○茶の湯の歴史

・茶の湯の確立 

 茶を飲んだという最初の記録は中国は紀元前59年(前漢末)に書かれた戯文とされる。この頃の茶は飲むのみならず、葉を葱やしょうがなどと煮て食したりしていた。唐の時代に入りお茶は盛んに飲まれるようになり、抹茶を立てるようになった。陸羽が”茶経”を著し喫茶の法が確立された。

 日本に茶が伝来した時期については諸説ある。それによれば最も古いのは奈良時代の中期になる。普及のきっかけは栄西ら禅宗の僧が明から茶を持ち帰り栽培を始めたことからである。

 鎌倉から室町にかけ、お茶が薬から日常の飲み物として広がる中で、武家や公家の間に産地を当てる”闘茶”が流行り、酒宴の中の遊戯となった。民衆の間でも”講”を作って酒食を楽しみ、お茶を飲む集まり、”淋汗茶の湯”が流行した。

 一方で、禅院の茶礼に学んだ喫茶の法は格式高い”台子の茶”として確立されていったが、その対極として”侘び茶”が村田珠光(じゅこう)によって主唱されることになる。これを起点として現在に連なる茶の湯の歴史が始まる。珠光の考えは武野紹鴎(じょうおう)に受け継がれ、千利休により大成された。

・千利休

 織田信長は武士の品性を向上させることを目的に茶道を御政道の中心に据えた。大名らの戦功に対して土地の代わりに茶道具を与え茶会を開く資格とした。信長は堺の茶人今井宗久、津田宗及に加え千宗易(後に千利休)を茶頭(ちゃじゅう、ちゃどう)という役職に任命し知行まで与え茶事に従事させた。信長亡き後、豊臣秀吉がこれら茶頭を引続き登用した。中でも宗易が重用され、秀吉が宮中にて天皇へ献茶の際、後見人として”利休”号を下賜される。こうして茶のみならず政治の面にも多大な影響力を持つようになると石田三成ら反感を持つ者たちの策略もあり、利休は切腹させられる。

・利休以後

 利休の茶はその後妻の連れ子少庵、そしてその子宗旦(母は利休の娘お亀)に引き継がれる。宗旦の息子たちがそれぞれ表、裏、武者小路の三千家を興す。また利休には”利休七哲”と呼ばれるすぐれた弟子たちがいた。

・山上宗二 

利休七哲

・蒲生氏郷

会津藩領主。利休自刃後その子少庵を引き取り、千家再興に尽力。

・細川三斉

利休の茶風を忠実に踏襲。

・高山右近

・芝山監物

・瀬田掃部(かもん)

・牧村兵部

・古田織部

ゆがみや変形、幾何学紋様など創意あふれる美の表現を求め、武将の茶を形成。”織部焼”の名の由来とも。大坂の陣のあと謀反の罪で家康により切腹させられる。

 ”七哲”にはその他織田有楽(信長の弟)、千道安(利休の実子、長男)を入れることもある。

・藪内剣仲

紹鴎に師事し利休は兄弟子。織部の妹を妻にしたことから織部の茶風にもなじむ。藪内家初代。

・小堀遠州

織部に師事。”きれいさび”を提唱。利休以前の東山御物を中心とした”大名物”、利休の時代の”名物”に対して、遠州が選定した道具類を”中興名物”という。

・三千家

 三代宗旦は三男宗左に”不審庵”(表千家)を任せ、自分は末子四男宗室と同地内に”今日庵”(裏千家)を建て移り住んだ。また二男宗守が分家として”官休庵”(武者小路千家)を建てた。ちなみに裏千家は当代が十五代。今日庵の名は、大徳寺の清巌和尚が宗旦に招待された際遅刻し、宗旦が外出した後訪れ、明日おいでくださいとの言伝に”懈怠比丘不期明日(けたいのびくみょうにちをごせず):怠け者の僧侶の私が明日来られるかどうかわからない=人の命明日のことはわからない”と記して帰ったことに依る。

・金森宗和

”お姫宗和”と言われた茶風は優雅で公家風。野々村仁清を指導した。

・片桐石州

遠州亡き後武家の茶の中心に。

 さらに様々な茶人や各地の大名による流派も生まれ、現代にまで至る。

・近代

 明治維新を経て自由経済社会となり、財界人としてのし上がってきた人々の間に美術品の蒐集が流行する。その対象となるのは、新興するこれら財界人の一方で、没落した名家の秘蔵の品々であり、売立と称する入札がさかんに行われた。美術品の多くは茶道具であり、やがて蒐集家は数寄者と呼ばれる茶人へとなっていく。中でも三井財閥の創始者、益田鈍翁は東京財界人の茶道グループ”十六羅漢会(大師会)”の中心となり、隠居後は小田原に敷地2万坪の”掃雲台”を建て、茶三昧の日々を送った。明治から昭和の初期、少なくとも太平洋戦争以前までは、茶道は紳士の高尚な趣味であり、茶会は社交の場として現在のゴルフに匹敵したと言える。 

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