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02
No.01





− 登山の記憶 −

 高校生の時、丹沢に登った。その頃、自分が登山をどう考えていたのか、どうして丹沢以外には登らなかったのか、なぜやめてしまったのか、などは不明である。当時の日記や写真がないので詳細が分からないのが残念であるが、いずれも日帰りの山行であった。他にも沢を登ったような気がするが、計画だけだったのか定かでない。覚えている 4 回の山行について記憶を辿って記載する。

 1. ヤビツ峠から塔ノ岳を経て大倉に至るコース。

 おそらくこれが最初の山行だと思う。単独行であったが、ヤビツ峠までおそらくバスで行ったのだろう。そこから笹林の狭い尾根道を登って行くと、所々にベニヤでできた小屋があってジュースなどを販売していた
( このとき、値段が高かったためかコーラなどを買わなかったので、以降現在まで「水以外無補給」を貫けている )。この日は登山者が多く、「山登りをする人はたくさんいるんだなあ・・・」と思った。二ノ塔、三ノ塔と歩き、塔ノ岳に達した時には山頂に大きな小屋があって違和感を覚えた。山頂は尖っていて 360 度の展望があるものと思っていたからである ( このときの感想である、「山頂に山小屋があるのはおかしい!」っという理念が私にはある )。バカ尾根と呼ばれていた坂道を下って大倉に着いたが、バスが来るまで長い間待たねばならなかった。

 2. 大倉から塔ノ岳、丹沢山を経て宮ヶ瀬に至るコース。

 この日も単独行であったが、日帰りには少しきついコースだったので黙々と歩いた。丹沢山からの道はあまり歩かれないらしく、誰にも会わなかったので不安だった。宮ヶ瀬(当時はダムも湖も無かった)までバスの時間を気にしながら歩き、何とか厚木行きの最終バス( 16 時前だったと思う )に間にあった。クネクネと走行するバスは自宅付近の路線バスと比較して料金がとても高く、時間もかかったので驚いた。

 3. 大倉から本谷を登り、塔ノ岳を通って大倉に戻るコース。

 高校の同級生と 4 人で登った。垂直な高さ 15 メートル程の滝があり、ザイルとエイト環で懸垂下降をして遊んだ
( 登山指導も受けてないのに、何とも無謀なガキだったのです・・・ )。沢の源流部より先はガレ場となって歩きにくく、尾根に出るルートが分かりづらかった。塔ノ岳からの下りは当時テレビで流行っていたコンバット!のまねをして、松ぼっくりの手榴弾を投げたり、枝を折って機関銃を作ったりして遊びながら歩いた。

 4. 大倉から塔ノ岳、丹沢山、蛭ヶ岳、檜洞丸と歩いて箒沢に至るコース。

 2 月のその日は高校が創立記念日?で休みだった。朝から歩いては日帰りができないため、夜の 11 時頃に 「 明日は朝早くから山に行くから寝るよ。」 と言って母親を騙し、そのまま寝室の窓から抜け出した!
( あとになって母に聞いてみたが、全く気付いてなかったそうだ )。外泊は許可してもらえなかったからだ。登山靴で近くの駅まで走り、電車を乗り継いで小田急線に乗り、秦野駅で下車。そこから登山口の大倉まではタクシーに乗った。

 当時は背負子で登っていたが、耳の後ろの所に小さなラジオをくくりつけ、オールナイトニッポンを聴きながら登った。ヘッドランプで歩く真っ暗闇はどんな感じだろうと思っていたが、見た方向が明るいために怖くないのが面白かった。ちらちらと雪が降っていたが、塔の岳までの登りは暑くて半袖と軍手であった。塔ノ岳に着いた頃から明るくなり、雪でうっすらと白くなった登山道を進み、丹沢山、そして丹沢最高峰の蛭ヶ岳に至る。蛭ヶ岳の手前で初めて 1 人の登山者とすれ違ったが、その他は誰とも会わなかった。

 蛭ヶ岳山頂に木のテーブルがあり、ラーメンを作って食べた。その時のコールマンストーブだけは手元にあり、現在は壊れて点火しないが、他の登山用具はすべて紛失してしまったので貴重な思い出の品である。食後にボーっとしていたら背後でゴソゴソと音がする。びっくりして振り向くと、なんとでっかい鹿がザックに頭をつっこんで中身をあさっている。人間慣れしたあさましい態度に腹が立ったので、ザックを奪い取って何もやらずに立ち去った。

 蛭ヶ岳から下る崖っぷちの道は岩の表面が凍っていて非常に危険だった。左側が谷であったが、八本歯のアイゼンを装着したのでゆっくり下れば大丈夫だと思った。しかし、よろけた時にアイゼンを反対側の足に引っかけて転倒。運良くその場で止まったが、左膝を岩に強打して激痛が走った。凍った岩の斜面に頭を下にしてうつ伏せの状態で、背負子が後頭部にのしかかっている。膝が痛かったが、咄嗟に 「 冷静にならなくては 」 と思い、1 分間ほどそのままじっとしていた。慎重にゆっくりと起き上って崖下を覗くと、転落すれば 50 メートルほどは一気に落ちてしまいそうだった。

 左膝が痛くて跛行状態となってしまい、多少スピードが落ちたのだろう。箒沢に着いたときには既にバスがなく、そこにいたコンクリートミキサー車の運転手さんにたばこ 1 箱分( 200 円 )で国鉄の山北駅まで乗せてもらった( 当時は無かった丹沢湖の三俣ダム工事関係車両だったのでしょう・・・)。ミキサー車は座席がとても高く、眺めが良いので楽しかった。駅に着いたときには既に暗くなっていたが、駅前のラーメン屋で塩ラーメンを食べた。とても美味しかったが、自分が塩ラーメンを食べたのは後にも先にもこの時だけである。

 電車を乗り継いで自宅に帰り、ふとテーブルにあった新聞を見ると遭難の記事が出ていた。前日であるが、自分が転んだ場所で 20 代の登山者が滑落死していた。200 メートル落下と書いてあった。自分はその人に呼ばれたのではないかと思ったが、アイゼンを引っかけたことを深く反省するとともに、死なないための慎重さが必要であると痛感した。



 その後、なぜか浪人時代、大学時代、そしてその後の 8 年間、計約 17 年間は全く山に登っていなかった。大学時代から林道を走り回るラリー競技に熱中した。関東周辺のダートを走り回ったので、登山口までのアプローチは見覚えがあったりする。しかし、当時は路面ばかり見ていたので、危険な場所や速いライン取りは覚えていても、周辺の山々の事はまるで覚えがない。ラリーをやめた 1990 年頃に始めたカメラの趣味から発展し、再び山に登りたいと思うようになった。車道からでは良い自然に巡り会えないと思われたからだ。山と渓谷を時々購入して読んでいたが、広告で携帯の GPS を知ったことも登りたくなる要因であった。



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