがらせた。

 早苗が転校した福岡南高校学校は、50人もの女子剣道部員がいて選手になるだけでも大変な学校だった。そして、練習と選考会で個々の強さや適正をはかった上に、対戦相手のデータも加味して最強ではなく最善の選手を選び出し、相手にぶつけて勝利を目指していた。

 なるほどスポーツだ。それも究極的なチームスポーツであり、学校スポーツといった形態で、ひとりひとりの精進のその上に、組織体としての勝利が君臨している様に、小さいながらもそれぞれが己を探求し、強くなった成果としての大会があり、勝敗があった場から移ってきた早苗は違和感を抱く。

 転校早々に仲良くなった、母方にフランス人がいるクウォーターで、ハーフだった母がフェンシングのオリンピック選手だったという血筋を持つ黒岩レナという少女も、剣道を高度に競技化したものに変えたいと願って部内でも激しく主張。仲違いはしないまでも、内心では違うんじゃないかと思い悩んだ果て。早苗はひとつの答えを出す。

 ひとつの剣道をめぐる“柔”と“剛”、2つの相の対立と融合が「武士道シックスティーン」のテーマだったとしたら、「武士道セブンティーン」は“武道”と“スポーツ”の対立がテーマ。それが“柔”と“剛”のように融合へと向かったのか、それとも対立のままで平行線を辿っているのかは分からない。結論はまだ出ていないない。

 そもそもが簡単に結論が出る問題ではない。出るならこれほどまでに相撲や柔道や弓道や空手道といった武道で、武道ならではの精神性とスポーツの特質としての競技性の問題が、取りざたされることはない。ただ示唆はある。スポーツとして剣道が広く嗜まれ、親しまれること自体は悪くはない。問題はそこに魂があるか、武士道があるのかといった部分。これを失った剣道はもはや剣道ではないのだという教えを得て、思考することによってスポーツでもあり、同時に剣道でもあるものが見えて来る。

 宮本武蔵をこよなく愛する“剛”の香織にあった刺々しさが前作で取れてしまったからなのか、今作ではすっかり良き先輩になってしまって全体に目立ってない印象。中学時代の同窓で、虐められてる男子に頼られ迷惑を被る役どころを与えられてはいるけれど、そこに浮いたドラマはない。遠く福岡で早苗が直面している武道とは、剣道とは、スポーツとは何なのかという問題に、神奈川にあって共に考えつつ、香織なりの強さと信念でもって導いていくオブザーバー的な立場に留まっている。

 香織の強さが好きだったファンには物足りないかもしれないけれど、ここを乗り越えひとつ“武士道”の下に結束した香織と早苗のこの先が、もはや描かれないはずはない。絶対に続くだろう「武士道エイティーン」。その中で、スポーツ化しエンターテインメント化する武道の世界に、それでも武道なんだという魂の部分を残し、武士道ここにありといった活躍を見せてくれるものと信じたい。


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