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新潮文庫刊
「童話集(1)」
1976/05/21
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以下の感想はもう20年以上前のものです。でも、今読んでも多分同じことを感じるのではないか、と思います。
ひどく残酷な点のあることに驚かされた。これが果たして童話なのか。民話と言ってさえ、まだそぐわない気がする。
「小人のルンペルシュティルツヘェン」「唄う骨」「鵞鳥番の少女」。
とくに後2作における処刑の残酷さには、目を背けたくなる。こんな残酷さがグリム童話の中に潜んでいようとは、思いも寄らなかった。
「金の鵞鳥」「強力ハンス」「勇ましい豆仕立屋」。
ひどく現実的な欲望、利害関係の存在が感じられる。何かした以上、絶対にその報酬を貰うゾ、といったような。
トルストイ「イワンの馬鹿」の場合、イワンの善良な好意と結果として王女と結婚するわけだが、この童話集の中では、最初から王女を貰うために云々の行為をするというように、利益獲得が目的となっている。ドイツ国民はこんな童話を語り合っていたのかと思うと、索漠したものを感じてしまう。
そんな全体を童話的にしているのは、ヴィルヘルムの力に負うものだろうと思う。「つぐみのひげの王様」は、これを教訓的な話として親しみを持たせているし、「賢いちびの仕立屋」では、「うそだと思う人は、1ターラー払ってくださいよ」という言葉でユーモアを与えている。この文章で、グリムの元に1ターラー払いに女の子が訪れた、という話は微笑ましい。
また、「藁と炭といんげん豆」で「それからというもの、いんげん豆にはどれにも黒い縫い目がついているのです」と言って、夢を持たせている。
ヤーコプだけだったら、この童話集はひどく味気ないものになっていたことだろう。
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